波照間島の「水」 【’85.1.1 朝刊 1頁 (全861字)】  本社「千早」機で沖縄の波照間(はてるま)島へ向かった。高度一万メートルの夜間飛行である。満天の星の懐に抱かれるようにして、飛ぶ。やがて濃い紅の帯が東にひろがる。暗い青紫の空と、雲の海と、そのはての炎と、それ以外のものはいっさい視界にない。清浄な舞台で夜明けの祭儀がはじまる▼波照間は、日本の南のはてにある島だ。周囲わずか十四キロ、バスもタクシーもないし、飲み屋も喫茶店もない。隆起サンゴ礁岩にしがみついて繁茂するハマシタンのように、島びとは荒れ地を切り開いた畑でサトウキビやカボチャと格闘している▼真冬でも、菜の花やルリハコベが咲き、暗い緑をたたえた福木やソテツのわきを、チョウが遊泳している。牛の背にカラスがとまっている。海辺には浜昼顔やハマアザミが咲き、瑠璃(るり)色の空がちぎれて波に浮かんでいる▼六年前、地下水を水源とする簡易水道が完成するまで、島民は天水に頼っていた。農業用水も生活用水も雨に頼っていた。日照りが続くと、隣の西表島の神様の水を船で運んで、水祭りをした。島の歴史は、干害との闘いの歴史だった▼島びとは、元日の朝早く、聖なる井戸で若水をくむ。その水にユリの花をいけて、まつる。その水で洗った米を茶わんにいれて供える家もある。波照間の一年の計は、水に祈りをささげることからはじまるのだ。簡易水道ができた今も、天水をため、天水を大切に使っている家が多い。雨の貴さ、水のありがたさを知り抜いている人びとの知恵だろう。ここでは天水の方が水道水よりもはるかにうまい▼私たちは波照間に学びたい。雨の国に住みながら、雨水をゴミのように下水溝に捨て去ってかえりみないことを反省したい。水と緑と土の生態系をこのように壊し続けて、恐ろしい報いがないはずはないのだ。今年この欄では「水」のことを考えたいし、とくに「雨水を捨てるな」というささやかなキャンペーンを続けようと思う。 丑年の随想 【’85.1.3 朝刊 1頁 (全863字)】  元日は、丑(うし)三つ時に近くの弁財天とお不動様とお地蔵様におまいりをした。人ごみのない静かな境内にかがり火がたかれ、シイの葉を照らしだしていた。かなり傾いたオリオンの三つ星やシリウスがみえた。今年の初もうででは、天神様のお使いである牛の像をなでさすった人が多かったことだろう▼さて、丑年にちなんで質問をいくつか。(1)アルファベットのAは牛の頭をかたどった象形文字だという説は本当か(2)牛肉一人あたりの年間消費量世界一はオーストラリア人の約五十四キロ、というのは本当か(3)牛の鼻紋は、人間の指紋のようにそれぞれ紋状が異なる。生まれてきた和牛については個体識別のため鼻紋をとり、血統がわかるようにしてある。本当かうそか▼「牛の眼は叡智にかがやく」と高村光太郎は歌った。「牛の眼は聖者の眼だ」とも。牛の家畜化は今から約一万年前といわれているが、古代人は牛の価値を目方ではみなかった。古代ギリシャにも、古代オリエントにも、牛の頭や角を豊饒(ほうじょう)のしるし、として敬う風習があった。古代インドの主神インドラは雌牛だった。日本でも昔は牛のことを「農宝」といった▼牛を敬う風習は今も残ってはいる。北海道の牧場で働く若者が「牛前結婚式」を行ったことがある。牧草地の一角に神の身代わりと信じられている子牛を一頭すえ、その前で、しぼりたての牛乳による三三九度の杯をかわしたそうだ▼牛はのろのろと歩く。大地をふみしめて確実に前へ進む。相当な頑固者でもある。人びとは「牛の歩み」といい「牛の一徹」という。「商いは牛のよだれ」ともいう。細く長いよだれのように気長にしんぼうを、という教訓だ。牛の歩み・牛の一徹・商いは牛のよだれ、これはそのまま軍縮交渉の三条件になる。「牛の角突き合い」はもうごめんだ▼(1)(3)は本当、(2)の世界一はウルグアイ人の約八十四キロ。ちなみに日本人は五・六キロ。 ハレー彗星を待つ 【’85.1.4 朝刊 1頁 (全854字)】  怪しげな尾を引いて突然現れる彗星(すいせい)は、ある時は吉兆と喜ばれ、ある時は凶兆と恐れられた▼ローマの皇帝ネロは「君主の代わる知らせ」と聞いて、身代わりを殺した。ノルマンジー公ウィリアム一世は「勝利の前兆」と信じてイギリスに侵入し、英国王になった▼もちろん当時、彗星の正体は、まるで分かっていなかった。万有引力の法則で有名なニュートンも、海の水や生命や人間の霊魂は彗星に由来すると考えた。ハレー彗星が1910年に大接近した時は、青酸ガスを含んだシッポに地球が包まれて人類が絶滅する、という怪説に人々は恐れおののいた▼今では、彗星の正体は直径十キロメートル以下の雪の塊だと推測されている。アンモニアやチリの混じった雪ダルマである。あの箒(ほうき)状の尾は、太陽の熱で雪ダルマの表面が気化して、秒速数百キロの太陽風によって吹き流されている姿なのだそうだ▼今回、ソ連、日本、欧州諸国、アメリカの研究者たちはチームプレーで「ハレー待ち伏せ作戦」を展開する。彗星の頭や尾の詳しい成分を解明して、太陽系誕生のナゾに迫る▼昨年暮れ、露払い惑星ベガ1、2号が出発した。ソ連、東欧、フランスなどの協力作品である。日本初の人工惑星も、あさって六日、鹿児島の宇宙空間観測所から打ち上げられる。七月には、欧州の特攻惑星ジオットが、ヨロイをつけて至近距離からの観測に向かう。日本の本命プラネットAも八月に飛び立つ▼ハレーが戻ってくるまでの七十六年の間に、我ら地球人は二度の世界大戦の愚を経験した。前回のハレーを幼少時に見た人々の多くが二度目を楽しめずに戦火で他界した▼今回、ハレー彗星を見る世界の子どもたちのどれほどが、2061年の大接近時に、健やかに彗星と再会できるだろうか。今回のは「吉兆」か「凶兆」か。願わくば、科学者たちのチームプレーを国際政治でも実現させて、「大吉」としたい。 牛場信彦さんの交渉術 【’85.1.5 朝刊 1頁 (全850字)】  日米民間外交の不動の四番打者、といわれた牛場信彦さんが亡くなった。ロサンゼルスで日米首脳会談が行われる直前の死だった。死ぬまぎわまで「日米の経済摩擦を何とかしなくては」と心配していたそうだ▼対外経済相時代は「不注意発言」による小さな失策が少なくはなかったが、そのたくましい反撃能力は超一流だった。「民主主義は対立の上に成り立つ」ことを信条とし、対立、口論を恐れなかった。どんなに激しくやり合っても憎まれない明るさがあり、野にあっても、国際舞台で常に高打率を残した▼かつて、交渉相手のストラウス通商特別代表がこぼした。「こんなアメリカに不利な案ではワシントンに帰って議会に申し開きができない」。牛場さんがたたみかけた。「そんならボクが行って説明してあげよう」。請われれば、本気で乗り込む行動力をもった人だった▼日米双方に対して、直言を続けた。「これまでの日本の首相は外国でいうことと国内でいうことが違ったりして、そのことを外務省の現役のころもよくいわれた」「(防衛力増強で)米側からケタはずれの話がだされたこともある。この場合も、ここまではできる、これから先はできないとはっきりいえばよい」▼「いまの日米間の貿易摩擦はほとんど米側に原因がある。それでもなお日本を悪者にしようとするのは米国の独善だ」▼レーガン大統領は、予期に反して、通信機器、エレクトロニクス、木材などの個別品目まであげて、市場開放を求めた。中曽根首相はこれを受けて「私自身が目配りする」と答えた▼こんなに軽く引き受けてしまっていいのだろうか。牛場流交渉術にならって、ここのところは、できることとできないことをはっきりといっておくべきではなかったか。米側はこの首相発言を重い約束と受け取るだろう。ヤスさんヤスさんと頭をなでられながら、結局は大きなお荷物を背負わされてしまったような気がする。 文人の日記 【’85.1.6 朝刊 1頁 (全842字)】  「初日記いのちかなしとしるしけり」(久保田万太郎)。毎年のことだが、茫(ぼう)とした日記帳のページを繰りながら、これから一年、いかなるいとなみが記されるのかと思う。そんなに熱心に書くわけではない。一年が終わってみればきまって余白だらけの日記帳が残ることになっているのに、性こりもなく、日記帳を買う。日記とはふしぎなものだ▼作家の野上弥生子さんは、明治のころからもう八十年以上も日記を書き続けているそうで、その根気には脱帽するほかはない。たとえば震災前後の日記を拾い読みしただけでも、それがいかに貴重な民衆史、世相史であるかがわかる▼小田切進さんは『近代日本の日記』の中で、一葉の日記は主として恋愛日記であり、独歩の日記は「明治の恋愛を描いた稀有の文学作品」だと書いている▼一葉日記には「胸はただ大波のうつらん様に成て」「いふべき事も覚えず問ふべき事も忘れて面ほてり」という表現がでてきて、明治の青春がなまなましく伝わってくる▼そこには「自己のいっさいを日記に投げだし、自己を赤裸々にして、苦悩や不安から自己脱出をはかるいとなみ」がある。日記の中のそういういとなみを通じて、一葉はやがて名作『たけくらべ』を生むにいたる、と小田切さんは書いている▼独歩の日記は当世CM風でおもしろい。「唱歌、低語、漫歩、幽径、古墳、野花、清風、緑光、蝉声、樹声、而して接吻又た接吻」。この恋愛日記を下地にして『武蔵野』が生まれる。作家にとっては、日記は心の記録であると同時に、文章修練の場であるのか。夢中になるものをもつこと、恋をすること、これが日記を書き続けるこつらしい▼池波正太郎さんは、ここ二十年来、毎日の食べものを欠かさず日記帳につけている、というからこれも脱帽ものだ。池波さんの作品にこまやかな季節の味がでてくるのは、この心入れのせいかもしれない。 交通事故の地域格差 【’85.1.7 朝刊 1頁 (全844字)】  交通事故による死者の数には都道府県や都市ごとに著しい差がある。なにが、こうした地域格差をうみだしているのか。これからの交通安全対策のなかで、十分に研究してもらいたい問題だと思う▼去年一年の交通事故死者は九千二百六十二人にのぼった。三年連続して九千人台の悪い記録だ。一昨年よりすこし減ったが、それは「五十九年豪雪」で車の動きがおさえられたせいで、事故の増加傾向は変わっていない。今年三が日の死者は、前年を上回っている▼都道府県別で、昨年の事故死が前の年より三十人以上減ったのは、岡山の四十五人をはじめ、北海道、山形、熊本、宮崎だ。逆に二十人以上増えたのが千葉の四十四人をはじめ、宮城、栃木、京都である。ずいぶん大きな違いだ▼減ったといっても北海道の五百八十一人は全国一で、人口の多い東京、大阪をはるかに超えている。人口十万人当たりの死亡率は、東京は約三・五人で、この二倍から四倍前後の県がいくつもある。全体の傾向として、都市の死亡事故はふえているが、人口比率では高低の幅が見られる▼道路の込み具合とスピードの関係や道路の整備状況など、事故の地域格差の背景らしきものを、いくつか挙げることはできるだろう。だが、それだけではすべてを説明しきれない▼くるま交通は地域社会と密接な関係にある。事故の地域格差は、それぞれの地域のくるま社会の顔や交通安全のあり方を映しだしていることは間違いない。ゆがんだ競争は困るが、地域の特徴や実情に即した対策で交通安全度を大いに競ってよいのではないか▼運転免許を持つ人五千万人、車は六千万台を超えた。道路、施設の整備、取り締まりの強化と事故の追いかけっこでは、膨張を続けるくるま社会の安全は保てない。大事なのは、車を走らせる人が、自分の周囲の世界に思いやりと謙虚さを取り戻すことだろう。それだけで事故は減るはずである。 風の谷のナウシカ 【’85.1.8 朝刊 1頁 (全853字)】  若い人たちに勧められて、遅ればせながらアニメ映画『風の谷のナウシカ』を見た。小さな映画館はなかなかのこみようで、立ち見だった。ナウシカという個性ゆたかな少女の創出なしには、この映画の成功はなかったと思う▼ナウシカは虫と語り、風と戯れて自由に空を飛び、いつくしむものの命を救うためには捨て身になる。やさしさというものが、時には死をも恐れない勇気に支えられなければならないことを、少女は行動で示す▼今世紀の初頭、英国の作家W・H・ハドソンは『緑の館』を書いた。「英国の文学史上、これほど幻想にあふれた創造はない」といわれた森の少女リマを創出したことで、この作品は不朽の名作になりえた。リマは南米の秘境に住む少女で、風のように巨木の枝から枝へ渡り、森の生きものを友としている。毒蛇でさえ彼女にはなついている▼ナウシカもリマも、共に木や鳥や虫と共生する自然人だ。産業革命が恐ろしい勢いで緑を破壊していった当時の英国にあって、ハドソンはリマに思いを託し、リマの死を描くことで自然破壊の残酷さを告発した。ハドソンは生涯、鳥と緑と草原の風を愛し抜いた人だった▼それから約八十年後、日本のアニメ作家宮崎駿は「巨大産業文明崩壊後千年をへた地球」を想定し、不毛の地球の救世主として、ナウシカという少女を創出した▼産業文明時代、人類は有毒物質で地球を汚し続けた。汚された大地の怒りが人類を滅ぼそうとしている、というのがナウシカの舞台だ。少女は腐りはてた地球に繁茂する有毒植物群の胞子をひそかに集めて、育てる▼そして、どんなに異様な植物も、きれいな水といい土で育てれば、かわいい花が咲き、毒もださないことを知る。地球を腐らせて人類を追いつめているのは、人類自身のおごりや敵意や憎しみなのだ▼リマとナウシカ、自然破壊の時代が生んだ主人公に共通するのは、女性原理の主張と共生の感覚である。 スターウォーズ 【’85.1.9 朝刊 1頁 (全855字)】  ジュネーブからはしきりに、米ソ両外相の笑顔が送られてくる。しかし「カメラの前ではいつでも笑う。カメラの後には笑いはない」という評があった。そうだろう。複雑な、宇宙的規模の懸案がそう簡単に解けるはずはない▼秒速三十万キロの光速で、はるか遠方の攻撃目標を瞬時に撃破する。レーザー光線を使った新兵器を積んだ攻撃衛星や監視衛星をいくつも、軌道にのせて相手国を監視する。相手国が核ミサイルを発射するや否や、これをみつけて撃破する▼あるいは、衛星攻撃兵器を用い、相手国の軍事衛星を宇宙空間の軌道上で破壊する。これがスターウオーズだ。宇宙戦争はもはや未来映画の物語ではなくなりつつある。スターウオーズ計画には、それこそ天文学的な費用がかかるという▼レーガン大統領の構想については、米国内でも強い批判がある。たとえば米議会の技術評価局は、この戦略構想について「ソ連の核攻撃を完全に防ぐ技術の見通しは暗い」と首をふっているし、マクナマラ元国防長官たちも、宇宙兵器開発は軍備競争を拡大することになると警告している▼軍事衛星が相手国の核ミサイルを撃ち落とすことは、防御であり、核軍縮につながるという。しかし新しいタテが生まれれば、それを破る新しいホコが生まれ、またそのホコに打ち勝つタテが生まれる、というのが今までの核軍拡の道順だった▼スターウオーズの研究開発に膨大なカネがつぎこまれれば、研究開発だけでおしまい、というわけにはいかなくなる。研究開発は「配備」につながる可能性がきわめて強い▼宇宙は聖域である、宇宙を核戦争の場にしてはならない、というのが宇宙天体条約の理念であり、ABM(弾道弾迎撃ミサイルシステム)をめぐる条約の精神でもあったはずだ。もし米ソ両国が宇宙の聖域をわがもの顔に使い、宇宙制覇の争いを続けようとするのであれば、それは両核保有国のおごりだ、と断ずるほかはない。 寝たきり老人 【’85.1.10 朝刊 1頁 (全844字)】  「小水の出ないまま休み、夜中の一時ごろ音がするのでみると、自分で便器をあてようとしている。ふとんの上に起こしてくれというので起こし、後からおさえている。十五分位頑張っても出ず、あきらめて横になる。五分位経って、また便器をあてるが今度もだめ」▼「びしょぬれの着もの、下着、ふとんをかえる。自らは動けないのだから、ぐにゃぐにゃとして水袋と同じであり、着物をかえるにもふとんをかえるにも重労働である」。経済評論家の高原須美子さんはその著『女は三度老いを生きる』の中で、脳血栓で倒れて寝たきりになった実母の看病の様子をつづっている▼疲れはてながら高原さんは日記に書く。「親の長生きを願うのは子として当然だが、親がねたきりになった時、子は本当に親の長生きを願うのだろうか。そこから解放される時期があまり遠い先でないことを願うのではなかろうか。それは子のエゴであると同時に、親のみじめさをみるに耐えられないからではなかろうか」▼寝たきり老人の数は、約四十八万人に達したという。在宅の寝たきり老人の介護は圧倒的に女性が多い。とくに体力が衰えてきた初老の女性に負担がかかることが多い。入院となれば、差額ベッド料やつきそい料で一日一万円を超す負担がかかることもある▼高原さんは、在宅の寝たきり老人のためにも、介護で疲れ切った家族のためにも、特別養護老人ホームへの一時入所や入浴サービスは助けになる制度だという。特別養護老人ホームは開かれたものであるべきだし、訪問看護や家庭奉仕員(ホームヘルパー)の充実も急務だ▼すさまじい勢いで進む高齢化に対して、私たちはあまりにも準備不足で、未熟だ。家庭奉仕員の数は、日本が人口10万人中14人である。古い統計だが、スウェーデンは10万人中297人、英国は264人である。貧しい老人福祉の現実を象徴するような数字ではないか。 非暴力主義者藤井日達氏 【’85.1.11 朝刊 1頁 写図有 (全864字)】  1964年、ニューヨークのハーレムで黒人暴動が起こった時、人びとは興奮の極にあった。「武装して警官と戦え」という騒ぎの中で、一人の指導者がいった。「われわれは非暴力主義を貫いてこの流血の惨事を終わらせよう」▼いきりたった群衆が指導者に殴りかかろうとすると、七、八十人の聴衆がごく自然に指導者を取りまき、敵意に満ちた男たちを退けた。七、八十人はその後街頭にでて傷ついた人を助け、警官にも暴力中止を訴え続けた。指導者B・ラスティンは「あの時、私は非暴力主義の強さを知った」と回想している▼米国には非暴力主義の根深い伝統がある。『森の生活』を書いたソローがいる。奴隷制廃止論者のギャリソンがいる。トルストイやガンジーでさえも、アメリカの非暴力思想の影響をうけたことを認めているほどだ▼(1)報復をしない(2)良心の声をきき、服従すべからざるものには服従しない(3)直接行動で訴える(4)愛の心で世の中を変える。アメリカの公民権運動や徴兵拒否運動の底にはこの非暴力主義の四原則があった▼非暴力主義を説き続けた日本山妙法寺山主の藤井日達氏が亡くなった。「不殺生の教えこそが現代を救う」「全人類を滅ぼす核戦争をくいとめるのが仏教徒の使命」といい、晩年まで平和行進の先頭に立った人である▼その教えは、アメリカの非暴力主義やガンジーの教えとよく似ているが、不殺生という言葉には、古来の伝統がしみこんでいる。ガンジー翁も日達翁も共に「歩く」という行為を友とし、直接行動の手段とした。二本足で歩くという人間の自然な、根源的な行為を大切にした点で、両者は徹底した反物質文明論者だった▼非暴力主義は、この国ではしばしばあざけりの対象になり、夢想論とやゆされる。だが三十五年前の日達氏の次の言葉には今も新鮮さがある。「文明とは電灯のつくことではない。原爆を製造することでもない。文明とは人を殺さぬことである」 「ねえやの昔話」 【’85.1.12 朝刊 1頁 (全836字)】  元小学校教諭の大江ちさとさんは幼いころを過ごした新潟で、ねえやによく昔話をきかせてもらった。「ねえや」という言葉が生きていたころの話だ▼「あるとごに爺さと婆さがありましたど、あるどき爺さが庭はいてだでば、稲の穂一本落ってだど」という調子である。ねえやの面影はうすれても、語ってくれた昔話の数々は、心の奥深い所に生きていて、かなり正確に思い出すことができる▼のんびりした語り口だった。語りながら居眠りをし、目を覚ましてはまた語る。その、ふっと途切れる時間が「間」となり、かえって思い切り想像をふくらませることができた▼「だんごがコロコロッと穴へころがってしもうだど」。目を閉じてきくために、体中の感覚が自在に働き、全身で感じとることができた。昔話はこうして代々、暗がりの中で生き続けてきたのだろう。後年、東京で教師になった大江さんはよく記憶の中の昔話を教え子に語った。好評だった▼ある日、思い立って新潟へ行った。ねえやを捜すためである。姓も知らず、四十数年音信をかわさなかったねえやを捜すのは難儀だった。ようやく尋ねあてたその人、本間このえさんは何年も前に他界していた▼このえさんのことを回想した大江さんの一文を読んでいると、雪国に生き、幼い姉弟を親身になって育てた大柄な女性の姿が浮かんでくる▼食の細い姉弟を心配したねえやは、ごはんに塩じゃけをまぶして熱いお茶をかけた。「からす子、口開けろ、豆いってカオ」と歌いながら、スプーンで口へいれてくれた。姉弟は口をいっぱいに開けて待った。間食には厳しく、「ねえ、ねえや、おかし」といっても「おかしいなら、笑いなさい」ととりあわなかった。そんな人だった▼大江さんはいま、自宅の学習子供文庫に集まる子供たちに、時々「ねえやの昔話」を語る。文化の伝承とは、このようなことをいうのだろうか。 市川さんの天水桶 【’85.1.13 朝刊 1頁 (全841字)】  気象庁を定年で辞めた市川寿一さんの家には現代版の天水桶(おけ)がある。東京の都心に近い家の屋上にはプレハブの書斎があり、書斎の屋根に降った雨をタンクにためる。屋内にパイプをつないでトイレの用水にするしくみだ▼費用は二十八万円で、決して安くはないが、この雨水でトイレの用水はまかなえる。それに、と市川さんはいう。「地震などの災害で断水があった時は、ろかして飲料水にも使えます。これが心強い」▼いま、都市づくりの大勢は「いかにして雨水を捨てるか」をめざしている。コンクリートの上に降った雨は、ゆたかな地下水になることなく、下水に流れこむ。使い捨てどころか、使わず捨てである。時には下水洪水が起こって、道路が水びたしになる▼その様子をしばしば目撃した市川さんは、天水桶を思い立った。「たった一人の反乱」に等しい行為だが、この反乱の精神は次第に都市住民の間にしみ渡る気配がある▼一方で雨水をむだに捨てながら、一方で水不足に備えて水源地にダムを造る。これが鳥瞰(ちょうかん)図の思想であり、昨今の行政の思想だ。これに対して、雨水の利用で節水をし、ダム開発を避けようとするのが、虫瞰図の思想であり、住民の思想である▼江戸の研究家三田村鳶魚によると、江戸はいい水に恵まれず、川の水量も乏しかった。このため玉川上水や神田上水から引いた水を飲料用に、井戸水は雑水用に、軒先や街角におかれた天水桶の水は防火などの非常用に、と三種類の水を上手に使い分けていた。先人は、水道一点張りの都市のもろさを教えてくれている▼大きなダムを一つ造るには一千億円を超す金がかかる。自然破壊も起こる。水源地と都市との水争いもある。それでも東京は増大する水需要に備えて四つのダムを計画中だ。ダムに固執するよりも、行政こそ、現代版天水桶のもつ意味を、深くうけとめるべきではないか。 やわらかすぎる時代に 【’85.1.14 朝刊 1頁 (全853字)】  ふわふわのもの、軟らかい食べものが好まれるようになった。たとえばクレープ、ハンバーグのたぐい。こねあげて作るのを「つくねる」というが、いまの食物文化はまさに「つくね文化」じゃないかという人もいる。やわらかいものばかり食べているせいか、アゴが弱くなり、顔付きが変わってきたそうだ▼うなぎ屋では「天然うなぎはかたくていやだという人がある」という話を聞いたし、養鶏業の人からは「地どりより、ブロイラーの方が好まれてますよ。地どり、あんなかたい身がかなわんというんです」とも聞いた。かたくて、抵抗のあるものは、敬遠されるようである▼かたいものを好まぬようになったのは、食べものに限らないように思う。一字一字しっかりと読み、考えを追っていかねばならない、いわゆるかたい本は遠ざけられている。本のページをくるのも面倒くさい人は、寝そべってテレビを見ている。せっかくの余暇を、なぜかたい物でいためつけねばならないか、すべてやわらかく、やわらかく▼何事も自分ですれば、それなりの努力、辛抱がいるし、かたさがつきまとう。だから、他人に「かたさ」をおまかせする。歩く辛抱はクルマにまかせ、旅の努力は旅行業者に引き受けてもらう。ブーアスティンは『幻影の時代』にこんなことを書いている。「昔の旅とは、進んで困難に打ち向かうこと、つまり教育であり、若い紳士は大旅行によってみずからの教育を完成したのだ」▼旅はつらく、困難に満ちていた。それを乗りこえることによって自分を教育する、それが昔の旅だったというのだが、いまの旅は、一から十まで「つくね」られ、やわらかくされてしまった▼たまにはかたいもので、鍛えないことには、人間の退化は目にみえている。乗りたければ歩き、座りたければ立ち、電話ですましたければ、はがきを書いてみる。やわらかすぎる時代だから、あえてかたい物を求めねばならぬと思う。 二十歳は花 【’85.1.15 朝刊 1頁 (全856字)】  はたち前後のころ、作家の五木寛之さんは、ゴーリキーを読み、深夜羽田空港のバーで働き、売血をして早大に通っていたが、学費を納められず抹籍処分になった。早大在籍中のタモリは、ジャズ研の司会をしておおいにうけたが、これまた学費未納で抹籍になった▼作家の開高健さんは大阪市立大に通いながら、外国スターあてのファンレターの代筆下請け業、夜間英会話講習会の講師など稼ぎ率のよい仕事をひたすら開拓していた▼行革の御大、土光敏夫さんは、東京の蔵前高等工業の受験に失敗して郷里へ帰り、小学校の代用教員をしながら勉強をした。翌年は高等工業にトップで合格している。松下幸之助さんは、大阪電灯で屋内配線工事の手車をひいて働いていた。夜学にも通い続けたが「中途で挫折した」と回想している▼自民党幹事長の金丸信さんは、学生時代柔道に打ち込み「農大に金丸あり」といわれた。友人と飲み歩き、友人が暴力団員をたたきのめしたことで警察に留置されたこともあった▼市川房枝さんは小学校の訓導をし、妹と弟の学資を負担していた。杉村春子さんは広島女学院で音楽の先生をしていたが、築地小劇場のうわさをきいて上京、「使いものになるかどうかわからないけれど」といわれながら入門した▼アインシュタインは大学の助手にも残れず、家庭教師などをして苦境に耐えた。マリー・キュリーは友人あての手紙に書いている。「わたしの洋服はすり切れて手入れをしなければなりません。わたしの心も疲れはて、すり切れています」。失恋の痛手だろうか。だが、夫人は「顔をあげて誠実に」苦しい時期を切り抜ける。以上はみな、二十歳前後の話である▼『野垂れ死考』を書いた高木護さんは歌う。「四十歳は分別ざかり/分別ざかりよりも/三十歳がいい/三十歳は分かれ道/分かれ道よりも/二十歳がいい/二十歳は花……」。ことし二十歳の「花」を迎える人は、百七十一万人。 北の湖引退 【’85.1.16 朝刊 1頁 (全842字)】  差し手を争っているうちに、北の湖はいとも簡単に後退を続け土俵を割ってしまった。これが最後の土俵だな、と思わせる内容の相撲だった▼テレビに映る横綱は、ふだんの無表情のままだったが、唇をややゆがめ、一瞬、うつろな目で宙をみつめてからうつむき、一礼をして土俵を去った。ぶざまな相撲を取ったことのくやしさを、押し殺そうとしているようにみえた▼土俵では「怖い横綱」だった北の湖も、北海道の実家に帰ると「父さん、ご飯をあげるよ」といって飯をよそったり、「母さん手伝うよ」といって台所に立ったという。それがこの人の素顔だろう▼とみ子夫人との結婚前のデートの場所がもっぱら近くのパチンコ店で、四、五時間粘っては袋いっぱいの景品をとった、という話もいい。亭主関白でゆくと宣言しながらも、新婚の記者会見では巨体を小さくし、汗びっしょりで「月給は全部渡します」と小声で答えていた▼七年前、五場所連続で優勝したころの破壊力は恐ろしいほどだった。四年前、ほかの横綱、大関が総崩れになったときも、右足首のけがを隠して出場を続け、国技の屋台を支えたこともある▼だが、「三十を老のはじめやすまひ(相撲)取り」(嘯山)である。ひざを痛め、腰を痛め、最近は休場がふえた。それでも引退を口にしなかったのは、この人の自信、気合、負けん気だろう。二敗目の夜、しきりに「どうのこうのいわれたって」と繰り返していた。心は乱れに乱れてもなお、まだやりぬく意志があるような口ぶりだった▼無口で口下手で、一本気ではにかみ屋で、豪快に食い、豪快に飲み、豪快に勝つ、というお相撲さんの代表格が土俵を去る。巨木が倒れたあとの寂しさがある▼同じ日、ラグビー日本選手権では釜石が勝った。病院からかけつけ、足をひきずりながら闘った松尾雄治は、試合後こぶしで涙をぬぐった。引退する松尾の最後の試合だった。 世界の人口増加 【’85.1.17 朝刊 1頁 (全844字)】  世界の人口は約四十八億人になった、という国連事務総長の報告があった。一体地球上の人口はどこまでふえ続けるのだろう▼一八〇〇年当時の世界人口は約九億人だった。二〇〇〇年には約六十一億人になるという。二百年間で人類は七倍近くもふえることになるのか。まさに「人口爆発」である▼英国で発行された『世界情勢図表』をみると、人口激増国はカーキ色、黄色、赤……の順で色分けされている。一目でわかるのは、アフリカ大陸と中東の大半が、カーキと黄で埋まっていることだ▼たとえばケニアの首都ナイロビの過密化は相当なものらしい。国立病院では一台のベッドに三人の患者が寝ている、スラムでは板とトタンの一室だけの小屋に家族全員が暮らしている、という報告があった。3%を超える人口増加率が続く限り、アフリカ大陸の飢えは続き、都市のスラム化はさらにひどくなる▼一人っ子政策をとっている中国の人口増は落ち着いているが、インドの人口爆発はとまりそうもない。いずれは中国を抜いて人口世界一の国になるだろう▼世界の家族計画問題と取り組んでいる国井長次郎さんは、去年のメキシコ国際人口会議に出席して、驚いた。いままでの第三世界には、先進国のいう家族計画作戦に対する不信感があった。新植民地主義だという批判もあった▼だが、この会議では、風向きが変わっていた。多くの国が「人口抑制は必要」という立場にたっていた。宇宙船地球号の人口には限界があるし、一国の発展にとっても過剰人口はマイナスという認識が各国政府に浸透したためか、と国井さんは書いている▼とはいっても、この問題は先進国が号令をかけて実行を迫るべきものではない。各国には各国の伝統的価値観がある。子宝思想もある。部族間の争いの激しい国では、人口と政治的発言力が正比例している地域もある。人口抑制は、途方もなく根気のいる仕事である。 高尾山の鳥 【’85.1.18 朝刊 1頁 (全856字)】  高尾山の森の中でウソ(鷽)という鳥にお目にかかった。亀戸天神のうそ替え行事の木彫りの鷽は知っているが、本ものの鳥は初めてみた。スズメよりもやや大きめか、白いベスト、黒い帽子、太い首に薄紅色のマフラーをのぞかせるというしゃれたいでたちである▼「雨降れ雨降れと/里へ来てまた鷽が雨をよんでいる/里は雨になる/……麦は八九寸のびている/あんずの花の中で鷽がないている」(田中冬二)。このおしゃれな鳥が白いアンズの花に包まれて鳴く光景は、随分とぜいたくな眺めだろう▼エナガ(柄長)もいた。小さな体にふわふわした衣をまとい、快活に飛び回る姿を双眼鏡でみると、世の中にこんなに愛らしい生きものがいるのかという気持ちになる。七、八センチの尾を除けば、体の長さは親指くらいだろう▼三月になれば、小さな体でコケを運び、それをクモの巣の糸で固めて袋形の巣をつくる。鳥は自分の羽をむしって巣の内側に敷き、赤ちゃん鳥を温めるという話をきいたが、エナガもそうするのだろうか▼もう二十年近く高尾山の鳥を見守ってきた清水徹男さんの話によると、この十年、高尾ではブッポーソー、サンコーチョウといった鳥の数が減り、ヒヨドリやムクドリがふえてきたという▼山の鳥にとって、高尾山は次第に住みにくくなってきたのか。「伝えられるように首都圏中央連絡道路が高尾山の中腹を貫通することになれば、地下水が分断され、高尾の植生や鳥の生態に悪影響があるでしょう」と清水さんはいう▼斜面に敷きつめられた落ち葉をかきわけて、アトリの群れがイヌブナの実をせわしげに探している。シベリアからのお客さんだ。黒と山吹茶と白の鮮やかな模様が見え隠れするたびに、落ち葉が生きもののように舞い上がる。野趣に満ちた食卓の光景だった▼遠くの森でアオバトがワァオーワァオーとかなしげな声で鳴いている。ウグイスが秘密めいたササ鳴きを続けている。 土と緑と水 【’85.1.19 朝刊 1頁 (全838字)】  林野庁が、山の緑や水を守るための「全国基金」をつくろうとしている。まだ検討の段階だが、これは大切なことだ。山林を荒廃から守ることは水源地を守ることであり、上流の水源地を守ることは、下流の住民の水を確保することである▼江戸の昔、上流の民と下流の民が話し合って水源地を守った話がある。越後のある村が炭焼きと開墾のために水源地の立ち木を伐採しようとした。伐採すると、雪どけが早まって田の用水が不足するし、大雨のとき土砂流出の災害が起こる。下流の二十四カ村がそういって反対した▼話し合った結果、下流の村人たちが、毎年米四石と五十両の一時金をだすことで決着した、と熊崎実さんが書いている(現代林業)。これは昔の人たちの知恵である。水の恩恵をうける下流の民が上流の民の生活を思う、という流域共同体的な連帯感が今はどれほど生きているだろうか▼土と水は緑を生み、緑と水はいい土を生む。そして土と緑は水を生む。土と緑と水は三位一体となって生態系の中心にある。いい森は、たくさんの雨水を蓄えてくれる。裸地の貯留水はわずか5%だが、森林は雨水の35%を貯留する。森こそ、私たちのたらちねの母である▼だが、国土の破壊が進み、林業経営の行きづまりがあって、緑・土・水の三位一体の生態系が崩れだした。間伐や枝払いの行われない山は荒れる。緑が衰弱し、土が崩れ、水のたまる量が落ちてくる。山が荒れれば貯留水が減るし、川の水量も減る。水が減れば下流の住民は困る▼たとえば東京都民は、水の消費量の52%を群馬県の利根川水系のダムによって得ている。都民は、群馬の山の緑と土と水を守ることに無関心ではいられない▼下流の住民や地方自治体が山林を守るためにカネをだす。都市の若者が、山に入って山の仕事に参加する。そういう流域共同体の考え方が「全国基金」をささえることになる。 役所言葉 【’85.1.20 朝刊 1頁 (全840字)】  「愛ちゃんは太郎の嫁になる」というかつての流行歌の一節を役所言葉にすると……。「愛子殿におかれては、太郎殿の身辺、性格等をより精査の上……当該の者に嫁すことが最も適切であると思料し、このたび太郎殿と婚姻の儀を取り行う事態とあいなった次第である」▼なるほど、達者なものだ。北海道庁内の「グループ言葉の行革」の人たち、つまり本職のお役人の戯文である。本職にはおよぶべくもないが、鳥井実作詞、芦屋雁之助歌う「娘よ」に挑んでみた▼「嫁に行く日が来なけりゃいいと/おとこ親なら誰でも思う」→「娘の出嫁については、その早急な実現は諸般の事情によって著しく適切を欠くものと思料するのが当該男親の通例である」▼「早いもんだね二十を過ぎて/今日はお前の花嫁姿/贈る言葉はないけれど/風邪をひかずに達者で暮せ」→「しかしながら一方、二十歳をすぎた娘の花嫁姿を見るにあたってはその重要性、緊急性にかんがみ前向きに取り組むことが強く要請される所である。遺憾ながら惜別の辞は見合わせざるをえないが、健康対策については留意の上、良好な環境確保の促進を図りつつ適正かつ弾力的に暮らされたい」▼わざとあいまいな、難しい言葉を並べるのが、役所言葉の特徴の一つだ。「当分は実行しない」が「検討する」になり、「どうせだめだが」が「鋭意努力する」になる▼お上意識もある。「照会して下さい」が「照会されたい」になる。「いつでも送達を受くべき者に交付するから出頭のうえ受領されたい」といういかめしい掲示もあった▼最近は、神奈川県庁が「言葉の見直し運動」を起こし、熊本県庁や北海道庁も言葉の行革運動を進め、わかりやすく、温かみのある言葉を使おうとしている。けっこうなことだ▼もっとも役人言葉ばかりを難ずるわけにはいかない。文章の洗濯を忘れてはいけないのは、役人も新聞記者も同じだ。 防衛費1%枠 【’85.1.21 朝刊 1頁 (全859字)】  哲学者の上山春平さんが、腹にすえかねるという調子で語っていた。「戦後四十年間、日本は一回も戦争をやっていない。これは大きな実績です。憲法第九条を守ってきた国民の意志、第九条が完全に守られなかったら、せめて防衛費のGNP比1%枠を守ろうという国民の意志、これを軽蔑(けいべつ)してくれたら困る」▼「1%枠を破れなんていう政治家はね、ぼくは本当にね、しかられるかもしれないが大ばかやろうだと思う。国民が腹の底からやってきた実績をもう少し大事にしなさいと、戦争で死んだ人びとの本当の鎮魂をまじめに考えているんですかと……」(NHKテレビ『21世紀は警告する』)▼先週末、加藤防衛庁長官があわてて、防衛庁参事官の説明を訂正する一幕があった。アーミテージ米国防次官補との会談で、長官は「五九中業の規模が1%枠に収まらない場合は、防衛力整備をしやすい状況をつくる必要がある」とのべた、という参事官の説明があった。夏には1%枠を撤廃したいと受けとれる発言だった▼長官はその後この「発言」を否定した。真相はヤブの中だが、はっきりしているのは(1)1%枠はずしに防衛庁の強力なバネが働いている(2)五九中業の作業と連動して、1%枠はずしがなしくずしに進んでいる、ということだ▼そういう情勢なのに、中曽根首相は南太平洋諸国にむかって「日本は防衛費が対GNP比1%もいかない平和国家だ」と強調したそうだ▼こうまで見えを切った以上、1%枠は守らねばならぬ。首相が1%枠平和国家に誇りをもち、守りぬく決意があるのなら、五九中業の作業は1%枠堅持を大前提にせよ、と強い指示を与えるのが筋だろう▼なるの論理とするの論理のわけ方に従えば、1%問題は、守る、堅持するというするの論理を貫くべき性質のものだ。努力はする、だが五九中業の結果、1%枠を超えることになるかもしれない、という没主体的なことでは困る。 「地域の活性化」 【’85.1.22 朝刊 1頁 (全868字)】  『別冊・民力』が、全国の都市に問いあわせて「都市の自己紹介」の特集をしている。「わが市」のイメージを表すことばで、一番多く使われているのは(1)緑・みどりである。以下(2)豊かな(3)活力・活気(4)自然(5)心(6)住みよい(7)水(8)調和、と続く▼開発よりも自然を、モノよりもココロを、という世の流れを反映したものだろうか。緑志向、心志向がめだっている。××都市という言い方で多いのは(1)文化都市(2)健康都市(3)田園都市(4)人間都市などで、ここにもモノよりもココロ派の感覚がある。しからば文化都市、人間都市とは何ぞやとなると、これが難しい▼長野市信更町の安庭という集落の話だ。ここに、四十歳の男が療養をかねて東京からUターンしてきた。若いころ、短編映画の製作をしたり、リベリアで日本語教師をしたりした内山二郎さんである。内山さんはやがて若者頭になり、村芝居の音頭をとった▼これがなぜか当たった。新しい村芝居を創造するたのしさがあった。大工さんが舞台装置作りに一役買い、美容師さんが化粧係になって力をあわせるたのしさもあった。指導者の熱意が土地の人の潜在力をひきだした。公民館は超満員になり、人びとは笑って、泣いて、拍手した、と安田浄さんが書いている(學鐙1月号)。Uターンによる文化衝撃の一つだ▼全国知事会の調査によると、地方自治体はさまざまな形で「地域の活性化」を図っているそうだ。たとえば新潟県の津南町は、子や孫が五十五人になった人、津南の玉三郎と呼ばれる踊りの名手、桐(きり)の大木がある家、と町内一を集めて町内ギネスブックを作っている。埼玉県は「ふるさと埼玉の緑を守る条例」をつくり、岐阜県本巣町はホタル保護条例で、ホタルの里を復活させている……など▼あの手この手で役所が笛を吹くのも大切だが、活性化のカギはやはり、先頭に立って笛を吹く住民がいるかどうかだろう。 子どもたちは生きたい 【’85.1.23 朝刊 1頁 (全854字)】  数日前の社会面にのった九歳の少年のことばが心に残っている。無理心中をはかる父親に首を絞められながら、少年は「父ちゃん、世界中で一番好きだ」という。そのひとことで、父親はもう力を入れることができず、静岡県の警察に出頭した。男は三人の子を道連れにしようとする前に、妻を包丁で刺し殺していた▼借金、病苦、妻からの別れ話、さまざまな事情があったにせよ、子を殺すことを正当化はできない。「好きだ」という絶叫には、大好きな父ちゃんがなぜ、という驚きやら抗議やらもあったろう。生きたいという強烈な欲求が、とっさに効果的なことばを選ばせる、ということもあったろう。無意識の計算があったにせよ、父と子のきずなの強さがなければこういうことばは出て来ない▼三年前、夫が自殺したあと、二人の子と心中をしようとする母親を十二歳の長女が説得する事件があった。少女は「私も小学校を卒業したら働く。死ぬのはやめて三人で暮らそう。私や弟にも生きる権利がある」といった。母親は一度は思いとどまるが、再度、自宅に放火して自殺した夫の後を追った。姉弟は助かった▼戦時中、沖縄の戦場や中国東北部で数多くの人が集団自決をした時、数多くの子が、生死の境から脱出した。ある女性は四人の幼い弟妹を細引きで絞め殺したが、「いやだ」「内地に帰ってごはんを食べるんだ」といいだした学齢期の弟たちに対しては、その目を見てどうしても手を下すことができなかったそうだ。「いやだ」と死を拒む声こそ、正気の声だった▼池に落ちた幼い娘を救い、自分は力つきて水死した母親がいる。踏切の内側に入った二歳の娘を救おうとして命を落とした母親もいる。そういうニュースを読むたびに親と子のきずなを思う▼だが一方、「自分の手で育てられないのなら、いっそ」といって心中をはかる親が後を絶たない。子どもたちは生きたい、生き抜きたいと願っているのに。 出処進退の美学 【’85.1.24 朝刊 1頁 (全847字)】  「こんな大観衆の中で試合ができておれは幸せだ」といってラグビーの松尾雄治はグラウンドを去った。「やるだけやった。悔いはない」といって北の湖は土俵を去った▼「もうやり残したことはない」といって日本の球界を去った江夏豊はいま、大リーグでの活躍をめざしている。それぞれにそれぞれの出処進退の美学がある▼だが、こんどの福永健司衆院議長の辞表提出は、なんとも重苦しい。福永さんには大変失礼な言い方になるが、老齢のライオンをオオカミやウマがけとばすというラ・フォンテーヌの話を思いだした▼柔道、剣道、水泳できたえたスポーツマンが、階段を後ろ向きで下りるけいこの時によろめき、それが辞表のきっかけになったのだから、皮肉な話だ。これからは、衆参両院の議長を選ぶ時はまず階段を後ろ向きで上手に下りられる能力が試されなければならぬ▼福永さん自身がいうように、リハーサルの結果が辞表提出のすべての理由ではないだろう。だがそれは、きわめて大きな理由だった。六年前、当時の保利茂衆院議長も、階段を後ろ向きに下がる時につまずいて、ほんの少しよろけた。それを自ら醜態とみたのか、自分の限界とみたのか、保利さんは辞意を固めたという▼後ろ向きで階段を下りる動作に慣れている人はあまりない。やや横向きになり、足元をよくみて下りるのもいいだろうし、手助けの職員がつくのもいいだろう。四角四面に考えることはない▼昔は、議院内で陛下にあいさつをする時、前を向いたまま横に動き、正面にでてからお辞儀をした。戦後、参院副議長になった松本治一郎さんが「この古い形式はやめよう」といいだしたことがある。現在の国会では「前を向いたまま横に歩く」慣例はないそうだ▼福永さんの辞表提出の前に「二階堂議長説」が浮かんだりして、政界のどろどろした部分がちらっと顔をのぞかせた。重苦しい感じの議長交代劇だった。 菅公と会見 【’85.1.25 朝刊 1頁 (全839字)】  学問の神様である菅原道真氏、つまり菅公との会見に成功した▼もててますね。まさに若者たちの神、ですね。「ええ、大変なことになってあわてています。天満宮の境内はどこも受験の合格祈願の絵馬であふれています。本殿に入る受験生の父母をスピーカーでさばいている天神もあります。これではとても、祈願を全部ききいれるわけにはいきませんッ(悲鳴に近い声)」▼〇〇中学一同、〇〇高校浪人一同一気合格とかいうのもありますしね。「一気一気といわれてもねえ。『欲ばりません、たった一つでよいのです』『絶対いい子の大学生になります』なんて、いじらしいのもありますが、大半は一人で三校も四校も書いている。いくら学問の神様でもコンピューターがなけりゃあ覚え切れません」▼合格祈願の絵馬に、ステキな彼が見つかりますようにとちゃっかり書きこんでいるのもありました。「ええ、どさくさにまぎれて、タイガース優勝を、なんてね。これはしかし私の管轄外です」▼ここが大切なところですが、どうやって御利益を配分するのですか。「これこそ臨教審あたりの最優先課題にしてもらいたいものです。先着順は問題が多いし、カネ次第というわけにもいかない。カネの多寡できめればさっそく『このたびは絵馬をとりあえず一千枚/たてまつりたりカネのまにまに』なんていうことになります。これでは公正を欠く」▼「そこで考えたのが、予備試験制度です。天満宮連合の全国共通学力試験を行い、偏差値によってこちらが志望校をきめ、それを絵馬に書かせる」。冗談じゃない。そんなことをしたら、天神さまの学力試験でいい点をとるための祈願が殺到します▼「では、くじ引きはどうです。大吉が当たった人の祈願だけをかなえることにしましょう。当たるかどうかは神頼み」。やっぱりだめでしょうね。それこそ神頼みを願う絵馬が境内にあふれます。 税制の「改革」 【’85.1.26 朝刊 1頁 (全856字)】  「現在の税制は複雑で、あまりにも不公正だとうけとられているため納税意欲がひどく損なわれている」。まことにその通りだ。「課税には非常な欠陥があって、税金逃れの機会を提供し、金持ちは少ししか税金を払わずにすみ、税制に対する信頼を掘り崩している」▼これは去年の十一月、リーガン米財務長官が発表した税制改革案の一節である(エコノミスト誌)。現状批判もなかなか鋭いし、改革案の中身も、その是非は別として具体的でわかりやすい。そうか、政府の案がそうならということで、少なくともこれは議論のたたき台になる▼中曽根首相は、施政方針演説で「基本的に重要なことは、政治の運営が常に国民に公開された場において、政策を中心として行われることであります」とのべた。つまりは、リーガンさんのように、具体的な政策を常に公開して議論をしようということだろう▼賛成である。賛成ではあるが、もしそれをいうのなら、演説の中で、税制改革の方向を、なぜもっと明らかにしなかったのか▼四十分足らずの演説の中で、首相は三十回以上も「改革」ということばを口にした。「改革」の洪水だった。「税制全般にわたる改革を検討する」ともいった。だがこれだけでは、何をどう改革するのかがさっぱりわからない▼直間比率の見直しをするのかしないのか。たとえば大型間接税による増税をするのならば、それにみあう形で直接税の大幅減税をするのか。直接税の減税はしないで、いやむしろ直接税も増税して歳入増をはかるつもりなのか▼結局は「赤字財政で公共事業もままならぬ。これではもたない」という自民党の圧力に押されて、増税路線をとるのか。それとも首相のいう「税制改革」はやはり「増税なき財政再建」を貫くものなのか▼具体案はともかくとして、おおざっぱな路線さえ明らかにしないまま、ひたすら「改革」のみをいう政治の運営こそ、改革の対象にしてもらいたい。 長島愛生園の高島重孝さん 【’85.1.27 朝刊 1頁 (全852字)】  瀬戸内海の小さな島と本土とを結ぶ橋の工事が、まもなくはじまる。島にはハンセン病患者の長島愛生園や邑久(おく)光明園がある。この橋が誕生すれば、それは、患者を隔離する必要のないことのあかしにもなる▼約二十年、愛生園の所長を務めた高島重孝さんは、この人間解放のための橋を実現する運動の先頭に立っていたが、橋の姿をみることなく、二十三日に亡くなった。生涯をハンセン病患者の救済に費やし、後輩から「大奇人」と呼ばれて慕われた人だった▼慶応大学衛生学教室の助手時代、草津の栗生楽泉園へ「手伝い」に行った。そこで、美しい娘さんの顔がたちまちくずれ、死んでゆくさまを見る。患者たちに頼りにされて、腰を落ち着けることになるのだが、その時の母親のひとことがいい。「お前みたいな憎まれものが、そんなに好かれるのは縁だから、行きなさい」▼町医者の一人娘だったおふくろは、人見知りを全然せず、どんな偉い人とも平気で対等に談笑した。その人間みな平等の感覚が息子に受けつがれた▼患者を差別する偏見に対しては敢然と立ち向かった。手足がなえて動かない患者が口に万年筆をくわえて字を書く姿に感動する一方、高島さんは、不治の病と思いこんで世を恨む患者自身の中の「偏見」をも厳しくしかった▼いま、わが国のハンセン病患者は劇的に減っている。遺伝病でもなく不治の病でもなく、病院の外来で治療しうる病気であることが常識になりつつある。高島さんたち先達の苦労が実ってきた▼その著『愛生春風花開日』は、味わいのある文章で、島でみるやさしい海の色やバラの花や患者とのふれあいをつづっている。お説教めいたくだりは少なくて時々島の日々の苦闘を思わせる自戒のことばにぶつかる。「死後行く先がまたもや地獄であると観念すればこの世のなげき悲しみ苦しみなどは、ものの数にも入らない」「苦しい時は苦しみ抜くのが救いなんだ」 岐阜のカモシカ食害 【’85.1.28 朝刊 1頁 (全846字)】  国の特別天然記念物に指定されているニホンカモシカは、世界的にもたいへん貴重な動物だ。各国から、ぜひという注文も多い。パンダの返礼使節として北京の動物園に贈られたのは、二頭のニホンカモシカだった▼すらりとした脚を「カモシカのような」と形容するが、実物のニホンカモシカは短足、ずんぐり型に近い。むしろ、やさしい、つぶらな目を持ち、ふさふさしたあごひげにかこまれた顔だちに、気品と魅力がある▼なんども絶滅の危機にさらされてきた。角は漢方薬やカツオ漁のぎじ針に、毛皮は防寒具になる。かっこうの獲物にされたのだ。昭和三十年に特別天然記念物として保護されるようになって、数はふえた。しかし、別の難問が起きている▼せっかく植えたヒノキやスギの幼木の芽が食べられ、農作物が荒らされる。カモシカ食害が各地で深刻になり、保護よりも被害対策をという声が強まった。保護を特定地域に限定しようという動きもある▼岐阜県の林業者たちは、カモシカ食害に国の補償を求める訴えを起こした。保護か、生活かの論議はとうとう法廷に持ち込まれた▼被害には対策が必要だ。貴重な野生動物の保護はもちろん大切だが、人間の生活への害は最小限に食い止めなければなるまい。難しい問題をなんとか解決するのが人間の責任だ。カモシカは食害の加害者であると同時に、対策の遅れの被害者ではないか▼ニホンカモシカが、なぜ「害獣」扱いされるようになったのか。その原因、背景をつきとめて、対策を急ぐべきだろう。乱伐、開発で山が荒れ、すみかと食物を失ったカモシカが造林地へ入ってくるという指摘もある▼防護さくで囲いをする、幼木に防護ネットを張る、などの対策は各地で試みられている。その効果はどうなのか。関係の役所はもちろん、保護派も生活派も、知恵と経験を出しあって、ニホンカモシカと人間との共存の道をさぐり出してほしい。 長野のスキーバス事故 【’85.1.29 朝刊 1頁 (全839字)】  オーストリアのレルヒ少佐が、日本の陸軍将校に、本格的にスキーを教えはじめたのは、明治の末のことである▼少佐は日本の軍人たちを前にしてまず「メテレスキー」と号令した。だれもわからない。通訳がやっと「スキーをはけ」という意味だと伝えたが、スキーのはき方をわかるものさえなく、レルヒさんは往生したらしい。少佐がスキーをはいて頂上に登り、急斜面を滑りおりると、魔術を目の前にしたように、将校たちは「万歳」を叫んだという▼大正に入って、日本のスキー界の父、猪谷六合雄さんは、クリの木の板を削ってスキーを作り、てごろな物干しざおを切って、つえにした。雪山を歩き回るうちにいつかスキーの魅力にとりつかれてゆく。草分けのころの苦労に比べると、いまのスキーブームやゲレンデを飾るファッションショーは夢のようだ。スキー場の数も、全国では五百五十を超すだろう▼いま、東京から出発するスキーバスは、一冬約二万三千台にもなるそうだ。金曜の夜に出発して日曜の深夜に帰るバスも多い。老いも若きも雪山に集まってスキーを楽しむのはまことに健康的で、けっこうな話だが、それにしても昨今のブームにはなにか一斉主義のお手本のようなところがある▼愛知県の日本福祉大の学生たちを乗せたスキーツアーのバスが湖に転落し、二十五人が亡くなるといういたましい事故があった。バスは前夜八時四十五分に出発している。痛恨の事故は約九時間後に起こった。冷え込みが厳しくて路上の雪が凍り、スリップしやすい状態だった▼事故の原因究明はこれからだが、この事故であらためて思い知らされるのは、深夜のバス運転、とくに冬季の深夜運転には危険がつきまとう、ということだ。暗い道もある。不慣れな道もある。路面の凍結もある。そういう悪条件があっても、「便利」という名のもとに、深夜バスは隆盛を続けるのだろうか。 防衛費1%枠 【’85.1.30 朝刊 1頁 (全859字)】  中曽根首相の国会答弁をきいていたら、こんなつぶやきがきこえてきた。(1)できるだけ禁煙を続けるように努力する(2)しかし諸般の情勢で禁煙はきわめて難しい(3)だから恐らく、禁煙はやめるだろう▼禁煙は続ける、しかし禁煙は難しい、と同時にいわれたら、一体どっちなんだと問いつめたくなる。防衛費1%枠についての答弁もややこれに似ている。言葉の調子では、重点は1%枠堅持よりも、歯止めはずしにあるらしい▼戦後の歴代首相の再軍備に対する態度には迂回(うかい)派と直進派の二つの流れがあると分析する人がいる。吉田・池田・大平の各氏は前者で、経済優先主義をとる。九年前、防衛庁の「1%前後」論を抑えて、蔵相だった大平氏は「1%以内」を主張した。後者の直進派は鳩山氏や岸氏で、改憲を訴え、国防意識の向上を説く。中曽根氏は直進派の流れをうけつぐ首相、といっていいだろう▼答弁の中で、首相は各国軍事費のGNP比の数字をあげた。日本の1%に対して、フランス、西独など北大西洋条約機構(NATO)諸国は3〜4%だとのべた。だが、この比較はどうだろう▼NATO諸国や米国の国防費には軍人恩給費が計上されているという。だから、国際比較をするばあいは、日本も軍人恩給費約一兆六千億円を防衛費に上積みする必要があるだろう。上積みすれば約四兆七千億円になり、GNP比を計算すると、1.5%である▼つまりNATO流にいえば、日本の防衛費はとっくに1%の枠を超え、1.5%にもなっているのだ。国際比較をするばあいは1.5%のほうを使うのが筋だろう▼鈴木内閣時代の大蔵省には「GNP比で防衛費をきめるなら、経済大国は必ず軍事大国にならなければならず、国是にそぐわない」という考え方があった。日本が仮に防衛費をGNP比3%にふやせば、ソ連、米国、中国につぐ世界四位の軍事大国になる、ということを常に考えておきたい。 朝日社会福祉賞 【’85.1.31 朝刊 1頁 (全851字)】  三十二年前、重原勇治さんは、喉頭(こうとう)がんの手術をして声帯を失った。五十三歳の時である。手術は成功したが、声がでなくなった。妻を呼んだつもりでも声にならない。一時は、自分が経営していた薬品会社の社長の座を退いた▼だが声帯がなくても、人間は執念で声をしぼりだすことができるのではないか。重原さんの「食道発声法」との辛苦に満ちたつきあいがはじまる。主治医のすすめもあって会をつくった。雄弁は銀の願いをこめて「銀鈴会」と名づけた▼手さぐりの訓練だった。食道の中に空気をのみこむ。それを吐きだすことで、ゲップのようなゲーという原音をだす。原音がうまくだせれば、アイウエオ、ありがとう、という発声練習になる▼といってしまえば簡単だが、発声には過酷な訓練が強いられる。顔を真っ赤にし、のどをふりしぼるようにするが、シューシューと空気を吐きだすだけの日が続く。重原さんは夜ふけ、妻の菊子さんと一緒に、自宅に近い公園へ行って練習をした。菊子さんも、乳がんで左乳房を切りとって、がんを克服した人だった▼「父の日や源流を唄ふ食道声」。銀鈴会の山田次郎さんの句だ(源流は黒田節の源にあたる歌とか)。わずか二十人で出発した銀鈴会はいま、二千三百人の会員をもつ。八十五歳の重原さんは、週三回の発声教室の指導にあたり、声帯を失った人びとに声と勇気を与えている▼今年度の朝日社会福祉賞はこの重原さんと、重症心身障害児の療育に力をつくしている岡崎英彦さん(びわこ学園理事長)に贈られた▼戦時中、軍医として中国の野戦病院で働いた岡崎さんは、若い命の死亡診断書を何百枚も書き、「自分は一体、何をしたのか」と復員船の中で考えたという。戦後は、障害をもつ子の医療に打ちこむ厳しい道を選んだ。「一日生きたら一日もうけという考えで、生き難い人生を生きぬいてきた」。賞の贈呈式の席で、そう語った。 春を待つ花 【’85.2.1 朝刊 1頁 (全854字)】  東京では、もうオオイヌノフグリが咲いている。いつごろから咲き始めたのかは知らないが、竹やぶの南側の日だまりに、はうように茎をのばして咲いている。ベージュ色の中の青いしずくだ▼石ころや枯れ葉に身を寄せるようにして咲いているのもある。咲いてはみたが、冷たい風に身をさらしてふるえているのもある。半開きのまま迷っている、という風情のもある。ヒメオドリコソウも、葉と葉の間に紅の花をのぞかせている。あつぼったいビロードの葉は、日の光をいっぱいに吸いこんでいて、触ると温かい▼盛春の花、夏の花、秋の花とは違って、春を待つ今ごろの季節の花にであうときには、一味違ったよろこびがある。酷寒に耐えて咲く小さな花に再生の願いを託するためか。死霊を退ける生命力をそこにみるためか▼「二月の畑に出て/こちこちの凍土を耕やす/しびれかじんだ手で/固い土塊(つちくれ)を砕く/やがて/かたくななかなしみが/春の暖かい水にほぐされて溶け/新らしい芽が/この胸に再生(よみが)える日を願いながら」。『島の四季・志樹逸馬詩集』にでてくる詩だ▼志樹さんは、ハンセン病患者だった。昭和五年、少年のころに入院し、やがて長島愛生園に移って、養鶏や畑の仕事を続け、四十二歳で闘病の歴史を閉じた▼「にじみ出る汗の匂いがなつかしく/私は懸命に鍬をふった/死んで/どこの土になろうとも/またそこから芽生えるであろう/生命というもの/もう一人の私が停っている地上を思う」▼指がしびれて曲がり、いつかペンをもてなくなってしまうという不安にかられ、病み衰えながら神に祈った。残された一巻の詩集には、凍土の芽、凍土の花のもつきよらかさがある▼五輪、十輪と早咲きの白梅がほころびはじめた。「探梅」を冬の季語とした先達の季節感に敬意を表したい。梅の香を探すこころは、冬の凍土からのびてくる野草の生命力を探すこころと重なる。 田中六助さん 【’85.2.2 朝刊 1頁 (全839字)】  石川達三さんの小説の題名はよく流行語になった。たとえば『望みなきに非ず』『四十八歳の抵抗』『人間の壁』、社会派小説がそれだけの力をもっていた時代だった▼中野好夫さんは、石川さんのものの考え方が自分に似ていると前置きをしたうえで「野暮で垢抜けせず、負け犬びいきの正義感のようなものはいくつになっても脱けきれない」と評している▼負け犬びいきの正義派の目は、大物政治家の汚職に向けられて『金環蝕』を書かせた。書き終えたあと、石川さんは自分で「あと味の悪い小説だった」と書いた。政界の上層部が権勢欲のために血税を乱費するさま、しかも一つの疑獄が人びとに知られぬままやみに消えてゆくさまを描きつつ、その実情に「あと味の悪さ」を覚えたのだろう▼政治への不信をいい続けた石川さんが亡くなった日、政権党の中枢にあった田中六助さんも亡くなった。代表質問のとき白内障で演説の原稿が読めず、しどろもどろの失態を演じたが、翌年は質問内容を暗記してすらすらとやった。政治家の執念に感じ入ったことがある▼その著『保守本流の直言』には、宅配便のトラックで田中角栄邸に潜入した裏話などがあって興味深いが、中曽根政権が誕生したとき首相に憲法前文のコピーを手渡したという話ははじめて知った。「改憲論者と言われていた中曽根さんに、憲法の精神を再認識してもらいたいと思った」とある▼戦時中、特攻隊の教官としてたくさんの若者を死なせた。そのことを政治家の原点にしていた。靖国神社に個人としては参拝するが、閣僚が集団で参拝することには反対した▼閥務に励みカネの面で泥をかぶることもあったろう。長期政権が「腐敗の構造へ進む」ことをはだで知っていたからだろう。野党との政権交代が腐敗を少なくする、とも説いていた。六さん、とファーストネームで呼ばれる個性的な政治家がまた一人消えた。 「幼い難民を考える会」 【’85.2.3 朝刊 1頁 (全853字)】  ある母親が五百万円を『幼い難民を考える会=CYR』(東京都渋谷区広尾四ノ三ノ一)に寄せた。匿名ではあるが、会の人の話によると、生後四カ月のお子さんが事故で死んだときの補償金だという▼五百万円といえば大金である。若い夫妻は、短命だった子の鎮魂のために、長い時間をかけて一番有効に使える道を相談したらしい。その結果、インドのすぐれた教育家スワミナタン夫人に「アジアではあまり例をみないすばらしい教育の実践」と評価されているCYRを選んだ。このお金には赤ちゃんの切なる望みが託されている▼『幼い難民を考える会』は今月で、満五周年を迎える。死や飢えや熱病に直面していたカンボジア難民のキャンプにあって、幼い子どもたちの保育を考える、幼児を心の傷から守る、ということはなかなか思いつかない。幼児教育の専門家や保母たちの鋭い発想だった▼治安の悪い熱帯の宿舎に住みこんでボランティア活動をはじめるのは大変な決意のいることだが、もっと大変なのは、その情熱を三年、五年と持続させることだ。会を支える女性たちはその大変なことを、肩ひじはることなく、陽気に、さりげない様子で続けている▼CYRがキャンプに建てた「希望の家」には六百人の子が通っている。父母のための織物部屋もある。木工の部屋からは独創的なおもちゃが次々に生まれている▼成功の一番の理由は、お仕着せの援助ではなく、難民の自立を手助けするという心配りを貫いていることだろう。わきまえを知る心が、現地の活動家に行きわたっている▼保育の場にはスワミナタン夫人を驚かせた新鮮な教育実践があるが、中心になるのは難民の中から選ばれた保母や保父で、日本の女性たちは、施設を作る、教材を作る、という縁の下の力持ち的な仕事に徹している▼この五年間、CYRへの寄金と会費は九千万円を超えた。前線と支援活動の結びつきがなければ会の持続はない。 ぼくは死にたくなんかない! 【’85.2.4 朝刊 1頁 (全835字)】  テレビ局のスタジオに、一人の少年が入ってくる。番組を放映中のスタッフが、一瞬あっけにとられている間にカメラの前に立った少年は、こう呼びかける▼「ぼくは死にたくなんかない! ぼくたち子どもは、みんな生きていたいんだ!  大人たちだって生きていたいんだ! あと十五分しか命のない病人だって、お年寄りだって生きていたいんだ! バカな人たちに、ぼくたちの地球をめちゃめちゃにさせないで」。少年のほおを伝わって、二粒の涙がこぼれ落ちる▼英国の物理学者バーナード・ベンソン氏の書いた『平和の本』のハイライト・シーンである。世界中が、テレビを通してこの二粒の涙を見たことから、人類はついに軍備廃絶に向かって立ち上がる、という物語。子ども用の絵本の体裁をとってはいるが、大人が読んでも胸をゆさぶられるような迫力がある▼四年前、フランスで出版されて大反響を呼び、政治色と無縁の市民による「平和の本」友の会の組織が続々と生まれた。二十カ国で翻訳が進められ、日本でも昨年暮れに訳書が出た。やはり感動して「自分たちも何かしたい」という人たちの輪が、広がり始めている▼例えば、この本をもとにしたミュージカル・ドラマを自分たちで作り、全国を上演して回ろうという若い人たちの計画がある。この十年、障害者たちの詩に曲をつけて演奏会を続けてきた「わたぼうしコンサート」の青年たちを中心に、いま脚本や歌詞の競作が始まっている▼奈良にある事務局(0742―43―7055)では、歌や楽器の好きな全国の若者に参加を呼びかけており、できるだけたくさんのチームを結成してもらって、三月から各地で公演活動にはいりたいとしている▼「参加・開発・平和」をテーマにした「国際青年年」の今年に、ふさわしい企ての一つといえるだろう。どんな日本の若者の歌が聴けるか、楽しみに待ちたい。 北の国ではまだ… 【’85.2.5 朝刊 1頁 (全838字)】  きのうは立春だった。ここ数日の本紙の各地方版を読むと、さすがに春の便りがめだつ。梅の便りがある。川の土手にフキノトウが顔をのぞかせたという便りがある。四国ではヒカンザクラが咲きはじめたそうだし、大阪の岸和田市では満開の菜の花がみられるという▼「太陽を恋ひ豪雪の底に棲む」(渡部余令子)。北の国ではまだ、雪が深い。新潟県の上越市には「戦後最高」といわれる積雪があったばかりだし、北海道版には「雪の下敷き20分後救出・屋根の雪下ろし中」「酔って寝込み凍死」といった見出しが並んでいる▼今冬いままでの雪による死者は、新潟県が三十九人、北海道七人、富山五人などで全体では六十人を超えている。新潟のばあいは、屋根で雪おろし中に転落した人が十六人、除雪作業中、屋根雪が落ちて下敷きになった人が十二人、除雪作業中、側溝や用水に転落した人が六人である。「事ここに至り死闘の雪おろし」(末定三和子)▼長岡市内のある外科病院には、除雪中の事故のほか、むりに重い雪をもち、足腰の痛みを訴える人が日に二、三十人訪れたという。出稼ぎにでる男衆が多い村では、雪おろしの負担は女性や年寄りにのしかかってくる▼雪おろし災害を減らすためにはさまざまな試行錯誤が繰り返されている。たとえば、屋根の雪をヒーターで暖めて溶かす方式がある。石川県の白峰村では、スクリューのようなものを軒先につけ、雪を自動的に流雪溝へ流す仕組みと取り組んでいる人がいて、村も後押しをしている▼秋田県の横手市には、屋根の傾斜を急にしたモデル住宅を設計した人がいる。なるほど雪はたしかにきれいに落ちるが、雪を落とすためには建ぺい率を30%以下にしなければならず、いっこうに普及しないという話もきいた。特効薬をみつけるのはなかなか難しい▼上越の人の句に。「雪国を捨てず雪解けある限り」(饒村楓石) オカルティズム 【’85.2.6 朝刊 1頁 (全846字)】  要人の警護を担当する警視庁のSPは、ひとりひとり、ある神社のお守りを胸の内ポケットにもっているという。検察庁は、大きな事件の容疑者逮捕のときはたいてい仏滅の日を避けるそうだし、亡くなった自民党の田中六助氏は、目白の田中邸へ行くことを「おみくじをひきに行く」といっていた▼合格祈願の絵馬がはやり、新・新宗教といわれる生き神様がはやり、星占いがはやり、街にはコンピューターと星占いを結びつけた店が現れる。今年の初もうでの人出は約八千百七十五万人にもなったと警察庁は推定する。えっまさか、といいたいほどの数字である▼オカルト。神秘的なこと、超自然現象をいう。通常の経験や科学では認められない隠れた力を信ずるのが、オカルティズムだという。そのオカルティズムがはやっている▼TBSの『調査情報』2月号の「マーケティングスコープ拡大版」によると、生活意識に関連することの嗜好(しこう)調査では、オカルトにかかわるものがめだった▼たとえば予言・心霊現象・超能力を信ずる心、占いへの関心、つき・運・お守り・まじないを信ずる心、などである。七年前と比べると、心霊現象を信ずる人が16%から20%に、UFO・宇宙人を信ずる人が28%から33%にふえている。なるほど三人に一人がUFO・宇宙人を信ずる時代なのかと思う▼オカルト信仰は、遊び心のまじったファッションでもあり、世紀末化の進行でもあるだろう。生き神様がはやるのは、命令されたがっている人がふえたことと関係があるのかもしれない。点数制管理主義が行きわたって来た世の中では、脱出の一つの手段がオカルティズムなのかもしれない。確実性の希薄な時代にあっては、人びとは断言的な予言を求めたがるのか▼核軍縮のために努力するという発言を信じない人も、いつかこの地球に核の冬が来るだろうという予言は、信じたくはないが信ずる。 米艦船の寄港拒否したNZ 【’85.2.7 朝刊 1頁 (全841字)】  ニュージーランド(NZ)のロンギ首相は野にあったころ、熱心にこう説いていたという。「ニュージーランド人にはニュージーランド人としての独自の生活様式があるはずであり、外国の影響を受け、外国の流行にならった生活をするための経済成長ならば、そのような経済成長は不必要だろう」▼みせかけの繁栄にからむ心の貧しさよりも、むしろ魂の静謐(せいひつ)を大切にする、という考え方だろうか。地引嘉博さんはその著『現代ニュージーランド』で、ロンギ氏のことばにふれる一方、この国が生んだ天才的な短編作家キャサリン・マンスフィールドの純な魂についても書いている▼代表作『園遊会』で描かれたように、少女キャサリンは、新興国の屋台を支える金持ちの大邸宅に集う人びとの愚かさと空虚を見ぬいていた。そして一見、みすぼらしい家に住む一家にこそ、静けさと幸いがあることに気づいていた、と。マンスフィールド風の感受性は、ロンギ氏にも流れているのかもしれない▼親米・親西欧路線をとるロンギ首相が「核を積む能力のある艦船の寄港拒否」をきめたことの背景には「外国の影響を排す」という強烈な思いがあるのではないか▼反核の世論も強い。核積載艦の入港反対が58%、賛成は30%という世論調査もある。しかも与党の労働党は「南太平洋を非核地帯にする」構想に積極的で、「太平洋を核の兵器庫にするな」と主張し続けてきた▼米国には、米豪NZ三国の安全保障条約を破棄してNZを孤立させよ、という意見もあるようだが、そういう強硬論を推し進めてはかえって両国の関係はこじれてしまう▼農業と牧畜の国ニュージーランドは、農作物や家畜に伝染病がうつらないように空港で目を光らせる。釣り人は、一カ月前に毛針を送って消毒を受ける、という話もきいた。外からくる危険なものに厳しい目を向ける風潮が伝統的にあるらしい。 創政会旗揚げ 【’85.2.8 朝刊 1頁 (全852字)】  やみ将軍独白=天は党の中に党を造らず、派の中に派を造らずと言えり。されば派内に派を造りて鉄の結束を破るは天下のことわりに背くこと甚だ明らかなり。メジロは竹の下を飛ばず、これまた天の定めたる約束なり▼ざれ歌にいわく「五十、六十花ならつぼみ、七十、八十働き盛り」と。つぼみは分限を知ること肝要なり。隠忍自重、黙々とカゴをかき、わらじを作るスピリットこそ維持すべきなり。みだりに徒党を結ぶは恥を知らざるとや言わん、角の傘を恐れずとや言わん。およそ世の中に派中派ほど憎むべきものはあらず▼熟柿を待ち続けた人の独白=天は党の中に党を造らず、派の中に派を造らずと言えり。されば派より派を生ずるには、万事が万事、みな隠密潜行を旨として署名を集め、おもてむきは学問のすすめを説く手法こそ肝要なり。力を以ておやじに敵対するはもとより一人のよくするところにあらず。必ず徒党を結ばざるべからず▼竹下ズンドコ節にいわく「講和の調印吉田で暮れて/日ソ協定鳩山さんで/今じゃ角さんで列島改造/十年たったら竹下さん/トコズンドコズンドコ」と。立てと言えば立ち舞えと言えば舞い、その柔順なること飼いたる犬の如く、ただ腰を屈するのみの歳月は終われり▼東に他派閥新指導者の浮上ありて西に二階堂ポスト中曽根説あり、南に金丸急浮上ありて北に田中派膨張戦略のほころびあり。「ノドモトデグットコラエテ棒ヲノム」竹下も、今この時機に決起せざれば愚人なりとの声あり。これすなわち旗揚げの急務なる訳なり▼おやじの専制抑圧の風を破るべきか。いわく、しかり。世代交代は求むべきものか。いわく、しかり。つとめてこれを求めざるべからず。ただこれを求めるにあたりては、おやじの習癖に学び、軍資金なる実弾の働きをもって人望をおさむること緊要なり▼七日、創政会という名の「さわやか勉強会」には田中派四十人の議員が集まった。 金大中氏の帰国 【’85.2.9 朝刊 1頁 (全839字)】  金大中氏が帰国したときの金浦空港の表情は、重苦しいものだった。約七千人の警官、軍人が空港の内外をかため、デモ隊と衝突した▼金氏はワシントンでは「空港に五万人ぐらいは来てくれるだろう」といっていたそうだが、出迎えの人に手を振る機会もなく、帰国声明を読みあげることもなく、警備陣と共に空港を去った▼「アメリカでは、故国で苦しむあなた方と一緒にいられなかったことで幸せとはいえなかった」。読みあげられるはずの帰国声明にはそうあった。「来るというたがまことであれば/海の距(へだ)てがなぜ越せぬ」(朝鮮民謡選より)。帰国を待つ人びとにこたえるためには、総選挙の投票前に祖国の土を踏まねばならなかったのだろう▼今回の帰国は、米政府、韓国政府、金大中氏の三者の取引の結果だといわれている。「取引」といえば、韓国の場末の市場で「客と商人のあいだにかわされる売り買いの呼吸は、なにかしら芸術的な雰囲気さえただよわせている」という田中明さんの一文(『ソウル実感録』)を思い出す。今回の取引上手はだれだったのだろう▼最初、韓国政府は「金大中氏が帰国すれば収監する」と言明していた。金氏は「投獄は覚悟の上」と帰国の決意を変えなかった。やがて、全大統領が選挙後に訪米することがきまると、金氏収監説が消えた▼アメリカ国内には、韓国の民主化を望む声がある。それに押されて、米政府は収監説に圧力をかけたのか。そのあたりをにらんでの金氏のかけひきがあったのか。全大統領もまた、なんらかの「実」を得たのか▼ワシントン・ポスト紙は社説で「韓国政府も反体制派も、なにかというと、米国の支援とテコ入れを要求してくるのは、韓国の政治の弱さを示す証拠だ」と論じている。なるほど、アメリカ側からみればそうかもしれない。だがそこには同時に、取引上手のしたたかさ、という一面がある。 チョコレート 【’85.2.10 朝刊 1頁 (全841字)】  フランスではショコラ、ドイツではショコラーデ、アメリカではチョコレート、日本では昔、長康霊糖、猪口令糖などの当て字を使っていた▼一八七三年(明治六年)、欧米視察中の岩倉具視一行はフランスのショコラ工場を訪れ、「この菓子は人の血液に滋養を与え、精神を補う効あり」という記録を残している▼作家菊池寛は「よきチョコレートの中には恋の味、文芸の味、その他いろいろ味がある」という広告文を書いている。「精神を補う効」とか「恋の味」とかが強調されている点が、いかにもチョコレートらしい。バレンタインデー向きの商品になる下地は十分にあった▼山の遭難者がチョコレートで生きのびた、という話をよくきく。屋久島の山中で道に迷い、十七日間もさまよったあげく救出された二十二歳の女性がいた。彼女はチョコレートをもっていて、それを少しずつ食べては小川の水を飲み、生きのびることができたという▼少しずつ少しずつ大人になってゆく中学生の少女の日々のできごとを描いた立原えりかさんの『海をわたるチョコレート』にこんな描写がある▼「わたしは音楽室の中に入って、ピアノのそばへ進んで行った。チョコレートを持った手をうしろにかくして、どぎまぎしながら。Sさんは気づいて、ふりむいて言ったの。なに?って。わたしは、どうしたと思う? たちまちとびあがって、『なんでもありません』と言って、にげだしてしまったの。愛の告白のチョコレートをにぎりしめたまま」。――長い一生の間にはいろんなバレンタインデーがある▼森永製菓は八日、昨秋解雇したパート従業員を再雇用して、通常販売をめざすと発表した。最近は、ひごろのお礼がわりの義理チョコ、気くばりチョコがはやっているが、今年は、かい人21面相のしつこさに反発しての反発チョコ、パート従業員を支援する支援チョコなどが盛んになるかもしれない。 「くに」と「国家」 【’85.2.11 朝刊 1頁 (全852字)】  「国家」と書く場合と、ひらがなで「くに」と書く場合とでは、ずいぶん違った感じがある。三好達治に『涙』という詩がある▼小さきものの涙が父の手にこぼれて落ちる。「それは父の手を濡らし/それは父の心を濡らす/それは遠い国からの/それは遠い海からの/それはこのあはれな父の その父の/そのまた父の まぼろしの故郷からの/鳥の歌と花の匂ひと青空と/はるかにつづいた山川との/――風のたより/なつかしい季節のたより」▼ここにある世界はまさに、ひらがなのくにである。縄文の世の照葉樹林であり、ブナの森や母なる川である。くにの語源については諸説があるが、クは木、ニは野、つまり木の茂った野という説はおもしろい▼山や野の一つの自然のまとまりやその中での暮らしこそ、私たちの故郷であり、くにだった。くにを愛する、とひらがなでいう時のくには「木の茂った山野」であり、そこに生きるはらからたちだ▼今、そのくにが危機にある。中央集権とか国民経済のひろがりとか都市化の波とかによって、くにの緑、くにの個性、くにの言葉が急速に失われつつある。懐の深い、土台のしっかりした日本をめざすのに必要なのは、国家的統合の強化よりもむしろ、くにの主張、地域主義の主張ではなかろうか▼建国記念の日の式典に中曽根首相が出席する。首相出席は初めてのことであり、奉祝式典派にとっては「突破口が開かれた」思いだろう▼十九年前に建国記念の日が誕生する時、当時の佐藤首相は「世論の対立を避けるよう円満に運用したい」といった。記念日審議会委員の大宅壮一氏は「時期尚早」といい、舟橋聖一氏は「政府の行事にしないこと」を条件に二月十一日に賛成している▼政府はしばらくは民間行事の後援をはばかっていたが、次第に深入りしてきた。政府主催的、神道的色彩はこれからじわじわと強まってゆくことだろう。くにの危機が論じられぬままに。 木や花の教え 【’85.2.13 朝刊 1頁 (全852字)】  二月の十日を過ぎるころになると黄梅が咲きはじめる。温かみのある鮮やかな黄の花だ。福寿草も花を開く。去年とはややずれた意外な場所に姿をのぞかせることがある。つやをおびた硬質な黄金色である▼「春は空から、さうして土からかすかに動く」といったのは長塚節だが、黒ぐろとした大地をよくみると、ヒトリシズカの芽がほんの数ミリほどあずき色の頭をもたげている▼マンサクの花もいまが盛りだ。福寿草や黄梅の明るい黄とは違って、ひかえめな、沈んだ黄色である。小さな細ひものような花びらが、くの字形に曲がったり、先っちょに輪を作ったりして宙に乱舞している。がくやめしべの紅がまじるせいか、遠くからみると、かげりがある。早春の気難しさとみずみずしさをあわせもったような花だ▼マンサクという名は、まず咲く、からきたという説もあるし、この花が枝に満ちるさまを豊年満作にたとえたという説もある。乱舞する花びらは、春を告げる樹霊の踊りにもみえるし、豊年祭りの踊りにもみえる▼物理学者の朝永振一郎さんは、自然とのつきあい方の上手な人だった。ドイツ留学中、孤独に苦しんでいたある日、郊外の麦畑のそばを歩いていて、突然、堆肥(たいひ)のにおいに包まれる。そしてふるさとのあれこれを思い出す▼「このときこの思い出は不思議な安らぎを心にもたらし、よいではないか、一人ぼっちでも何でも、それをあるがままに受容すれば、それでよいではないか、と何ものかにささやかれているような気分が起ってきた」と朝永さんは書いている▼菜根譚に「天地もと寛にして、而して鄙(いや)しき者みずから隘(せま)しとす」という言葉がある。朝永さんは堆肥のにおいからふるさとの鳥や花を思い、限りなく広い天地の中にありながら心をせせこましくしている自分の姿をみたのだろう。木や花の姿は、心せわしき私たちに常に無言の教えを語りかけてくれる。 「はたらき優先」の文化 【’85.2.14 朝刊 1頁 (全840字)】  作家の三浦朱門さんが文化庁の長官になる。文化人の文化庁長官が文化部長と文化普及の相談をするといった光景がみられるわけだが、さて、文化とは何ぞやとなるとこれはかなりあいまいである▼そういう意味で、雑誌『図書』で去年読んだ宮内豊さんの「Cultureの行方」はきわめて啓発的だった。文化という言葉から、いちじるしくはたらきの意味合いがうせた事実を、宮内さんは指摘する。文化とはもともと土地を耕したり栽培したりの意味で、はたらきを基本とした概念である。だが昨今の日本の文化は、はたらきよりもものを主として表象されている、というのだ▼たとえば昔は、みそは自分たちで造った。個性や誇りをにじませたみそを造るはたらきが文化であり、その文化が手前みそという言葉を生んだ。しかし今は「自家製みそ」という名の大量生産品がさまざまな装いをこらして店頭に並ぶ。ものの豊かさが文化であると思われるようになった。みそに限った話ではない▼私たちの日常生活では、はたらき優先の美意識が失われてきた。昔は、ふだん着につぎが当たっているのは恥ではなかった。きちんと繕ってあるか否かが大切だった。使い古して捨てるタビでも、ていねいに洗い、丹念に繕ってから捨てる女性がいた。それはその人自身の誇りであり、美意識だった▼三浦さんは、幼いころ武蔵国分寺跡近くへ遊びに行って、古代の布目瓦(ぬのめがわら)の破片を拾い、まくら元にそれを飾って眠ったという。瓦を作るはたらきが文化であることをはだで知っているはずだ▼東南アジアに関する本を書いた時、「こわいもの知らずの無謀さのみが、こういう本を書く力になる」といっている。その勢いで、文化庁の中の「文化」を洗い直してもらいたい。とくに明治生まれのお年寄りたちの「はたらき優先の美意識」を受けつぐ方策を考えること、これも大切なことだ。 労働時間の長い日本人 【’85.2.15 朝刊 1頁 (全846字)】  「骨身を惜しまず仕事をはげみ/夜なべすまして手習い読書」というのは二宮金次郎である。「朝寝朝酒朝湯が大好きで/それで身上つぶした」のは小原庄助さんである。私たちの中には、金次郎も庄助さんもすみついていて、時々、格闘をする。庄助型がふえたとはいえ、今なお主流は金次郎型だろう▼84年版の『海外労働白書』(労働省)によると、日本人はやはり働きものということになっている。週42時間以上の労働者が日本ではまだ四割近くもおり、中小企業労働者のつらさを示しているが、西独やアメリカは1%以下、英国は3.6%、仏が6.5%と、日本よりもはるかに少ない▼白書は、世界経済がやや回復をみせている中で、いぜんとして失業問題の厳しい国が多いことを指摘する。各国とも若年層の失業に苦しんでいる。賃金が伸び悩み、争議は減る傾向にあり、欧米を中心に、雇用増につながる労働時間の短縮が進んでいる▼経済が国際化し、わが国のGNP(国民総生産)が世界の一割以上をしめるようになったいま、こうした地球上の労働情勢に目配りをしないわけにはいかない▼国内だけの数字をみると、失業率は高いし、実質賃金は伸びていない。悩みは深いが、国際比較をすると、わが国は「まずまずの優等生」ということになる▼そこで批判の目は、欧米よりも一、二割は長い年間の実労働時間に向けられる。二宮金次郎はお手本にされるどころか、時には非難の対象になるのだ。庄助さんを目標にすれば身上がつぶれてしまうが、金次郎型から庄助型へやや重心を移すことが必要なのだろうか▼それがなかなかむつかしいのは、時間管理が厳しくないかわりに、四六時中会社人間でいるという働き方にも問題があるからだ。昔話の中のものぐさ太郎は、ごろごろ寝てばかりいたが、突然、才知を示して出世するのである。創造的な才覚は、休養の中から生まれることがある。 ヒゲソリ名人 【’85.2.16 朝刊 1頁 (全849字)】  亡くなった国分一太郎さんに「ヒゲソリメイズン」という一文がある(『ずうずうぺんぺん』)。荒ヒゲソリの名人といわれた床屋の父親のことを書いたものだ。父をいたむ文章で、これほどあたたかな、敬慕の念に満ちた名文には、そうめったにお目にかかれない▼父親、藤太郎は十歳前後で床屋に弟子入りをし、腕をみがいた。「クリのいがのように荒いひげでも、モモの皮をむくようにスウスウと剃った」そうだし、「剃刀(かみそり)とぎのため、父の左手の人さし指は、まるで骨のない指のように湾曲していた」という▼ヒゲソリの名人はまた、よき師だった。ひまさえあれば剃刀をとぐ。客が帰ったあとでも夜遅くまでとぐ。といでは自分のひげにちょっとあててみる父の「いいようのないまじめな色」に、少年は感嘆した。とぐことは、藤太郎の命であり、その誇りやかな行為は少年への無言の教えだった▼後年、教育者になった国分さんは、動詞を大切にした。その著『しなやかさというたからもの』の中に、こう書いている。子どもは「土や石や水や草木や動物どもとぶつかりながら、ねじる、ひねる、のばす、折る、まげる、ひっぱる、ちぎる、たたく、投げる、ひろう、こういうためしをどんどんしなければならぬ」と▼若い教師に対してもこういった。「君、人の子の師であれば、一日じゅう声をあげ、体を動かし、頭をつかい、表情を豊かにし、身ぶりやしぐさに気をつけつつ、仕事をしなければならない」。父親が「とぐ」という動詞にすべてを表現したように、国分さんは抽象的なお説教をきらい、短い動詞の中に凝縮した思いを託す人だった▼父親は、愛用していた一本の小刀をのこした。とぎすまされた小刀の裏刃のところに父の親指のあとがくっきりとついていた。親指のあたる部分の鉄が、目でもわかるほどに深くへこんでいたという。この話はなぜか私たちを厳粛な思いにさせる。 新国技館で「第九」 【’85.2.17 朝刊 1頁 (全841字)】  東京の下町、墨田区は今、ダイクでなければ夜も日も明けぬお祭り気分だ▼ダイクとは何か。「なんでもドイツ語の歌だってさ」と口々に伝わって、そのドイツ語の大合唱のために、きょう、五千人のしろうと集団(すみだ第九を歌う会)が両国の新国技館に集まる。猛練習を重ねてきた下町っ子の心意気を、歓喜の声を、大鉄傘に響かせる予定である▼ダイクは大工、と思いこんでいる人もいないではなかった。合唱の指導者の一人になった女性が「ダイクの手伝いをするのよ」といったら、近所の人に「そんなきれいな手をしてるのに」と同情された。税務署から事務局に「すみだ大工を歌う会」あてのはがきが舞いこんだりした▼母と子と孫、三代そろって参加する家族もいる。点字の歌詞で猛練習をした目の不自由な人たちもいる。「生きとし生ける者は歓喜を」というシラーの詩にほれこんだ八十四歳の老人もいる。四歳の参加者もいる▼向島の芸者衆三十五人も参加している。口をタテに大きくあける発声法は苦手だといっていた彼女たちも、毎朝テープで勉強を続けた。ここ八、九カ月は合唱練習の会にも通った▼本番直前の国技館での練習をきいた。「演芸会じゃないんだ」「決定的に悪い」指揮者石丸寛さんの厳しい声が飛ぶが、しろうとの耳にはなかなかのできばえにきこえた。なんといっても、幅八十五メートルの超大型合唱団の迫力がある▼国技館を建てた鹿島建設は、コンピューターで音の流れをみる方式を駆使して、この大空間の音響設計をした。天井や壁の吸音装置の効果か、切れ味のいい声がきこえてくる。鉄傘下の大合唱は、繰り返されればきっと新下町名物になるだろう▼薬剤師、消防士、会計士、酒屋、大工、看護婦、主婦、銀行員、そして老壮若、第九のとりもつ縁はさまざまな人を結びつけた。「最後の思い出に」といって練習に参加し続けたがん患者もいる。 「いじめ」 【’85.2.18 朝刊 1頁 写図有 (全854字)】  「いじめ」について、読者の体験や意見を朝日新聞社(大阪)が募った。たちまち、こども、教師、親たちからの投書が数百通、集まった。何人かの子は、いじめられて刃物を手にしたと書いていた。刃物を自分に、あるいはいじめっ子に向けようとしている子が、この社会に多い▼目立った傾向は、一人の子を集団的につまはじきする例が少なくないことだ。「バイキン」などと、皆でののしることもある。「本当は一人でいたくないのだけれど、人がいやがるのだったら、一人でもいい」。小学校からいじめられ続けている女高生は、こう書いている▼もう一つの傾向は、身体障害児や親のない子ら、弱い立場のこどもに対する攻撃が広がっていることである。「父親がいないから、貧乏だから、仲間はずれ、いじめの対象になる」と、小学生の娘をもつ母親は訴えた。別の投稿者は「のろま」「ぐず」などと冷笑されている子を見ながら、「みんな、こんな子と遊んだらうつるよ」と、いじめに加わった先生の話を書いた▼せめてもの救いは、敢然といじめに立ち向かっている子や教師がいることだ。奈良県の小学校教師は、クラスのいじめを根絶した。こどもの作文に、こうある。「とにかく学級がまとまっている。先生がガキ大将なのだ。そのガキ大将をみんなでやっつけようとしているところ」▼昔懐かしい、義侠(ぎきょう)心に富んだ町内のガキ大将も、まだ健在である。小学生の長男が同級生にいじめられているのを心配して、ある親が近所の上級生に相談した。「よっしゃ、引きうけた」と、その子はいい、いじめっ子に「あの子を殴ったら、わしが許さん」と宣言した。いじめは、ぴたりやんだ▼この投書の山の整理を、今春教師になる女性が手伝ってくれた。その女性が不意に泣き出した。「たくさんの子が苦しんでいる。この子たちを、私が助けられるだろうか」。そんな激しい不安に襲われたのだという。 東京大空襲展 【’85.2.19 朝刊 1頁 (全844字)】  東京の日本橋東急で『あれから四十年、東京大空襲展』をみた。あのころの防火用水おけの実物がある。用水おけの周りに折り重なって倒れている黒い死体の写真がある。路上に倒れた黒こげの母と子がいる▼やせ細ったライオンのはく製もあった。空襲に備えて殺された上野動物園のライオンである。絶食させたのちに毒殺をはかったが、苦しみが激しく、心臓をヤリで刺して命を絶ったという▼消火用の砂弾、とび口、火たたきの実物もある。そんなものがなんの役にもたたぬうちに、三月十日、東京では約十万の人が死に、約三百万人が罹災(りさい)した▼一口に、十万人という。だが、いま火災による死者は全国で約二千人である。三月十日の一日だけで、東京だけで、平時の五十年間分の人びとの命が奪われた、ということになるのだ▼この空襲展には、アメリカの国立公文書館提供の貴重な資料が並んでいるが、ここで取材を続けた記者によると、担当者は新資料探しにきわめて協力的だったという。「空襲展の企画に敬意を表する。私たちは戦時中のことをもっと若い人たちに伝えなければいけない」といって、大車輪で手伝ってくれた▼米軍の空襲による惨事であっても、事実を隠さず、正確な資料を明らかにすることで、戦争というものを問い直す。そういう公正な態度にあふれていたという話をきき、あらためてアメリカという国の懐の深さを思った▼公文書館には日本空襲に関するおびただしい量の報告書が集まっているという。そこには、歴史を記録にとどめるという熱意と、その情報を公開して役立たせようという熱意がある▼いまも時々、東京・墨田区の工事現場から、戦災者の遺骨が掘りだされることがある。遺骨の一片一片は、私たちに過去に学ぶことの大切さを訴えている。公文書館の入り口には「STUDY THE PAST」(過去に学べ)という文字があるそうだ。 中曽根流答弁 【’85.2.20 朝刊 1頁 (全845字)】  中曽根首相の国会答弁をきいていると、落ち着かない気持ちになる。能弁である。よどみがない。だが言葉が宙で遊んでいる感じがある。騒々しい感じもある。あまりにもむだな言葉が多いからだろうか▼たとえば「六十一年度について、また(防衛費を1%)以内におさめるような努力ももちろん、これは節度あるということをいってるんでございますから、その可能性も全然否定するものではございませんが、もしそういうような、まあ1%を超えるというような、そういう恐れがあるという、そういう場合におきましては、やはり国民の皆様方にある程度の安定感をいただく必要もありますから、そのような検討をおこなうことが適当ではないか、そう思います」▼「そういう」の乱発が騒々しく響く。話をひきのばすうまさはあっても、話の中心がぼけてむだな言葉の多いのは、能弁ではあっても雄弁とはいえない。そういったのは仏文学者の故内藤濯さんだ。きりつめた言葉への熱っぽい欲求こそが雄弁を生む、と内藤さんは書いている。中曽根流答弁は雄弁とは遠い▼だが、冗舌はしばしば重大なことをぼかす働きをする。たとえば首相はいう。「(1%枠については)不確定要素がありますから今確定的に申し上げる状況ではないのです。そういう意味で、何々したいと、こちらの願望という点でご了解をいただきたい」▼1%枠は守りたい、だが守れるかどうかわからないという。一国の宰相が防衛費の枠組みを守り切る決意をしながら、それでも守り切れずに流されることがあるのだろうか。つまり、防衛費の膨張はすでに、首相のコントロールがきかない状態になっているのか▼それとも、守る、守りたいという建前論の冗舌とは別に、首相の悲願は1%枠突破にあるのか。それならそれを堂々と主張すべきだろう。そのあたりをぼかした国会答弁をきいていると、落ち着かない気持ちになる。 中野好夫さん逝く 【’85.2.21 朝刊 1頁 (全853字)】  中野好夫さんは、こわれると色紙に即興の歌を書いた。「金もいらなきゃ名もいらぬ。酒も女もいらないけれど、はげた頭に毛がほしい」▼比叡山の荒法師みたいな人相だが、破顔一笑の目に、人をひきつける力があった。本人を前にしては痛烈な憎まれ口をたたくが、いないところでは悪口をいわない、というなかなかまねのできぬ処世術を身につけていた▼大学では厳しい先生だった。「ニワトリがエサを拾うように単語を一つ一つ訳したってだめだ」「おまえ、うちの中学の娘よりでけんやないか」とどなった。学生たちは「関西弁のべらんめえ」にふるえあがった▼「あんたのおばあさんが聞いてもわかるようにちゃんと訳してくれ」という小言もあり、佐伯彰一さんはこれを「万古不易の翻訳論の名言」だといっている。この名言はまた、中野さんの文章のこつでもあったろう。沖縄のことでも、平和論でも、深い内容のものをざっくばらんな調子で表現した▼一九六〇年代以降、沖縄の問題と取り組みだして、いっそう文章が冴(さ)えてきたという評価がある。これだけはいっておきたいという気概が文章に充満して、その気概の重みでザックリと対象が切れている、と評したのは小田実さんだ▼たとえば『日米共同声明と「沖縄返還」』(一九七〇年)以降の文章は、いま読み返しても「全身の重みをかけた気概」が迫ってくる。いわゆる沖縄返還は、実は沖縄返還ではなく、沖縄の施政権返還あるいは移転にすぎない。日米共同声明には米軍基地の既得権を侵さないという意味が含まれている、と英文学者は実証的に説明する▼沖縄を思うのは同情でも感傷でもなく「私たち本土日本人の道義的責任として沖縄を考えなければならぬということに、遅まきながら気がついた」からだという。「基地の島」は変わらず、本土日本人の道義的責任の念がうせてゆく流れの中で、中野さんは世を去った。八十一歳だった。 ツタンカーメンのエンドウ 【’85.2.22 朝刊 1頁 (全843字)】  高崎市内の片岡小学校で「ツタンカーメンのエンドウ」が花を咲かせているのを、見せてもらった。いくつかの教室に、プランターに植えられたエンドウがあって、中には三メートル以上も伸びているつるがあった▼小さなチョウの形をした淡い赤紫の花が、日のふりそそぐ窓ガラスを背にして舞っている。濃いあかね色が花の中央をひきしめている。三千数百年前の花だ。さやの色が緑色ではなくて葡萄酒(ぶどうしゅ)色であるところが珍しい。日の光にすかすと血の色にみえるところがあり、「のろいの色だ」と呼ぶ子もいる▼英国の考古学者が王家の谷でツタンカーメンの墓の内部を調査したのは一九二二年である。当時、黄金の棺やまばゆい宝石などの副葬品にまじって、エンドウ豆が発見された▼この豆はその後どうなったのだろうか。高崎市で花いっぱい運動を続けている滝田吉一さんはある日、子どもたちに「ツタンカーメンのエンドウ」のその後についてたずねられた▼調べてみると、エンドウの種子は、英国からアメリカに渡り、すでに一九五六年には日本の大町武雄さん(世界友の会)の手もとにも届いていた。さらにめぐりめぐって水戸市内の各小学校で栽培されていた。滝田さんは一昨年、熱心に栽培を続けている三の丸小学校から苗をわけてもらい、高崎市に持ち帰った。そして去年収穫した種子が各小学校に配られたのである▼片岡小の子どもたちは、花当番をきめて水をやり、観察日記をつけ、花が咲き、葡萄酒色のみごとなさやが生まれるさまを見守っている。王家の谷のエンドウは、試食するとにおいも味も濃く、野性味が強いという。ゆでると葡萄酒色が消えて緑色になる、というのもおもしろい▼古代エジプトの花は子どもたちの空想の翼となって、はるかな昔を旅させてくれる。同時に、エンドウ豆の存在によって、遠い世界の話が急に身近な生活感をおびてくる。 信頼感の欠如 【’85.2.23 朝刊 1頁 (全852字)】  六年前の総選挙で自民党は単独過半数をわった。あれは大平首相が一般消費税の導入を主張したからだ、といわれているが、はたしてそうだろうか。ことはそう、単純なものではなかった▼大平首相は、選挙の最中、形勢不利とみて一般消費税の導入を断念し、そのことを明らかにしている。つまり、増税を主張し続けたあげく敗れたのではなく、途中で導入を断念したのにもかかわらず、敗れたのである▼あの選挙のいちばんの敗因は「信頼感の欠如」にあったのではないか。いまは増税を断念する。しかし選挙後はわからない。大勝すれば増税路線をとるかもしれない。そういうあいまいさを有権者は感じとっていた。どこに連れてゆかれるのかわからぬ列車に乗れるか、という不信感があった▼増税を持ち出す前に、しなければならぬことが山ほどあるのに、という不信感もあった。公費天国に対する憤りがあり、税負担の不公平に対するいらいらがあった▼六年前の話を持ち出したのは、ほかでもない。あのころの信頼感の欠如は、いまもそのまま、根強く残っていると思うからだ。国会の税制論議にいくら耳を傾けても、政府のいうことは、限りなくあいまいである▼大型間接税の導入はこれこれの理由で必要なのだ、と政府は主張しない。逃げている。逃げながらも「導入はありうる」とほのめかしたりする▼歳出のむだはかなり改善されたという。だが、五十八年度の会計検査院報告によると、たとえば架空の工事で道路建設の補助金を不正にとる例など八千数百件の不当事項が指摘されている。格言好きの中曽根さんに墨子のことばを贈りたい。「無用の費えを去るは聖王の道にして天下の大利なり」▼間接税導入をちらつかせる前に、政府は、財政破綻(はたん)の責任の所在について、現行税制の欠陥について、不公平の実態について、公費のむだ排除について、謙虚な声で国民に語りかけるべきではないか。 藤山愛一郎さん 【’85.2.24 朝刊 1頁 (全841字)】  「学問を好みながら学者の智なく実業に精進しながら金儲けに徹しきれず、特徴の無いおせんべを文化せんべいと言うにならえば、私の自画像の色は文化色か」。藤山愛一郎さんが自分のことをそう書いている。自民党総裁を志しながら、文化色はついに政界の暗部の色に染まりきることができなかった▼財界人としての半生は、順風満帆だった。父親譲りの財産があったとはいえ、二十三歳で社長業に精通し、四十四歳で東京、日本両商工会議所の会頭になっている▼口の悪い大宅壮一さんも、その包容力、柔軟性、反骨をほめそやし、「どのような種類の団体の上にすえても、非常にすわりがいい。和室の床の間においても、洋間のマントル・ピースの上にのせても」よく似合う人物だと書いている▼岸信介さんに請われ、約二百の肩書を捨てて外相に就任してからは逆風をあびることになる。権謀術数がうずまき、友情などは通用せず、顔色ひとつ変えず表向きとはまったく違うことを画策して恥じぬ人びとの世界に、藤山さんはただただ驚く▼派閥を維持するということは、選挙費用やモチ代を議員に手渡すことだった。土地を切り売りし、株を売り、名画を手放した。派閥のボスのところには、水道の蛇口をひねれば財界からの金が流れこんでくる。だが藤山さんは、水道の蛇口をひねらず、政界の浄化を叫んで自前のタライの水を使い続けたという▼政界を引退する時にこういっている。「一般国民のほうにも問題があるねえ。冠婚葬祭にやれ花輪を出さねばいかんとか、有権者にそんな気持ちがあって、政治に金がかかる。政治家も改めねばいかんが、国民の理解が必要だよ」と。実感的な批判だろう▼政治家としての業績は日中復交に尽力したことだった。刀折れ矢尽きる形の引退後も、日中貿易の促進に力をいれた。ぼろぼろになっても絹のハンカチには絹のハンカチの存在感があった。 電車内の赤い集団 【’85.2.25 朝刊 1頁 (全844字)】  電車に乗って驚いた。どこのチームなのか、赤いトレーニングウエアを着た女子学生の集団がいる。それが長い座席をそっくり占領しているものだから、窓のところがまるで火をふいているようにみえるのだ。たくさんのお客さんが立っているのに、一人として席をゆずろうとするものはいない。夢中で何やらしゃべっている▼赤い集団の中に、一人一人が埋もれてしまっている。みんなで渡れば、と同じ理屈で、みんなが集団の中にかくれてしまっているから、いっこうに恥ずかしくもないのであろう。席をゆずって立ったりすると、集団の異端者になりかねない雰囲気さえある。グラウンドではフェアプレーなどといいながら、グラウンドを一歩出れば、そんなこと一切忘れてしまっていいとでも思っているのだろうか▼大洋ホエールズに秋山登という投手がいた。ライバルの投手がいて、どうしても負けたくない。グラウンドの練習だけでは、追い抜くことはできないと、秋山投手は一つの方法を考えた。道を歩く時もツマ先で歩く。電車に乗れば決して座らず、ツマ先で立つのである。こうして、足の筋肉を鍛え、バランス感覚を鋭くしていく▼有名なスポーツ選手には、この種の話は多くある。水泳の古橋広之進さんは電車では、決して座らなかったというし、野球の川上哲治さんも、電車内では必ず立った。それもぼんやり立っているのではなく、車外を猛スピードで流れていく電柱を、一本一本きっちりと見きわめていくのである。電車の一番前に立って、飛び去っていくまくら木を一本一本目でとらえるということもした。それでボールを見る目を養ったのである▼練習場はグラウンドや体育館の中だけではない。すべての立ち居振る舞いを練習に結びつけていく。そこにこそスポーツ選手としての真骨頂があり、それができるという所に若さもある。赤い集団はスポーツ選手とは思えなかった。 愛の「おもちゃ図書館」 【’85.2.26 朝刊 1頁 (全840字)】  東京の三鷹市に障害をもつ子どもたちのための『おもちゃ図書館』が産声をあげたのは、一九八一年の五月である。たくさんのおもちゃをそろえた楽しい遊び場をつくる。母と子はここで一日中遊び、好きなおもちゃを借りて帰る。それがおもちゃ図書館だ▼三鷹の成功が刺激になって、わずか四年のうちに、おもちゃ図書館は劇的にふえ、いまは全国で百四十カ所を超す。運動の創始者小林るつ子さんが書いた『愛のおもちゃ図書館』を読み、母親たちの思いの深さが運動の支えになっていることを知った▼三鷹には月二回、十六畳の狭い部屋に子どもが集まる。木琴を一音鳴らしてはボランティアの女性に笑いかけるダウン症の子がいる。目が見えない子は体全体の感覚を使ってぬいぐるみを相手にしている▼ここに来て遊んでいるうちに、生まれて初めて「ワーワーワー」と笑い声をだした三歳の子がいる。その姿を見てお母さんはハンカチで目を押さえた。みなと一緒に遊ぶことが発育に影響するのか、歩けず、座ることさえやっとだった九つの子が、突然ゆっくりと歩きだしたことがある。「すごい、すごい、どうしよう」。ボランティアの人が感極まって叫んだ▼はじめはおびえ、強制的な訓練を警戒している子も、しばらくたつと自分自身の個性的な遊びを見つけ、没入する。お母さんたちもとことんまで一緒になって遊び、楽しむ▼この運動では先輩格のイギリスの指導者、モーランド夫人が小林さんにいったことがある。「遊びのこころをなくさないでね。遊びの大切さを忘れることは、子どもを忘れてしまうことです」▼雪深い町におもちゃを集めて、図書館を開いたお母さんがいる。みなで洋服を売り歩いてためたお金で開設したお母さんたちがいる。自分の家の一部を開放した人もいる。子と子、母と母、子どもとおとなの新しいふれあいをつくるかけ橋が全国に誕生している。 雨水の利用 【’85.2.27 朝刊 1頁 (全856字)】  「雨水の利用」の調べを進めているうちに、意外だったのは、すでにいくつかの公共の建物、民間のビルが雨水利用に取り組み、成功していることだった▼うかつな話だが、東京の図書館、学校、老人福祉センターなどいくつもの施設で雨水が使われていることをはじめて知った。江東区や墨田区は新しく公共の施設をつくるときには雨水利用を原則にしているほどだ▼民間でも、日本IBM飯倉ビル、東電大塚ビル、三菱銀行本店などが草わけで、最近は上智大学、両国国技館、東京証券取引所などにひろまりつつある▼そういう施設をいくつか回ってみた。高校の校庭のマンホールのふたに大きく「雨水」と書かれているのが新鮮な感じだ。手洗い所には「雨水を使っています」という表示がある。流れでる水を見つめても、水道水とかわらない。東京の雨を調べた人の話では、雨水は予想以上にきれいで、そのまま飲み水にしてもいいほどだという▼町田市の小川高校では、一年間に使ったトイレの水の65%、七千六百トンが雨水だった。25メートルプールのざっと二十個分の量である。水道料金に換算すると二百六十六万円の節約で、この分なら予定の七年よりも早めに償却できるらしい。天の恵みはお金の節約にもなる▼都市は水の自給率を高めなければならない。雨水を上手にため、上手に使うことで水道水を節約し、都市型水害を防ぐ。つまり都市の中に無数の小型のダムをつくることが過密都市の生き残る道だろう▼雨の多いことでは、日本は世界有数の国だ。だが人口が多いため一人当たりの降水量になると極端に少ない。乾燥地帯の国サウジアラビアの四分の一しかないということを心に刻みつけておきたい。国はもうそろそろ、雨水の利用を水資源行政の一つとして位置づけるべきだろう。上流に造るダムの数を抑えて、雨水利用という無数の小型ダムを都市内に造ることに本腰をすえるべきではないだろうか。 日本人は「せかせか度」世界一 【’85.2.28 朝刊 1頁 (全875字)】  日本人は「せかせか度」にかけては世界有数、なのだそうだ。アメリカの学者が(1)銀行の時計の正確さ(2)街で人が歩く速さ(3)郵便局員が切手一枚を売りさばく速さの三点を調べたところ、いずれも日本が第一位だった▼(1)は日、米、台湾、英、伊、インドネシアの順。(2)は三〇メートルを歩く速さが日本人が20.7秒、英国人21.6秒、米国人22.5秒。(3)は日本が25秒で一位、六位のイタリアは47秒▼こんど来日した中国残留孤児の一行が銀座を歩いたことがある。一人がこういった。「みな緊張したおももちでせかせか歩いている。中国人はもっと散歩するように歩きます」。外からみると、私たちのきびきび、せかせかはやはり相当なものらしい▼もっとも、明治の初期に来日した米国の生物学者E・S・モースは、『日本その日その日』の中で、東京ののんびりした街頭風景を、なかば感嘆しながら書いている▼当時は歩道もなく、人力車が通ると、通行人はのろのろと横に寄る。「日本人はこんなことにかけてはまことに遅く、我々の素速い動作にびっくりする」▼そのすばやい動作のアメリカ人を日本人が追い越すようになったのは、いつのころからだろう。NHKの稲垣吉彦さんが、漫才のリーガル千太・万吉と、人気のあったころのツービートとのおしゃべりを比較している▼前者は二十六年前、後者は五年前の録音である。驚くべきことだが、ツービートは70秒間に、千太・万吉の二倍近い約六百六十字分の言葉をしゃべっていた▼歌謡曲界では一年に何百人もの新人が登場しては消え、出版界でも、せっかく出版された本がたちまち消えてゆく。この現象もせかせか度とどこかで関連があるはずだ▼来日中、新幹線に乗った〓小平さんが「後ろからムチで打たれて追いかけられているようだ」と語ったことがある。日本人が追いかけられるようにしてかけだしたのは、あの新幹線誕生のころから、ではなかったか。 「ゆらぎ」願望 【’85.3.1 朝刊 1頁 (全840字)】  一九六九年、井上ひさし作の『日本人のへそ』を東京の小劇場でみた同僚(劇評担当)はこうつぶやいた。「こんなとてつもない芝居を書いた作者はいったい何者なのだ?」。十六年後、こまつ座再演の『日本人のへそ』をみて、筆者は思う。「こんなにまで日本人のへそをよじらせる権利が作者にあるのか?」▼小さな劇場は超満員だった。座長の井上好子さんが押すな押すなの客席にわけいって、すみませんすみませんと頭をさげている。なにかうきうきとした様子で謝っている姿がおもしろかった▼今みても新鮮なのは、この戯曲が時代の流れを見通していたからだろう。先見性の一つは「遊び」である。作品はしつように遊びを追求している▼機知縦横のことば遊び、禁忌をわらう遊び、背景にある浅草六区の遊び、劇中のどんでん返し遊びと続いたあと、作者の前口上にある「生物学の最前線で流行している術語を借りていえば、わたしたちは精一杯『ゆらぎ』たいとねがっています」という一文にぶつかってなるほどと思う▼八〇年代後半は「遊びこそ命だ」という考え方がより強まってゆくだろう。電子工学の分野で「ゆらぎ」の研究を続ける武者利光東工大教授は「遊びというのは、科学でとらえるとゆらぎだ」と語っている▼生物物理学の柳田充弘京大教授は「私自身、生きる上で賢くなる術はほとんどいわゆる遊びから学んだような気がします」という(雑誌ゑれきてる16号)。学問の最先端にある人たちが、ゆらぐことの重要性を説き、遊びこそ潜在能力を開発する、と力説する時代なのだ▼ゆらぎといい、遊びという。それが、単に休養のためのものではなく、生きる上で不可欠のもの、という主張が強まることを、井上戯曲は出発点において見通していたのか▼管理社会の閉塞(へいそく)感が深ければ深いほど、人びとはひととき小さな劇場に群れて、ゆらぎたいと願う。 中国孤児の就学問題 【’85.3.2 朝刊 1頁 (全842字)】  日本に帰ってからの中国残留孤児と、その子どもたちの道は険しい。都立高の入試のあと、ある女の子は作文を書いた▼「試験の時間が足らなかった。日本語の意味もわからないところがたくさんあった。日本語ができないのはしかたがないけれど、どうしたらいいのかわかりません。先生、私の道を教えて下さい」▼残留孤児の中には正規の義務教育をうけていない人が少なくない。老いた養父母のもとで少女のころからコークスの運搬人として働いたTさんは、仕事の合間に、土に字を書き写しては覚えようとしたそうだ。せめて子どもだけはと思うのだろう。帰国後のTさんは子どもの教育には熱心で、長男の高校入学を切望していた。だが、きのうの発表では、残念ながら不合格だった▼中国で育った子には、日本の子にはないおおらかさがある。だが、板を削ってスキーを作ったり、馬に乗って山野をかけまわっていた子がいきなり、受験競争の渦にまきこまれる。一点を争う競争の中で、自分はだめだと思いこみ、ノイローゼになる子がでてくる▼いじめもある。中学二年の少女は、英語ができないため、級友に「アホ」とののしられ、学校へ行かなくなった。大半の子がバカ、汚い、などとからかわれている。登校拒否が続き、荒れてゆく子もでてくる。学校の黒板に「想中国」と書きなぐった子がいた▼将来の日中交流に役立つかもしれない人材が、日本人ぎらいになり、学校を拒み、転落してゆくのを、手をこまぬいて見すごすわけにはいかない▼教育の分野では、まず、小、中学での温かみのある指導体制を大幅に充実させること。全国の十二校を協力校に指定するくらいで問題が解決するはずはない。高校進学では、海外駐在員の帰国者子女と同様、中国帰国者子女の別枠を作るべきだろう。「日本に来てよかった」と思う子が一人でもふえるような、血の通った受け入れを考えたい。 お雛さま 【’85.3.3 朝刊 1頁 (全850字)】  静岡県の浜松市で中村礼子さんの『紙人形展』をみた。顔も手足も髪の毛も衣装もみな和紙と綿だけで作った人形である。礼子さんが生まれたころの、明治の末の押し絵の雛人形(ひなにんぎょう)もあった▼「紙雛(かみひいな)目鼻は人の胸の中」(林翔)。真っ白な顔の紙人形が並んでいる。目も口も書きこまれていないところにあわれな感じがにじんでいる。傑作は展示場の片隅にある花と野菜のお雛さまである。キャベツの皮、菜の花、桜草の花、スイセンやイワボタンの葉などを組み合わせたものだ▼「子どものころは、三月になると川の土手に飛んで行って、タンポポやレンゲなんかで雛人形をつくりました。昔はなんでも自分たちで作って遊んだものでした」。カンゾウの葉もギシギシの葉もお雛さまに化けた。今でも、豪華な雛とは別に、雛を自分の手で作るならわしは消えていない▼太田治子さんの随筆集『母の万年筆』に、母が作ってくれた雛の思い出を書いた心にしみる一文がある。太宰治を父にもつ治子さんは、幼いころ、母静子さんと一緒に葉山の叔父の家に居候していた▼母は海岸で拾った杉の木片を削って、小さな雛を作った。雛祭りの日、食パンを一斤まるごと買い、白い部分をくりぬいてその中に雛をいれた▼ふたつのお雛さまは、パンのお城の中で寄り添っていた。「頬と口許にほんのりと紅をさした顔は、泣いているようにも笑っているようにも感じられた。このお雛さまは、ママとわたしなのね。そうでしょうというと、母は黙って笑った」と文章は続く▼母が亡くなったあとの雛祭りで、その杉の木片の雛を探したが、姿が消えていた。あのあえかなふたりは、母とともに空の上に舞い上がったのかもしれない、と治子さんは書いている▼「今まさに物言はむとする雛の唇むかし語るや耳を澄ませり」(友貞久仁子)。失われた雛にも、失われない雛にも、歳月の思いが重なる。 敦志君の日記 【’85.3.4 朝刊 1頁 (全858字)】  「今日は同好会をさぼり、早く家へ帰って手伝いをした。田んぼの薬をまく仕事でまっくろけになってしまった」「バイトの貯金六万円、バス代四百四十円、旅費五千円、コーヒー牛乳六十五円、現在さいふの中に一万六百二十五円」▼茨城県阿見町に生まれた渡辺敦志君の高校時代の日記だ。敦志君はよく農作業を手伝った。スイカ畑の作業を続けながら、父や母に「すごく頭の下がる思いがした」とも書いている▼高校卒業後は、東京で新聞配達をしながら大学へ通った。弱音をはかず、おおらかで素直で頼りがいがあって先輩や仲間に好かれた▼当時の日記に「これで振られる人数九人目。これから俺は誰に振られるだろう。おれの望む劇的な恋におちる人なんて居るのだろうか。いささか不安になる渡辺君19歳でした」と書き、最後は「やっぱり僕はYさんがすきです」で終わっている。その翌日、敦志君のオートバイは右折車に接触されて鉄柱に激突、その事故が青春を奪ってしまう▼子の日記、母の日記を中心にした『渡辺君19歳でした』という自費出版の本を読み、とくに母正子さんの日記に心ひかれた▼「私の誕生日であることを忘れていたら、夜、息子がコヨミを見ながら『今日はお母さんの誕生日でしょう』という。コーヒーを入れてあげるからとも。父親をいれて親子三人、テーブルを囲んでコーヒーを飲んだ」。田や畑の仕事を続ける母を、子はいつもいたわり、母は子をいとおしむ目で日記を書き続けた▼今年の一月十五日、正子さんは敦志君の姉を連れて墓へ行った。「アツ坊、成人の日おめでとう」といおうとして、あ、おめでたくなんかないわねえ、「ほんとに残念だったね」と声に出していったら、悲しみが突きあげてきた。お前のさっそうとした背広姿をこの目で見たかったよ、と本紙「ひととき」欄に書いている▼その日、中学、高校時代のたくさんの仲間がウイスキーを持って墓参に来たという。 中国の開放体制 【’85.3.5 朝刊 1頁 (全852字)】  「いまは、どんな国でも発展しようとするなら、鎖国政策をとるわけにはいかない。もしも開放せず、またもや鎖国を始めたら、五十年で経済先進国の水準に近づくなど、できっこない」▼わが国の経済界の関心も集めている中国の開放体制について、旗振り役の〓小平氏が語った言葉だ。去年十月、中国共産党の顧問委員会で述べた内容を、もう少しくわしく紹介すると▼「明の成祖(永楽帝、十五世紀初頭に在位)のころ、鄭和が西洋に出かけたのは、まだ開放的といえた。清の康煕・乾隆時代(一六六二〜一七九五)は開放的でもない。明中期からアヘン戦争まで三百余年は鎖国を続けたことになり、康煕年間から計算しても二百年間だ。そのため中国は貧しく、立ち遅れた、物を知らぬ国になってしまった」「建国後の対外開放はソ連と東欧に対してだけだった。その後は門を閉ざし、なんらの発展もなかった」▼鎖国三百年と聞くと、われわれも身につまされる。世界の文化とつながっていた唐の長安の繁栄はどこへ行ったのか、と考えると、この老指導者はくやしくてならぬらしい。その遅れを取りもどすには長い時間がかかることも心得ていて「来世紀になっても五十年間は開放政策のまま頑張らないと、先進国のレベルは望めない」ともいう▼指導者の頭がいくら進んでも、“鎖国”に慣れた老幹部や官僚機構の方は、そうはいかないようだ。「いまになって資本主義を歓迎するようでは、なんのための革命だったのか」との不満も出る一方、開放政策にワル乗りして投機や汚職に走る役人も出る▼満八十歳の〓小平さんも心配が絶えぬわけだが、この人の面白さは「何年か長生きしたい」「私がひかえめに仕事をしても、ほかの人が立派にやってくれる」などといって、第一線の要職は他人まかせにしてきたことだ。老人が権力ばかりに熱中せず、未来のために知恵を出してくれれば、それに越したことはない。 早春の山を歩く 【’85.3.6 朝刊 1頁 (全857字)】  木のはだの微妙な美しさに目が向くようになったのは、富成忠夫さんの写真集『森のなかの展覧会』をみてからだ。木のはだ、というよりも正確には木のはだをおおう「地衣」の絵模様のおもしろさである▼早春の光につつまれた丹沢を歩いた。湖のそばの傾斜地をわけいると、ごうごうと冷たい風が吹いて、アオキの葉をひるがえしていた。ケヤキやクマシデなどの裸木のはだを染める地衣類が目につく▼灰白色、利休ねずみ、あんず色、鈍(にび)色の地衣が幻の地図を描いている。古代人のいたずら書きのようなモジゴケが並んでいる。青鈍色に浮きあがってみえるのは、ウメノキゴケの類だろうか。地衣類はキノコやカビなどの菌類に近い。菌と藻が協力しあって地衣という植物をつくりあげている▼画家でもある富成さんは、地衣類の怪奇な造形をカメラで切りとって、「写真画」とでもいうのか、渋くて幻想的な世界をつくりだした。舞台は富士山や丹沢である▼亡くなった藤堂明保さんの『漢字の話』には学ぶことが多いが、藤堂さんによると、「生」という字は「芽のはえ出たさま+土」なのだそうだ。青という字も生を含んでおり、いきいきして汚れのない芽ばえの色がすなわち青である。昔の人は生(芽ばえ)ということばに、すがすがしい、汚れない、あおいという感じを寄せていた▼「枯」という字は、「木+古」だという。古は、ひからびたシャレコウベをひもでぶらさげた姿を描いた象形文字だ。枯にはだから乾いてかたい、という感じがある▼早春の山は生と枯の万華鏡だった。からからに乾いた枯木にも、たくさんの冬芽がついている。こすれば粉のでる地衣類は「枯」そのものにみえるが、拡大鏡でみると、黒や茶の子器が点々としていて、そこにも静かな「生」の営みのあることがわかる▼「芽ぐむ木にめぐられて立つ木は何も言はねど何か何かそゝらる」(木下利玄)――きょうは啓蟄(けいちつ)。 1%枠に「最善を尽す」 【’85.3.7 朝刊 1頁 (全838字)】  守る、守れよ、守りたい、守れない、とまるで動詞の活用表をみるようだった防衛費1%枠の国会論議も、結局は金丸自民党幹事長の「1%枠を守るため最善を尽くす」という発言でひとまず落ち着いた▼前の国会では、中曽根首相は1%枠を守るため「全力を尽くす」「汗を流して努力する」と断言していた。それが一年後には「できるだけ守りたい」になった。「全力投球」から「願望」への、いかにも軽々しい後退だが、さて、「最善を尽くす」というこんどの金丸発言はどうだろう。政治家金丸の重い約束、とうけとっていいのだろうか▼与野党折衝の過程で、公明党の矢野書記長は「とくにGNP1%問題は、後世から今国会を境に軍事大国に転げ落ちたとの批判をうける恐れがある」と発言していたが、その意味では、今回の野党の修正要求はなんとも迫力不足だった▼話は飛ぶが、戦前の新聞を調べていたら、昭和十二年三月十二日付の朝日新聞に佐藤尚武外相の国会答弁がのっていた。平和主義の信念を語ったという評価のある演説だが、この中で外相はいっている▼「戦争勃発(ぼっぱつ)の危機に日本が直面するのもしないのも日本自体の考えによってきまる。日本がその危機を欲しない、危機を避けてゆきたいという気持ちであるなればこれは日本の考え一つで、危機はいつでも避けえられると考える」▼危機を避けたいと願う気持ちがあれば、危機を避けうる。文官統制がゆきわたっている体制ならそれも可能だろうが、不幸にして戦前の日本にはそれがなかった▼政府自民党は今、1%枠を守りたい、あるいは守るために最善をつくすといっている。佐藤流にいえば、守る気があるのなら、守りきるのは可能だろう。文民統制の力があるのならば、1%枠は守りうるだろう。それとも、今はもはや、政府与党に防衛費をコントロールする力がなくなりつつあるのだろうか。 献血 【’85.3.8 朝刊 1頁 (全852字)】  「血液の自給自足体制をめざせ」という青木繁之さん(献血供給事業団)の提唱が本紙論壇欄にあった▼医療用に使われる血液の中で、昨今は血漿(けっしょう)分画製剤の使用が急速にふえている。その88%が外国の血液をもとにしてつくられている、という話を知って驚いたことがあるが、青木さんによると、わが国は血漿使用量の90%以上を主として米国からの輸入に依存しているそうだ▼WHO(世界保健機関)は各国に献血による自給自足を勧告しており、血漿製剤の自給率わずか12%という状態は当然、非難のマトになるだろう。さらに、「血漿のほとんどを米国に依存している実情から、AIDS患者がわが国にいつ発生してもふしぎはない」という指摘が杞憂(きゆう)であれば幸いだ▼献血を妨げているものの一つに、日赤の血液センターや出張所の場所の悪さがある。献血に行こうと思いたっても電車やバスに乗り継いで行くのがおっくうになる。そこで、最近、各地に生まれつつあるのが「献血ルーム」だ▼久留米市には昨春、目抜き通りに献血ルームが生まれた。明るい部屋に軽音楽が流れている。献血後はコーヒーもでる。買い物途中の主婦や若者が気軽に立ち寄るようになり、久留米市の献血率は全国最高級になった▼首都圏でも、横浜駅、立川駅、八王子駅などの地下街や駅ビルに「献血ルーム」が生まれたし、池袋の西武デパートにも生まれ、成績がいいという▼若い人たちの協力もある。交通遺児育英会の高校生たちは、三年前から、街頭献血車のわきに立って献血を呼びかけている。奨学金をだしてくれる足長おじさん、おばさんの行為に報いるため、自分たちがまず献血し、街行く人にも呼びかける運動で、すでに四万人の献血があった▼「血液輸入大国」といわれないためには、献血の倍増が必要だが、一方、血漿製剤の使いすぎがあるのではないか、という厳しい反省も肝要だ。 田中支配は数の支配 【’85.3.9 朝刊 1頁 (全854字)】  選挙の時はたびたび新潟へ行って田中元首相の演説をきく。前回選挙の時は話の筋が乱れがちで、角栄老いたりの感がないではなかったが、人心収攬(しゅうらん)の話術の巧みさは相変わらずだった。角栄演説の特徴の一つは「数字」の乱射である▼予算の数字、土木工事の経費、新潟から出かせぎで散った人びとの数、あらゆる数字がだだだだと飛びだすさまを見ていると、その数値信仰は相当なものだと思う▼竹下創政会誕生の時も「すべては数の勝負」だといわれた。角栄側は猛烈な切り崩しで、参加者を二十人ていどにとどめようとしたが、実際はその倍の人数になった。竹下側がカネを配ったときき、元首相は「オレが手塩にかけたものを竹下はたった一億円で買うつもりか」と怒ったそうだ。この話は田中支配というものの内情を象徴的に語っている▼田中支配とは、結局はカクの傘のもとのカネによる数の支配なのだろう。田中派は、旗あげした時の数が六十九人である。それが百二十人にふえた。ロッキード事件後は、総裁作りに君臨するという異常な執念を燃やして、人数をふやした▼それを批判する幹部に対して、こういった。「お前は総裁選挙がわかっていない。一人足りずに負けることだってあるんだ」と。前回衆院選挙では、得票数にこだわった。そして自分の予想通り「二十二万票」を集めた。派閥の人数と選挙の票への並はずれた執着の背後には常に、膨大なカネが動いている。数の神様の加護を祈る元首相にとっては、創政会参加者四十人という数は己の政治生命を脅かす刃物だったのだろう▼病魔と闘っている人に対しては、ひたすら養生を願うのが人情だが、政界はいちはやく「静観」という名の模索、模索から全力疾走の準備の時期に入っているように思う。しかし田中支配が拒否されることなく、なしくずしに衰える形をとる場合、田中的支配はそのまま小角栄に受けつがれて残るだろう。 誘拐事件に思う 【’85.3.10 朝刊 1頁 (全839字)】  誘拐犯がカネを持ち去ろうとする寸前、大型トラックにはねられて死ぬ、というめったにないことが兵庫県で起こった。犯人の保田定美は、サラ金に追われている二十六歳の男だった。みじめな末路だった。犯人が死んだ、では昌範ちゃん(6)はどうなる。肉親や捜査当局がとっさに思ったのはそこだろう▼カネのやりとりがあって、子どもがぶじに帰り、そして犯人追跡がはじまる、というのが誘拐捜査の手順の一つだが、犯人が子を隠したまま死んでしまったのでは、一刻も早く捜さねばならぬ。発見が遅れれば、飢え死にだってありうる。兵庫県警が公開捜査にふみ切った直後、パトロールの警官がダンプカーの中の昌範ちゃん見つけたのは、お手柄だった▼身代金を目的とした誘拐はたいてい愚挙に終わる。戦後、132件の誘拐事件が起こっているが、うち126件の犯人が逮捕されている。大半がやり損ないである。犯人が捕まっていないのは、江崎グリコ社長事件など6件だけだ。だが、心配なのはこの十年間、誘拐事件が急速にふえ、しかも今回の事件のように、自宅に押し入るという手荒な犯行がめだってきたことである▼芦屋の高級住宅街が舞台だったという点は、黒沢明監督の映画『天国と地獄』を思い起こさせる。あの映画の中で、犯人の貧しい医学生は「幸福な人を不幸にするのは、不幸な人間にとっちゃなかなかおもしろいことなんですよ」とうそぶく▼誘拐の上、人殺しまでした犯人のことを、警部の仲代達矢が「ほんとにあいつは正真正銘の畜生だ」と吐き捨てるようにいう。そのうめき声が画面を圧したことをおぼえている▼戦後の誘拐事件では、二十五人が殺され、そのうち小学生以下の子どもは十六人にのぼっている。誘拐犯に対する世間の憎しみがとりわけ強いのは、人の命をもてあそんで肉親を脅迫するそのいいようのない卑しさ、陰湿さのためだろう。 「予想された悲劇」東京大空襲 【’85.3.11 朝刊 1頁 (全841字)】  きのうの「三月十日」は東京大空襲のあった日だ。といっても空襲の恐ろしさをはだで知っている人は今や少数派になった。空襲のたびに逃げ回った人びとは、戦後になっても長い間、サイレンの音におびえて暮らしたものだ▼空襲体験なんかないほうがいいにきまっているし、そういう恐怖から解放されていることはすばらしいことだ。だが、約十万の人を一度に死なせた東京大空襲が、実は「予想された悲劇」であったことを、若い人たちには知っておいてもらいたい▼空襲があったのは昭和二十年だが、その三年前の十月二日付の朝日新聞には「米空軍、東京空襲を企図。模型で爆撃の猛訓練」という記事がある。この詳細な東京爆撃計画を読むと、米軍がいかにはやくから綿密な準備を進めていたかがわかる。小型しょうい弾を集中投下すれば、東京は理論上、一挙に焦土と化すという作戦で、この死の計画は三年後、忠実に実行に移された▼建築学界の巨頭、岸田日出刀氏の回想によると、当時は空襲に備えての火災実験が熱心に続けられたという。そして火の恐ろしさ、密集した木造家屋のもろさが指摘された。せめてモルタル塗りの簡易防火改修を、と学者は提案していた▼大火災の恐怖についての認識が軍部にもないわけではなかった。昭和八年の関東防空大演習について、東京警備司令部参謀は雑誌「キング」誌上でいっている。「爆撃機の大きくなった事、爆弾の強くなった事等を考へると、東京の損害は、関東大震災の比ではないと思ひます」。太平洋戦争がはじまるはるか前、軍部には正しい認識があった▼その時、こうした実戦を「将来決してあらしめてはならない」(関東防空大演習を嗤う)と叫んだのは信濃毎日の桐生悠々だった。一度歯車が回りだせば、予想された悲劇が予想通りに起こることを、もはやだれもくいとめることができない。そこに戦争の恐ろしさがある。 青函トンネル貫通 【’85.3.12 朝刊 1頁 (全846字)】  《海峡の長いトンネルを抜けると歓喜があった》先人が「しょっぱい川」といった津軽海峡にトンネル本坑が抜けた瞬間、人びとは泣いた。二十一年、のべ千二百万人の作業員が働き、三十四人が亡くなった▼機械掘りを続けると、40度の暑さになる。ほこりで息もできず、ヘルメットをバケツがわりにして水をかぶっては掘り進んだ。トンネル男たちの命がけの働きが本州と北海道の海底を結んだ▼《海峡の長いトンネルを抜けると世界一があった》使われたセメントを40キロづめの袋で並べると、東京―ニューヨーク間の距離になる。53.85キロは世界一である。海底23キロ分の予測値と実測値の誤差がわずか19ミリという信じがたい測定技術が確立された▼見学の外国人は、新鋭技術の粋に驚き、そしてトンネルの利用法がいまだにきまらないという話をきいて、二度驚く。利用目的は後回しにして、とにかく造るという目標に向かって全力をつくす。その日本人の非合理主義的合理主義、非目的的目標完遂主義に、おお不可解、とつぶやいたことだろう。「防衛目的?」ときく外国人客もあったそうだ▼《海峡の長いトンネルを抜けると冬景色であった》工費七千億円。これをだれがどうやって負担するのか。八百億円を超す年間利子をどうするのか。在来線型の鉄道を開通させれば、毎年千億円の赤字を覚悟しなければならない。北海道への旅客を空に奪われ、貨物を長距離フェリーなどに奪われた国鉄は宿題をつきつけられている。さらにまた、青函連絡船の存廃はどうなる。泣けとばかりに、ああ青函トンネル冬景色である▼《海峡の長いトンネルの中は男ばかりであった》貫通式のため入坑した約千三百人の中に女性は一人もいなかった。工事現場に女性が入ると山の神がやきもちを焼いて災いをもたらす、という禁忌のためである。最新技術の粋と古い迷信とのこの皮肉な隣りあわせ。 ソ連の情報公開 【’85.3.13 朝刊 1頁 (全852字)】  在任わずか一年一カ月でチェルネンコ書記長が亡くなったあと、ゴルバチョフ氏が後継者に選ばれた。就任演説に「情報公開」のくだりがあって、おやと思った。ソ連もやはり、情報の公開を説かざるをえない時代を迎えつつあるのか▼たとえば一昨年、ボルガ川航行中の客船が事故を起こし、多くの死傷者がでた。死者は百人を超すという説もあった。だが、ソ連国内の報道は「事故があって犠牲者がでた……」というそっけないものだった。そのためにさまざまなデマが飛んだ▼KAL機撃墜事件のときも詳細な情報の公開がなかった。「KAL機は無人スパイ機だった」。軍関係者がモスクワの学校を回ってそう説明した、という話さえある。こういう極端な秘密主義、情報独占に大衆が満足しなくなったことも事実らしい(高山智・モスクワ1800日)▼ゴルバチョフ氏の情報公開策がどのていどのものになるかは未知数だが、党や国家機関の活動についての情報を適切に流すことで、大衆の自発的な社会参加を促す、デマを防ぐ、さらに高度情報化社会に対応する、という政策は次第に形をなしてゆくだろう▼テレビでソ連のフィギュアスケート選手の活躍を見ていて驚くのは、競技に使う音楽にジャズやロックがふえてきたことだ。クラシックやロシア民謡にかわって、マイケル・ジャクソンの音楽が飛びだす。欧米調のものをすべて「ブルジョア退廃文化の所産」といって切り捨てるのが難しい時代になっている▼人びとは、小別荘を求め、マイカーを求め、情報公開を求める。そういう社会の変動に対応するためにも、五十四歳という「若さ」は意味があるのだろう。農政の専門家としては、成績次第で報酬がふえるという先進的な集団請負方式をとりいれる柔軟さがあり、その成功で頭角を現した▼モスクワ大卒の知識人だが、少年のころ、農作業に励んだ体験を持ち、その姿にはどこか、土のにおいがある。 「海鳥」の時代 【’85.3.14 朝刊 1頁 (全840字)】  岩手県で発見された化石が、何百万年も前の海鳥のものであることが日本で初めて、確認された。翼をひろげると六メートルにもなるという超大型の鳥である▼われわれホモ・サピエンスが地球上に現れるはるか前の新生代鮮新世のころ、日本列島はいまとは違った地形だったろう。地上にはメタセコイアやトウヒやカバノキの緑が茂り、トウヨウゾウが威風堂々と歩き、アマミノクロウサギが跳び回り、海にはサメが遊泳していたことだろう▼飛翔(ひしょう)の自由をうることで、生物は生活領域をひろげた。翼竜の時代があり、始祖鳥の時代があった。そしてこの海の巨鳥の時代もあったのだろう。四百万年前とか五百万年前とかいわれるはるか昔、巨鳥の群れが夕日をあび、翼をあかね色に染めながら滑るようにして大空を飛翔する姿を想像するのはたのしい▼骨質歯鳥目シュードドントルニス科の海鳥である。くちばしに、歯のような骨がぎざぎざの形でついていることから「骨質歯鳥」という。このぎざぎざで魚やイカをつかまえる。巨大な翼をはばたかせるのは大変なので、主として空を滑るようにして飛んだ、と推定されている▼すでに北米やニュージーランドでも化石が見つかっているので、こんどの確認で、太平洋一帯に分布していることがはっきりした。掛川市で発見された鳥の化石はミズナギドリとされていたが、実はこの大型海鳥だったかもしれない、と研究者はいっている▼後世の史家は、二十世紀末の日本に「トリ」の化石が多いことに驚くだろう。とくに永田町から霞が関一帯に巣くうニンキトリ、カザミドリ、ゼイキン科に属するマルドリ、スイトリ、ムシリトリ、ホジョキン科のモギトリ、ハギトリ、ツカミドリ、ワイロ科のヨコドリ、カタリドリ、カスメドリ、ヤトウ科のアゲアシトリにキソイドリ▼まさに「怪鳥の時代」であった、と命名されるかもしれない。 都会の季節のにおい 【’85.3.15 朝刊 1頁 (全851字)】  十四日から東北・上越新幹線の発着が上野駅になった。上野駅着の新幹線の屋根には北国のほやほやの雪が降り積もっていることだろう、と思って初日の様子を見に行ったが、雪はなかった▼新幹線のスピードは屋根に降る雪を吹き飛ばしてしまう、という話だった。盛岡―上野間が2時間45分、新潟―上野間が1時間53分、この時間短縮に応じて雪国と東京との距離感もぐっとちぢまることになるだろうか▼関東一帯で、雪が降った。春のぼたん雪である。ヒヨドリやシジュウカラが、それぞれツバキやキンモクセイの葉に隠れて、雪見をしていた。中央線の車窓から見ると、暖かい都心に近づくにつれて雪が雨に変わる。気温が3、4度以下なら雪、6度以上ならば雨になる、という気象の本の説明通りの風景だった▼新橋駅をでて御門通りを歩いていると、強くにおうものがあった。ビルの一角に数十本の沈丁花(じんちょうげ)が咲いて、湿った空気の中に濃い香りをただよわせている。都会で生活をしていると、ある種の神経は鋭くとぎすまされるのに、鈍感になってしまう部分もある▼その気になればビルの谷間にも、ヒイラギナンテンの花が咲き、アセビやトサミズキが咲いているのがわかる。だがふだんは見れども見えず、におえどもにおわず、である。季節のにおいをかぎあてる感覚が鈍っている。今まで、沈丁花の無言の春の便りを受けとめることができなかったのは、恥ずかしながらせかせかいらいら、わきめもふらずに歩いていた証拠である▼この前の日曜は、神奈川県の大山付近の山道を歩いた。ユリワサビが白十字の小さな花を咲かせている。モミの樹林帯に、ユキワリソウの白い花が半開きになっている。枯れ葉色の大地を突き破る山草のみずみずしい緑、つつましやかに咲く花、土のにおい、土の色、この時は、あふれでる春の命の無言の便りを、まあいくらかは受けとめることができた。 弔問外交 【’85.3.16 朝刊 1頁 (全846字)】  武断外交、場あたり外交、土下座外交、忍者外交、善隣外交、頭ごし外交、外交にはさまざまな言い方があるが、最近は弔問外交ということばがしきりに使われる▼ふだん仲の悪い国の首脳同士がわざわざ時をきめて会うには大変な準備がいるが、弔問外交のばあいは、割にすんなりと会える。もっとも、人が亡くならない限り東西の首脳が一堂に集まらない、という現実はこの太陽系惑星の最大の皮肉ではあるけれども▼中曽根首相は、ソ連のゴルバチョフ新書記長の印象を「エネルギーに満ちて、近代的な感覚があって、理性的で、周到なめくばりがあって、上品で、重量感があって」と評した。ほめそやされて、書記長は一発、特大のくしゃみをしたことだろう▼首相はさらに「首脳同士が直接会って、考え方を率直にぶつけあうところに意味がある。会えば、人の報告や書物では得られぬ大事なことがわかる」と国会で答えていたが、この発言には賛成だ▼「善意には善意をもって、信頼には信頼をもってこたえる」とゴルバチョフ氏は就任演説でいった。このことばを文字通り受けとるにはクレムリンの霧はあまりにも深いが、それでも、首脳同士、民間人同士がひんぱんに会えば、それは少なくとも敵意や憎悪の抑制につながる。草ぼうぼうの荒れ地でも、人が足しげく通いあえば、そこにおのずから道がかたまる▼十二年前の田中―ブレジネフ会談のさい、田中元首相が念を押した。「未解決の諸問題の中に北方領土の問題も入っているのでしょうね」。ブレジネフ書記長の答えは「ダー(その通り)」だった。今回の会談では北方領土問題は平行線だったが、「ダー」の答弁の時点に立ち戻るまでには、粘りの外交が必要だろう▼さて、ゴルバチョフ氏はこれからの長い歳月、いかなる道を歩もうとするのか。閉鎖型か開放型か。中国が開放政策の道を歩みつつあるだけに、ソ連の歩みを注視したい。 ボケが治った 【’85.3.17 朝刊 1頁 (全859字)】  妻、幸子は七十六歳でボケの状態になった。当時私の心が一番痛んだのは、五十年連れそった妻を、狂ったままあの世へやらなければならないのかということだった。新潟市に住む宮村堅弥さんはその著『ごめんネ幸子』の中でそう書いている▼医者には「老人痴呆(ちほう)もここまでくると治る見込みがない」といわれた。宮村さんは、高校長を定年退職した日からの十何年間の日記を丹念に調べた。そして自分がいかに思いやりの足りない夫であったかを思い知らされた。「妻の病状を重くしたのは、愛情が足りなかった夫の責任ではないか」▼幸子さんは、温和で、思いやりが深くて、不平やぐちをいったことのない人だった。それがパーキンソン病で入退院を繰り返しているうちに「生き埋めにされる」「廊下に化けものがいる」といいだし、ボケが進行した▼「幸子より先には死なずと念じつつ夜ごと失禁の下着を洗ふ」。退院をいい渡され、自宅にひきとった時に、宮村さんは思う。「元気な間だけでも心からいたわってやりたい」。看護心得十カ条を自分にいいきかせた。(1)しからない(2)ため息をつかない(3)手作業を与える……▼朝は三時半に起きた。食事、せんたく、寝返りの世話、腰を痛めながらも看病に明け暮れた。だが病状はよくならない。「ゴザでくるんで火をつけられる」と口走ったりした。追憶の手がかりのために、買って来たフキノトウを見せながら、うさぎ追いしを歌った▼退院してから三カ月後のある日、幸子さんがいった。「何ですね、急にそんな大きな声を出してびっくりするでしょ」。見ると、妻の目は澄んで生き生きとしている。二年間も続いたボケが消えていた▼体の衰弱はそのままだが、なぜボケが治ったのか。仮性ボケということであったのかどうか。わかっているのは、百万分の一の奇跡でもいい、その奇跡を信ずるという連れあいの一念がなかったなら、ということである。 こどもの言葉に耳を澄ます 【’85.3.18 朝刊 1頁 (全827字)】  「いじめ」についての読者からの手紙が続々、朝日新聞社(大阪)に届いている。約千通のうち半数近くは、こどもからの投書だ▼どの子も、いじめ、いじめられ、という残酷な環境に閉じこめられて、まるで宗教家や哲学者のように考えこんでいる。「もし世界中が、いじめっ子やいじめられっ子ばかりになったら」と、奈良県の小学六年生が書いた。この言葉は、ドイツの哲学者カントの道徳律を連想させるではないか▼カントは「もし自分で決めた行動の規則が普遍的法則になるとしたら、いったいどんな事態が起きるだろうか」という意味のことをいっている。奈良の子も同じように、思いあぐねているのだろう▼皮膚に湿しんがあるので「バケモン」とあざけられた十二歳の少女は「自分がやられていやなことは人にもするな」と書いた。この手紙を読んで「新約聖書」の「なんじら人に為(せ)られんと思ふごとく人にも然(しか)せよ」という一節、あるいは「論語」の「己の欲せざる所を、人に施す勿(なか)れ」という一節を思い出す人もいるに違いない▼この少女は、キリストや孔子の言葉を、どこかで聞いたことがあったのだろうか。それとも、人の世の冷たさを味わっているうちに、人の世を温かく生きるための規範を悟ったのだろうか▼十二歳の別の少女は、こう書いた。「いまが平和だから、いじめなどがあるとよく書いてあります。平和でなければ、いじめているひまなどなく、助け合っていくというのです。しかし、私はそのことについては反対だと思います。平和なら心も澄み切って、いじめは絶対ないと思います」。戦争を知らないといわれる世代が、なんと深く「平和」の意味をとらえていることだろう▼訳知り顔で、管理と抑圧ばかりをいっている大人たちは、この際、沈黙し、幼い宗教者、哲学者たちの発言に耳を澄まそうではないか。 雨水利用のビル増える 【’85.3.19 朝刊 1頁 (全855字)】  奈良の東大寺のお水取りがすむと、それを待っていたかのように、わが家の紅梅が咲きはじめる。風がまぶしくなり、水ぬるむといった感じがましてくる▼お水取りには、霊水、香水、聖なる水、といったことばが使われるが、これらのことばには、昔の人の水に対する敬虔(けいけん)な気持ちがこめられている▼また、雨水利用の話を書く。東京都の調べでは、この三年間、都内に雨水利用のビルが三十二棟も生まれた。工事中、計画中のものが十七棟である。雨を「捨てる」時代から、大切なものとして「ためて活用する」時代へ、の変化が静かに進んでいる▼お茶の水にできた大正海上の高層ビルを見学して、ふと満々と水をたたえるお堀に浮かぶ城の姿を連想した。後楽園のグラウンドより少し大きい敷地や、ビルの屋上に降った雨は、地下の巨大な水槽にためられる。貨車百両分の水をいれる容積だという▼雨水は、トイレの水や散水に使われる。敷地内や屋上庭園にはヤマモモ、ツバキ、オリーブなど約三千八百本の樹木が青々と茂り、さながら緑の城である▼非常時には、雨水を浄化して飲む。大地震で断水しても、この緑の城は何日ももちこたえることができる。火の手が迫ってきたら、周囲にある放水銃が近所を火から守るという。昔も今も、水が城を守ることに変わりはない▼国の資源調査会も、「雨水貯留小委員会」をつくり、都市の雨を資源として見直す工夫を検討しているそうだが、けっこうなことだ。個々の建物が雨水利用の施設をもつことも大切だが、雨水利用には点から面へ、の課題もある▼大都会では今、雨水がどっと下水に流れこむために都市洪水が起こり、地下水不足による地盤沈下が起こっている。その地域の雨を地下水として貯留するにはどんな工夫が必要なのだろう▼東京都内には年間二十数億トンもの雨が降るが、多くが廃棄物として捨てられ、海に流されている。もったいない話だ。 イ・イ戦争の拡大 【’85.3.20 朝刊 1頁 (全839字)】  イラン・イラク戦争の拡大を告げる記事の背後からは、四年半も続く戦争にうむ人びと、戦死者の肉親たちのうめき声がきこえてくる。テヘランの町では、空襲を恐れる市民たちが買いだめに狂奔し、ガソリンスタンドには車の列が続いている。邦人の動揺もひろがっているそうだ▼イラク側の都市攻撃に対して、イランのハメネイ大統領は「報復のため、やられたら同じ程度だけやり返す」と言明した。「目には目、歯には歯」という考え方は、コーランの中の返報法の教えだが、これは決して復讐(ふくしゅう)を奨励するための教えではないはずだ▼一人殺された場合に、過剰に反応して十人、百人を殺すようなことをせず、一人に対する返報は一人に限る、それ以上の復讐をするな、という抑制の意味が強い。つまり返報を最小限に抑えるための教えだ、という話をきいた▼しかし両国はいま、抑制なき復讐、という長い無限軌道を突っ走っているようにみえる。血の報復がさらに新しい過剰反応を生んでいるのではないか。己の報復能力を示す、というメンツにこだわって攻撃を繰り返しているのでは、和平は遠い▼この戦争は「人口」対「兵器」の戦いだともいわれている。人口はイランがイラクの約三倍である。だが、兵器はイラクが優勢だ。軍用機はイラクがイランの約六倍の数をもち、しかも新鋭機が多い。イラクは早期決着をはかり、人口の多いイランは長期持久戦法をとって、イラクの内部崩壊を待つもくろみがある▼殉教を旨とするイラン・シーア派の革命防衛隊は、軍事的効果を無視して、ひたひたと攻めこむ。その多くはまだあどけない顔つきの子どもたちだ、という報告もあった。兵士の死傷者はイラク側が約二十万人、イラン側が約二十五万人ともいわれている。そして戦争は、幼さの残る少年戦士の命をも奪う▼国連には、この戦闘を断ち切るだけの力がないのか。 「山」「川」減った力士名 【’85.3.21 朝刊 1頁 (全854字)】  相撲のテレビをみていて、変わったなあと思うことが二つある。一つは力士のまわしの色がテレビ向きにはなやかになったこと。若緑、紫、青緑、金色と多彩である。もう一つは「山」や「川」のつく呼び名がめっきり減ってきたことで、これはやはり寂しい▼ためしに幕内力士の番付をながめてご覧なさい。山のつく名のお相撲さんは舛田山、太寿山、高望山の三人だけだし、川ときたらもう、一人もいない。十両に若瀬川ががんばっているだけである▼昔は、こんなことはなかった。寛政年間の力士名には小野川、岩井川、稲川と川は少なくない。双葉山時代の昭和十二年五月場所は武蔵山、笠置山と山のつく力士が十三人、清水川、旭川と川が七人もいて、山と川の激突があった▼昔の力士の名にはなぜ山や川が多かったのか。村相撲が農耕儀礼と密接に結びつき、水の精霊と人が相撲をとったりしていたころに生まれたしきたりなのだろうか。少なくとも国技として定着するころからは、山や川は力士の郷土を代表するものとして、誇りをもってつけられるようになった▼「ところが、川だけが高度成長のころから誇りでなくなってしまった。だから力士は川の名をつけなくなった」と関東学院大助教授の宮村忠さんはある対談でいっている▼力士の名にもはやりすたりがあるから、一概にはいえないが、私たちの周辺の川が汚れ、埋め立てられて姿を消しはじめたことと、力士の「川」が激減したこととは、どこかで結びついているらしい▼東京の銀座周辺だけでも、京橋川、楓川、築地川がつぶれ、いまは築地川の南支流が埋め立てられている。高度成長期、各地の川の変容は恐ろしいほどだった▼「なぜ郷土の川の名をつけないのか」。宮村さんが知り合いの力士にきいたら「黒く汚れていて黒星を連想させる」という答えがあった。澄み切って、まぶしく光って、常に白星を連想させるような川は、幻になりつつある。 ラジオ日本 【’85.3.23 朝刊 1頁 (全849字)】  テヘランからの邦人脱出が迫った十九日、NHKの国際短波放送「ラジオ日本」は、予定していた番組内容をイラン情勢重点の特別ニュースにさしかえた▼正確な情報に乏しい国に駐在する日本人にとって、戦争や革命などの動乱が起きた場合、頼みの綱は日本語の短波ニュースなのだ。八一年のポーランド戒厳令発令のときも同じだった▼ラジオ日本はいま、二十一カ国語で一日延べ四十時間、世界に向け電波を発している。紅白歌合戦や相撲、高校野球の実況放送は娯楽に乏しい辺地の在留邦人の楽しみだ。あまり知られないこうした活動を紹介しようとNHK国際局が最近『こちらラジオ・ジャパン』という本を出した▼本によると、ラジオ日本には世界中から年間八万通の手紙がくる。この数から一千万人が耳を傾けていると推定される。米国のVOAやソ連のモスクワ放送など国営放送とちがって独立機関であるNHKのニュースは、英国のBBCとならび聴取者の信頼が厚いとの手前ミソも書いてある▼日本への関心が高まるにつれ、日本語講座の人気も急上昇中だ。日中国交回復以来、中国へ送った日本語講座のテキストは五年間で二百万部に達した。一方、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からは、聞いているのかいないのか、一通の手紙も来ない▼世界に日本の真の姿を知らせること。いま最重要とされるこの役割にもかかわらず運営費はBBCの約五分の一にすぎない。世界中に日本製の短波ラジオが普及しているというのに、電波を送り出す施設は昭和十七年製二台を含む旧式の十台きり。出力も最大200キロワットの日本の声は、300〜500キロワットが普通の外国の波にかき消されがちだ。昨年アフリカのガボン共和国に中継送信施設を借りるまでは、欧州、中東では、ことに聞きとりにくかった▼NHKはきのう六十周年を迎えた。ラジオ日本もこの六月で放送開始から五十年になる。 野菜 【’85.3.24 朝刊 1頁 (全835字)】  菜種梅雨が明けると家庭菜園の仕事もふえる。流行の中国野菜は今が種まきどきだ。エンドウなどのつるは手(支柱)を欲しがっている。ホウレン草やサラダ菜は間引く。間引きした分で結構、おかずが一品できる▼それにしても近ごろの野菜のもて方はどうだ。野菜うどん、野菜パン、野菜クッキー、野菜せんべい、野菜ジャム……とこの一、二年、つぎつぎに「野菜」を頭につけた新製品が生まれた。健康志向による日本食の見直しからか、野菜、野菜の大合唱である▼野菜うどんというから、きつねうどん式に具にホウレン草やネギが入れてあると思ったら大ちがいだ。めんそのものに野菜を粉にして入れてある。それも別々にカボチャ、トマト、ニンジン、大根の葉、キャベツ、ホウレン草、タマネギと七種ある▼食品加工は急速凍結真空乾燥法というのが開発されて著しく進んだ。生のまま急速に凍らせ、真空状態で水分を完全にとばしてしまう。風味や香りを比較的のがさないですむ。粉末野菜はこうして作られ、小麦粉に混ぜられる▼野菜せんべいは粉末ではない。真空乾燥したものを薄く切り、油でカラッと揚げるそうだ。レンコンやクワイもある。試食品を売り場でつまんでいたら、店員さんに「野菜ずばり。単身赴任の方なんかにぴったりですよ」といわれた▼ひところ、野菜畑をバックに、ふるさとのおふくろさんが「野菜をとらにゃあ……」と叫ぶコマーシャルがはやった。とりわけ緑黄野菜の効用が説かれると、すかさず子ども向け緑黄野菜スナックも誕生している▼今年は冬が短かった。菜園の芽吹きは早かった。寒の戻りでくしゅんとしたときもあったが、総じて春作野菜の育ちはいいようだ。が、豊作となれば、きまって出るのが生産地での廃棄処分だ。ブルドーザーで何トンつぶしたとか、埋めたとか▼人間の身勝手さを、野菜としては怒らずばなるまい。 絵はがきの便り 【’85.3.25 朝刊 1頁 (全852字)】  絵はがきで便りをもらうことが多くなった。旅行先からのものばかりではない。日常のちょっとしたあいさつや通信にも絵はがきが使われる。電話時代で、電話が手紙にとって代わったというけれど、そうとばかりはいえぬようだ▼お手製の絵はがきを使う人もいる。季節の草花や野菜などを描き、余白に要件が書かれてある。絵と文はおおむね関係ない。趣味人らしく上手なのもあるが、この程度なら自分も、と思わせてくれるのもある▼東京・狛江で塾教師をしている小池邦夫さんは、三年ほど前から絵手紙運動というのをやっている。スケッチでもイラストでもいい、はり絵でも版画でもいい、はがきをできるだけカラフルに楽しく飾り、それで文通しようという。三十代の主婦を中心に、全国に仲間が千五百人ほどいるそうだ▼手紙は昔から書式がうるさい。季節のあいさつ、敬語の使い方にも型がある。その通りでないと相手に失礼に当たるといわれたりする。そこに手紙ばなれや手紙ぎらいの一因があるのかもしれない。字も文章も思い切り下手でもいい。思いがこもっていて、書いている自分が楽しければいい▼そして文章は短い方がいい。絵はがきにするのはそのためでもあるだろう。短いから難しいともいえるが、書くところが最初から少ないとなれば、気軽にペンがとれそうだ。意外と今日的なのである。絵はがき党のひとりに永六輔さんがいる。旅先でよく書く。いつか何かのお礼に塩こんぶを送ったら「大好評です」と、たったそれだけの返事をもらった▼ニューメディア時代に入る。しかし、いや、だからこそ絵はがきは生きつづけそうな気がする。一種の遊びと、そして何よりも手ざわりの確かさで▼喜劇役者の曽我廼家十吾さんからもらったはがきがある。肩衣(かたぎぬ)を着け、口上を述べる自画像を添えて「又笑われに出ますれバ、どうぞ旧倍の御ヒイキ賜りますよう」。十五年前の消印だ。 元警官主役の三菱銀行強盗事件 【’85.3.26 朝刊 1頁 (全850字)】  「犯人を含め、みんなが無事になるよう祈っていた」。三菱銀行強盗事件で人質になった被害者のひとりがそういっている。脅され、監禁されながらなお、犯人の無事を祈るなんてなかなかできることじゃない、と妙なところに感心した▼人質になったのは、二十三歳のガードマンを除いては、五十六歳、五十四歳、五十一歳といずれも白髪まじりの人たちである。犯人は四十歳の元警官と四十三歳のセールスマンだ。不惑の年や知命の年の人たちが事件の主役だから、そう荒々しいふんいきはなかったらしい▼それにしても、二十年も警察に勤めたいい年の男がなぜ、こんな幼稚な犯行を思いたったのだろう。サラ金、ギャンブル、それに暴力団とのつきあいもからんでいたのか、またしてもお定まりの哀歌だが、「命をかけてやったんだから、生き恥はさらしたくない」という言葉通り、自殺をはかったところが、いっそうものがなしい▼被害者は犯人の無事をも祈り、追いつめられた犯人は自分の頭に銃弾を撃ちこむ。人の心のひだを鋭く切りとった短編小説を読むような結末だった▼暴力団幹部との癒着、収賄、女子大生暴行殺人、押収した覚せい剤の盗み出し、銀行強盗、とばくゲーム機操作にからむ汚職、運転免許証偽造。最近の現職警官、元警官が起こした事件の一端である▼今回の事件の主役が現職警官ではないことを承知の上で、あえていう。警官の「警」には守る、合図するという意味のほかに、戒めるの意味もある。当然のことながら、自分自身に対する戒めの意味も含まれねばならぬ。警にはさらに、すぐれているという意味もある▼警察集団が聖人君子の集まりだとは思わない。人間の集団である以上、欠陥もあり、落ち度もあるだろう。だが警官は「廉潔」ということについては、人並みよりすぐれているという世間の信頼感があってはじめて、警察の仕事は人びとにささえられるのではないか。 公開自主講座『公害原論』終わる 【’85.3.27 朝刊 1頁 (全840字)】  十五年も続いた宇井純さん(東大工学部助手)の公開自主講座『公害原論』がおしまいになる。二十五日の講義で、宇井さんは「65点、かろうじて合格」と自主講座の自己採点をした。とにもかくにも、約三百回も続けたことの意味は大きい▼受講料が、最初は百円、それが今は五百円である。「おもしろくなかったらお代は返します」というふれこみだった。最初のころはともかく、昨今は「返せ」がひとりもなかった、というからその意味でもまあ、合格だった▼その著『キミよ歩いて考えろ』は、公害原論であると同時に、個性的な教育原論として読んでもおもしろい。「いまの教育では、あまり重視されていない観察力が、これからはたいせつになる」と説くくだりがある▼たとえば新潟水俣病の調査の時、宇井さんたちはある漁師から「二匹の飼いネコが続けておかしくなって死んだ。ネコのたたりだ」という話をきき、ひらめくものがあった。生活の中の体験を観察することで貴重な手がかりがつかめる、ということの好例だ▼観察力は現場に身をさらすことできたえられる。歩くこと、体を動かすことで学ぶことの大切さを宇井さんは力説する。これは公害問題に限らない。競争原理の教育できたえられた優等生には、残念ながら自然や社会のかすかな変化を自分の目でみぬく力が弱いのではないか。変化をみぬく力が弱い社会はもろい▼自主講座は、行動する講座でもあった。第一、閉鎖的な大学に市民運動をもちこみ、風穴をあけた。第二、公害の恐ろしさを警告する役割をはたした。第三、公害に関する全国の情報の交換台になった。第四、水俣病などの実態を海外の人にも知らせ、発展途上国への警鐘になった▼教え、教えられて、一番勉強できたのは私自身だった、幸運だった、と宇井さんはいう。『公害原論』はひとまず終わったが、公害そのものは当分終わりそうもない。 サラリーマン税制合憲判決 【’85.3.28 朝刊 1頁 (全849字)】  「サラリーマン活動」というものを「政治活動」なみに扱うことにしたらいかがであろうか。接待ゴルフ、社内親善旅行、同僚や部下と飲み屋へ行くこと、政治活動なみに扱えば、これらはみな、大切なサラリーマン活動の一部になる▼歓送、歓迎の宴会、慶弔に気を配ること、年賀その他のあいさつ状を書くこと、仕事に必要な書籍資料の購入、みな、サラリーマン活動の中枢的部分になる▼政治活動と同様、これらの経費をすべて非課税にすることで税の公平をはかるべきか。政治家に対する課税をもっと厳しくして公平をはかるべきか。それとも、政治家に甘く、サラリーマンにつらく、という現行税制を後生大事に守り抜くか▼故大島正氏のサラリーマン税制訴訟について、最高裁は「合憲」の判決を下した。サラリーマンには冷たい上告棄却だったが、所得の捕捉(ほそく)に不公平が存在することを認めたのは、せめてもの救いだった。補足意見が「必要経費が給与所得控除の額をはるかに上回ったとき、この超過額に課税するのはおかしい」という見解を示したことも、一つの前進だ▼裁判では、サラリーマンと事業所得者との不公平が問題にされた。それはたしかにその通りなのだが、サラリーマンの不公平感をさらにつのらせているのは、税制上の政治家優遇である▼国会議員には歳費がある。これは源泉徴収の対象になる。ほかに文書通信交通費が年間七百八十万円もでる。これは非課税である。政治献金、陣中見舞い、パーティー収益金、すべて政治活動に使う以上、非課税である▼では国税当局は、どうやって政治活動と非政治活動を区別するのか。現在のしくみでは、それは不可能だろう。政治活動に使われるはずのカネが私的に流用されて、遊興費になったり、私邸の建設費になったりしても、国税当局が徹底的に追及したという話はあまりきかない。政治家への課税のしくみは、病的に甘い。 屋久島の幻の杉 【’85.3.29 朝刊 1頁 (全858字)】  屋久島へ行って「幻の杉」を探しませんかと誘われた。縄文杉みたいな大杉が山の奥の奥にあるらしい、数年前山中で迷った親子が十人でかかえるほどの、恐ろしいような杉にであったというが、それが幻影であったのかどうか確かめたい、島出身の知人がそういう▼おいしそうな話なので、同行した。島の若い人たちにまじって二晩、雲霧に包まれた深奥の森にテントをはり、巨樹を探した。道のない尾根から谷へ、谷から尾根へと歩き回り、正直いって心臓がのどからとびでる思いだった▼しかし屋久島という島の、この緑のゆたかさはどうだろう。深い緑、若やいだ緑、天空にひろがる緑、地をはう緑、おどろおどろしい形の風倒木や切り株をおおうコケの緑、そのコケに根をおろす幼樹の緑、雨にぬれて光る緑、一瞬の晴れ間にきらめく霧の中の緑▼緑の天井のどこからか、桜の花びらが舞いおりてくる。ぬかるみに落ちたヤブツバキの花が冷たく燃えている。ふかふかしたコケの波間に白いオオゴカヨウオウレンの花が咲いている▼一本の巨木も一本の山草も、ここでは等しく「緑の共和国」の大切な一員である。木や草や動物は緊密な共生関係を保ち、見事な共和国をつくりあげている。江戸以降の屋久杉の伐採で、森は傷つきながら重い沈黙の中にあった。緑の共和国内の禁伐地域や特別天然記念物指定の拡大をはかるにはどうしたらいいのか▼何本かの杉の巨木はあった。幹回りが6メートル近いモミの巨樹もあった。だが、結局、幹回り16メートルといわれる縄文杉級の杉にはであえなかった。屋久島の森は、それだけ懐が深い、ということだろうか▼柳田国男の『遠野物語』にマヨイガの話がでてくる。山の奥にマヨイガなる幻の家があり、みつけた人に富を約束することがあるという。それは森の中にこそ無尽蔵の富があるという信仰にささえられたものだろう。屋久島の幻の杉は、現代のマヨイガの一つであろうか。 木材製品開放と日本の山林 【’85.3.30 朝刊 1頁 (全855字)】  レーガン大統領との会見で、中曽根首相はそとづらがよすぎたのではなかったか。通信機器や木材製品の開放を迫られて、首相は「私自身が目配りする」と答えた▼会談後、米高官は「あれほど首相がいうのなら、きっと約束をはたすだろう」といったそうだ。いえ、あれはそとづら外交というもので、といっても通用しまい▼木材の話は、日本の山林の将来にかかわる問題がからむだけに、難航している。首相はあの時「努力するが、木材製品にはきわめて難しい問題があるので約束はできない」と、きちんというべきではなかったか▼アメリカの針葉樹合板の関税をさげれば、当然、インドネシアの広葉樹合板をもさげざるをえまい。一方のいうことをきいて、アジア仲間にはつらくあたるなんていうことはできない▼合板の関税がさがって、輸入がさらにふえれば、ただでさえ不況に苦しむ日本の合板業者は打撃をうける。「首つるものの足を引っぱるようなもの」と極論する関係者もいる▼値段の安い合板が大量に出回れば、国内産の木材が圧倒される。合板業者、製材業者が打撃をうければ、山林の経営に響く。山林経営がさらに行きづまれば山はますます荒れ、国土保全は憂うべき状態になる、というのが業者のいい分だ。いい分通りになるとは限らないが、詳細に検討しておくべきことではある▼いま、私たちが使っている木材の三分の二は輸入の外国材に依存しているという数字には驚く。木材自給率はそこまで落ちてしまっており、一方ではこれが「日本は外国の森林を荒らしている」という非難に結びついている▼「日本人は森林に忘恩的であり、林業に対し無知であり、山紫水明のありがたさに無とんちゃくである」といったのは、掛川市長の榛村純一さんだ。百年の計をたてて山の豊かさを守ること、それは日本の豊かさを守ることである。場当たり的に山村振興のカネをばらまけばいい、なんてものではない。 野上弥生子さん 【’85.3.31 朝刊 1頁 (全851字)】  去年の五月、野上弥生子さんの白寿(九十九歳)を祝う会があった。「あれも書きたいこれも書きたいと思うことは次々に頭に浮かびます。こんな盛んなお祝いをしていただきまして、やっぱりもう一度、なんか書いておかなければいけないなあと思います」。そんなあいさつに、一斉に拍手がわいたのを覚えている▼宝生流の野口兼資という能の名人は、舞台で「隅田川」を舞いながらぱっと倒れ、そのまま死んだ。「ああいうのはいいなあなんて思ってみたりね」と野上さんは語っている。約八十年、現役作家であり続けるというのは希有(けう)のことだろう。自伝的長編「森」は未完になった▼希有といえば、その記憶力には驚くほかはない。頼山陽の「日本外史」を暗記している。源氏物語の中の歌もみな覚えている。「かぎりとて別るる道のかなしきに」などの歌がすらすら口にでる。徒然草もたいがいは覚えている。対談相手の大岡信さんが思わず「うーん、すごいッ」とうなる場面があった。五年前のことだ▼「彼女はかつて華やかな存在であったことはない。しかし彼女は常に確実な存在であった」というのは、谷川徹三さんの野上評だった。時代の流れに流されて行く人間を、しかと、確実に見つめる目を備えていた▼「日本人は勇敢ね。オリンピックのためならなんでもするけど、地味な学者の仕事は右から左へ役だたなければ、かえりみない。せめて地震の仕事をする学者にお金をうんと出すべきです」。東京五輪当時の発言である▼敗戦直後の作品「狐」に、北軽井沢の草原を描いた一節がある。「月はないが星はさんらんと光って、淡い葡萄いろの空には、浅間がおぼろげに浮きだし、夜とともにひらく百合科の夕すげが、周りの茂みの上に、丈高く、点々と抽(ぬき)んでてゐた……」。はなやかな存在ではないが、心にしみるユウスゲの姿をみるたびに、思いださずにはいられない文章である。 新電電の誕生 【’85.4.1 朝刊 1頁 (全844字)】  きょう、日本電電公社が消えて、民営電電が生まれる。日本一の民間企業の誕生である。でんでん虫の歌をうたって祝いましょう▼《でんでん虫々かたつむりお前のかしらはだれがなる/暗闘苦闘で真藤(しんとう)さん》きまるまでは大変だった。財界出身の真藤恒氏か、生え抜きの北原安定氏か。政・財・官をまきこんでの抗争があった▼《でんでん虫々かたつむりお前の利権はどこにある/こっそり吸いましょ甘い汁》電電公社の年間資材調達額は約七千億円だった。百兆円規模にもなろうというニューメディア産業の中核企業になるのだ。政・財・郵政族・電電ファミリーがみつの山に群れるのは当然でしょう▼《でんでん虫々かたつむりお前の目玉はどこにある/よりどりみどりの新電話》数々の新型電話が激しい競争の中で目玉商品になる。パソコンを組みこんだパソコン電話、電話で外から家庭の戸締まりができるテレコントロール装置。情報通信革命が進み、自由化と共に米英ともしのぎを削ることになる▼《でんでん虫々かたつむりお前のあいさつどうなるの/「いらっしゃいませまたどうぞ」》きょうから電話の「加入者」は「お客様」になる。公社から会社への涙ぐましい変身大作戦が続く。ある営業所は毎朝「接遇の七大基本用語」を唱和しているそうだ。いらっしゃいませ・ありがとうございます・かしこまりました・少々お待ちくださいませ・お待たせいたしました・恐れいりますが・申しわけございません。「接遇」ということばに公社臭が残っているが、温かく接遇されて文句のあろうはずはありません。税務署の接遇もこの調子でやったらどうでしょう▼《でんでん虫々かたつむり値下げの約束どうなるの/エープリルフールで消えちゃうの》「長距離料金の値下げに当分全力を注ぐ。経営合理化努力でコストを下げ、極力値下げしたい」という真藤さんのことばを信じたい。 レジャーの中の効率主義 【’85.4.2 朝刊 1頁 (全845字)】  海は恐ろしい。去年の今ごろも新潟県沖で七人の客を乗せた釣り船が消息を絶った。海が荒れていたのに強行したのが失敗だったらしい▼鹿児島県沖で起こったこんどの釣り船転覆事故ではまだ遺体のみつからない人が多い。いたましいことだ。波浪注意報がでている荒海に乗りだすか、引っ返すか、という船長の判断のわかれめが事故を呼んだ▼高等海難審判庁が扱ったレジャー船の事故では、昭和四十八年から十年間に九十三人が命を奪われているが、そのうち半数は釣り船の事故だという。定員過剰、不注意、天気の変化が原因だ▼こんどの事故で、船長と釣り客の間でどういうやりとりがあったのかはわからない。だからこれはあくまでも一般論になるが、山や海では、せっかく遠くからやってきたのだからとか、休日はきょうだけだからとかいって、天候に目をつぶって日程を強行しようとする癖が私たちにはある▼海や山が恐ろしいというのは、大自然とのつきあい方を無視したばあいの恐ろしさである。天候次第で引っ返すのは勇気のいることだといわれるが、必要なのは「引っ返す勇気」よりも「引っ返す常識」を確立することだろう▼天候次第で計画を変える常識がなかなか常識にならないのは、私たちのレジャーに対する考え方の中にやはり「短い日程で最大の効果を」という効率主義が根強いからだろうか▼効率主義の世界からはなれるところにレジャーの意味があるのに、そこでもまた効率主義に縛られている。仕事の中のせかせかがそのままレジャーの中のせかせかになっている己を見つけて苦笑することがある▼「今後生活のどの面に特に力をいれたいと思うか」という総理府調査の質問に「住生活」と答える人がずっと一位だった。が、一昨年、昨年と「レジャー・余暇生活」が住生活を抜いて一位になっている。そういう時代であればなお、レジャーの中身が問われることになる。 出あいの季節 【’85.4.3 朝刊 1頁 (全855字)】  約十万の人が参加した『緑の国勢調査』の結果が発表された。この調査のおかげで、市民と環境庁の間にさまざまな対話が生まれたらしい。役所の企画としては近来にない快打だった。対象になる動植物の種類を変えて、来年また次回調査を計画したらいかがですか、石本さん▼サワガニやゲンジボタルの生息地が意外に広いことがわかった。帰化植物の激増ぶりもわかった。そういう結果はみな貴重な資料になるが、調査の意味はそれだけではない▼何万もの人びとが、ツバメに出あい、タンポポに出あい、キリギリスに出あった。人間と自然との何百万回もの新鮮な出あいがあった▼身近にもたくさんの草が精いっぱいに生きていることに気づいた。散歩道を見直すことができた。生き物を友とする気持ちが生まれた。筆者のところにも、そういう参加者からの便りが寄せられている。自然との出あいは、人の生き方の根源にかかわるばあいもある▼宗教家、山田無文は若いころ、禅の修行中に結核で倒れ、医者からも見放された。故郷に帰り、縁側に座っていると風があった。いい風だ、と思いながら考えた。風は空気が動いて起こる。その空気が自分を守っていてくれる▼そうだ、自分は孤独じゃない。大自然の大きな力に抱かれて生きているのだと思い、急に涙がとまらなくなった。自分は生きていたのではなく生かされていたのだということに気づくと、元気がでてきた。小林司さんの『出会いについて・精神科医のノートから』にでてくる話だ▼人との出あい、本との出あい、自然との出あい、さまざまな出あいがあるが、「出会いとは、結局のところ他者を介しての自分自身との出会いなのである」と小林さんは結論づけている。無文もまた、禅の修行の下地があったからこそ風との出あいでひらめくものがあったのだろう▼四月。出あいの季節。新しい職場や学校で、他者という鏡に映る自分を発見する旅がはじまる。 ブギの女王・笠置シヅ子 【’85.4.4 朝刊 1頁 (全855字)】  笠置シヅ子がその名を流行歌史にとどめるのは、美声とか歌のうまさとかのためではなく、歌の舞台に「動き」の迫力を爆発させたことのためだろうか▼舞台の上で動き回って歌うのは、今ではもうごく当たり前のことだが、笠置シヅ子の時代にあっては革命的なことだった。東海林太郎は直立不動で歌った。昔は姿勢を正しくして歌わないとお客さんに失礼になるという感じがあった、と東京ブギウギの作曲家、服部良一さんは回想する。笠置さんには思い切って動くことを勧めた▼静から動へ、流行歌の舞台の革命である。肉体の存在を主張する激しい動きと解放感のあふれる叫びが、腹をすかせて見にくる人びとの腹に響いた。主食の欠配が続き、歌う本人も「わてかて腹へってた」という時代だった▼東京ブギやジャングルブギには、ヤミ市に生き抜くものの生命力があふれていた。日劇の舞台に夜の女たちが押しかけたこともあった。後年、その中のひとりラクチョウのあねごお米さんが結核で死んだ▼笠置さんがかけつけた時、あねごは口がきけない。「なんでもっとはよう呼んでくれなんだんや」とブギの女王は泣いた。「忙しい人を呼んで迷惑をかけてはだめ」とお米さんがきつくいっていたためだ▼長い間テレビの「家族そろって歌合戦」の審査員をしていたが、笠置さんは、勝ち残った人をほめるよりも敗れた人に「惜しいなあ。惜しかった。またいらっしゃい」と声をかけることが多かった。「惜しかったア」といって温かく笑う時の表情に味があった▼時代には時代の歌がある。六〇年安保のころは西田佐知子の「アカシヤの雨が止む時」がはやり、高度成長の末期には藤圭子の「夢は夜ひらく」がはやった。「不確実性の時代」が流行語になったころにはピンク・レディーの「UFO」が大流行になった。笠置シヅ子のブギウギもまた、時代と共に燃え、時代と共に燃えつきる歌だった。あすは告別式である。 江夏豊投手、青春の快挙 【’85.4.5 朝刊 1頁 (全843字)】  江夏豊投手がアメリカの大リーグに挑んで、はじかれた。3Aにも残れないらしい。誇り高き男のことだ。無念のほむらを燃えあがらせていることだろう▼日本の野球選手の中で、たぐいまれな栄光につつまれながら、同時にまたこの選手ほど悪評をあびてきた男も珍しい。なまいき、ごうまん、ぶっきらぼう、わがまま勝手、協調性がない、暗い、すぐ監督とぶつかる、などなど。だが、こういう一匹オオカミをかかえこんでいけないところに、管理野球のもろさ、つまらなさがあるのではないか▼江夏に対する好き嫌いは別として、こんど、はるか海のかなたで行われた一つの試練は、久しぶりに、野球を愛する人びとの血をわかせた。大リーグ入りの競争の厳しさ、障壁の高さも、実感としてわからせてくれた▼失礼ながら、盛りをすぎた江夏にとって、大リーグで活躍するのは至難のことだと思う。三十六歳の投手はあえて、とらえがたき星をとらえようとする道を選び、挑み、そして泥にまみれた▼江夏は新撰組の土方歳三が好きだという。土方もまた、官軍と戦って敗れ、五稜郭で戦死している。やはり三十代のなかばである。「ぼろぼろになるまでやるんだ」といっていた江夏にとって、大リーグのオープン戦は五稜郭であったのかどうか▼作家坂口安吾は、三十六歳の時『青春論』を書いた。安吾は空中サーカスをみて感動する。「落ちる。落ちる。そうして、又、登って行く。彼等が登場した時はただの少年少女であったが、落ちては登り、今度はという決意のために大きな眼をむいて登って行く気魄をみると、涙が流れた」▼落ちても落ちてもまた挑む姿に、安吾は青春をみた。そして「老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今も尚青春、恐らく七十になっても青春ではないかと思い……」と書いている▼江夏の「老成せざる者の愚行」はまさに、青春の快挙でもある。 たばこ嫌い 【’85.4.6 朝刊 1頁 (全857字)】  鉄道の旅は大好きだが、たばこは大嫌いという同僚の話だ。列車に乗る時はまず禁煙車両があるかないかが大問題になる。あれば何をおいてもその車両に乗る。禁煙車両がない場合は、ただもうたばこ飲みが隣に来ないことを祈りつつ窓ぎわの席に座る▼運悪く、隣の客がスパスパやりはじめたら、車窓の風景を楽しむどころではない。あたりを見回して空いている席に避難する。避難する席がない時は窓をあける(窓のあかない列車もある)▼窓をあけると、寒い日や雨の日は周囲の客から露骨に白い目でみられて身がちぢむ。やむをえず、ほんのわずかだけ窓をあけ、口を窓に近づけて呼吸することになる。われながら奇妙なかっこうだと思う、と同僚はいっていた▼たばこを吸うか吸わないかは好みの問題でもあるし、愛煙家の好みは尊重したい。吸う本人の寿命がちぢまろうとちぢまるまいと、人それぞれの勝手、というものだろう。だが同時に、非喫煙者の好みも尊重されるべきだろう。たばこの煙で気分が悪くなる、頭が痛くなるという人が世の中には少なくないのだ▼この欄でも再三、主張してきたことだが、国鉄は四月一日から新幹線の禁煙車両を少しふやした。今までは自由席だけだったが、指定席一両が禁煙になり、グリーン車にも禁煙席ができた。様子をみて、国鉄は全線でもっと禁煙車両をふやすことを考えてもらいたい▼名古屋市の地下鉄駅構内や地下街でも、一日から指定の場所以外は禁煙になった。札幌市の地下鉄構内など、すでに禁煙にふみきるところが次第に増えている▼名古屋市ではまた、市内中学の二教師が「職員室の禁煙、喫煙室の設置」を要求している。市人事委は要求を棄却する判定を下したが、一方で「会議中の禁煙、喫煙者と非喫煙者の席の分離、喫煙コーナーの設置、換気設備の充実に努めよ」と注文をつけた。「たばこ嫌いはつらいよ」の時代は「愛煙家はつらいよ」の時代でもある。 税金の使い道 【’85.4.7 朝刊 1頁 (全853字)】  「この防衛庁の糧食費には水増しがありそうだ」ということが大蔵省で問題になった。参院議員だった故村上孝太郎さんの防衛担当主計官時代の話である▼部下の担当主査が毎朝、魚河岸に通った。野菜や肉類の値段も調べて村上さんに報告した。一週間に及ぶ忍耐づよい調査の結果によって、水増しを追及した。橋口収さん(元大蔵省主計局長)の『新財政事情』にでてくる話だが、税の使い道をきめる査定は万事こうあってもらいたいし、こんな大蔵省を頼もしいと思う▼参院予算委で明らかになったことだが、中曽根首相が最終的に防衛費に上積みした分のうち、約四割、二百十一億円はつかみ金的な追加だったという▼必要な経費を積みあげ、厳しく査定して数字をはじきだす、というのが予算編成の通例だろうが、これにしばしば政治的つかみ金がまじるから話がややこしい。二百十一億円もの金の追加がきまったあとで、大蔵省と防衛庁がその使い方を相談したというから話があべこべだ▼さらにいえば、この時点で、首相がGNP比1%枠を「汗を流して守る努力」をするつもりならそれはできたはずだ。首相はそれをせず、むしろ1%枠とのすき間をほとんどなくそうという努力をした▼つかみ金といえば、木材製品の関税下げ問題で、佐藤農林水産相の口から飛びだした「救済資金三千億円」という額もよくわからない。いかなる根拠があっての額なのか。山林振興や救済の必要性はわかる。だがそれは、ご都合主義のつかみ金で救済されるような、なまやさしい問題ではない。税金の使い道がこんな風に、おおざっぱに、場当たり的に形づくられていっていいものかどうか▼橋口さんは、大蔵官僚の査定には「国民からお預かりした貴重な税金を、真に必要な分野に割り当てる厳粛な行為に対する“おそれ”の意識が潜在している」と書いている。お忙しい政治家諸氏はこの「おそれ」の置き忘れが得意らしい。 若者の海外旅行 【’85.4.8 朝刊 1頁 (全847字)】  近ごろの大学生たちのなかでは、就職が決まってから入社までの間の海外団体旅行がさかんなようだ。観光シーズンにはちょっと早い三月だったが、ヨーロッパでそうした若者のグループにいくつか会った▼サラリーマンの仲間入りをしたら、ゆっくり海外を旅するなんて、夢のような話になる。今のうちにということで、この種の企画がうけているらしい。社会人としてスタートを切る前に外国旅行を経験し、見聞を広めておくのもよいだろう▼同じ大学生でも、西ドイツでは就職難で留年する学生がふえて大学側が頭を抱えているという記事を新聞で読んだ。就職も決まり、海外旅行ができる日本の若者は、それに比べたら恵まれている▼しかし、大学生たちの旅行が、一般の観光客の団体旅行とあまり変わらないように見えるのは、いささか不満だ。旅行業者の手配どおりに、いつも同じ仲間と動き、名所を見物し、おみやげを買って帰るというのでは、若者の旅としては物足りない▼外国旅行の一つの意味は、いろいろな人と出会うことだ。外国の人たちの生活や考え方にふれることだ。それには、バスを降り、仲間と離れて一人で歩いてみなければならない。とりわけ、若い人には一人歩きを試みてもらいたい▼団体でいけば、ヨーロッパを、ほとんど日本にいるように旅行できる。ロンドンやパリのホテルでは、ドアのカギのかけ方から電話のかけ方、洗濯物の出し方まで日本語の説明があった。日本料理店はいたる所にある▼現代の旅行は観光客を彼らが旅している土地から隔離する仕組みになっている、といったのは米国の社会学者ブーアスティンだ。彼は、買い物がチップとならんで観光客に残された数少ない接触の活動だともいっているが、いまや、買い物の相手も日本人店員だ▼海外旅行は便利になり、年に四百二十万もの人が出かける。せっかくの外国の旅がカプセル移動に終わるのは惜しい。 衆院定数是正問題 【’85.4.9 朝刊 1頁 (全841字)】  アメリカにサンセット予算というのがあるそうだ。必要性がなくなったら自動的に廃止することをあらかじめきめておく事業のことだが、衆院の「定数是正」はサンライズ法案でゆけばいい、という議論がでている▼一九九五年とか二〇〇〇年とかを期して、一斉に新しい定数で出発する。以後は、国勢調査の結果に応じて自動的に定数是正が行われるしくみをつくる。今のうちにそういう理想案をつくっておくという案だが、こういう議論がでてくるのは、今すぐにはどうせ根本的な是正策は望めない、という絶望感が深い証拠だ▼ある客には七百四十円で五個のリンゴを売る。次の客には千五百円で三個しか売らない、という果物屋があればたちまち激しい非難をあびるだろう。ところがそれに似たことが衆院の定数問題で起こっている▼しかも最高裁から「おかしいですよ」といわれたあと、首相は「なおします。最大限の努力をします」と繰り返してきたのに、いまだに是正の見通しはたたない。客の非難をあびて「是正します」と頭をさげながらもなお、格差売りを改めない店があればたちまちつぶれてしまうだろうに▼定数配分が「違憲」といわれるようになったのは、立法府の積年の怠慢の結果である。「もし投票する権利が害されているならば、他の権利はいかに基本的なものでもそれは幻影にすぎない」。一九六四年、アメリカ連邦最高裁は一票の格差について、そういう判決を下したという。一票の価値の平等は、それほど重い▼六増・六減案だ、いや定数の減る選挙区の議員の身にもなってくれ、今年の国勢調査の結果をみてからでも遅くはないんじゃないか、などの意見やつぶやきをきくと、結局は「抜本是正は先送りに」というのが多くの代議士の本音かと思う▼本音は本音でいい。だがそれをしばるのが憲法の建前だろう。政治の基本に関する建前を軽くみてもらっては困る。 春花 【’85.4.10 朝刊 1頁 (全843字)】  桜のつぼみがほのかに色めいてくるころから、咲いて、咲き誇って散ってゆくまでのさまを、昔の人はさまざまな言葉で表現した▼待つ花、初花、盛りの花、花明かり、花おぼろ、花の雲、花の幕、朝桜、夜桜、桜月夜、そして花散る、花吹雪、落花、飛花、流れに浮かぶ花びらは花いかだ、さらに桜しべ降る、名残の花があって、ゆく春を告げるのが遅桜である。ある植物の花の移ろいを、これほどまでに克明な言葉で染めあげた例をほかに知らない▼先週末、埼玉県北本市のスモモの里のあたりを散策していたら、エドヒガンザクラの巨木にであった。根回り三メートル、高さ二十メートル、四方にひろげた枝に密生する千万の花がうすべに色ににおって、白っぽい空にとけこんでいる。ソメイヨシノよりもやや小さめの花びらは、繊細で清絶だ▼シダレザクラが一本、道ばたにあった。ふりあおぐと、淡いくれない色の滝が八方に散るという感じがあった。土地の特産物であるスモモの果樹園からは、たいひのにおいが流れてくる。スモモの花も今が盛りだ。キランソウが濃い紫の色を咲かせている。水辺には、空の色を小さな点の中に閉じこめたようなキュウリグサが咲いている▼果樹園をかこむ雑木林の新芽や花穂が淡くかすんでいる。もえぎ色や若苗色や黄丹(おうに)色がまじりあってあわあわと煙っている。「何ぞ、独り桜花に狂せむや」(蘆花)といいたくなるような雑木林独特の眺めである。遠くにコブシの花の咲き残っているのがみえる▼「昔は、コブシの花が咲きはじめたら苗代に稲のタネをまくといったものです」。すれ違った土地の人がそういった。花や鳥を農耕の指標とするのを自然暦とでもいうのか。今はもうすたれる一方だが、自然暦の伝統はなんらかの形で今も私たちの血の中に流れているのではないか。天地の暦に目を配る発想には、融通無碍(むげ)の柔軟さがある。 100ドルクーポン 【’85.4.11 朝刊 1頁 (全855字)】  「国民一人が百ドルずつ外国製品を多く買えば、百二十億ドルも輸入がふえ、外国も喜ぶ」という中曽根首相の呼びかけを受けて、政府は緊急会議を開き、国民全員に「百ドルクーポン」を贈ることをきめた。最近の為替レートにあわせて、実額は二万五千円にすることにした▼使いやすいように額面千円のクーポンが二十五枚つづりになっていて、表には「輸入品で夢を買いましょう」とある。外国産原料を使った製品をクーポンの対象に含めるかどうかでは激論があったが、結局、含めることにした▼年間百二十億円もの広報費を使っている総理府は、魅力的な輸入品の数々をテレビCMや新聞で紹介した。官庁は率先してアメリカの大型車を買い、職員はただちに外国製万年筆を買うことを命ぜられた▼全国の百貨店、スーパー、商店街は「輸入品フェア」を開き、日航は大々的な「買い物ツアー」キャンペーンをはじめた。アメリカでゴルフクラブを買おう・英国製の傘を買おう・タイで焼き鳥を買おう。西独でサングラスを買うツアーには、外国用の百ドルクーポンをしかと握りしめたやくざの大集団が参加し、黒服、黒めがねの一行が西独市民を驚かせた▼クーポンの原資に税金をあてる案には大蔵省が猛然と反対した。「私は百ドルクーポン運動に政治生命をかける」という首相の決意表明があり、輸出で稼いだ企業が、輸出実績に応じた額を拠出した。しめて約三兆円▼さて、結果はどうだったんでしょうか。運動期間中、一番あたったのが実は、天ぷらそばであり、みそであり、豆腐であり、輸入原料でつくられた食品の数々だった。よけいなモノを買いこむよりも、日ごろの食費をクーポンで支払おう、というつましい人が多かったからである。輸入品購買運動はかくて、わが国の食糧自給率の低さを暴露することにもなった▼このお話の結末は結局、笛吹けど、輸入は思うほど伸びず、ということになるはずです。 津山市議会議長選挙 【’85.4.12 朝刊 1頁 (全842字)】  いちばん驚いたのは、当選した本人だったらしい。先月の津山市議会の議長選挙で、議席二つの共産党議員が議長になった。末永弘之氏、四十一歳。抱負は、と記者団にきかれて「自分でも一票入れたから、逃げはしないが、頭が混乱しているので、しばらく待って下さい」▼岡山県津山市は松平家の城下町で、箕作阮甫(みつくり・げんぽ)のころから、文化を大切にする土地柄である。作陽音楽大学があり、有線テレビの津山放送があり、夕刊紙「津山朝日」が健在である。市議会が最小会派から議長を出すのもなかなかの見識と見たが、これは外れた▼市議会の三十人(このうち一人は病休)中、二十人が自民党系である。これが、二年間議長をしてきた田淵啓資氏の再選派七人とアンチ田淵派十三人に割れた。社会党系四人と公明党三人は「よりましな議長を」ということで再選派に同調することにした。再選派十四人である▼アンチ田淵派は考えた。共産党の二人は、例によって自分の党以外には入れない。とすると、一票差の負けである。ならば、いっそ共産党に乗って再選を阻止しよう。こうして十五対十四で共産党議長の誕生となった。市内の有力者たちは「いきさつを説明したい」という自民党系の議員たちに「当分、家に近寄るな」と腹を立てている▼新議長にそろそろ抱負は固まったか、ときいた。「市と議会がなれおうとるでしょ、これを正す。もう一つは、議会もたてりを守ること」。たてりとは、分のことだそうだ。癒着と、議員の肩書を使った介入とを自重するということである。大阪府下の羽曳野市など二、三の市で共産党議長がいるが「他党に頼まないで議長をとったのはここだけ。借りなしでやっていける」▼議長交際費が年三百五十万円ある。自治体の支出の中で、いちばん、あいまいな部分である。使途を完全にガラス張りにする。これは議長一人の決意でできる。 名古屋新幹線公害訴訟 【’85.4.13 朝刊 1頁 (全868字)】  興味深いアンケートの結果があった。新幹線公害訴訟で、名古屋市南部の沿線7キロの住民が「減速」を求めている。これをどう思うかと本社記者が新幹線の乗客にきいた。「減速しても構わない」が69%で、意外にも減速支持が多数派だった▼減速してもせいぜい数分の遅れなのに、国鉄はなぜあえてこれをしないのか。ここで減速すれば、他の住宅地域約五十カ所でも同じように減速せざるをえなくなる。そうなれば「大量高速輸送の使命を損ない、公共の利益を損なう」と国鉄はいう▼その国鉄の言い分に対して「それでも住宅密集地は減速すべきだ」が38%もあった。小さなアンケート調査だから断定はできないが、「公共の利益」をふりかざす国鉄に対して、乗客の多くは割にさめていて、原告に同情的である▼同僚が名古屋市の現場で取材した。高架わきの雑貨店の中までドドドドッという地響きのような音が追いかけてくる。コンクリートの床が上下にゆれる。それが五、六分おきに起こる。「何年たっても慣れるなんて、とてもできません」と店番の女性がいった▼防音工事もし、あれこれの自衛策を講じたが、いまだに夜十一時十分ごろの最終が通りすぎた後でないと眠れない。「音や振動のすごさは、ここに住んでみないとわかりません」▼国情の違いがあるにせよ、フランスの新幹線は、どの住宅街からも200メートル以上の距離をおくという。ぶどう畑を避け、羊の群れを避ける。わが国ではしかし、新幹線高架の20メートル以内に人が住む。残念ながら、それがきわめて異常な風景なのだという認識が、新幹線誕生当時の私たちにどれほどあったろう▼東海道新幹線の場合、たとえば住宅密集地域のスピードを落として他の地域のスピードをあげる。将来は最高時速を240キロにあげて、かわりに住宅地はゆっくり走る。そういう工夫を積み重ねれば、大幅な遅れをださずにダイヤを組むことが可能になるのではないか。 松本先生の絵の教え方 【’85.4.14 朝刊 1頁 (全860字)】  松本キミ子さんの絵の教え方はちょっと変わっている▼(1)りんかくの下がきをしない。(2)絵の具は三原色と白しか使わない。自分で絵の具をまぜあわせてさまざまな色を作る。(3)描こうとする鶏やニンジンによく触る。このキミ子方式で、絵が大嫌いだった子が見事な写生をするようになった▼松本さんは美術担当の産休補助教員である。どこの学校へ行っても問題児、お客さんといわれる子がいる。何もしゃべらず、何もせず、学校に来たがらない子がいる。繊細な神経を侵されまいとして鈍感なふりをしている子がいる。そういう子との格闘の中でこの方式は鍛えられた▼その著『教室のさびしい貴族たち』を読んだ。はみだし教師と落ちこぼされた子どもたちとのなまなましいつきあいの記録だ。おふくろさんのあったかさや自由人の奔放さみたいなものが、問題児扱いの子どもたちの魂をぎゅっとつかむのだろうか▼たとえば、小学六年のH少年はいつも仲間のげんこつの渦の中でもがいている子だった。絵の時間も絵の具箱をだらしなくかかえて突っ立っている。「先生、むだだよ、こいつに何かさせようたって、アホなんだから」▼「だまれ」と松本先生は叫ぶ。Hに気合をいれて筆をもたせ、寄り添ってペンペン草の写生をさせる。少年は魔術にかかったように変身し、絵に没頭する。やがてできあがった初めての作品をみて、「すごおい」。ため息と共に先生はつぶやく。「知的で純粋で私をはるかにこえている」と思う。Hの絵がクラス中をうならせるころから、このいじめられっ子は胸を張って仲間とおしゃべりを楽しむようになった▼ウサギや草を愛するすてきな子が、しばしば学校一の問題児にされている。だが、うとまれ、絵筆の持ち方さえわからないでいる子どもたちこそが「私を力強く励まし、新しい発見へと導いてくれた」と松本さんは書いている。この「子どもたちに導かれて」という言葉がいい。 旅 【’85.4.15 朝刊 1頁 (全853字)】  仕事を始める前に、毎日、読者からいただいたお便りを読む。これが楽しい。大正生まれの女性からイギリスの旅の感想が寄せられている。愛犬家の婦人は行く先々でやはり愛犬家の主婦たちに手厚くもてなされ、手料理をごちそうになり、たくさんのことを深く心に刻むことができた、とあった▼息子の三十一日間ヨーロッパひとり旅のみやげ話をききながら、自分も楽しい旅を体験しているという母親の手紙もあった。ある若い女性はアルバイト料をため、仲間四人でドイツへ行った▼厳しい現実の姿を見、「ジャップ」ともいわれた。この時はつらかったが「若者はショックを体験しなくちゃいけないと思います」と書きつづっている。それぞれにそれぞれのいい旅があると思いながら拝読した▼「大名登山はやめます」といい、徹底的なケチケチ作戦でヒマラヤ遠征に出発した登山隊(山学同志会)の記事があった。ヒマラヤへの日本登山隊は年間百隊を超えるそうだが、中にはポーターやシェルパが数百人から一千人もいる大所帯がある。スポンサーに頼り、一億五千万円の費用をかける隊もある。今度の遠征はポーターは十人ていどで総経費が四百二十万円、というから大変な節約である▼大登山隊が途中の集落で食糧やマキを大量に買いあげるため、そこがききんに近い状態になることがある。大量のゴミや汚物が山を汚す。山の汚染の元凶として、日本隊が糾弾されたこともある▼「世界最強の山男」といわれたイギリスのジョー・タスカーさんがいっている。「われわれはもっとひっそりと、だれにも迷惑をかけずに静かに登るべきだ。小人数なら地域に最小限の損害を与えるだけですむ。それに、各方面から資金援助を受けているとむりに登頂しようとする」▼登頂に成功さえすればよいという登山から、いかにしてよりよく山に登るかという登山の質を問う人がふえている。ふつうの旅の場合もまた、同じだ。 2人の発明家 【’85.4.16 朝刊 1頁 (全855字)】  特許制度満百年にあたって、記念行事委員会が「日本の発明家10傑」を選んだ。その中に自動織機の豊田佐吉と養殖真珠の御木本幸吉の名があった。この二人の大発明家には共通するところが多い▼第一、二人とも特別の教育は受けていない。少年時代の佐吉は大工の徒弟で、幸吉は青物の行商をしていた。第二、人並みはずれた好奇心の持ち主だった。佐吉は内国勧業博覧会の機械館に十五日間も通って、一日中、機械の動きをみつめていた。幸吉は新聞をよく読み、一日九回ラジオのニュースをきいた。情報に鋭敏な好奇心をもっていた▼第三、二人には、体をはる、という感じの現場主義があった。佐吉は工場では「現場を見ろ、自分の手でさわれ」を口ぐせにし、故障した機械があるとすぐもぐりこんで油だらけになった。幸吉は、養殖真珠を志してからはだれにも頼らず、自ら小舟をこぎだしてくいを打ち、海中にしゅろ縄を張りめぐらせた▼第四、沈静熟慮の時間を大切にした。幸吉は汽車の中でも鋭い表情になって考えこんだ。「考えを練りたくる」瞬間である。佐吉は宴会の席でも、いい考えが浮かぶと黙想し、急に立ち上がって消えてしまうことがあった▼第五、女房の働きがなくては、二人とも挫折していたことだろう。失敗続きで負債がふえても、幸吉の妻梅子は「家事は決して心にかけず、全力を事業に」と手紙を書き、資金の調達に奔走した。「ワシの今日あるのはウメのおかげよ」。幸吉は亡き妻をしのんでそういい続けた。佐吉の妻浅子もまた、苦闘時代の佐吉を助けて小さな機屋をとりしきった▼第六、発明はしばしば常識を否定するところからはじまる。佐吉はごくつぶしとののしられ、幸吉も狂人扱いにされたが、ひるまなかった。「常識なんかありがたがっていてはだめだ」と幸吉はいった▼近代化の興隆期に生まれた二人には、さっそうたる明るさがある。今なお、二人から学ぶものは多い。 女性の文化的水準向上 【’85.4.17 朝刊 1頁 (全839字)】  点訳や朗読テープの奉仕をしている人の十人に九人は女性だ。さらにその八割以上は子育てが一段落した主婦だという。日本点字図書館の話である▼展覧会をのぞいても、女性の姿が多い。朝日カルチャーセンター(新宿)の受講者も75%は女性である。都内の小劇場へ行けば、男はどこにいるのかと探さなければならない。観客だけではなく、昨今は女性ばかりの劇団も生まれている▼劇団こまつ座の座長として全国を歩きはじめた井上好子さんの話によると、どこへ行っても八割、九割が女性の観客であることにびっくりもし、不安にもなったという▼「びっくりしたのは、女性の文化吸収のすごさです。不安になったのは、いずれ女の方が男よりも文化的な水準がはるかに高くなるだろうということでした」。男性がビールを飲んで会社のぐちをいっている間に、女性はせっせと学び、観劇をし、という状態が続けば、文化的水準の格差は開くばかりだろう。この地殻変動を「知らぬは男ばかりなり」であるのかもしれぬ▼主婦の自由時間がふえたのは、育児の期間が短くなったことや家事の合理化が進んだためだろう。そして心の3C(カルチャー、クリエーション、コミュニケーション)を求める動きが強まってきた▼男性がカタツムリのように会社人間という殻に閉じこもっているうちに、女性はボランティアや文化活動の分野で実力をつけつつある。この奔流がいかなる方向をめざすかはわからないが、既成の会社人間集団の価値体系に穴をあけることにはなるだろう▼女性だけの会社「アイディア・バンク」を作った佐橋慶さんは、昨今の世相を「家父長制から家婦長の時代へ」と表現している。さらに「二一世紀は女性の自由謳歌の時代、しかも、男性の受難の世紀である」と書いている▼ちなみに、ことしの婦人週間のスローガンは「あらゆる分野への男女の共同参加」である。 つましき“貿易黒字” 【’85.4.18 朝刊 1頁 (全859字)】  アメリカでは、女性をほめる時にパワーフル(力がある)とか、アサーティブ(自己主張が強い)とかの形容詞がよく使われているというニューヨーク報告が家庭欄にあった。ひかえめや遠慮がちはあまりはやらないらしい▼ワシントンからきこえてくるパワーフルでアサーティブな主張、己の高金利政策の責任をたなにあげての日本非難にいささか閉口している時なので、なるほどと合点した。自己主張の激しさは、アメリカ人にとっては美徳なのだ。このあたりのことは日米友好のためにしかと認識しておこう▼だがそれにしても、「対米貿易で約三百四十億ドルの黒字がでた。けしからん」と非難されても、日本人の大方はキツネにつままれたような気持ちだろう。はてさてその三百四十億ドルの黒字はどこへ消えちゃったのだろう▼アメリカの人たちは、貿易の黒字で日本中がうるおって、日本人はみな金持ちになっていると思っているのだろうか。とんでもない誤解である。日本人の一人当たり国民所得はまだ世界の十何位、というところだろう▼私たちはつましい家に住み、何千万円もの住宅ローンに追われ、子どもの教育費に苦しんでいる。輸出でかせいでいる企業はあるが、大方はあまり貿易黒字の恩恵にあずかっていない▼日本人の家計貯蓄率が高いのは、老後の不安のためであり、住宅資金、教育費、病気などの不時の出費に備えるためだ。福祉政策の貧しさ、住宅政策の貧しさ、教育政策の貧しさに対する懸命な自衛策である▼貯金をすればその分内需が落ちて商品がだぶつき、だぶついた商品はドル高・円安を利用してアメリカへ流れこむ。おおざっぱにいえば、貿易黒字は日本のゆたかさの象徴のようにみえるが、実は福祉・教育・住宅政策の貧しさの象徴でもある▼出超の構造を変えるには内需振興策が必要だし、アメリカに向かっては、はた迷惑な高金利政策の見直しを、それこそパワーフルに訴え続けることだ。 政治家と建前 【’85.4.19 朝刊 1頁 (全842字)】  「理屈は後から貨車で来る」というのは、民社党の春日常任顧問のことばだ。権謀術数があって、裏取引があって、それを外部に説明する時はすわりのいい建前を考えればいい、といった意味でもあるだろう▼二回目の会合を開いた竹下創政会の動きをみていると、政治家にとってはやはり建前がものをいうのだなと思う。創政会の看板は「さわやか勉強会」である。創政会は「田中元首相の親衛隊」なのだという金丸幹事長のせりふも泣かせる▼建前は建前として、事実上は竹下派の旗あげであり、派内の主導権獲得の布石であることは大方が知っている。知ってはいるが勉強会という建前がある以上、全面否定はできぬというところだろう。参加者が五十人以上では風当たりが強くなるし、四十人以下では威信にかかわる。今回はまあ四十九人程度でというところはなかなか芸がこまかい▼〈建前は、それを守っている限りは他の人々の好意をあてにできるので、少なくともその分だけは甘えが満たされる〉土居健郎氏の『表と裏』の一節だ▼長老支配という建前がものをいう間は派閥の長も安泰だが、創政会の旗あげで、世代交代という建前が支配的になってくると、派内の人びとの好意はあてにできない。各派とも下からの突きあげが激しくなるだろう▼土居氏はさらに書いている。〈日本人は、建前を軽んじつつも、なおかつこれを維持するという綱渡りを演じているのだろうと考えられる〉昨今の政治の世界はこの綱渡りの競演だ▼民社党でも「人心一新」の建前の綱渡りが続いている。佐々木委員長後の新役員をだれにするか。人心一新、世代交代の建前をいうのなら、長老支配を打破せよと若手党員が突きあげている。いつまでも春日院政でもあるまい、長老は新役員人事のおぜんだてをするなという主張が、今回の争いでは一番わかりやすい。春日さん、対抗する理屈を貨車で運びますか。 万博道路のヒキガエル 【’85.4.20 朝刊 1頁 (全853字)】  3月から4月にかけて、筑波科学万博に通ずる新しい道路でたくさんのヒキガエルがひき殺された。道路一面に命を奪われたカエルがへばりついている日もあったそうだ▼ヒキガエルは、自分の生まれた池や田に戻って産卵する習性がある。どんな障害があっても命がけで戻ろうとする、と広島大理学部の西岡みどり教授はいう。いくつもの万博道路ができたために、あちこちの生息場所が分断された。産卵する雌ガエルたちは、やむなく道路を横切ろうとして、車にひかれたのだろう▼8日付の「ガーディアン」紙は、イギリスのヒキガエル救出作戦の話を紹介している。自然保護派が「ヒキガエルに注意」の警戒標識を立ててくるま族に呼びかけ、移動する約2万匹の命を救ったという▼しかし「財政引き締めが英国社会に新しい層の犠牲者をだしている。それはヒキガエルたちだ」という意見もあった。財政難の地方自治体が標識を立てるゆとりがない、と突っぱねているためだ▼ヒキガエルの保護? 冗談じゃないよ、と冷笑する英国人もいるようだが、一方では「ヒキガエルは田園生態系の中心的な役割をはたす」と持ち上げられている▼「昆虫などを食べているヒキガエルが姿を消せば、自然の均衡が崩れる。害虫が大量発生して農作物を荒らすということも起こるでしょう。ですから中国ではカエルを守る運動の映画を作ったりしています」と西岡さんはいっている。たかがカエル、ではないのだ▼ヒキガエルは夜行性で、車の光をあびると、すくんでしまう性質がある。だから車の徐行ぐらいでは救うのが難しいともいう。道路と草原の間にみぞを掘ってビニールの幕を張り、落ちてくるヒキガエルが大きな容器に入る仕掛けをつくっておく。毎日、人がその容器を道路の反対側に運んで移動させてやる、というスイスの話をきいたことがある▼科学博がまいたタネだ。科学の力でヒキガエルを救出しなければ、ね。 朝日広告賞の作品展 【’85.4.21 朝刊 1頁 (全852字)】  人さまの文章をあれこれいうのもおこがましい話だが、『朝日広告賞』の作品展を資生堂ザ・ギンザ内でみて〈一般公募の部〉の「銭湯の老人」の文章に感心した▼77歳の江戸っ子と男性化粧品の組み合わせがいい。トメさんは「毎日ネクタイに背広というイデタチで若松湯にのり込む。ギンと熱い湯に、サッと入る」。ギンと、がしゃれている▼「ウンとかヨシとか自ら合いの手を入れながら念入りに身仕度を整え……『さてと』といいながら立ち去る」。この「さてと」に細密描写のおもしろさがある。市井でしゃきしゃきと生きている老人の暮らしがみえてくる▼日々、現代史をつづる新聞としては「異常」と「日常」のないまぜになった紙面をつくる必要があるだろう。だがニュースは宿命的に異常性にかたよりがちだ。そんな時、新聞広告の中に「銭湯の老人」のような、鋭くきりとった日常の風景がみえてくるのはありがたいことだ▼〈企業参加の部〉では、角川書店のちょっときどった広告文が目についた。「文庫創刊のきっかけは、古本の走り書きだった。『目がつぶれるほど、本が読みたい』。35年前、ひとりの男が感銘をうけ、今日の文庫を確立させる礎となったこの言葉を、私たちはこれからも忘れない」▼ここには、記者仲間でいう「お話」がある。お話とは、物語性の強い話題のことだ。「遊んでいるお父さんのほうが、好きですか」というサントリーの広告にも「お話」があった▼「都市ガスってフェミニストね」という東京ガスの広告文も目をひいた。見出しで目をひき、「ガスもれしても/地震で我を忘れても/マイセーフなら安心です」で目をひき、あとの詳しい説明を読む気にさせる▼見出し・前書き・本文という新聞記事の3段階手法が、こいきな形で生かされている。奇をてらわず「洗練されたわかりやすさ」にかける、というところがいい。ことしはそういう作品がめだっている。 「いじめ」の土壌 【’85.4.22 朝刊 1頁 (全837字)】  曲がったキュウリは、近ごろ評価されないそうだ。見てくれが悪いし、他のキュウリと一緒にパックするとき、扱いにくいからである。かくて個性派キュウリは異端視され、安値になる▼日本のこどもが今、キュウリ並みの扱いを受けている。学校という促成栽培場で、教師という名の品質管理者によって、ズボンやスカートの長さが規格通りかどうか、測られている。たとえば、兵庫県のある高校教師は、こんな「実践記録」を発表した▼「前髪・横髪・後ろ髪の長さを測り、正規の状態になるまでの月数を記入しておいて適時点検をする。くせ毛の生徒については十分調査したのち、くせ毛の認定証を発行し、各自に持参させている。また、くせ毛の度合いを把握するために写真をとり、各学年で保管し、活用している」▼この「実践記録」を読んで思い出したのは、いじめられっ子をもつ母親から朝日新聞社(大阪)に届いた手紙だ。「父親がいないから、貧乏だから、筆箱の形やハーモニカの色が違うから、つまり人と違うから仲間はずれに、いじめの対象になる」▼学校は規律、秩序が大事だと説いて、こどもを点検し、規格外の子は排除している。そんな土壌で生育した子だから、外見が悪かったり風味が違ったりする子を、シカト(無視)するようにもなる。個性派の存在を認めない点で、学校も、いじめっ子も似ているではないか▼警察庁が、全国の警察で去年扱ったいじめ事件をまとめたら531件だった。この数字は、おそらく氷山の一角だろう。最近のいじめっ子は一見、良い子である。大人は、よもやと思ってしまう。一方、いじめられっ子は、仕返しを恐れて被害を大人に打ち明けない。いじめは表面に出にくい▼もっと表面に出にくいのは、学校がこどもに加えるいじめだろう。キュウリよ曲がるな、という無理無体も、時には一種の「いじめ」となるのではないか。 「宅配弁当」 【’85.4.23 朝刊 1頁 (全849字)】  いま、東京の銀座かいわいではやりだしたものにデパートの「出前ランチ」や「宅配弁当」がある。予約に応じて、百貨店の車が何種類もの弁当を近くの企業に配って回る。そば屋さんの出前を大型化したようなもので、できたての味の宅配便化であり、駅弁の出前化である▼これが目をひき始めたのは(1)都心のビル街に意外に社員食堂が少ない(2)あってもその味にあきる人が多い(3)昼食時に混雑する食堂街を避けたい人がふえているなど、いろいろな理由があるだろう▼宅配弁当なら時間も節約になるし、いながらにして、しにせの味が楽しめる、というのはデパートの宣伝だ。学校給食世代が成長して外食産業給食世代になりつつある、ともいえようか▼山本周五郎の短編『かあちゃん』には、弁当のこと1つで号泣する男の話がでてくる。「かあちゃん」は強盗に押し入った若者を改心させて、実子と共に面倒をみる。大工になった青年はまもなく衰弱している自分にだけ、実子よりもおかずの多い弁当を作ってくれていることを知って、泣く。「おらあ、生みの親にもこんなにされたこたあなかった」▼するとかあちゃんは若者をしかりつける。「親を悪く云う人間は大嫌いだ。身の皮をはいでも子になにかしてやりたいのが親の情だよ、それができない親の辛い気持ちを、おまえさんいちどでも察してあげたことがあるのかい」▼親と子を結びつける弁当の中身について、日本人は昔から強い関心をもってきた。大正のころの「良い弁当」と「悪い弁当」の例示がある。前者はたとえば「麦飯、煮魚、里いもと油揚げのにしめ」「米飯、小魚あまから煮、黒豆」、後者は「米飯と浅草のり」「食パンにジャム」(昭和女子大『近代日本食物史』)。しかし、ノリ弁をストーブで温めて食べるのなんか、うまかったけどねえ▼昨今はどうもおふくろ印の弁当から百貨店印の弁当へ、というご時世らしい。 女子マラソンで世界記録 【’85.4.24 朝刊 1頁 (全870字)】  1970年、アメリカの16歳の少女がマラソンに参加して3時間2分53秒の記録をだした。こんどのロンドン・マラソンで、ノルウェーのクリスチャンセン選手が2時間21分6秒の世界最高で快走した。わずか15年で、約40分も時間が短縮されたことは、驚異というほかはない▼この記録は、2年前にアメリカのベノイト選手がだした記録と共に、あの人間機関車ザトペックがヘルシンキ五輪でだした2時間23分3秒を抜く、というみごとなものだ▼母親になってからめきめき強くなったクリスチャンセン選手は「2時間20分の壁を破ることができる」と語っている。マラソンの世界ではやがて女性選手が男性を追い抜く、と説く人さえ現れている▼陸上競技の男女の世界記録を比べると、男女のスピードの差はおおざっぱにいって10対9になるそうだ。たとえば100メートルは、男性9秒93に対して女性は10秒76、ほぼ10対9の数値を示している▼だがこの10対9は、そう不変のものではあるまい。とくにマラソンでは持久力がものをいう。ドーバー海峡をいい記録で泳ぎ切った人の中には女性が多いが、女性には持久運動に適した体力が備わっているのだろう。疲労の回復力も違う。女性はマラソンが終わってから一週間後にはほぼレース前の状態になるが、男性は回復に約2週間を必要とする、という報告があった▼べつに、記録上の数値にこだわるつもりはない。かつては女性にはマラソンはむりだ、過酷だという先入観があった。だが女性が参加するようになったら、そんな先入観が吹きとばされ、あれよあれよというまにすばらしい記録がでた、ということに着目したい▼それに、スポーツには数値でははかれない部分が大きい。女性の体のやわらかさ、均衡を保つ力を示すのが平均台だ。狭い台上で片足を高くあげ、跳び、宙に舞い、動から静、静から動へ移る姿に拍手を送るのは、数値に対する感動のためではない。 東京の街路樹 【’85.4.25 朝刊 1頁 (全875字)】  皆さんのところには、どんな種類の街路樹がありますか。東京の街路樹を数の多い順に並べると(1)イチョウ(2)スズカケノキ(3)トウカエデ(4)ケヤキ(5)サクラ(6)エンジュ(7)ヤナギ(8)マテバシイ(9)クス(10)アオギリ。圧倒的に落葉樹(夏葉樹)が多くて、常緑樹がわずかに(8)(9)だけというのは寂しい▼「夜の新樹詩の行間をゆくごとし」(鷹羽狩行)。夜、築地かいわいを歩くと、イチョウやエンジュの小さな若葉が暗い空を背に青々とうかびあがって初夏を告げている。聖路加病院付近のシンジュ(神樹)やポプラにはまだ赤らんだ幼い葉がある▼東京の街路樹の姿をみるたびに、手入れが実によく行き届いていることに感心するが、幹のてっぺんや太い枝がいたましいほど剪定(せんてい)されているのをみると、これはちょっとやりすぎじゃないかと思う▼交通標識や看板や電線の邪魔になる、台風の時に小枝が飛ぶ、落ち葉が困るなど、剪定の理由はいろいろあるだろう。落ち葉を邪魔もの扱いにされては街路樹も立つ瀬がないし、標識や電柱がないところでもばっさり切られて頼りなげに立っている木をみると気の毒になる。背の高い、緑ゆたかな並木を街の名物にするために、3つのことを提案したい▼第1、剪定は一切しない。あるいは必要最低限度にとどめる。植木屋さんのためには植樹、植え込みの整備、落ち葉の世話などの仕事を開拓する。第2、街路樹を邪魔ものにしない都市計画を基本にすえ、緑がゆたかに茂るよう道路や標識を改造する▼第3、落葉樹中心主義はたぶん、明治期の西洋もの尊重のなごりだろうが、クス、シイ、ヤマモモなどの常緑樹の並木をもっとふやしたい。常緑樹であっても、樟(くす)若葉には樟若葉なりの味わいがある▼しもたやの前に丹精した植木ばちが並ぶのは日本独特のものだろうか。並木のわきのはちに都忘れの紫の花が咲いている風景には、なかなかの趣がある。 政治をおもしろくする法 【’85.4.26 朝刊 1頁 (全849字)】  政治を10倍おもしろくする法の第1。《小道具を上手に使うこと》たとえば灰皿を握りしめる。投げつける。コップの水をだれやらにぶっかける。背広にゲタという姿を印象づける。使い捨てカイロをズボンのすそから落とす。そういう小道具の見せ場に習熟すること▼民社党の佐々木委員長と春日常任顧問がお互い灰皿を握りしめ、手をふるわせながらいい争った、なんていう図は想像するだけでたのしい。70歳と75歳、お盛んなことです▼春日氏は昔、自民党の篠田弘作氏と国会で殴りあったが、この時も灰皿を投げつけている。政治の場での灰皿の利用法は多角的だ。自民党の改憲慎重派大石千八氏は、結論を急ぐ党内の会議で「9条改正の合意はまだない」といって、ガラス製の灰皿を机にたたきつけて割った。こういう話はふしぎによく覚えている▼《大時代的な表現を多用すること》民社党大会語録の出色は「五臓六腑(ぷ)が煮えくり返る」という春日発言だろう。長老支配を攻撃されて心臓から小腸までが煮立つというのだから相当なものだ。選挙の時の春日節に「経済は混乱、政治は荒廃、こんな日本にだれがした」なんていうのがあったが、この俗っぽさがうける▼《長老支配に徹すること》中曽根内閣との連立はありうるという塚本書記長の発言は、春日氏の発言とピタリと一致している。いっそのこと、もっと長老支配に徹し、本音でもみあう場面をみせてもらいたい。大体、長老支配は政界のお家芸だ。岸信介氏88歳、福田赳夫氏80歳、鈴木善幸氏74歳……▼《派閥魂を貫くこと》日本の政治から派閥争いの劇を抜き去ったら何が残ろうか。創政会の旗あげも反創政会の会合も、やむにやまれぬ派閥魂のうごめきだ。民社党の論議は、つまるところは自民党の何番目かの派閥になるか、ならぬか、ということなのか▼大会で紹介された佐々木氏の句は「春嵐かくて季節の移りけり」。 様々なゴールデンウイーク 【’85.4.27 朝刊 1頁 (全838字)】  ゴールデンウイークなどというけれど、何がゴールデンなのか。黄金つかいの、あるいはつかわせられる週間じゃないか、寝転び連休のすすめを、積極的に推進すべきじゃないか、といったら、友人に「ちがうね、大いにちがう。それは時代錯誤だよ」とたしなめられた▼「たとえばヨーロッパ。うんと働いて、けちけちためて、どーんと、2カ月も海外旅行に出る。“連休”で使うために、彼らは働いている。日本の若い世代もヨーロッパ並みになっているんだから」▼といわれて、3人の大学生に、君たち、連休にどんとお金を使うかねと、聞いてみた。「お金をどう使うかと考えるより、ぼくら、時間をどううまく使うかを考えています」という。3人とも、連休は、ふだん会えない友だちに会う▼「会ってどこへ」「別にどこへ行くという約束もしないで、ただ会う」「それで」「お酒でも飲んで」「どれくらい」「3000円ほど」「それから」「気が向けば、ドライブします」。3人とも車を持っている。「車のない暮らしなど考えられない」▼友だちと車。その2つの組み合わせで若い世代は、密度の濃い時間を過ごしているのである。別にそれは連休でなくってもいい。「連休、連休と、なぜ、そんなに特別あつかいするのか、よく分からない」▼中年世代には、やはり連休は特別である。「せっかくの」という気持ちが、心の底にこびりついている。家族に対する贖罪(しょくざい)の意識も働く。といって、財布の方は厚くもない。経済的に、しかも合理的にと、「せっかく」の集団が、旅行会社に殺到する▼退職前世代は、もう贖罪感も卒業してしまって、ぼんやりと「ああ連休か」などと、つぶやいている。日本の連休人口は、大まかにいって、以上の3集団に分けられそうだ▼なすこともなく、ただ空を見上げている。それはそれでまた味わいがある、とは思うけれども。 水のうまさ 【’85.4.28 朝刊 1頁 (全841字)】  水道の水はそんなにまずいのだろうか。まずいという人もいるし、いや意外にうまいという人もいる。場所によってかなりばらつきがあるらしい▼信州や四国から大阪に働きにきた若者たちが「一番困ったのは水道の水がくさいことだ」といっている。そうかと思うと、よく冷やして飲めばそんなにまずくない、という人もいる▼厚生省の「おいしい水研究会」がまとめた報告書によると、たとえば北陸、東海、北関東などの水道水は、比較的うまいが、南関東、近畿、九州北部など都市化の激しい地域では、本来うまいはずの水がまずくなっていることがわかった▼水源の湖や川が汚れると、水を消毒するために大量の塩素を使う。これがカルキ臭になることは知られているが、煮沸するとこのにおいはかなり消える▼試みに、何種類もの市販の「おいしい水」を買ってきた。水道水は沸騰させたものを冷やし、名水も同様に冷やして、30個ほどのコップに入れた。利き酒ならお手のものだが、とためらう同僚たちと一緒に飲み比べてみた。これは水道水だとあてた人もいた。だが、まったくあたらず、水道水を名水といい、名水を水道水だという人も少なくなかった▼これだけで結論めいたことをいうのは避けたいが、東京の水道水でも、煮沸して冷やしさえすれば、そう捨てたものではないと思った。水のうまさには、冷たさがものをいうこともよくわかった。飲み水の味見の名手である都水道局の前田学さんが「水のうまさは、なんといっても冷たさでしょうね」と語っていたのを思いだした。ほとばしる山清水の味の深さをひきたてるのも、あの冷たさだろう▼欧米に比べて、日本の水道水の味には定評があった。だが大都会の水源地が汚れはじめてから、胸が張れなくなった。「川や湖が汚れれば汚れるほど、水道の水もまずくなる」。この当たり前の因果関係を、胸に刻みつけておきたい。 『広島第2県女2年西組』 【’85.4.29 朝刊 1頁 (全852字)】  関千枝子さんが書いた『広島第2県女2年西組』を読み、今なお戦時中の負い目を感じながら生きている人がいかにたくさんいるか、ということを教えられた▼勤労動員で働いていた級友38人は原爆で死んだ。引率の女教師2人も死んだ。その日たまたま学校を休んで助かった関さんは、自分が助かったことの負い目をかかえながら生き続けている▼「この思いを、原爆の生き残りは『すまない』という言葉で表現する。自分が原爆を落したわけでもないのに、なぜこんな思いを……と割り切れぬ憤懣を抱きながら、やはり『すまない』という」▼関さんは級友や恩師の最期を調べ続けた。ある級友の母親は、焼けただれた娘に、心ゆくまで水を飲ませてやらなかったことを悔い、ある姉は、妹を抱いてやれなかったことを悔いている▼評判の美少女だった妹は焼けてどろどろの姿になり、抱いてといわれても、抱いてやれなかった。口のあたりがただれていて、すまし汁を飲ませると痛がった。「今でもすまし汁を飲むたびに涙が出る。なんてひどいことをしてしまったのだろう」と姉はいう▼ある教師は、同僚の女教師の遺体を運ぼうとして、運べなかったことに負い目をもっている。女教師は肉の内側まで火が通るやけどを負いながら、母鳥がひな鳥を守るように両わきに教え子をかかえて歩き、力つきて倒れた。29歳の女教師の髪は一瞬にして白髪になっていたという▼その遺体に軽くふれただけなのに、二の腕の肉がひとかたまり、ボロッと転げおちた。教師はそれ以上「手をふれることができんかった」と当時の模様を語りたがらない▼負い目をもつとは、過去のできごとにこだわり続けるということだろうか。過去の負い目を忘れたがる人があまりにも多い昨今だが、こだわるべきものにこだわり続けなければ、13、4歳で死んだ級友や恩師の魂を鎮めることはできない。そんな思いがこの力作の背景にある。 教育とおカネ 【’85.4.30 朝刊 1頁 (全840字)】  教育の「自由化」論争に、また火がついた。「個性主義」などと妙ないいかえでうやむやにされるより、大いに議論してもらった方がいい▼ついては、高邁(こうまい)な教育理念の論争に、次元の低いことを持ち出すようで恐縮だが、おカネの話をもう少し聴かせてほしいと思う。自由化すると、親の教育費負担はどう変わるのか▼反対論者は「富裕な家庭の子ほど有利になる」といい、自由化論者は「公的負担の点でも、父母の負担の点でも、はるかに軽減できる」という。本当はどっちなのだろう▼もし、そんなに楽になるなら、それだけでも自由化を支持したいぐらいだし、逆ならば、とんでもない話である。いまの教育のカネのかかりようには、親はほとほと参っている▼文部省の58年度分の教育費調査だと、公立の小学校でも年間16万5000円、中学校20万円、高校26万円。私立高校になると54万円かかっている▼これは全国平均だが、高校生の半分が私立に通う東京都では、ぐんと金額が上がり、去年の調査だと、家計費の2割が教育費にとられている。3人の子が私立に入ったため、実に家計の6割強も食われている、という例もあった▼先月、生命保険文化センターは、幼稚園から大学まで出すと、1人の子どもに1000万円必要だ、と発表した。地方から東京の私大へ入れて下宿させようものなら、大学の4年間だけで800万から900万円かかる▼専修学校なども加えれば、高卒後も2人に1人が進学する時代がきているのに、日本の教育予算の9割までは初等中等教育につぎこまれてしまっている。高等教育にカネを出していないことでは、国際的にもきわだった「教育大国」なのである▼その結果、いまのままでも「富裕な家庭の子ほど有利」な傾向は、どんどん強まっている。臨教審の先生方には、このあたりを十分お含みのうえ、ご議論願いたいものだ。 桜田武さん 【’85.5.1 朝刊 1頁 (全850字)】  日経連の象徴的存在だった桜田武さんは、ついに生存者叙勲をうけなかった。日清紡の社長だった宮島清次郎さんはかつて、叙勲の話があった時「在野のものが一生をかけてやった仕事に役所が1等だ、2等だと格づけするのはおかしい」といって断った。宮島さんを師と仰ぐ桜田さんもまたその教えを守って生存者叙勲を断ったのだろう▼昔、福沢諭吉は、政府から褒章の話があった時にこういった。「車屋は車をひき豆腐屋は豆腐をこしらえて書生は書を読むというのは人間当たり前の仕事をしているのだ、その仕事をしているのを政府が誉めるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めて貰わなければならぬ」。こういう考え方は脈々と伝えられている▼桜田さんは、宮島さんにみこまれて、敗戦の混乱期に日清紡の社長になった。41歳の若さだった。当時は紡績どころではなく、焼け残った工場のふろ場を利用して銭湯商売をしたりして苦境を乗り切った。後年、「(1)募集力(2)教育力(3)定着力の3つに欠ける人間集団は他に遅れをとり、崩れて行く」といっているが、経営者としての長い苦闘がいわせた言葉だろう▼財界屈指のタカ派といわれ、自らを「短気で無遠慮」と称していたが、その直言はかなりのものだ。折にふれて「自民党内閣の無競争で安易な政権の運用が腐敗を生んだ」と批判し、「この程度の政治家しか育てられなかったわれわれ経営者の不明を恥じる」ともいった▼「財界人と総理の席へ出て、黙ってきいているが、大体、自分に関連した仕事の話で頼みこむことが非常に多い。なんてけちな連中だと思うな」という財界批判があるかと思うと「田中金脈のやり方というものは、それは相当なものだった」「国会は定数問題の違憲判決がでた時にしっかりやらなくては」という政界批判もあった▼政治の腐敗と財界のあり方について、もっとつきつめた発言をきかせてもらいたかった。 味のいい野菜 【’85.5.2 朝刊 1頁 (全850字)】  5月。ユズリハの老いた葉が若い葉に席を譲ろうとしている。ハナズオウの紅色の花やヤマブキソウの黄の花が初夏の光にまぶしい。うす紫の花をつけはじめたキリの木を渡る風が心なしか甘い香りを運んでくる▼宮崎県えびの市の農家、境内宏紀さんは、トマト、キュウリ、ナスなどの苗をつくっている。この苗は家庭菜園用のものだが、有機農法で育てているところがミソだ。1坪の空き地でもいい。ベランダでもいい。1本か2本のトマトを自分の手でたのしみながら栽培し、有機農法でつくられたもののうまさを味わってもらいたい。そういう目的のための苗だ▼病気に耐性がある丈夫な苗にするために、原生種に近いものを台木にして、接ぎ木をしている。筆者も去年この苗を何本か試してみたが、樹勢が強く、味の濃いトマトがたくさん実った▼境内さんの所では、5本で120個の収量があったそうだ。この時は殺虫剤はまかず、殺菌剤は涙をのんで1回だけまいた。化学肥料は使わなかった。土づくりには力をいれた。山の落ち葉などで堆肥(たいひ)をつくり、土にたっぷり栄養を与えたという▼「無農薬野菜への願望はいま大変なものですね。みんながたのしみ、知恵をしぼりながらうまい野菜をつくってみる。そのことが農業の方向を少しは変えるのではないでしょうか」。境内さんはそう語っている▼たとえば『無農薬でつくるおいしい野菜』(婦人之友社)という本が現れるのも、世の流れだろうか。小さな菜園で、有機農法による野菜をつくっている人の体験記だけではなく、編集部の人たちが実際に菜園を耕し、箱での栽培を重ねただけに説得力がある。とくにベランダに置く箱でも、土さえよければ味のいい野菜が育つ、という話は参考になった。基本はやはり土づくりにある▼「生」という字は、草が土の上にでる形を表す。土こそ命の源だということを、この字は単純明快に語っている。 改憲派と世論 【’85.5.3 朝刊 1頁 (全840字)】  『言語生活』の5月号に「日本国憲法と大日本帝国憲法の語彙を比べる」という興味深い一文があった。国立国語研の人たちが電子計算機を使って調べ、分析したものだ▼帝国憲法でめだつことばは、臣民、帝国、朕、大権、統治、戒厳など。日本国憲法でめだつことばは、国会、内閣、国民、権利、人権、勤労、平和、平等など。帝国憲法では、自由や権利の使用数はいちじるしく少ないし、人権、平和、平等といったことばはない。ことばを比べるだけでも、現憲法の平和主義、民主主義、基本的人権尊重の性格が浮かびあがってくる▼「日本が正式に軍隊を持てるように憲法を改正することに賛成か反対か」。賛成12%、反対78%。去年の朝日新聞世論調査の結果だ。8割近くの人が憲法第9条を改めることに反対している、という事実は重い▼だが、にもかかわらず自民党内の改憲派の勢いは強い。その動きは、おおざっぱにいえば、選挙の結果に連動している。5年前の衆参同日選挙で自民党は大勝した。保革伯仲時代はやや鳴りをひそめていた改憲派はこの大勝で勢いをまし、運動方針に「改憲」をもりこむことに成功した▼続いて、3年前からは党大会宣言にも「改憲」をうたい、中曽根首相登場後の党大会では、運動方針、宣言だけではたりず、「自主憲法に国民の理解を」という決議をするほどの高まりをみせた▼一昨年12月の総選挙で自民党は負けた。負けるとすぐ運動方針の「憲法の具体的改正の検討を進めるとともに」のくだりを削除しようという動きがでてきた。この時は自主憲法期成議員同盟会長の岸信介氏たちが反対し、削除は実現しなかったといういきさつがある▼しかし選挙の敗北の結果は、中曽根首相のいう「憲法問題の長期的な時間表」に微妙な影響を与えていることはまちがいない。改憲バネを押さえこむ力をもつのは、世論であり、選挙の結果である。 少女と闘病 【’85.5.4 朝刊 1頁 (全859字)】  植木亜紀子ちゃんは、東京の植木家の次女に生まれた。3歳の時に発病し、急性白血病と診断された。両親は奇跡を願うのみだった▼以後、小学5年の時まで入院を繰り返しながら少女は病魔と闘った。「苦しい病床の中に、どうしてこんな平安があるのか」と少女を見守る教会の牧師が感嘆したほどだった▼輸血、骨髄検査、せき髄注射、頭痛、難聴、肺炎併発、歯痛、足を襲う激痛。治療の後遺症で顔はふくらみ、髪の毛が抜け落ちた。「この痛みは何なのよ、あたしばかりがどうして」と叫んだことが一度だけあったが、すぐ「ごめんね、ママ、だれも悪くないのよね」と謝っている▼大人でも悲鳴をあげるほどの太い針の注射に耐え、日記には「でもやってくれる先生のことはやはりにくまないのです」と自分にいいきかせている。「あしたは痛くありませんように、そしてもし痛かったらそれにたえられますように」▼一方では入院中の年下の少女を励まし、激励の手紙を書き続けた。一昨年の1月、容体が悪化して9回目の入院をする。ある日、病室から約100メートル離れた小学校から「あっこ、あっこ、がんばってえ」という声が風に流れてきた。あらん限りの声で叫ぶ級友たちの姿が屋上にあった▼ペンフレンドの「車いすのおじさん」は、「この少女の痛みを私に与えて下さい。私の命をこの少女に与えて下さい」とあっこのために祈った。3月、少女は息をひきとった。「ごめんね」というのが最期のことばだったという▼その闘病記は本紙東京版で紹介されて反響を呼んだが、今度『あっこちゃんの日記』という1冊の本になった。少女は赤トンボをみながら書いている。「トンボは生きるのが短いのでかわいそうです。やはりトンボの短い一生でも楽しいことはあるのでしょう。それが今なのだ、と思うのです」。短い生涯をけなげに生きた少女には「静かな勇気」といえるものがあったと思う▼あすはこどもの日。 レーガン大統領のビットブルク墓参 【’85.5.5 朝刊 1頁 (全835字)】  40年前の5月8日、欧州での第2次大戦はドイツの降伏によって終わった。ことし、11回目の西側サミットが西ドイツのボンで開かれたのは、歴史のめぐり合わせといったものを感じさせる▼サミットで発表された、第2次大戦終戦40周年に際しての政治宣言は「われわれは、歴史の教訓を学んだ」といっている。そして、過去の反省のうえに関係国の和解と平和、自由、民主主義への協力を強調した。そのことに、もちろん異存はない。しかし、歴史から学ぶとは、それほど簡単なことではない▼レーガン米大統領とコール西独首相は5日ビットブルクの町にある旧独軍戦死者の墓地を訪ね、花輪を供える予定だ。かつての敵対国の首脳がそろって戦争の犠牲者を悼む光景は、過去への決別と和解を象徴するはずだった。ところが、墓地には一般の兵士だけではなく、ナチス親衛隊(SS)の戦死者も埋葬されていることが明らかになって、厳しい批判が起きた▼SSの名はユダヤ人の大量虐殺をはじめ非人道的犯罪と深く結びついている。「SSは戦争犠牲者ではない。虐殺者だ。ビットブルクは大統領の行く場所ではない」と米国内ではユダヤ人団体や議員などが墓参中止を求めた。西ドイツでも賛否の対立が広がった▼ビットブルク墓参は、レーガン大統領にも、コール首相にも苦いしこりとなって残りそうだ。米政府は、この2月に墓地を下見したが、雪におおわれていたSS隊員の墓碑を見落とした。慎重な準備を欠いたというべきだろう。和解もまた、積もった雪と似ている。きれいに見えても、その下に黒い傷跡を抱いている▼ビットブルクは、戦争の傷跡が今なお深く、触れ方を誤れば、痛みをふきだすものであることを教えている。西ドイツの立場や苦悩は、日本にとって決して、他人事ではない。もし、ことし東京でサミットが開かれていたらと考えさせられる。 平沢貞通、死刑確定から30年 【’85.5.6 朝刊 1頁 (全844字)】  「鉄格子くぐりて窓の枠に来て雀われと飯を共にす」(平沢貞通)。帝銀事件の死刑囚平沢は、死刑確定の日から数えて満30年を迎える。いつ死刑にされるかわからない状態のまま30年も獄にあった例はないといわれている。しかも93歳だ。世界で最も高齢の死刑囚である▼最近、帝銀事件発生当時の警視庁の報告書が米国公文書館でみつかった。都防疫班となのる男が行員らに青酸化合物を飲ませて12人を殺した手口は、極秘に毒薬の実験をしていた旧日本軍関係者の手口に似ている、という内容だった。画家の平沢は薬物についての専門的な知識もなく、取り扱いに習熟していない、というのが弁護側の主張だ。アリバイの主張にもうなずけるものがある▼さいわい命をとりとめた預金係の一女性は、逮捕された平沢と2回、面通しをしたが、「顔の輪郭と年齢が違うと思った。いまでも犯人ではないと思っている」と証言している▼平沢は、自白は乱暴な取り調べによって強要されたものだと主張、再三再四、再審を請求したが、棄却された。真相はヤミの中だが、平沢真犯人説に疑問を抱く人は少なくない▼平沢はいまはスープやおかゆなどの流動食をとり、老人性の白内障や肺気腫(しゅ)の症状がでているという。だが、独房内で絵を描く自由のあることが救いになっているようだ▼毎朝、般若心経を唱えている平沢は、去年「事件が幻のようになってしまった」といっている。一切の苦厄を度したまえり。つまり一切のものが本来「空」であることを観念することですべての苦から救われるという般若心経の1節を、90歳すぎの死刑囚はいかなる思いで唱しているのか。「泣けるうちはまだ易かりき今はただ涙も涸れて神仏に誓う」。これも平沢の歌だ▼刑の時効が完成するかどうかについては難しい議論があるが、より現実的な方法として、恩赦の道が検討されてもよいのではないか。 フレンドシップ・タワー 【’85.5.8 朝刊 1頁 (全843字)】  フィリピンのバターン州バガに「フレンドシップ・タワー」という名の塔がそびえている。塔の位置は、第2次世界大戦下、日本軍が捕虜を死に駆りたてた「死の行進」の出発点だ。建立10周年の先月、日比の青年ら200余人が塔の前に集まって「友好」と「非戦」を誓った▼熱病と飢餓。多くの同胞を殺されたフィリピンの人びとにとって、ここは「憎悪」を象徴する地であった。そこに「友好」の塔を建てたのは、立正佼成会である。当初、反日感情の拠点といってもよい所に塔を建てるのは無謀という話もあった。同じような試みが、ほとんど成功しなかったと教えてくれる人も、腐った卵をぶつけられるぞと止める人もいた▼それでもその後、同会の青年たちは現地の民家に泊めてもらい、現地の青年たちと一緒に井戸を掘ったり、図書・博物館の建設資金を得るためにバザーを催したりした。「実は、私の祖父は死の行進をしました」。宿泊先の家族が心を開いて、そんな話をするようになった▼塔の高さは27メートル。3本の柱からなっている。3本の意味は、仏教徒にとっては仏法僧の「三宝」、キリスト教徒にとっては父と子と聖霊の「三位一体」という。この塔に、記念式典の日、ハイメ・シン枢機卿が来て演説をした。枢機卿は国民の8割以上を占めるカトリック教徒の最高指導者である▼「いま、両国民は互いをアジアの兄弟とみている。日本の占領時代は、フィリピン人の中に現在も、いやし難い傷となっているという人もいる。それは事実かもしれない。だが、時がどんなに深い傷あとをもいやすことも同様に事実である」▼また枢機卿は、こうも語った。「私たちは、日本のテクノロジーを学ばなければならない。そして日本人は、フィリピン人の笑顔を学んでほしい」。日本側の1人は、この話を聞いて、改めて心を打たれたという。「ここには確かに美しい笑顔がある」 日本人の貯蓄率は高いか 【’85.5.9 朝刊 1頁 (全856字)】  前略、統計の神さま。あなたの示される数字に因縁をつけたくはないのですが、日本人の貯蓄率は高い高いと外国の人から責められると、このままあなたを信じ続けていいのかと迷わざるをえないのであります▼シュルツ米国務長官が「日本はその高い貯蓄をもっと国内の消費にふりむけよ」と発言して以来、この疑心暗鬼はつのるばかりです。「日本人の貯蓄好き」にはだいぶ見せかけの部分があるのではないでしょうか▼勤労者世帯の貯蓄は平均649万円だという統計がある。えっホント、と落ち着きを失うような数字です。ここから「大多数の日本人は700万円近い貯金をもつ」という虚像が生まれます▼実際は、勤労者世帯の3分の2はこの平均を下回っています。分布図をみると、貯金は150万円から200万円という世帯が一番多い。そして負債の平均が236万円。このほうが私たちの実感に近い。平均値というのはくせものですねえ▼見せかけといえば、家計貯蓄率という数字があって、欧米諸国に比べると日本はこれが高い。でも、この統計もくせものです。ここでいう貯蓄には住宅ローンの返済金や生命保険の掛け金まで含まれている▼住宅費が異常に高いからたくさんお金を借りて、返済に苦しめば苦しむほど、統計上は貯蓄率が高くなるなんてまさに現代の怪談ではありませんか▼それに、日本人は1人あたりの保険金額が欧米諸国よりも高く、これが貯蓄率を押しあげています。生命保険などの加入率が高い理由の1つは、それだけ自分の死後のこと、病気や老後のことが心配だからです。いってみれば、土地政策や福祉政策の貧しさと、貯蓄率の見せかけの高さとは強く結びついているのではないでしょうか▼神さま。モンテーニュさんは「真実でさえ、時と方法を選ばずにもちいられてよいということはない」といったそうですが、私たちはこれに「いわんや貯蓄の統計をや」とつけ加えたいのです。 砂漠と緑 【’85.5.10 朝刊 1頁 (全836字)】  緑は雨を生む。だが、荒地は雨を呼ばないという説がある。いちど砂漠化の病にとりつかれた土地では、砂漠が砂漠を生み、干害が干害を生む、というのだ。この話は恐ろしい▼『気象』3月号に、気象庁の平沼洋司さんの『アフリカの旱魃(かんばつ)』という一文がある。雨不足はいずれは終わるという予測を裏切って、今世紀最悪といわれる干害が続いているのはなぜか。そこには砂漠の自己増幅作用もからまっているらしい▼緑ゆたかな地帯は、太陽の熱を吸収して暖まり、上昇気流を生じて雨を降らせる。だが、緑を奪われた荒地は、土壌の水分も少ないし、太陽光線の反射率が高いから地表付近の温度が相対的に低く、上昇気流が発生しにくい状態にある。「この結果、荒地ではますます雨が降らなくなり乾燥が進むという自己増幅作用が働き、砂漠化が進行する」と平沼さんは書いている▼「人類は地球の表面を渡って進み、その足跡に荒地を残していった」という名言をはいた人がいるが、アフリカの飢餓の原因の1つは、この荒地化である。不毛の地は、緑を生まないだけではなく、雨を呼ぶことさえできない▼荒地化には人災の要素が強い。焼き畑農業による森林の伐採がある。人口爆発や猛烈な都市化現象がある。炊事、暖房用のマキをとるための伐採がある。かつては水や牧草を求めて移動していた遊牧の民が、国境が生まれたために自由に移動できなくなり、牧草を食いつくし、木の根まで掘り返している。さらに、荒地化の背景には、植民地時代の輸出農産物奨励政策や単作強制のゆがみがある▼本紙のシリーズ『飢餓と緑』に「アフリカの危機の原因も救済も、カギを握るのは緑だ」という多くの専門家の指摘があった。砂漠化をくいとめる緑をつくること、砂漠に緑をよみがえらせること、それは絶望的に難しいことではあるが、人類に課せられた責務だろう。 海難 【’85.5.11 朝刊 1頁 (全872字)】  「びっくりして今でも体が震えています」。夫が奇跡的に生存していたという知らせをうけた妻はいった。「3人の子供も信じられない様子で何度もほんとう、ほんとうと聞き返していました」▼北の海で起こった漁船遭難事故は、明暗をわけた。「海は冷たいだろうと思い、厚い着物を仏壇に供え、毎日ぶじを祈っていました。子供たちも主人はきっと助かってると信じていたんですが」。救命ボートの中の夫は遺体だった、ときいた妻はそういって嘆いた▼第71日東丸の乗組員16人中、生き残ることができたのはわずか3人である。遭難の原因はまだわからないが、救命ボートには必ず、位置を知らせる小型発信機のようなものを常備すればと思う。技術的には可能だろう▼北の海は恐ろしい。小樽の第1管区海上保安本部の調べでは、過去5年間の遭難で207人の死者、行方不明がでている▼今回の遭難でも、何人もの子供たちが父の奇跡に躍りあがる一方で、何人もの子供たちが泣いた。「漁船海難遺児育英会」(電話03・256・1981)の調べでは、遭難によって父を失った遺児の数がふえ、現在は1800人が援助の対象になっているそうだ▼亡くなるのは若い父親が多いためだろう。事故当時、学齢前だった子が半数近くもおり、母親の胎内にいて、父を失った子も少なくない。他の事故の場合も同じだろうが、残された家族の生活は厳しい▼母の苦労、母の奮闘をみて育つ子供たちは、母の姿をどのようにとらえているのか。育英会の調査では(1)働きばち34%(2)神様・仏様21%(3)大木17%、というイメージが多かった。そして母さんを「1日ゆっくりさせてあげたい」と子供たちはいう▼15年前、全国の漁業関係者の寄金で生まれたこの育英会は、子供たちに月5000円から1万円程度の奨学金をだしている。実情をきいて、月々数千円を送ってくる「励ましおじさん・おばさん」も、300人近くはいるという。 母の勇気 【’85.5.12 朝刊 1頁 (全838字)】  作家パール・バックは『娘たちに愛をこめて』(木村治美訳)の中でこんな話を書いている▼彼女の母親は宣教師の妻として中国の奥地に住んでいた。前世紀末の話だ。ある夏、恐ろしい干害があった。田畑はひからび、井戸もかれていった。町に白人のいることが神の怒りをかったのだ、と人びとはいいだした▼夫が留守の夜、男たちが棒や刀をもって一家を殺しにくるという知らせがあった。母親は子どもたちに晴れ着をきせ、門をあけ放ち、お茶をいれ、暴徒にいった。「お待ちしていました。どうぞお茶を召しあがってくださいな」。彼女の穏やかな笑顔を見て、男たちは正気を取り戻した▼なぜ勇気がでたのかと後で娘にたずねられ、母は答えた。「絶望したからよ。逃れようもない事態に正面から向かわなかったら、勇気なんかでなかったでしょうよ」▼作家城山三郎さんはある随筆に母の思い出を書いている。戦時中、近くに捕虜収容所があり、英国兵が収容されていた。ある日、母がいった。「今日はクリスマスね。あの山にいる外国の兵隊さんのために、お祈りしてあげましょう」。敵を憎むことばかりを教えた当時の風潮の中では、これもまた、かなり勇気のいる発言ではなかったか▼バイオリニストの前橋汀子さんは少女時代、外国の名演奏家がくると母と一緒によく会場へ行った。高い切符は買えない。少女は新聞紙をもって、だれかの後にくっついてもぐりこみ、2階の通路に新聞紙を敷いて座った。母親は、寒い冬の夜でも、外で娘がでてくるのを待つのを常とした。道学者はまゆをしかめるかもしれないが、ここにも、母親のある種の勇気があると思う▼バックは書いている。「母親らしい母親なら、息子を戦場に送るとき、もし私に発言権があるのなら、戦争なんか起こらないのにと思わずにはいられますまい」。彼女は、女性の発言力が強まる日を切望していた。 スミソニアン・インスティチューション 【’85.5.13 朝刊 1頁 (全845字)】  スミソニアン・インスティチューション。日本ではスミソニアン博物館、あるいは協会と呼んでいる。どちらも正確な訳語とはいいにくい▼13の博物館と6つの研究機関をもつアメリカの国立機構で、科学・文化のあらゆる分野を扱っている。ライト兄弟が初めて空を飛んだ複葉機から、アポロ11号まで、航空史資料の宝庫である航空宇宙博物館が有名だが、世界中から集めた所蔵品は1億点を超える▼それを、ただ陳列して見せるだけでなく、多くの学者がつねに新しい研究や収集を続けている。一方では、国内を回って一般市民に分かりやすく講義をする役割もする▼1846年、英国の科学者スミソンが「人類の知識の増加と普及のために」と、米国政府に贈った遺産で設立された。その遺志をいまも守っているわけで、高度な研究機関が、子どもたちまで含めた国民教育の機関を兼ねているかたちだ▼こういう仕組みは日本にはないから、どう訳してみても、しっくりこない。このスミソニアンが、14日から3日間、東京で日本の聴衆を対象にセミナーを開く。海外で、米国人以外を相手に「知識の普及」活動をするのは、その歴史で初めてのことである▼講師陣は、科学、美術、黒人音楽など、多彩な分野の専門家が10人。この機構の長である著名な考古学者のアダムス氏も、みずからその1人として来日する。スミソニアンの長といえば、米国では閣僚に準ずる地位にある▼在日米国人の間では「スミソニアンがやってくる」というので、関心が高まっているそうだ。しかし、科学万博にゆく日本人の、何千分の1が聴きに来てくれるか、と関係者は不安がっている▼そういえば、評論家の立花隆氏が『週刊朝日』の筑波万博ルポの中で、こういうことをするより、日本もスミソニアンを作るべきだと書いていた。まだまだ日本の及ばない、底の深さがアメリカにはあることを考えさせられる。 ホチキス 【’85.5.14 朝刊 1頁 (全843字)】  戦後の文房具のヒット商品を3つあげると、セロハンテープ、油性フェルトペン、ボールペンだそうだ。いや、ボールペンよりホチキスだという人もいる。便利さの点でそうかもしれない▼そのホチキスだが、便利なものは、えてしてやっかいで、あれはけしからんという文句がよく新聞の投書などにくる。最近では、夕食中に「なんだ、これは!」と主人が口から出したのがホチキスの針だったというのがあった。シイタケの袋を破いたときに飛んで、おかずの中にまぎれこんだものらしい。飲みこんで胃や腸に刺さったらどうする、と主婦は訴えていた▼食料品のパックや袋だけでなく、洗濯物の名札もよくこれで留めてある。布地にじかに打ちこまれていたりする。へたにつめではずそうとすると、チクッと痛い目に遭う▼ホチキスはアメリカのベンジャミン・ホチキス(1826―85)という人の考案で、この人は機関銃の発明者でもあるそうだ。そういえばパチンパチンと針を打ち出すところ、機関銃に似ていなくもない▼劇作家の飯沢匡さんは、この針をはずすのに古いシャープペンシルを使っている。針の先をしんの穴に差しこみ、そのまま軸を立てるのだ。危険はない。最近ますます強まる封書や書籍小包などのホチキス攻勢に、飯沢さんは「これだよ、こいつで対抗するんだ」と頑張っている▼暮しの手帖社にはホチキスが1つもないそうだ。編集長の大橋鎮子さんは「ひと様に差し出すとき、あれは無礼です」という。社内の書類もここではゼムクリップを使う。はずれてバラバラになる心配はあるが、その方が取り扱いが丁寧になるということだ▼朝日カルチャーセンター(大阪)の文章教室の受講生に、80歳になる大江兵衛さんという人がいる。毎月提出の原稿は必ずこよりでとじる。「ホチキス? 知ってます。けど、あれ金具やから、紙には合わんと思います」といっていた。 都会の燕 【’85.5.15 朝刊 1頁 (全850字)】  今年もやはり銀座や京橋に燕(つばめ)が戻ってきた。燕たちは新緑の並木のわきを、白い胸をひるがえして飛んでいる。燕は飛翔(ひしょう)の天才だ。時には軽やかに曲線的に、時には鋭く直線的に、時には激しくジグザグに風を切って飛ぶ。飛びながら虫をとり、水を飲む▼銀座、京橋一帯を歩いてみて、この大都会のまん中で燕たちがたくましく生きていることを知って驚いた。もうすでに抱卵中の親鳥もいた。燕は人や車の出入りの激しい車庫、消防署、郵便局の集配所などの内側の壁や蛍光灯を選んで巣をつくる。人通りが多いとカラスやスズメにおびやかされる心配がないから、あえて人を頼りにするのだろうか▼頼りにされる側としても、ほっておけない。夜にはシャッターを閉める建物が多いが、当番の人は、親鳥がえさを運ぶのを終えて巣に戻るのを見届けてシャッターをおろす。巣に戻るのが夜遅くなることもあるが、それを待ってやる▼ふんの問題がある。床を汚されては困るから、巣の下に段ボールを置く。あるいは厚手の布を1畳分ほど宙につるして、ふんを防ぐ。あちこちで燕たちは心やさしく迎えいれられていた▼長年、銀座の燕を観察してきた金子凱彦さんの話では、去年銀座1丁目から8丁目の間にある7つの巣から26羽のひなが巣立ったそうだ。燕たちは近所の工事現場から泥や枯れ草を運んで巣をつくり、街路樹をなめまわすように飛んでは昆虫をとる。時には夜10時過ぎ、和光の時計台の光に群れる昆虫をとったりする。人工的な環境に適応して、けっこうしたたかに生き抜いている▼最近、都市鳥という新しい言葉が使われている。燕だけではない。ヒヨドリ、オナガ、キジバトといった鳥も都会に住みつきはじめた。この都市鳥の生態を調べる「都市鳥研究会」(代表・唐沢孝一さん)も誕生した。都会の人と都会の鳥とのつきあい方、共存の道を探るのが目的の1つだ。 沖縄 【’85.5.16 朝刊 1頁 (全859字)】  20年前の沖縄の第一印象は「ほこりっぽさ」だった。空港から那覇の市街地へ行く道路は十分に舗装されてなくて、汗と土煙でたちまち顔が真っ黒になったものだ。沿道の金網のむこうには星条旗がはためき、ベトナム行きの兵器を積みこんだ輸送船があり、戦争のにおいがあった。街全体がほこりっぽかった▼こんど久しぶりに沖縄をたずねた友人の話では、その「ほこりっぽさ」がずいぶんなくなっているという。道路もよくなった。車は流れるように市街地に着いた。前はひらべったい感じだった街の背が高くなり、こぎれいになった。星条旗のかわりに本土の観光客の姿があり、とくに若者がめだったという▼昔は沖縄といえばすぐ「基地依存体質の」というまくら言葉がついた。ベトナム戦争の推移が沖縄の景気を左右するとさえいわれた。だがいま、沖縄の経済を語るには(1)観光収入(2)基地収入に並んで、(3)公共事業の3本の柱を考えなければならないという▼かなりの額の公共事業費が投入されて、たしかに道路、港湾、学校はよくなった。それはそれでいいことには違いないが、かつてシマチャビ(孤島苦)といわれたものは、いまも暗い影を落としている。完全失業率、これは全国一高い。高卒者の県外就職率、これも全国一だ。1人あたりの県民所得は低い▼軍事基地の密度、これはいうまでもなく全国一である。米軍が常時使用できる専用施設に限っていえば、その75%が沖縄に集中している。沖縄の米軍基地群には海兵隊と空軍の「即応兵力」が集中し、前進拠点としての機能を強めているという▼亡くなった中野好夫さんは沖縄復帰の直前にこう書いている。「なるほど施政権は20年ぶりで日本に返る。だが、ひとたび沖縄基地の機能、そして活用についていえば、それは現状維持どころか、拡大強化の可能性すら十分に予見できる」と。この予見はあたった▼きのう沖縄は復帰満13年を迎えた。 机 【’85.5.17 朝刊 1頁 (全852字)】  だいぶ前に青梅市の郷土博物館をたずねて、昔の手習い机、文机を見せてもらったことがある。旧家に残っていた江戸や明治のころのもので、材が違い、細部の造りが違い、それぞれに個性のあるところがおもしろかった▼館の一隅に、渡辺崋山の「寺子屋」の絵をひきのばした写真があった。とっくみあうもの、あくびするもの、考えこむもの、当時のやんちゃ坊主の生態がみごとに描きわけられているが、よく見ると、使われている机の脚の造りがさまざまに違う▼なぜ違うのか。「当時の寺子屋では、机は各自の持ちこみだったからではないでしょうか」と館の人が説明してくれた。なるほどそうかもしれない▼古典落語の「茶の湯」でも、引っ越しで忙しい寺子屋の先生が子どもたちに「お机をそっくり持って帰んなさい」と命ずるところがある。やはり持ち込みだったのだろう。子が自分の机を持ち込んで勉強する、ということには格別の思い入れがあったのだろうか▼「机というものは、精神を集中させるためにぜひ必要な物件なのではないだろうか」と詩人の永瀬清子さんが書いている(図書5月号)。筆者などは、己の机の上の雑然たる姿にあきれ、精神集中どころか自己嫌悪を味わうのみだが、それでも、自分自身の机をもつことの大切さはわかるつもりだ▼主婦の永瀬さんはさらに書いている。「机は、われわれが、近代的自我を確立する場合、まず必要とされたものではないだろうか」と。彼女も長い間、チャブ台党だった。自分の机を持ってなかった。戦後は農婦になって働いた。農業をしている間は広い天地や田園の深いやみが書斎だった▼長い歳月をへてやっと、小さな空き家を自分の部屋にすることができた。「私は書斎を75歳にしてはじめて得た」というくだりを読み、心を打たれた。何としても書き続けようとする執念で、断崖(だんがい)をよじのぼる一女性の姿が目に浮かぶからである。 日本の都市の超過密性 【’85.5.18 朝刊 1頁 (全846字)】  日本の総人口の6割にあたる約7000万人が、1万平方キロの人口集中地区に住んでいる。1980年の数字だが、国土のわずか3%のところに人口の6割がひしめく、というのだから異常だ▼経済協力開発機構(OECD)の都市グループが、日本の都市の超過密性を指摘している。これを、パリを中心とした1万平方キロの地域と比べてみる。この地域はフランスで最も人口密度が高いところだが、それでも約1000万人しか住んでいないそうだ▼高齢化の問題もある。いま65歳以上の人口は9%だが、5年後にはこれが12%になる。やや基準が違うが、フランスの場合は、65歳以上の比率が5%から12%になるまでに170年もかかっている▼つまり日本の都市は、過密化と高齢化の2つの大波をあびつつあるのだが、波にもまれるだけで、対策はいちじるしく遅れている。「首都住民の生活の質の向上を図るために都市地域の再編を」「未利用地を有効に利用するために、収用権限の発動も検討せよ」といったOECD側の苦言には、すなおに耳を傾けたい▼生活の質についていえば、高齢化社会に応じたゆとりのある都市空間がほしい。年寄りが歩道橋を渡らないでもすむ道がほしい。散策を楽しめる歩道がほしい。後ろからくる自転車におびやかされるような歩道はほしくない。自転車と歩行者が入り乱れる道は、あれはもはや歩道とは呼べない。「輪歩道」と呼ぶべきだろう▼自転車の側からいっても、快適な専用道路がほしい。車道と自転車専用路の境を街路樹で仕切る工夫があれば、より安全な道になるだろう。なによりも自転車を一人前の交通機関として認めてもらいたい▼自転車専用路1つとりあげても、全面的な普及は絶望的に難しい。だが「都市整備に投入する資金をふやさなければ、日本の都市は今世紀内に先進諸国なみのレベルに達しない」とOECD側は指摘している。 地底への鎮魂 【’85.5.19 朝刊 1頁 (全858字)】  坑内に閉じこめられた肉親のぶじを祈る気持ちは、いかばかりであろうか。もたらされるのは悲報につぐ悲報である。遺体をみて「お父さん、お父さん」と叫んだまま仰向けに倒れた妻がいたという▼三井三池有明の惨事のときも「最新鋭の保安設備」があったのに、といわれた。今回の北海道南大夕張礦の場合もそうである。ここは、最新の保安設備をとりいれた優良鉱といわれてきた。ガス対策も最高の水準にある、といわれてきた▼だが、惨事は発生した。いかなる新鋭設備があっても、地の底の底の世界は常に死の危険と隣りあわせだということなのだろうか。事故防止策に、なにか決定的に欠けたものがあるのではないか▼「ふりかえってみれば、日本の石炭産業は、想像を絶するほどのおびただしい犠牲者の血の海に築かれているといっても、ぜったいに過言ではない」と、かつて炭鉱労働者であった上野英信さんが書いている(『地の底の笑い話』)▼炭鉱には「死霊の道案内」のしきたりがあったそうだ。坑内で亡くなった人をかつぎだすとき、仲間は「おーい、左5片(かた)ぞー」「右2片ぞー」と遺体に向かって絶叫する。死者の魂が道を迷わず、ぶじに地上へあがるようにとの心づかいだ。集中監視装置ができる世の中になったが、いまも毎年のように、地底から遺体を運ぶいたましい作業が続く▼石炭の生産量は、最盛時の1961年には約5500万トンだった。やがて合理化の名で、中小炭鉱の労働者たちはヤマを追われた。最近の年間生産量は約1700万トンで、最盛時の3分の1以下である。1次エネルギーのうち、国内炭のしめる割合は極めて小さい▼だが、石炭産業が続く限り、私たちは坑内で亡くなった人びとの鎮魂のためにも、「いかにして人命を守りながら石炭を掘るか」について、知恵をふりしぼるべきだろう。世界の石炭資源は豊富だ。その技術の粋は、いつか海外で役立つことにもなる。 万博の森 【’85.5.20 朝刊 1頁 (全844字)】  先日『万博の森』の植樹祭へ行って、ヒノキや桜の苗を植えてきた。峠に立つと、眼下には田園風景がひらけ、かなたに科学万博の会場が銀色に光ってみえた▼土地の小学生たちと一緒に、地ごしらえの終わった山の中腹に穴を掘り、ヒノキの3年苗を植える。手で土を固めながら、この苗にリボンをかけておこうかなと少女がいう。そうすれば自分の植えた木が一目でわかる。いやいや、ここはみんな君たちで植えたんだって思えばいいのさ。そんなヘルメット姿の指導員の声がきこえてくる▼植えるという行為には、未来がある。5、60年後、木が育って伐採される姿を、筆者はもうとてもみることはできないが、この小学生たちはたぶん自分たちの目でたしかめることができるだろう▼朝日新聞社が呼びかけている『万博の森』運動では、約10ヘクタールの傾斜地に約3万本のヒノキ、シイ、カシ、ケヤキ、クヌギ、桜などが植えられる。宣伝めいて恐縮だが、1本の木を植えるために1人1000円の寄付をいただけば、あなたの名前は植樹記念碑に刻まれて後世に残る。そしてこの寄金は、下草刈り、枝打ちなどの造林作業にも使われる▼また『万博の森』では、コンピューターを使った最新の造林技術がためされる。丸裸の地に植えられた各種の樹木の生長ぶりをコンピューターで予測し、未来の森の様子をブラウン管上に描き出す。山全体の景観を考えながら、苗木を植えることができるという。コンピューターによる森林の生長予測は世界でも例が少ないそうだ▼木は植えさえすれば自然に育つというものではない。下草を刈り、ツタを切り、長年にわたって手入れをしなければならない。山林の作業は、伐採よりも造林のほうが大変だとさえいわれている▼植樹に参加するだけではなく、下草刈りなどの手入れに参加してはじめて、市民と山林とのつきあいは、本ものになってゆくだろう。 揺らぐ「強いアメリカ」 【’85.5.21 朝刊 1頁 (全839字)】  レーガン流の「強いアメリカ」が立ち往生の状態になっている。アメリカの議会が軍拡予算案に厳しく「ノー」をいいだしたからである。下院では、軍事予算の伸びを凍結するだけではなく、実質的に削減しようという動きさえある。米国内ではいったい何が起こりつつあるのだろう▼「国防も他の歳出と同じように痛みをわかちあわねばならない」という声が議会にはあるそうだ。民主党だけではなく、ドール共和党院内総務を中心とした共和党主流の有力議員も軍事費の削減を要求しているという。レーガン大統領の神通力も、いささか衰えをみせてきたのだろうか▼最近はまた、米国内の最大手の兵器メーカーの不正がしばしば問題になっている。産軍癒着の構造はいまにはじまったことではないが、不正摘発のニュースを読むたびに、アメリカという国の自己監視力、自浄力の強さを思う▼米下院軍事委は、最大手の兵器会社7社について、徹底的な調査にのりだしている。請求書に重役たちの私的な旅費がふくまれていたとか、1本20ドル前後のハンマーが435ドルで購入されていたとか、細かいことにも監視の目が光っている▼こういう不正暴露が軍拡抑制の動きにはずみをつけていることはむろんだが、その背景にあるのはやはり、財政赤字に対する危機感だろう。軍事費の突出が、財政赤字をふくらまし、高金利やドル高の一因にもなっている。つまり「強いアメリカ」志向が、輸出競争力の面では「弱いアメリカ」を生む、という皮肉な現象が起こっている▼行政管理予算局のストックマン局長は、上院の委員会で発言している。「軍部の既成勢力は国民の安全保障よりも、自分たちの引退後の利益の方を心配している。どちらかを切れといわれたら、連中は国民の方を犠牲にしようとする」と。こういう率直な意見がでるところにも、シビリアンコントロールの健全さをみる。 身近な水辺の楽しみを 【’85.5.22 朝刊 1頁 (全864字)】  1位は山。2位は川、3位は野または海。小、中学校の校歌にでてくる固有名詞を数えると、そんな順序になるそうだ▼埼玉県のばあいは(1)富士山(2)秩父嶺(3)武蔵野(4)荒川(5)利根川の順で、宮崎県のばあいは(1)霧島(2)大淀川(3)日向灘(4)尾鈴山(5)五ケ瀬川の順になる。建設省河川総務課の亀本和彦さんが調べた結果だ(建設月報4月号)。山紫水明の国にあっては、山と川は、故郷を思い浮かべるときの好一対である▼それに、海や野が加わる。校歌ではないが、長崎県立奈留高校の「愛唱歌」(荒井由実作詞・作曲)は海が主題だ。「風がやんだら沖まで船を出そう/手紙を入れたガラス瓶を持って/遠いところへ行った友達に/潮騒の音がもう一度届くように/今 海に流そう」という調子で、月並みの校歌風でないところが楽しい▼最近は、誇るに足る美しい川が消えつつあるためか、都市部に誕生した学校の校歌に、山や川を歌いこんだものが少なくなったと亀本さんは嘆いている。緑がまだ残っている宮崎県に比べると、埼玉県の校歌には山や川がより少ないという結果もでている。前に、力士の呼び名に山や川が少なくなった話を書いたが、校歌の世界にも同じような現象が起こっているらしい▼都市部の中小河川では、環境基準に達しない水域が55%もあるという。川の色は廃水で濁り、時には悪臭を放ち、魚も消え、人びとは水辺に面して時をすごすことが少なくなった。堤防を高く築き、あるいは川にふたをし、川に背を向けて暮らす。川に背を向けた生活を、どうして快適だといえよう▼工場廃水や都市廃水を再循環して使うとか、護岸に緑をふやすとか、さまざまなきめこまかい「水政策」で、川をよみがえらせたい。「天地万物の景色のうるはしきを感ずれば其たのしみ限なし」といった貝原益軒は、身近にある山水月花を楽しむことを説いている。身近な水辺の楽しみを取り戻したい。 出前 【’85.5.23 朝刊 1頁 (全850字)】  さすがにサービスを売る時代だ。さまざまなサービスの出前が繁盛している。ふとんの乾燥を引き受けてくれる出前がある。独身者用には、家事一切をやってくれる出前もある。温泉のお湯を配ってくれる出前もある。草野球用の投光機の出前もある▼音楽会の出前もある、という記事があった。ピアノやバイオリンの演奏家が家庭や結婚披露宴に来て演奏をしてくれる。そのためのミュージックギフト券も好評だという。社会党は前から出前寄席を続けている。ふつうは有料だが、老人ホームなどには無料で回る。出前寄席が一番必要なのは党本部だと思うけれどね▼これからはますます、あれこれの出前サービスが飛び出すだろう。たとえば「朝食用のママ」の出前。朝食をつくり、子どもと一緒に食べてくれる女性を派遣する。あるいは「夕食用のパパ」の出前。仮の母親、仮の父親がそろえば、たとえ幻影でも一家団欒(だんらん)の形になるから、厚生省からも喜ばれる。「食卓を団欒の場に」というのが厚生省の食生活指針だった▼松下幸之助さんが所得税の重税に怒って「徳川時代なら一揆(いっき)だ」といっていた。昔の百姓の仮装をした人たちに一揆を演じてもらう出前はどうだろう。松下さんには庄屋姿で先頭に立ってもらい、中曽根首相へ直訴、の場面までやる。連日やれば、費用はかかるがCM効果はある▼首相官邸には数字の魔術師の出前がいい。総裁の任期2年をどうやって3年にすりかえるかを考えている、もしくはそんなことを考えていない首相に対して、いかに上手に数字の2を3にすりかえるかという魔術師の芸をとくと見てもらう。1%枠をいかに抵抗なく破るか、の魔術も必見だ▼田中元首相邸には、哲学者講師団の出前を考えたい。むろん、深い思索に満ちた哲人政治家としてよみがえってもらうために。  ▼22日付本欄の荒井由美さんは由実さんの誤りでした。訂正します。 会社人間 【’85.5.24 朝刊 1頁 (全841字)】  西暦2000年には、臨時社員の割合が倍増になるという。いまは6人に1人が臨時社員だが、これが3人に1人になる、という経企庁の調査があった。管理職になれる人の割合も減る▼これからの若い人は大変だなあとは思うが、一方、会社だけが生きがいという人生観が激しくゆれ動くことだろう、とも思った。会社人間の1人としての感慨である▼1カ所の領地を命にかけても大切にし、生活の頼みにする。これが一所懸命のいわれだ。昔の武士が所領のために戦場で命をかけたように、会社人間も「うちの会社」のために命をすり減らす。終身雇用や年功序列が「一所懸命」をささえてきた▼だが、この一所懸命の価値観が徐々に崩れてゆくのではなかろうか。そしてこれにかわって、「各所賢明」といった生活の型がめだつようになるのではないか▼専門家としての実力を身につけ、何カ所もの会社を渡り歩いて賢く生きる。あるいは会社、家庭、地域、趣味やスポーツなどの各所に力を分散して楽しく生きる。そうやって各所賢明的に生きる人が次第にふえてゆくのではなかろうか▼会社人間的な、出世主義的な生き方のおろかしさを、サマセット・モームはすでに60数年前『エドワード・バーナードの転落』の中で描いている。将来を嘱望された青年エドワードは、ポリネシアの島に出張して働いているうちに「転落」する▼勤め先を捨て、故郷の地や婚約者や出世や金銭を捨て、小さな店で働き、白い花の香に満ちた島の自然にとけこんで生きる道を選ぶ。彼にとって、それは文明という名の獄舎からの脱出だった。シカゴから来た友人に、彼は胸を張って答える。「人間、年をとるにつれて賢明になるのさ」と▼世の常にいう転落は、エドワードにとっては転落ではなくて、賢明な選択だった。会社人間の側からは、それはきわめて不可解な選択にみえることも、モームは描いている。 百人一首の漢詩訳 【’85.5.25 朝刊 1頁 (全855字)】  盛開易謝、桜花を嘆ず/5月の梅霖、歳更にひさし/戸を閉じ深居して愁遣る莫(な)し/鏡中の人自ら年華を惜しむ▼小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」を漢詩の七言絶句に訳したものだ。「易謝」は散りやすい、「梅霖」は梅雨に等しい。なかなか感じが出ているように思う▼訳者は台北で行政院新聞局につとめる何季仲さん(42)だ。最近、来日した何さんに聞くと、日本語は若いころ、軍の学校で学んだ。日本の歴史や文化をもっと知りたいという気持ちと、生来の文学好きから、百人一首の漢詩訳を思い立った▼日本の参考書の助けを借りながら訳していると、百人一首の作者たちの境地が中国の詩人と似通っていることに気づいた。恋愛をうたうにも、自然や気候の変化に託して余韻を持たせる。こんな手法が蘇東坡の詩などを思い出させ、骨は折れるが楽しい作業だった、という▼2年余りかかって、100首全部を七言絶句に訳し終えた。漢詩にくわしい台北在住の学者、梁漢氏に添削してもらい、1首ずつの作者紹介や解説もつけて、5年前に台北で出版した。漢詩である以上、題が要る。そこで例えば「花の色は」は「梅雨」、百人一首冒頭の天智天皇御製には「守望秋収」とつけた▼何さんはいま、本業のマスメディア視察に精出している。「初めての日本だが、文字でなじんでいるせいか外国のような気がしない。百人一首の舞台をこの目で見るのが楽しみ」だそうだ▼漢詩など中国の古典はわが国で親しまれてきたが、その逆は少ないと聞く。文化の相互依存性などと開き直らなくても、何さんのような試みはおもしろい▼もう1首。歌舞繁華にして管弦を助け/嬌ぎょう窈窕、嬋娟(せんけん)を闘わす/姨を封じて速かに阻む風雲の路/仙姫を留住(とど)めて綺筵に伴う。往年の宝塚スターの芸名ともなった僧正遍昭の作、といえば、おわかりでしょう。 朝ごはん 【’85.5.26 朝刊 1頁 (全863字)】  日本人は、どんな内容の「朝ごはん」を、どんなふうにして食べているのか。『暮しの手帖』96号が、興味深い報告をしている。約1000世帯の記録をまとめたものだ▼11年前の調査に比べると、白米派がやや減って、パン派がややふえている。サラダを食べる人もふえている。これらはそう驚くほどの変化ではないが、めだつのは食べ方の変化である▼こんな例がある。午前7時、母がごはんを食べる。7時20分、夫がぞうに、半熟卵など。7時半、長女がロールパン、ほうれん草のソテーなど、次女はごはん、いり卵など。8時、妻がトースト▼5人家族のこの家では1時間に4回の朝食が繰り返される。おまけに家族ひとりひとり食べるものが違うから、まことにあわただしい食卓の光景となる▼特別な例ではない。「家族がそれぞれ好きなものを好きな時に勝手に食べる」という、家庭のファミリー・レストラン化がかなり進んでいる。家族全員がそろって朝食をとる家が11年前の54%から39%に激減しているそうだ。10年後、20年後の朝食の光景はさらに変わってゆくだろう▼厚生省が「食生活指針」の中で「食卓を家族ふれあいの場に」と強調したのも、こういう背景があるからだろうが、この時の流れを一片の指針で変えることはできない▼国語学者の寿岳章子さんは、少女時代、家族と一緒に食事をしたことを思い出し「私はしあわせだったと思う」と書いている。「素朴だけどおいしい料理、母の手作り、清潔で栄養があり、この上なく楽しい家族の会話があった。……ああ、すべてすべて家族の中に食べものがあった」(『10代に何を食べたか』)。むろん、朝食も含めての話だろう▼なぜ、朝食のとり方が変わったのか。1つは、父親だけがみんなより先に食べてでかける例がふえたからだと調査は指摘する。そこには通勤地獄の問題もあるだろうが、やはり最後は親の朝ごはん哲学、ということになろうか。 マラソン名コーチ中村清さん水死 【’85.5.27 朝刊 1頁 (全845字)】  マラソンの名コーチ、中村清さんはソウルで生まれた。小学5年のとき、父親にせっかんされたことがある。木刀で息の根がとまるほどたたかれた▼1人で人里はなれた所に釣りにでかけ、3日も帰らなかったためである。怒る父親との間に「2度と行かん」「うそいうな。すぐ行くんだろ」「うん、行く」というやりとりがあったそうだ。少年のころから、好きなことをやるといったら死んでもやる、といった激しさをもっていた。その釣り好きの中村さんが、釣りで命を落とした。いたましい事故だった▼後年、1500メートルで14年間も破られなかった日本記録をだした中村さんは、中学時代には頭角を現している。東京の全国中学大会へ出たいが、家が貧しいから旅費がない。そのとき、体操の先生に手をあわせ、級友にも「すまんが、みんなの1銭2銭をわしにくれんか」と頭をさげて旅費をつくったというから、これも相当なものだ▼中村学校、というとよく精神主義的な面が強調されるが、その指導法はきわめて理にかなったものだった。瀬古には瀬古なりの走り方がある。それを工夫する。生活を共にすることで選手を知りつくし、食事の肉の分量にも気を配る。相手の選手の情報も徹底的に集めて分析する。常に最新の情報を得て、作戦をたてた▼「コーチになるために生まれてきた人」。瀬古選手は師のことをそういい、師は「彼ほど苦しい練習に立ち向かえる選手を知らない。神が私に与えてくれた一生で最後の選手だ」といっていた▼だが、2人の男が力をつくして描きあげようとした芸術作品は、モスクワ五輪では出品の機会を奪われた。ロス五輪の直前、中村さんは胃がんの進行を知り、このことが瀬古選手の最後の調整に響いた。不運だった▼中村さんは「一心」ということばが好きだった。「陸上は芸術だ」といい、激しく一心不乱に生き続けたスポーツマンの1人を失った。 公営ギャンブル 【’85.5.28 朝刊 1頁 (全841字)】  イギリスで第1回のダービーが行われたのは、1780年である。創始者ダービー卿の名にちなむこの競馬は、19世紀になってから次第に人気が高まり、近代競馬の規範とされるようになった▼ダービーは各国にひろまり、日本でも1932年に第1回ダービーが行われた。この時は視界が悪く、さすがの名アナウンサー松内則三さんも、馬を見わけるのにてこずったという話がある。競馬の大衆化が進んだのはあの「さらばハイセイコー」の歌がでた70年代の中ごろであろうか。75年1月には「ハイセイコー様」あてに配達された年賀状が70通もあった▼今年の日本ダービーには12万人の観衆が集まった。競走馬の巨体が2400メートルを疾走する姿は、テレビで見ていても力感がある。売り上げが約170億円で史上2番目だったという話をきくと、人気は上々のように思える。だが、中央競馬のばあいは特別らしい▼地方競馬、競輪、競艇などの全体の売り上げは減りはじめている。地方競馬では、赤字のところもあるし、競輪では開催権を返上してレースをやめたところもある。公営ギャンブルの世界では全体として客離れが進んでいる、という話をきいた▼ゴルフ、テニス、スキー、と楽しむものが多様になってきた、という事情がある。公営ギャンブルが若者の心をつかむことができずにいるからだ、という説もある。「とばくを好んで富をつくる者と、老いてよくラッパをふく者とは少ない」といった西洋のことわざの趣旨が行きとどいてきたのだろうか▼もともと公営ギャンブルは「カネのなる木」でもあった。一部ではそれが「赤字のなる木」になりつつある。収益の悪い市営川崎競馬のばあいは、市の検討委員会が「廃止」を答申している。公営ギャンブル是非論は別として、赤字の穴埋めのために住民の税金が使われる、となればおだやかならぬ人は少なくないだろう。 国家秘密と知る権利 【’85.5.29 朝刊 1頁 (全857字)】  今たとえば兵器メーカーの現場を取材しようとすると、大変な手続きがいる。防衛庁へ行き、取材目的を書いた申請書をだして入門証をとる。とくに戦闘機工場などの場合は、1枚の写真をとるのにも申請の文書が必要だ▼工場内のあちこちに「撮影禁止」の立て札がある。カメラマンがその立て札を写そうとしたら「それも撮影禁止です」と叫んだ検査官がいた。「えっ、これも防衛秘密なんですか」「いや、今の発言は勇み足でした」というやりとりがあった。他の所では、「こんな所を写してもなんら秘密ろうえいにはならんのに」と防衛庁の秘密主義に首をかしげる検査官もいたという(朝日新聞『兵器生産の現場』)▼自衛隊や兵器産業の報道は、厚い壁にはばまれることが多い。国の防衛に機密がつきものであることは認める。だが、重要な秘密とそうでないものとの区別は極めてあいまいで、時には「撮影禁止」という立て札の存在さえ機密にされそうになる▼自民党が国会に提出しようとしている「スパイ防止法案」を読み、これでは、国家秘密の範囲が拡大解釈される恐れがあると思った。もしこの法案が成立すれば、たとえば59中業や次期国産戦闘機の開発計画の中身を報道することさえ、スパイ行為になる恐れがでてくるのではないか。いや、報道機関だけではない。情報産業や防衛産業で働く人びとも「国家秘密を過失により」人に漏らせば罰せられる▼今回の案では「外交上の秘密」も防衛上秘匿することを要する情報であれば、スパイ行為になる。自民党内にも、外交秘密を対象にすると枠がひろがりすぎる、という議論があったときく。国家秘密の枠がひろがればひろがるほど、知る権利がおかされる▼国の防衛政策は常に厳しい批判を前提にしたいというのが大戦でえた1つの教訓だった。防衛のあり方を議論するために国民が知らなければならない情報が、暗やみに閉じこめられてしまうことを恐れる。 庭の風景 【’85.5.30 朝刊 1頁 (全854字)】  お隣の庭のヤマボウシの花が雨に打たれている。下からは葉に隠れてよく見えないが、2階の窓から見ると濃い緑の中に白い花が浮かびあがる。地味な花だが、どことなく粋(いき)で、清涼感がある。ヤマボウシが好きだという人は存外、多いのではないだろうか▼わが家の狭い庭にも、珍客が訪れることがある。春先にはなぜかアズマイチゲが1輪咲いた。植えたおぼえはなく、多分いただいた植物の土にまじって、庭に住みつくことになったのだろう▼5月になって、思わぬ所にシラン(紫蘭)の花が咲きはじめた。べにむらさきの、品格のある花だ。これもどこからかやって来て、この狭苦しい所がお気に召したらしい▼元天気相談所長の大野義輝さんは東京の目白に住んでいるが、庭にクワノキが何本も育って実をつけるそうだ。鳥のおみやげである。ヒキガエル、ゴマダラチョウ、と珍客も多い▼串田孫一さんのお宅にも、ヒキガエルが家に入り、食卓の近くまで来て両手をついてかしこまることがあったという(『自然の断章』)。「青大将が玄関から堂々と入って、書棚のうしろへ一応身を隠す」こともあった。珍客をもてなすのも容易ではない▼わが庭の珍客中の珍客に、シジュウカラの夫婦がいた。梅の木にかけておいた巣箱に枯れ草などを運びはじめたのは先月だった。一時はスズメに追われたが、いつのまにか舞い戻り、ぶじ、ひなをかえした。親鳥がえさをくわえて、まっしぐらに巣に戻ってくる姿はけなげだった。巣箱からビービービーと甘えるようなさえずりがきこえてくる▼数日前、2羽のひなが巣箱から出て、梅の木の枝にとまっていた。親鳥が「こうやって飛びなさい」と教えるように、あたりを飛び回っている。子鳥たちは長い間じっとしていたが、意を決したように枝を離れ、空をめざしてはばたいていった。親と子はもうそのまま帰らない。巣立ちとはかくもあっけないものか、と思った。 都市開発と緑 【’85.5.31 朝刊 1頁 (全840字)】  「昔の東京は緑が濃かった」と繰り返しても、せんないことだが、今から約90年前の資料によると、今でいう「都心」でも武蔵野の昔の姿をしのぶことができたらしい。麦畑、野菜畑、疎林、小丘、平野などが「尽きんとして際なし」とあり、さらに東京は樹木によって生きている、ともある(『明治東京逸聞史』)▼国土庁が発表した首都改造計画を読み、これでは東京周辺の緑濃き地域がますます失われてゆくのではないか、と心配になった。首都改造の名のもとに周辺の開発が進み、「昔は緑が濃かったのに」と嘆く人がさらにふえるのではないか▼首都の超過密をどうするか。確かにこれは大問題だ。首都圏にはいま約3100万人が住む。西暦2000年には約3450万人になるだろう▼居住環境が悪い、1人あたりの水資源が少ない、といったことのほかに、情報発信の過度の集中がある。東京の供給情報量は85%、ちなみに大阪は8%、愛知は1.5%である。この異常な偏りをどうやってただしたらいいのか▼今回の計画は、東京への「1極依存型」から、周辺の都市を含む「多極多圏型」への移行をめざすものだという。だがこれは、よほど慎重に進めないと、いたずらに「東京」を拡散する結果になる▼東京の改造にはやはり、日本列島のどこかにX地域を選んで新首都を創造するという根本策が必要だ。そのためにはすでに広大な公用地のある地域がいい。しかも地価抑制策を発動して公用地周辺の土地投機を抑えるという前提があっての話だ▼そういう根本策がない場合は、首都圏の開発を進めて緑を破壊するよりもかえって何もしないほうがいい。『私を愛した東京』の著者、冨田均さんは書いている。「ぼくたちはあまりにも長く『なにをなすべきか』の問ひにふりまはされつづけて来たやうです」と。時には「なにをなさぬべきか」を問うことが大切かもしれない。 サッカー騒動 【’85.6.1 朝刊 1頁 (全861字)】  40人近い死者がでたというから想像を絶する混乱だったのだろう。「英国とサッカーに対して恥辱と不名誉をもたらした」とサッチャー首相は怒りの声明をだした▼ついこの前は、中国チームが香港チームに敗れたことで北京のファンが暴れだし、「国家の威信を傷つけた許すまじき行為」と厳しくたしなめられた。許すまじきといわれながらも、サッカーの騒動は続く▼何年も前の話だが、ロンドン市内11カ所のサッカー場で、1年間に七千数百人の観客が逮捕されたという。英国人のサッカー興奮度は相当なものらしい。それを因数分解すると▼(1)欲求不満。職のない若者たち、移住してきたでかせぎ者やその2世たちの疎外感、あるいは漠然とした閉塞(へいそく)感、そういう欲求不満が深層にある(2)強烈な地元ファン意識。英国では、チームと共に遠征する熱狂組の数はかなりのものだ▼(3)スタンドの過密。スタンドが閑散としていたら、攻撃的な乱衆も生まれにくい。すし詰めの立ち見席から騒ぎが起こることもある(4)アルコール。すでに競技場内での販売を禁じた所もある▼(5)サッカーくじ。カネがからまってくるとさらに興奮が高まる(6)指導者。口火を切るならず者の扇動に、被暗示性の高い者がひっかかる▼サッカーは、もともとの形は極めて乱暴な競技で、14、5世紀のイギリスの都市で禁止令がでたことさえあった。その先祖返り的な要素が、観客の乱暴となって噴き出すのだろうか。本来、スポーツというルールのある闘争を楽しむはずの観客が、スタンドで、ルールなき闘争に自らをかりたてる▼サッカー騒動は英国だけの話ではない。16年前のワールドカップ予選では、ホンジュラスのチームが、エルサルバドルのチームに敗れた。くやしがった敗者のファンがエルサルバドル人を襲撃、それがきっかけで両国間に戦争が起こったことさえある。スポーツとは何ぞや、といいたくなる。 包みの文化 【’85.6.2 朝刊 1頁 (全851字)】  銀座の松屋で開かれている『日本のかたち――包む展』を見た。「なつかしい」というのが第一印象だった。炭を包んだ俵がある。薄いまさめの杉板で包んだ干しうどんがある。納豆のつと(わらで包んだもの)がある。ひのきで編んだべんとう入れがある。いまはもうめったにお目にかかれない包みの数々にであうなつかしさである▼いいかえれば、日本の伝統的な包みの文化が私たちの日常生活の中で、いかに急速に崩れつつあるかということだろう。たとえば、外国のデザイナーたちがその美しさに驚嘆する「卵のつと」がある▼5個ほどの鶏卵をわらで包み、わらひもでくくっただけのものだ。わらというしなやかな素材が、割れやすい卵をやさしく包んでいるところに、いかにも、ものを大切に扱うという心の動きがある▼寒ブリの陰干しを細いわらなわできっちりと巻いたのが「巻鰤(まきぶり)」である。わらのすきまから空気が適当に出入りして半年はもつ、といわれる保存食だ。なわをほどき、必要な分だけ削ってまた巻いておく。暮らしの知恵が生んだ巻鰤は、その姿形もきりりと美しい▼ここに展示された包みのあるものは生き続けているが、多くは姿を消してしまった。とくに卵のつとをはじめ、わらの包みは激減している。昔は、わらは肥料になり、家畜の敷きわらになり、飼料になり、燃料になり、縄や俵になった▼だが最近はわらは焼いてしまうことが多くなった、と農家の人はいう。一方でわらを焼き、一方で韓国や台湾から飼料用のわらを輸入することがある、というから話がややこしい。包みの素材としてのわらの衰退は、日本人の生活の型の変化に見事に対応している▼「つつむ」の形容詞化は「つつましい」だと辞書にある。伝統的な包みの文化には、ひかえめな思慮深さといったものがみられるが、この文化の衰退は「つつましさ」という心の動きの衰退をも意味するのであろうか。 木を愛する心 【’85.6.3 朝刊 1頁 (全846字)】  かけ足で広島を訪れる人は、原爆ドームと平和記念公園を見て帰る。時間のある人は、原爆病院、原爆養護ホームなどを回り、基町の旧陸軍病院跡を見る。病院跡は太田川のほとり、土手の続いているところにある▼病院跡の慰霊碑のそばに、1本のエノキがある。被爆して、幹は根元近くから、裂けるように折れていて、枝もなければ、葉もない。このエノキが、5月に入って芽を吹いた。地上すれすれに10あまり、1メートルのところに1つ、3センチほどの小さな芽を吹き出したのだ▼木の前に、立て札が立っている。「原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした。きょうまでほんとうによく生きてきた。生命の力強さと尊さを知ったかわいそうなエノキ。基町に住む私たちはこの木を守っていく義務がある。基町小学校児童会」▼木を大切に守ってきたのはこの小学校の子どもたちである。5、6年前、戦争のときからここに住む老人に、この木の話を聞いてから、学校のみんなで世話を続けてきたという▼去年の8月、台風が来た。そのころはまだ高さ15メートルもあったエノキが、下の3メートルを残して折れてしまった。大阪から、自ら「樹医」を名乗る山野忠彦さんが呼ばれた。84歳、これまでに900本近い古木、名木をよみがえらせたという人である▼山野さんは、エノキのハダに手をふれた。生きているか、死んでいるかは、その手ざわりで分かるのである。エノキは中心となる根(ふんばり)を残すだけで、その周りの根はすっかり消えてしまっている。しかし、山野さんは、この木をよみがえらせることができるといった。根周りを深く掘り、土を入れかえ、防腐剤をぬり、栄養剤を注射した。「きっと芽を吹く」――山野さんはそういって帰った。そして言葉通りに芽は出た▼「木は人の心を知っている。愛されれば生きる」と山野さんはいう。町で木が枯れるのはなぜだろう。 政界の「さしあたって主義」 【’85.6.4 朝刊 1頁 (全850字)】  政治の世界では「根本的な解決はひとまずおいて、さしあたって、これこれをする」というやり方が好まれるらしい▼根本策? そんなのは書生論さ、現実は甘くないよ、という空気の中では、さしあたってのことをいかに巧みに切り抜けるか、という権謀術数的かつ緊急避難的な腕力が珍重される。衆院の定数是正をめぐる政府自民党の動きをみていると、とくにこの「さしあたって主義」が色濃いように思う▼6増・6減の議員提案がきまったところで「終わりよければすべてよし、だ」と鈴木派幹部ははしゃぎ、「おやじ(河本氏)は閣僚で苦しい立場ながらよくやった」と河本派の議員は自賛している▼実際はどうだろう。第1、中曽根首相は1月の施政方針演説で「今国会で定数是正が実現するよう最大限の努力をする」といっている。この公約通り、今国会で違憲状態の「1票の格差」をただす自信があるのか▼「提出することが先決、成立は二の次」という有権者をないがしろにする空気はさすがにややうすらいだようだが、何が何でも今国会できめるという政府与党の気迫は感ぜられない▼第2、今秋の国勢調査の結果がでれば、6・6案では違憲状態をただしえないことが明らかになるだろう。その時どうするのか▼第3、この案は、さしあたっての、緊急避難的な処置である。根本策をどうするのか。公選法では、5年ごとの国勢調査の結果で定数を「更正」することが説かれている。1票の格差を自動的にただす、あるいは公正な第三者機関に是正をゆだねるような法案の検討を、与野党はなぜ怠っているのか▼「最後の権威は自己にあり」という漱石のことばにもふれて、政治学者の辻清明氏は書いている。「いかなる地位であろうとも、その地位に期待されているだけの働きを示したとき、そこに権威が生ずる」と。違憲状態の是正を怠るような国会議員に、どうして権威を認めることができよう。 プライバシー権 【’85.6.5 朝刊 1頁 (全842字)】  20代の一主婦が2度目の妊娠をしたとかいうことで、なぜこんな大騒ぎになってしまうのだろう。何年か前までスター歌手であったというだけで、今なお、日常生活の情報が商品化されても、有名税だといってがまんしなければならないのだろうか▼だれとだれとがどこで会っていた式の、スキャンダル大好きの報道が最近は盛んになるばかりだ。スキャンダルはいけませんなどときれいごとをいうつもりはないが、まあ、「ほどほど」ということがあるでしょう▼私事の数々が暴かれるさまをみていると、この大都会にめぐらされた塀という塀には全部、大小ののぞき穴があって、みなが競ってのぞきっこをしている図が浮かぶ。世の中の異常度はやはり、かなりのところに来ている、とみるべきだろうか▼川崎市が、プライバシー侵害の是正を勧告できる「個人情報保護条例案」を発表した。知らない業者からいきなり電話があり、商品の勧誘をされる。家族の事情を知られているのがわかって、うすきみ悪くなるのは毎度のことだが、この背景には、たとえば業者の住民票閲覧がある▼コンピューターの発達で、情報の大量処理が可能になった。自分についての情報が自分の知らないところに蓄積され、しかもだれかに利用されているという不安にたえずつきまとわれるようになった。そういう意味で、業者の個人情報閲覧を規制する川崎市の条例案には賛成だ。「個人情報が誤っていたり、収集方法が不当な時は訂正、削除を請求できる」ことも明記してある▼しかし自分のプライバシーは守りたいが、他人のプライバシーはのぞきたいというのが、残念ながら人の世の常である。小説『宴のあと』裁判では「プライバシー権は、私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解される」という東京地裁判決があった。プライバシーの権利は、自他ともに守られなければならぬ。 中野区のホームステイ 【’85.6.6 朝刊 1頁 (全842字)】  ホームステイや留学は、生活全面にわたって異文化と接触するので、国際相互理解に格好の場となる。東京・中野区上鷺宮、白鷺地区の家庭が、青山良道区長からの依頼で、ニュージーランドのこどもを2週間あずかり、地元の小、中学校に通わせた▼首都ウェリントンで日本語を勉強しているチャートウェル小学校の児童15人と同校出身の中学生10人で、日本行きの旅費は、父母たちがダイレクトメールの封筒づめなどをして大部分賄った。こどもたちも新聞や牛乳の配達、犬の散歩などでお小遣いをためた。個人の自立重視のアングロサクソン流教育だ▼歓迎式では「ちいさなひごいはこどもたち」などと上手に歌って元気だったが、各家庭に引きとられるとなると、泣きに泣いて日本のお母さんをてこずらせた女の子もいた。だが大部分は言葉の壁もなんのその、たちまち日本の家庭と学校にとけこんだ。図にのって自転車を猛スピードでのりまわし、相棒の日本の子が心配のあまり発熱した例もあった▼上鷺宮小学校が一行を軽井沢の移動教室へ連れていった。集合時に騒いだりするとクラスの連帯責任、正座の罰など集団規律を重視する日本の教育にはびっくりしたらしい。「自然を楽しむのは二の次みたい」という子もいた▼「日本は管理がきびしいが、人間も多いし、ああしなければ社会がくずれてしまうのでは……」とおしゃまな批評も出た。1人当たり国内総生産で日本に大幅に追い抜かれたニュージーランドだが、自国の社会制度には、こどもなりに自信があるようだ。「軽井沢でも自然破壊がすごかった」という観察もあった▼遠来の客を迎え、地域社会はお祭りのようにわいた。そうした中で「日本は最初の被爆国としてどんな核反対運動をしていますか」といろいろ聞いて、受け入れ先のお母さんを感心させた中学生もいた。一行は7日、広島市の平和記念資料館をたずねる。 サイクロン 【’85.6.7 朝刊 1頁 (全845字)】  強力に発達した熱帯低気圧の呼び名は、生まれた場所、襲う地域によって違う。太平洋域ではタイフーン(台風)、カリブ海、大西洋ではハリケーン、インド洋、ベンガル湾ではサイクロンだ▼もとは、蛇のトグロを表すギリシャ語のキクロスからきたそうだが、5月末、バングラデシュ南部を直撃したサイクロンは、自然という大蛇のすさまじいかみ跡を残していった。死者は4万人を超すとみられる。30万以上の人が家を失った▼惨状を特集したニューズウイーク誌は表紙に「またしても」と大きなカットを刷り込んでいる。ベンガル湾に面したこの国の人びとは、繰り返し、サイクロンに生命を奪われ、生活を打ちのめされてきた。サイクロンの来襲は阻めない。だが被害を防ぐことはできないのかと思う▼バングラデシュの主な道路は土を盛り上げて、1段高くしてある。この国で働く青年海外協力隊の若者は「バングラデシュの万里の長城」と呼ぶそうだ(山本茂実『日本青年は健在だった―バングラデシュ紀行』)。国土のほとんどが低地、ベンガル湾の河口地帯は海抜ゼロメートルに近い。せめて洪水から道路を守る知恵だろう▼サイクロンの高波に対して、この国は致命的な弱点を持っている。大規模な防潮堤、護岸工事をするには資金がいる。山本さんは協力隊の若者の活動を通して独立後のバングラデシュが直面している貧困と苦悩を語っている。こんどの惨害から浮かび上がってくるものも同じだ▼国営放送はサイクロンの接近を警告していた。だが多くの住民はラジオを持っていない。大きな被害を出した河口の島から人びとを避難させる手段もなかった。水没の危険がある島でも、農地を求めて人びとは争って住みついてくる▼せめて、できるだけの救援の手を差しのべたい。政府は120万ドルの緊急災害援助を決めた。日赤は援助物資を送る予定で、見舞金の受け付けもしている。 実力者の条件 【’85.6.8 朝刊 1頁 (全841字)】  自民党の実力者つまり派閥の親玉の条件は何か。それは大きな事務所を構えていることだといってもよいだろう。事務所とは、そこに金と人と情報が集まり、政治を動かす力となっていく場所だ▼国会議事堂に近いほどいい。立派なビルやホテルのなかで、大きいほどいい。人の出入りがさかんなほどいいのだ。もちろん、大変な金がかかるだろうが、そうした事務所を持っていることが、実力者としての証明であり、力を見せつけることになる▼田中角栄元首相は東京・目白台の私邸と平河町のイトーピアビルに事務所を置いていた。病気で倒れるまで、午前中は目白台事務所で、午後は平河町事務所ですごすのが日課だった▼目白台は、選挙区の新潟から訪れる後援者や陳情客と会う内輪の場所だ。平河町事務所はそれに対して、田中派議員をはじめ多くの政治家と接触して、派閥の領しゅうとしての権威と力を示す場所になっていた。政局の動きを決めるいくつかの節目で、平河町事務所は舞台となる▼昨年10月26日、自民党総裁選で二階堂擁立を迫る鈴木前首相と中曽根再選を支持する田中元首相の会談はここで行われた。「ヤミ将軍」が政治の表舞台に登場したのである(朝日新聞政治部『田中支配』)。その平河町事務所が閉鎖される▼政界の反応のなかで「これは田中家の行革」という福田派の論評があった。裁判費用に病気治療が重なって事務所の維持も苦しい。「越山会の女王」といわれた経理担当者や秘書との対立もあるようだ。金と人の両面から長女の真紀子さんを中心とする田中家が思い切ったメスを振るったということか▼実力者の条件である事務所の閉鎖は、もう派閥の思惑や活動から父親を遠ざけたいという娘の意思表示なのだろう。世間の常識ではごく当然の判断だと思う。「角抜き」の決断が「角抜き」政局を決定的にした。「田中支配」の後戻りはなしとしたい。 バッハと八橋検校 【’85.6.9 朝刊 1頁 (全843字)】  ことしはバッハの生誕300年に当たり、日本でもちょっとしたバッハ・ブームである。記念の演奏会が、アマチュアのものまで入れると、毎日のようにある▼海外勢の来日もまたすごい。さきにはヘルムート・リリンク指揮のシュツットガルト・バッハ合唱・管弦楽団が各地で演奏したし、秋には聖トーマス教会合唱団とゲバントハウス管弦楽団やヘルムート・ビンシャーマンが率いるドイツ・バッハ・ゾリステンもやってくる▼なぜバッハはもてるのか。肖像画で見るかぎり、重々しいカツラをかぶり、謹厳そうな顔で取っつきにくい。「神の栄光への奉仕が音楽の目的」とはバッハ自身のことばだ。宗教性の高い音楽であるにはちがいない▼が、少し乱暴ないい方をすれば、バッハの音楽は調子がいい。よく流れる。リズムがきっちりしていて素朴である。だから親しみやすい。ベートーベンのように構えて聴かなくてもよさそうだ▼そのせいかどうか、バッハほど気軽に編曲されるクラシックもないだろう。ジャズ、ロック、シンセサイザー、はては琴や尺八の曲にまで生まれ変わる▼このバッハが生まれた年に死んだ日本の音楽家がいる。筝曲の祖といわれる八橋検校である。「六段の調」を代表とする段物は、毎年のように欧米で演奏されている。段物は日本の古典音楽には珍しく歌がつかない。琴の器楽曲である。拍子感覚がよくて論理性が高いところも日本音楽には珍しい▼欧米の聴衆は、日本で、しかもバッハ以前にこんな器楽曲があったのかと驚く。大阪大学で音楽学を専攻しているスイス人のシルバン・ギニヤールさんは、チューリヒ大学の卒論に「六段の調」を選んだ。八橋の研究は海外の方が盛んだともいう。先年亡くなった民族音楽研究のパイオニア、小泉文夫さんは「これから日本音楽を研究する人は、まず英語やドイツ語の勉強を」といっていた。12日は八橋の命日である。 『遊ぼうよ』 【’85.6.11 朝刊 1頁 (全837字)】  『遊ぼうよ』という題の映画を見た。東京都世田谷区のボランティア協会の企画に、区教委が協力して、このほど完成した上映時間30分のささやかな作品である▼いまの子ども、とくに都会の子どもは、遊びを知らない。夢中になって遊ぶことが、どんなに楽しいか。その体験が、人間の成長にとって、どんなに大切かを、もっと親と子に訴えたい。これが狙いである。登場するのは、みな区内の子どもたち。ふだんの遊びの実写を通して、いまの都会でだって、こんなに面白く遊べるのだ、と呼びかけている▼ビルや住宅にぎっしり埋めつくされた世田谷区の空撮で始まり、カメラは一転して狭い裏通りから路地へ。カンシャク玉を投げつけて、女の子たちを驚かせる悪がきどもがいる。彼らはまた、よその庭を抜け、店の通路をぬって、走り回る▼「いい加減にしなさいっ」「コラッ」と、街のおばさん、おじさんが怒鳴る。演出いっさいなしだから、追いかけるカメラマンも一緒に怒鳴られているわけだ。危険防止の金網が張られている都会の小川。たくみに乗り越えて水遊びするかと思えば、排水管を秘密の通路に使って、思いがけない場所から姿を現す▼思わず、いいぞいいぞ、もっとやれ、と声援してやりたくなってくる。時代がどう変わろうと、子どもは遊びたがっているし、その能力をそなえているのだ▼製作した映画社の人たちによると、撮影中、子どもたちが、しきりに「おじさん、いま何時?」と聞くのが印象的だった、という。「塾や習いごとに行く時刻を、気にしながら、懸命に遊んでるんですね」▼編集の途中で、区教委は、金網を乗り越えたりする場面に、ちょっと首をかしげた。建前からすると、確かにまずい。だが結局、そのまま残すことになった。「勇断」の理由は、教委の部長も課長も、「みんな子どものころ、自分のやってきたことだものね」だった。 大相撲ニューヨーク場所 【’85.6.12 朝刊 1頁 (全839字)】  1951年というと対日平和条約調印の年だが、元横綱前田山らの一行が戦後初めてアメリカに渡り、日本の相撲を披露した年でもある。テレビ会社の注文で白パンツの上にまわしを締めた▼「国技の伝統を破るわけには参らぬ」という関取連の懸命の待ったも、「レスリング・ベルト(まわし)だけでは、まるハダカも同然」とアメリカ側に寄り切られた。それも昔話で、昨今の相撲の国際化はめざましい▼大相撲の本場所には外国人客がふえている。東京で米国人が発行している英文の相撲雑誌「スモー・ワールド」は日本国内だけでなく世界の各国に読者を持っているそうだ。米極東軍放送網FENは本場所の実況放送もしている▼米国西海岸、ハワイ、中国、メキシコ、ソ連と海外巡業、公演も多い。こんどは、マジソンスクエアガーデンで「ニューヨーク場所」だ。ホワイトハウスでの土俵入りはレーガン大統領の多忙で肩すかしとなったが、米国の中心都市で、相撲がどんな反応を呼ぶか興味深い▼人間が力と技を競う格闘技は最も古いスポーツだ。どの国にも同じようなスポーツがある。日本の相撲はそのなかに多くの要素をとりこみ、様式を完成させた独特のものだろう。横綱審議会委員長の高橋義孝さんによれば、相撲は1にスポーツ、2に神事、3に演劇の3つの要素をふくんでいる。スポーツであり、文化であるといえるかも知れない▼土俵の形、力士の挙措など、一つ一つに意味がある。外国人には分かりにくい所があるとしても、春日野理事長が「すべて、あるがままの本物の姿を見てもらいたい」と語っているのに賛成だ。本物をみせることが、本当の理解に通じる▼共通の土俵、土俵にあがる、仕切り直し、呼吸を合わせる……。相撲の用語から転じて日本人の思考や行動を表す言葉は実に多い。日米の対話や交渉に、相撲の理解が役立つとなれば「ごっつぁん」だが。 「すき間商法」 【’85.6.13 朝刊 1頁 (全842字)】  なにかを信じてみたい心理状況につけこんで、ウソをホントと信じこませるような情報があふれている時代だ▼1日1粒のめば背がぐんぐん伸びる――という宣伝につられて、10万人もの少年少女がニセ薬を買わされた。ウソに決まっているじゃないかと笑ってすますわけにはいかない。背が低いことを深刻に悩んでいる子どももいる。就職試験の身長制限を苦にしている少女もいた▼まわりに相談しにくい問題だ。つぎつぎに雑誌にのる大きな広告を見るうちに、つい信じてみたくなったのだろう。人間の、しかもまだ子どもの弱みをついた卑劣な商売だ。豊田商事のあくどい金取引商法にも同じことがいえる。国民生活センターなどに被害を訴えた人の7割もが60歳以上のお年寄りだ。それも、ひとり暮らしの老人が多い▼だれにも老後の生活に不安がある。預金や年金があっても、それで十分なのか、有利に活用する道があるのかと思うだろう。そこに、「預金が多いと年金を減らされる」「金を買っておけばインフレに強いし、利殖にもなる」といった話を吹きこみ、しつこく迫って、契約をさせる▼現物の金は会社が預かり、証書だけを渡す「現物まがい商法」だ。心配になった客が解約を求めると渋り、高い違約金や手数料をとる。詐欺まがいといいたくなるような商法が、多くの法の規制をくぐってまかり通ってきた▼うまい話には裏がある。ビアス『悪魔の辞典』を引くと、詐取とは人を信じやすい連中に教訓と経験を授けることだ。しかし、こんどの場合、お年寄りを責めることは、とてもできない。教訓を引き出さなければならないのは、あまりに対応の遅かった法と行政の側だ▼法律と法律、役所と役所の間にすきがある。悪徳商法とは、そこをねらった「すき間商法」だといってもよい。悪徳業者との知恵くらべに、後れをとっていては、また、どこかで同じような被害が出る。 社会党の新宣言草案 【’85.6.14 朝刊 1頁 (全843字)】  愛と知と力のパフォーマンスという副題がついた社会党の新宣言草案には、闘争という言葉が出てこない。革命は「ロシア革命」のような歴史的な表現で登場するだけだ▼独占資本、帝国主義といった言葉も消えた。資本主義の矛盾は、さまざまな害悪に、闘争は、改革の運動に、というように、言葉遣いは大きく変わった。かたい独特の用語でなく、やわらかい日常の言葉で語ろうと努めた跡がうかがえる▼だれにもわかる言葉で語りかけるのは、政党にとって、もっとも大切なことだ。社会党もだいぶ変わってきたなという感じがする。「階級政党か、国民政党か」という党内の古く、長い論争にも、国民政党だと答えが出た。今ごろ、ようやくかと思うが、これも大きな変化に違いない▼80年選挙の結果を分析すると、社会党は議席、得票率で、やっと2割政党、大都市より農村党、官公労組依存党だ。しかも、実は産業労働者層の支持率では、自民党に負けている非・労働者党だという(石川真澄『日本の政治の今』)。社会の変化と自分の足元をみつめたうえで、政権をめざすなら、道は国民の党のほかにはあるまい▼西ドイツの社会民主党が新しい綱領で、階級政党から国民政党へと路線を転換したのは1959年だ。フランス社会党が党外から頭脳を集めて新しい道を歩きはじめたのは71年である。どちらも、それから10年でブラント政権、ミッテラン政権をつくった▼日本の社会党も結党40年で、やっと同じような出発点にたどりついた。もっとも、これから先、政権への道すじとなると、はるかにけわしそうだ。新宣言草案は、たしかに社会党のいまにふさわしい衣だが、はたして、着こなせるのか▼パフォーマンスといった新しい言葉が、消化不良を起こしそうな心配もある。それに、新しい路線をすすめていく新しい力、社会党の明日をわかりやすく代表する新しい顔はいずこ。 アフリカ飢餓救援コンサート 【’85.6.15 朝刊 1頁 (全841字)】  飢えに苦しむアフリカの人びとに救援の手をさしのべようと、アメリカの音楽家たちがつくったチャリティー・レコード「ウイ・アー・ザ・ワールド」は、こう歌い始める▼今こそあの声に耳を傾けるんだ/今こそ世界が一丸となる時だ/人々が死んでゆく/いのちのために手を貸す時がきたんだ――(武内邦愛訳)。ボブ・ディラン、マイケル・ジャクソンら多くの歌手たちが協力したこのレコードは世界中から熱い反応を引きだした▼日本でも5月初めからこれまでに、レコード約56万枚、カセット約8万本が売れた。レコード会社は、3億円はアフリカへ送れる見通しだといっている▼英国のロック歌手の救援組織、バンド・エイドをはじめ、フランスや西ドイツなどでもチャリティー・レコードがつくられた。多くのファンをひきつけている音楽家たちが、音楽を通してアフリカの救援に力を合わせているのだ▼残念ながら、日本ではまだそうした動きはない。演歌歌手のコンサートはあったけれど、若い人に人気のあるニューミュージック系の音楽家たちのまとまった活動はなかった。手前みそのようで恐縮だが、7月に東京で開かれるアフリカ飢餓救援の連続コンサート(朝日新聞社主催)が初めての試みだろう▼上田正樹、加藤登紀子、中川勝彦、浜田省吾さんやカシオペア、アナーキーなどが「ミュージシャンとしてステージで役に立ちたい」と出演する。勉強会も開いた。若いファンとアフリカを考えたいという人もいる▼ロックやフォーク、ニューミュージックはもともと何かを語り、伝えようとするメッセージ性が強いという。最近のニューミュージックには、内向き、現実回避といった批判もあるが、今回のコンサートはそれに対するひとつの答えではないか▼公演は7月17日から25日まで6回。問い合わせ、入場券の予約はチケットぴあ(電話03・237・9999)。 古都保存協力税 【’85.6.16 朝刊 1頁 (全846字)】  京都の争いがやまない。市と社寺が古都保存協力税をめぐって、相変わらず対立している。両者のかけひきを眺めていると、昔からいう通り、やはり争いはやすく和平は難いものだと思う▼今月1日、市長は6月10日を目標にしていた税の実施日を10月1日に延期すると発表した。ところが1週間もたたぬうちに、今度は実施日を3カ月繰りあげ、7月10日にすると急転した。一方、社寺側は7月の実施日から8月10日の京都市長選告示日までは拝観を無料にして徴税を空洞化させ、告示日以降は拝観を拒否するという作戦である▼双方、まなじりを決している。そして市民は、やきもきしている。観光旅館、門前町のみやげもの店、旅行業者は、客足が遠のくのを心配して、双方が気を静め、円満解決に向かってくれないものかと、願っている。しかし両陣営にとっては、こうした声も馬の耳をかすめる念仏に似たものであるらしい。市長が実施日の繰りあげを発表した日は、地元の商工会議所が拝観を拒否しないでと、街頭で署名運動を始めた日だった▼両陣営、ずいぶん長い間、ののしりあってきた。声もかれたことだろう。このあたりで叫ぶのはやめて、かわりに耳を澄ませたらどうか。そうすれば大衆の声が耳に入ってくるに違いない。大衆は、双方が「財政」や「信教の自由」を口にしながら、実は相手をへこますことに熱中しているのではないかと考え始めている▼殴りあうより手を結びあう方が賢明である。両陣営が歩み寄り、行政と社寺の協力のもとに、たとえば新しい事業体を設けて財源と平安を得る方策を語りあってみてはどうだろうか。お寺さんに、こんなことをいうのは釈迦(しゃか)に説法なのだが、「法句経」にこうある▼「実に、この世において、怨(うらみ)は怨によりて終(つい)に熄(や)むことなし。怨を棄(す)ててこそ、はじめて熄め。これ万古不易の法なり」 中国残留孤児の子どもたち 【’85.6.17 朝刊 1頁 (全846字)】  日本へ帰ってきた中国残留孤児の子どもたちが、教育の現場でどんな状態におかれているか、文部省が全国で実態を調べることになった。遅ればせながら、これはぜひ必要な調査だ▼言語と生活習慣の違い、住宅、就職など、中国帰りの人が日本の社会で生きていくには、さまざまな難しい問題がある。子どもたちにとっては、言葉と学校の勉強が悩みだ。日本語がよくわからないうえに、学力にも差がある。そのためにつらい思いをしたり、高校への進学で壁にぶつかっている子どもが多い▼昨年初め、埼玉県所沢市に定着促進センターができて、帰国者たちはそこで日本語を勉強するようになった。といっても、日常の生活のための、会話を主とした勉強だ。とても十分とはいえない▼帰国者の教育について所沢センター指導課長の小林悦夫さんの話を聞く機会があり、教えられることが多かった。会話を中心とした生活日本語はある程度の基礎ができる。だが、子どもにとってはやはり学校の授業を受け、勉強をするために、読む、書くの学習が必要だ。どこで、それをしてやるか▼センターを出た帰国者たちの受け入れは都道府県と民間協力団体にまかされている。厚生省の調査では、30都道府県で87の日本語教室があるが、実情はかなり差があり、空白の地域も少なくない。学校の実態となると、どこに何人の子どもがいて、どんな教育を受けているかもわからない▼調査をうけて、温かみのある対策を急いでとることを、文部省に頼みたい。中国語のできる先生を必要な学校に特別に配置する。日本の学校生活に適応できるよう相談体制をつくる。高校進学での別枠も設けるべきだろう▼時間をかけている余裕はない。教育に限らず、残留孤児が「帰国してよかった」と本当に思うような受け入れを全体で考えたい。外から来るものに、日本の社会が柔らかく開かれているのか、そこが問われている。 山下泰裕6段の引退 【’85.6.18 朝刊 1頁 (全849字)】  自分で自分を問いつめ、考え抜いたうえでの結論なのだろう。山下泰裕6段の引退には彼の柔道と同じように鮮やかな一本という感がある▼「最近は精神的な張りがなくなっていた。今は、ほっとした気持ちだ」と山下は語っている。その言葉に、去年のロサンゼルス五輪で、右足負傷の不運に見舞われながら念願の金メダルを手にしたあと、涙をぬぐっていた姿が重なってみえる。あのとき、山下のなかで何かが燃えつきたのだと思う▼ことしの全日本柔道選手権で9連覇をとげたが、燃えてくるものがない、もっと燃えなくては、と自分を励ましていた。相手がこわくなって、やめることはしない。彼は親しい人にそう語っていた。自分とのたたかいを克服できず、納得のいく柔道ができなくなったら、やめると▼その時がきたのだろう。203の連勝、対外国人選手不敗の輝かしい記録をさらに伸ばし、全日本10連覇、世界選手権4連覇といった記録をつくることも望めただろう。だが、そうした記録は、もはや自分を燃えたたせる目標にならなかった。あくまで自分と、自分の柔道をみつめて、さわやかな決断をしたところが山下らしい▼すでに10年近くの長い間、山下自身が日本の、世界の柔道の最高の目標だった。柔道とは山下のことだった。目標にふさわしい存在であるためには、不断の努力と緊張が求められる。それは苦しい重圧として彼にのしかかっていたはずだ。目標はいつかは交代する。ご苦労さまと拍手を送りたい▼東海大の講師になってからの山下は新聞を最初のページから最後まで、2時間もかけて読む。人に教えるためには、世の中をもっと勉強しなければという。いつも、自分に厳しい生き方を課す青年だ▼あの笑顔と堂々とした自然体の構えからの鋭い技が試合場から消えるのは寂しい。しかし、山下には世界一の指導者になり、山下を超える選手を育てる新しい目標が待っている。 「ハワイ移民100年」記念写真展 【’85.6.19 朝刊 1頁 (全850字)】  1884年(明治17年)、ハワイ移民の希望者を募るために、外務省は「出稼人心得長」を公布した。ハワイは、住民の人情「誠実で温和」であり、教育は普及し、米の値段も日本とさほど変わらない、といった紹介と渡航、就労条件が記されている▼渡航費、現地の住居費は無料。3年間耕地の労働に従い、報酬は月9ドル(妻6ドル)、月の就労日数は26日、1日10時間労働といった具合だ。帰国旅費の準備に、給料の25%を日本総領事館を通じて銀行に預金しなければならない(『図説ハワイ日本人史』から)▼相当にきつい条件だが、2万8000人もの応募があった。そのなかから選ばれた944人が翌年の85年2月、ホノルルに着いた。政府間の約定書による第1回のハワイ移民だ。今年はそれから、ちょうど100年に当たるわけで、ハワイではさまざまな記念行事が催されている▼『図説ハワイ日本人史』も、これにあわせてホノルルのビショップ博物館・ハワイ移民資料館から出版された。1885年から、排日移民法で日本人移民が中止された1924年までの歴史をまとめた。移民を生み出した当時の国内の事情、ハワイでの移民の労働、生活ぶりを写真、資料でたどった貴重な記録だと思う▼その一部は「記念写真展」として、19日まで東京で、続いて山口、広島、熊本などで公開される。図説の出版や写真展の実現にはビショップ博物館で日本人資料を収集している篠遠和子さんのがんばりがあった▼人口の4分の1を占めるハワイの日系人の中心はすでに3世、4世だ。初期の移民の苦労も、太平洋戦争中のつらい思いも知らない世代がふえている。「100年たってハワイ社会への日系人の本当の同化が始まった感じ。でもこういう歴史があったことは知ってほしい」と篠遠さんはいっている▼横浜出る時はよ/涙で出たが/今じゃ子もある孫もある……1世たちがうたった歌だ。 園芸の心 【’85.6.20 朝刊 1頁 (全857字)】  バラづくりで世界的に有名な鈴木省三さんが先日、ラジオで、花を育てるコツはつとめて花に話しかけてやることだといっていた。それも、見下ろしてではまずいそうで、目の高さにまでしゃがみ、声に出して「おはよう」とか「元気かい」とかいってやる。すると、それにちゃんとこたえるのもいるし、そっぽを向くのもいるという▼西宮市にある甲子園短大は、全校生に園芸を必修科目としている珍しい女子短大だが、主任教授の西良祐さんは毎年、新1年生に「花や野菜をつくることが少しでも好きになったら単位はあげるよ」といっている。学年末に書かせる作文「私と園芸」でそこを見るのだそうだ▼授業はまず、花でも木でも野菜でもいい、知っているだけの植物の名前を書かせることからはじまる。時間は10分間。平均して30、なかには10そこそこしか書けない学生もいる。次は農場に連れて行き、一番に土つくりだ。たい肥や鶏ふんを混ぜさせる。ほとんどの学生が手袋をする。そのうえ棒切れをさがしてきて、鼻をつまみながらやっている▼西さんはこれを素手でやる。マニキュアをした子などには、しょせん無理かなと思いながらも、いい土かどうかは、じかに手で触れてみなければわからないものだよと教える。葉が出ると素手でなでる。きょうは元気かどうか、水が足りているかどうか、それも手でなでてみてわかるのだと説く▼この学校は園芸や農業の専門校ではない。家政科のほかに幼児教育科と初等教育科があり、将来は小学校、幼稚園の先生や保母さんになろうという学生が多い。そしてみんなお母さん候補生といってもいい。そんな女子学生が、こうして植物とのふれあいを知る▼毎年のことながら、半年もすると手袋をする学生はまずいなくなる。授業は週1日なのに、トマトやナスが、3日もあけるとよそよそしい顔をする、などという学生が出てくる。西さんは「子育て園芸」といっている。 情報化社会の劇場的犯罪 【’85.6.21 朝刊 1頁 (全853字)】  あの現場にいた記者たちは、なぜ凶行を止めようとしなかったのか。血なまぐさい惨劇を、あれほど克明に、繰り返し報道しなければならないのか▼豊田商事の永野会長刺殺事件で、たくさんの読者から抗議、批判の声が寄せられている。こうした問いかけには、胸をつかれる思いがある。30人もの記者たちの目の前で人が殺されたのだ。信じられないようなことが起きてしまった▼テレビで一部始終を見れば、犯人は殺人を予告するようなことを語り、いすでドアをこわそうとし、窓を破って室内に飛び込んだ。そして返り血を浴びて出てきた。どこかで止められなかったのか、という疑問は筆者にもある▼同時に、あっというほどの短い間に、予想もしない事態が進んでいく現場で、はたして何かができたのかと問い返すと、難しいと答えざるを得ない。現場で取材をしていた記者たちはさらに苦い思いで、そう考えているに違いない▼犯人は永野会長と談判に来たように見えた。うす笑いを浮かべ、冗談のような口調だった。まさかと思うようなことが実際に起きた。事件の展開があまりに異様で、次に何が起きるかの判断を超えていた。だからといって批判をかわすつもりはない。残念な、悔いの残る事件だった▼事実をみつめ、追及し、それを伝えることに全力を投ずるのが記者の立場だ。しかし、取材がすべてに優先して、無法な行為を市民として見逃すといったことがあってはならない。その接点をいつも見きわめていくことを自戒としたい▼こんどの事件の犯人の本当の動機や背後の関係はまだわからない。だが、記者の目やカメラを十分計算に入れた犯行だったことは明らかだ。グリコ・森永事件がそうだったように、情報化社会のなかで、劇場的効果をねらう犯罪はこれからふえるだろう▼結果として、報道する側がその効果を高めるねらいに巻き込まれかねない。新しく、難しい問題がつきつけられている。 農村青年の結婚難 【’85.6.22 朝刊 1頁 (全838字)】  見合い写真といえばふつう女性の側が用意するものだが、農村では最近、女性の方から写真を要求するようになった、と東北地方の米どころの結婚相談員たちが話している(農業雑誌『技術と普及』)▼写真が気に入り、家族の状況などにも難点がなければ見合いに応じる。断るのはたいてい女性の方だ。昔は6割方気が合えばよしとしたものなのに、いまでは9割以上満足しなければOKしない、という嘆きである▼農村青年の結婚難はますます深刻になっている。農村振興に熱心な鹿児島県の鎌田知事も「農村の懇談会に顔を出すと、必ず嫁が来ないという話になる。自分が責められているようでつらい」とこぼしている▼愛知県の渥美半島は豊川用水を利用した施設園芸でうるおう指折りの豊かな農業地帯だが、こうしたところも例外ではない。家計に余裕ができると農家は娘を大学に進学させる。卒業すると、もう農村に帰って来ようとしない▼農村青年と結婚したくない理由でもっとも多いのが「農業に魅力がない」「仕事がだらだら続き、区切りがない」ということである。見逃せないのは、息子の嫁探しには懸命な母親自身が、娘を農家にとつがせようとはしないことだ。夜は最後まで働き、朝は真っ先に起きる農家の主婦の労働の厳しさは、いまもあまり変わっていない。そこから改めていかないことには結婚難も解消しまい▼農業の将来は確かに明るいとはいえない。しかし補助金などの手厚い保護を求めるあまり、ことさらに暗く言い立てているきらいはないだろうか。創意工夫によって、一応の展望を開いている農家も少なくない▼満員電車に揺られ、人づき合いに神経をすり減らす都会のサラリーマンには望むべくもないゆとりと自由が農村にはある▼農村青年はもっと自信を持ってよい。結局、最後にものをいうのは人間的な魅力だろう。嫁も来ない農村には将来もない。 国鉄総裁 【’85.6.23 朝刊 1頁 (全850字)】  国鉄総裁だった高木文雄さんが、一昨年のさよなら記者会見でおもしろい発言をした。「国鉄は中曽根首相が社長で、運輸相は専務、国鉄総裁の権限は運転担当常務みたいなもの、という人がいる。私は運転担当常務としてはフルにお役に立つことができたと思う」▼なるほど、運転担当常務か、30万人という巨大集団のカシラである国鉄総裁の権限は、せいぜいそんなものなのか、と思ったことがある。高木さんは、はっきりとはいわなかったが、30兆円を超す債務ができてしまったのは、国鉄だけの責任ではなく、国鉄の実質社長格でもある歴代首相の責任ですよ、といいたかったのかもしれない▼十河総裁、石田総裁のころは国鉄の栄光の時代だった。磯崎総裁はマル生運動を強行して崩れ、藤井総裁はスト権スト問題がきっかけで辞めた。そして「運転担当常務」は、なり手を探すのが最も難しい要職の1つになった▼高木総裁は「国鉄を再建できるかどうか探し求めて森の中を歩き、とうとう森をぬけだせなかった」といって辞めた。就任前の仁杉総裁は「国鉄再建監理委と国鉄のきしみが最もよくない」といいながらも、そのきしみの激しさにはじかれた▼国鉄自身の改革のてぬるさ、運賃の高さ、経営のむだについて、私たちの不満は山ほどある。だが、首相や再建監理委の国鉄改革案にこそ正義がある、という風潮が昨今はあまりにも強すぎはしないか。その「正義」にさからうものを切るという強行策は、国鉄改革をかえって混乱させることにはならないか▼国鉄を6つに分割する計画は、唯一絶対のものだろうか。より安く、より快適な鉄道を約束するものだろうか。貨物部門を分離することは、結果的には国鉄貨物の野垂れ死ににつながらないか。この日本列島から国鉄貨物が消えてしまっていいはずはない。そういうたくさんの声に、「中曽根社長」や再建監理委はもっと耳を傾けるべきだろう。 6・23沖縄慰霊の日 【’85.6.24 朝刊 1頁 (全839字)】  きのう「6月23日」の沖縄慰霊の日、沖縄タイムスの社説はこう書いている。「40年たってなお、私たちが沖縄戦にこだわるのは、今の日本の大勢からすると、あるいは『異質』であるかもしれない。とりわけ、自国軍隊が住民に対してとった行動を問題にしつづけるのは異様と映るかもしれない」と▼だが、集団自決やスパイ容疑による殺害がなぜ起こったかを問うことは今なお必要だろう。地上戦闘下の「民衆と軍隊の問題を伝えていく作業は、日本全体の将来に貢献すると信じる」と社説は書く。この主張に共感をおぼえた▼では民衆と軍隊の問題を、いかに伝えるかとなるとこれは絶望的に難しい。暗い話を拒む風潮もある。多くの本土人にとって、沖縄は「観光」の島である▼おびただしい数の沖縄戦体験記を読みながら、伝えることの難しさを思った。必要なのはまず、記録の中から、地獄絵以上、みじめの極み、言語に絶する惨劇といった紋切り型のことばをふり捨てることではないか▼ある地区ではなぜ集団自決が起こり、ある地区ではなぜ人びとは逃げ回って生きのびることができたのか。住民が捕虜になれば軍の機密が敵にもれることを恐れ、集団自決を強いたことはなかったのか。スパイ容疑による住民殺害はどこで起こり、どこで起こらなかったのか▼そういう無数の「なぜ」を知るために必要な細密な調査と、創造的な表現があってはじめて、沖縄戦を「伝える」道が広くなる▼当時の八原高級参謀は、日本軍の基本戦略は、敵軍をできるだけ長くひきつけ、出血を強要する作戦だったといっている。約80日の地上戦闘の第一義的な目的は、沖縄住民の命を守ることではなかった。大岡昇平さん流の表現を借りれば、こうもいえるだろう▼死者の証言は多面的である。沖縄住民の血を吸いこんだ土は、その声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けている、と。 白葉女忌 【’85.6.25 朝刊 1頁 (全854字)】  うっとうしい雨が続く中で、空色のアジサイだけがあたりに明るさをまいている。地に落ちたタイサンボクの花びらのわきに、ムラサキツユクサが咲いている。地をはうようにして咲くサギゴケの花も雨を吸っている。雨が小降りになると、小さなチョウがせわしげにシャラ(沙羅、娑羅)の周りを飛びはじめる▼沙羅の木の白い花にはちぢれ模様があって、そこのところが氷の粒の塊のように見えることがある。見上げているうちに、その氷の花びらは雨空にとけて消えていく感じになる▼「沙羅の花見んと一途に来たりけり」。柴田白葉女さんの句だ。白葉女さんはまた、こう書いている。沙羅の花が「おちるときは形のままだのに、乙女椿よりももっと脆くはかなく壊えた。…私にはまぼろしの花のような神秘的な感じさえした」▼去年、白葉女さんは自宅をたずねてきた見知らぬ男の手で、殺害された。遺体発見の6月25日を、句友たちは白葉女忌と呼ぶことにした▼代表作の1つに「水鳥のしづかに己が身を流す」がある。白葉女さんは、皇居前のお堀を眺めていた。白鳥がいた。白鳥は水に身をまかせて抵抗していないように見える。醜いあがきをみせない哲人のようでもあった▼自分も、自分の生きるべき一番自然のみちを、すなおにしずかに歩もう、と考えながら見つめていた。自分に抵抗することの多い自分を恥ずかしく思いもしたという。その時の句だ。映画監督の五所平之助さんがこの句を激賞した▼「すなおにしずかに」生きようとした俳人はしかし、突然、荒々しいものに襲われた。犯人は千葉刑務所を出たばかりの男で、服役中、句作を続けていた。「古沼の鷭(ばん)となりたし受刑後は」の句もある。俳人同士としては、あってはならない出会いだった▼「青春はひとひらの風郭公啼く」。遺句の1つである。「いつも自分のうしろ姿を忘れずに見つづけて来た人」(飯田龍太さん)の評があった。 砂漠と格闘する中国の農業 【’85.6.26 朝刊 1頁 (全870字)】  しばらく中国の旅を続けて、たくさんの人に会うことができた。一番印象に残ったのは、人里離れた奥地で砂漠と格闘している人たちの日に焼けた顔だ▼邸さん、趙さん、陳さん、石さん、李さん、みな砂漠研究所、実験場の一員として、30年近く、砂漠を歩き、調べ、実験し、その緑化と取り組んできた人たちである。一行の案内で騰格里砂漠の南端を歩いた▼琥珀(こはく)色の丘がつらなる世界は、恐ろしいほどの美しさだった。ネズミや昆虫の足跡があり、砂米と呼ばれる草が点々とはえていた。砂粒は0.05ミリから0.25ミリ、よくみると一粒一粒は、こげ茶、らくだ色、淡いあめ色、と色が違う。目にみえぬほどの砂粒が筆者のカメラに忍びこみ、たちまちシャッターがおかしくなった▼砂漠の南端に、ワラが網の目模様に砂中に埋めこまれている地域があった。流れる砂を固定させるためだ。そのわきに実験場の緑の園がある。リンゴ、モモ、トマト、大豆、この砂漠の一角でなぜ、果樹や野菜の栽培が可能になったのか▼陳さんが黙って、果樹園の土を掘りはじめた。2、30センチも掘ると、砂漠の砂が現れた。黄河の引き水の中の泥が1年に1センチはたまる。5年で5センチである。30年かかってようやくこれだけの土ができました、という話だった▼たとえばまた、固定した砂地に、ほこりが落ちてたまる。10年で1.6センチになる。30年では5センチ近くなる。それが植生にも役立つという。悠々たる話である▼引き水の不可能な砂地に適する植物を見つけるのは難しい。40種を試み、33種類は失敗した。しかし7種類は成功しました、失敗がなければ成功は生まれません、と場長は笑った。ゆったりとした速度ではあるが、実験場近くの農村ではすでに3000ヘクタールの砂漠が田畑に変わっている▼中国では、全国土の6分の1にもなる砂漠を封じこめるため、「緑の長城」を作る計画が進んでいるそうだ。 片岡敏郎スモカ広告全集 【’85.6.27 朝刊 1頁 (全851字)】  『片岡敏郎スモカ広告全集』を読んだ。1157ページのぶあつい本に「広告界の鬼才」といわれた片岡さんの名人芸的な広告文がぎっしりつまっている。ぎっしりの割にはすいすい読むことができた。内容は昭和初期の歯磨きスモカの広告集だ。「脂(やに)も留まらぬスモカの早技」なんて、だじゃれだと片づける人がいるかもしれないが、今でも通用する▼文章というものを考える上で、ずいぶん学ぶところがあった。とくにおもしろいのは、片岡さん自身が、自分の作品を思いきりこきおろしていることだ。戦前、自分の作品集(7巻)に寄せたはしがきの数々が、この全集に収録されている▼それによると、不出来で、カビ臭い古物をまた皆様にみせるのは、あつかましい、きまり悪い、とある。われながら、ずいぶんひどいと思うのもある、恐ろしいことです、と小気味よいぐらいである▼むろん、てれもあってのことだろうが、ここまで自分の作品をこきおろせるのは、よほどさめている人だったのだろう。てれや羞恥(しゅうち)は、片岡作品の隠し味としては、実は大切なことであったのかもしれない▼たとえば、スモカの広告には、こんな断り書きがつく。「広告の効能だくさん大体それは好かんです」。たとえばまた「奇妙即効てきめん適中、あゝら不思議の霊験は広告の紋切型!」。これが手厳しい広告批評でなくて何であろう▼「蒔いた種の生へぬことはありましてもスモカで歯の美しくならぬといふことは……」と書いて、片岡さんはある種のおもはゆさにぶつかるのだろう。「絶対にありません」とは書かないで「まァ滅多にございません」と書く。このためらいの呼吸がいい▼「1人1缶の使用量は約1ケ月強」と書いたあとに、つけ加える。「それ以上は濫費です!」と。こういう抑制は、広告文に品格を与える。その抑制の裏にあるのは、てれ、はにかみ、そして自己批評の精神だろうか。 臨教審、拙速は禁物 【’85.6.28 朝刊 1頁 (全855字)】  体育の授業で、子どもたちが1人ずつ鉄棒のさか上がりをしている。教師が記録簿を片手にして、点をつけている。それを見て、船戸咲子先生はおかしいと思う▼「さか上がりができない子がいたら、一緒に苦労し、できたら一緒に喜んでやれる教師でありたい。だから、学期末の校庭で記録簿を持つことはしたくない」と思う(『子どもの海』)▼こういう先生たちの理想は、いま厚い壁にぶつかっている。「子どもを教育する学校」が「子どもを選別する管理施設」に変わりだしてから「できない子と一緒に苦労する」ゆとりが失われていった▼教室が荒れだした最大の理由の1つは「選別」であり、選別の尺度となる「5段階相対評価」である、といってもいいすぎではないだろう。子どもの成績を5から1に選別する。しかもクラスの中で5が7%、4が24%、3が38%などときめておき、機械的にわりふるのだ。ここから「落ちこぼし」も生まれる▼5段階相対評価は必要な悪役で、受験体制下ではそれなりの役割をはたすといわれてきた。だが、どうだろう。多くの父母は、教室の点数至上主義に疑問をもちつつも追随している、というところではないか。だからこそ、こういう選別の弊を、臨教審の委員にしかと見つめてもらいたいと願ったのではないか▼1年でも2年でも、十分に時間をかけて調べ、5段階相対評価を非とすべきだと判断したら、それを追放する手段を考えてもらいたい、という思いがあったはずだ。それとも徳育重視、国を愛する心を育てる教育を、といったお題目が並ぶことを願ったのだろうか。審議会はしかも、教科書や学習指導要領をめぐる中央の規制をいかにゆるめるか、という根本問題さえ明確にしえないでいる▼「こんなお粗末な審議会ははじめて」という内部の声があったそうだが、教育に拙速は禁物だ。まして答申日程を政治の都合にあわせる、ということはあってはならない。 パンダ 【’85.6.29 朝刊 1頁 (全840字)】  上海でサーカスを見ていたら、パンダが登場し、フォークを使って食事をしてみせるといった芸を披露しはじめた。犬がひっぱる車に座って、調子はずれのラッパを吹く芸などは、なかなか堂々たるものであった。曲芸をするパンダは、地球上でこのウェイウェイ君だけという話をきいた▼もっさりとした動作に味があっておもしろかったといったら、広州では「それじゃあ動物園に」という話になった。真っ黒に汚れたパンダが、仰向いて片腕を顔にあてて眠っているのがみえた。近くのサル山には人が群れているのに、パンダ舎のさくに寄ってくる人は1人もいない。緑の濃い広々としたところで、心地よさそうな午睡が続いていた▼東京に滞在したことのある同行の中国人記者が「上野のパンダ舎は人工的にすぎます。過保護ではないでしょうか」といいだした。日本の飼育者の力量は世界に知られている。だが、万一のことがあったらと思って大事をとりすぎることがあるかもしれない。そんな話になった▼上野のホアンホアンの赤ちゃんが誕生した。人工授精の成功である。赤ちゃんはニワトリの卵2個分ほどの重さだというから、極端に小さくて、母親が誤って踏み殺してしまう例もあった。ホアンホアンは眠っている時も前足で赤ちゃんを抱えているそうだ。ぶじに育つことを祈りたい▼パンダは、長い間、幻の珍獣だった。四川省あたりの少数民族は、黒と白の色に不吉なものを感じて敬遠し、ために乱獲を免れたという説もある。今世紀に入って欧米の探検隊の間にパンダ狩りブームがあり、その姿が世界に紹介されるようになる▼最近は生息地の竹が枯れたりしてその危機が叫ばれているが、場所によっては、パンダを捕獲するワナがあり、その毛皮を買いあさるものさえいる、という報道があった。パンダには天敵がいないといわれているが、唯一の敵はやはり人間であるらしい。 泉重千代さん・長寿の秘訣 【’85.6.30 朝刊 1頁 (全846字)】  残念ながら、うちのおじいちゃんは、仙人のように寛大で、おおらかな精神を持ち合わせてはいません、と泉順江さんが『泉重千代・長寿の秘訣』という本に書いている▼重千代さんは、小さいことにもこだわる。床の間の花のことでも、気にいらないと腹を立てる。なにかで口論をした後、順江さんが電話をかけようとすると「この電話はワシのものじゃ、勝手に触れるな、出て行け」とどなる。時には盃が飛び、湯のみが飛ぶ▼怒る時は激しく怒り、かなしい時は涙を流す。ファン?の女性から、ひたいに口紅のキスマークをつけられたりすると素直に喜ぶ。そのようにカラッと生きるのも、長生きの1つのコツではないか。順江さんは飾り気のない筆で翁の実像を書いている▼長い間、重千代さんの世話をしていたカマさん(亡妻の妹)が亡くなってから、遠い親類にあたる昭彦・順江さん夫妻は、6年前に大阪から徳之島に移り住み、翁の面倒をみてきた。肺炎の時はわきに寝て看護にあたる。たんがのどにつかえると、指をのどに突っこみ、何度もたんを取り出したという▼きのう、翁は120歳の誕生日を迎えた。慶応元年生まれといっても、戸籍が十分整っていない時代のことだから、という向きもあるが、まれにみる長寿者であることに変わりはない。翁は床屋さんに来てもらい、この日の祝賀会を楽しみにしていたという▼離島での歩みは、楽なものではなかった。昔は、主食はさつまいもだった。豚を食べるのは盆や正月ぐらいだった。山の草で、毒にならないものは何でも食べた。60をすぎてから、沖仲仕として働いたこともある。今も、たとえおかゆでも2、30回はかんで食べる。食べ物に対する感謝の表れでもあるという▼「人間には持って生まれた寿命というものがある。お天道様と人間は、縄で結ばれている。その縄が切れた時が人間の死じゃ」。それが重千代翁の天寿観である。 「詩歌文学館」 【’85.7.1 朝刊 1頁 (全854字)】  淡い紫色のキキョウが雨滴をはじき返して咲いている。タチアオイの花々は夏祭りのにぎわいである。香りを放つネズミモチの花、朱色のザクロの花、それにナンテンの花、ビワの実、柿(かき)の実、みな濡(ぬ)れ色の世界にあって、つやつやしい▼岩手県の北上市が「詩歌文学館」をつくる、という話をきいた。館の建設はこれからだが、すでにかなりの資料が集まっているそうだ▼詩人の故慶光院芙沙子さんの遺志で寄せられた西脇順三郎さん、村野四郎さんの詩の原稿、講演テープ、「荒地」創刊号などがある。詩集、歌集など約1万点も集まっている。「さけび、祈りから生まれた詩歌は、つねに日本文学の核となり、土壌となってきた」。しかるに詩歌資料は部分的に、わずかしか保管されていない、というのが設立の趣意である▼「浅黄と紺の羅紗(ラシャ)を着て/やなぎは蜜の花を噴き/鳥はながれる丘々を/馬はあやしく急いでゐる」と宮沢賢治はふるさとの北上山地を歌った。石川啄木も岩手県の出身だ。その賢治や啄木のふるさとに詩歌文学館が生まれる▼いま、わが国では、静かに、着実な形で、詩歌の大衆化現象がひろがりつつある。月刊の詩誌『鳩よ!』の誕生もあった。たとえばまた安西均さんが書いている。「わたしのような者のところにも、毎日平均3冊の勘定で書籍小包が届く。このほとんどが〈自費出版〉詩集の寄贈なのである」と(言語生活385号)▼短歌、俳句の分野でも同様だろう。ちなみに、朝日歌壇には毎週3、4000通の投稿があり、朝日俳壇には8000通から1万通の投稿がある。「外国ではどこにも例を見ないであろう、この大衆の〈ポエティカルなもの〉への欲求ぶりと普及ぶりが関心を引く」と安西さんは書く。詩歌文学館誕生の背景にも、この大衆化現象があるはずだ▼きょうから7月。梅雨が続く。「青梅の臀(しり)うつくしくそろひけり」(室生犀星) 「透水性舗装」 【’85.7.2 朝刊 1頁 (全856字)】  「透水性舗装」という言葉をご存じだろうか。こまかい石をアスファルトにまぜて、雨がしみ通るようにした舗装のことである▼岡並木さんは、その著『舗装と下水道の文化』の中で書いている。十数年前のことだ。東京都庁の会合で「雨のしみこむ舗装はできませんか」とたずねて、わらわれたという。夢物語的な発想、とうけとめられたのだろう。だが今、都では、新しい歩道を造る場合は、この透水性舗装をとりいれている▼こんどの台風6号の影響で、あちこちに浸水騒ぎがあった。それも、大きな川の水が次第に水かさをまし、ついにせきを切るという形ではなくて、小さな川があふれ、くぼ地に水がたまるという例が多かった▼原因の1つは、都市の舗装化だろう。開発が進み、丘陵の木が切られ、住宅地域や道路の舗装化がひろがると、雨水は大地にしみこまず、一挙に下水に流れ、中小河川に流れ、時には逆流してマンホールから噴きだす。ひんぱつする床上、床下浸水の多くは新しい都市型災害なのだ▼前記の本によると、コンクリートなどによる東京の大地の被覆率は、23区平均が64%で、千代田区は93%にものぼる。被覆率が高まると、大地に水がしみ込みにくくなる。舗装という文明の象徴は、しばしば逆流現象を起こして人間に害をもたらす、ということも心得ておきたい▼歩道や広場の舗装を透水性のものにする試みは、かなりひろまっている。この分野の研究の草分けでもある日大の三浦裕二教授によると、都内で車道に試みる計画もある。ある地域全体を透水性舗装にして、下水道への影響を調べる計画もあるそうだ。透水性舗装にはゴミがつまる難点があったが、これもジェット水流を吹きつける技術で解決した▼困るのは、チューインガムがへばりつくことだという。透水性舗装が普及すれば、あちこちにこんな看板が立つことだろう。「道路の健康のため、ガムの投げ捨てに注意しましょう」 テロリズム 【’85.7.3 朝刊 1頁 (全850字)】  テロルとは「恐怖」のことだ。あらゆる暴力手段を使って相手に恐怖感を与える、という行動がテロリズムになる。昨今は特定の相手に恐怖感を与えるだけではなく、「地球上いたるところで無差別に恐怖感をばらまく行為」という定義をつけ加えなければならない▼日本時間の2日未明、ローマの国際空港で爆発事故が起こり、重傷者がでた。またもや、という感じである。先月23日、成田空港で起こった爆発事件では作業員2人の命が奪われた。その時と状況が似ている▼その数日前には、西独フランクフルト空港で爆発事件が起こり、40数人の死傷者がでている。いずれも、なにものの犯行かは明らかではないが、成田空港事件では、シーク教徒過激派に疑いがもたれている▼さらに、米トランスワールド航空機の乗っ取り事件があった。ここでも、イスラム教シーア派の犯人たちは、直接関係のない米国の市民を人質にし、1人の米海兵隊員を射殺している。これもまた、自分たちの正義を貫くために必要な犠牲だと思っているのだろうか▼インドのシーク教徒過激派は、武力による主権国家の樹立を叫んでいる。イスラエルとの抗争や国内の宗派抗争の渦の中に生きるレバノンのシーア派は「力には力」で、勢力拡大に乗りだしている▼そこにあるのは、100パーセント己が正しくて、100パーセント相手が悪いという排除の心情であろうか。その主張になにがしかの理があるとしても、関係のない他国の市民の命を奪うことにどんな正義があるというのだろう▼空のテロはさらに燃えひろがるかもしれない。シーク教徒にはゴールデン・テンプル事件の怨念(おんねん)があり、シーア派にも積年の被害者意識がある。怨念の再生産に今のところ歯どめはない。「個人が憎みあう場合の害には限度がある。だが大きな集団が憎みあう時には、その害は無限で絶対的ですらある」といった西洋の哲人がいた。 米ソ頂上会談に期待 【’85.7.4 朝刊 1頁 (全849字)】  こんな小話がある。かつてウィーンで米仏ソ頂上会談が開かれた。3首脳が郊外をドライブしていると、悪魔が車を追いかけてきた。カーター大統領が100ドル札を投げて追っ払おうとしたが、悪魔は興味を示さない▼「100ドルではね」とジスカールデスタン大統領が1万フランを投げたが、これもききめがない。たまりかねてブレジネフ書記長が紙きれを投げると、悪魔はあわてて逃げて行った。紙きれには「注意せよ、あと2分で共産主義国の国境」と書いてあった(『東欧ジョーク集』)▼いまなら、こうなるだろう。レーガン大統領が、スターウオーズ計画から生まれた宇宙防衛兵器のボタンを押して悪魔を追い払おうとすると、「それは物騒だ」とグロムイコ氏が止め、得意の外交手腕にものをいわせようとした。ゴルバチョフ書記長が「もうあなたは第一線ではない」と押しとどめ、車を降りて悪魔になにかささやくと、悪魔はあわてて逃げて行った。「あと2分でソ連国境。ソ連は禁酒禁煙だぞ」とささやいたのだった▼6年前の米ソ頂上会談では、ブレジネフ氏は、カーター氏の肩に手をかけていった。「われわれが失敗するようなことがあれば、神はわれわれを許すまい」。以後、激しい言葉の応酬はあるが、SALT2の合意事項は一応、尊重されている▼米ソ首脳は、破局的な核戦争に突っ走るほどおろかではなく、核軍縮にふみきるほど単純ではない、ということだろうか。軍拡が財政上の重圧になりだした昨今では、首脳同士がひざをつきあわせ、「米ソ戦わず」を確認しあう儀式が必要なのかもしれない▼そのあたりの事情を、かつてフルシチョフ首相はこう説明している。「米ソはあまりにも強すぎるから、けんかはできない。弱いもの同士ならひっかき傷くらいで終わるだろうが、両大国の争いは世界中をまきこまずにはおかない」▼11月に予定される米ソ頂上会談に期待したい。 釜ケ崎の良寛先生 【’85.7.5 朝刊 1頁 (全851字)】  「釜ケ崎の良寛先生」といわれた本田良寛医師が亡くなった。つねに弱い人、貧しい人の味方であったという点で、この人ぐらいぴったりした呼ばれ方をした人も珍しい。もっとも「よしひろ」が本当だそうだが▼良寛先生はアイデアマンだった。この地区には、お金がないばかりか民生保護も受けられない人が多い。そんな人がケガをしたり病気にかかった場合はどうするか。先生は地区の警察や役所関係の施設に「診療依頼券」を発行させた。「この人は診療が必要だから一度診てくれ」という紹介状だ▼もちろん、この券は良寛先生のところでしか通用しない。引き換えにもらう診察券にはこう書いてある。「お互いに体が元手で資本です。体を大事にして、健康になることです。私はあなたを信用しますから、体が元気になってまた働けるようになってから支払いなさい」▼医療費の信用貸しである。返済の見込みは問わない。お金がないから医者にかかれないではつらい。お金が続かないから治療を打ち切るのはつらすぎる。何度も手おくれの患者を診てきた良寛先生の、これは苦心の策でもあった。費用は市や府にかけあって取ってきた▼診察を受けるための規則もつくった。その1つに「酔っ払ってくるな」がある。ここにはアルコールにおぼれる人が多い。そのための病気や事故が一番といってもいい。酔っ払った患者を良寛先生は甘ったれと見なし、病気を治す意思のない者と決めつけた。ナイフや千枚通しを投げつけられたこともあった。しかし、世間で無法と呼ばれるこの地区にも、良寛先生をめぐって1つの規律がつくられていった▼大阪の下町、中小工場の密集地帯である城東区鴫野に粗末な板張り二階屋の医院があった。良寛先生はここで育った。貧しいが故に守られない、救われない、そんなアホなことがあってたまるか。そのひとことを一生いいつづけた。良寛先生はけんか先生ともいわれた。 沖縄戦と文部省検定 【’85.7.6 朝刊 1頁 (全858字)】  沖縄県民の声をくみとったためだろうか、来春から使われる小学校の教科書の多くは、沖縄戦の記述をややふやしている。このことは歓迎すべきことだ。だが、文部省が発表した検定メモを読むと、歓迎してばかりはいられないという気持ちになる▼ある教科書に「沖縄県民は米軍によるほか、日本軍にスパイとうたがわれたり、集団自殺を強いられたりして十数万のぎせい者を出した」という趣旨の記述があった。文部省は検定で「(1)児童の心身が未発達であること(2)沖縄戦の全体像が適切に理解できるようにすること」などの修正意見をだし、このくだりは削除になった▼教科書の原文がいい文章だとは思わない。「強いる」ということばの使い方にも疑問がある。だが、沖縄戦の全体像を理解するために、という文部省の修正意見にはもっと疑問がある。(1)スパイ視されて殺された沖縄の住民がいたこと(2)伊江島など各地で集団自決があったこと、この2点の説明がなくては、かえって沖縄戦の全体像をつかむことが難しくなるではないか▼住民虐殺や集団自決は忘れ去ってしまいたいような事件だが、住民が地上戦闘にまきこまれた時にこれこれのことが起こった、という歴史的な事実は消えない。沖縄戦が人間をそのような状況に追いこんだという事実は消えない▼「心身が未発達だから」という。だが、未発達だからだめ、というものさしは、だれがきめるのだろう。そこには過去の日本軍の暗い面にふれさせたくない、という意思が働いてはいないだろうか▼スパイ問題や集団自決にいたる心理を子どもたちが短時間で理解するのは難しいかもしれない。しかし、なぜそれが起こったのかという疑問を心にとどめ、その「なぜ」を追求し続けるのも、歴史を学ぶ上で大切なことではないか▼文部省の修正意見には「官許の思想」がちらついている。それが、沖縄戦の全体像の理解をゆがめてしまうことを恐れる。 朝顔 【’85.7.7 朝刊 1頁 (全840字)】  白朝顔なにかが終る身のほとり(長谷川秋子)。濃い江戸紫の朝顔もいいし、紅色の朝顔もいいが、白い朝顔には独特の風情があって、とりわけ、静かに燃えて消えてゆくものの命、といったものを感じさせる▼きょうは、七夕、小暑、そして日中戦争の発端となった蘆溝橋事件のあった日だ。東京入谷の鬼子母神周辺では朝顔市が開かれている▼歳時記では、七夕も朝顔も、共に秋の季語である。七夕の場合は、旧暦の7月7日、つまり涼しさに飢えるころの季節にこそ星祭りの味わいがあり、その意味では秋の季語でもおかしくはないが、朝顔の場合はどうだろう▼梅雨はまだ明けない。夜来の雨を吸って、早咲きの朝顔が花を開かせている。ひとときの晴れ間が、露を光らせる。熱気がわいてくる。梅雨明けを待つ人びとにとって、朝顔市は盛夏の訪れが近いことを告げる行事だ。朝顔は、夏の季語であっても、おかしくないのではないか▼入谷から出る朝顔の車かな(正岡子規)。昔、鬼子母神の周辺は田や畑だった。農家は朝顔を栽培し、人びとを招いて花を見せた。注文に応じて、あとで大八車に積んだ朝顔を配って歩いたという▼今は130もの露店が並ぶ。西洋朝顔、ききょう朝顔、ルコウソウなどがめだちだしたのも、「一味違うもの」を求める風潮と無縁ではあるまい▼志賀直哉は、朝顔を「それ程、美しい花とは思ってゐなかった」と書いている。ある日、夜明けにめざめ、開いたばかりの朝顔を見て美しさに打たれた▼「私は朝顔の花の水々しい美しさに気づいた時、何故か、不意に自分の少年時代を憶ひ浮べた」。少年のころすでにこのみずみずしさは知っていたが、それほどに思わず、老年になって初めて、それを大変美しく感じたのだろう、と書いている▼朝顔の花は幼い日の記憶を呼びさます。ただし、朝寝坊の筆者などはなかなか、そのみずみずしい姿をおがめない。 体罰と子供心 【’85.7.8 朝刊 1頁 (全837字)】  「学校教育法11条に禁止されている体罰が行われることのないように」と、文部省が県教委などに通知した。28年ぶりの再徹底というから、当局は体罰横行の現状を深刻に受けとめているのだろう▼法務省人権擁護局がこんな事例を報告している。「ある小学教諭が、学級会で忘れ物を繰り返す児童に懲罰として、ぞうきんをぶつけることを提案、その子を黒板の前に立たせ、まず自分が手本を示した。その後の学級会で、さらに希望者を募り、中止を求める2人の児童の意見に耳をかさず、4人の児童めがけて、ぞうきんをぶつけさせた」▼さる5月、岐阜の県立高校2年生が体罰を受けたすえ、死んだ。本社岐阜支局の取材に、その高校の生徒たちは答えている。「髪形が規則違反だ、と毛をつかまれて引っこ抜かれた」「雨がっぱを忘れたら竹刀で打たれた」「げんこつで顔を30回ほど殴られ、口の中が血だらけになった」「朝の遅刻検査で毎日1本は竹刀が折れる」▼生徒の死亡事件があった岐阜県で、高教組が県内の高校教師を対象に調査したら、過半数は体罰はやむをえないと答えた。とくに、20代の教師たちは8割以上が体罰容認派だった。一見、偶発的にみえた高校生の死も、実は、体罰をよしとする多数の教師の意識と無縁ではないような気がする▼法律によって禁止されているからといって、体罰に教育的効果がないとはいえない、という人がいる。体罰は毒にもなるが薬にもなる、という人もいる。しかし、そんな人たちも体罰が時として人権を侵害し、こどもの「いじめ」を誘発しているという現実を否定しないだろう▼奈良のある中学校長が、こう話している。「こどもと心が通じあっている教師なら、ぶんなぐってもよかった、といってもらえるかもしれない。しかし私の心は、こどもと通じあっているだろうか。殴る資格のある先生になりたいと思います」  日本の軍拡 【’85.7.9 朝刊 1頁 (全853字)】  総理府の世論調査で、国民の間に軍拡路線についての不安が強い、という結果がでた。防衛予算の規模は「今の程度でよい」が54.1%、「今より少なく」が17.7%、「増額を」が14.2%である▼この結果を知った防衛庁の幹部は「防衛問題について、国民の理解が十分に得られていないということだ」と語っている。私たちはむしろ「軍拡をめぐる国民の不安について、防衛庁の理解が十分に得られない」ことを残念に思う▼不安の1。財政危機の中で、防衛費の突出がどこまで続くのかという不安。この5年間に社会保障関係費は17%しか伸びていない。教育関係予算の伸びはわずか7%である。公共事業関係費はむしろ減っている。それなのに、防衛費は41%の伸びを示している。福祉や教育の予算が削られているのに、という暮らしの感覚がまずある▼不安の2。日本の平和外交の基礎が崩れるのではないかという不安。安倍外相はいっている。「日本が軍事大国にならない決意をしている象徴の1つが、1%枠を守る姿勢であり、この道こそが平和外交の推進力になる」と▼いま、日本の防衛費は約3兆円である。これは、インドネシアなど東南アジア諸国連合の6カ国分の国防予算を合計した額(おおざっぱにいって2兆円強)をはるかに上回っている。日本の軍拡はアジアの人びとの目にどう映っているのか▼不安の3。民需中心の産業構造に変質が起こるのではないかという不安。平和主義を原則にすることで、日本の経済はまあ、順調な道を歩んできたのではなかったか。軍拡に厳しい歯止めをつけておかないと、経済構造の中に、軍事化が根をおろすのではないか▼中曽根内閣に対する国民の支持は高い。だが、こういう数字もある。本社世論調査(3月)によると「中曽根内閣の防衛政策を信頼しているか」という問いに、信頼していると答えた人は26%、不安を感じると答えた人は56%。 徳島ラジオ商殺し事件の2証人 【’85.7.10 朝刊 1頁 (全833字)】  徳島のラジオ商殺し事件が起こった時、店員Aは17歳、Bは16歳だった。中卒後まもない、まだ世間を知らない少年たちだった▼「なき事をいうのではありませんが田舎育ちの私は(取り調べの時は)言いたいこともできぬ位ふるえました。……今思えばあの時もっと世間を知り年もすぎていればあんな結果はまねかなかったでしょう。今はただ毎日苦しむばかりです」。少年Bが偽証を告白した時の手記の一節だ▼ふたりは検察の手で、それぞれ45日間、27日間も身柄を拘束され、うその供述を強いられた。本当のことをいうと打ち消され、検察官の考えに合ったことを誘導的にいわされた。少年たちの証言がきめ手となり、故富士茂子さんは有罪になった▼少年Aは偽証の苦しみにたえられず、自殺を図った。当時の遺書にはこうある。「私にもう少し勇気があればこの様に苦しい立場におい込まれて居なかった事と存じます、いかに検事の調べがキツイとはいえ、これまでウソの証言をしなくてもよかったと……」▼富士さんの「再審開始決定」の文書を読み直してみた。戦慄(せんりつ)というおおげさな言葉はなるべく避けたいが、見込み捜査というものが人間性を破壊してゆく恐ろしさに戦慄した。Bは述懐している。「検察からすれば、わしらのことはノミをつぶすようなもんや」▼いちどクロだと思い込んだら、人間の心の弱さを利用し、都合のいい証拠を次々につくりあげてゆく。少年たちの偽証告白があっても、思い込みを改めない。その権力の壁が長い間、再審をはばんできた。「生きとるうちに謝ってもらいたい」といっていた富士さんが亡くなってから6年後、徳島地裁はようやく「無罪」をいい渡した▼「情けないで。わしは、ニッポンで一番情けない人間になってしもた」。48歳になっているAは、判決前、そういって自分を責めていたという。 まちづくりの核、図書館 【’85.7.11 朝刊 1頁 (全851字)】  最近は、文化行政に力を入れる自治体が多い。図書館関係者の間で注目を集めているのは、ディズニーランドの街、千葉県浦安市の市立図書館である▼図書館の優劣をみるには、いろいろなものさしがある。浦安の場合市民1人あたりの貸出冊数が年間10.8冊(59年度)で、日本ではじめて2けたを超えたという指標がある▼数字をもう1つ。図書などの購入費が年間1人あたり1400円で、これも日本一だった。資料費は全体で1億円を上回り、この水準は57年度以降4年連続である。だが、お金をかけていることだけが、りっぱなのではない▼運営が、利用者である市民の側に立つことに徹している点に感心する。市役所のそばの本館のほかに3つの分館があり、さらに移動図書館のステーションが10カ所。「歩いて十分、どこでも本が借りられます」の言葉に掛け値はない▼図書館というと、薄暗くてかびくさい、陰気な建物を想像しがちだが、小学校の体育館2つ分という広々とした閲覧室の南側は総ガラス張りで、とても明るい。分厚い木の書架が大人の肩の高さで統一され、見通しもよい▼特色の1つは、子ども本位であること。幼いときから本に親しむことが大事、という考えからだ。専用の図書室、専任の職員、ベビーベッドまでおいてある。もちろん、貸し出しと返納はコンピューター化で、ほとんど手数がかからない▼この図書館づくりの中心になった前館長の竹内紀吉さんが『図書館の街 浦安』を出版した。そのなかで竹内さんは「図書館とは本が人と人の仲立ちをする広場」「街を歩いている続きで本の前に立てることが必要」といっている▼竹内さんを囲む読書会で、主婦たちの声を聞いた。「税金は東京より高いけど、いい図書館ができてとくをした」「埋め立ての新開地で砂漠みたいなところでしたが、図書館ができて心が落ち着きました」▼図書館はまちづくりの核なのである。 「柔らかいものへの視点」回復 【’85.7.12 朝刊 1頁 (全853字)】  ある社長は「若い間はおおいに遊べ」という。なるべく多くの友人とわいわいやれという。ある社長は「人間としての幅をつくれ」という。余情、余韻のある人間になれという▼『トップは社員に望む』という本に、約200の企業の社長、頭取の新入社員への訓示がのっている。日本の企業がいま何をめざしているかということがわかって興味深かった▼「外部志向型人間になれ」という繊維会社の社長訓示もあった。「社外でも、多くの人たちとかかわり、情報を吸収せよ」というのである。「内外に多く友人をもち、良質な情報を手にいれよ」という訓示もあった▼よく遊べ、社外にも友人をもて、外酒を心がけよという訓示がめだつのは、人間としての幅の広さ、奥行きの深さといったことに企業が注目しはじめたからだろう▼猪突(ちょとつ)もいい、仕事一筋のまじめ人間もけっこうだが、どうもそれだけでは、新鮮な発想が生まれてこない、という反省もあるのだろう。「指示待ち族」的な受験秀才だけでは会社が行き詰まる、という苦い思いもあるだろう▼企業が、人間の幅の広さや遊び心を求める背景には、発想の重視がある。発想の勝利、とみられるヒット商品が次々に生まれている。さらにその遠景には、21世紀に向かっての企業の生き残り策がある。いまは繊維会社が新素材、新技術を使い、造船会社と組んで小型双胴船を造ったりする時代だ。企業の優劣を左右するのは1つは高度の技術力であり、1つは、技術を生かす企画力だといわれている。頭のやわらかさの勝負になる▼近代建築史の研究家として知られる村松貞次郎さんが「今日の工学研究の最先端は、柔らかいものへの視点を回復しつつあるように思う」と書いている(図書・7月号)。村松さんは、均質化、標準化の現象を「硬くなる」と表現する。今日の企業の最先端もまた、柔らかいものへの視点を回復しつつある、といえるだろう。 石垣島の新空港建設計画 【’85.7.13 朝刊 1頁 (全854字)】  沖縄の人には、海こそ命の源泉だという信仰があるらしい。ニライカナイという海のかなたの国から、神様がやって来て、豊饒(ほうじょう)を約束してくれる、という信仰が沖縄にはある。海の神を迎える祭りはいまも各地で盛んだ▼その命の源である海を台無しにするかもしれない計画を、なぜ進めるのだろう。きょう、沖縄の県議会は、石垣島の新空港建設計画に賛成の意思を表す予定だという。白保地区のサンゴの海を埋め立てる企てに手を貸すという▼県の首脳や県議たちは、海こそ命であることを、お忘れになってしまったのだろうか。はやまったことをしては子孫の代にまで悔いを残す▼沖縄のサンゴの海は、急速な開発によってすでにかなり荒れている。だが、白保の海はかろうじて、昔の八重山の海の美しさを保っているといわれている。白保の地形、海辺の緑が生態系を保つことに幸いしたのだろう▼最近「平和をつくる沖縄100人委」が実施した調査によると、白保の海にはまだアオサンゴの大群落が残っていたそうだ。「天然記念物級の規模」という学者の発言もあった▼魚とサンゴは友だちの関係にある。魚はサンゴを隠れ家にするかわりに、サンゴの成育に適した環境作りに一役買う。サンゴの種類や数が多ければ多いほど魚の種類や数も多い。白保の海が「魚わく海」といわれるのも、無数のサンゴが生きているからだ▼その海の一端を埋め立てることは、海と海辺の生態系を崩し、魚わく海を衰退させるに違いない。筆者は去年の4月「一度埋め立ててしまえば、白保の海は戻らない」と書いたが、今またこの主張を繰り返したい▼第1、県はメンツや予算の都合という理由にこだわらず、1、2年の凍結期間を設けるべきだ。「あわてる中、落ち着け」という沖縄のことわざもあるではありませんか。第2、環境庁、文化庁に独自の学術調査を行うぐらいの気構えがなければ、命の海は守れない。 盲導犬ロバータ 【’85.7.14 朝刊 1頁 (全854字)】  盲導犬ロバータは野鳥やノウサギと仲よしになれるふしぎな力をもっていたらしい。私はロバータのおかげで初めて山の楽しみというものを味わうことができました、と童話作家の佐々木たづさんはいう。少女のころに失明したたづさんは20年前『ロバータさあ歩きましょう』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したことがある▼そのたづさんが、エッセイスト・クラブの会合に久しぶりに出席した。いいあいさつだったと知人にきいたので、直接ご本人の話をきいた▼山中湖畔で暮らしていたころ、ロバータはよくウグイスの鳴く所に連れて行ってくれました、とたづさんはいう。真下まで行っても、ウグイスは楽しげに鳴き続けた▼キツツキの巣も、手をのばせば触れる所にまで連れて行ってくれた。親鳥は警戒することなく、エサを運び続けた。ひなの鳴き声がかわいらしかった▼山の小道では、ウサギが先に立ち、案内するように後を振り返り、振り返りして歩くことがあった。「ふしぎな情景だった」と、はるか後ろにいた父親があとで教えてくれた。ロバータには動物たちを安心させる力があったのだろうか。家の中に飛んできてそのしっぽに止まる野鳥もいた▼街を歩いていて、一瞬、立ちどまることがあった。スズメが通りすぎるのを待つ様子だったとあとで知った。「私はロバータに似たような人間になりたいと思いました」▼「ロバータあなたの力を貸して下さい/よい童話を作るために/小さい綿毛の種の空をとぶ音が/もしあなたの耳に聞えたら/そして草の葉の下をくぐっていくかぶと虫の姿が/もしあなたの目にはいったら/ロバータはなして聞かせてください/そのときの風の香り  空の色 雲のたたずまいと共に」。英国生まれのロバータと共に帰国したころの詩だ。8年前、ロバータは17歳で死んだ▼いま、わが国では約420頭の盲導犬が働いている。だが、その数はまだ決定的に少ない。 堅苦しい入場行進 【’85.7.15 朝刊 1頁 (全845字)】  東京五輪の開会式で、ハトが一斉に飛び立った。けがのためか1羽だけが飛び立てずにグラウンドを迷い歩いていた▼いたわってやるつもりだろう、どこかの国の選手が懸命にハトを追った。なかなかつかまえられない姿がおかしくて、スタンドはわいた。演出にはないあの光景を覚えている人が多いのは、そこに人間らしい姿があったからだろう▼8月のユニバーシアード神戸大会の入場行進のさい、日本選手は笑ってもいいんじゃないか、いやいや断じて、という論議が大会関係者の間で起こっている▼去年のロス五輪入場行進では日本選手団の緊張過多がめだった。お祭り気分の会場のふんいきにそぐわない堅苦しい行進が話題になった。昔のユニバーシアードでは、日本選手団が一斉に片手をあげたところ「ナチの亡霊か」とやじられたこともあった▼だからといって、ある地点で一斉にチーズとやら叫び、画一的な笑顔をみせるような演出があっては、いっそうぶきみな感じになる。あるていどの秩序があれば、あとは手を振ろうと、笑おうと、厳粛な顔をしようと、それは個々の判断に任せるよう自由化したほうがいい▼いや、整然とした行進こそ日本の伝統である、と反発する人もいるだろう。ちょうどいい機会だ。日本オリンピック委や選手団役員は、おおいに論じあってもらいたい▼論ずるには、開会式、とくに入場行進のあり方について、選手たちの本音をきいて回ったほうがいい。「厳しくいわれるから仕方なしに整然たる行進をしているが、あまりにも画一的だ」という本音がでてくるだろうし、若者の祭りにふさわしい楽しい着想があるかもしれない▼よくいわれることだが、ある型にはめこむ画一的な指導だけでは選手の個性はのばせない。自分で工夫し、自分で判断する力が養われていないと、試合で実力をだしきれないという。スポーツ界の管理主義は入場行進の話だけではない。 援助される側の心理 【’85.7.16 朝刊 1頁 (全855字)】  アフリカの飢餓救援のためのコンサート「ライブ・エイド」は、ジョーン・バエズのなつかしい歌声が響いたりして、楽しかった。約160億円もの寄金があり、大成功だった▼だが、アフリカ人の音楽家たちが「なぜわれわれを1人も加えなかったのか。われわれを出演させないのはアフリカに対する侮辱だ」といっている、という記事を読み、そうか、そういう主張もあったのかと改めて国際援助の難しさについて考えた▼この発言の背景には複雑な事情があるのだろうが、一般論でいえば、援助する側は、援助される側の屈折した心理を見落としがちである▼援助する人びとはなぜ、現地で活動する自分の写真を発表したがるのかと援助される側はいう。自分が有名になるための援助かという冷ややかな見方もある。広報があるからこそ資金が集まるわけだが、一方にこういう冷ややかな見方があることは、常に肝に銘じておく必要がある▼ガボンでは、意外にもシュバイツァー博士に対する尊敬は乏しいという。「それは博士が、病院を建てたランバレネを、西欧に語りかける舞台装置としたからであり、黒人患者は、画家における画布のようなものだったからである。このことが現地社会での博士の存在感を、希薄なものとしてしまった」(伊藤正孝『アフリカ33景』)▼梅棹忠夫さんが、20年前にタンザニアに滞在した時の体験を書いている。帰国の直前、梅棹さんは衣類を山にわけて、仕事を共にした現地の青年たちに贈った。中には靴や靴下を投げだして「いらん」という青年もいた。形や色が気にいらないという▼日本人の常識では非礼なことだが、持てるものが持たざるものに品物を贈るのが義務であるような社会では、非礼ではない。与えることが義務で、受けとるほうに選択の自由がある、と梅棹さんは分析する▼援助をするには、アフリカの文化を知ることがいかに大切であるかをこの話は教えてくれる。 にせがき『犬枕』 【’85.7.17 朝刊 1頁 (全839字)】  にせがき『犬枕』▼見たきもの。月、花、思う人の顔。ほれたる人の心の内。3選もくろむ宰相の胸の内。腕に手術跡もつサンデー兆治と隆の里の奮闘▼腹の立つもの。己が物覚えの悪さ。衆院定数是正のひきのばし。選挙中のみ声高に叫ばるる減税公約。貿易摩擦に燃えひろがる怒りの火をさらに消せぬ外交上手の外交下手▼心地よげなるもの。池の蓮(はちす)の村雨にあいたる。瀬古の復活。「オールスター戦に投げたらアカン、オールスター戦に失礼や」といいつつ引退する鈴木啓示投手のひきぎわ▼恥ずかしきもの。うそのあらわるる。球場の集団熱狂。海軍魂でうなるシャンソン。お茶、モネ、シャンソン、ベルレーヌと「文化がいっぱい」を演ずる宰相のことごとしさ。テレビの大写しを意識しすぎたるさま▼なまめかしきもの。ほそやかにきよげなるキャシー・ベーカーのクラブ持つ姿。おそろしげなるもの。地震・雷。タクシーに投石の暴走族。継続審議になりたるスパイ防止法案▼遠くて近きもの。米ソの仲。近くて遠きもの。政治家の娘と政治家の秘書。創政会と非創政会の仲▼片腹痛きもの。おかしき咄(はなし)の後。身のほど知らぬ望み。政権にすり寄りたがる野党。「白保の海」保護に乗りださぬ環境庁。己が作をとつくにの人などに誇る政治家の句自慢▼すさまじきもの。昼ほゆる犬。大乃国の足の太さ。北尾の腕の長さ。小錦のプッシュ。軍拡求めるアメリカのプッシュ。くたびるるもの。ドーバー海峡を泳ぎ切りたる平均年齢50歳の日本人女性たち。きよしと見ゆるもの。つゆ明けの園に白桔梗(ききょう)、白き木槿(むくげ)の咲きたる▼心もとなきもの。阪神の快進撃。カナモジつらねるニュー社会党。中曽根3選を示唆せる竹下蔵相の「中曽根よいしょ発言」。問いたきもの。読み書きの時忘れたる字。豊田商事の隠し資産。ニューリーダーの胸の内。 問責し続けなければならない政治の違憲 【’85.7.18 朝刊 1頁 (全853字)】  「最高裁の違憲判決に対して議員がのらりくらりを続けることを許しておいたら、法律に対してルーズでよいという風潮を生んでしまう」と漫画家の山田紳さんが語っている。その通りだ▼今回の最高裁判決はいう。2年前の総選挙の定数配分は「憲法の選挙権の平等の要求に反し、違憲と断定するほかはない」と。憲法史に刻まれる判決だろう。しかも1票の格差を「是正しないままの総選挙には、無効宣告をすることもありうる」という補足意見もあった。怠慢を続けるのもいい加減にしなさいよ、という半ばあきれ顔の渋面が目に浮かぶようだ▼思えばよくも、さぼり続けたものである。去年の2月、中曽根首相は定数是正について答弁している。「これは急ぐと思います。議会政治のグラウンドの整備に関する重大問題ですから」。今年の1月には「今国会で実現するよう最大限の努力をします」とさえいっている▼首相はどれほどの努力をしたのだろう。教育改革の時は「急がせるのが政治家の仕事だ」と見えを切ったのに、定数是正ではいっこうに急がせる気配がなかった。かろうじて、6増・6減案という中途半端な案が継続審議になっているが、これは根本的な解決策ではない▼6・6案が実現したとしても約3倍の格差は残る。しかも今年の末には新しい国勢調査の結果がでる。1票の格差はさらにひろがるだろう。それからでは大変だ。今のうちに6・6案でお茶を濁せ、というもくろみが見えすいている。国勢調査のたびに、きちんと定数是正を行う仕組みをつくること、洞察力のある政治家たちなら、汗を流してそれに取り組むはずだ▼格差是正と取り組んできた有権者グループの根気には、敬意を表したい。「われわれ日常人の倫理観や世論の考える徳性に反する政治には、あくまで私たちはこれを問責しつづける義務がある」といったのは辻清明氏である。政治の違憲は、問責し続けなければならない。 捕鯨禁止と食文化の伝統 【’85.7.19 朝刊 1頁 (全860字)】  昨秋からこの春まで6カ月間、南極海の捕鯨船に乗って取材を続けた同僚がいる。吹雪とすさまじい寒さの中での捕鯨だ。ミンク鯨を追う合間に鉄砲さん(砲手)や包丁さん(解剖手)は思いのたけを語ったという▼「明確な理由があって捕鯨をやめろというのなら、まだ話はわかる。鯨資源が危ないというのなら、おれたちはいさぎよくやめる。その覚悟はある。だが、おれたちの実感では鯨はふえているんだ。それなのに禁止だという。そこのところがどうしても納得いかない」。捕鯨禁止になれば、男たちは磨きあげた名人芸を捨てて、転職せざるをえない▼南極海のミンク鯨は国際鯨類調査でも、20万頭以上はいると推定されている。北太平洋のマッコウ鯨も20万頭以上、と推定されており、国際捕鯨委(IWC)の科学小委員会は、いまの捕獲量(1漁期400頭)ならマッコウの資源状態に心配はない、という結論をだしている。それなのに、IWCの技術小委は、マッコウ鯨を保護鯨種に指定する案を採択した。奇怪な話である▼(1)肉も魚も食べず、植物だけを食べている人たちがいる。(2)家畜や養殖の魚類はいいが、野生動物は食べるなと主張する人がいる。先祖代々、野生の海の幸を食べてきた日本人の中には、この主張に抵抗を感ずる人が少なくないだろう。(3)野生動物を食べるのはいいが、絶滅に追いこむ愚は避けよという主張がある▼IWCの精神は(3)の主張に沿ったものだ。だから、この精神に沿って、たとえばミンクもマッコウも絶滅の恐れがあるというのなら、あすにでも撤退しよう。十分な調査のためにしばらく休漁をというのなら、それにも従おう。だが、昨今のIWCは、(3)の原則を忘れ去ったようにみえる▼和歌山の太地をはじめ捕鯨の町では今も、鯨肉が食文化の中心である。鯨がとれれば七浦がうるおうという言葉が残っているほどだ。だが、その食文化の伝統も破壊される。 映画「銀河鉄道の夜」 【’85.7.20 朝刊 1頁 (全843字)】  アニメ映画『銀河鉄道の夜』をみた。動きの激しいアニメをみなれたものには、宮沢賢治の詩的世界を描いたこの映画の進行は、いかにもゆるやかだ▼ガッタンガタガタという銀河鉄道の音も、カタンカタンという空中時計の振り子の音も、ポチポチピッという水滴の音も、置き忘れられたメトロノームの音も、みな、ゆるやかで静かで心地よくて、宇宙の鼓動のように思えてくる▼この映画をみた如月小春さんが「いとおしくて、心が壊れてしまいそうだ」といっているが、いとおしいというのは的確な表現だと思う。いとおしさの中には、この場合、他者を思いやるもの、命を捨てて他を救うものへのいとしさ、いたわしさがある▼ジョバンニ少年はいつも人の流れに逆らっている。友人たちにいじめられながら、病床の母親を助けて暗い印刷所で働いている。お祭りにわく人の波に逆らって丘に上り、夢の中で銀河鉄道に乗る。さまざまな死者の魂とのふれあいがはじまる▼命を尽くす行為がいくつかある。親友のカムパネルラは自らを犠牲にして、川に落ちた友人を救う。難破した船と共に死んだ幼い姉弟と家庭教師の青年も登場する▼青年は、他の子をおしのけて姉弟をボートに乗せようとするが、どうしてもそれができなかったと語る。自らの体を赤く焼きながら、他者のために夜のやみを照らしているサソリ座の星も、命を尽くす行為の美しさを伝えてくれる▼無限の時空間の世界から戻ったジョバンニはいう。「ぼくはもう、あのサソリのように、本当にみんなのしあわせのためなら、ぼくの体なんか100ぺん焼いてもかまわない」▼ひとは、それほど強くはない。少年が「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」の大人になれるかどうかは、だれにもわからない。映画は「おわり」のかわりに「ここよりはじまる」のタイトルをだして問いかける。あなたは何に、どうやって命を尽くしますか、と。 歩けオリンピック 【’85.7.21 朝刊 1頁 (全843字)】  毎年、オランダの小さな町で、大きな催しが行われる。フォーデーズ・マーチとも呼ばれ、歩けオリンピックとも呼ばれている▼2万人を超える世界各国の人びとがこの町ナイメーヘンに集まって、歩く。勝敗もない。順位もない。4日間歩き通したものに完歩の証書とメダルが与えられるだけだ▼今年の大会には日本から56人が参加した。参加9回の金子智一さん(日本歩け歩け協会長)にはこんな思い出がある。初めて参加した時、仲間と一緒に「ファイト、ファイト」と声高に叫んで歩いた▼すると、年配の女性が進み出ていった。「なぜ闘おうというの。私たちは闘いはごめんだわ」。がんばろうといいきかせる軽い調子の「ファイト」だったが、金子さんはWe don′t want to  fightという言葉にこめられたものを察して、深く頭をさげた▼歩くことの大好きな人びとが集まって、歩くことを楽しむ。緑の丘を歩く。運河ぞいの道を歩く。歩きながらふれあいが生まれる。「黄色いリボン」「おおスザンナ」「もしもし亀よ」とさまざまな歌がきこえてくる。軍歌を歌いながら兵隊が歩く。黒いはだを輝かせた娘さんが歩く。リュックを背にした老人が歩く。オリンピックの精神は本家よりもこちらに受けつがれているのかもしれない▼沿道には、イスを並べ、休んでいけと手招きをする主婦がいる。コーヒーやクッキーをふるまう家もある。クローバの花束を贈ってくれる少女もいる。毎年のことなので、住民と参加者は縁で結ばれるという▼いま日本では、「歩き」の愛好者が激増し、約900万人ともいわれている。『WALK』という専門雑誌もでている。運動不足を解消するため。体力と精神力の限界に挑むため。根性の育成のため。歩き続ける理由はさまざまだが、歩きの神髄はやはり、歩くことを楽しむことだろう▼楽しみながら歩けば、風の色がみえてくる。 中国緑化に「緑色天使」 【’85.7.22 朝刊 1頁 (全844字)】  中国にケヤキの苗やタネを送り続けている東京・府中市の菊池善隆さん(79)あてに、最近小包がとどいた。開けてみると、まん中に「緑色天使」の字を縫い取ったにしきの旗が一面。差出人は中国陜西省周至県終南鎮の王望徳さんだ▼王さんは、菊池さんが訪中した際に得た友人の1人である。添えられた手紙には、中国の緑化に尽くす菊池さんへの感謝がつづられていた。ハトやツル、老松が刺しゅうされた手作りの旗を見ていて、木の苗やタネが根づくように、人の心もだんだんと通じ合うものだと思った▼菊池さんは若いころから17年、満鉄に勤めた。戦後は会社も経営したが、植民地支配の末端に連なり、結果的に中国人を苦しめたことへの自責の念が去らなかった。日中国交回復後の昭和48年、まだ両国間に直行便のないころから、自分で育てたケヤキの苗を送り始めた。中国各地の植物園などで受け入れ態勢が整ったあとはタネが主力となり、今年までに合計320キロを送った。この分だけで、約500万本の苗が育ちつつあるそうだ▼菊池さんは「最初は過去の罪滅ぼしの気分が強かったが、だんだん緑に欲が出て、緑化こそが人生の大事と思うようになった」と語る。最近は、一般旅行者も手軽に苗木を中国に持って行けるようにと手続き簡略化を呼びかけたり、その苗木を提供する団体作りに精出している▼昨秋、日中青年友好交流に加わって訪中した時、北京・中南海で胡耀邦総書記と会った。「いまの中国の緑化率12.7%を20%に引き上げるには、50万平方キロに1000億本を植えればよい」と菊池さんが持論を展開したところ、同席の王震将軍が「そう簡単にいくかどうか」と首をかしげた。「10億人が年に5本ずつ、20年続ければ……。私も協力します」と答え、確かにそうだと笑い合ったという。気の長い話の得意な中国首脳の上を行ったところが面白い。 自然のけはい 【’85.7.23 朝刊 1頁 (全841字)】  「熱き茶をふくみつつ暑に堪へてをり」(虚子)。きょうは大暑である。「暑気いたりつまりたるゆへなればなり」と昔の暦の解説にはある。当分、熱帯夜が続く▼真夏の光をあびて、キョウチクトウの花が咲いている。公害に強いという宣伝がきいたためか、この花は、工業地帯や高速道路ですっかりおなじみになった。どんよりと濁った空気に耐え、車の振動や排ガスに耐え、はげしい暑さと光に耐え、ほこりを浴びながらも咲き続けるさまはいかにもあわれだ▼道路わきのキョウチクトウの花は時には暑苦しく、薄汚れてさえみえるが、近づいてみると淡いくれない色の花びらは、意外に涼しげである。夕立のあと、生きかえったように濃い緑の葉につつまれて咲く風情もいい▼かたわらの空き地で、エノコログサやイヌビエが風にゆれている。吹くか吹かぬかの風のけはいを、鋭く感じとるのは道ばたの草だ。「風は草の実のひとつを妊ませ/たくさんな花をさかす。……風は見えぬ花のひとつにも口ぶれ/顫(ふる)へる蔓のひとつとも握手する」(川路柳虹)。エノコログサの青い穂が風のしずかな足どりに調子をあわせている▼「風流という言葉は、文字通り『風の流れ』を知る心理のデリカシーを指すといってもよいかもしれない。風の流れとは、自然のけはいである」と梅原猛さんは書いている(『現代の大和ごころ』)▼自然のけはいを知るとは、天地の呼吸や鼓動、つまり天地の生きているさま、移ろうさまを感じとるということだろう。青あらし、梅雨初めのころの南風が黒南風(くろはえ)、梅雨明けのころの南風が白南風(しらはえ)というように、風を色で区別するのも、自然のけはいに敏感な心の表れだろうか▼銀座の外堀通りのエンジュが花を咲かせている。何色の風というのだろう。ほこりっぽい空気がほんの少し動いて、薄みどり色の点々を歩道一面にまいている。 アル中 【’85.7.24 朝刊 1頁 (全845字)】  「お酒はいつもわたしの良き共犯者でした」とフランソワーズ・サガンは語っている。「といっても、わたしは人生を忘れるために飲んだことは一度もありません。逆に人生を加速させるためなのです」。暗がりに歩を進めるとき酒は良き共犯者になるということだろうか▼酒と麻薬を断ちきれなかったテネシー・ウィリアムズは『欲望という名の電車』のブランチにいわせている。「お湯から上がって冷たいものをグーッと一飲みすると、世の中がまるで真っ新(さら)になったように見えて来るの」。ブランチの場合は、過去を断ちきるために酒の力が必要だった▼古来、酒の効用を説く人は多いが、一方では、アルコール中毒こそ人類の最大の悲劇の1つだという人もいる。ソ連のアル中および飲酒常習者は4000万人もおり、うち1700万人は病気の部類に入るという。酒が原因の死者は毎年100万人ともいわれ、アル中がもたらす国家的損失は天文学的数字になる。ゴルバチョフ書記長がアル中追放策に力こぶをいれるのもむりはない▼アメリカではアル中患者は約1000万人で、アル中による死者は年に20万人という推定もある。これも相当なものだ▼厚生省研究班の調査で、日本のアル中患者は控えめに見ても約220万人、ということがわかった。日本人は解毒酵素の働きの弱い人が多い。従って、あびるほど酒を飲める人が相対的に少ないはず、という常識からみれば、どうしてどうして、かなりの患者数である。アル中は今や地球的規模の難問なのだろうか▼なだいなだ氏によれば、酔っ払うことを恥ずべき行為だとうけとる社会とそうでない社会では、アル中の型が違うそうだ。日本の場合は後者で、酔っ払って反社会的な行為にでることも寛大にみすごされる。イッキなどという幼稚な行為で急性アルコール中毒になり、他人に迷惑をかける。日本型アル中退治も容易ではない。 超銀河集団 【’85.7.25 朝刊 1頁 (全868字)】  アメリカの天文学者が「超銀河集団」をみつけたという。その長さは10億光年にものぼる、とあった。光が1年間に飛ぶ距離は約10兆キロで、これが1光年である。発見された超銀河集団の長さはつまり10兆キロの10億倍という長さになる。これに比べれば、直径1万2000キロ余の地球はチリ以下の存在ではないか▼空を見あげても、超銀河集団とやらがどこにあるのかわかるはずはないが、いくつもの銀河の集まったのが銀河集団で、その銀河集団をつなげたかっこうのものが超銀河集団なのだという▼宇宙には、1000億個ほどの銀河があり、それぞれの銀河には平均して1000億個ほどの星がある。そしてすべての銀河の中には、その星と同じくらいの数の惑星もあるだろう。その総数は、100億の1兆倍ほどである(カール・セーガン『COSMOS』)。私たちの住む地球は、1つの銀河の中の1つの星(太陽)のまわりを回る惑星にすぎないのだ。人類はその惑星に国境という名のぎょうぎょうしい境界線をはりめぐらせて、争っている▼もし私たちが宇宙探査機に乗ってすぐお隣の恒星ケンタウルス座のアルファ星に行くとすれば、10万年以上はかかるという。牽牛(けんぎゅう)星と織女星の距離も決して近くはない。宇宙探査機を利用して恋のとりもちをしようとしても、片道に何十万年もかかる▼そういう宇宙の広さに人びとは畏敬(いけい)の念を抱き続けてきた。沖縄のおもろそうしに、こんな意味の舟歌が残されている。「ああ上がる三日月。あれは美しい神の弓/ああ上がる赤星。あれは美しい神の矢/ああ上がる群れ星。あれは神のくし/あのたなびく雲は神の帯」▼八重山の空ではいまも肉眼で数千の星をみることができるが、大都会の星の数はめっきり減った。東京では、昭和30年代の初めまでは銀河もみえたが今はなかなかみえない、と専門家はいう。星が姿を消したために失ったものは大きい。 「仕方なし軍拡」 【’85.7.26 朝刊 1頁 (全855字)】  戦後まもなく、アメリカの週刊誌に、日本人にとって、民主主義とは“It can’t be helped”democracyだという記事がのった。「仕方なし民主主義」である▼仕方なく、おしきせの民主主義の衣を着たかと思うと、今度は「仕方なし再軍備」へ向かう。「ああ一体どこまで行ったら既成事実への屈伏という私達の無窮動は終止符に来るのでしょうか」と、丸山真男さんが嘆いていた▼防衛費のGNP比1%枠をはずすことを中曽根首相は決断したらしい。これもまた、アメリカの圧力による「仕方なし1%枠はずし」なのだろうか。あるいは「アメリカの圧力」とやらを利用した巧妙な作戦なのか▼1%枠をめぐる首相の国会答弁には、失礼ながら、ふまじめさを感ずる。最初は「汗を流して努力する」と公約した。次が「今後とも守りたい」という願望に変わった。その「歯止めを変えたくない」願望が、日足らずして「新しい歯止めに変えたい」願望に変転した、というのだろうか。国会答弁は、その場を切り抜けるための方便だったのか▼自分はできれば1%枠を変えたくないが、アメリカとのつきあいもある、だから仕方なく変えるんだ、という政治手法をみせつけられると、ふと、一部の戦争指導者たちの弁解を思い出す。自分は戦争をしたくはなかった、内心は反対だった、しかし情勢が厳しいので仕方なく賛成にまわった、という弁解である▼だが「仕方なし1%枠はずし」は、一種の演技であるのかもしれない。首相がもし本気で1%枠を望めば、それはできる。昨年度は、節約や不要額を削って1%枠におさめた。今年もそれができないはずはないし、59中業に厳しい枠をはめるのも指導力の問題だろう▼例の海上補給路防衛にしても、最初に「兵器輸入の圧力ありき」の感が深いのだ。高価な最新兵器をなぜあれほど大量に、という疑問の消えぬまま「仕方なし軍拡」は着々と進む。 ものを「看」る 【’85.7.27 朝刊 1頁 (全854字)】  デパートで昆虫が売られている。カブト虫の雄が450円、雌が150円、ヒラタクワガタの雄は2400円である。オガクズや木の葉の中で息をひそめている虫たちを見ると、彼らにはいかなる運命が待ちかまえているのかと思う▼太郎君が八幡さまの森でとったクワガタのクワジは、飼いはじめてから3年も生き続けたという。かなりの長命ではないだろうか。中島みちさんの『クワガタ・クワジ物語』を読むと、ものを見ることの基本は、すなおな驚きだということがわかる▼黒くつやつやした頭、キューンとまがった大あご、ひらべったいおなかの形を指先でたどって、胸をおどらせる。クワイチ、クワジ、クワゾウと名づけた3匹のコクワガタと共に暮らし、3匹にそれぞれの個性があることを知って驚く。驚きが愛情になる▼太郎君はよく面倒をみた。寝る前には、虫が暮らすタルの中の落ち葉に霧を吹き、果物の皮や食べ残りをいれる。タルの中のかたまった土を砕き、落ち葉と一緒に日光にあてたりもした▼ノコギリクワガタ、ミヤマクワガタ、カブトムシなどを一緒のタルにいれて飼った時は、ノコギリが他の虫たちをバラバラにして殺してしまうという失敗もあった。この時の驚き。そのノコギリの前にでると、クワジたちは「シツレイってあやまるようにピコピコ触角を動かし一目散に土の中へもぐる」という観察もある▼太郎君は時々、クワジを指にぶらさげてかわいがった。ものを見ることの基本は、手で触る、手にとってみるということでもあろうか。看という字は「手を目の上にかざして望み見る」ことだそうだが、この看の字は「手で見る」ことだと教えてくれた人がいた▼母親は子のひたいに手をあてて熱があるかどうかを見る。虫にふれる、草花を自分の手で育てるという営みがあって、はじめて見えてくるものもあるだろう。命のいとおしさも伝わってくる。夏休みは観察力をきたえる季節だ。 長野の地滑り 【’85.7.28 朝刊 1頁 (全848字)】  一昨年、三宅島で噴火があった時は、阿古集落の大半が溶岩流に埋まった。だが1人の死者もなかった。当時、一主婦が語っている。「丈夫な人が年寄りを背負い、腰の悪い人のいる家には、車のある人が自発的に迎えに行ってました。お互い声をかけあって、落ちこぼれなく避難できました」▼三宅島の人びとには噴火の体験があり、避難の知恵の蓄積があった。噴火と地滑りとでは事情が違う。だから単純には比べられないが、それでも長野県地附山斜面で地滑りが起こった時の避難対策は、多くの問題を残した。寝たきりの老人が多い施設が、なかば忘れられる形で置き去りになったのである▼地滑りの兆候はあった。すでに4年前、有料道路に小さな亀裂が見つかっている。地滑りのためである。長雨のせいか、20日に新たな地滑りが始まった。25日、さらに異常な動きがでてきた▼この段階で湯谷団地の避難対策は考えられたが、老人ホームの松寿荘は対象外になっていた。松寿荘では入居者避難を長野市に要請している。市の対応ははかばかしくなかった。避難勧告のないまま、年寄りたちは土砂に押しつぶされた▼救いだされた92歳の女性は「何が何だかさっぱりわからなくて」といった。何が何だかわからぬまま、2階の床が抜けて1階に落ち、その上に崩れてきた天井の下敷きになって亡くなった老人もいたらしい▼なぜ避難が遅れたのか。地滑りに対する見方の甘さもあったろう。だが、避難に時間がかかる寝たきり老人の多いことを関係者が肝に銘じていれば、もっと機敏な手の打ちようがあったはずだ▼現場は、長雨があると地滑りを起こしやすい斜面だといわれている。山崩れや地滑りの要因になる土中の水を抜く、という防止策をもっと早くから、もっと徹底的に行うべきだった。危険な地域に団地や老人ホームがあるのだし、前ぶれもあった。災害があってから「まさか」では遅い。 米と「コカコーラ」 【’85.7.29 朝刊 1頁 (全837字)】  敗戦直後のころ進駐軍とはコカコーラのことだった。国電の専用車にふんぞり返る兵士たちが6本入りのケースからびんを抜き出しラッパ飲みしている不思議な液体、それがコークだった▼戦時中、砂糖を割当制にしていた米国で、コークは軍需優先物資として特配を受けていたという。もちろん敗戦国民はその味を知らない。ようやく日本人の口に入るようになったのは、昭和24年、米プロ野球サンフランシスコ・シールズの初来日のころではなかったか▼その後もコーラはアメリカ文化、経済の世界制覇の象徴だった。70年代、ペプシコーラはソ連で売り出された最初の米国製商品となり、コカコーラは可口可楽の名で中国を制した▼コーラは政治商品だとの説もある。ペプシは共和党の飲料で、ニクソン政権と親しかったケンドール会長のもとソ連に進出し、ニューディール以来民主党と結びつきの深いコークは、本拠地ジョージア州出身のカーター大統領の後押しで中国に乗りこむ。政権が交代すると、ホワイトハウスの食堂や自動販売機で売られる銘柄も変わるとか▼アメリカ人自体がコーラを国民のシンボルだと考えている。4月末、99年続いたコークの成分を変えて新製品が売り出されたとき、まるで憲法改正のような騒ぎが起きた▼ほんの少し味が軽くなっただけなのに、伝統を守れとの投書が殺到し、コカコーラ社は3カ月後に「クラシック」と名づけた旧コークの復活を認めざるをえなくなった。「昔からのアメリカ」を守ろうとする保守主義、食品に限らずなんでも軽さを求める「軽時代」、コーラは時代の象徴でもある▼近ごろ日本でもアメリカ人同様、若ものはハンバーガーをコーラで流しこむ。テレビ討論で米上院議員が「日本人は国産品愛用主義者で米国商品は買わない」といいつのるのをコーラ片手に見ていると、割り切れない思いがあと味となって残る。 私的諮問機関 【’85.7.30 朝刊 1頁 (全849字)】  芭蕉の研究家として知られる知人から、電話があった。「中曽根首相の句集では『おくのほそ道』の『行々てたふれ伏とも萩の原』を芭蕉の句にしている。あれは間違いです。いうまでもないが、弟子の曽良の句です」▼念のため、中曽根さんの本を読むと、この句を芭蕉の作として紹介し、「真実一路なる精進の気魄である」と絶賛している。誤りは人の常、まあ、ごあいきょうでもありますが、私的諮問機関好きの首相がもし「句集発行に関する特別調査会」なるものをつくっておけば、こんなみっともない誤りは防げただろうに、という話になった▼審議会や調査会を利用する中曽根的手法は、いまやすっかり有名になった。まず《ブーメラン説》がある。首相は自分の結論をブーメランに託して投げる。投げたものは必ず、意図した通りの結論を背負って戻ってくる▼私的諮問機関「平和問題研究会」の報告がそうだった。研究会の一部委員には「防衛費の1%枠撤廃」をもりこめという首相の意向が伝えられていたそうだ。はじめに結論ありき、の諮問機関である▼《隠れみの説》もある。結論は控える、諮問機関の報告をまって対応するという逃げ道をつくって、審議会や懇談会を隠れみのにする。「靖国神社参拝問題に関する懇談会」などは、公式参拝をめざす中曽根さんにとって、さぞ着心地のいい隠れみのではないか▼《根回し説》。いま、私的諮問機関として稼働中のものだけで軽く数百はあるといわれる。効用の1つは、官僚が学識経験者や関係業界の委員に個別的に会い、ある政策の根回しをする機会をつくりうることだ。首相はその根回し機関の頂点に立つ。諮問機関がこれほどにぎわう裏には、国会論議の衰弱もあるのだろう▼さて、「行き行きて倒れ伏すとも3選を」ともくろむ首相が、一番つくりたくて、しかもつくれぬ諮問機関が1つある。それは「首相の任期長期化に関する懇談会」。 経済摩擦と「うろたえない妥協」 【’85.7.31 朝刊 1頁 (全853字)】  千葉大の村山元英教授の夫人メーブルさんは、八百屋さんに一山いくらのリンゴがあると、一番いいのを1つとって、それだけを買おうとする。売る側としてはおおいに困る▼いいのと悪いのとをまぜて売るのは鮮度のやや落ちたものをさばくための知恵だ。日本人にはその事情がよくわかる。だがアメリカ育ちの夫人は、悪い品を売るのは正直ではないと思う。一番いいのを選んで1個だけを買うのが当然だと思う。商習慣の違いが、見方によっては不公正にうつることもあるのだ(『わが家の日米文化合戦』)▼日本は不公正な貿易相手だという非難をきくたびに、日米・日欧の文化合戦はなかなかおさまるものではないという思いにとらわれる▼たとえば、パイナップルの缶詰に切り身の数を表示する。日本人にはそのきめこまかさがうけるが、外国からみれば「なぜそんなことまで」となる。自動車の速度警報装置にしても「メーターを見ればわかること、余分な装置」という感覚が輸入車業界にはある▼今回、政府が発表した市場開放の行動計画を実行すれば、煩雑で効率が悪いと非難されてきた役所の許可基準や手続きも、多少は簡単になるだろう。かなりの品目の関税の撤廃、引き下げもある▼だが、薬の名前をたくさん並べた処方せんはできたが、はたしてどのていどの鎮静効果があるかとなると、そう楽観的にはなれない。開放は進むが、そのことで日本の輸入が急増し、貿易黒字が急減するとは思えない。黒字が減らなければ、対日非難は衰えないだろう。だいたい経済摩擦が一切なくなる、などと思うのは幻想だ▼村山教授は、日本人は欧米の文化に対して「うろたえた妥協」をしがちだと指摘する。近代化には「うろたえた妥協」も必要だった。だが「うろたえない妥協」も必要である。経済摩擦のていどをいくぶんでも弱めるには、うろたえずに、輸出依存の体質を徐々に見直していく作業が大切になる。 手をつなぐこと 【’85.8.1 朝刊 1頁 (全860字)】  「田沢湖まるごと手をつなごう」という催しがあった。周囲約20キロの湖を人の輪でかこもうという試みである。手をつなぐためだけの目的で手をつなぐ、という単純そぼくな発想がおもしろい▼現場を見てきた同僚の話では、約1万人しか集まらず、人の輪は完成しなかったそうだ。よく晴れた日で、湖水はまぶしく光り、対岸の緑がゆらいでみえた。湖上に青や黄ののろしが上がって参加者が一斉に手をつなぐ▼「生まれて初めて外国の人と手をつなげた」と喜ぶ女の子もいたし「手をつなぐことで、皆がわかりあえるようになっていったら」という女子学生もいた▼6月には静岡県で「大井川に新しい橋をかけよう」という催しがあった。手をつなぎながら川の流れに入りこむ人びとが約1キロの人間架橋をつくった▼手をつなぐとは、体のふれあいを通じて心が通いあうということだろうか。映画『E.T.』では、E.T.が指先でやさしく少年の傷口にふれると、たちまち傷がいえる場面があった。体にふれることで、お互いの心がふれあうことのふしぎさを、あの寡黙な場面は雄弁に語っていた▼十数年前、ロンドンでドゥ・タッチ運動と称する実験が行われた。積極的に人にさわろうという運動だった。体の接触をあまり好まないイギリス人でさえ、そういう傾向があらわれてきたとすれば「これはよほど重大な、そしておもしろい事実である。世界の人びとは、再び、肌と肌との触れあいを求めてきているのだろうか」と多田道太郎さんが『しぐさの日本文化』の中で書いている▼夏になると、富山県の山村で「人と土の大学」や「草刈り十字軍」を主催している足立原貫さんはいう。「つないだ手の先にいろいろな人がいるという実感が大切でしょうね」。「人と土の大学」は人と人、人と土を結ぶための夏季塾だ。老若男女が火を囲んで飲み、手をつないで歌う。そういうふれあいを求める人がめだってふえているという。 まだ生きている「日本人12歳説」 【’85.8.2 朝刊 1頁 (全856字)】  占領軍の司令官だったマッカーサー元帥のことばに「日本人12歳説」があった。「科学、美術、文化などの面からみて、アングロサクソンを45歳の大人だとすれば、日本人はまだ生徒の時代で、12歳だ」▼日本の防衛力増強を監視する、という法案がアメリカ上院で可決された。全会一致である。この内政干渉的な法案の内容を知って「日本人12歳説」はまだ生きているなと思った▼君たちはなんというできの悪い、ふがいない生徒なのだ。やるやると約束しながら、勉強の成果が表れていないじゃないか。これからは、自分の意思で一生懸命に勉強して早く水準を達成しなさい。さぼったり、ごまかしたりしないかどうか、われわれが監視する。君たちの内申書は大統領が詳細にわれわれに報告するだろう。いってみればそんな内容の法案だ▼シーレーン(海上交通)防衛をめぐって、アメリカの納税者の負担の一部を、日本の納税者の負担に肩代わりさせようというのだから、アメリカ国民からみればいかにもカッコイイ法案だが、日本の納税者からみれば、従属国じゃあるまいしといった気持ちになる▼だいたい「シーレーン防衛能力の達成」という表現は何を意味するのだろう。日本が輸入する食糧や石油を守るためのものなのか。それとも、緊急時に米空母部隊などが自由に動けるような態勢にするという性格のものなのか▼画然とはわけられないにしても、米国の国益にとっては当然、後者が大切だろう。だがわが国はどちらに重点をおいているのか。政府の説明は極めてわかりにくい。輸入食糧や石油を守るためのシーレーン防衛についていえば、これはどれほど巨額の費用をつぎこんでも「防衛能力の達成」は難しい、といわれている。しかも1000カイリ以遠の航路帯はどうするのか、という問題につきあたる▼自分たちの税金のありように他国の議会が目を光らせている、ときけば不快指数はますばかりだ。 国鉄貨物の死 【’85.8.3 朝刊 1頁 (全857字)】  「夜を徹し貨車を牽き来しわが前に夜の終りを告げる朝焼け」(和田国基)。かつて国鉄の貨物は輸送の大動脈だった。その姿が次第に減ってゆくのをみるのはさびしい▼たとえば、中央線の東小金井駅でも、最近、貨物の引き込み線が閉鎖になった。貨車の姿はなく、構内のレールはいずれも赤くさびついたまま夏の日をあびている。小石とレールの間にクモの糸がからんでいる。こういう「貨物の死」を暗示するような光景はいま、全国いたるところでみられる▼国鉄の「分割・民営化」の具体案をつくる国鉄改革推進本部が発足した。その基礎となる再建監理委の意見を読んで、いちばん疑問に思ったのは貨物のことだ。国鉄の貨物輸送は、いずれは採算がとれずに死にたえてしまうのだろうか▼再建監理委は、貨物部門を旅客部門から分離させ、その上で「実行可能な具体案を早急に」と説く。これは、あべこべではないか。実行可能な具体案を検討しながら、同時に分離か非分離かを考えるのが筋ではなかったか▼国鉄貨物は膨大な赤字を生んでいる。だから切り離せというのは、一見、説得力のある議論にみえるが、この切り離し論は、実は貨物の切り捨てにつながる恐れがある。夜間ダイヤの編成1つでも、旅客会社と貨物会社の利害はぶつかる。利害の対立で、貨物会社はますますやせ細ってゆくことにはならないか▼国鉄の貨物量は落ちたとはいっても、年間8000万トンもの品物を運んでいる。鉄路による貨物が死にたえたらどういうことが起こるか。劇薬、火薬などの危険物を乗せた大型車が街を走ることになるし、車の振動、騒音公害がさらにひどくなるだろう。ああ、やはり鉄道輸送がいいとなった時、死んだレールはもはや使いものにならなくなっているだろう▼かつて獅子文六は、路上電車撤廃論に対抗して、「ちんちん電車」を「民衆の宝」だと論じた。国鉄貨物を、博物館の中の民衆の宝にしたくない。 花火 【’85.8.4 朝刊 1頁 (全855字)】  花火大会というのは、全国各地で年間1000回以上も開かれるそうだ。最近は、花火好きの住民が金をだしあって、自前の花火大会を開くこともあるらしい。打ち上げ花火の生産額は年間約44億円である。それだけの花火が毎年、夜空に消える▼神宮外苑の花火大会を見た。400連発、500連発となると、その音が腹に響く。紅色が飛び散る。白銀の光が乱れる。八方にひろがった光が透明な露草色に変じて流れる。金色の帯が何本も何本も垂直にかけのぼる。ひすいが散る。淡いふじ紫が砕ける。そういう火の芸が続いた▼芥川竜之介が書いている。「人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかった」。芥川は、花火ではなく架空線に散る火花について書いているのだが、花火大会の紫の光がやみにしみこむさまをみながら、芥川はなぜ、手にしえぬ瞬時の美を手にしたいと書いたのだろう、などと考えた▼最近、『へくそ花も花盛り・大道あや聞き書き一代記と、その絵の世界』という本を読み、聞き書きというもののもつ文章の力にひかれた。30日間を超える綿密なインタビューの成果だろう▼大道さんの夫も息子も、花火師だった。息子さんは花火工場の爆発で、飛んだ小石が目をつきぬけて脳の中に入るという重傷をおった。夫は、爆死した。焼けこげの夫を抱くようにかかえたら「頭がパカッと割れて、脳みそがドロッと落ちました」とあやさんは語る▼広島での原爆体験を語る時も「女は醜かった。あんなになると女のほうが汚く見えるんじゃね。髪は焼け焦げてしもうとるし、服にモンペというだぶだぶした姿じゃから、焼けるとだらりと垂れて」と冷静な目を失わない▼そのあやさんが、花火について語っている。「真っ黒な空に花が咲いて、いろいろに変わって消える。あれは消えるからええんじゃね」 被爆者の辻奎子さんを悼む 【’85.8.6 朝刊 1頁 (全857字)】  川崎市に住む主婦、辻奎子さんが亡くなり、きのう葬儀があった。原爆の記録映画『にんげんをかえせ』を海外へ贈る運動を呼びかけている人、として本欄で紹介したあの辻さんだ。少女時代、広島で原爆をあびたものの1人として、ご自分の発病を予感していたようなところが辻さんにはあった▼元気なころにいただいたお便りには「生き残ったのではなく、生き残らせていただいたのも運命だ。なにかしなくては亡くなった方に申し訳ない」とあった▼辻さんは10フィート運動にもボランティアとして参加したが、原爆映画が完成したあとは、これを海外へ贈る運動に独力で取りくむ決心をする。原爆の恐ろしさを知らない人びとにとってこの映画は決定的な意味をもつ、という諸外国での評価もあった。運動の諸雑費には、ししゅうを教えて得た月謝をあてた▼反響はすごかった。100万円も集まれば、と考えていたのに、寄付金は2500万円を超えた。約7000人が、運動に参加し、約200本のフィルムが、欧米、アジア、アフリカなどの40カ国近い国々に贈られた。「何もしないところからは何も始まらない。ちょっと手をさしのべれば必ず手をつないで下さる方がある」という辻さんのことば通りになった▼やがて、体の不調を訴え、以後、入院と手術を繰り返しながら運動を続ける。たくさんの仲間の女性たちが運動に協力した。全身に転移したがんの激痛と闘いながら、辻さんは「医と情と愛と励ましを身辺のすべての人からうけることのありがたさを思う」と筆者あての手紙に書いている。十分な手当てをうけられずに死んだ級友たちのことが頭にあったのだろう▼広島の友人たちは少女のまま命を奪われた。自分だけが妻となり、母となり、3人の孫をもった。生き残ったことで、命が未来に続いていることを改めて思う、とも手紙にはあった▼闘病生活は280日におよんだが、みごとな闘いぶりだった。 被爆者の手記 【’85.8.7 朝刊 1頁 (全838字)】  朝日新聞社(大阪)が被爆40年の今夏、読者の手記を募ったら、約300通の応募があった。87歳の指し物職人を筆頭に高年齢の人が多いのも、時の流れである▼被爆体験の思い出はつらすぎる。投稿者の中には「もう涙で字が見えない」と泣きながら、その体験を書いている人もいた。被爆者の私は人並みより体が弱い。次の節目の被爆50年の日、もう生きていないかもしれない。だから書いた。そういう人もいる▼米国・シアトル市に住むメアリー藤田さんも、投稿者の1人である。当年77歳。「スピードばあちゃん」という愛称の由来は、8気筒のマイカーを飛ばして、あちこちの都市を回り、高校生らに被爆フィルムを見せているからだ▼藤田さんは15歳のとき渡米して幹吾さんと結婚し、1940年、夫婦、息子の3人で広島に帰った。原爆投下の日、爆心地近くにいた幹吾さんは遺体も残さずに死んだ。息子は学徒動員で離れていたから、そして藤田さんは電車の陰にいたから助かった▼戦後、再び母子は渡米し、やれやれと思ったら今度は朝鮮戦争である。米国政府の紋章が入った立派な招集令状が息子に届いた。新聞記者が来たので「軍国の母は2度とごめん」と、半日がかりで原爆の恐ろしさを話した。ところが、記事は戦意高揚のためにまとめられていた。「この被爆者さえ従軍した」と▼それから35年たった今年6月、藤田さんは線路上に座りこんで逮捕された19人の青年の弁護側証人として郡裁判所に出廷した。青年たちは、核兵器を積んでいるらしい列車を止めようとしたのである。被爆の悲惨さを語った藤田さんの証言が、今度は詳しく新聞に載った。青年たちも、全員無罪になった▼この夏、体を放射能にむしばまれた語りべたちが体験を語りつぎ言いついでいる。「生贄(いけにえ)となりし夫よ隣人よ原爆風化させてはならず」(72歳・主婦)。 立秋と月見草 【’85.8.8 朝刊 1頁 (全841字)】  きのうは立秋だった。高い空のどこかで、森のやみや熱帯夜の都会のどこかで、夏の風と秋の風が行きあって、あいさつをしている。そろそろ交代の時期ですね。いやまだまだ。でも衰えがめだちますよ。そんなことはないさ処暑までふんばるよ。昔の人は、夏の風と秋の風が同居する今ごろの空を「ゆきあひの空」と表現した▼月の光をあびて、白い花の月見草が咲いている。白い月見草は、今はもう珍しいらしい。いただいた種を鉢にまいたが芽生えが遅く、なかばあきらめていたのだが、急に伸びてつぼみをつけた。真夜中になって、ほのじろく浮かぶ花を見つけ、無風流な話だが、懐中電灯の光で照らしだした▼白い花びらには淡い紅がにじんでいた。その紅が次第に濃くなってゆく。月光を吸って血に染まり、最後は血みどろになってしおれる、という風情である。植物の図鑑にはよく「しぼむと紅色になる」とあるが、正しくは「紅色に変わりながらしぼむ」だろう▼『花の色の謎』を書いた信州大の安田斉教授にたずねると「最後まで美を誇ろうとするのか、植物はきまぐれにいろんなことをやるんでしょうね。花びらが白から紅に変わるのはアントシアン類の色素がでてくるからです」ということだった▼雲が走って、月が姿をみせると、クチナシの白、夜顔の白、それに白いキキョウの花が浮かびあがる。今ごろの季節になると、とりわけ白い花にひかれるのはなぜだろう。絹雲を恋うように、体内の季節時計が涼しげなもの、清澄なものを求めだすのだろうか▼だが、私たちがいう白い花は「実は完全に白いのではなく、ごく薄い黄色といったほうが本当である」という安田さんの指摘はおもしろい。純白と思える花を、たとえば白砂糖と比べると、淡い淡い黄であることがわかる。私たちはものごとを黒か白かでわりきりたがる。白い花を見る時にも、つい純白志向が働くのだろう。 東京脱出 【’85.8.9 朝刊 1頁 (全868字)】  雑誌『BRUTUS』が「東京脱出」の特集をしている。もはや東京にこだわっている時代ではない、空間も遊びも仕事も、東京の数倍の快適指数をもつ都市に住むことを提案する、といううたい文句がいい▼雑誌『ダカーポ』も「東京ばなれ」の特集をし、田舎の貸家・売り家の情報を流している。脱東京はいまや、世の中の流れなのだろうか▼東京を去って北海道の富良野に住みついた倉本聡さんが「東京を離れて初めて、これまで東京が日本であると錯覚してたんだなあということがわかった」と語っていた。長く東京に住んでいると異常を異常だと思わなくなる、というところが恐ろしい。倉本さんのいう「錯覚」を打ち破るためにも、そして東京の再生のためにも、若い人たちの東京脱出が盛んになるのは結構なことだ▼『BRUTUS』の報告によると、札幌のコンピューター関連企業で働く若者たちが地の利を並べている。(1)通勤地獄がない(2)同じ家賃で東京の3倍の面積の事務所をもてる。住宅も安い(3)テニス、ゴルフをはじめあらゆるスポーツを手軽に楽しめる(4)街の人びとは新しいものごとに積極的である。つまり東京よりもはるかに快適指数が高い、という判断だ▼大都会脱出組には大都会ではえられない「快適さ」を求めるものがあり、同時に大都会にはない「不便さ」を求めるものがある。シンセサイザー奏者の喜多郎は、長野県のかやぶきの家に住み、朝は畑仕事をする、という生活を送りながら、虫の音、鳥の声に耳を傾けている▼『兎の眼』の作者、灰谷健次郎さんも淡路島の山の中でくわをふるい、自給自足の生活を送っている。土をいじりながら、都会人の神経がいかにおかしくなっているかをしみじみ考えるという。土とのつきあいを失った生活の異常さに私たちはなかなか気づくことができない▼東京の人口は約1190万人になった。これだけの人びとがひしめく都会というのは、尋常ではない。 「真宗にとって『靖国』問題とは」【’85.8.10 朝刊 1頁 (全851字)】  筆者の手もとに「真宗教団連合」の「真宗にとって『靖国』問題とは」という小冊子がある。一読して、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派など10派の考え方がきわめて明快にわかった▼戦没者に対する国の追悼は靖国神社でといわれていますが、なぜ神式でなければならないのか、という問いにこう答える▼「国が神式で行うことがそもそも間違いで、神式でなければならないなんて、とんでもないことです。戦没者追悼の国家的施設としては、いかなる宗教にも立脚しないことが条件で、そのような施設で初めてすべての国民がそれぞれの信仰・信条にもとづいて自由に参拝できるのです」▼小冊子はさらにいう。(1)戦死がたたえられ、「偉業」であるとされてはならない。国家の犯した戦争というあやまちが、戦没者をたたえることで正当化されてはならない。(2)靖国神社にはA級戦犯も合祀(ごうし)されている。こうなると、戦争賛美が続いているとしか思えない▼(3)靖国の国家護持や公式参拝は国家神道の復活に道を開く。戦前、神祇(じんぎ)不拝の立場に立つ真宗教徒も、時には、非国民とののしられた。脅迫まがいのいやがらせは今もある▼真宗だけではない。新日本宗教団体連合会も、公式参拝への動きに「苦痛と悲しみを覚える」と批判している。だが、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」はやや強引な形で、公式参拝の呼び水になる報告書を作った▼報告書を詳細に読むと、さすがに意見の対立のあったことがわかる。公式参拝は違憲だという主張があった。当然だろう。国際的な非難を心配する意見もあった。A級戦犯の合祀を問題にする意見もあった。当然である。その当然の主張には耳を傾けず、中曽根首相は、公式参拝を強行し、国家護持への既成事実をつみあげようとするのか▼「残念だ無念だと皆言う如く兵士の墓は古りて傾く」(高杉英俊)。朝日歌壇にあった歌だ。 上海の開放 【’85.8.11 朝刊 1頁 (全853字)】  外国の旅では、街角で人の動きを眺めているのが楽しい。上海では、美容院の行列があった。ジーンズの娘さんが行く。子を肩車にした父親が行く。手ばなをかむ布靴の女性がいる▼プラタナスの木陰に熱烈抱擁組の姿がえんえんと続くのは、住宅難時代の図柄でもあるだろう。1つのベンチに必ず2組ずついるのもおもしろい。車が自転車の群れをかきわけて行く道路わきに、青い服の交通おじさんが立って「慢(ゆっくり)」と書いた旗を振っていた。慢の字は、中国よ、そんなに急いでどこへ行くと訴えているようにもみえた▼上海の開放ぶりは一見、遅れているようにみえるが、その建設ラッシュは相当なものだ。自分の関係している建設中のビルを数えあげる人がいた。「外資系のホテルや銀行の建設など、100億円以上の仕事を4つも5つも持っています。こんなに一斉に建てていいのかなという気持ちがあります」。そんなさめた見方だった▼経済特区・深センの変化はもっと劇的だ。5年前は人口わずか3万の小さな農村だった。そこが30万人にふくらんだ。猛スピードである。五通一平、つまり道路、水道、電気、航路、通信を開き、建築用地を平らにする政策をとり、高度先端技術の導入が進められている▼「都市のスピード化はぼくたちの生活をスピード化しました」と、深センで働く青年は誇らしげにいった。ここに集まる若者たちは、高い給料をとり、ステレオをもち、熱心に技術や外国語を習得し、ディスコで踊り、それでいてなお「自分たちは遅れているという緊迫感」から逃れられないという。開放によって流れこんでくるモノの刺激がさらに人びとをかりたてる▼上海で会った知識人は憂いを隠さなかった。「田に水を呼ぶのはいいが、外側の水位が高すぎるとセキを切った水はすごい勢いで流れこみ、田を水びたしにしてしまう」。ほとばしりだしたものを抑えるのは容易なことではない。 ネコの時代 【’85.8.12 朝刊 1頁 (全845字)】  世はネコの時代、ネコが大当たりする時代だという▼大阪・北浜の三越でいま、世界のネコ展が開かれている。海外の品評会でグランプリをとった“名猫”や珍種が何十匹と集められている。これがなかなかの人気で、毎日、夏休みの親子づれ客などでいっぱいだ▼実はこの催し、ことし4回目だが、昨年はざっと3万5000人、例年同じように開くイヌ展の2倍以上の客寄せをした。そこでことしは、1週間の会期を2週間に延ばしている▼なぜいまネコの時代なのか。「人間にとって本当に豊かな生活とは何か、それをネコを通して考えよう」という全国のネコ愛好会「にゃん友会」(本部・大阪)によると、ネコの魅力はまず、単身生活者であることにある▼ネコはめったに集団生活をしない。イヌやサルと同様、なにかといえば群れたがり、また群れなければ生きにくいのが現代のヒトなのだから、これはまことにうらやましい。ほえたてることもなく、ほえたてられることもなく、ネコはいつも、ひとり静かに自分の生活を楽しんでいるように見える▼こんなふうにいう人もいる。忠犬ハチ公の例もあるように、イヌは命令者に絶対服従する。連帯主義、会社主義、モーレツ主義時代のサラリーマンがこれに似ている。ネコはちがう。そう簡単には飼い主に従わないし、べたべたとすり寄ったりもしない。気むずかしく、我が強く、そしてツンとすました貴族性、これが個性派時代の現代にぴったりだと▼無用性を買う人もいる。日本には「ネコよりまし」ということばがあるくらい、昔からネコほど役に立たないものはないとされてきた。遊びの時代、ナンセンスの時代には、その役立たずのところがまた魅力だという▼プロ野球のタイガース・フィーバーにもネコ時代説がある。トラがネコ科だからというのだが、これには強さと弱さの、くるくる変わる「ネコの目」の魅力があるのかもしれない。 524人乗りジャンボ機の悲劇 【’85.8.13 朝刊 1頁 (全837字)】  なんということだろう。524人の命は炎上機と共に散ってしまったのだろうか。長野・群馬県境の空には炎と煙がひろがったという。高速大量輸送時代の悲劇は、私たちの身近にあった▼ジャンボ機は、午後6時39分には、機体の右最後部のドアが故障した、と連絡している。緊急降下をはじめた時の、機内の乗員、乗客の混乱とその胸の内を思う▼「飛行機が1台、どこかの空で、この夜の深さの中で、危険に瀕している。機上には人間が、甲斐もなくあがいている」とサンテグジュペリは『夜間飛行』の中で描いている。「宝物のようにたっぷり集められた星に交じって……死刑を宣告されて、さまよっている」とも。ジャンボ機は、北へ向かってさまよいながら、力つきたように山中に墜落した▼民間航空機の事故というと、すぐ思いだすのは33年前の「もく星号」事件である。いま調べてみると、この時の死者は乗員、乗客あわせて37人、となっている。当時としては大事故だったのだが、今回の乗員、乗客は524人(ほぼ満席)である。いかに急速に大量輸送化が進んできたかがわかる▼空の高速化、大量輸送化で旅行は便利になった。だがひとたび事故が起これば、もく星号時代の十数倍の人びとの命にかかわることになる▼後部ドアはなぜ故障したのか。後部ドアが吹き飛べば、機内の気圧が下がるから緊急降下せざるをえない。吹き飛んだものが水平尾翼にぶつかる恐れもある。整備や点検に手ぬかりはなかったのか▼欧州訪問に向かう中曽根首相一行の日航特別機で燃料パイプに油漏れが発見され、1時間余り出発がおくれたこともある。これも直前に発見されたからよかったが、「念入りに整備したはずなのになぜ」という疑問が残った▼おりからの帰省ラッシュだ。たとえどんなに乗客を待たせ、怒らせることがあっても、安全最優先の原則を貫いてもらいたい。 全米女子アマゴルフ優勝の服部道子さん 【’85.8.14 朝刊 1頁 (全838字)】  全米女子アマチュアゴルフで、高校生の服部道子さんが優勝した。こんな大きな選手権に優勝してしまって、となにか申し訳ないことをしてしまったような口調がおかしかった▼まだ16歳である。167センチの長身がむちのようにしなる。だから見た目よりもボールがよく飛ぶ。まっすぐに、正確に攻める。沈着で、集中力がある。若いけれども、心のたかぶりや動揺を抑えることの大切さを知っている、という評があった▼全米女子プロに優勝した樋口久子さんが「とにかく、うれしくて、うれしくて」と喜びを全身で表したのは8年前である。3年前、やはり米国のツアーで優勝した岡本綾子さんは「今日は眠れません」と語った。両選手に比べると、道子さんの喜びの表現にはさめたところがある▼日本最古の神戸ゴルフ倶楽部ができたのは1903年である。当時はまだ、異人さんのスポーツだった。人力車で六甲にのぼる人をみて「西洋人は、雨が降ろうが日が照ろうが、寒かろうが暑かろうが、何だかえたいの知れぬ遊戯に夢中になっている。あの遊びは金になるに違いない。きっととばくでもしているんだろう」と土地の人はうわさをした(西村貫一『日本のゴルフ史』)▼1907年には、神戸の倶楽部に小倉末子さんという女性ゴルファーも現れている。当時の小倉さんはまだ15歳だった。だが、女性は正式の会員にはなれず、そのことが再三、問題になっている。「地震の中心地帯が六甲山脈にあるそうだ。その原因は六甲婦人競技にあり」と女性のゴルフ熱をからかう記事がでたこともある▼今、日本のゴルフ人口は1200万人といわれている。とくに最近は、女性と中、高校生のゴルフ熱が盛んだ。ある企業がおかかえで女子プロを育てる計画を発表した時、400人もの応募者があったという▼国際舞台で活躍する16歳の少女を生むまでには、長い歴史がある。 『女たちの8月15日』 【’85.8.15 朝刊 1頁 (全860字)】  旅の随筆家、戸塚文子さんは敗戦前後の飢餓の影響で胃袋が縮んだという。今でもレストランでだされるものの量が多いと食欲がとまる。幽鬼時代の後遺症だ、とご自分ではいっている。テレビの画面にアフリカの飢餓の子らが映しだされると、確実に胃袋が痛む。あの空っぽの胃袋の痛み、だという▼『女たちの8月15日』という本には、戸塚さんはじめ約20人の女性が敗戦体験を書いている。胃袋にこたえた体験でものをいうことの強さを思った▼戦中戦後の人間群像を描き続ける上坂冬子さんも、野山の草をむしって飢えをしのいだ世代だ。あのころの「全体主義の快感がいまもこの身のどこかに潜んでいるのではないか、紙一重で再びあの快感に陶酔するのではないかという恐れがつねにある」という率直な告白があった。「真の敵はわれわれ自身のうちに」という警句を思いださせる発言だ▼戦災で孤児になった高木敏子さんは、焼け跡に立って思う。「負ける戦ならもっと早く負けたといえばよかったのに。あと10日早ければお父さんだけでも助かったのに。5カ月早ければお母さんも妹たちも死なずにすんだのに。軍隊の偉い人たち、今ごろ降参だなんて」。この時の憤りがのちに『ガラスのうさぎ』を書かせた▼明治生まれの作家田中澄江さんには加害者の思いが重なる。「自分も国防婦人会の支部長であった実家の母の為に、せっせと出征軍人を送る歓送の辞を書きつづけていたではないか。愚挙の極みという罵りは、自分自身にこそ向けられるものであった」▼体験記を読みながら、ギリシャの古典劇『女の平和』(アリストパネス)を思い起こした。「戦争は男の仕事」とうそぶく男たちを、女たちは性的ボイコットで追いつめる。そしてこういうのだ▼前の戦の時は私たちはおとなしく、男の人たちのすることを我慢しておりました。でも今度は、私たちがあなた方の過ちをうまくなおしてあげられるでしょう、と。 靖国神社 【’85.8.16 朝刊 1頁 (全849字)】  「靖国の宮にみ霊は鎮まるも/をりをりかへれ母の夢路に」。戦時中の国民歌謡の1つだ。作詞は大江一二三、作曲は信時潔である▼大江一二三は職業軍人だった。中国で若い見習士官が戦死した時、ポケットに母親の写真があった。裏に「お母さん お母さん」と24回も繰り返し書かれていた。それを見た時の思いがこの歌になったのだろう▼一二三の子、大江志乃夫さんは少年のころ、「をりをり」に疑問をもった。母親思いだった青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親のもとに帰ることを、国家はなぜ認めようとしないのか。国家はなぜ死者の魂までも独占するのか▼後年、日本近代史の研究者となった大江さんは、その著『靖国神社』の中で書いている。「戦争による犠牲者を国民にたいして悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることもなく、むしろ逆に栄光であり名誉であると考えさせるようにしむけた存在が靖国神社であった」▼靖国を「国民統合のための政治的・イデオロギー手段」とする考え方は連綿として続いている。だからこそ、中曽根首相の「(靖国のようなところがなければ)だれが国に命をささげるか」という発言がでてくる▼戦後40年の8月15日、首相は公式参拝にふみきった。死んで行った兵士たちを悼むことに、だれが反対しよう。個々の人、個々の政治家が社寺で戦没者を悼むのは、人間として当然の行為だろう。だが、首相の靖国公式参拝は、それとは明らかに違う▼第1に、違憲の疑いがきわめて強い。公式参拝を合憲とする根拠は希薄である。第2にそれは無謀な戦争を起こした指導者たちに尊崇の念を表し、「偉業」をたたえることにもなる▼閣僚が戦争犠牲者の鎮魂のための公式行事を願うのなら、無宗教の平和祈念堂を建てればいい。そこでの行事は、戦災死を含む戦没者、アジアやオセアニアの犠牲者を悼み、不戦を誓うものでなければならぬ。 津山市立「鶴山塾」 【’85.8.17 朝刊 1頁 (全848字)】  岡山県津山市に去年10月、登校拒否児のための市立の塾ができた。塾舎が城跡にあるので、その名をとって「鶴山(かくざん)塾」という▼学校にも家庭にも居場所がなくて苦しんでいる子どもたちがいるのに、同じ町に住む大人たちが知らん顔でいていいのか。教師が悪い、親が悪いと非難しているだけでは、無責任ではないのか。昔は、だれもが近所の子に、ものを教えたり、しかったり、相談にのってやったりしたものだった。もう一度、あの精神に返ろう▼市の呼びかけにこたえ、140人もの市民が「手つだおう」と申し出た。塾長はベテランの教師から選ばれたが、あとはこうした普通のおじさん、おばさんたちの協力で運営されている▼はじめは大人への不信感から、迎えに行っても来るのを嫌がる子が多かった。しかし、自分たちのことを親身になって心配してくれているらしいと分かって、5人、6人とやってきはじめた。「僕と同じような子がいるから、誘ってくるよ」と、子ども自身が仲間を連れてくるようにもなった▼ここでは勉強しろとはいわない。教科書を持ってきて勉強しだす子がいると、「そんなことしなくて、いいんだ。みんなと遊んだり、話をしたり、仕事をしたりしようよ」という。学校の生徒である前に、子どもはまず子どもであってほしい。それが、この塾の願いなのである▼始まってまだ10カ月。大人たち自身、迷ったり悩んだりしながらの日々だという。だが、何の報酬があるわけでもないのに、よその子のために苦労している人々がいる。その事実が貴い▼今月26、27日、この津山市に、全国各地でこうした学校の外での、いろんな教育・学習活動をしている人たちが集まり、経験を発表し合う公開シンポジウムを開く。教育改革とは、上から下りてくるものでなく、このような大人たちの心が結びついて、はじめて可能になるのではないか、という気がする。 マダガスカル島にも飢餓救援を 【’85.8.18 朝刊 1頁 (全859字)】  アフリカ大陸の東側のインド洋に島国マダガスカルがある。本間良子さん(46)はそこのカトリック修道院の院長だ▼と同時に社会福祉事業センターの責任者として、飢えとひどい生活環境に苦しむ人々の救済という大仕事に向かい合っている。栄養失調の子供たちにミルク、米、とうもろこしの粉を配って歩く。時にいもなどを使った離乳食の作り方や薬草の見分け方などを教えてきた▼永住権も得て活動は5年あまりになったが、状況はよくない。「食べる物がなくなり、声もなく死に入る幼児たちが首都タナナリブ近辺の部落にもたくさんいます。次に生まれる時には、せめて今日を生き延びる食物と明日へ生きられる望みをと訴えているようです」▼知人にあてた手紙に本間さんはこう書いた。アフリカの飢えにたいする救援活動も、モザンビーク海峡をこえたマダガスカルにまではほとんど及ばない▼「できれば、悪路を走れる頑丈なトラックを」と切実な要請が伝えられた。約1000戸の家庭に救援物資を配るための車だ。窮状を知った人々が「シスター本間を助ける会」をつくり、支援の輪を広げた▼原爆被爆者からも寄付があったし、全国の老人クラブが集めたアフリカ基金の一部が提供される手はずになった。自動車メーカーは価格、輸送面で協力した。こうして「福祉センター」と書かれたトラックがマダガスカルに船出した▼「今年は雨期に入ってもタナナリブには一向に雨の気配はなく、野草は立ち枯れ状態です。これで農村の人たちは収入を断たれるのです」「きのう配給した粉ミルクがもうなくなっている、と報告があった。市に行ったお母さんが、ミルクを茶さじ1杯5フランで売り、塩や砂糖を買って戻るのです。赤ちゃんのもらったミルクが家族全体の数日間の食料になるのです」▼実情を知らせようとはじめたマダガスカル通信の1節にある。市井の人たちの「1粒の麦」を声援する気持ちはとうとい。 従軍慰安婦 【’85.8.19 朝刊 1頁 (全859字)】  数日前の「8月15日」、千葉県館山市の「かにた婦人の村」(施設長、深津文雄)の丘で小さな儀式があった。従軍慰安婦と呼ばれた女性たちの鎮魂の集いだった▼4、5人の若者が「鎮魂之碑」と書かれた木の柱をかつぎ、海のみえる丘を上った。車いすの城田すず子さん(仮名)が続き、さらに100人近い「かにた」の女性が続いた。いちどは狭斜の地に身をおいた人たちである。セミが鳴き、夕日をあびた絹雲が淡いさんご色に染まっていた▼「兵隊さんや民間の戦没者は各地でまつられるけれど、中国、東南アジア、太平洋諸島で戦時中、性の提供をさせられたあげく死んで行った娘たちはまつられない。自分には今でも昔の仲間の姿が夢に浮かぶ」▼特要隊と呼ばれる慰安婦だった城田さんがそう訴えたことがある。私は女の地獄を見た、と。深津さんは答える言葉がなかった。考えぬいたあげくの、第1の歩みがこの日の集いになった▼60をすぎた城田さんに会った。話はパラオ諸島での特要隊のことになった。「台湾の娘さんがカエリタイカエリタイといっていた。朝鮮半島の娘さんも、カエリタイヨオッカサンオッカサンといっていた。何人もの仲間が爆撃で死んだ」▼「外地」から戦地へだまされて連れて行かれた女性の数はわからない。日本の女性を含め、彼女たちは軍需物資なみに扱われた。軍馬と共に船底に押しこまれて運ばれることもあった(千田夏光『従軍慰安婦・慶子』)▼軍隊の暗部を今さら、という人もいるだろう。だが軍需物資として消耗品のように捨てられた女性たちの存在はやはり、戦争史に刻まれねばならぬ▼「心の奥の奥にかたまっていたものを吐きだすことができた」。鎮魂の柱を建てた後で城田さんがいった。「こんな体になっても私が生かされてきたのは、仲間のことを証明するためではなかったかと……」。語っているうちに涙が噴きだした▼木の柱は、いずれは石碑に変えられる。 日航機乗客の遺書 【’85.8.20 朝刊 1頁 (全842字)】  落ちていく日航ジャンボ機のなかで、乗客のひとり大阪商船三井船舶神戸支店長の河口博次さんが手帳に走り書きした家族への遺書は読む者の心を深く揺りうごかす▼「どうか仲良くがんばってママをたすけて下さい」と子どもたちを励まし、夫人には「こんな事になるとは残念」と別れを告げながら「幸せな人生だった」と感謝の言葉を残した。突然、襲った死の運命に対する恐怖と無念の思いを超えて、家族への強い愛情が伝わってくる▼遺書にもあるとおり、ジャンボ機は急激に降下し、揺れていたのだろう。筆跡も揺れている。異常事態が起きてから墜落までの短い時間、混乱した状況のなかで、河口さんを支えたのは家族への思いだったのではないか▼チッソ・ポリプロ繊維部主任の谷口正勝さんも、「子供よろしく」と奥さんに遺書を残した。おそらく、ほかにも遺書を書いた人はいるはずだ。生と別れる最後の瞬間に、家族に自分の気持ちを伝えたい、その言葉が少しでも残された者の支えになれば、とだれもが考えたに違いない▼大きな恐怖に突如として襲われたとき、人間はパニックにおちいり、自分を見失い、自分を抑えきれなくなりがちだ。大地震やビル火災などと比べても、出口のない飛行中の航空機の異変は恐怖の極限状況といってよい。そんななかで、ジャンボ機の乗客たちの対応は見事だった▼4人の生存乗客のひとり日航アシスタントパーサーの落合由美さんの証言では、乗客は乗員の指示に従い、おたがいに助け合ったという。川上慶子さんは、墜落直後、まだ息があった妹を元気づけながら救助を待った。12歳の少女のけなげさに胸をうたれる▼こうした事実の一つ一つが、事故のいたましさを語り、安全への信頼が裏切られたことへの怒りをさそう。「本当に残念だ」「もう飛行機には乗りたくない」という悲痛な叫びに、日航はじめ航空関係者はどう答えるのか。 ハレー彗星 【’85.8.21 朝刊 1頁 (全841字)】  お盆休みでひっそりとした先週末の東京では、夜空の星がよく見えた。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルが「夏の大三角」をつくって、鮮やかに光っていた▼大都会が活動を休み、自動車の排ガス、工場の排煙、光の量が減ると東京にも、星空がよみがえるのだなと思う。ことしの秋から来年の春にかけて、この空に、ハレー彗星(すいせい)が長い尾をひいて、76年ぶりに、現れる▼無人探査機「すいせい」の打ち上げで、日本も、国際的なハレー彗星観測網に加わった。ハレー彗星に約20万キロの所まで近づいて、彗星がつくり出す、巨大な水素の雲を観測してくるのが任務だ▼欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ジョット」は500キロの至近距離に突っこんで、彗星の核撮影をねらうので、「カミカゼ・ミッション」といわれている。米ソも人工惑星を飛ばして、競争、協力しあいながら、彗星のナゾ解明に挑む▼前回、1910年にハレー彗星が地球に近づいた時は、地球にわざわいをもたらし、人類を滅ぼすという説が流され、人びとを不安にさせた。いま、そんなことを信じる人はいない。人間の知識と技術は格段に進んだが、宇宙の神秘に対する一般の関心は深い▼東京・三鷹の東京天文台は、日本電信電話会社と提携して「ハレー彗星テレホンサービス」を始めた。1日に1000人くらいが電話をかけてくるそうだ。彗星が地球に最も近づくのは11月下旬と来年4月上旬から中旬の2回だ。日本では、南の地平線近くを通るのと、明るさが6等星以下なので、よほど条件がよくないと、肉眼では見えにくいという▼技術の進歩の一方で、現代文明は大気をよごし、人間の目から星空を遠ざけてしまった。ハレー彗星がひとめぐりした間に起きた、もう1つの変化である。彗星が近づく日には、せめて町の余分な灯を消して、空をみつめてはどうだろう。 夏の甲子園閉幕 【’85.8.22 朝刊 1頁 (全851字)】  甲子園の決勝戦が終わったあとでPL学園の中村監督が「選手にも、私にも重圧がありました」と語っていたのが耳に残った。まわりから最高の目標とみなされ、勝つことをむしろ当然とされながら、勝ち続けることはむずかしい▼引退した柔道の山下6段も、そうした立場に置かれた者の心理的な重圧を語り、それをはねのけるには、ふだんの練習を重ね、自分が納得できる試合を心がけるしかない、といっていた。PLの選手たちは、みごとにそれを成し遂げた▼すぐれた素質の選手をそろえ、恵まれた環境を整えるだけで、甲子園の優勝が成るものではないだろう。PLチームには技と心を鍛え抜いた者のたくましさがあった▼1点差で勝敗が分かれた試合が13を数える。このうち、PLと宇部商の決勝戦をふくめてサヨナラ・ゲームが8試合もあった。力量が接近していたことを裏付けている。広島や愛知など強い伝統を持っていた地域のチームが早く姿を消し、山梨、滋賀などのチームが勝ち進んだことも、高校野球の新しい流れを感じさせる▼開校して3年目の滋賀の甲西高校の活躍は甲子園にさわやかな風を吹きこんだ。練習はグラウンドの石ころ拾いから始まった。奥村監督は選手に「校舎にたとえたら、お前らは土に埋まった土台や」と言いきかせたという。こうした言葉から選手たちは多くのものを学びとったに違いない▼ことし、夏の高校野球には全国で3791校、約6万人の選手が参加した。大半は、くやしい思いをかみしめて、高校の野球生活を終わる。石ころを拾いながら練習を再開した選手もいるだろう。優勝旗の向こうに、青春を燃焼させた若者たちがつながっている。それが甲子園の魅力だ▼戦後40年目の夏は、日航ジャンボ機の墜落事故も加わって、どこか重苦しかった。そこに平和な透明感をただよわせていた甲子園が終わって、あす23日は「処暑」である。秋が近づいている。 政治家の「企画の夏」 【’85.8.23 朝刊 1頁 (全847字)】  お盆の3日間に町内で新盆を迎えた約200軒を全部回って仏壇をおがんできた、と町長がいったら、同席の代議士が「キミはまだいい。ボクはあっちの町、こっちの市と広いのだから。途中2度もワイシャツをとり換えたりして」▼海外視察の間だけが夏休みで、残りは日々選挙活動という政治家、肉体的にもきついが、もっと大変なのがお金だ。民社党のある幹部は「葬式はまだいい。焼香の時間だけだし、香典も1、2万円つつめば、そう恥ずかしくない。いやなのは結婚式だ。披露宴がだらだら長いし、上座にすわるので5万円は出さないと」。冠婚葬祭は、1日平均2、3件はある。月のかかりは十分に推測できる▼後援会の企画もエスカレートするから、そちらの経費もふえる。7、8年前は日帰りのバス・ツアーが主流だったが、いまはその程度では人が集まらない。北海道のある代議士は船を借り切り、対岸の青森のねぶた祭りに出掛ける企画で人気を得た。「今年は1000人の予定が800人に減った。もう4年になるので、次の趣向を考えねばと思っている」▼兵庫県のある代議士は「スター誕生・カラオケ大会」が売りもの。地区予選―本大会のシステムも定着し、今年は2万5000人が参加したそうだ。アユのつかみどりで家族連れをねらう企画もある▼草野球にちびっ子野球。高齢者向けにはゲートボール。カップを出したり、優勝旗を贈ったり。「政治の演説よりも、人気が出る」という▼会費はとるが、実費の相当部分を代議士が負担するケースが多い。4、5月、東京のホテルでは連日資金集めのパーティーが開かれたが、「企画の夏」に備えてということだったのだろう。1000万単位の金を集めても、十分ということはない。そこで政治資金規正法をもう少し甘くせよ、という大合唱になる▼近く、政治資金の59年分の収支が公表される。政治家にたかる側も反省したい。 武蔵野市福祉公社 【’85.8.24 朝刊 1頁 (全859字)】  全国初の試みとして話題になった武蔵野市福祉公社は、発足して5年目になる。はじめは15世帯だった契約世帯も、今は132世帯にふえている。公社を支えてきた人びとの言語に絶する苦労が、この試みをどうやら軌道にのせたようだ▼公社実現の推進者、山本茂夫さんが回想している。武蔵野市内の広壮な邸宅に、70歳のひとり暮らしの女性がいた。現金収入はわずかな年金だけだった。特別養護老人ホームに入って亡くなった後、不動産が1億6000万円で処分された▼いくら不動産があっても死後に処分されたのでは、本人に1銭も入らない。生前に不動産を活用することができたら、あるいはもっと安定した老後が送れたのではないか。その思いが後日、福祉公社の構想になったという。公社の現場を詳述した早瀬圭一さんの『長らえしとき』にでてくる話だ▼看護婦訪問、弁当の配達、身の回りの世話、入院のつきそい……。公社はきめこまかなサービスを用意する。老人は自分の住む家や土地を担保にして、サービスをうけることができる。仏文学者の河野与一さん夫妻も契約者になり、俳優の藤原釜足さんも東京の杉並から移り住んで契約者になった▼みながみな、不動産を担保にしているわけではない。大半の人は担保方式をとらず、わずかな収入をやりくりして、現金でサービスを利用している。契約者はむしろ低所得者にひろがっている▼むろん、難問も多い。今回の市の検討チームの報告では、貸付額がふえ、一般会計からの持ち出しが1億6000万円にのぼっているそうだ。担保になるマンションの評価額低下も頭が痛い▼だが、「武蔵野方式」の誕生は、多くの心ある人びとを刺激した。たとえば「神戸ライフ・ケア協会」が生まれている。実費程度の奉仕料で老人世帯の掃除、洗濯、通院のつきそいなどを手伝う組織だ。この7月、ここのボランティアの活動時間ははじめて2000時間を超えたという。 ロボットの人間化 【’85.8.25 朝刊 1頁 (全849字)】  知能ロボットの開発でいちばん難しいことは何か。システム工学の専門家にいわせるとそれはロボットに「常識」をもたせることだという。なるほど、人類が長い間かかって蓄積してきた常識を教えこむのは並大抵のことではないだろう▼常識がないために、ロボットは人間だったらやるはずのないことをやってしまう。科学万博の情報通信システムは、最初のころ、入場者がカバンなどを後ろへ振った場合をとらえ、退場者の数にも加えてしまった。ロボットがもっと破壊的な行為をしでかす場合もあるだろう▼『科学朝日』の9月号にある寺野寿郎法政大教授の「あいまい工学とはどんなもの」という話を興味深く読んだ。昔の科学の方法は、はっきりしないものを排除し、明確なものだけを相手にしてきた。いま、科学技術の最先端にいる学者から「あいまいな、はっきりしないもの」を見直すという意見がでているところがおもしろい▼常識とは本来、あいまいな部分が多い。人間の思考や感情は、多くの場合イエス・ノーを断定しない。そのあいまいさこそ真実に近いことが少なくないのだ。「だから二値論理だけのコンピューターでは人間らしい思考はできません」と寺野教授はいう▼ロボットに常識をもたせ、人間の思考を代行させること、つまりロボットの人間化をはかるにはあいまいさを排除してはならない、というのだ▼そうであれば、人間がロボット化し、コンピューター人間になるのを防ぐためにも、あいまい領域を大切にする作業が必要だろう。ものごとを黒か白かで割り切る。黒と白の間の灰色の部分を切り捨てる。○×教育の恐ろしさは、そういうロボット的な人間を生むことだ▼文章の世界に「あいまいさ」を求めたのは谷崎潤一郎だった。文章は「余りはっきりさせようとせぬこと」が肝要と文豪は説いている。この教訓をもっぱら悪用してきたのは政治家諸氏、ということになろうか。 森林文化 【’85.8.26 朝刊 1頁 (全849字)】  ほの暗い山道に咲く水引の花の赤さは、なんといったらいいのだろう。夕焼け時の茜(あかね)色の精を一点に閉じこめたような、強い光をおびた色だ。「水引のまとふべき風いでにけり」(木下夕爾)▼ビル街で仕事をしていると、ときどき濃い緑の中に身をおきたくなる。クズやヌスビトハギの咲く近郊の丘陵を、なんということもなく歩きたくなる。森林には、心の深層部にある飢えをいやしてくれるものがあるのだろうか▼「森林は生きる証(あかし)の宝庫である」と筒井迪夫東大教授はいっている。その筒井さんたちが取り組む「森林文化の視角から見た林業政策の研究」に今年度の朝日学術奨励金が贈られた▼森林文化を考えるカギとなる言葉に入会(いりあい)がある。昔、山村の人びとは、山から草やタキギをとり、そのかわり山の維持に心を配った。共同で利用し、共同で心を配るならわしがあった。山と木と人とは一体であり、森林は共有財産だった。そこに入会の精神があった▼しかし、国が国有林をもっぱら木材生産の場とし、経済優先の政策をとるようになってから、入会の精神はすたれ、山が荒れはじめた。山の森は、林業の場としてだけではなく、環境保全の場としても考えたい。そのためには山村住民と都市住民の入会を考えるべきだろう。それが筒井さんたちの研究の主題だ▼最近は、山村と都市のつきあいが盛んになっている。草刈り十字軍的な活動がある。学校林の活動もある。山村の味の産地直送も、分収育林事業も、両者のつきあいを前提にしたものが多い。こういう動きの中から、現代版の入会が育ってゆくように思う▼尾崎喜八は、森に内在する「富」を美しく歌いあげている。「名も無く貧しく美しく生きる/ただびとである事をおまへもよろこべ/しかし今私が森で拾った1枚のかけすの羽根/この思ひ羽の思ひもかけぬ碧さこそ/私たちにけさの秋の富ではないか」 金属疲労 【’85.8.27 朝刊 1頁 (全848字)】  クリップの曲がった部分をいちど伸ばしてみる。そして同じところを何回も何回も曲げたり、伸ばしたりしていると、プツッと切れてしまう。これが金属疲労による破壊である▼日航ジャンボ機の事故が金属疲労によるものだったのかどうかは、まだわからない。だが、尾翼下の隔壁に疲労が蓄積して、ついに壊れたということは十分にありうることだ▼本紙の科学欄に「破滅への年輪」の写真がのっていた。金属疲労で破壊されたアルミニウム合金の破断面を示す電子顕微鏡写真だ。そこには、見事なほど整然とした「年輪」のようなものがみえる。金属疲労の痕跡である。ジャンボ機の部品にも、このような痕跡が刻まれているかどうか▼金属疲労という言葉はすでに19世紀のなかば、ヨーロッパの鉄道事故の原因調査のさいに使われていたそうだ。金属疲労の影響を少なくするには頑丈なものにすればいい。だが、航空機は頑丈にしすぎると、重すぎて空を飛べない。頑丈にすることと軽くすること、この背反した命題を航空機は宿命的に背負っている▼事故を起こしたジャンボ機は、7年前に「しりもち事故」を起こし、問題の隔壁の一部が壊れ、下半分を新品にとりかえたことがある。その時の後遺症で、金属疲労が起こりやすい状態になっていたのかもしれない。事後の点検は万全だったのかどうか▼金属疲労は(1)外見上の変化はなくても蓄積される(2)小さな亀裂は次第にスピードをましながら大きくなり、ある瞬間一気に壊れる、という性質をもっている▼このことは、金属だけではなく、政党、企業を問わず、あらゆる人間の集団にもあてはまる。外見上はよくわからなくても、組織疲労とでもいうべきものがひそかに進行している場合がある。組織を点検し、小さな亀裂を発見する知恵を持ちたい。「1オンス分の慎重さは、1ポンド分の機知に値する」というイギリスのことわざがあった。 台湾人の元日本兵 【’85.8.28 朝刊 1頁 (全837字)】  台湾人の元日本兵、李光輝さん(日本名は中村輝夫さん)がインドネシアの捜索隊に救出されたのは、11年前だった。戦後約30年間、李さんは「皇軍の兵士」としてモロタイ島の奥地に隠れていた。日本人記者団に、いつ敗戦を知ったかと問われて答えた。「知らなかった。知ったのは今だよ」▼その李さんに日本政府が支払ったのは約6万8000円である。あまりにも少なすぎる、という批判もあって、政府と閣僚たちは約350万円の見舞金をおくった▼「中村輝夫の悲劇は彼だけの悲劇ではなく、その背後に幾千の台湾元兵士とその家族が連なっている」。台湾を訪れた作家の佐藤愛子さんはそう書いている▼戦時中、約21万人の台湾人が日本の兵士、軍属としてかりだされた。約3万人が戦死した、といわれている。戦死者、戦傷者に対して、まだ何の補償もなされていない▼補償請求に対する東京高裁の判決は「控訴棄却」だった。法の壁は冷たかった。「お国のために倒れた台湾人の血も、日本人と同じで真っ赤なんですよ」。軍属として左足を失った台湾の人が無念の思いをのべている▼判決はしかし、一方で、台湾の人たちの「不利益を解消するために力をつくせ」と異例の注文をつけている。40年の歳月がすぎている、何をもたもたしているのか、といわんばかりの強い調子である▼諸外国では大戦後、どの国もその国のために戦った外国人元兵士たちに対して年金、一時金を支払っている、と外務省も認めている。訴訟が起こされてからも8年がたっている。いまだに補償問題がたなあげになっているのはなぜか▼一方で、皇軍の兵士として靖国神社にまつり、一方で、日本人ではないからといって補償を怠る。こういう筋の通らないやり方が続いていることに、国政関係者は恥じいるべきではないか。中曽根首相は、戦前、戦中の総決算はおきらいなのだろうか。 「機長の妻」の立場 【’85.8.29 朝刊 1頁 (全843字)】  「機長の妻」の立場はさぞつらかろうと思う。墜落した日航ジャンボ機の高浜雅己機長の遺体は見つかっていない。「ほかにも遺体の見つからない乗客の遺族の方を思うと」という気がねから、高浜夫人は葬儀の日をのばしてきたそうだ▼夫人が遺族たちの視線を避けて、待機所に姿を見せなかったという気持ちもわかる。操縦ミスによる事故ではないとわかっていても、申し訳ないという日本的情感がそうさせるのだろう。漁船の遭難事故があるたびによく「乗組員の遺族の方に申し訳ない」という船長夫人の談話がのる。残されたもののつらさである▼今回発表されたボイスレコーダーの記録を読むと、機長は機長の、副操縦士は副操縦士の、機関士は機関士の、その他の乗員は乗員の、それぞれの責務に捨て身でとりくんでいたことがわかる▼「非常に冷静で最後までがんばっている」という専門家の評があった。垂直尾翼が崩壊し、方向舵(だ)がきかないという状態の中で、機長たちは最後まであきらめていない。悲劇的なのは、垂直尾翼が壊れるという決定的なできごとの正体が、機長たちにはわからず、暗中模索の状態を強いられたことだ▼「これはだめかもわからんね」というのは、羽田にぶじ戻るのをあきらめた、と解釈すべきか。その数分後には「ドーンといこうや、がんばれ」といっている。開き直ってしっかりやろう、と部下や自分を奮いたたせる言葉だろう。死に直面しながら、機長たちは力をふりしぼって操縦不能の巨体との格闘を続けた▼それにしても、と思うのは尾翼の崩壊というありえない故障が起こった時の、巨大機のもろさである。事故原因の究明は急いでもらいたい。だが同時に、決定的な故障があった時の二重三重の安全装置を考えることも大切だろう。たとえば墜落の直前になんらかの方法で激突を緩和させる仕組みの研究も、夢物語として退けるべきではない。 人びとの鳥とのつきあい方 【’85.8.30 朝刊 1頁 (全856字)】  北アルプス燕岳の縦走路で、友人がライチョウ(雷鳥)を見てきた。親鳥が3羽のヒナを連れてエサを探していた。「こちらも親子連れでとくと拝見させてもらった。登山客の作法がよくなったせいか、人の姿を見てもまことにおっとりとかまえていた」と友人がいう▼もともと、人を見て逃げ回る鳥ではないが、このごろは追い回したりする人が減って、いっそうものおじしなくなった、と山小屋の主人もいっている▼雷鳥は特別天然記念物で、いまは本州中央の高山に3000羽程度しか生息していない。山の開発でなわばりを失い、追いつめられて、一時は絶滅が近いといわれた鳥だ▼登山客が雷鳥の生息地近くにゴミを捨てると、ネズミが集まる。そのネズミを捕らえるキツネが現れるようになると、しばしば雷鳥も襲われる、ということがあった。しかし山のゴミも減り、人びとの鳥とのつきあい方もずいぶん上手になってきたらしい▼茨城県の藤代町に住む福間敏矩さんがアマサギのことを書いている(雑誌『ユリカモメ』)。6月のある朝、近所の人が1羽のアマサギを抱えてきた。たんぼのあぜで動けなくなっていたという。ぐったりしていて立つことができない。除草剤の影響かもしれない、と福間さんは思った▼スポイトで砂糖水を飲ませてやった。ミミズやカエルは受けつけない。ニジマスの一片を口に押しこんだら、食べた。奮闘のかいあって翌日には見違えるように元気になった▼このまま飛び立ってはひもじい思いをするだろう、もっと食べさせてやりたいと思っているうちに、アマサギは飛び立った。だが、かなたに飛んでから2度も家の上空に戻ってきた。そして別れを告げるよう舞い下り、やがて去った。その姿を見て、福間夫人は涙ぐんだ▼ただこれだけの話だが、鳥がなぜ戻ってきたのかを、あれこれ考えるのは楽しい。人はしばしば生きるために鳥を殺す。しかし鳥を助けて夢を得る場合もある。 防衛費のツケ 【’85.8.31 朝刊 1頁 (全874字)】  少ないものでもたくさんあるように見せる。これはまあ、上げ底文化の常だが、たくさんあるものを少なく見せる。これは難しい。巨額の買いものを、たいしたことはないじゃないか、と思わせる。これも難しい▼こういう難しいことは防衛庁長官の秘術に学ばねばならぬ。長官の手になると、なにしろ1000億円を超える大変な買いものでも、1億円足らずですみそうな錯覚を与えるから妙だ。手品みたいなものです▼いま話題のパトリオットという新型地対空ミサイルは、1個群で約1100億円もする高価な武器で、防衛庁はこれを6個群配備する計画だ。総額は約7000億円という巨額になる▼ところが、61年度の概算要求はとりあえず、頭金の8800万円だけである。この「とりあえず」がくせものなのだ。小川はやがて奔流になる。後年度負担という名のつけ払いは1000億円になり、7000億円になる。一度「とりあえず」を認めてしまえば奔流をくいとめる術はない▼F15戦闘機も新たに18機を買う。概算要求は2億4000万円だが、後年度負担は約2000億円にもなる。P3C対潜哨戒機だってそうだ。新たに12機を買うための概算要求はゼロだが、後年度負担は約1400億円である。すでに、過去に買ったF15、P3Cのツケは概算要求で約2500億円にもなっている▼とりあえずとりあえずといっているうちに、過去のツケは激流となって「1%枠」を吹き飛ばすことになるだろう。いや、吹き飛ばすことを暗黙のうちに歓迎するふしもあって、このあたりの長官、いや防衛庁幹部の芸の細かさは心にくいばかりである▼後年度負担そのものが悪いとは思わない。ただその計画にはたえず、一定の歯止めを考える抑制がなければならぬ。防衛計画の大綱にはこうある。防衛力整備は「そのときどきにおける経済財政事情を勘案し、国の他の諸施策との調和を図りつつ行う」と。これこそ防衛費突出への戒めではないか。 『火災と樹木との関係』 【’85.9.1 朝刊 1頁 (全851字)】  「つむじ風焔にむせて今ははや倒れたりけむひとりまたひとり」。関東大震災の日の本所・被服廠跡の惨状を土岐善麿はそう歌っている。私ごとになるが、筆者の両親はまだ幼かった姉と兄を連れて、被服廠跡に避難した▼大八車を吹き飛ばすようなつむじ風にあおられ、やけどだらけになり、遺体につまずきながら逃げまどった。あの炎の中で一家4人ともなぜ助かったのかふしぎだ、と母は今でもいっている。3万人を超える避難民がそこで亡くなっている▼そう遠くないところに深川・清澄庭園(旧岩崎別邸)がある。ここに避難した約2万の人の命は助かった。ほぼ同じ面積なのに、一方では3万人以上の命が奪われ、一方では2万の人が助かった。それはなぜだろう▼当時の林業試験場の河田技師と柳田技手が足で書いた『火災と樹木との関係』という綿密な調査報告が理由を明らかにしている。被服廠跡にはほとんど樹木がなかったが、清澄庭園にはゆたかな緑と池の水があった。周囲はれんが塀で、それに沿ってシイノキなどの植え込みがあった。内側に松やモミジなどの樹林があり、緑に守られて木造の涼亭も焼失を免れた▼調査報告は書いている。「1万坪以上の土地にして中に樹林及池を存し且建築物少く周囲に植込土塀を有するものは……多数の人命を救助し得たり」と。炎に包まれた日本橋の町なかでも、シイノキにかこまれた木造平屋が火災を免れた例があったそうだ▼報告はさらに常緑広葉樹が延焼防止に顕著な働きを示したこと、イチョウの大木も、その防火能力がすこぶる偉大であったことなどを実例をあげて説いている▼きのう、清澄庭園をたずねた。涼亭はそのままになっていた。後ろに2本のイチョウの大木があった。シイやクスの緑が風にゆらめいていた。何本かはたぶん、震災をくぐり抜けてきた樹木だろう。今でも、池の水をあびながら助かった、という人が庭園を訪れるそうだ。 モーニングコール屋 【’85.9.2 朝刊 1頁 (全859字)】  「きょうもカンカン照りですよ。最高はまた35度だそうです。お気をつけて行ってらっしゃい」「阪神、また勝ちましたね。強いですね。おめでとうございます。きょうのお勤めも頑張ってね」▼こんなおしゃべりを「おはようございます」のあとにつけて毎朝、電話で起こしてくれる商売がある。モーニングコール屋という。都会に広がっているようだが、実態はよくつかめていない。会社組織でやっているところが少ないからで、近ごろ流行の便利屋さんが手がけたり、大学生のアルバイトグループがやったりしている▼普通は1カ月間の契約でお客をとる。料金はまちまちで、1カ月2000円もあれば1万円もある。4時、5時という早い時間帯だと割り増しになるようだが、1回きりの呼び出しか、念のため10分後ぐらいにもう一度かけるかによってもちがってくる▼「女の子の会話つき」で売っているところは、冒頭のような話しかけになる。天気予報や道路交通情報などを入れ、さらに、あらかじめ野球はどこのファンかなども聞いておいて、ひとこと前夜のナイターの結果などを話にもり込む▼これが受けるらしい。1人十数人ずつ受け持っているという大阪のある女子大生グループに尋ねると、「ナマの話をナマの声で。これがいいんですね。さあ時間ですよ、起きましょう、だけを少し気どって、デパートの店内放送みたいに訓練してやってみたら、どうも評判がよくないようでした。目覚まし時計がわりというより、みなさん、毎日がやはり寂しいんじゃあないでしょうか。なかにはコールする前から、ちゃあんと起きて待ってるような方もおられて……」。みんなとても寂しくなっている、ナマの生きた人の声が恋しくてならぬ、ということだろうか▼お得意は、20代、30代の独身サラリーマンが一番多いという。なお、これは電話サービスだから、女性の場合などはお客に名前も明かさないことになっている。 ワイン有毒液騒動 【’85.9.3 朝刊 1頁 (全842字)】  今回のワイン有毒液騒動では、いろいろなことを考えさせられた▼まず第1に、高級と称されるワインのいわゆる「高級さ」を演出するものの正体が、実は有毒物質であったこと。第2に、国産品といわれるワインに、実は少なからぬ量の半国産品があったこと。第3は、安全宣言が、実は安全ではなかったこと。どんでん返しばかりで、まことにゆだんのならぬ世の中であることを思い知らされた▼「いい葡萄(ぶどう)酒にはツタの枝はいらぬ」という西洋のことわざがある。酒神バッカスに関係があるのか、昔の居酒屋は表にツタの枝をつるしていたらしい。いい味のワインを売る店なら客があふれる。だからツタの表示の必要はない、ということだろうか。いいものはいい、といえる単純明快な時代の話だ▼今は、いい味のもの、高級といわれるものにまがいものがまじるから、話がややこしい。ワインにジエチレングリコールをまぜると、まろやかな甘みがでる。利き酒の名人でも有毒ワインかどうかを見破るのは難しい、という話をきいた▼国産品といわれるものに外国の原料が使われている例は、ワインに限らない。国産品のようにみえて実は外国産という食品がはんらんしている。原産地不明の時代だからこそ、一方で産地直送がもてはやされるのだろう▼しかし、中身はきちんと消費者に知らせたほうがいい。有毒液入りはもってのほかだが、外国産ワインをまぜるのは、隠すべきことではない。さらにいえば、横文字ばかりのラベルで、いかにも輸入ものにみせる小細工もおかしい▼わが国では、昭和40年代の後半からワインの人気が高まってきた。食生活の洋風化、女性の愛好者の増加、刺し身やてんぷらにもあうことがわかった、などと理由はさまざまだが、曲折をへて、ワインは日本人の食卓に定着しつつある。どんでん返しのないラベルのほうが、日常の食卓にはふさわしい。 政治資金風刺『珍釈・一茶句集』 【’85.9.4 朝刊 1頁 (全854字)】  一茶にはなぜか現代の「政治資金」のありさまを活写したような句があります。以下、珍釈・一茶句集▼《ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び》国会議員1年生の心情を想定した作であろう。金が入る。料亭で遊べる。料亭通いも政治修業のためだと張り切る政治家を、ひややかに見つめる作者の目がある▼《おらが世やそこらの草も餅になる》政治家にとっては、どんな草も政治資金という名のモチにみえてくる。まして、政権党の総裁派閥とあればささげられるモチも多い。多ければ飲み食いに使う。中曽根派の料亭会合費は3カ月間で軽く2000万円を超す。そんなことで人びとの暮らしがわかるの、料亭でなくては政治はできないの、という声がきこえてくる▼《朝顔も銭だけひらくうき世哉》朝顔の花のよさもカネ次第の世の中なのだ。献金が多ければ政治家の心も開く。「しょうがねえがそれが現実さ」という作者の渋面がのぞく▼《我と来て遊べやおやのない雀》これは、大はやりの政治家パーティーのこと。おやは、親ではなく、驚きのオヤッである。政治家のパーティー騒ぎに驚かず、カネを払ってくれる人たちをちょっぴり皮肉っている▼《秋の風我が参るはどの地獄》ある政治家がいった。「今の金の使い方、集め方は異常だ。こんなことで政治はどうなるのかと恐ろしくなる」。しょせんそれは地獄への道さ、と開き直る政治家もいる▼《今迄は踏れて居たに花野かな》この花野は竹の下にあったものだろう。竹下蔵相が金集めのトップに立った。政界の実力とはつまり資金収集能力のことなのか▼《おのれらも花見虱に候よ》いくら政治をあげつらっても、おれたちは結局は政治家にたかるシラミさ、というあざけりの句。《蚤どもに松島見せて放けり》たかる選挙民を遊覧旅行に連れて行く。《やれ打な蠅が手をすり足をする》すり寄ってくる地元の有権者を大切に、という政治家の教えをあてこすった作品。 夜来香 【’85.9.5 朝刊 1頁 (全835字)】  東京の神代植物公園で夜来香(エーライシャン)の花を拝見した。花そのものは小さくて、ひかえめな黄緑色だが、香りは濃い▼温室の一角に近づいただけで、やわらかな香りが一面にただよってくるのがわかる。まず香りがあって次に花を探す、という順序になる。花の前で目を閉じると、ゆかしさのある香りがすうっと胸にとけこんで、ひろがる▼植物園に勤める鳥居恒夫さんの長い間の丹精がなかったら、この花にお目にかかれなかったかもしれない。夜来香の名前は、戦時中の流行歌でよく知られているが、実物はまさに、幻の花だった。ヒガンバナ科の月下香と夜来香を混同する人もいた。本ものはガガイモ科のツル植物である。鳥居さんが、バンコクの植木市でこの幻の植物を見つけ、持ち帰ったのが15年前だ▼だが、花が咲かない。苦労を重ねた末、5年後にやっと花を開いた。やはりこの花にとりつかれていた本社の先輩、杉村武さんが、最初の開花のことを書いている▼「部屋じゅうにみちみちている、柔らかで心持ち甘く、しかし清らかな、えもいわれぬ香りが鼻をついた。足が一瞬、くぎづけになる思いであった」と。以後なぜか、花をつける年がまれだったが、誕生した大温室に移して、みごとに花をつけ、植物園を訪れる人を迎えている▼大昔、中国で戦乱があり、ある軍隊が城を占領した。だが兵士たちは、ふくいくたる夜来香の香りにつつまれているうちに戦意を失い、翌日の戦いでは城を追われることになった、という伝説もある▼刺激的ではなくて、むしろ心を静めるふしぎなにおいである。夜のやみにあってさらに香る、というから何十本もの夜来香にかこまれたらもう、戦って血を流すことがおろかしく思えてくるだろう▼黄のバラの香に似ているという人がいる。かなり似てはいるが、どこか違う。生きもののにおいにはそれぞれの持ち味がある。 1%枠撤廃問題 【’85.9.6 朝刊 1頁 (全855字)】  尾崎咢堂氏が衆院に「軍備制限決議案」といういささかドン・キホーテ的な案を提出したのは、1921年(大正10年)である。軍拡を放任すれば「経済上言ふべからざる障害を来して国家の破滅を見るに至るべし」という熱情あふれる演説があった▼決議案は圧倒的多数で否決された。石橋湛山氏は、憤りをこめて東洋経済新報に書いている。「反対の理由は支離滅裂、議論の態をなしていない」と。軍閥の不興、敵視を恐れる政治家が多すぎたのだ▼当時の首相は、ドロをかぶってでも、軍拡を抑える歯止めをつくろうとはしなかった。それにしても、そのころはやくも「知らず、対支強硬論者は米国と戦争を覚悟せられるか」といい切った湛山氏の洞察力に驚く▼中曽根首相は1%枠撤廃問題でドロをかぶるつもりだ、といったそうだ。「1%枠を守るために全力を尽くす」といい続けた首相のことだ。この公約を貫くため、ドロをかぶってでも米政府と対決する腹をきめたのか、と一瞬思った。むろん、話はあべこべだった。米政府の不興を恐れて1%枠撤廃をいうのなら、これはドロをかぶるとはいわない。むしろ「いい子になるため」の決断だ▼米国政界にははたして1%枠撤廃をせまる声のみなのか。「日本こそ、偉大な国となるのに軍事力よりもよい方法があることを、世界に向かって指し示す資格と能力がある」というフルブライト前上院議員のことばなどは吹き飛ばされてしまったのか▼5カ年間の総額明示方式は、軍需産業には歓迎されるだろうが、歯止めとしてはきわめて頼りない。当初計画には、武器の値上がり分やベアが計算に入っていないから、最初からふくらむ要因がある。次の次の5カ年計画がどのていどまでふくらむのかという不安もある。大体、総額明示方式が極端に膨張する例のあることは4次防の苦い経験でわかっているはずだ▼政府は1%枠を守るという公約にドロをぬるべきではない。 やくざの国際化 【’85.9.7 朝刊 1頁 (全842字)】  アメリカのおとり捜査によって捕まったやくざの幹部は、日本のやくざ集団では評判を落とした、というのが日本の捜査当局の見方だ▼実兄の復讐(ふくしゅう)をするのに、アメリカの殺し屋を雇おうとしたのはいさぎよくない、という反応があったらしい。いさぎよい殺人というのがあるとは思わないが、3人のやくざがはたして、はじめから殺し屋を頼む計画をもっていたのかどうか▼銃100丁、機関銃5丁のほかにロケット砲をみせつけられ、ロケット砲を使うには手なれた者が必要だなどといわれて、その気になったのかもしれない。アメリカ捜査陣のほうが、すご腕だったということか▼こんどの事件は、はしなくも、やくざの世界の対米裏貿易がいかに盛んであるかを証明した。東南アジアや香港で麻薬を仕入れ、アメリカに密輸出して、ピストルなどを密輸入する▼今回、香港からホノルルへ運ばれるところだった麻薬は約22億円相当、というからかなりの取引である。日本は麻薬まで輸出するのか、という汚名をあびせられてはたまったものではない▼銃の密輸入もあとをたたない。マグロの腹の中にビニール入りの短銃を忍ばせる。中古外車のガソリンタンクの中にいれる。貨物船のコンテナに255丁もの短銃を巧妙に隠してフィリピンから密輸入しようとした暴力団員もいた▼進出する日本のやくざに対抗するため、昨秋「組織暴力に関する大統領諮問委員会」の公聴会がニューヨークで開かれた。黒頭巾(ずきん)姿のやくざが登場、小指をつめた跡などをカメラにみせておどろおどろしい感じを与えるのに一役買った▼いささか政治ショーの色彩があったが、アメリカがやくざの殴りこみに神経質になるのは当然だし、わがほうとしても、やくざの国際化などという恥ずべき事態から顔をそむけてはならぬ。東南アジアの女性の血をしぼり、麻薬をばらまいて暴力団は太る。 20年前の天声人語 【’85.9.8 朝刊 1頁 (全857字)】  神戸市の読者からお便りをいただいた▼「娘が誕生した年の天声人語の切り抜きがみつかりました。20年前のものです。『20年後の日本は』という予想があったので切り抜いておいたのでしょう。予想はあたっているでしょうか」。この予想は、経企庁のビジョン研究会がまとめたものだ。あたるも不思議あたらぬも不思議が占いの常だが、さて▼〈1人あたりの国民所得は今の3倍半、約2000ドルになる〉これははずれた。予測よりも大幅にのびて最近は1万120ドル。以前は世界で21位程度、米国の約4分の1だったが、昨今は13位程度、米国にかなり接近している▼〈人口は1億3000万人になる〉今は約1億2000万人。〈早婚が多くなる〉初婚年齢はむしろやや遅くなっている。〈コメは今の6割程度しか食べなくなる〉これはほぼあたっている。〈肉は6倍以上食べる〉はずれ。肉は2.6倍程度しかふえていない▼〈定年は65歳ぐらいまで伸び、週5日制が標準になる〉週5日制はかなり普及したが、定年は60歳が定着しつつあるところ。〈自動車は3000万台に〉予測よりも大幅に伸びて約4500万台に。だが〈保有台数が激増、道路がよくなっても大都市の渋滞は変わらない〉という点はあたった▼〈一部の階層を除けば、自分の家を持とうと思えばいつでも持てる状態になる〉住宅の数はふえたが、最低居住水準に満たぬ住宅は1割強もある。「快適な家を持とうと思えばいつまでも持てない状態」は続いている▼予想と現実のズレはあるが、的確に流れをいいあてている部分も多い。20年前の人語子は「昭和60年にこの記事を取り出して『ケチな予想をしていたものだ』と笑える時代にしたい」と書いている▼1人あたり国民所得も、自動車台数も、たしかに「ケチな予想」だった。だが、日本が急成長したこの20年間、数字には表れぬところで、私たちは貴重なものを失ってきた。 「きりたっぷ湿原にほれた会」 【’85.9.9 朝刊 1頁 (全857字)】  北海道東部の太平洋岸、釧路から少し東に浜中という町があり、霧多布湿原が広がっている▼秋の気配が漂いはじめた湿原には、ヤチボウズの群落にまじってサビタ、サワギキョウ、リンドウなどが咲き乱れる。見上げるとキアシシギがピルピルと声をあげ、ノゴマが群れとぶ。タンチョウヅルがひなと遊ぶ▼3年ほど前、湿原を見渡す琵琶瀬展望台近くにコーヒー店ができた。食品企業の社員だった伊東俊和さん(35)が自分のふるさとと思って移り住んできたのである。伊東さんの周りになんとなく仲間が集まった。話しているうちに、自分たちが大好きな花や小鳥や小動物たちのことをちゃんとは知らないことに気が付いた▼「きりたっぷ湿原にほれた会」はこうして誕生した。毎月1回の小冊子で草花や生き物たちのことを解説し、むかし鯨がとれたことなど浜中の歴史を紹介する活動が昨春からはじまった。ガリ版刷りの湿原情報もあって「水鳥調査で霧多布―新川にユリカモメ500羽を確認」などと教えてくれる▼メンバーは多彩だ。小、中、高校の先生が植物学、鳥類学の「主任教授」をつとめる。小冊子の編集長はサケ定置の漁師、編集員は保育所の保母さん。日本野鳥の会の獣医さんは鳥コーナーの担当である▼旅人と違って住む身には自然の厳しさがこたえることもある。「景色は毎日見ているから何とも思わねえけど」「さっぱしいい事なくてさ。夏はガスが多くて体に悪いし、それに寒くてかなわねえでや。景気でもいいばいいけど」。だから「ほれた会」は、厳しい自然を楽しんじゃえ、と開き直った発想もする▼面白セミナーの企画である。「うっとうしくて美しい、生きている湿原の話を聞く会」とか歩くスキー、真冬の探鳥会、湿原を釣る会などだ。今月はハマナスの実で酒とジャムをつくった▼伊東さんは自然保護のベルマークというでっかい構想も温めている。北国のユニークな活動に注目したい。 千人針 【’85.9.10 朝刊 1頁 (全850字)】  服飾デザイナーの森南海子さんはもう8年、千人針をたずねる旅を続けている。その記録が『千人針』という本になった▼さまざまな千人針がある。血にまみれた千人針もあるし、妻や母の髪の毛が縫いこめられた千人針もある。ある兵士は中国で貫通銃創の重傷を負いながら、母の千人針で止血をし、転がりながら野戦病院まで身を運んだ▼ある兵士はニューギニアの戦闘で首と頭に重傷を負い、したたり落ちる血で千人針が重くなったのを覚えている。その血をしぼった時、千人針の中に油紙に包んだ3本のたばこと、つぶした形のマッチ箱のあることがわかった。「母は、せめて死ぬ時には好物のたばこをと考えていてくれたのです」▼その兵士が重傷のまま送還されると、母は病院でいった。「おまえはなんという姿で。お国のために役に立たなかったのではないか」と。表向きは軍国の母を演じたが、あとで息子を抱きかかえ、「よう帰ってきてくれた」と耳もとでささやいた▼戦時中の女性は千人針に託して、子や夫や恋人の身の安全を祈った。その重苦しい針目には「女たちの男への囁き、誓い、約束といった言葉が縫い綴られている」。兵士たちにとっては、それは故郷への思いをはせるための寄る辺だった▼国は、兵士たちの無事生還を祈るよりも、靖国神社で彼らの「帰還」を待った。だが、女たちは絶望の中で「あなた、生き抜いて」と念じたのである。千人針には血の流れる祈りがあった▼追いつめられる前になぜ、戦争に反対しなかったのか、という若い人たちの問いに森さんはたじろぐ。それに簡単に答えるのは難しい。「女たちが、妻たちが、そして夫も、みんなみんな憶病なおろか者だった」と悔いる山陰の女性の言葉を伝えながら、彼女は書く▼「戦争を悔いるということは、かえりみるということは、一人ひとりの内にむかってのきびしく、ひっそりした行ないでなくてはならぬのです」 中国残留孤児 【’85.9.11 朝刊 1頁 (全849字)】  飢餓と困窮の中で、うどんを食べるために背中の子を売ろうか、と一瞬考えたことがあったという。旧満州からの引き揚げ体験をもつ作家、宮尾登美子さんの回想である。「私だって今、孤児と対面する立場になっていたかもしれない。紙一重の運命でした」▼来日した残留日本人孤児の代表が「肉親捜しは、海の中から1本の針を拾いだすようなものだ」といっているが、たしかにそうだろう。紙一重の運命の差が、今は深い溝になっている▼残留孤児のことは、つきつめれば戦争当時の責任をどう考えるか、という問題に突きあたる。孤児の9割は開拓団の子だという。菅原幸助氏の『泣くんじゃあない・不用哭了』によると、元関東軍参謀は「司令部の幹部が、奥地の開拓団保護に対する配慮に欠けていたことは遺憾だ」と認めている▼関東軍の中には、玉砕した部隊もあるが、主流は奥地の開拓団を見捨てて敗走した。婦女子の多い避難民は敗戦の情報さえ知らされずにさまよい、あるいは集団自決をし、あるいはソ連軍の銃撃で戦死した。遺体の下敷きになって生き残り、中国人の養父母に育てられた孤児もいる▼敗戦の年の4月、ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告してきたあと、陸軍にはソ連参戦の公算大、とみる空気があった。だが当時、非戦闘員である開拓団の救済対策をまず考える、という思想は陸軍上層部にはなかった▼菅原氏はいう。「関東軍や日本政府だけではなく、私も含め、在満邦人は、もっとも弱い同邦の子供たちを旧満州に置き去りにしてきた、という責めを共同で負うべきだ」と▼さしあたってすべきことに、中国の養父母に対する扶養費の支払いがある。そして、孤児たちをかこむ障壁を少しずつでも壊してゆくこと。「日本に帰国して一番困ったのは、子どもが学校でいじめられること」「日本人は引き揚げの苦しさばかりいい、中国人の傷を考えない」。胸に突き刺さる言葉だ。 頭の柔らかさを持ち続けた赤尾好夫氏 【’85.9.12 朝刊 1頁 (全860字)】  1931年(昭和6年)、東京外語を卒業した。大不況の時代だった。就職のあてはない。一本立ちするほかはないと赤尾好夫さんは考えた。それには、資本が少なくてすむ出版がいい▼おやじに450円ほどのカネを借りて旺文社(当時は欧文社)をはじめた。24歳の時だった。その時の約束が(1)人と争うな(2)演説をやるな(3)政治に手を出すなの3点だった。奔放な若者のたがを締めるための戒めだったらしい▼いささか不良っぽくて、時には舌禍事件を起こすような一面もあったが、土台を大切にし、なにごとも「基礎から徹底的に練習するくせ」のある人でもあった。ベストセラーよりもロングセラーをねらう経営者だった。その代表が、例の赤尾の豆単(単語集)だ▼英単語の重要度を調べるのに、日本の教科書、参考書、試験問題にでてくる単語を徹底的に調べた。来る日も来る日も、単語を切って紙にはる単調な作業を1年も続けた。まず単語を覚えて基礎を固める、という考え方が受験生をとらえたのだろう。この豆単の世話になった元受験生の数はいかほどであろうか▼赤尾さんは、クレー射撃の名手だったが、射撃の習得でも、基礎を大切にした。囲碁でも、せめて1年は師について定石を学ぶことをすすめ、「正しい碁を打つことは、礼儀であり、人柄の表現でもある」といっている▼草創のころ、通信添削会の受講生はわずか17人だった。だが、地方の受験生に正確な受験情報を流すという販売戦略はみごとにあたり、『受験旬報』は部数をのばしてゆく。そして豆単は約1500万部という超ロングセラーを続けている。豆単は受験産業の基礎を固めた▼毎年、元日になると、テープに遺言を吹きこむのも有名な話だ。遺言状を書くのではなく、吹きこむ。会社のことでも、毎晩、翌日の会議資料などが吹きこまれたテープをきくのを常とした。新しいものにくいつく頭の柔らかさを持ち続けた人だった。 日本人は白が好き 【’85.9.13 朝刊 1頁 (全860字)】  東武電車が車両の色を「白」に変える。今のクリームがかった色をジャスミンホワイトに塗り替えるそうだ。ジャスミン、というからかなり白っぽい白なのだろう▼冷蔵庫も、一時は多色化が進んだが、このところまた白が復活しつつあるというし、乗用車の世界でも、白があたっている。バンパーまで白、という白一色の乗用車が人気をよんでいる▼ちなみに、昨年1年間に国内で販売された乗用車の色を調べてみると、(1)白65.6%(2)赤13.4%(3)グレー9.2%の順で、白が断然多い▼5年前も白が第1位だったが、それでも40%ていどだ。車体の白志向は強まっている、といっていいだろう。塗装技術がよくなって鮮やかな白がだせるようになったこともあろうが、むろん理由はそれだけではない▼底流には昨今の日本人の白好みがある。TBS『調査情報』によると、9年前から続けている5月と10月の「好きな色」調査では、白と青が圧倒的に多い。5月調査は(1)白(2)青、10月調査は(1)青(2)白の年が大半である。季節によって白と青が逆転することもおもしろいが、とにかく、白志向が相当なものであることはわかる▼「カラーテレビで育った世代と、それ以前の人たちとでは色彩感覚が革命的といえるほど違う」というのはシャープの総合デザイン本部長、坂下清さんの仮説だ。絵の具の三原色はまぜればまぜるほど色が濁り、暗くなり、黒に近づく。光の三原色によってつくられる色は鮮やかで明るく、まぜればまぜるほど白に近づく。カラーテレビ世代、さらにコンピューターグラフィック世代はその鮮やかな、透明感のある色になじんできた。おのずから色彩感覚も変わる、と坂下さんはいう▼鮮やかな赤、鮮やかな青をひきたてるのは、鮮やかな白である。だからこそ、白が新しい色彩感覚の世代にもてはやされるのだろうか。そうであれば、白は一時的な流行色とはいえなくなる。 日米の野球 【’85.9.14 朝刊 1頁 (全851字)】  米大リーグのピート・ローズが、タイ・カッブの通算最多安打4191本を抜いた。その時、観客総立ちの拍手がざっと10分間も続いたというから、ファンの興奮は相当なものだったらしい▼「説教はできないが、ハッスルプレーの実物ならいつでもみせられる」というのは、ローズのせりふだ。猛烈な勢いで頭からすべりこむプレーは、日本のファンにもおなじみのものだ▼44歳である。米大リーグには40代の選手が16人もいるという。40代といえば、日本では西武の高橋直樹投手やコーチ兼任の井上弘昭外野手がいるだけである。アメリカではなぜ選手の寿命が長いのか▼「サラリーがいいからやる気も起こる」という声があった。年100万ドル以上の選手が40人近くもいる、という点では日本のプロ野球の水準を超えている。だが、若さの良薬は高給ばかりではあるまい▼「監督やコーチが古い名選手を大事にしている」というのは、米大リーグ通の池井優慶大教授である。古参時代のハンク・アーロンは、試合直前まで控室で横になっていた。それが彼にとって最良の方法だったからだろう▼やはり米球界に明るい伊東一雄さん(パ・リーグ広報部長)は3つの理由をあげる。(1)基礎体力の差(2)練習の考え方の違い。過度の練習は選手をはやくふけこませるのではないか(3)老雄の健闘に対する観客の励まし▼選手の敢闘に惜しみなく拍手を送る点では、アメリカの観客のほうが上かもしれない。ノーヒット・ノーランを目前にして安打を打たれた投手に対しても、観客は立ち上がって拍手を送る。老雄に対する応援も温かい▼日米の観客作法を比べうるほど、大リーグに通ったわけではないが、日本の球場ではよく口汚いののしり声が耳に入る。衰えをみせ始めた選手の背に「引っ込め」のやじが突き刺さる。怒声の合唱、怒りの熱狂は見苦しいだけではなく、好選手の寿命をちぢめている。 老人看護の主婦の記録 【’85.9.15 朝刊 1頁 (全853字)】  83歳で亡くなった篠田たけさんの葬儀の後、孫娘が泣きじゃくりながら皆の前でいった▼パパは酒を飲んで酔っ払うし、嫌いなことがたくさんあった。でもパパとママはおばあちゃんのことをずうっと一生懸命看病してきた。そんな姿をみて、今は2人に拍手を送りたい気持ちです、と。自分は気まぐれにしか看病の手伝いをしなかった、という悔いもあったらしい▼親を無視する態度にでることもあった娘がすなおに「拍手を」といってくれたことがパパの胸を打った。「これこそお母さん(たけさん)が置いていってくれたおみやげだよ」▼大宮市に住む篠田秀代さんの『義母(はは)の贈りもの』を読んだ。重症の糖尿病と2度の骨折で苦しむたけさんを3年間、自宅で介護した嫁の記録だ。難しい食事療法から下痢の世話まで、24時間介護の日々が続いた。疲れ切って、しゅうとめと心がふれあえない時もあった。「心が寒々としてきて、私は1人深夜にビールを飲んだ」▼1主婦が、心のままに不満やぐちを書きとめているところが、共感を呼ぶ。たけさんと嫁の秀代さんは二人三脚で病気に挑む。嫁に励まされて、読書、習字、俳句、人形づくり、とおばあちゃんの心は開かれてゆく▼「母の看護という1つの課題がわが家に存在したことで、おたがいが分裂しないで維持できた。母には感謝の念でいっぱいだ」と秀代さんは書いている▼だが記録の中に「家政婦さんを頼みたくても経済的な余裕がなく」というため息があった。老人福祉対策がまだまだ遅れていることを改めて思う▼東京の世田谷区には「ふれあいサービス」がある。協力会員が65歳以上の利用会員の家へ行って、家事を手伝う。1時間600円である。協力会員は、カネを受け取るかわりに労力の時間を積み立てておけば、将来、自分がその分だけサービスを受けられる。こういう労力銀行的な動きがさらに各地にひろがることを期待したい。 秋の静寂を演出した虫たち 【’85.9.16 朝刊 1頁 (全836字)】  深夜、カネタタキが鳴くのをきくのは、楽しい。百科事典などにはチン、チンと鳴くとあるが、筆者の耳には、どうしてもチッ、チッ、チッときこえてくる▼チッ、チッの数は、ひい・ふう・みい・よ、と数えて10を超えるときもあれば、7つ8つで途切れることもある。途切れて、間をおいて、またチッ、チッと鳴きはじめる。この間合いのとり方が心にくいほどうまい。カネタタキはやみの中にあって、静寂を演出している▼「すずしき鉦(かね)をとをばかり/たたきてやみぬ鉦たたき/よべの歎きをまたせよと/あとはこゑなき夜のくだち」(三好達治)。くだちは、夜が更けること▼命を燃やして鳴くアオマツムシの大合唱も悪くはないが、時にはその激しさがうっとうしくなる。大合唱に負けじと鳴くコオロギはたしかに美声だが、己の美声に酔う、といったところがある。アオマツムシやツヅレサセコオロギに比べれば、カネタタキの鳴き声はいかにも遠慮深げで、かぼそい。この虫は低木や植え込みの葉の陰に遠慮深げにすんでいる▼沈吟という言葉がある。静かにくちずさむ、あるいは思いにふける、といった意味だろう。カネタタキのチッ、チッをきいていると、ときどきこの沈吟という言葉が浮かんでくる。「わが心ひそかに聞ゆ鉦叩」(汀女)。その単調な鳴き声は、心の内側によどむため息やつぶやき声ととけあう▼ホウセンカやオシロイバナに雨が降りそそいでいる。白萩(しらはぎ)の花が一面に散っている。そろそろ秋霖(しゅうりん)の季節に入る。ついこの前までの朱色の酷暑がうそのように、天地は沈吟のときを迎えつつある。梅雨の時は、一雨ごとに緑が濃くなるが、秋雨前線とのおつきあいでは、一雨ごとに紅葉が濃くなってゆく▼秋の静寂を演出した虫たちは、やがて、自分たちの「歌」を次代の卵の中にそっと閉じこめて、死にたえてしまう。 日米の労働者気質 【’85.9.17 朝刊 1頁 (全844字)】  アメリカの自動車修理工場のひどさは、そこに住む日本人の間に知れわたっている。ディーラー指定の工場に何回車を持ちこんでも、具合の悪いところが直らない。東洋人経営の小さな町工場に頼むと、それが一度で直ってしまう▼長距離のドライブ旅行に出る前に、念のため車を点検させる。これがいけない。それまで無事に動いていた車が旅に出たとたん故障したりする。ことは自動車の修理に限らないことが、墜落した日航ジャンボ機の修理ぶりでわかった▼なぜこうなのか。アメリカ各地を歩いて、労働についての日米の考え方の違いを聞いて回った報告が、最近のニューヨーク・タイムズに載った▼まず、日本の工員には職人かたぎのようなものがあるのに、アメリカにはそれがない。「労働者はいいつけられたことより1インチたりとも余分な仕事をしようとしない」「割り当てられた仕事をやりとげることより、終業時間ばかり気にしている」「日本人は、品質のよい製品をつくることに誇りを持っている」▼労使関係にも話が及ぶ。「日本人は、仕事、工具、機械、雇い人を大事にしている。われわれは人や機械を使い捨てにするだけだ。役に立たなくなるとポイと捨てる」▼仲間意識の違いも注目される。「日本の労働者は、くに全体のことを考えている。アメリカ人は、次の週末のことで頭が一杯だ」「日本では、家庭や工場の一員であることが強調されるが、われわれは、めいめいが自分のことしか考えない」「心が満たされ、一生懸命に働く労働者が、変な製品をつくるはずがありません」。日本人には面はゆい言葉ばかりだ▼「これではとても日本にかなわない」というのが、レーバー・デー(労働の日)にさいして記事をまとめた記者の印象のようだが、だからといって日本製品に市場を占領されるのも困ると、大方のアメリカ人は考えているだろう▼日米経済摩擦秋の陣が始まる。 体罰 【’85.9.18 朝刊 1頁 (全841字)】  中学2年のその少女が校長室に入ると、5人の先生がいた。「覚悟しとけよ」といっていきなり殴られた。何発なぐられたかは覚えていない。よろけるところを髪の毛をつかんでひきずり回されたという▼帰宅した娘のふくれあがった顔とおびえた目を見て、母親は卒倒しそうになった。いかに非行防止の名目があるにせよ、大の男たちが一少女にこれほどの乱暴を加えるとはどういうことであろうか。村上義雄記者のルポ(朝日ジャーナル9・20号)にあった話だ▼深く心にとめておきたいのは、体罰を支持する親が少なからずいる、ということだ。村上ルポは、ある小学校の会合で、体罰批判をした母親が反撃される例を書いている▼「鉄は熱いうちに打てという。たたかれるからこそ意志の強い人間になる」という担任教師の発言に拍手がわいた。「そうです。ビシビシやって」という声が起こり、ほぼ全員が体罰賛成に手をあげたという▼子どもは「鉄」だろうか。子どもの心には、ガラスのもろさや絹のやわらかさもあるのではないか。小さいころの恐怖の殴打が、3、40年をへても心の傷として残っている例は、筆者の周辺にもある▼体罰を加えるのが悪い先生で、加えないのがいい先生だといった単純な議論をするつもりはない。だが、日本弁護士連合会の調査によると、学校での〈体罰内容〉にはぞっとするようなものがある。頭突き・つねり上げ・けつバット・もみじ(背中を平手で打ち手形をつける)・粘着テープを口にはる・投げ飛ばして足でける・女生徒の髪の毛をつかんで振り回す▼三国一朗さんが旧軍隊内の暴力について書いている。「小さな苛立ちが、無抵抗の相手を前にして、次第に大きな怒りにエスカレートし、本人が〈狂暴化〉していくプロセスを、私も殴られる立場でたびたび実見したのである」(戦中用語集)。そういうエスカレートがないといいきれるか。 新防衛計画決まる 【’85.9.19 朝刊 1頁 (全845字)】  1935年(昭和10年)11月、だるまの愛称があった高橋是清蔵相は、軍部の過大で強硬な軍拡予算要求を、なだめ、すかし、老練な手口で闘い、譲歩をかちとったという。3カ月後の2・26事件で暗殺されたことを思えば、文字通り命をかけた折衝だった▼当時、だるま蔵相は80歳を超える老齢だったが、それでものべ21時間もがんばり続けた。61歳の竹下蔵相は、GNP1%枠を守り抜こうという大蔵省の抵抗を背にして、もっとがんばってもよかったのではないか▼「赤字公債をこのままにして国防のみに専念すれば、財政の信用を破壊する。そうなっては国防も決して安固とはいわれない」と高橋蔵相は主張した。時代は違う。だが、130兆円にものぼる財政の累積赤字があるのに、防衛費が異常に突出する、という状況はやや似ている▼防衛力の新5カ年計画がきまったことで、漠たる不安をおぼえた人が少なくないだろう。アメリカ向けには「1%枠破り」を印象づけ、国内向けには「1%枠存続」を印象づけるような、詐術めいた政治に対する不安がある▼中曽根首相は国会では「1%枠を守る」といいながら、米政府要人には早くから「1%枠はいずれ私の手ではずす」と語っていたという。こういうヌエ的な政治姿勢に対する不安がある。「国際国家の日本の責任をはたす」ために1%枠にとらわれてはいられない、と首相が信ずるのなら、その所信を堂々と国会で吐露すべきではなかったか。それこそ王道というものではないか▼つい先日、首相と金丸幹事長は「1%枠はできるだけ尊重する」ことを確認した。国の中枢にある人たちの約束が、なし崩し的に破られそうになる、という事態への不安がある▼ポイントのきりかえで、軍拡列車は減速信号のないレールを走ることになるのではないか、という不安がある。憂えを満載した列車は、どこをめざして走ろうというのか。 全国我が町音頭 【’85.9.20 朝刊 1頁 (全832字)】  全国の市町村と都市区を合わせた数は、3355にのぼっていて、一つ一つに個性がある。その個性を歌いあげた「全国我が町音頭」の詞と曲ができあがり、これから男女の歌手2人が吹き込む段どりになった。10月末、51巻のテープが完成する▼詞と曲は「圭子の夢は夜ひらく」で第1回歌謡大賞を受けた石坂まさをさんが作った。通信添削で作詞を教えている各地のお弟子さんたちの協力もあって、訪ねた市町村は800を超える。まだ行っていない土地については資料を読み、役場に電話をかけた。知人、友人の顔を見ると、しつこく故郷の話を聞くのも、もはや習慣である▼石坂さんは埼玉県三芳町に住んでいる。町長に「何か不満は」とたずねられたので「海がないのが不満です」と答えた。町長は「海は作れないけれど川なら作れます」と、去年、下水に手を加えて川を作り、稚魚を放流してくれた。“三芳住みよし/こどもの川に/釣った魚は大ブナ小ブナ/埼玉県三芳町は明日呼ぶ夢の町”▼長野県飯田市では、中学生がリンゴ並木の世話をしていると聞き、「ここのリンゴには心がこもっている」と感心した。“リンゴ並木は飯田の誇り/なぜか中学生が胸張って歩く……”▼おばあちゃんの話では、石川五右衛門と太閤(たいこう)さんの誕生日が1月1日で同じだとか、織田信長が天守閣でワイン片手に世界地図を見ているとか、歌詞は伝説、民話、想像をちりばめて手拍子に合う▼1日1編の割合で作詞すると10年近くかかるところを、200余日で仕上げた。少々ぐったりした表情の石坂さんが、「音頭」づくりをしている時、しばしば驚いたことを、こう話した。「弘法大師と松尾芭蕉の足跡が津々浦々に及んでいること。それぞれの土地が独特の歴史や文化をもっていて誇るべきものなのに、土地の人たちが、たいてい、そのことを知らないこと」 重症がん患者の講演 【’85.9.21 朝刊 1頁 (全854字)】  姫路市で理髪業を営む田中裕三さん(37)は重症のがん患者である。3年前にがんの手術で胃を摘出、この4月に再発した。「医者からみればあと何カ月の命だと思う」と自分でいいきっている。1日のうち1、2時間しか起きていられない。数日前には心臓発作を起こしている▼その田中さんがはるばる東京にでてきて講演(東大出会いの会主催)をした。「どんなに体が病んでも、気を病んではいけない。病身と病気は違う。希望をもって暮らす」ことを訴えるためである。暗さやしめっぽさのない内容だった▼たとえば田中夫妻は、医師からレントゲン写真の率直な説明をうける。「がんのために、S状結腸の4分の3がつまっている」と。ふつうならえらいこっちゃなあとがっくりするところだが、夫妻は口をそろえていった。「あ、まだ4分の1があいてる」。ものごとは見方1つだ、と田中さんはいう▼はじめからそうだったわけではない。手術当時は落ちこみ、おびえて、眠れぬ夜もあった。だがある特別講座に参加しているうちに、己の心の中のがんが見えるようになった▼激痛に襲われる。痛い時は痛いという。しかし痛くない時にまで苦しみをひきずらない。明るく楽しく暮らしたいと思うのではなく、明るく楽しく暮らしますと心にきめる。それは、医者や連れあいや肉親や仲間たちとの共同作業になる▼間食をして腹が痛むことがある。「痛い」というと妻が「食べ過ぎや」という。これではなめらかな会話が続かない。患者が「痛い」といったらまず「痛いの?」と受ける。会話のキャッチボールの呼吸が大切ではないか。共稼ぎの夫婦でも、妻が「疲れた」といい、夫が「おれだって」ではとげとげしくなる。しんどいといえば、しんどいの? と受ける。それが仲良く暮らすためのこつではないか▼田中さんの話はそんな風にひろがっていった。生を見続ける人の話には、教えられることが多かった。 メキシコ地震 【’85.9.22 朝刊 1頁 (全852字)】  メキシコ地震による死傷者はふえるばかりだ。倒壊した高層ビルが人を埋め、乗用車を埋め、その砕片が道路をおおっている。救助活動もままならない、という状態が続いているらしい。政府は負傷者救助のために医師を派遣したが、さらに早急に、手厚い援助対策をとらねばならぬ▼大地をささえる巨人が身動きすると地震が起こる、といういい伝えが世界各地にある。メキシコ周辺にもその巨人の根城があるのか、1945年から82年までの間に、メキシコを襲ったマグニチュード7以上の地震は20回を超えている。5年前の大地震でも約300人の死者がでている▼断片的な情報から、次のようなことがうかがえる。(1)高層ビルの倒壊がきわめて多い。(2)コンクリートの塊などで道路が寸断された。救急車が十分に動けず、救助作業が遅れている▼(3)病院に収容能力がなく、負傷者が病院前で毛布にくるまって並んでいる。(4)通信手段の回復も遅い。(5)断水、停電、ガスもれなどが発生している▼これらの点は、新しい都市型の震災を考えるばあいの教訓になる。大火事対策中心の従来の発想だけではなく、高層ビルの倒壊で道路が寸断された時はどうするか、落下物を少なくするにはどうするか、道路に面した窓ガラスには飛散防止用フィルムをはったほうがいいのではないか、という発想が必要になる▼関東大地震級の地震に襲われれば、東京でもかなりの鉄筋、鉄骨の建物が崩壊する。建物が倒れずとも、窓ガラスが飛散し、広告板や窓にとりつけたクーラーが落下すれば、危険なだけではなく、交通まひのもとをつくる▼その土地その土地の救助対策は、救急車が近づけないことを前提として考えておかなければならない。落下の恐れがあるものに目を光らせる。倒れて道路をふさぐ恐れがあるブロック塀や石塀を点検し、改善しておく。そういう心配りの集積が、いざという時に役立つ。 バリ島プリアタン歌舞団の踊り 【’85.9.23 朝刊 1頁 (全844字)】  国立劇場で、バリ島プリアタン歌舞団の踊りを見、ガムランの演奏をきいているうちに、遠い日に見たお神楽、東北の村で見た田植え踊り、沖縄のエイサーのことなどが胸に浮かんだ。バリ島の踊りは、生活共同体がはぐくんできた儀式であり、芸能である▼踊り手は皆、はだしだ。まばゆい衣装を身につけた少女の素足も、大きくて頑丈そうで、土のにおいがする。人は、手や指先の繊細な動きや目の表情がすばらしいという。確かにそれはその通りだが、筆者は踊り手たちの下半身、とくに素足の力強さに目を奪われた▼10代の少女がやや腰を落とした姿勢のまま、柔道の足払いのような形で、激しく、時にはやさしく床を払うしぐさをする(大地の上なら土煙をあげることだろう)。払った足のかかとでとんと床をつくこともあるが、その一連の動作がいかにもこきみいい。すり足で前へ進む時も、足裏が床に吸いついているようにみえる▼男性の戦士の踊りでは、たくましい足が常に大地をふみしめている。上半身が躍動する時も、つま先立つ時も、片足で立つ時も、腰は微動だにしない。5本の足の指が自在に動く。何世代も、大地に足をふんばり、大地を耕し、頭に重いものを乗せて生きてきた人たちの踊りである▼踊り手や演奏家は皆、それぞれのなりわいを持っている。農民もいるし、レストランの経営者もいる。建築設計を志す大学生もいる。むろん、観客収入もあるが、それに頼ることはしない。土俗を守り抜くための知恵だろうか▼いまでも宗教的な秘儀では、少女が踊り続け、「神の使い」になって催眠状態になることがある。大地と結びついたバリ独自の生活や信仰が崩れてゆけば、共同体芸能もまた、崩れ去ってしまう。「先祖から伝えられたものを状況にまどわされて捨て去ってはいけない」。プリアタンの指導者マンダラ氏の言葉は、私たちに対する鋭い警句にもなっている。 土地は天下のもの 【’85.9.25 朝刊 1頁 (全862字)】  1月ほど前、鐘紡会長の伊藤淳二氏が本紙『論壇』で「戦後の農地解放に似た革命的土地政策の断行を」と訴えていた。土地無策が続いていることを嘆くこの一文に共感をおぼえた人が多かったはずだ▼伊藤氏に具体策をたずねてみた。(1)神戸市の例のように、地方自治体が土地を造成して高層マンションを建てる(2)国有地を売却するのではなく、国が4DKほどの広さの高層マンションを建てる(3)累進固定資産税を課し、固定資産税収入の半分は、土地無所有者に還元する、という主張である。「革命的」とまではいかないが、いずれも貴重な意見だ▼土地政策の前提には「土地は天下のもの」の精神があるべきだろう。伊藤氏も「国土は本来、国有であるべきものだ。民間に払い下げて限られた人たちに対する利益供与をすべきものでない」といっている▼たとえば中曽根首相は、民間活力活用の名のもとに国有地の払い下げを提唱していたが、先日、都心の1等地が公示価格の3倍、という異常な高値で払い下げられた。こういう利益供与は、いたずらに地価高騰を招くだけではないか▼建設省や国土庁は、土地ころがしを防ぐための規制をゆるめようとしている。重課税期間を短縮して売り惜しみの土地を吐きださせるのだという▼だが、こういった規制緩和が、今まで宅地供給に役立ったことがあったろうか。この緩和策は、土地無策の下地にまたまた悪政の上塗りをするようなものではないか。だいたい土地税制というものは、30年、40年と厳しさを持続してこそ、効果が現れるはずのものだろう▼大都市中心部の地価はじりじりと高騰しはじめている。銀座の1等地には公示価格でさえ坪約5000万円という途方もない値がついた。日本の土地をめぐる状況は「人類はじまって以来の異常社会」(司馬遼太郎)のありさまを続けている▼土地は本来、天下の公共財である、という国土哲学を、今こそ為政者に求めたい。 オセアニアと核実験 【’85.9.26 朝刊 1頁 (全844字)】  去年、太平洋に浮かぶポナペやパラオの島々を訪れた時、あちこちで「核兵器の持ちこみは困る」という話をきいた▼戦時中、日本軍の突撃隊に入ったというパラオの村長に会った。「爆弾をかかえて突撃する訓練をうけた。月々火水木金々だった。死んだ仲間もいる」と上手な日本語で当時のことを話してくれた。「核の基地があると島がエジキになる。エジキにはなりたくない」ともいった▼「ビキニの核実験の影響でひどい目にあった人びとを私はこの目でみてきた。核兵器も困る、核実験も困る、それが島の心です」という島の政治家もいた。ムルロア環礁でのフランスの核実験に抗議する船「にじの戦士」が爆破された事件は、この「島の心」を抜きにしては考えられない▼そもそもが、スパイ小説もどきの事件だった。舞台はニュージーランドの港である。爆破されたのはアムステルダムに本部がある環境保護団体グリーンピースの船で、死亡したのはポルトガル人のカメラマンである。そして事件直後、2人の男女フランス人が逮捕された▼ロンギ首相の抗議は痛烈だった。友好国に対する主権侵害は「文明国の行動とは思えない」とさえ非難した。オーストラリアのホーク首相も「核実験が安全だというのなら、フランス本土に実験場を移すべきだ」と語った▼フランスでは、国防相が辞め、ファビウス首相が「爆破は命令をうけた国防省所属の情報機関員の手で行われた」と声明した。その率直さは認めるが、ムルロア核実験を中止する気配はまったくない▼フランスの核実験は、最近の10年間で70回を超えている。それが環境に悪影響を与える心配はない、といいきっていいのだろうか。先月、クック諸島のラロトンガで、南太平洋の国々が「非核地帯設置条約」を採択した。仏の核実験を中止させることが条約の主なねらいだった。核を拒むのは島の心であり、オセアニアの心である。 外相会談、ソ連のもてなしにみる対日姿勢 【’85.9.27 朝刊 1頁 (全842字)】  鳩山内閣のもとで、日ソ国交正常化交渉にあたった松本俊一氏に『モスクワにかける虹』という著書がある。その最初のページに、ロンドンのソ連大使館の庭でマリク全権が、松本氏に紅茶を振る舞う写真がのっている▼そこには「フルシチョフに『松本全権とマリク全権はお茶ばかり飲んで』と皮肉られるほど交渉は難航した」と説明がついている。今から30年ほど前の話だ▼時代が変わって1976年秋のニューヨーク。国連総会出席の機会にグロムイコ外相と会った小坂外相は「会談の間に水も出ない。全くあきれた。笑う場面はほとんどなかった」と語った。直前の「ミグ25事件」が影響したのはいうまでもない▼83年8月、東欧・中東歴訪の帰途、モスクワ空港に立ち寄った安倍外相はカピッツァ外務次官の出迎えを受けた。空港貴賓室でのウオツカやキャビアなどのもてなしに、安倍氏は、関係改善へのソ連側の意欲を感じとったものだ。しかし、その後の大韓航空機撃墜事件が水をさした▼舞台は再びニューヨークに移り、今回の安倍・シェワルナゼ会談。ソ連国連代表部を訪れた安倍外相一行には、オードブルの盛り合わせと山盛りのピロシキが用意されていた▼もちろん事前の根回しがなかったわけではない。外務省のソ連担当者は日ソ関係の場面、場面に、飲みものや食べものの話が因縁めいて絡んできたことを十分承知している。こんどの会談が午後7時に始まるので、あらかじめソ連側に「安倍外相は会談がたて込んでいて、夕食をとる時間もないが……」と探りを入れておいたのである▼回答は「おいしいサンドイッチでも」だったが、それを上回る接待ぶりとなった。ソ連の対日姿勢の変化を印象づけたのは確かだ▼次の場面はシェワルナゼ氏の来日による外相定期協議となる。まずは抹茶の苦みに北方領土を託し、和菓子の甘みに友好親善を託すのはいかがであろうか。 彼岸花 【’85.9.28 朝刊 1頁 (全854字)】  皇居の桜田堀に彼岸花(別称、マンジュシャゲ)が群れ咲いている。緑の斜面に、そこだけがあかあかと火をたいているようにみえる。ところどころ白くみえるのは白花のマンジュシャゲだろうか▼半世紀以上も、彼岸花の研究を続けてきた松江幸雄さんが、その成果を『ひがんばな・妖艶な花のすべて』という1冊の本にまとめた。それを読むと、毒花とか地獄花とかいわれているこの花が、いかに私たちの先祖の生活をゆたかにしてくれたか、ということがわかる▼彼岸花は中国渡来の救荒作物、といわれている。しかし大昔は日常に食べる作物として栽培されていたのではないかと松江さんはいう。ゆでて、つぶして、流れ水につけ、毒抜きをして食べたらしい▼カラムシで織物を作る時の糊(のり)、和紙を作る時の糊の原料に使われたという説もある。薬用にもなったし、その毒性を利用して、農耕地の虫よけ、ネズミよけに使われたともいう。人里植物としてずいぶん重宝がられた作物だったのだろう、というのが松江説だ▼稲作がひろまるにつれて、彼岸花の鱗茎(りんけい)はあぜ道や空き地に捨てられた。その子孫がいま農耕地の周辺に群れ咲いているのだろうか。桜田堀の場合も、この一帯が桜田郷と呼ばれる田園地帯であったことを思えば、つじつまがあう▼「死なばこの重き大地よ曼珠沙華」石寒太。この花には死の心象がつきまとうが、筆者はむしろ捨て去られながらも、山辺や墓場や田のあぜに生き残り、ほむらを燃やし続けてきたその生命力に驚く▼今年も庭に彼岸花が咲いた。だが、本数が少ない。誤ってブロックを置き、何本かの芽生えをふさいでしまったためだった。あわててブロックを取り除くと、数本の茎が伸びようとして伸びられず、もやしのような色で地べたをのたうっているのがみえた▼だが、数日後、ねじ曲がっていた数本の茎はすっくと立ち、小さいながらもけなげに花をつけた。 阪神ファンの熱狂ぶり 【’85.9.29 朝刊 1頁 (全856字)】  「今世紀中は優勝できない」と酷評されてきたダメ虎(とら)が、矢のごとく千里を走っている。甲子園での巨人戦を取材してきた同僚の話では、阪神ファンの熱狂ぶりはききしに勝るものであるらしい▼髪の毛を虎模様の黄に染めて球場に来る女性がいる。タイガース印のメガホン、小旗、帽子の三種の神器のほかに、そろいのハッピが球場を埋める。試合前から「六甲おろし」の大合唱である▼相手をツーストライクに追いこむと、1球ごとに何万人ものファンが「ウォー」と腹の底からしぼりだす声で打者を脅す。味方の投手を委縮させる逆効果もあるはずだが、とにかく不気味なふんいきだと同僚はいう▼試合が終わった後も、約20分、スタンドの興奮状態は続く。踊る。泣く。抱き合う。ファンはさらに阪神電車の駅前を占拠し、トランペットの音も高らかに「六甲おろし」を歌い、騒ぎは車内に、大阪梅田の地下街に、と続く。野球を楽しんでいるのか、熱狂そのものを楽しんでいるのか。今はもうこの狂騒をだれもとめることはできない▼スタンドで阪神ファンはいう。「できの悪い子ほどかわいいいうやおまへんか」「長年たまりにたまった憤懣(ふんまん)のエネルギーが爆発したんとちゃいますか」「大阪が東京をやっつけるところがいいんじゃないかしら」▼「何べん裏切られても手が切れまへん。阪神は男を狂わせる」「阪神ファンは反ブランド志向のスタイリストや」。連勝のあと連敗があって、先がわからない、なんやサラリーマンと同じやないですか、という中年のおじさんもいた▼いくばくかの被虐趣味、反中央的なごつさ、長い不安と不快と不満の季節のあとの乱舞、それらが一体となって、巨大な『虎』をみこしに乗せたお祭りを盛りあげているのだろうか▼気になるのはその強烈な排他性だ。お祭りは自他共に楽しむものでありたい。球場周辺では「六甲おろし」公害の声が高まっているそうだ。 オジサン 【’85.9.30 朝刊 1頁 (全841字)】  平凡社の雑誌『QA』に、オジサンとはどんな人種かという一文があった。「いわゆる、これがオジサンなんですね」といった感じの生態説明である▼〈オジサンは駅弁のフタの裏についた米粒をはしの先で丁寧につまんで食べる。メロンをぎりぎりの皮の際まで食べる〉〈オジサンはカレーにソースをかけたがる〉〈オジサンは部屋の明かりを消してまわる〉〈オジサンはデジタル時計よりアナログ時計を愛用する〉▼QAの説明につけ加えよう。〈オジサンはふろで、手ぬぐいを額にのせ、なぜか松山千春の曲をうなりたがる〉〈オジサンは目玉焼きの黄身をチューチューと音をたてて吸いたがる〉▼〈オジサンは8月15日にすいとんを食べたがる〉〈オジサンは、粗大ごみといわれながらも耳せんをしてごろ寝をし、ただで山小屋で瞑想(めいそう)にふけったつもりになる〉▼〈オジサンは舶来品100ドル購買運動に便乗して舶来ワインをしこたま買いこみ、有毒液騒動が起こると、捨てきれずに悩み円形脱毛症になる〉〈オジサンは倍賞美津子さんに「飲もう、オジサンも男、でしょ」と呼びかけられると、捨てきれずにいた有毒液ワインを取りだして飲む〉▼〈自民党の幹部が「戦後、国民の秩序は乱れてきた。教育勅語の教える道徳律を復活させて精神の秩序をとりもどすべきだ。教育勅語の悪いところは1つもない」と主張するのをきくと、オジサンはトカナントカイッチャッテとつぶやく〉▼〈中曽根首相がテレビ朝日の番組で、戦争で鍛えられた経験をなつかしみ「今の若い人たちにそういう経験がないのはかわいそうだ。今はそれだけ会社で鍛えられる」というのをきくと、オジサンはやはりトカナントカイッチャッテとつけ加える〉▼ついついトカナントカイッチャッテをつけ加えてしまう癖を、オジサン族は戦争後遺症の1つだと思っている。オバサン族はどうであろうか。 入江相政侍従長死去 【’85.10.1 朝刊 1頁 (全848字)】  亡くなった入江相政侍従長は、自らを「そこつ者」と称していた。「私が死んだら『ああ、忠臣あさはかの墓』としたいんだが、『はか』がだぶっちゃう」などといっていた▼葉山の海で陛下と共にもぐっていて、向きを変えようとして強く水をけったら、水ではない何かをけっ飛ばした。首をだしてみたら、けったのは陛下だったといった話がいくつもある▼敗戦直後、「万年筆にインクを」と陛下がおっしゃる。インクの入れ方がわからず、あれこれやっているうちにシャフトを折ってしまった。「こわれたか」と陛下は大いに笑われたという。その入江さんがこんなことを書いている▼「陛下が地方へ御旅行になる。お宿でくつろいでいらっしゃると、盆踊りのはやし。ちょっと行ってみようかとおっしゃって鎮守さまへ。若い男女の踊りの輪。しばらくしてお帰りになろうとすると、若者たちが『お送りしましょう』といって多勢ついてくる。陛下は談笑しながらお帰りになる」。これは、入江さんの「そうであったら」という空想の中の情景である▼戦後の一時期は、それに近い雰囲気があった。銚子の漁港で、岸壁に立った陛下が「とれたか」と叫ばれたり、戦災地で「(家を建てる)材料はあるか。クギに不自由はないか」ときかれたり、ということがあった。茨城の時は昼食に焼きイモがでたこともある▼あのころは心のふれあいがあった、あの楽しさが忘れられない、と入江さんはいっていた。「空想」とはかけ離れてゆく昨今の窮屈さと比べる気持ちがあったのだろう▼入江さんは名随筆家としても知られていた。「ゆく春の筍とわかめ、初夏の田楽、夏さりくれば茄子のまるだき、こういうものとソバさえあれば、三度三度でも、毎日毎日でも、天下取った気になるとは、よくよくやすあがりにできている」。季節の食べもの、季節の生きものとのつきあい方を、心にくいほど心得ていた人だった。 「民族の背負い水」 【’85.10.2 朝刊 1頁 (全853字)】  「人間の背負い水」のことを声優の大山のぶ代さんが『水なんだ!?』という本に書いている。人はそれぞれ一生の間に使う水を背負って生まれてくる。水を粗末にすると早く使いきって、早死にする。大切に扱えば水に恵まれて長生きできる、という教えだ▼民族にもまた「民族の背負い水」というものがあるだろう、と思った。厚生省の「おいしい水研究会」にも加わっている大山さんは書いている。「心して水を扱って元に送り返してあげれば、水もまた大事にされたことを覚えていて、必ずよい顔の水で帰ってきてくれるはずです」と。その通りだ▼いま、民族の背負い水は汚れに汚れている。水道水に塩素が大量に使われ、塩素臭が濃くなっている。先月開かれた「国際オゾン会議」でも、そのことの反省から、オゾンによる水道水の脱臭、消毒のことが議論になった▼会議に出席した石橋多聞元東大教授は主張する。「塩素臭だけでなく、塩素化合物が悪臭を放つ場合もある。安全でおいしい水道水を飲むためには、今のような塩素一辺倒を見直すべきだ」▼オゾンを水道水に使う場合は、(1)効力が長続きしない(2)コストが割高になるという欠点はあるが、逆に(1)殺菌、脱臭作用が強い(2)ウイルスに対しても有効、という利点がある。仏、西独、スイスなどで塩素とオゾンの併用が進んでいるそうだ▼千葉県の一部で、どうも水道の水がかび臭いという苦情がでたことがある。印旛沼の汚濁が原因だった。県水道局は、5年前から粒状活性炭による水処理と組みあわせて、オゾンによる水処理をはじめた▼たくさんの穴からオゾンの泡を出して菌を殺し、悪臭をとる、というやり方である。効果はあった。東京の金町浄水場でも、オゾン処理の実験を続け、成果をあげている▼むろん、オゾン処理は対症治療である。おいしい水道水を飲むための大前提は、民族の背負い水を汚さずに大事に扱うことだ。 日米協力のネバーアゲーン運動 【’85.10.3 朝刊 1頁 (全858字)】  北浦葉子さんが一昨年に渡米した時は24歳だった。原爆の映画『にんげんをかえせ』のフィルムを抱えて、単身アメリカ、カナダ、メキシコなどを巡り歩いた。約150カ所で、中学生、高校生など約1万7000人に話をし、映画をみせてきたという。その行動力には目を見張るばかりだ▼まず真珠湾奇襲のことから語りはじめる。その上で、原爆を語る。原爆の被害を訴えるのではなくて、核兵器の恐ろしさを知ってもらうためであっても、そこには日米両国の被害・加害の関係が複雑にからみあうからだ▼「原爆の話をしにくる日本人なんか殺してやりたいと父親がいっていた」と告げる高校生もいた。上映の途中で「悲惨すぎる。やめてくれ」と教師たちがいいだすこともあった▼だが、生徒の多くは「核兵器についてあまりにも無知であることを知った」という感想文を寄せている。賛否があるにせよ、日本の一女性に活動の場を与えてくれた、というところに、アメリカという国の度量の広さ、アメリカ教育界の闊達(かったつ)さを思う▼この夏帰国した北浦さんは、ネバーアゲーンキャンペーン(NAC)をはじめている。まず、米国内の学校を巡り歩いて原爆の映画を見せる日本の若者を募った。(1)核の問題に深い関心をもち(2)英語ができて(3)日本の文化の紹介ができる人、という条件である▼約100人の応募者があった。被爆2世もいた。三味線、尺八、空手、合気道など、それぞれ特技をもつ若者が意外に多かった。6人が選ばれて、1年間、さらに準備の勉強をして渡米するが、選ばれなかった者も交流会を持ち続けるそうだ。運動に共鳴した3人のアメリカ人女性が無償で英語の特訓をする、という話もある▼アメリカでは、ニューヨーク州に住むレイスロップ教授夫妻が中心になって、平和行脚の若者を受け入れる家庭を準備している。日米協力のネバーアゲーン運動は出発点に立ったところだ。 高見順展 【’85.10.4 朝刊 1頁 (全854字)】  横浜で『高見順展』を見た。場所は港の見える丘公園内にある「神奈川近代文学館」である。晩年の高見順はがんと闘い、4回の手術をした。「がんも、ぼくの魂にだけは食いつけないさ」といいながら名詩集「死の淵より」を残して世を去った。あれからもう20年もたつのかと思う▼「如何なる星の下に」の作者が、実に味のあるデッサンを数多く残していることを知った。人に見せるつもりはなく、楽しみながら書いたものだろうが、スケッチ帳の中のヤナギランやそのほかの草々は、いかにも「われは草なり生きんとす」という調子でみずみずしい▼作家・高見順にとって、この素描は何を意味していたのだろう。息抜き。気分転換。頭をならすためのもの。無意味な行為の楽しさ。ある夜は、同じ洋梨(ようなし)の画を18枚も描き続けている。そこにはこんな添え書きがある。「金で売る必要のないかういふ遊びは楽しい」「いくら書いてもあきないのは何故か」▼スケッチの場合は気楽に筆が動く。だから楽しい。楽しんで写生を続けながら、高見順は問い続けたはずだ。小説原稿の場合はなぜこのように、すっすっと気持ちよく書けないのか、と▼原稿が書けない、だから絵に逃れるというのではなくて、絵を描くという己の行為の中から、楽しみながらものを書く秘密の術を盗みとろうとしたこともあったのではないか▼その1つは、あるがままの姿をそのまま描く、ということではなかったか。高見順は生きもののあるがままの、作為のない姿に、畏敬(いけい)に近い思いを抱いていた。それは、犬が自分を見つめるひたむきな目であり、力にあふれた樹木の姿であった▼死の直前、庭に立つカエデの新芽を見て歌った。「空をめざす小さな赤い手の群 祈りと知らない祈りの姿は美しい」。ここにも、作為のないものへの畏敬がある。秋子夫人は、夫の墓のわきにこのカエデを植え、この絶唱を碑に刻んだ。  抜かずの宝刀「地価凍結」 【’85.10.5 朝刊 1頁 (全858字)】  いつもふしぎに思うことだが、地方自治体はなぜ、国土利用計画法によるいわゆる「地価凍結」の条項を抜かずの宝刀のままにしておくのだろう。ある地域で地価が急騰する恐れがある時、取引に介入して価格を抑える、というのがこの条項の趣旨だ▼かつて民権論者の大井憲太郎は「土地ハ飽ク迄社会ノ公共財産」であると主張し、土地によって利を得ることを戒めた。その精神はこの法律の地価凍結策に反映しているように思う。11年前にこの法律が誕生した時、役人たちは「最後の切り札を準備した」「土地対策の歴史上、画期的なもの」ともてはやした▼半面、せいぜいおどしの役目しか果たせぬカカシさ、という冷ややかな目もあった。今はそのカカシの役目さえ果たせず、宝刀は1度も抜かれぬまま、さびついてしまったようにみえる▼東京都心部の地価は、年間4、50%もの暴騰を続けている。1坪約5000万円という銀座の土地もある。たった1坪の土地が、平均的サラリーマンの退職金の4、5倍にもなる、という異常な状態をなぜ、放置しておくのだろう。放置すれば、それは住宅地にも影響を与える。しかも大都市商業地の地価高騰は、大阪や名古屋でも起こっている▼都庁の新宿移転で、業者の土地あさりが盛んだという。ビル需要はさらに急激にふくらみ、地価が高騰し、立ち並ぶビルが街から「住民」を追いだしてゆくのが目にみえている。都は今のうちに国土利用計画法による「地価凍結」の手を打つべきではないか。法律になお不備な点があるのなら、早急に見直すべきではないか▼数年前、埼玉新都市交通が誕生する時、畑埼玉県知事は沿線の地価急騰を抑えるためこの宝刀を抜こうとした。だが国土庁の慎重論でつぶれたという。法律施行のころ、法の発動は「すべて知事にまかせる。それをとめる権限はない」と当時の国土庁幹部がいっていた。あいにく、その精神はひきつがれなかったらしい。 コアラの死 【’85.10.6 朝刊 1頁 (全839字)】  雌のコアラのパープルが死んだ。ストレスが原因だった。続いてやはり雌のユカリが死んだ。これもストレスらしい。この知らせをきいて、オーストラリアの民主党党首チップ氏は、日本にコアラを贈ることを中止するよう呼びかけているという▼わが国では、安楽死処分にされる捨て犬や捨て猫の数は毎年、70万匹を超すといわれている。コアラの死を悼む気持ちの中で、70万匹の犬や猫の死、ということがどうしてもちらつく。そのことに目をつぶって、コアラの死だけを論ずる気持ちにはなれない▼あるいはまた、エリマキトカゲのことがある。あの熱狂の中で、70匹ものエリマキトカゲが日本に「上陸」させられたことは記憶に新しい。ヤミで持ち込まれ、冬を越せずに死んだものも少なくないという。私たちの動物とのつきあい方にはなにかひどく冷酷なところがある。おびえて死んでいったコアラはあわれだが、惜しまれての死であっただけにまだしも幸せだったというべきか。いや、これもまた人間の手前勝手な解釈かもしれない▼コアラが死んだからといって、ただちに「だから連れて来るべきではなかった」という合唱に加わりたくはないが、昨今のコアラ誘致合戦は、やはりやや異常だった▼この1年間に13匹がやって来たし、さらに12匹が来る予定だという。コアラのような繊細な動物の場合は、もっと落ち着いた形で飼育体験を積み重ね、5年、10年がかりで徐々に数をふやす、という道を進むべきではないか▼昔、中国に四不像という珍奇なシカの仲間がいた。絶滅寸前の時、イギリスで飼育されたものが次第に数をふやし、いまは世界各地で数百頭を数えるまでになった(日本の多摩動物公園にもいる)。この四不像を本来の生息地である中国へも送る、という話がある。専門家の飼育の努力が種の保存に役立つことがある、という話をつけ加えておきたい。 核軍縮問題と在日米軍基地 【’85.10.7 朝刊 1頁 (全838字)】  ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長はフランス訪問中に包括的な軍縮提案を明らかにした。その中で、青森県・三沢基地とのかかわりが注目をあつめている▼お互いの領土に届く核を50%削減する部分との関連で、三沢の米空軍F16の核も交渉の対象になる、とソ連側が説明したからである。「核なんかありはしない。誤解して宣伝しているんだ」(中曽根首相)と政府はさっそく不満を表明した▼非核三原則を国是としている以上、当たり前といえる反論だろう。だが、政府が核攻撃能力のあるF16部隊の三沢駐留を、抑止力を強化するという立場から受けいれたのも事実である。再来年までに、その規模は52機にふくらむという▼F16は、最新鋭の戦闘機で、空対空、空対地の攻撃能力にすぐれている。しかも搭載能力が大きい。いったん有事になれば極東ソ連軍基地をたたく、いわゆるヤリの機能の中核をなすとみられるだけに、核搭載への懸念はつねに指摘されてきた。アメリカの軍事専門家が「基地内に核兵器を貯蔵する施設がある」と暴露したことも一度ならずあった▼政府は、アメリカの核戦略を支える通信施設が在日米軍基地に置かれていても、非核三原則上、問題はないと答弁してきた。こんどのソ連の態度は、日本政府の政策的な矛盾をついてきた感じだ。つまり、片方で核を含む米国の抑止機能の強化を評価しながら、一方では非核三原則をタテに核は存在しない、といっても通らないというわけである▼日本国民の多くが「持ち込ませず」は守られていない、と疑問をもっている。ソ連が在日米軍基地の核能力に神経をとがらせそれを計算に入れるのを、ただ「誤解であり、宣伝だ」と切って捨てられるだろうか▼米ソ両超大国の利害が鋭く対立する核軍縮問題で、わが国の米軍基地とのかかわりが登場したこと、このことに困惑を覚えた国民は少なくないだろう。 オバサン族はたくましい 【’85.10.8 朝刊 1頁 (全853字)】  先日、オジサン族の生態説明なるものを書いたらオバサン族の方々からたくさんの楽しい便りをいただいた。そのほんの一部を勝手に引用させていただく▼〈オバサンはバーゲンで衝動買いをしても夕食のおかずを倹約して帳じりをあわせる〉〈バーゲン会場では目の色を変えて走り回るくせに、他人にはたいしたことなかったなんていっちゃう〉▼〈オバサンは娘の古着をつくろって身につけ、ワープロ教室にでかける〉〈オバサンはオバサンっぽいヘアスタイルにばっちりきめてくれる美容院には二度と行かない〉▼〈オバサンは一口ほどの食べ残しを捨て切れず、小皿に移して冷蔵庫に納める〉〈オバサンは『歯磨きがない』といわれても5日は新しいのを出さず、とことん使い切る〉〈オバサンはカレーの残りを凍らせておいて1人の時にとかして食べる〉▼〈オバサンは電車の中で足を広げている若者の前で、よろけたふりをしてその靴をつっつく。若者が足を引っこめてすき間ができると、おしりでかきわけて座りこむ〉▼〈オバサンは戦争をかっこいいなんていうガキどもを見ると、行っておいでよ人殺しに、行っておいでよ殺されにといって怒りだす〉〈オバサンは諮問機関の諮問を私問にすりかえるような人は信用しない〉〈オバサンは首相発言にトカナントカイッチャッテとつぶやくオジサン族をみると、意気地なし、はっきりせいとどなりたくなる〉▼男女どちらに生まれた方がよかったかという問いに、昔は「女性」と答える女性が少なかった。50年代は27%ほどだ。それが80年代には56%にもふえたという調査があった。このことは、カルチャーセンター・劇場・美術展でのオバサン占有率の増加、共働き率やパート就労率の増加と無関係ではあるまい▼主婦症候群や思秋期で落ちこむことがあるにせよ、「男性にくらべれば女性はずっとたくましい」と高名な精神科医のオジサンはいっている。 消えゆく花の香り 【’85.10.9 朝刊 1頁 (全843字)】  大阪で点訳絵本の家庭文庫をやっている主婦の岩田美津子さん(33)が、あるパーティーでバラの花束をもらった。においがしないので造花かなと思ったら、手にチクリと触れるトゲがある。やっぱり本物だった▼岩田さんは子どものころからバラが大好きで、部屋にバラを飾るのがなによりの楽しみなのに、その楽しみが近ごろ薄れてきたといった。この人は生まれつき全盲である▼バラは植物性香料の代表で、香りの女王といわれてきた。けれども、いまどき花屋に出回っている切り花用のバラは、あまりにおわない。これから香水をとるわけではないのだから、においなどどうでもいいというのだろうか▼バラづくりは品種改良の連続だ。年に何十種と新種がつくられ、バラ色ってどんな色だったかな、と思うくらい色は豊富だし、100枚近い花弁をもつ大輪もある▼品評会がいい例だが、審査の対象となるのは色や形、あるいは大きさだけで、香りはあまり問題にされない。商品となると、さらにそこに生産性のよしあしが加わる。切り花として1本でも多くとれる品種がほしくなる▼専門家の話だと、10年ほど前まではまだ香りの品種も残っていたが、石油ショックがにおい喪失に拍車をかけた。同じハウス栽培なら、なるべく低温で、つまり少ない燃料費で花が開き、しかも見ばえのする品種がいい。競ってそれを手がけているうちに、においはさらに吹っ飛んでしまったという▼花は香りで虫を呼ぶ。虫は香る花にミツのあるのを知って群がり、そのために花粉が雌しべについて受精する。けれども、ビニールハウスの中では虫はいらない。どうせ1回きりの花のいのちだから、受精の必要がないのだ▼秋は香りの季節でもある。澄んだ空気は、より遠くへ香りを運ぶ。なのに目に見えない香りは、目にあざやかな色や形に押されて、しだいに消え去ってゆく。キクの花も同じだと聞いた。 『山椒魚』の最後の部分 【’85.10.10 朝刊 1頁 (全841字)】  井伏鱒二さんが名作として知られる短編『山椒魚』の最後の部分をばっさりと削ってしまった。岩屋の中に住んでいるうちに、体が大きくなって外に出られなくなったサンショウウオのろうばいと悲しみを描いたあの作品だ▼サンショウウオは、紛れこんできたカエルを岩屋に閉じこめる。激しく口論し、互いに「お前はバカだ」とののしりあう。1年たち、さらに1年が過ぎて、やがて両者は和解し、カエルは最後に「べつにお前のことをおこってはいないんだ」と語る。今度刊行された「自選全集」では、この和解から許しに至る部分が消えた▼『山椒魚』は大正時代に別の題で発表され、昭和初期に改作改題された井伏さんの代表作である。それだけに発表後60年近くたっての修正は反響を呼んだ。自分の文学への厳しい姿勢に驚いたという人もいれば、「大好きな作品なのになぜ直すんですか」と直接電話してきて残念がる人もいたという▼東京・荻窪の自宅を訪ねると、井伏さんは困ったように「ボクはどうすりゃいいのかね。もう刷っちゃったし」といった。「動物なんだから、幽閉されたらそのままの方がいい」「横光利一は最後がうまかったけど、ボクのはよくない」「あれは失敗作だった。もっと早く削ればよかったんだ」▼井伏さんには『黒い雨』という作品もある。原爆被爆者の日常を描いて、戦後の、最もすぐれた反戦文学の1つとも評されている。使命感などなかったが、書いている間、不思議なまじめさにとりつかれたそうだ。「妙なことを人間は考えたものだ。神様や道徳なんか無視してしまった」「空想するだけで恐ろしい。どうにも耐えられない」▼『山椒魚』の末尾削除は、もしかすると87歳になった作家の、人間と現代文明への絶望ではなかったか。井伏さんは、もう一度困った表情を浮かべてそれには答えず、反核運動はどうなっているんですか、といった。 有名虚名 【’85.10.11 朝刊 1頁 (全843字)】  陳舜臣さんが書いた作品に、中国の杭州、西湖のほとりに立つ岳飛(がくひ)の墓と、鎖で縛られた秦桧(しんかい)夫婦の石像の話が出てくる。岳飛は忠臣、秦桧は敵役だ。人々は岳飛の墓に参ったあと、秦桧夫婦の像に小便をひっかけるならわしだったという▼名声か悪名かによって、ずいぶん違った扱いである。ところが、近ごろの日本社会で、その名の善悪美醜にかかわらず、有名でありさえすれば良しとする風潮が生まれてきた。「有名無実」とは、名ばかりあって実質のない事をいう言葉だが、今では、たとえ虚名であっても、それは実利や権勢をもたらすらしい▼たとえば、疑惑に包まれた人物が、疑惑ゆえに有名になる。彼はカメラに追われて、ほとんど私生活を破壊される一方で、マスコミに登場することによって収入を得たりもした。世間もまた、この有名人と握手したがり、有名人が経営する店に殺到する▼日航機墜落事故で奇跡的に助かった少女に、芸能界の関心が集まっているそうだ。ロープにつり下げられ、ヘリコプターに救助される少女の姿を撮った写真が、タレント売り出しの宣伝費に換算すればいくらいくら、などと勘定する者もいると聞いた。有名をただちに実利とする業界にとって、少女の悲嘆は眼中にない▼何かの拍子で有名になった人を政界がねらう例は、もはや珍しくなくなった。せっかくの知名度を集票に生かそうという算段だ。社会の矛盾を憤り、その解決に情熱を燃やすといった政治家本来の資質よりも、大向こうをわっと沸かせるタレント性が、この業界でも、いつの間にか肝要になっている▼運命のいたずらで無名だった人が、ちょっとした有名人になる。すると、マスコミが追っかけ回して、ちょっとした有名人が、みるみる大有名人になる。こんな雪だるまの法則が働いているうちに、「名を売る」論理が「名を惜しむ」倫理を駆逐してしまった。 俳優としての生涯 【’85.10.12 朝刊 1頁 (全851字)】  「オーソン・ウェルズは、ハリウッド映画に知性的なものをもちこんだ第1級の俳優、監督だった。対照的に、ユル・ブリナーは、ショー的な世界に徹したみごとな芸人だった」。映画評論家の淀川長治さんの話だ▼ウェルズは、26歳の若さで人生の頂点に立ったようなところがある。『市民ケーン』の製作、脚本、監督をまかされ、自ら主人公を演じ、野望に満ちた怪物の青春、あるいは青春の怪物性を描いた▼20代で生涯の最高傑作を創造してしまう、ということはある意味では悲劇的なことだろう。後年、ウェルズがいたずらに自らを怪物視させようとすごむ姿は「滑稽であり、無残である」(佐藤忠男氏)という評さえあった▼自由人の立場を貫いたウェルズは、ニューヨークの反核集会に参加し、「もうわれわれはレーガン大統領のいうアメリカ人ではない。目をさまし、核兵器に反対しよう」と呼びかけている。俳優レーガンは4つ年上だ▼ウェルズは10代で神童と呼ばれたが、ユル・ブリナーの10代は空中曲芸師だった。ブリナーがあの商標のツルツル頭を守り通さなかったなら、俳優としての生涯はもっと違っていたことだろう▼黒沢明の『七人の侍』を「映画史上もっともすぐれた作品のひとつ」と認めたブリナーは、これを翻案した『荒野の七人』に出演した。だが黒沢作品にはとうてい及ばない、と述懐していた。ベトナム難民の少女2人を養女にしたことでも、人道主義をふりかざさず「あれは子どもほしさの利己的な動機からさ」といっていた。苦労人らしい言葉だ▼肺がんを宣告されてからも、『王様と私』を演じ続けた。舞台を見た淀川さんは「最後まで立派にやりとげようとしていることがよくわかった。舞台がなかったらもっと早く亡くなっていたかもしれない」と語っている。「人生に限界はない。全人生が絶頂を求める永遠の探究だ」。この自分の言葉を忠実に守った人だった。 今年度のノーベル平和賞 【’85.10.13 朝刊 1頁 (全849字)】  テレビの画面に子どもたちが遊びながら未来の夢を話しあう姿がでてくる。1人が詩人になるという。1人は医者になるという。突然核爆発が起こって、おもちゃが吹っ飛ぶ。建物が崩壊する。「大きくなった時、生きていたい」。そんな少女の声がきこえてくる▼アメリカのマサチューセッツ州公衆衛生局が作ったテレビ用のメッセージだ。「核戦争の破滅的な影響を考えることは、公衆衛生上の重要課題」という発想が、この公報らしからぬ公報を生んだらしい▼公衆衛生の当事者や医師が、それぞれの責任感から核の問題と取り組む機運が強まっている。今年度のノーベル平和賞が贈られる『核戦争防止国際医師の会』も、その一連の動きの中で誕生した組織だ▼核戦争が起これば、即死を免れるものがいても、放射線の影響で白血病などに襲われる。伝染病もひろまる。多くの医師が死に、医薬品もなく、絶望の中で人びとは死んで行く。「核の冬」の襲来もある▼人間の健康を守る、という医師の責務をつきつめて考えれば、核戦争を防ぐことに力をつくさねばならぬ。そう主張する医師たちが国際組織をつくったのは5年前のことだ。スウェーデンのパルメ首相も、早くから「医師グループの新しい運動」には着目していた▼組織の中核にいる米国のラウン教授もソ連のチャゾフ氏も、共に心臓病の権威だ。たまたま会議に同席していた2人は受賞の知らせをきき、抱き合って喜んだという。この姿が象徴するように、米ソ、西と東の医学者の協力、ということが受賞の大きな理由だろう▼米ソ両大国の核軍備競争とは別に、科学者の間にはすでにいくつかの協力的な仕事がめばえている。米ソの科学者が「核の冬」を論じあうことが珍しくはなくなった▼地球は核戦争発生の「3分前」にあるという。アメリカの科学雑誌は、こう表紙に書いている。「だからこそ今、私たちは何ごとかをなさねばならぬ」と。 上高地の紅葉 【’85.10.14 朝刊 1頁 (全855字)】  上高地を歩いた。最初の日は雨の中を歩き、2日目はあふれる光の中を歩いた。穂高の山々には冠雪があり、明神岳の紅葉・黄葉はもう、梓川の川べりにまでおりてきていた▼川の流れは光の角度で透明にもなり、淡い青緑色にもなる。白い河床にはるいるいと横たわって土に化しつつある枯れ木がある。ケショウヤナギやオノエヤナギの群落が川風にゆらめいている▼空に突き刺すカツラの黄葉はきはだ色とでもいうのだろうか。「黄葉大樹そは歓喜とも悲哀とも」永野孫柳。黄に染まる大樹のまばゆいばかりの明るさの中には、心に陰を落とすものがある。ふり仰ぐと青空にしみる絹雲があり、逆光をあびた山々の針葉樹は不機嫌そうな陰をつくっていて、黄や紅の部分だけが浮き立っている▼山野の草木が美しい紅葉になるには条件がある。(1)晴天が続くこと(2)その割合には温度が上がらないこと(3)土壌中に燐酸(りんさん)の少ないこと(4)土壌中に銅の存在すること。(1)と(2)は気象条件だから毎年変わる。紅葉の美しさはお天気しだい、と矢野佐さんが『植物漫筆』の中で書いている▼黄葉とは違って、紅葉の場合は、葉緑素の消失と共に紅の色素が生成されるが、この色素は光や温度に敏感らしい。ことしの上高地の紅葉が鮮やかさを欠くのはやはり長雨のせいだろうか▼淡い洗朱(あらいしゅ)色の衣が深紅の宝珠を包んでいるのはマユミの実だ。ナナカマドの実が緋(ひ)色に燃えている。オオカメノキの実は、1粒1粒が小さな紅玉石である。カンボク(肝木)の実は唐紅に光り、陽気な娘たちの髪飾りにふさわしい。うす暗い林床にはフッキソウが白玉の実をつけている。地に倒れたユキザサの赤い実が、長雨にぬれそぼっている▼やがて姿を消す木の葉の1枚1枚とは逆に、木の実の1粒1粒には、やがて姿を現すもののいのちがある。「妻の手に木の実のいのちあたたまる」秋元不死男。 単身赴任者問題 【’85.10.15 朝刊 1頁 (全857字)】  弊社のことで恐縮だが、社内報に単身赴任者たちが「クッキング手帳」なるものを書き、腕前を披露していた。それにはたとえば、アサリなどのしぐれ煮を買い求め、米と一緒に炊きあげる「しぐれ弁当」の秘法が公開されている。「カツラむきしたニンジンをさらに千六本に刻んで」などというところは相当なものだ▼「オリーブ油かサフラワー油をフライパンで熱し、ニンニクのみじん切りを少しと、ベーコンの千六本(そんなものあるかしら)をカリカリにいため」と続く。がんばってるなあ、と感心するのみである▼金曜日の夜、東京駅や新大阪駅には家族のもとに帰る金帰月来族の群れが現れる。「ひかり」の下り2本、上り1本が増発になるそうだ。国鉄はこれを「単身赴任列車」と呼ぶ▼人事院の実態調査によると、国家公務員の単身赴任者の率は民間企業を上回るほどだという。家庭をもつ転勤者のうち、4、50歳代では3人に1人が単身赴任だ。子どもの教育のことなどが、夫を、時には妻を単身赴任に走らせる▼官民を問わず、家族から離れて暮らすことには3悪がある。(1)二重生活による経済苦(2)家族のつながりがうすれる(3)生活が荒れる。さらに、食生活の偏りがあり、心身症の問題がある。体がだるい、胃が痛い、息苦しい、といった症状がでてくる▼「好きで流れて来たんじゃないと/歌う歌さえ言い訳ばかり……」(鳥井実作詞)という単身赴任者の歌が生まれる世の中だ。この問題はもはや、たんなる会社問題ではなくて、社会問題になった、といってもいいだろう▼都市によってはすでに単身赴任者用の専用マンションが生まれている。冷蔵庫やテレビを貸すだけではなく、掃除、洗濯、夜食のサービスも用意する。1人用パック食品を売り出したデパートもある▼たとえば単身赴任減税を実施するとか、親の転勤による学校編入を弾力的にするとか、政治の場での論議が一番遅れている。 中曽根首相の所信表明演説 【’85.10.16 朝刊 1頁 (全840字)】  中曽根首相の所信表明演説をきいていて、言葉が耳のわきを素通りしてゆく感じがあった。いっていることのおおよそはわかる。わかるけれども、心に伝わってくるものがないのはなぜだろう▼首相は「感激と情熱を国民と政治家がわかちあう」ことが大切だと説く。それを説くならば、真実の輝きをもった肉声で語ってもらいたかった。演説内容を新聞で読んで、言葉が素通りするのもむりはないと思った。第1に官庁用語的なきまり文句が多すぎる▼いたるところに積極推進・着実努力がある。あれこれのことを抜本的に見直して、検討を急いで、万全を期すという。ふたこと目には、万全の努力を重ねる、全力で取り組む、全力を尽くす、一層努力する、である。努力の人も結構だが、はてさて、どのようにして努力されるのかとなると、これがさっぱり心に伝わってこない▼第2。空疎な言葉がめだつ。米ソ間の対話を実りあるものにするよう「支援していく所存」だという。支援とは何か。いつ、どのような形で支援するのか。その有意義な計画を明らかにしてこそ、支援という言葉は意味をもつ。計画もなしにそれをいうのでは、しらじらしい▼第3、あいまいな表現がめだつ。防衛計画では「昭和51年の閣議決定(GNP比1%枠)の趣旨を、今後とも尊重するよう努めてまいる所存であります」という。わざわざ「趣旨」という言葉をつけたのはなぜだろう▼趣旨は尊重するが1%枠を破ることもある、というつもりなのか。なぜここで、1%枠を守ることに「全力で取り組む」と断言しないのか。趣旨尊重といってもそれは言葉遊びにすぎないのではないか、という思いにとらわれる▼モンテーニュは厳しいことをいっている。「われわれのおたがいの理解は、ことばという道だけを通っておこなわれるのだから、ことばを偽る者はおおやけの社会を裏切る者だ」(荒木昭太郎訳)。 取材活動と真実 【’85.10.17 朝刊 1頁 (全855字)】  もう30年前の話になるが、ある開拓農家の「3つ子」を取材したことがある。ムシロ敷きの小屋には臭気が充満していた。3つ子は毎日、おしめなしの状態で泣き叫び、野良仕事にでた母の帰りを待つのである▼役所の勧告で、乳児院に預けることになった、と母親は語った。つらいことだともいった。カメラを構えた。すると母親は待ってくれといって、3つ子に白い毛糸の晴れ着をきせた。いやありのままの姿を、といいかけて声をのんだ▼どうです、この酸鼻をきわめた光景は。これが現実です、と得意げに読者に伝えようとする己の頭を一撃された思いがあった。土足であがりこもうとする若者に対して、母親はいいたかったのだろう。記者さん、どうかかんべんして下さい、子どもたちのみじめな写真をとることだけは、と▼この小さな出来事はかけ出し記者にさまざまなことを教えてくれた。1つ、取材活動につきまとう宿命的なごうまんさと、記者は常に闘わねばならないこと▼1つ、真実に近づくのは難しい、と考える謙虚さをもたねばならぬこと。垂れ流しの3つ子の姿も真実だが、晴れ着をきせる母親の心にも真実がある。真実に近づくには、何日も生活を共にして、自分を現実にとけこませるという愚直な営みが必要になるだろう。数時間の訪問で、どうして開拓農一家の苦しみをはだで知ることができよう▼真実に近づくのではなく、真実らしきものをお手軽にたぐり寄せるところにやらせが生まれる。自分自身をいかに現実にとけこませるか、それとも現実めいたものを自分の手でつくるか、それが分岐点だろう▼1つ、人は演じたがるということ。子に晴れ着をきせるのは、よそいきを演ずることになるし、一国の宰相が座禅姿をテレビに公開するのも、一種の演出だろう。そこでは、演ずる人の意図を見抜く眼力が大切になる。今は、やらせと自己演出の境界を見きわめるのが難しい時代になっている。 エイズ 【’85.10.18 朝刊 1頁 (全847字)】  エイズ(後天性免疫不全症候群)という病気がこんなにも人相を変えてしまうものかと思った。往年のハリウッド映画スター、ロック・ハドソンのことだ▼かつて共演したことのあるエリザベス・テーラーは「全米エイズ研究基金」の設立を呼びかけ、ハドソンも生前、この運動に25万ドルを提供している。アメリカのエイズ患者は約1万2000人といわれており、うち約半数が死んでいる。血液内にウイルスをもつ保有者は約100万人、と推定されている▼症状の進行がはやい、致死率が高い、有効な治療法がない、などの点からエイズは恐れられている。テレビ局では、感染を恐れてエイズ患者の取材を拒むスタッフがでたりしている。手を握る、食器を共にして食事をする、そばに座る、といった程度では感染しない、という鎮静剤的な解説も積極的に行われているそうだ▼日本も、人ごとだと思って安心してはいられない。いまはまだ患者数も少ない。ウイルスの保有者も3000人程度と推計されている。この数は次第にふえてゆくのではないか▼わが国の場合、ATL(成人T細胞白血病)という病気もある。この病気のウイルスは、エイズのウイルスの親類筋にあたり、やはり輸血、血液製剤、体液を通じて感染する。保有者は毎年4万人ずつふえ、全国で約100万人に達している、という報告もあった▼エイズにせよATLにせよ、今のところ撲滅のきめ手はない。だが、献血についてきちんとした検査体制をとれば、少なくとも輸血による感染は防げるのではないか。両者のウイルスの検査法については、日米の企業から認可の申請がでている。厚生省は審査を急いでもらいたい▼検査にはかなりのカネがかかる。とくにエイズの場合は、まだウイルスの保有者が少ないのだからもう少し様子を見て、という主張もあるだろう。しかし火はボヤのうちに、早めに消しておかないと燃えあがる。 突発事件・事故にもカラー紙面で 【’85.10.19 朝刊 1頁 (全870字)】  ことしの新聞週間は印刷の仕事についてお伝えしたい。日航機事故、バスの転落事故、阪神優勝と、最近はニュース面のカラー写真がふえているが、これも長島茂雄さん風にいえば「いわゆる時代の要請」であろうか▼日航機事故では何回もカラー写真がのった。事故発生の日「日航機が消えた」という一報が印刷の現場に入ったのは午後7時すぎである。「こりゃ忙しくなるぞ」。印刷部次長は、常に最悪の事態を予測する己の悲しい習慣をのろった。そしてその予測はあたってしまった▼ヘリで撮影した墜落現場のカラーフィルムが本社に届いたのは午後10時すぎである。やみの中で鬼火のようなものが燃えているいたましい写真が、色分解担当者の手に渡ったのは10時30分、色分解作業終了が11時35分、あわただしく印刷に入る。テスト刷りをする余裕はなく、ぶっつけ本番で輪転機が回りはじめた▼カラー印刷はふつう(1)あつくて(2)白い紙を使い(3)ゆっくり印刷すれば、いい色がでる。だがニュースのカラー写真では(1)うすくて(2)白色率の高くない紙を使い(3)急いで印刷しなければならぬ。その制約の中で、鮮明な色をだす。それが腕のみせどころだ▼とくに最近は、省資源の要請もあって紙は軽く薄くなっている。昔4ページ23グラムだった新聞紙が、今は20.5グラム程度になっている。紙が薄くなるにつれて、苦労もふえる。印刷部員は、赤、青、墨、黄の4色のインキを自在に操る魔術師でなければならぬ。輪転機の前で、ルーペを使って0.2ミリの色ずれまでも微調整する▼この夜は朝刊の仕事と共に、号外の印刷、夕刊用のカラー印刷の準備もあって、徹夜作業が続いた。印刷部次長が社のベッドに入ったのは、朝の8時だ。子どもの犠牲者が多い、という話がちらついて眠れない。2時間後に起きる。「生存者がいた!」というニュースに、次長は寝不足も忘れて、新しい号外の準備にかかった。 教育難民 【’85.10.20 朝刊 1頁 (全851字)】  ロンドンの旅から帰った同僚のみやげ話である▼大英博物館を見に行った。前庭のベンチで休んでいたら、近くにいた日本人青年が話しかけてきた。「最近なにか日本に変わったことはありませんか?」▼半年前から英国に来て、片田舎にある全寮制の語学校で勉強しているのだという。卒業したあと日本に帰るのか、と聞くと、「日本には帰りたくないんです」。突然、たたきつけるような口調になった。なぜ? 「あんな学歴社会は、いやなんです」▼青年の話したままを書くと、私大の付属高校の出身で、その大学には志望の学科がなかったので、専門学校に進んで、やりたい勉強をした。そして大企業に入社した。しかし「一生懸命やればやるほど、バカを見る」ことが分かった▼一言でいうと、せっかく打ち込んでいた仕事を、無造作に取りあげられて他に移される。それが何度も続いた。自分が「埋め草」にすぎないからだと感じたとき、「こんな国にいたくない」と思い始めた▼その会社に6年いて蓄えた金が底をつくまでに、できれば欧州のどこかに定住のメドをつけたいのだ、といった。でも、ときどき日本語をしゃべらないと「気が狂いそう」になり、こうしてロンドンへ出てくる。別れを告げると、「話し相手をしていただいて、ありがとうございました」と、礼儀正しくおじぎをした▼別の日、英国南西部にあるカレッジを訪れた。日本からの留学生が4人いて、応対してくれた。独特のエリート教育で知られる学校で、みな日本の著名進学高校を中退して来ている。日本にいても一流銘柄大学へ入れるのに、英国の大学に進むつもりなのだ。「日本の学校はきらいなの?」と、4人のうちの女子学生に聞いたら、一瞬ためらったあと、「そうです」。きっぱりとした答えだった▼英国にはアジア、アフリカからの難民が流れ込んでいる。日本からの若者たちも、いわば「教育難民」なのかもしれない。 未来人環境選択権宣言 【’85.10.21 朝刊 1頁 (全855字)】  《未来人環境選択権宣言》という発想がおもしろい。わかりやすくいえば私たちの子孫が「こんなことだけは絶対しないでもらいたかった」と考えるような環境汚染、環境破壊をしてはならぬ、ということである。未来人の環境選択権を侵すな、という宣言だ▼押田勇雄氏編の『都市のゴミ循環』を読むと、この奇抜な宣言がでてくる。奇抜ではあるが、説得力がある。都内の保健所や区役所で働く若手実務者のソーラーシステム研究グループがまとめたこの本には、このままでは東京が、いや日本が滅びてしまうという危機感がみなぎっている。ゴミを大量に焼却し、大量に埋め続ける都市のありように対する批判がある▼厨芥(ちゅうかい)はそのまま捨てればゴミだが、選別して工場で加工すれば立派な肥料に生まれ変わる。木の葉も焼却場に持ち去ればゴミだが、土に戻せば栄養分になる。紙も捨てればゴミだが、回収されれば再生紙の原料になる▼現実はどうだろう。人びとは無造作にゴミを捨てる。東京都では広大な面積の山を崩してゴミの埋め立て地を造っている。底にはビニールや合成ゴムが敷いてあるが、50年後にこれが破れて地下水汚染の元凶になる恐れはないのか▼ゴミ焼却場から流れる水銀蒸気がいつか、濃度をまして未来人に危害を与えることはないのか。工場排水による地下水汚染はどうなるのか。グループはこういう問題に対し、警告を発する▼一つ一つの商品に、生産規格と同じように「廃棄規格」を定め、回収、再利用をしやすいようにしよう、たとえば回収後、水銀を抽出しやすいような電池の規格を作ろう、という主張もあった。捨てるモノを減らし、捨てるべからざるモノを捨てないこと、捨てる文化を考え直すこと、それが未来人の環境権を守るための鉄則の一つだ▼宣言はつけ加えている。「憲法前文のとおり、自国のことのみに専念して他国の未来人環境選択権をも侵してはならない」 沖縄と米軍基地 【’85.10.22 朝刊 1頁 (全846字)】  「一生懸命に働いて、稼いで、何が悪い、どうして批判されねばならないのだ、と日本が感じるなら、西側諸国とのつき合いをやめてくれてもよい。とにかく自分だけが利益をあげるやり方はもう認められないが、どうするか」▼これが、国際社会から突きつけられた質問状だと村上特派員が書いている。自分たちの姿が世界の鏡にどう映っているかにたえず心を向けなければ、相互依存の国際社会に生きられない、ということだろう▼総理府の調査によると、沖縄の米軍基地は「日本の安全にとって危険」と答えたものが32.4%もいたそうだ。「必要でない」が21.5%で、あわせると半数を超す。4年前の本社調査では、沖縄の米軍基地に不安を感じると答えた人が7割近くもいた▼「日本のただ乗り」を難ずるアメリカの政治家は、基地の姿が沖縄社会の鏡にどう映っているかを、どの程度つきつめて考えているのかと思う。日本のただ乗りを非難する声の中にあるいらだちや不満の根の深さは、謙虚に見つめなければならないが、沖縄にもまたアメリカのただ乗りを非難する声がある▼たとえば沖縄の米軍基地の用地料だけでも、日本政府は年間、400億円を超すカネを支払っている。これは私たちの税金だ。この巨大な軍用地に、全国の米軍専用施設の75%が集中している。米アジア戦略の一大総合拠点基地といわれる嘉手納基地がある。基地周辺では環境基準を上回る騒音が続いている▼基地が目に見える身近なところにあるだけに不安も大きい。沖縄戦の体験もある。核戦争になったら標的にされる。そうなったらこの小さい島はひとたまりもない、という不安がある▼こう考えてくると、本土に生きる私たちは日ごろ、自分たちが沖縄社会の鏡にどう映っているのかについて、つきつめて考えていないことに気づく。日米間のズレを思いながら、本土沖縄間のズレを思わずにはいられない。 残留孤児の中国人養父母問題 【’85.10.23 朝刊 1頁 (全842字)】  中国残留孤児の養父母21人が来日している。「子どもが本当に幸せかどうか、この目で確かめたかった」「元気そうな娘を見て安心した」「大きくなった孫の姿を見てうれしい」。さまざまな感想があった▼ある養父はふと、もらした。「中国では、家の中でにぎやかな笑い声がきかれなくなりました」。共に暮らしてきた子や孫がいなくなったのだ。どうしようもない寂しさがあるに違いない▼去年、来日した養父母たちは、帰国が迫るにつれて口ぐちにいった。「娘を置いて、このまま帰るのは寂しい」「息子と会えるのは、これが最後でしょう。できればこのまま日本で一緒に暮らしたい」。これもまた本音だろう▼あの時、養父母たちはなぜ日本人の子を養ってくれたのか。「老後の世話をしてもらう子がほしかった」という人がいる。「あまりにかわいそうだったから」という人がいる。集団自決の修羅場に生き残った赤ちゃんを、見るに見かねて引き取ってくれた人もいるだろう▼「他人の子をかわいがれないようでは、自分の子を大切にすることができない」という中国のことわざがあるそうだ。「他人様の子なので大切に育てねば申し訳ないと思った」という人もいる。だからこそ、養父母の生活を考慮する扶養費の問題について私たちは結論を急がねばならぬ▼「日本の親が見つかった時から、私たちは中国の親をどうするかという問題に直面する」と孤児の1人はいっていた。日本に帰りたい、だが恩知らずとはいわれたくない、と心は乱れたことだろう。日本からきちんと仕送りを続ける孤児もいれば、音信不通になっている孤児もいる▼敗戦前後、親と子が離れ離れになってしまったのは、第1の悲劇だった。そして、孤児と肉親との再会は、別の形で第2の悲劇を生んでいる。第1の家族離散が第2の家族離散を生む。日本人残留孤児問題は、同時に、中国人養父母問題である。 発散型と吸収型 【’85.10.24 朝刊 1頁 (全855字)】  内輪話めいて恐縮だが、15年前大学教授を辞めて本社の論説委員室に来た永井道雄さんが、論説委員室の日々の議論に参加した後でこういった。「まるで吸い取り紙に吸いとられてゆくみたいな感じです」▼議論の場での職業的習性をごく類型的にわければ、講義を常とする大学の先生は発表型、もしくは発散型で、取材を常とする新聞記者は吸収型だ、というのが永井説である(むろん、大学教授の場合も、吸収があっての発散ではあろうが)▼職業を抜きにして、個々の人にも発散型と吸収型がある。自己肯定派で自己主張のしっかりしているのが発散型で、懐疑派で人の話をじっくりときくのが吸収型といえようか。両者の調和がさまざまな組織の強みになる▼とまあ、そんなことをわが家の小菜園の土をいじりながら考えた。野菜の味にも両者がある。シソやニラは発散型で、大根や冬瓜(とうがん)は吸収型であろうか▼秋の日をあびて、長さ40センチほどの冬瓜がのんきそうに大地に寝ころがっている。すべすべした緑のはだ一面に、うぶげのようなものが白く光っている。小さな虫がはだの上をかけずり回っている▼土さえ肥えていれば、その栄養分をじっくりと吸収して大きく育つ、あまりいじりまわさない方がいいと知人に教えられたが、まさにその通りで、冬瓜の大きさを見ながら、人間の器を大きくするのもまた同じことかもしれない、と思った▼中国湖南省産のこの冬瓜は、あんかけや天ぷらもいいし、刻んで油でいためるのもいい。味が淡泊で、料理をする人の味つけに応じて、いかようの味にもなるところがおもしろい。吸収型野菜の王様、といったところである▼きのうは霜降だった。北海道の網走などでは早めの初雪があった。「北の国からの冬の便りは早めに来ている」と気象庁ではいっている。河口湖には初氷があった。秋は、晴れた時の空の青さが、日いちにちと濃くなってゆくように思う。 国連総会での首相演説 【’85.10.25 朝刊 1頁 (全858字)】  「議長 私は若いころ海に親しみ、しばしば船上から夜空にまたたく無数の美しい星を眺めては、神秘の感に打たれたものでありました」。3年前、鈴木首相は国連軍縮特別総会でこう演説した▼今度の国連総会では、中曽根首相が日本人の「思想と哲学」にふれ、自作の句、「天の川我がふるさとに流れたり」を披露した。もし両方の演説を聞いた外国代表がいたならば、「なんとまあ、日本の首相は夜空の星を仰ぎたがるものか」と感じいったかもしれない▼内政の「和」を重んじた鈴木氏と外交を得意とする中曽根氏。個性、政治のスタイルは全く違う。それだけに、この奇妙な一致が気になる▼日本の首相の国連総会出席はほかに佐藤首相がいるだけだ。日本を代表して国連のヒノキ舞台で演説するのは晴れがましい。ちょっと気のきいたことをいおうとすると、「国連―平和―理想」の連想から「星」の美文調に落ち着くのだろうか▼首相演説は実際には首相秘書官や外務官僚が起草する。国内、特に国会の首相演説では揚げ足を取られないように、できるだけ無味乾燥に書くのが上手、とされる。確かに施政方針演説で「天の川」なんてやれる政治風土ではない▼個性を殺す技術には熟練しているが、国連演説となると、そうはいかない。個性を出す方は不慣れなため、書いたり消したりの苦労をすることになる。「天の川」も「夜空の星」もそれぞれ首相自身の発想だったという。なにか無理しているようなのは、国連の舞台ということで「哲学」や「理想」のにわか仕立ての借り着をまとって登場するからだろう▼谷崎潤一郎は「我等日本人は戦争に強いが、いつも外交の談判になると、訥弁のため引けをとります」(文章読本)と書いた。それから50年。ようやく能弁の首相が出てきたがなんとも言葉だけが上滑りしている。首尾一貫、言行が一致した時はじめて国際政治の舞台で「引けをとらぬ」演説と呼べるのだろう。 日航機事故の追悼慰霊祭 【’85.10.26 朝刊 1頁 (全839字)】  大阪に続いて東京・日比谷公会堂でも1400人が参列して日航ジャンボ機事故の追悼慰霊祭が営まれた。白菊の祭壇には、ぼう大な数の「霊璽板」が掲げられ、その前に並んだ喪主たちの姿が痛ましく、つらい光景であった▼1人の老いた母は、式の間、ずっとうつむいたままだった。荘厳な調べが流れ、黒い喪服の列の中で動くものは白いハンカチだけだった。そのとき、遺族の人たちの胸にあったのは、悲運の死を遂げねばならなかった故人への思いであったろう。その記憶は、いつまでも消えることはあるまい▼犠牲者の中には、多くのビジネスマンがいた。夏の思い出を胸にした家族連れがいた。婚約者同士がいた。懸命の飛行努力を続けた機長や乗員がいた。なぜこんなにも悲しい事が起きねばならなかったのか。やり切れなさと同時に、私たちが思い知ったのは520人の犠牲者と、それにつながる人びととの深いきずなであった▼あの機中で、なん人もが家族に言葉を残していた。「子供をよろしく」。あるいは7ページにわたって「どうか仲良くがんばってママを助けて下さい。ママこんな事になるとは残念だ……本当に幸せな人生だったと感謝している」。遺書を知って、私たちはこんなにも愛は深く、人間は美しいものかと、教えられたものである▼日航ジャンボ機事故は一人ひとりの死とともに記憶したいと思う。520という犠牲者の数だけで記憶されてはなるまい。高木日航社長や山下運輸相は、慰霊祭の霊前で、事故の再発防止と徹底的な原因究明を誓った。その言葉が裏切られれば、一人ひとりの死もまた、むなしいものとなる▼墜落現場の群馬県上野村の山々では、もう紅葉は終わりに近く、来月末には初雪があるだろうという。石垣りんさんの詩にこんな一節がある。「死者の記憶が遠ざかるとき、同じ速度で、死は私たちに近づく」。そうであってほしくない。 「私服」のいきさつ 【’85.10.27 朝刊 1頁 (全839字)】  横浜市の青葉台中学校は、神奈川県内の公立中学校では珍しく制服をやめている。生徒たちは思い思いのセーター、ブルゾン、ジーンズにスポーツバッグや小型リュック、という姿で登校する▼「校内のふんいきがやわらかく感じられた」とこの学校を取材した記者はいっている。はじめは服装がばらばらで、何だかしまらないなあという感じがあった。だが、生徒たちの話をきき、一人一人が服装について実にまじめに考えていることがわかったという▼どういう服装が中学生にふさわしいかを、自分で判断する。1、2年のころは奇抜な、派手な服を着たりする者もいるが、お互いに率直に言い合う。親子の会話もある。やがて、自分にあった色やスタイルを見つけて落ち着いてゆく。これもまた、大切な過程だろう▼12年前の学校創立のころ、生徒、父母、教師が議論を重ね、美的感覚を培う、自主的な判断力を育てる、などの理由で「私服」にきめたいきさつがある。生徒たちはこの伝統を受け継ぐことに誇りをもっているという▼漫画家の里中満智子さんが本紙『仕事の周辺』欄で「身につける服装やアクセサリーは、気分を左右する」と書いている。赤や黄は、活動的に歩こうという気を起こさせてくれるし、渋い色は気持ちまで落ち着かせてくれる。着る物と気分は、ある程度結びついているのではないだろうか、と。確かにその通りだろう。制服の場合は、残念ながらこうはいかない▼最近は、企業で働く女性の間でも、服装の自由化がぼつぼつ現れている。大手商社ではもうかなり前から制服を廃止したところがある▼ファッション商品の企画、仕入れ、販売を受け持つ社員の制服をやめている百貨店もある。事務の職場で「制服を着ても着なくてもよい」と自由化にふみ切った大手の通信機器会社もある。「制服なんてかっこ悪い」という若い娘さんがふえてきたためだろうか。 話し上手の時代 【’85.10.28 朝刊 1頁 (全835字)】  近ごろ話すことへの関心が高まっている。本屋をのぞくと「気くばり話法」「スピーチで成功する」「話し上手で心をつかめ」といったたぐいがずらり並んでいる。取次店のコンピューターに打ち出してもらったら323部あった。大半がここ数年のものだ。ちなみに書く方は38点だった▼町の話し方教室も盛んなようだ。「あなたの幸福を約束する日常会話」「人を動かす説得話法」といった案内が目につく。生徒はサラリーマン、教師、主婦、学生などさまざまだ。講義は自己紹介のし方あたりから始まるのが普通のようだ。一例をあげればこんな調子になる▼1分間自己紹介法。最初の5、6秒が勝負だ。だじゃれでもこじつけでもいいから、なにか面白いことをいって名前を売り込む。あとは職業、趣味、特技、人柄。最後にもういちど名前をいって「よろしく」で結ぶ▼人気科目は即席スピーチという。さっとマイクをつきつけられて「なにかひとこと」といわれたとき、ドギマギせずに話すにはどうしたらよいか。どんな話題でもこなすにはどういう手があるか。それを30秒とか5分とか時間を切って練習する▼日本はもともとおしゃべり文化の国で、井戸端会議ふうの話は得意だ。けれど多少とも公式的な話になると下手で、ここではむしろ以心伝心が尊ばれる。沈黙が金ともされてきた。当節は、そうはいかないようである▼ところで、ついでに聞き方教室というものも広めてもらえまいか。たとえば、話し上手な政治家先生などの話はどう聞いたらいいかを勉強する。胸の内を聞くわけだ▼日本語の「聞く」には是非を判断するという意味もある。そのへんも学びたい。味わって違いを知るという意味もある。聞き酒がそれだろう。聞香ということばもある。いずれも音のないところに耳を澄ますのだ。世が話し上手の時代というなら、そんな聞き上手も大事にしたい。 読書論 【’85.10.29 朝刊 1頁 (全850字)】  桑原武夫氏の読書論には〈インタレストのおこらぬ本は読むな〉〈最愛の著者の全作品をよみ、これを全人としてとらえること〉といった数々の教えがある▼貴重な大先達の言葉に〈経験をおろそかにする読書は無効である〉という教訓もあった。登山したことのない人に、どんな立派な地図を与えても、地形図の複雑な山地の等高線は読みとれない。地図の細部に誤りがあっても、地図を見なれた人にはそれがわかる。経験が大切だ、というのはそういうことだろう▼最近は、草木や虫や鳥について、たくさんの図鑑が出版されている。だが虫の図鑑をいくら見ても、虫を知ったことにはならない。実物を観察する、触るという感覚を通じて、その本来の姿が見えてくる▼また、こうもいえるだろう。屋久島へ行く前に屋久島の植物に関する資料を熟読しておけば、熟読せずに現地へ行くよりも、はるかにいきいきとした形で屋久島の「緑の顔だち」が見えてくるはずだ▼それはたとえば、ポリネシアを訪れる前にゴーガンの『ノアノア』や中島敦の『光と風と夢』を読んでおけば、島々の姿がより鮮明に見えてくるということでもある。豊田佐吉・喜一郎親子の伝記を読めば、トヨタという企業の体質が見えてくる。読書と経験は有機的に関連しあって、力を生む▼『子午線の祀り』を書いている時、木下順二氏は、平知盛や壇の浦の潮流に関する資料を可能な限り復読したのち、壇の浦へ行き、何日も海を眺めてすごした。海の上にひろがる真っ暗な天球を仰ぎながら「祈るような気持ちで、仕込んできた知識を口の中で繰り返した」そうだ。読書と経験のすさまじい格闘が、あの傑作の背景にあったのかと思う▼桑原氏は書いている。「本を読まなければ現実は筋道をたてて見えて来ない。しかしまた、本を正しく読みうるためには、すでに多くを見た、あるいは経験したのでなければならぬ……」(桑原武夫全集7) 防衛費1%枠 【’85.10.30 朝刊 1頁 (全859字)】  今から12年前の国会で、増原防衛庁長官はこう答えている。「防衛力の経費は1%の範囲内で適切に規制されることを政府は考えている」▼当時の田中首相も率直に答えている。「やはり1%を超すというようなことになると、いろんな問題があるのではないかという感じは個人的にはしております」▼当時はそういう雰囲気だった。防衛費はGNP比0.8%ていどが限界ではないか、1%を超すなんてとんでもないことだ、という認識やら懸念やらが為政者にはあった。その共通認識が9年前の三木内閣の閣議決定を生んだ。思えばこの12年間で「時代の座標軸」はずいぶん流されてしまった▼中曽根首相は国会では「1%枠閣議決定の趣旨は尊重するが、尊重しない」としか受け取れない詐術的な答弁を続けている。「GNPが今後どうなるかわからない」と逃げる。だが、閣議決定を本気で尊重するつもりなら「GNPの流れにあわせて1%枠を守り抜く」と答えるべきだろう。首相に1%枠順守の強い意思があれば、GNPがどうなろうと1%枠を貫くことは難しいことではない▼1%枠撤廃のために「堂々と王道を歩む」「ドロをかぶる」などと口走る首相の本音はむしろ1%枠撤廃にあるのだろう。なぜ、首相は撤廃にこだわるのか▼米国のアーミテージ国防次官補は去年、公聴会で証言している。「日本が3海峡封鎖能力を持つことはソ連を大いに悩ませ、その結果、日本は抑止力を持つにいたる」と。米国の世界戦略の立場からみれば、これはそのまま日本への注文になる。注文をのめば買い物計画はふくらんでいく。しかし3海峡封鎖は同時に、不沈空母・日本を危険にさらすことだ▼20兆円近い巨費をかける以上、なぜこれだけの新鋭兵器が必要なのかを、国会で懇切に説明しなければならぬ。それとも政府は、防衛計画の基礎資料を秘密にして「見せざる・聞かせざる・言わせざる」の世の中にするつもりなのか。 酸性雨 【’85.10.31 朝刊 1頁 (全838字)】  5年ほど前、ニューヨークの自由の女神像の表面がボロボロになっていることが発見された。コンクリートの女神の本体の表面に薄く張られた銅板が腐食していたという。犯人は酸性雨だろう、と専門家は推定した▼中国では酸性雨のことを「空中鬼」という。いかにも漢字の国らしい命名だが、この空中鬼の暗躍は中国ではかなりのものだ。あちこちで、新しいビルの外装をすぐボロボロにしたり、スイカを全滅にしてしまったり、水稲を枯らしたり、という悪さをしている▼スイスのアルプスでも、美しい針葉樹林が被害をうけ、南ドイツでは「黒い森」といわれる美林に実害がでている。北欧では湖沼の魚や植物への影響がでている。空中鬼は今や第三世界を含め、世界中をねらっている▼雨は花の父母、といわれている。雨は大地をうるおし、緑を育て、万物を洗い清めてくれる。その雨に有害なものが含まれているとあっては、ことは重大だ▼わが国でも、十数年前に、関東一帯に降った酸性雨で目の痛みを訴える人が続出したことがある。群馬県衛生公害研究所の調査によると、関東地方の北西部にひろがる杉の枯れ死に現象は、どうやら酸性雨などの酸性降下物と関連があるらしい▼工場などから排出する亜硫酸ガスが大気中にただよい、雨にとけると酸性雨になる。だからこれを防ぐには、硫黄酸化物の排出を抑えるのがきめ手となる▼北欧の学者が「土地と水の酸性化は1980年代の欧州が直面する最も深刻な環境汚染問題であり、これは環境災害と呼んでもいいすぎではない」といっているが、この環境災害に直面しているのは、むろん欧州だけではない▼ある国から排出される硫黄酸化物は、風に乗って、国境を越える。だから「今世紀最大規模の環境問題」に立ち向かうには国際協力が絶対に必要だ。こういう「地球の慢性病」対策にこそ、日本は貢献しなければならぬ。 『きらめく星座』と「日本人」 【’85.11.1 朝刊 1頁 (全840字)】  所用で北陸へ行った時、たまたま上演していた劇団こまつ座の『きらめく星座』(井上ひさし原作)を見た。劇中の歌にあわせて観客の手拍子がわくほど、舞台はもりあがっていた▼世代から世代へ、戦前・戦時の歴史を伝えること、時代のにおいを伝えること、それはいま一番大切なことで、それでいてこれほど難しいことはないのだが、この上質の笑劇は見事にそれに成功している。新しい世代の心に、どうやってことばを届けたらいいのかという点で、教えられることが多かった▼たとえば類型化を避ける。脱走兵はみじめたらしく、憲兵は野卑で乱暴で、という通俗的類型を、井上ひさしは潔癖にきらう。舞台上の脱走兵は明るく、おっちょこちょいで、憲兵は律義で、おりめ正しい。戦争に押しつぶされる市井の母親は「追いつめられれば追いつめられるほど明るくなる」不思議な力を持っている。ここには、大戦突入前の浅草に生きたなま身の人間のにおいがある▼それにしても、笑いの渦の底から、重苦しい、陰々たる世界が浮かびあがってくるのはなぜかと思う。それは劇の主題の1つである「われら日本人とは一体どういう民族か」ということと関連がある▼1人の時は借りてきたネコみたいにおどおどしているくせに、仲間といるとなると突然、態度がでかくなる。それはなぜか、と劇中の人物は問う。ひとさまの国へ、頼まれもしないのにドーッと出かけて行って、土地を取りあげる。あるいは、軍需景気でもうけた工場主が「エヘヘヘ、申し訳ないが蒋介石さまさまですよ」とほくそえむ。それが帝国の道義なのかと1人は問う▼「おれはもう日本人がいやになった」とうめく青年のせりふがあった。日本人の血の中に潜むものは今もそう変わってはいない。奇跡が起こらない限り、日本は同じような道を歩むことになるのか、という作者の深い絶望感がちらと顔をのぞかせる。 求人広告 【’85.11.2 朝刊 1頁 (全856字)】  新聞の案内広告には世相がある。たとえば明治7年には、こんな求人広告がでている。「壮健正直温和ノ守リ女1人入用但乳不用」。横浜に居住する貿易商のアメリカ人夫妻が、帰国にあたって女中さんを雇い、米国に連れて帰ろうというのだ▼お互いが気にいれば「長年滞留」も可能だとある。採用されて夫妻と共に渡米した日本娘がいたとすれば、娘は100年以上も昔のアメリカでどういう生活を送ったのだろうか。かの地に骨を埋めることになったのだろうか▼大正3年「モデル、体格よき婦人を求む」という新聞広告をだしたのは高村光太郎である。昭和10年には「女子秘書課書記、年齢20歳以上25歳位愛嬌ある社交的麗人文章堪能の能筆家・銀座会館事務所」といった広告がでてくる。応募したのはさて、どんな麗人であったろうかなどと考えながら昔の案内広告を読みふけった▼やがて「上海第一流キャバレー行ダンサー急募、教養ある若き近代女性を求む」といった広告が現れ、敗戦直後はすぐ「特殊慰安施設協会」の職員募集が飛び出す▼男女雇用機会均等法に関連する今回の労働省案によれば、男子ノミの求人には「待った」がかかることになる。求人広告史上の重大な変革である。昔は「集金員、25歳より40歳位の男子にして自転車に乗り得る壮健の方・鈴や両替店」といった広告があった。自転車がハバをきかせていたころの話だが、これからはこの「男子にして」の部分が差別になる▼ウエーター募集も禁句で、これは「給仕人募集」でなければならぬ。大企業の求人広告でも「男子募集」は通用しなくなる。1つの前進ではあるが、男子ノミはだめで女子ノミはいい、というのはどうだろう。欧米の国々はすでに、女子ノミを含めて性差別のある求人はやめているし、年齢差別の広告をやめている国もある▼一足飛びにはむりかもしれないが、いずれは女子ノミの求人を問題にする日が来るだろう。 民具と「営み」 【’85.11.3 朝刊 1頁 (全855字)】  北陸の加賀市に住む伊藤常次郎さんに会った。カヤぶきの家のいろり端で話をきいた。40年ほど前の思い出話になった。親に結婚話を打ち明ける時にこういったそうだ。静岡の娘さんと一緒になって、かまどの煙をだそうと思うがどんなもんだろうか、と。かまどの煙をだす。いい言葉だな、と思った▼常次郎さんは、白山に抱かれた山村の生産・生活用具を集めている。故郷の村がダムに沈むと聞いてから集め始めた民具は2万点を超す。それをみて文化庁の専門家はうなった。「個人でこれだけの民具を集めた例があったろうか」▼売りさばいた民具は1点もない。国の重要有形民俗文化財に指定された2600点、1億4000万円相当をタダで加賀市に譲ったりしている。「お先祖様の手の跡を残しておきたい、ということでしょうか。だれのためでもない。親の手の跡に触っているのが好きなんです」。手の跡。これもまた、なんという味のある言葉だろう▼驚くのは、数だけではない。常次郎夫妻は一つ一つの民具を「モノ」として扱わず、今に生きる「営み」として相対している。今でもカラムシやアカソで織物をつくる。刈り、運び、蒸し、皮をむき、織るという工程に使う道具や衣装は420点にものぼる。その多くを、実際に使って夫妻は着る物を織っている▼焼き畑でヒエやアワを作り、炭を焼き、ヤマイモやクルミを採集する。縄文の世から伝わる焼き畑農業や採集を続け、昔ながらの道具を使っている。その営みの中にこそ、豊かな文化があるのだろう▼貧乏のどん底だったころ、母は結婚の祝いにガマダン(裂き織り)のふとんをくれた。野良着などの古着を裂いて織物に再生したものだ。それを常次郎さんは秘蔵している。収集品の中にもガマダンがあった。山村の民の汗がしみこんだごつい織物に触っていると、父祖の手の跡を残すことに執着する常次郎さんの心が、少しはみえてくるように思えた。 「粒違い」の阪神野球 【’85.11.4 朝刊 1頁 (全863字)】  阪神が日本シリーズで優勝して、当分は吉田式選手操縦術のすばらしさをほめたたえる声が続くことだろう。復帰1年目でダメトラを日本一にした吉田監督の力量は認めたい。だがそこには、古くからの阪神ファンである吉行淳之介氏がいう「なにかのハズミ」的な要素も多分にあったはずだ▼吉田野球はすなわち反管理野球、だとは思わないが、阪神というチームには少なくとも「粒違い」のおもしろさがある。優等生的な「粒ぞろい」のチームにはない楽しさがある▼165センチの吉田監督が198センチのゲイル投手を迎える、163センチの弘田のあとに184センチのバースが現れるなんていうのも楽しいし、掛布、岡田、平田と、そういっては失礼だが「おもろい顔」の内野陣がそろったところは絵になる。打者も一定の型にはまっていない。手首の強さで打つ真弓がいれば、思い切りのいい岡田がいる。ミートのうまい長崎がいる▼多摩動物公園の中川志郎園長によると、トラは個人技を大切にするそうだ。狩りでも徒党を組まない。自分の能力を最大限に高め、その極限で勝負をするという。吉田監督は、トラたちの持ち味を生かすことに成功した▼かつて来日した西独のサッカー・コーチ、クラマー氏がある大学サッカー部の練習風景をみて、あきれたことがある。選手たちが画一的な筋力トレーニングをしている。筋力トレーニングはとくにそれぞれに適した処方せんをこなしてこそ意味があるのに、なぜ同じことを、という疑問だった▼スポーツに限らず、日本の集団は「粒を違える」ことよりも「粒をそろえる」ことに熱心になりすぎている。集団のために自分を殺すか、それとも集団のために自分の持ち味を生かすか。個々の持ち味が生かされるような指導が徹底すれば、プロ野球はもっとおもしろくなるだろう▼「勝てばいい」の時代から「いかに豪快に勝つか」の時代へ、その流れを示してくれたのは阪神野球の功績だ。 英国の鉄道復元 【’85.11.5 朝刊 1頁 (全848字)】  英国の北アイルランドから「線路を1ヤード(約91センチ)ずつ買って下さい」という協力の呼びかけがきている▼ダウン州の州都から海岸の港町までの14キロの鉄道が35年前に廃止になった。この路線を復元して、また列車を走らせようという計画で、すでに工事が始まっている。来年の夏には一部が開通する予定だ。19世紀の王室専用車を蒸気機関車が引いて走るという▼8000円を払い込むと線路1ヤード分が自分のものになる。実際に使われる枕(まくら)木に、買った人の住所、氏名が日本語で彫られ、その写真と証明書が送られてくる。この話を日本に紹介した会社には、すでに100人ほどから問い合わせがきている▼「いつの日か2人で現地に行ってみたい。すばらしい夢ができました」と申し込んできた夫妻がいる。若い母親が「2歳の娘のために」といってきた。いまはアパート暮らしで、いずれ住所が変わるかもしれないので、夫が留学したポルトガルの思い出の住所を枕木に彫ってもらいます、と声をはずませていた▼アイルランドからの移民の子孫が多いアメリカでも、この鉄道復元に対して「故国の土地を買おう」とたくさんの協力が寄せられているそうだ▼英国には各地に保存鉄道というのがある。鉄道好きの人たちが金を出しあって線路や機関車を買い取り、週末などに観光客を乗せて走らせている。大学教授、弁護士、郵便局員といったさまざまな職業の人が手弁当でやってきて、機関車に油をさし、石炭をたく。汽車ごっこが好きでたまらない、という大人たちだ▼いま日本では、国鉄ローカル線や地方の私鉄が赤字のために次々に姿を消している。いらなくなった機関車や電車は解体される。ナンバープレートやヘッドランプなどの部品は展示即売会で飛ぶように売れるが、残がいはくずになってしまう▼個人のコレクションは豊かになっても、鉄道はよみがえらない。 軍事費と途上国援助 【’85.11.6 朝刊 1頁 (全871字)】  敗戦直後に小学生だった人の多くは、ユニセフ(国連児童基金)の名になつかしさをおぼえるのではないだろうか▼戦後のあの飢えの時代、ユニセフは、日本の子どもたちにたくさんの粉ミルクや原綿を送ってくれた。配られたミルクを学校給食で飲み、めきめき体格がよくなった、という記事が当時の新聞にある▼この国際機関はいま「世界の子に予防接種を」と呼びかけている。そういう呼びかけの記事の一方で、軍縮問題の記事もあった。レーガン米大統領がソ連人記者に説明した「核削減提案」の内容がソ連の新聞にのったというニュースである。軍縮問題とユニセフの計画に象徴される援助の問題は、あざなえる縄のようなものだ、と思いながら2つの記事を読んだ▼3年前、当時の鈴木首相は国連総会で演説している。「現在、世界の軍事支出の拡大は開発途上国たると先進国たるとを問わず、社会・経済に大きな圧迫を加えているのであります。地球上では、新鋭の兵器が次々と生産される一方で、飢餓に倒れ、極貧にあえぐ人々が後をたちません」▼演説をきいた第三世界の代表たちは、かけ寄って次々に握手を求めた。軍拡のための支出を割いて開発途上国の援助に使え、という主張が熱い共感を呼んだのだろう▼いま、世界の軍事費は9400億ドル、ほぼ200兆円、と推定されている。かりに200兆円のうち0.1%を削減しても2000億円という巨額になる。一方、ユニセフの予防接種計画の費用は2000億円、という推定がある。世界の軍事費をわずか0.1%削減しただけで、1日1万人の子どもの命が救えるかもしれない。それがわかっていながら人類はなぜ愚かな営みを続けているのだろう▼はしか、100日ぜき、破傷風、ポリオ、結核、ジフテリア。この6つの病気の予防接種を受けていない子は発展途上国でまだ6割もいる。そのため、たとえばはしかの場合は5歳未満の子が年間約100万人も死んでいるという。 中曽根首相のイメージ政治 【’85.11.7 朝刊 1頁 (全870字)】  イメージで勝負する政治家の条件▼(1)見ばえのする姿形を工夫すること。座禅をする、泳ぐ、テニスをする、というさっそうたるイメージを、てれることなくふりまく▼(2)おしゃべりであること。カンナくずがめらめら燃えるようにしゃべりまくって人びとを煙にまく。英語になると、やや湿ったカンナくずになるが、気おくれせず、堂々と王道を歩むつもりでしゃべるというイメージを大切にする▼(3)うたい文句を工夫する。たとえば「ロン・ヤス関係」なる文句をはやらせ、外交上手のイメージを宣伝するように。「戦後政治の総決算」をうたって軍拡の地固めをするように▼(4)「文化人」をにおわす。たとえば東京でのロン・ヤス歓談のさなか、県展に出品した自作の絵が入賞したとの知らせが偶然に届く、という不思議を大切にする▼(5)その日の風向きに敏感であること。肝心のことを「約束する」とはいわずに「約束したい」といって逃げる。風向きが悪くなるとまた「約束する」とかいってその場を切り抜ける▼(6)中身よりもイメージ効果を大切にする。「舶来品100ドル購買運動」のように、実際の効果よりも首相が先頭に立っているというイメージの効果をねらう▼(7)人びとの損になる話は避ける。「一般消費税を導入する」などと選挙前にいったりはせず、あくまでも減税のイメージを売り込む▼総選挙や都議選の前、中曽根首相は減税を強調していた。「臨調路線にのっとって、増税はやらない。やらないといったら私はやりません」「第一に訴えたいのは行革と減税だ」「所得税、法人税の思い切った減税を心がける」▼その首相が、参院予算委で「減税を先行させる」のではなくて「減税案を先行させる」ことを明らかにした。先行させるのは案だけで、結局は増減税を抱きあわせで実施する方向らしい。イメージ政治の正体見たり、の感じである▼辞書によると、イメージには、幻影という意味もある。 立冬、「1本の木」を思う 【’85.11.8 朝刊 1頁 (全861字)】  それぞれの人に「1冊の本」とか「1枚の絵」とかいうものがあるように、「1本の木」というものもあるはずだ▼たとえば山本周五郎が描いた原田甲斐にとって、それが樅(もみ)の木であったように。「雪を衣(き)て凛と力づよく、昏れかかる光の中に独り、静かに」立つ樅は、周五郎自身にとっての1本の木であったかもしれない。落ち葉の季節にふさわしいあなたの1本の木はイチョウだろうか。ケヤキだろうか▼新宿御苑・新宿門近くに1本の鈴懸(すずかけ)の木がある。明治のころに植えられたものだろう。今は高さが23メートルで、目通りが5メートル60センチもある▼若いころに見なれたその木にお目にかかりたくなって、雨の日、酔狂にも傘をさして見に行った。ごつごつした灰色のはだには、深いしわが刻まれている。枝が上へ下へ自在な曲線を描いて奔放に伸びている。葉にあたる雨の音がしおさいのようにきこえてくる。昨今は、1本の木と相対する時間がなんと少なくなっていることかと思う▼『往生要集』に「風、枝葉を動かさば、声、妙法を演(の)べ」という一節がある。とてもとても妙法をきく境地には及ばないが、3抱えも4抱えもある巨木の香の中にいると、木の霊気のようなものが心を包み、休ませてくれる▼鈴懸の木は生長が早く、適応性があるので日本でも中国でも街路樹として有名だ。上海や南京の街は鈴懸の緑で埋まっているし、東京の並木でも、鈴懸の本数はイチョウについで第2位である▼明治のころ「世界的に有名」な鈴懸やユリノキを都心に植えた、という記録がある。両方とも当時はハイカラな木として珍重されたのだろう▼御苑にもユリノキの大樹があって、葉を金茶色に染めていた。鈴懸の奔放なたくましさに比べると、ユリノキは端正で、美しいといえばこれほど美しい姿の木はそうめったにはないと思う▼きのうは立冬。老い木にからんだカラスウリが赤く熟している。 リフォーム 【’85.11.9 朝刊 1頁 (全835字)】  リフォーム業、というのがはやっている。デパートやスーパーでも、リフォームの受付場所を設けるところがふえている。一時流行したあの幅広のネクタイを束にして持参し、今様に直してくれという客がくる。おじいさんのマントを若い女性用のコートに作りかえて、という人がくる▼ズボンのすそを直す。古いコートをジャンパースカートに直す。そういう作り替え業がけっこう商売になっている。「リフォーム学校」を開いて、技術者を養成している業者もあるそうだ▼使い捨ては美徳の時代から、古くてよいものを大切にという時代への変化か。家が狭くて新しいものを買いこんでも収納できない。だから古いものを工夫して着ようということでもあるのか。そういえば、押し入れをつぶして部屋を広くしたい、という室内改装の注文もあるという。ウサギ小屋問題はここにもある▼リフォームには、改善、改革、改造、刷新などの意味がある。ひところの列島改造計画がもたらしたさまざまなヒズミを再改造しよう、荒れた環境を快適な環境に再生させよう、という昨今の動きも一種のリフォーム運動だろう。リフォーム時代の流れに便乗して、ちょっとねえ、と思われるものをあげてみようか▼ビデオカセットの規格のふぞろい。大量に食べ残されるホテルのパーティーのごちそう。イッキ飲み。飼い犬のきもの。政治資金につきまとう暗さ。人を等級別にする叙勲。歩道と自転車道の混然一体。事前に内容を教えておく野党の国会質問▼「右と左をみて空いたドアからお乗り下さい」式の駅構内の過剰放送。売り子が気の毒になることがある新幹線の車内販売。禁煙車両のあまりの少なさ。政治家、芸能人を先生と呼ぶならわし。行革のかけ声ばかりであとをたたぬ予算のむだ遣い。補助金の一部が次の予算獲得の運動資金になるふしぎ。――世にリフォームのタネはつきない。 「看護病棟日記」 【’85.11.10 朝刊 1頁 (全850字)】  「あーあ、これじゃおれも人間廃業だ。もうおしまいよ」。心疾患で入院している70歳の男性患者Kさんがそういいだした。ベッドを尿でぬらすことが重なったためである▼最初の失禁の時、彼はうろたえ、とりつくろい、「オムツはかんべんしてよ」といった。看護婦の宮内美沙子さんは「そうよね、オムツなんかいらないわよね」と答えながら胸をつかれた。老いて排泄(はいせつ)を制御できなくなった時の衝撃の大きさは、はかりしれない。失禁は人間としての最低の誇りを打ちくだく▼いまは少し介助すれば排泄できる患者にも、一律にオムツをあてる病院がある。一斉の交換時間までオムツをとりかえない病院もあるという。それはかえって、排泄能力の回復を奪う結果にはならないか。そういう議論の末、宮内さんたちはオムツの強制をやめた。それぞれの排尿の間隔などをよく観察して、個々に対応している▼Kさんは、ボケの進行がめだった。失禁による衝撃がよほど大きかったのか。ボケることでつらい現実からのがれようとしたのだろうか。だが、やがて退院すると、失禁もボケもうそのように治ったという。宮内さんが雑誌『未来』に書いている「看護病棟日記」(連載)にあった話だ▼11月号には、宮内さん自身が検診で「細胞診・異常あり」の通知をもらい動揺する話がでてくる。自分が診断され、深い疲労感をおぼえた時、日常接している病んだ人たちの、ひとりひとりの重い心の内側がほんのすこし見えてきた、と書いている▼この「日記」には、患者の病状だけではなくて、患者の「重い心の内側」に目を向けようという姿勢があって、それにひかれる。失禁し、オムツをあてられる時のうちのめされた心とつきあい、励ます。看護する者が看護される者の心の傷口を思う▼医療の現場だけではなく、さまざまな人間関係にとっても大切なことを、この若い看護婦さんは教えてくれる。 靖国問題への提唱 【’85.11.12 朝刊 1頁 (全843字)】  哲学者の梅原猛さん、作家の曽野綾子さん、憲法学者の佐藤功さん、宗教学者の小口偉一さん、いずれも靖国神社参拝問題に関する懇談会のメンバーだった人たちだ▼靖国問題を特集した『ジュリスト』の臨時増刊を読んで、立場を異にする4人が、共通の提唱をしていることを知った。たとえば曽野さんは書いている▼「靖国神社問題を根本からすっきりさせるためには、新たな記念廟(びょう)の建設こそ適当と思われます」。梅原さんもまた「新しい祭りの場所――鎮魂の森あるいは平和の森を作ること」を力説する。神道色、仏教色を除き、いかなる宗教の人もそれぞれの礼拝の形で参拝することができるようにした方がいい、というのだ▼佐藤さんも、新たな非宗教的な国の施設を設けることに賛成し、小口さんも、それを設置することが「残された唯一の方途ではなかろうか」とさえ主張している▼この提唱は、靖国神社問題の根幹に関するものであるのに、靖国懇の報告書では付けたり程度に触れられただけだった。国会でも、この提唱をきちんと受けとめた論議は、残念ながら極めて少ない▼鎮魂の森、記念廟の創設といっても、その中身についてはさまざまな議論があるだろう。すでに存在する「千鳥ケ淵戦没者墓苑」の位置づけの問題もある。野党はなぜ、突っこんだ問題提起をしようとしないのか▼人びとが信仰に基づいて靖国神社を訪れ、亡き人を悼む。それは当然の心情だ。だが、首相や閣僚が公式に訪れる場合は事情が違う。第1に、特定の宗教と関係のない施設でなければならぬ▼第2に、日本の戦没者だけではなく、戦争の犠牲になったアジアやオセアニアの人たちを悼むものであるべきだろう。他者の痛みを繰り返して思うことこそ不戦の誓いにつながる。第3に、戦没者にはいわゆる市民戦死者も含めるが、戦争遂行の最高責任者と戦没者は厳しく区別しなければならぬ。 漫才の勉強会「笑の会」解散 【’85.11.13 朝刊 1頁 (全845字)】  大阪に漫才師と漫才作家が一緒になって漫才を勉強する「笑の会」というのがあったが、このほど『笑いの戦記』(創元社)という記録集1冊を残して解散した▼エンタツ・アチャコ以来の上方漫才の育ての親といわれる秋田実氏の肝いりで、10年前に生まれ、秋田氏が亡くなってからは作家の藤本義一氏を代表として月1回の勉強会を続けていた。その間、漫才ブームが起こり、大阪の漫才師はどっと東京へ進出、テレビ局はこれを奪い合うようにして番組を作った。どこを回しても漫才、漫才。先日の阪神フィーバーにも似ていた▼熱しやすいは冷めやすい。いまのテレビには、本格的な漫才番組はめったにない。「笑の会」も10年ひと区切りの解散だといっているが、なんとなく秋風が身にしむ近ごろの漫才界である▼いまほど芸がうけない時代も珍しいといわれる。お笑いの芸にその傾向が強く、台本通りきちんと演じた漫才などでは、テレビのお客は笑ってくれない。話がうまくできていればいるほど、視聴者はそこにウソを感じる。ドラマに似た虚の世界を見てシラケるのだという▼そのせいかどうか、漫才はどんどん短くなっていく。テレビではせいぜい7、8分、短いのになると5分とか3分とかいうのがある。出るといきなり、落語でいえばマクラに当たる導入部でワッとわかせ、その勢いに乗ってギャグを連発させながら小ばなしみたいなものでつないでいく。話らしい話は何もない▼昔、寄席の漫才は1本30分前後が普通だった。テレビ漫才になっても初めのころは15分だった。軽薄短小時代はここにもある。「1分ものを作ってくれなんていわれる。これじゃあ芸の練りようもない。そんないい加減なところがまた、漫才なのかもしれませんがね」。2500本も台本を書いた中田明成さんの話だ▼漫才はそもそも雑芸である。雑草の芸ともいわれる。その根強さに期待しようか。 丸刈りの是非 【’85.11.14 朝刊 1頁 (全852字)】  明治の昔、フランス製のバリカンのことを人は刈り込み器械といい、頭髪早刈りばさみといった。これが現れてから、日本の男性の「髪」の風俗に一大変革があった▼チョンマゲからザンギリ頭へ、というのも大きな変革ではあったが、明治の初めのころはまだ、丸刈りはあまりなかったらしい。軍人の髪も、前頭部をややのばす形だった▼坂口茂樹氏の『日本の理髪風俗』によると、日清戦争のころ、能率的なバリカンが普及し、軍人の丸刈り姿が定着する。「ちょうどかの刈込器械にて、五分刈りの流行しはじめたところへ、この軍人風がぶつかりて、市中一般に短刈りが流行」することになる▼日露戦争から第2次大戦まで、バリカンによる軍人・学生の丸刈りスタイルは「軍国日本独得の味を生み出した」と坂口氏は書いている。「やめて下さいお兄さま、あなたの長いリーゼント」というポスターも現れた▼昨今の丸刈り姿が軍国型の名残だときめつけるつもりはない。五分刈りの似合う人もいれば、坊主頭の似合う人もいる。それはそれでいいのだが、丸刈りを一斉に強制することが教育の場にふさわしいことかどうか、となると議論がわかれる▼熊本地裁は、丸刈り訴訟で「校則制定は適法」の判決を言い渡したが、同時に「丸刈りについての校則の教育上の効果については多分に疑問の余地がある」とものべ、教育の場に球を投げ返している▼校則を作る時、学校は「なぜ丸刈りなのか」を十分に議論したのだろうか。戦時中の大政翼賛会は「規格的であるという点で集団美が予想されるもの」などの条件をだして「闘ふ頭髪型」をきめたという。それに似た押しつけがあるのかどうか▼議論の末、丸刈りを是とするものが多数だったとしても、髪形に関することはごくゆるやかな基準程度にした方がいい。前髪をのばすものが現れるとすぐ異端者扱いにしていじめる。そういう異端者いじめの土壌こそ恐ろしい。 大潟村のヤミ米検問所 【’85.11.15 朝刊 1頁 (全853字)】  急造の小屋には板の間があって、小さな流しや石油ストーブがある。奥の6畳はたたみ部屋で、押し入れにはふとんがある。それがほぼ1カ月前に生まれた秋田県大潟村のヤミ米検問所だ▼7カ所の検問所には、県の職員が常時2人ずつ、1日3交代制で見張っている。検問といっても、車を止めて積み荷の中身を調べる権限はない。あやしい、と思ったら無線機で警察のパトカーに知らせる。夜中でも必ず1人が起きて目を光らせている、というからご苦労な話だ▼まだ、ヤミ米の摘発はない。現地を取材した同僚の話では「夜は真っ暗なので車のナンバーもほとんどみえない。なんのためにこうしているのか」という職員のぐちがあったそうだ。酷寒の冬場はどうなることか、という声もあった▼それでも県は断固、1年間はヤミ米の検問を続けるという。ヤミ米はんらんの世の中にあってはやや喜劇的な風景だが、当事者にとっては、なんともうっとうしく、笑うどころではない日々だろう▼なぜ、大潟村のヤミ米にだけ目を光らせるのか。この村では、国の稲作制限策に反発して、過剰に作付けをする農民が続出している。「周辺農家が血のにじむ思いで減反しているのに、あの人たちは過剰作付けで太っている」という苦情がある。村内でも、過剰作付けをする農家としない農家の対立が深刻になった。このままでは「村の共同体としての機能が壊れかねない」という深刻ないざこざがある▼だが、「国のいまのやり方は農民の経営意欲を失わせる。私たちは稲作の規模を拡大し、専業農家のモデルになることをめざしている」という村民のことばにも、耳を傾けたい▼日本人の主食であるコメの豊作を心から喜べない、というのはおかしな話だ。食管制度のありようを根本的に考えること、他用途米としての活用の道を考えること、コメの消費をふやすこと、大潟村の反乱は、たくさんの問題を私たちにつきつけている。 国家秘密法案反対 【’85.11.16 朝刊 1頁 (全856字)】  日本新聞協会が国家秘密法案に反対する見解をまとめた。「表現の自由を侵す恐れがある」という協会の主張を支持する▼法律学者521人も「この法案は国会の審議権、取材、報道の自由を侵害する危険性をもつ」という声明書をだした。法案を読んで、何よりも不安なのは「やってはならない行為とは何か」という大切な点があいまいなことだ▼何が国家秘密なのか。何がスパイ行為なのか。範囲がひろすぎてとらえどころがない。「防衛上秘匿を要するもの」とあるが、秘匿の行き過ぎをくいとめる歯止めはどこにあるのだろう▼「いかなるレベルの情報担当者が何を国家秘密にしたいと考えて秘匿することにしても、それを違法とはいえない構造になっている」という日弁連の批判は、その通りだと思う▼たとえばの話だが、米軍が核兵器を国内の港に持ちこみ、政府が黙認しているという確たる証拠を記者がつかんで記事にし、それが外国に伝わる場合はどうなるのか。国の将来に深くかかわる問題であり、国民には知る権利がある。広い意味の国益のためには、報道すべきことだろう。だが、機密とあればこれもスパイ行為になってしまうのか。国家秘密の範囲が無限定にひろがりそうなのに、一方で死刑や無期懲役という重刑が現れる、というところにも抵抗がある▼一度は国家秘密法の制定促進を決議しながら、法案提出後、反対に変わった地方議会もではじめたという。「あの時はスパイを防止するのは当たり前、とごく単純に考えた。しかし、国会にだされた法案を見てちょっと違うぞと思うと同時に、戦時中のつらい思い出がよみがえってきた」。保守系無所属の村議のことばだ▼防衛問題に国家秘密のあることは認める。だが、防衛をめぐる重大な情報がさらにヤミに閉じこめられるようでは、いきいきとした防衛論議は窒息してしまう。防衛政策を誤らせぬためには、情報公開の原則を制度化しなければならぬ。 コロンビアの火山噴火 【’85.11.17 朝刊 1頁 (全847字)】  極度の緊張をしいられたあと、人間はこういう茫然(ぼうぜん)とした表情になるのだろうか。コロンビアのネバドデルルイス山の噴火で泥流にのみこまれ、かろうじて生き残った人びとをテレビのカメラがうつし出していた▼泥の野に首うなだれ、力なくひざを立てて座った男がいる。倒れかかった木に寄りかかって動かず、うつろな目を向ける人がいる。泥だらけで男か女かわからない。流木にまたがってうずくまったままの娘がいる▼子を背にしてのろのろと泥の海をはいまわる男がいる。幽鬼のような灰色の女たちが歩いている。髪も鼻もまつげも上くちびるも、泥にまみれている。多くの人は黙りこくっていて、その沈黙が、肉親を失った悲しみや災害の恐ろしさを語りつくしている▼火山泥流は秒速十数メートル、時には秒速数十メートルのスピードで押し寄せる。「黒い巨大な雲のようなものが、すさまじい勢いで接近してきた。雲は地表を走ってきた」と被災者が証言している。火山国・日本にとって、泥流災害の恐怖は人ごとではない▼大噴火のあとは気候の変動が起こる場合が多い。3年前のエルチチョン火山(メキシコ)の噴火がその後の気候に影響を与えた例もある。噴き上げられた火山灰の微粒子が長期間、成層圏にただよい、太陽光線をさえぎるからだ▼さらに、その影響で南北の温度差が激しくなると、偏西風の振幅が大きくなり、それが冷夏を呼びこむことにもなる。今回の噴火でも、成層圏に大量のチリが噴き上げられたのかどうか。それが心配だ▼政府や日赤はすでに医療班を派遣しつつあり、救援物資や医薬品を現地へ送ろうとしている。一昔前と比べれば、かなりすばやい反応である。だが、各国から「日本のおかげで助かった」「日本は頼りになる」という評価をうるためには、より瞬発力のある、より力強い国際緊急救援の組織と方法を日ごろから整えておく必要がある。 光る時間の中を走った東京女子マラソン 【’85.11.18 朝刊 1頁 (全852字)】  東京国際女子マラソンを見に行った。選手たちが国立競技場をでると同時に国電や地下鉄を利用してあとを追ったが、なかなか追いつけずに苦労した▼ある地点で全員が走る姿をみて、次の地点まで地下鉄で行くと、もうみんな通りすぎたあと、ということがあった。人間がこんなにも速く走っていいものだろうか▼若い娘さんたちにまじって、白髪まじりの小柄な女性が堂々と走っている。参加選手の表には背番号90、島崎方子さん、54歳、とある。最年長である▼はじめは「ガンバッテルナア」という程度の気持ちだったが、やがて「恐れ入りました」になり、折り返し点をすぎてなお、汗にまみれ、すごい形相で走る姿をみると、ただもう完走を祈る気持ちになった▼28キロ地点。東独のドーレ選手が行く。肩のあたりが逆光をあびてつやつやしく光っている。みるみる遠ざかる姿には、おてんば娘のいだてん走り、といった躍動感があった▼市民ランナーの集団が行く。強風によろめく。黒髪が乱れて流れる。首に白いコルセットをはめて走る選手がいる。泣きべその表情で走る選手がいる。腰を落としておしとやかに走る選手がいる。はぐれて1人、とぼとぼと走る選手がいる。それぞれがそれぞれの光る時間の中を走っていた▼筆者が国立競技場に戻った時はもう4、50人の選手が走り終わっていた。ゴールイン直後、たんかで運ばれる選手がいた。ふと見ると、あの白髪まじりの背番号90番が走ってくる。ひときわ高い拍手の中を、口を大きくあけ、最後の力をふりしぼっている。完走者88人中、71番。タイム3時間20分1秒▼島崎さんは東大阪市盾津中の養護学級の先生だ。生徒たちと一緒に走っているうちに、走ることにとりつかれたという。「完走できてよかったあ」。54歳のマラソン走者は黄のタオルで体を包み、足ぶみを続けながら高らかに叫んだ。「もうやめられません。走ること」 ビバルディの「四季」 【’85.11.19 朝刊 1頁 (全844字)】  先日、NHK・FMで珍しくクラシックのリクエスト曲を朝から夜まで放送していた。リクエストの第1位はビバルディの「四季」だった。3265票のうち315票を占め、2位のドボルザーク「新世界より」を109票も引き離していた▼レコードの売れ行きを調べたら、ここ20年ほど毎年、ベストテン上位から落ちたことがない。イ・ムジチ合奏団のものなど180万枚を超えたという。「運命」も「未完成」もかなわない。ビートルズもこれほどロングセラーではなかったようだ▼なぜ「四季」は日本で受けるのか。よくいわれるのが季節感説だ。春夏秋冬にきちんと分けられたこの曲は、俳句的な日本人の生活感覚にぴったりだというのである。次が標題説。「四季」とついているからヒットしたのであって、ただの「協奏曲集作品8」だったらこんなに人気は出なかっただろうという▼日本人はどちらかといえば抽象性に弱い。「四季」は曲ごとにソネット(短詩)までついていて、内容が言葉でたどれる。だから安心して聴けるわけだ▼バロック音楽特有の軽やかさもいい。テンポの速さではロックなどとの共通性もある。第2次大戦後の世界的なバロックブームは、1つにはしかつめらしさからの解放ともとれるのだが、その先頭を切ったのがこの曲でもある▼イ・ムジチ合奏団がいま、11回目の日本公演をしている。今回も23回の公演すべてに「四季」が入る。22年前の初来日以来のメンバー、ルチオ・ブッカレラさん(コントラバス)は「いつきてもこればかりやらされて、最初は正直、いやだったなあ」といっていた▼コンサートマスターのピーナ・カルミレリさんにきくと「日本人ほど四季が好きな国民はないのですよ。本場のイタリアでもこんなには受けません」。つけ加えてこうもいった。「経済発展がすごいから、よけいそうなのかもしれませんね。自然が荒れますから」 「アーバン・オアシス構想」 【’85.11.20 朝刊 1頁 (全852字)】  雨水を利用する建物が次第にふえている。恵みの雨をそのまま捨て去って下水に流してしまうなんて恐ろしいことだ、というけちけち精神が都市計画に生かされてきたことを歓迎したい▼建設省に「アーバン・オアシス構想」というのがある。なにもカタカナことばに頼らなくてもとは思うが、構想そのものは筋が通っているし、大賛成だ。ビルの地下に雨水をため、雑用水や緑のための散水に使う。そういう施設をつくる大都市の建築主に、長期低利で費用の融資をしようという計画である▼東京の墨田区が建てた「すみだボランティアセンター」を拝見した。3階建ての小さなビルに「緑」と「水」をたくみにとりいれている。ささやかな試みではあるが、都市ビルの1つの未来像を示していると思った▼屋上に降る雨を地下に誘導し、40トンの容量がある水槽にためる。これがトイレの水になり、バルコニーの植木にまく水になる。緑の量はまだちょぼちょぼだが、コノテガシワとツタである。ツタは上から垂らす。生長すれば壁面を緑でおおうことになるだろう▼壁の緑、つまり垂直面の緑をふやしてゆくという発想は、これからの都市景観を考える上で、貴重なものだ。緑が直射日光を防ぐから、夏は室内の温度を下げ、冷房費の節約になる▼センターの幹部がいった。「毎日、雨水を利用していると、雨に敏感になります。今までは、雨が降るといやだなあと思ったが、最近は、あ、恵みの雨だ、よかったと思うようになりました。雨水利用が人間の心を変えるということに驚いています」▼大都市が雨水利用のビルをたくさん持つことの効用。(1)都市水害を防ぐ(今は豪雨時に雨水が下水からあふれる)(2)水道水の節約になる(3)雨水槽は火災や地震の時にも役立つ(4)一部の雨水を地下にしみこませれば、地下水の減少を防げる――それはつまり大都会がその内部に自前のダムをもつことに等しい。 米ソ首脳会談 【’85.11.21 朝刊 1頁 (全845字)】  コロンビアの被災地から、1人の少女の死が伝えられた。泥水の中を何日も生き抜いてきたのに、排水ポンプが間に合わず、命を奪われる結果になったというニュースだった▼人類はいま、何千キロも離れたところにいる市民を皆殺しにできる武器をもっている。だが、目の前に苦しむ1人の少女を手ばやく救うことさえできないでいる、ということをこのニュースは教えてくれる。もう核軍拡はいい加減にしてもらいたいという地球市民の声が、レーガン大統領やゴルバチョフ書記長の背後にはある▼1961年の米ソ首脳会談のあと、フルシチョフ氏のケネディ大統領評はこうだった。「彼は道理をわきまえた人間だった。ソ連との衝突を避けたいと望んでいることがわかった」▼ケネディ氏はこういったそうだ。「フルシチョフの活力、徹底した率直さに深く印象づけられた」。その後のキューバ危機のことを考えると、この時両者が顔をあわせていたことは決してむだではなかった。当時、米大統領はソ連首相よりも23歳も若かった。今回の会談では逆に、ソ連書記長が20歳若い▼80年代の米ソ関係は冷え切っていた。去年のレーガン・グロムイコ会談では「激しい個人的なやりとり」が続いた。「討議は米政策の前向きな変更を保証しなかった」とグロムイコ氏はいい捨てた▼しかし、わずか1年後のいま、ジュネーブの両巨頭のほおには微笑がある。70年代の首脳会談では「率直かつ友好的」「前向きな発展」「重大な意義をもつもの」という修辞がついて回ったものだが、さて、今回はどうだろう▼1月1日付の本紙は世界各国の識者50人に国際情勢の見通しをきいている。第三世界に悲観論が多いのがめだつが、「もたもたしながらも一時的には対話が続く」という判断が多かった。灰色をまぶした楽観論である。ジュネーブ会談はその灰色を少しでも薄くするものになりうるかどうか。 カモシカの食害と保護 【’85.11.22 朝刊 1頁 (全854字)】  ニホンカモシカについて、日本自然保護協会会長の荒垣秀雄さんがその著『老樹の青春』の中で書いている▼「林業者たちの気持ちはわかるが、食害があるから殺すという論法でなく、何とか野生動物と人間との平和共存の道を探れぬものか」と。現に、幼木防護の網や柵(さく)などで成果をあげている「かもしかの会」の例もあると荒垣さんは指摘する▼この「かもしかの会」が生まれたのは6年前だ。捕獲反対を叫ぶばかりではなく、自ら山へ入って汗を流してみよう、という都市在住の若者が中心だった。ヒノキの幼木に防護網をかける、柵をめぐらす、というボランティアの作業が続いている。参加者はのべ700人。最近は4、50代の人も参加している▼参加者の1人はいう。「芽を食べられてしまったヒノキの苗をみて、カモシカがじゃまくさくなるのもわかる気がした」と。山林の人と話をすることで林業家の立場が見えてくる、ということがあるだろう▼「1週間作業をした程度で林業家のつらさを知ったなんて思いたくない」という内省的な発言もあったが、反対運動をするには「自分の足で回り、自分の目で確かめることが大切だと実感できた」という感想もあった。この食害防止作業は確かに効果があった▼カモシカの食害は彼らの楽土だった天然林が消えていったことと関連がある。この特別天然記念物を有害獣として射殺し、肉を食べ、毛皮を商品化することを認めるのか。それとも、平和的な食害防止に努め、やがては山林のありようを変えてゆくのか。第1の道は、国が密猟を奨励することになる恐れがあるし、何頭射殺すれば食害がなくなるという保証はない▼第2の道は膨大なカネと労力を必要とする。だが、無数のボランティアが食害を防ぐこと、カモシカを射殺から守ることを合言葉に山に入れば、新しい道が開けてくるのではないか。その活動を支えるには「カモシカ保護基金」もある。 米ソ首脳会談 【’85.11.23 朝刊 1頁 (全854字)】  レーガン大統領は、炉辺サミットということばを使った。のべ5時間もの2人だけの会談で、両首脳は何を論じたのだろう▼「邪心なく率直な会話」「詳細で、率直な討議」という総括があったほどだから、かなりいいたいことをいいあったのだろう。そしてお互いが「悪の帝国」の指導者でもなく、カウボーイ姿のヒトラーでもなく、核戦争のボタンを押したがる粗暴な人物でもないことを悟ったのかもしれない▼最後の式典で、レーガン大統領は「頼りになるおやじ」的な物腰に終始し、ゴルバチョフ書記長は「したたかものの厳父」の役をこなしていた。微笑をかわし、しかと目をみつめて語りあいながら、両首脳は申し分のない親密さを世界中に披露した。それはそれで十分に意味のあることだ▼だが、どうだろう。その成果は手放しでたたえうるほどのものだろうか。「核戦争には勝利がなく、決して戦ってはならないとの点で意見が一致した」と共同声明はいう。つまり核不戦の合意である▼このことは15年前に発効した「核拡散防止条約」でうたわれていることだ。米ソ両大国は、あの条約でとっくに「不戦」を誓いあっている。それを事新しく確認したということはつまり、80年代の米ソ関係がそれだけ冷え切っていたということの証明になる。核保有国の指導者にとって、これは自慢できる話ではない▼両首脳はたしかに「大きな仕事」をしたし、憎悪よりも対話へ、の方向が固まったことはすばらしい。だが同時に、会談が残した仕事の大きさにたじろぐ思いもある。戦略防衛構想(SDI)では、ソ連は譲歩を拒むだろうし、米国内には早くも軍縮を懸念する軍需産業の声があるという▼17世紀の外交官カリエールは書いている。「立派な交渉家は、彼の交渉の成功を、決して、偽りの約束や約束を破ることの上においてはならない」(外交談判法)。米ソの責任ある行動が、炉辺会談の成功を証明する。 青年海外協力隊員の死 【’85.11.24 朝刊 1頁 (全870字)】  青年海外協力隊の6人がアフリカで亡くなった。車の事故である▼その1人、臨床検査技師の藤原敏雄さん(26)はかねがね「若さをぶつけてみたい。知らない世界の人びとを知って自分を磨きたい」といっていたそうだ。学生時代は、知恵遅れの子のためのボランティア活動を続けていた▼溶接の技術をもつ相磯周さん(26)は、電車の中の協力隊の広告をみて応募した。現地では、ニワトリを飼い、野菜を作り、という生活だった。辞書を片手に教えるのが溶接だけではなく、さまざまな職種にひろがり、てんてこまいだったらしい。「けがも病気もなく、安全に毎日を送っている。そろそろ長期の旅行がしたい」といっていたが、その旅行が命を奪う結果になった▼保健婦の青木伸子さん(30)は、タイのカンボジア難民キャンプで学んだこともあり、「自分のささやかな経験を途上国の人のために生かせたら」と張り切っていた▼建築技師の林不二夫さん(28)は「1人の小さな外交官として、他国の人に日本人を理解してもらいたい」といっていた。獣医の川島雅信さん(28)は大学のころから協力隊入りが夢だった。電算機技師の北川和由さん(24)は、途上国が必要とする電算機のシステムを考える夢を追っていた▼小さな日本の大使たちはみな、青春のさなかにあって、地をはい峠をみつめて前進していた。平らな道ばかりではない。「正直いって現在は苦しくてゆううつです」と書いてきた人もいる。途上国の「貧富の差の激しさにショックを受けた」隊員もいる▼想像できないような辺地で、彼らは実に根気よく、悠然と働いていると俳優の八千草薫さんは書いている。映画撮影でタンザニアの隊員の活動をみた時の感想だ。「途上国の人たちの事をただ心の中で気にしているだけの私には、協力隊の人たちはちょっと憧がれに似たまばゆい存在なのです」▼協力隊の派遣隊員数のべ5943人。これまでに28人が現地で死去。 大相撲九州場所の印象 【’85.11.25 朝刊 1頁 (全841字)】  若島津が最後まで休まなかったのは立派なものだ。屈辱的な成績ではあったが、黙々と土俵をつとめる姿には、一種のますらおぶりがあった▼北尾、大乃国といった力士たちの新しいうねりを思わせる中で、九州場所は終わった。終わってみれば、新しい波の前にひとり豪然として立つ千代の富士の恐ろしいほどの強さがめだつ場所だった▼今場所、一番印象に残ったのは、3日目の琴風・寺尾戦だ。いつものように攻めて攻め抜いて、惜しくも土俵ぎわで手をついた琴風は、これですべてが終わったというように大きくうなずき、それまでの険しい勝負師の顔がみるみる柔和な表情に戻っていった▼名力士だった。大関在位22場所。優勝2回。どんなに体の調子が悪くても逃げず、正攻法を押し通した。「彼の相撲には魂がこもっていた」といったのは元大関旭国の大島親方である▼怒濤(どとう)の勢いで関脇に昇進したのが20歳の時だ。だが度重なるひざのけがで一時は幕下30枚目にまで転落した。月給なしの生活で、「地獄をみてきた」と琴風は述懐している。「忍耐とか根性とかのかっこいいもんじゃない。両親の面倒をみるのにはやり直すしかなかった」▼夏場所で右足を骨折した時は「これで終わりだ」と思ったそうだ。だが、ファンから手紙があった。「私たちは関取の七転び八起きの不屈の精進に学びたい」と。「おれみたいなものでも手本に思ってくれる人がいるなんて、ありがたいことだ」。そういって今場所に再起を期したという▼引退表明の時「14年間、つらいことが多かったが、親方(佐渡ケ嶽親方)はもっとつらい思いをしただろう」といっていた。かつての名横綱大鵬が、脳こうそくで倒れた後、しみじみと「病気のおかげで人の心が少しはみえるようになった」といったことがある。琴風もまた、けがによって、人の心がみえるようになった1人かもしれない。 スカイウエー 【’85.11.26 朝刊 1頁 (全855字)】  やみの中を電車がゴトゴト走り、やがて地上へ出る。あふれる光とさわやかな風に思わずほっとする。夜のとばりがおりていても、まちの灯や道行く人の姿が見えれば、心はなごむ▼大都市の通勤の足として欠かせない地下鉄が、郊外でトンネルを抜け出たときの解放感は、多くの人が毎日感じているに違いない。もちろん地下鉄のトンネルをなくすことは出来ない相談だが、都心部の地下街路は減らせないものだろうか▼米国のミネアポリス市には、ビルとビルの2階をつなぐ大規模な歩行者通路網があって、市民から好評を得ているという。スカイウエーと呼ばれる通路へはビル内のエスカレーターを利用して行けるから、歩道橋のようなわずらわしさがない▼ことし6月に現地を視察した新日本製鉄調査部の和田憲昌さんによれば、通路はガラス張りの部分が多く、まちの表情がよく見える。道路をまたいで街区を結ぶスカイウエーだけですでに33本あり、2年前にくらべ11本もふえているという▼ビルとビルを結ぶ連絡通路なら、日本でもデパートなどでときどき見かける。スカイウエーがこれと根本的に違うのは、歩いて楽しいまちづくりという発想で、都心部全体をおおうネットワークになっている点だ▼この通路網が発達したきっかけは、目抜き通りのニコレットアベニューを、歩行者優先のショッピングセンターに再開発したことである。この結果、周辺の駐車場や市役所、ホテル、劇場などと歩いて行き来できるように、通路が次々に伸びていった▼通路の設置は、隣り合ったビル同士で相談して、費用を負担する。ミネアポリスは雪の深いところで、1月の平均気温は零下11度だという。この気象条件も普及に一役買っていそうだ▼東京都庁の新宿移転にともない、超高層ビルを結ぶ地下通路の新設や延長が計画されている。お役所にもビルの持ち主にも「歩いて楽しい」街路をつくる、という発想がほしい。 実年 【’85.11.27 朝刊 1頁 (全856字)】  実年の実には、満つるとか、栄えるとか、みのるとかの意味があるそうで、誠にめでたいことですが、半面、情実、口実、不実、有名無実ということばがあったりして、ややなまぐさい感じがしないでもありません▼大体、政治の実権を握っている実力者の多くは実年で、内実は黄金色の実弾が飛び交うことになっています。昔は50、60といえば「天命を知る」とか「耳順」とかの年でしたが、昨今は、なかなかどうして、そんなに枯れたものではない。さて、実年とは▼(1)もの忘れをする。肩がこる。足腰が痛くなる。これが実年の門口、3人寄れば健康談議、ということになれば実質的かつ実体的にもう実年です。(2)「生活信条は石の上にも3年」などといっていた人が「一寸の光陰軽んずべからず」などといいだす。実年的実感がいわせるのでしょう▼(3)電通調査によれば、実年世代の好きなことばは、努力・思いやり・誠実・まごころ・和・自然・根性・忍耐辛抱・義理人情。にんげん辛抱だ、の世代です。(4)実年世代は若者に対して「甘ったれるな」といいながら、一方では「若い時はあんなもの」とも考えている。そして「まだ若い人に負けられない」という自信ないしは負け惜しみがある▼(5)生きがいは仕事の会社人間にはストレスもたまる。昭和ヒトケタの、とくに男性の自殺が激増していることが実証されています。(6)家父長型が減り、家庭のことは妻中心、という役割分担型がふえている。実年女性の行動半径はめざましくのびて、会社人間対文化人間の格差はひろがるのみです▼(7)JNNデータバンクの5月調査では、50代男性の好きなタレントは森繁久弥、吉永小百合、石坂浩二、五木ひろし、石原裕次郎。50代女性は森光子、石坂浩二、吉永小百合、加山雄三、市原悦子。明石家さんま君はでてきません▼以上、実年の実態、実情に関する実例寸描。ああ、実につかれた。 柿の実 【’85.11.28 朝刊 1頁 (全841字)】  夏の間は一向にめだたなかった柿(かき)の木が、いまの季節になるときわだってくる。みごとに実っていたものが半分になり、4分の1になり、5つ、6つを数えるだけになると、ヒヨドリのとまっている姿がよくみえてくる。明るくってどことなく陰のある風景だ▼昔から柿色という表現があるが、初冬の日に映える柿の実の色は何といったらいいのだろう。「四季をこの一瞬にあつめて冷たく光ってゐるこの色」といった人がいる。冷たさのある朱色の実には夕暮れ時の光がふさわしい▼正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の鐘も、朝を告げる鐘ではなく夕べを告げる鐘であったろう。「柿などといふものは従来詩人にも歌よみにも見放されておるもので」と子規は書いている▼奈良と柿、という「新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった」というほどだから、よほど革新的なことだったらしい。「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」。我死にし後は、と注釈のある句だ。子規の柿好きは有名だった▼唐木順三氏になると、柿は礼賛の対象になる。「まことに一顆(か)明珠、あゝ、これが柿だ。柿の実だ。日本の秋だ。生命の充実だ。……柿は母の心をつたへる。ふるさとの色をつたへる」(『飛花落葉』)▼柿の栽培の歴史は古い。平安時代の文献には干し柿の記録があるし、江戸時代になるといくつもの品種が並ぶ。ビタミン類を豊かに含む柿はまさに「天来の食物」だった。柿のたたずまいには、私たちの心の原郷がある▼柿の木は装飾材や家具などにも珍重され、柿のシブは、傘の紙にぬられる。三重県の伊賀には、最盛期には傘つくりの家が約200軒もあった。いまは1軒、残るのみだという▼エノコログサが枯れ葉色に染まりだしたのに、アカマンマの花はまだ赤い。道ばたのザクロの木に、かっと口を開いたままの実が1つ、ひからびてぶらさがっている。師走が近い。 京都の古都保存協力税をめぐるかけひき 【’85.11.29 朝刊 1頁 写図有 (全852字)】  平安の昔から、京都ほど権謀術数に明け暮れた土地はない。だから京都市民は、裏の裏にまた裏があることを熟知しているにちがいない。とはいえ、その京都人も古都保存協力税をめぐるかけひきには、えっと驚くことばかりではないだろうか▼今夏、京都仏教会と再選をめざす市長が和解した。有力拝観寺院が税に反対して門戸を閉ざし、市長選の告示が2日後に迫るという緊迫した日のことである。「おかゆをすすっても」と不退転の闘争意欲を表明していた仏教会が、にわかに態度をひるがえし、執行部が市長と握手する姿に世間は驚いた▼それから3月余、今度は両者間の「密約」が暴露された。市長が「ない」と言明していたものが「ある」と分かったのだ。しかも内容は「仏教会が財団法人となり、市と約定した金額を寄付金として市に支払う」などと、明らかに古都税条例に抵触するものである▼条例に違反した「密約」に法的な効力があるかどうかは、今後の論議にまつことになる。しかし、はっきりしていることは市長が条例違反の「密約」に署名した責任だろう。「条例との整合性に多少の疑義はあったが、あれは試案にすぎなかった」と市長はいう。世間は、この発言に多少どころではない疑義を覚えている▼もう一方の当事者である仏教会も、自らを純情な被害者として描いてみせるわけにはいかないのではないか。「密約」を交わしたということは、選挙の最大争点を市民の目から隠したということにほかならない。そして仏教会は、結果的には、この争点隠しに一役買ったわけだ▼「行政の威信」とか「仏法の大義」とか、当事者たちが声高にいっているうちに、事態は泥沼化する。来月には再び、拝観停止をする寺院も出る雲行きだ。「威信」も「大義」も、すでに地にまみれている▼市長選直前、一件落着を信じ、それを評価して1票を投じた市民は、いま投じた票をくやんでいるかもしれない。 国電ゲリラ事件 【’85.11.30 朝刊 1頁 (全839字)】  「どうやって本塁打を打つか」と問われ、「バットで」と答えてニヤッと笑うプロ野球の選手の姿がテレビにうつった。賢い答え方をする選手がいるものだ▼「どうやって国鉄のケーブルを切断したのか」と問われたら、「カッターで」と過激派は答えるだろうか。バットの答えには笑いがあるが、この答えには笑いがなく、陰湿なにおいがあるだけだ▼なぜ、切断したのか。電車を止めるため。ではなぜ、電車を止めたのか。国鉄の分割・民営化に反対だから。こうなると、解けない知恵の輪のようなものだ。分割・民営化反対の意思表示と650万人の乗客に迷惑をかける作戦とが、どこでどう結びつくのか。反対論に耳を傾ける人も、これではとてもついていけぬ、と背を向けることだろう。損得勘定でいえば損にきまっているが、それでもあえてゲリラに走ったのはなぜか▼警備当局は中核派のゲリラと断定した。成田空港闘争と中核派は強い結びつきがあり、千葉動労は成田闘争を支援している。そして中核派は千葉動労を支援している、という関係があって、今度のゲリラの遠景には成田闘争がちらつく。過激派にとっては格好の示威行為だったのだろう▼中核派は3年前にも、成田闘争で国鉄の信号ケーブルを切断して朝の混雑時に影響を与えた。ほんの何カ所かのケーブルの切断だけで、電車の運行がまひ状態になってしまう。今度また、大都会が抱える意外なもろさを突きつけられて、不安な気持ちになった▼効率的で機能的な大都会の土台を破壊しようというゲリラの仕事が、やはり効率的で組織的で、管理されたチームを思わせる点にも、ぶきみさがあった。迷惑千万だと憤る乗客がいれば、「過激なことをやりおって」と口ではいいながらもむきにならない乗客がいる。心の底ではドラマを楽しむようなところがあるのか。そういう姿をみると、また別の不安が心をかすめる。 CM主婦と重症筋無力症の格闘 【’85.12.1 朝刊 1頁 (全863字)】  栃木市に住む元教師の熊倉多佳子さん(51)は自分のことをCM主婦と称している。CMばかりみているからではない。CMが放送されるぐらいの時間しか体を動かせない主婦、という意味だ▼もう十数年、重症筋無力症のため入退院を繰り返している。全身の筋肉がのび切ったパンツのひものようにだらりとなる。少しでも起きて働くと息苦しくなる。顔が真っ赤になり、手足やくちびるがしびれる。あわててベッドに体を投げだす。また起きて、こまぎれに働くのだ▼『第1回ありのまま記録大賞』の優秀作に選ばれた多佳子さんの闘病記「一本橋の向うに」を読んだ。ひどい時は、呼吸ができなくなり、夫が10時間以上も休むことなく人工呼吸を続ける、といった話が再三でてくる。そういう難病と闘って生き抜いてきたという事実に、まず驚く▼やせ細ってふにゃふにゃの多佳子さんをふろにいれた後、夫がいった。「なんだか人間連れてるみたいじゃないな。トリガラ連れてるみたいだ」。娘たちは笑い、あわてて口をおさえて「お父さん、今の言葉ちょっとまずいんじゃない」。ご本人はしかし夫の毒舌に大笑いする、という描写があった。この明るさはどこからくるのだろう▼ひととき病状が好転した時は洗濯を始める。娘さんが驚きの声をあげる。「あら、お母さん、いい顔してるじゃない」「そうよ、お母さん美人だもの」「ヤッハッハッ」。死に神との格闘を支えてきたものに、この家族のきずながある▼30代で発病したころは4歳の長男をみて「子育ての終わっていない現役の母親がこんな根性でどうする」と自分にいいきかせた。その長男も高校2年である。長女は会社に勤め、次女は結婚して今は2歳の孫がいる▼160センチの身長が154センチにちぢまった。「骨を削って生きてきました。私の病気で家庭が荒れた時期もありましたが、夫や子供たちの明るさが支えでした」。電話口で、多佳子さんはそういった。 男と女の服装 【’85.12.2 朝刊 1頁 (全842字)】  男女雇用機会均等法が成立したせいもあって、ことしは入社試験の作文に男女問題をとりあげたところが多かった▼ユニセックス時代というのか、際くずれ時代というのか、男と女の服装の区別はますますなくなってきた。黒やグレーなどの、昔は男の色といわれた地味な色を女性が好み、赤やピンク系を男が喜んで着る▼型(シルエット)もそうだ。肩の張り方などは女性の方が直線的で、男性はむしろ曲線的になる。男女の最後の区別は、スカートを別にすれば打ち合わせぐらいのものか。そう思ったら、これがまた、あやしくなっている▼若い女性に人気のキャラクターものなど、シャツ、ジャケット、ブレザー、コートと、どれをとっても打ち合わせは男用、つまり右前が多い。マニッシュ(男っぽい)と呼んで、ここに魅力の1つがあるという。ついでにいえば、若い女性向けの有名デザイナーの店では、顧客名簿の1割以上が男性だそうだ▼着物は男も女も右前に着る。平安時代からの伝統という。洋服にはなぜか区別がある。文明開化で西洋からやってきて以来、男は右前、女は左前と決められていた▼際くずれ現象は子供服にも及んでいる。ここでも色の男女区別がなくなった。あとは打ち合わせを共通にすれば、きょうだい間でのお下がりのときにも都合がいい。ジャンパーやカーディガンなどもどんどん右前の一本化が進んでいる▼しきたりにこだわるのでなければ、打ち合わせのちがいは手勝手だけの問題だろう。子供服からして女性の左前がなくなるのであれば、この男女平等化は意外と簡単かもしれない▼左前になるという言葉がある。物事が順調にいかなくなること、金回りなどが悪くなることをいう。死に装束を左前にしたことから生まれたものらしい。それというのも、着物の右前を正常としていたからだろう。世の中から左前が消えていく。結構なことではありませんか。 天神崎買い戻しの成功 【’85.12.3 朝刊 1頁 (全859字)】  10年にわたる「天神崎の自然を守る運動」が目標を達成した、という外山八郎さんからのお便りをいただいた。外山さんはこの運動の指導者である▼目標額の2億円を超える寄金が集まり、4ヘクタールの岬は開発から守られることになったという。寄金に協力して下さったたくさんの読者の方々と共に、祝杯をあげたい。筆者がもし今年の十大ニュースを選ぶとすれば、ためらうことなく、この天神崎買い戻しの成功を加えるだろう▼まず運動の進め方がよかった。開発に反対する以上は自らの犠牲を覚悟する、大勢の力で押し切って土地の持ち主にだけ犠牲を強いてはいけない、持ち主と保護派との共生をはかろう、という考え方が運動の根底にあった▼運動の参加者たちは、退職金や年金をつぎこみ、土地を担保にして借金をして買い戻しをはかった。保護派と持ち主の間に信頼のきずなが生まれ、両者の共生がやがて、全国の3万5000人の魂をゆり動かす一大市民運動を生んだ。持ち主は、辛抱強く運動の成果を待ち、協力してくれた▼目的も明快でよかった。それは一口でいえば「先祖伝来の海の文化を子孫に残す」ということだった。天神崎にはたとえば豆粒ほどのアラレタマキビ貝が何匹も肩車を組むようにして熱さを避けている。海岸林は潮風に弱い樹種をかばうようにして繁茂しており、いたるところに自然界の共生がある▼「幼いころから大自然のすばらしさを体験させること。本当の教育は生きた自然の中にある」という外山さんの考え方に、筆者も賛成する。小さな貝や海岸林を観察することで、共生の真理を学ぶこともできる。共生を学ぶ場を残す目的のために共生的な手段を貫いた、という意味でも天神崎の運動はこころにくい▼外山さんたちはいよいよ「財団法人」作りをはじめる。法人作りの募金目標は5000万円。生きた学びの場を未来の子供たちに残す組織を作る運動に、あなたも加わりませんか。 奈良県斑鳩・藤ノ木古墳の楽しいナゾとき 【’85.12.4 朝刊 1頁 (全853字)】  奈良県斑鳩(いかるが)の藤ノ木古墳からでてきた装飾馬具を取材した記者は、その精巧な透かし彫りを一目みて「とてつもなくすばらしいものだ」と思ったという。6世紀中ごろのこの鞍(くら)は古代史のカギを握るだけではなく、美術工芸品としても出色のものだ▼いろいろな題材、デザインがごちゃまぜになっているところがおもしろい。古代中国や古代朝鮮のにおいがあるかと思うと、遠いオリエントのにおいもある。象がいる。鳥がいる。鬼神がいる。金細工やガラス細工もある▼そもそも馬具なるものには騎馬民族のにおいがある。忍冬唐草の模様ははるか西方の文化の影響だろう。亀や鳥がでてくるのは中国の四神思想の影響だろうか。亀甲つなぎ模様の中の鬼や鳥のデザインには新羅(しらぎ)のにおいがある▼盛んな好奇心で遠い国々の新しい文物を吸収し、それらを上手にこねくりかえして、自分なりのものをつくる、というのは日本人の得意とするところだ。もしこの装飾馬具が日本人の手になるものだったらまさに、ごった煮精神の面目躍如といいたいところだが、どうもいまのところは朝鮮半島からの渡来説が強い▼端倪(たんげい)すべからざるごった煮精神もまた、これらの文物と共に日本に持ちこまれたのか。あるいは、文化というものは多かれ少なかれ、ごった煮精神をバネとしてひろまり、とけあい、より豊かなものになる、という性格のものなのだろうか。どこの国の人なのか、何でもおもしろがってどんどん取り入れ、黄金色の馬具を作りあげた古代の職人の姿が目に浮かぶ。この逸品は「何でもおもしろがる心」の所産なのだろう▼有力者が死んだ時、天界に馬で飛び立つため、あるいは魔よけのために馬具を墓にいれる習わしがあった、ともきく。これもまた、そのような意味の鞍であったのか。そして一体ここに葬られた人物はだれか、というナゾ解きがますます楽しみになった。 定数是正問題と正義のブロンズ像 【’85.12.5 朝刊 1頁 (全856字)】  最高裁のうす暗い大ホールに、正義の女神のブロンズ像がある。りりしく、すずやかな目だ。女神は片手に剣をもち、片手に金色の天秤(てんびん)をもっている。正邪をはかる天秤であり、それを断ずる剣であろうか。作者は円鍔勝三氏である▼衆院の定数問題をこの女神の天秤にかけたら、どういうことになるだろう。議員1人あたりの有権者数が、40万人近い選挙区もあれば、わずか8万人の選挙区もある▼40対8。天秤がひっくり返りそうに傾くほどの不均衡がある。正義のブロンズ像を国会内にも置いて、だらしなく大きく傾いたままの天秤を、毎日、議員諸氏にみてもらいたいものだ▼最高裁の「違憲状態」判決がでてから、もう2年たつ。中曽根首相は「定数是正に最大限の努力をする」といい続けてきたが、是正は見送られた▼政府与党の首脳は「6増・6減案は緊急避難的な措置だ」「国勢調査の結果を待って是正するとなるとケガが大きくなる」などという。この緊急避難とかケガとかいう表現には、なにやら被害者意識のようなものがちらつく▼台風が来る。家の建て替えは間に合わないからとにかく応急修理を、ということだろうが、これは話があべこべで、あらしの原因をつくっているのは外ならぬ議員諸氏ではないか。現に台風の被害を受け、ケガが大きくなることを心配しているのは有権者なのだ。台風のもとを断つために、根本的な是正策をきめてもらいたい▼まず、いまある不均衡をなおすこと。自民党は6・6案をいい、野党は「2人区」には反対だといって、合区を主張している。しかも国勢調査の速報値がでれば6・6案でもなお大幅な不均衡状態が続くことが明らかになる。この混迷をどう切り開くのか▼長期的には「5年ごとの国勢調査の結果に応じて必ず定数を是正する」ことをきちんと制度化してもらいたい。女神の顔も3度だ。あまりもたもたが続くと、剣が振りおろされますぞ。 放送大学を「国民の大学」に 【’85.12.6 朝刊 1頁 (全849字)】  放送大学の期末試験を見学した。場所は東京第2学習センターである▼放送大学は、入るのはやさしいが、卒業するのが大変だ。テレビやラジオで勉強するだけではなく、面接授業もあれば、単位認定試験もある。受講生約1万5000人のうち、今期末は約1万人が試験を受けた▼初老の男性がいる。主婦がいる。子ども連れの夫婦がくる。体の不自由な人の姿もみえる。全盲の女性が娘さんと一緒に姿をみせた。娘さんは大学生で、この日は母のために学校を休んでつきそってきたのだという▼この人の場合、試験は個室で行う。科目は「行為と規範」。テープで問題を流し、必要に応じて娘さんが繰り返して読む。「ね、2番読む。何番読む」「3番読んでもらえるかしら」▼「……欲望の満足と幸福とはどう異なり、どう関係するかを論じなさい」。難しい。「わぁ、そっちも大変だなぁ」。母親は手元の点字の教科書にせわしく指を走らせる。学問に立ち向かう、あるいは学ぶことを楽しんでいる母親の姿を、娘さんが心配そうにみつめている▼たとえばドイツ語を学ぶ60代の女性が「難しくてついていけない」と所長の平沢教授に泣きついてくることがある。そんな時平沢さんはいう。「ついていけなくたっていいんですよ。悠々とやって卒業せず、現役のまま生き続ける、それもまたいいことではありませんか」▼いま放送大学の内容は首都圏や群馬など、一部の地域にしか流されていない。冬の間、東京の妹の家に泊まってテレビの講義をきいた新潟の女性もいた。あとは週に1度、上京し、視聴学習室のビデオで1週間分の勉強をしているという▼放送大学を「政府の大学」ではなく「国民の大学」に育てるには、どうしたらいいのか。難問は多いが、まず必要なのはこの電波大学の全国化だろう。すでに来年度の学生募集が始まっているが、一部地域の人だけしか受講できない、というのはおかしい。 円高差益 【’85.12.7 朝刊 1頁 (全862字)】  円高の影響がこんなところにも現れるのか、と思った。大蔵省が円高差益分を計算して防衛費の圧縮をはかろうとしている▼防衛庁が使う燃料の石油代は、概算要求では約800億円だが、昨今の円高を計算にいれると、同じ量でも百数十億円は安くなるという。F15戦闘機などの装備購入費も、150億円程度は節約できるはずだ。あわせて300億円、これはぜひ節約してもらわないと、筋が通らない▼東京のあるホテルのレストランに「10ドルステーキ」というのがある。その日のドル換算率で、200グラムステーキの値段をきめる。1ドル230円の時は、2300円だし、199円の時は、1990円になる。この仕組みだと円高円安なるものが実感としてわかるからおもしろい。円高が進めば進むほど日本人客がふえるそうだ。10ドル灯油、1ドル果物なんていうのがあってもいい▼円高が定着してから、米国産の牛肉や果物の円高差益還元セールをした大手スーパーがある。流通業界の一部では値引きの動きがでているが、産業界のほうは腰が重い。たとえば電力の場合は1円の円高で年間120億円の為替差益がころがりこむという。これはやはりなんらかの形で消費者に還元してもらいたい▼「円高大臣と呼ばれたい」というのが竹下蔵相の口ぐせだという。円高は日本経済の実力をしめすもので、円高大臣おおいに結構ではあるが、さて、どうだろう。防衛予算が節約されたり、輸入品が安くなったり、ということがなければ、円高のありがたみが人びとに実感として伝わらないのではないか▼逆に、円高が急速に進めば産業界の輸出競争力が落ちて、景気の後退が心配される。事実、ある銀行の調査は、1ドル=200円の円高で、赤字に転落しないですむのは自動車、コンピューター、磁気テープの3業種にすぎない、と指摘している。輸入品の値下げもなく、景気も悪くなる、とあっては円高大臣の値打ちが下がる。 「12月8日」 【’85.12.8 朝刊 1頁 (全854字)】  「12月8日」が来るたびに、そしてこの日のことを書くたびに思うのは、大人は大人の責任においてもう1つの「12月8日」を絶対につくってはならないということだ。当たり前のことだといわれても、このことはいい続けたい▼開戦前の「陸軍省諸会議記録」と戦時中の「大東亜建設審議会資料」を読んだ。「国を守る気概を育てよ」と説く人がいる。日本民族の優秀性を説く人がいる。「卑屈な平和を欲求する議論を行うが如きは不可」ともある▼国家機密が叫ばれ、「国民が1から10まで知らなくては承服せぬというような指導はよくない。知らざることあるも政府を信頼せしめよ」と説く人がいる。昔と今とでは、時代の顔も違う。姿も違う。だが、人間集団の体臭のようなものはなかなか消えないと思いながら古い文書を読んだ(資料は『国家総動員史』所収)▼痛感したのは、当時の指導者の多くが他民族、とくにアジアの人びとをさげすみきっていたことだ。「東亜の民族の中にはサルと同様な生活をしているものもある」「華僑はその活動基盤を取り上げてしまえば自然に消滅する」といった意見があいつぐ。朝鮮半島から労務者30万人を連れてくる、といったことがモノを運ぶように論じられている。これが聖戦の正体だった▼米英は横暴非道、我欲の徒であり、鬼畜、白面鬼である。たとえ敵国でも、近代文明から遠い熱帯の地でも、そこにはそれぞれの文化がある。生きて、恋をして、苦労して暮らす個々の人間がいる。その個々の人間を大切に考える、というごく平凡な人間観が当時は希薄だった。新聞雑誌は、他民族への憎しみやさげすみをばらまく役割を続けた▼そしてこの排外心は、国内の戦争反対者を排撃する思想につながる。個を圧殺する一億一心の体制が、危険でもろいこと、一億一心よりも一億多心のほうが安全で、かじとりを間違えずにすむということも、「12月8日」の教訓だ。 サハロフ夫妻 【’85.12.9 朝刊 1頁 (全856字)】  ソ連のサハロフ博士の妻エレーナさんがアメリカに着いた。「記者会見をしない約束を当局としたから」といって多くを語らなかった▼夫人の沈黙はしかし、さまざまなことを雄弁に語りかけている。たとえば夫婦のきずなの強さ。目や心臓の治療を必要とする夫人を出国させるため、博士がハンストを続けたこと、幽閉の地にあってなお、博士は「自由に出国し自由に帰国することもできないような国は劣等国だ」という信念を貫いていること▼物理学者のサハロフ氏は、32歳で学問の府の最高峰であるソ連科学アカデミーの正会員になった。水爆開発に決定的な役割をはたし、若くして栄誉と快適な生活を約束されていた▼だがやがて、核実験の停止を訴え、体制に抵抗するようになる。ソ連社会の官僚主義や不自由を鋭く批判し、ノーベル平和賞を受賞したこともあった。5年前、一切の名誉をはぎとられ、幽閉の身になる▼博士のいう3つの思想の自由は(1)情報の入手と普及の自由(2)討論の自由(3)権威と偏見からの自由である。政府が独占する情報をどれほど自由に入手できるか。権威主義のもとで、異論をとなえる自由がやせ細っているのではないか。サハロフ氏の主張は、知的自由を考えるあらゆる国の人びとに刺激を与えた▼夫人の記者会見を禁じたことについて、大国の雅量に欠けるという批判もある。一方、夫人の出国を認めたことは「異例の政治的配慮」で、硬直していた西側諸国との外交を全方位的に見直そうという動きの表れ、とみる専門家もいる▼夫人は記者たちにいった。「私は夫のことを案じ、不安に思っています。それが今お話しできるすべてです」。人間の尊厳を冒すものと闘うサハロフ氏のことを、ノーベル委員会はかつて「世界が何よりも必要としている良心の代弁者」とたたえた。サハロフ夫妻の物語は、勇気とは何か、守り抜くべき価値とは何か、ということを問いかけている。 枯れ草うたう山頭火 【’85.12.10 朝刊 1頁 (全843字)】  暦の大雪(たいせつ)をすぎると、師走の日々はもうまっしぐらに冬至へ向かう。いまは野草の花の少ない季節だが、それでも日当たりのいいところでは西洋タンポポが咲いている。白いスミレが1輪だけ咲いていることもある▼枯れて、しなやかさを失ったカゼクサがぎごちなく風になびいている。「晩秋初冬は私の最も好きな季節」だといった種田山頭火はよく枯れ草をうたった。「やっぱり一人はさみしい枯草」「枯れゆく草のうつくしさにすわる」。亜麻色の世界には人を包みこむ温かさがあるが、時には人を寄せつけないぶきみな感じになる▼ススキやセイタカアワダチソウにつる草がからみあったまま立ち枯れている姿は、おどろおどろしくて、とても「うつくしさにすわる」どころではない。よく見ると枯れ草の世界は亜麻色一色ではない。根元にはもう、小さな緑の命が萌(も)えでている▼ハルジョオンが放射状に葉をのばしている。ハコベやヨモギも姿を見せている。ぽっちりと紅色のつぼみをつけたホトケノザもある。枯れ草や落ち葉は土を覆うふとんになって、早春の草を守る。それは冬が春を抱え、冬の命が春の命を守っている姿だ。季節は、秋から冬へ、冬から春へと一斉に移り変わるのではない。木枯らしの中にすでに萌える春がある▼山頭火との「一夜」を大山澄太さんが『詩心と無我の愛』という本に書いている。寒い夜、山頭火をたずねた。雨戸もないぼろ小屋である。酒をくみかわしたあと、泊まった。1枚しかないふとんに寝かされたが、寒くて眠れない▼やっと眠って、明け方めざめると、山頭火は黙然と座禅を組んでいる。ゆがんだ柱のすき間から寒風がヤリのように入ってくる。その風を、山頭火は自分の体をびょうぶにして、徹夜で防いでいたのだ。それを知って澄太さんは泣いた▼枯れ草や枯れ葉が草の芽を守る姿を見ているうちに、この話を思いだした。 女性の強さは天の配剤か 【’85.12.11 朝刊 1頁 (全844字)】  コロンビアの大噴火後、孤絶した土地で、1カ月近くも生き続けていた年配の主婦が救出された。たまり水を飲み、保存食料を少しずつ食べていたそうだ▼今度のコロンビア噴火ではたくさんの胸を打つ話があった。ある主婦は、崩壊した家の下敷きになり、泥水に埋まった。死の恐怖と闘いながら、ついにそばにあった山刀をとって自分の両足を切った。12歳の娘を助けたい一心だったらしいが、数日後、病院で亡くなった。娘さんの生死はわからない▼ある母親は、泥水の現場で出産した。「エスペランサ(希望)と名づけてください」といっていたが、収容された病院で息をひきとった。女の子の赤ちゃんも、まもなく亡くなった。泥水の中で3日間も生き続け、救出作業の続く中でこと切れた少女もいた▼ある主婦は、コンクリートの塊や材木に押しつぶされて動けず、のどがかわいて声もだせなくなった。犬が寄って来て、顔をなめてくれた。犬のつばがのどに落ちて、「助けて」と救助隊を呼ぶことができた。「犬が天使のようにみえた」と女性は語った▼生と死の記録を読みながら思うのは、過酷な条件下で生きのびた人のニュースに女性の例が多い、ということだ。日航機事故で生き残った4人はみな女性だった。去年の夏、九州の山で遭難し、11日間も生きのびた中学生も、女の子だった▼一概にいえることではないだろうが、ねばり強さ、体の柔らかさ、ということでは女性に分があるのではないか。兵庫県にある健康道場の医師、笹田信五さんは、いざという時は体力の消耗を避けることが大切だし、脂肪の量も関係がある、と指摘する。絶食をした場合は、同じ体重では脂肪の多い女性の方が有利だという▼平均寿命でみても、女性の方が男性よりも何歳か長生きすることになっている。いろいろな遺伝要因もあるのだろう。女性を強くしているのは、種の保存のための天の配剤か。 100円ラーメン 【’85.12.12 朝刊 1頁 (全852字)】  「なんと今どき100円ラーメン」という記事が、朝日新聞(大阪)に先月掲載された。大阪の下町で、4人がけテーブル3脚の小さい「飯店」を経営する32歳、田中久夫さんの奮闘ぶりが紹介されている▼田中さんは少年時代から中国料理を修業し、去年、念願の店を開いた。「1円をばかにするな」がモットーだ。燃料を無駄にするまいと、ガスの火勢に気をつける。臭みのないダシをと、鶏ガラの血はていねいに取る。奥さんも出前に走る。こうしてようやくモットー通り、モヤシ、ネギ、豚肉入りのおいしいラーメンを100円で売ることができる▼記事が掲載されてから、ラーメンは「事件」になった。「なんと今どき」と皆がいい、いっているうちにそれが近所の流行語となった。客は近畿一円から電車、マイカー、タクシーに乗って来る。休日には30メートルほどの列ができ、常連たちは「遠来の客を優先的に」と、来店をひかえている▼老若男女、客はさまざまだ。「こんな生き方を見せれば、子が道を誤ることもない」と女性の喫茶店主は涙を流した。500円玉を渡し、100円玉4つのお釣りをもらった客は「ありがとう」と深く頭を下げた。100円ラーメンだけではもうけになるまいと、ギョーザ(100円)モヤシいため(180円)などを追加注文する客もいる▼鉄工所や銀行の朝礼で田中さんの話が出た。銀行の課長は商売道を学びたいといって、店を訪ねてきた。地下鉄駅員、酒屋の店員たちは、頻繁に「飯店」への道順をたずねられるものだから、教えた道順が間違っていてはいけないと、店の所在を確かめにきた▼京都市立桃山中学2年1組を担任する西川哲夫先生は、記事の感想文を生徒に書かせ、文集をつくった。1人が、こう書いている。「遠くからわざわざ食べにくるのも、お金ではないものを得るためなのだろう」▼大人もこどもも、飽食の時代にあって何かに飢えている。 こんとん中の思考 【’85.12.13 朝刊 1頁 (全859字)】  寒天、こんにゃく、ゼリー、液体を含みブヨブヨになって形を保っているものを、ゲルと呼ぶ▼このゲルの不思議さを発見し、解明して仁科記念賞を受けた田中豊一さん(マサチューセッツ工科大教授)の話が本紙『ひと』欄にあった。医学界、電子産業、食品産業への応用に期待がかけられている、というから大変な発見らしい▼たとえばゲルの液体の濃さを変える。温度を変える。電気刺激を与える。刺激によってゲルは突然、数百倍から1000倍に膨れる。あるいは縮まる。手品のような話だが、この手品の奥の手は新しいエンジン、人工筋肉、吸水性の高いおむつなどに使われることになりそうだ。ゲルを調べる技術は、白内障の治療に応用できる、といわれている▼興味深いのは、研究にとりくむ田中さんの姿勢だ。「いいデータが出なくて研究が行きづまった時、かえってわくわくします。なぜって、常識で割り切れない興味ある現象にぶつかっている可能性が大きいのだから」。行きづまってわくわくする、というところがおもしろい▼迷路をさ迷う時、道は2つある。壁にぶちあたって落ち込むか、わくわくして新しい道を切り開くか。関連がないようにみえるいくつかの事実を前にして、ボヤーッと考える。ボヤーッと考える時間を大切にする。論理の跳躍はモヤモヤから生まれる、というのが田中式思考法だろう。それは、レンガを積むようにして事実を積みあげてゆく思考法とは違う▼朝永振一郎博士が、湯川秀樹博士のことを書いている。「彼の仕事を通じて気がつくことは、モヤモヤとしたものをモヤモヤとしたままでとっつかまえて、あれこれ考えをめぐらす独特の型である。彼は『こんとん』を愛している」と(朝永振一郎著作集(1))▼この思考の型は、ゲルなどというこんとんたる物をつかまえ、考えをめぐらせる田中さんにも受けつがれている。こんとんの中の思考は創造を生む、ということだろうか。 日本の国際救援活動 【’85.12.14 朝刊 1頁 (全871字)】  6年前、タイのカンボジア難民キャンプを訪ねた時のことで、鮮烈な記憶として残っていることがある。おそろいの薄緑色の服を着たイスラエルの医療隊のことだ▼死を待つ子供たちの中にいて、10人の医者、看護婦は1日12時間、2交代制で実にきびきびと働いていた。頼もしい存在だった。九死に一生を得た人たちは、医師たちのことを決して忘れないだろうと思った▼火事の時は、かけつけて手伝ってくれる人が頼もしい。火急の国際救援活動でも同じだろう。日本の救援活動にはこの現場主義がやや不足しているのではないか▼イスラエルの医師はいった。「緊急時の奉仕を志願している医師は常に100人はいる。そして私たちの活動を支えているのは市民の寄金です」。前線と後衛とのみごとな結びつきがあった▼日本の緊急援助はカネの面ではひけをとらない。たとえばメキシコの震災時に、政府は125万ドル(約2億5000万円)もの援助を贈った。米国の100万ドルを上回る額だ。コロンビア噴火の時も130万ドルを贈っている▼国連のインドシナ難民援助計画への去年の政府拠出金は約4400万ドルに達している。世界第2位の額だ。これだけたくさんのカネを出しながら「援助大国」のイメージが定着しないのはなぜだろう▼メキシコ地震の時、フランスは特別機2機に約200人の医師、救助部隊をのせて派遣した。ニカラグアは大献血運動をし、医療団と共に大量の輸血用血液を送って喜ばれたという。現場主義を大切にしている例だ。昨今は現地で活躍する日本の医療班の姿もめだちはじめたが、まだ数が少ない▼「もっと組織的な対応を」という安倍外相の発想で、国際緊急援助体制が生まれる運びになったが、趣旨には大賛成だ。自衛隊の海外派遣問題とはからめず、いかに速く、いかに効果的な救援体制を整えるか、ということで衆知を集めてもらいたい。市民が寄金で支援する道を開くという発想も大切だろう。 国鉄駅の雨水利用 【’85.12.15 朝刊 1頁 (全862字)】  ビルの屋上から国鉄の駅をながめていると、ホームを覆う屋根が意外に広々としていることに気づく。雨水利用の話を何回か書いているうちに、あの広大な屋根が気になりだした▼たとえば東京駅のホームの屋根は約2万平方メートルにもなる。後楽園球場の6割ほどの広さだ。全国の国鉄駅の屋根面積を合計すれば、とてつもない広さになるだろう。そこに降る雨がそのまま捨てられるのはもったいない話だと思っていた▼だがしろうとがそんなことを考える前に国鉄はすでに雨水利用の計画を進めていた。南武線の武蔵中原駅で実用化のテストをしているという記事があった。チリや泥を含んだ雨水の汚れを磁気処理装置で落として、貯水槽にためる。さらに浄化槽を通して雑用水に使う、という仕組みだ▼武蔵中原駅の話では、今はトイレの水は雨水だけでまかなっているという。試算がある。かなり大きい駅では、トイレ用水を全部水道でまかなうと年間約3700万円になる。開発された新装置をつけてその4分の1を雨水でまかなうと約2900万円ですむ。装置の工事費は約3年で償却され、その後はまるまる水道代の節約になる▼カネの問題だけではない。雨を捨てずに使うことは水資源の節約になるし、都市型洪水を防ぐ。国鉄は、主として新設駅に限って雨水利用をするつもりらしいが、都心の大きな駅でもぜひ実現してもらいたい。駅の貯水槽は災害時には命の水になる▼こんな数字がある。(1)地球上の水のうち、淡水は3%しかない。その多くは南極北極の氷で、私たちの周辺にある淡水は0.8%にすぎず、汚れがめだっている。水は無尽蔵の資源ではない。(2)日本は世界有数の多雨国だが、1人あたりの降水量は世界平均の5分の1しかない。多雨国は同時に小雨国なのだ▼都市の雨を使わずに捨てる、つまり使い捨てならぬ「使わず捨て」を続けていると一体どういうことになるか。空恐ろしくなることがある。 国家秘密法案のカギ握る新自ク 【’85.12.16 朝刊 1頁 (全854字)】  新自由クラブは場合によっては、かなえの軽重を問われることになるだろう。国家秘密法(スパイ防止法)案を継続審議にするか、廃案にするか、新自クはそのカギを握っている。衆院内閣委でもし継続の賛否を採決することになって、新自クが反対に回れば、廃案が可能になる▼東京の目黒区議会では新自クの議員が国家秘密法案に反対し、「この法案は政府によって恣意(しい)的に解釈され、言論の自由が阻害される恐れがある」と主張した。この主張には、党本部の姿勢が反映されているはずだし、そうであるならば、国会の場で反対の旗色を鮮明にするのが筋だろう▼新自クは前国会で「継続審議」のあと押しをし、法案の行方を憂える人たちを失望させた。河野代表が「とても賛成しかねる内容だ」といっていたのに、である。9年前、「身を捨てて保守の蘇生(そせい)のためにがんばる」「愚直に行動する」と宣言し、荒野に飛びだしたころの炎はいまなお燃え続けている、と思いたい。反対なら反対を愚直に貫く姿勢を守り抜いてもらいたい▼14年前の国防総省ベトナム秘密文書事件で、米国の最高裁は、記事の掲載禁止を求める政府の要求を退けたが、当時のブラック判事は意見書の中でこういっている▼「自由で抑制されない報道機関のみが、効果的に政府の偽りを暴くことができる。自由な報道機関のもっとも大きな責任は、政府のいかなる部局も国民をあざむいて遠隔の地に送り……銃弾に倒れさせたりしないようにすることである」▼いまの法案には、なにが国家秘密かをきめる側に対する厳しい歯止めがない。その歯止めがなければ、政府の偽りや誤りを効果的にただしうる重要な情報も「国家秘密」の名の下にフタを閉じられてしまう恐れがきわめて強い。それは国民の知る権利を奪い、国民をあざむくことになる▼新自クは政策合意の1つである「情報公開の推進」にこそ力をつくすべきだろう。 手帳 【’85.12.17 朝刊 1頁 (全853字)】  年の瀬を思わせるものに新しい手帳がある。社員手帳が配られてくる。取材でおつきあいのあるところからいただくのもある。パラパラめくって使い勝手を調べ、ついでに連休をたしかめたりする▼手帳が日本で初めて製造販売されたのは明治の初めで、当時は西洋かぶれの一部の文化人のものでしかなかったという。いまはビジネスマンの8割以上が使っている。そのうち3割は2冊以上持って、仕事用や私用に使い分けている(日本能率協会調べ)▼種類は市販されているものだけで何百とある。専門家用として土木手帳、電気手帳、機械手帳、税務手帳、気象手帳、航海手帳、食堂手帳、りんご手帳、コーヒー手帳などがある。趣味やレジャー用では俳句手帳、短歌手帳から釣り手帳、古美術手帳、ハム(アマ無線)手帳まである▼日本の手帳に時間目盛りが入ったのは昭和26年だという。当時は新聞記事になるほどの驚きだった。いまではこれが当たり前だ。あのモーレツの高度成長時代が、それまでの日付だけの手帳を変えてしまった。15分刻みのものまである。手帳の時間表はビジネスマンの作戦管理表でもあるらしい▼そんな既製の手帳を拒む人も出てきた。大阪の江戸堀に「書祭」という製本工房がある。2、3年前から暮れになると手帳の注文がくる。まとまって何冊というのではない。1冊ずつ、一人ひとりの注文である▼白いメモ用紙に1枚1枚、自分で好きな色と幅の罫(けい)を引き、1年分の日付を書き入れて持ってくる人がいる。耳も不ぞろいなザラ紙の束に、ちょっとぜいたくな革表紙をつけたいという人もいる▼夫の形見のネクタイを持ってきて、これを裏打ちして表紙に、と注文する婦人もいる。作るのも自分でやってみようと、ついでに製本の手ほどきを受けている人もいる。世界に2冊とない、自分だけの手帳を持ちたい人たちだ▼年の瀬の手帳には、さまざまな人が映るようである。 税金の行方知りたし 【’85.12.18 朝刊 1頁 (全857字)】  「年収は平均なれど火の車」(未原和子)。「朝日せんりゅう」にあった作品だ。これにつけ加える言葉はない。「税金の行方知りたし悪道路」(板垣千寿子)というのもあった▼さて、中曽根首相は都議選前には「重税感のある中流サラリーマン層に配慮する」「所得税、法人税の減税は断行する」と発言していた。だが、どうだろう。自民党税制調査会がきめた案には、所得税減税も法人税の引き下げもない。「中流サラリーマンの重税感をやわらげる配慮」なるものはどこへ消えてしまったのだろう▼かくて、税金の行方知りたし、の思いはますます激しい。冗費を削らねば生き残れない民間企業ではとても考えられないことが、今も起こっているからだ。何億円もかけて、ある漁港に全長約600メートルの大型漁船用の岸壁を造った。だが50トン以上の漁船はほとんど利用せず、宝の持ち腐れになっている例がある▼「霞が関には毎年、富士山ができる」という知事がいる。全国から持ちこまれる予算要求のためのおびただしい書類の山が富士山ほどの高さになる、という皮肉だ。なぜ書類の行革ができないのか。零細な補助金の場合は、予算獲得運動の手間や経費の方が高くつくこともある、というからなんともばかばかしい▼会計検査院の報告では、59年度の税金のむだ遣いは170件で約225億円だった。調べたのはごく一部だから、実際のむだ遣いは2000億円を超えるだろう。小中学校の生徒数の水増しがあった。1校や2校ではない。全国のあちこちでうその報告があり、約8億円の国庫負担金がよぶんに支払われていた▼第2次臨調の会長、土光敏夫さんはかつてこういった。「会計検査院が政府や特殊法人の事業の8%ぐらいを調べただけでも膨大なむだがみつかる。100%手をつければ増税なんかいらなくなる」。その通りだ。冗費を生む構造に徹底的にメスをいれるのが行政改革ではなかったのか。 アマチュアコーラス指導者の辻正行さん 【’85.12.19 朝刊 1頁 (全844字)】  アマチュアコーラスの指導者、辻正行さんは、各地の合唱団の人の顔と名前を1000人、いやそれ以上もおぼえているという。一度に63人の名を記憶し、その場で他のグループに紹介する芸当もやってのける。合唱指導者としての大切な資質の1つだろう▼辻さんは、アマチュアコーラスのすそのをひろげたことで抜群の功績をもつ。2月には国技館で行われた「第9」コンサートの合唱監督をし、5000人の合唱を成功させた▼その半生を書いた熊谷幸子さんの『「歓びの歌」の本』には、興味深い辻語録がたくさん出てくる。たとえば「脳や手先と同じで、声も毎日使っていないと衰えます」「人間的魅力というのは必ず声に出てきます。逆に声に魅力のある人は、人間的にも魅力がある」。いささかならず耳が痛い言葉だ▼声楽家の辻夫人は、歌をきかせて3人の子を育てた。だからだろう。「女性の一番美しい声は子どもに歌ってやっている時の声だ」という夫の言葉があった▼子に歌ってやる。合唱する。そのことの効用を辻さんは説く。「子どもが『家で合唱してるの』と自慢できるくらいになれば、親子関係も変わってくるはずです」▼大声で歌うことは、ありのままの自分をみせることだし、共に歌うことは相手の調子を思いやることでもある。わだかまりがあれば、いい合唱はできない。家族コーラスの習慣は、新鮮な親子関係を育てることになるのかもしれない▼映画化された『コーラスライン』には、むきだしの自分をさらそうとする人たちの格闘がある。全身で歌う。筋肉を極限まで使って踊る。そこには嫌でも、あるがままの人間が表現される。「心を開く」ことが、この作品の1つの主題にもなっていた▼辻さんはいう。「のどから声は出さない。のどから出すのはおえつの時だけ。のどは大きく開いて。心も、です」。共に歌うとは心を開きあう、ということなのだろうか。 社会党の「パフォーマンス」 【’85.12.20 朝刊 1頁 (全842字)】  社会党がいっていた「パフォーマンス」とはかくのごときものか、と思った。社会党の定期大会は、新宣言の取り扱いでもめ、来年また開かれることになったが、退屈だった大会がこれで盛りあがったし、1月にはまた社会党の活字が大きく新聞にでる。一石二鳥というものではありませんか。離れ業を演じた石橋さんはなかなか芸が細かい▼しかし、社会党に本当の意味のパフォーマンス精神があるのだろうか。いってみればそれは、きわめて演劇的であり、創造的であり、肉体そのものの表現を必要とする▼アメリカの著名な歌手がスタジオに集まり、アフリカ救援のために「ウイ・アー・ザ・ワールド」のレコードを作った。その過程がテレビで放映されたことがある。プロデューサーや歌手たちの熱気に満ちた雰囲気の中にこそパフォーマンスのあらゆる要素があった▼社会党がパフォーマンスの言葉を新宣言案から削ったあと、皮肉にもそれが「日本新語・流行語大賞」に選ばれた。田辺書記長は授賞式で恥ずかしそうにさっさと退場したが、ああいう時こそ、石橋さんや土井たか子さんともども現れ、お祭り騒ぎでもいい、パフォーマンスなるものを実演すべきだった。それとも、おもしろがることを悪徳とする風潮がまだ党内にはあるのだろうか▼大会がのびたのを機会に、社会党は各地で意見をきく会を開いたほうがいい。国民政党か階級的大衆政党か、革命か連鎖的改革かといった議論を続けることを党の支持者は喜ぶだろうか▼むしろ大蔵省を説得しうるような現実的な大型減税策ありや、地価引き下げ策ありや、軍縮への筋道をどう考えるのか、といった議論を歓迎するだろう▼石橋委員長は「政権をたえず視野にいれる」という。それはいい。だが、パフォーマンスには「観客との合同的表現」の意味もある。1000万人を超える支持票の思いをたえず視野にいれないと道を誤る。 事故防止に「人間くさい営み」を 【’85.12.21 朝刊 1頁 (全844字)】  だいぶ前の話だが、国鉄を定年でやめた老人が線路のひび割れを見つけた話があった。近所を走る電車の音をきいていて、おや、きょうの音はおかしいと思い、調べてみたらレールの異常がわかった。ほっておけば事故を起こしたかもしれなかった▼事故を防ぐには防御装置も必要だし、手引書も必要だが、もう1つ、どこかに人間くさい営みが生きている、ということが必要ではないだろうか。墜落事故を起こした日航ジャンボ機は7年前に「しりもち事故」を起こしている。その時、圧力隔壁の修理をした▼修理の事実があれば、その後もだれかが特別に念入りに目を光らせる、という作業が必要だったのではないか。手引書をはみでたそういう人間くさい営みをこそ、と考える機構が必要だったのではないか▼圧力隔壁というのはそばで見ると巨大なおわんで、たたくとコンコンと軽い音がするそうだ。厚さは1ミリ足らずである。ものすごい圧力をささえる部分だけに、修理ミスがあれば金属疲労の進行が早まることは容易に想像できる▼6年前、カナダ航空のDC9がやはり圧力隔壁の故障で、機体後部に大穴をあけたことがある。この事故では幸い死者はなかったが、隔壁が壊れた例はほかにもある▼運輸省の航空事故調査委員会は、ジャンボ機の隔壁には事故の前にすでにいくつもの亀裂があり、合計すると29センチになる、と発表した。ずさんな修理によるものだろう▼問題の第1は、機体の定期点検の時、この異常が発見しうるほどのものであったのかどうか、点検の頻度、やり方に問題があったのかどうか、という点だ▼第2。隔壁の破壊と尾翼の破壊の関連はまだ実証されていない。だが、隔壁が大破した場合でも尾翼や油圧系統が破壊されないですむ、という構造上の改善がこれからの課題になる▼さらにいえば、事故を防ぐには、人間くさい営みをどこかで生かす工夫が大切になる。 現代サラリーマン川柳 【’85.12.22 朝刊 1頁 (全839字)】  第一生命が社員から川柳を募集したら、なかなかいきのいいのが集まった。「こわごわとパソコンにらむ五十坂」。実年の後ろ姿が泣いている。「パソコンにできるものかとお茶を汲み」。いずれはしかし、そういう時代になるでしょう▼パソコン、カラオケ、単身赴任といったところがまず顔をのぞかせる。「カラオケで知った課長の別の顔」という功徳もあるが、調子にのると「下手くそな上司の歌を聞くつらさ」になりかねない▼「かみさんの声聞かされて涙ぐみ」。男純情の単身赴任者。「久々に帰る我が家に席はなし」。江戸の川柳には〈ひとり者胴ぶるひする飯をくひ〉〈ひとり者ほころびひとつ手を合せ〉。男所帯の胴ぶるいは昔も今も変わらない▼「胃けいれん上や下へと気をつかい」。知らなかった、わからなかった、あれでも気をつかっていたのか、と上や下はいう。古川柳に〈番頭は柱で肩を揉んで居る〉。昔の番頭さんも緊張の連続だった。「早帰りせよと言う手にまた書類」。労働時間は減らない、有給休暇はふえない、減税の見送りで自然増税になる、と世の会社勤めにはつらい日々が続く▼「なにげなく言った言葉が胸を刺す」。水に流せぬことだって、あるのよ。でもとりあえずは「ムッときた気持トイレでおし流し」▼「わりかんで酒飲みながら部下しかる」。どこにもうっとうしいおじさんはいる。江戸の川柳に〈低頭の上を意見は通り越し〉▼忘年会続きで、たまに早く帰ると「夕食は先にとったと妻がいい」。昔の深夜帰りでは〈かごちんをやって女房はつんとする〉。今ならタクシー代だ。かくて「思えども妻と上司に勝てはせず」▼女房殿にもいい分がある。「メシ・フロと言ってみたいわ一度だけ」(柏崎雅子)というのが「朝日せんりゅう」にあった。古川柳に〈かゝあ殿などと元日やさしく出〉。こうなれば、すべて世はこともなし、でしょうな。 フグ食い 【’85.12.23 朝刊 1頁 (全856字)】  よくぞ先人は食ったものだ、と感嘆させられる食べ物がある。さしずめフグはその代表格であろう。面相も決して美形ではないし、何よりもあの猛毒だ▼古代の貝塚からよくフグの骨が見つかるというからフグ食いの歴史は古い。豊臣秀吉の「河豚(ふぐ)食用禁止の令」をはじめ、明治の中ごろにかけ何度も厳しい禁止令が出されたが、昔の人は食い続けてきた。河豚食う無分別河豚食わぬ無分別、の歴史は長い▼それでも、最上の美味とされるトラフグの刺し身となると時代はぐっと下がる。フグの本場、山口県が出した『ふぐ処理師教本』によると、フグ刺しを初めて賞味したのは長州で活躍した勤王の志士たちらしい。ふくと汁が中心だった東京に関門のフグ刺しが進出したのは大正7、8年ごろ、「てつ」という鍋(なべ)料理で知られる大阪に広まったのは戦後の30年代だという▼今のような冷凍車もなかった大正時代、東京までフグを送るのは大変だった。箱を二重にして、間に氷を詰め、さらに食べ方を指導する人をつき添わせて汽車で一昼夜かかって運んだ。食堂車の冷蔵庫を借りた時期もあるそうだ▼ことし、関門と関東、関西を結ぶフグの宅配便が好評だ。板前さんが皿に盛りつけたフグ刺しが陸路で24時間以内、航空便だとその日の午後には自宅に届けられる▼民間の宅配業者に郵便局まで加わり、取扱業者は十数社にのぼる。去年からニューヨークにも輸出を始めたが、今秋になって米国食品医薬品局が突然輸入禁止を宣言した。地元紙が「猛毒のフグを食べて、死に挑戦しませんか」と書きたてたのが引き金になったようだ▼長いつき合いの割にフグの生態には依然ナゾが多い。たとえば、幼魚期にどこに住んでいるかがはっきりしない。毒のテトロドトキシンにしても、エサを通して体内に入ってくるらしいが、その蓄積の仕組みは不明だ。フグは味だけでなく、カリスマ性でも王者の風格十分である。 内閣改造と目白もうで 【’85.12.24 朝刊 1頁 (全854字)】  三島由紀夫の「宴のあと」という小説に、料亭の女将(おかみ)がそこに出入りする保守党政治家の振る舞いを見て、政治とはこういうものかと肌で感じてゆくくだりがある▼それは厠(かわや)へ立つふりをして行方をくらませたり、こたつにあたって詰め将棋のような相談事をしたり、怒っていながら笑ってみせたり……要するに芸者のやるようなことをすることだった。その大仰な秘密くささも情事に似ていて政治と情事とはうり二つだった、というのである▼内閣改造に向けて自民党各派が走りだす中で、似たような光景が繰り広げられている。とりわけ田中派の動きには手の込んだ感じがする。まず、二階堂副総裁が極秘に中曽根首相と会談し、この事実を田中派の会合であかした。派の人事は自分を軸にやりますよ、という儀式だった▼田中元首相不在ゆえに、大臣適齢期の議員からてんでんバラバラな発言がもれてくる。創政会と非創政会のつばぜり合いに仲間同士の先陣争いが加わる。求心力を失った集団特有の現象に、幹部たちは足元をみられることを恐れた▼そこで会長を中心に、ということで一応の意思統一をはかったのだろう。しかし二階堂氏には権威が必要だ。元首相の了承である。そこで「推薦名簿を出す前に目白に行き、紙を見せて一任をとりつけてくる」という発言となった▼実際、二階堂氏は元首相を訪ね、短時間面談した。「ちゃんと意思表示はあったのか」「推薦名簿はあらためて持っていくのか」と疑心暗鬼が募っていることだろう▼「すだれの向こうで首をタテに振ったり、ヨコに振ったり……角さんがみこか何かみたいになってしまう」との声も聞こえる▼個々の議員も内心ではおかしいと感じつつ、二階堂氏の目白もうでの意味が大まじめで語られる。面会すら満足にできない病人が政変に関与し、だれも公然とは異議を唱えない不思議さ。政治の未熟さと不合理さをあらためて思う。 定数配分、真の抜本策を 【’85.12.25 朝刊 1頁 (全843字)】  アメリカにも、定数配分の不均衡は「立法府では癒(い)やせない病気」という表現があるそうだ。定数是正をめぐる政界の動きをみていると、日本でもその通りかなと思う▼だれもが根本的な解決をと口ではいう。「抜本是正を」と与党もいい、野党もいう。坂田衆院議長も「とりあえずの是正と並行して、抜本的改正を図る」という見解をしめした。「そしてみんなバッポンを叫んだ」という構図で、いたって聞こえはいいが、これだけ抜本が安売りされている例も珍しいのではないか▼国勢調査の速報値がまとまった。人口比例できちんと計算すると、減員しなければならぬ選挙区は実に63、増員しなければならぬ選挙区は34、という数字がでている▼よくもまあ、長い間、抜本改正を怠ってきたものだ。定数配分のゆがみは全選挙区の7割を超えているともいう。つまりこれは、民主主義の根幹となる柱がゆがんでいる、ということではないか。ゆがみをただす能力がないのならば、降参して、抜本改正を党派と関係のない機関にゆだねたらどうだろう▼一口に抜本改正といっても、政界の常識と世間の常識との間にはややズレがある。政界でいわれる抜本改正は「60年国勢調査に応じたもの」を意味するらしいが、世間でいうそれは「常に抜本改正ができるような抜本策を制度化すること」である▼土俵のゆがみを常に監視し、造り直すことをきめる常設の委員会をつくれ、ということだ。政治家諸氏だけにまかせておけないという不信感がその根底にある▼選挙制度が違う国と一概に比較はできないが、英国、西独、カナダなどには常設の第三者機関があって、国会の定数不均衡に目を光らせ、選挙区域の変更を答申する。その機関に裁判官が加わっている国も多い。やはり立法府だけでは癒やせぬ病なのだろう▼根本の原因を抜き去ることを考えない抜本策は、真の抜本策にはなりえない。 借金地獄予算 【’85.12.26 朝刊 1頁 (全855字)】  「借金ぐらい怖いものはない」といって、生涯、借金を敬遠し続けたのは福沢諭吉翁である。無借金経営で知られるトヨタの大番頭だった故石田退三さんも、常々、派手に借金をする経営者を批判し「カネを借りることに対する恥がまるで感じられない」といっていた▼来年度予算の大蔵省原案をみていると、福翁や石田さんの言葉をしみじみと思いだす。私たちはいつになったら「借金地獄予算」から脱出できるのだろう。国の財政全体が借金漬けになっているだけではない。防衛予算もまた借金を背負っている▼国債発行残高、つまり国の借金は約140兆円である。1万円札で140億枚、横に並べると、ちょうど地球の赤道あたりを56周することになる。1万円札に刷られた福翁としては、怒りと恥で満面朱をそそぐばかりであるに違いない。この借金の利払いなどのために約11兆3000億円が支払われる▼ひと月の家計にたとえると、夫の収入が約40万円(税収約40兆円)、妻のパート収入が約3万円(税外収入約3兆円)、借金の返済のために、11万3000円を払う。やむなく、サラ金から月々11万円の金を借りる、という生活だ▼国を借金のフチにはめこんだ歴代為政者の責任は大きいし、私たちの税金でその穴埋めをしていると思えば腹立たしい。にもかかわらず、防衛費はいぜんとして突出を続けている。恐ろしいのは、ここにも借金地獄がひかえていることだ▼1隻約500億円もする護衛艦を買う場合、来年度の実際の歳出は1隻につき頭金3900万円だけである。0.08%さえ払えばあとの99.92%は後払いだ。こういうやり方で、次々に新鋭兵器を買い続ければ、後払いの負担がふくらみ、借金地獄にあえぐことになる。この場合もあえぐのは国民である▼後年度負担がかさめばもはや、途中で防衛費を大幅に削るという芸当はできなくなる。まさに「借金ぐらい怖いものはない」。 加藤唐九郎さんの「迷路」 【’85.12.27 朝刊 1頁 (全843字)】  亡くなった加藤唐九郎さんは「迷路」という言葉が好きだったらしい。自伝にも『土と炎の迷路』という題をつけている▼陶芸家、加藤唐九郎にとって迷路とは何だったのだろう。子どものころ、祖母がいったそうだ。「学校なんかへ行ってだれもが同じことをやるような教育を受けたら、せっかくのやきものの腕が鈍ってしまう」。貧しい半農半陶の家に生まれた加藤少年は、ろくに学校へ行かず、やきもの作りに精をだした。迷路の中にほうりだされて、変わり者の道、己を創造する道を歩むことになる▼昔は地中に眠っている名作の陶片を求めて、窯跡のある山の土を掘り返した。立ち入り禁止の山なので警察に逮捕される。留置場入りが3度、4度と続くが、へこたれずに陶片をさがし続けた。当時は、そういう迷路をふみしめて、古人の技法を少しずつ習得するほかはなかった▼土をさがす行為も迷路を歩き続けるようなものだろう。「私は土を求めて山野をさまよいまわる土の行者である」と書いている。土は「恋人」だった。宿に泊まりあわせた客の靴の泥をみて、どこを歩いたかをしつこく尋ね、その土をさがしに行った▼しかし同じ所の土でも、焼いて、同じような色になってくれるわけではない。土と炎の性格の融合が偶然の結果を生む。「どこまでいってもやきものの道は迷路だ」という言葉には、陶器に対する賛嘆、畏敬(いけい)の念がこもっている▼デッサンや文学とのであい、キリスト教とのであい、資本論とのであい、カードシステムやワープロとのであい、いろいろな迷路をくぐりながらすべてをのみこみ、自分を太らせていった器の大きな人だった。名品は迷路の中で生まれるのか。迷路こそが名品を生むのか▼迷路の楽しみも苦しみも次第に姿を消してゆく管理された世にあって、加藤翁はいった。「いまが男盛りじゃ。迷路のまっただ中じゃ」。84歳の時の言葉だ。 都市と大学 【’85.12.28 朝刊 1頁 (全842字)】  大学が都心から離れていく。学生数が増え、校舎を増設しようとしても、都心のこの地価ではとても大学の手に負えない。郊外、市外の地価の安いところを選ぶより適当な方法がない、というのが大学のいい分である▼苦しみは分かる。としても、やはり都心に大学はあってほしいし、行政当局も、できるだけ大学を残すように努力してもらいたい。たとえば大阪。いま市内に残る4年制の大学はわずか6校になってしまった。総合大学としては大阪市立大学がただ1つあるきりである。大阪の地盤沈下が叫ばれているが、大学流出も沈下の大きな原因になっていることに行政側は気付いているかどうか。国土庁の人もいった。「商い一辺倒の都市を、都市と呼べるでしょうか」▼ジェーン・ジェイコブスというアメリカの有名な都市論者がいる。この人の書いた『アメリカ大都市の死と生』という本は、一部の人に「都市論のバイブル」とまで評価されているそうだが、その中にこんな一節がある。「大都市にとって自然なもの、それは多様性である」。学生とは、その多様性を支える1つの大きな柱だろう▼大阪から東京へ行って、とくにうらやましいと思うことがある。渋谷、新宿、原宿と、都内のあちこちに学生の多い町がみられることだ。近ごろの学生は変わったとはいっても、かもし出す雰囲気はそう変わってはいない。活気があり、あけっぴろげな明るさがある。こぢんまりとできあがった町という印象を与えない。いま作られつつある町という感じを、学生たちが作り出している▼老人だけの町、主婦だけの町、商人だけの町、サラリーマンだけの町。「だけ」の町というのは、どう考えても面白くもなく、魅力もない。町とは多様な人びとの混合によって本当の町になるのではないか▼事は大学にかぎらぬ。日本の町にはどうも排除の原理が働きすぎている。そしてつまらなくなっていく。 85年の貝 【’85.12.29 朝刊 1頁 (全834字)】  今年は、いろいろな貝が現れた▼ヤリ貝。会社員の背にとりついている奇妙な貝のこと。やり甲斐とも書く。テレビCMの、課長さんの背の小さなヤリ貝の壊れているさまが中年族の涙を誘った▼フカ貝。練習であとずさりがうまくできなかった福永衆院議長がその座を追われたりすると、人はこの貝を思う。不可解とも書く▼ソウセイ貝。ことし突如として田中派内に出現した珍種。サワヤカベンキョウ貝の異称もある。近親種のヒソウセイ貝との不仲をもじってナカタ貝と呼ぶ人もある▼ホン貝。苦節21年でやっとこの貝を手にいれました。阪神ファンの本懐▼サギマ貝。きわめて有害なのでユウ貝とも呼ばれる。豊田商事はじめ、この貝を利用した悪徳商法がはやり、貝中毒の被害者が続出した▼マチ貝。この貝を食べて一躍、有名になったアナウンサーがいた。去年のおおみそか、都と美空の間違い▼ケイサンマチ貝。海運市況の回復をあてにした三光汽船の強気商法は、計算間違いだった▼バチ貝。沖縄・石垣島の白保の海などに生息している。このサンゴの海を埋め立てて新空港を造るなんて、場違い▼ケンキョウフ貝。牽強付会とも書く。意見の対立があったのに、強引に公式参拝の道を開いた靖国懇の報告書のことなど▼シルケンリシン貝。廃案になった国家秘密法(スパイ防止法)案▼ジ貝。自戒とも書く。マスメディアの人権侵害報道に対する風当たりが強い1年だった▼リ貝・ムリ貝。レーガン、ゴルバチョフ両氏の「邪心なき率直な会話」はこの2つの貝の間を行きつ戻りつしたらしい。理解・無理解とも書く▼ユ貝・フユ貝。年の瀬、どちらの貝を食べることになったのか。大臣病患者の愉快と不愉快▼イケンジョウタイコッ貝。きわめていびつな奇怪な形の貝で、命名は最高裁。代議士諸氏がこの貝の保存運動にことのほか熱心なので、当分は生存するはず。 85年の貝 【’85.12.29 朝刊 1頁 (全834字)】  今年は、いろいろな貝が現れた▼ヤリ貝。会社員の背にとりついている奇妙な貝のこと。やり甲斐とも書く。テレビCMの、課長さんの背の小さなヤリ貝の壊れているさまが中年族の涙を誘った▼フカ貝。練習であとずさりがうまくできなかった福永衆院議長がその座を追われたりすると、人はこの貝を思う。不可解とも書く▼ソウセイ貝。ことし突如として田中派内に出現した珍種。サワヤカベンキョウ貝の異称もある。近親種のヒソウセイ貝との不仲をもじってナカタ貝と呼ぶ人もある▼ホン貝。苦節21年でやっとこの貝を手にいれました。阪神ファンの本懐▼サギマ貝。きわめて有害なのでユウ貝とも呼ばれる。豊田商事はじめ、この貝を利用した悪徳商法がはやり、貝中毒の被害者が続出した▼マチ貝。この貝を食べて一躍、有名になったアナウンサーがいた。去年のおおみそか、都と美空の間違い▼ケイサンマチ貝。海運市況の回復をあてにした三光汽船の強気商法は、計算間違いだった▼バチ貝。沖縄・石垣島の白保の海などに生息している。このサンゴの海を埋め立てて新空港を造るなんて、場違い▼ケンキョウフ貝。牽強付会とも書く。意見の対立があったのに、強引に公式参拝の道を開いた靖国懇の報告書のことなど▼シルケンリシン貝。廃案になった国家秘密法(スパイ防止法)案▼ジ貝。自戒とも書く。マスメディアの人権侵害報道に対する風当たりが強い1年だった▼リ貝・ムリ貝。レーガン、ゴルバチョフ両氏の「邪心なき率直な会話」はこの2つの貝の間を行きつ戻りつしたらしい。理解・無理解とも書く▼ユ貝・フユ貝。年の瀬、どちらの貝を食べることになったのか。大臣病患者の愉快と不愉快▼イケンジョウタイコッ貝。きわめていびつな奇怪な形の貝で、命名は最高裁。代議士諸氏がこの貝の保存運動にことのほか熱心なので、当分は生存するはず。 「団塊の世代」はいま 【’85.12.30 朝刊 1頁 (全845字)】  戦後の22年から24年にかけてのベビーブーム期に生まれた「団塊の世代」はいま、どうしているだろう。東京都が最近公表した「ニューサーティー調査報告書」は、不惑を目前にした彼らの生活と意識を知る上で興味深い資料だ▼全国で約710万人、東京だけでも約74万人。全人口比で6%強も占めるこの世代は成長するにつれ、そのときどきの社会問題を生み落としてきた。豊かさの中で育った「現代っ子」。「教室不足世代」。大学紛争を引き起こし、社会の中堅となったいまは「ポストレス世代」。お荷物集団であり、主張する世代であった▼わが国の将来は、彼らの存在を抜きにしては語れまい、というのが今回の調査の動機だそうだが、彼らの社会的性格は(1)競争を積んでいるだけに活力があり(2)人間関係にはさめていて上司、部下とのつき合いを重視せず(3)「権威」にはむしろ挑戦的で(4)真善美の区別でいえば「美」に敏感だという。当人たちは「ニューファミリー世代」と呼ばれるのを好み、「全共闘世代」は好きでない▼管理職適齢期を迎えたこの世代への対応は企業にとって頭の痛い問題だが、事態は先刻承知で「みんなでいればヒラでいい」と自嘲(じちょう)気味に、年功序列より能力主義、専門職中心主義へと傾斜している。上からは「身勝手で理屈屋」、下からは「生まじめでやぼ」と思われているだろうと、世代間橋渡し役の苦悩ものぞかせている▼彼らの子がまた、第2次ベビーブームの「新団塊の世代」である。中学生となって「いじめ」問題の渦中にいる。いまだ解決できずにいる難問は、この親たちの生きかたにかかわってはいまいか▼核家族世代でもあり、自分の老後も「自立して生きたい」と自助努力の構えだ。だが、この人たちが「老人」となる21世紀、わが国は世界一の高齢社会に突入する。児孫おのずから児孫の計あり、ではすむまい。 シクラメン 【’85.12.31 朝刊 1頁 (全840字)】  「シクラメン風吹き過ぎる街の角」飯田龍太。花屋さんにシクラメンの鉢が並んでいる。白い炎、唐紅の炎、ぼたん色の炎、べにふじ色の炎。かがり火花とか、かがり火草とか呼ばれるこの花には常に炎の感じがある▼葉は密生していて、深い森を思わせる。その深い森の暗がりからすっくとくきが伸びて花をつける。花のつけ方が一風変わっていて、萼(がく)がうつむいているのに花びらは反り返って、上を向く。見事なほど、一斉に上を向く姿がかがり火にたとえられるのだろう▼がんと闘って亡くなった著名な解剖学者、細川宏さんは、病床を飾る数々の花を見つめながら歌った。「夜になると/シクラメンの花に灯がともって/やわらかいピンクの彩色光が/ハイウェーをくまなく照らす/シクラメンは/花の国のハイウェーを飾る/スマートなデザインの照明灯だ」▼病床の窓辺にあって、この花はどれほどたくさんの人々を励まし続けたことだろう。もろくてかよわい花にみえるが、葉も花びらも厚くて、触るとたけだけしい感じさえある▼葉をかきわけると、大小のつぼみが、噴きでる生命力を抑えるようにして出番を待っている。炎や照明灯になって一隅を照らしだすこの花の強靭(きょうじん)な命が、病者にも伝わるのであろうか▼銀座で花屋を経営する鈴木昭さんによると、甘やかされたシクラメンは逆境に弱いが、自然児として育てられたシクラメンは葉も堅く、砂漠のように乾いた室内でも強さを保つという。過保護の戒めは人間と同じで、栽培さえきちんとすれば強靭な花らしい。昨今は白やパステル風の色がはやりで、お正月用の贈り物にも使われる▼年が暮れる。大地を裂いて、福寿草の芽が姿をのぞかせている。「逝く年のわが読む頁限りなし」山口青邨。たくさんの宿題をし残したような、中途半端な気持ちのまま、今年もまた、除夜の鐘をきくことになるのか。 タンチョウヅル 【’86.1.1 朝刊 1頁 (全849字)】  本社機「千早」で、数日前、北海道の釧路へ向かった▼出発は未明、満月の光を翼に浴びて北へ進んだ。やがて雲海のはてに一筋、えんじ色の帯がひろがり、朱の玉が粛々と昇りはじめた。東の空の日と、西の空のはてで淡い紅に包まれている月と、大空を飛びながらみる光の祝祭は、何度みても、みあきることがない▼釧路におりて、湿原周辺のタンチョウヅル(丹頂鶴)をみた。アイヌの人たちはこのツルのことをサロルンカムイ(湿原にいる神)と呼ぶそうだが、はじめてみる湿原の神の姿にみとれて、これはもうやみつきになるなという予感があった▼その身のこなしは、磨きぬかれた芸の美しさを思わせる。雪の上を、細い足でややきどって歩く。片足で立つ。お辞儀をする。跳躍する。羽をひろげる。追いかけっこをする。寄りそう。空をあおぐ。りんとした声で鳴く。鳴き合う。えさを食べる。舞うように飛ぶ。宙に浮かぶ▼さまざまな「動詞」は、ツルが演ずることでたちまち、名優の所作になる。ツルは人類が現れるよりもはるか昔に、舞や踊りの極を究めていた▼丹頂鶴は人間に追いつめられて一時は絶滅を伝えられていた。だが、大正のころ、湿原に十数羽が生息していることがわかり、以後、地元の人たちの努力で数をましてゆく。給餌(きゅうじ)も行われ、今は380羽ほどになったが、安心はできない▼湿原には零下20度の寒さでも、こんこんとわく水があり、凍ることのない川や沼があり、水草がある。その貴重な生態系が丹頂鶴を守ってきたのだが、開発によって徐々に破壊が進みつつあるという▼湿原が本来の命を失えば、湿原の神は巣作りの地を失う。湿原の死は湿原の神の死だ。聖域をつくる、国立公園化を急ぐ、という仕事を急がねばならぬ▼夕方になると、給餌場のツルは次々に飛び立ってゆく。丹頂鶴は雪よりも白いのか、薄暮の雪の上ではその白さがひときわ目立った。 トラ年の政治を思う 【’86.1.3 朝刊 1頁 (全837字)】  きのうの東京の空はきれいだった。築地の本社屋から、丹沢連山や奥多摩の山々が鮮やかにみえた▼さて、トラ年。《虎穴(こけつ)に入らずんば虎子を得ず》という首相の新春発言があった。首相のいう虎子って、何だろう。増税か。国家秘密法案の盛り返しか。それとも衆参同日選挙か▼《大人は虎変す》とも、首相はいった。毅然(きぜん)としておおまかに変わるのが虎変だという注釈つきだ。風見どりとは一味違うぜ、といいたげだが、でも、獲物をねらう時の虎の変わり身はすごいというよ▼《虎首を争う》ために《虎視たんたん》でいるのはニューリーダーたち。サミットが終われば《騎虎の勢い》で《竜虎の争い》がはじまる▼《虎は死して皮を残し、人は死して名を残す》代議士諸氏に名を惜しむ心があれば、ここまで定数是正をひきのばすことは、できなかったはず▼《前門の虎、後門のオオカミ》経済摩擦はついに貿易戦争になるのか。輸出を抑えて貿易黒字を激減させれば、国内では不況風が強まる。《虎のヒゲをなでる》ように、米国のごきげんをとって防衛費をふくらませば、アジアの国々の目がきつくなる。世界の識者の発言集で、タイの文学者が警告している。「日本の人々がもっと政府に圧力をかけないと、核武装を含め軍国主義への道を突き進みかねない」▼《両虎相闘えば勢いともに生きず》米ソの全面核戦争が起これば、どちらも生き残れないだけではなく、「核の冬」が地球を覆う▼《苛政(かせい)は虎よりも猛(たけ)し》自分のしゅうとや夫が虎にかみ殺された上、わが子まで殺された婦人が墓場で泣き叫んでいた。なぜ、この地を去らないのかと孔子の弟子がたずねると、婦人はいった。「ここでは税金が軽いからです」と。世の中には虎より怖いものがある▼《酒に酔うて虎の首》酔って、大言壮語で明け暮れる三が日もきょうでおしまい。 わくわくする天王星のショー 【’86.1.4 朝刊 1頁 (全841字)】  ハレーすい星はシッポの出し惜しみをして、まだ美しい姿を見せてくれない。だが、この新年には、もう一つ、わくわくするような天文ショーが用意されている。なぞに包まれた青緑色の惑星、天王星に米国の探査機が近づき、1日200枚もの写真を写して送ってくれるのだ▼歴史が始まって以来長いこと、惑星は火水木金土の5つと決まっていた。これに太陽と月を加えた「7曜」は、いまも私たちの生活を支配している。「7」は、動かすことができない神秘で完全な数、と長年信じられていた▼その宇宙観が打ち砕かれたのは、205年前のことだ。ドイツ生まれの英国の音楽家W・ハーシェルが、手製の望遠鏡で、未知の惑星を見つけたのである▼新惑星はウラヌスと名づけられた。ギリシャ・ローマ神話の大神ジュピター(木星)の祖父の名である。サターン(土星)とビーナス(金星)にとっては父、マース(火星)とマーキュリー(水星)にとっては大祖父。太陽系の星たちのご先祖にあたる▼お年のせいでもあるまいが、この星は、寝そべってごろごろ転がるようなかっこうで太陽のまわりを回っている。一めぐりする周期は、くしくも発見者ハーシェルの生涯と同じ84年である。妖精(ようせい)の名で呼ばれる5個の衛星を従え、9本の輪にとりかこまれている▼訪問者のボイジャー2号は1977年の夏、地球を出発した。2年後に木星を、さらに2年後に土星を訪ねた後、5年間ひとりぼっちで宇宙を飛び続けている。今月25日未明、天王星の約8万キロの距離まで近づく▼ボイジャーを地球の外に送り出し、指令し、情報を受ける技術は兵器を送り出し誘導する技術の兄弟筋である。ただ、探査機の方はずっと値段が安く、だれも傷つけない。積みこまれた11種の観測器は私たちに何を教えてくれるだろうか。天王星は今、南極を太陽に向けて美しく輝いているはずだ。 初もうで 【’86.1.5 朝刊 1頁 (全855字)】  正月三が日に初もうでに出かけた人は、全国で7950万人にも達した。この数字、神社や寺がはじき出したものと警察の出した数の中間をとったものだそうだが、明治神宮、川崎大師、成田山新勝寺の上位3位はこの4年、不動だった▼10人に7人がお参りしたことになり、まさに国民的行事といえるが、昨年と比べると200万人以上も減っている。「トラうそぶけば、風騒ぐ」という。トラ年に当たり、風雲巻き起こるのを恐れてのことかと思ったら、寒さが厳しい上に、京都では拝観停止の寺が多く、それにことしは落成記念といった客寄せの目玉がなかったせいでしょう、と警察庁▼元日の朝、明治神宮に出かけた。お年寄りや晴れ着姿は少なく、10代と思われる若者たちが目立った。玉砂利を踏んで、一応参拝コースをたどってはみるが、あとは表参道でなすこともなく、ただ群れている。人の集まるところに、とにかく群れてみたがる若者たち。神社側も「なぜでしょうねえ。2、3年前から急にふえました」▼「困った時の神頼み」ともいう。1枚500円の祈願絵馬を見る限り、神社や寺に求めるのは、徹底した現世利益のようである。結婚、就職。圧倒的に多いのが合格祈願。それもたいてい志望校が5つは並んでいる。「10の願いは8つまで」。歩留まり8割で満足します、というわけか▼明治神宮=明治天皇・昭憲皇太后、川崎大師=厄除(やくよけ)大師、成田山新勝寺=不動明王、住吉神社=住吉大神・神功皇后、伏見稲荷大社=宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)ほか。祭神、本尊を見比べても、われわれはなんと多様な神様、仏様を拝んでいることか。神社や寺側が引き受けてくれる「願意」もまた家内安全、商売繁盛、航空安全、海外旅行安全、禁酒・禁煙祈願と多種多様▼「人の願いは天従う」「信あれば徳あり」という。「神は見通し」ともいうが、まずは平穏な1年であれかし。 朝日賞・宮川一夫さんの「画面」 【’86.1.6 朝刊 1頁 (全853字)】  戦時中の映画『無法松の一生』では阪妻が祭りだいこを打つ。あの汗の飛び散る迫力ある場面は、今も心に残る。こんど「朝日賞」が贈られる宮川一夫さんが撮影した作品だ。『羅生門』もそうだ。『瀬戸内少年野球団』もそうだ。子犬のトリス君が雨の街をさまようテレビCMもあった。どの作品にも、自然の気配に敏感な宮川調の情感がある▼『羅生門』では、強烈な木もれ日、風にゆれる木の葉の影をしつように追った。できばえを見て黒沢明監督は叫んだという。「100点だよ。キャメラは100点!100点以上だ!」▼チャブ台の上にあるラムネの空きびんの色にも心を配る。ライトをあてると、色が飛んでしまう。工夫を重ね、びんの後ろ側に白い紙をはり、その背後からライトをあてた。その上で正面から撮ると、初めてあの透明な緑の感じがでた。そういう丁寧さが宮川さんの身上だろう▼ご自身が書いた『キャメラマン一代』にこんな話がでてくる。篠田正浩監督に『沈黙』の撮影を頼まれた時、宮川さんはいう。「僕を選んだのは僕のもっとも古めかしいところがほしいんですか」。監督は照れくさそうに「そうです」と答えた▼古めかしさという表現には、時代劇風の感覚とか古典調の色彩とかの意味もあるが、1つは1本のラムネびんとも格闘する「丁寧な仕事」そのものをさすのではないだろうか▼「ゆっくり丁寧に撮ることが難しい時代になった」と宮川さんはいう。テレビで野外の丘がでてくる。セットであるのはやむをえないとしても、草1本、木の葉1枚動かない死んだ画面が現れるのはなぜか。風の気配を伝える工夫がなぜないのか。昔は現場で考え、工夫する時間がたくさんあり、今よりゆとりがあった、という嘆きである▼「よい感覚をもった人でも消耗品的に扱われている。撮影所も、創造の場でなくなり、ビジネスの場と化しつつある」。この嘆きは、撮影所だけのものではない。 お年玉 【’86.1.7 朝刊 1頁 (全855字)】  「正月になるともらったお年玉の平均がいくらいくら、という銀行の発表が新聞にのります。あれはもうやめてもらいたいと思うが、いかがでしょうか」という投書をいただいた▼家族や親類の多い子もいるし、少ない子もいる。お年玉をもらわない主義の親もいる。それを一緒にした平均の額にいかほどの意味があるのかと筆者も思う。上みりゃきりなし、下みて暮らせという古くさい教訓を子どもに教えるには都合のいい数字かもしれないが、それにしてもこの平均額がびっくりするほど多い▼お年玉のことを調べている銀行の資料にも「お年玉の額と月々の小遣い平均額との格差が大きすぎる」とある。子どもがもらったお年玉が「多すぎる」「やや多い」と考えている母親が約7割もいる。多くの親が多すぎる多すぎると思いながら、世の流れに身をまかせている、というところか▼かつて、お年玉は、正月の神様が子どもたちに配るもちであり、若水迎えのさいに供えるコメのことでもあった。人びとの幸せのために神から配られるもの、という意味があった▼今は違う。ごく類型的にいえば、大人はお年玉をはずむことで相手に対する心理的効果を考え、子どもはカネの多寡でひそかに大人を序列化する。その相互関係がしだいにお年玉の肥大化を生み、肥大化が子どもの心の健康をむしばんでいる▼ランボーの少年時代の作品に「みなし児たちのお年玉」(堀口大学訳)という詩がある。母への不信感が、自分を孤児にみたててこの詩を書かせたのだろう。孤児たちは、お年玉をもらったころの楽しい朝を思い、おもちゃ、金紙を着たお菓子、ぴかぴか光る宝石などがにぎやかに踊っている夢をみる。しかし「今年、あらたまの年の始めが、ああなんと2人にさびしい事だろう!」▼お年玉を待つ子どもたちの気持ちはわかる。だが、大人も子どもも、その額の多寡を気にしすぎる世の中では、お年玉の詩は生まれにくい。 リサイクル運動 【’86.1.8 朝刊 1頁 (全851字)】  いま、東京の目黒区で起こっている住民運動に注目したい。ゴミを焼くよりはむしろゴミを出すな、モノを捨てずにモノとつきあえ、という運動である▼『ガボロジー〈ゴミ学〉』の著者、石沢清史さんは書いている。「ゴミと私たちの関係は、対決する関係ではなく、むしろ共存、連帯の関係、生涯とも仲睦まじい伴侶という関係であらねばならない。ゴミは可愛い分身であると思えばよい」と。同感だ▼「リサイクル社会をめざす目黒連絡会」(会長・大石武一氏)は、去年、ゴミのリサイクル条例を制定するよう、区に直接請求した▼燃やさずに使える資源は再利用する、廃棄物を修理して使う、そのために区はリサイクルセンターを造る、という内容だ。その背景には、大量にゴミをだし、大量に焼き、大量に埋め立てるという行政への批判がある▼たとえばいまは、資源として使えるものまで燃やしているのではないか。資源の再利用をはかれば、焼却場はふやさなくてもいいのではないか。必要なのは焼却場造りよりも、再資源化を強力に進める政策ではないか。そういう思いが今回の直接請求になったのだろう▼会の人たちは、すでに自らの手で空きかん、空きびん、電気製品などを集めたり、生ゴミを捨てずに堆肥(たいひ)に変えたり、という運動を続けている。リサイクル条例で区全体がとりくめば、資源再生はさらに進む。家庭だけではなく、商店や事業所が積極的になれば、燃やすゴミは激減するはず、と住民は主張する▼残念ながら、条例の制定は区議会で否決された。しかし、区は、専門機関を設けてこの問題の検討を続けることをきめた。一歩前進である▼リサイクルルネサンス(循環再生運動)が胎動している、と説く人がいる。たしかに、使い捨て文化から、モノと大切につきあう文化へ、の変化が起こっているように思う。資源の再生は都市の再生につながる、という哲学がそこにはある。 利雪文明 【’86.1.9 朝刊 1頁 (全849字)】  雑誌「学鐙」1月号に樋口敬二さん(名大水圏科学研究所長)が『利雪文明の可能性』という論文を書いている。利雪、雪を利用すること。雪を害あるものとしてのみとらえず、利用策を究めようというのが、樋口さんの利雪のすすめだ▼寒波と共に、豪雪の便りがしきりである。鉄道や道路がまひした地域もあるし、雪おろしのさいの事故死のニュースもある。大雪に苦しむ人たちにとって利雪文明ということばはまだ縁遠いかもしれない▼だが、雪利用の歴史は古い。鈴木牧之の『北越雪譜』に、越後の山村の茶店で、夏、削氷(けずりひ)を食べて暑さを忘れたという江戸男の話がでてくる。冬の間、谷底の天然の氷室に雪をためておいて、それを取りだしたのだろう▼屋根つきの巨大な雪山を造る伝統技術も残っている。100メートル四方で高さが40メートルの雪山を造ったというから、ちょっとした雪製のビルである。昔の人は、夏になると、この雪氷を切って売った▼利雪文明の提唱者たちが考えるのは、たとえば雪を利用した発電であり、雪による冷蔵庫造りである。雪製の倉庫を造り、夏でも解けない工夫をしておけば、集荷した野菜の冷蔵庫になる▼つまり「冬の寒さを夏に使う」わけで、冷房費がいらないから、エネルギーの節約になる。富山県ではすでに実験が行われているそうだ。雪をためておいて地下水をふやす工夫をするのも利雪の1つだし、観光資源になる「雪のドーム」建設の夢もある▼雪国にはいま克雪文明がある。そこには、雪と闘ってきた人びとの歴史の総体がある。その克雪文明と共に、利雪文明なるものが実現するかどうか。それはわからない。「わからないからこそ、挑戦しようと思うかどうか。そこに、積雪地域が21世紀の魅力的存在となるかどうか、がかかっている」。樋口さんはそう書いている。雪国の地方自治体の中に、関心を持つ人がふえはじめた、ときく。 オーバーラン 【’86.1.10 朝刊 1頁 (全840字)】  オーバーランという言葉には、走り越す、ふみにじる、(堤防を)越えてはんらんする、はびこる、などの意味がある。さて、司法のオーバーランとは、なんだろう▼中曽根首相のオーバーラン発言が尾をひいている。首相が司法のことだけをいっているのでないことは、認める。行政府の独善や立法府の怠慢についてもふれている。その上で「司法がオーバーランすることはないか、勉強もし検討もしたい」といっているのだが、司法のどこに、どういう問題があると首相は考えているのか、ということがさっぱりわからない▼立法、司法、行政の3者がおおいに文句をいいあうことは、悪いことではないし、米国にはその伝統がある。問題はその中身だ。批判をする以上、どこをどうただすべきかを明確にして世に問うべきだろう。オーバーラン発言には、残念ながらその明確さがない。奥歯にものがはさまったような感じがある▼衆院の定数不均衡に関する司法の対応を頭に入れての発言だろう、というのが大方の見方だが、もしそうであれば、逆ではないか。代議士諸氏が走り過ぎて三塁ベースを回った。外野の好返球にあわててベースに戻ったが、まにあわない。審判である最高裁がアウトを宣告した、というのが実情だろう▼つまり、オーバーランをしたのは、司法の側ではなくてむしろ、立法の側だった。自分のオーバーランを棚にあげて審判のやり方をあげつらう、という図はいささかこっけいだ。違憲判決のさいの「司法はまだまだ抑制した判断をしている」という江田社民連代表の発言に分がある▼審判や観客が熱心に目を光らせている場合はいい。審判が不在で、見物人が関心を失ってそっぽを向いているうちに、徐々に積み重なる政治のオーバーランは恐ろしい。ごく小さな走り過ぎの積み重ねが、アウトの宣告を受けることなく、とりかえしのつかない既成事実を作ってゆく。 数の単位 【’86.1.11 朝刊 1頁 (全852字)】  証券業界はあと数年のうちに、兆という単位ではたりなくなって、京(けい)という数詞を使う必要が出てくるそうだ。京は兆の1万倍で、1の次にゼロが16も並ぶ。とてつもなく大きい数という感じがする▼日本語の数詞は、万のあと4けたごとに変わる。戦前はこれに合わせてコンマを打った。戦後はコンマも欧米流の3けたになったが、いまだに「どうもなじめない」とこぼす人がいる。3けたコンマがどんなに普及しても、経済書などで325百万円といった表記にお目にかかると、とまどいを覚える▼横に並んだ算用数字を、ひと目で読みとれるのは4けたか5けたまで、という話を聞いた。それ以上は下から順に数えないとわからない。デパートで宝石や毛皮に見とれて、気がついたら値段をひとけた間違えていた、ということはありませんか▼数詞には諸説があるが、京よりもっと大きい方では、垓(がい)があり、恒河沙(ごうがしゃ)というのもある。もとは「ガンジス川の砂」の意味だというから、なるほどと合点がいく▼さらに那由他、不可思議ときて、無量大数は実に10の68乗である。これには10の88乗とかいろいろな解釈があって、さすがにここまでくると銀河団的規模でつかみどころがない▼小さい数の方は、1の下の分、厘、毛に次いで糸、忽(こつ)、微、繊、沙、塵(じん)、埃(あい)といかにもミクロの世界にふさわしい。そして糢糊(もこ)、逡巡(しゅんじゅん)、刹那(せつな)などをへて虚、空でも終わらず、清、浄に至る。もう澄みきって何もないという感じだ▼これらの数詞は、仏様の慈悲の広大無辺なことや仏教の世界観を説くのに使われたりした。ここまで徹底して数の単位を追究した人たちの思考能力はすごいものだと思う。それにしても、京のような大きい数字がまさか現実の世界で使われるようになろうとは、昔の天才たちも想像しなかったに違いない。 患者本位の医療を 【’86.1.12 朝刊 1頁 (全844字)】  厚生省は国立病院の再編成を進めようとしている。病院のありようを考えるには、その質について、たとえば患者本位の病院とはどういうものかという点についても十分に考えてもらいたい▼『患者本位のこんな病院』(藤田真一)という本に長野県厚生農協連の篠ノ井総合病院の話がでてくる。国立病院でもずいぶん参考になることが多いのではないか、と思いながら読んだ▼患者本位を貫いている病院はほかにもたくさんあるに違いないが、ここでは「病院のあるじはだれか、それはだれが考えたって患者さん以外にはない」と考える新村明院長のさまざまな試みが紹介されている。たとえば病院の夕食は午後6時にはじまる。夕食は5時か4時半がふつう、という病院の常識からすれば大変な英断だが、担当者の勤務の交代時間を工夫したりして、6時を実現した▼新村さんは、一流の料理人を招いて栄養科長にした。栄養科長は市場へ行って1日900食の仕入れに打ちこみ、まずい、冷たい、夕食時間が早いという3悪追放の先頭に立った。新鮮なアユのささ焼きが熱いうちにどんどん病室に届けられる▼看護婦さんを雑務から解放する工夫もあった。患者のそばにいて、じかに看護し、話をきく時間を大幅にふやすためである。たとえばまた、病院のベッドの高さを低くした。高いと、落ちた時にひどい目にあう。下りる、腰かけるという時も低いほうがいい▼事務の合理化で、薬の待ち時間を平均10分以内にした。病院で働く人たちが1人の患者さんにこぞって平等にかかわりあう、という心が次々に工夫を生んだ▼山本周五郎の『赤ひげ診療譚』の中で赤ひげはいう。「医術がもっと進歩すれば変わってくるかもしれないが、それでも個体のもっている生命力を凌ぐことはできないだろう」と。患者自身の生命力を見据えるということはつまり、患者本位の医療を行う、ということであろうか。 紅白歌合戦 【’86.1.13 朝刊 1頁 (全849字)】  「紅白歌合戦」の視聴率の低下と「忠臣蔵」の健闘が話題になっている。紅白という国民的行事と、忠臣蔵を見るというこれまた国民的行事とのぶつかりあいで、紅白の視聴率がガタンと落ちた。関東地区は66%で、調査開始以来の最低だそうだ。これをどう解釈するか。諸説がある▼(1)男性司会者のはしゃぎすぎを見るにしのびない、と気を配ってチャンネルを変えた人が多かった(2)都はるみがいなかった(3)学芸会的歌唱があった(4)「時代の歌」がなかった(5)忠臣蔵は強かった▼紅白は、年越しの祭礼だ。祭礼の特色はみこしのおでましと、それにともなう美しい行列だと柳田国男は書いている。京都ではこの行列を風流(ふりゅう)といった。行列の人々は新しい意匠を競い、年々目先をかえる習わしがあった▼紅白出場の歌手も衣装を競い、のどを競い、はやり歌をうたって祭神を迎えるわけだが、実力不足の歌手が多い上に、「時代の歌」の絶唱が続かなければ、祭礼は盛りあがらない。むりに盛りあげるために、森昌子が泣きだす「劇的場面」を醸成するとか、1人の女性の人生をかいまみせるとかいう意図がNHKにあったのかどうか▼リンゴ追分、お富さん、上を向いて歩こう、圭子の夢は夜ひらく、関白宣言、舟唄。時代、時代の情感をたたえた歌が、去年はなかった。もはや「一世ふうび」のはやり歌はでにくい時代なのか。紅白の視聴率低下は、テレビ歌番組の低迷と無関係ではない▼忠臣蔵・後編の視聴率は関東が15.3%、関西が19.3%。これは老人の反乱でもあったろう。年越しの祭礼にふさわしい、良質の時代劇が続出すれば、単独政権だった紅白も低落の道を歩む▼大体80%という視聴率は化け物みたいなもので、66%でもまだ気味が悪い。NHKは長期低落を覚悟で、本ものの歌唱力を競う紅白をしみじみときかせるべきだと思うが、いかがであろうか。 冬の競技も緑のグラウンドで 【’86.1.14 朝刊 1頁 (全843字)】  新春早々、アメリカンフットボールの全日本選手権ライスボウルを国立競技場で見た。肌にしみいる寒気の中、冬枯れのグラウンドわきで跳びはねるチアリーダーのむきだしの脚が痛々しかった。翌日、同じ場所でラグビー大学選手権の慶明戦があった。氷雨の中で若者たちは泥まみれのスクラムを組んでいた▼サッカー、ラグビー、フットボールなど英米人がはじめた球技は、チャージやタックルで体を地面にたたきつけることをいとわない。ヤリが降っても決行する全天候型スポーツだ。というのも、これらの競技が、いつも柔らかい緑の芝に覆われたグラウンドの存在を前提としているからではないか▼英国でもニュージーランドでも、ラグビーやクロスカントリー競走など冬のスポーツは緑の芝生の上で争われる。芝を大事にするゴルフもこういう風土の中で生まれた。テニスも本来は芝のコートを使う。もともと牧草だった冷涼地向きの芝は、冬にも枯れることがない▼日本はこれらのスポーツを輸入したものの、冬芝の育てかたまではとり入れなかった。冬芝は日本の夏の暑さに耐えきれないし、夏向きの日本の芝は冬には枯れてしまう▼とはいえ、冬の競技を緑のグラウンドで見ることは夢ではない。暮れのフットボール大学王座決定戦甲子園ボウルは、芽を出したばかりの冬芝の上で行われた。春の選抜高校野球に緑の芝生を間に合わせようと、甲子園球場には3年前から冬でも育つペレニアル・ライグラスの種子が秋にまかれているからだ。甲子園の夏の芝、ティフトンが青々としてくるつゆどきを前に、冬芝は除かれる▼夏芝と冬芝をうまく管理すれば、どこでも1年中、緑のグラウンドを保てるはずです、と甲子園球場のグラウンドを管理している阪神園芸の人はいう▼来日する外国人選手たちに「これが国立競技場のグラウンドか」とあきれられる状態を早くなくせないものだろうか。 「成人の日」 【’86.1.15 朝刊 1頁 (全842字)】  きょう、「成人の日」を迎えた君たちに問いかけたいことがある。「君たちはいま、この社会にどんな不満を抱いているだろうか」▼総務庁が「青少年の連帯感」と題する5年に1度の調査結果を発表した。家庭に悩みや心配ごとの「ない」か「あまりない」人が9割もいる。自分の生活に8割近くが「満足」か「まあ満足」している。いまの日本の社会に対しても、不満派は「少し持つ」人も含めて44%、満足派が今回はじめて過半数を超えた▼ほんとに君たちはしあわせなのだろうか。悩みや心配ごとは、「勉強・進学」が最も多く、あとは「就職」、「お金」だったと調査は述べている。「現状肯定の気分が強い」のが現代若者像というこの調査を、君たちは肯定するのだろうか▼成人の儀式は8世紀の「続日本紀」の記録にもう見えるそうだ。元服という社会的な地位を意味する「通過儀礼」である。75キログラムの柴(しば)を、山から背負ってくるのが一人前の男、とされた地方もある。成人とは、それだけの義務を負うということだろう▼いま、君たちにとって一人前とはどういうことだろう。酒、たばこがおおっぴらにのめるとか、悪いことをすれば名前が出ることを覚悟せねばならないとか、そういうことだけではあるまい▼君たちには君たちの生き方がある。だが、この社会への不満をもっと抱いてもらってもいいような気がする。「異星人」と呼ばれようと、先輩の大人に対してもっと反発してもいいのではないか。それをバネとして、君たちが成長し、君たち自身のしあわせをつかみ、この社会をもっといい方向に持っていってほしいと願うからだ▼「成人の日」を君たちの「独立宣言の日」としてはいかがだろう。宣言文にこの社会への不満を個条書きし、君たちならどうするかの方策を考えてみる。大人社会に仲間入りした君たちの存在証明をまず自分に問いかけてほしい。 福岡市の100円ラーメン 【’86.1.16 朝刊 1頁 (全846字)】  去年の暮れ、この欄で大阪の100円ラーメンの話を紹介したが、100円でがんばっているラーメン屋さんが、福岡市にもいた▼店は市の中心部から少しはずれた西鉄大牟田線高宮駅前の古ぼけた商店街の一角にある。10人も入るといっぱいになる狭い店だ。細いメンにチャーシューやネギやゴマがついて、確かに100円だった。量も結構ある▼「おばちゃん、ラーメン」と100円玉を握ってかけこんでくる小学生や中学生がいる。「まじめに勉強しとんね」「いじめられたらいいなさい。一緒にいってあげるけんね」。カウンターの中からおばちゃんが声をかける▼部活動を終えて高校生がどかどかと入ってくる。店のそばでたばこを吸っている子を見つけると「なんしょっとね」としかりつけたりする。先生に丸坊主にされた生徒を見て「もっと気をつけてやればよかった」と悔やむこともある▼51歳になる青木英子さんはラーメン屋を始めて16年になるが、12年間も値段をすえ置いている。人件費をかけず、材料費を節約する。もうけは少ないが、子どもたちとのふれ合いのほうが大事だと思う。常連はほとんどが小、中学生や高校生だ▼店の壁に、2時半で止まったままの壊れた掛け時計がある。10年前、卒業する高校生から「いつまでもこのままにしておいてよ」と頼まれ、そのままにしているのだという▼社会に巣立ち、全国に散っていった、かつての常連たちがときたま店を訪れる。就職の報告にくる者がいる。恋人を連れてくる者がいる。息子が小学校にあがったから、と紅白のマンジュウを届けにくる者がいる。そして、それぞれが昔とかわらぬ店内のたたずまいをながめ、昔の味を確かめて帰っていく▼小さなラーメン屋には、常連たちの子どものころの思い、青春の思いがいっぱい詰まっている。街には、親も知らない、こんな子どもたちのふるさとがあちこちにあるはずだ。 高齢者世帯 【’86.1.17 朝刊 1頁 (全846字)】  にせ『折々のうた』▼「寂しければこころ弱くもなりにけむ空見てあるに涙落ちたり」(吉井勇)。年金に頼る老人の寂然たる思いを歌ったもの。厚生省の国民生活実態調査によると、高齢者世帯の収入の伸びは、消費者物価の伸び以下だった、というからかなしい▼「寂しければ冬なほ生きてある虫の命かなしと思はざらめや」(勇)。冬なお生きる虫への凝視は己への凝視だ。歌の響きの深痛たる様相は勇独特のもの。厚生省調査では、働きたくても仕事のない高齢者世帯がふえているという。60歳をすぎても働くものが多いのはわが国のいちじるしい特徴だが、高齢化社会では、仕事にあぶれる老人がふえる。年金生活への不安も濃い▼「寂しければ夜のこころもとがり来て不眠の病ひまたも起りぬ」(勇)。家計は「よくなった」世帯が6%、「悪くなった」世帯が41%。教育や冠婚葬祭の出費が家計を圧迫し、火の車の中で、夜のこころはとがる▼「たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時」(橘曙覧=あけみ)。清貧の中のだんらんを歌った曙覧の世界がいま見直されている。経企庁が主婦にたずねた生活設計調査でも、出世一筋型よりも、家族とのだんらんに心を配る夫のほうを選ぶ主婦が多かった▼「たのしみは三人の児どもすくすくと大きくなれる姿みる時」(曙覧)。さすがにのびやかな表現で主婦の思いを代弁している。いまの生きがいは「子や孫の成長」だが、将来は子に面倒をみてもらおうとは思わない、と多くの主婦は考えている。「夫だけと住み」「夫と共通の趣味を楽しむ」老後を考え、将来はそう暗いものではない、と楽観する主婦が少なくない、というのが経企庁調査だ▼だが、現実はどうか。「寂しければ昨日をおもひ今日をおもひ明日を思ひぬうつらうつらに」(勇)。清貧のたのしみの裏側にあるものを思えば心も弱くなる、という絶唱。 梅原竜三郎さんの遺書 【’86.1.18 朝刊 1頁 (全845字)】  梅原竜三郎さんはかねてからご自分で「死亡広告」を書き、朝日新聞社に託されていた。「梅原竜三郎……日死亡致しました。生前の御厚宜に深謝致します」。ペン書きである。遺書にはこうあった。「葬式無用 弔問供物固辞する事 生者は死者の為に煩わさるべからず」。こちらは肉太の筆だ▼かつて森鴎外は「アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」という遺書を残した。栄典は絶対にとりやめを請う、とも遺書にはあった。梅原さんの遺書もまた、後世に残るものになるだろう▼葬式無用の信念は、きのうきょうのものではなかった。すでに25年前に「だれにも知られず、そっと消えていきたいんだよ」と語っている。9年前に艶子夫人が死んだ時も人に知らせず、弔問客があってもほとんど会わず、画室に閉じこもっていたそうだ▼晩年には、長年の友である高峰秀子さんによく「ボクはね、どうやってうまく死のうか、とそればかり考えているのサ」といい、デコちゃんをてこずらせた。首つりがいいかな。青酸カリは手に入らないかな……。からかいや甘えもあろうが、大画家といわれる人の心象風景には、意外に荒涼たるものがあったのではないか(扇谷正造編『いつも一行の手紙』)▼堂々と自分勝手な道を歩む人だった。わが道を行くという意味では、自筆の死亡広告と葬式無用の遺書は、いかにも梅原さんらしい。ひとがどういおうと自分の道を歩む、通俗をきらう、というのがおしゃれの条件であるならば、梅原さんはたいそうおしゃれな遺言を書き残したことになる▼40年前、高田保さんが梅原評を書いている。「彼は猛獣のやうな食欲を持ってゐる。これぞといふものを見つけたが最後、がむしゃらに骨までもしゃぶる。胃袋は徹底したエゴイストである」と。ものごとに食らいつく喜びを思う存分、味わい続けた人だった。 多摩川の鳥たち 【’86.1.19 朝刊 1頁 (全842字)】  数日前、多摩川べりを歩いていて、ミコアイサというカモをはじめてみた。望遠鏡をのぞいていた若者が「あれです」といって、教えてくれた。流れに浮かぶ黒っぽいキンクロハジロの群れにまじって、1羽だけ白い水鳥がいた▼目のまわりが黒くてパンダを思わせるところに愛嬌(あいきょう)がある。肩に2本の黒い曲線が縦に走っている。粋(いき)ないでたちの多いカモ仲間にあって、ひときわめだつ鳥だった▼空を舞うトンビの姿が川面に映っている。1羽のユリカモメが甘えるような声で連れあいを呼んでいる。川辺にたたずむシラサギの群れに、カラスがまじっている。行水中のカラスもいる。かなり念入りな水浴びで、そうばかにしたものではない。きゅるるるるるというのびやかな鳴き声がカモの群れのあたりから聞こえてくる▼一見、世はすべてこともなしの感じなのだが、多摩川一帯の鳥にとっては生きるにつらい日々が続いている。半世紀近くも多摩川の鳥を見守ってきた津戸英守さんによると、最近は、4輪駆動車や自動2輪車で河原を走り、たとえばカルガモの親子を追いかけまわしていじめるものがいるという。以前は、多摩川と秋川の合流点あたりにカルガモの営巣地が15カ所もあった。今は4カ所ていどだ▼釣り人が捨てる糸にからまって死ぬサギやユリカモメがいる。釣り針をのんで死ぬセキレイもいる。捨て犬、捨て猫にねらわれる鳥もいる。河原にまかれる除草剤も心配ですね、と津戸さんは心配ごとを数えあげた▼愛知県ではヒヨドリにホウレンソウ畑を襲われて困っている農家の話があった。一方、島根県では、海辺に流れてきた廃油に襲われて、ウミネコやウミウが次々に死んでいるそうだ▼鳥とのつきあい方は難しいが、基本的には自然度の激減と鳥の受難は比例する。昔は多摩川にもトキやコウノトリやツルがいたという。そういう時代もあったのだ。 ソ連外交 【’86.1.20 朝刊 1頁 (全849字)】  米下院外交委員会の報告書(1979年)によるとソ連流交渉術の特徴は次の6点だという▼(1)力の信奉(この場合の力とは軍事力だけでなく、政治的、経済的、社会的な力の総体である)(2)現実性の尊重(ソ連人は自らの現実主義を誇りにしている)(3)総力外交の尊重(4)タフネス(手練手管を使うねばり強い交渉者が多い)(5)当てにできない善意(6)中央からの統制(『微笑と脅し』木村明生・松島明訳)▼シェワルナゼ外相の言動をみていると、力の信奉にせよ、現実性の尊重にせよ、たしかにその通りではあるが、それだけではつかめないなにがしかの変化があるように思う▼タフネスといっても、フルシチョフ流の荒っぽさはなく、グロムイコ流のニェット(否)の連発もなく、あたりは柔らかい。米下院外交委の報告は、ソ連の交渉術が「柔軟化へ向かう」ともいっているが、どうやらこの予言はあたったようだ▼シェワルナゼ外相はたとえば、きのうの記者会見で「皆さんが日曜日に仕事をすることになって心配しています。しかしジャーナリストは眠る時にも仕事をしているといいますからね」といって記者団を笑わせた。「ご質問は長いが答えは短くやります」という当意即妙の受け答えもあった▼さて、問題の北方領土交渉をめぐっては、1973年の日ソ共同声明の合意があらためて確認された。当時の田中・ブレジネフ会談では、未解決の諸問題に北方領土問題も含まれるとの口頭の了解があった、というのがわが国の立場だ▼今回の共同声明の内容を読む限りでは、北方領土の文字はでてこない。ソ連の態度に実質的な変化があったとみるのは早計だが、政治対話の道が開かれた意味は大きい。首脳の交流が続けば、ソ連外相のいう「よい変化の風」が吹くかもしれない▼外交は「平和維持の目的のために文明社会が用いる偉大なエンジンだ」といった英国の政治家がいる。 「人形町のアーケード」 【’86.1.21 朝刊 1頁 (全863字)】  東京の下町、人形町の商店街がいま、大がかりな改装工事を進めている。アーケードを取り払って街路樹を植え、通りに明るさと緑の木陰をよみがえらせようという計画だ▼人形町といえば水天宮のおひざ元で、老舗(しにせ)も多い。戦後の東京で初めてつくられたアーケードのために売り上げがのびた、というのが土地っ子の自慢の種だった。そのアーケードが姿を消した▼改修のたびに費用がかかる、歩道が暗い、という苦情は以前からあった。商店街全体が沈滞ぎみになり、「思い切った手を打たねば」という声もあった。アーケード撤去論に対しては、雨や雪の時に困る、直射日光で商品がいたむ、と反対する人もあったが、話し合いが繰り返されて撤去がきまったという▼すでにアーケードと電柱が取り除かれ、電線は地中に姿を消した。幅が4メートル半しかなかった歩道を約2メートル広げ、白いみかげ石を敷きつめることにした▼約300メートルの商店街に、80本ほどの街路樹を植える。桜、クスノキ、ケヤキ、トチノキといった具合に常緑樹と落葉樹をまぜるという発想がおもしろい。自分の店の前をどの木にするかは、それぞれがきめるそうだ▼アーケードについては是非論がある。人形町のように、撤去して太陽と緑と風を取り戻すというのも1つの方法だ。横浜市の伊勢佐木モールのように、アーケードや電柱を撤去して街を一新させた例もある▼一方、雁木(がんぎ)という名の街の屋根が雪国の生活を支えてきた伝統が、わが国にはある。雪や雨に備えた街をつくる計画があってもいいだろう▼画一的な「街の屋根」にかわって、その街独特のしゃれた意匠のものを生みだす工夫があってもいい。1つの商店街がさまざまな意匠のアーケードを組み合わせて調和をはかる工夫があってもいいし、歩道を広くして、街路樹とアーケードを両立させる試みがあってもいいだろう。大切なのは画一的な街の景観からの脱却だ。 「自由の森学園」 【’86.1.22 朝刊 1頁 (全853字)】  雑誌『ひと』2月号に「自由の森学園・1年1組・最初の1週間」という記録がのっていた。吹き渡る風の声をきくような思いで読んだ▼新しい学園にやってきた中学生たちは、たとえば教室の「席」について、話し合う。席をきめたほうがいいのか。その日の気分で好きな席に座ったほうがいいのか。多数決は簡単だが、あえてそれをせず、にぎやかな議論を続けた▼結論はこうだ。視力の弱い人、きまった席のほしい人のために「指定席」をつくる。ほかの人たちは「自由席」に座る。なるほどそういうきめ方もあったのかと思う。ささやかな問題ではあるが、ここにはルールをつくるルールの模索があり、きまりを考える過程を大切にする教育がある。その過程の中で、自由とは勝手気まま主義ではなく、受け身の姿勢で得られるものでもないことを、子どもたちは学ぶ▼もう1つは、自然を「体験」する教育のことだ。春の日の午後「川で遊ぼう」という生徒の声でホームルームの舞台は、たちまち名栗川の河畔になる。清流に身をおどらせて泳ぐものがでてくる。担任が川の流れにすくわれて倒れ、びしょぬれになる。「やったぁ」と生徒たちが歓声をあげる、というから先生も楽ではない▼子どもたちに「自然学」を教えよう、と今西錦司さんは提唱している。自然と一つになる。風の気配を鋭く感じとる自然感覚をみがく。いまの教育に欠けていて、しかも人間が生きる上で根源的に大切なものに、自由の森学園は目をむけている▼高校生たちは北海道の農場で働き、自然の中で生きること、生きものを相手に生活することの難しさを知る。あるいは、山の中で丸太の皮むきをする。その仕事のあと1人の少女は書いている。「仕事が終わりになる夕方、空が……なんて言ったらいいかわかんないけど、みず色とオレンジ色がまだらになっていて、きれいな色で、すっごく大きくて、落ちてきそうで、最高の夏でした」 島の誕生 【’86.1.23 朝刊 1頁 (全864字)】  日本はまさに島国。海上保安庁の調査では、周囲が100メートル以上のものだけで3,922島もあるという。4,917島という数字もある。57年に日本離島センターが淡路島以下、地図の上で名前のついている島を数え上げたものだ▼領海条約では、島とは「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」となっている。この解釈でいけば、わが国の島の数はさらにふえるはずだ。いま、はるか南の海上、南硫黄島近くで噴煙とともに顔をのぞかせた島は、この中に加わることになるだろうか▼人間と同じように、島も誕生したら出生届が必要である。こんどの場合は、領海内のことだから国際的な問題は生じない。だが(1)国有財産台帳に記載する(2)市町村長は新たな土地が生じたことを議会の議決をへて知事に届け、知事はただちに告示する、といった手続きをとらねばならない▼日本列島の、目下の末っ子島は48年に生まれた西之島新島である。この新島の出生届を調べているうちに、意外なことがわかった。大蔵省の国有財産台帳には55年12月25日付で、所在地=東京都小笠原村西之島、面積=191,739平方メートルと記載されていた。だが、新島誕生が村議会にはかられた形跡がない。地方自治法上はまだ認知されていなかったのである▼その理由を村にたずねると「まだ島は固まっていないようですし、今後、変動するかも知れませんからね」ということだった。自然界の贈り物を受け取っていいか、まだ迷っているようである。こんどの“新島”となると、いっそう慎重にならざるを得ないだろう▼というのも、火山学者によれば、いまの噴出物ではやがて波浪で消滅してしまう。コンクリート防波堤のように溶岩流が厚さ数メートルも表面を覆わない限り、島は流産の可能性大とか。海底火山にあとひとふんばりしてもらって、晴れて新領土誕生、出生届提出とゆきたい。 議員バッジ 【’86.1.24 朝刊 1頁 (全853字)】  田中元首相はいまも「議員バッジのついていない背広は着ない」そうだ。バッジのない角栄なんてありうべきことではない、というわけだろう▼こういう話を発表するのはつまり「元首相はそれほどバッジに執着をもっている。だから選挙は頼む」という情報伝達のために違いない。バッジは常に象徴的な意味をもっている▼衆院議員のバッジは1個、3000円ナリだ。しんちゅうに金メッキをしただけのものである。参院議員のはちょっと細工がこまかいのか、3900円である。何千万円、何億円の選挙費用をかけてやっと手にするしろものにしては、拍子抜けするほど安い。安いけれども、これを胸にすれば世間の態度が変わる。センセ、センセという特別扱いがはじまる▼都道府県議会の議員バッジはなぜか、国会議員のバッジよりも値がはって、4万円もするのがある。10金や20金を使うせいだろう。千葉県議のバッジは1万8000円だが、それを担保がわりにして借金の返済を約束していた千葉県議の記事があった▼念書には「バッジにかけても約束します。バッジをあずけます」とあった。県政界では前代未聞のこと、だそうだ。借金の額が、バッジの値段のちょうど1000倍の1800万円、というのも泣かせる▼武士はよく「刀にかけても」といった。そこには、約束をはたせずに恥をみるほどならば死ぬ、という固い決意がこめられていた。刀は相手を攻撃するためのものではなく、自己の行為の責任をとることの「象徴」であった。千葉の県議が「バッジにかけても」という時、それだけの覚悟があったのかどうか。期限が来ても、借金は返されなかった▼この事件をきいて、人はおもしろがるが、あまり驚かない。「バッジにかけて」といった文句にはじめからうさん臭さをかぎとるからだろう。国政段階では定数是正公約、減税公約……。バッジをかけての公約に裏切られ続けたためだろうか。 偏差値偏重の壁をどうやって破壊するか 【’86.1.25 朝刊 1頁 (全855字)】  その1枚の学習塾の写真が語りかけるものは、かなり強烈だ。子どもたちが赤、黄、緑、青などの鉢巻きをしめて勉強をしている写真である▼自分の好きな色を選べるわけではない。全国模擬試験の偏差値によって色をきめるのだという。小さな戦士たちの中には「成績で区別するなんてやっぱり好きじゃないな」という鉢巻き評もあるそうだ▼この鉢巻きはなにがしかの効果を生むかもしれない。だが、その色わけに抵抗を感ずる子どもたちの屈折した思いは、親にはみえない▼別の教室の話だが、成績の悪い子の頭に画びょうを刺してこらしめる例があるともいう。正気で考えればとんでもないことだと気づくことでも、異常なことだと肌で感じなくなっている。子どもの目の高さで現場を見すえることは、言うはやすく行うは難し、だ▼臨教審の審議経過概要を読むと、いいことが書いてある。「偏差値偏重の受験競争の過熱」や「行き過ぎた管理主義教育」は困ると書いてある。「断片的知識の詰め込み量の測定結果だけで、人間を順序付けすることは『人格の完成』に反する」ともある。その通りだ▼だが、それではその偏差値偏重の壁をどうやって破壊するのか。あすからこの道を進めば受験競争の過熱はおさまる、と元気がでてくるようなてだては、書かれていない。第1次答申にあった共通1次テストの改革や6年制中等学校案などで、受験地獄が解消するとは、臨教審委員も思ってはいないだろう▼即効薬はない。だがたとえば「大学は今より入学しやすくし、卒業を厳しくする」という意見に賛成するものは75%だ(朝日新聞調査)。開かれた大学のありようについて、もっと説得力のあるてだてを示すべきではないか▼たとえばまた、中央省庁は新人を採用する時、同じ大学から採用するのは3人まで、4人までというようなルールを率先してつくること。そのくらいの厳しさがなければ「改革」は生まれない。 ヤスエおばあちゃんと30人の仲間たち 【’86.1.26 朝刊 1頁 (全862字)】  80歳になる寝たきりの老婦人、北島ヤスエさんには女性たちが四六時中、交代で付き添っている。主婦、学生、保母、塾の教師。若い人が圧倒的に多い▼みな、一人娘の丕(ひろ)さんの孤軍奮闘をみかねて病院に集まった。3年間でその数は41人になる、という話が本紙石川版に連載されていた。このふしぎな付き添い集団のことを何といったらいいのだろう。「心の共同体」とでもいったらいいのだろうか▼脳血栓で倒れたヤスエさんは体を動かせない。口もきけない。だが、目は動かせる。女性たちは、その「目」で会話をする工夫を重ねた。イエスならパチリとまばたいて目を開く。腰痛い? パチリ。ギターひこうか?パチリ。ある娘さんはこのやり方で、おばあちゃんの若き日の恋物語をきくのに成功した▼タンを取ること、食事や着がえの世話、下の世話、洗濯、と仕事は続く。何よりも共に同じ時をすごし、共に楽しみをさがすことが大切だった(この記録は『ヤスエおばあちゃんと30人の仲間たち』という本に詳しい)▼クリスマスの時はみなで準備をし、病室を飾り、贈り物をし、賛美歌をうたった。丕さんが「最後にみんなにアリガトウといって、アといって」と頼むと、ヤスエさんは、力をふりしぼって「アー」と声をだした▼「どんなにつらくても、おばあちゃんは実にいい顔をしている。その笑顔をみたくて通う」と娘さんたちはいう。ある女性は青春の悩みを語り続け、聞き役に徹するおばあちゃんの深い笑顔に救われた。収入のない人には交通費や食費が支払われるが、みなを結びつけているのは、ヤスエさんを中心にした心の共同体的なきずなだ▼アメリカの女性が付き添って働いたこともある。彼女はオバアチャンと呼びかけ、We love youといってから、一呼吸おいてI love you so muchと続けた。ヤスエさんは大きくまばたきをしたあと、ウウーッとむせび泣いたという。 くつろぐ姿勢 【’86.1.27 朝刊 1頁 (全841字)】  洋間でも、いすをやめ、床に座ったり寝そべったりして暮らす人がふえてきたそうだ。「フロア(床)ライフ」という言葉も生まれている▼大手の家具店をのぞくと、ちゃぶ台のように背の低い洋風テーブルが目につく。さまざまな意匠のこたつがある。脚のないソファもある。背もたれつきのクッションもある。西洋座いす、といった感じである▼このほうがくつろげるのだろう。会社で働き疲れた時など、近くのいすを引き寄せて、その上に足を投げ出すと楽になる。あの感じだ。ローカル線の車内では、ぺたんと正座しているおばあさんも珍しくない▼応接セットのテーブルを片づけて、こたつを据え、ソファを背もたれにしている家が多いという調査もある。「洋風の居間を造っても、たいていはこたつの間になっているね」と建築家の友人が苦笑していた。西洋風の暮らしになじんでいるつもりでも、私たちは「いまだにまぎれもなく日本人の姿勢でくつろいでいる」という指摘もある(栗田靖之ほか『暮しの文化人類学』)▼日本人には、いろりの周りに座る伝統がある。いろりの生活は先史時代の土座住居と結びついている、というから歴史は古い。こたつでごろ寝するのも、昔からの得意芸だ。余暇をどう過ごすかという調査では、今でも「ごろ寝」「ごろ寝でテレビを見る」と答える人が多い。先祖代々の遺伝情報がそうさせるのだろうか▼「座る生活のほうが目の位置が低くなって、部屋が大きく感じる」「片づけやすい家具なので、部屋を広く、自由に使える」という理由もある。まさに和室の発想だ▼戦後、暮らしの洋風化が進み、ちゃぶ台がテーブルといすにかわって、ソファが持ち込まれた。ただでさえ広くない室内が、大きな家具でふさがり、電気製品や冷暖房器に占拠された。そのことへの反省があるとすれば、この床志向は、一時的な流行には終わらないかもしれない。 「雪崩の神様」高橋喜平さん 【’86.1.28 朝刊 1頁 (全850字)】  高橋喜平さんのような異端児がいたために、日本の「雪崩学」はずいぶん前進したように思う。故郷の岩手県で私立小学校の代用教員をしていたころから、とりつかれたように雪崩の現場を見て回った。若いころから「雪崩の神様」といわれた▼父親も雪崩に襲われたことがある。高橋さん自身も襲われて九死に一生をえている。雪崩で命を失った知人もいる。そういう体験もあって、いっそう雪崩防止策に執念を燃やすようになったのだろう。約50年前、青森営林局の嘱託になったころは、雪崩の起こったところを、2カ月間に417カ所も調べている。常に現場を大切にし、現場から発言する人だ▼日本では、全層雪崩よりも表層雪崩の遭難が圧倒的に多い。高橋さんは、その理由を労作『日本の雪崩』の中で次のようにまとめている▼(1)表層雪崩は種類が多く、その発生がデリケートである。(2)その積雪形態が外観上、危険感を与えぬ場合が多い。(3)発生直後はほとんど音響を伴わず、滑落速度が大きい。(4)家屋は一般に表層雪崩に対しては不十分な考慮のもとに建設されやすい……。40年前の報告だが、この分析は今でも通用する▼新潟県の能生(のう)町で13人の命を奪った雪魔も、表層雪崩だった。権現岳のふもとの集落はむしろなだらかな平原状の場所にあり、能生町の雪崩危険個所には指定されてなかった▼一見、「危険感を与えぬ」ような場所でも雪崩は起こる。「風が吹くような音がしたあと、雪が2階からなだれこんだ」と生存者がいっているが、警告になる大音響はなかったらしい。連日の雪下ろしに疲れ切って寝こんだ人びとは、雪の下に埋まった▼現場一帯は「いい森」に恵まれていない、という話をきいた。雪崩と樹木の関係はこれからも追究すべき点だが、高橋さんはその体験からこういい切っている。「森林が優生に生育している山地からは雪崩は発生しない」と。 未来人に残す環境を第一義に 【’86.1.29 朝刊 1頁 (全846字)】  古ぞうりというのも、思わぬところで役立ったらしい。昔、秋田藩の藩士、栗田定之丞は、思い立って、村の人びとに集められるだけの古ぞうりを集めさせた▼砂浜に何列もの木の枝を植え、枝に古ぞうりを結びつけるためである。古ぞうりのさくは見事に砂を防ぎ、その後方の苗木が育った。以後、数百万本の松や柳やグミが砂浜に植えられ、村の田畑は砂の害から守られた(倉沢博編・保安林物語)。定之丞たちの仕事には、後世の人、つまり未来人のためにもという意気ごみがあった▼戦時中の高知県で、軍部が作戦上、海岸の松林を大規模に切ろうとしたことがある。当時の営林署長は「いちど切ってしまえば植林しても100年はかかる」といって反対した。国賊といわれながらも抵抗したおかげで、松林は守られた。署長の未来を見る目が、防風保安林を救ったのである▼話は飛ぶが、東京の八王子市のごみ最終処分場から汚水が流れだしたという記事があった。埋め立て場の面積は、後楽園球場の3.2倍もある。その底に敷かれた遮水シートのどこかに穴があいたらしい▼人体に有害な汚水は流れていない、と処分場の責任者はいう。貯留池を造って汚水を浄化し、水質の監視も厳しくするという。だが、将来、有害な汚水が穴から流れだして、その水がひそかに地下水を汚染することはないのかという不安は残る▼一番困るのは広大な遮水シートの一体どこに穴があいたのか、ということがわからないことだ。埋めたごみの量も膨大で、今となっては穴をさぐりあてるのは極めて難しい。補修不能、といってもいい▼八王子の処分場の場合は、今のところ実害がない。将来も実害がないことを望むのみだが、ここから1つの教訓を得たい。開発にせよ、ゴミ処理にせよ、常に未来人に残す環境を第一義に考えなければならぬ、ということ。私たちはすでに、「回復不能」な環境をつくりすぎている。 スペースシャトル・チャレンジャーの事故 【’86.1.30 朝刊 1頁 (全857字)】  真っ青な空を背に巨大な白竜がのたうつ、という光景だった。竜の頭からカタツムリのような2本の角がでる。何本かの白い線が海上に落下してゆく。それは白竜の涙のようにみえた▼スペースシャトル・チャレンジャーの炎上をテレビでみたアメリカの女子高校生は「これはテレビの作り事でしょう」と叫んだそうだ。はなやかな宇宙ショーを期待していた多くのアメリカ人にとって「作り事であってもらいたい」というのは切なる希求であったろう▼その希求の背景には宇宙飛行の日常化という歴史があった。有人宇宙飛行は56回目、という実績がある。安全であるのが普通、という常識が固まりつつあってもふしぎではない。だが、その常識には落とし穴があった▼『男はつらいよ』の寅さんは、夢の中で宇宙船に乗せられる。「いやだいやだ」ともがき、恐怖と緊張のあまり失禁する寅さんを私たちは笑ったが、あの「宇宙船は恐ろしい」とかたくなに考える寅さんの常識のほうが、よほど理にかなっているのかもしれない▼スペースシャトルの本体は、強力な爆弾にしがみついて上昇するようなものだという。飼いならした猛獣と同じオリにいることが日常的な光景になっているわけだが、その飼育法に手抜きがなかったのかどうか。外部タンクの燃料もれがあったのかどうか▼しりもち事故を起こした日航ジャンボ機の修理には、手抜きがあった。こんどの事故でも、高度の技術的欠陥ではなく、保守点検、整備といった基礎的な技術に問題があったのではないか▼有人宇宙飛行が日常化するにつれて、安全性の点検に、アポロ時代ほどの厳格さが要求されなくなっている、という意見がある。整備時間を短くする、人件費を含めて経費を節減する、という動きがどこかで事故と結びついていたのかもしれない▼全世界にアメリカの力を示すべき画面は、一転して、宇宙旅行の恐ろしさを知らせる悲劇の番組になってしまった。 今月のことば 【’86.1.31 朝刊 1頁 (全852字)】  今月のことば、あれこれ▼「司法のオーバーランなどというのはとんでもないこと、中曽根首相のやっていることこそ軍拡オーバーランだ」と江田五月社民連代表。新春そうそう、切れ味のいいゆりもどしだった▼「今年1年全力を傾けて花を咲かせる」と安倍外相。「いまは出しゃばらず、おしんに徹する」と竹下蔵相のほうはひたすらオーバーランを慎む様子だ。しんには呻という字もある▼角界のおしん、横綱隆の里は「けがや病気をした若い衆にはあきらめるな、といってやりたい」と苦労人らしいことばを残して土俵を去った▼「対日貿易赤字の500億ドルをどうしてくれる」と詰め寄ったのはダンフォース米上院議員。「数字的な結果が出ないからといってアンフェアという評価をされては困る」といなしたのは自民党の宮沢総務会長。日本貿易振興会職員の川柳に「勝ち続けイカサマではと疑われ」▼「芸術は人の心を豊かにする。交渉の時も琴を聞きながらやったらどうだろう」とシェワルナゼ・ソ連外相。琴瑟(きんしつ)相和しということもありますがね。「わが共和国のマスコミはこれまで褒める記事ばかり書き、深刻な問題に目をつぶっていた」というのは、ソ連ジャーナリストの自己批判だった▼「自分はどんな人と赤い糸で結ばれているのかと思っていた」と柔道の山下6段。「女の子が生まれておれに似たら困るよ」と大関朝潮▼「新車を1台買いたい」。宝くじで約60億円をあてたアメリカ人の買い物計画▼「小さな政府づくり、といっているが、何か小さくなりましたかね」。稲山経団連会長の辛口批評▼「現場主義でいきたい」と松下電器の新社長になる谷井昭雄さん。日本の企業人の系譜には現場主義の流れがある▼チャレンジャー炎上。レーガン大統領はいった。「われわれは宇宙という考えに慣れすぎてしまい、これがまだ始まったばかりだということを忘れていたのではないか」 リウマチ友の会の島田広子さん 【’86.2.1 朝刊 1頁 (全853字)】  慢性関節リューマチの患者、島田広子さんの自宅で話をかわしている時、いきなり「今はこうなんですよ」といって机の上に手をだされた。両手の指は変形し、関節のあたりがこぶ状にもりあがっていた▼9歳で発病して以来、リューマチは進行を続け、今はひじも変形している。足の指やひざの手術もした。痛みやこわばりとのつきあいは毎日である。シェーグレン症候群というのか、涙やつばきが出にくくなっている。それでも合唱が大好きで、一昨年は東京・目黒の「第9の合唱」に参加し、見事に歌い終えた▼島田さんは「日本リウマチ友の会」(東京都目黒区鷹番2ノ19ノ23ノ501)の理事長である。ご自身の体の状態が悪化することと反比例して友の会の組織がひろがってきたことは驚嘆に値する。26年前、機関誌『流』の創刊号がでた時の会員は152人だった。今は1万3000人である▼「必要にせまられてやって来た」と島田さんはいう。じっとしていられない、自分のように障害が重くなるのを防ぐため「早期発見と適切な治療」を訴え続けなければならない、そう思ってあせるばかりだったという▼苦楽を共にし、事を同じくすることを「同事」という。島田さんと友の会の人びとは「同事」で結ばれているだけに、きずなが固い。リューマチは老人病ではなく、若い人の発病が多いこと、「難病」に指定する必要があること、正しい診断と治療の機会に恵まれない患者が多いこと、より多くの専門のリューマチ医が必要であること、病院にはリューマチ科の看板を明示してもらいたいこと、患者の経済的負担を軽くする政策が大切であること。島田さんは常に、そういう訴えの先頭にいた▼多くのボランティアが会の仕事をささえている。「私の指には宝石の指輪はもうはめられません。でも、私にとっての宝石は、多くの友人です」。島田さんには、昭和60年度の朝日社会福祉賞が贈られた。 閣僚資産公開 【’86.2.2 朝刊 1頁 (全862字)】  「改めて自分がカネに縁のない男だと思った」といったのは、今井厚相である。しかし今回の閣僚資産公開では、定期預金などの預金が3000万円を超えている。このていどではカネに縁があるとはいえないのか。政界というのはやはりふしぎな世界だと思った▼「資産公開は、人の懐までのぞきこむようなもので、いい趣味ではない」(林労相)といわれるとたじろぐが、自己申告のあらましを眺めているとやはりおもしろい。竹下蔵相はゴルフの会員権を11も持っている。渡辺通産相が7台もの車を持っているのはなぜだろう。江崎総務庁長官の蔵書2万5000点、これはすごい▼それにしても、多くの閣僚はなぜこんな豪勢な家に住めるのだろう。ふしぎといえば、これほどふしぎな話はない。都心にも地元にも300坪(約1000平方メートル)以上の土地を持ち、100坪、150坪の家に住む。これでは、地価無策を恨み、住宅ローンの残金をにらみながら生きる人たちの心を肌で感ずることができるはずはない▼さらに腹だたしいのは、資産の隠れミノである。たとえば家族名義の分を公表から除く。夫人名義になっている住宅の半分をわざわざ除いて公表する、といった手口はいかにもみみっちい▼「固定資産税の課税標準価格」で土地・建物の値段を示しているのも、くせものだ。実際の価格は「自己申告」の数倍、とみていいだろう▼今のような閣僚資産公開は、欠陥商品に等しい。カネが、いつ、だれから、どういう形で政治家の懐に入ったのかを明らかにすること、公開を国会議員全員にひろげること、事実違反に罰則を設けること、などの改善がなければ欠陥状態は続く▼日本の政党政治は初めは腕力に支配されていた。壮士はなやかなりしころだ。明治27、8年ごろから金力が腕力に代わった。以後、政党の盛衰は黄金の多少にかかわってきた、と説く人がいた。中断はあったが、「金力」居座りの歴史は長い。 摂津市のパート退職金条例 【’86.2.3 朝刊 1頁 (全845字)】  大阪府下の摂津市が、パート主婦にも退職金を支給するための「共済条例」を実施したのは、去年4月だった。その後、北は北海道、南は奄美大島から、議員、役人の照会がひっきりなしだ。5人の担当職員は応対に追われた。用意していた700部の資料も品切れになった▼制度の内容は、こうである。市が500万円の基金を設ける。パート従業員を抱える企業は、従業員1人当たり月額2000円の掛け金を市に任意で納め、積み立てておく。退職時、勤務期間に応じて1年なら2万4000円、2年なら5万700円と、退職金を支払う▼この条例に刺激されて、周辺6市の労組員やパート主婦らが5万余人の署名を集め、摂津市の条例を下敷きにした条例の制定を求める直接請求をした。しかし4市は否決、2市は継続審議となった。否決の理由は、主として次の2点である▼1つ。各地にチェーン店をもっているスーパーなどにしてみれば、制度のある市域で働くパート従業員だけに退職金を出すわけにはいかないだろう。条例案は広域性に欠ける。2つ。国の中小企業退職金共済制度や、商工会議所の特定退職金共済制度などが、すでにある。新しく条例ができると、制度が重複する▼ところが、摂津市の担当職員によると、「やってみたら、そうでもない」という。ほとんどのパート主婦は徒歩か自転車で職場にやってきて、昼食には家に帰る。職住が接近している。通勤事情が広域的でない。それに、国や商工会議所の共済制度は正社員を念頭においていて、実態をいえばパートは除外されている▼全国のパート労働者が急激に増えている。1970年、130万人だったのが、1984年には328万人に達した。何とかしなければと思いつつ、何をすれば良いかが分からない、と役所や労組がいう。そんな時期、各市の条例案は否決されたが、その一石の意義までが否決されたわけではない。 国会中継 【’86.2.4 朝刊 1頁 (全855字)】  国会中継の時間になりました。予算委の模様をお伝えいたします。きょうの見どころは社会党の田辺書記長がいつ、審議中断の見せ場をつくるかということであります。報道陣はその時間は正午前か昼休みの後、と予測しておりますが、どうなりますでしょうか▼田辺書記長が立ち上がりました。おっと、渡辺通産相も立ち上がりました。答弁のためではありません。委員席の灰皿を借りに行った模様です。次の質問者に予定されている自民党の浜田幸一議員がノートになにやら書きこんでおります。試験直前の受験生のように緊張感をみなぎらせております▼あ、お家の一大事という調子で側近がある大臣にメモを渡します。大臣がそのメモを棒読みにして場内の失笑を買っております。「大臣なんかいらない」。ヤジが飛んでいます▼助っ人として居並ぶ各省庁の高級官僚の数は約50人か。いや、別室にも中堅幹部がつめています。日本の政治を支配しているのは、この大臣のコーチたちなのでしょうか▼中曽根首相は、はぐらかしの秘術をつくしています。靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)は「念頭になかった」と逃げています。防衛費の1%枠問題も「守る」とはいわず「尊重して守りたいと念願しております」とこれも逃げの答弁です▼巧みにはぐらかす技術に卓越すること、これこそが国会答弁の眼目、宰相の条件なのでしょう。いかにして議論をとめるかの野党と、いかにして議論をはぐらかすかの政府の論戦はかみあわない宿命なのであります▼さて、田辺書記長がしきりに叫んでいます。国鉄用地の売却計画はあまりにもひどい、いい加減な計画だと怒っています。算定の基礎になる資料を公表せよと迫っています。これが審議中断の秘策でしょう。「資料を出せ」「出せないものは死んでも出せないッ」。ヤジの応酬です。議場騒然。あ、大事な所で残念ですが、お別れの時間がきてしまいました。さようなら。 早春の中伊豆 【’86.2.5 朝刊 1頁 (全854字)】  立春がすぎても厳しい寒さの日々が続く。「春と聞かねば知らでありしを」(早春賦)の日々が続く。雪国の難儀も続く。しかし光のほうは次第にまぶしさを加えることになる。2月1日からの10日間で、東京では20分も昼の時間が長くなる▼日曜日、中伊豆を歩いた。白っぽい早春の光が山に満ち、流れる雲を包み、雑木林のこずえを赤く染めていた。光はさらに、ツバキやカシの葉の1枚1枚に躍り、ワサビ田を明るくし、枯れススキに鋭い光沢を与え、ドライフラワー状のアジサイを照らしだしていた▼修善寺町の自然公園に梅林がある。花はまだわずかだが、枯れ葉色の世界ににじむようにして咲く紅梅、白梅はまさに「光の春」の中にあった。光は落ち葉の上に降り注ぎ、土の中にわけいり、地中深くしみこんでゆく。梅の根は地中の光の精をいっぱいに吸いこんで小さな春の命をはぐくむ。春の命は根から幹へ、幹から枝へ、枝からつぼみへと流れる。つぼみは光の精の化身だ▼梅の木のそばに立つと、香りが降ってくる。澄みきった感じの香りがある。甘ったるい、ややおしつけがましい香りもある。小さな男の子が「ココダケニハ春ガキテルンダネ」と母親にいっているのが聞こえてくる▼伊豆を故郷にもつ井上靖は「愛する人に」という詩を書いている。「さくらの花のように、/万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。/梅のように、/あの白い5枚の花弁のように、/香ぐわしく、きびしく、/まなこ見張り、/寒夜、なおひらくがいい」▼梅は満開の時よりも、1輪、また1輪と寒気に耐えてわずかずつ花をつけてゆく姿に風情がある。いや、咲かんばかりにふくらんだつぼみの姿もいい。閉じられた白い花びらが紅色のがく、薄緑色のがくにしかと支えられた姿には、いかにも清寂といった感じがある▼梅の根元に、ハコベやオオイヌノフグリが小さな花を咲かせていた。ここにも光の精の化身があった。 対日貿易赤字500億ドルの中身 【’86.2.6 朝刊 1頁 (全868字)】  497億ドルといえば、ざっと10兆円である。それが昨年の米国の対日貿易の赤字だという。最近は数字だけがひとり歩きして「500億ドルをどうしてくれる」とねじこむ対日強硬派もいる。どうしてくれるといわれても、われら住宅ローン派には、けたが多すぎて現実感がない▼アメリカのいらだちはわかるが、でも、ちょっと待ってもらいたい。500億ドルという数字を、そのまま素直に信じてもいいのだろうか。感情論は抜きにして、お互い、500億ドルの中身を冷静につかんでおく必要があるのではないか▼米国系の多国籍企業の問題がある。1970年代以降、アメリカの企業は安い労働力を求めて、中南米やアジアに生産拠点を求めた。すぐれた品質管理能力を買って、日本にも進出した▼たとえば米国系の半導体メーカーが日本で部品や半製品を生産して、それがアメリカに運ばれると、統計上は、日本からアメリカへの輸出になる。つまり米国系の多国籍企業が活躍すればするほど、米国の貿易赤字をふやす一因になる、というから話はややこしい▼さらに、米国企業が自社ブランドで売るのを条件に、日本のメーカーに生産を委託し、できあがった製品を米国で売る例もふえている。コンピューター周辺機器、複写機、乗用車などである。これも、統計上は日本からアメリカへの輸出になる。さらにいえば、VTRのように、米国内では生産されず、日本から輸入するほかはない製品もある▼以上の理由のものをあわせると、日本の対米輸出の3割、いや、4割弱をしめるという推定がある。そんなにも、と思うほどの数字ではないか。むろん、米国に進出した日本企業は逆の役割をしているわけだが、その規模はまだ小さい▼「500億ドルをどうしてくれる」式のおおざっぱな主張の繰り返しでは、貿易摩擦の交渉は進まない。「日本の責任」の範囲を明確にするためにも、貿易統計の底にあるものの詳細な吟味が必要だろう。 レディース・コミック 【’86.2.7 朝刊 1頁 (全842字)】  マンガ界に異変が起こっている。レディース・コミックと呼ばれるマンガ雑誌がよく売れているという記事があった。ただいま24誌、総発行部数は月に600万部を超えるそうだ▼作者も女性、読者も女性で、読むのは少女マンガ誌を卒業した高校生、OL、若い主婦たちである。職場の恋、結婚、不倫と大半は恋物語である。美女と、マツゲの長い美男子が登場し、セックスの描写も少なからずある▼この道に詳しい若い友人が女性マンガのファンの声をきいてくれた。「チューインガム説」というのがあった。軽い味で、かんでいて疲れたらいつでもやめられるし、やめると口がさびしい。だからまた買う。「買う時はちょっとうしろめたい。電車の中では絶対に読まない。ふとんの中で、まくら元の灯で読む」という感想もあった▼読みながら、現実離れした恋、すてきな恋、危険な恋を体験する。こわいものみたさもある。あこがれつつ、身につまされる思いもある。手軽で、安っぽい結末のほうがかえって疲れなくていいともいう▼何冊かを読んだ。意外に多いなと思ったのは「悪女願望」である。「ちまたの人々は世間なみからちょいとはずれた風みたいに自由な女を時には悪女と呼びます」「男が好き、お金が好き、そしてなにより自由が好き」というせりふがあった。けっこうしっかりと生きる女性像とは別に、自由奔放に、時にはわがまま勝手に生きる女がよく現れるのは、「風みたいな女」への潜在的なあこがれがあるからだろう▼「もらいたい願望」もあった。男を裏切っても、男には広い心で受けいれてもらいたい、わがままを許してもらいたい、とドラマの中の女性は主張する。マンガ家と読者の間では、主人公のわがまま心をひそかに解放する、という黙契があるのだろうか▼女性マンガ誌という名のチューインガムには「悪女願望印」や「甘え願望印」がふんだんにあった。 フィリピン大統領選 【’86.2.8 朝刊 1頁 (全847字)】  「昔、人々は豊かな幸福な生活をしていた。スペイン人がきて、この地を奪ってからは富も幸福も奪われていった」▼約100年前、スペイン統治に反対するフィリピンの闘士たちはそう宣言して、民衆の決起をうながした。大昔のフィリピンには豊かな土地があった。山の幸、海の幸に恵まれた人々は平和な生活をたたえる歌、恋の歌をうたって暮らした(守川正道『フィリピン史』)▼植民地時代をへたこの国の現実は、厳しい。プールやテニスコート付きの豪邸で暮らす大金持ちがいて、圧倒的多数をしめる貧しい大衆がいる。「じゃぱゆきさん」として日本に連れてこられる女性があとをたたない▼大昔、この国には「バランガイ」と呼ばれる強いきずなの共同体があった。マレー語の「舟」という意味で、舟でフィリピンに渡来したことがその名の由来らしい。このバランガイは今も生きていて、マルコス政権を支える土台になっている▼だが、今回の大統領選では、その土台に変化が起こっている。政権党支持だったバランガイ長の中に、態度保留、あるいはコラソン・アキノ夫人支持に回るものがではじめたという。工業団地や農村をおおう不況の影、物価高、失業、マルコス長期体制に対する強烈な不信、などがその背景にある▼変化はまだある。カトリック教徒の頂点にいるハイメ・シン枢機卿がマルコス強権政策に対する批判の度を強めていることだ。これらの変化が、アキノ夫人が叫ぶ「変化」の流れをどのていど加速させたか▼問題は投票、開票の不正である。多数の幽霊有権者を登録して不正投票をねらう、投票所周辺で有権者を買収する、立会人までグルになって投票箱を不正に持ち出す、すりかえのための予備の投票用紙を用意する、といった手口があるそうだ。選挙監視者のハンドブックには、実に49通りの不正な手口が書きこまれている、とニューヨーク・タイムズは伝えている。 「いじめ」と親の責任 【’86.2.9 朝刊 1頁 (全844字)】  勝海舟の父親、小吉は自ら「よくよくの不法もの」と名乗る無頼派だった。5歳の時、年上の少年とけんかをし、石で殴りつけて相手の唇を割った。それを見ていた小吉の父親は息子を縛り「人の子に傷をつけてすむかすまぬか、おのれのようなやつは捨ておかれず」といって庭げたで頭をぶち破った、というからすごい。傷はのちのちまで、残った▼こういう荒業は、そのまままねるべくもないが、血相変えて子を戒めた気迫には学びたいと思う。小吉は7歳のころには2、30人を相手に小刀を抜いてけんかをするほどの乱暴者だったが、自伝を読む限りでは、弱いものいじめは断じてしていない。まして集団でいじめるという人間として最も恥ずかしい、卑しいことはしていない▼いじめられ、ついに死を選んだ少年をめぐって、先生が悪い、学校が悪いという意見がしきりだ。たしかに葬式ごっこに加担したりした行為は、責められねばならぬ。だが、先生や学校を責めれば、ことがすむのか▼13歳といえば、自分のいじめ行為の卑しさに気づかないはずはない。罰を受くべきはまず、いじめに加わった「わが子」であろう▼自分の子がいじめる側にあるのかないのか、そのことを察することができなければ、私たちは親として失格だろう。いじめる側にあることを知ってなお、どうすることもできなかったとすれば、それはなぜか。育て方のどこに問題があったのか▼いや、今はもはや、世の中にいじめが大はやりで、親はその卑しさから子を守ることができないほど無力なのか。必要なのは、そういったことの追究に、親が謙虚に身を砕くことではないか▼学校批判もいい。学級規模を半減し、学校カウンセラーを充実する、といった教育改革を要求するのも大切だ。だが、いじめの全責任が教師にあるかのような声をきくと、息子の頭をぶちわって責任をとらせた小吉の父親のことが頭に浮かぶ。 中国の「幹部の不正退治」 【’86.2.10 朝刊 1頁 (全849字)】  〓小平氏の「黒いネコでも白いネコでも、ネズミをとるネコは良いネコ」という言葉は有名だが、最近、中国の人たちは「ニャーニャー鳴くネコは多いが、ネズミをとるネコは少ない」といっているそうだ▼党や政府の幹部が、口数は多いが実行がともなわず、なかなか「不正の風」が改まらないことを指している▼昨年暮れ、共産党中央委員会と政府が「党・政府機関は輸入乗用車を買いあさってはならぬ」「外国旅行自粛」「幹部とその家族が商売でもうけてはならぬ」などの通達を流した。さらに、無用の出張を禁じるおふれも出たという▼中華人民共和国の建国前に書かれた本によると、中国の歴代の官僚にとっても出張は金もうけのチャンスだった(王亜南『中国官僚政治研究』)。革命期には、困苦欠亡に耐えた中国共産党も、政権の座が長くなるとやはりあしき伝統にむしばまれてしまうものなのか▼ある地方の党幹部は夫人同伴で1カ月の観光旅行を楽しみ、一般労働者の10年分の給料にあたる公金を使ったという。共産党員やその家族がトンネル会社などを作って不正な金をかせぐ例も少なくない。こうした経済犯罪が昨年1月から11月までで2万6700件以上も摘発された▼大衆に個人的な利益の追求を認めたことが経済に活気を与えた。だが、そのカジ取り役の官僚までもがわれ勝ちに金もうけに走ったのでは、政治は立ち行かない。そこで、公金による観光旅行の禁止などをきめ細かく決める一方で、「幹部の不正はだれでも告発できる」(胡耀邦総書記)と呼びかける。不正退治には法律と言論による厳しい監督が必要、という平凡な結論に革命中国もたどりついた▼数年前、中国で社会主義自体が個人崇拝や官僚の腐敗などの「疎外」現象を生むとの主張があった。社会は必ずしも建前通りに動くとは限らず、油断すれば官僚主義や不正がはびこることを、  中国の例は示している。 建国祭 【’86.2.11 朝刊 1頁 (全856字)】  坂田道太衆院議長は、昨年、建国記念の日の祝賀式典に出席することを断った▼すると右翼の抗議が殺到した。「天皇陛下にケチをつけるのか。ぶち殺すぞ」という電話もあったという。坂田さんは、今年は式典に出席する。議長の出席は初めてのことである。「世論の動向を見守って」といっていた坂田議長に、どういう心境の変化があったのだろう▼20年前、大宅壮一さんが警告している。「建国祭を性急に決めてしまおうとするのは、リバイバル・ムードをもりあげ、保守勢力のテコ入れをしようとの意図によるものではないか。建国祭はいま決めるべきではない」と。大宅さんは、建国記念日審議会の委員に選ばれたが、途中で辞めている▼作家の舟橋聖一さんは、委員として「2月11日」に賛成したが、「あくまで国民の祝日であり、政府の行事としないこと」を条件にしていた。大宅さんや舟橋さんが世にあれば、首相、議長、閣僚が出席する式典を、どういう思いで見つめるだろう▼総理府が式典の後援をきめたのは8年前である。5年前には文部省が後援をきめ、3閣僚が出席した。4年前には5閣僚が出席した。当時の二階堂自民党幹事長は「政府が主催できるよう積極的に努力する」と語っている▼3年前には、中曽根首相が歴代首相として初めて祝電を打ち、昨年はいよいよ現職首相として初めて式典に出席した。今年は、多数の閣僚も出席する。「国家の行事」への既成事実は着々と積み重ねられてきた▼しかし、多くの人びとははたして、この日、こぞって建国を祝い、喜ぶ気持ちになっているだろうか。20年前の天声人語欄には、こうある。「多数が少数をねじ伏せた感があっては、国民が親しみ和するための日が、逆に対立感を味わわせる日となる。賢明な為政者は、わざわざ紛糾のタネはつくらないものだ」と。いま決めるべきではない、といった大宅さんの常識が尊重されなかったことを惜しむ。 熱川温泉のホテル火災 【’86.2.13 朝刊 1頁 (全858字)】  熱川温泉観光協会が作った「火災の場合の電話連絡方法」というチラシにはちゃんと「緊急電話119」と書いてある。だが、その下に「東伊豆町消防本部95―0119」とある▼大東館従業員は、あわてたのか、119へかけず、95―0119へかけた。しかも、局番のあとのゼロを抜いてかけたため、通じなかった。消防分団へも電話したがこちらは「お話し中」だったという。なぜ真っ先に119にかけなかったのか。そういう初歩的な訓練さえ、なかったのだろうか▼旅館・ホテルの火災でも、宿泊客の命を守ることができた場合は少なくはない。たとえば一昨年、長崎県平戸市で起こった観光ホテルの火事では、火災報知器のベルと共に従業員が手分けして客室のドアをたたき、避難口に誘導した。約400人の客はぶじだった。ホテルは本格的な防火訓練をしたばかりで、これが役立った。自動防火扉も威力を発揮した▼泊まり客の自衛策がものをいったのは、万座温泉で発生した3年前のホテル火災だ。ホテル側の対策はお粗末だったが、客が火災発生をふれ回り、約320人がぶじ避難した。ほとんどの客がホテル到着直後に、非常口を確認しており、中には「非常口が雪であかない」と抗議した客もあった▼24人の命を奪った熱川温泉の火災では、悪条件が重なっている。(1)異常乾燥状態で、火の回りがはやかった(2)非常ベルは鳴らなかったらしい(3)泊まり客は熟睡していた(4)適切な避難誘導がなかった(5)消防本部への連絡が遅れた(6)旧館はマル適マークの対象外だった▼火災報知器が鳴らなかったとすれば、それは客の命綱を断ち切っていたようなものではないか。大火災のたびに点検指示・徹底究明が叫ばれる。ききあきるほどそれが叫ばれながら、客の安全を軽視したホテル・旅館がげんに存在するのはなぜか。安全にはカネをかけたがらぬ風潮が業界の一部に今なおあるのだろうか。 そろばん 【’86.2.14 朝刊 1頁 (全845字)】  主婦がなにかの計算をする時は、電卓を使うか、そろばんを使うか。全国珠算教育連盟が調べたところ、電卓派が46%、そろばん派が37%だった。電卓隆盛の時代にあって、そろばんが意外に健闘していることがわかった。もっとも、そろばん派が多いのは40歳以上だから、将来、この差はもっと開くことになるかもしれない▼江戸の川柳に「算盤(そろばん)の師匠目貫(めぬき)の裏に住み」。目抜き通りの商店の店員が習いに来たためだろう。「朝夕そろばんに油断することなき」(西鶴)が昔の商人の心得だった。明治初年の学制改革で、そろばんは学校教育から追放されたが、すぐ復活した。そろばんに対する人びとの愛着が根強かった証拠である▼その利点は(1)繰り上がりなどがよくわかり、計算する力がつく(2)数に対する感覚が鋭くなる(3)暗算がうまくなる、など▼大阪教育大学の八田武志助教授の実験によると、計算をする時にふつうの人は左の脳を使うのに対して、そろばんに熟達した人は右の脳も使っていることがわかった。「両方の脳を使うので、常人の何倍もの計算能力を発揮できるようになるのでしょう」と八田さんは推定している▼たとえば去年の「そろばん日本一」になった金本和祐さんは、割り切れる問題なら、6けた割る3けたの割り算30題を30秒で解く。「この程度の問題なら、暗算、つまり頭の中でそろばんの玉をはじくほうがずっと速いですよ」という話だった。「そろばん道」を究めると、道具がいらなくなる、というところが電卓とは違う▼最近、米国でもロサンゼルスやハワイなどの学校で、そろばんを教えるところが徐々にふえてきた。「願いましては」は「スターティング・ウィズ」、「ご名算」は「ザッツ・ライト」だ。昨年暮れ、ハワイの小学生87人が6級から10級に合格した。そろばん国・日本も、うかうかしていられない。 撚糸工連事件と政治家 【’86.2.15 朝刊 1頁 (全846字)】  昔、名人と言われたある能楽師が「金持ちになりたい」と、しみじみ言った。「金持ちになりたい。金持ちになりたいけれども、多くは望まない。能を舞う2、3日前は、ぼんやりと日をくらすことの出来る程度の金持ちになりたい」。そんなことを言ったという。宇野信夫さんが『味のある言葉』という本でこの話を紹介している▼金満家になって思う存分のぜいたくをしようというのではない。2、3日のゆとりがもてる身になりたい、というのである。この言葉にはさわやかな抑制がある。こういった抑制は、人間の品格というものにかかわりがあるように思う▼日本撚糸(ねんし)工業組合連合会の融資金詐取事件などは、その抑制のたががゆるみきってしまった典型的な例だ。融資金は、もとは国民の税金である。中小企業を助けるため、という名目のカネである。理事長は本来、堅物中の堅物として目を光らせ、過ちを防ぐべき立場にある▼しかし、小田清孝理事長は率先して税金を食い物にし、4億2000万円をだましとっていた。「業界代表が先頭に立って不正を働いているのでは、全体のモラルは向上しない」という内部批判があったが、撚糸業界の融資金詐欺はこれまでもかなり横行していたのではないか▼小田はさらに、政界にカネをばらまいていた。国から融資を受けている団体は政治献金を禁じられているのに、である。「ほんのお付き合い程度だ」と弁解しているが、こういう非常識な人の「お付き合い」は非常識きわまる額であるかもしれぬ。いや、たとえ1万円でも、悪いことは悪いという自己抑制がなければ、業界代表の資格はない▼撚糸工連と政治家の癒着はいかなるものであるのか。過剰設備を廃棄するために多額の融資をすることは甘えの構造を生む、という指摘があったのに、この制度が存続してきた裏には何があったのか。捜査が鋭く究明してくれることを期待する。 電気自動車 【’86.2.17 朝刊 1頁 (全840字)】  21世紀のある日、どこかでたぶんこんな会話があるだろう。「前世紀の車はすさまじい騒音をふりまく化け物だったらしい」「沿道の人はたまらなかったろうね」「しかも排ガスをまきちらしてね」「信じられないなあ」。そのころは、車とは静かで排ガスのないもの、というのが通り相場になっているはずだ▼本紙「声」欄に「マラソンの報道関係の車を電気自動車にできないものか。排ガスの包囲陣は選手に迷惑」という投書があった。もっともな意見だと思う▼日本電動車両協会の調べによると、いま一般道路を走っている電気自動車は650台だという。まだ数は少ない。この「静かな車」が、都市の交通体系の中で、もっと利用されるようになればと思う▼横浜市は最近、電気自動車でごみを収集するテストを始めた。テスト車はごみ処理工場の自家発電を利用して、充電している▼「走る時が静かだし、ごみを積みこむ時もうるさい音がしない。排ガスもない」と住民には好評らしい。電気自動車を公害パトロールに使っている自治体もあるし、工場見学用に利用している企業もある▼今はまだ欠点が多い。車両が高価だし、走行距離が短い。「排ガスをださないといっても、発電所でつくられた電気を使っているのだから、間接的には大気を汚している」という指摘もある▼ところが、発電所の世話にならず、太陽エネルギーを利用した電気自動車を愛用している人もいる。東京電機大学教授の藤中正治さんの愛車は、軽乗用車を電動式に改造したものだ▼自宅にとりつけた畳4枚分の太陽電池を利用して充電する。1回の充電で夏なら最高110キロは走れる。月平均走行距離は250キロで「日常の用足しには十分」だそうだ。量産が進めば、太陽電池の値段ももっと安くなるだろう▼快適な環境を強烈に求める人がふえればふえるほど、性能のよい、安い電気自動車の開発が進む。 池上の茶室 【’86.2.18 朝刊 1頁 (全868字)】  東京都大田区の本門寺前にある「池上の茶室」を見に行った。数寄屋造りの粋を集めたというのか、今どきまだこれほどのものが東京に残っているということが驚きだった。この文化の粋は人手を離れて業者に渡り、取り壊されてマンションに変わろうとしている。もったいない話だ▼建築技術史の村松貞次郎さんは、茶室や母屋を見て「明治の末から大正にかけては大工技術が頂点にあった時で、この建物はその黄金時代の1つの象徴だ」といっている▼村松さんは、建物には「柔らかい造り方」と「硬い造り方」があるという。均質化された材料を使った鉄筋などは硬い造りで、多様な木材を自由に使った建物は柔らかい造りだ▼池上の茶室は柔らかいほうの代表例である。ヒノキ、桜、カキ、イチイ、竹……。ここで使われている木や竹の、その種類の多様さはどうだろう。それぞれの木目の多様な美しさはどうだろう▼よほど腕のいい親方が丁寧に、楽しみながら造ったのだろう。どの部屋の意匠にも遊び心があふれていて、楽しい。庭の池のほとりに立つシイの古木に風が渡り、サザンカの葉がゆれている▼マンション化に反対する地域の人たちは「池上のみどりと環境を守る会」を作って保存を訴えている。約1500平方メートルの土地は、公示価格では約5億8000万円になる。守る会によると(1)区には買い取りの意欲があるが、巨額なので二の足を踏んでいる(2)守る会は寄金を集めて買い取りを支える準備があるという▼何億円単位の金集めは大変な仕事で、ここでも地価高騰が保存運動の障害になっている。何よりも建設業者の協力が必要だが、それを乗り越えて買い取りに成功すれば、市民運動はまた1つ、歴史をつくることになる▼村松さん流にいえば、今は「柔らかい文化」への視点が回復されつつある時代だ。池上の茶室や庭の緑を柔らかい文化の代表作としてよみがえらせ、生きた博物館にする道が開けないものか。 政治家の「減税します」 【’86.2.19 朝刊 1頁 (全851字)】  税金の確定申告が一斉にはじまった日、税務署に現れた吉永小百合さんが「重税にあえいでいます」と語っていた。「税の使い道がとても気になります。戦闘機など買わず、教育や福祉に使って下さい」ともいっていた▼たしかに累進税率の見直しは税制改正の1つの柱だ。だが、税に対する恨みつらみはそれだけではない。とくにサラリーマンには税の不公平感が強く、それが重税感と重なっている▼今国会の税金論争をきいて、いちばん腹が立つのは、中曽根首相の増税隠し的答弁である。春ごろに政府税調による減税案の中間答申をもらい、秋には「財源措置」を考えるという。財源措置とはつまり、増税のことだろう。減税分にみあう増税をするのなら、その道筋を明示するのが責任ある政治というものだろう▼「参院選の時は減税案だけを打ち上げる。それによって国民の歓心を買う。選挙が終われば増税をする、というのでは『だまし討ち』だ」と民社党の大内書記長が国会で追及していた。「フェアプレーでない」ともいっていた。その通りではないか▼食欲をそそるすばらしいメニューの見本につられて、店に飛びこんで注文したら、ひどい代物が出て来た。陳列だなをよく見直したら、見えないほどの字で「見本とやや違う場合があります」とあった。そんなごまかしを思わせる政治手法だ▼3年前の参院選挙第一声でも、首相は「減税を断行します」といった。たしかに1兆円の所得税減税があったが、その年の衆院選が終わると、すぐ増税にふみ切った。同じ手法がまた繰り返されるのだろうか▼「政治家は公定歩合と解散のことだけはウソをついていい」という後藤田官房長官の発言に対して、安倍外相が「ウソをいってもいい、ではなくて『本当のことをいわなくてもいい』といえばいいんだ」といったそうだ▼政治家には、増税についても「本当のことをいわなくていい」という常識があるらしい。 泊まり客も防災体制に関心を 【’86.2.20 朝刊 1頁 (全843字)】  旅館やホテルに着くと、非常口を尋ねる。尋ねるだけではなく、自分で開けてみる。非常階段の様子を頭にいれておく。第2の避難路も考えておく。――必ずそうしている、と知人の便りにあった▼非常口を尋ねて、いい加減な返事があると、断固、怒ることにしている。誠意がない場合は、フロントの前で消防署に電話をかけ「これこれだから宿をかえたい。安全な宿を紹介してくれ」という。そこまでしなくても、といわれるかもしれないが、意地悪ではない。自分を守るのは自分だし、それに、教育的な意味もあるから、と知人は書いている▼亡くなった池田弥三郎さんも、ホテルに着くと必ず非常口や避難階段を自分で確かめていたという。旅行の時も懐中電灯を持って行った。池田さんは、5人の死者があった福山市のホテル火災の時に、負傷しながらも危うく助かった。「左の方に逃げれば3階から下のテラスに飛びおりられる」と到着時に頭にいれておいたのが役立ったそうだ▼泊まり客が旅館の防災体制に常に目を光らせれば、旅館側も客の命を守ることにぴりぴりした神経を使うことになるだろう▼東伊豆のホテル大東館の火災では、その後いろいろなことがわかってきた。何よりも驚くのは、非常ベルのスイッチが切られていたことだ。多数の死者があった蔵王観光ホテルの場合も、やはりスイッチが切られていた。非常ベルが正常に鳴り、早めに避難していれば、と思うとかなしい▼火災感知器がなんらかの煙や熱を感じて、火事ではないのに鳴る場合がある。それがうるさいといってスイッチを切るとすれば大間違いだ。それはまさに命綱を切ることだということを訴えておきたい。客もまた、誤りのベルが鳴ってもうるさがらず「火災感知器が機能している証拠だ」と思ったほうがいい▼今や、非常ベルのスイッチが切られていることを知らせる非常ベル、というのが必要な時代だ。 残留孤児の妹捜し 【’86.2.21 朝刊 1頁 (全846字)】  5年前に小中沢小夜子さんの「妹捜し」の話を書いたことがある。敗戦直後の中国で別れ、一時は死を伝えられた妹、美代子さんが生きていることを信じて捜し続ける話だ▼その小夜子さんが、12年間の苦労の末、生きている妹に会うことができた。中国人に預けられた時、2歳だった妹は、42歳の農家の主婦になっていた▼難儀の多い妹捜しだった。妹らしい人をたずねて中国まで行ったこともある。何人もの孤児と対面を重ねたが、妹ではなかった。父も母も死に、長姉も死に、自分の夫も死に「今は力つきた感じでたいへん疲れました」ともらす時期もあったが、どんな時でも「妹は必ず生きている」と自分にいいきかせてきた▼姉は、生まれたばかりの妹を抱いた時の乳くさいにおいを覚えている。城壁のリスがコーリャンを食べるのを見て「まんま、食べた」と目を輝かした妹の姿を覚えている▼夢にでてくる幼い妹は、地平線まで続く大豆畑の中にいる。夕日に染まりながら馬と一緒に遠くへ去って行く。声をふりしぼって名を呼び、追いかけようとするが、足が動かない。そんな夢も見た▼小夜子さんは、自分の娘が幼かったころ、その目の中にしばしば美代子さんの目を見た。恨んでいるような目に見えることがあった。収容所では家族が次々に伝染病に倒れた。栄養失調にもなった。小夜子さんは、末の妹だけでも生きられるように、と中国人に預けることに賛成した。そのために、つらい目にあわせたのではないかという苦い思いがあった▼40年ぶりに再会した妹に、姉は「中国の人に預けたことは間違った選択ではなかったかと、そればかり考えてきた」といった。「いえ、あの選択は間違ってなかった」と妹が慰めると、姉は「ありがとう」といい、2人は抱き合って泣いた▼中国残留孤児の第10次調査団第1班の対面調査は20日から始まった。第1日は、7人の身元がわかった。 踏みつけて香り高い「春の味」 【’86.2.22 朝刊 1頁 (全841字)】  西日本では、ツクシが姿をみせたという。海峡沿いの南向きの土手に、フキノトウが顔をのぞかせはじめたという便りもあった。薄緑色の葉で幾重にも包まれた、あのかわいらしいフキの花茎だ▼NHKの朝のラジオに「お知恵拝借コーナー」というのがある。ここで先日、フキノトウの料理法をいろいろ紹介していた。1人の聴取者の質問に全国から寄せられたもので、50通ほどもあったそうだ。アナウンサー氏が、こんなに反響があったのは初めてだといっていた▼ご参考までに記憶に残ったものをあげると、ねりみそ、つくだ煮、天ぷら、油いため、ホイル焼き、ゴマあえ、クルミあえ、塩づけ、かすづけ、おひたし、といったところで、サッとゆがいて水を切り、ラップにくるんで冷凍しておくと、いつでも春が楽しめますというのもあった。あの香りとほろ苦さが身上のようだ▼この春の味も、お金で買う気なら最近はもう、暮れごろから店に出ている。ビニール栽培の促成ものである。凍土を割って出てきたのではない。けれど、これも自然食品志向の現れの1つで、いまや数少ない季節商品として見直されているという▼早春の農作業に麦踏みがある。機械化の昨今はローラー式の麦踏み機がちゃんとあるが、昔はこれが子どもたちの仕事でもあった。麦は芽が出はじめたころにしっかり踏みこんでおかないと、いたずらに背丈ばかり伸びた、根つきの弱いものに育ってしまう▼フキノトウにも踏みつける習慣がある。とくに雪国に強い。生え出てきそうなところを雪の上から踏んでおくのだ。硬い土を割って出たものほど、香りが高く、風味がいいとされている▼促成ものだとそうはいかない。伸びようとする芽をわざわざ押さえつけるなど、とんでもない話で、香りや風味など二の次ということになりがちだ。タケノコも、地中に電熱を通して、早く芽を出させようという時代である。 長寿の人の言葉 【’86.2.23 朝刊 1頁 (全855字)】  徳之島の泉重千代翁は「人間とおてんとさまはナワで結ばれている。そのナワが切れた時が人間の死だ」といっていた▼天寿というものを具象化すれば、なるほどこのような形のものになるのだろう。翁のナワはとりわけ、丈夫で長持ちのするナワだった。一世紀以上も生き続けた人の言葉には重みがある▼泉さんは怒る時は激しく怒り、うれしい時は素直に喜んだ。カラッとした性格だったそうだ。その長寿を支えてきたものの1つに「女性へのつきない興味があった」と近親の人はいう▼そういえば、106歳で亡くなった物集高量(もずめ・たかかず)さんは、100歳にしてなお、情熱的に語っている。「長生きするには恋ってのが一番いいもんです。恋をすると身内から熱くこみあげてくるものがあるでしょ。あれがいいんですよ」「女は神様ですよ」と。『100歳の青年2人大いに語る』という本にでてくる言葉だ▼本の中のもう1人の「100歳の青年」は、半世紀も正則学院高校の校長を務めた今岡信一良さんである。今岡翁はいう。「私が102歳になってわかったのは、60歳までは準備期間で60からが本当の人生だということです」。恐れいりました、というほかはない▼翁は105歳のいまも、講演をし、味わうべき発言をしている。たとえば「人間にはいわゆる長寿のほかに、いまの一瞬を永遠に生きる長生きがある」と語っている。1日の生活が充実していれば、それは1000年万年の値打ちがあるのではないかと翁はいう。この場合は、寿命の長短はあまり問題ではない。30年の命でも、生かし切った30年は永遠性をもつのだという▼『菜根譚』に「機〓(かん)なるものは1日も千古より遥かである」とある。ゆったりした心の持ち主には1日が1000年の長さになるの意で、今岡翁の言葉にちょっと似ている。いまの一瞬を充実して生きること、そこにこそ長寿があるという教えである。 バイオリニスト千住真理子さんと縄跳び 【’86.2.24 朝刊 1頁 (全853字)】  「天才少女」といわれたバイオリニスト、千住真理子さんは、今は慶応大学の哲学科を卒業し、さらに大輪の花を咲かせている。その千住さんが母校の幼稚舎の機関誌『仔馬』に「なわとびとバイオリン」という一文を寄せている▼「何かができるようになるきっかけは、私たちのまわりにたくさんころがっているのよ。何でもいいの。何か自分でやってみたいなあというものがあったら、それができるまで、何十回でも何百回でも練習してみるの。できそうもないと思うことができるようになる。それはとてもとてもうれしい事なのよ」。千住さんはそう書いている▼それを教えてくれたのは、幼稚舎時代の恩師、中山理先生だった。先生はみなに1本ずつ縄を配って縄跳びの練習をさせた。子供たちは毎日、休み時間も放課後も、練習を重ねた▼二重まわしや三重まわしに挑んでいると、縄の中央がすりへって、切れる。先生はいった。「一生懸命やる人の縄は切れる。そのかわり必ず跳べるようになる」▼バイオリンの練習も同じだ。正しい方法で楽器を持ち、音を出す練習を繰り返す。縄跳びの縄がすりへるように、弦をおさえる左手の指が弦の形にへっこんでくる▼どうすれば、バイオリンのあの難しい所が上手になるかと苦しむたびに、千住さんは縄跳びの練習を思った。何十回も何百回も、同じ場所を練習するうちに、いつか指が楽に動いてきれいに曲がひけるようになる▼千住さんは「大きな夢は、ごく小さい、つまらない身近な努力から実現する」という大切なことを、1本の縄から学んだ。縄が切れるたびに上手になる、という恩師の教えが自分の一生を左右するものになった、と書いている▼慶応の創始者、福沢諭吉はいっている。「敢為活発堅忍不屈の精神を以てするに非ざれば、独立自尊の主義を実にするを得ず」。福翁はまた、自分には「出来難き事を好んで之を勤るの心」があった、と述懐している。 コラソン・アキノ夫人と非暴力闘争 【’86.2.25 朝刊 1頁 (全855字)】  黄色いシャツと大きめのファッショングラスがよく似合う53歳の主婦が一躍、政治の舞台の立役者になり、全世界の注視をあびている▼愛称コリー、コラソン・アキノ夫人は、早口の英語をしゃべる。ニューヨークの大学に留学したこともあって、フィリピン人特有のなまりがあまりない。演説はうまいとはいえない。おおげさな身ぶりもない。ただ、その語り口の誠実さが人びとをひきつけるのだろうか。3年前のアキノ元上院議員暗殺事件の時、だれが今日のようなコリーブームを予想しただろうか▼アキノ夫人の言動を追って、いちばん心に残るのはその非暴力不服従の思想である。夫の暗殺直後、夫人はいった。「とても悲しい。しかし私たちはこれまで通り非暴力をもって変革運動を進める」と▼選挙中、凶弾によって多くの仲間を失ったが、夫人は「暴力は暴力を招く。私は平和的手段を貫く」といい続けた。マルコス氏の勝利宣言があった時も「平和的手段で闘う」という姿勢をくずさなかった▼それはたとえば、マルコス支持派の銀行から預金をひきだす、マルコス系の新聞を買うのをやめる、マルコス側近の経営するサンミゲルのビールを飲まない、といったことで、これはかなりの効果があったらしい。新聞の部数は減り、サンミゲルの株価も急落した▼国防相たちが反マルコスの旗印をかかげて基地を占拠した時、その基地を守るように、アキノ派の民衆が集まった。鎮圧軍は非暴力の民衆を前にして、困惑した。非暴力主義のてごわさを示す光景だった▼同じ東洋人の先達であるマハトマ・ガンジーに「非暴力は人間にゆだねられた最大の力である。それは破壊のためのもっとも強力な武器をしのぐ」という言葉がある。この考え方がアキノ夫人にも受けつがれたのだろう▼野党が勝ち、マルコス政権が崩壊することになるのかどうか。非暴力的な反乱が成功すれば、それは歴史に記録されるできごとになる。 本の産直 【’86.2.26 朝刊 1頁 (全859字)】  「本」の産地直送の仕事が軌道にのりはじめた。毎月、20冊の本を選んで注文をとり、出版社から卸値でとりよせて宅配する。小売店との競争を避けるため、新刊書はあまり注文しない。値段は1割引きである。いい本を安く買える、というので主婦には評判がいいらしい▼この仕事をはじめたのは、牛乳や野菜の産直をしている生活クラブ生活協同組合で、本の共同購入・配送は協同図書サービスが担当している。最近号の機関紙DIYを読むと「今月の本」には、大江志乃夫氏の『凩の時』や『続・中高年向きの山100コース関東編』をはじめ、児童書や家庭料理の本など20点が選ばれている▼(1)生活の発見のための文明批評(2)生活技術の発見として、料理・育児の本(3)趣味(4)歴史(5)小中学生の本(6)幼児の本などを頭にいれながら本を選ぶ。本屋の前を素通りする主婦も、ネギや卵と一緒に配られるDIYの中の紹介記事を読めば、いながらにして本を選ぶことができる。この組織が主婦の読書欲を刺激してくれた功績は大きい▼一昨年4月の売り上げは300万円程度だったが、最近は1500万円程度に急成長した。本の直送は首都圏だけでなく、北海道、長野、茨城、山梨にも広がっている▼いま、わが国では1日に約100点の新刊が出版される。大半は大手の流通業者をへて書店へ流れるが、たちまち返本となって姿を消す本が少なくない。心をこめて作った本を消費者の手に届けるには、大量流通組織とは別の、さまざまな流通方式があってもいいのではないか▼たとえば東京・神田にある「地方・小出版流通センター」は10年前に発足してから着実にのび、いまは全国の小さな出版社約750社の本を扱っている。このセンターの新刊案内をみれば、大手の流通業者が扱わない本の中に、異彩を放つものがいかにたくさんあるかがわかる▼流通の多様化は、出版界に刺激を与えるに違いない。 マルコス王朝崩壊 【’86.2.27 朝刊 1頁 (全851字)】  主が去った後の「マルコス宮殿」の応接室には、アルミホイル容器のカレーライスが食べかけのまま残されていた。イメルダ夫人の部屋には残り香がただよっていた。引き出しは開けられたままだった。夫妻の寝室には酸素ボンベが置かれていたという。マルコス氏の健康状態はかなり悪いらしい▼「たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」というあの平家物語の1節を思わせる光景である。盛者必衰は世のならいだが、マルコス前大統領には王朝崩壊への道筋が見えていたのか、いなかったのか▼現状をつかむ鋭い感覚をもっていた人物だから、アメリカの態度の変化や軍内部の分裂は見えていたはずだ。しかしマルコス氏には、大切なものが見えにくくなっていた。それは「民衆の心」だ▼ヘリで脱出する時はたぶん「見るべきほどのことは見つ。いまは脱出せん」という心境だったろう。宮殿の主には、権力のもろさ、権力にむらがる人間の醜さが見えていたはずだ。だが、民衆の悲惨、苦悩、閉塞(へいそく)感といったものは最後まで見えなかったように思う。政権崩壊の決定的な力になった民心の流れを見通せなかったところに、おごれる人の悲劇があった▼そして、長期政権の崩壊過程を気楽にながめてきた私たちには、見るべきものが見えているのか、と思わずにはいられない。フィリピン情勢に詳しい鶴見良行氏はいっている。「独裁政治の腐敗を生んだのは、米国、そして日本だ。日本企業は彼の側近にとりいって相当の利益をあげてきた」と▼日本の援助がはたして、民衆のための生きたカネになっていたのかどうか。都市のスラムの失業者や土地なし農民の役に立ったのかどうか。大型事業よりも、小さな農村工業、小さな土木事業を重んずるといった援助の質の変革が必要なのではないか▼そういうことを見極めておかないと、アキノ政権に対してまた、同じ失敗を繰り返すことになる。 2月の「語録」 【’86.2.28 朝刊 1頁 (全856字)】  2月の「語録」▼「バレンタインデーの甘いチョコレートですか」と中曽根首相。いわれたのは、14日に会いにきた竹入公明党委員長。塩ならぬ笑顔を敵に贈るのも「政権参加に向けた大胆な対応」の1つか▼「オレだってまだ死にたくない。このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」。一少年の遺書をきっかけにいじめ論争が再燃した▼「弱い者が戦う時はいつだってぶざまです。でも、いじめを怖いと思う自分の恐怖心に打ち勝つことができれば、その体験はその子を一生支えるだけの力になる」。いじめを主題にした映画『やがて…春』を発案した竹内常一さん▼「早大出身の首相が生まれるまで私は議員を辞められない」。社会党の多賀谷元書記長が国会稲門会で竹下待望論に同調した。機知ぬきの悪い冗談▼「ヒョウにかみつかれた時はガリガリと音がして、死ぬと思いました」と松島トモ子さん。ガリガリという表現が妙になまなましい▼「中曽根首相は解散は考えていないといっている。ただ、政治家は公定歩合と解散のことだけはウソをついてよいといわれている」と後藤田官房長官。つまり、強調点は「ウソ」にあるらしい▼「自立自興。歯を食いしばって島の経済をもり返す」。三宅島の米軍訓練基地化に反対する村議の声。自民党の攻勢に対して「心は動かされない。反対の態度は変わらない」と寺沢村長。「札束でほっぺたを張るようなことはしない」と加藤防衛庁長官はいうけれども▼「どんなことがあっても私は平和的な手段を貫く」と繰り返してきたアキノ夫人が非暴力主義で政権をかちとった。「確かに私はアキノの妻です。ですが、コリー・アキノという人間でもあります」▼ロッキード汚職が発覚して10年。事件は「すべての日本人がもつ『角栄的なるもの』を自覚させた」と立花隆さん▼「清貧と云ふは甲斐性の無きに似て今の政界にはやらずなりぬ」。引退する自民党、井出一太郎さんの歌。 火災感知器の誤作動 【’86.3.1 朝刊 1頁 (全805字)】  先日、東伊豆のホテル火災の話を書いた時、火事を知らせるべきスイッチが切られていたことを批判した。それは命綱を切ることだ、とも書いた▼何人かの読者から「なぜ切られているのかを問わなければ、問題は解消しない」というご意見をいただいた。建前はともかく本音としては、ホテル側はスイッチを常時いれたがらない。日常の自衛手段としてスイッチを切っている常識を数多く見聞している、という業界内部からのご指摘もあった▼そういう常識があるとすれば、これはなんとも恐ろしい話ではないか。ではなぜスイッチを切るのだろう。一口にいえば、誤作動が多すぎるからだという。なんらかの煙や熱を感じてベルが鳴ることがある。虫の接触でも鳴ることがある。誤報のために、深夜の混乱を招きかねない場合もある。安眠妨害だと抗議する宿泊客もあるだろう。誤作動がある頻度を超すと、担当者はスイッチを切るようになる▼火災感知器の誤報に問題があるとすれば、どう改善すればよいのか。消防庁によると、この問題は以前から検討され、すでに改善された機器が出回っているという▼たとえば煙感知器に防虫器具をつける。煙と熱の感知器を組み合わせ、両方をとらえた時に反応するようにする。第1報では主ベルは鳴るが、みなに知らせるベル、つまり地区ベルは鳴らない。煙や熱の度合いに応じて第2報が来れば自動的に地区ベルが鳴る仕組みにする。そのほか、さまざまな誤作動防止の機器が実地に使われ、好成績をあげているそうだ▼業者も消防庁も火災感知器の誤報には目を光らせて防止策を考え、そのつど命綱をより確かなものにすべきだろう。同時に、泊まり客としては命綱の誤作動には寛容でありたい。たとえ誤報でも、火事の時の心がまえを呼びさまさせてくれる警鐘だと思いたい。 パルメ首相が説いたもの 【’86.3.2 朝刊 1頁 (全854字)】  スウェーデン首相のパルメ氏は、文相時代、ベトナム反戦デモの先頭に立った。「とにかく彼は左ですね」とある特派員がいうと、町の人が反論した。「彼はスウェーデンを右旋回させた男ですよ」「え?」「いやね、運輸大臣の時、彼はこの国を右側通行にしたので」▼スウェーデンというと、大人の会話が通用する落ち着いた国、という印象があるが、その国で、パルメ首相が暗殺された。映画見物の首相夫妻には特別の護衛がなかったらしい▼頭の回転の速さ、抜群の組織力、切れ味の鋭い弁舌などで知られたパルメ氏は5年前、広島を訪れている。同行した永井道雄氏によると、原爆資料館に入ったパルメ氏は次第に寡黙になっていったという。そして記者会見でいった。「人間の影だけが映っている爆心地の石をみました。全面核戦争になれば、地球には人類の影だけが残る、ということを考えました」▼広島は、氏に決定的な影響を与えた。それは「欧州では核戦争は抽象的な概念になりがちだ。だが日本に来てはじめてそれが残虐な現実であることを肌で知った」という発言にも表れている▼そしてあの有名な言葉が続く。「どの国の政府であれ、責任ある地位に就くものにはすべて広島を訪れることを義務づけるべきだ」。核戦争に勝者があると考える人々は、広島へ行けばそれがばかげていることに気づくはずだ。核戦争には敗者しかいない、と氏は説いた▼その国際的な業績の1つは、米ソの代表を含めたパルメ委員会で「共通の安全保障」という報告書をまとめ、国連軍縮特別総会に提出したことだ▼国内では「従業員基金」を実現させた。国民に新たな負担をせまるこの構想を掲げることは選挙には不利だった。「これをひっこめればもっと楽勝できるのに」とさえいわれた。だが彼は「政治家は正直であることが第一」といい、不人気を承知であえてこの構想を世に問うたという。この話も、なかなかいい。 里帰りした雛人形 【’86.3.3 朝刊 1頁 (全848字)】  鎌倉国宝館で開かれている「ひな人形展」に、アメリカから里帰りした一対の雛(ひな)が並んでいる、ときいて見に行った。衣装も冠も古びていて、江戸末期か明治初めのものといわれている▼この男雛女雛がいつどのようにしてアメリカへ渡ったのかはわからない。咸臨丸に積みこまれたものか、鹿鳴館時代にアメリカ人へ贈られたものか、それとも占領下のあの時期に米将兵へ贈られたものなのか、とにかく海を渡った人形が、長い歳月ののちにニューヨークの国連ビル地下のおみやげ品コーナーに現れ、世界各国の人形と共に売られていたのである。それが作家の安西篤子さんの目にとまった▼安西さんは4年前、第2回国連軍縮特別総会に神奈川県代表として出席していて、ショーケースの中の古い雛人形を見た。「連れて帰って、と訴えているように思えた」と安西さんはいう。買い取って日本に連れて帰り、鎌倉国宝館に寄付したそうだ。軍縮総会のとりもつ縁で、人形は里帰りすることができた▼里帰りの人形は、切れ長の目がぱっちりとしていて、その目を見つめていると、「置いてくるわけにはいかなかった」という安西さんの気持ちがわかるような気がする。女雛のすそに金、紫、浅緑、白の糸を使った鵬(おおとり)の縫い取りがある。どんな人が針を運んだのだろうと思わせる丁寧な仕事である▼敗戦後は多くの雛人形がアメリカへ渡ったが、なぜか男雛と女雛が引き裂かれ、女雛だけが生き残る場合が多いらしい。持ち主の手を離れて海を渡った雛にも、女雛だけの古雛にも、あわれな感じがつきまとう▼鎌倉八幡宮の一角に、濃い赤紫や白の牡丹(ぼたん)が咲いていた。3月になってもやはり冬牡丹というのだろうか。雪の残る庭にわらの囲いがある。その中で、時期をたがえた厚着の花がぬくもりを恋しがるようにして、咲いている。「よろこびはかなしみに似し冬牡丹」(山口青邨) 電信柱を地中に 【’86.3.4 朝刊 1頁 (全853字)】  電信柱に恨みはないが、電線はやはり地中に埋めたほうがいい。少なくとも大都市の電線は、21世紀を迎えるまでに100%地中に埋めるくらいの意気ごみがあるべきだろう。電柱さよなら作戦は、歩きやすい、すっきりとした町並みを子孫に贈るためのかなめの仕事だ▼電力業界の円高差益はかなりの額になる。為替レートが1ドル=180円、原油価格が1バレル=20ドルで推移すれば、1兆5、6千億円ほどの差益がでる、という計算もある。消費者への還元も必要だが、かなりの部分をこの計画に費やしてもいいのではないか▼たとえば、パリやロンドンの電線地中化率は100%であるとか、西独は50年の歳月をかけて全土の90%以上を地下式に変えた、という話は今さら紹介するまでもない。日本では、かなり地中化が進んでいる東電管内でも、まだ5%程度である。東京23区は26.3%だ(もっとも都心には地中化率81%の地域もあるという。これは意外だった)▼電柱には広告がある。地名表示がある。イヌ君たちも世話になっている。だから「追放」などときつい言葉は使いたくないが、いまの電柱がすべて亭々たる街路樹に変わった時の街の姿を思えば、やはり勇退を勧告したい▼火事の時、電線が邪魔ではしご車を使えない場合がある。狭い歩道に電柱があると車いすの人が通れない場合もある。電線モグラ化の時に歩道を思い切って拡張し、自転車道と歩道を分離すれば歩きやすくなる。自転車も乗りやすくなる▼いま電力業界には10年間で1000キロを地中化する長期計画があるが、これには約3000億円が見込まれている。しかし、どうだろう。円高差益を利用して、計画を4倍、5倍にひろげることは不可能ではないはずだ▼かつてグラフィックデザイナーの亀倉雄策さんが嘆いていた。「悲しいことに、日本の行政には……町並みを醜くしている元凶に対する規制がない」と。 「池子の森」を守る 【’86.3.5 朝刊 1頁 (全873字)】  神奈川県逗子市の主婦たちが「池子の森」を守ろうとしている動機は「安保か反安保か」「基地容認か撤去か」「親米か反米か」という次元のことではないように思う▼(1)池子の緑を市民に返してもらいたい(2)そのために米軍家族宿舎をどこに建てるべきか衆知を集めよう、というのが富野市長を選んだ人々の胸にあったことだろう▼池子の森は先祖伝来の農民の土地だった。戦前、海軍に強制的に接収され、戦後は米軍弾薬庫になった。もともとは市民のものという意識が強いし、そこには愛郷心もからまっている▼それにこの森は日比谷公園の17倍もの広さだ。米軍宿舎を建てるよりは、みなが楽しめる自然公園にし、首都圏ではめったにお目にかかれない鳥や獣や植物の聖域にしたほうが、はるかに、子どもの自然教育になると緑派の人たちは考える▼防衛施設庁は「約900戸を池子の基地内に建てる」方針をしゃにむに押し通そうとしている。中曽根首相は共通1次のマークシート方式にふれて「○×かという反射神経的なものでなく、問題の質を、もっと人間味のある思考力を確かめるようなものにできないか」と発言していたが、政府は今こそ「人間味のある思考力」で事態の解決をはかるべきだろう▼市民の間には、いくつかの代替案がある。(1)米軍家族の宿舎は基地内にこだわる必要がない(2)基地外の造成地に、100戸、200戸ずつ分散して建てる方法もある▼(3)逗子市民はすべてをよその市に押しつけることなく、責任分担を考える(4)県は逗子市だけでなく、ほかの市や町に協力を求める(5)基地内にこだわるのならば、横須賀の基地内にも適当な土地があるのではないか。市議選挙は、これらの多様な選択肢を考える格好な舞台になる▼池子か、しからずんばすべてだめ、という○×式の態度を政府が取り続ければ事態はさらにこじれる。逗子で問われているのは、ごく基本的な民主主義のありようではないか。 老人ホームでの体験学習 【’86.3.6 朝刊 1頁 (全854字)】  長野県豊科町にある南安曇農業高校3年5組は、生活科の女生徒35人のクラスである。家庭科担当の真道佳子先生(26)の提案で、この1年間変わった実習をした。7つの班に分かれ、毎週交代で近くの特別養護老人ホーム「豊岳荘」へ行き、寝たきりのお年寄りたちの話し相手をしたのだ▼80人の老人の中には、脳出血の後遺症などで、言葉がうまく出ない人も多い。初め、わりと軽く考えていた生徒たちだったが、「ただ話すだけ」がどんなに大変なことであるかを思い知らされる。何をいっても返事が返ってこない。沈黙がつづく。いたたまれない。ある班の子は、最初の訪問記録に「みんな、やつれて帰ってきた」と書いた▼実習の前日になると、おなかが痛くなったり、眠れないといった子も現れた。「私たちのこんなつらい思いに、先生はどんな点数をつけるつもりなのか」と、突っかかる場面もあった▼だが、2回目に行くと、間が長くあいているのに、顔を覚えていてくれるおじいさんがいる。ぼけが始まっていて話は通じないのに、自分の部屋にも「寄ってけ、寄ってけ」と呼びかけるおばあさんがいる。「時間がきても、なかなかバイバイをいえない」ような気持ちが生徒たちに生まれだした▼豊岳荘の降旗良文所長はいう。「ぼけがあっても、人がきてくれているのを認識している方は多いのです。生徒さんたちがベッドのそばについていてくれる、手を握っていてくれる。ありがたいことでした。卒業しても、折をみて来てもらいたいものです」▼真道先生は最後の授業で、この1年を振り返り、人生について、家庭について語りかけた。チャイムが鳴ったとき、みんな泣いていた。小さな体験ではあったが、何かを感じとってくれたしるしであってほしい、と先生は願っている▼きょう6日、3年5組は卒業する。進学する11人のうち、3人が将来、福祉関係の仕事につくための学校を選んでいる。 「東京湾時代」のかけ声 【’86.3.7 朝刊 1頁 (全845字)】  国鉄最後の新線といわれる京葉線に乗ってみた。千葉みなと駅から西船橋駅まで18.4キロ、時間にして20分あまりの短い路線である。しかし、2年後には東京駅から千葉みなとの先まで45.5キロが全線開通の予定だ▼電車が真新しい線路を走りだすと、自然にこころがはずむ。各駅では鉄道マニアの中、高校生がカメラを構えて、電車をねらっている。隣の老夫婦は団地住まいの子供を訪ねるのだろうか。手にしたネコヤナギの束に、待ち遠しかった春と開通への思いがのぞいているようだ▼路線はほぼ全線が東京湾の埋め立て地を走る。もともとは川崎と木更津を結ぶ臨海工業地帯の動脈となる貨物線として計画されたが、沿線の人口増が予想を上回ったため、旅客線に切りかえられた。全国的に国鉄の貨物営業が切り捨てられる中で、幸運な路線といえよう▼沿線各地では全面開通をめざして、さまざまな開発計画が進行中だ。住宅団地、高層マンション街、ポートタワー、常設見本市会場、水族館等々。すでに店開きしているショッピングセンターは施設の拡張に乗り出し、大遊園地のわきにはホテルが軒をつらねようとしている▼東京湾横断道路も着工の方針が決まって、「東京湾時代」とか「湾岸ルネサンス」といったかけ声が聞かれる。ファッションや街の雰囲気に敏感な業者の中にも「原宿なんてもう夢がない。江東区の埋め立て地あたりを開発したら面白い」という声があがっているそうだ▼しかし、開発がすすみ大量の人間が集まると、高度成長時代に痛めつけられた東京湾の病状が、また進む心配がある。開発計画の中には、人工なぎさや海浜公園の建設も含まれているが、埋め立てで浜をつぶしておいて、人工なぎさをつくるというのも、考えてみればおかしな話だ▼幸いここ数年、東京湾の水質に改善の兆しがみえるという。新線が第2次乱開発の導火線とならぬよう祈りたい。 騒色公害 【’86.3.8 朝刊 1頁 (全852字)】  ネオンという言葉はギリシャ語で「新しい何物か」を意味するそうだ。街のネオンは、新しい刺激を約束してくれるものの象徴だろう。だが、住宅街の場合は、この「新しい何物か」の刺激が強すぎて「騒色公害」になりやすい。とくに赤い色の刺激は強い▼東京・世田谷の住民が、マンションの上の広告塔にとりつけるネオンから「赤」を消させることに成功した。住民運動の1つの成果だし、住民の意思をくんだ業者の姿勢も評価したい。日本色彩研究所の児玉晃さんは「いい先例になる。地方自治体も企業も住宅街のネオンについて慎重になるでしょう」といっている▼けばけばしくて、うるさい色を、はやりの言葉では騒色という。騒色は派手なネオンのせいばかりではない。建物の雑多な色がある。目を射る看板の色もある。めだちたがり屋の自動販売機の色もある。日本の街はいつのまにか騒色のあふれる街になってしまった▼デンマークの海辺の都市には、白い壁と明かり窓のついた草ぶきの屋根が並んでいる。屋根には白い煙突がある。西独のミッテンバルトの町を歩くと、家々の白い壁に思い思いの壁画が描かれていて、楽しい。ニュージーランドのオークランドの住宅街では、人びとは庭の花園の美しさを競っていて、道行く人を楽しませてくれる。歩いているだけで、静かな落ち着いた気持ちになる▼さらにいえば、それらの街には車の騒音が極めて少ない。大小の看板がひしめくうるさい景色、つまり騒景もない。安らぎのある街を造るには、騒色だけではなくて、騒音、騒景の追放も大切なことなのだろう▼西洋人と東洋人とでは、街というものについての感覚が違う。とくに繁華街はにぎやかなほうがいい、と思う東洋人も少なくないだろう。しかしその場合でも、騒音、騒色、騒景を少なくするということが街のおしゃれの基本になるのではないか。住民のおしゃれ感覚が、街のおしゃれをきめる。 卒業の贈り物 【’86.3.9 朝刊 1頁 (全850字)】  兵庫県氷上郡の柏原中に勤める教師、足立迪雄さんは、13日の卒業式の前に、ひとりひとりに手彫りのだるまを贈る。昨秋から準備を始め、1週間前にようやく全卒業生のための148体ができあがった。クスやカヤの材を削って着色したもので、高さは9センチほどのものだが、ひとつひとつに思いがこもっている▼この仕事は6年前から続けている。「七転び八起きの根気と元気で前進を」と卒業生を励ましたい。初めはそういう気負いがあったが、最近はむしろ、それを自分にいいきかせるつもりで彫っているのだという▼3年前、東京にいた25歳の長男が交通事故で命を奪われた。以後「くじけるな」と人にいっているはずの自分が、くじけそうになることがたびたびあった。七転び八起きは、いまは自分を励ます言葉ですと足立さんは電話口で語ってくれた▼それに、目標を定めて彫り続けることは、自分自身への1つの挑戦で、できあがった時は楽しい。「いわば私の遊びなのです。未熟な作品でも、もらってくれる生徒がいてくれてありがたいと思っています」。そんな話だった▼「孫がね。先生が下さっただるまを大切にして、下宿へ引っ越す荷物の中にいれていました」といってくれるお年寄りがいる。机の上のだるまを見て「いい顔しているね。これを見ていると心が落ち着く。やすらいだ気分になる」と友人がいってくれました、という消息も先生のところに伝わってくる▼卒業の季節である。全国各地でさまざまなすばらしい「贈る言葉」が語られている中で、足立先生のだるまもまた、無言の贈る言葉を語りかける▼作家の柴田翔が書いている。「私が生について何かを学びえた先生たち――それは全くさまざまな人々であったが、そこには何か共通のものがあったようだ。その共通のものを言葉にすることは、ひどくむつかしいが、あえて言えば、自分の生に対する忠実さとでもいえようか」 東京大空襲 【’86.3.10 朝刊 1頁 (全845字)】  3月10日の東京大空襲の焼け跡をみて、当時の東久迩宮防衛総司令官は「悲惨なる状況はとても書き表はす事あたはず」と手記に書いた。死者は10万人近かった。焼失家屋は27万戸といわれている▼戦争指導者たちは、はたしてこれほどの規模の大空襲を予期していただろうか。開戦前の会議で、百武海軍大将は東条首相兼陸相にたずねている。「開戦後まもなく帝都、軍需工業地帯の空襲による被害大なるときは由々しき大事だ。対策はいかに」と。答えはこうだ。「敵の空襲は開戦直後にあらずして若干の余裕あるものと考える」▼質問者は、国民の生命よりも「軍需工業の受くべき被害」を心配し、首相は、戦争長期化のさいの空襲対策については、言及を避けている▼開戦直前の御前会議で、原枢密院議長はたずねている。「東京に空爆による大規模の火災が起こったらどうするのか。対策は講じてあるのか」。鈴木国務相は答えている。「第一食糧は十分に準備してあります。焼け出された住民は一部他に避難させるように考えています……」。考えただけでは困る、と反発しながら、原議長はそこで追及をやめている▼大空襲による惨禍の予想が頭をかすめながらも、指導者たちはそこから目をそむけ、思考を停止させている。大都市の木造密集住宅をどうやって火災から守るのか。守りきれない情勢になったらどうするのか。責任感のある議論も対策もないままに、日本は戦争に突入した▼指導者の頭にあったのは、国民の生命財産をいかにして大空襲から守るかではなくて、戦いが長期化した場合の人心の動揺をいかにして防ぐか、考え違いをするもの、つまり非国民をいかに抑え込んで挙国一致体制をとり続けるかということにあった▼しかし「3月10日」以後は「大敵は国民を苦しめるわが政府だ。国民は政府のデマを信用しない」という声がでてきた、と警視庁の資料も伝えている。 ヒバリ 【’86.3.11 朝刊 1頁 (全840字)】  先日の日曜、家のそばの公園を歩いていたら、ケヤキの木の周りで、2羽のキジバトが追いかけっこをして遊んでいた。どうやら求愛の季節が始まったらしい。北の国からのお客さんであるツグミが、枯れ葉の上をはね歩きながら、なにかをついばんでいる▼カワラヒワが1羽、桜の木のてっぺんで浮かれ歌をうたっている。コロコロとかキリリとかのさえずりがあって、ビィーン、ビィーンと張りのある声で鳴く。体は小粒だが、お山の大将われ1人、の勢いである。3月の光を浴びた羽が、まぶしい黄金色にみえる▼午後、ミニ菜園でジャガイモの植えつけをしていたら、ヒバリの声がきこえた。その姿は空にとけこんで見えず、「日一分(ひいちぶ)日一分」という鳴き声だけがきこえてくる▼浮かれ歌のことを英語ではジョイ・ソングというが、鳥はなぜ、よろこびの歌をうたうのだろう。それは「楽しい、だから歌う」というものではなく、突き上げてくるものがそのまま無心の声になる、ほとばしる季節の命が鳥の姿を借りて春意を告げる、といった感じである▼中勘助の『鳥の物語』に美しい話がある。昔、あるお姫様が人里はなれた山奥に流された。中傷によって捨てられたのである。姫とヒバリたちの交流が続く。浄土のまんだらを織り続ける姫は、やがて飢え死に寸前になる▼ヒバリたちは、天のかなたにいる阿弥陀(あみだ)の助けを求めて、天に飛ぶ。当時のヒバリは翼が弱くて高く飛べなかったが、来る日も来る日も天に向かって飛び続けるうちに、いつか翼が強くなる、という話だ。阿弥陀様は姫の命を救い、ヒバリには「汝らは鳥のなかのいみじき歌いてとならん」と告げる▼「雲雀は天上に棲んでいる。そして天上の鳥のうち、この鳥だけが我々のところまで届く声で歌う」とルナールは『博物誌』に書いている。洋の東西を問わず、ヒバリは神秘的な鳥とされている。 日本のSDI研究参加 【’86.3.12 朝刊 1頁 (全857字)】  日本兵器工業会の新年会を取材した記者の話では、今年はかつてないほどの盛況だったそうだ。会場では「日本政府もいよいよ戦略防衛構想(SDI)に乗りだす腹らしい」というささやきがあったという。SDIとは、いわゆるスターウオーズ計画のことだ▼バスに乗り遅れまいというのか、中曽根首相はSDIの研究に参加するつもりらしい。国会では、安倍外相が「研究に参加するかどうかは目下、調査検討を重ねている」と答えているが、研究参加の態勢をつくるための布石は着々打たれている、という感じだ▼この計画には米国内にも反論がある。学者の1人が米議会で「10年後にはだれか別の人がこの席に来て、こんな害のあるものは初めからやらなければよかったと証言するだろう」と発言したこともあった。米政府は対ソ戦略のためにも、米議会説得のためにも、西側諸国の協力を求めている▼その背景には「安い値段で、はやい時期に、SDIに必要な高度技術を西側諸国から手にいれる」という事情もあるだろう。日本の企業が開発したすばらしい技術を、米国がSDIのために買い取るとする。その場合は、秘密保護の網がかぶせられ、技術の民間転用ができなくなるだろう。軍需にとりこまれることで、企業の勢いがそがれる恐れがきわめて強い▼SDIは新しい技術開発への刺激剤になる、という意見がある。だが、高度技術の発展は、軍需に頼らなくても民需でやれるんだということを日本の戦後史は証明してきた。民需に力をいれ、すぐれた技術者を集めることで、つまり産業の非軍事化の道を歩むことで、日本は高度技術を発展させてきたのだ。その戦後の実績を総決算することになる恐れはないのか▼米ソが軍事的に決定的な優位に立っていない宇宙を、対決の場にすること、軍備競争がはてしなく宇宙へひろがってゆくことへの不安もある。宇宙空間を操ることに、人間のおごりがあってはならない。 地球花前線図 【’86.3.13 朝刊 1頁 (全856字)】  平年より10日余り遅れて、関東地方にも春一番が吹き荒れた。続く春二番を「花起こし」、春三番を「花散らし」と名付けて、昔から私たちは春の足音を確認してきた▼四季の顔だちが際立っているせいか、日本人は季節の訪れに敏感である。お天気博士の倉嶋厚さんは書いている。「東洋では、季節のはしりを重視して、しのび寄る季節の到来を宣言し、西洋においては、季節をそのしゅんにおいておう歌する」▼気象庁が春はサクラの開花、秋には紅葉の予想日を発表するのも、「はしり」重視の表れといえるかもしれない。こんな風流な季節予報はたぶん、日本だけではないかという。それもサクラの場合は、今月3日発表に続いて20日にもう一度、という念の入れようだ▼サクラやカエデだけでなく、実は気象庁はもっと幅広い生物季節観測を行っている。植物12種、動物11種について開花日や初鳴日、初見日を全国的に調べ、気象が生物にどんな影響を及ぼすかを観測している。統一指針をつくって33年前からはじめたが、当初はほかに夏服、かや、こたつなどがいつから使い始められたかを調べる生活季節観測もしていた。これは日本人の暮らしの変化に伴って10年ほどで取りやめとなってしまった▼サクラの開花日をつなぐとサクラ前線図ができる。アジサイ前線図やホタル前線図、トノサマガエル前線図も作成されている。これらの前線図を見比べていると、楽しい発見がある。本州以南で1、2カ月も出発時がずれていたウメ、ソメイヨシノ、ツバメ、モンシロチョウが津軽海峡で勢ぞろいし、平年だと4月30日から5月1日にかけていっせいに終着駅、北海道へと渡るのだ▼倉嶋さんから面白い話を聞いた。世界の気象台に呼びかけてデータを集め、地球花前線図をつくってはいかがでしょう。意外に簡単ですよ、という。世界をつなぐ花の輪。いかにも自然を愛する日本人ならではの提案だと思った。 海舟と行革 【’86.3.14 朝刊 1頁 (全838字)】  勝海舟は晩年、書生、芸人、大臣、商人らを相手に、気楽に時代を語ったり未来を説いたりした。その話が「海舟全集・第10巻」(昭和4年発行)におさめられている▼「行政改革といふことは、よく気を付けないと弱い者いぢめになるよ」「全体、改革といふことは公平でなくてはいけない。そして大きいものから始めて小さいものを後にするがよいよ。言を換へれば、改革者が一番に自分を改革するのさ」▼行政改革、という言葉が海舟の口から出ていることに驚くが、もっと驚いたのは、行革の順番は大を先に小を後にという心得を述べているところだ。この心得は、まさしく今に生きている▼広島市でこんな話がある。市が市立安佐動物公園と植物公園の管理を市直営から民間委託に切り替えることにした。「行財政の肥大が懸念される折、できるところから民間の弾力的、効率的な運営効果を期待したい」と、市はいう▼原爆のあと、ヒロシマに動物園をと、市民が1円募金を始めた。安佐動物公園は、その志を受けついでいる。オオサンショウウオの人工繁殖を世界で初めて成功させたのも、クロサイ、シマウマ、キリンの繁殖率を日本1、2位にしたのも、この動物公園だ▼「両公園の質が、行革のあおりで低下するのではないか」「いくら行革といっても、動、植物という生きものを対象にしてよいものか」。子供会、生協、それに母親のグループなどが委託に反対して署名運動をした。署名者46万人、つまり市民のほぼ半分が反対している▼各地で「地方行革」「地方民活」がさかんである。新年度を「民活元年」として位置づける自治体も多い。しかし一方、福祉、文化、スポーツ、環境保護といった生活の場に近いもの、小さいもの、弱いものが、海舟の注意の通り、いじめられてもいる。住民の意思に敏感でなければならないはずの行政が、大小の順番を逆にしている。 円高差益という名の青い鳥 【’86.3.15 朝刊 1頁 (全871字)】  百貨店やスーパーで、円高による輸入品値下げの動きが出てきた。スポーツ用品もある。ワインもある。スコッチウイスキー業界でも、値下げに踏み切ったところがある▼消費者にとっては結構な話だが、身の回りに輸入品があふれている割には、円高のありがたみがまだ肌にしみてこない。流通業界にたずねると、値下げせざるの弁はさまざまだった▼(1)〈円高がいつまで続くか、もう少し様子を見ないと〉どの業界も、まず一度はこれを口にする(2)〈いま売っている衣料品などはもっと円安だったころの契約分なので〉これもよく聞くせりふである▼(3)〈有名商品には高級品のイメージが定着している。値下げするとかえって売れなくなります〉(4)〈いま急に値下げすると、前に買っていただいたお客様に申しわけないから〉なるほど、そういう卓抜な理屈もあるのか(5)〈円安の時に損した分を取り戻す〉これは本音だろう▼(6)〈円高になった分だけすぐ出荷元が値上げを要求してくるので、簡単に値下げはできない〉不幸にして私たちには、出荷元の声は伝わってこない(7)〈欧米の出荷元が総代理店に値下げするなと指示しているのです〉その通りなら、欧米の業者は自分で障壁を高くしているようなものではないか▼ほかに、せっかく牛肉や小麦がより安い値段で入ってきても、国内の業者に売り渡す時は、国内価格に合わせて割高にする支持価格制度もある。輸入品の値段は下がりにくい仕組みになっている▼60円の円高で計算すると、円高差益は年間7兆円を超えるという説もある。原油価格などの値下がり分も加えれば「10兆円の減税と同じ効果がある」という人さえいる。差益の還元が目に見える形の値下げに結びつけば、消費者の暮らしにゆとりが生まれるし、内需拡大、さらに輸入増という結果が出てくるだろう▼いまのところは、円高差益という名の青い鳥はどこかに姿をかくしている、という思いが深い。 ハレー彗星 【’86.3.16 朝刊 1頁 (全838字)】  1月9日の午後6時ごろだったろうか。「銀座でもハレー彗星(すいせい)がみえる」と友人に誘われ、本社のそばで西の空を眺めたことがある。肉眼では見えなかったが、双眼鏡をのぞくと、木星の斜め下に白いシミのようなものが寒そうにふるえていた。それが、しっぽなしのハレー彗星だった▼東京の空は汚れていて、シミのようにしか見えないところはわびしかったが、ものは考えようで、遠出をせずとも都心でもお目にかかれる、ということがわかったのは収穫だった▼1909年(明治42年)10月の朝日新聞に「ハリー彗星」の記事がある。「此彗星は人間の一生涯に唯の1回限りより顕はれないのみならず壮大又奇怪の現象を呈す……一生一代見始めの見納めに是非とも充分に観望を」▼当時の人は、1986年の地球人が、探査機を彗星の核に近づけ、その素顔をとらえるのに成功することを予想しただろうか。探査機ジョットが漆黒の素顔をみごとにとらえたというニュースには、久しぶりに心が躍った▼第1、さわやかな冒険精神があった。0.1グラムのチリが底面の端にあたっても、ジョットの向きが変わり、送信が不能になる。だが、欧州宇宙機関の人びとは失敗を恐れなかった。第2、そこには、地球人たちの国境を超えた協力があった。米ソがわき役に徹したのもよかった▼ハレー彗星は「原始太陽系の化石」といわれている。45億年前、暗黒星雲から太陽系が生まれたとき、太陽からはるか離れたところで、惑星にならずに取り残されたものがあった。それが彗星の巣になったという説がある。眠りをさまされてその巣からでてきたものの1つがハレー彗星である▼「化石」の素顔を詳しく調べれば、45億年前の太陽系、そして地球のなりたちを知る手がかりがつかめるかもしれない。地球のルーツをたずねる夢が、人びとをいっそうこの星にひきつける。 和雪 【’86.3.17 朝刊 1頁 (全845字)】  雪の飛騨路を回ってきた。白川郷の山にはまだ、3メートル近い雪があり、雪国の痛みは続いていた。数日前、白川村建設課長の大沢友久さんが公務中、なだれにまきこまれて亡くなったという話をきいた。現場の国道わきにはなだれの跡があり、花や1升びんが供えられていた▼雪上車に乗って山深くわけいると、カモシカがいた。カモシカは長い間、みなれぬ車を見つめていたが、やがてヨッコラショという調子で白い急斜面を上っていった。キツネやウサギの足跡もあった▼白川村には「克雪の村宣言」がある。克雪とはいっても、心は和雪です、と村の幹部がいった。和雪。雪と和して雪と共に生きること。そのためには伝統に学ぶ姿勢が大切になってくる▼「昔は雪おろしなんかしたことがなかった」と明治生まれの古老はいう。明治のころにはまだ、天地根元造りの家が多かったそうだ。切り妻の屋根を直接地上におく家だから、雪はちょうどカマクラのような形で家を覆う▼家の中では四六時中火をたく。カヤぶきに面した部分の雪がとけ、雪とカヤの間にすきまが生まれる。雪の重みは屋根にはかからない。むしろ雪に覆われた家は温かかった、と古老は懐かしんでいた▼天地根元造りに帰ろうなどと白川の人たちはいわないが、先人の和雪の心に学ぼう、という姿勢はあった。いまの合掌造りでも「雪のおかげでカヤぶきは長持ちする」と村びとは考えている。雪の重みでカヤがしまるし、雪が屋根を滑る時にコケを取り除く効果もある。コケはカヤぶきの敵である▼雪が降り続く時のいとわしさを、人びとは繰り返して口にした。「でも、生まれ変わったらやはりここに住みたい。都会よりも気が楽だし、空気はいいし」とお年寄りはいう▼4月、白川郷の春にはコブシが咲き、梅や桜が一斉に咲き、カッタンコ(カタクリ)の花が群れ咲く。そしてブナの芽吹きのころ、苗代の仕事が始まる。 雑木林と税金 【’86.3.18 朝刊 1頁 (全846字)】  雑木林賛歌を書き続ける足田輝一さんに、こんな一文がある。「雑木林の美しさを知る人が、1人でも、2人でも増えることは、雑木林の生命が、1日でも伸びることなのだ。心の雑木林は、私の身の滅びる日まで、消えることはない。だが、多摩の丘々の雑木林には、刻々の歴史の歩みがある」(『雑木林の博物誌』)▼雑木林の刻々の歴史は、残念ながら滅びの歴史である。本紙社会面のシリーズ『緑をむしばむ税』を読むと、緑を滅ぼそうとしているものの正体の1つに相続税があるという▼東京では、貴重な森林が次々に姿を消している。国分寺市では、66ヘクタールもあった雑木林がいまは26ヘクタールになっている。この数年は、相続税の負担を免れるため、地主が木を切り払って畑に変えた例が大半だ。雑木林が切り売りされて宅地になる例もある▼雑木林のままでは宅地なみの高い税金をとられるが、農地に転用すれば、税金が安くなるというのもおかしな話だが、大都市とその近郊の森林が急速に姿を消してきた背景には、この税金の重み、とくに相続税の重みがあり、宅地化促進政策がある。結果的にはこれが、緑破壊政策になっている▼では、どうしたらいいのか。特効薬はみあたらないが、結局は、都市の森林を守るために、政府や地方自治体がどれほど本気になり、住民がどのていど身近な緑を渇望するかということにかかってくる▼特筆すべきは仙台市の「緑地保全基金」である。去年の10月につくられたこの基金には、50億円が積み立てられる。たとえば相続税を払い切れない地主が森林を切り売りしようとする場合、この基金が買い取って、緑の保護に努める。いかにも「杜(もり)の都」の名にふさわしい計画で、これほどの大型の基金は珍しい▼都市の緑だけではない。各地の山林で、相続税を払うための乱伐が起こっている。これは、全国の専業林家の問題でもある。 シンガポールのホテル倒壊 【’86.3.19 朝刊 1頁 (全856字)】  シンガポールのホテル倒壊はいたましい事故だったが、それでも、コンクリートの塊の底から次々に救われる人がでてきた、というニュースには救いがあった。この救出作業では国際協力がものをいった▼イギリス人が頼もしい働きをした。ニュージーランド人も勇敢にもぐりこんでいった。韓国人もがんばった。日本人も貢献した。地元のシンガポール人を含め、数多くの国の人びとが「命のトンネル」を掘り続けたのである。泥にまみれ、油にまみれてのしんどい作業だったという▼現地の地下鉄建設にあたっている日本の建設会社8社に、シンガポール政府から救助依頼の要請があったのは、事故の直後だった。ただちに日本人の技師や作業員がパワーシャベルやクレーン車と共にかけつけた。その中にイギリス人もいた▼地下からきこえてくる生存者の声に奮いたって、4方面からのトンネル掘りが始まった。かつて母国の爆発事故の時も人命を救って表彰されたことのあるイギリス人は「こんな難しい穴掘りはない」とうなったそうだ▼中の様子がわからないから、うかつには手を出せない。作業の振動でコンクリートの塊の山が崩れたら生存者の命を奪うことになる。早く早くと気はあせるが、思い切ったことができない。そういう状態の中で、救助者たちははうようにして進み、細心の注意で塊を取り除き、見事な穴掘りを続けた▼「がんばれ、もう少しだ」と日本人は日本語で生存者に呼びかけ、イギリス人は英語で叫ぶ、という状態だったらしい。生存者が助けだされると「ブラボー・ブラボー」の大合唱が起こったという▼地元の人たちは救援者たちに次々に食べものをさしだした。焼きそばやジュースのたぐいである。「疲れたら横になって下さい」と申しでる近所のホテルもあったそうだ▼ことばや肌の色が違っても、心と力をあわせれば、これだけのことができるのだということを、今回の事故は教えてくれた。 家永教科書裁判 【’86.3.20 朝刊 1頁 (全853字)】  戦争体験のない世代に、戦争をどう教えるか。これは大切な課題だ。人類が生き残るための土台になる知恵は、いかにして戦争を防ぐかを考えることにあるだろう。家永教科書裁判はそのことを考えさせてくれる▼1審は、戦争についての家永教科書の記述の大筋を、認めた。戦争が聖戦として美化され、戦場で残虐行為があったことも残念ながら事実であり、無謀な戦争に類するものであったことは「今日の常識」だ、といっている▼だが、2審判決はこの判断を退けた。2審判決によれば、12月8日の開戦にいたる戦争遂行政策を「無謀」と表現するのには問題があるという。はたしてそうだろうか▼西ドイツの歴史教科書は、第2次大戦をどう教えるかに力を注ぎ、ナチの残虐ぶりにも目をそむけず、くわしく記述しているそうだ▼『戦争の教え方・世界の教科書にみる』を書いた別技篤彦立大名誉教授によると、たとえば「第2次大戦に何を学ぶか」という章にかなりのページをさき、戦争責任、戦争犯罪について考えることに力点をおく教科書もあるという。過去の行為を反省する記述は、大戦で敗れた西ドイツ教科書の新しい行き方だ、と別技さんは書いている▼家永教科書の記述が完全なものだとは思わない。さまざまな批判もあるだろう。だが、過去の戦争が「無謀に類するもの」であった事実は、大筋において認めるべきだろう。フランスの国際的な社会学者、アラン・トゥーレーヌが編集した『コンセンサスの国・日本』には、教科書検定問題のことが書かれてある▼「検定の1つの目的は、歴史を消すことにある。愛国心、民族の団結、社会的な調和を強調するために、現代史をゆがめている例は数多くある」。そしてそれは「民衆の集団的な記憶を操作する」ことだ、という分析である▼現代史、とくに戦争の歴史を知らない世代が育ちつつあるとすれば、その責任は集団的な記憶を操作する大人にある。 春の草木 【’86.3.21 朝刊 1頁 (全855字)】  3月は、カレル・チャペックさんの教えに従って、草や木の芽を見つめよう。『園芸家12カ月』(小松太郎訳)の中でチャペックさんは説いている。ほんの小さな、ネコのひたいほどの地面を選べばいい。そしてしゃがむがいい。わたしたちの目にうつる春のながめは、かえって大きい。立ちどまればいいのだ、と▼立ちどまって、しゃがみこむ。しゃがみこむと、枯れ葉をかぶった軟らかな黒土に、さまざまな形の芽が姿をみせていることに気づく。髪をふりみだした形で立っている芽はイカリソウだろうか。冬の間も緑を失わなかったエビネのしなびた葉の根元には、クレヨンの先ほどの芽がすっくと立っている▼濃いえんじ色のヒトリシズカの芽はまだ小さくて、思慮深げだ。淡い金茶色の膜を破ったシランの芽はつややかな若緑色である。それらの芽の中に「生まれたものの弱々しさと、生きようとする意志の不敵なひらめき」が同居している姿を諸君はみるだろう、とチャペックさんは書いている▼くすんだ朽ち葉色の、枯れたようなニシキギの枝には、目にみえぬほどの無数の芽が点々とあって、その一つ一つの点にはいくつものぶどう酒色の鱗片(りんぺん)がはめこまれている。うぐいす色のコブシのつぼみは、繊毛におおわれている▼花もいい。新緑や紅葉もいい。だが草や木に生意が動くころの芽の姿をみるのも楽しい。そこには、乾坤(けんこん)の動きに応じて草や木が「魂を返す」姿がある。芽がふくらむことを「芽が張る」ともいう。春は、その張るの意だという説がある。私たちは芽が張る姿の中に、具象化された生命の勢いをみる▼きょうは春分の日である。太陽が真東からでて真西に沈む。昔のお彼岸には、ヒムカエ、ヒオクリの行事といって、真東に向かって日を迎え、真西に向かって歩く風習があったそうだ。私たちの日々の暮らしが乾坤の動きにとけこんだものであったころの習わしだろう。 マルコス王朝の不正蓄財と日本 【’86.3.23 朝刊 1頁 (全856字)】  マルコス前大統領の資産は1兆8000億円だ、いや3兆円にもなる、といった話をきくと、よくもまあ、わが国はそういう政権に経済援助を続けてきたものだと思う▼1兆8000億円といえば、フィリピンの国家予算のほぼ3倍である。年俸100万円といわれたマルコス氏が、どうやってこれらの資産を手に入れたのか。マラカニアン宮殿には、経済援助の上前という名の甘い汁が音をたてて流れこむ仕掛けがあったのだろう▼それが、600億円を超すニューヨークのビルや土地に化けたり、イメルダ夫人の3000足の靴に化けたりした。夫人はある日の午前に1億8000万円相当の宝石を買い、午後には3億6000万円相当のこっとう品を買う、ということもあった▼失業やインフレに苦しむ途上国で、そういうぜいたくが続いていたという話をきけばきくほど、人間の業のおぞましさを思わずにはいられない。米議会が公表した資料によると、マルコス王朝の不正蓄財行為の中では、日本の経済援助事業のリベートが相当の比重をしめていたらしい▼自民党内にも、マルコス政権への露骨なてこ入れを批判する声があったが、政府は「援助の対象は国家と国民であって、マルコス政権ではない」と建前論で押し切ったことがある。結果的には、日本の援助の一部がマルコス一族の私腹を肥やすことになった▼当時、フィリピンのある老政治家は語気鋭く語ったという。「民主主義の理想をうたった憲法を持つ日本が、なぜ独裁政権を助けるのか。援助がフィリピン国民のために使われているかどうか、日本政府は監視すべきだ。それは内政干渉ではない。援助する側の当然の権利ではないのか」▼政府の開発援助が有効に使われているかどうか。不正がないかどうか。被援助国の民衆の利益のために、その実態に目を光らせ、情報を公開する強力な機関を作るべきだろう。私たちの巨額の税金の行方を監視するためにも。 東京の大雪 【’86.3.24 朝刊 1頁 (全856字)】  つい10日ほど前、飛騨の旅で白川郷の合掌造りの屋根にのぼって、雪おろしの手伝いをさせてもらった▼ビルの3階ほどの高さがある急斜面の屋根の上を土地の人はひょいひょいと身軽に動き回る。その姿に感心するのみで、当方の足はどうしても動きたがらない。恐る恐る長い雪下ろし棒を使って雪をえぐってみた。あの時は、まさか春分の日をすぎた東京で雪かきをすることになるとは思わなかった▼23日の雪で、首都圏の鉄道や高速道路はズタズタになった。空の便も混乱した。「来る日も来る日も雪が降りやまない時は、言いようのない不安にとらわれますね」。白川村の人たちがいったことを思い出しながら、家のまわりの雪を始末した。始末してもまた、みるみる雪が積もってゆく▼湿り気をたっぷりと含んだ暖気団に、強い寒気団がぶつかり、日本の上空で激しくせめぎ合っているのだろう。太平洋岸に降ったこの大雪は、暖地に住む私たちに、日本の国土には53%の積雪地域があること、しかも世界にもまれな深雪地域の暮らしがあることをあらためて思い出させてくれる▼昨今は、全国的にみて、一方では年間降雨量が少ないという傾向があり、一方では、ある地域にかなりの雨や雪が降る傾向がある。つまり、少雨と地域的な大雨(大雪)が併存している、と気象学者の根本順吉さんはいう▼こんどの大雪もそういう傾向の1つ、というのだ。日本に張り出した高気圧が南に下がり、北の寒気団が強いということがこの気象状況を生む一因だろうか。「意表をつかれるようなことが起こりがちです」と根本さんはいう▼夕方になって、雪が雨に変わった。電車やオートバイの騒音が消えた街は静かで、風の音だけが聞こえてくる。白川のお年寄りは、恐ろしい表層なだれを表現するとき「雪の玉がこんころこんころ飛んできて」といった。ああいう表現法はやはり雪国の静けさの中から生まれたものであろうか。 高校野球監督をやめる今西錬太郎さん 【’86.3.25 朝刊 1頁 (全841字)】  長い間、高校野球の監督をしていた今西錬太郎さんに会った。かつて阪急の投手として活躍し、プロ球界引退後は26年間、東京の佼成学園の監督を続けてきた人だ。力およばずベンチに入れない選手、レギュラーになれない選手を大切にする、というところが今西さんにはあった▼夏の都大会があって、そこで負けると3年生にはそれが最後の試合になる。監督は全員を集めて、まず縁の下の力持ちであり続けた3年生の選手一人一人をねぎらう▼試合には登板できず、バッティング投手として投げ続けた選手がいる。肩がぱんぱんに張って腕があがらない状態になっても、翌日の練習ではまた投げぬく。それは、自分との闘いに負けまいとする意志の表れでもあった。肩を痛めても投げ続けたこいつに感謝せにゃあ、あかん。今西さんはそう選手たちにいいきかせる▼控えの選手だが、練習試合で代打に起用されると、たとえ凡打でも土煙をあげて頭から一塁に滑り込む少年もいる。3年間、新聞配達をしながら練習に耐えたが、レギュラーになれず走塁コーチに徹した少年もいる。そういうお前たちの姿をしかと見てきたぞ、という思いが監督のねぎらいの言葉になる▼プロ野球の投手として88勝の成績を残し、技術の極を追求した人が、今は技術を語らず、縁の下の力持ちたちの精進を語る。ろくにバットを振れなかったひよわな少年が、外野に打球を飛ばせるようになった時の喜びを語る。「そういうことのすばらしさを忘れたら高校野球じゃありません」と今西さんはいった▼26年間で甲子園には3回出場した。夫人と共に野球部の寮に住みこみ、たくさんの少年たちとつきあってきた。ついこの前も一浪した子が汗だらけでかけつけてきた。「おやじ」に大学合格を知らせるためである。この子もレギュラーにはなれず、走塁コーチに徹した少年だった▼今西さんはこの春、学園を去る。 エアガン 【’86.3.26 朝刊 1頁 (全844字)】  東京の多摩川に近い雑木林を歩いていたら、林の奥に6、7人の子どもが集まって、相談をしているのが見えた。エアガンというのか、みな、長いのや短いのや本物そっくりの銃を持っている。サバイバルゲームとやらの戦争ごっこを始めるのだろうか。物騒なものがはやりだしたものだ▼小川の両側に立った子どもたちが、やはり手に手にエアガンを持っていて、かなり大きな魚を追いつめ、一斉にねらい撃ちにしているのを見た知人もいる▼先日、警視庁があるエアガンを摘発した。プラスチック製の弾丸を、紙火薬をつめた金属性弾丸にかえると、至近距離からの発射で厚さ1.2センチの杉板3、4枚を撃ち抜く威力があることがわかった。警視庁はこれを銃刀法にいう拳銃(けんじゅう)と認定した▼そのエアガンを見せてもらった。意外なほど軽いが、かなり精巧にできている。銃には魔性がある。これを手にすれば、生きものを撃ってみたいと心をはずませることになるのもむりはない、と思わせるものがある▼問題のエアガンに限らない。たとえおもちゃでも、本物そっくりの銃を人びとが手にした時、銃口を人に向けるな、動物に向けるなとお説教をしても、どれほどの効きめがあろう▼事実、おもちゃの銃の弾を目に受けて子どもが大けがをした、という事件は少なくない。散歩中の人をねらい撃ちにしてけがをさせた中学生もいた。「おもしろいからやった」と少年はいった。ひき逃げした会社員が、それをとがめた目撃者に対していきなりモデルガンを発射し、けがをさせたという事件もあった▼戦争ごっこでは、戦争そのものが「おもちゃ」になるところが恐ろしい。おもちゃの銃に慣れ親しみ、プラスチック弾を撃ち合っているうちに、「戦争とは軽い気持ちで参加できるおもしろいパフォーマンス」といった戦争観がはぐくまれることにはならないか。そんな心配が胸をかすめる。 「やっぱり」 【’86.3.27 朝刊 1頁 (全858字)】  「日本の人は、私も含めてそうですけどね、しきりに『やっぱり』っていいますね」と作家の堀田善衛さんがいっている(教育テレビ)▼ヨーロッパで暮らしていた時は「なぜならば」でつないでいく会話に苦しめられた。しかし帰国したら「やっぱり」が多いことに気づいた。なぜならばには自己主張があるが、やっぱりには、人と重なる部分に意味を見いだすという心の働きがある、と堀田さんはいう。おもしろい分析だ▼やはり・やっぱりには、思った通り、案の定の意味がある。政治のこととなると、この言葉は始末が悪い。防衛費が3兆円を超えても、やっぱりねえ思った通りさ、と割り切って驚かない。都心の地価が高騰を続けても、減税公約がほごになっても、やっぱりねえ、である。ものわかりがよすぎて怒りがひっこむきらいがある▼経企庁の平泉渉長官が「マルコス疑惑は第一義的にはフィリピンの国内問題だ。こちらからとやかくいうことは内政干渉になる」と発言した。「亭主が女房に渡した金で女房が何を買ったかは女房の責任だ」ともいった。この発言をきいた大方の感想は「やっぱりねえ」だったのではないか▼徹底究明だと政府はかっこうのいいことをいっているが、本音はその実態をいかに巧妙に隠し通すか、にあるだろう。正直な閣僚のだれかが本音をもらすだろう、と思っていたところ案の定それがでた。やっぱりねえ、である▼しかし「亭主が女房に渡した金」とはなんという極楽とんぼだろう。近在の人たちが援助のために集めてくれた金であれば、その使い方を公開する責任がある▼円借款の事業費に水増しがあり、その水増しの一部がリベートとしてマルコス政権に流れていたとすれば、私たちの税金がむだに使われていたことになる。援助政策の欠陥を政府が自らの手で暴くとは思えないだけに、今こそ野党の力量が問われている。いい加減な追及では、やっぱりだめか、ということになる。 撚糸工連汚職 【’86.3.28 朝刊 1頁 (全863字)】  撚糸(ねんし)工連汚職で逮捕者をだした通産省は「業界との常識的なつきあいの範囲」について検討を加えるそうだ。しかしこれはなかなか難しいだろう▼1回のふるまい酒は常識だが、2回以上は非常識、とするのか。盆暮れの贈答品やせんべつはすべて常識、と割り切るのか。ふるまい酒は飲むな、贈られたものは送り返せ、というほどの厳しさがなければ汚職の根は絶てまい▼逮捕された通産省の課長は有能な人だったという。撚糸工連には通産省OBがいる。そのOBに誘われれば、うちわ意識が働くこともあったろう。飲んで語り合えば業界の人たちの本音がわかる、という自己弁明もあったろう▼しかし接待は、わかっているだけで3年間、75回にもなった。多い時には月に5回もクラブを訪れ、1回の支払いが11万円になったこともある。部下を連れて行って、カラオケに興ずることもあった。すべて撚糸工連のツケだから、自分の懐は痛まない▼世間的にみればまことに非常識な行動である。最初は常識の範囲内にみえるつきあいも、いつかはその範囲を越え、越えたころはもう本人の感覚がまひして、非常識を非常識と思わなくなっている。いくら「つきあいの範囲」を紙に書いてみても、そんなものは役には立つまい▼通産省は17年前の汚職事件にこりて綱紀粛正策をきめた。(1)一職場の勤務年限は業界との癒着を防ぐため3年間とする(2)相互に不正をチェックする(3)職員の監督強化(4)監査体制の強化、など▼収賄で逮捕された課長は、この粛正策を読み違えていたらしい。(1)職場が変わっても業界との癒着を続けることが望ましい(2)相互に不正を隠し合う(3)監督者が率先して接待にありつく範を垂れる(4)監査体制網をくぐりぬける術を身につける、というように▼うまみがあるからこそ、撚糸工連は接待攻勢にカネを使ったのだろう。カネのからくりがさらに究明されることを期待する。 野口雨情の歌 【’86.3.29 朝刊 1頁 (全852字)】  「葱(ねぎ)を捨てたりや/しをれて枯れた/捨てりや葱でも/しをれて枯れる/お天道さま見て/俺(おら)泣いた」。野口雨情の代表作の1つだ。くどくどしい言葉の技巧はないし、難しい字句もないが、それだけに一層、捨てられた葱、それに象徴されるものに寄せる雨情の思いが、鋭く胸を突く▼「赤い靴」「船頭小唄」など数々の名作を残した詩人のほぼ全作品が『定本野口雨情』全8巻として出版される。すでに3巻までが世にでた。未来社は散逸した作品をまとめるのに5年以上の歳月をかけたという。その労を多としたい▼雨情の民謡や童謡には土のにおいがある。自らスキクワを手にして田畑で働き、山刀を腰にして山林で働いた人の生活感覚がある。村に生きる人びとの深い祈りがある▼「烏なぜ啼くの」にせよ「黄金虫は金持ちだ」にせよ、主人公の多くは鳥であり虫であり草花である。『定本』を調べると、たんぼのシギ、軒のスズメ、ふろばのコオロギ、ムジナの親子、猿、キツネ、タニシ、エンドウやソバの花、とたちまち何百種類の生きものが現れることに驚く。彼らはみな雨情の故郷の仲間だ▼「己(おれ)が生れたこの村の/井戸の釣瓶(つるべ)に/風が吹く/風は鳴り鳴り吹いている」。その故郷の風が運ぶ土のにおいは、雨情の体にも心にも深くしみこんでいて、都会にいても洗われずにすんだ▼だが、その土のにおいが次第に世の中から消滅しつつあることも、雨情は知っていた。半世紀も前に歌っている。「歳毎に 森は/伐られて原となり/林のあとに/家は建つ」▼昔は日本の人口の8割以上は田舎に住んでいた。今は逆に、6割がいわゆる人口集中地区に住み、「土の自然詩」の世界は崩壊しつつある。雨情の歌を読んでいると、彼の故郷の仲間であったミソサザイやムジナの痛憤が伝わってくる。雨情の世界は、私たちが破壊してきたものの重さをあらためて教えてくれる。 香りの心理的効果 【’86.3.30 朝刊 1頁 (全836字)】  ジャスミンの芳香は気分を一新させる。夏の北海道をいろどるラベンダーの香りは心を落ち着かせる。生理学者の鳥居鎮夫さんとカネボウ化粧品研究所が行った実験でそういうことが確かめられた、と科学欄にあった▼「ある程度予想はしていたが、まさかこれほど明確に効果が表れるとは思わなかった」と研究所の人はいっている。ジャスミンの場合はコーヒーを飲んだ時の約2倍も、気分を高める働きがあった▼ラベンダーは逆に、鎮静の効果がある。その学名は「洗う」という意味のラテン語と関係があるらしい。疲れをいやすための浴用香料に使われたためだろうか。乾燥させたこの多年草の花をまくらやにおい袋に入れる習わしもずいぶん昔からあった。エリザベス1世はラベンダーのジャムが大好きだった、とものの本にある▼ジュリエットはロミオへの愛を語る時、バラの花の芳香をたたえている。「名前なんかに何があるでしょう。バラと呼ばれている花は、別の名をつけても同じようによい香りを放つでしょう」といって、ロミオが「敵の名」を捨てることを願う▼バラの美しさの要素には色や形がある。だが、昔の人にとっては何よりも、香りのよさが美しさの証明だったのではないか。バラは貴重な浴用の香料だったし、ローズオイルはシルクロードをへて、中国へ運ばれたほどである▼宗教の儀式でも、香りは大切な役目をはたす。8世紀に来日した唐の僧、鑑真和上は数十種類の香薬をわが国に伝えてくれたそうだが、その中には、沈香(じんこう)や白檀(びゃくだん)もあった。いずれも心を静める効果がある。沈思の世界への道づれにふさわしい香りだ▼植物の香りが、どういう心理的効果を生むのか。そのことをさらに実験で解明してゆけば、香薬によって、気分を一新させたり、落ち着かせたりするいわゆる「香り療法」がもっと身近なものになるだろう。 3月の言葉あれこれ 【’86.3.31 朝刊 1頁 (全856字)】  3月の言葉あれこれ▼「野党は税金はまけろ、橋や道路はつくれとうまい話ばかりするが、それにひっかかる人もふえている。毛ばりで釣られる魚は知能指数が高くない」と渡辺通産相が口をすべらせた。清少納言もいっている。「あさましきもの、人のためにはづかしうあしきことを、つつみもなくいひゐたる」と▼続いて、マルコス疑惑をめぐって「調査をするなというのではないが、あまりとやかくいうことは内政干渉になる。亭主が女房に渡した金で女房が何を買ったかは女房の責任だ」と平泉経企庁長官。日本語は澄むと濁るで大ちがい、困る失言ほしい識見▼「本当にオレなのか」。関脇保志、一陣の春嵐(あらし)となって優勝をきめたあと▼暗殺されたパルメ首相の葬儀に参列した佐々木前民社党委員長。「日本の政治家のだれがパルメ氏になれるだろうか」。ストックホルムでは首相の死を悼む市民のバラを手にした行進が2週間も続いたそうだ▼飛鳥田前社会党委員長。「中曽根政治は、国民の趣味趣向にまで口を出す管理ファシズムだ」。一方、日本商工会議所の五島会頭は「首相は(3選して)泥まみれになるよりも政界の会長になり、政界の良識を代表するのが一番望ましい」▼逗子市での緑派の勝利に「私たちが緑を大切に思っていることが、住民に十分伝わっていないうらみがある」と加藤防衛庁長官。住民はいうだろう。私たちが緑を大切に思っていることが、政府には少しもわかっていない、と▼教科書訴訟で全面敗訴の家永三郎さんが古歌を朗唱した。「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせむ」(後鳥羽院)。「検定はどんどんひどくなっている。命の続く限りがんばる」▼「日本の侍には腹切りがあるが、私たちはカトリック信者ゆえ自殺できない」とマルコス氏。「米基地の食事はまずい。パリで買い物をしたい」とイメルダ夫人。おそろしげなるもの、欲このむ人の心の内。 地価の「傾向と対策」 【’86.4.1 朝刊 1頁 (全864字)】  だいぶ前の家庭欄に、外国人留学生たちの意見がのっていた。「うさぎ小屋なんてうそだと思っていました。でも、本当だった」「住宅をみる限り経済大国なんて信じられない。住宅は人間にとって一番大切な場所なのだから、日本の経済力を良質で安くて広い住宅建設にふりむけるべきではないか」▼いくら国土が狭いとはいえ、わが国の住宅の質の悪さは、留学生たちには奇異に映るらしい。その背景には、綿々として続く土地無策がある▼新しい公示地価をみると、首都圏や大阪、京都の上昇が続いている。とくに東京の都心部の上昇が激しい。激しいというよりも恐ろしいほどである。50%以上の暴騰、というからこれはもう異常事態だ▼なにごとにも「傾向と対策」はつきものだが、地価に関する限り、常に対策が欠落しがちなのはなぜだろう。政治家にとって、地価急騰や土地ころがしはカネになるが、地価抑制策は票にならないという事情があるからだろうか▼政府は有効な手を打たないどころか、都心の国有地を高く売却することで、暴騰をあおっている。10年前には坪(3.3平方メートル)100万円ほどだった土地のすぐ隣の旧司法研修所跡地を坪2800万円で売っている。地価高騰策を推進しているようなものだ▼ビル用地の需要が高まっている事情はわかる。新しい都市型産業が伸び、東京で最新の情報を集めることを重視する企業がふえていることも事実だろう。だが、都市の地価高騰は、住宅地域の地価に響き、私たちの生活を脅かす▼第1、都は思い切って都心と副都心、あるいは23区全域の地価凍結にふみきること。国土利用計画法にあるこの伝家の宝刀はまだ一度も抜かれたことがない。異常事態を沈静させるには地価を凍結し、「土地は上がらない」ことを常識にする政策を実行してもらいたい▼第2、国公有地をむやみに売らないこと。貴重な公共財産を狂乱地価の嵐(あらし)にまきこむべきではない。 いま寿楽の保障は 【’86.4.2 朝刊 1頁 (全856字)】  川崎市に住むお年寄りから、こんな投書をいただいた▼「預貯金の金利引き下げで、私たちは生活費の切り下げをせざるをえません。退職金のうち1000万円を年利7%の5年ものなどで運用すると年に約70万円の利子があります。これに厚生年金を加え、ひっそりと生活しています。金利の引き下げで、年利6%を割れば年10万円の減収になります。老人にとっては重大です。老人問題への考慮は一体どうなっているのでしょう」▼数年前、同じように金利が急低下した時、信託銀行の窓口で泣いた老人がいた、とも投書にはあった。1年定期でいえば、ついこの前年利5.5%だったのが5%になり、今度は4.5%である。嘆きの声がほとばしるのも当然だ▼老人をめぐる昨今のニュースには暗い話が多い。今年に入ってから高齢者の夫婦心中が11件もあった。86歳の夫と79歳の妻が首をつって死んだ。81歳の夫が73歳の妻を包丁で刺し、自分も死ぬという事件もあった。病気に苦しむ人たちの心中が多かった▼高齢者の年収も低迷している。厚生省の「60年国民生活実態調査」によれば、高齢者世帯の平均所得の伸びは物価の上昇率にも及ばなかった。都内の民間アパートに住むお年寄りは年金のほとんどを家賃にあてねばならないという調査もあった。ここにも、地価高騰・公営賃貸住宅の不足といった問題が影を落としている▼さらに、働きたくても働き口がない、働き口があっても、求職者と求人側の条件がかみあわない、という深刻な問題がある。2000年までには、60歳以上の人が今よりも1100万人もふえる。高齢者の失業率はさらに高まるだろう▼公定歩合の利下げ1つとっても、そういう経済政策を補うにはきめこまかい福祉政策の後ろだてが必要なのに、政府にはその心配りがない。長寿の寿には、めでたい、ことほぐの意味がある。寿楽の保証のない社会を、長寿社会といえようか。 石器時代人 【’86.4.3 朝刊 1頁 (全852字)】  石器時代人についての話を2つ聞いた。フィリピンの秘境に今も住んでいるとされた石器時代人が、実はニセものだったという話。もう1つは、「明石原人」と同じ旧石器時代人の削った板が発見されたという、これは本当の話▼ニセの方は、こうだ。1972年、フィリピン南部のジャングルで、石器時代そのままの洞くつ暮らしをする24人のタサダイ族が発見された。裸同然で、石器を使っている。食物は木の実、谷川の小魚。木片をこすって火を燃やす。どうも変だという学者もいたが、「石器時代人と現代人の遭遇」ともなれば、ニュースにはなった▼ところがこの話は、マルコス前大統領の少数民族担当補佐官によって仕組まれたものと分かった。現地の新聞によれば、補佐官は「洞くつ生活を演じてくれれば経済援助をする」ともちかけ、一帯を立ち入り禁止の保護地区にした。裏のねらいは、鉱物を探して、ひと山当てることにあった▼「明石原人」の方は1931年、直良信夫氏が兵庫県明石市の海岸で人間の腰骨を見つけたことが発端だった。以来、それが「化石人」のものか、縄文時代以降の「現生人」のものか、論争が繰り返されてきた(高橋徹著『明石原人の発見』)▼その論争に決着をつけるような板ぎれが腰骨の出土地から掘り出された。木を縦に割り、石のかんなで両面を削っている。おそらく「明石原人」の同時代人が作ったにちがいない。つまり「明石原人」が生きていた十数万年前、すでに木を加工するほどの生活水準にあったことが証明されたわけだ▼石器時代人は家を建てないし集団の単位も小さい、という平均的なイメージがある。補佐官は、そのイメージに寄りかかって、みじめな石器時代人を演出した。しかし、当時の本物の文化は、補佐官の思いこみをはるかに超えて豊かだった▼原始人すなわち野蛮人。そういう考え方は、現代人の決めつけだと、明石の木片は教えている。 及び腰のマルコス疑惑究明 【’86.4.4 朝刊 1頁 (全837字)】  自民党のある閣僚経験者がいっている。「政府開発援助のカネは機密費みたいなもんだ。どの国へいくらと国会できめるわけじゃなし、どう使われているか国民にはほとんど知らされていない。おまけに、もっと増やせ、増やせだ。政治資金というタマゴを産むニワトリとしては、とびきり上等だよ」▼本紙の「援助」取材班が去年まとめた『援助途上国ニッポン』にでてくる言葉だ。一般論としていったのだろうが、そこには政界人の本音がある。そして、援助の実態について「国民がほとんど知らされていない」ことも事実なのだ▼マルコス疑惑についての政府の対応は、今までのところ、あまりにも手ぬるい。中曽根首相は「全力をつくして早期究明に努力している」と国会で答えた。安倍外相も「フィリピン援助を全体的に見直すことを検討の対象にする」と答えている▼そういいながら、では受注企業の名を公表せよというと、それはできないという。ラウレル副大統領は「フィリピン側の資料は要請があれば日本側に引き渡す」とまでいっているのに、外相は「現段階ではとくに提供を求めない」という。どうぞ要請を、と先方がいっている以上、内政干渉にはなるまい。それなのにいや結構ですと遠慮している。なんとも及び腰の「全力究明」ではないか▼疑惑を突く特別委を衆院におく話も、名称さえきまらず、まだ発足していない。野党が40人の委員会を主張しているのに対し、自民党は25人を主張してかみあわない。口では究明究明というが、やはり、あまりやる気がないんじゃないか、と心配になってくる▼アメリカ独立戦争の時「代表なくして課税なし」というスローガンがあった。税を課するなら政治に参加する代表を選ばせよ、という要求である。払った税金の行方を監視する仕組みをきちんとするために、納税者として訴えたい。「公開なくして課税なし」と。 日米の億万長者と貿易摩擦 【’86.4.5 朝刊 1頁 (全868字)】  1枚の宝くじが財布の中に入っていた。拾った青年がくじを調べたら10億円があたっていた。驚いて、落とし主を捜して財布を届けた。その青年に1億5000万円の謝礼が贈られたというカナダの話があった▼ニュースのいたずら、とでもいうのか。もう1つ、アメリカでほぼ同じ額のカネを受け取る人の記事があった。米国2位の自動車メーカー、フォードのピーターセン会長に約1億6000万円のボーナスが支給されるという話だ▼感想その1。賞与も1億6000万円となると、さすがにケタが違うな、という感じである。日米貿易摩擦で「日本人金持ち論」が横行しているが、どうしてどうして、持てる国の人はやっぱり持っているものだと改めて思う▼エリック・シーガルの『ラブ・ストーリィ』では、オリバーが恋人を生家に案内する。門から母屋まで、少なくとも800メートルはある林の中を車で走る。恋人が思わず逃げ腰になる、という描写があったが、日米億万長者の懐の深さ比べでは、横綱と前頭くらいの差があるのではないか▼国税庁の窓口からみると、年収1億円以上の高額所得者は、日本には数千人しかいない。単純な比較はできないが、アメリカでは、100万ドル(約1億8000万円)以上の年収がある人は約83万人となっていて、ここでもケタが違うことがわかる。会社が好成績の場合、アメリカは利益の分配が経営陣に重くなる、という事情もあるのだろう▼感想その2。日本の自動車輸出の自主規制とは、いったい何なのだろう。自主規制によって、アメリカの自動車産業は勢いを盛り返した。ここ2、3年は1億円を超えるボーナスが経営首脳陣にでている。日本車が品不足になって値上がりし、その影響でアメリカの車も値上がりしている。つまり、長びく規制で一番割をくっているのは米国の消費者ではないか▼というわけで、貿易摩擦の非難を浴びても、私たちにはなにか釈然としないものが残る。 犬養基金第1号 【’86.4.6 朝刊 1頁 (全857字)】  昨年、長くヨーロッパで暮らしている評論家の犬養道子さんが一時帰国した折に「アフリカ援助」のことで話をきいたことがある。その時「第三世界の若者のための奨学基金をつくりたい」という話がでた▼犬養さんは、5・15事件で凶弾に倒れた犬養毅元首相の孫だ。敗戦直後、アメリカで学んだ。その時、奨学金の世話になった。旅費をだしてくれた人もいた▼世話になった人に礼をいいたいと頼むと、仲介者は答えた。「あなたがこの旅で、少しでも豊かな人間になって日本に帰ることが最大のお礼なのです。争いよりは友情を、非難よりは理解を、愚痴よりは建設を、あなたのまわりにひき入れるような人になってもらいたい」▼その後の犬養さんは、たくましい行動力と地球人的な視野で、難民問題、人間のすむ大地の緑化の問題にかかわってきた。今の私があるのは、あの時援助をしてくれた人のおかげだ。それに報いるためにも奨学基金を、という話だった▼その犬養基金が発足した。奨学生第1号は、ベトナム難民の中学生、レ・ティエン・ゴン君である。ゴン君は、この基金の利息によって、千葉の木更津にある私立暁星国際中学校で学ぶことになった▼信託銀行に預けられた約1400万円の大半は著書『人間の大地』の印税などだが、多くの人びとの寄金もまじっている。「無名の大勢の日本人たちが自分を学校へ行かせてくれたということを、ゴン君が社会人になった時に思い起こし、援助する側にたってくれたらすばらしい」。ご本人はそういい残して、パリへたった。そこには、世代から世代へ、という奨学金の国際リレーの考え方がある▼難民や飢餓は現代文明のひずみである。ひずみを正すには、アフリカやアジアからより多くの指導者が育つべきだろう。若い人に学ぶ機会を与えるために、犬養さんは支援を求めている(連絡先は、東京都文京区関口3ノ16ノ15、東京大司教館、犬養基金事務局)。 桜 【’86.4.7 朝刊 1頁 (全856字)】  もう17年も日本中の桜を追い求め、写真を撮り続けている高波重春さんという人の記事があった。「朝日に映えて風が出てくるまでのわずかな時間、それが桜のいのち」だという。「そばに人がいるとだめ、花とふたりきりでないとシャッターを押す気になれない」ともいっていた▼ふたりきり、というあたりは相当なものだ。それぞれの人に、それぞれの桜の見方があるものだと感心した。咲き満ちる桜をみるのもいいが、1分咲きの桜に心をときめかせるのも悪くない。朝の桜、夕桜、夜桜、雨に打たれてしおれる桜、散る桜、残る桜、墓地の桜、団地の桜、山の中の1本の山桜、桜はさまざまな姿で私たちに春の命を伝えてくれる▼大仏次郎は、庭に植えた1本のしだれ桜が咲き始めると、知人を招いて花見をした。フランスの知人を誘う時「たった1株の桜ですが」というと、フランス人はいった。「1本ですか。それはほんとうに楽しくてよいことです」。満開の桜の森もいいが、1本の桜の下に集まるのにも味わいがある▼6日の東京は桜前線のただなかにあった。満開にはほど遠いが、風と光の中にあって、枝がしなうたびに桜色の渦が立った。桜前線の訪れるころから、色の仕事師の手で、天地はにわかに春の色に染められてゆく。レンギョウは鮮やかな黄と若緑色に染められる。白く染められたコブシの花のわきに1、2枚の緑の葉をそえることを仕事師は忘れない▼ソメイヨシノのつぼみは紅色のがくに包まれている。つぼみが堅いうちは花びらの紅は濃くて、やがてその紅が淡くなり、白っぽくなって、ついに開く。花の柄には薄緑に染められた部分もあって、色の仕事師の入念な細工がうかがえる▼桜は心で見るともいう。心の目に映る桜は、移ろうものの姿であり、移ろわぬものの姿でもある。高橋新吉は「一輪の花の中に/久遠の春が宿ってゐる」と歌った。この一輪の花とは、やはり桜のことであろうか。 『女性民教審』の「教育改革提言」【’86.4.8 朝刊 1頁 (全856字)】  女性による民間教育審議会、略称『女性民教審』が「教育改革提言」を発表した▼たとえば「文部省は時の政権から自立する。文部大臣は与党の政治家ではなく、民間人から選ぶ」といったいきのいい提言がある。いじめや落ちこぼしの土壌になり、子どもの心をむしばんでいる「通知表の相対評価」を廃止せよという病根を突いた主張もある▼「1クラスを35人以下に」「子どもに遊びの場所と仲間と時間を保証するよう行政、学校、塾、親が努力する」という提言もあった。大学間格差をなくし、大学を開かれた場にという改革案もあり、失礼ながら、臨教審の答申を読むよりははるかに元気がでる▼代表世話人の俵萌子さんは『女たちの教育改革』という本の中でいっている。「私たち母親は、母親としての意見をいわなくてはいけない。手塩にかけた子やそのまた子どもたちを、男たちに白紙委任しない。国に白紙委任しない。教師にも白紙委任しない」。上からの教育改革に対する反発が、数多くの女性たちに腕をくませる原動力になったらしい▼いまは、子や教師や親の本音が見えにくい時代だという。たとえばPTAがいじめについてのアンケート調査をし、それを発表しようとすると、学校の体面上まずいという理由で校長から中止要請がでる。内申書に響くから、子どもにはね返るから、といって教師批判を口にしない親も少なくない▼民教審の席である教師はいった。「学校では一致団結が説かれる。教師は生徒の取り締まりに熱を入れ、他のクラスと違っていないかを気にする。しかし一致のための管理に精を出すと、子どもが見えなくなる。自分の考えを実践する自由なふんいきがなくなってきたことが怖い」▼いま大切なのは、いかに現場の声をきくかだけではなく、現場の本音を知ることがいかに難しくなっているか、を知ることではないか。臨教審は、女性民教審の提言にも素直に耳を傾けてもらいたい。 比叡山と天台の美術展を見て 【’86.4.9 朝刊 1頁 (全848字)】  ふっくらとして、おだやかな顔である。邪気というものを一切寄せつけない透明な笑顔である。東京国立博物館で開かれている『比叡山と天台の美術』を見ていて、思わず立ちつくした▼京都・即成院の25菩薩坐像うちの3躯(く)、平安時代の作、と解説にはあった。こういう展示会で仏像と相対する時はどうしても、顔や姿の美しさに目が向く。阿弥陀仏賛歌であろうか。菩薩たちが至福の微笑を刻んで楽をかなでている姿がいい。あえていえば、かわいらしい▼その笑いは、古代にあって現代にないものの代表例だろう。その姿は、あの『往生要集』の「風、枝葉を動かさば、声、妙法を演(の)べ」の世界を思いださせる▼比叡山開創の伝教大師、最澄は若いころ、人跡絶えた山中にいおりを結んで難行を重ねた。最澄の思想は、山深い寂静の地でつちかわれたのであろう。大自然の中での修行と、草も木も、生きとし生けるものすべてが仏という完成された境地をうることができる、という考え方とは無関係ではあるまい▼最澄は悲劇的な思想家ではあったが、その流れの中から、法然、道元、親鸞、日蓮などの宗祖が生まれ、阿弥陀信仰も生まれた▼「山越阿弥陀図」(国宝)はその一例だ。昔、死なんとする人は、この図の阿弥陀仏の親指からでる五色の糸をつかんで、極楽浄土への旅を願ったという。浄土を教えた宗教は、地獄をも教えた。たとえば「六道絵」(国宝)の恐ろしげな地獄図の中に、人びとは自身の迷いの姿をみておののいたことだろう▼古代人の信仰のあれこれをたどってゆくと、私たちは高さ2、30センチの陶器のつぼ(経筒)にぶつかる。昔の人は、末法のやみの世の到来を案じ、このつぼにお経を入れて地中深く埋めたという。それは、現代人が核戦争による人類の破滅に備え、文明の諸物をシェルターの奥深くに安置する行動に似ている。昔も今も、変わらないものもある。 「受忍の限度」 【’86.4.10 朝刊 1頁 (全854字)】  厚木基地の航空機騒音は「受忍の限度内にある」という東京高裁の判決がでた。住民にとっては、この判決はまさに「受忍の限度を超えたもの」であったろう▼ミッドウェー艦載機の夜間発着訓練に立ち会った長洲神奈川県知事はいった。「すぐそばに雷が落ちたようだ。うるさいというよりも怖い。国は住民の訴えを絶対に無視してほしくない」と。やはり現地を視察した加藤防衛庁長官も「都市部の住宅地では影響が大きいことを実感した」と語っていた▼防衛施設庁も、騒音の影響が「相当なものだ」と認めている。「居住地域の騒音としては限界に近い状況になっている。航空機騒音にかかわる環境基準を超えている住居は約10万戸」とも説明している▼このように、政府が「相当の被害」があることを認めているのに、判決は「公共性が高ければ受忍限度も高くなる。この騒音被害は受忍限度」と住民を突き放した。いかにも冷たい言い渡しではないか▼最高118ホンといえば、地下鉄構内の轟音(ごうおん)とほぼ同じだ。そういう轟音の中の夕食では、一家のだんらんなどは吹き飛んでしまうだろう。赤ちゃんが泣きやまない。寝たきりの老人が「飛行機が入ってくる」とうわごとをいう。眠れない。難聴になる。そういうこともみな、我慢の限度内だというのか。お国のためだ、我慢せよというのだろうか▼判決をきいた三宅村長の寺沢晴男さんが「安保条約に基づく施設は治外法権として、住民の手の届かないところにあることがまざまざとわかった。夜間発着訓練飛行場は一度造られたらおしまいだ」といって反対の意志を固めているのが印象に残った▼政府は、訓練場を三宅島に造るために、いまは「厚木基地の被害は大変だ」と力説している。だが一度、島に移転したら、たとえ住民が騒音に抗議し、訴訟を起こしても「それは受忍の限度内」と突き放されるだろう。そのことを学んだ、というのである。 銘柄信仰 【’86.4.11 朝刊 1頁 (全835字)】  この米は新潟産コシヒカリ、などと銘柄を証明する農産物検査証のことを票箋(ひょうせん)という。その票箋が大量に偽造されていることが分かった。食糧庁によれば、にせの銘柄米は全国に出回っている恐れもあるという▼これが偽造されるわけは、銘柄米はうまいという信仰があり、信仰ゆえに高く売れるからだ。しかし、銘柄米と称されている米がすべて、本当にうまいのか。それほど信仰されてよいのか▼姫路生活科学センターの婦人生活大学で学ぶ主婦ら30余人が、そんな疑いを持った。銘柄米として売られている米と、いくつかの品種を混合した米、標準価格米の3種類を食べ比べてみた▼味について、「良い」「普通」「悪い」の3つに区分したところ、「良い」が銘柄米で14人、混合米で13人と、大差はなかった。香り、つやでも、格段の違いはなかった。さらに、銘柄米を食べている5家庭で、家族には内証にして安い標準価格米に切り替えたが、家族は1人も気づかなかった▼本物の新潟産コシヒカリを食べれば、ああうまい、と思う。これが積もり積もって銘柄に対する信仰が生まれるのだろう。が、ある消費者運動のリーダーによると、銘柄ものであれば、必ず極上、美味というわけではない▼「日照、降雨、保管方法などによって、同じ銘柄であっても毎年、質が変わる。それに何よりも炊き方や、1人で食べるか家族と一緒かという食卓の雰囲気が大事なのだ」▼最近、ブランド表示がない商品や雑貨が売れている。良い物はたいてい高いが、かといって高い物が常に良いとは限らない。それを実感してブランド離れを始めた消費者に、これらの商品はうけているらしい▼この春、有名校というブランドの新人を入社させた会社も多いだろう。だが味わってみたら、ブランドならぬ新人に、むしろこくのある人物がいた、ということがあるのではないか。 「へんな春闘」 【’86.4.12 朝刊 1頁 (全839字)】  「うったえるものさえもなき零細の空しさつのるゼネスト4日」(下井嘉子)。春闘を主題にした1970年代の歌だ。当時は、シュントウといえばすぐ、ゼネスト指令とか決起集会とかの言葉を連想したものだが、世は移り、昨今の連想は「内需拡大」である▼それにしても、ことしの春闘ほど「へんな春闘」は、そうめったにはないだろう。〈その1〉政府自民党がむしろ労働側の応援団を買ってでたこと。唐沢官房副長官は「貿易摩擦解消のため内需を拡大しなくてはいけない。(賃金を)上げられるところは上げていただきたい」と旗を振り、金丸幹事長も「賃金は抑えない方がいい」と笛を鳴らした。にぎやかな応援が続いた▼〈その2〉財界にも賃上げ論がでてきた。五島昇日商会頭が、これまで経営者側は「あまりに賃金を抑えすぎていた」と声をあげるや、佐治敬三大商会頭もまた「給料はもっと上がるべきだ」と唱和した。応援席の旗に染めぬかれた文字はやはり「内需拡大」だった▼佐治さんは「大槻文平さん(日経連会長)は怒るかもしれないが」とわざわざ断ったが、当の大槻さんはやはり激怒して抗議文を送ったという。日経連対商工会議所の闘い、というのも春の珍事だろうか▼〈その3〉3次産業共闘という新しい組織が突如現れ、あれよあれよというまに春闘かじとり役の1つになったこと。NTT、電力、私鉄など雑多な企業の労組の集まりであることから、ヤミ汁共闘と呼ばれたが、その目的は「賃上げの相場づくりを金属労協に頼るな」ということにある。第3次産業で働く人が今は約6割だ。3次産業共闘の出現は、時の流れであるのかもしれない▼常連ならぬ連中が応援席に並んだへんな春闘ではあるが、「苦しいところに足並みをそろえる」伝統的風潮はやはり続いている。川柳に「春闘のこぶしも振れぬ小企業」(小笹松子)。この状態も変わらない。 下塗り 【’86.4.13 朝刊 1頁 (全842字)】  先日、飛騨の高山で谷正利さんに会った。春慶塗の腕のいい塗師屋(ぬしや)として知られた人だ。どこの塗りものでも同じだろうが、この仕事ではとくに下塗りがものをいう、下塗りが命だ、ということを谷さんは教えてくれた▼伝統的な春慶塗は、まず木地の上に豆汁(ごじる)を塗って下地をつくる。その上に何回も繰り返して漆の下塗りをする。いちど下塗りをしてから2カ月も寝かせて乾かす。さらに2番ずり、3番ずりと続け、5回以上も下塗りをしてから、上塗りに移る▼手のこんだ丹念な作業の末に、あのやや黄みをおびた琥珀(こはく)の色つやがでてくる。それを「あつみのあるぽってりした色」「ほんやりした底づや」と谷さんは表現した。下塗りの漆をすりこめばすりこむほど透明感がでてきて、素材の木目が鮮やかに浮かびあがる、というところに漆のふしぎさがある▼昨今は、下塗りに手数をかけない粗製品が出回るようになった。土地の人はこれを「ぶっつけ」という。このぶっつけは残念ながら「やせた、うすっぺらな色つや」しかでない。しかも使っているうちに、色があせたり漆がはげたりする▼そんな塗りもの談議のあれこれをきいていると、人間も同じだなと自らを省みる気持ちになる。下塗りを怠れば、いくらごまかしても「うすっぺらな色つや」しかでてこない▼自然保護運動の先駆者であり、民俗学の巨星であった南方熊楠は子どものころから本が大好きだった。8、9歳のころからよそさまの本を借覧し、ことごとく記憶して帰り、ほご紙に写して繰り返し読んだ▼そのようにして『和漢三才図会』105巻を3年がかりで写したというから話半分にしても相当なものだ。12歳までに『本草綱目』『諸国名所図会』も写しとったという。後年、柳田国男と並び称された南方熊楠にとって、この少年時代の書き写しは「人生の下塗り」であったに違いない。 沈黙の世界 【’86.4.14 朝刊 1頁 (全854字)】  土曜の夜、青山劇場で『夕鶴』をみて、数時間後には本社機「千早」に乗って羽田を飛び立った。お別れ間近のハレー彗星(すいせい)をみるためである▼山本安英さんのつうが鶴の姿になって飛び去る芝居を楽しんだすぐ後、宇宙のかなたを飛ぶ彗星をみることができた。地上で彗星をさがす人たちに対して、なんともうしろめたい気持ちがあったが、ずいぶん目の保養になった▼『夕鶴』は見るたびに発見がある。今回は、与ひょうが女房のつうを裏切って機を織る姿を盗み見たあと、機の音の沈黙がほぼ1分間も続くことに気づいた。くるるるるる、ばんばん、と続く音が、亭主に見られた瞬間に中断する▼嘆きや迷いの中で、つうは力をふりしぼって形見の織物を織る決意をする。そういった思いが1分間の沈黙に凝縮している。そこには、沈黙の世界のはりつめた美しさがある▼八丈島付近の上空でみるハレー彗星は、さそり座のはるか下にあって、丸い星団のようにただよっていた。おどろおどろしいとまではいかないが、その姿にはどこか恐ろしげなところがあった▼銀河というものを久しぶりにみた。『銀河鉄道の夜』には「乳の流れ」とか「白くけぶった銀河帯」とか「上から下へかけて銀河がぼうとけむったやうな帯になって」とかの表現がある。そういう表現が決して誇張ではなくて、銀河とはまさに、やみに流れる銀色の大河であることを、空中にただよいながら味わうことができた▼この銀河系には2000億個の星があるということ、われらが太陽はその2000億個の1つにすぎず、地球はその太陽をめぐるケシ粒ほどの惑星にすぎないこと、銀河系の外にでれば、アンドロメダ銀河をはじめ、無数の銀河があって、それぞれが何千億個の星をかかえていること……。そう思って銀河の帯を眺めていると、畏怖(いふ)の念にとらわれざるをえない。そこには、沈黙の世界のはりつめた美しさがあった。 日米首脳会談でのヤス請け合い 【’86.4.15 朝刊 1頁 (全842字)】  中曽根首相はレーガン大統領にポケットカラーテレビを贈り、大統領は首相に米海軍の飛行士用ジャンパーなどを贈ったそうだ。これはもう、文句なく大統領に軍配があがったとみるべきである。海軍飛行士の服、というのはいかにも首相に似合いそうだ▼もう1つ、首相は日本のケイコウケン製の治療対策をおみやげに持っていった。経済構造調整研究会の報告書のことだ。本当は、大統領も、アメリカのケイコウケン製の治療対策を持ちだし、2つをあわせれば、貿易摩擦を軽くする道もみつかることになるのだろうが、残念ながら米国ケイコウケン製のおみやげはなかった▼日本だけが一方的におうかがいをたて、よろしい、その線できちんとやりなさい、としりをたたかれる格好になった。そのあたりがなんとも釈然としない▼経構研の報告書には、たとえば少額貯蓄非課税制度(マル優)の廃止がうたわれている。それはなぜか。日本人は貯蓄民族だといわれている。貯蓄率が高いから、国内で消費されないモノが外国へでやすくなる。輸出志向型の一因になっている。だから少し貯蓄を減らして内需拡大をはかろう、そのためにマル優を廃止しよう、という主張だ▼だが、どうだろう。日本人の貯蓄が見かけほど多いとは思わないが、先進諸国と比べて貯蓄率が高くなっているのは、老後の不安が深刻だからではないか。教育や住宅の出費が異常に多いことに備えるからではないか▼福祉政策、教育費軽減政策、地価抑制政策などをいい加減にしておいてマル優だけをいじっても、はたして貯蓄率が下がるだろうか。マル優廃止が弱いものいじめになることはないのか▼経構研はまた、地価の抑制策が必要だと主張している。だが、絶望的に思えるほど困難な地価政策について、いかなる妙策があり、いかなる成算があるのだろう▼実効なき部分が多すぎては、ヤス請け合いのそしりは免れまい。 昭和ひとけたの婦人運動 【’86.4.16 朝刊 1頁 (全849字)】  戦争に向けて暗い道を歩んだ昭和ひとけたは、一方で「女性にも1票を」の婦人参政権運動が高揚した時代でもあった。昭和9年2月、東京・芝公園協調会館で開いた第5回婦選大会は、当時の月刊誌「婦選」によるとこうだ▼市川房枝さんとともに運動を起こした金子しげりさんが大会議長。労働者と協力して資本主義を変えねば、婦人の選挙権も意味がないとする堺真柄さんら無産婦人同盟系の発言は、しばしば臨監の警官に「中止」をくう。議長、あわてず「だれか上手に続けなさい」と無産系の席を指す。「無産の主張は別の会場でやりなさい」のやじもとぶが、会場係としてよく働く若い堺さんは人気もの▼東京、京都の婦人団体が地元での市政浄化運動の実績を報告する。と、論客の平岡初枝さんが立ち上がる。「あっちの手伝いをした、こっちの手伝いをしたと、喜んでおられるかいな。なにをぐずぐずしておられる。この五百会衆で議会に乗り込もうではないか」。そうだ、と会場が興奮する▼水玉模様のマフラーを肩に泳がせた市川さんの登壇だ。「ミリタント(戦闘的)にいくか合法的にいくか、とまれ婦人の力を強めることが先」となだめ、団結をはかる▼戦争反対がみんなの心だった。藤田たきさんは、雑誌が戦争挑発的な記事を売りものにしているのは危険だ、不買運動をやろうと提案する。秋田の田畑染さんが発言を求める▼「満州事変以来、東北地方の青年たちが多数死んだ。命をかけて育てたわが子を、なぜ遠い地に送り出さねばならないか」。心うつ演説だったというが、惜しいことに東北なまりのため記録がとれなかったとある。そのかわり臨監の「中止」もなかった▼今年は婦人参政40周年。「サンダカン八番娼館」を書いた山崎朋子さんは、昭和ひとけたの婦人運動に強くひかれるという。あのころの方が婦人は時代に敏感で、エネルギーいっぱいだったのではと感じるからだ。 ボーボワール 【’86.4.17 朝刊 1頁 (全854字)】  シモーヌ・ド・ボーボワールのことを尋ねられてサルトルは答えた。「美人だと思います。私はこれまでいつも彼女は美人だと思っていました」。ボーボワールは回想している。「私の人生には確かな成功がひとつありました。サルトルとの関係です」▼2人は、秀才中の秀才がうける教授資格試験の哲学に合格した。サルトルが1番でボーボワールは2番だったという。そして自由な、開かれた愛の関係が生涯、続くことになる。ボーボワールはあらゆる偏見から解放されていて、女性に対する偏見、人種的偏見、若い世代への偏見と闘う仕事を誠実に続けた▼若い世代の考え方に理解し難いと思うことがあるか、という下村満子記者の質問に対して答えている。「全然ありません。むしろ年とった年代の人たちの方が私には気に入らないことが多いですね。私は若い人たちの方が好きです。無限の可能性を持っていますもの」▼アルジェリア戦争に現れた人種的偏見の根強さ、排他的愛国心、捕虜に対する拷問に対しては、怒りにふるえる筆致で告発し、私はもはや同胞を許すことができない、とさえ書いた▼「人は女に生まれない。女になるのだ」という有名な結論を導きだした『第2の性』が1949年に出版された時は、ごうごうたる非難がわいた。「男女には差がある。だが、多くの相違点は周囲の文化的状況でつくられる」という主張は、男性支配社会内の偏見に対する挑戦だったからだ▼大作『老い』の中でも、彼女は「老年は心の明澄をもたらす」という偏見を否定した。そんなことはない。多くの人の晩年は悲惨だ。老いた人たちに対してこの社会は犯罪的でさえあるのだ、と主張した▼「老いはわれわれ文明全体の挫折を露呈させる。老人の境涯を受諾しうるものとするためには、人間相互のすべての関係を根本的につくり変えねばならない」。現代文明に対する重い警告を残して、ボーボワールは世を去った。 日本撚糸工連事件と汚職の構造 【’86.4.18 朝刊 1頁 (全843字)】  「キツネにつままれたとはこういうことかと思っている」と民社党の横手文雄代議士は語っている。日本撚糸(ねんし)工連から数回にわたって100万円単位の金をもらったという疑いを本人は真っ向から否定している▼しかし東京地検特捜部の調べでは、横手代議士は撚糸工連の幹部に頼まれて、工連に有利な国会質問をした。そのために、質問演説料なるものを受けとったという。国会質問にそんな法外な値がつくこともあるのか、と恐れいるほかはないが、本人が否定しているのをきくと、こちらの方こそキツネにつままれた気になる▼当時の議事録を読むと、横手代議士は「業界の皆さん方にかわって、この業界を救っていかなければならないという立場で(共同廃棄事業の実行を)ご期待申しあげたい」と訴えている。こういう質問の前後に金を受け取ったとすれば、それこそ「未練のキツネ化け損じ」である(未練は、この場合は未熟の意)▼W・M・リースマンの『贈収賄の構造』(奥平康弘訳)にこんな定義がある。「贈収賄とは、権力の役得のひとつであり、権力と富との一般的な交換貨幣である」。排他的支配権の強い政治構造のもとでは、贈賄行為を誘発させる要因が構造化される、ともいっている▼この「権力の役得」が見えにくいのは、ワイロが、多くの場合「政治献金」の名をとっているからだろう。特定業界と政治家との結びつきがしばしば問題になりながらも汚職事件にならないのは、1つには政治献金という隠れみのがあるからだ▼今回はその隠れみのを巧みに使えなかったためか、民社の代議士も「権力の役得」にありついているという疑いがでてきた。「権力の役得」にありついているのは野党ばかりであるはずはない。権力という名のトラの威を借りるキツネたちにだまされぬよう、マユをぬらして見守ろう。伊藤検事総長もいっている。「巨悪を眠らせない」と。 木の名の由来 【’86.4.19 朝刊 1頁 (全855字)】  暦では、あす20日から穀雨に入る。春雨が穀物を育ててくれる季節である。モミジの萌黄(もえぎ)色が目にしみいるようだ。花のガクの紅が点々とまじっているさまが、緑をひきたたせている▼ケヤキは、若芽を染めていたうぐいす色が暖かさに解けて、あざやかな若緑色が現れてきた。東京周辺にケヤキが多いのは、江戸時代、その材が橋げたや船に使われ、その枝がノリのそだに使われたためで、幕府が植栽を奨励したのだという▼なぜケヤキという名が生まれたのか。深津正・小林義雄共著の『木の名の由来』を読むと、この木は木目が美しいし、樹勢そのものが秀でているために「けやけき木」と呼ばれたのがケヤキになった、とある。けやけきには、普通と著しく異なるの意味がある▼ツバキの名については、深津さんは「朝鮮語のTon―baikから転化したもの」という説をとっている。食用や灯油として大切にされたツバキ油は朝鮮半島から渡ってきたらしい。その名も同時に渡来したのではないかという。この方が、厚葉(あつば)木、艶葉(つやば)木が転じてツバキになったという説よりも説得力がある▼この本を読むと、わが国の木の名には国際的なひろがりのあることがわかっておもしろい。たとえばクスノキのことを台湾では多くの種族がラクスと呼ぶ。太古の南方文化渡来の事実とクスノキの分布とを重ねると、クスノキはこの南方語に由来すると考えてもいい、という指摘もあった▼知人にいただいたメグスリノキの苗木を鉢に植えておいた。冬の間は1本の褐色の針金になり、枯れてしまったようにみえたが、みかん色がかった芽が出てきた。木はやはり、やわではなかった。昔、この木の樹皮を煎(せん)じて洗眼に用いたことがメグスリノキの由来だ▼ヒトリシズカの花が、静かな白い炎になって燃えている。静御前の美しさを重ねたこの命名は、花に寄せる日本人の美意識を伝えている。 風見を過ったカザミドリ 【’86.4.20 朝刊 1頁 (全842字)】  昔あるところにカザミドリちう名の男がおったと。近在の衆が「ああたはなにが一番えずかかんた(こわいですか)」ちいうたところが「おらあ、だんごが一番えずか(こわい)」ちいうたげな▼それで、皆がおどすつもりで屋根の風見台の穴からだんごを入れると「だんごゴロリンゴロリンスッテントン」ちね、いくつも落ちていったち。そしたら男は「えずかえずか」と叫びながら、だんごをみんな食べてしもうた▼味をしめた男は今度は「軍拡だんごが一番えずか」ちうたら、村の衆がそれそれちうて軍拡だんごをどっさり穴にいれると「ゴロリンゴロリンスッテントン」ちてね、入っていった▼軍拡だんごを腹いっぱい食べたあと、男は欲張りじゃけんね、風見台の穴を見あげて「解散だんごちうが一番えずか。解散だんごを食うことなんか、考えたこともなか」ちいうたげな。村の衆はそれそれ今度はその解散だんごでおどすんじゃとせっせと穴に入れると、「ゴロリンゴロリンスッテントン」ち、落ちていった▼男が「解散だんごはえずか」ちうたびに、なぜか解散だんご熱が村中にひろがり、人は争って解散だんごや同日選挙だんごを食べだしたげな▼「このだんごには、大義名分の味がなか」ちうて怒りだす長老もおったし「定数是正の味のなか解散だんごなんか許せん」ちう若衆組の頭もおったばってん、このはやりはとめようもなかった▼解散だんご熱が去ったあと、村は妙にしらけて、男がわざと「3選だんごはえずか。おらあ、3選だんごは食いとうなか」ちうたが、だれももう相手にせず「カザミドリは、えずかえずかちうて、ウソばっかりついとる。3選だんごなんかやるもんか」ちうて、うんとこらしめたげな▼3選だんごにありつけず、「菊作り菊みる人はよその人」ちうことになったカザミドリは、くやしい、大事なところで風見を過ったちうて、寝こんでしもうたって。 千鳥ケ淵戦没者墓苑 【’86.4.21 朝刊 1頁 (全853字)】  きのう「千鳥ケ淵戦没者墓苑」をたずねた。クスノキの若芽が春雨にぬれていた。青緑色の屋根の下にある陶棺の前には真新しい白菊や黄菊が供えられていた。戦友たちだろうか。礼拝する一群の人びとがいた▼ここには今、32万3137人の戦没者の遺骨が納められている。身元不明の人、身元がわかっても遺族がわからない人たちの遺骨である。だが、ここでの追悼は、収納遺骨によって象徴される日中戦争以降の全戦没者を悼むためのもの、と政府は考えている▼千鳥ケ淵墓苑は、無名戦没者の墓であるだけではなく、すべての戦没者を悼む国立の施設なのだ。墓苑奉仕会の役員にもそのことを確かめた。その通りです、という答えだった▼先週、自民党の金丸幹事長は中国の呉外相に対して重要な発言をしている。(1)いまの靖国神社のあり方には、疑問がある(2)外国要人が訪問したさい戦争犠牲者を悼む場所があるのが世界の通例だ。首相も靖国神社とは別に、国民の合意の下で戦争犠牲者に感謝をささげる場所がつくれないか考えてほしいと私にいっている、と▼ふしぎなのは、金丸氏が千鳥ケ淵墓苑について一言もふれていないことだ。その性格からいえば、墓苑は米国の国立軍人墓地やフランスの無名戦士の墓に似ている。外国要人が訪問して花を供えてもいい場所である▼現に、この墓苑では政府主催の拝礼式もあるし、キリスト教や仏教の数多くの団体が毎年、式典や法要を行っている▼金丸氏がもし、千鳥ケ淵墓苑以外に新たに「戦没者を悼む場所」をつくりたい、と考えるのなら、その理由を明らかにすべきだろう。原爆や空襲の犠牲者、沖縄戦や旧満州での犠牲者、そしてアジア人の犠牲者を悼むためにより広い場所を、というのであれば、そのことを明らかにして、世論に問うべきではないか▼「宗教・宗派の別なく自由に追悼しうる公的な施設を」という主張は、靖国懇の報告書にもあった。 日本人の労働時間 【’86.4.22 朝刊 1頁 (全856字)】  昭和の初め、日本で最初の「婦人工場監督官補」になったのは、谷野せつさんである。のちに労働省の婦人少年局長になった谷野さんは当時、着物にはかま、ぞうりばきで京浜工業地帯を歩き回ったという▼時には、女子労働者の寄宿舎に泊まりこみ、彼女たちの声をきいた。「私、今日とても起きられないんです」「あらまたそんなこというの、皆が迷惑して成績があげられなくなるじゃないの」「体中だるくってどうしてもだめなのよ、かんにんして下さいな」。すすり泣く少女を、同輩がひきずり起こそうとする姿を目撃したりしている▼その著『婦人工場監督官の記録』には、当時の働く少女たちのうめき声が刻まれている。大正から昭和にかけての女子労働者の労働時間は、1日14、5時間が少なくなかった。休日は月2日が多かった。12時間2交代制の深夜業では、明け方、意識がもうろうとなる。その苦痛を谷野さんは共に働きながら、体験した▼半世紀たった今、事態はずいぶん変わった。労働省の調べでは、こんどのゴールデンウイークで、製造業は平均6日間、非製造業は5日間の休みをとるという。3日以上の連続休暇となる企業が9割にのぼり、中には、9連休、10連休の企業さえある▼けっこうな話ではあるが、日本人の働きすぎについては今なお、国際的な批判が強い。たとえばイギリスの労働組合会議代表は「日本が労働時間を減らして他国の水準に追いつくことが世界の失業克服の道だ」という▼アメリカの労働者の休日数は年間113日ほどだが、これに比べて日本の労働者は10日あまり休日が少ない、という批判もある。かつて日本は国際的な非難をかわすために、女子の深夜業廃止に踏み切ったが、昨今は、「もっと休め」という各国の合唱にこたえて、張り切って休まざるをえなくなった▼この場合は当然、大企業と中小企業の労働時間の格差をいかにちぢめるかが社会的な課題になる。 首都移転 【’86.4.23 朝刊 1頁 (全857字)】  アルゼンチンのアルフォンシン大統領が遷都を考えている。ブエノスアイレスから、不毛の地といわれるパタゴニア地方のビエドマという町に首都を移す計画だ。「次期政権への引き継ぎは新首都で行う」というほどだから相当な意気ごみである▼タンゴの国、バーベキューの国、おしゃれと花が大好きな人がたくさんいる国、『緑の館』を描いたW・H・ハドソンが愛したパンパ(大草原)の海を持つ国。そのアルゼンチンの人びとの気分も、昨今は、フォークランド戦争の敗戦、インフレ、巨額の対外債務などで沈滞ぎみだという。そこに開拓者精神の火をともすのが大統領のねらいだろうか▼「摩天楼のそそり立つ市街ではなく、自然を生かし緑の多い都市にする」といううたい文句もいい。計画次第では、生態系との調和を至上課題にした新しい型の首都が誕生するかもしれない。だが、アルゼンチン人には「われなくして何の世界ぞや」という強烈な自我意識がある。上からの押しつけをきらう風があるという。はたして、国民的合意がえられるかどうか▼隣国ブラジルはかつて、首都をリオデジャネイロから無人の奥地に移転させた。その評価はわかれるが、新首都ブラジリアが、内陸部の開発にはたした役割は否定できない。そのことが1つの刺激にはなっているだろう▼その国を代表する大都市と政治の中枢がわかれている国は少なくない。アメリカ、西独、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、パキスタン。西独のハンブルクやミュンヘンは人口100万を超える大都市だが、首都ボンは30万人の小都市にすぎない。それでも中枢機能が機能している、ということはわが国にとっても教訓的だ▼戦後、巨大都市東京の病理が叫ばれるたびに、首都移転論が浮かんでは消えた。いまは災害対策1つとっても、首都機能の分散を早急に検討する必要があるのではないか。東京に、富士のみえる空を取り戻すためにも。 急激すぎる円高 【’86.4.24 朝刊 1頁 (全852字)】  円高というタコが空高くのぼっている。今までは1ドル=175円を超えたことがなかったのに、先月の中旬にそれをあっさり突破してからは、糸が切れたように舞いあがっている。竹下ノボル蔵相も「円がのぼって人気がさがる」などと冗談をいってはいられなくなった▼自民党の宮沢総務会長が、中曽根首相にかみついた。「円高は日本経済にとって深刻だ。G5(主要5カ国蔵相会議)は各国が協調するということではなかったのか。為替問題の国際協調について、日米首脳会談ではどんな話をしたのか」と▼当然の疑問だろう。河本派からも「米国にだけいい顔をする首相の外交姿勢」について、厳しい批判があった。首相がレーガン大統領に「170円台の円高は行き過ぎ」と訴えたのに対して、大統領は相づちも打たず、ただ聞き置くだけだったと伝えられている。軽くいなされた感じである▼日本の貿易黒字体質を変えるにはある程度の円高ショックが必要だ、という議論はわかる。だが、昨今の円高は急激すぎる。160円台になっても、米国は「まだまだ」という構えを崩していない。このままでは、輸出産業の悲鳴はさらに強まるだろう▼この1年間の日本の総輸出は1826億ドルだ。うちドル建て輸出は924億ドルである。計算上の話ではあるが、1円の円高は924億円の減収を意味する。10円の円高では1兆円近い減収、ということになる▼中小企業庁が55カ所の産地を調べたところ、去年の12月からこの2月までに、円高の影響で6産地の11企業が廃業し、4産地の8企業が倒産している。円が170円になれば21産地で廃業が発生、17産地で倒産が発生、という予測もあった。160円台になれば事態はもっと悪くなる▼円高ダコが高くあがった分の差益をいかに内需拡大に結びつけるか。はやく有効な手を打たないと選挙が不利になる、という別の悲鳴が自民党内にあるという。 マルコス疑惑の真相ぼかし 【’86.4.25 朝刊 1頁 (全857字)】  究明の究には、きわめつくす、の意がある。あらゆる角度から調べつくし、真理や真相を明らかにするのが究明だろう。だが、これがひとたび「テッテイキュウメイ」という政治のことばになると、とたんに、お体裁だけの、いい加減なものになってしまうのはなぜだろう▼マルコス疑惑についての国会審議では、安倍外相をはじめとする政府側の逃げ腰がめだった。その模範答弁には、おおむね3つの型がある▼第1、これこれの問題をどう究明するかと迫られると「それは第一義的には比政府が主体的に究明すべきことであります」と逃げる。日本政府が主体的に究明すべきことはなぜか、極めて少ない▼第2、資料の公開を迫られると「比政府が公表しないものを日本政府が公表する立場にはありません」とつっぱねる。それでは主体的に比政府に公表を要請すればいいのに「こちらから資料提供を求める考えはありません」と極めてひかえめである▼第3、経済援助のあり方については「重大な関心がある。実態を明らかにし、改善すべきは改善してゆかねばと思っておる次第であります」と胸を張る。この3つの型の模範答弁はつまり、総論は真相究明で、各論は真相ぼかし、といっていいだろう▼アキノ政権の内部にも「援助する側の国民に、その使われ方を知る権利があるのは当然」という意見がある▼いま、開発途上国むけの政府開発援助は、一般会計で6000億円を超す巨費だ。その一部がリベートの形で政権に流れ、不正蓄財が行われているとすれば、被援助国の民衆を裏切るだけではなく、日本の納税者をも裏切ることになる。マルコス疑惑は、開発援助について、政府と国民が共にそのありようを考える、またとない機会を与えてくれた▼なぜ、不正蓄財が可能なのか。なぜ、監査機能が十分に働かないのか。そのなぜを問うべき絶好の機会なのに、政府はいかにその場をしのぐかに心を砕いているようにみえる。 税金食いの仕事人たち 【’86.4.26 朝刊 1頁 (全838字)】  一口にやらせといっても、今回のやらせはかなり規模が大きかった。舞台・4年前の衆院商工委員会。主な登場人物・横手代議士、通産省幹部。脚本・日本撚糸(ねんし)工連。演出・稲村代議士。題して「税金食いの仕事人たち」▼舞台で演じた政治家よりも、演じさせた黒幕政治家のほうが「やらせ謝礼」が多かったようで、東京地検特捜部はついに稲村代議士の取り調べにふみきった▼先週、米国から帰った中曽根首相は「日本のマスコミには、熱いものにさわったとき熱い熱いと大さわぎをするような体質がある」といってマスメディアを非難した▼撚糸工連汚職の記事を読んでいると「日本の政治家は、熱いものにさわっても、すぐ熱さを忘れる特異な体質がある」と思わざるをえない。ロッキード事件のときの、みそぎだ、倫理だ、金権体質の打破だ、という自戒の弁はどこへ消えてしまったのだろう▼故大平首相は、航空機疑惑についての対策協議会の提言をうけて、政治資金の透明度を増す改革に熱意を示したことがある。だが、政治資金規正法の改正は、中途半端なものに終わっている▼稲村代議士は最近の選挙では「清潔で公正な政治倫理の確立」を叫んでいる。以前の選挙では、政治家の「道義低下による政治不信」を憂えている。そういう叫びとはうらはらに、撚糸工連との癒着は相当なものだったらしい。作家、石川淳が洞察したように「賢は世の尊ぶところであるとすれば、政治の仕掛はこれを有害として排斥する」という事情は変わりそうもない▼繊維業界の共同廃棄事業では、過剰設備を破壊すればするほどカネが流れてくる。厳しい批判にさらされながらそれが続いてきたのには、政治の力があり、税金食いの仕事人たちの力があった▼そして残念ながら、その事業の一部には、いったん壊したとみせかけて融資金をだましとる「破壊のやらせ」もあったという。 上野動物園の元園長・故古賀忠道さんの生涯 【’86.4.27 朝刊 1頁 (全851字)】  タンチョウヅルは、夫婦仲よく交代で卵を温める。ヒナには、クチバシ移しでエサを食べさせる。ヒナがエサを落とすと、親はそのつど、水で洗ってからやる。2度でも3度でも根気よく繰り返す。そういう動物たちのいきいきとした姿を、上野動物園の元園長、古賀忠道さんは多くの著書で私たちに伝えてくれた▼敗戦後の飢えの時代、「動物を愛護する前に人間を愛護してもらいたい」という声の中で、動物園を復興させるのは、なみたいていではなかった。米軍の残飯を運ぶトラックに頼み、動物園の裏に捨ててもらって、その中の肉類を選び出して肉食獣に食べさせたりした▼すさんだ空気の中で、よく動物がいじめられた。「動物をいじめない人間」を育てるのではなく「動物をいじめられない人間」を育てるにはどうしたらいいか▼子どもがロバやウサギに触り、エサをやり、交流ができる場をつくったらどうだろう、という発想が子ども動物園を生んだ。「動物をいじめられない子は、友だちをいじめようとしない」と古賀さんはいい続けた。子ども動物園は今も続いていて、幼い時にここでヤギと遊んだ親が、子を連れてやってくる▼不忍池に1万羽を超すカモが集まるようにしたのも、功績の1つだ。敗戦後「日本人は残忍だ。だから野鳥も寄りつかないのだ」という非難の声をきいた時、古賀さんは考えた。東京の真ん中でも野生のカモがこんなになれているということを外国の人にみせなければならぬ▼何年もかかったが、10種を超えるカモが渡ってくるようになった。飼育係の人たちの苦労が実り、今は野生のカモもエサを食べる。不忍池を野鳥の聖域にする夢をとなえつつ、古賀さんは去った▼「死んだら香典は遠慮なくいただく。余った金は野生生物保護の運動に寄付する。それが最後のご奉公だ」といっていた。動物たちの右代表のおじさんとして、人間にものをいう姿勢を貫いた生涯だった。 喫煙と健康問題 【’86.4.28 朝刊 1頁 (全850字)】  5月1日からのたばこ値上げをひかえて、愛煙家の心は微妙に揺れているのではあるまいか。1本あたり1円という値上げ幅は我慢できるとしても、家族から「この際、きっぱりやめたら」という声は強いし、職場では同僚が次々と禁煙派に転向している▼たばこが体によくないことは、本人が一番よくわかるはずだ。二日酔いや睡眠不足の朝、歯ブラシを口に入れたときののどを突き上げる吐き気はいやなものだ。だが仕事が一区切りついたとき、あるいは食後にぼんやりしながらふかす一服は、やはり捨てがたいものだろう▼後藤田官房長官と安倍外相は、ゴルフセットをかけて1年間の禁煙に挑戦しているそうだ。双方の夫人が監視役というから、本気になっての挑戦なのだろう。ゴルフセットほど豪華な品物ではなくとも、何かをかけて禁煙したおぼえは、たいていの愛煙家が持っているはずだ▼東京都生活文化局の調査では、愛煙家10人のうち7人は禁煙や節煙を考えているという。3年前の前回値上げでは200万人余りがたばこをやめたと推定されているが、全国禁煙・嫌煙運動連絡協議会は、今回の値上げで1000万人の禁煙者を獲得する、と強気の目標を立てている▼愛煙家にしてみると、追い込まれた状況だけに嫌煙権という言葉にはますますカチンとくるようだ。「人間の嗜好(しこう)を規制しようという考えは、独裁政治に通じる」「嫌煙権があるなら、喫煙権もあるはずだ」といった反発が出てくる▼たしかにこれは1つの理屈だと思う。しかし、愛煙家の側で考えなければいけないのは、自分の喫煙がまわりの人に被害を及ぼしていることだ。とくに、アルミサッシの普及やコンクリートの住宅が多くなって、自分の妻や子どもまで巻き添えにしていることを真剣に考えたい▼厚生省もおそまきながら、公衆衛生審議会に喫煙と健康問題専門委員会をつくって、対策の検討にとりかかった。 ごろ寝 【’86.4.29 朝刊 1頁 (全837字)】  昼寝せんけふも隣のいと車(森鴎外)。休みの日は、鴎外もごろ寝を楽しんだらしい。隣からきこえてくる単調な糸車の音を睡眠薬にしてまどろんだのだろうか▼総理府の調査によると、休日の過ごし方は「何もしないでのんびりする」人が結構多かった。得意とする趣味やスポーツはとくにないし、積極的に身につけたいと思わないという人も、少なくなかった。「何もしないでのんびりする」ことのかなりの時間はごろ寝、ということになるだろう▼ごろ寝こそわが趣味とするものぐさ派にとっては、昨今の情勢は必ずしも有利ではない。へたをすれば粗大ごみ扱いにされかねないし、スキーやゴルフやテニスが流行するご時世にあって「何もしない」姿勢を貫くには勇気がいる。にもかかわらず、ごろ寝三昧(ざんまい)がもてはやされるのは、それが日本人の好みにあっているからではないか▼ごろ寝にはごろ寝のよさがある。わずらわしいきまりがない。ごろりと横になればそれでいい。高価なスポーツ用具がいらない。ざぶとんを二つ折りにしてまくらにすれば、それでいい。遠出の時のごろ寝を別にすれば、原則として金がかからない▼世の中の重荷おろして昼寝かな(正岡子規)。公園の緑の木陰で横になる。山頂のそばの緑の原にまどろんで、地をはう風と草とがたわむれあう声をきく。その時、世の中の重荷はもはや念頭にはない▼夢は創造する、とごろ寝派はいう。鳥居鎮夫さんは「私たちは、夢を見ている過程で、かなり高い水準の精神作業が営まれていることを知っている」と書いている(『行動としての睡眠』)。イタリアの作曲家タルティーニは、夢の中できいた悪魔の演奏をもとにして、バイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」を作ったという▼なにはともあれ、連休はごろ寝の季節でもある。たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時(橘曙覧) 4月のことば抄録 【’86.4.30 朝刊 1頁 (全862字)】  4月のことば抄録▼「男性も女性に負けないようがんばって下さい」と東京ソワールの児島絹子社長が入社式で。1日から男女雇用機会均等法が施行された▼「自民党代議士の使い走りのような屈辱的なことは断じてしていない」。撚糸工連(ねんしこうれん)事件で取り調べられた民社党の横手代議士。「私は質問の仲介をするほど落ちぶれてはいない」とやはり取り調べられた自民党の稲村代議士。こういうのをツッパリッコという▼「再びこうしたことが起こらないよう深く反省し、戒めていきたい」と中曽根首相。きまり文句の自戒の弁がなんともしらじらしい。いつかの朝日せんりゅうに「陳謝する顔は陳謝をしておらず」(山田幽泉)▼歌手、岡田有希子さんの自殺の後、10代の自殺があいついだ。「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」とテレビ朝日ニュースステーションの久米宏さん。北極点踏破に挑んだ女優、和泉雅子さんが呼びかけた。「あなたの『北極点』を持って!」▼「野鳥も豊かだし、すばらしい島で、村民感情からすれば飛行場に反対する気持ちも理解できる」と三宅島を訪れた環境庁の小杉政務次官。これが良識というものだろうが、森長官はこの良識に「注意」を求めた▼「賞金の一部を自分を応援してくれた人たち、車いすの人たちのために使いたい」。ロンドン・マラソンで賞金約5万ドルを得た瀬古利彦選手▼「あ、きちゃった」。映画『乱』の衣装デザインでアカデミー賞をとったワダエミさん。名前を呼ばれた瞬間にそういったとか▼ニュージーランド労働党の動きを視察した社会党の石橋委員長が「生活に密着した具体的議論ばかりで観念論は1つもない」と舌をまいた。生活に密着しない抽象的議論ばかりでは、観客もあきあきする▼天皇在位60年の式典。天皇のお言葉に。「先の戦争による国民の犠牲を思うとき、なお胸が痛み、改めて平和の尊さを痛感します」 ソ連の原発事故 【’86.5.1 朝刊 1頁 (全842字)】  アメリカの偵察衛星は、ソ連の原発事故のありさまを撮影していたという。専門家にとっては驚くほどのことではないだろうが、はるか空のかなたから原発の建物の屋根が吹き飛んでいるさまをうつしだすのだから、その情報収集力はやはり相当なものだ▼事故のあった原発はロシア型炉で、アメリカや日本の原発の型とは違う。それは、黒鉛でつくられた巨大な練炭のようなものだという。練炭の穴には燃料棒(ウラン)がさしこまれ、そのまわりを水が流れている。水はウランの核分裂で発生する熱を運びだして蒸気になり、その蒸気がタービンをまわして発電を行う▼練炭の穴の一つ一つに小さな原子炉がおさまっており、それがいくつも組みあわさって巨大な炉を構成している▼なんらかの事故で水の循環が不足し、過熱状態が起こって炉が溶けたのか。なんらかの爆発が起こって、建物の屋根が飛び、放射性物質が上空にふきあげられたのか。原因はまだわからないが、安全装置というものは、二重三重になっていてもどこかスキがあり、そのスキをついて事故は噴出するのだ▼アメリカでスリーマイル島の原発事故があった時、大統領特別委は次のような報告書をだした。「事故の再発を防ぐには、原発の建設や運転に関する組織や規制、とりわけ原発についての関係者の認識を抜本的に変えなければならない」と。ソ連の事故が起こったいま、地球上の原発関係者は再び、このことばをかみしめるべきだろう▼小出昭一郎東大教授は本紙で「巨大技術は必ずどこかしら欠陥がある」「巨大技術には批判がないといけない」と強調しているが、その通りだと思う。ソ連の場合、部外者の批判がはたしてどのていどあったのか▼ソ連政府はこの不幸な事故の全容を詳細に公表すべきだろう。放射能汚染で各国に迷惑をかける以上、それは当然のことだし、公開の精神こそが事故抑止のきめてになる。 日航機事故遺族たちの声 【’86.5.2 朝刊 1頁 (全853字)】  日航ジャンボ機事故の犠牲者の遺族たちでつくっている「8・12連絡会」が「おすたか」という広報誌を出している。むろん、群馬県の御巣鷹山から名付けられたものだ。部数およそ600。最近、第3号が出た▼編集スタッフは、あの機中で「幸せな人生だった」と手帳に書き残した商船会社支店長の長女や新婚半年の妻を失った青年たちである。悲しみや悔しさを共有しながら、支え合って生きている遺族たちの姿をみると、改めてあの事故がとてつもないものであったことを思い知らされる▼「日航のおじさん、天国に電話をつけてください」と横浜の少年の声が紹介されている。「お父さんが朝ごはんをつくってくれたり、洗濯をします。いつも疲れているようです」と書いた小学3年生の母は、娘を亡くして事故後に自殺した。「2月、無事男の子を出産しました。主人の生まれ変わりです」(大阪 MK)▼20年前の全日空機事故で夫を失った女性がこんな励ましの言葉を寄せている。「まず友人をつくること。そして暇をつくらないこと。太陽の光はみな平等、きっと幸せは訪れると信じること。甘えないこと。お母さんたち、がんばってね」▼連絡会としては、当初、補償問題にはふれない積もりだった。でも、取り上げないわけにはいかなくなりました、と事務局長の美谷島邦子さんはいう。時がたち、重くのしかかる生活苦。示談にした主婦の「もう生活さえできたらという気になりました。日航からもらった150万円では葬式代にもなりませんでした」という便りは、残された者の苦しい立場を伝えている▼会の名に、「遺族」の2文字がないのは、「悲しみに打ちひしがれた姿」を期待され、下を向きながら生きていくことに終止符を打つためだという。「しっかり前を向いて、なぜ最愛の人が死なねばならなかったかを世に問いたい」。その声に日航も事故調査委員会も誠実に答えてほしいと思う。 近藤綸二さんと言論の自由 【’86.5.3 朝刊 1頁 (全843字)】  「権力者の思い上った行為を抑止する唯一の道は、国民が表現の自由や言論の自由を最大限に保ち、常に権力者の行動を批判する自由をもつことであって、これが大きな悲劇を生ませない唯一の方法である」。この一文を書いた故近藤綸二さんは東京家裁や東京高裁の長官を歴任した人である▼こんど出版された『自由人近藤綸二』(内藤頼博・川島武宜編著)を読むと、大正デモクラシーの中で育ち、パリで学んだこの人の自由主義の精神が、遠い夏の日のようにキラキラと光ってみえる。ということはつまり、世の中の流れがそれだけ変わってきたためだろうか▼近藤さんは、アメリカ旅行のあとで書いている。一番深い感銘を受けたのは、摩天楼でもラジオシティホールでもなかった。アメリカでは言論の自由が人間の統制ある社会としては最高度に許されていたということである、と▼日本の現状には批判的だった。言論の自由が、自由の乱用の名で抑制されてはならない、公共の福祉の名で抑制されてはならない、と説き続けた▼4月、厚木基地の航空機騒音訴訟で、東京高裁は「公共性が高ければ受忍限度も高くなる。この騒音被害は受忍限度」といって住民を突き放した。「人権の府としての司法の政治行政に対する優位」を主張していた近藤さんが存命中なら、この判決をどう論評しただろうか▼広島高裁の長官時代、戦時中の軍部が毒ガスをつくっていた大久野島のそばを通り、初めて歴史の裏面を知った。国家機密の名で行われるこのような悲劇を防ぐには、どうしたらいいのか。権力者の行動を批判する自由が抑止の役割をはたす、と近藤さんは考えていた。このリベラリストが健在なら、昨今の国家秘密法の動きをどう論評しただろうか▼きょうは憲法記念日。近藤さんにはこんな言葉もある。「若い裁判官たちの新鮮なセンスと憲法感覚を失わせないような空気が何よりも大切です」 雨水とのつきあい方 【’86.5.4 朝刊 1頁 (全863字)】  東京の世田谷に住む高橋裕東大教授(河川工学)の一家は、雨水とのつきあい方に工夫をこらしている。約200平方メートルの屋根に降る雨の半分は貯水槽にためられ、トイレの用水に使われている。半分は雨どいから庭に埋められた多孔管に流れ、地下水になる。高橋家の屋根に降った雨は、むだなく活用されている▼水道代の節約にはなるが、設備費が高くてなかなか元はとれないそうだ。しかし、この問題は行政に頼ってばかりはいられない。一人ひとりがやるべきことをやること、というのが高橋さんの考え方だ。みなが雨水を大切にすれば、ダムを新設する必要がなくなるし、防災のための社会的費用も安くなる。結果として住民の負担が軽くなり、生態系も維持されることになる▼屋根の雨を雑用水に使う話はこれまでにもたびたび書いた。おもしろいと思ったのは、屋根の水の半分を側溝に流さず、地中にしみこませて地下水にしている点だ▼先日、並木の苗を育てている都立武蔵野公園をたずねたら、新しく「地下ダム」ができていることに気づいた。園内の5.5ヘクタールの土地を30センチほどの高さの土手などで囲み、その中に降った雨を透水ますで地下にためる仕組みである。たまった雨水の一部は調節されながら川へ流れ、あとはじわじわと地下にしみこむ▼この小さな地下ダムは2つの役割をはたしている。1つは、大雨の時に水が一気に近くの川に流れこむのを抑えること、1つは地下水を蓄えることだ。都建設局の話では、3年前からこういう公園をふやしているという。いい仕事だ▼「地下水の流れを無視した水とのつきあいは、友だちとしての水を敵にまわすことになる」と半谷高久さんは書いている(『地球・水・思う』)。たとえば地下水の過剰なくみあげによる地盤沈下がある。生態系の破壊がある。そして地下水の赤字はふえつつある。地下水の黒字はどんなにふえても、どこからも文句はこないのに。 権力者と過激派の政治ショー 【’86.5.5 朝刊 1頁 (全838字)】  「サミットとかけて、見晴らしのいい頂上ととく。心は、景観(警官)に目を奪われる」とだじゃれを飛ばす人がいた。「サミットとかけていつも修理している道路ととく。心は、税金を食う」という人もいた▼こんどのサミット用に政府が組んだ予算は167億円にもなる。7年前に東京で開かれたサミットに比べて、ざっと10倍である。警視庁だけではなく、全国から集まった警官が1日3万人体制で警備にあたっている。だが、それほどの警備でも、新宿区から港区へ、迎賓館をめがけて発射された凶弾をくいとめることはできなかった。射程がより正確だったら、どういう事態になっていただろう▼西側の首脳が政治ショーとしてのサミットの権威を高めようとすればするほど、テロリストや過激派はそれを宣伝の場に利用し、破壊行為を行うことで別個の政治ショーをもくろむ。その過激派に備えて警備はますます厳重になり、警備が厳重になれば過激派はさらに新手を考える▼サミットは、警備が過剰にならざるをえない構造をかかえているのだろうか。地球上の何人かの首脳が一堂に会するのに、これほど厳重な安全対策をとらねばならないということ、しかもその安全対策に完全はないということ、サミットがテロの恐ろしさを宣伝する場になってしまうこと、現代文明の最大の皮肉の1つがここにある▼7年前のサミットでは、米国の大統領や駐日大使から「ものものしい警備で市民との交流が難しい。民衆との接触をもっと自由に」という異例の要望があった▼せっかく日本を訪れた各国の首脳には、自由に市民に会い、話をかわしてもらいたいし、日本人の生活にじかにふれてもらいたいと思う。そこにはサミットのなにがしかの効用があるだろう。だが、残念ながら権力者の政治ショーと過激派の政治ショーのぶつかりあいの中で続くサミットには、民衆の姿はみえない。 ボランティア刑と「献身」 【’86.5.6 朝刊 1頁 (全840字)】  デンマークでは犯罪者に対して刑務所のかわりに社会奉仕を科す場合がある、という外電を読んだ。たとえば詐欺と盗みの常習犯であるポールは、週2回、1年間にわたって老人ホームで働け、という判決を受けた▼福祉についての情報をたんねんに集め、手づくりの機関紙を発行している埼玉県の木原孝久さんによると、こうしたボランティア刑は、ほかの国でも行われている。有名な音楽グループのメンバーが麻薬を所持していたために法廷に立った。裁判官は、目の不自由な人たちを招いて無料コンサートを開けという判決を下した▼だれにも、他人のために献身したいという欲求がある。その欲求が満たされたとき、人格は高められる。ボランティア刑には、こんな思想がある。そして人に献身の機会を与えよう、という考えは教育の場にも生かされている▼英国のある学校では、体育の時間、生徒に目隠しをさせて盲人のためのゲームを考案させた。さらに同じやり方で、いろいろなハンディキャップを負った人たちのためのゲームも考えさせ、ついに、身障者が楽しめるゲームの本を発行した▼「私は耳が聴こえません。私のために目覚まし時計を作って下さい」という新聞の投書にこたえて、英国のある先生は生徒に新型時計を発明するようにいった。とうとう1人の子が成功した。この小エジソンは、ヘアドライヤーと目覚まし時計を組みあわせ、セットした時間がくると温かい風が眠っている人の顔に吹くようにしたのである▼外国の医学部教授のなかには「地域奉仕活動をした者から医者の卵を選びたい」という人もいる。他人の痛みを知る、という医師としての最も大切なものが献身によって培われるという意見だ▼日本では、ボランティアの社会的評価が定まっていない。ボランティア歴が「歴」になっていない。入社、入試の採点に、この「歴」が加算されて良いはずである。 東京サミット閉幕 【’86.5.7 朝刊 1頁 (全854字)】  今回の首脳会議はとくに「肉声なきサミット」の感があった。野球場での、試合前の記念撮影だけは連日、きわめてにぎやかだったが、観客は球場に入れず、試合のなまなましい内容が一向に伝わってこない、というもどかしさがあった▼そういう中では、英国のサッチャー首相が「テロを恐れていないことを示すため、明日は皆で外を歩きましょう」といったという話、米国のシュルツ国務長官がそのサッチャーさんを評して「すごい指導者だ」とたたえた話などが、わずかに肉声を感じさせた。サッチャー流の強硬な反リビア発言がシュルツさんを有頂天にさせたらしい▼議長役の中曽根首相には心労が多かったことだろう。それは察するが、それにしても、交渉者としての中曽根さんがこんなにも受け身で慎み深い人だとは知らなかった▼今回のサミットには、テロの影と円高の影がからんでいた。国際テロの問題では譲歩し、円高問題では相手のなにがしかの譲歩を期待する、という作戦だったのかどうか▼首相はまず米軍のリビア爆撃に「同情の念」を示したが、レーガン大統領を有頂天にさせるわけにはいかなかった。さらに声明では、リビアを名指しで非難することに同調した。中立的立場を守る日本の中東政策に変更があった、と中東諸国にうけとられても仕方がない譲歩である▼状況が違うから単純には比べられないが、6年前、当時の大平首相に中曽根さんは進言した。「イラン問題で、米国が軍事行動をとらないようにするためにも日本は全力をあげるべきだ」と。この中東寄りの姿勢はどこへ行ってしまったのだろう▼そして首相は、円高問題で得点をあげることに失敗した。レーガンさんの「円高は大局的には貿易不均衡の調整に役立つ」という立場を崩すことができなかった。サミット最終日、円が急騰し、東京市場で165円台になったことは象徴的だった。同情すれど関与せず、が西洋流の交渉術か。 定数是正問題用語「永田町辞典」 【’86.5.8 朝刊 1頁 (全852字)】  衆院の定数是正問題をめぐる用語を、永田町辞典で調べてみた▼《周知期間》本来は羞恥(しゅうち)期間と書く。定数是正ができない期間中は恥ずかしくて解散なんかできない、の意。野党はこの期間を長くして解散を防ぐ作戦にでており、いつか周知期間と書くようになった▼《最大限・速やかに》定数是正には最大限の努力をする・速やかに成立を期すというように、それぞれ、努力・成立にかかるまくら言葉。中曽根首相や坂田衆院議長が愛用する言葉の遊びで、実体はない▼《焦眉(しょうび)の急》これも、定数是正をめぐる首相の愛用語。まゆをこがすほどの火がすぐそばに近づいているのに、一向に火を消そうとせず、己のマユが火に強いことを誇る時の表現か▼《9増7減》行政改革のおりから議員の定数増はしない、という舌の根の乾かぬうちに定数増をいいだすのははばかられる。そんな時は間違っても定数2増案といわず、9増7減案とぼかすのが政界の知恵(ちなみに77増77減案という民間の案もある。これで初めて1票の格差は1.5倍内になる。9増9減、9増7減がいかにその場しのぎのものであることか)▼《是正なし解散》中曽根派のお気に入りの作戦。定数是正なし解散に賛成する自民党代議士は27%、そのうち中曽根派だけが66%と突出している(最高裁判決には「定数を是正しないままの総選挙には無効宣告もありうる」という補足意見があった。最高裁の違憲判決からもう10カ月、これほど憲法無視を続けながら、解散権の時は憲法を持ち出すところがいかにも永田町的)▼《抜本的改正》実現するはずのない夢をもっともらしくいう時の詐術的表現▼《時の氏神》本来は「ちょうどいい時機に仲裁をしてくれるありがたい人」の意。衆院の氏神は「こんがらがった事態の仲裁をむりやり押しつけられるありがたくない役割」のこと。さて、坂田議長の調停はどうなるか。 若い人の変なしゃべり方 【’86.5.9 朝刊 1頁 (全834字)】  連休中、家でゴロゴロしながらテレビのほうを眺めている時間が、結構あったのですけれども、そうすると、若いリポーターとか司会者とかのしゃべり方で、どうも気になることがあったのですけれども▼言葉も生きもので、時代とともに変わるのは当然ですけれども、やはり気になるのは事実なので、ちょっと言わさせていただくのですけれども▼「では、歌のほうをお願いします」「クイズの問題のほうへ参ります」「さて、答えのほうは?」とやたらに「ほう」を付けるいい回しが耳についたのですけれども、慣れないものでついイライラしてきて、「フクロウじゃあるまいし、そうホーホーいいなさんな」なんて、つぶやいたりしたんですけれどもね▼それから、この「けれども」で、えんえんとつながっていくしゃべり方のほうが、また聞いていて疲れたんですけれども、確かに「けれども」という接続詞には、単純に前後の句を結ぶ機能もあるけれども、ふつうは「けれども」で切れると、次には前にいったことと逆の意味のことをいう場合が多いんですけれども▼だから、「けれども」のあとには「しかし本当はこうなのです」といった言葉が続くのを待っているのですけれども、肩すかしばかり食わされる感じでくたびれてしまうんですけれども▼察するに若い人の語感では「歌をお願いします」というより「歌のほう」、「です」といい切るより「けれども」と語尾をぼかすほうが柔らかい。そんな気分があるのかもしれないとも思うのですけれども、そうすると、歌うほうが「歌わせていただきます」といえばいいところを、「歌わさせていただきます」というのに共通した、いまの若い人たちの一種の「優しさ」の表れかな、とも考えるのですけれども▼こうやって字で書かさせてもらうと、やっぱり変だと感じてもらえるのではないか、とも思うのですけれどもね。 台湾人と日本人 【’86.5.10 朝刊 1頁 (全851字)】  台湾人、張良澤さんが、台湾の古い資料収集に精力を費やしている目的の1つは、自分自身の源をさぐるためらしい▼1939年(昭和14年)に生まれた張さんの幼年時代は「清河良澤」であり「よし坊」だった。日本人学校に通い、みそ汁をのみ、畳の上で暮らした。台湾語をしゃべると教師に殴られる時代だった。両親も皇民化運動の中で日本式に改姓し、日本語を常用する「国語家庭」の指定を受けていた▼日本人として育てられた張さんは、敗戦後、台湾の言葉がわからず、仲間はずれにされたという。日本人とは何か。台湾人とは何か。国家とは何か。それを問いながら、台湾の郷土資料を集めはじめた。集めて20年、資料は段ボール箱500個分を超す。時にはゴミ集積所まで行って紙くずの山をあさったりした▼滞日中の張さんは、その一部を『写真集FORMOSA・台湾原住民の風俗』という日本文の本にまとめた(上野恵司さんと共編)。異種族の生首を前にして酒盛りをする首狩り風俗の古い写真もある。女性に入れ墨をする時の写真もある▼だが、この写真集の真価は、古い時代の台湾人の暮らしぶりが素直に描かれていることだろう。それは、ひと昔前の私たちの生活とさして変わらない。女はアワをつき、織物を織り、笛を吹き、男たちは猟をし、舟をこぎ、酒盛りをする。「寝られぬ夜はあの子を思う/ゆうべ見たゆめまたあの子」という古代の恋歌も紹介されている▼日本政府は明治のころ、よく台湾人を観光に招いた。だが「蕃衣ヲ着シテ東京ヲ歩クハ風俗ヲ害ス」という見下した態度をとっていたことも、この本の記録でわかる▼そして太平洋戦争では「皇民化」の名で住民を戦にまきこんだ。強制徴用で旧日本軍人・軍属にされた台湾人は約21万人といわれる。戦没者は3万人を超える。他民族支配の悲劇の重みが、張さんを郷土文化の資料収集にかりたてているのかもしれない。 母の日…八杉泰子さんの記録 【’86.5.11 朝刊 1頁 (全854字)】  ひとりの母の記録がある▼「わが生くる世に神のゐてあたらしきこのみどり子の生を授くる」。長女満利子さん誕生の時の歌だ。開戦の年には、次女佑利子さんが生まれた▼翌々年は長男貞雄さんの誕生である。「たたかひは日毎はげしく母われは幼き命を守り通さん」。晴れ着を売って、かろうじて子どもたちの食糧を確保する、といった日々が続いた▼長女は小学校時代、算数の成績が悪かった。母は、先生から注意されたこともある。だが、家に帰ってもそのことは一切いわなかった。長女は数字で遊ぶことが好きだった。数字の世界で自分が想像もつかないようなことを考えているのだ、と信じていた▼母は、3人の子によく本を読んできかせた。寝る前の1時間は必ず、絵本で遊び、おとぎばなしをきかせた。「爆弾の近くに落ちたる夜を寝ねず3人の子を抱き朝明けにけり」。そんな夜もあった▼母はまた、お父さんは立派だ、と子のはだにしみこませるようにして教えた。「粗衣なるはひとときのこと教養は身につくものと夫のさとせる」。その夫の教えを、子にも伝えた。子どもたちは机に向かう父の背をみて育った▼「母」とは、科学史の研究者として知られる八杉竜一さんの妻、泰子さんである。算数の成績が悪かった長女は数学基礎論を専攻する学者になり、その独創的な研究が認められて、去年、猿橋賞を受けた▼母の「お話」に目を輝かせていた次女は、児童文学者の「百々佑利子」になり、長男はいま東大理学部の専任講師である。「あれをしなさい、これをしなさいと母にいわれた記憶がないんです。なにか失敗すると、失敗した分だけ賢くなったのよといってくれました」と佑利子さんはいう▼夫、竜一さんの歌に。「いとしみつ妻の育てしわが庭の紅葉の苗はみな根づきたり」。世の多くの母親がそうであるように、泰子さんは真心をもって、3本の苗をしかと育て、根づかせた。きょうは母の日。 英皇太子のユーモア感覚 【’86.5.13 朝刊 1頁 (全852字)】  チャールズ皇太子の国会での演説は、『福翁自伝』を引用した格調の高いものだった。皇太子はさらに「徳仁親王殿下がオックスフォード大学を留学先に選ばれたことは英国人にとっては大きな名誉でした」といってから、つけ加えた。「もっとも、ご留学先の選定で、もし私の意見を求められたら、多分私の母校ケンブリッジをお薦めしていたでしょう」▼皇太子のユーモア感覚については定評がある。大相撲見物のあと、日英協会のレセプションに出席し、握手攻めでもみくちゃにされた。「今日は相撲を見て来ましたが、ここでは相撲をとることになりました」▼さらに。「私が16年前、大阪の万博に来た時、在日英国人は約3000人でしたが、今は約7000人です。まだふえ続け、日本の人口爆発に貢献していることをうれしく思います。在英日本人は約2万人でなおふえつつあるので、まあ、フェアな関係です」▼この笑いには、貿易不均衡についての皮肉もある。乾杯の時、「温かいもてなしをありがとうございます」といったが、手にする酒がない。即座に「でも、もてなしがきませんね」▼皇太子は学生時代、軽演劇で喜劇を演じたそうだ。道化になって人を笑わせることを楽しみにした。王子誕生の時、記者団の質問が飛んだ。父親似ですか。ほおに口紅の跡をつけたまま病院からでてきた皇太子は答えた。「いや、幸運にもそうじゃありません」(フィッシャー夫妻著『チャールズ&ダイアナ』)▼皇太子は訪日前「日本の人びとに妻を紹介するのを楽しみにしています」と語っていたが、皇太子が紹介してくれたのは、ダイアナ妃の優美さとファッションだけではなく、英国流のユーモア感覚だった▼このユーモアを「人間のすることを、自ら憐れみ、笑い、人間をいつくしむことを知っている」ものの笑いだ、と故福原麟太郎さんは書いている。こればかりは、ちょっとやそっとでは輸入できない。 ノルウェーの女性閣僚 【’86.5.14 朝刊 1頁 (全854字)】  北欧の国ノルウェーの労働党内閣に、8人の女性閣僚が誕生した。首相のブルントラントさんをはじめとして法相、農業相、厚生・福祉相、消費・行政相、教会・教育相、開発援助相、環境相の8人である。2人や3人の閣僚ならさして驚くこともないが、閣僚18人中8人、というのはすごい▼ノルウェーで思いだすのは、月並みな連想だが、イプセンの『人形の家』である。ノラは、自分はあなたの人形だったと夫にいい、「わたしは何よりもまず人間です」といって家を去る▼この作品が1879年に発表されたころは賛否の論が渦巻き、夜会の招待状に「ノラの話はしないでくれ」と書くものもあったという。約100年後の今、ノルウェーの現代のノラたちは、はなばなしく政界に進出している。昨秋の国会議員選挙では54人の女性が当選し、議員さんの3人に1人は女性になった▼この国の女性参政権運動の歴史は古い。1885年(明治18年)には女性参政権協会が生まれ、1913年には早くも完全な女性参政権が実現している▼女性の国会議員の数が多い国にはスウェーデン、デンマーク、ノルウェー、オランダ、オーストラリアなどがある。とりわけ北欧諸国が先進的だ▼デンマーク大使だった高橋展子さんがこんな話を『デンマーク日記』に書いている。デンマークの首相が「訪日は8月にしたい」という。「8月は暑すぎる」と時期をずらすことをすすめると、首相は答えた。「それはできません。ワイフの学校の夏休みの時でないと一緒に行けませんから」。首相夫人は学校の教師だった▼「1国の総理大臣の外遊日程の決め手が、夫人の職業上の日程、という発想はやっぱり斬新(ざんしん)」と高橋さんはおもしろそうに書いている▼ノルウェーの女性宰相は労働党員だが、夫は保守党員で、子どもも4人のうち2人が保守党員だという。この話も、日本的政治風土からみればかなり斬新ではある。 ロッキード事件・佐藤被告の有罪判決 【’86.5.15 朝刊 1頁 (全858字)】  ロッキード事件の佐藤孝行被告に対する1審判決の時は、傍聴席をとろうとして約500人が列を作った。4年前のことだ。今回の2審判決では並んだ人がわずか32人だった▼400人分の整理券を作り、抽選の準備をしていた裁判所は拍子抜けだったという。この4年間でロッキード事件に対する熱はさめきってしまったのだろうか。リンリは遠くなりにけり、であるのか▼東京高裁は佐藤被告の有罪を再び認めた。その内容はかなり厳しい。「国政にたずさわる公務員の廉潔性に対する国民の信頼を著しく傷つけた」といい「己が潔白であるとして国会議員の地位に執着している」とさえいっている▼廉潔性とはむろん、わいろを拒むことだ。同時に「己の行為を厳しくみつめ、過ちを認めること」をもさすのだろう。わいろを受けとりながら、私は潔白だと全面否定を続けるとすれば、それは二重に廉潔性を裏切ることになる▼判決のあとも佐藤被告は「(今後の政治活動への影響は)いささかもない」といっている。この強腰はどこからくるのだろう。強い怒りが有権者からうせつつある、と見抜いているからだろうか▼事件が起こる。有罪の判決がある。しかし議員は責任をとらず、選挙で勝てばみそぎは終わったと称する。大平首相時代の「航空機疑惑問題防止対策協議会」が貴重な提言をしたあとも、事態はさして変わらない。こういう状態が続くと人びとの熱もさめ、あきらめが深まる。だが、だからといってロッキード事件を忘れ去っていいのか▼政治学者の高畠通敏さんが書いている。「政治の腐敗を正し、暴力や金権の横行を防ぐのも、また民衆の努力をふくめた意味での政治でしかないのだ」。私たちは残念ながら、そういう努力の積み重ねや知恵の結晶として誇るものを見いだしていない、と▼かくて「権力によどみまつはるどろどろの膿の如きもの払へど尽きず」(井出一太郎元官房長官)の状態が続いている。 新緑の季節 【’86.5.16 朝刊 1頁 (全872字)】  きのうは、東京の緑が1年のうちでいちばん美しくみえた日ではなかったろうか。前夜の雨で葉の汚れが洗い流されたためだろう。クスノキやケヤキの葉が透明な感じで風に光っていた▼激しい雨で、庭の巣箱の中が水びたしになったのではないかと案じていたが、朝になると、えさを運ぶシジュウカラの姿がみえた。やせ細って、羽が乱れたままの親鳥は、それこそ一心不乱、という様子でエサを運ぶ。どこからか波を描きながらまっしぐらに飛んできて、巣箱の前の小枝にピタリと止まる。すばやく周囲を見回してから穴に入る▼いちどキジバトが巣箱のそばに止まった。シジュウカラの親鳥はやや離れた木のてっぺんに飛んで行ってけたたましく鳴いた。あれは、巣箱から注意をそらすための動作だったのだろうか▼新緑の季節になると、心の中で知っている限りの緑の色名をあげてみる。若苗色、若草色、草色、柳葉色、こけ色、青竹色、若竹色、常盤緑(ときわみどり)、松葉色、裏葉色、ねこやなぎ色、とくさ色、千歳緑。みな、植物に関係のある色名だ▼ということはつまり、木の緑、草の緑が先人たちの生活にとけこんでいた証拠だろう。その万緑の中を歩く。サンゴジュの若緑は、南の島の深いラグーンの緑を思わせるし、ハンテンボクの緑は、軽やかで明るい▼NHK放送世論調査所が調べた「日本人の好きな色」によると、(1)白(2)空色(3)赤(4)黒(5)ベージュ(6)紺(7)緑(8)青の順で、緑は第7位だ。だが、緑はふしぎな色で、男女とも50代をすぎると緑派がふえる。とくに男性の50代以上では第2位に躍進する。緑のもつ安らぎ感のせいだろうか▼数日前、奥多摩の山を歩いた。曇りがちの日だったが、一瞬、新緑の世界に光がさしこむことがあった。「日がひかりはじめたとき/森のなかをみていたらば/森の中に祭のように人をすいよせるものをかんじた」(八木重吉)。森にはそういうふしぎな力がある。 長嶺ヤス子さんと愛犬ピピ 【’86.5.17 朝刊 1頁 (全857字)】  本紙にこんな死亡広告があった。「生涯の伴侶(はんりょ)だった愛犬ピピが5月10日永眠しました。生前のご厚誼に感謝を申し上げます」。末尾に舞踊家の長嶺ヤス子さんの名があった▼ピピには「おしっこ」の意味がある。体重3キロ、ミニチュアピンシェルの小型犬だ。愛犬と一緒だった歳月はざっと17年である。劇場にも抱いて連れて行った。公演中、ピピは楽屋や舞台のそでにいた。舞台にかけこんで、客席の爆笑を誘うこともあった▼長嶺さんはピピと共にスペインを5回たずねている。ホセ・ミゲルと暮らしていたころも「一番の伴侶はピピ」と公言していた。東京では、居所が定まらない時代が長く、従ってどこへ行くのにも愛犬と一緒だった。公演の切符をさばくため、真夜中、共にナイトクラブを回ったこともある▼「ピピとは苦労を共にしました。死にたい気持ちになってもピピのことを思うと先に死ねない。彼は私の支えでした」。スペインの小劇場で踊る時、愛犬は客席の机に座ってがまん強く待った。終わると後足で立ち前足を振って甘えた。拍手をしている、と客はとった▼老衰が進んだある日、うるんだ泣きそうな目で「すごく真剣に顔をなめた」ことがある。あれが意識のある間の最後の目だったという話をきいた時、筆者は詩人、犬塚尭さんの一文を思いだした▼季刊『手紙』という風変わりな小冊子には、毎号〈人間以外にあてた手紙〉が収録されている。犬塚さんは、車にひかれた野良犬コロへの手紙で、その臨終の様子を描いている▼「お前はふるえながら僕や娘をじっと見上げ、あきらかに助けてくれと訴えているのだった。その眼の色の深さに僕は驚いた。奥深いところで消えようとしている生命はまだ燃えようとしてたたかっていた。……瞳は悲しくうるみ、星のような十文字の光を帯びていた。僕はそこにいのちの栄光をみた」。ピピの最後の目も、このようなものであったろうか。 円高と日本の防衛費 【’86.5.18 朝刊 1頁 (全861字)】  円高の波紋の1つだろう。ドルで換算すると、日本の防衛費は列強なみにふくらむ。いや、列強なみどころか、英、西独、仏を抜いて西側第2位になる、と社会党の石橋委員長がいっている▼防衛庁は(1)軍人恩給費などを加えるさいの基準が違う(2)各国の防衛費の数字が古い、と批判している。防衛庁の言い分を考慮した上で、独自に計算をしてみた▼結論はこうだ。最近の対ドルレートで86年度の各国防衛予算を計算すると、(1)英国約292億ドル(2)西独約278億ドル(3)フランス約274億ドル、となる。むろんこれには軍人恩給費が含まれている。わが国の場合もこれを含め、1ドル165円で計算すると、約245億ドルになる▼各国を追い抜くところまではいかないが、その差はもはやあまりない。英、西独、仏を、列強あるいは軍事大国だとすれば、日本は現在すでに列強・軍事大国に肉薄する存在だ、といっていいだろう▼これからはどうなるか。中期防衛力整備計画を進めるには、実質5.4%ずつの伸びが必要だ。おおざっぱな計算だが、90年度(昭和65年度)の防衛費は約300億ドル近くになる。英、西独、仏の防衛費は横ばいの可能性が大きいから、日本は近い将来、3国を追い抜くことになるだろう▼西側列強を追い抜く勢いで防衛費をふやしながら、どうして「外国からみて非常に低い水準」(中曽根首相)といい切ることができるのか。日本の海上自衛隊は、原潜と空母がない点を除けば世界で一流、といわれている。護衛艦の数はいずれは英国海軍をしのぐことになりそうだし、わが国の対潜哨戒能力は他国に例のない高密度なものになりつつある▼「軍事大国になっては困る」「軍事大国になるはずはない」という議論の中で、私たちは軍事大国がはるかかなたのものと想定してはいなかったか。急激な円高は、軍事大国の実像が実はすぐ目の前にあることを、くしくも教えてくれた。 中国残留婦人 【’86.5.19 朝刊 1頁 (全851字)】  孤児たちが話題を集めている一方で、意外に忘れられているのが中国残留婦人たちの存在だ。数千人はいるといわれるがはっきりしない。この夏、そんな婦人たち十数人を日本に招く運動を進めている若者たちがいる▼そのいきさつがさわやかだ。東京で映画プロデューサーをしている真野貢一さんは仕事でよく中国東北地方に出かける。そのたび日本語で話しかけてくる年配の婦人たちに会った。帰国して友人にその話をすると、自分たちも会ってみたい、という。それならとOLや大学生、教師たち7人で再度訪中したのがこの正月だった▼極寒のハルビン市の養老院で、年老いた残留婦人の語る体験談に、戦後生まれの若者たちは目を丸くする。1人の婦人は自室に招き入れ、まくらの下から5元札2枚を取り出して言った。「40年間、だれもお年玉をあげる人がいなかったの」▼カフェーの女給や看護婦として、あるいは開拓団の夫とともに、中国に渡ったこの人たちがなぜ取り残されねばならなかったのか。たくさんのことを学んだ若者たちはとにかく何かやろうと話し合う。そしてつくったのが「中国残留日本人と交流する青年の会」だ▼会にはいま2、30代の若者25人と、支援の大人たち70人近くがいる。計画では、7月中旬に残留婦人たちを招いて、肉親や知人に会ってもらう。身内のいない人には若者がつきそってふるさとへ案内する。その資金600万円はカンパでまかなうが、すでに半分ほど集まった▼「かわいそうだ、なんて私たちがいうのはおこがましいことです。40年前に何があったのかをおばあちゃんたちの口から聞きたい。でもこちらから大勢で行くのは大変です。じゃ、いっそ、こちらに来てもらおうということになったのです」。こだわりのない若者たちの成功を祈りたい▼厚生省は、残留婦人も未帰還者として帰国促進をはかっているが、実態はよくつかんでいない、という。 「皆の迷惑かまわない」の時代 【’86.5.20 朝刊 1頁 (全826字)】  駅のホームで、傘を振り回してゴルフのけいこをしている人がいる。児童公園の砂場をバンカーに見立ててクラブを振り回す人もいる。場所柄をわきまえぬ人が増え、危険が増えた▼とうとう、というべきだろう。大阪の路上で不心得者の振り切ったクラブのヘッドが、自転車に乗って通りかかった主婦の腹部を打ち、命を奪った。「いつか、こんな事故が起こると思っていました」と、近所の人は言ったそうだ。道のまん中で素振りをする人が、このあたりに少なくなかったという▼ゴルフの起源については諸説がある。スコットランドの牧場で、羊飼いたちが杖(つえ)を打ち振って小石を飛ばし、遊んだのが始まりというのも、その1つである。いずれにしても、ゴルフはもともと広大な空間のなかでの競技なのだ。雑踏にいながら、そばにだれもいないかのように振る舞うことは、昔から傍若無人といって、さげすまれてきた▼近ごろ、車と車との関係でも「傍若無車」ともいうべき光景が珍しくない。荷物の積み下ろしをするために、車が道をふさいでいるとする。後続の車が列をなし、クラクションを鳴らして道をあけるように合図した場合、以前なら前の車の運転手は恐縮したものだ。ところが今では、クラクションを鳴らしたのはだれだと、すごむ運転手が多くなった▼都市それぞれに気風があって、いちがいに交通道徳が低下しているとはいえないかもしれない。しかし、あるタクシーの運転手さんの嘆きには、なるほどと思わせるものがあった。彼はいう。皆で渡れば怖くない時代から、皆の迷惑かまわないの時代に変わってきていると▼礼儀、行儀、作法のうちには、身分社会の名残もあろう。形式ばかりを言われては息が詰まるし窮屈だ。とはいえ、われわれが野放図であって良いわけはない。過密社会ではそれなりの、互譲の立ち居振る舞いがほしい。 ハイビジョン 【’86.5.21 朝刊 1頁 (全843字)】  NHKが次の時代に向け開発中の高品位テレビ、ハイビジョンの試写を見た。アイドホールという映写機を使って、高さ3メートル、幅5メートルのスクリーンに画面を投影する▼これだけ拡大すると、走査線が525本の従来のテレビでは画像がぼけて使いものにならなかった。1125本の走査線で細かく画像を再現するハイビジョンだと、大スクリーンに映しても画質は35ミリフィルムの映画と変わらない▼英国のチャールズ皇太子ご夫妻はNHK視察の折、ハイビジョンで撮影した日本滞在記7分の映写に、いたく感心されたそうだ。修学院離宮の新緑の若葉、日光がたわむれるダイアナ妃の金髪。これらを忠実に写しとめるこのテレビは、確かにハイファイだ▼3対4の今のテレビに比べ画面は横長だから、野球中継では投手を映しながら、1、3塁の野手や走者の動きも同じ画面に入れられる。スローモーションでは球の縫い目がはっきり見えるほど画面のきめは細かくなる▼とはいえ、普通のテレビの5倍の信号を必要とする装置だから、衛星放送の発達、特別な受像機の普及などを経て、家庭に入るまでには、まだ5年も10年もかかるらしい。その前に業務用のいろいろな使い道が考えられていると聞いた▼たとえば、ファッションショーや商品見本のビデオなど動くカタログとして使う。コンピューターのディスプレー用にも精密な画面は使い道が広い。飛行機の中で見る映画の画面も、ずっと明るくはっきり大きくできる。映画の撮影でも撮ったばかりの映像がその場で確かめられるから現像やラッシュの試写が不要になる▼将来は、映画フィルムにとって代わるかもしれない。東京・日比谷に新築中の東宝ビルでは、230人収容の小劇場に、ハイビジョンのスクリーン映写を検討中だ。うっかりするといかがわしい向きが飛びつきかねないほど、ハイビジョンの未来は開けている。 ふしぎの国・永田町 【’86.5.22 朝刊 1頁 (全854字)】  ふしぎの国・永田町には、きょうもふしぎなことが起こっている▼(1)自民党の参院議員の多くが、自ら参院の独自性を軽んじているふしぎさ。衆参同日選挙を望む甘ったれた声が多いのにあきれて、党内の参院議員から「自前で戦わないから独自性がもてないのだ」というきつい自己批判もでている。3年ごとにダブル選挙が行われ、そのたびに政治の空白が生まれる慣習が定着したら日本の議会政治はどうなる、と逆に抗議するのが参院議員の仕事ではないのか▼(2)円高対策が臨時国会の目的ではなく、解散の口実に使われようとしているふしぎさ。じっくり腰をすえてやるべき円高対策を、解散の土俵づくりのために利用する、となればこれはもう党利党略というよりも個利個略、といわれても仕方がない▼(3)定数是正について「抜本改正」なるものをもはやだれも本気で口にしなくなったふしぎさ。8増7減は暫定措置だ、ということを皆さんお忘れになっているのだろうか▼(4)「解散して政局安定をはかる」ことを大義名分だとするふしぎさ。これこれの政策を実現することで、行政府と立法府とが衝突している。だから民意を問うために解散する、というのが筋だろう。結果として与党が勝てば政局は安定する。だが、いまの解散論は、ただやみくもに勝つことだけを目的にしている▼(5)この期におよんで、中曽根首相がなお「解散は考えていない」「臨時国会については白紙だ。白さも白し富士の白雪」としらじらしくいい続けていることのふしぎさ。一方で、金丸幹事長が「首相は口を開けば何が何でもダブル選挙をやってくれという。頼まれる方は弱ったもんだ」といいながら、公然と党内説得に動き回っているのに、である▼「もずはげし黙然と聴く昨日今日」。首相の昔の句だ。きのうの野党党首の声も、もずの鳴き声にきこえたのだろうか。ここには対話政治の真剣さ、というものがない。 ノグチゲラを絶滅から守ろう 【’86.5.23 朝刊 1頁 (全859字)】  特別天然記念物の鳥ノグチゲラが絶滅するかもしれない、ときいたので沖縄本島北部の山原(やんばる)へ行ってみた。結論をいえば、このままではトキの二の舞いになりかねないと思った。トキの場合は、仲間が中国に生息している。だが、ノグチゲラは沖縄で絶滅すれば地球上から姿を消すことになる▼山深い原生林をわけいると、イノシシの子があわててかけ去る姿がみえた。5、6メートルもある野生のクチナシが花をつけている。亜熱帯の木もれ日は、鋭くてまぶしい。風が鳴ると、光がゆれる▼太いスダジイの幹に丸い穴があって、そこからキキキ、キキキというノグチゲラのヒナの鳴き声がきこえてくる。キュツ、キュツと力強い声と共に親鳥が飛んできた。黒っぽい姿だが、胸や腹は緋(ひ)の粉をまぶしたようにみえる。鋭いくちばしの先に虫をくわえている。親鳥は私たち一行を警戒して、しばらく枝から枝へ飛び、鳴き続けるヒナたちをなだめるように短い信号を送っていた▼ノグチゲラは原生林の中でのみ生きる「森の隠者」だ。くちばしで木をたたき、巣を作って生きる。太いスダジイの伐採が続けば、隠者たちは確実に生息場所を失うだろう▼あちこちに新しい林道が造られ、皆伐が進み、赤土があらわになっていた。林道の工事現場で、赤土が沢になだれ落ちるさまも目撃した。山が荒れれば赤土が海に流れこみ、サンゴを殺す▼世界野生生物基金(WWF)はすでに、日本のノグチゲラを絶滅から守る運動をはじめた。このままでは90羽程度といわれているノグチゲラはどうやって生きのびることができよう、というのだ▼日本全体の大きさに比べれば、山原は大人の手の甲のほくろほどしかない。その地域にノグチゲラやヤンバルクイナやその他たくさんの貴重な生物が生息している。この森を守れなければ、文化政策、環境政策の名が泣く。国は一刻も早く現地調査をし、保護の手を打つべきではないか。 漢字のよさ 【’86.5.24 朝刊 1頁 (全892字)】  明治のころ、日本の文明開化が遅れているのは日本語のせいだ、漢字の難しさのせいだ、英語を国語にしたほうがいい、という主張があった。敗戦直後にも、日本語廃止論があった。しかし昨今は、むしろ漢字のよさが見直される時代に入っているのではないか▼大修館書店などが主催した『漢字文化の歴史と将来』というシンポジウムを聴いてその感を強くした。たとえば鈴木孝夫慶大教授は「日本語はそれほど悪くはない」と説く。風力計あるいは無影灯という言葉をまったく知らない人でも、漢字を見つめていれば大体の見当がつく。だが英語でanemometerあるいはscialytic lampとある場合、この言葉に初見のアメリカ人はてこずるらしい。ギリシャ語を知らないと見当がつかないからだ、と教授はいう。漢字のこの働きは、新しいものに対する日本人の理解をおおいに助けてきたはずだ▼漢字には音と訓という二重性がある。水はスイであり、ミズである。草はソウであり、クサである。これを鈴木氏は双面神的言語構造という。風力計をカゼノチカラハカルと読み、自動車をミズカラウゴククルマと読めば、初見の人でも意味がわかる仕組みになっている▼鉄道、写真、停車場、葉書。文明開化の時代、漢字はすぐれた造語力を発揮した。だが昨今はどうか。東京外語大の橋本万太郎教授は、カタカナ音訳語の流行の中で漢字の造語力が衰えていることを憂えていた▼中国では、レーザーが激光で、エレベーターが電梯だ。日本でも、ハイテクを高技、ワープロを語処と書いたらどうか。同音異義語がふえてわかりにくければ、高技(ハイテク)・語処(ワープロ)というようにふりがなをつけたらどうだろう、と橋本教授は提案する▼漱石の文章を読むと、停車場(ステーション)、洋杖(ステッキ)、露骨(むきだし)、茫乎(ぼんやり)と、かなり奔放にふりがなを使っている。橋本説の実用化には異論もあろうが、漢字文化の再生のためにも、これは検討に値する。 プライバシーどろぼう 【’86.5.25 朝刊 1頁 (全859字)】  この世の中には「プライバシー銀行」なるものがあって、「プライバシーどろぼう」なる一群の灰色の人たちが日々、他人のプライバシーを蓄えこんでいるのではないか。蓄えられた情報が太るにつれて、プライバシーはやせてゆく▼少女タレントが夜の散歩にでかけたとか、だれそれが腹帯をつけたとか、プロ野球選手の夜の遊びがどうであるとか、そういう有名人のプライバシー狩りが、いまは空前の勢いでひろがっている▼そればかりではない。タレントの私生活をのぞいて楽しんでいる私たち自身の個人情報も、いつのまにかプライバシーどろぼうたちにのぞかれている。約1000万台の全国軽自動車所有者の情報が盗みだされ、売り飛ばされていた事件はそのほんの一例だ▼経企庁が、個人情報をもつ企業を調べたところ、1企業あたり平均142万人の個人情報をもっていたという。収入や地位だけではなく、病歴、犯罪歴の情報をもつ企業もあった▼「私」の個人情報にもしミスがあったらどうなるのだろう。コンピューターのミスで「私」とは関係のない人の犯罪歴、借金歴などがまぎれこんで、金融機関から融資を断られることもあるだろう▼しかもそのミスに気づく機会がなければ、一生、誤った他人の個人情報を背負うことになる。ミスがあるらしいとわかった場合も、だれに訂正を求めたらいいのかがわからない、という恐ろしさもある▼昔、売薬の行商人は得意先を書いた懸場(かけば)帳を売り買いしたものだという。その程度のことなら薄気味悪がることはないが、複雑な信用情報になると話は別だ。いや、国家や地方自治体はすでに巨大なプライバシー銀行になっている▼たとえば学校の「指導要録」がある。成績、性格、行動などの記録は本人や父母には公開されない。誤解による評価の間違いがあっても「私」はそれを訂正する機会さえないのだ。私たちはすでに「自分自身を知る権利」を奪われている。 “ふり”の大家・中曽根首相 【’86.5.26 朝刊 1頁 (全845字)】  中曽根首相の記者会見の発言を英訳し、刑事コロンボ氏の解釈を求めた▼えっ、これを読んで、首相に総裁3選の意思があるかどうか推理しろというのですか。困りましたね。うちのカミさんは政治が趣味なんですが、私はとんと疎いほうでしてね▼でも、この方の発言、おもしろいですねえ。私は気が小さいやさ男だから権力主義者ではないなんて。気の小さいやさ男の権力主義というのも本当は怖いんじゃないですか▼臨時国会の早期開催は慎重に対処したいですって。驚きですねえ。臨時国会ありは、日本の人たちがみんな知ってることでしょう。結婚の日取りがきまっているのに、本人だけが結婚については慎重に対処する、といっているようなものですね▼衆院解散はまだ念頭にない、考えていないですって。心にないと、心にもないことを平然といい切る。そこのところがぶきみです。首相が同日選挙に夢中なことはこれも周知のことなのにね▼日本人はオモテの世界でははっきりした表現を避けるときいていましたが、これほどぼかすとはね。日本の政治家のサイコヒストリー(精神形成の歴史)を知りたいですねえ▼で、結論はどうかって。今までの分析がすなわち結論です。犯行を解くカギは痕跡です。人の発言にも痕跡があります。中曽根発言の痕跡はふりですね。寝たふりをする。同日選挙は念頭にないふりをする。党利党略を捨てるふりをする。3選禁止の党則を守るふりをする。ですから、3選を考えないふりをして3選を考えているんだって、私のようなものでもわかります▼もし選挙で大勝したらそれはもう、勢いがつきます。党則を変える。特例を認める。何とでも理由をつけて3選への道が開かれます。それでもふりの政治の大家は、有終の美を飾るふりを見事に演じ続けるでしょうね。ごめんなさい。私、不作法なもんで、これ以上皮肉をいうとカミさんに怒られますからね。 観音さま、古都税を語る 【’86.5.27 朝刊 1頁 (全842字)】  「比叡山と天台の美術」展を見に京都国立博物館へ行って、三十三間堂の千手観音立像に再会した。すらりとしたお姿の前に立って、ふと、観音さまが京都の古都保存協力税について語るとすればこんなことではないかと思った▼「寺にいると、善男善女が毎日、私に会いにきてくれるのだが、その目的は文化財観賞なのか礼拝なのか。市長は観賞行為だといって課税する。反対寺院は宗教行為だといい、課税は信教の自由を侵害するという」▼「いったいどっちだろう。じっと拝観者の顔を見ても分からない。いや拝観者自身、わが心の深奥が分からないのではないか。単なる観賞に終わることもあろうし、いつの日か私を思い、宗教的情操をはぐくむこともあるだろう」▼「結局、行政家の論理と宗教家の心情の違いなのだ。溶けあうことのない水と油なのだ。法廷では行政側の言い分が認められたけれど、僧たちが納得しているわけではない。水と油が優劣を競って幾年月、むなしい思いもある」▼「もう1つ、変だと思うことがある。この博物館に私がいる限り私に会いに来る人は課税されない。入場税法は学術・文化の振興をはかるという趣旨で、美術品の展覧会を課税対象にしていないからね。だが私が寺に帰れば、たちまち拝観者に古都税がかかる。博物館では文化財なるがゆえに免税となり、寺では文化財なるがゆえに課税される」▼「思えばこのところ、古都税問題はおかしなことになってしまった。反対寺院の参謀格である不動産業者の思惑とか、市長選挙がらみの密約とか、有力拝観寺院である清水寺の内紛とか、そんな話ばかりで、今では信教の自由や政教分離の論議は、どこかへいってしまっている。悲しいかな」▼観音さまのおっしゃる通り、関係者の欲望、怒り、愚痴が解決を阻んでいる。こんな煩悩から衆生を救いたまえと、頭を垂れてとなえた。「念彼(ねんぴ)観音力」 羽田監督「痴呆性老人の世界」を「観る」 【’86.5.28 朝刊 1頁 (全862字)】  羽田澄子監督の映画『痴呆(ちほう)性老人の世界』を岩波ホールで見た。時には目をそむけたくなる画面もあるが、お年寄りたちを敬しつついたわるカメラの目の温かさに救われた。後味はふしぎに重苦しくはなく、静かでしみじみとしたものだった▼痴呆性老人の世界。これはもう間違いなく高齢化社会が避けて通れない現実だ。そこには私たち自身の姿がある。自分の名前も忘れているのに、百人一首をそらんじているおばあさんがいる。自分のことを18歳の娘だと思いこんでいるお年寄りもいる。失禁する人がいる。荷物を背負って孫に会いに行くんだといって1日中うろつく人もいる。それぞれがそれぞれの小宇宙の中で懸命に生きている▼老人施設の明け暮れを描くことで、映画はたくさんの介護の知恵を教えてくれる。(1)たえず言葉をかける。言葉は老人の心をいきいきとよみがえらせる力がある(2)残る能力を生かす。食器を洗う、ぞうきんを縫うという能力を後退させないようにする(3)説得より納得。ウソの世界でもそれを受けいれて対応する(4)家族との交流は大切。うつろな表情だった人も、孫の顔を見ると目が輝きだす▼「ばあちゃん、ちょっとオムツばかえようか」「よか、かえんでよか、ゼニのなかけん」「ゼニはいらんもん」「いらん世話たい」。看護婦さんは笑いながら根気よくつきあう▼入浴の時、老人たちは自分で着物を脱ぐ。急いで脱がせると、いじめられたと取る老人がでてくるからでもあるが、介助は万事、老人たちのゆったりとしたペースにあわせることが施設の原則だ。カメラの目の温かさは介助する人たちの目の温かさでもあった▼見るには「観る」の意味もある。人生の真実を見る。肉眼では見えぬ心を見る。見ようと思わなくてもおのずから見えてくるものを受け取る。「観る」にはそんな意味がある。老人たちの心の内の世界を観るというところに、この記録映画の深さがある。 身をさらす勇気 【’86.5.29 朝刊 1頁 (全850字)】  APの記者もかみついた。UPIの記者もくいさがった。いりかわりたちかわり、米人記者が米太平洋軍司令官ヘイズ海軍大将に質問を浴びせたという。東京の米大使館内で行われた記者会見の時のことだ▼沖縄のバーで米兵の妻や婦人兵がホステスとして働いており、その数はかなりになる。そのことを米軍機関紙スターズ・アンド・ストライプスが報道しようとしたら、上層部に止められたという事件があった。これは米憲法修正第1条(言論の自由)に反する検閲ではないか、という質問である▼ヘイズ大将も、逃げず、ごまかさず「私は検閲とは思わない。どの新聞にも編集方針がある」と反論した。激しいやりとりだった、と会見に居合わせた同僚からきき、筆者はむしろ、表現の自由を尊重するアメリカ精神の健全さを思った▼さらに興味深いのは、28日付のストライプス紙が、この記者会見のやりとりをきちんと掲載したことだ。不名誉なこと、軍隊の士気にかかわることを、ふつう軍隊の機関紙はのせたがらない。だが、表現の自由こそ大切だと記者たちはいい、軍の上層部も会見の内容が掲載されることを拒まなかった。そこには「身をさらす勇気」のようなものが感ぜられる▼モスクワからは、プラウダ紙が、チェルノブイリ原発事故のなまなましい手記を紹介したというニュースが入っている。手記は、強い放射能の中で決死の作業が続いたことなどを伝えている▼貴重な記録ではあるが、ソ連の新聞はなぜ1カ月もたってこれをのせるのか。事故の直後にこそ詳細に報道すべき話ではなかったか。ソ連の関係者がもし、過ちを隠さず、総力をあげて爆発の規模や被災の状況を的確に知らせる記事を流し続けていれば、秘密主義の印象をぬぐう一助になったのに、と思う▼沖縄のホステス問題と原発事故とではニュースの規模が違う。だが「身をさらす勇気」についていえば、米国に軍配を上げたい。 残留孤児と満州アゲハ 【’86.5.30 朝刊 1頁 (全844字)】  ホソオチョウ、別名満州アゲハと呼ばれるチョウがいる。黒と淡い黄を基調にした羽に、細い2本の尾がついている。中国東部や朝鮮半島が生息地で、日本にはいないといわれてきた▼ところが、8年前に東京で見つかり、その後、神奈川や山梨でも見つかった。だれかが卵やサナギを国内に持ち込み、それが繁殖したといわれている▼同僚が緑濃い土地で、そのチョウを見てきた。谷川に沿った桑畑からゆらゆらと現れ、羽をひろげたまま、グライダーのようにジャガイモ畑のすぐ上を遊泳していたという。いかにも大陸的なゆったりとした飛び方で、人間を警戒せず、すぐ近くまで寄ってきたりするそうだ▼ひところ、ある場所では成虫50匹、幼虫4000匹を数えたが、珍チョウを求めるマニアの乱獲が続き、1匹5000円で売られたりした。食草のウマノスズクサを、卵がついたまま持ち去る人もいて、絶滅寸前になったが、細々と生き続けていることがわかった。乱獲に耐えて生息を続ける生命力はあっぱれである▼ある市はこのチョウを天然記念物に仮指定した。だが、人為的に国内に持ち込まれたチョウは自然の生態系を乱すという議論もあり、今は指定はない。特別の保護策もとられていない。逆境の中で、チョウたちは自らの命を守っている▼チョウの話と、敗戦前後中国に置き去りにされた子供たちの話とがどうしても二重写しになる。戦争によって親と引き裂かれた子が今、家族と共に日本に帰ってくる。そこには言葉の壁がある。生活習慣の差がある。夢と現実の差がある。親族の人間関係にヒビが入ることもある▼乱獲でチョウを追いつめるように、私たちは自立を助ける保護策をとらずに、帰国者たちを追いつめている、ということはないだろうか。帰国者の面倒をみる強力な政府の総合機関さえまだつくられてはいない▼あさってから、孤児たちの第11次訪日調査が始まる。 5月のことば抄録 【’86.5.31 朝刊 1頁 (全853字)】  5月のことば抄録▼「大都会の真ん中でサミットをやれば不必要なトラブルを起こします。市民には大変な迷惑でしょう。サミットは郊外で開くべきです」と英国ネイチャー誌のアンダーソン記者。そう、一点集中主義を打破するためにもね▼「日本人が英語が上手なので私はなかなか日本語を覚えられません」とチャールズ皇太子。時間なのでそろそろ、と宮内庁の人にいわれたダイアナ妃は「またジャパニーズ・スタイルね」と笑いながら軽くにらまれた▼政治の世界でもジャパニーズ・スタイルが横行した。「首相はうちひしがれている」「選挙がなくなって身も心も楽になった」と野党をだまし続けたのは、自民党の藤波国対委員長。氏の句「控へ目に生くる幸せ根深汁」は「むなごとに生くる幸せたぬき汁」と改めるべきか▼政界のウソ八百、あの金丸さんさえ怒った。「臨時国会召集の大義名分については経済対策というお題目など真っ赤なウソのようなことはやめろ、と5役会議でいった」。その真っ赤なウソがひとり歩きしている▼「首相や蔵相は円高の行き過ぎを直すよう米国にもっと強く主張すべきだ」「アメリカにばかりいい顔をしている。とんでもない」。いい顔をするのもジャパニーズ・スタイルか。いったのは経団連の新会長斎藤英四郎氏▼「政界の汚職を起訴できたらどんなにうれしいかと思っていたが、起訴してみると特別の感慨はない」と東京地検の山口特捜部長。撚糸工連(ねんしこうれん)事件で。国会の政治倫理審査も解散と共に去るとなれば、有権者としては特別の感慨がないわけではない▼「舞に生く露のはかなさ知りながら」。83歳の武原はんさんが句集をだした▼「三宅島の米軍訓練飛行場建設について世界中に心配が広がっています。あなたが建設計画に反対されることを期待します」。世界野生生物基金総裁のエジンバラ公が中曽根首相へ。天然記念物の野鳥保護のために。 女児産み分け 【’86.6.1 朝刊 1頁 (全857字)】  男の子を授けてもらいたい、女の子がほしいと神仏に祈る習わしは大昔からあった▼由緒のある川の中の大石に小石を投げ、あたったものは男子を授かるという信仰もあった。出産に先立ってある神木から赤ちゃんの泣き声がきこえる。神木の前からきこえれば男子、後ろからきこえれば女子という信仰もある▼日本だけではない。男女の産み分け願望は、紀元前の昔から根強いものがあり、無数の迷信がある。それが、たんなる迷信ではなく、かなり確実に女の赤ちゃんを産むことができるようになったという。このニュースを人びとは驚き、困惑、敬服、不安などのいりまじった思いで受け取ったのではないか▼精子には、X染色体をもったX精子と、Y染色体をもったY精子がある。卵子はX染色体しかもっていない。XXとなれば女の赤ちゃんになり、XYとなれば男の赤ちゃんになる▼慶大医学部の飯塚理八教授たちのグループは、一定の方法で精液の中のX精子を沈ませて分離することに成功した。このXが女の子の産み分けに使われているそうだ。上の方に浮くY精子にはXがかなりまじっているので利用できない。従って男の子の産み分けはまだむりだという▼たとえば男の子が発症する病気に血友病がある。血友病の子をもつ親が2番目は女の子を、と切望するのは人情だろう。医学の進歩はその願いにこたえることができるようになった▼だが、産み分けを望む親はそういう例ばかりとは限らない。現にこの方法で女の赤ちゃんを産んだ6例は、そういう遺伝とはかかわりがない親だった▼もしも産み分けがなだれを打って普及した場合、日本の人口の男女比がどうなるかという心配がある。日本の場合は均衡が破られなくても、この方法が地球全体にひろがった時、いかなる影響があるのかという心配もある。自然の摂理に背くことを恐れる漠たる不安もある▼産み分けには、かなり厳密な制約が必要なのではないか。 アレキサンドリアWHY? 【’86.6.2 朝刊 1頁 (全868字)】  エジプト映画界の巨匠ユーセフ・シャヒーンの作品にほれこんだ日本の1青年がエジプトに渡り、代表作『アレキサンドリアWHY?』を日本に持ち帰った。東京・新宿の映画館でそれを見た▼アレキサンドリアという街の名をきいただけでなじみ深い思いになるのは、ひところ日本でもよく読まれたロレンス・ダレルのアレキサンドリア4部作(高松雄一訳)の強烈な印象のせいだろうか▼5つの種族、5つの言語、砂漠の風、海の風、砂色の空、腐りかけた家、赤れんがの粉のにおい、あいまい宿、水売人の叫び、愛をしぼりとる巨大な圧搾機のような街。その混沌(こんとん)たるさまが、ダレルの描いたアレキサンドリアだ▼シャヒーンも、混沌の街を混沌たるままに描く。夢想と冷笑、暴力と愛、恋と打算、良心と策略。対立するものをそのままごった煮にしたおもしろさがあり、そのごった煮には、エジプトからの重層的なメッセージがある▼(1)ユダヤ人の富豪の娘と獄に入るエジプト青年との激しい愛がある。人種的偏見のおろかしさへの抗議。(2)第2次大戦下、この街に駐留する外国人兵士に対する憎しみが渦巻いていた事実を、映画はアラブの側から描く▼(3)外国人兵士を殺し続けるエジプト青年が、殺すべき英軍兵士に同性愛的な優しさを示し、お互い悪い時代に生まれたなとつぶやくくだりがある。戦争のおろかしさに対する抗議▼(4)主人公の少年は「世界中が反対しても俳優になるぞ」といって渡米する。映画は、青春のおろかしさをいとおしげに描きつつ、エジプト社会の家族のきずなの強さを示す▼(5)最後の場面で、少年があこがれるアメリカの自由の女神の顔が突然、ぶきみな女の顔に変わって、にやりと笑う。辛口のアレキサンドリア的批評精神というのか、一筋縄では行かぬ作品である▼こういうアフリカやアジアの映画が常時、何本も上映されるようになれば、第三世界との文化交流も本物になる。 衆院解散 【’86.6.3 朝刊 1頁 (全853字)】  前代未聞の解散である。臨時国会を召集しておきながら一度も衆院本会議を開かぬまま解散する、という例が今まであったろうか。国会の会期もきめぬまま、召集したその日にすぐ解散する、というのもずいぶん乱暴な話だ▼首相の所信表明演説もない。代表質問もない。法案の提出もなく、論戦もない。なにやらわけのわからぬないない尽くしのまま、解散がきまってしまった▼臨時国会の召集は、緊急政策の審議を目的にするのが常識だろう。中曽根首相にはそんな常識は通用しないようで、しゃにむに同日選を行うことだけが召集の目的になった。〈むりやり解散〉であり〈何が何でも解散〉である▼自民党には〈政局安定解散〉説がある。秋の首相指名選挙などを考えれば、安定議席の確保が望ましいと自民党が考えるのはわかる。だが「意図的な同日選挙実施は憲法の趣旨にそわない」という党内のわだかまりは消えていない▼〈寝たふり解散〉説。首相は一時、解散を断念したふりをし、臨時国会や解散は「考えていない」「白紙だ。白さも白し富士の白雪だ」といい続けた。この「寝たふり」にはむろん、総裁3選を求めないふり、の意味も含まれている▼〈裏口解散〉説。同日選挙強行のためには公選法改正の公布を5月23日にしなければならなかった。政府は慣例を破り、22日深夜に成立した定数是正の官報を翌日、かなり強引なやり方で配ったが、定刻までに届かぬ所があった。空白の1日があったらしい▼むりにむりを重ね、国会の常識や慣例をふみにじったという意味ではやはり〈強権解散〉というべきか。300年前、ジョン・ロックはおおむね、こう書いている。専制とは、為政者がその権力を人びとの利益のためではなくて、彼自身の個人的で独自の利益、彼自身の野心や欲望のために用いることである、と(市民政府論)▼〈総決算解散〉説。戦後政治の総決算路線に対する評価がどうでるか。 零歳児からの虫歯予防 【’86.6.4 朝刊 1頁 (全844字)】  歯科医の丸森賢二さんは、結婚式の祝辞でも、むし歯の予防を説く。「お子さんのむし歯を防ぐのは周囲の人びとの賢い愛情です。かわいいから、喜ぶ顔をみたいから、といって赤ちゃんのころから甘いものを与えすぎると、むし歯になってしまいます。子どもこそあわれです」▼嫁がしゅうとめに「赤ちゃんに甘いものを与えないで下さい」といえばカドが立つ。だから専門家として声を大にして「賢い愛情」を説き続けるのだという▼本来、小さい子には「自然のうす味」のものを適切に食べさせていれば、むし歯にはならない。だが、3、4歳になると、交友範囲もひろがり、どうしても甘いものが口に入るようになる。だから歯を磨く習慣が大切になる▼丸森さんは、零歳半の子に歯ブラシをもたせることを提唱している。「えっ、ゼロちゃんから歯ブラシ?」と驚く保母さんもいるらしいが、子どもは意外に拒否反応を起こさない。磨かせる必要はなく、しゃぶらせるだけでいい。保母さんが磨くさまをまねて遊んでいるだけでいい▼3歳ごろから本格的に歯を磨き始める時、この零歳児からの準備がずいぶん役に立つ。3歳になって初めて歯ブラシを手にする子に比べて、苦労せずに手が動き、すんなりと歯磨きの習慣が身につく、という報告があった▼零歳児の歯ブラシ指導をする保育所と共に、昨今はおやつ指導の授業をする小学校もふえている。むし歯予防の根本は食生活にある。食べたおやつの空き箱や空き袋をみんなで集め、砂糖入りのもの、塩入りのもの、と分類して検討したりする。砂糖や塩のとりすぎに気づかせるためだ。さつまいも、とうもろこし、くりなどの自然の味を大切にすることも教える▼むし歯の発生率は、昨今は次第に減ってはいるが、それでも、5歳児の8割、小、中学生の9割強を占める。未処置の子の数もまだ過半数はいるという▼きょうは、むし歯予防の日。 自治体学会 【’86.6.5 朝刊 1頁 (全846字)】  「学会」といえば、学者が集まって、むずかしい研究をする組織ということになっている。ところが、ふつうの人にも門戸を広げて、どしどし入ってもらいたい、と呼びかける学会が発足した▼「自治体学会」といい、先ごろ横浜市で設立総会があった。もちろん学者もいるが、中心は全国の県庁、市役所、町村役場などの自治体職員である。この人たちが「地域を超えてつながり、住民と一緒に地方自治のあり方を考えよう」と結成した▼過密や過疎のなかで、町づくり、村おこしに苦心している自治体が多い。そこへ行財政改革の大波が、押し寄せてこようとしている。前例に従い、中央から下りてくる指示に従っていればやって行ける、といった時代ではなくなった▼自分たちの町や村自体の力で、何ができるかを探り、工夫していかなければならない。国の下請けでない、文字通りの「自治体」を作り出す必要に迫られているといえる。当然、同じ課題に取り組んでいる他の自治体の情報がほしい▼総会後のシンポジウムで、ある会員が「よそから視察に来ても、出張予算消化の旅行だとすぐ分かるから、建前の話しかしない。まじめに勉強に来た人の場合でも、なまなましい話はできない」と、現状を暴露した。そして「これからは率直に教え合おう」と呼びかけると、共感の拍手が起こっていた▼しかし、なんといっても地方自治の主人公は住民である。これからは本気で「住民参加」を求めることなしに活力ある行政はできない。この学会が「市民的視野に立ち、地域に根ざした」研究・交流を強調するのも、それを日常の実感で感じているからだ▼今後、各地域ごとに小さな勉強会を開き、地元の学者、自治体職員、住民で身近な問題をとり上げて研究していくという。地元に会があったら、ひとつ参加してみてはどうだろう。自治体学にはまだ専門家は1人もいない。これから生み出す学問である。 お手玉唄集 【’86.6.6 朝刊 1頁 (全850字)】  甲府市の主婦たちが、全国のお手玉唄(うた)を集め、「たんたんたきみつ」という小さな本にまとめた。ここには「おひとつおろしておさらい」「一番はじめは一の宮」などの、あの昔なつかしい唄の数々がある。全国の人びとに呼びかけて唄を集め、人形を売ったカネをためて出版の資金にしたという▼歌詞が美しい。「出ん出らりゅうば/出て来るばってん/出ん出られんけん/出えてこんけん/来ん来られんけん/来られられんけん」。長崎のお手玉唄である。意味はともかく、声を出して読めば土地の言葉の味わいがわかる▼「1人でさびし/2人で参りましょ/みわたすかぎり/よめなすたんぼ(よめ菜にたんぽ、か)/いもうとの好きな/むらさきすみれ/なの花すきな/やさしいちょうちょ」。これは宮城の唄だ。花や虫が自然に歌いこまれていて楽しい▼わらべ唄は民衆の暮らしの口碑である。いつも機を織っている隣の嫁が登場する。雪駄(せった)の鼻緒を売りに来るあね様がでてくる。縫いものが下手で追い出される花嫁がいる。この本は、忘れ去られ、歴史から消えてゆく唄と、唄の中の女性の姿とを記録にとどめてくれた▼昨今は、むかし遊び・伝承遊びが見直されている。子どもたちは、ビー玉やメンコを持っていてもそれを使って遊ぶことを知らない、という話をきいた。だがこれこそ大人たちの責任だ▼お手玉、手まり、石けり、竹とんぼ、べえごま。そういう遊びを通じて私たちはたくさんのことを学んできた。手先や足腰が鍛えられる。仲間と遊ぶルールを身につける。そのようにして学んだことを子どもたちに伝えないでいるのは、大人の怠慢だろう▼この本を作った主婦の1人は、お手玉をたくさん作って箱にいれておくという。子どもたちが「おさらいをやって」と持ってくる。見よう見まねで、歌いながら操れるようになるという。ここにはまぎれもなく、文化の伝承がある。 トキの死 【’86.6.7 朝刊 1頁 (全849字)】  日本で、絶滅の恐れがある野生生物。イリオモテヤマネコ、ニホンカワウソ、ツシマヤマネコ、ケナガネズミ、ゼニガタアザラシ、トキ、アホウドリ、ヤンバルクイナ、ノグチゲラ、シマフクロウ、イヌワシ、ライチョウ、イシカワガエル、オオサンショウウオ、イボイモリ、セマルハコガメ、タイマイ、アカウミガメ、アオウミガメ、イトウ、ミヤコタナゴ、オガサワライトトンボ、ウスバキチョウ、ムニンノボタン、オガサワラツツジ▼まだまだ書き切れない。実際はこの3倍以上の種に赤信号がついている。筆頭が佐渡のトキである▼日本を代表するこの国際保護鳥は、雌のアオの死でわずか2羽になってしまった。学名ニッポニア・ニッポンと呼ばれる鳥が日本で絶滅するとなれば、これこそ極めて象徴的なできごとではないか▼昔は、全国のどこにでもいる鳥だった。羽が美しいので乱獲があった。生息地の森が減り、エサをとる水場が減り、加えて農薬のため、水田周辺の小動物や昆虫が減り、トキはみるみる激減した。うまいし、薬になるというので、肉を食べるものもいた。煮ると汁が真っ赤になる、というかなしい話もある▼この狭い国土で人間の生活圏がひろがってゆくことを、とどめるのは難しい。だが、そこには生態系に対する最低限の心配りが必要だろう▼コンゴ・ピグミーと暮らした英国人C・M・ターンブルは『森の民』(藤川玄人訳)の中で書いている。少年が森で、最も美しい歌を歌う鳥を見つけて連れ帰った。父親はいい顔をしなかったが、少年はエサをやった。鳥は美しい歌をさえずって森に消えた▼少年はまた鳥を見つけて連れ帰った。3度目に、父は息子を追い出し、森で最も美しい歌を歌う鳥を殺してしまった。鳥と共に、父親は歌を殺し、歌と共に彼も死んだ▼森の中の大切なものを失う時、それは人間の死、人類の衰退につながる、ということをこの伝説は物語っている。 中曽根代官の「減税」 【’86.6.8 朝刊 1頁 (全854字)】  「代官さまは減税、減税とおっしゃるが、今度出されたおふれでは、私どもの年貢は軽くなるのかどうかさっぱりわかりません」。昨今の増税隠しを皮肉った寸劇の中のせりふだ▼演じたのは大蔵省に入ったばかりの新人たちで、竹下蔵相を前にしての熱演だった。やってくれるなあ、と省の幹部たちは苦笑したことだろう。減税、減税といっておいて、収穫を終えてほっとする農民たちに代官が「増税」を宣言する、という場面もあった。見通しもなかなかいい▼自民党の藤尾政調会長は、根が正直の人のようで、NHK番組の録画撮りで「大型間接税は考え方としては当たり前のことだ」と導入の方向で検討していることを明らかにした。増税をいわず、減税だけをいうのは無責任だ、いうべきことはきちんといおう、という気持ちがあったのか。政権党として、選挙を前に有権者に政策を問う以上、当然のことだ▼この藤尾発言について、中曽根首相は「そんなことはきまってない。党の方は消極的だ」と打ち消している。では藤尾さんこそうそつきということになるのか。大蔵省新人ならずとも、なにがなんだかさっぱりわからないが、わからないようにしておいて、減税だけがあるような幻想をふりまくのが中曽根代官の手法なのか。去年の都議選の時もそうだった。今回もそうだ▼秋には大型間接税の導入、マル優の撤廃、土地、株などの資産課税の強化などの検討に入ることはもう自明のことなのに、それを選挙の時はひた隠しに隠す。ペテン師ならいざ知らず、政治の王道を歩むべき人にしては、なんとも姑息(こそく)なやり方ではないか▼衆院解散の日、「解散は考えていない」といい続けていた首相は「解散はいつきめたのか」との問いに答えた。「今朝だ」。秋になれば、首相はしれっとしていうかもしれない。「いつ増税をきめたのか」「今朝だ」と。皆の衆、代官さまの毛針にはみんなして気いつけべえ。 衣笠選手の2000試合連続出場 【’86.6.10 朝刊 1頁 (全863字)】  何年か前、広島の衣笠祥雄選手の裸を見た同僚記者がうなったことがある。わきばら、太もも、すね、腕などはあざだらけだった。すりむいた傷もある。押さえれば痛いけれど、痛い痛いといったって痛みは人にわかるもんじゃないし、と平気な顔をしていたそうだ▼けがに強いということは、けがを克服してしまう強さをいうのだろう。2000試合連続出場の記録をつくった日も、ねんざした右足首をテーピングしていたが、痛そうな表情はみせなかった▼連続出場をはたすためには(1)やせて筋肉質な体であること。つまり動作が機敏であること(2)けがに強いこと(3)チームの事情(4)本人の精進が大切になる▼衣笠は監督にも恵まれていた。7年前、極度の打撃不振に苦しんでいた時、当時の古葉監督はついに先発から外す決断をしたが、「どうしようか」と悩みに悩んだ、という話をきいた。結局、代打で出場させ「連続出場」の記録はつなぐことができた▼だが、最後にものをいうのは実力であり、実力をささえる精進だろう。選手生活の寿命が平均わずか6年という話をきくと、なるほど2000試合連続出場の記録はすごいと思う。だがそれと共に、いやそれ以上にすごいのは、19年間3割を打てなかった衣笠が20年目に突如、3割の壁を破った、という記録だ。素質だけでは、こんな記録は生まれない▼『五輪書』に「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」ということばがあるが、30代後半になってなお活躍している選手たちは、多かれ少なかれこの教えに忠実なはずだ▼雇用職業総合研究所が、活躍した期間の長かった野球選手228人を選んで、年齢と成績の関係を分析したことがある。結論はこうだ。「長く働いた選手を分析してみると、素質や体力もさることながら、実戦や練習での経験、学習、とくに失敗から得た知恵などが生き残りのカギであるように思われる」。この話は野球の世界に限らない。 福祉を買う「武蔵野方式」 【’86.6.11 朝刊 1頁 (全838字)】  自分たちの資産は、子どもに残すよりは自分たちの老後の生活のために使う、という人が多かった。総理府の世論調査である。とくに3、40歳代では約7割が「自分たちのために使う」と答えている▼「児孫のために美田を買わず」は、財産を残すと子孫の心が安逸に流れやすい、という戒めのことばだが、昨今のそれはそんなかっこうのいいものではない。「美田を残せず」というのが大方の実情ではなかろうか▼生命保険文化センターの調べによると、老後の生活には平均して約6100万円のカネがかかるという。3歳下の妻をもつサラリーマンが60歳で退職した場合、夫婦の平均余命を考えて計算した額だ。平均的な厚生年金支給額が約4600万円だとすると、差額は約1500万円である。さて、この1500万円をどうするか▼頼りになるのは私的な年金か貯蓄である。政府がいくら内需拡大を訴えても、人びとがわが蓄えにしがみつくのは当然だ。暮らしの不安が強いからこそ、老後や、いざという時の出費に備え無理をしても貯蓄せざるを得ない▼貯蓄だけではどうにもならない場合、「武蔵野方式」が救いになる。おカネのある人はおカネで、おカネのない人は資産を担保にして福祉を買う、というのが武蔵野市の福祉公社のしくみだ。たとえば、わが家の土地を担保にして福祉資金を借りることができるし、身の回りの世話、介護、食事の出前などのきめこまかい、温かみのあるサービスを買うことができる。この武蔵野方式を各地にひろめるにはどうしたらいいのか▼厚生省も、この方式の経験を生かし、資産を担保にした新しい老後の保障の検討を進めてはいる。公費を使わず、銀行や保険会社の融資制度を基本にし、福祉サービスもすべて民間にまかせるというのでは、人のちょうちんで明かりを取る感がないでもないが、「資産活用」に目を向けた発想は貴重だ。 蛍 【’86.6.12 朝刊 1頁 (全855字)】  山の中で蛍を見たのは何年ぶりのことだろう。珍しいカエルの写真を撮る、と意気ごむ一行と共に、午前1時か2時か、真夜中の沖縄本島・山原(やんばる)の奥深くを歩いていた時のことだ▼闇(やみ)の沢の底から一点、光るものが浮かびあがって、ふんわりと宙を舞い、見事な光の曲線を描いて、消えた。一筋の青白い光がまた浮かんで消えると、あいまいな闇の底から再び、澄んだカジカの鳴き声がきこえてきた▼何百、何千の蛍の群舞とは違って、広い山原の森を、沢に沿って、たった1匹で飛ぶ姿にはいかにも「あくがれいづる魂(たま)」の感じがあった▼鳴くセミよりも鳴かぬ蛍が身をこがす。心の思いの深さが、声なき光に現れるというのだろう。西洋の詩人は蛍を「天国に棲(す)む熱き虫」と歌った。「身をこがす」も「熱き虫」も、蛍の光からの連想だろうが、あの光は実は熱くない。熱ければ蛍はたちまち燃えてしまう。燃えつきないように「冷たい光」をつくった造化の妙に驚く▼三重大学工学部の鈴木喜隆さんによると、蛍には、燃料になるルシフェリンという有機化合物があって、このルシフェリンの持つエネルギーをむだに熱エネルギーとして逃がすことなく、ほぼ100%光のエネルギーに変化させるそうだ。熱エネルギーをださないから、光は冷たい(雑誌ゑれきてる第21号)。蛍は、成虫になって飛び始めてからは平均3日で死ぬ。そのわずかな時を、雄と雌は求愛の光を放ちあってすごす▼知人にいただいた種で育てた月見草が、今年も白い花を開いた。蛍の光のように闇に浮かび、深夜になると白い花びらに紅がにじんでくる。最高におしゃれな花なのだろう。翌朝、しおれる時は花びらを紅色に染めている。一夜だけのはかない命だ▼はかないものが美しいのか、美しいものがはかないのか、人間の勝手な思い入れをよそに、蛍はただひたすら闇に光り、月見草は、ひたすら闇に咲く。 がん患者2人の手紙集 【’86.6.13 朝刊 1頁 (全856字)】  2人の女性は病床にある。2人とも40代で、夫がいて、子がいる。がんの研究を続けている柳沢桂子さんは、10年ほど前に子宮摘出の手術をし、以後、入院と手術を繰り返している▼音楽学校出身の栗田美瑳子さんは、今はがんが腰椎(ようつい)に転移して動けない状態が続いている。病気が縁で親しくなった2人は、たくさんの手紙をとりかわした。それをまとめた『愛をこめ いのち見つめて』という本を読んだ。心と心、命と命とがふれあう音がきこえてくるような対話の記録だった▼激痛や不安をいかに超えるか、いかに今を生きるかを2人は探りあてていく。「苦しみや痛みが強いときは一瞬ずつ生きるよりしかたありませんね」と書きながら、病床の桂子さんはがんに苦しむ友を励ます。もう少し私が元気ならそばへ行って何かお役に立ちたい、少しでもあなたの痛みをわけもつことができたら、と▼「苦しみは心を豊かにしてくれている」という友に励まされて美瑳子さんはこう書く。「死は小説の最後の一点の〈。〉のようなものだと思います。そこに至るまでの文章が生だったら、なんとしてでも最後に至るまで一生懸命生きようと思います」▼そして首の動脈から点滴をいれる状態の中で「時間がいとおしい」といいながら、歌を詠み、童話を書くようになる。「悲しみの発作おさえてひたすらに濃き紫の花に化しゆかむ」。童話も、1編だけ見せていただいた。深い森を吹き抜ける風の色のような作品だった▼がんと闘う友の姿を見ながら、桂子さんは訴えている。「がんのことを本人に告げた場合にも、それが行為の終わりではなく、むしろ始まりであることをはっきり認識していただきたい」。がんの治療には2人の女性がとりかわしたような、心と心、命と命との対話が必要だ、という訴えであろう▼厚生省調査では、胃がんの告知を求めるものは57%もあった。問題は、告知後の医療の対応である。 円高対策残して走り出した選挙列車 【’86.6.14 朝刊 1頁 (全856字)】  岡山産の花むしろは、昔はイグサが主だったが、いまは石油化学製品のポリプロピレンでつくるものが主役である。この花むしろ業界の景気がよくない。生産量の半分近くを中近東などに輸出しているが、円高の影響で注文が止まったためである。さらに、競争相手の台湾の進出がある▼産地を取材した同僚の話では、5台ある織機を休ませて、賃仕事に通いはじめた人もいるそうだ。50すぎまで花むしろ一筋に生きてきたのだが、この円高不景気にはとても太刀打ちできない。「もう先の見通しもない」とあきらめ顔だったという▼去年の夏までは、多い時は月に2万畳も織っていた。「だが、輸出用の注文がゼロになりました」と嘆く業者もいた。国内向けに転向したが、生産量は最盛期の4分の1だ。円高値下げの掛け声の割には、原料の値下げは思うほど進まない。「円高対策のため臨時国会を開くといっておきながら解散なんて、そんなばかなことがありますか」という憤りの声があったという▼産地では、500軒の家内工業のうち約150軒が休業中、半休業中というから相当な打撃である。円が徐々に上がってきたのなら、まだ多少は対応の仕方があった。が、今回はあれよあれよの円高だった。「急激な円高は政府の失政」という声もあった▼花むしろ業界の悲鳴は、輸出を主とする多くの産地の悲鳴でもあるだろう。経企庁の調べでは、大手製造業が「採算がとれる」と考えている為替相場は207円だ。170円台になれば98%の企業が赤字輸出になるという。中小企業の場合は、もっと深刻だ。そこには、統計には表れない下請けのうめき声がある▼5月末の自民党5役会議で宮沢総務会長はこういった。「かりに選挙になった場合、われわれはどういうことを訴えて戦えばいいのか。円高対策といっても、どのような対策をやるのかが十分に議論されていない」。論議が熟さぬまま、選挙列車は走りだした。 『お父さんはとうめい人間』 【’86.6.15 朝刊 1頁 (全855字)】  子は働く父親の手、働く父親の背中、働く父親の汗を見て成長する。ある工場の社員食堂でコックをしているお父さんの姿を見に行った子の作文があった▼白い服に白いコック帽をかぶった父親は、びっくりするほどすばやい手つきでてきぱきとサラダをつくっていた。今まで、こんなおとうさんを見たことがなかった、と子は父の姿を誇らしく思う。「おとうさんは、はずかしそうな顔などちっともしていません。わたしだけがなんではずかしがっていたのかと思うと、わるいことをしていたような気がしました」▼昼、大勢の工員が待ちかまえたように食べ始める。「みんな残さずに食べてもらえるかと、じっとそれを見ていました」。じっと見守る子どもの息遣いがきこえてくるようだ。全盲の詩人、佐藤浩さんたちが編集した『お父さんはとうめい人間』という子どもの詩集の序文に紹介されている作文である▼多くの子にとっては、父親は、これほど実在感のある存在ではない。たとえば、この詩集にこんな作品がある。「このごろのお父さんはとうめい人間/ぜんぜん見えない/会社でとうめい人間目グスリをさす/そうすると体がきえて見えなくなる/だいたい10時間ぐらいもつ/はやく目グスリのききめがきれてほしい/お父さんの姿が見たい」▼疲れ切って燃えかすのようになっている会社人間の中に、子は父親の姿を見ることができない。いつのころからか、家庭における父親の透明人間化が進んできたように思う▼きょうは父の日。小学1年生の少年の詩を、父親たちに贈りたい。「あめ、ふってきた/かみなり、なってきた。おらのおとさん、どすべが/うみさででら/おらのおとさん/かじとる人だんだ/おとさんだけ/たってねばまいねはんで/ふね、ひっくりかえればまいね/おらのおとさん、どすべが」(まいね=いけない)。子どもたちは常に、透明人間ではない、実在感のある父親を求めている。 グッドマンとロドリゲス 【’86.6.16 朝刊 1頁 (全838字)】  スイングの王様といわれたベニー・グッドマンが死んだ。彼の音楽を評して「キャデラックの音楽」という人がいる。大きくて、華やかで、リッチで、パワフルで、そして最高にハッピーにスイングするという▼ジャズの特徴の第1はスイングすることにある。いい演奏だと、フォービートのリズム感覚がよくて、文字どおり、ついつい体がごきげんにスイング(揺れる)してしまう。敗戦後の日本人は、甘いクラリネットに誘い出されるグッドマンの音楽に、陽気で、豊かで、そしてきらびやかなアメリカを見たものだ▼ほぼ30年前、グッドマンが初めて日本へきたころ、フランス映画『過去をもつ愛情』が日本で上映された。美しいリスボンの町を背景に、暗い過去を持つ男女(ダニエル・ジェランとフランソワーズ・アルヌール)が別れるというメロドラマだが、ここで歌われた主題歌が、スイングジャズとは別の、もう1つの外国音楽として日本人の心をとらえた。ファドと呼ばれるポルトガル民謡で、アマリア・ロドリゲスが歌う「暗いはしけ」である▼ファドはポルトガル語で「運命」を意味するという。どことなく暗く悲しい歌だ。歌詞からしても、きらびやかさとか豊かさとは無縁の、庶民の悩みや夢を語っている。ダミアやピアフのシャンソンに似ている。演歌そっくりだと評する人も多い▼そのファドの女王と呼ばれるロドリゲスがいま、東京、大阪などでコンサートを開いている。3度目の来日だが、東京では追加公演をするほど人気がある。さすがに年配客が多くて、しかも男性が目立つ。最近の音楽会では珍しいことだ。「あの映画、たしか40円。1食ぬいて2度見たよ」という声も聞かれた▼ひとり客が多いのも目につく。ファッション化する最近の音楽会では、これもまれなことだ。ともあれ、ロドリゲスはあと1カ月ほどで66歳、グッドマンは77歳だった。 イメージ選挙 【’86.6.17 朝刊 1頁 (全857字)】  各党の選挙ポスターにはそれぞれうたい文句が並んでいる。苦心の作もあるが、総じていえば、個性がない。試みに、政党名を抜きにして並べてみようか▼(1)平和・健康・活力(2)汗と税ムダにしません(3)清潔・平和・生活向上(4)安心・安全・安定(5)地球へ未来へ平和へ(6)強い国家よりやさしい社会(7)円高苦境の克服と大型減税を。人語子などは、こう書き抜きながらもうどれがどの政党のものだったか、わからなくなっている。あなたは、おわかりになりますか▼ポスターの意匠はまことに色あざやかだが、やはり月並みなものが多い。それらしい父親や母親、それらしい子どもたちのそれらしい笑顔が並び、それらしい赤いバラや富士山がまことにそれらしく登場する▼革新をとなえる政党なら、なぜ、それらしさを打ち破るポスター文化を創造するくらいの才覚がないのだろう。若者たちに、家に持って帰って飾りたいという衝動を起こさせるだけのものがなぜ生まれないのだろう▼かくし絵・だまし絵的要素の恐ろしさもある。たとえば自民党のポスターには「着々と実行します。減税・行革・教育・福祉」とある。減税をするには財源が必要だ。それを大型間接税に求めるのかどうか。もし大型間接税を考えないというのなら、ほかにいかなる増税策があるのか。選挙が終われば「増税も着々と実行する」ことになるのではないか。減税だけを文字にして増税を隠すのは一種のだまし絵である▼西洋には、一見、柔和にみえる顔が、さかさまにみると恐ろしい顔になるだまし絵がある。「平和と軍縮の促進」をうたいあげながら「防衛費の1%枠突破」を考えているのか。「減税断行」をうたいあげながら「増税」を考えているのか。有権者としてはポスターの笑顔の底にあるものを見極めねばならぬ▼イメージ選挙とは、かくし絵・だまし絵をふりまく技術と、それを見破る力との競い合いのことだ。 自衛隊機の燃料切れ事故 【’86.6.18 朝刊 1頁 (全841字)】  10年前、ビルで火事があって、多くの人が非常口付近で折り重なるようにして亡くなるという事故があった。緊急の場合、人びとは多かれ少なかれ混乱する。ドアが内開きなのに、押そう押そうとして開かず、そのまま煙にまきこまれたらしい▼九州で事故を起こした自衛隊機のパイロットも、あるいは恐慌状態にあって、燃料切れという初歩的なミスを犯したのだろうか。乗員も脱出できたし、住民もぶじだったが、もし墜落場所が少しずれていれば大惨事になっていた。現場のすぐそばには、火気厳禁の高圧ガス会社があり、130人の社員が働いていた▼2機のF4EJは宮崎県の新田原基地をあきらめ、着陸地に福岡県の築城基地を選んだ。180キロも離れているが、この戦闘機なら15分ほどで行ける。燃料も大丈夫だ、とパイロットは判断したのだろう。ここに判断ミスがあった。2機が2機とも同じ判断ミスを犯した、というところが不気味である▼新田原基地は悪天候下にあったが、地上誘導で着陸できない状態ではなかったともいう。事実、2機が福岡へ去った直後に、別の1機がぶじに着陸している。さらに、墜落した2機は編隊を組んでいたようだが、これはおかしい、こういう緊急時には単独飛行が原則なのに、とあるベテランのパイロットはいっているそうだ▼「最近の若いパイロットは基地から訓練空域までの“通廊”を往復するだけで、未経験のところにほうりだされると混乱してしまいがちだ。教育訓練の反省材料の1つ」という意見もあった。未経験の異常事態にぶつかると混乱する、というのでは実戦には役立たない▼なぜ燃料切れの判断を誤ったのか。墜落の時に民家を避けることができなかったのはなぜか。厳しく究明すべきことは山ほどある。防衛庁は、事故の経過を「機密」にせず、国民の前に、とくに地元の人たちに対して詳細に公表してもらいたい。 不発、政策と政策の争い 【’86.6.19 朝刊 1頁 (全850字)】  「行政改革の力で日本はいまや、欲望無限の社会から調和と節度の社会に変わりつつあります。これを進めていくことが日本の道なのであります。これをやらせて下さい」(中曽根首相。渋谷駅前で)▼「3年半の中曽根政治は一言で表現できる。すべてに優先して軍事力の増強、これだけです。行革も軍艦や大砲をつくる費用をひねりだすためだった」(石橋社会党委員長、群馬県庁前で)▼「中曽根さんは自分の政治の審判を受けたいといっています。私のこの頭にはそこがよくわからない。軍拡を評価してくれということですか。円高不況で倒産が続く。それを評価してくれということですか。福祉の後退、これを認めてくれということですか」(竹入公明党委員長、池袋駅前)▼梅雨空の下で、参院選がはじまった。その内実はともかく、選挙とは、おもてむき政策と政策の争いである。であるとすれば、与野党とも、もっときちんと政策の中身を示すべきだろう▼今回の野党党首の中曽根攻撃にはなぜか、かなりの迫力があったという。だが、野党は同時に、わが党の政策を説くのにもっと熱心になった方がいい。大減税の財源をどうする。教育改革をどうする。力をつくしてそれを訴えるべきではないか▼平和、軍縮、老人福祉、がん撲滅。口あたりのいい言葉をちりばめた首相の演説を渋谷駅前できいた。首相は政策にふれてはいる。だが、重要な政策の提示は巧妙に避けている、と思った▼これからも医療、年金などへの支出を厳しく抑制し続けるつもりなのか。首相のいう「老人の福祉」重視には、どんな政策の裏づけがあるのか。減税断行のためにどんな増税策を考えているのか。防衛費の突出は続けるのか。そういうことには、まったく答えていない▼かくて、政策と政策とが火花を散らすこともなく、選挙は続く。明治時代の狂歌に。「艶舌と手管でいつかごまかされ あつくなる程ひやひやとよぶ」 南アの暴動とアパルトヘイト 【’86.6.20 朝刊 1頁 (全851字)】  いま南アフリカ共和国で問われていることは、すさまじい殺戮(さつりく)が続いている事実だけではない。その実情が政府によってひたすら隠されている、ということだろう▼「政府は退陣せよ」と主張した黒人向け新聞はたちまち押収されている。あまりにも厳しい報道規制に抗議して、地元の最大の英字紙スターは「なんじら知るべからず、ということか」と題する社説を掲げた▼暴動による死者はこの21カ月間で約1800人にのぼる、と南ア人種問題研究所は発表している。治安部隊に射殺された黒人もいるし、黒人同士の抗争で殺されたものもいる。ガソリン漬けのタイヤを首にかけ、火をつけて焼き殺すという残忍な私刑も続発したという▼「南ア各地で起こっている暴力行為はすべてアパルトヘイト(人種隔離)政策のせいだ」といったのは、この国が生んだノーベル平和賞受賞者、ツツ主教である。南アでは、黒人は白人居住区には住めない。学校も病院も海水浴場も、白人と黒人とでは違う▼黒人たちは職を求めて都市近郊に「不法」に住みつく。ケープタウン近郊のスラムの写真を見たことがある。裸の黒人少年たちがかけ回っている。トタン板の小屋が密集している。これが人間の住むところか、と息をのむ思いだった▼そのスラムも、黒人過激派退治と称して次々につぶしている、という報道があった。小屋を押しつぶしても、アパルトヘイトに抗議するうめき声を押しつぶすことができるはずはない。南アの苦悩は深い▼西側諸国の南アに対する経済制裁ははかばかしく進まない。理由の1つは、西側諸国がこの国の貴重な鉱物資源に依存しているからだ。マンガン、クロム、バナジウムなどの重要な資源を輸入している日本もまた、例外ではない▼「白人は黒人を人間として認めよ」というツツ主教の叫びは、鉱物資源の金属音にかき消されて、国際舞台では聞き取りにくいものになっている。 麻薬探知犬リーファー 【’86.6.21 朝刊 1頁 (全852字)】  麻薬探知犬のリーファーが空港で見事な働きをしたという記事を読み、ニュースの主に会いに行った。黒ずくめの顔、体のせいか、一見、いかつい感じだが、茶色の目がやさしい。歓迎のしるしに筆者の顔をひとなめしたあと、担当の取扱官に顔をこすりつけるようにして甘えていた▼アメリカ生まれのリーファーは、病弱である。腰痛の手術もあった。フィラリアもあった。耳の凍傷もあった。「病身にむち打っての活躍です」と東京税関の花岡上席監視官がいった。「彼がやるならわれわれだって、とほかの犬の励みになっているはずです」▼麻薬探知犬は常時、成田空港の敷地の一隅にいる。数日前、羽田に派遣されたリーファーは、荷物の流れの中をかけめぐっているうちに「これ、ちょっとにおうぜ」という様子をしてみせた。確信ありげに前足でかくしぐさもした。かばんには2キロ近い大麻が隠されていた。末端価格1000万円相当である。リーファーは去年も約7キロの大麻の密輸を見破っている▼どんな犬でも麻薬探知犬になれるわけではない。1年間に160〜170頭の犬を見て歩いても、適性のありそうなのは12、3頭である。しかも、訓練の結果、1頭も合格しないことがある▼過保護の犬はいけない。健康で、好奇心や独占欲が強くて、攻撃力があって、においを探る集中力があって、一匹オオカミ的で、と花岡さんがその特性を数えあげた。つまりたぶんに野性的であることが必要なのだ。そういえば、リーファーの仲間であるたれ目のジョンもジャックナイフのサイアムも令嬢シェリーも、かなり個性的な犬たちにみえた▼かばんを二重底にする、香水をふりまいて麻薬のにおいを消す、という人間の浅知恵も、探知犬の野性的な、ふかしぎな嗅覚(きゅうかく)にはかなわない。コンピューターの支配する空港の世界で、犬の野性の中の野性がものをいう、というところがおもしろかった。 騒音選挙 【’86.6.22 朝刊 1頁 (全839字)】  選挙になれば、一斉に街は騒がしくなる。透明人間のような存在だった政治家たちが急に現れて手を振り、頭を下げ、お願いしますを連呼する▼騒音選挙をしのぐには、演説の切れめで常に「それにつけてもウソのうまさよ」をつぶやくに限る、という人がいた。清潔な政治をしますと人はいうそれにつけてもウソのうまさよ。増税は致しませんと人はいうそれにつけてもウソのうまさよ。公約は守る守ると人はいうそれにつけてもウソのうまさよ。だが、この程度のつぶやきでは、騒音選挙のうっとうしさは撃退できまい▼本紙地方版にいくつか、日本在住の外国人の選挙風景寸評がでていた。やり玉にあげられたのはやはり「政策なき騒音」のことだった。「アメリカの候補者は有権者に情報を与えているが、日本では印象しか与えていないようだ」と手厳しい▼「街頭の宣伝カーのうるささと正反対の、大学キャンパスの余りの静けさに日本の将来が心配になるほどです」という大学講師の意見もあった。「耳がおかしくなりそう」「なぜみんなうるさいと文句をいわないんですか」と騒音批判が続出していた▼そういう騒音選挙の中で、無声の時が流れる政見放送が生まれる、というのはどういうことだろう。参院選の東京選挙区に立った雑民党の候補は聴覚障害者のため、政見放送の録画撮りを手話で行った。そのさい手話通訳や字幕を求めたが認められなかった、というのである。この候補の政見放送はテレビでは手話だけ、ラジオでは無声となる▼自治省は、比例区以外の政見放送は「候補者本人に限られる」という規程などを理由にしているが、これはいささか、しゃくしじょうぎなやり方ではないか。立会演説会が続いていたころ、自治省は「聴力障害者の便を図る」ため、手話通訳をつけることを指導していたはずだった▼極端な騒音と、政見放送の沈黙と。選挙は文化の縮図だ。 子どもとテレビCM 【’86.6.23 朝刊 1頁 (全839字)】  子どもがよく見るテレビ番組にはどうしてCMが多いのだろう。「子どものテレビの会」という市民グループがさきごろ、東京の5つの民放キー局について、アニメ番組などの多い午後6時から8時までのCM時間を1週間にわたって調べた▼視聴率が高い時間帯だけに軒並みCMが多い。とくに6時台は4局までが20%を超えていた。いちばん多い局は24.3%、つまり放送時間1時間のうち15分近くがCMで、本数にして50本を数えた▼民放テレビには、週間のCMの総量は総放送時間の18%以内にとどめる、という放送基準がある。20%を超す時間帯があっても、全体にならして18%以下に抑えてあれば、基準を守ったことになる。けれども、よりによって子どもの時間帯にCMを集中させるのはどんなものだろうか▼30分のアニメ番組などで、5分おきくらいに番組をカットしてCMを入れているのがある。番組の前後なら堂々と入れられるというので、5分、4分、3分というミニ番組をいくつも作ってCM時間をかせいでいるのもある。こういう実情は、だれかが調べないかぎり、ほとんど見過ごされてしまう▼CMの中身を見ると、菓子、ファストフード、おもちゃなどの商品が多い。それも、子どものアイドルになっているアニメの主人公や歌手、タレントを使ったものが目立つ。景品や懸賞のついた商品の場合などは、商品よりも景品や懸賞の方を強調しているように見える▼子どもは、現実とつくりごとの区別が大人ほど上手にできない。好きな歌手やタレントが出てきて新しい商品などをカッコよく紹介すると、子どもの欲望は限りなくふくらんでいくに違いない▼テレビのCMは、子どもを、新製品などにはとくに弱い「商品人間」に仕立てあげていくのではないか。そこを反省してほしいと、このほど「子どものテレビの会」は民放5局に申し入れをした。 沖縄戦の実相を伝える記録映画 【’86.6.24 朝刊 1頁 (全858字)】  沖縄戦の実相を子に伝えようという1フィート運動が、新しく『沖縄・未来への証言』という記録映画をつくった▼戦火の記録が中断して、突然、琉球古典舞踊「伊野波(ぬは)節」の舞い姿が2、3分も続く、という大胆な演出があった。濃い墨色の世界で幻のように踊るのは琉舞の名手、佐藤太圭子さんである。手の動きにこまやかな情感がある。人語子は、沖縄のジャーナリストたちと一緒に見たが、見終わるとだれもがこの場面の力動感を口にした▼伊野波節は、恋の未練の歌だ。戦に花を散らすよりは、恋に花を散らすことをよしとする人たちの歌である。玉砕よりも瓦全(がぜん)を選ぶ人たちの思想に支えられた生命賛歌の主張が、この踊りの場面にはあった▼沖縄戦では、生きて虜囚のはずかしめを受けずの教えの下に、住民の集団自決が続いた。映画では、次のような証言がある。「私は14歳だったが、年上の青年たちと切り込みに行く前に、生き残っている人を刺し殺した。子供は背中から刺し、女の人は胸を刺した。年寄りは首に縄を巻いて木にくくりつけた。死んだ者を並べて寝かせたら長い列ができた」▼だが、沖縄戦では、玉砕を拒んで生き抜いた人も少なくなかった。洞穴の中で、深い井戸の底で生きながらえた人びとの姿を米軍は撮影している。玉砕を美化した軍国主義教育も、民衆の生命力を金しばりにすることはできなかった。映画は、戦争のみじめさ、おろかしさを告発しつつ、瓦全のたくましさを淡々と描いている▼1フィート分100円の寄金で米国の公文書館にあった沖縄戦の記録フィルムを買う運動が、この映画を生んだ。沖縄では今、500円の映画製作協力券を買う形で、上映運動が続いている▼きのうの「沖縄慰霊の日」を前にして、現地では全面核戦争を想定した米戦略空軍の大演習が続いたという。基地があるために戦闘にまきこまれた沖縄の人たちの傷跡は、今もうずいている。 「選挙性増税隠し症」 【’86.6.25 朝刊 1頁 (全846字)】  3年前の選挙のとき、中曽根首相は減税を約束している。「増税をしないと公約する」とさえ明言している▼しかし選挙が終わるやいなや、法人税、酒税、物品税の引き上げなどの増税、となった。平年度の減税8360億円、増税9930億円。差し引きでは増税分のほうが多くなり、選挙公約なるもののはかなさを見事に証明した▼今回の選挙で、首相は「大型間接税の導入は考えていない」と公約している。だが、3年前に苦い思いをした有権者の中には、次のような不信感をもつ人が少なくないのではないか▼(1)政府税調は選挙後に減税案の財源措置、つまり増税策を検討するが、そこで大型間接税が検討されないという保証はない。小倉会長も「財源として新税を考えないことには大型減税の要望にはこたえられない」といっている。年度がずれることがあっても、間接税はまた浮上してくるのではないか▼(2)首相は政府税調に「増減税差し引きゼロ」を示唆する諮問をしている。これをすなおに受け取れば、減税策にみあう増税策が何らかの形で現れるのは当然のことだろう▼(3)首相は、減税の財源に、国有財産の売却などの税外収入をあてたいともいう。だが、前の選挙でも自民党は「財源として税外収入の確保に重点をおき」といっていたが、結果的には増税を財源にしたのではなかったか▼(4)だいたい、減税の規模さえ明らかにせず、その財源をきちんと数字で示しえないような公約が「減税政策」の名に値しようか。「増減税はワンセットの改革である。それを分離して、都合のよい部分のつまみぐいをするのは無責任だ」という意見が自民党幹部の中にもあった▼(5)財政再建を進めながら減税をするのなら、一方でなんらかの増税をせざるをえない状況にあることを、首相はごまかさずに訴えるべきではないか。「選挙性増税隠し症」の方が、お化けとしては気味が悪い。 梅雨の風情 【’86.6.26 朝刊 1頁 (全839字)】  「梅雨がなかったらどんなにか私はものたらぬことであらう。それは春と夏とのあひだに特殊な風情のある季節をつくってゐる」と書いたのは中勘助である▼風情ということばには味がある。お前ら風情とか記者風情とかいえば人を卑しめた表現になるが、雨に濡(ぬ)れる木々の風情といえば、独特のおもむき、味わいの意味になる▼梅雨の日々は、じめついて、うっとうしくてたまらない気持ちにもなるが、どことなく、しみじみとした落ち着いたけはいが、天地に満ちる。私たちが、春と夏との間にあるこの季節にしみじみとした落ち着きを感じとるのは、それが人びとの生存に深くかかわっていることをわきまえているからだろうか▼つゆは稲を育て、森を育てる。梅はふっくらとふくらみ、ビワは色づき、ジャガイモはみるみる大きくなる。草木は雨を吸い、たくさんの栄養をとって夏に備える。ついこの前までかよわくみえた若葉は、雨に打たれ続けて一人前になってゆく▼「梅雨は空の洗濯屋さんだ」といった人がいる。長雨は、大気中のチリを流し、空気を浄化してくれる。実際、梅雨がなければ日本の季節はずいぶんだらしない感じのものになってしまうだろう▼ドクダミが白十字の花を咲かせている。白十字が三重、四重になった八重咲きのドクダミもあって、今年初めてその花をみた。ドクダミは、においをきらう人が多いが、民間薬として重宝がられてきた。ふえすぎるからといって抜いても、これを根絶するのは難しい。地中に四方八方に白い地下茎を伸ばしているためで、生命力の強い草だ。木下夕爾の句に「明日をたのむこころどくだみ夜を匂う」。夕爾も、その生命力にひかれたのだろうか▼ムラサキツユクサ、クチナシ、シャラノキ。つゆに咲く花にはそれぞれ風情があるが、ごくありふれたドクダミの花が、雨に打たれて咲く風情にはとりわけ捨て難い味がある。 パソコン通信 【’86.6.27 朝刊 1頁 (全851字)】  アメリカの学生たちの間で、こんなことが起こっている。「今、あなたのところへメッセージ送ったからね」「そ、ではね」。廊下で会った隣同士の学生がそういいあって、それぞれの部屋へ消える。コンピューター・ネットワークで意見や情報のやりとりをしているのだ。パソコン通信が生活の中にとけこんでいるらしい▼留学中、このことをつぶさに学んだ三宅なほみさんは、今、青山学院女子短大の助教授として、学生たちにコンピューター・ネットワークを使った比較文化研究の指導をしている▼たとえば、日本の学生たちが「中学生の戦争意識」を調べ、その結果をパソコンで米国の学生たちに送る。情報を受け取った米国側も、同じような調査をして、結果を日本に送ってくる▼米国の中学生は真珠湾攻撃のことも原爆投下のことも知っている。日本の中学生は原爆投下は知っているが、真珠湾攻撃を知っているものが半分しかいない、ということがわかる。被害者意識ばかりではなく、「日本が他国で何をしたかを知ることも大切だ」と学生たちは考える▼日本の百科事典の情報をもとに、イスラエルの学生にたくさんの質問をしたこともあった。「祭礼の間はブタやネコなどの動物は食べないとありますが、ふだんはネコを食べるのですか」。「ネコを食べるなんて、きいたことがありません」。こういう日常的な、ナマの声の交換から、交流は始まる▼パソコン通信の利用は電話よりも安いし、手紙よりもはるかに速い。速報性、正確性、経済性などですぐれているし、時差の影響で相手に迷惑をかけることもない▼学生たちの2年間にわたる実践の報告書を読んだ。異文化にふれ、驚き、学び、視野をひろげ、生きた英語を身につけてゆく姿が手にとるようにわかった。外からの目に照射され、日本人の姿をより深く知りうる、という効用もあったようだ▼ネットワークの利用で、地球はますます狭くなる。 中曽根首相と党首公開討論 【’86.6.28 朝刊 1頁 (全851字)】  中曽根首相は野党のことを幼稚園なみ、ときめつけた。その幼稚園児に寄ってたかっていじめられては大変だと恐れているのだろうか。野党のいう「党首公開討論」に対して、首相は各党首総あたりのリーグ戦方式がいいと主張しているが、これはあまり説得力がない▼自民党の金丸幹事長は野党の連立を「シャモとニワトリとネコを一緒にしたようなもの」とからかっている。シャモとニワトリとネコに囲まれては、いかにおしゃべり好きのカザミドリも風向きが悪いと判断したのだろうか▼かつての池田首相は、リーグ戦方式などとはいわなかった。社会党の申し入れに「積極的に応じてもよい」と受けて立ち、社会党、民社党との3党首テレビ討論が実現した。NHKの視聴率は47.9%だった。当時の新聞を読むと、堂々と高度成長政策をのべ「貧富の差がひどくなるというが、それは観念的だ」などとやり返している▼今回の選挙では政府・与党の政策がいちばん大切な争点だ。首相はその第一声でも「中曽根政治にみなさんのご審判をいただきたい」といっている。そうであれば、首相は、野党の追及を受けて立つ中心人物でなければならぬ。シャモ対ネコの討論も、それはそれでおおいにやってもらいたいとは思うが、選挙の中心課題は、中曽根政治を問うことにあるはずだ▼自民党や野党の政策にはあまりにもあいまいな点が多い。首相は「思い切った減税」の財源をなぜ数字で示さないのか。大型間接税は、62年度だけ見送って、63年度に浮上させるのか▼首相はしきりに軍縮を説くが、それをどう実現させるのか。国家秘密法はいつ提出させるのか。野党は野党で大減税を訴えているが、その財源探しに自信があるのか▼党首討論の論議は、そういうあいまいな部分のホンネをききたいということで始まったのに、今、討論賛否のホンネさえわからぬまま、時間切れがせまっている。おかしな選挙だ。 6月のことば抄録 【’86.6.29 朝刊 1頁 (全859字)】  6月のことば抄録▼「今や状況が変わりミズ(Ms.)は米国のことばの一部になったと判断した」とニューヨーク・タイムズ紙。これからはミス、ミセスのほかにミズも使うことにしたという▼「高倉健さんなんかどんな疲れた時でもビシッと背筋をのばして立ってらっしゃる。私、主演やるならああでなきゃといわれて健さんまねてみたら、肩がこって3日と持たないの」といったのはミズ薬師丸ひろ子▼「ウソをいわない、礼儀を守るという基本を子どもに教えこむべきだ」と中曽根首相。解散の日、「解散はいつきめたのか」の問いに首相は答えた。「けさだ」。ウソをいわないという基本を政治家に教えこむのは難しい▼佐渡のトキ「アオ」が死んだ。「人間がひとつの種を絶滅寸前に追いこんだ罪の深さを、アオの死をきっかけにもう一度強くみつめ直したい」と多摩動物公園の中川志郎園長▼「三宅島の訓練飛行場建設はアメリカの代表的な国立公園イエローストーンにダムを造るようなもので、乱暴だ」と国際鳥類保護会議のピータソン会長。大会は米国への勧告を決議した▼「われわれの町には多くの人が避難してきているが、新聞もラジオも何も伝えてくれない」。プラウダ紙への投書。原発事故報道への不満がソ連国内でも高まっている▼三段跳びで日本新の山下訓史さんが「僕は観客に応援されるとうれしくて、練習より1メートルぐらいは記録が伸びる」と新人類的発言▼ちまたでは選挙戦が続く。「円高対策をきちんとした上での解散なら話はわかる。実際は解散をやりたいばっかりに円高をダシに使っただけじゃないか」という陶磁器業界の声があった▼「このお金は先祖の残した土地を先年売って、かわりの土地を買おうと思っていた金ですが、もういりません。中国残留の日本人孤児たちが1人でも多く中国と日本を行ったり来たりできるよう使って下さい」。厚生省に、匿名で2000万円の寄付があった。 パリの歌舞伎 【’86.6.30 朝刊 1頁 (全843字)】  評判の片岡孝夫と坂東玉三郎のパリ歌舞伎公演を見た同僚から、次のような感想を聞いた▼孝夫、玉三郎のTアンドTの前評判はすばらしく、モガドール劇場(1700席)は超満員だった。玉三郎があやしい美しさをいかんなく発揮した「鳴神」に続いて、怨念(おんねん)のドラマ「かさね」が上演された▼かさね(玉三郎)を殺害した与右衛門(孝夫)が逃れようとすると、怨霊となったかさねが、超自然的な力で与右衛門をとらえて放さない。必死であらがう孝夫はもがきながら舞台と花道を一進一退▼日本とは勝手の違う変形の花道だったが、孝夫は「連理引」といわれるこの型を迫力ある演技でこなし、玉三郎も情念のこもった芝居でこれに応じて異国の観衆を魅了した▼いつもは厳しい表情の国際的なバレエ振付師ベジャールさんが夢中で「ブラボー」を連呼する姿が印象的だった。「アンコール」も9回、これほど熱気のこもった拍手はパリでも異例のことだ▼見せ場の多い「鳴神」よりも、ダイナミックな心理の葛藤(かっとう)を描いた「かさね」の方がさらによかったという声が多い。フランス人らしい面白い反応だと思った▼パリ歌舞伎公演の大成功はTアンドTの人気と実力によるものだが、背景に、19世紀末のジャポニズム以来という欧州の空前の日本ブームがあることも事実だ▼「ふらんすへ行きたしと思えども」という有名な詩句を持ち出すまでもなく、明治以来われわれは欧州、ことにフランス文化に片思い的なあこがれを抱き続けてきた。ところがいま文化の交流に「逆転」が起ころうとしている――というのが同僚の話だ▼年末にパリのポンピドー・センターで大規模な「日本前衛展」が予定されているのも、その1つの表れか。「文化のただのり族」から文化輸出国への発想の転換は容易ではないだろうが、本格的な対外文化政策づくりを急ぐよう政府に望みたい。 W杯サッカー・メキシコ大会 【’86.7.1 朝刊 1頁 (全847字)】  現役時代の釜本邦茂さんのシュートは時速130キロはあった。それがカパーンという音と共にネットに突き刺さる。シュートを浴びたゴールキーパーが、右のてのひらを裂いてしまったことがあった▼サッカーは激しいスポーツだ。体と体が激突する。倒れたまましばらく起きあがれない選手が続出する。サッカーあへん説が生まれるのも、その激しさのせいだろうか。人びとは選手たちの死闘に酔い、「国家的熱狂」の中に身をおくことで、日ごろの不満を発散させる▼メキシコ市のアステカ競技場をかけめぐるアルゼンチンのマラドーナ選手の姿を、夜明け前のテレビでみた。しろうと目には、ボールを操るというよりも、ボールのほうがマラドーナの足にじゃれて、まつわりついて離れないようにみえる▼ワールドカップ大会の決勝戦は、タンゴのアルゼンチンと行進曲の西ドイツとの勝負だといった人がいた。奔放なタンゴの踊りが、整然たる行進曲の乱れを誘って試合をきめた▼サッカー人気はいまや、地球的規模である。NHKには、ワールドカップの番組に関する問い合わせが、東京だけで6600件を超したという。各国の様子をみると、その熱狂ぶりは尋常ではない。アルゼンチンの優勝がきまると、首都の広場には数十万人が集まり、お祭り騒ぎの中で3人が死に、約50人が逮捕された▼ブラジルが敗れた日のリオでは、ファン同士のけんかなどで5人が死んだ。地元メキシコでは、自国チームの初勝利の日に群衆が騒ぎ、十数人の死者がでたともいう▼国をあげての祭りの陶酔のあと、人びとは厳しい現実に直面する。とりわけ地元メキシコは、経済危機の現実に立ち戻ることになる。1000億ドル近い対外債務、大地震の災害、石油価格の暴落、失業率40%、という最悪の状態にあって、はたして起死回生のシュートはあるのか。「宴(うたげ)のあと」のわびしさはひとしおだろう。 にせ犬枕・選挙編 【’86.7.2 朝刊 1頁 (全837字)】  にせ犬枕(選挙編)▼頭の痛き物・梅雨空の下の選挙運動、演説するに人の集まらぬ、握手するに人の寄りつかぬ▼見苦しき物・絶叫調の演説、人目ひかんとする候補者の土下座、それに従う運動員の集団土下座▼身の毛立ちする物・ねこなで声の甘い公約、ばかていねいな敬語▼見たき物・浮動層の浮気心の胸の内、ポスターの笑顔の裏側、しめて数千億円にのぼる選挙資金の使われ方、選挙後にらむニューリーダーたちの心の中▼知りたき物・減税の財源▼つれづれ慰むる物・テレビ政見放送の話し方採点、選挙公報の文章採点▼きたなき物・テレビニュースで大写しになる候補者の歯、あまりに欲の深き政治家、相も変わらぬ金権選挙、有権者にばらまかれたる封筒入り現ナマ、有権者のもらい慣れ、有権者のたかり慣れ▼きれいな物・もしあらば無欲の政治家、もしあらばウソいわぬ政治家▼有り難くかたじけなき物・遠くにありて手を振る有権者、「ビタミン剤」の名にて派閥ボスより配られたる陣中見舞金▼いなせたき物・門口の連呼▼腹の立つ物・口先だけの減税約束、手話通訳なきテレビ政見放送、血税使う利益誘導に狂奔する政治家、「当選できれば次は大臣です」なる訴え方、党利党略のオモチャにされたる円高問題▼いやなる物・ウソにみがきのかかりたる政治家、新駅設置を公約する我田引鉄発言▼恥ずかしき物・スキンシップという名の握手戦術、野党のけんか▼肝要なる物・心打つつじ説法▼なりそうでならぬ物・党首討論、与野党逆転▼問いたき物・2世候補の続出するふしぎさ、若手官僚候補の続出するふしぎさ、密室できまる比例区名簿順位のふしぎさ、争点から消えし政治倫理のこと、大型間接税の行方、スパイ防止法案の行方▼恐ろしきもの・選挙後の大増税、政治家の「寝たふり」▼笑止なる物・清潔ならざる人の白バラ、白手袋、当選直後の追加公認。 藤原操の遺品 【’86.7.3 朝刊 1頁 (全849字)】  「万有の真相はいわく不可解」のことばを残して、18歳の藤村操が日光・華厳の滝に飛びこんだのは83年前だ▼当時の朝日新聞に、叔父の那珂通世博士が書いている。「いかなればかかる極端の厭世家を生じたるか。思へば不可思議なり。嗚呼(ああ)哀いかな」。以後、華厳の滝に消える後追い自殺が続出することになる▼藤村操には片思いの女性がいた、という記事があった。旅立つ直前、本郷弥生町に住む小町娘、馬島千代さんに手紙と高山樗牛の『滝口入道』を渡したという。本には「色ハ花よ、無常の嵐に散りもせむ、愛ハ月よ、真如の光に春秋のけじめのあるべしやは」という書きこみがあった▼2人の仲は、操少年が時々手紙を手渡すていどのものだった。明治36年といえば、警察が歌舞伎の世界に口をだし、40男が小娘と契りを結ぶ内容は不謹慎だといって狂言を変更させるような時代だ。若者のつきあいはずいぶん窮屈なものだったろう▼どういういきさつがあったのか、少年は死を選ぶ。自分の死によって1人の少女が迷惑をこうむることを恐れる配慮もあったのだろうか。少年は「恋は不可解」と胸の内を書き残すかわりに『滝口入道』の本を残した▼遠い日の千代さんの写真を見た。佳人である。佳人はやがて結婚し、4年前、97歳で亡くなった。その遺品の中から操の手紙と1冊の本(滝口入道)がでてきた。昔、家族の人から「焼いてしまいなさい」といわれたのに大切に保存していたのである▼千代さんが、操の肉筆を、焼かず、捨てず、さりとて世間に明かすこともなく、約80年間、ひそかに持ち続けたというエネルギーに驚かされる。こうして、ある明治の青春の存在証明は失われずにすみ、私たちは「巌頭之感」の底に隠された人間らしいうめき声をうかがうことができる▼遺品は、千代さんの子、崎川範行さん(東京工大名誉教授)の手で日本近代文学館に寄贈される。 SDI計画と国家秘密法案 【’86.7.4 朝刊 1頁 (全842字)】  ノーベル物理学賞を受賞したことがある米国のフィリップ・アンダーソン教授がいっている。「プリンストン大学には、国防総省の援助で長年、軍事科学を研究してきたグループがある。その彼らでさえ、ひそひそ話ではSDI(いわゆるスターウオーズ計画)は実現できそうもないといっています」▼SDIの開発で米国民を守ることは技術的に不可能だし、米ソの軍拡競争はさらに激しくなる、といわれている。全米科学アカデミー会員を対象にした調査がある。SDIはうまく機能するかの問いに、イエスはわずか2人、ノーは460人である▼さらに、SDIの研究を拒む署名をした科学者は6500人に達している。科学者の運動としては「今回ほど全米にまたがる先鋭な動きは初めて」という評もあった。宇宙の軍事化は人類の未来にかかわること、という危機感があるのだろう▼さて、日本がもし、バスに乗り遅れまいとしてSDI計画に参加した場合はどうなるのか。今まで平和産業の中で先端技術の開発を続けてきた日本の研究成果の一部が、軍事機密の名でしばられることはないのか。技術の成果を自由に活用できなくなることはないのか▼中曽根首相は、選挙後、スターウオーズ計画への協力にふみきるつもりなのか。この計画が軍拡競争をあおるという恐れを、どう考えるのか。それらはうやむやにされたままだ▼SDI計画と関連がある国家秘密法(スパイ防止法)案の問題もある。世論の反撃で廃案になったのにまた修正案が浮上してきた時、自民党の首脳がいった。「戦前の特高警察が人権をふみにじり、個人のプライバシーを侵したようなことを繰り返してはならない」▼いま、首相は国家秘密法案について「未定だ」としかいっていない。もし選挙後にこの法案を国会にだすつもりならば、それを隠さず、修正案の是非を有権者に問うべきではないか。隠し球はいけない。 拓大空手部のしごき事件 【’86.7.5 朝刊 1頁 (全837字)】  拓大の空手部には「しごきの場合には頭を殴るな、腹をけるな」という鉄則があるそうだ。今度の集団リンチではそれが破られた。亡くなった1年生は頭に打撲傷があり、腹に3カ所の内出血があった▼1年生たちは「目を開けるな」といわれている。攻撃に対して本能的に防御の体勢をとることができないまま、暴行を受け続けた。無抵抗のものをなぶる。スポーツの世界でなぜ、これほど卑劣で、残忍で、うす汚い行為が幅をきかせているのだろう▼「殴っているうちにね、自己陶酔に陥るんですよ」。ある大学の体育会に所属していた若者がいっている。「とめるやつがいないと死ぬまでやってるんじゃないか、と思うことがありましたね」▼「殴られる下級生は、耐えることで、たたかれながら生き抜くことで一人前になると自分にいいきかせる。しごきの後、はいつくばって部屋に戻って、かばいあうんです。どんなにひどい目にあっても、外部に漏らすまいとするから、しごきはめったに表面にでない。こういう雰囲気がある限り、リンチ事件はなくなりません」▼体育会のリンチは密室性をもっている。どんなに侮辱され、殴られ、鼓膜を破られることがあっても、まず内部告発はない。下級生は上級生になるまでのがまんだと耐え、「根性を鍛える」という名目の暴行が告発の正義をおさえこんでしまう。すべての学校がそうだとは思わない。だが、密室的な体質があるところでは、きょうもあすも、しごきという名の卑劣な行為が続くことだろう▼拓大の責任者は、8年前に応援団内部のリンチで新入生が亡くなった時も「再び暴力事件を起こさないよう検討したい」といった。今回も「二度と不祥事が起こらぬ対策をたてる」といっているが、この発言がなんとうつろに響くことか▼いま必要なのは、おざなりの対策ではない。スポーツ界の膿(うみ)を見つめる勇気だろう。 無党派層の浮遊現象 【’86.7.6 朝刊 1頁 (全838字)】  作家は政治に参加すべきか、という問いにフランソワーズ・サガンは答えている。「作家は政治に興味を持つなら持つ、持たないなら持たないでいるべきなんです。つまりは自由だということです。ある種の問題に自分がかかわりがあると感じるのなら、やるわけです」(『愛と同じくらい孤独』)▼党派にとらわれぬ、自由な選択、自由な参加が大切ではないか、という主張である。当たり前のようにもきこえるが、昨今のいわゆる無党派層の中には案外、このサガン的な発想があるのではないか▼6月末の本社世論調査では、無党派層は、約40%にもなっている。自民党の支持層を抜いている、というから事実上の「第一党」はこの正体不明の怪物、ということになる。とくに20代では、半分が無党派層である。怪物の動きいかんが選挙結果を左右する、といっても過言ではない▼無党派層の中には、政治に背を向ける単純な無関心派もいるだろう。自分が1票をいれようといれまいと政治は変わらない、という無力感を持つ人もいるだろう▼だが、その正体は、既成の物差しでははかれない。支持政党を固定的に考えずに自由に選択する、既成の政党にしばられず、政治の世界に新しい変化を求めようとする、その時の政治情勢に鋭敏に反応してなだれ現象を起こす、鋭敏だがイメージに影響されやすい、そういった特徴があるだろう▼保守を支持するが独走をきらって与野党伯仲をよしとする人もいようし、衆院はA党、参院選挙区はB党、比例区はC党という異党派投票を試みる人もいるだろう▼筑波大の蒲島助教授たちの追跡調査では、80年の同日選挙で自民党に投票した有権者のうち、次の選挙では28%が他の党に回ったり、棄権したりしていた。大都市部ではそれが4割にも達していた。無党派層の浮遊現象である▼プロの選挙参謀も、この浮遊現象を読み切れないでいる。 桜島の叫び 【’86.7.7 朝刊 1頁 (全856字)】  「わがむねのもゆるおもひにくらぶれば煙はうすし桜島山」とうたったのは幕末の勤王の志士、平野国臣だった。いま生きていたら、「参りました」と、桜島に向かって土下座したかもしれない▼錦江湾に浮かぶ桜島の火山活動は相変わらず活発だ。爆発回数、降灰量とも観測史上最高を記録した昨年ほどではないが、それでも今年になって爆発は130回を超え、湾をへだてた鹿児島市の市街地への降灰は延べ七十余日を数える。これからの夏場、50万市民はうっとうしい降灰シーズンの本番を迎える▼灰は始末に悪い。ひどくなると、ザーッと音を立てて降りそそぐ。目やノドをやられる。洗濯物は外に干せない。カワラやアルミサッシ窓のすき間から部屋の中に侵入してくる。送電線、それに列車や市電の電気系統もやられる▼昨年1年間に市内の住宅街から回収した灰だけで2トン積みダンプカー5万5400台分にのぼった。クリーニング代、クーラーの電気代、目薬代など出費もばかにならない、と今春闘から降灰手当を要求する組合が現れた▼桜島の島内には8000人の住民が住む。灰だけではすまず、直径1メートルの岩やこぶし大の噴石が降ってくることがあるから、外出も命がけだ。島外移住の話も出ている▼世界でも珍しい都市隣接火山という特徴を生かして、逆に鹿児島を売り出そうという計画もある。鹿児島県は再来年、「火山と人の共存」をテーマに国際火山会議を開く。豪雪に悩む東北や北海道で灰を融雪剤として活用する研究も進んでいる▼本紙鹿児島版の「小さな目」に寄せられた小学生の詩に、こんな一節があった。「がまんできなくて時々小さなはいをだしている 桜島はだれかに小さくさけんでいる いつか思いっきりばくはつしてしずかなきれいな桜島になるだろう」。日本列島にはよほど不満がたまっているのか、専門家の予測によると桜島はあと10年ぐらいは叫び続けるのだという。 自民圧勝支えた集票体制 【’86.7.8 朝刊 1頁 (全825字)】  自民党のニューリーダーたちの動きはめまぐるしいものだった。3人ともヘリコプターなどで精力的に全国を飛び回った。程度の差はあれ「私が総理になるためには○○君の当選が必要だ」という訴え方をしていた▼熊本2区では定数5のところに、自民3、保守系無所属5の候補者が乱立した。ニューリーダーの競り合いが力を生み、自民・保守系が4位までを独占、社会党はかろうじて5位に入った。競り合いがむしろエネルギーを噴出させる結果を生んだ選挙区があちこちにあった。さて、祭りが終わって、ニューリーダーたちは今後いかなる精力的な動きをみせることになるのか▼「中央との太いパイプ」というおなじみの訴えも、ものをいった。宮崎2区で当選した元大蔵官僚は「主計官たちは頼みごとがあったらすぐきいてくれる」と演説した。長野4区の元通産官僚も「中央との太いパイプ」を訴えて当選した。いたるところで政・官合体パイプが威力をみせた▼参院比例区の当選者をみれば、元高級官僚群が自民党のゆたかな人材供給源であることがわかる。大蔵省、郵政省、農林水産省、建設省などの出身者が上位をしめている▼たとえば元建設事務次官は組織を利用して党員13万人、後援会員約500万人の名簿を集めた、というからすごい。この活力が「われらが選挙区でちゃんと票を出しておかないと陳情しにくくなる」という地元の思惑と結びつく。補助金や公共事業をばらまくことを約束し、そのかわりに票を得る。それが、全国に張りめぐらされた自民党のみごとな集票体制である▼自民圧勝の理由に、投票率の高さがある。ニューリーダーの活力がある。野党のだらしなさもある。だがやはり、その底流にあるのは、中央との直結を売りものにした集票体制の盤石の強さだ。自民党が、性能のいいパイプを製造する巨大な工場にみえてくる。 NHK「ことばの意識調査」 【’86.7.9 朝刊 1頁 (全856字)】  人も知る熱烈な阪神ファンの作家北杜夫さんがテレビで、ため息まじりにいっていた。「いいところで阪神が負けますとね。私はもうハンシンハンショウです」▼元西武選手の田淵さんがアナウンサーにきかれた。「現役時代、何回か壁にぶちあたることがあったでしょう?」。田淵さんはすまして答えた。「私は壁じゃなくて、よくタマにあたりました」▼テレビでこういう話をきくと得をしたような気持ちになる。落語、狂歌、川柳をもちだすまでもなく、日本人には、冗談大好き、しゃれ大好きの伝統がある▼さてしかし、と思わせるような興味深い調査があった。『NHK・放送研究と調査』7月号の「ことばの意識調査報告」である。NHK調査では「あなたは、しゃれや冗談をいうのが好きか」という質問に対して「好き」と答えた人が全体で38%だった。7年前の調査では53%だった▼つまりこの7年間で「しゃれや冗談をいうのが好き」な人が激減した、という薄気味悪い結果なのだ。10代も60代も、各年代男女を通じて、みごとに「好き」が減少している。これはいったい何だろう▼そういっては失礼だが、一部のテレビのハシャギスギ文化、政治風刺ぬきのギャグにあきあきして、そういうたぐいの笑いには背を向けたいという意思表示なのか。それとも笑うことに疲れ、おもしろがることを侮る人がふえてきたのか。この調査は時代の空気の変化を暗示している▼調査はさらに(1)使ってみたい流行語はない、という人がふえている(2)男性、とくに40代では話ぎらいの人がふえている、というこれもまた、注目すべき結果を伝えている。どこへ行っても黙々とカネをだし、電車内では黙々と人をかきわけ、しゃれや冗談や流行語には背を向ける。そういう黙々人間の大軍が粛々と行進する世の中になってきたのだろうか▼しゃれや冗談をおもしろがる精神の衰弱を、おもしろがるわけにはいかない。 平和相銀事件と元検事伊坂重昭 【’86.7.10 朝刊 1頁 (全840字)】  伊坂重昭は、いまの検事総長、伊藤栄樹氏の1期後輩になる。鬼検事といわれた河井信太郎氏のもとで働き、敏腕で知られた。その鬼才が30代なかばで検察畑を去った。よほどの事情があったのだろう▼やがて平和相互銀行の創業者、故小宮山英蔵氏に顧問弁護士として招かれ、ここでも異才を発揮する。小宮山氏の死後は「陰の社長」とも呼ばれ、権勢をほしいままにした。乱脈経営の中心にあって、政界や暴力団とのつながりも深かった。そしてこんどの逮捕である▼1人は検事総長になり、1人は特別背任の容疑者として、後輩たちの取り調べをうける身となる。逮捕された時、伊坂は激しくふるえていたという。小柄な元敏腕検事の胸に去来するものはなんだったのか▼伊坂は、政治家への裏金をとりしきっていた、といわれている。たとえば日銀の考査ではかなりの使途不明金が指摘されている。その多くがヤミの資金として政治家に流れたのだろう。こういう事件が起こるたびに、政治家の灰色の影がちらつくのが今や当たり前のことになった▼大蔵省が、平和相銀の乱脈経営を見すごしてきたところにも問題がありそうだ。そこにはたして、政治的圧力があったのかどうか。あったとすれば、いかなる政治的圧力があったのか。政治家がらみの不正はなかったのか▼日銀にとって、平和相銀は「考査のしにくい銀行」だったという。考査のさい「よろしく」といって圧力をかけにくる政治家がいたからだ。乱脈経営を利用して甘い汁を吸うのが政治家の「日常活動」であるらしい。国会でも取りあげられた「屏風絵(びょうぶえ)」疑惑をめぐっても、有力政治家の秘書の名が登場した▼平和相銀を吸収する住友は、不良債権の処理で当面、利益が落ちるだろう。従って、国に入る税金も減る。税の増収を叫ぶ大蔵省は、乱脈経営を見すごしたために、税収減の憂き目を見ることになる。 佐藤孝行代議士の最高裁上告取り下げ 【’86.7.11 朝刊 1頁 (全857字)】  自民圧勝のあと中曽根首相はしきりに「謙虚」を口にした。けっこうな話だ。謙虚とは自己肯定の抑制であり、自己の短所や誤りをすなおに認める精神、ともいえるだろう▼さあ、謙虚自民党の船出だ、というところにもってきて、首相側近の佐藤孝行代議士(無所属)が最高裁上告を取り下げるという。ロッキード事件の受託収賄罪をすなおに認め、有罪確定と共に議員を辞めるのか、なんと謙虚なことだろう。多くの人が一瞬、そう思ったはずである▼だが、そんな甘い話ではなかった。なんのことはない、居丈高な居直り声明である。「最高裁は不当な起訴を行わせることに手を貸した」とある。裁判所は「自己の誤りを正す勇気がない」から争うのはむだだ、という表現には恐れ入った。「自己の誤りを正す勇気」がないのは、どこのどなたか。読み上げられた声明文に謙虚さのかけらもないことを、佐藤代議士のために惜しむ▼上告取り下げをするつもりなら、堂々と選挙前にすればいい。選挙の時にはそれをせず、有罪の確定せぬ身で票を集め、当選するやいなや上告を取り下げる。有権者をだますようなものではないか▼前にも同じようなことがあった。この人は、26年前の総選挙のさい買収で起訴された。1審、2審有罪で最高裁に上告していたが、突然、上告を取り下げて有罪が確定、議員を辞めた。明治100年恩赦ですぐ救済されることを知っての芝居だった。今回も自民党復帰の道筋を読んで、「有罪確定」を選んだのだろう▼汚れたカネを受けとった容疑で起訴された政治家は、それだけでも辞職に値する。1審、2審で有罪ならよほどのことがない限りは辞職して、謙虚というものの範を示すべきだろう。それとも、自民党製の道徳教育副読本には「謙虚とは、自己の誤りをおおい隠して、他を攻撃すること」とでも書いてあるのか。そんな道徳教育を押しつけられてはかなわない▼国会の自浄力に期待する。 三宅島の決意 【’86.7.12 朝刊 1頁 (全851字)】  こんどの同日選挙で、自民党がものの見事に敗北したところがある。三宅島だ▼衆院選では、社会党候補1人の票が、自民党候補2人の合計票を大きく上回った。この島で前回トップだった自民党候補の票は599票から382票に減った。逆に社会党票は2倍に伸び、共産党票は4.5倍に伸びた。参院比例区でも、自民党票は減り、社共の票がふえている▼例の米軍機訓練飛行場建設問題がこの異例な結果を生んだのだろう。「自分は自民支持でしたが、今度はこの問題で反対してくれる党にいれました。島民はみんな利口になっていますよ。ゴリ押しの党は支持できません」。そんな島の人の意見を電話できいた▼自民党が札束攻勢にでた時、島の人がいった。「自民党の偉い人は島を宝の山にするというが、自然に恵まれた今の姿こそ宝の山です」。自然の恵みを守ることこそが自分たちの生活を守る、というのだろう▼三宅島の鳥は人おじしない。島の池で釣りをしているとヤマガラがくる。釣りざおにひらりと止まって、チョンチョンと移動したかと思うと、パッと飛び立って頭に止まったりする。天然記念物のアカコッコも、人に並んではねたりする。そんな話を鳥学者の樋口広芳さんが書いている(鳥の歳時記3)▼この生態系を生かし、島全体を鳥見物の名勝地にしよう、と多くの島びとは考えている。緑を守り、宝の山を守り抜こうという叫びには、生活をかけた重みがある。人びとは開発によるきょうの利益よりも、保護による未来の利益にかけている▼「世界中が心配しています。建設計画に反対されることを期待します」。世界野生生物基金総裁のエジンバラ公が中曽根首相に手紙を送ったことはこの欄でも紹介した。国際鳥類保護会議の国際大会でも反対の決議があった。世界の人びとが見守る中で、それでもなお、政府は建設を強行するつもりなのか▼三宅島の票は、三宅島の決意を示している。 立派な堤防… 支えるソフトは 【’86.7.13 朝刊 1頁 (全860字)】  そのころ、台風には米国女性の名前がついていた。キャサリーン台風が関東地方を襲ったのは、昭和22年9月半ばである▼数日来、雨が降り続いていた。3日間の雨量は安中市350ミリ、沼田市400ミリと記録にある。坂東太郎・利根川の治水の難所は、いまも昔も、渡良瀬川との合流点付近だ▼この地点での流量は毎秒1万7000立方メートルに達した。1000立方メートルといえば縦・横・高さ10メートルのビルと同じ。そんなビルが毎秒17個の勢いで転がっていく様子を想像すればいいだろう。敗戦直後のこととて堤防は貧弱であり、水圧でブルブル震えたという▼堤防を支えたのは人力である。農民が総出で土のうを作った。まる2日、頑張った。しかし16日午前1時、埼玉県大利根町地先でついに堤防が切れた。濁流が1つずつ、町を飲み込んでゆき東京下町が沈んだのは4日後の20日である。死者1100、流失家屋3万5000の被害だった▼約40年たったいま治水施設は格段に立派になった。上流に矢木沢などのダム群ができたし渡良瀬の合流地点には、大きな遊水池も設けられた。水圧の大きい地帯には、高さ13メートル、基底部の幅25メートルという堂々たる堤防が伸びている▼「キャサリーン嬢が再来しても、大丈夫か」と建設省の責任者にきくと「ソフトの方に、やや不安がある」という。ソフトつまり人力である。立派な堤防でも、モグラの穴もあれば、芝生がはげたところもある。いったん水が増えると土は弱いところから仮借なく削られる。漏水を探す巡視と土のうを積む人手が欠かせないのである▼東京に通うサラリーマンが増えた。かれらが雨の中、堤防に駆けつけてくれるかどうか。水防倉庫には袋や青竹を用意しているものの、土のうを作れるかどうか▼12日、取手市の河原に1都6県の水防団体の人たち3000人が集まり共同訓練をした。ソフト面の技術維持が主眼だった。 素人全盛のへたうま時代 【’86.7.14 朝刊 1頁 (全841字)】  俳優や芸能人が演技の上でとちることは、恥ずかしいこと、面目もないことで、できることならお客に見られないように、気づかれないようにするものだと思っていたら、近ごろはそうではないらしい▼テレビのバラエティー番組などには、その番組のビデオ撮りの際に出演者がせりふを言いちがえるなど、しくじったり、へまをやったりした部分だけをわざわざ集めて、番組の中で見せているのがある▼とちり特集とか、映画用語を使ったNG(ノーグッド)特集とか呼んで、一度は本番の放送でカットしたドラマの中のとちりの個所だけを拾ってきて1本の番組に仕立てたものまである。大まじめの演技の最中に、突然せりふを忘れてあわてたり、たばこに火をつけようとしてライターがなかなかつかなかったり、湯のみを持つ手がふるえてお茶をこぼしたり、そんなシーンばかりが出てくる▼プロ野球の番組で2、3年前から人気を呼んでいるのに珍プレー特集がある。真剣なプレーの中から期せずして生まれるポカやエラーの場面を、スロービデオなどで面白く見せるのだ▼これが並のお笑い番組よりはるかに高い視聴率をあげる。ドラマのとちり特集もこのへんにヒントを得て生まれたものらしい▼むかしは、舞台でとちった役者は楽屋でわびを入れるのがエチケットだったという。わびのしるしに、江戸ではそばを、上方ではもちを振る舞った、と話にある▼テレビ時代の当世は、アマチュアがただちにプロになれる素人全盛時代だという。歌手でもなんでも、へたな方がかえって受けるというのだ。プロよりアマが面白い時代なのである▼へたうま時代ともいう。とちるのも大いに芸のうちということになるのだろうか。ほんとうなら切って捨てるはずのとちりの部分が、そのまま堂々と番組になり、それがまた受けるのだ。名実ともにお手軽の、安あがりの時代といっていいかもしれない。 「花の国」アルゼンチン 【’86.7.15 朝刊 1頁 (全844字)】  ある年のある日ブエノスアイレスの駅に遠方からの汽車が1分も遅れず、時間通りに着いた。前例のないことなので大騒ぎになった。記者たちもかけつけて、運転士を称賛した。運転士は顔をあからめながらいった。「申し訳ありません。実はきのう着くはずでした」▼こんな話をきくと、アルゼンチンならありうるのではないかと思えてくる。人びとの暮らしぶりは、せかせかした日本人に比べるとずいぶん悠々たるものであるらしい。そのアルゼンチン共和国からアルフォンシン大統領がわが国を訪れている▼いとしのブエノスアイレスよ、花咲く地よ、そこで私は人生を終わりたい、と歌うタンゴがある。タンゴの国、サッカーの国、名選手マラドーナを生んだ国、演劇の盛んな国、ノーベル賞受賞者が多い国アルゼンチンは、同時に、花の国でもある。とくにブエノスアイレスは世界有数の花の消費地だ▼結婚式も家庭のパーティーも、花にうまることがある。そして花の都を支えているのは日本の移民たちだという。大正のころの移民には、植物の名も知らず、球根をさかさに植えるような青年もいたが、彼らが栽培するカーネーションやバラは次第に、市民の心をとらえた。今や日系人はこの国の花卉(かき)文化の中核にいる▼昔のブエノスアイレスの記録をみると、移民の先輩がこう教えている。「人間は正直でなければならない。不断の努力を怠ってはならない。すべてに研究的でなければならない。親切でなければならない。奢侈(しゃし)であってはならない」。教えに従って、若き日系人たちは努力を重ねた。ことしは、移住100年を記念する行事が行われている▼アルゼンチンは巨大な赤字やインフレにあえぎ、わが国の技術援助などを望んでいる。あの敗戦後の混乱期に、飢えに苦しむ日本人のために、アルゼンチンが救援物資を贈ってくれたことを、私たちは忘れてはならない。 どうした新自ク 【’86.7.16 朝刊 1頁 (全846字)】  新党発足のころは「サンショは小粒でもぴりりと辛い」といわれたものだ。若い芽、清涼剤、新党パンチともいわれた。日本の政治をよみがえらせる「1粒の麦」になる、と声明にはあった。ロッキード事件発生の時、自民党の腐敗に憤って決別した新党、つまり新自由クラブには当時、期待票やら判官びいきの票やらがなだれこんだ▼その「1粒の麦」がいつのまにか中曽根内閣の「つっかい棒」に化けた。首相からは「調味料」と呼ばれた。その「調味料」が、選挙中は「かんで甘くなくなったチューインガム」と金丸幹事長にいわれるようになった▼もっとも金丸さんはこうもいっている。「だからといってポイと捨てるわけにはいかない」。サンショの実、1粒の麦、調味料、チューインガム、それが新自クの小史だ▼一時は分裂を伝えられた新自クが、閣外協力で自民党と手を組むことになった。山口幹事長は先月「自民党から閣外協力をといわれるならば連立を継続しない」といっていた。それなのになぜ、閣外協力論に変わってしまったのだろう▼新自ク幹部の動きにはわかりにくいところがある。大平首相のことを「神を恐れぬ権力者」ときめつけておきながら、首相指名の時は大平支持にまわったことがある。幹部の1人が「自民党が防衛費のGNP比1%枠を変更したら重大決意をする」といったかと思うと、1人が「1%枠を超えても連立をやめない」といったりする▼今回の連立では、防衛費1%枠のことも、スターウオーズ計画参加のことも、国家秘密法案(スパイ防止法案)のことも、ぼかされたままになるのではないか。かんだあとのチューインガムのように、この若い、活力のある政党に味がなくなってしまうのは、惜しい▼自民党内では、福田派が安倍派に変わり、世代交代のうねりが起こりつつある。うっかりすると、新自クの「新」はその新しいうねりにのみこまれてしまう。 尾瀬の生態系 【’86.7.17 朝刊 1頁 (全854字)】  尾瀬の峠や湿原を歩いた。尾瀬ケ原ではちょうど、カキツバタが盛りだった。7月の光の中で、濃い青みをおびた紫の花が広い湿原の緑にとけこんでいた。花びらに刻まれた刃物のような白い線がなかなか粋(いき)である▼ニッコウキスゲは鮮やかな山吹色だ。ワタスゲの群れが、しろがね色に光っている。木道のすぐわきに群生するアサヒランが濃い紅を散らしている。雨上がりの山はだに雲の影が動いている。緑や濃い紫や山吹色やしろがねや、いろいろな色をとけこませた風が耳に鳴る▼棲(す)み分け、というのだろう。深い池には、底から茎をのばしたオゼコウホネが黄の花を咲かせている。より浅い池には、ヒツジグサが白い花を咲かせている。さらに浅い池になると、ナガバノモウセンゴケなどが棲む。尾瀬を歩くと、百千の種の植物がたくみに棲み分けているさまがわかる▼尾瀬にはオオゴマシジミというチョウがいる。幼虫時代はシソ科の植物の葉を食べている。やがてこのチョウの幼虫を、ある種のアリが自分の巣に運びこむ。幼虫が出す甘い分泌物がめあてなのだ。そのかわり、チョウの幼虫はアリの幼虫を食べる、という話をきいた▼犠牲はあるが、共に暮らすことで利益をうる。こういうのを共棲みというのだろう。ニッコウキスゲとヌマガヤが一緒に暮らすように、尾瀬にはあちこちに共棲みの風景があった▼尾瀬と人間の共棲み、となるとこれは難しい。年間60万の人がここをたずね、木道の上を歩く。ゴミの持ち帰りはかなり徹底しているが、困るのは屎尿(しにょう)の問題だ。旅館のそばで、化けもののように大きくなったミズバショウの葉をみたが、これも屎尿による水の富栄養化のため、と考えると夢がさめる▼富栄養化によって尾瀬の生態系はすでに影響を受けている。国や地元の人たちは屎尿の浄化対策を進めているが、60万人という数を上限にする工夫はこれからも必要だろう。 単身赴任と時の流れ 【’86.7.18 朝刊 1頁 (全842字)】  単身赴任の問題で、最高裁の判決があった。単身赴任を強いられるのはいやだなどの理由で、大阪のある会社員が転勤命令を拒んだ。そして会社を辞めさせられた。これは人事権の乱用ではないかと訴え、1、2審では会社員が勝った。だが、最高裁では負けた▼この場合の単身赴任は甘受すべきていどのもの、というのが最高裁の判断である。この会社員は裁判で争う道を選んだが、会社勤めの多くは、あれこれ思い悩みながら転勤命令に従っているのが実情だろう▼2年前の本紙『こころ』のページに「単身赴任の家族の悩み」がのっていた。夫は静岡で働き、妻子は埼玉で暮らしていた。そこに関西転勤の話があった。思春期の子どもたちとの距離がさらに遠くなることを夫は恐れ、遠回しに転勤を断った。その後、会社で居心地が悪くなり、ほかに仕事を探そうかと悩むようになった。そんな話だった▼この悩みについては「管理職への登用となれば家族一同、勇んで送るべきだ」「転勤でも家族ははなれるべきではない。その土地土地で活路を見いだす知恵を」というかなり厳しい反響があった▼時の流れは微妙に変わり、社員をあらかじめ全国型と地域型にわける企業がふえている。全国型は全国各地へ異動し、管理職コースを歩む。地域型は異動地域は限定的だが、上級管理職は望めないという制度である▼興味深いのは、若い人の間に地域型志向がふえていることだ。ある大手スーパーでこの制度が生まれたころは、男性社員の6割が全国型を選んでいた。だが、去年と今年の新入社員は圧倒的多数が地域型を選んだという。昇任昇給はほどほどでもいい、落ち着いた家庭生活を選びたいという気持ちがあるのだろう▼逆に、女性に限っていえば、全国型・上級管理職志向が意外にめだつ。別の大手スーパーでは、約2割の女性社員が全国型を志望しているそうだ。ここにも時の流れがある。 国道43号の騒音公害訴訟判決 【’86.7.19 朝刊 1頁 (全847字)】  国道43号の騒音は「我慢できる限度を超えている」と神戸地裁の判決にあった。国道わきでは「精神的苦痛や生活妨害が一律にある」ともあった。騒音公害の責任が国にあることが明らかにされた。当然、車の厳しい総量規制などが必要になるだろう▼十数年前の話だが、同僚がパリ郊外に造られつつある副都心の現場を取材した。何もないところに生まれる道路の両側には巨大な遮音壁が築かれていたという。まっさきに騒音防止を考えて都市を造る、という思想がそこにはあった▼ロンドンでも、大型トラックの群れが続々と密集家屋の前を疾走する、という風景にはあまりお目にかかれないという。国情が違うから単純に比べるわけにはいかないが、都市騒音に対する気がまえにずいぶん違いがあるように思う。都市計画の中で、静謐(せいひつ)の価値をどれほど大切だと考えるか、の問題である▼国道43号は、最初の構想では、道路幅を3等分し、両側を緑の公園にするはずだったが、結局は車道最優先の道路になってしまった。いまは四六時中すさまじい騒音の渦だ▼午後8時ごろでも80ホンになる。新幹線通過のさいの高架付近の騒音に近く、環境基準をはるかに上回っている。防音サッシを閉め切ると、10ホンほど測定器の針がさがる。だが、防音サッシの中に閉じこめられ、それでもなお響く大型車の騒音や振動におびえ、風の気配も知らずに暮らすことが「健康で文化的な」生活だろうか▼マックス・ピカートは『沈黙の世界』(佐野利勝訳)の中で書いている。「何ものといえども、沈黙の喪失ほど人間の本質を変えたものはなかった」と。「沈黙」を「静謐」と解釈すれば、これはまちがいなく、現代日本人につきつけられた警句である▼空気や水と同じように、静謐もまた、人間が生きる上で不可欠なものだという認識なしには、いかなる騒音対策も中途半端なものになってしまう。 なぜかあの人ねたふり上手 【’86.7.20 朝刊 1頁 (全851字)】  昔、国会内で泥酔して大蔵大臣をクビになった人がいた。故泉山三六さんである。高田保さんが、同情しながらからかっている。「いっぱいのんで/ずっこけた/みのほどしらずだ/やめさせろ/まったもなしに首となる」。各行の第1音をとるといずみやまになる。これを高田流身の上判断詩といった▼続投なんて、考えたこともないという顔をしている中曽根首相の場合はどうだろう。「なぜかあの人ねたふり上手/かほうはねて待て、ねたふりで待て/そうは(争覇)を胸に/ねたふり暮らし」▼「世代交代はします。党則は守ります。有終の美を飾りたい」という選挙中の約束は「ですから続投はしません」の決意につながるはずだ。と思うのは世間の常識で、政界では「けれども続投します」になる。このですからとけれどもの混乱の故に政治は一層わかりにくいものになっている▼「減税はします。大型間接税はやりません」と、選挙中に公約した以上、「ですから大型間接税の審議はたなあげです」になるはず、と大方は思う。それが「大型間接税はやりません。けれども新しい型の間接税はやります」という方向に動く気配だ▼大型と新型が違う、などというのはまやかしだし、政府税調の人たちが、首相に採用されないことを覚悟で不毛の審議を続けているとも思えない▼税制のゆがみをただすためにも、所得税の減税分の財源をつくるためにも、大型間接税は大きな柱だ、という考え方が税調にはある。政府は本気で税制の根本改革をするつもりなら、改革案をねりあげ、その全体像を明らかにして有権者にぶつけるべきだった。それこそが「政策を問う」ということだろう。首相はそれを避けた。大型、新型を問わず、間接税導入のためには次の総選挙まで待たねばならぬ▼「なにがなんでも否定せよ/かんせつ税は否定せよ/それが選挙に生きる道/ねがいかなえば、あと知らぬ」ということでは困る。 カヌー航海にヤップ人の心意気を見た 【’86.7.21 朝刊 1頁 (全839字)】  ヤップ諸島のマープ島に住む友人の画家、大内青琥さんがひよっこりとたずねてきた。この人は突然姿を現しては、礁湖を吹き渡る風のにおいを残していってくれる▼大内さんは、こんどはマープ島の大長老、ガアヤンさんたち9人と古帆船(ムウ)でヤップ―小笠原間約3000キロの航海に成功し、東京に立ち寄ったのである。学術調査のためではない。記録を作るためでもない。いってみれば、近代文明を拒んで生きる島びとたちの心意気を示す航海だった▼カヌーには、羅針盤も海図も積まなかった。持ちこまれたのは、1本のペンシルライトと虫めがねと古い小型ラジオだった。万一のため、日本の伴走船があとについた。時にはイルカの群れが道案内をしてくれた▼隊長のガアヤンさんは、うねりの形、波が砕ける様子を見極めて、針路を判断した。大内さんが心配になってきくと、必ず「ダイジョウブデス」と日本語で答えた▼しかし19日間の命がけの旅は、72歳の隊長にはこたえたのだろう。小笠原に着いた時には体中にできものができた。ほうっておいては命取りになるほど悪化していた。「もうこりごりだ」と悲鳴をあげた若者もいた。船長61歳、大内さん46歳、30代3人、20代3人、10代1人▼マープ島の人たちは、島に車や電気を入れるのを拒んできた。文明の侵入が、伝統的なヤップの生活様式を破壊することを恐れたためである。島の文化を守りぬく1つの試みとして、ガアヤンさんは、自分たちの手で大型カヌーを造りはじめた▼船ができあがった時、大内さんがいった。「これで日本まで行こう」「よし約束しよう」。準備を重ねて6年後、この約束が実現した。ガアヤンさんがいちばん伝えたかったのは、ヤップ人のこの心意気、ではなかったか。古代さながらのカヌーの航海は、西欧文明にのみこまれそうな小さな島の強烈な自己主張でもあった。 「在韓被爆者41年」 【’86.7.22 朝刊 1頁 (全845字)】  「徴用の広島にして被爆せし韓国人ら韓国に病む」(山根堅)。昭和万葉集にのっている歌だ。当時、広島や長崎にいて被爆した朝鮮の人たちは一体、何万人になるのか。残念ながら実態はよくわからない。徴用で連行されてきて原爆の犠牲になり、祖国の土を踏めずに亡くなった人も少なくない▼本紙の続き物『在韓被爆者41年』によると、韓国にいる被爆者の数は約2万人といわれている。慶尚南道のある村役場の元助役さんも、被爆者である。爆心1.8キロで被爆、父は爆死した▼終戦の年、母や妹たちと故郷に帰り、村役場に勤めた。被爆のせいだろう。腰痛の悪化で退職に追いこまれ、田畑や退職金は治療費に消えた。闘病生活のあと、自らの手で被爆者の実態を丹念に調べはじめた。生存者の数はその地域だけでも3000人を超えていた▼またある女性は、日本に密入国して治療を続けているところを見つかって、強制送還されている。この問題と取り組んできた鎌田定夫さんは書いている。「恥じねばならぬのは、日韓条約が締結された1965年まで、私を含めた日本人のほとんどが朝鮮・韓国人の被爆問題に無関心であったという事実であろう」▼戦時中、むりやり連れてこられて軍需工場で働かされた人びとには、家族離散の悲しみがあり、差別による屈辱的な体験があった。被爆後、十分な手あてをうけずにほうりだされた、という恨みもある。そして今は、十分な治療をうけられないという憤りがある。そこには二重、三重の苦しみがある▼かつて最高裁は、外国人被爆者でも、原爆医療法の適用を認めるべきだという判断を示した。戦争遂行の主体であった国が自らの責任で救済をはかるのが筋だ、という判決だった。この精神は、貫かれねばならぬ▼渡日治療を打ち切るな、韓国内に日本政府の手で原爆病院をつくれ、と主張する日本人医師がいる。早急に手を打たねばならぬ。 短期か長期か中曽根続投 【’86.7.23 朝刊 1頁 (全843字)】  古代ギリシャの都アテナイは民主政治をとっていた。最高の官職、アルコンの任期は1年で、再任も重任も認められていなかった。共和政下のローマの最高官職コンスルの任期も1年で、任期は極めて厳格に守られたそうだ。法学者、野田良之さんの『栄誉考』という本に、そういう話が紹介されている▼なぜ短い任期が厳格に守られたのか。(1)多くの人が役職につくことが望ましい(2)役につく期間が短ければ、容易には悪事を働きえない(3)地位を利用して自己の政治勢力を不当に拡大する時間がないようにする(4)市民の厳格な監視のもとで心身を使い果たせば、長い期間はつとまらない。古代人は、政治を国民のためにいかに公正に、血の通ったものにするかに懸命な努力を払った、と野田さんは分析する▼第3次中曽根内閣が発足した。選挙前、幹事長だった金丸さんは「首相はさわやかに3選を否定した」と発言していた。そのさわやか精神は今も変わりはないと思うが、党内では長期続投がもはや既定の事実のようになっているのはなぜか▼自民党圧勝の背景には中曽根人気があった。だから続投は当然だという意見がある。だが、どうだろう。圧勝にはニューリーダーの力も大きかった▼それに、首相がもし「私はもっと続投したい」と訴え続けて選挙に勝ったのなら、続投もありうるだろう。首相は3選禁止の党則を守ると公約し、世代交代を口にした。安倍さんも、総裁選出馬を公約した。その公約を信頼し、新しい次の指導者への期待をこめて1票を投じた有権者も少なくなかったはずだ▼首相は短期続投なのか、長期続投なのか、そのあたりがあいまいのままの新内閣発足、というのは珍しいし、国民にはいかにもわかりにくい。とまれ、新内閣や自民党新役員の顔ぶれをみると、いよいよニューリーダーの力量、つまり3本の矢の力が問われる時がきた、という感が深い。 コンピューターが「君ノ仕事ヲ監視」 【’86.7.24 朝刊 1頁 (全838字)】  コンピューターが「君ノ仕事ハ遅イ」と警告をだすような監視装置が現れた、というアメリカの話が社会面にあった▼所定の休憩時間以外のトイレの時間が12分以上だと1点減点される。さまざまな減点がつもりつもって37点になると解雇の対象になるという。こういう監視装置がどのていど普及しているのかはわからないが、君ノ仕事ハ遅イ、と機械の警告を受けながら仕事をするのも、味気ない話ではないか▼チャプリンの『モダン・タイムス』にこんな場面があった。流れ作業できりきり舞いをさせられたチャプリンがトイレへ行ってたばこを吸っていると、壁面がテレビに変わり、画面の社長が「さぼるな」とどなりつける。その半世紀前の悪夢が現実のものになってきた▼新聞記者の机にも「ことば監視装置」がつく時代がくるのだろうか。「海山へ人出がどっと」と書くと「ブー、キマリ文句ハ使ウナ」と警告される▼「イモを洗うような混雑で」「ブー」「怒り心頭に達した」「ブー、発シタト書ケ」「おへそを抱えて笑う」「ブー、コウイウ間違イニハ、オナカヲ抱エテ笑イタイ」となって、きまり文句や誤用の追放には威力を示すだろう▼世はコンピューター社会である。一女性が120個の操作ボタンが並ぶキーボードをたたいて、複雑な銀行の仕事をたちどころにこなす時代だ。時の流れには逆らえないが、機械もまた人間が操るものである以上、常に人間くさい誤りがついて回る▼大阪のある住宅資材店に、毎日15分おきに無言電話がかかってきた。いたずらなのか、30秒余の無音の状態が続いて、切れる。それが7カ月間も続き、電話恐怖症になる従業員もでた。やがてそれが、銀行が振り込み通知を送るシステムの中に誤りがあったため、とわかった。なにやら怪談めいた恐ろしい話だ▼機械のミスが、ミスのない人間をクビにすることも、ないとはいえない。 自民304議席と「戦後教育」の総決算 【’86.7.25 朝刊 1頁 (全854字)】  藤尾文相が「戦後教育というのは日本を滅ぼす教育だった」とテレビ朝日の『ニュースステーション』で発言していた▼亡国教育というのなら、その教育をうけて育った私はいったい何なのだろう、とキャスターの久米宏さんがいっていた。戦争の大惨禍を思うと、昔の教育のほうがよほど亡国的なはずだが、新文相の目にはそうは映らないらしい▼そうかと思うと、栗原防衛庁長官が「1%枠を超えても日本が軍事大国になる要件はないのだから、とやかくいうのはどうかと思う。国民の拒否反応が強ければ選挙の争点になるはずだが、図らずも304議席になってしまった」といっている。300議席を超えたんだ、1%枠がなんだ、といわんばかりの発言だ。こういうのを謙虚な姿勢というのだろうか▼藤尾発言は続く。「占領政策下の教育では、日本を再び立てないようにしなければならない目的があった。日本の民族性を否定し、伝統を軽視する教育だった」と▼戦後の教育が100%正しいとは思わないし、今も多くの欠陥がある。だが敗戦直後は、滅私奉公を是とする教育がもたらした破局への、日本人自身の痛切な反省があったはずだ。軍事強国をめざす人、尊大な国家主義の旗ふりをする人は育てまい、という決意があったはずである▼文相は前にも「教育勅語の教える道徳律を復活させて、精神の秩序をとりもどすべきだ」と発言している。そのねらいの1つは、滅私奉公的な忠良の臣民を育てるべし、ということだろう。そのために、世界に冠たる歴史と伝統を教え、愛国心をたたきこめ、ということだろう▼わが国には独自の歴史、伝統、文化がある。同時に、地球上のどの国にも、それぞれの伝統、文化があって、そこに上下の差はない。そのことを正当に認める心を養う。それが戦後教育の柱ではなかったか▼304議席は「戦後教育の総決算」というだんびらを振り回すことをも認める票であったのか。 夏休みと「遊び」 【’86.7.26 朝刊 1頁 (全858字)】  夏休みというと何を思いだすか。仲間たちの話を書き並べるとざっと次のようなことになる▼早朝のラジオ体操、油照りの日の打ち水、たんぼでドジョウを取ったこと、ぬるぬるした泥の感触、ヘビを殺したこと、釣りざおの先に赤い布をつけてカエルを取ったこと▼自分で育てた朝顔の花、朝顔の花びらをしぼったままごとのジュース、ホオズキ、草笛、クワガタ、アリジゴクに吸いこまれるアリの姿、セミ取り、夕空に浮かぶヤンマの群れ、近所の仲間と海へ泳ぎに行ったこと、ひと夏に2度は皮をむいたこと、近所の川でもぐりっこをしたこと、ヒマワリの花▼裏山に基地、つまり隠れ家をつくったこと、木の上に足場を組んで小屋をたてたり、段丘に3メートルほどの横穴をあけたりしたこと、原っぱでの三角ベース、草いきれの中で探したゴムマリ▼水鉄砲、ビー玉、お化け大会、ゆかたを着て盆踊りの輪に入ったこと、線香花火、校庭の映画会、白い幕に映しだされるエノケンの映画を蚊の襲撃の中で見たこと、井戸で冷やしたスイカ、トマト、よしず張りの店のかき氷、アイスキャンデー、蚊帳の中の怪談▼夏休みとは本来、子どもを解放し、「遊び」という子どもにとって最も大切な営みを、からだで体験させる期間だろう。今も夏休みになれば子どもたちは遊ぶ。海で泳ぎ、セミを取り、クワガタを追う▼だがそこには、大きなさま変わりがある。登校日が多い。塾に通う日が多い。遊ぶにしても、禁止区域、禁止事項が多い。学校のプール、臨海学園、林間学校など、おとなの目が行き届いているところで遊ぶ。昔は昼も夜も、仲間同士で遊んだが、今はカネのかかる家族旅行が多い▼何よりも違うのは、土や砂の上にしゃがみ、大地になじみながら遊ぶ機会が激減したことではないだろうか。大地になじむ機会を奪われた子どもたちの欲求不満は潜在化する。子どもの世界から身近な自然を奪ったおとなの責任は大きい。 倫理は遠くなりにけり 【’86.7.27 朝刊 1頁 (全850字)】  10年前の7月27日、東京は最高気温32.4度を記録している。暑い日だった。田中角栄逮捕の報をきいて、当時の金丸国土庁長官は「政治がいやになった」とつぶやいた。自民党幹事長だった中曽根さんは「このような事態を招いた根本原因を反省し、党の大改革に不退転の決意でのぞむ」と語っていた▼だれもが党の改革をいい、ミソギをいい、出直しを語った。三木首相は「事件の真相を解明し、国民の前にすべてを明らかにする」と大みえを切ったが、三木おろしのあらしの中で、首相の座を去った▼あのころ、加藤周一さんが「ロッキード症候群」の病理について書いている。「中枢部の腐敗は慢性で、進行性である。高熱は通常半年、長くても1年に及ぶことは少ない。その後の経過は後遺症なく、適当な処置により、あたかも何事もなかったかのように経過する。その時期には、慢性進行性中枢腐敗症だけがのこる」(『真面目な冗談』)▼そう、あたかも何事もなかったかのように療養中の田中元首相は当選し、有罪の確定した佐藤孝行代議士は首相の懐刀として活躍し、政治資金規正法を根底から見直す作業は行われず、国会のロッキード特別委は消え、不明朗な政治献金が横行している。「政治ナンテ万事ソンナモノサ」と考える有権者が中枢腐敗症の根本治療に背を向けているところに、日本製ロッキード症候群の特徴がある▼たとえば今の政治資金規正法では、100万円以下の寄付は明細を報告しなくてもいいことになっている。これを悪用して実態をごまかす不透明な報告が多いらしい。本来は、すべての寄付の明細をきちんと報告するような法改正が必要だが、そういうことをだれかが不退転の決意でやる雰囲気はない。むしろ企業が大口献金をしやすいような法改正を、という意見がある▼いまや、与党内で金権腐敗政治の打破を口にするものは少ない。倫理は遠くなりにけり、である。 東京湾の干潟の浄化作戦 【’86.7.28 朝刊 1頁 (全855字)】  もし、故郷の干潟がヘドロやゴミに埋まって死滅しつつあるのを久しぶりに見た場合、自分だったらまず何をするかと考えてみる。泥にまみれながらゴミを拾うだろうか。たぶん嘆きつつもあきらめてしまうのではないか▼千葉の習志野市に住む森田三郎さんは、あきらめなかった。東京湾の広大な埋め立て地の中に、四角い池のような形で取り残された干潟があった。日比谷公園の2倍ほどの面積の干潟は、悪臭を放ち、生き物の姿はなかった。幼いころ共に暮らした干潟のうめき声を、森田さんはきいた▼森田流の運動は単純明快だった。どろどろの汚泥に身を投じ、黙々とゴミを拾うことだ。空きかんや古自転車を拾う。腐敗したナマゴミの山に挑む。古畳や冷蔵庫や建築用の廃材をロープにくくりつけて岸にあげる。拾っても拾ってもゴミは捨てられたが、拾いまくれば道が開ける、と自分にいいきかせた▼最初は気恥ずかしかった、恥ずかしいと思う自分がくやしかった、と森田さんはいう。拾い集めたゴミの処理に役所はそっぽを向いた。たまりかねて、ゴミを役所の玄関にぶちまけて「展示」したこともあった▼十数年たった。森田さんの職業は新聞配達からタクシー運転手に変わったが、干潟を救う仕事は続き、仲間がふえていった。干潟は今、よみがえりつつある。ハマシギやウミネコが舞い、トビハゼやボラが泳ぎ、カニが群れ、アマモに魚が産卵するようになった。埋め立てられる運命にあった腐臭の地が鳥獣保護区に生まれ変わろうとしている。森田さんはいった。「自然保護というのは、結局は自分を裁く、自分が何をするかを問いつめる、そういうことじゃないですか」▼最近、事件があった。みなで干潟わきに建てたプレハブの作業小屋が撤去させられた。緑地整備の場所だからだめだと県はいう。役所もかたくなにならず、息の長い浄化作戦のための拠点を率先して造り、市民に提供したらどうだろう。 新聞の投書 【’86.7.29 朝刊 1頁 (全850字)】  「ふと、考える。ペンをとる。あるいは、ながい、ながい間、考え、ついに、ペンをとった。書く。ポストに入れる。新聞の投書は、その瞬間から存在する」▼本社論説委員室の先輩、影山三郎さんが『新聞投書論』のなかで、個人と大衆とを直結させる投稿の妙味を、こう書いている。その投書欄が広くなった。本紙では「声」欄のほかに、東京、名古屋、西部の3本社で「テーマ談話室」、大阪本社で「語りあうページ」が新設された▼紙面が広くなるとともに投稿も増え、現在、その数は全社で月平均6、7000通にのぼっている。「新安保」をめぐる投書が激増し、異常な新記録といわれた1960年6月の投稿数が約7000通だったから、当時の「異常」が今や「恒常」になったわけだ▼大阪本社に寄せられた手紙をもとに『語りあう』と題する本が出版された。読んで驚くのは、世の中、実に多様な考え方があり、人情に満ちているということ。そして、何げない身辺の話題が、にわかに白熱し、時には歴史をも問い直している、という驚き▼たとえば、朝鮮国籍の青年との結婚問題に悩む女性の手紙がきっかけになって、民族差別、旧朝鮮領統治が論じられている。「言論の自由は、どんなふうに失われていったのでしょうか」という、戦争を知らない世代からの手紙が波紋を呼び、新聞の戦争責任を問う投書特集、対話、座談会の連載記事に発展している▼読みつつ、投書欄の課題をも思う。実名か匿名かも、課題の1つである。「声」欄は「投稿者は自分の発言に責任をもつべきだ」と考え、匿名の投書は採用していない。一方、「語りあうページ」は匿名を認めている。家庭の問題や、自分が属する役所、会社、学校で感じる矛盾などは、実名では書きづらいという判断があるからだ▼どうすれば、投書欄は社会の真実を映す鏡になりうるか。迷いながら、投書欄は日々、民衆言論史をつづっている。 社会党の欠陥 【’86.7.30 朝刊 1頁 (全854字)】  だいぶ前の話だが、ある集会で神奈川県の長洲知事がこう発言したという▼「社会党はいわば駅前1等地のしにせなんだが、そう思っているうちに、新しいスーパーや目新しい装いの専門店がどんどん進出してきた。なのに社会党は古い商法を変えず、客あしらいも変わりばえしない。これでは長年のひいき客を失って店じまいになりはしないか」▼その通りだと思うが、あえてつけ加えたい。本もののしにせにはしにせとしての立派な商法がある。社会党にははたしてそれがあったのかという疑問である。改憲を阻む、という歯止め政党としての役割はあった。「なにかをやらせない」という批判政党としての役割はあった▼だが、「なにかをやる」政党としてのイメージは極めて希薄だ。しにせにはしにせの根本的な土地改革案があり、若者の心をとらえる教育改革案があり、勇気づけられる老人対策があるべきではないか▼石橋委員長がやめて、9月には新執行部が発足するという。第8回参院選のあとは勝間田委員長がやめた。第11回参院選のあとは成田委員長がやめ、第13回参院選のあとは飛鳥田委員長がやめた。選挙の敗北の責任をとっての辞任である。そしてアタマ切りのたびに、党は力を喪失し、やせ細っていったのではなかったか▼だからといって、石橋氏の続投が望ましいというのではない。おざなりな反省、おざなりなアタマ切りの繰り返しでは、こんどもまた、おざなりな出直ししか望めないのではないか▼社会党の新宣言には、党のイメージは「すんだブルーと深紅のバラ」だとある。ヨーロッパの政党のまねごとのような「深紅のバラ」をもってくる党に、人びとはどれほどの新鮮さを感ずるだろうか▼石橋さんは「党の欠陥は指摘しつくされている」といっている。今までの出直しがおざなりに終わったのは、欠陥の指摘が指摘のみで終わっている、という重大な欠陥があったからではなかったか。 7月のことば抄録 【’86.7.31 朝刊 1頁 (全856字)】  7月のことば抄録▼「表向きは大きくて立派ですが、中がカビ臭くなければと思います」。公明党の新参院議員、広中和歌子さん、国会議事堂を見て▼落選した中山千夏さんは「東京で自民2議席を阻止できなかったのが残念。自民圧勝で大変な世の中になると思う」▼『建設白書』をまとめた27歳の係長、伊藤和子さん。関係省庁との調整で「約1週間、終日電話にかじりつきの消耗戦でした。白書がわかりにくくなるのは宿命ですね」▼「やせるための300万円とマンガ同人雑誌発行のための140万円がほしかった」。恐喝未遂で逮捕された17歳の少女▼日航機事故で夫、坂本九さんを失った柏木由紀子さん。「(全国からの励ましの手紙が)何よりも支えになりました。泣きながら読んで、読み終わるとありがとうございますって、つい言葉に出るくらい」▼「自分なりにやれるだけはやってみるか、と。私、楽観的なんです」。女性として初めて農水省の食料消費対策室長になった大島綏子さん。普通郵便局の初の女性局長になった佐村智子さんは「中小企業の社長になったつもりでがんばります」▼「板ばさみにあってだれかが決断を下さなければならない時、その役目は夫に任せます。ただ、何が何でも従うようなことはしません」。アンドルー王子とのご成婚を前にファーガソンさん▼「悔しくて、悔しくて」。全米オープンで惜しくも3位の岡本綾子さん▼「全身がドロドロになり、人の影がビルに焼きつく。この事実を伝えるにはどうしたらいいのか。目に止まったのが『ゲン』でした。全巻を読み、大切なものに触れたという感動がありました」。劇画『はだしのゲン』の講談を国立劇場演芸場で演ずる神田香織さん▼「ソ連のチェルノブイリ原発事故を一過性のものと軽く考えることはできません」と浮田久子さんたちは「原発と核をなくす女たちの意見広告」運動を始めた▼今月は女性特集になりました。 奇怪な圏央道計画 【’86.8.1 朝刊 1頁 (全840字)】  だいぶ前の科学欄に、奥多摩の御岳山の大気汚染の話がのっていた。ある香料研究家が、御岳の森の香りの成分を調べた。予想通りさまざまな芳香物質がみつかったが、驚いたことに、この山奥の空気にも、ベンゼンなどの公害物質がかなりまじっていたという。くるま社会のかなしさか、森林浴もままならぬ時代である▼国定公園、高尾の山をぶちぬいて自動車道(圏央道)を造る、という奇怪な計画が実現しそうだ。トンネルの換気塔からは排ガスがでる。せめて半日でも、いい空気を吸いたいと切望する都会人がここにくるのだ。その山を選んでわざわざ公害物質の量をふやそうというのだから、尋常な感覚ではない▼奈良時代に行基が薬王院を開いた昔から、高尾の自然は大切に守られてきた。明治のころ正岡子規が書いている。「高尾山を攀(よ)ぢ行けば山路の物凄き景色身にしみて面白く……山の頂に上ればうしろは甲州の峻嶺峨々として聳え前は八百里の平原眼の力の届かぬ迄広がりたり」▼東京に住むものにとって、高尾はいまも頼りになる緑のとりでである。暖帯と温帯の植相の接点である高尾には千数百種の植物があり、オオルリが飛び、ムササビがすむ。そこにトンネルを通すことは、竜安寺の石庭の真ん中にアスファルトの歩道を造るようなものだ▼「近郊都市の発展のため」「交通混雑の緩和」という言い分もあるだろう。だが、失うものの大きさ、傷の深さは量でははかりしれない。都が発表した「環境影響評価書案」によると「環境への影響は少ない」という。はたしてそうか▼トンネルがゆたかな地下水脈のあちこちを分断して、微妙な影響を与えることにはならないか。地下水の生態が変われば緑の生態系も変わる。それに、トンネルを掘るさいの土砂の始末の問題もある▼奈良の昔から守られてきた緑の山に風穴を開けたら、行基さまはなんといって嘆くだろう。 『風が吹くとき』 【’86.8.2 朝刊 1頁 (全852字)】  絵本作家レイモンド・ブリッグズが、核戦争を主題にした『風が吹くとき』を世に送ったのは4年前だ。それはたちまち英国でベストセラーになった。この大人の絵本の翻訳(小林忠夫訳)は日本でも反響を呼んだ▼いま、劇団青年座が、この『風が吹くとき』を劇にして、上演している。小さな劇場は満員だった。舞台に登場するのは、英国の田舎に住む老夫婦のジム(森塚敏)とヒルダ(東恵美子)の2人だけだ▼「結婚して、けんかして、仲直りして、赤ちゃんができて、子育てに苦労して、子供の成長を喜んで、親離れしていくのを悲しんで、そして年を取って行く」典型的な年金生活者の日常を、2人は軽妙、細密に演ずる。奥行きのある演技だ▼妻のヒルダは政治や経済の難しい話はごめんだといい、開戦近しときいても、だれが好きこのんで地球を壊滅させるような戦争を始めるものですかと本気にしない▼夫はひたすら政府を信じ、政府発行の簡易核シェルターの手引きを信じ、居間を改造してシェルターを造る。そしてある日、一瞬の閃光(せんこう)が日常的生活を破壊する。2人はそれでも、いまに救援部隊が来て救われる、と信じ続ける▼劇は問う。おろかであることは罪であろうか。劇は、核戦争や放射能に無知な老夫婦のおろかしさをわらう。同時にそのおろかしさを、深いいとおしさをこめて描く。放射能に侵され、死ぬとは知らずに死を迎える2人のやせ細った命が静かに訴えている。裁かれなければならないのは、核戦争を起こす人間のおろかしさなのだ、と▼原題は「風が吹いたら揺りかごがゆれる/枝が折れたら揺りかごが落ちる/坊やも揺りかごもみな落ちる」というマザー・グースの歌からきている。「この歌は思いあがった人びとや、野心的な人たちへの戒めとなるでしょう。彼らは高い所へ登ってついにはたいていの人が落ちてしまうのですから」と童謡集には書いてあるそうだ。 湖沼・河川の浄化 【’86.8.3 朝刊 1頁 (全868字)】  水の性は清きを欲す。「立ち去るや泉のおとの背にさやか」(内藤吐天)といえば、私たちはすぐ山清水のうまさを思う。「山中に大きな夏の沼をさらす」(高須茂)という句にであえば、沼の水の青さを思う。だが、昨今の沼や湖をめぐる環境は、清きを欲す水にとってまことにすみにくい場所になってきた▼千葉県の手賀沼の水は、昔は、そのまま飲めたし、30年ほど前までは子どもたちが泳ぎ回っていたという。都市化が進むにつれて、汚れがめだってきた。今は環境基準をはるかに超える状態になり、全国ワースト1というありがたくない呼び名をつけられている▼周辺の自治体による涙ぐましい浄化作戦の数々をきいた。たとえばホテイアオイの植栽がある。この植物は沼にたまった窒素やリンを吸収して育つ。高さ1メートルほどに育ったところで回収すれば、窒素やリンを取り除くことになるし、回収したあと肥料に使うこともできる▼発想はすばらしいが、沼の一部、9000平方メートルに植えられたホテイアオイは、4カ月かかっても、沼に流れこむ窒素やリンの1日分しか吸収できない。汚された水を元通りにするには途方もない根気がいる、ということをこの事実は教えてくれる▼ヘドロの除去もある。河川の浄化作戦もある。何よりも大切なのは、家庭からでる水を少しでもきれいにすることだという。この地域では、水質汚濁の原因の8割近くが家庭排水だ、という調査があるからだ▼食用油は下水に流さず紙でふきとる。洗濯には粉せっけんを使う。流し台で細かいゴミまで回収する。そういうことに気を配る市民がふえてきた。すでにモデル地区の下水路では汚れが30%減った、という報告もある▼地元では「沼の浄化」を授業で学び、沼の周辺の掃除をする子どもたちも現れた。湖沼や川の浄化には気の遠くなるような努力の積み重ねが必要だが、濁水、鮮にかえらず、とあきらめることはない。いまは『水の週間』。 日本人の夏休み 【’86.8.5 朝刊 1頁 (全853字)】  中曽根首相も金丸副総理も大型の夏休みをとるという。結構な話だ。首相は、月末までに4回にわけて20日間ほどの休みをとる。副総理はハワイ・マウイ島の知人の別荘で月末まで休み、労働省のとなえる「ほっとウイーク」に協力している▼首相時代の池田勇人氏は、ときどき鼻血をだしたり、腹具合を悪くしたりした。疲労の蓄積はかなりのものだったらしい。「毎日、毎日、全力投球で日程どおりの仕事をし、週末になると待ちかねたように箱根に行き、つくとすぐ庭と石に没頭し、気分の転換をはかった」と伊藤昌哉さんが『池田勇人とその時代』に書いている▼池田首相や、続く佐藤首相の夏休みを調べてみると、意外なことに、かなりたっぷり静養の日をとっている。8月中、池田氏は箱根で5回、のべ18日間も静養した年があるし、佐藤氏も4回、のべ19日間、軽井沢で静養した年がある。田中首相以降はどうも「夏の訪米」が多くなって、宰相の夏休みは短いものになっている▼経済摩擦にからんで日本人の「働きすぎ」が各国から非難される世の中だ。政治家が率先して、大型の夏休みをとるのは悪くはない。16日から25日まで閣議をお休みにするのは初めてのことで、閣議がなければ、その期間、役所も休みがとりやすくなるだろう▼労働省の調べでは、ことしの夏休みは製造業で平均7.6日だった。なかには連続20日間の夏休みをとる企業もある。休んで遊んで心身をさわやかにしたほうが士気を高める、と考える企業がふえてきたのだろう▼問題は2つある。1つは、大企業と小企業の休みの格差をどうするか。官庁や大企業の大型夏休みは、小企業の底上げにつながるのかどうか。もう1つは国際的な格差だ。4、5週間の夏休みをとる欧米諸国と比べると、われらが夏休みはまだまだ、せちがらく、あわただしい。これは、生活の質をどう改めるか、という文化の問題にかかわってくる。 ロンゲラップ住民と死の灰 【’86.8.6 朝刊 1頁 (全844字)】  ヤシの木が生い茂り、平和に見える島から、悲しげな表情の住民たちが去って行く。遠い移住先の島を目指して。30年以上も前に、180キロ離れた場所の核実験が残した放射能が、生まれ故郷の島を捨てる決断を彼らに強いた。そのいきさつを、何度も島を訪れたフリーカメラマンの豊崎博光さんが、近著の『グッドバイ・ロンゲラップ』で描いている▼核実験とは、1954年3月1日に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験「ブラボー」だ。この時、ビキニ環礁の東120キロでマグロ漁をしていた第5福竜丸の乗組員たちが死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんは帰国後になくなった。日本での原水爆禁止運動は、この事件をきっかけに大きく盛り上がった▼死の灰は第5福竜丸よりさらに20キロ東のロンゲラップ島にも降りそそいだ。「アメリカがメリケン粉をまいた」と思って、なめてみた人もいたという。住民たちは2日後に米軍の手で他の島に移されたが、実験当時は島にいなかった人も加えた300人が、3年後にはロンゲラップにもどった▼影響は徐々に出てきた。死産や流産、灰を浴びなかった人も含む甲状せん異常の多発、発育の止まるこども……。一昨年5月、とうとう全員が190キロ離れた無人島に移った。彼らのいう「ポイズン」(毒=放射能)からこどもたちの未来を守るために▼ミクロネシアの人びとは、海を渡ってくるものに敵意を抱かず、プルメリアの白い花で作ったレイで客を迎える。招かれざる客、放射能が居すわって、そんなロンゲラップ住民を追い出した形だ▼死の灰を降らせたのは核実験だが、もとをただせば人間、それも文明のにない手を自任する種類の人たちだ。今年、現地を再訪した豊崎さんがある島民にチェルノブイリ原発事故のことを話すと、その人は「十数年後、私たちと同じ甲状せん異常がきっと出る」と語ったそうだ。 オールナイト平和祈念コンサート 【’86.8.7 朝刊 1頁 (全860字)】  「平和について語ろうとすると、若者は何か照れくさくなっちゃう。でも、ボタンひとつで地球が破滅する核時代の緊張状態はもうやめてほしいな、という気持ちはみながもってるはずです」とフォーク歌手の山本コウタローさんがいっている▼その若者が燃えた。山本さんや南こうせつさんたちが呼びかけた「オールナイト平和祈念コンサート」には約1万5000人が集まって、徹夜をした。爆風スランプ、アルフィー、チョウ・ヨンピルなど多彩な出演者が次々に広島修道大学の特設会場の舞台に立った▼準備にあたったのは、素人集団である。試行錯誤が続いた。「ピースコンサートで燃える学生委」も生まれた。ボランティアの若者たちは、カネの工面をし、不眠不休で会場を設営した。レンタルトイレは80基そろえた。本番では約800人が運営、警備、救護にあたった。屋台の売り子にもなった▼徹夜明けの6日午前8時15分、1分間の祈念があり、若者のひとりが締めくくりに立った。「きょう、こうしてこのコンサートに集まった人々の大半は、戦争を知らない若い世代です。その私たちが、戦争で傷つき、被爆で苦しむ方々の痛みを理解することなど、ほんとうはできないことかもしれません。しかし私たちは理解したい。努力したい」▼8時半、長い長いコンサートが終わった。期せずして、バンザイの声が会場にわいた。「あのバンザイがうれしかった」とコウタローさんがいった。参加したミュージシャンたちは、無報酬だった。収益は、ひとりで老後を暮らす被爆者たちの施設造りに使われるという。この試みは来年も広島で行われるだろう▼大人たちは非難の応酬を続けていればいい、正義はわれにありと主張し、肩ひじを張っていればいい、どうぞご勝手に、という若者たちの声がきこえてくるようだ。いま、原水禁運動の分裂騒ぎに背を向けて、既成の反核運動とは一味違った運動が各地に起こりつつある。 都市型洪水 【’86.8.8 朝刊 1頁 (全864字)】  鉄砲水で生き埋めになった人がいる。「家も畑もだめになった」と嘆く人がいる。今までわかっただけでも、死者・行方不明は20人、浸水家屋は8万戸を超えるという。泥の海はまだ去らない。泥水におおわれた稲の被害はかなりのものになるだろう▼洪水があるとすぐ、河川の改修が叫ばれる。それはそれで大切なことだが、河川の改修にばかり頼っていていいのか、私たちはもっと自分の足もとをみつめ、別の工夫をすべきではないかという思いにとらわれる▼川底を深くし、護岸を高くすることにカネをつぎこめば、それで安全が守られるというのは神話にすぎないのではないか。雨水を流すことばかりではなく、より多くの雨水をためる政策が、今こそ必要なのではないか▼決壊した北関東の小貝川流域には1日300ミリもの雨があった。この豪雨が洪水のいちばんの原因であることは間違いない。だが、それだけが原因だろうか。河川に流れこむ雨水を多少でも抑える働きがあれば、被害がもっと少なくてすむ、ということがあっただろう▼かつて田んぼだったところが市街地になれば、雨水はアスファルトの上を流れ、ただちに川に流れこむ。森や田んぼには一種の遊水機能があるが、市街地に降る雨は、一挙に河川に集中する。今回の豪雨でも各地にこの都市型洪水があった▼専門家の検証をまつほかはないが、小貝川流域でも、この30年間、下館市の人口は5万3000人から6万4000人にふくらんでいる。真岡市は4万1000人が5万7000人になった。人口が1割増、2割増の市や町はほかにもある。開発が進み、雨水がより多く川に流れこむ状況はあったのではないか▼河川の改修事業だけで豪雨禍を防ぐのは難しい。開発に応じて、雨水を家屋やビルの屋内にためること、地下にしみこませること、新しい形の遊水池を造ること、つまり雨水を廃棄せずに貯留する政策をとることの効果を真剣に検討してもらいたい。 防衛秘密 【’86.8.9 朝刊 1頁 (全843字)】  日本の防衛にはどのくらいの秘密があるのだろう。防衛秘密は約11万点、庁秘は約135万点、という数字がある▼驚くべき数だが、実際の秘密がこの2倍、3倍であったとしても、これは確かめるすべがない。秘密にすべきでないものまで秘密にしていることがあっても、その監視はきわめて難しい▼新しい『防衛白書』を読んだ。極めて重要な日米共同作戦計画の概要も、シーレーン防衛のことも、秘密の壁にさえぎられて、白書を読んだだけではよくわからない。「限定的小規模侵略」に対応する防衛力といっても、それがどのていどの規模の侵略なのかという基本的なことさえわからない。これでは『防衛白書』ではなくて『防衛秘密白書』ではないか▼防衛には秘密がつきものだ。なにもかも手のうちを明かせ、などとむちゃなことはいわない。だが、あるていど納得がゆく、かみくだいた説明がなければ「国民の理解」は得られない。もともと、防衛政策を広く紹介して国民の関心を深めるのが白書の目的ではないか▼有事の際、日米部隊はどう役割を分担するのか。日本が米ソの衝突にまきこまれることはないのか。日米共同作戦計画の研究は進み、一昨年の暮れには合意があった。この決定的に大切なことについても「一応の区切りがついた」ていどの記述しかなく、内容は機密だ。「一応の区切り」といわれたって、こちらの理解には一向に区切りがつかぬ▼ふかしぎなグラフがあった。白書の中の「弾薬在庫量の推移」なる図である。推移を示す曲線があるだけで、何万トンかを示す数字がない欠陥グラフだ。×××という削除部分の多かった戦前の文書を見せつけられたようで、ぶきみだった▼「秘密が支配するところでは、政府の役人は事実上自分の思い通りの処置をとることができる」(I・ガルヌール編『国家秘密と知る権利』)。その時、市民は、政策決定の外側におかれる。 敗戦の日の花の回想 【’86.8.10 朝刊 1頁 (全855字)】  立秋を過ぎても猛暑の日が続く。キョウチクトウの花が高速道路のほこりを吸って咲いている。サルスベリが、枝先にびっしりついた堅いつぼみを一気にふりほどいて咲いている▼敗戦当時の加藤楸邨の句に「蛍草見て立ちにけり戦了る」。木や草を見つめていて、「既視感」よりももっとなまなましい感覚が身内をよぎることがある▼戦後41年たっても、この感覚は根強く生き残っている。中学校の菜園に実ったトマトの赤さなどは、今なお戦の記憶とからみついてはなれない▼甲府市に住む中村淳さんは、「敗戦のころの記憶に残る草や花は何ですか」という調査を、根気よく続けている。知人や未知の人にはがきを送り、約400通の回答をえて『敗戦の日の花の回想』という本にまとめた。期せずしてそれは、極限の状況にある時の人間と植物との交流の姿を描きだしている▼回答ではまず、ヒマワリが多い。カンナ、キョウチクトウと続き、意外なことに、アカザ(またはシロザ)がそれにつぐ。川辺や道ばたによくある草で、とくに花が美しいわけではない。当時の飢えの記憶と結びつくためだろう。人びとは、河川敷や空き地でアカザやシロザを摘み、汁の実にし、おかゆに入れた▼ほかにも演習場の草むらでノビルを食べた、空腹のあまりヤブカンゾウを摘んだ、という回答がめだつ。ひもじさの記憶は強烈だ▼水引草を見て戦死した友を思う。キョウチクトウを見て広島のあの日を思う。そういう回想は、1代限りだ。しかしだからといって、次の世代にそれを伝える作業を切り捨てていいのか。花の色、草のにおい、そういう細部の現実感なしには、体験は伝わらない▼「竹煮草黄なる血汐にたふれふす戦の惨忘れざらめや」。黄の汁を噴いて倒れるタケニグサは兄の戦死の記憶と重なるといい、中村さんは今年も人びとの回想を集めている▼さて、敗戦のころ、あなたには植物にからむどんな記憶がありますか。 西ヨーロッバ諸国、鉄道は“文化” 【’86.8.11 朝刊 1頁 (全849字)】  同僚がヨーロッパの国鉄を取材して帰ってきた。以下はその近況報告である▼《スピード競争》試験列車で時速380キロを出し、270キロの世界最高速度で営業しているのがフランスの超高速TGV。さらに新線を建設し、在来線にも乗り込んで、やがて国内の大都市はすべて3時間圏内になる▼西ドイツのICEは5年後、300キロ近くで運転をはじめる。この国の幹線は戦前、ベルリンを中心に東西に延びていた。国土が分断され、いま新線の建設はすべて南北方向になる。イタリアも300キロ運転を狙う。6時間近くかかるローマ―ミラノ間が3時間余になるが、いつ完成するかは「?」。イギリスは200キロ運転で十分、とか▼《国威》パリからリヨンまで、TGVの運転席に乗って旅をしたが「日本の新幹線よりすごいだろう。しかも安く上げた」との自慢話にうんざりした。いま西ヨーロッパの主要都市間を国際高速鉄道で結ぶ計画がある。むろんTGVの採用をというフランスに対し、西ドイツは独自に開発中の高速列車でと負けていない▼英仏海峡の列車トンネルは1993年には完成の予定だ。大幅に旅客がふえる、朗報だ、といったイギリス国鉄幹部は「でも駅名は変えてやらねばなるまい」と片目をつぶった。将来、パリからロンドンにくる列車の終着駅に予定されているのは、ワーテルロー駅である。駅名は、フランスの英雄ナポレオンがイギリス、プロイセン連合軍に敗北したあの運命の会戦にちなむ▼《赤字》わが国鉄と同じように赤字に悩みながら、これらの国々の国鉄マンが自信と希望を持っているのは、国家が国鉄の持つ公共性を認め、手を差しのべているからだろう▼西ドイツの国鉄幹部はこういった。「わが国では鉄道は文化の重要な構成要因の1つという考えがあるのです。赤字だから路線を廃止するといったら、自分たちの文化を破壊するのかって大騒ぎになります」 ツツ主教の講演を聞く 【’86.8.12 朝刊 1頁 (全841字)】  人種差別の国、南アフリカ共和国からやってきたツツ主教の講演を日比谷公園内できいた。久しぶりに、弁論というものの持つ力を味わうことができた▼ノーベル平和賞を受賞したツツ主教の語り口は、とりわけ流暢(りゅうちょう)というわけではない。けんらんたる言葉づかいがあるわけでもない。だが、よく通る声で語る英語のひとことひとことは、的確に、南アの黒人の心を伝えてくれた。白人権力に抑えられた黒人指導者にとって、弁論こそは生き抜くすべであり、非暴力的解放運動の不可欠の手段なのだろう▼皮膚の色による理不尽な差別をツツ氏は「大きな鼻」におきかえる。「たとえば大きな鼻の人間こそ重要で、価値があるとみなされ、公衆トイレに『大きな鼻の持ち主専用』と書かれてあるとしたら、あなたはどうしますか。大鼻こそが知性や善意の象徴だというのと同じようなばかばかしいことが、南アでは行われているのです」▼かつての黒人たちの土地を、今は白人が占拠し、黒人は投票権さえもたず、白人居住区には住めない。「ある時、人間がテントにいたら、ラクダが『頭をいれたい』といった。どうぞといったら、足をもう1本いれたいといい、最後には全身をテントに入れ、人間はテントから押しだされてしまった」▼このそぼくなたとえ話は、圧倒的多数をしめる南アの黒人の状況をよく説明している。非常事態宣言下の今、この国では、すさまじい報道管制、銃撃戦、殺害が続いている▼南ア政府は日本人を「名誉白人」と呼び、特別扱いにしている。「名誉白人ということであなたの存在価値を認めるということは、日本人に対する大きな侮辱ではないか」とも主教はいった。名誉白人と呼ばれて抑圧の側に立つか、それとも黒人解放の側に立つかという問いかけがその底にはあった。それは、日本政府に対して、厳しい経済制裁を求める問いかけでもあった。 瘠我慢 【’86.8.13 朝刊 1頁 (全844字)】  『瘠我慢(やせがまん)の説』を書いた福沢諭吉翁だったら、新自由クラブ解散の報をきいてたぶんこう書いただろう▼新自クのごとき小党は大政党に抗してその勢いを維持するよりも、大政党に合併するこそ安楽なるべけれどもなおその独立を張り続けたるは小党の瘠我慢にして、我慢のときにゆらぐことありたりといえども、一応は党の栄誉を保ちきたれりというべし▼しかるにここに遺憾なるは自民圧勝の余波をうけし新自クにこと起こりて、不幸にもこの大切なる瘠我慢の大義を害しつつあることなり。そもそも新自ク結党の趣旨は荒野にありて日本の政治の蘇生(そせい)を願う1粒の麦たらんとし、腐敗政治の打破を志すにあり。金権政治を断たんとするには瘠我慢の主義によらざるべからず▼されどこの愚直なる初志を貫きえぬまま、時勢を見はからい、手ぎわよく連立に走り、さてまた今日自ら解散し大樹の下にすり寄らんとするがごときはこれを何とかいわん。小保守党の瘠我慢主義を信じて1票投じたる有権者の落胆失望はいうまでもなく、公党の信義を損うたるの不利は決して少々ならず▼昨今の時勢より見れば人心はロッキード事件の衝撃を失いつつあり、もはや政治倫理の主張によりて票を得ることあたわず、反金権の運動によりて党員を得ることあたわずといえども、一片の瘠我慢は立党の大本としてこれを重んじこれを培養すること緊要なるべし▼「地元の面倒」をまっとうせんとするには、自民党流政治手法をまねざるべからずといえども、結党の要素たる瘠我慢の風を損うたるの責は免るべからず▼福翁が見れば思わず噴き出すほどの悪文で恥じいるばかりだが、翁のいわんとするところはこんなところではないか。「私は私の道を歩む」という田川誠一さんは、瘠我慢の道を行くらしい。しかし昨今の世の中は、瘠我慢がさっぱりはやらなくなっているのですよ。福沢先生。 『花嫁のニッポン』 【’86.8.14 朝刊 1頁 (全841字)】  ここ5、6年の間に、身近に外国人の姿を見かけることが随分多くなった。東京周辺では、外人の住む街は赤坂・六本木・麻布か横浜と思われていたのに、郊外の新興住宅地でもそれほど珍しい存在ではなくなった▼日本の経済大国化につれて、世界の人びとが集まるようになったせいだろうが、同時に、世界に散らばった日本人が国際結婚して、伴侶(はんりょ)をつれ帰っているケースも少なくない。そんなガイジンの目に、この日本はどう映っているのだろうか▼江成常夫『花嫁のニッポン』は、在日外国人妻34人からの聞き書きである。江成さんは、かつての日本人戦争花嫁たちとのインタビューをまとめた『花嫁のアメリカ』で評判になったが、今度の姉妹編について「ふだん着のニッポンを質(ただ)したかった」といっている▼そのねらい通り、毎日を異文化衝突の現場で送っている34人の日本診断は鋭い。多くの外国人妻は、日本の豊かさとか中流意識に対して「(故国なら)朝早くから夜遅くまで働かなくとも、日本より大きな家に住めるし、もっと楽しい生活ができる」と、さめた目でみている▼日本流の子育てにも批判はきびしい。「日本人は自分の子どもは必要以上に可愛(かわい)がるのに、他人の子どもには冷たい」。韓国出身の妻は「日本では子供が甘やかされていて礼儀を知らない。日本で子どもを育てるのは怖い」という▼トルコから嫁いできた若妻は、日本人は外国人を国によって色分けすると批判する。米国人と思い込むと「きれいですねえ」、ドイツ人と思い込んだときは「そんなに日本語が話せるなんて、頭がいいですねえ」と愛想がよいが、トルコ人と聞くと、つまらなそうな顔をするだけだそうだ▼しかし、日本の夫に対する愛情と信頼は深い。そして夫のほうもゆとりをもって、その愛情にこたえている。その点がさわやかな読後感を与えてくれる。 「大本営発表」のウソ 【’86.8.15 朝刊 1頁 (全856字)】  中学生のころ、動員されて軍需工場で働いていた。級友たちと手書きの同人雑誌をつくったら、「死」について書くものが多くて、お互い顔を見合わせたことがある。予科練へ行った仲間もいた。生き抜きたいとは思うが、数年内には死ぬことになるだろうというさめた気持ちがあって、いかにして立派に死ぬか、といったことを少年たちは幼い筆で書いた▼「大本営発表」の「赫赫(かくかく)たる戦果」をきけば死が少しは遠のいたと思う。だが、壊滅的敗北が奮戦に化け、退却が転進に化けるようないかがわしさもまた、なんとなくはだで感じていた▼当時、大本営報道部にいた将校が戦後、発表のウソを認めて「自分の前半生は罪万死に値する」と書いているのを読んだことがある。発表のごまかしは、すさまじいものだった▼ごまかしの裏側を調べた保阪正康さんは「こと大本営発表に関しては、日本の軍事集団が官僚機構としてあきれるほど腐敗していたことをものがたっている」と書いている(『敗戦前後40年目の検証』)▼若い人たちにはわかりにくいことだが、「大本営」とは天皇に直属する最高の統帥部のことで、戦争遂行の面では政府よりも強力で絶対的な存在だった。陸軍と海軍が争って手柄話に尾ひれをつけても、手痛い敗退を隠しても、ごまかしを監視し、戒め、責任をとる機能がなかった▼罪万死に値するという自己批判も大切だが、もっと大切なのは、大本営発表の詐術の歴史を細密に調べ、そこから何を学ぶかという点だろう。今ははたして、防衛情報について万全の監視機能が働いているのかどうか。国家秘密法が現れたらどうなるのか▼桐生悠々があの有名な「関東防空大演習を嗤ふ」を信濃毎日に書いたのは昭和8年である。「ご沙汰書の下っている演習を非難した。不敬だ」と非難されて、悠々は信毎を退くことになる。昭和8年の段階では、すでに言論の自由を守る戦いは立ち遅れていた。 子ども魂が守るピーターラビットの風土 【’86.8.16 朝刊 1頁 (全843字)】  夢や幻想の世界を大切にする心を仮に「子ども魂」とでも名づけようか。この子ども魂をたっぷり持っているかどうかは幼時の経験と関係がある。幼いころから昔話や童話に親しむことなく、たくさんの絵本を読むことなく育った人は、残念ながら子ども魂とは無縁になる▼東京の銀座松屋で開かれている『メルヘン・エキスポ、世界の絵本・童話』展には、チョウと共に空を飛ぶ妖精(ようせい)がいて、ガリバーやシンデレラがいた。ふしぎの国のアリスがいて、あの愉快なウサギ、ピーターラビットがいた▼子ども魂を持ち続けた作家たちが、過去数世紀にわたって子どもたちのために築きあげたメルヘン共和国の世界である。古典絵本の宝庫といわれるカナダのオズボーン・コレクションから出品されたものだ▼何よりも驚いたのは、ピーターラビットの舞台となったイギリス湖水地方の風土が、今もそのままの形で残されているのを知ったことだ。会場の一角に、原作者ビアトリクス・ポターが80年以上も前にかいた絵本の絵と、絵の背景を撮った写真が何枚か並んでいた。昔の絵と今の写真とがみごとに符合している▼写真を撮った児童文学者の吉田新一さん(立教大教授)によると、自然保護主義者のポターは、この湖水地方の、日比谷公園のほぼ100倍に相当する広大な土地をそっくり自然保護団体ナショナル・トラストに寄付して、風土や建物の保護をはかったという▼ポターは、緑濃き風土の産物であるピーターラビットたちを描くことで、子ども魂に訴え、その印税をピーターラビットたちの風土を守り抜くために使ったのである。おとぎ話のようだが、本当の話だ▼今も、ポターが暮らした湖水地方の緑の丘陵には、ノウサギやハリネズミやリスや鳥が、ポターの世界そのままの姿で遊んでいます、と吉田さんはいう。緑を守るのもまた、子ども魂を失わぬものの力わざだろうか。 チェルノブイリ原発事故の報告書を読んで 【’86.8.17 朝刊 1頁 (全845字)】  ソ連のチェルノブイリ原発事故の報告書要旨を読みながら、人間はやはりミスから逃れられるものではないと思った▼はやい話が、筆者も昨日の天声人語欄であやうく「日比谷公園の100倍」を「10倍」に間違えるところだった。ゲラ刷りの段階で誤りを見つけたからよかったが、どんなに気をつけたつもりでも、心のスキをミスが通り抜けることがある。1年間のこの欄の字数を約30万字だとすると、0.01%のミスでも30字に誤りがでることになる▼誤りのあるのが当然だといっているのではない。あらゆる安全対策は、人間には常に誤りがあるという厳しい自戒を前提にすべきだ、ということを強調しておきたい▼ソ連の原発事故のあと、米国原子力規制委の1委員が「十二分な安全対策がとられなければ、今後20年以内に大事故が起こる」と証言した。大事故の起こる可能性を否定せず、という点が大切だ▼7、8年前、日本の原子炉安全専門審査会の1審査委員は「チャンネル型黒鉛沸騰水炉(チェルノブイリ型)は原発を多数建設する場合でも、住民と環境に対して安全で信頼性がある」といっていた。この判断が甘かったことを、今回の事故は如実に示してくれた▼チェルノブイリの現場では、実験のためにわざと各種の安全装置を切ってしまっていたという。なんともずさんな話だが、それでは原発のしくみ全体には欠陥がなかったのか、という疑問が残る。事故が決定的に広がるのを防ぐしくみの欠陥について、報告書があまりふれていないのはなぜだろう▼フール・プルーフという考え方がある。それは、だれかがおろかなこと、意図的にむちゃくちゃなことをした場合でも安全性が保たれる「超安全炉」を造る、という発想につながる。たとえ効率が悪くても、この考え方に学ぶ必要はないのか▼そして何よりも、原発の安全神話に対しては、疑い、かつ疑う精神が大切だろう。 川柳 【’86.8.18 朝刊 1頁 (全840字)】  川柳人口がふえているようだ。新聞、雑誌はほとんど読者投稿の川柳欄を設けるようになったし、テレビやラジオにも川柳の番組がある。団地新聞、社内報などにも俳句、短歌と並んで川柳の投句欄がある。結社は海外のものまでふくめて500を超すという▼川柳には、同じ五・七・五の俳句に比べて低級だとする奇妙なイメージが強い。「川柳にもならない駄句でして」とか「昔はこれでも俳句をやったんだけど、どうも才能がなくて」とか、川柳を卑下するものいいがよくある▼本紙「朝日せんりゅう」(東京本社版)の選者、神田忙人さんによると、駄じゃれ、ごろ合わせなど、ただのことば遊びを川柳だと考えている人が多い。日常卑近の、少々げびた題材を面白おかしくまとめたもの、と思っている人もいる。時事川柳となると、怒りにまかせて作るだけの、スローガン的な作品がめだつという▼鶴彬(つる・あきら)という川柳人がいた。明治42年、石川県生まれ。高等小学校を出て大阪の町工場労働者となり、15、6歳から川柳を作りはじめる。反戦色の濃い句が多いので、昭和12年、日中戦争開始後まもなく治安維持法違反で逮捕された。そして翌年、留置場で赤痢のため死んでいる。29歳の若さだった▼手と足をもいだ丸太にしてかへし 代表作の1つである。赤紙(召集令状)1枚で戦地に駆り出され、あげくは手足をもがれて送り返される。戦争の非情さへの命がけの抵抗である▼金沢市の旧制四高本館にある石川近代文学館に、近く鶴の資料コーナーが生まれる。郷土にゆかりの文学者や思想家を顕彰しようというもので、泉鏡花、室生犀星、鈴木大拙、西田幾太郎らと並んでできる▼鶴の句にこんなのもある。タマ除(よ)けを産めよ殖やせよ勲章をやらう  稼ぎ手を殺してならぬ千人針 胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき  41年目の熱い夏が過ぎていく。 「テグス公害地図」づくり 【’86.8.19 朝刊 1頁 (全863字)】  日本鳥類保護連盟の人たちが多摩川の川辺に捨てられた釣り糸(テグス)を回収したら、1メートル歩くごとに5メートル分の糸があったという。野鳥にとって、これは死の糸である。連盟は全国の鳥好きの人に呼びかけて実態を調べ、「テグス公害地図」をつくるそうだ▼東京の江東区に住む渡辺勇さん(66)は、家業のひまをみては月に何回か荒川べりを歩く。捨てられたナイロン製の釣り糸や釣り針を拾うためだ。もう6年以上も続けている▼糸にからまったまま餓死し、腐りかかっているカモをみることがある。糸がからみ片足がちぎれつつあるセグロセキレイにであうこともある。釣り針のついたままの魚を飲みこんで死んだゴイサギもいる▼以前は、月曜に歩くことが多かったが、最近はわざと釣り人の多い日曜に歩く。目の前で拾うのは、捨て去るものへの無言の戒めである。「大変ですね」「ご苦労さま、一杯どうです」と声をかけてくる人もいる。拾った釣り糸の長さは合計約120キロメートルにもなる。「でもまだ、きれいになったとはいえないなあ。捨てる人はやはり子どもが多いようです」▼連盟の話では、たとえばハマシギを観察すると50羽のうち、多い時は約10羽が釣り糸で足に異常がある。ドバトが10羽いれば、3、4羽が足に被害をうけていることもあるそうだ。想像以上に、釣り糸は鳥の世界を脅かしている▼最近、あるマンションのベランダの植木にヒヨドリが巣をつくった、という話をきいた。巣はガラス戸寄りにつくられていた。人の気配には平気だった。残念なことに、ヒナは巣立ったところをカラスにやられたが、ヒヨドリの親は、カラスの襲撃を避けるため、外からはみえにくく、人を頼りにできる場所を選んだらしい。都会では、新しい形の人間と都市鳥との共存が始まっている▼鳥と人間の共存には難しい問題が多い。だが少なくとも死の糸でじわじわ鳥を殺すという仕業は残酷にすぎる。 よみがえったニュージャージー 【’86.8.20 朝刊 1頁 (全846字)】  アメリカ軍はよほど物持ちがいいらしい。第2次大戦当時に働いた巨大戦艦ニュージャージーが、現役として佐世保港にくる。人間でいえば老境にあるが、今は改造されて世界最強戦艦になっている▼ニュージャージーは、朝鮮戦争やベトナム戦争にも参加した。そして休業中は、要所要所にこってりと油を塗り、カバーをかぶせて腐食を防いだ。付近の海中に電流を流したり、艦内に強力な除湿機をいれたりしたともいう▼「力の誇示」のためにも、巨大戦艦をながらえさせる必要があったのだろう。それだけではない。改造されたニュージャージーは、巡航ミサイル「トマホーク」32発を搭載し、1分間に3000発を発射できる機銃4門を備えている。口径16インチ砲の砲弾は厚さ9メートルの鉄筋コンクリートを貫通する力をもつ、とある。核戦力をも持ちうる巨大戦艦としてよみがえったのである。上陸作戦支援の最強戦力でもある▼問題は、その核戦力だ。3年前、中曽根首相は「ニュージャージー寄港のさいは、核の有無をよく確認し、非核ということであれば入港を認める」と言明した。だが、すぐあとで「確認」をひっこめ「米国の注意を喚起する」という表現に訂正した▼今回、マンスフィールド駐日米大使は倉成外相に対して「特定の場所における核の存否は肯定も否定もしないのが米政府の一貫した政策だ」と今までの姿勢を繰り返した。核弾頭の有無は、ついに確認されなかった▼ニュージーランドのロンギ首相は「核の対決の一方に加担することは、自国と地域の安定を危うくするものだ」とのべ、核つきの恐れのある艦船の寄港拒否の立場を鮮明にしている▼そのロンギ氏がいっている。「難問中の難問は、日本を出て直接こちらに来る米艦船が核を持っているらしいという時にどうするかだ」。拒めば、日本の非核3原則の虚構を暴露することになる、といいたかったのだろう。 序列主義 【’86.8.21 朝刊 1頁 (全856字)】  リクルートリサーチによると、大学生(文科系・男性)の人気投票では昨年21位だった日本電信電話(NTT)が1位に躍りでている▼会社説明会の第1日はさぞ志願者が殺到するはず、と思っていたら、それほどでもなかった。会場はかなりすいていたそうだ。大人の予想なんかおかまいなし、の変幻自在なところがおもしろい。それとも、市内通話を1分間10円に値上げする構想が、急に若者のNTT人気に水をさしたのだろうか▼紙面に人気企業の順位表をのせながらいうのは気がひけるが、この順位表なるものにどれほどの意味があるのだろう。NTTは立派な企業だとは思うが、そのNTTが1位で三井物産が5位なのはなぜか、となるとわからない。コマーシャルの頻度の問題なのか▼順位をつけられないものにむりに順位をつけることには、どこかむりがある。走り高跳びと走り幅跳びの違いを無視して、跳んだ距離だけで走り幅跳びを上にするようなところがある。にもかかわらず、人気企業順位表が現れるのは、心底、序列主義の好きな人が多いからか▼序列好きの弊の1つに、たとえば叙勲がある。人を職業の違いなどで勝手に勲1等にし、勲3等にする。本来、その人の生涯の功績は数値化できるものではないのに、1等や3等にわける。こういう序列化の背後には人間のおごりがあるように思う▼さらにいえば、子どもたちはテストの偏差値で序列化され、テレビの番組は視聴率で序列化される。偏差値も視聴率も、たしかに1つのものさしではあるが、唯一絶対の基準ではない。偏差値だけで判断することは、その数値には現れないすばらしい能力を切り捨てることになる▼私たちはまた、GNPというものさしで国の序列化をし、日本が西側第2位だとなれば、その気になって踊ってしまう。序列主義からの解放は容易ではない▼就職の季節。採用する側も、学校の序列にこだわる弊を改めるべきだろう。 社会党は「見える政党」に脱皮を 【’86.8.22 朝刊 1頁 (全856字)】  辞める辞めるといいながら辞めるわけにはいかなかったのが民社党の大内書記長。辞める辞めるといって幹事長を辞めてしまったのが自民党の金丸さん。党則を守る守るといいながら党則改正を待っているのが中曽根さん。政治家の進退は一筋縄ではいかない▼出る出るといいながら出そうなのが社会党の委員長をねらう上田哲さん。いやだいやだといいながら出されることになりそうなのが土井たか子さん▼さて、その社会党だが、党の幹部がなぜ「一本化選出」にこだわるのかがよくわからない。だれを選べば党内がまとまるかという内向きのことよりも、今は社会党の活力をひきだす荒療治を考えたほうがいい。委員長公選、けっこうではないか。議論百出、もみにもんでようやく活路が見いだせるというものではないか▼社会党は「縮小再生産」の道を歩んでいるという批判がある。かつて江田三郎さんや多くのスター政治家を排除し、選挙に負けるたびに委員長のクビを切ってやせ細ってきた。5人区に党から2人を立てて競い合わせるよりも、最初からあきらめて1人にしぼる、という保守性も縮小再生産を加速した。荒々しい対立よりも全党一致で小さくまとまることがよしとされてきた▼こんな話がある。都内に社会党関係者がよく行く飲み屋があったが、最近これが閉店した。社会党グループがわれらが店のようにふるまうのでほかの客が来なくなったのか。まさかそれだけが原因とも思えないが、党の活動家ならむしろ、ほかの客と一緒に騒ぎ、客をふやすくらいのことがあってもよかった。党の内向き志向を象徴するような話だ▼今の社会党は、内向きにまとまるよりも、外とのつながりを大切にすべきだろう。つまり「見えない政党」から「見える政党」への脱皮である。これがなければ縮小再生産はさらに進む。委員長公選というパフォーマンスをどう盛りあげるかは「見える政党」の見せ場ではありませんか。 苦しみを心の糧に 【’86.8.23 朝刊 1頁 (全856字)】  「とてもうれしいことがありました」というお便りをいただいたのは7月だ。差出人は、栗田美瑳子さんである。前に本欄で紹介したことがあるが、栗田さんはがんが腰椎(ようつい)に転移して闘病生活を送っている。激しい痛みの中で書いたものだろうが、文字が躍っていた▼自分のつくった「俳句ともいえないような句」に勝手にメロディーをつけ、恩師の小山章三さん(国立音大教授)に送った。小山教授はそれを編曲し、美しい伴奏をつけてくれた。「昨日その楽譜をいただき、枕の下に入れて眠りました。痛みも忘れてきれいな夢をみていたような気がします」と手紙にはあった▼8月、国立音大で夏期講習があった。小、中、高校の先生たちが参加する講習の席で、小山教授はその作品を合唱してもらい、テープにおさめた。栗田さんに贈るためである。テープをきかせてもらった▼「桜片(はなびら)をつづりしわれの過去光る/病むわれにやつれし月の美しさ/略/蝶となりて夫(つま)と寄りそう夢をみき」。がんを宣告されて生きる人の、苦闘をつきぬけた静かさがただよう曲だった。「泣けて、歌えなかった」と合唱に参加した年配の女性がいったそうだ▼毎朝、ああきょうも痛くて動くことができないと悲しみがつきあげてくる。だが心豊かに一生懸命生きれば、たとえ短い生命に終わったとしても何かを残せるのではないかという栗田さんの思いが歌を書かせ、童話を書かせる▼別の病で、長期間闘病を続けている遺伝学者、柳沢桂子さんとの励まし合いが、栗田さんを支えてきたことは前にも書いた。その柳沢さんは、動けなくなってから自然の美しさをずっと深く味わえるようになったという。そしてこう書いている。「苦しみに耐えて自分の内面をじっと見つめる時、人間の心の奥行きの深さに驚かされます」(『愛をこめいのち見つめて』)▼苦しみを心の糧として生きる姿勢が、私たちの心を打つ。 森への畏敬 【’86.8.24 朝刊 1頁 (全874字)】  ブナの森が1年間に落とす葉っぱの量は1ヘクタールあたり1.3トンから9.1トン、という数字がある。これだけの量の葉が土壌動物に食われ、カビやバクテリアによって分解され、栄養分たっぷりの土になる。このゆたかな土は、太古の農業生産をささえる基礎になった(日本のブナ帯文化・市川健夫ほか)▼昔、人びとはブナの森の木の実を食べた。「ブナの実1升金1升」ということわざさえあった。人びとはまたワラビやキノコを食べ、樹皮で布をつくった。ふかふかの林床は天然の貯水池である。ブナは「森の母」であり、ブナの森は「命の森」である。命の森は、1万年、いやそれ以上の昔から私たちの祖先の木の文化をささえてきた。それがわずか数十年で急速に姿を消している▼青森・秋田県境にひろがる白神山地に約1万6000ヘクタールの原生林がある。日本に残る最大規模のブナの原生林、といっていいだろう。天然記念物のクマゲラもいる。守るに値する森だ▼林野庁が発表した「白神山地の調査報告」によると、4000ヘクタールという広大な自然観察教育林を造るという。森の文化に目を向けた点は評価したいし、保全林をふやしたことも一歩前進だ。だが、青秋林道計画は撤回されていないし、クマゲラ生息地の保全策も十分ではない▼数日前、松谷みよ子原作の『オバケちゃん』の舞台を見た。前進座による子どものためのミュージカルだ。森にすむお化け一家が、開発から森を守るために奮起一番、立ち上がって人間どもをこわがらせる▼が、性悪の男はお化けをおもしろがり、観光の資源にしか考えない。最後には木を切り開発を進めようとする。お化け、つまり森の精から見た人間のおぞましさが丁寧に描かれていた▼林業はむろん大切だが、その根底には命の森に対する畏敬(いけい)の念があるべきだろう。そして常に森深くわけいる林野庁の人たちこそ、畏敬すべき森の精のささやきをはだで感じとっているはずだ。 米で「科学教育の危機」 【’86.8.25 朝刊 1頁 (全840字)】  子どもたちが使っている教科書はキリスト教の教えに背くから採用をやめるべきだ――米テネシー州の主婦たちが、郡教育委員会を相手どってこんな訴訟を起こした。ここの教科書問題では、歴史ではなく理科の教科書が争いの種になっている▼『火星への探訪』など23冊の「憂うべき教科書」が法廷に持ち出された。人間の能力や可能性ばかりが強調され、神の摂理や全能の力が軽視されていると原告はいう。訴えによれば、人間のすばらしさをうたいあげたルネサンス芸術を教えることも「もってのほか」で、「創造者としての神を否定している」▼神が1週間で天地を創造したという教えを絶対と考える原理主義者にとって、ダーウィンの進化論は認めることのできぬ妄説である。少なくとも「天地創造」と進化論を平等に教えよ、という主張が1980年代初めから急に力を得てきた▼テネシー、ルイジアナ、アーカンソー州でこの主張を認める州法が次つぎに生まれる。これらの法律は、信教の自由を保障した憲法修正第1条に照らして違憲との判決が連邦地裁で下る。聖書派は控訴する。来春には連邦最高裁がルイジアナ州訴訟に最終判断を下す運びとなった▼進化論論争は宗教対科学、州法と憲法という全米を巻きこむ問題に発展した。江崎玲於奈博士をはじめ全米のノーベル賞受賞科学者72人は、意見書を最高裁に出し「科学教育の危機」を訴えた▼いかに保守化を問われる最高裁でも、地方裁判決を覆す判断を下すとは思えない。だが、天地創造論者の高姿勢は、保守主義の高まり、テレビを利用して福音を説く宗教運動家の続出、という潮流に乗っている▼信心深く、素朴だが頑固。中西部から南部へ下る「バイブル・ベルト」と貧しい農村地帯の風土から、天地創造説を推進する宗教・教育改革運動は生まれた。この一帯は、日本の自動車産業が進出しつつある地域でもある。 アメリカの「核慣らし戦術」 【’86.8.26 朝刊 1頁 (全857字)】  「核慣らし」というのはいやな言葉だが、米軍はどうやらそれをねらっているらしい。戦艦ニュージャージーは「核つき」ということでは限りなくクロに近い。それをわざわざ佐世保に入港させた目的の1つは、核つき疑惑の艦船寄港に日本人を慣れさせるためだろう▼原子力潜水艦の時もそうだった。原子力空母の時もそうだ。入港がたび重なり、佐世保が横須賀にひろがり、核疑惑艦船の入港が既成事実として積みあげられる▼いまはまだ拒否反応が強い。去年の本社世論調査では「核兵器持ち込みの恐れがある軍艦の入港をはっきり拒否すべきか」の問いに、72%が拒否すべしと答えていた。だが、なしくずしの寄港が続けば、拒否反応もいつかあきらめに変わってゆく▼核慣らしとは、核兵器に対する日本人の過敏症を退治することでもあるだろう。核に対して過敏であることは、むしろ人類生き残りの知恵だと思うが、その知恵をあざ笑うかのように、核慣らし戦術が強行される▼たとえばの話だが、この戦術が成功して、日本人が核兵器に過敏でなくなったらどういうことになるか。当然、日本核武装論が力を得ることになるだろう。その時になって、米国政府の「ベスト・アンド・ブライテスト(最もすぐれ、最も賢明な)」の高官たちがあわてても、遅い▼米国務省の元特別補佐官メーシュリング氏はかつて「アメリカは、日本にはまったく無関係な危機についても、その指導力を正当化するため、核のカサを持ちだす」と自国を戒めていた▼氏はさらに、日本の指導者たちがアメリカの利己的な戦略構想に敬意を払う必要を認めながらも、もし核戦争が起これば日本文明は終わりだと承知して、その戦略構想をさめた目で見ている点を「巧妙な現実主義」だと評価していた▼これは5年前の話だ。いま日本は「クマの檻(おり)のしんばり棒」(米国防総省高官)といわれ、アメリカの戦略構想に一段とすり寄っている。 子どもの本離れ 【’86.8.27 朝刊 1頁 (全843字)】  「子どもが本を読まなくなった、テレビばかりみているなどというが、これはすべて親や教師など大人たちの責任だ。大人は、子どもに物語を読みきかせ、子どもの想像力をかきたて、思考をきたえ、言葉をゆたかにしてやらねばならない」▼子どもの本世界大会に出席した英国の作家、フィリッパ・ピアスさんが本紙記者に語っている。その通りだ。ねだってやっと買ってもらった1冊の絵本をまくら元に置いて寝たこととか、宇宙のふしぎを書いた大型本を手にした時のわくわくするような本のにおいとか、そういう記憶はなかなか消えない▼テレビやテレビゲームのなかった時代だから、身の回りに活字文化があふれていたのは当然だが、今はどうだろう。大人たちがよほど覚悟をきめて「活字文化を守る」ことに熱中しないと、本離れは加速的に進む▼子どもたちに民話を語ってきかせる仕事を続けている作家、渋谷勲さんによると、物語を楽しんできき、楽しんで読み続ける小学1年生は、高校生になっても読書の習慣が続くという。たくさん本を読んでいると、長文の問題を読みとる入試の時にも役立つ、と子どもたちがいうそうだ▼渋谷さんたちは「あなたも語り手に」という民話学校を今年も新潟県で開いた。若い母親たちに「子どもに語ってきかせることの大切さ」を説くのがねらいだった。本好きの、心の柔軟な子を育てるには幼児体験がものをいう。いい語り手が身近にいるということは子どものしあわせだ▼自宅を開放して「子ども文庫」にする人がふえている。その数は全国で5000ともいわれる。集まった子にお話をきかせる、という文庫も少なくない▼それはそれですばらしいことだが、都内のある文庫の話では、最近、利用者がめだって減っているという。1冊の本を長い時間をかけて読む、といった気風がうせつつあるともいう。子どもの本離れは大人の本離れの反映だ。 閣僚の資産公開だましの手口 【’86.8.28 朝刊 1頁 (全858字)】  柳田国男はさすがにいいことをいっている。「ウソは要するに敵を欺く術の実習」であり、人は「用に臨んで人をだますだけの能力は具へて居る必要があった」と▼閣僚の資産公開をいかに不透明なものにして人をだますか、これも政治家にとっては貴重な能力、ということになる。以下、不透明公開対策を列記する▼(1)資産はあらかじめ家族名義にして分散する。大臣になって、あわててマンションを妻名義に変えたのが見つかったりしては恥をかく。大臣間近しの声と共に、ひそかに妻名義などにしておけば、その分を公表せずにすむ▼(2)法人名義にしておくのもよい。たとえば財産管理会社を作って、その所有にする。この分も公表せずにすむ▼(3)政治団体の名を利用する。たとえ本人名義でも、政治団体に寄付されたカネで購入、政治活動の拠点にしているといえば、これもまた公表せずにすむ▼(4)巨額の定期預金があったら、一時解約して当座預金にする。当座預金にすれば公表を免れる。金利の面で損をしても、世間の目をごまかすためにがまんしよう▼(5)美術工芸品を買っておく。数千万円、数億円の絵でも「絵画1点」と点数だけを記載すればそれですむ▼(6)株を買う。公表されるのは額面価格だけだし、いつ買ったかは公表の必要がないから、かなりごまかせる▼(7)抜け穴だらけの資産公開制度だが、閣僚をやめても毎年1回継続的に公開せよとか、これを国会議員全部にひろげよとかの意見は無視する▼(8)アメリカの「政府倫理法」なみに、報告内容を厳しく審査し、事実違反に対する罰則を作れという世論は非現実論的妄説として排撃する。かくて、資産公開だましの手口は安泰である▼有権者の多くは、その手口を知りつくしている。それでもなお改めずに続けるのはなぜか。政治をおもしろくするためにはウソを欠くべからざるもの、と考える政治家が少なくないためであろうか。 「お知らせ」とコマーシャル 【’86.8.29 朝刊 1頁 (全844字)】  テレビやラジオで司会者がよくこんなふうにいう。「ではこのへんで、ちょっとお知らせを」「次は○○のコーナーですが、その前にお知らせをどうぞ」▼民放の場合、この「お知らせ」はいうまでもなくコマーシャルのことだ。なかには新番組の紹介や番組参加者の募集の案内など、文字通り放送局自身からのお知らせもあるが、テレビなら、この「お知らせをどうぞ」でパッと画面が切り替わって、一段と大きな音量でコマーシャルが流れる▼いつごろからこうなったかはわからないが、最近は「コマーシャルをどうぞ」よりこのお知らせ派の方が多くなっているように思う。もちろんコマーシャルにはお知らせの要素がある。新製品の紹介など、そのこと自体が視聴者、つまり消費者への情報提供であり、わが社の商品はこんなにすぐれていますよとやれば、それがインチキやデタラメでないかぎり立派に消費者へのお知らせである▼けれども、コマーシャルをすべてお知らせといってしまっていいかどうか。スポンサーは当然、そのコマーシャルによって売り上げを伸ばそうとする。だからこそ、わずか10秒そこそこのコマーシャルの製作に何千万円もの大金をかけるのだ。お知らせの要素があるにしても、本質的には売らんがための宣伝である。都合の悪い消費者情報など入れるはずはないだろう▼近ごろは、おしまいまで見てみないと情報なのかコマーシャルなのか区別のつきにくい番組がふえてきた。商品情報とうたっているから商品知識を教えているのかと思ったら、最後に「お求めは今すぐここへ」と電話番号が出たりする▼目くじらを立てるようだけれど、お知らせとコマーシャルはやはり分けて考えたい。言葉は往々にして、中身をぼかしたり、すりかえたりする。情報(インフォメーション)とコマーシャルを合わせた、インフォマーシャルなどという番組が現れるご時世なのだから。 奥武蔵の丘陵散歩 【’86.8.30 朝刊 1頁 (全861字)】  埼玉県の寄居駅で降りて、奥武蔵の丘陵を歩いた。清涼の避暑地ならともかく、空が燃え、日の光が山道に突き刺す中を歩く、というのはよほど酔狂なことなのだろう、丘陵一帯にはほとんど人の気配がなかった▼草むらを覆うようにしてセンニンソウの白い花が咲き競っている。やや暑苦しい感じの咲き方である。いたるところにヤブランが紫の花を咲かせている。秋の気配を感じとったのだろうか、ほの暗い道ばたにヤマジノホトトギスが何輪か、噴水のような形の花を咲かせ始めていた▼クサギの花の濃いにおいに包まれながら歩くと、杉の疎林の中にミズヒキの群落がある。木もれ日を浴びて、無数の赤い点々が鋭く光りながら地上に乱舞するさまがみえる▼オニヤンマが枯れ枝にとまり、大きなえものをかみくだいている。食欲のためには警戒心どころではないのか、そばに近づいても食事中の看板をかかげて動かない。一瞬、道を横切ったのはカエルだったろうか。1メートル以上の蛇がのたうちながら、その後を追って草むらに消えた▼風が吹き渡って、山はだを覆うクズの葉裏をきらめかせる。曹洞宗少林寺の裏山の道ぞいに、羅漢の石像が並んでいた。その数は500ほどか。江戸の天保のころに安置されたものだという▼いかつい顔がある。哄笑(こうしょう)の姿がある。苦悩の姿がある。沈思の姿がある。ツクツクボウシの大合唱に耳を傾ける姿がある。草に埋もれた姿がある。テイカカズラにからまれながら瞑想(めいそう)にふける姿がある▼「心がうらぶれたときは 音楽を聞くな/空気と水と石ころぐらいしかない所へ/そっと沈黙を食べに行け! 遠くから/生きるための言葉が 谺(こだま)してくるから」と清岡卓行は歌った。五百羅漢もまた、沈黙を食べて50年、100年、150年と座り続けてきたのだろう。野にさらされ、風と語り、沈黙を食べてきたもののみがもつ悠々たる美しさがそこにはある。 8月のことば抄録 外国人の目に映る日本 【’86.8.31 朝刊 1頁 (全856字)】  今月のことば抄録▼「日本人全体が神経衰弱一歩手前のような精神状態にあるようだ。その結果、自分たち自身に暴力的になっているようです」。『モモ』で知られる西独の作家ミヒャエル・エンデ氏の目にはそう映るらしい▼「人が高いビルから飛び降りた。『飛んでる飛んでる』といって落ちている。30階、20階と通りすぎても『大丈夫』といっている。最後の瞬間までうまくいく。でも、アッと思ったら地面にぶつかってる。今の日本の平和はそれによく似ている」。米国生まれのラミス津田塾大教授の日本批評も辛口だ▼「戦前は新聞が政治家と合唱していたけれど、今は違う。ナショナリズムや復古主義は多様な声の1つで、ある朝それ一色になるとは思えません。そこに日本の戦後政治が植えつけた多様性がある」と東亜日報主筆の権五キ^さん。そう、この多様性は、総決算すべきものではない▼「一般的な戦死者を親族が悼むことは中国側も理解し、同情できる。賛成しないのは被害者と加害者を混同することだ」と中国の斉懐遠外務次官、靖国問題で▼「軍事力を少なくして経済を発展させた日本こそより良いモデルなのだ。異常とも思える資金を投入する米国のやり方は間違っていると、どうして日本はいわないのか。日本の経済界がSDIに足を踏みいれてしまうと、日本的産軍複合体ができ、抜きさしならなくなる危険がある」。米国の経済優先順位研究所のアリス・テッパー・マーリン専務▼「文庫(家庭図書館)活動はすばらしい日本独自の文化です。『文庫の輸出』ができれば、立派な日本の紹介になるじゃありませんか」。子どもの本世界大会で、英国のオパール・ダンさん▼「完走できてうれしい。私の行動で(日本の)人々がアフリカの飢餓について考えてくれれば幸いです」。自転車で日本を縦断したジュリアン・バンフォードさん(文教大の英語講師)▼外国人の目に映る日本の姿は多様だ。 あっけなく終わった社党委員長候補立会演説会 【’86.9.1 朝刊 1頁 (全843字)】  ある市民が社会党の地方議員に年金のことで相談に行った。きちんとした説明がなく、結局、よくわからないままで終わった。やむなく別の野党の地方議員の所に行った。その議員は本部と連絡をとり、しっかりと調べた上で答えてくれた。社会党委員長候補の土井たか子さんがそんな話をしていた▼社会党には、市民の苦情や質問にこたえる仕組みがよくできていない、外から寄せられる意見を吸いあげるパイプがつまっているという自省である。党に電話をして何かをきこうとしても、たらい回しで責任の所在がわからないという市民の不満もある。土井さんはそう反省していた▼もう1人の委員長候補、上田哲さんも党の現状を厳しく批判する。中執は人事派閥の集合体で、委員長が何か改革をしようとしても指導力が発揮できない、国会議員は政策形成機能の役割を十分にはたせないでいる、と。病根はかなり深いようだ▼土井・上田両候補の立会演説会をきいた。5、6時間は続くものと覚悟していたが、1時間半ほどであっけなく終わってしまった。はぐらかされたような気がした▼両候補の熱弁にはそれなりの新鮮さがあった。見える社会党を、未来党員の呼びかけを、女性のつくる政策を、女性が立ち上がって党の変革を、党外の専門家を含めた政策集団を作って「影の内閣」を、と両者はこもごもいう▼だが、こういう大切なことがわずか1時間半の演説会で語りきれるはずはない。さらにいえば石橋さんが頭をまるめて現れ敗戦を語る、といった演出は望めないにせよ、たとえば野坂昭如さんや中山千夏さんを来賓に迎えて党批判をきく、といった演出をする度量はないのだろうか▼5年前の委員長公選の時でも立会演説会は3回あった。今度は1回限りなのか。公選の経過からは、いま社会党は全党をあげて身をさらし、死に物狂いで出直そうとしている、という気迫が伝わってこない。 内ゲバ 【’86.9.2 朝刊 1頁 (全841字)】  内ゲバという言葉は昔の辞書にはなかった。「三省堂国語辞典」の場合は、4年前に刊行された第3版になって初めて、「広辞苑」の場合も3年前に刊行された第3版になって初めて「内ゲバ」が現れた。今や内ゲバは日本文化を解く1つのキーワードになっている▼ゲバはゲバルト(暴力、闘争)の略で、組織の内部での暴力的抗争を内ゲバという。過激派と機動隊との衝突は外ゲバといわれるが、こちらのほうはまだ2つの辞書にはない▼真国労の幹部とその家族らが襲撃されて、1人が死亡、8人が重軽傷を負うという事件が起こった。寝ていた妻にまで手錠をかけ鉄パイプのようなもので襲いかかった、というからあきれはてる。恐ろしい話だ▼真国労というのは、国労から脱退した組合員が中心になってつくった組織だ。国鉄の分割・民営化に協調する立場をとり、革マル系だといわれている。襲ったのは、動労や真国労を憎む中核派らしい▼革マル派と中核派とは、革命的共産主義者同盟(革共同)を母体とする兄弟組織だが、ここ十数年、内ゲバを繰り返してきた。死者は80人を超えており、なお報復の怨念(おんねん)は続いている▼どこの国の過激派にも内ゲバはあろうが、これほど陰湿な殺人が繰り返される例はそう多くはないだろう。報復の怨念が衝動となっている点では暴力団の抗争と同じだ。大同団結よりも分裂抗争に走り、近親憎悪的な争いを繰り返す内ゲバは日本的風土の産物でもあろうか▼中核派の犯行だとは断定されていないので、速断はできないが、今度の事件には国鉄改革問題がからむようだ。国鉄改革に協調する動労や真国労に対して、中核派はその「せん滅」を叫んでいる。別の事件で逮捕された中核派幹部は、動労の松崎委員長を襲う予定メモを持っていたそうだ▼内ゲバが内ゲバにとどまらず、列車妨害などを起こす恐れはないのか。はねあがりが怖い。 政治資金集めのパーティー商法 【’86.9.3 朝刊 1頁 (全862字)】  「人間二階堂進君を語る会」という名のパーティーが10億円余を集めたという話をきくと、ため息がでる。サラリーマンの生涯収入は2、3億円である。生涯かかって得るものの何倍ものカネをひと晩で集めてしまうのだから、パーティー商売はやめられないだろう▼大臣や政務次官になったといってはパーティー、本をだしたといってはパーティー、励ましてもらおうといってはパーティーである。派閥の長が威光をかさに業界団体を通して各企業に券を割り当ててくる場合もある▼経済同友会代表幹事の石原俊さんが「パーティー券の売り込みが非常に多い感じがする。正規の政治献金には規制があるのにパーティー券は無制限であっていいのだろうか」と語ったことがあるが、まさに実感だろう▼今度の政治資金収支報告書をみると、カネ集めのための会が次第に大型化し、政治家の有力な財源になっていることの一端がわかる。パーティー商法は、抜け穴だらけの政治資金規正法に、さらに新しい抜け穴をつくっている▼報告書に表れた分だけでもパーティーの総売り上げは約80億円だが、実際はこれをはるかに上回るだろう。券が何千枚売れても、そして何億円もの純益があっても、それを監視するすべがない。パーティーの正確な開催回数も、正確な収入も、ヤミの中にあって見えない▼たとえば200人の発起人に益金を50万円ずつわけ、それをそっくり政治家に献金した形にすれば、総額1億円の巨額であっても、その出所を報告書に書く必要がない。パーティー商法はごまかしやすい政治資金をひねりだす便法になっている▼ある業界が、1枚2万円の券を1000枚、一括購入したという話があった。パーティーを悪用しようと思えば、5000万円のわいろを届けるかわりに、5万円の券を1000枚買うという体裁をとることもできる。いやすでに、パーティーは時にわいろ浄化装置の役割をはたしているのではないか。 福井県大野市議・野田佳江さん 【’86.9.4 朝刊 1頁 (全846字)】  福井県大野市は地下水の豊富な町で、多くの家庭がおいしい井戸水で生活してきた。10年ほど前から、その井戸が枯れ始めた。冬、道路に水を流して雪をとかす方式がとり入れられ、地下水をくみ上げて使ったからだ▼たちまち困ったのが、家事を預かる主婦たちである。野田佳江さん(59)も、その1人だった。どうして、こんなことになったのか。ごく素朴な疑問から、聞いたり調べたりしてゆくうちに、行政の欠点や矛盾が分かってきた▼「道路には責任をもっているが、ほかのことは知らん」「地下水がなくなれば、ダムを作って上水道を引けばいい」。そんな答えに、あちこちでぶつかる。貴重な自然の恵みと財源を、ムダにしなくて済む方法があるはずだと、同じ気持ちの主婦たちにも呼びかけて勉強を始める。そして市に提案を持ち込むが、まともにとり上げてもらえない▼ただの主婦だから聞いてくれないなら、議会に出るしかない。58年、とうとう野田さんは市議に立候補して当選する。以後も水問題やゴミ問題をこつこつと調べては提案をつづけている▼「勉強すると、いままで知らなかったことが分かるようになる。それが面白くて、また勉強する。始めるのに年齢は関係ないと思います」。先ごろ、松本市で開かれた「学習ネットワーキング」の集いに出席した野田さんは、思いがけず議員にまでなってしまった道のりを、こう説明した▼「学ぶ」という行為は、人間が生きるために欠かすことができない営みであり、本来は楽しいものである。それが、「学校」という限られた場で、ごく若い時期だけに強いられるもののようになってしまった▼本物の学びを見つけたい。子どもや青年にも与えたい。そう考え、いろいろな形で実行している人たちが、年に1度、交流する会だった。市議なんてウッソー、という感じの野田さんの、ほのぼのとした語り口に大きな拍手がわいていた。 政治家の言葉は「真夏の夜の夢」 【’86.9.5 朝刊 1頁 (全870字)】  真夏の夜の夢のように、政治家たちの言葉がはかなく消えてゆく▼選挙前、3選禁止の党則は守る、3選をめざすことは「ありえない」と中曽根首相はいっていた。「同日選挙は日本の世代交代、若返りを断行する選挙でもある」といい、「私の持ち時間は少ない。次はあなた方(ニューリーダー)の時代だ」とも言っていた。世代交代を語ったあのまばゆい言葉の数々はどこへ消えてしまったのだろう▼首相だけではない。竹下登氏は、選挙中「こんどの同日選は党則上、総裁の3選はしないことを前提にしたもので、私も郷土の期待にこたえなければならぬ」といい、総裁選出馬への意欲をみなぎらせていた▼安倍晋太郎氏はより明確に「同志の支持があれば今秋の総裁選に立ちたい」と意気ごみを語っていた。選挙後も3選や任期延長について「政党政治では党則が大事だ。5000メートル競走を走り始めて、3000メートルまできた時にゴールを1万メートルに動かすというのはルール違反だ」と鋭く突いていた。これらの言葉はどこへ消えてしまったのか▼首相がもし「大勝すれば続投したい」と堂々と言明していたのなら、話は別だ。首相はむしろ思わせぶりに世代交代を口にしていた。新総裁を期待して投票した人も少なくなかったろう。世代交代選挙の公約は真夏の夜の夢だったのか▼党則は守るといいながら、党則が変えられるのを待つ、任期延長という名の変則3選が実現するのをもくろむ、というのは「構造的中曽根流政治手法」の1つだ▼大型間接税は考えていないと逃げながら、新型間接税をもくろむ。防衛費のGNP比1%枠は守りたいと言明しながら、裏では枠の撤廃をもくろむ。さらにいえば、改憲は考えないといいながら、改憲の土壌づくりを考える。この構造的政治手法は、いかに有効でも、政治不信のミゾを深める結果を生む▼政治家たちの言葉が風船のように軽く、夏の夜空に消えてゆくのを見るのは、おぞましい。 自衛隊機事故と情報公開 【’86.9.6 朝刊 1頁 (全851字)】  今年の2月、航空自衛隊の入間基地内でC1輸送機が墜落し、大破した。5カ月後、記者会見で質問がでてはじめて、自衛隊は事故原因を発表した。その時の弁明がふるっている。「基地内での事故で、社会的影響が小さい」から発表を控えていた、というのだ▼C1輸送機は1機47億円もする。巨額の税金であがなわれたものである。それを無にする事故であっても「社会的影響が小さい」とする感覚が自衛隊にはあるのだろうが、この感覚こそ恐ろしい▼去年の5月、東富士演習場で戦車の実弾2発が目標をはずれ、国有林に落ちたことがある。落ち所によっては惨事になるところだったが、この時も陸上自衛隊は事故を隠そうとした。公表されたのは1週間後だった▼そして今度のサイドワインダーの暴発である。発表は、事故のあと6時間半もたってからだ。「今回は関係者が多く、隠し切れないので発表する」といっているところをみると、隠し切れたら隠し切るつもりだったらしい。このミサイルも、1発3000万円近い。決して安い値段ではない▼事故隠しがこうも続出すると、知られざる事故はさらにさらに続出しているのではないか、と心配になる。小さな事故でもきちんと公表し、社会的な監視の下で原因を追究することが大きな事故を防ぐ。事故究明を監視するのも一種の文民統制だが、自衛隊はその流れに背を向けているとしか思えない▼最近の事故では、24億円もするT2ジェット練習機を失い、2機あわせて75億円のファントム戦闘機を失っている。わずか数カ月で、これだけ巨額のものを壊しているのだ。どこに原因があるのか、詳細に公表してもらいたい▼米国の情報公開運動につくしたジョン・E・モス氏はいっている。「民主国家の主人は国民です。役人が税金を使ってやったことを主人に教えないという理由はない。しかも役人がいいたがらないことが、実は重要なのです」と。 土井社会党新委員長の「マイ・ウェイ」 【’86.9.7 朝刊 1頁 (全853字)】  「いま船出が近づくこのときに」ご存じ『マイ・ウェイ』(中島淳訳詞)のでだしだ。社会党新委員長の土井たか子さんのカラオケ熱唱歌の1つである。この歌の通り、土井さんは「信じたこの道をわたしは行くだけ」の定めになった▼『おてもやん』も得意で、国会議員歌合戦では常勝を誇り、趣味はパチンコで好物はやきいも、たこやき、力うどん、とある。子どものころは「男の子を従えて歩く、いわば女ボス的存在」で、メンコや相撲ごっこに興じた▼『わたしの少女時代』という本に小学1年生の思い出を書いている。入学式のあと、ある男の子が手足の不自由な女の子をいじめ、石を投げつけようとした。見ていられなくて、土井さんは男の子と取っ組み合いのけんかをし、先生にしかられた。自慢話になるような内容を、カラッと明るく書いているのは人柄だろうか。以来、強きをくじくくせがついたらしい▼委員長公選の時、土井さんの演説をきいて、時々、教壇からしかりつけられているような感じがした。正直いって、話のおもしろさでは上田哲さんが勝っている、と思った。肩に力が入りすぎていたのだろうか▼クライクライといわれる社会党をどう変えるか。リクツばかりといわれる社会党をどう変えるか。委員長が指導力を発揮できる党内の環境がない、といわれる社会党をどう変えるか。「信じたこの道」は難所だらけだ▼点差の開いた中で、突如、マウンドに立つ。追加点を許すわけにはいかない。しかも肩ならし不十分の新人投手である。「やるっきゃないと思います。肩の力を抜いて、マイペースでやります。私自身の球の投げ方をします」と新委員長はいい、ニコッとしてつけ加えた。「私のはくせ球でしょうけど」▼土井さんは「ここで逃げたら女がすたる」という状態に追いつめられて委員長選に立った。初の女性党首をもり立てられず、早々に降板、ということになれば社会党がすたる。 『ホトトギス新歳時記』と新季題 【’86.9.8 朝刊 1頁 (全846字)】  高浜虚子の編んだ歳時記の改訂版ともいえる『ホトトギス新歳時記』がこのほど出版された。虚子の孫で朝日俳壇選者の稲畑汀子さんが編集している。虚子編が初めて世に出たのが昭和9年だから、52年ぶりのことである▼汀子編には新季題の追加が200ほどあるそうだ。1月の部に初電話があった。初空、初富士、初詣(もうで)と並んでいる。「ブラジルは日本の裏よ初電話 長尾修」「初電話向ふも酔うてゐるらしく 小谷松碧」。NTTが大喜びしそうな、電話時代の反映である▼ラグビーが1月の部に加わっているのも、人気スポーツのファッション化時代の現れかもしれない。「ラグビーを見て口紅の濃き女 成瀬正とし」。現代向きに名前を変えたのもあった。さ夫藍^(さふらん)の花はクロッカスに、松葉獨活(まつばうど)はアスパラガスに▼季節が移動したのもあるようだ。駒鳥(こまどり)は3月だったが、5月以降でないと日本に渡ってこないことがわかり、6月に移されている。運動会は4月から10月に変わった。虚子のころは春秋2回行われ、春の方が盛んだったらしい。昭和39年の東京オリンピック以後は、秋の方が圧倒的に多いという。その開会式(10月10日)にちなんだ体育の日は、10月の新季題だ▼季節感は年ごとに薄れていく。花も野菜も果物も、たいていのものが年がら年じゅう店先にある。けれども、菊はやっぱり秋、トマトやキュウリは夏だろう。汀子編もそこはもちろん守っている▼いまの日本で、季節が残っているのは、もう歳時記の中だけだといわれたりする。だからこそ、季題にこだわる人は多いのだろう。歳時記の出版はけっこう多い。隠れたベストセラーだそうだ▼もっとも最近は、季題にとらわれない俳句もふえているようだ。自由な現代人の句ごころは、スキーのあとのビールや、こたつの中でのアイスクリームにまで託されていく。 藤尾文相の罷免 【’86.9.9 朝刊 1頁 (全857字)】  罷免された藤尾文相はかつて「歴史と伝統にもとづく民族の心をとりもどせ」と説いた。この言葉は「教育勅語の教える道徳律を復活せよ」という持論と結びついていることはいうまでもないが、そのことはひとまずおく▼民族には固有の歴史と伝統があり、固有の文化がある。それにもとづく民族の心を尊重せよと説く藤尾さんなら、当然、長い間、固有の伝統をふみにじられ、固有の民族の心をふみにじられた朝鮮の人たちの痛みがわかるはずだ▼今回の藤尾さんの発言内容を知って、いちばん残念なのはその痛みを思う心が、まったくといっていいほど伝わってこないことだ。日本政府は、朝鮮の人たちに日本語を学ぶことを強要し、姓名を日本風に改めることを強要し、教育勅語の精神を教え、忠良な日本臣民になることを説いた。民族の心に対するすさまじい侵略である。日本との同化を拒む抗日派の抵抗を「暴徒」として鎮圧した▼自国の伝統や文化だけではなく、地球上のあらゆる国の伝統や文化を大切にする気持ちを育てるのは教育の目的の1つだ。その教育のかなめにある文相なら、日本が隣の民族の心をふみにじった歴史をもつことにもっと謙虚であるべきだろう。その謙虚さがない人は文相失格だし、そういう文相を選んだ中曽根首相にも責任がある▼韓国併合は「形式的にも事実上でも両国の合意の上に成立した。そのための日本側の圧力はあったかもしれないが、韓国側にもやはり幾らかの責任はある」と藤尾さんはいう▼この合意のはるか前から、日本政府は武力で威圧し、親日分子(韓国からみれば売国奴)を利用して事実上の支配を強めていた。侵略に協力した親日派がいたことを反省せよ、という論法が韓国の人たちの心にどう映るか。韓国併合条約調印の夜、日本の高官が歌った。「太閤を地下より起し見せばやな高麗やま高く登る日の丸」。これが、当時の大方の日本人の偽らざる気持ちだったろう。 SDIへの疑問 【’86.9.10 朝刊 1頁 (全863字)】  戦略防衛構想(SDI)には自民党の長老も反対している。三木武夫氏がそうだ。鈴木善幸氏もそうだ。この2人を含めた「核軍縮を求める22人委員会」は5月と8月、SDI参加を憂えるという要望書を政府にだした。座長は宇都宮徳馬氏で、赤城宗徳氏や鯨岡兵輔氏も加わっている▼「戦略防衛」の防衛とは何を守るためのものなのか。米国本土を守るための防衛だろう。米国をねらうソ連の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を、衛星などから発射するレーザー光線で撃破する計画である。自国を守るための研究開発に手を貸せ、というかなり手前勝手な要求に思えるのだが、いかがなものか▼疑問点はいくらでもある。(1)1兆ドルともいわれている壮大な計画だが、技術的には成功がおぼつかないという批判がある▼(2)ICBMを100%撃破するのはむり、との批判もある。しかも原潜などから発射される核ミサイルに対しては無力だろう▼(3)丈夫な盾ができればそれを破る矛ができる。核兵器をなくすためと称する盾(SDI)は、かえって新しい矛となる核兵器を生み、核軍拡を進めることにはならないか▼(4)膨大なカネを宇宙軍拡に費やす政策は、世界の飢えに背を向けることにはならないか▼(5)SDIによって米国の軍需産業はうるおうにしても、日本の企業は利益を得られるのか。開発された新技術が軍事機密にしばられて、民間への波及効果はむしろそれほど望めないのではないか。戦後の日本は、軍需に頼らずにすぐれた技術を生みだしてきたのに、その歩みを変えることにはならないのか▼(6)先端技術の開発の主導権をとる、という意図がSDI推進者にはあるのではないか▼米国では6500人の科学者、技術者がSDI研究拒否の署名をし、欧米の著名な政治家、学者100人も反対声明に署名をした。これらの動きをどう考えるか▼米国の意向をうかがうあまり、国是をあやまってはいけない。 老雄選手にヤジより激励を 【’86.9.11 朝刊 1頁 (全853字)】  広島の衣笠選手に対して「引っ込めやあ」というヤジが飛ぶそうだ。39歳の老雄にはつらいヤジだ。ののしられるのを気にするたちだから、よけい考えこんで悪い結果がでるという話をきいた▼「いちばんわるい時に頑張れというのが、本当のファンじゃないの。……おれはもう、絶対衣笠を見離さないからな」。そんなファンの声を、作家の井上光晴さんが紹介していた(雑誌『波』)。ファンかたぎもさまざまだ▼敗戦監督やできの悪かった選手をあしざまにののしるのが今ははやりらしい。解説者たちのとても批評とはいえぬ悪口雑言を見たり聞いたりしていると、いじめの風潮もここまできたかとあきれるばかりである▼むろん、辛口の批評は大切だ。先代の志ん生は、人前であるひとにののしられる。「お前なんぞうまくもなんともねえ。くやしかったら切れ味をみせてみな」。くやしくて眠れなかったが、それがきっかけで一心不乱に芸に打ちこんだ▼逆に、先代の吉右衛門はほめ上手だった。志ん生が吉右衛門やその弟子たちの前で噺(はなし)をすると「おい、今の噺はどうだ。おもしろかったろう。お前たちもよく気をとめて噺をきいておかなくちゃいけないよ。エッ、ナニもう一席ききたい、師匠、どうもしょうのないやつらだ、もう一席ききたいとよ」と乗せられて三席ぐらいやってしまう(『志ん生半生記』)▼そこには、おおらかにほめることで芸を育てる、という心の持ち方があった。おおらかさを失い、衣笠や、2軍落ちしている41歳の巨人・高橋投手たちを「石もて追う」の愚はやめましょうよ▼古い記憶だが、アメリカの大リーグでは、40歳近い老雄が登場すると、それだけでスタンドに拍手がわいた。汚いヤジは選手生命を脅かすが、激励の拍手は不可能を可能にする▼ピート・ローズが44歳で通算最多安打を放った時は、観客総立ちの拍手と大合唱がざっと10分間、続いたという。 「アオコ河童からの提言」 【’86.9.12 朝刊 1頁 (全839字)】  芥川竜之介が書いた『河童(かっぱ)』の主人公は、上高地の梓川の谷で河童にであうことになっている。河童はやはり清流にふさわしい。『河童』から約60年がたち、私たちはもう日ごろ河童のことを話題にすることさえ、しなくなった。清流の喪失が、心の中の河童を追いだしてしまったらしい▼霞ケ浦のほとりの土浦市で「アオコ河童からの提言」がある、というのでききに行った。大量のロクショウを流したようにみえるあのアオコの下に、まだ生きている河童がいたのか▼アオコをかきわけて父親河童が首をだした。「昔は仲間が大勢いた。子どもたちを水に引っぱりこんで一緒に泳いだり、水辺で相撲をとったりした。たまには田植えを手伝ってやったものさ。霞ケ浦の水は透き通っていて、底を泳ぐエビの姿がみえた。水はそのまま飲めたしね。今はもうだめだ。アオコ入りの水を飲んで仲間は死んだ。うちのカミさんも気息えんえんさ」▼やせ衰えた母親河童がいった。「頭のサラが炎症を起こしているのは、アオコのせいよ。においもひどいでしょう。人間がここの水をわがもの顔に占領し、自分たちだけの水がめにして利用し、そのあげく汚れた水をたれ流してきたせいね。昔の人は、水は恵みを与えてくれるもの、ありがたいもの、魔力をもった畏敬(いけい)すべきものと思っていたから、私たちともうまくつきあったものだけど」▼子河童がいった。「このままではぼくたちは死ぬね。ぼくたちが死んだら霞ケ浦も死ぬね」。父親河童がいった。「もう手遅れだろうが、湖をよみがえらせる道はただ1つ、人間が、河童の棲(す)める水こそ命の源だということに気づいてくれることだが」▼「アオコ河童からの提言」を主題にした水郷水都全国会議では、霞ケ浦の再生をめぐって2日間、議論が続いた。そこで問われたのは「現代人が水とつきあうための哲学」だった。 国鉄の「余剰人員」 【’86.9.13 朝刊 1頁 (全853字)】  合理化が進むと職場の定員数が減り、一時的に実際の在籍者数との間に差を生じる。これを「余剰人員」と呼んでいるが、いまでは働き場所のない国鉄職員のことを指すようだ▼中曽根首相が本部長をしている政府の「国鉄余剰人員対策本部」が12日の閣議で「国鉄職員雇用対策本部」へと名称変更を決め、国鉄内の「余剰人員対策推進本部」も「雇用対策推進本部」と呼ぶことになった。イメージが悪いから「余剰人員」の文字を削除したのだという▼広辞苑によると「余剰=あまり。のこり。剰余」とある。人間に余りも残りもあるはずはなく、なるほど印象の悪いことばだ。しかし問題は、ただ言葉を言い換えればすむ、というものではあるまい▼政府はこの日の閣議で、分割・民営化案で「余剰」となる6万1000人の再就職計画も決めた。国鉄職員の側からすれば、この数だけ国鉄を去ってゆかねばならないということだ。「余剰人員の1人も路頭に迷わせないのが私の責務だ」と国鉄総裁は語っているが、このところ、「余剰人員」をめぐる暗い話ばかりが伝えられている▼「余剰人員」を集めた「人材活用センター」で、国労組合員ばかりが箱根八里を歩かされる計画があったという。これがはたして「人材」の「活用」になるのかどうか不思議だ。東京の上野駅では、ひげを理由にセンターに配転されたという職員が「紙幣の夏目漱石だってはやしている」と裁判所に訴えた▼かと思うと、北海道・旭川では分割・民営化を見越した異動をやりすぎて列車運行にまで支障の出る恐れが出た。赴任を遅らせたり、民間の派遣先から運転士を呼び戻す騒ぎになったそうだが、笑ってはおれない▼家族がいて、子どもの教育問題で悩んでいることは国鉄職員も同じだ。それを、ただの「数」としかみないようなことがあってはならないと思う。職員が心のどこかに憎しみを抱いたままでは、国鉄改革もうまくゆくまい。 知床の森に「緑のオーナー制度」の応用を 【’86.9.14 朝刊 1頁 (全872字)】  加藤農林水産相様ならびに田中林野庁長官様。北海道・知床の、例の伐採予定地の森を見てきました。知床にはもうリンドウが咲いていました。森をわけいると、空高く枝をひろげたミズナラが茂り、ゴジュウカラの鳴き声がきこえました。シマフクロウやクマゲラがすむにふさわしい、いきいきとした風格のある森でした▼さて、今度の伐採計画をめぐって提案があります。林野庁の「緑のオーナー制度(分収育林制度)」の応用編を知床の森にあてはめられないかということです。この制度は、木を育て、伐採した時の利益をわけあう制度ですが、ここで提案するのは、木を伐採から守るためのオーナー制度です▼(1)知床の森を守ることを第一義とし、林業経営は考えない(2)森を守ることを第一義にするが、林業経営も考える、という意見のぶつかりあいが現地にはあります。営林当局は(2)の考え方をとっています。だが、知床の森は(1)を原則にすべきではないでしょうか▼ここは「知床100平方メートル運動」の隣接地で、「北海道の真の野生の王国はここだけ」とさえいわれています。しかし(1)を原則にすれば営林署は損失をうけます。今年度伐採予定は844本、仮にぜんぶの伐採をやめれば、ほぼ5000万円の利益を失うことになるでしょう▼5000万円は大金ですが、知床の未来を思う人びとの寄金で十分にまかなえる額です。844人が1本1本の名目オーナーになり、約6万円ずつ出せばいい。10年間なら、10倍の人数が必要です。そのカネは森を保護し、海岸林を造ることなどに使うべきでしょう▼地元営林当局の伐採計画がかなり譲歩したものであることは認めます。昨今の林野庁が、森林保護に熱をいれてきたという評価があることも承知しています。木材業者にも言い分があるでしょう。だが、17日の交渉が決裂すれば、その評価も打撃をうけることになります。大臣、長官の政治力に期待しております。 「人生80年型社会懇談会」の型破りな報告書 【’86.9.15 朝刊 1頁 (全840字)】  「テクノジジー」という新語をご存じだろうか。テクノロジー(技術)は若者向きにできているけれども、これからは高齢者向きの技術を開発すべきだ、という主張を込めた新語だが、老人もテクノ小僧にまけず、テクノ爺になれというすすめでもある▼この新語をひねり出した厚生省の「人生80年型社会懇談会」の報告書は、お役所の文書にしては随分型破りだ。目次をのぞいてみると、「死はパフォーマンス」「日本の医師の役割はまだ19世紀」「ハイテクは老人パワーの起爆剤」「ダメ老人の典型」といった挑発的な文句が並んでいる▼メンバーには、座長の木村尚三郎東大教授、梅棹忠夫国立民族学博物館長、飯田経夫名大教授ら、常識をひっくり返す達人が多い。「役所言葉の報告書をまとめるよりも、さまざまな意見をそのまま読んでもらい、論議の輪を広げよう」というねらいから、『長寿革命』という題をつけて出版もされた▼平均寿命が男74.84歳、女80.46歳と世界一の長寿国となり、21世紀には老人人口が2割を超える高齢化社会がやってくる。従来の人生50年型社会とは違ったものの考え方や制度が必要になるが、悲観的でネクラな発想はやめて、前向きに高齢化社会をとらえ直そうというわけだ▼逆説的な意見ばかりでなく、考えさせられる問題提起もある。「人生80年時代には、一流大学へ入り、一流企業へ就職するという教育ママが描く短距離型人生を選んだ人たちがもっとも哀れ。第2の人生を見すえた長距離型の人生設計こそ大事」という指摘はその1つだ▼「なまじ遺産があると、子供同士でけんかをしたり、親の再婚に反対したりする。資産は残すものではなく使うべきもの」という意見に、共鳴する人も多いのではないか▼きょうは敬老の日。お年寄りをいたわるだけでなく、自分たちの老後の生き方を話し合う日にしてみたらどうだろう。 中国の養父母の恩を忘れまい 【’86.9.16 朝刊 1頁 (全856字)】  松原泰道師に次のようなことばがある。「“親”という字を/君、学びたまえ/『立木に登りて吾子の帰りの遅きを案じ、見る』/切なきこころのこもりし1字なるを」(父母恩重経を読む)▼なるほど、親という字を分解すると、立木に登って見る、になる。中国残留孤児たちを育てた養父母たちの多くはこんな思いで日本人の子どもたちを育てたのだろう。射殺された実母のおなかの下にいた子を引き取って育てた養い親もいる▼だが成長した孤児たちが日本に帰ることは、新たな離別を生む。今回の訪日団では、せっかく実母にめぐりあいながら「自分は中国の養父母のおかげでこんなに成長した。(永住帰国については)養母の面倒をみた後にしたい」という男性がいた。紡績工場の技師長である。母国への思いを断って、養母のもとで暮らすのだという▼養父母に大事に育てられて内科医になった女性は「病弱の養母を看護しなければならない。永住帰国したい気持ちはあってもいまは帰らない」と語っている。中国には「葉落帰根」ということばがある。老いた養母を連れて日本に帰ったとしても、葉が元の大地に帰るように、母は中国の大地に帰りたいだろうから、という思いやりからである▼帰国して、そば屋で働きながら、年10万円ほど中国の養い親に送金している女性もいる。子どものころ激しく働かされてろくに学校にもやってもらえなかったが、育ててくれた親には恩がある、という思いからだろう▼恩は、因を知る心、原因を心にとどめる心だとこれも松原さんが書いている。因を知るからこそ、悩み、時には永住帰国を見あわせている。孤児たちが個々に恩を感ずるように、日本は国として、養父母への恩をもっと痛切に心にとどめねばならぬ▼帰国できぬ孤児たちを、年に1度でもいい、養父母と共に日本に招く、離別した孤児と養父母が時々、会えるよう援助する、といった制度があるべきではないか。 議会答弁心得帖 【’86.9.17 朝刊 1頁 (全853字)】  議会答弁で「対処する」といえば「情況の変化に応じて適切な処置をとること。だから情況の変化で質問の趣旨の通りにするかどうかわからない」という含みがあるそうだ▼「検討する」といえば「詳しく調べて当否を考究すること」だが、これも当否を考究したあとでなければ質問の趣旨の通りにするかどうかわからない、という含みがある。これでは、まゆをつばだらけにしてもだまされてしまう▼「努力する」は「努め励むこと」だが、これも、努め励むだけで、質問趣旨のとおりになるかどうかわかりませんぞ、の含みがあるというからややこしい。地方自治体の議会答弁の専門家が書いているのだから間違いはあるまい(篠崎俊夫著『議会答弁心得帖』)▼ちなみにこの本は、「答弁の論点はぼかすよう工夫すべし」といった数々の秘術を公開することで、日本の政治風土を巧みに浮かびあがらせている▼衆院の代表質問で、社会党の土井新委員長たちが「所得減税の公約、大型間接税導入せずの公約はどうなるのか」と追及した▼中曽根首相の答弁は、それこそ「適切に対処する」「検討する」ばかりで論点をぼかしていた。自民圧勝の興奮で、「思い切った減税をやる」などの大事な公約をすっかり忘れ去ってしまったらしい▼減税や財源措置の問題については、税制調査会が、鋭意検討中だから「その答申をまって適切に対処する」と首相はいう。3年前の総選挙のとき、首相は減税を公約した。だが選挙後は減税を上回る増税をして「だまし討ち」と非難された。それと同じように「適切に対処」しようというのか。こんどはそれに新型間接税の問題も加わる▼本来なら、選挙前に税制改革の内容を明らかにして、有権者の信を問うのが、民主政治の筋だろう。いまだに検討だの対処だのという逃げの言葉が首相の口からでるのは情けない▼篠崎さんは、こんな川柳を紹介している。「答弁は後先うそで中は逃げ」 月 【’86.9.18 朝刊 1頁 (全851字)】  先日、本社機の「千早」で北海道へ行った帰り、夜空に惑星が並ぶさまをとくと眺めることができた▼東に、びっくりするほど大きい木星が青みをおびて光っている。火星がやや赤みがかった鋭い光を放っている。さそり座のそばに浮かんでいるのは土星だ。西空では、金星が沈みつつ金色の光をまいている。大空をよぎって惑星が並ぶさまを「惑星一望」の現象、というらしい▼火星のそばの上弦の月がぎらぎらとまぶしいほどだ。萩原朔太郎「月光の水にひたりて」と歌い、「つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに」と歌ったのはまさに、こういう光のことだろう。大都会では、月の姿はみえても、もはやこの、ほんもののまぶしい輝きはない▼月は昔の詩人の恋人だった、と朔太郎は過去形を使っている。近代の照明科学の進歩が地上をあまりに明るくしすぎたために、人びとは月への思慕を失っていった。「科学は妖怪変化と共に、月の詩情を奪ってしまった」と詩人は嘆く。だが、折にふれて、現代人の心にも、月への思慕が噴きだす。十五夜の儀式はその1つであろうか▼アメリカの科学者がスーパーコンピューターを使って、月の生いたちの秘密を追究した。地球ができ始めたころ、ある天体がぶつかり、その時の熱でマントルが溶けて流れだした。ちぎれた部分が固まって月になった、という説がこの追究で有力になってきた▼ニュースを読み、そうか、やはりそうだったのか、月は地球の分身なのかと思う。月の光の中で人が詩人になるのは、帰ろうにも帰れない地球の分身の思いが、人に乗り移ってくるからかもしれない。8月十五夜に昇天するかぐや姫は地球の分身の、そのまた分身である▼十五夜にススキやだんごを供える習わしはいまも残っている。昔は芋や稲の農耕儀礼とお月見とは固く結びついていたらしい。今夜は、全国的に天気が悪いそうだ。地球の分身にお目にかかれるかどうか。 コメ戦争 【’86.9.19 朝刊 1頁 (全844字)】  タイでは「コメ戦争」という言葉が生まれているそうだ。年間400万トン台の輸出をするコメ王国のタイに対してアメリカが「安売り」で殴りこみをかけているからだ。アジア各国の稲作も着実にのびている。コメがさらに過剰になり、コメ戦争がさらに激しくなる日は間近だ▼幕末の黒船には「文明開化」の荷が積まれていたが、いま、日本を脅かそうとする黒船には、うまくて安いコメがいっぱいつまっている。黒船のコメには目を向けるな、ひたすら我慢せよと消費者に説いても、限度というものがあるだろう▼わが国の穀物自給率は、二十数年前は8割台だったが、いまは3割台に落ちこんでいる。だから、アメリカのコメの業界が自由化を求めているというニュースに、私たちは反射的に警戒心をもつ▼かろうじて崩れずに立っている「穀物自給率」という名の積み木の城が、コメの輸入と共に音を立てて崩れてゆくのではないかとおびえる。コメは日本農業の命だ。稲作は大切にしなければならない▼そのことをはっきりさせた上で、では日本のコメ作りは今のままでいいのかといえば、決してそうはいえないだろう。アメリカやタイとは風土も農業事情も違うから単純には比べられないが、それにしても日本のコメが国際価格の10倍もする、という現実をどう考えるか。コメの生産費の日米比較表(1980年)をみると、日本の労働費はアメリカの約30倍、農機具費は約10倍である▼4.8ヘクタールの水田をもつ東北のある農家が「栽培のやり方などを変えればいまの規模でも半値でやれる」といっている、という報告があった。たとえば密植栽培を疎植に変える、そのことで農薬費や散布労働の費用を減らせる、という説だ▼米作農家にはそれぞれ、血のにじむ努力があるだろう。だが、いまの食管制度のしくみの中に、生産費を抑えるのをはばむ要因があるように思えてならない。 テロ 【’86.9.20 朝刊 1頁 (全850字)】  試みに、朝日新聞社のデータベースで「爆弾」と「テロ」という2つの言葉がでてくる記事を調べてみた。この半年分で、たちまち190件の記事の見出し一覧表がでてきたのには驚いた▼未遂事件や続報を含めての話だが、私たちは毎日のように地球上のあちこちで起こる爆弾テロの記事を読んでいることになる。韓国の金浦空港の爆弾テロ事件に続いて、パリでも警視庁内やデパートでの爆弾テロがあいつぎ、多数の市民が殺されている▼ジョン・アービングの長編『ホテル・ニューハンプシャー』(中野圭二訳)に登場するテロリストはこう主張する。「まず憎悪を作り出すことが必要なのだ。政治に関する憎悪、経済に関する憎悪、非人間的な制度に対する憎悪――いまみたいになってしまった自分たちに対する憎悪をね」▼テロリストたちの目的は爆破だけではなく、爆破によって恐怖や憎しみの弾片を世界中にまきちらすことなのだろう。いまは、各地の爆弾テロがまたたくまに全世界に伝わり、なまなましい形で居間に届く。「テロリズムは演劇である」という言葉があった。不幸にも、その演劇的儀式のためにたくさんの市民がいけにえにされる▼アービングの作品では、過激派はウィーンのオペラ座の舞台爆破を計画する。舞台上の地獄図は「舞台から離れた安全な立ち見席のものにとっては、これこそまさにオペラそのものだろう。またとない見ものになる」というテロリストのせりふがあった。ここにも演劇的効果への執着がある▼憎しみをまきちらす人間の恐ろしさを非難するのはたやすい。だが、情報化社会の「安全な立ち見席」でテロがもたらす惨禍を見物しているのもまた、私たち自身なのだ。その心のすきにテロリストたちはつけいる▼国際テロの研究を続けた米国ランド研究所の結論はこうだった。「テロはいずれにしてもなくならない」。人間という動物はなぜ、かくも破壊を好むのか。 地域社会で活躍するお年寄り 【’86.9.21 朝刊 1頁 (全838字)】  きのうは、各地の老人クラブがさまざまな奉仕活動をした。「敬老の日」にこたえ、感謝の思いを表すための奉仕だった。公園や川べりの清掃をする老人たちもいたし、子どもたちを招いて映画会をするクラブもあった。全国老人クラブ連合会の提唱である▼東京の世田谷に住む78歳のご婦人からお便りをいただいた。「20年前に夫を亡くし、今は家屋の2階をアパートにして暮らしながら、草木染めの仕事をしています。草木染めは40年になります。草花をみていると、その草花がこういう色を出してほしいと語りかけてくるのです。毎月のように生まれ故郷の信州の山を歩いていますが、私は自分を老人だと思ったことはありません」▼老いを意識せず、若々しく生きている人たちの姿をできるだけ紹介してほしい、と便りにはあった。そういえば、このごろの本紙地方版には、地域社会にとけこんで活躍する老人たちの紹介記事がめだつ▼兵庫では、お年寄りが子どもたちに竹馬やお手玉の作り方を教えている。愛知では、老人クラブの女性たちが1万枚近い手縫いのぞうきんを小学校などに贈っている▼千葉の70歳になる女性は、団地の空き地、道ばた、小学校の庭などを花で埋めている。コンクリートの街に残るわずかな土の地肌をみると花を育てたくなるのだという。花の世話を通じて新しいつきあいが生まれることも楽しい▼きのう、川崎市では、お年寄りたちが1日、久末小学校で過ごした。竹とんぼ、紙人形、くす玉などの作り方を教えながら一緒に遊び、戦争体験の話や地域の歴史を語ってきかせる1日だ▼今年が2回目だが、数多い行事の中でも、老人たちが「一番張り切っちゃう催し」になっている。年に1度ではなく、お年寄りと子どもたちが共にゆたかな時間をすごす機会を少しずつふやそう、という計画もある。さまざまな新しいひろがりを示唆する行事だ。 演奏会での拍手 【’86.9.22 朝刊 1頁 (全841字)】  先日、本紙声欄に、演奏会で何度も何度もアンコールするのは、ほめたたえているつもりでも思いやりに欠けるのではないか、という投書が載った。カルロス・クライバー指揮のベートーベンを聴いてのことだそうだ▼クラシックの音楽会の場合、昔は、日本の聴衆はお行儀がよく、終わってただおとなしく拍手するだけ、というのが通り相場だった。最近は拍手はもちろん、演奏が終わるか終わらないうちに「ブラボー!」がとび出す。やっと欧米なみに、音楽を楽しむようになったのだといわれる。クラシックにも半分プロの「ブラボー屋」が現れて、景気づけがうまくなったのだともいう▼戦前の能は拍手しないのが常識だった。演じ終わったシテ、ワキ、囃子(はやし)方が、しずしずと橋懸(はしがかり)を通って幕に入る。お客はそれを見守るだけだ。今でも、演者がすべて見えなくなるまでは拍手はご遠慮ください、と断っている会もある。静寂の中で余韻を味わう芸だからだという▼こんな話を、フィッシャー=ディースカウの伴奏などで何回も来日したドイツのピアニスト、ハルトムート・ヘルさんにしたら、余韻を味わうことはヨーロッパにもあるよ、とヘルさんはいった。例えばシューベルトの『冬の旅』のような曲のあとは、拍手はあっても、ただお辞儀だけにとどめるのが普通だそうだ▼これもヘルさんの話だけれど、ウィーンでベートーベンを聴いたとき、拍手が熱狂的だったので指揮者は軽いウインナワルツをはじめた。聴衆はぞろぞろ帰りだしたという▼日本の音楽会は、たしかにアンコールが多くなったようだ。5曲も6曲もというのが珍しくない。ある女流ピアニストから、日本では1回の演奏会で3つも仕事をするのね、と聞かされたことがある。1つはプログラム通りの本番。2つめが、主催者があらかじめ予定するアンコール。そして3つめがサイン会だった。 日韓「交流の家」 【’86.9.23 朝刊 1頁 (全846字)】  昔は雨になると村の道は川になった、しかしもう心配はないと金新芽さんはいう。金さんはハンセン病の後遺症で失明した人だ。今は回復者たちの定着村、忠光農園の長老である▼毎年、日韓の若者が韓国内のいくつかの定着村に集まってキャンプをしている。共に食べ共に働き、道路の舗装をし、村の下水道を造る。参加者の1人が金さんの言葉を伝えている▼「私は目が見えないので頭の中に1枚の絵が浮かんでくる。村に1本の道がある。今までは村の人の足跡しかなかった。若い人たちがワークキャンプを始めてから、たくさんの足跡が残るようになった。学生さんたちだけではなく、今は桃やブドウを持って訪ねてくる隣村の主婦の足跡もある」▼筆者の若い友人が忠光農園のキャンプに加わって、汗を流してきた。日本の若者は30人、韓国の若者は40人である。ニンニク入りのワカメスープやカラシと塩の味つけの野菜を食べて、スコップを握った。今年は「交流の家」の土台造りが作業の目玉だった。理屈や犠牲的精神とは無縁の毎日だったらしい▼フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が呼びかけているこの日韓合同の仕事は、もう14年も続いている。争いもあった。「私のスリッパ」を意識する日本人に対して、韓国人は共有の感覚がある。韓国の若者は、日本統治の歴史を繰り返して教えられてきたが、日本の若者は、受験戦争のあおりもあって現代史に弱く、議論が進まない▼しかし生活習慣や歴史感覚の違いを知ることは、つきあいを深めるために不可欠だ。韓国語、日本語、英語をちゃんぽんに使ってキャンプを続けるうちに、お互い「10年来の友よりも親しくなる」場合もある。キャンプがきっかけで、韓国に留学するものもでてきた▼若者が建てつつある交流の家は、韓国では「あなたと私の家」と呼ばれる。無数のあなたと無数の私との足跡を刻みつけるための家である。 アメリカ人を刺激した中曽根首相の知識水準論 【’86.9.25 朝刊 1頁 (全834字)】  中曽根首相の軽井沢の別荘にクマが現れ、池のニシキゴイを何匹も食べた。先週のことだ。首相が記者団にいった。「死んだふりをしているのかどうか、確かめにきたのではないか」▼首相発言の中でもこれはなかなかの傑作だ、と思っていたところに、今回はアメリカ人を刺激する発言をしてしまった。これはいただけない▼「日本は高学歴社会になっている。相当インテリジェントなソサエティーだ。アメリカなんかよりはるかに平均点が高い。アメリカには黒人、プエルトリコ、メキシカンが相当多くて、平均的にみたら非常に低い」という発言だ▼賢い有権者に支持された首相は最高に賢い、ということをいいたかったのだろうが、口がすべったらしい。米国内の日本大使館や領事館には、抗議を含めた電話があいついでいるという▼首相はついこの前の藤尾発言問題で、心に傷を与える方は簡単だが、与えられた方の気持ちを考えると簡単に消えるものではない、といったばかりではないか▼藤尾前文相に向かって「国務大臣や党の中枢にいる人たちは学者やジャーナリストとは違う。対外配慮は重要なことだ」ともいっている。今回の知識水準論は、お世辞にも対外配慮に満ちた発言とはいえない▼日本が高学歴社会であることはわかる。だが、統計の上では、アメリカは日本以上の高学歴社会である。高等教育への進学率は日本よりも高い。「アメリカでは今でも、黒人には字を知らないのが随分いる」という言い方も、アメリカ人には刺激的だろう▼門戸を開いているアメリカには雑多な人種が集まる。そして人種のるつぼだからこそ、知的なエネルギーが蓄えられる、ということもあるはずだ▼「西洋科学文明のある限界点がきつつある」と首相はいう。その主張には賛成だが、それを救うのは賢い日本人だとばかりに肩を張ると、それは鼻持ちならぬ「おごり」に映る。 成人T細胞白血病の感染防止を 【’86.9.26 朝刊 1頁 (全841字)】  がんをめぐるニュースが2つあった。1つは、胃がんによる死者が急激に減りはじめているという記事、1つは、ある種の白血病の感染を抑える生ワクチンができた、という歓迎すべきニュースだ▼胃がんが減ってきた原因の1つは冷蔵庫の普及にある、という説がある。そのおかげで、塩からい食品よりも、新鮮な野菜や肉が食べられるようになったからだという▼食生活の変化もあるが、診断、治療法が格段に進んだことも大きい。むろん集団検診で早めに見つかる例がふえたことも、胃がん死が減った原因の1つだろう。この分で減り続ければ、今世紀末には女性の胃がん死はほぼゼロになる、という計算があった。男性も、現在の結核死以下になるそうだ▼「日本ではいま、エイズよりも怖い病気」といわれているのが、成人T細胞白血病である。死亡率が高い病気で、しかもウイルスでうつる。母から子へ、夫から妻へ感染し、輸血でも感染することがある。国内のウイルス保有者は西日本を中心に約100万人もおり、毎年、数百人が亡くなっている▼この病気がウイルスによって起こることをつきとめたのは、京大ウイルス研の日沼教授たちだ。そして今度、同じ研究所の志田助手が、感染を抑える生ワクチンを作ることに成功した▼すでにウサギに対して感染を防ぐ実験をし、好成績をおさめている。実用化も時間の問題だろう。ウイルスで起こるがんに対する生ワクチンの開発は世界で初めて、というから成功の意味は大きい▼成人T細胞白血病の感染を抑えるには、輸血の問題もある。この病気のウイルス保有者が献血をすれば、知らぬまに、輸血をうけた人に感染し、それが家族にもひろがってゆく。この拡散を断ち切るには、献血者全員に対する検査が必要だ。厚生省は、エイズの場合もあわせて全国的な検査を進めるよう準備しているが、1日も早くこれを実施してもらいたい。 連合赤軍事件 【’86.9.27 朝刊 1頁 (全835字)】  連合赤軍の最高幹部だった永田洋子の手記『氷解』を読んだ。できるだけ白紙の気持ちで読んだつもりだったが、なんとも後味が悪かった▼永田や坂口弘に対する控訴審判決は、死刑だった。1審でも死刑の判決をうけた永田が、14人の仲間の殺害についてどういう痛みを感じているのか、大量殺人をおかすにいたる集団心理の力学をどう分析しているのかを知りたかったが、せつなくなるほどのいやらしさを感ずることが多かった▼大半の殺人は、最高指導者森恒夫(拘置所で自殺)の「総括要求」によるものだと永田はいう。「私は加藤さん(死亡)を殴ることで共産主義化させることができるなら殴らねばならないと思い、同意した」▼「尾崎さん(死亡)を縛ることにすぐには同意できなかったものの、厳しさに耐えなければならないと思い、反対しきることもできなかった」「遠山さん(死亡)に対して、自分で自分を殴れという(森の)命令に私たち全員は沈黙したまま事態のなりゆきに唖然とするばかりだった」▼「私も冷静に考えることなく寺岡氏(死亡)の行為は敵対的とみなし、皆と一緒に、私刑に『異議なし』と答えた」。胎児をかかえた金子さん(死亡)のリンチの時も「頭がボーッとしたが、同意した」というぐあいだ▼永田の文章にはたぶんに自己弁護がつきまとうが、異様なふんいきの中で、森のサディズムに追従した部分があったことも事実だろう。恐ろしいのは、人間をはずかしめ、なぶり、無制限に支配しようとするサディズムの衝動だけではない▼それに追従し、加担し、自らも暴力をふるいながら「専制君主が悪かった」と甘えるいやらしさこそ恐ろしい。永田や坂口や植垣の心理はかなり特殊ではあるが、私たちの身近にあるシゴキやイジメと無縁ではない。連合赤軍事件のいたましい暗部を見すえることは、日本社会の暗部を見すえることだ。 中曽根流陳謝 【’86.9.28 朝刊 1頁 (全868字)】  中曽根首相は弁舌さわやかです。「巧言笛のごときはかんばせの厚きなり」ともいいますが、近年とくにかんばせの厚さもましてきました▼弁舌に磨きがかかればつい多言になり、「多言なればしばしば窮す」ということにもなるでしょう。窮すれば陳謝の機会もふえます▼首相側近は、いっそのこと「陳謝文」を大量に印刷して首相の多言癖に備えるべきではないでしょうか。「最近の私の発言が多くの○○○を傷つけたことを承知しており、心からおわびします」という文面で、ことが起これば○○○を埋めるのです▼出し惜しんだ陳謝も、この機会に一括して送っておきましょう。(1)「北海道民」への陳謝。「北海道は生活的にもレベルが低いところ」というあの失言です。北海道の民力水準はむしろ高いほうだということを知識水準の高い人が知らないはずはないのですが▼(2)多くの「鈴虫」への陳謝。政治倫理問題で「鈴虫みたいにリンリリンリと鳴いて」と野党を攻撃したあの発言です。命の限りに鳴き続ける鈴虫に対して、これは失礼ではないでしょうか▼(3)「大型間接税」への陳謝。選挙公約でいきなり出番を封じてしまったのですから、大型間接税も心外でしょう。一転して、首相がその出番を認めることになれば、こんどは「有権者」への陳謝になります。いやその時になって「アイ・アム・ソーリ」といっても、もう遅い▼(4)「女性」への陳謝。女性はネクタイの色ばかり見ていて発言内容は覚えていないらしい、というあの差別発言が女性有権者を傷つけたことを、首相は「承知しておる」のかな▼(5)「被爆者」。広島の被爆老人を前にして「病は気から」といったこと。陳謝したからといって被爆者の心の傷がいえるものではないでしょうが▼フィンランド問題失言の時は、親書を送ってことなきを得ましたが、こうみてくると、外と内とでは「かんばせの厚さ」を変えるのが中曽根流陳謝の作法のようです。 天気予報 【’86.9.29 朝刊 1頁 (全850字)】  日本で最初の天気予報が発表されたのは明治17年6月1日。「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」というものだった。さて、これに点数をつけるとすれば、何点だろうか。気象庁の記録では当日、東京は「小雨」だった▼最近、天気予報をめぐる話題がニュースになった。気象庁が的中率を上げようと予報の採点制を厳しくして、実際の天気と大きく違った場合、理由書を出させることにした。ところが「勤務評定だ」と第一線の予報官が反発しているという▼予報がはずれると、気象庁はたちまち苦情電話の殺到に見舞われる。採点制導入の背景には、こうした厳しい市民の目があるようだが、気になったのは「ざんげ録を意識して思い通りの予報を出しにくい」という声があったことである。点数ばかりを気にして「びくびく予報」を出されるのは困ったことだ▼ある気象専門家に、予報官の条件をたずねてみた。「ここが正念場というとき、逃げないこと」という返事だった。昭和36年9月、第2室戸台風が近づいたとき大阪管区気象台では予報官たちが大議論の末、万全の防災措置をとるよう台長名で外部に警告、被害を最小限にくいとめた。当時、東京にいたこの専門家は、その決然とした態度に感銘を受けたという▼気象衛星が地球を回り、コンピューターが予想天気図を描く時代になっても、微妙な気象条件の変化を百発百中見通すことは無理である。ましてテレビの気象データを前にして「お茶の間予報官」の目もこえてきた。本職予報官の気苦労はよく理解できる▼お天気にも南北問題がある。南岸に停滞した前線がほんの少し南や北へ移動しただけで、天気は一変する。梅雨と秋雨。いまは、その予報官泣かせの季節だ▼暮らしに直結するだけに、天気予報の精度向上には全力を傾けてもらいたいと思う。同時に、予報官には知識と経験をかけた「逃げない予報」を望みたい。 9月のことば抄録 【’86.9.30 朝刊 1頁 (全855字)】  9月のことば抄録▼「打ち首にしてくれ」といって罷免された藤尾正行前文相は「しかし、私の所信が間違っていたとは、いささかも思っておりません」「私は、問題になるのを期待してやった」と強気だった。「藤尾発言は、日本の支配層の中にある根強い考え方を代弁したもの」と韓国問題専門誌の編集長、鄭敬謨さん▼「祖国が日本の統治下にあったため、不幸にも日の丸をつけて走らなければならなかったのは、いい知れぬ屈辱だった」。ベルリン五輪のマラソンに優勝した孫基禎さんに、特別賞のカブトが半世紀ぶりに贈られた。屈辱を与えた側は、それを忘れ去ろうとする▼ソウル・アジア大会の開会式では「上を向いて歩こう」が演奏された。「明るく聴こうと思っていたのに、涙が止まりませんでした」と柏木由紀子さん▼「きのう日本酒を飲み過ぎちゃって」という岡本綾子さんが、米国内の女子プロゴルフツアーでみごと、二日酔い優勝。「勝っても負けてもこれが最後」といっていた自転車競技の中野浩一さんが、世界選手権のプロ・スプリントで10連覇。ろっ骨5本を折る重傷のあとの奇跡の優勝だ▼敬老の日。介護に疲れた娘が、母親を絞め殺した。「母を殺した後、自分も死のうと思ったが死ねなかった」。「老後という言葉からは、女性のため息が聞こえてくる」と国会でいったのは、社会党の土井たか子新委員長。初登板の演説をきいて「キャンキャンとほえない。やさしい言葉でしゃべっている。これまでと違うぞ」といったのは民社党の春日一幸常任顧問▼「アメリカには黒人やプエルトリコ人が相当おって、知識水準が非常に低い」という中曽根首相発言に、米国内の日系人の車の窓ガラスが割られる、領事館に抗議の電話が殺到する、という騒ぎが続いた。「(最近の)首相には何かワクワクと興奮したような発言が多い」と河本派の首脳▼政府首脳の対外無配慮事件で明け暮れた月だった。 共同募金運動 【’86.10.1 朝刊 1頁 (全849字)】  昔、スイスの山村に牧師がいた。「多く持てる者はなぜ持たざる者を助けないのか」と問い、道ばたの木に箱をとりつけたという。箱には「与えよ、とれよ」と書きこんであった。これがチェスト(募金箱)のはじまりだという話が1947年(昭和22年)の本紙青鉛筆欄にのっている▼その年に、わが国でも共同募金運動がはじまった。赤い羽根の登場はその翌年である。当時の募金運動の心がまえ要項がおもしろい。ビラやポスターでは、見込みある寄付者の心を打つため、理性に訴えないで感性に訴えること、泣き叫ぶ子、貧しい孤独の老人等の状況を訴え、相手が何事かせずにはおけない気持ちをもたせること、とあった▼いま、知識水準ならぬ共同募金水準の国際比較をすると、70年以上の歴史をもつアメリカはさすがに多くて、1人あたりの額が約1800円、日本はこの10分の1、というから自慢にはならない▼日本では街頭募金の割合が高い、と思う人が多いだろうが、実は、全体の3%に満たない。約7割は戸別募金で、これが赤い羽根運動をささえている(ちなみに、アメリカは職域募金と法人募金が2本の柱だ)▼戸別募金には半強制的なにおいがある、福祉切り捨て政策が進む中での募金には税金の二重取りの感がある、という批判にこたえるためには、運動の思い切ったころも替えが必要だろう▼強要色のない地域募金のありようを考える、大人も学生もこの期間中、自発的になんらかの労働をし、その報酬を寄付するようにする、企業もそれに協力する、といったさまざまな工夫があっていい。この運動が福祉政策の後退を補完するものであってはならぬ、という大原則を貫くことも必要だ▼そして、基本は私たちの心がまえの問題に戻る。「地の塩の箱」運動に生涯をかけた江口榛一さんはこう呼びかけていた。「皆さん、お互いにすこしずつ損をする修業をしようではありませんか」 地価高騰 【’86.10.2 朝刊 1頁 (全863字)】  国土庁が発表した基準地価の一覧表を注意深く見た人は、おや、と首をかしげたことだろう。なにかおかしいぞと思ったに違いない。東京では、基準地価でも4倍近く値上がりしている地域が多いのに、発表では2倍弱にとどまっている。2倍でもすごいが、4倍となると狂乱である。狂乱地価の失政を隠すための操作が行われたとしか思えない▼高騰の激しい地域ではわざと基準点を変えて昨年と比べられないようにし、平均倍率を下げた形跡がある。そんなみっともない小細工をするよりも、国土庁はしかと現実を見つめるべきではなかったか▼だからいったではないか、などとしたり顔でいいたくはないが、都心部の地価高騰が周辺住宅地の値段をつりあげることは、多くの識者が予想していたし、私たちも「早く手を打て」と主張してきた。だが、おざなりな地価対策が続いた▼田園調布では、去年、1坪(3.3平方メートル)あたり300万円台だった土地が、1300万円を超えている。サラリーマンが三十数年間働き続けて得た退職金で、3坪、いや2坪の土地も買えない、という社会は病的だ。都心の環状道路を造るのに、1キロあたりの土地代が約3000億円もかかるという気の遠くなるような数字もあった。これもまた、まともではない▼12年前の「中央公論」に宮沢喜一氏が書いている。「大都市においては土地はいまや『公共財』と考える必要がある」「土地の私的な所有や利用が、社会的な需要と甚だしく利害の対立を生じるような場合には、政府は市場機構に介入する必要がある」と▼土地は天下のものであり、もうけの対象にすべきではないという考え方がなぜ、政治の場で生かされないのか。なぜ、土地ころがしや土地成り金を生むような政治になってしまうのだろう。公共財としての土地を取り戻すために、都はおくればせながら地価凍結に踏み切るべきだ。いまやらなければ、一体いつ踏み切る時があるのか。 千葉敦子さんと「死への準備」 【’86.10.3 朝刊 1頁 (全846字)】  「死をかたわらにして生きることにもだいぶ慣れてきた」と千葉敦子さんはいっている。5年前に乳がんの手術をし、以後、再発、再々発と続いている▼アメリカでフリーのジャーナリストとして活躍している千葉さんは10日間ほど日本に戻り、上智大学で「死への準備」と題する公開講義をした▼どうせ死ぬならなるべくよく死にたい、よく死ぬことはよく生きることと同じだと千葉さんはいう。がんに2度目の闘いを挑まれた時、自分の1番したいことをして生きる決心をした。つまりニューヨークで暮らし、フリーの書き手としての道を歩むことだ▼単身、ニューヨークに移った。勇気に満ちた引っ越しである。がんの再々発に襲われ、化学療法も続けた。経済的には苦しい日が続いた▼千葉さんは「やり残し」についても語った。アメリカのあるホスピスの話だ。60近い男性が入院した。反抗的で怒りっぽく、肉体は急速に衰えながら、死ぬに死にきれぬという様子があった。彼には9年前に勘当した娘がいた。それを知った看護婦がすぐ、病院に娘さんを呼ぶよう手配する▼父親はかけつけた娘を抱きしめ「アイム・ソリー」といった。2人は昔の話をして笑い合った。その夜、父親は、安らかな表情で亡くなったという▼この話は、「よい死」を迎えるには心の治療がいかに大切であるか、看護する人が、心の治療にいかに大切な役割をはたしているかということを教えてくれる。非常に手あつい心身両面の看護を受けて死に向かう患者たちのこと、とくに心の看護に力をいれるアメリカ医療の実情が詳細に紹介された▼「納得のゆく生き方」に挑戦することも死への準備であり、医師や看護者が患者の心を見つめ、「やり残し」に対応するのも死への準備だろう▼千葉さんは講義の後、一時入院したが、「死ぬ時に後悔しないですむような生き方をします」といい残して、あすニューヨークへ立つ。 首相の問題発言には「おごりの色」【’86.10.4 朝刊 1頁 (全841字)】  「ほかのことはみな忘れ去ってもなお覚えているもの、それが教養(カルチャー)だ」というイギリスのことわざがある。何をいったかは忘れ去ってもなお、発言者のネクタイの色だけは覚えているとすれば、それはその人の教養のていどを示すことになる▼中曽根首相のネクタイ発言が衆院予算委でも問題になった。あの発言をすなおに読むと「日本の女性の教養なんて、そのていどさ」と受けとれる。ずいぶんあなどったものだが、首相の「真意説明」によると、あれは日本女性の鋭い審美眼を評価したものだという。「何をいったかは覚えていなくて、頭がすっからかんになっちゃう」のはむしろ、おしゃれ感覚の鋭さのせいだという論法である▼ものはいいようだ。「大型間接税」をいつのまにか「新型間接税」にすりかえてしまうほどだから、あなどりの発言を称賛のことばにすりかえるくらいは造作もないことだろう▼そういえば、「米国の知識水準」発言でも、最初は「演説全体を読んでもらえばわかる。ひぼうはしていない」といって、ごまかそうとした。陳謝にふみ切ったのは、米国内に怒りの炎が燃えひろがったあとだ▼カルチャーには文化の意味がある。「政治家の発言内容は覚えていないが、みんな服やネクタイの色はよく覚えている。それが日本の文化だ」と首相はいいたかったのだろうか▼もしそうならば、それは日本の文化のある断面を突いている。視聴覚時代の1つの真実を突き、「演技としての政治」の重要性を語っている。同時に、日本の文化水準の低さを省みることばにもなっている。首相は、一方で知識水準の高さを自慢しながら、一方で文化水準の低さを指摘したかったのだろうか▼いや、あれはユーモアだったと首相はいう。「ユーモアとは高慢のこのうえない解毒剤だ」とものの本にあるが、首相の一連の問題発言は、おごりの色をした毒素を含んでいた。 国鉄用地売却 【’86.10.5 朝刊 1頁 (全864字)】  「すっかり町がガラ悪くなっちゃったね。暴力団まがいの連中が店にやってきちゃ、怒鳴りちらす。土地を売らなきゃひどい目にあうぞという」。国鉄の汐留貨物駅跡地に近い飲食店主の話だ。このあたりではすでに業者による買い占めが進んでいる▼数年前まで坪(3.3平方メートル)500〜600万円だった土地が今は坪3000〜4000万円という話もある。このまま過熱状態が続き、広大な国鉄用地が売られれば、一帯の地価は恐ろしい狂乱状態になる▼ここでいっておきたいのは、国鉄の用地は、その長い歴史の中で、私たちが支払ってきた運賃をもとにして築かれたものであり、国民の貴重な共有財産だ、ということである▼その土地を一部業者が利権の対象にし、地価狂乱の火に油をそそごうとしている。中曽根内閣には、土地問題で国家100年の計を考える人がいないのだろうか▼鈴木都知事がいっている。「地価抑制をしているときに国がこれを破るような処分をしてもらっては困る」と。その通りだ。国鉄用地を売るばあいも、国公有地の処分は「できるかぎり公共用途に寄すべし」という原則を貫かねばならぬ▼超一等地の汐留跡地を乱開発で切り刻むようなおろかなことは避け、一括して都が譲り受け、きちんとした青写真の下に利用すること、利用には都民の意思をくみとること、公共財としての性格を守り抜くこと、そういった心配りがなければならぬ▼国鉄用地を業者に高く売ればその分だけ国鉄の借金が減り、「国民負担」も減るという議論がある。しかし目先の利益にとらわれ、諸悪の根源である地価高騰に勢いをつければ「国民負担」はかえって増す。地方自治体が適正な値段で買う道を選んだほうが、結局は国民の利益にかなうのではないか▼できるだけ国公有地をふやす、土地の公共性を大切にする、という考え方が世界の大勢だという。国有地売却で地価をあおる中曽根政治はその流れに逆行している。 大分・大山町の村おこし 【’86.10.6 朝刊 1頁 (全818字)】  なにかと元祖ばやりの昨今、全国的に盛んな村おこし、町づくりの元祖といえば、まず大分県の大山町をあげねばなるまい。「カネもない、暇もない、希望もない」といわれたこの山村で「ウメ・クリ植えて、ハワイに行こう」運動が始められたのは昭和36年のことだった▼当時、ハワイははるかに遠く、あこがれの地だった。「若者を村に引き留め、やる気を起こさせるためには、夢がなければ、と思った」。運動の提唱者で、当時の大山村の村長、矢幡治美さんの述懐だ▼大山村がめざした農業は、1つの作物がダメになっても他の作物が補うムカデ型だ。軽労働で、しかも収益性の高い軽薄短小農業だった。ムカデの足は着実にふえ、換金作物はエノキダケをはじめ60品種にのぼる▼狭い耕地の地形に適した農業への模索は、国の方針に従わぬことでもあった。県から「独立国ではないぞ」と、しかられたこともある▼農家の間にも田畑をつぶしてウメやクリを植えることに抵抗があった。植えたウメが不良品種だったり、霜害でクリが芽をふかず、運動が挫折しかかったこともある。その危機を乗り越えられたのは、優れた指導者がいて、「夢」にかける若者たちがいたからだろう▼農家1戸当たりの平均年収は680万円。町民の3人に1人は外国経験者だ。海外での農業研修にも熱心で、町内には、何組かの外国人がいつもホームステイをしているという▼この6月、農協立の「ミニ・バッハホール」が完成し、町営有線テレビも近く開局する。「町らしい農村」に残る若者は確実にふえ、嫁不足もない。バイオ技術の導入、所得格差の解消、週休3日制の実現、と新しい目標への挑戦が始まっている▼「あの町には理想屋、ホラ屋、夢屋があふれている」といった人がいる。大山の4半世紀は、村おこしとは人づくりであることを教えている。 ヒヨドリの都市鳥化 【’86.10.7 朝刊 1頁 (全858字)】  ムラサキシキブの実が紫色に色づいている。ヒヨドリが1羽、止まりにくそうな細い枝に止まっている。ゆうらりとゆられながら、くちばしだけは攻撃的に動かして実を口に入れている▼山の鳥だったヒヨドリが街で巣を作るようになって久しい。昨今はカラスから身を守るためか、人っ気のある所を選ぶ例がふえている▼この夏、朝日新聞本社前のけやきの葉の中で、ハシブトカラスがヒヨドリのヒナを足で押さえているのを目撃した人がいる。カラスがヒナをくわえて飛び立つと、親鳥らしい2羽のヒヨドリが血相変えて、という調子で追いかけて行ったそうだ▼本社各支局の調べでは、ヒヨドリが生け垣や街路樹に巣を作る例はきわめて多い。佐賀の鳥栖市では喫茶店の裏庭の木に巣を作った。1メートル先で親がヒナにエサをやる姿を客は楽しむことができた▼山口市では市役所の庭木でヒナが育った。仙台市では証券会社前の植え込みに巣が作られ、みなが見守る中で2羽のヒナが巣立った。ヒヨドリの都市鳥化は何を物語るのだろうか▼東京の南麻布のマンション6階に住む伊勢谷三樹郎さんのベランダに、数本のカイヅカイブキがある。そこにヒヨドリが巣を作った。地上6階の高さに営巣、というのは珍しい。ガラス戸からは巣が見えるが、外からは見えない。ヒヨドリは明らかにカラスなどの外敵を恐れ、人を頼りにしていた▼伊勢谷さん一家は細心の注意を払って小さな同居者を見守り続けた。カラスを見張るため家を留守にすることもひかえた。卵がかえる時は、2羽の親鳥が「やった、やった」という調子で興奮するさまも目撃した▼飛び立つのに失敗したヒナが道路に落ちるたびに助けに行った。近所の人が助けてくれたこともあった。ヒナはぶじ巣立った。「ヒヨドリの声って、きれいなんですね。毎日、楽しませてもらって。遠いメルヘンの世界を見ていたような気持ちでした」と夫人の文子さんはいっている。 無駄に使われる途上国への援助金 【’86.10.8 朝刊 1頁 (全840字)】  日本が援助のために西アフリカのある国に食品の冷蔵施設や冷凍車を贈った。援助総額は9億円にものぼる、というからかなりの額だ▼納税者としては当然、それがアフリカの食糧不足解消の一助になっていることを期待したいのだが、現実は、逆だ。施設や冷凍車は地元のボスに私物化され、しかも、計画がずさんだったためか、今のところはほとんど民衆の役には立っていないという記事があった。9億円が死んだカネになっているわけだが、こういう例は決して少なくない▼途上国への援助資金が、ムダに使われるだけではなく、不正の温床になっていることも、今回の国際協力事業団汚職でわかった。収賄容疑で2人目の逮捕者がでて、国会の予算委でも「監察不足」が問題になった▼ハゲワシは大空高く旋回しながら、死肉を見つけると急降下する。その急降下のさまを見て、仲間が死肉に群れる。ある種のワシは攻撃的で、ほかのハゲワシを追い払って肉を奪う▼わが国の政府開発援助は、この10年間で6倍にもふえ、年間総事業費は今や1兆2500億円の巨額である。その巨額の援助費に群れたり、仲間をおしのけたりするハゲワシがいる▼ユニセフの白書によると、いま、地球上では、予防接種がなされないままにハシカ、破傷風などで死ぬ子(5歳以下)が年間推定345万人にもなるという。一方で、何億円ものカネがムダに使われ、不正が横行する。援助の発想に基本的な欠陥があるのではないか。監視が甘すぎるのではないか。政治家の利権がからむことはないのか。そういう不信の念が高まっている▼海外援助の仕事はいままで、聖域でありすぎた。外務省の「評価報告書」にも限界があるし、会計検査院や行政監察局の監視もおざなりなものだった。「相手国への内政干渉を避ける」という表看板の陰で援助を食いものにするものを放置してきた、ということはないか。 「常識派」作家・石坂洋次郎氏死去 【’86.10.9 朝刊 1頁 (全844字)】  作家石坂洋次郎氏の悲報をきいて代表作の『青い山脈』を読みかえした。敗戦直後の新聞小説で、映画にもなった作品だ。池部良や杉葉子、それに「古い上衣(うわぎ)よさようなら」という映画主題歌の1節をなつかしく思いだした。民主主義とか男女同権とかのことばがピッカピカのランドセルのように輝いていた時代だった▼作者は芸者の梅太郎にいわせる。「いままではみんな孔子様や孟子様をちぎってつくったように固苦しくしていた。ところが生身の人間はそんなことでは納まりがつかないもんだから、私共の所でうさ晴しをする。女は台所や子供にしばりつけられて、少しずつヒステリーになってしまう。それじゃあ間違ってる」▼生身の人間を解放する騒動が『青い山脈』の学園でも起こる。だが作者は、青臭い民主化運動が壁にぶつかり、その壁を破るのが、生身の人間どもの裏を知りつくした芸者梅太郎のひとこと、ひとことであることも知っている。そこには常識人の知恵がある▼石坂洋次郎という作家ほど、自分のことを「常識派」だといい続けた人も珍しい。自分は「俗っぽい平凡きわまる」道をたどり、「野暮ったい文章」しか書けず、無気力で狡猾(こうかつ)で、常識型の勤め人風の外見をしていて、という自画像を描く▼常識的だとの評は文士にとっては不名誉なことかもしれないが、この作家は常識人であることを堂々と披歴し、破滅型文士を手厳しく批判した▼「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」という名歌も、常識人石坂には気にいらない。白玉とは笑止だ、汚れてゆがんだ歯のほうが多いのに、といった調子できめつけている▼一方で、「退屈そうな極楽よりも血の池、針の山の責め苦がある地獄に住みたいと思う」と書く。一筋縄ではゆかぬもの、自称「凡俗」のしたたかさ、といったものを身につけた人だったように思う▼享年86。 1年生代議士 【’86.10.10 朝刊 1頁 (全854字)】  7月の選挙で当選した自民党の1年生代議士たちに赤じゅうたん体験談をきいた。1人は、先輩たちが各省庁の官僚を相手に「すぐどなり出す」ことに驚いた▼自民党の政策部会には連日のように、官僚たちが説明にやってくる。米価の問題で農水省の幹部が、算式によればマイナスと説明すると「なんだキミは。そんな算術しかできないのか」▼整備新幹線に着工したら、ますます赤字が大きくなるとの説明に「赤字? なんだそれ。財源不足のことだと? キミはそんなことをわれわれに教えようというのか」▼なるほど、大声をあげる契機はこうしてつかむのかと感心しつつ、この1年生はどなる代議士を3つに分類した。「劣等感型」=政策の無知をいばることで隠す。「恐怖症型」=次の選挙のことが心配でたまらず、やみくもに目立とうとする▼「小ボス志向型」=年期の割に派閥の中などで評価が上がらず、力のあるところを見せようとする。いずれにしても、どなる政治家に大した人物はいないというのが彼の観察である▼当選の翌日から、次の選挙の心配をするのが政治家だ。もう1人の1年生議員は、地元で雇った10人近い秘書たちの給料が払えるだろうか心配だった。しかしいまは「当選するとなんとかなるものだ」と不思議がったり、ほっとしたり▼当選御礼に選挙区の有力者のところを回ったら、やっぱり議員バッジの効用は大変なもので、寄付の申し出が結構あった。「なかには、先生ちょっと、と大きいので1本出した人もいる。ええ、100万…。こっちは初めてなんで面くらった」▼サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙に落ちたらただの人、といったのは大野伴睦氏である。官僚はじめ周囲にチヤホヤされ、資金ルートも広がり、永田町流の金銭感覚が身につくに従って「ただの人」が「議員」に変身する▼さて、1年生代議士がいつまで初心を忘れずに「ただの人議員」でいられるか。 東京の路地のおもしろさ 【’86.10.11 朝刊 1頁 (全856字)】  東京の街中を歩いてみた。おとといは御茶ノ水駅から上野公園にでて駒込の六義園まで歩いた。きのうの「体育の日」は根津、白山のあたりの横道を歩き回った▼計6時間ほど歩き回ってえた結論は、ごく平凡なことだが、「東京の美しさは路地に隠されている」ということだった。路地には緑が生きている。軒下には鉢植えの木や草があり、キンモクセイやギンモクセイの香りが流れてくる▼路地には坂があり、坂道には石垣がある。石垣の背後に堂々たるシイの古木がある。喧騒(けんそう)の極にある表通りから裏通りに入ると、ふっと心が解き放される。表通りでは、道を踏む自分の足音が騒音でかき消される。自分の存在そのものがかき消されるような思いに耐えて、歩かねばならない▼だが裏道に入ると、次第に自分の足音がなつかしく耳に響いてくる。足音を耳がとらえるようになると、心が次第に解き放されてゆく。硬くなっていた筋肉がストレッチ運動でときほぐされるように、硬くなっていた心もほぐれてゆく。心が解き放されると、足も軽くなる。散策とは、2本の足を交互に前にだして進むだけのものではなく、「心で歩く」ものだろう。心で歩くには、裏道がいい▼東京の路地にはまた、信仰が生きている。突然、1万4000体の石地蔵が並ぶ風景にであうかと思うと、江戸の昔の殿様が、写生に使った虫の霊を慰めるために建てた「蟲塚」がある。あるいは恋のために放火した八百屋お七の墓が路地の奥にある▼お七の小さな墓の隣に十何階かのマンションがそびえるのも東京的な風景だが、もっと驚くのは、その墓がこざっぱりと清められ、新しい黄菊やミカンやおせんべいが供えられていることだった。別の寺に、お七の身代わりになって焦熱の苦しみを受けるほうろく地蔵の像があり、こちらにも新しい花やミカンが供えられていた▼東京という街のおもしろさは、路地の奥深さにささえられている。 遊びの時代のテレビ番組 【’86.10.12 朝刊 1頁 (全838字)】  あるテレビ・プロデューサーがこんなことをいっている。今は各テレビ局が、バラエティーに、ドラマにしのぎを削って視聴率競争をやっているけれど、もう何年もしないうちに、視聴率の第1位はまちがいなく家庭用テレビゲームになるだろうと▼テレビゲームは、いまさら説明するまでもないのかもしれないが、あるおもちゃメーカーが開発した、コンピューターを内蔵したゲーム機だ。これをテレビの受像機につなぐとゲームができる▼だから当然、これで遊んでいる間は、テレビ局から送られる番組はブラウン管には映らない。テレビをゲーム機が占拠するわけだ。遊びの時代の視聴者は、テレビを、見る道具から遊ぶ道具に変えた▼この変化に対抗してか、最近のテレビには、番組自体を視聴者の遊びに提供しようという番組がふえている。視聴者がタレントたちと一緒に、スポーツをしたり、ゲームをしたり、演技をしたりして遊ぶ。それがそのまま放送される。放課後のクラブ活動だといって、高校生たちに“芸能ごっこ”を楽しませる番組もある▼この秋からは、ズバリ「遊びにおいで」という新番組も始まった。テレビ局のスタジオを開放し、遊びにきた視聴者とともに1つのバラエティー番組を作っていく。参加者はあらかじめテレビ局が選ぶ。さすがに若い人ばかりだ▼視聴者参加番組というのは以前からあった。のど自慢大会などはその代表だろう。参加者は自分の特技を見せたくてやってくる。遊び番組は少しちがう。テレビに映りたくてくるにはちがいないとしても、その前に遊ぼうという気持ちがある。司会者のタレントと話してみたい。一緒に何かをしたい。テレビはここでも遊び道具だ▼そういえば、テレビを見る視線が下がってきている。子どもたちはよく、床の上に置いてこれを見る。むかしは神棚みたいに高かった。観音開き型が多かったような気もする。 森林の自然性を大切に 【’86.10.13 朝刊 1頁 (全856字)】  「知床の森の伐採に反対する世論の高まりに理解を」という稲村環境庁長官の申し入れに対して、加藤農林水産相は「十分にしんしゃくする」と答えた。加藤さんはかねてから「慎重を期して第三者も納得するような調査を」と指示しているそうだ。火種は残ったが、少なくとも当分は「伐採強行」はないだろう▼また、青森営林局はクマゲラの生息地に近い白神山地の伐採を「5年間見合わせる」ことをきめた。「これでますます仕事が減る」という地元村長のため息がきこえてくるような談話があった▼知床や白神山地をめぐる動きは、自然を守る側からいえば、一歩前進だ。同時にそれは「森の自然性」と「森の経済性」との調和をどう考えるかという古くて新しい問題を私たちに突きつけている▼木の文化の中で生きている私たちは、林業を大切にし、林業を支える人たちの痛みを鋭敏にうけとめなければならない。同時に、森の自然性は国民の共有財産だ。森の生態系の破壊は人間の暮らしとかかわりがある▼緑を守る運動の先駆者だった南方熊楠はこんな例をあげている。紀州の神林には古来アリスイという鳥がいた。神林の乱伐でこの益鳥が減ったら、シロアリの勢力が強まり、害が続出した。南方は、70年以上も前に、数々の例をあげて生態系の大切さを力説している▼先月、加藤農水相は「一般論だが」と前置きをしてこう語っている。「これからは、木材を生産する施業林と、自然を守るための森とをわけて、別々の対応をしなければならない」と▼森林の自然性を大切にせよという主張は林政審議会の部会報告にもあり、筆者はこの考え方に大賛成だ。そこには林業行政から森林行政へ、という流れの変化がある▼沖縄の山原には特別天然記念物のノグチゲラがいるし、知床の鳥獣保護区域には天然記念物のシマフクロウがいる。共に絶滅寸前の鳥だ。この一帯では、経済性よりも自然性を最優先にすべきだろう。 レイキャビク会談 【’86.10.14 朝刊 1頁 (全839字)】  米ソの頂上会談のおかげで、アイスランドという国のことを泥縄式に勉強することができた。テレビのニュース番組の前に、手話によるニュースが流される、という話があった。こういうことが、さりげなく行われているところがいい▼非核・非武装の国でもあり、米ソ会談の舞台としてはおあつらえむきだったが、アイスランドの氷河の氷はやはり、硬かった▼シュルツ国務長官は「会談は率直でかつ紳士的なものだったが、2人とも失望した」という。いいかえれば「つかみ合いにはいたらなかったが、あけすけにいい合ったすえ、2人ともがっくりきた」ということだろう▼レーガン大統領の「会談は困難だったが、有益だった」は、「無理難題をいう相手にてこずったが、手の内がわかっただけでもよしとするか」が真意だろう▼ゴルバチョフ書記長の「歴史的成果をあげるところだったのに、失敗してしまった」は「こちらの土俵にひきずりこめそうだったのにね。逃した魚は大きいよ」と翻訳できる▼戦略核兵器や中距離核戦力などの矛を思い切って減らすのはいい、しかしスターウオーズ計画という盾を新しくつくるとなると、カネもかかるし、その新型の盾がいつか新型の矛になる恐れもある。盾の話のとりきめをたなあげにして矛の削減にだけ同意するわけにはいかない、というのがソ連の立場だろう▼米国は米国で、盾の話ではずいぶん譲っているのにソ連はわかろうとしない、結局、スターウオーズ計画をつぶすのがソ連のねらいなのだ、と非難する▼だが、レイキャビク会談は、初めから予備会談の性格をもっていた。米ソの合意がなかったからといって、会談が無意味だったときめつけるわけにはいかない。溶岩の奔流と降灰による災禍の中で、アイスランドの人びとがしぶとく生き抜いてきたように、首脳間の「率直な話し合い」がしぶとく続けられる限り、希望はある。 『翔べ!はぐれ鳥』 【’86.10.15 朝刊 1頁 (全855字)】  小林道雄さんの『翔べ!はぐれ鳥』を読んだ。力のこもった作品だ▼この記録の舞台である「青少年と共に歩む会・憩いの家」に来る子は、優等生ではない。シンナーの常用で歯が真っ黒になった少女がいる。包丁を手にして父親につめよった登校拒否少年がいる。家庭が崩壊し、ほうっておけば荒海におぼれる恐れのある子ばかりだ▼憩いの家は、はぐれ鳥のための荒海に浮かぶ止まり木である。心の奥深くにある傷をいやす療養所であり、生き方を変える苦闘の道場でもある▼「私、初めてなの。隣に怒鳴り声や不愉快な言葉が聞こえない静かな部屋で、何の心配もなく寝ていられるのは初めてなのよ」。この少女の一言が、止まり木の存在価値を雄弁に語っている▼そこには、激しいぶつかり合いがある。たとえば養護施設出の少年がいう。「今朝駅前でよ、野宿していたやつをけっとばしたらよ、ピクンと動きやがんの、面白かったぜ」▼寮母が色をなして問いつめる。「それ、どういうことかわかってるの」「どうって」「何でけとばした」「……」「ピクンと動いた時どう思った」「……」。夜が白むまで、ひざづめの話し合いが続く。そのようにして少年は生まれて初めて、ひとの痛みを自分のこととして考える経験を持つ▼広岡知彦さんを中心とするスタッフは、この20年、子どもたちと裸でつき合い、うそのない自分をぶつけることを心がけてきた。教育方針などという堅苦しいものはないが、そこでは真の教育の名に値する教育が行われているように思えた。この家が1000人を超える支援者に見守られている、という事実にも心打たれる▼読み進むうちに、スタッフの1人の刺激的な言葉にぶつかる。「うちの子どもたちを見ていると、世間一般のいい子というのがウソっぽく見えてしょうがない。たいへんなのはむしろそっちのほうではないか」。小林さんは、この言葉の背後にあるものを問い続けている。 国家秘密という名の言論統制 【’86.10.16 朝刊 1頁 (全842字)】  長崎湾のみえる廃屋の中で、修平は佐藤春夫の詩を口ずさむ。隣には幼なじみのサッちゃんがいる。昭和17年の春である。2人が廃屋をでたところで憲兵に呼びとめられる▼「無断で準要塞地帯の空き家に侵入しただけでも拘引されて当然だ」と責められ、修平は2度も殴られる。遠藤周作の『女の一生』にでてくる場景だ。さらに「ヤソか。お前らは敵性宗教の信者か。非国民と言われて仕方がない」とののしられる。非国民といわれることへのおびえが私たちの神経のすみずみを支配していたころの話である▼社会面の続きもの『スパイ防止ってなんだ』に、当時、北大生だった宮沢弘幸さんのいたましい、短い生涯が紹介されていた。宮沢さんは旅の途中、世間話で根室に海軍の飛行場があり、指揮者が兵曹長であることをきく▼その話を英語教師のレーンさんに伝えた、というので捕まる。軍機保護法違反の容疑である。逆づりの拷問を受け、敗戦後釈放された時は、全身傷と膿(うみ)におおわれていた。まもなく、世を去った▼根室に飛行場のあることはすでに世界に紹介されていた事実なのに、それでも「軍事秘密」になる、というところが恐ろしい。国家秘密法ができれば、秘密の範囲は政府の思うままにひろがるだろう▼満州事変当時の「記事掲載禁止事項」を調べると、こういうのがある。「満蒙独立国組織計画ニ関シ日本政府又ハ軍部ガ直接間接ニ之ニ干与スルガ如キ事項」「満州国承認ニ伴フ日満両国条約締結ニ関スル一切ノ事項」。えんえんと続く禁止事項の羅列を、苦い思いで読んだ。言論の自由は、一歩譲れば百歩も千歩も攻めこまれる。攻めこまれてからでは遅い▼新聞人の1人として過去の戦に学ばねばならないこと、それは国家秘密という名が冠せられた言論統制の恐ろしさである。現行法制でも十分だと思えるのに、なぜ国家秘密法再提案がもくろまれているのか。 安田武さんの美意識 【’86.10.17 朝刊 1頁 (全852字)】  日本戦没学生記念会(わだつみ会)の再建に力を尽くした安田武さんが亡くなった。戦争末期、ソ連軍と戦って捕虜になった体験をもつ人だ▼敗戦後、原爆をあびた人たちが巣鴨拘置所の戦犯を慰問したことがある。その時、東条内閣の蔵相だった賀屋興宣氏が「みなさんをこういう目にあわせたのは、A級戦犯たる私に責任がある。私こそみなさんを慰問しなければならぬ」といったそうだ▼後に、このことをとりあげて安田さんは書いている。「この告白に今もいつわりないならば、一切の政治的役職からはなれていただきたい」と▼「けじめ」と「しつけ」を大切にした人だった。賀屋氏にけじめを求める心の底にあるのは、安田さんの美意識だろう。鶴見俊輔さんや山田宗睦さんと共に8月15日になると交代で坊主刈りになる儀式を続けた背景にも、美意識があったように思う▼日本人は大変なあやまちを犯したし、犯しつつあるというのが持論だった。「歴史体験を正しく次の世代に伝承していない」ことへの反省だ。第1は、戦争という悲惨な民族の総体験を正しく伝えていない、という反省である。償っても償いきれないような犠牲を今や償おうとさえしないのなら、二重のあやまちを犯しつつあるというほかはない、という主張である▼第2。美意識の崩壊に対する反省がある。「日本のインテリは自分の全歴史を2度捨てている。明治維新で江戸文化を葬り、敗戦でまた、文化遺産を捨てた」という発言があった▼たとえば、客を送る時はその足音が聞こえなくなるまで玄関の灯を消してはならない、といった暮らしの知恵や立ち居振る舞いの美しさを、私たちは振り捨ててきた。伝統的な文化の型を捨てて「型なし文化」の時代に移ってしまった。そのことを悔恨をこめて書いている▼生涯、戦争体験にこだわり続け、型の日本文化にこだわり続けたことは、安田さんの江戸前の美意識と無縁ではあるまい。 「大型」間接税と「新型」間接税 【’86.10.18 朝刊 1頁 (全842字)】  「大型」であって「新人」となれば、たとえば西武の清原である。かつての長島や王も大型新人だった。世に大型新人が現れてふしぎがないように、「大型」で「新型」の間接税が現れてもふしぎはない▼ところが、昨今の税制論議をきいていると、新型間接税は、大型であっても大型だといってはならないらしい。今度大蔵省が発表した間接税の試算は「3兆5000億円の増収」になっている。3兆円を超える増収なら、これはどう考えても大型に違いないのに、「新型」とあるだけだ▼中曽根首相周辺の辞書から大型の字が消されてしまった責任は、首相の公約にある。「大型間接税導入せず」の公約が災いして、税をめぐる論議はひどくわかりにくいものになってしまった▼逆に、ワシントン発のニュースで知るアメリカの税制改革の様子は実にわかりやすい。まず一昨年、レーガン大統領が年頭教書で70年ぶりといわれる「革命的計画」と呼ぶ税制改革の骨子を明らかにした▼ついで財務省が専門家を集めて具体案をねった。やがて大統領が「個人所得税を減らし企業の税負担をふやす」改革案を発表した。「税金のこととなると、国民の血圧は上がり、政治家の脈拍も速くなる」といわれる国のことだ。納税者監視の中で熱い議論が続き、上下院を通過した▼少なくともそこでは「大型間接税は導入しないが、新型間接税は導入する」といったような奇妙なこじつけは通用しなかったろう。政府は税制を改め、直接税と間接税の比率を見直すつもりだったら、選挙前に骨子を明らかにして世論に問うべきだった。「大型間接税導入せず」をあれほど明言してしまった以上、首相による大型の新型間接税の実施は不可能、とみなければならぬ。問われているのは、政治手法の問題だ▼それに、大蔵省試案のように、サラリーマンの減税をあまりにもバラ色に描きすぎるのは、どうにもうさん臭い。 朝日新聞社の記事データベース 【’86.10.19 朝刊 1頁 (全852字)】  毎年、新聞週間には社内の様子を紹介させていただいている。今年は『記事データベース』、つまりコンピューターによる記事たくわえどころ、のことを紹介したい▼ここには、2年間の朝夕刊の記事の大半、約11万本がおさまっている。新聞社には膨大な量の記事の切り抜きがあり、これも大切な財産だが、新鋭のデータベースも取材や校閲に役立っている▼「老年夫婦の心中がめだつ」と思った記者が、社会部の端末機で「夫婦」「心中」を検索した。その情報をきっかけにして取材が進み、「2カ月余で老夫婦の心中11件も」という記事がまとめられた▼『科学朝日』の編集者が「科学」「形」「枝わかれ」など、思いつくままの言葉を自由に結びつけて検索した。分析をしているうちに、樹木の形、あるいは動物の縄張りの形を研究している学者のことがわかり、11月号の「いま『形』が面白い」という特集になった▼同僚が試みに「ブーム」を検索してみたら、この言葉を使った記事が2年分で1040本もでてきた。しょうちゅう、エリマキトカゲ、民間活力、お嬢さん。最近は、温泉、証券、新オカルト、中高年登山、財テク、NTT株、金貨と続く。時代のにおいがわかって面白かった▼韓国の経済人と会う場合、事前に「韓国」と「経済・貿易政策」で検索すれば、たちまち85本の見出しが並ぶ。本文のプリントもできる▼データベースの編集室には9つのパソコン端末機があり、9人の編集者が働いている。みな女性だ。分類語をつけ、独自の見出しをつける。目印をつける精密な仕事は根気がいる。たとえばまた、拓殖大はタクショクダイと読む、とコンピューターに教える。これを怠ると、拓殖大空手部がタクショク・オオゾラ・シュブとなって検索できなくなる▼宣伝めいて恐縮だが、企業の研究開発機関、大学の図書館などに、契約を結んで、このデータベースの利用を始めている所がある。 エリザベス女王の訪中 【’86.10.20 朝刊 1頁 (全843字)】  このほど北京を訪れたエリザベス英女王夫妻と中国の実力者、〓小平氏との間で、次のようなやりとりがあったそうだ▼「最近の北京は乾燥がひどいので、あなたがたのロンドンの霧を拝借できればありがたい。私は若いころパリにいた時、エッフェル塔からロンドンの霧が見えるといわれて2度も塔に登りました。残念ながら、霧は見えなかった」とパリ留学の経験を持つ〓氏が切り出す▼女王「エッフェル塔からロンドンを眺めるのはちょっとむつかしいですね。だいぶ離れていますから」。エジンバラ公「あのころの霧は産業革命の産物で、いまのロンドンにはスモッグはなくなりました」。〓氏「では霧を借りるのは無理ですかな」。エジンバラ公「雨ならお貸しできますよ。雨の方が霧よりましです。中国はイギリスに日光を貸してくれればよろしい」▼たわいない、といえばいえるだろう。しかし、中英関係の長い歴史のなかで初めて英国元首が訪中し、中国首脳との間で屈託のない会話を交わしたところに意味がある。エリザベス女王は約390年前に書かれ、事故のために届けられなかった1通の手紙を中国への贈り物にした。それはエリザベス1世が当時の万暦帝にあてたもので、両国間の貿易拡大への希望を述べていた▼女王訪中を可能にしたのは、両国間の懸案だった香港返還についての合意が一昨年得られたことだろう。エリザベス1世の宿願通り、それ以来の貿易の伸びも順調だ。上海に回航した王室ヨットで中英貿易シンポジウムが開かれ、日ごとに変わる女王のドレスは中国の若い女性を魅了した。あとでエジンバラ公の失言事件はあったが、女王訪中自体が交流拡大に果たした役割は小さくない▼女王が明十三陵を訪れた時、女官服の中国女性たちが古式通りに身をかがめて「女王陛下、ご機嫌うるわしく」と唱えたという。ここまで開けてきた社会主義中国の姿も印象的だ。 国鉄の途上国援助 【’86.10.21 朝刊 1頁 (全858字)】  国鉄が発展途上国などへの技術援助をはじめて、ことしで30年目になる。分割・民営化論議の中で、親方日の丸などとさんざん非難されてきた国鉄ではあるが、技術陣のこの地味な努力は高く評価されるべきだろう▼これまでに職員が派遣された国は61カ国、その数はこの10年間だけで約2000人にも達している。現在も21人が長期派遣中で、新線建設や電化工事、列車ダイヤ編成をはじめ、その国の鉄道網整備計画全体の指導にも当たっている。新幹線をつくったわが国の鉄道技術への信頼は絶大のようだ▼技術者たちはザイールでは大統領から国民栄誉賞を受けた。3年前に、円借款供与で完成したアフリカ最大のつり橋マタディ橋建設に関して贈られたもので、この国の施設整備公団の鉄道担当局長には、2年交代で日本の国鉄職員が就任するなど、深い関係が続いている▼アルゼンチンでは首都ブエノスアイレスの近郊通勤線の電化工事を担当、11年間にのべ200人余が現地に行き、昨秋やっと完成した。車両も日本製が使われる。電化は、自動車優先政策で道路の混乱、騒音がひどくなったため計画されたというが、これはよそごとではない▼技術援助は途上国に限らない。米国のボストンとワシントンを結ぶ北東回廊の改良計画はすべて国鉄の指導で行われた。赤字の米国鉄道の施設は老朽化し、技術者も育っていないのだ。工事は昨年終わり、大幅なスピードアップに加え、時間通りに列車が到着する割合が63%から95%になって関係者を感激させた▼ちなみに、わが国の新幹線の遅れは1列車当たり平均48秒、在来線でも平均1分6秒。外国の鉄道の基準でいえば定時運転率はまず100%だ。正確さと高い技術を誇る国鉄だが、赤字ゆえに研究を怠ればどうなるかは、米国が好例だろう▼分割・民営化の行方にかかわらず技術開発に努力し、援助は続けるべきだ。それが鉄道先進国日本の責務だと思う。 「非喫煙者を守る会」が禁煙飲食店一覧の本を出版 【’86.10.22 朝刊 1頁 (全855字)】  たばこというのは厄介なもので、自分で吸い続けている間はそう気にならない。しかしひとたびたばこをやめると、周りの人のたばこのにおいのひどさにいたたまれなくなる。頭が痛くなることもある。このことは、いくら愛煙家に説いても実感としてわかってもらえないだろう▼最近「非喫煙者を守る会」東京支部が『クリーンレストランへの招待』(全国禁煙飲食店一覧)という本をまとめた。全面禁煙の店、禁煙席をつくっている店の名前や場所を表にしたものだ▼たとえば東京の港区だけで29店の名前が並んでいる。全国チェーン店の名前もある。正直いって、禁煙の店がこんなにもあるとは思わなかった。会の人たちが交渉して禁煙店にした所もある▼この本に教えられて、全面禁煙のデパートの大食堂へ行ってみた。なるほど、ここでは子ども連れの客も、たばこの害を気にせずにすむ。天井や壁は白くて清潔だった。たばこの煙で汚れることがなくなったためだろう▼本には、こう書いてあった。(1)禁煙店で食事をしたらぜひ、店の人に「きれいな空気の中で食事ができて、おいしかった」と声をかけましょう(2)もしあなたが喫煙者なら、全面禁煙店で食事をしてみて下さい。そしてきれいな空気の中での食事のおいしさを味わってみて下さい▼たばこには、喫煙者が吸いこむ主流煙と、たばこの先から立ち上る副流煙がある。この副流煙の方が煙に含まれているニコチンや発がん物質の量が多くいっそう強い毒性を発揮する、という報告があった。たばこ飲みは、周りの人にこの毒性をもった煙をまきちらしているわけだ▼アメリカでは、科学者や医者の団体が「国内線の旅客機内をすべて禁煙にせよ」と訴え、全面禁煙の運動が高まっている。オーストラリアでは、政府がすべての官公庁事務所内を禁煙にする方針だという。私たちの周辺に全面禁煙の空間を作る、という動きが世界中にひろまりつつある。 「民衆の宝」国鉄用地の売却 【’86.10.23 朝刊 1頁 (全847字)】  老いたトラがキバを痛めてもだえ苦しんでいた。キツネがやってきて「キバを抜いてあげましょう。痛みがとれますよ」といい、親切そうな顔をしてキバを抜いた▼キバを抜かれたトラは痛みがとれたが、えものをとることができなくなり、やがて死んだ。教訓。いまの痛みにとらわれて大局を見誤ると命を失うことになる。国鉄分割や国鉄用地のことも、目先の利益にとらわれると、恐ろしい結果を生む▼とくに、土地という大切なキバを高値で売り渡すことは、土地ころがし、地価高騰という恐ろしい結果を生むだろう。約4億円で落札した国鉄用地が3カ月後に売られ、6億円以上の根抵当権がつけられている、という報告があった。地価高騰は現実の問題になっている▼かつて獅子文六は、市街地を走るちんちん電車を「民衆の宝」だといった。その乗り心地のよさ、便利さをたたえながら、「東京随一の交通機関」をなぜ滅ぼしてしまうのかと嘆いた。ちょっとキバが痛むと、それっという勢いでキバを抜き去るように私たちは「民衆の宝」をあらかた追放してしまった▼国鉄の土地も「民衆の宝」だ。国民が支払ってきた運賃をもとにして築かれたものである。目先の利益に目を奪われて不用意にキバを抜けば、地価高騰の引き金になる。国鉄用地は、公共のために使うこと、地価抑制に心を配ること、の2点を原則にせよ、と訴えたい。住民の利益になる計画のために使ってもらいたい。むろん、地方自治体にも転売禁止の原則を課さねばならぬ▼東京の豊島区が、国鉄の売却予定地約1万5000平方メートルを買って、公園や広場にする計画をたてている。100億円を超える買いもので、区としては夢のような話だが、こういう夢はぜひ実現させたい。地価を高騰させてしまったあとでは、公園用地の買収は不可能になる▼「民衆の宝」をいかに生かすか、殺すか。国会の論議はまだ十分ではない。 アイヌ・ネノアン・アイヌ 【’86.10.24 朝刊 1頁 (全857字)】  アイヌ語では雪のことを「ウバシ」という。ウは互いに、バシは走るの意味だ。小さい雪は早く、大きい雪はふわふわと落ちてくる。競争しているようにみえるからウバシなのだろう。美しい表現だ▼アイヌということばは人間を意味する。アイヌ・ネノアン・アイヌといえば「人間らしくある人間」のことで、昔、アイヌの子どもたちは、アイヌ・ネノアン・アイヌであるようにといわれて育った、という話をきいた。このことばもいい▼10年前に、北海道庁爆破事件があった。その時「北海道旧土人保護法」なる法律が生き続けていることを初めて知った。「旧土人」とは何といういいようだろう。こういう差別語が法律名にそのまま残っていることに気づかなかった己の無知を、恥じたことがある。「日本人は黒人やインディアンのことを知っていてもアイヌのことは知らなすぎる」という批判が耳に痛かった▼アイヌ文化の花を開かせる運動を続けている萱野茂さんが書いている。「北海道の各地のアイヌの子は、あァイヌが来たぐらいのことは序の口で、身体が毛深いこと、貧しいこと、とても文字にするには耐えがたいことで悪口をいわれました」(『アイヌの碑』)▼萱野さんはアラスカを訪れて感じ入ったことがある。エスキモーたちが、英語とは別に、幼稚園からエスキモー語をきちんと教えていることだった。自分たちもアイヌ語を伝えなければならぬ、と心にきめたそうだ▼わが国には、アイヌ民族が誇りとする文化を滅ぼすような同化政策はあったが、固有の文化を認める政策がなかった。異なる文化を尊重する異化政策がなかった▼異化尊重の思想が希薄だからこそ「差別を受けている少数民族はいない」という恐るべき中曽根首相発言が飛び出すのだろう。遠藤法相があわてて「言動にご遠慮を」とたしなめようとしたのも、むりはない▼真っ先にすべきことは「旧土人」の名がついた法律を追放することだ。 葉剣英氏の死 【’86.10.25 朝刊 1頁 (全843字)】  今から31年前に、中国革命で大きな戦功のあった将軍10人が元帥に任命された。そのうち、大長征の立役者として知られた劉伯承氏が今月7日に、22日には葉剣英氏が死去した。いまや10元帥でこの世にあるのは徐向前、聶栄臻(じょう・えいしん)両氏だけとなった。中国近代史をいろどった英雄の時代が過ぎてゆく▼建国後は病気のため活躍が少なかった劉伯承氏とは対照的に、葉剣英氏は軍中枢で実力を保持し続けたばかりか、全国人民代表大会常務委員長などの要職にあって政治でも重きをなした。昨年の党全国代表大会を機に引退するまでは、党内の序列は〓小平氏より上位にランクされていた▼葉氏の死はどう受け止められたか。東京に住む中国人ジャーナリストの知人たちに聞いてみた。若手のA氏「建軍、建国の功労者ですから残念です。でも、毛主席や周総理がなくなった時のようなショックは受けなかった。人物の評価をいうのではなくて、いまは近代化路線が固まり、後継体制の心配もないからです」▼年配のB氏は少し考えてから語った。「国民党内にも及ぶ影響力、それに4人組追放の功績がぬきんでていた。もともと国民党の軍人として頭角を現し、黄埔軍官学校の教官もしたから台湾の要人にも教え子が多い。4人組追放は、葉さんがいなかったらああは行かなかった。この2つは、他の指導者たちも及ばぬ点です」▼葉剣英氏は、商才と進取の気性で知られる広東省の客家出身だ。4人組追放のように、時に鋭い決断も見せたが、大筋では手堅い人生だった。長男の葉選平氏は広東省長になり、対外開放政策をになう第一線で活躍している▼詩人でもあった葉氏は、10元帥のうち最も早く死去した羅栄桓将軍にささげた詩で「大業まさに興るとき公ついに逝く。哀歌の声のうちに雷霆(らいてい)起こらむ」と詠んだ。葉氏もまた同じ思いで送られているのだろう。 永沢まことさんが描くニューヨークと東京 【’86.10.26 朝刊 1頁 (全855字)】  銀座の街を歩く女性がきれいになった、とニューヨーク在住のイラストレーター、永沢まことさんがいっている。「この3年で、表情も明るくなり、おしゃれのセンスが格段によくなりました。着ているもののよさはたぶん世界一だとぼくは思いますね」▼永沢さんは長い間ニューヨークの街を描いているが、時々日本に帰る。そのたびに女性がきれいになったと思う。われら男性がもたもたしているうちに、女性たちはおしゃれゲームで着々と高得点を重ねているらしい。画家の目は信用していい▼今は銀座の街を描いている。有楽町の西武デパートで開かれている個展『今様TOKYO名所図絵』を見た。いきのいい細密画で、雑踏のにおいが伝わってくる。ニューヨークと東京の違いをきいた▼あちらの女性は髪を上下にゆらゆらさせて歩く。スピード感がある。表情は厳しい。こちらは髪の毛がゆれない。表情もおだやかだ▼あちらの地下鉄の乗客の顔には緊張感がある。迫力や攻撃性を身につけていないと生き抜けない、といった緊張感がある。こちらの地下鉄の乗客の間には、わかり合っているもの同士の親和感がある。あちらははだの色の違う人びとをとけこませる開かれた街だが、こちらはまだまだ閉鎖的だ▼昨今のアメリカ人の間には「ピッカピカのハイテク・ジャパン」や「トーキョー・ファッション」への関心が高まっているそうだ。それはそれで結構な話だが、やはり、ごくふつうのありのままの街の風景、つまり「等身大の日本」を伝えることも大切だ、と永沢さんは考える▼『名所図絵』にはマリオンビルも現れるが、街角を自転車で行く青シャツのおじさんや、ガード下の居酒屋も現れる。2都の雑踏を細密に描き続けることは一種の「民際交流」だな、と思った▼ところで、女性が美しくなったことと、東京が「世界で最も刺激的な都市」といわれだしたこと、これは決して、無縁ではないでしょうね。 千駄ケ谷駅前の中高校生群衆事故 【’86.10.27 朝刊 1頁 (全843字)】  群衆行動で恐ろしいのはどさくさまぎれの心理だ。群衆の数がふくらむと、ひとりひとりの顔が消えて、人びとはいわゆる「群衆我」の中にとけこむ▼そうなると人びとは「群衆が全体としてなにか不都合な行動をとっても、だれが責任者であるかわからないだろうというつもりで行動するようになる。どさくさまぎれの心理である」と南博氏が書いている(体系社会心理学)▼先週、国電千駄ケ谷駅前に中高校生があふれ、50人近いけが人がでた。数万人の生徒が押し寄せればパニック状態になるのは当然だという人もいるし、子どもたちに秩序の感覚がなさすぎると嘆く人もいる。ふざけて押している子もいたそうだが、これはどさくさまぎれの心理だろう▼しかし今回の事件で生徒を責めるのは酷だ。時差解散をせず、数万人がどっと駅に向かえばどういうことになるか。大人がそれを深く考えない、考えてやらないところにまず問題があった▼信濃町駅や外苑前駅へ行った生徒もいたそうだが、会場の周辺には原宿駅や代々木駅もあるし、ちょっと歩けば新宿御苑前駅もある。混雑を避け、街を散策しながらより遠い駅まで歩くのも悪くはなかった▼「街頭こそ浮世の覗機関(のぞきからくり)なれ」ということばが、明治のころの朝日新聞にある。多少時間がかかったとしても、先生が引率して今はやりの「街頭ウオッチング」を楽しむゆとりがあってもよかった。いや十分に楽しんだ、という道草組もあるいはあったかも知れない▼街中を歩いて浮世をはだで知るのは大切なことだし、道草は心の栄養にもなるが、教育の現場では、それは不良っぽくてよくないこととされているのだろうか。まさか、解散命令後はまっしぐらに駅へ行くことだけが正解とされているわけではあるまい▼今回の事件は、道草とか遠回りとかに価値を認めることの効用や一斉主義のわなを、親や教師に教えてくれた。 『狂ったサル』 【’86.10.28 朝刊 1頁 (全856字)】  米国の科学者アルバート・セントジェルジ博士が亡くなった。ビタミンCの発見でノーベル賞を受賞したが、それは半世紀も前のことだ。むしろ『狂ったサル』の著者として記憶している人の方が多いかもしれない▼10年ほど前、マサチューセッツ州の自宅に博士を訪ねた同僚が取材メモを保存していた。そこには、狂ったサルともいうべき自滅の危機に立つ人類の、生きのびる道を模索する博士のことばが記録されている▼「人類は、強力な威力の核兵器を開発してしまった。恐ろしい道具を手にして、いつまで憎悪や不信といった感情を胸にしまったままでいられようか。2つが交差するとき、待ち受けているのは破滅だ」。だが、絶望はしない。「希望は、人間だれにも、死にたくない、殺したくない、という気持ちがあることです」▼「問題は政府が、こうした人びとの気持ちを代表していないことだ。いまは、権力を求めたい人が政治家になっている。こんな政治家にとって、人びとはただの数としか映らない」。これが各国を放浪した科学者の政府観だった。ハンガリーに生まれた博士はナチに追われ、招かれたソ連では祖国でのソ連軍の略奪に抗議してスターリンの不興を買った。亡命した米国ではベトナム戦争に激しく反対した▼どうすればいいのです、という同僚に博士はこう語っている。「教育です。私の子どものころ、教科書の英雄は大将だった。だから子どもは戦争に行きたがった。武器で平和が守れる、などという大ウソをしっかり見抜ける子どもを育てることです」▼難航する米ソの核兵器削減交渉や戦略防衛構想(SDI)が、93歳の博士にはどう映っていたのだろう。親交の深い国弘正雄さんが、4年前に会ったとき、博士は「時間がない、時間がない」といいながら、がんの研究に没頭していたという▼そのことばは、狂ったサル、人類に対して、博士が最後にいいたかったことのようにも思える。 新旧交代の日本シリーズ 【’86.10.29 朝刊 1頁 (全843字)】  日本シリーズ最終戦で救援にでた西武の工藤投手は足が地につかないほどあがっていた。東尾に「気楽にいけ」と励まされて、最終回をしめくくった▼第2戦の初回、力が入りすぎていた広島の大野投手の所に衣笠が歩み寄って「お前のピッチングができていないじゃないか」とはっぱをかけた。大野は気持ちがほぐれて立ち直った。こういう場合の東尾や衣笠の役割は数字には表れない。数字には表れないが、老練な選手のひとことが時には試合の流れを変えることがある。数字だけでははかりきれぬものがあるところに、野球のおもしろさがある▼今度のシリーズでは東尾も、広島の北別府も、20回前後を投げ、わずかな失点に抑えながら、勝利投手になっていない。1勝とか2勝とかの数字には表れないが、2投手の熱投がなかったら、シリーズは小粒なものになっていただろう。これも数字には表れない話だが、広島の場合は山本浩二の「元気度」が、試合の流れに微妙に影響していたように思う▼その山本選手の胴上げがあった。これほど躍動感がなくて、静かで沈痛な胴上げというのも珍しい。浩二の体を高橋や小早川や木下が泣きそうな顔でささえる。両手をあげてファンにこたえようとする山本が左腕で目をぬぐう。シリーズ最後のこの情景ははからずも「人生」をあぶりだしてくれた▼ふろで使うスポンジを小さく切ってまるめ、夫人にトスしてもらって打撃の練習をする、という話があった。練習の鬼だった山本も最終戦では打撃練習を十分にできなかった。腰や首の痛みで、何本も痛み止めの注射を打っていたという。40歳の壁はあつかった▼28年前の日本シリーズで西鉄は奇跡の逆転で巨人に勝った。試合後、巨人の川上は引退を表明した。その時の大型新人が長島である。こんどは、やはり奇跡の逆転にあい、清原という大型新人の登場を見つめながら、山本選手は引退する。 税論議にみる政治のワナ 【’86.10.30 朝刊 1頁 (全851字)】  「私は化けの皮をかぶっていない政治というものには、未だかつてお目にかかったことがない」と喝破したのは故林達夫さんだ▼「真のデモクラシーとは、この政治のメカニズムから来る必然悪に対する人民の警戒と抑制とを意味するが、眉唾ものの政治的スローガンに手もなくころりと『だまされる』ところにどうでも人が頼らねばならぬ政治のおぞましい陥穽があるともいえよう」と林さんは書いている▼政府税調が税制見直しの最終答申をだしたが、昨今の税論議ほど政治のおぞましいワナがたくさん仕掛けられている例はまれではないか▼その1。すりかえのワナ。大型間接税が新型間接税にすりかえられた。大型は導入せずだが、新型なら公約違反ではない、かのような雰囲気がつくられている。なんのことはない。新型という化けの皮で大型をくるんでいるだけの話ではないか▼その2。みせかけのワナ。バラ色の箱を贈られて、ふたを開けたら中は灰色で、極端な上げ底だったということもある。政府税調案は増減税差し引きゼロだ。しかも、大型間接税による増税やマル優廃止によって、サラリーマンのかなりの層が増税になる場合がでてくるだろう。「思いきった減税を」という公約が泣く▼その3。消去のワナ。首相は「国民や党員が反対するような大型間接税は導入しない」といっていたはずなのに、昨今は党内に「選挙に大勝した自民党がきめることは国民の声」という主張がある。おごり顔の手品師は「国民が反対する」の部分を体よく消去してしまうつもりらしい▼今になってみれば「藤尾君のいっていることは正論だ。政治はウソをいってはならん」という坊秀男元蔵相のことばがなつかしい。選挙前、間接税導入は当然だという藤尾発言があった時の感想である。坊さんは、有権者の耳に響きのよいことを訴える選挙作戦を批判し、こうもいった。「選挙に勝って国滅ぶ、になりかねない」と。 10月のことば抄録 【’86.10.31 朝刊 1頁 (全840字)】  10月のことば抄録▼「マスコミは私や家族の生活に暴力的にふみこんできた。私には、自分の姿を勝手に撮影、発表されない権利がある」。料理研究家の米原ユリさんが『フライデー』を訴えた▼「イカンガーは疲れている。君なら勝てる。大丈夫だ。早く行け」。北京マラソンの競り合いで伊藤国光が児玉泰介を励ました。児玉は日本新で優勝▼「一流選手にひきずられ私もいいゴルフができた」と樋口久子がいい、「久しぶりに久子さんの強さを見せてもらった」と岡本綾子がいった。富士通レディスでは樋口が優勝。エールの交換さといってしまえばそれまでだが、スポーツの世界にはさわやかなことばが似合う▼「会談は率直で紳士的なものだったが、2人とも失望している」。米ソ頂上会談の後でシュルツ米国務長官。こちらは、さわやかなエールの交換とはいかなかった▼「米航空宇宙局はスペースシャトル計画を進める任にあらず」と米下院の委員会が大胆な報告書を公表。一方、ソ連の新聞は「お金にはにおいはついてないものよ。干渉しないで」というモスクワの女性の声を伝え、売春の実態を大胆にあばいた▼自民党税制調査会の山中会長は政府税調の答申を批判、さらに「首相には判断をする能力がない」とこれも大胆発言▼「経済の成功で尊大になった日本人は、時代の変化を見わける敏感さを失い、現状維持的世界観のぬくもりの中であぐらをかいているかのようです」と上智大助教授の猪口邦子さんが『わたしの言い分』で▼「知床は日本で最後の希少価値のある原生林だと思う。森の立派さを見せてもらい、感慨深い」。伐採問題でもめる知床の森を見て歩いた稲村環境庁長官の感想だ▼「どんな子にもピカリと光るものがある」といい続けた教育者、金沢嘉市さんが死去。「あるがままで、あるがままに」ということばが好きだった街の詩画家、小川安夫さんが死去。 日米共同統合実動演習「キーン・エッジ87」 【’86.11.1 朝刊 1頁 (全847字)】  北海道を中心におこなわれていた日米共同統合実動演習が終わった。陸海空3自衛隊と米3軍が一緒になって、実際に火器を使っての演習はこれが初めてだし、演習に在韓米空軍が参加したのも初めてだ▼北海道の石狩地方に敵(赤軍)が突如上陸、一部が占領される。これに対し、陸上自衛隊は急ぎハワイから駆けつけた米陸軍とともに反攻し、奪いかえす。こういうシナリオだったらしい。「らしい」というのは、日米ともシナリオの中身を秘扱いにしているからだ。演習は激戦の末に、味方の青軍が赤軍をせん滅、勝利をおさめたという▼わが国が武力攻撃を受けたとき、日米両国はこれに共同で対処すると、日米安保条約には書いてある。その限りにおいて、自衛隊と米軍が合同演習に励むのはやむをえないことかもしれない▼だが洋の東西を問わず、軍事演習はエスカレートしがちだ。安保条約は日米共同対処を「日本の領域が武力攻撃された場合」に限っているが、1000カイリシーレーン防衛論がこれほど声高に叫ばれるようになると、そう安心もできない▼演習を取材した同僚によると、在韓米空軍の対地攻撃機A10と対ゲリラ戦用対地攻撃機OV10の活躍が目立った。A10はまるでハチかチョウのように低空を飛びかい、その攻撃力のすごさに「あれがあれば相手を簡単につぶせるな」との声が自衛隊幹部のなかから上がったそうだ。早晩、わが国にも対地攻撃機を、という要求が出てくるかもしれない▼不思議なこともあった。演習で発煙筒がたかれたとき小隊長が「ガスだ」と叫び、付近にいた隊員が一斉に防護マスクをつけた。自衛隊は「単なるミス」で片付けたというが、それにしては手回しがいい▼この演習を米軍は「キーン・エッジ(鋭い刃)87」と名づけた。日本列島の形は刃に似ている。それを振り回しすぎるあまり、ボロボロ歯こぼれという事態だけは、勘弁願いたい。 辛口食品ブーム 【’86.11.2 朝刊 1頁 (全843字)】  辛口食品ブームだと騒がれている。火付け役というカレーパンの「大辛」というのを食べてみた。ひと口で口の中がヒリヒリする。正直いって、じっくりカレーの風味を味わう余裕などない。この上に「激辛」というのもあるそうだ▼カレーパンはあんパン同様、日本生まれらしい。昭和30年ごろの発明という。あんパン明治8年、ジャムパン同33年、クリームパン同37年と記録にあるから、菓子パンの中では新顔に属する▼もともとヒット商品で、100種を超す菓子パンの中で、あんパン、クリームパン、チョコレートパン、ジャムパンに次ぐ5番目の人気をとりつづけてきた。一昨年、しにせの大手パン屋が、菓子パンばなれの若者向けに、従来のカレーパンをもう少し辛くした「辛口」を出した。それが当たった。そこでエスカレートしたのが「大辛」であり「激辛」だそうだ▼いまやカレーパンの人気は、ジャムパンやクリームパンをはるかに超え、100年余の王者あんパンをもしのごうとしている▼なぜ辛口がうけるのか。ひとつには、健康志向をもともなった甘さばなれがある。同じあんパンでも、ひところに比べると7割ぐらいの甘さに抑えてあるそうだが、それでも敬遠される。同時に塩分のとりすぎもよくないとくるから、あとはピリピリした辛さとなるのかもしれない▼ストレス解消説もある。口や胃の粘膜を刺激することによって精神上のストレスとのバランスをとる。いまは、子どもまでが無意識のうちに、それを求めているのだという。ともあれ、この辛さの中身は、聞いてみると単純なものだ。カレーパンの場合は、トウガラシの量をふやしたにすぎない▼なにかと甘口の世の中、ピリッとするのも大いに結構だろう。けれどもこれは、ゆっくり時間をかけて味わう味とは縁遠い。グルメ時代も、この程度の辛口ブームを起こすようでは案外、底の浅いものかもしれぬ。 葛布の伝統を支えるお年寄りたち 【’86.11.3 朝刊 1頁 (全852字)】  静岡県掛川市の近くに住む栗田はまさんは87歳になる。農家の日あたりのいい部屋に座って、毎日、葛布(くずふ)に使う糸をつくる仕事をしている▼葛のツルから採った練り色の繊維を1本ずつ伸ばす。ときほぐす。指で裂く。繊維のはしをすばやく口にくわえる。結わえる。しなやかに光る糸がとぐろを巻いて木の器にたまってゆく。一連の指の動きは軽やかで正確で、90近い人の仕事とはとても思えなかった▼「めんどうな、根のいる仕事でね。若い衆じゃあできはしません」。糸を口にくわえるのはしめりを与えて結びやすくするためだ。「もとではツバだけ」といってはまさんは笑った▼葛布という布をご存じだろうか。昔は、はかま、カッパ、ふすま地などに使われた。ひところは衰え、幻の布になるかとさえいわれたものだが、どっこい、消えなかった。その伝統は、あの生涯学習宣言都市・掛川とその近在の人たちの力で守り抜かれた▼葛布復興の立役者だった4代目幸吉こと川出茂市さんは、じんべえを織っていた。香色というのか、土に根を張った葛の生命力が潜む、張りのある色つやだ。この色つやをだすまでには、葛のツルを採り、ゆで、水につけ、発酵させ、コメのとぎ汁につけ、洗うという伝統的な過程がある。手抜きがあればいい布は生まれない▼T・S・エリオットは「伝統を相続することはできない。それを望むならば、たいへんな労力を払って手に入れなければならない」といっている(『文芸批評論』)。文化とは、そのような営みの集積だろう▼葛布の伝統を支えている核が80歳代のお年寄りたちだ、というところがいい。はまさんは「文化の伝承」などということばを口にしない。「年を取ってのおもちゃにはこれが一番いい。手を使っていればぼけないし」といって淡々と仕事を続けている▼このことばを超えたところにある「たいへんな労力」の集積が、文化を支えている。 ヤジ騒音 【’86.11.4 朝刊 1頁 (全837字)】  おもしろ味がなくて、ただただやかましいだけのヤジ騒音を自粛しようという動きが国会にある。結構な話だ。「ヤジにかき消されて野党の質問が聞こえなくて困る」という不満が閣内にもあるという▼自分たちのヤジが、どんなに無責任で、どんなにつまらなくて、どんなにばかなことをいっているかを棚にあげて「無責任なことをいうな」「つまらんことを聞くな」「ばかなことをいうもんじゃない」という調子で、のべつまくなしにどなりたてる。お国なまりの発言があると「日本語でやれ」とヤジる。これでは「高い知識水準」とやらが顔を赤らめる▼大正の昔、ダルマさんの異名がある高橋是清蔵相が、海軍拡張案の予算を説明した。「難きを忍んで長期の計画とし、陸軍は10年、海軍は8年の」というところで、すかさず「ダルマは9年」のヤジがあった。三木武吉氏である。面壁9年の故事を長期計画にひっかけたヤジだ。議場は爆笑に包まれ、蔵相は説明の腰を折られた。こういうたぐいのヤジが続出したら、国会中継も楽しくなる▼斎藤隆夫代議士の軍部批判演説があったのは、太平洋戦争突入の前年である。当時の記録には「もうよい」「要点をいえ」「君のような自由主義者が多いからだ」というヤジが飛んでいる▼議長が「静粛に願います」をしつこく繰り返しているほどだから、妨害のヤジはすさまじいものだったらしい。斎藤演説は「国論の不統一を暴露するもの」などの理由で、大半が削除された▼長く鳴りやまぬ拍手だけがあり、ヤジ一つない国会というのはぶきみだ。ユーモラスなヤジが総理大臣の眠気を退散させる役割をはたすこともあるだろう。寸鉄人を刺すヤジ、おおいに結構である。だが鉄面皮、言論を封ず、は困る。やたらに騒ぎ回って、異論を封殺しようとする騒音ヤジは恐ろしいし、恥ずかしい。そこには「問答無用、黙れ」のおごりがある。 少数民族の文化 【’86.11.5 朝刊 1頁 (全855字)】  水曜日深夜のテレビに『事件記者ルー・グラント』という地味な社会派の番組がある。深夜族の1人としては格好な番組だし、新聞社が舞台だという興味もあって欠かさずに見る。見終わってずいぶん得をしたような気分になることのほうが多い▼先週はロサンゼルスに住むインディアンが主題だった。髪をインディアン特有の3つ編みにした子が、ハサミを持った級友たちに襲われる話がでてくる。目上の人と話をする時、目を見つめるのは失礼だとインディアンは子に教え、白人教師はそれは逆だと教える。いたるところで、白人の文化とインディアンの文化がぶつかる。そういうアメリカ社会の日常の葛藤(かっとう)が丁寧に描きだされる▼登場人物の1人がいう。「昔シャイアン族の首長は、白人と友情を誓った。白人は誓いを破り、奇襲をかけた。首長は誓いを守るために戦いを拒み、殺された。だが、彼の名誉は残った」▼ボスにいわれた仕事を後回しにして通行人を助けるインディアンが、そのためクビになる話もあった。彼にとっては「人を助ける」という名誉を守ることが大切だったのだが、ボスにはそれが我慢ならない▼この番組は結論を急がない。無理解な白人を悪玉ときめつけることはしない。現実の厳しさ、複雑さを投げだして私たちに問いかける。あなたなら、どうしますか、と▼テレビを見ながら、私たちはアイヌの人びとの暮らしや言葉、文化について、「旧土人保護法」にかわる新法が先住民族の独自文化を守るために必要だということについて、どれほどのことを知っているのかという思いに捕らわれる▼フランスのブルターニュ地方には少数民族のケルト人がいる。同化政策に代わり1970年代の初めから独自文化を大切にする運動がでてきたという話をきいた。ケルト系の民族語を正課として中学校で教えているそうだ。同化から異化への流れの変化を、異境の話、と受けとってはならぬ。 長崎・高島礦の閉山 【’86.11.6 朝刊 1頁 (全854字)】  長崎県・高島町の星野誠一町長は恐らく、城の明け渡しを迫られている大石内蔵助の心境ではなかろうか▼町の城主である三菱高島礦がお取りつぶしになろうとしているのだ。離島であり、1島1町1企業の城下町にとって、ヤマがつぶれることは、町の崩壊につながる。5400人の町民が路頭に迷うことになるかもしれぬ。だから星野町長は、本来なら入れるはずもない労使の閉山団交の席にも参加する▼だが、敵の吉良上野介役となると、これはややこしい。閉山、全従業員の解雇を決断したのは、三菱石炭鉱業の経営陣である。しかし、そこに追い込んだのは、石炭の引き取りを渋ったり、代金を値切る鉄鋼業界や電力業界ではないか▼さらに、産業構造の転換を推進する政府、国内炭の縮小を柱とする答申づくりを進めている石炭鉱業審議会だって敵役の資格は十分のようにみえる▼高島礦は、幕末から明治初年にかけイギリス商人のトーマス・グラバーが、わが国で最初の洋式採炭技術を取り入れた炭鉱として知られる。三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎が譲り受けてからでも100年を超える。星野町長の胸中には、オレの代になって島にペンペン草を生やしてたまるか、という思いがあるだろう▼島の再興には、石炭に代わる城主の誘致しかない。しかし、会社が提案している誘致企業は、コンクリート関係や魚の養殖などで、50人程度の雇用しか見込めない▼「三菱発祥の地に対して、冷たすぎますよ」「いっそ無人島にするというなら、私だって国や会社に腹いっぱいいいたいことがある。しかし、今はひたすらお願いする身ですから」。星野町長の心は揺れ動いているようだ▼採炭条件の悪化、輸入炭と太刀打ちできないコスト高などの現状では、国内炭の縮小はやむを得ないだろう。だが、産業政策だけが先行して、深刻な打撃を受ける地域への社会政策が欠落するようでは、不公平のそしりはまぬがれまい。 民主党勝利の米中間選挙 【’86.11.7 朝刊 1頁 (全840字)】  アメリカの中間選挙では、上下院とも民主党が勝った。勝因は女性票を得たことにある、女性の力がものをいったのだ、といわれている。レーガン流の「強いアメリカ」路線に首をかしげる女性が多かったらしい▼米ABCテレビの投票者調査では、上院選で、男性は52対47で共和党を支持し、女性は逆に53対45で民主党を支持したそうだ。今後、この力は、SDIを抑える働きをすることにもなるだろう▼暗殺された故ロバート・ケネディ上院議員の長男、ジョセフ・ケネディ氏が下院選で当選した。18年前、暗殺の瞬間のテレビ実況をニューヨークで見た時、心の底の底までふるえたことを思いだした▼あのころは何回もロバート・ケネディ氏の演説をきいた。きらきらしたことばを操りながら、氏は常に「変化」を訴えていた。ジョンソン大統領のベトナム政策に対する変化を訴え、中国政策や人権政策に対する変化を説いた▼ケネディ陣営にとって、「変化」は、選挙作戦上のカギになる、アメリカ人好みのことばだったのだろう。今また、レーガン政策に対する変化の1つの象徴として、ジョセフ・ケネディ議員が生まれた▼圧倒的なレーガン人気の中で、共和党は上下院で負けた。そこには、中西部の農業不況の影がある。農業をやめざるをえない人があり、関連企業もこの不況にひきずられているという。南部の繊維工業地帯に積もった不満の声がある。人びとはそれぞれの暮らしの尺度で変化を求めたのだろう▼さらに、州単位だけでも200件を超す「住民投票」が同時に行われた。税金や環境問題についての不満が、変化を求める民意になっている。この民意も現政権批判票とつながったのではないか▼とはいえ、知事選では共和党が躍進している。全体としてみれば、振り子の変化、つまりスイングは確かにあった、あったけれども小幅だった、といえるのではないか。 野菊 【’86.11.8 朝刊 1頁 (全847字)】  淡い紫色というのは秋の色なのだろうか。先日、静岡の農家をたずねた時、茶畑のそばの道ばたに何輪か薄紫の嫁菜が咲いているのを見た。ごくごく平凡な花だが、すっきりとした姿でいかにも秋がそこにいる、という感じだった▼「はればれとたとへば野菊濃き如く」は富安風生の句だ。この花は「晴れた空と同じやうな鮮やかな色」だという説明があるから、嫁菜か野紺菊だろうか。多摩川の稲田登戸で、道を行く少女たちの透き通る歌声をきいて、風生はこの句を作った▼今年は野菊にお目にかかる機会が多かった。神代植物公園ではちょうどシオン(紫苑)のくすんだ紫色の花が咲いていた。シオンを野菊といっていいのかどうかはわからないが、ぼうっとかすんで眠たげな様子で立つ風情はなかなかのものだ▼泡黄金菊も咲いていた。小さな黄の花が9つも10も固まって咲く。枯れ葉色の世界では、そこだけがまぶしく、明るい。ほかの野草がとっくにしおれている姿を見回してとまどっている、といった趣もある▼千葉の小櫃川(おびつがわ)河口付近のオギの原では、浦菊の咲き残る姿を見た。舌状花の部分は淡い青紫で、潮風に耐え、ややうらがれながら咲くさまには荒涼とした感じがあった。新しい埋め立て地などで、さきがけて群落をつくる花だ▼伊藤左千夫の『野菊の墓』を読んだ漱石は「自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です」とほめたたえたそうだ。このほめことばをすべて、野菊そのもののたたずまいにあてはめてみたい気がする▼嫁菜も泡黄金菊も浦菊も、いたって淡白で、野趣がある。立春のころの早咲きの梅は、春の息吹を伝えてくれるが、立冬のころの野菊には、凋落(ちょうらく)の静けさを、息をひそめて見つめる姿勢がある。「秋草のいづれはあれど露霜に痩せし野菊の花をあはれむ」と左千夫は歌っている▼きょうは立冬。暦の上では冬に入る。 代筆の責任 【’86.11.9 朝刊 1頁 (全854字)】  病床の母親がだれかに手紙の代筆を頼む。忙しい人が代筆を頼む。それはまあ、よくあることだし、一国の宰相に対して、殺到する手紙にいちいち直筆の返事を書くべきだなどと注文するつもりはさらにない▼ただ、手紙の内容の責任はだれが負うか、となるとこれは代筆者ではなくて、やはり本人自身であってもらいたい。関東ウタリ会の公開質問状に対する中曽根首相の返事には「新聞報道のわい曲のところでご迷惑をかけた」とあった▼報道のわい曲とは何だろうと首をひねっていたら「あれは事務所の受付が、送ったもの」だという。自分の知らないところで行われた代筆だから責任はない、といわんばかりで、これは少なくとも粋(いき)な話ではない▼事務所が書いたものだが、私が全責任を負うとか、代筆陣のありように心配りが足りなかったとか、そういう反省がないと、これからは「中曽根康弘代」の手紙の内容は、鴻毛(こうもう)のごとく軽くなる▼「あれは女の子が書いたので」などという首相の釈明を読むと、ふと、あの選挙中の「大型間接税導入せず」の公約は、もしかしたら中曽根さんではない別の人がいったこと、つまり代筆ならぬ代言だったのではないかとさえ思えてくる▼「多段階ではない、あるいは包括的ではない大型間接税ならやるかもしれない」と選挙中に明言したのならまだつじつまがあう。首相らしき人物は一切それを口にせず、大型間接税導入せずを繰り返した▼あれほどはっきりと公約したのだ。同一人物ならとても、今になって「限定つきの大型間接税は公約違反にならない」などという恥ずかしいことはいえまい。あれは代言者が勝手に公約したことでした、といってくれた方がわかりやすい。「三百代言」という格好のことばもある▼大きな収入のある間接税は、どう釈明しようとも、大型間接税であることに変わりはない。新型は大型ならずの論こそ、わい曲ではないか。 国鉄民営化と新幹線公害 【’86.11.11 朝刊 1頁 (全856字)】  今月1日からのダイヤ改定で、東海道・山陽新幹線が220キロ運転をはじめた。最高速度を10キロアップしたことで、東京―新大阪間は2時間56分に、東京―博多間は5時間57分になった▼東海道線が開通した明治22年、新橋から御殿場線経由で大阪まで行くのに18時間52分もかかったことを思うと、まさに隔世の感がある。10時間の壁を破ったのは昭和5年の特急「燕(つばめ)」の8時間20分。9年には丹那トンネル経由の「つばめ」がこれをさらに20分短縮した▼100円ではなくて、98円の値札で消費者のこころを引きつけるように、航空機と競争している国鉄としては、3時間の壁突破をセールスポイントにしたいところだろう。だが、心配なのは公害だ。10キロアップで騒音は、1、2ホンは上がるといわれる▼パンタグラフの改良とレールをみがくことで克服ずみ、と国鉄は説明している。しかし、それは騒音の上昇分を抑えたにすぎない。問題は昨年秋に環境庁が出した75ホンの暫定目標値が達成できるかどうかである。しかも、住宅密集地の連続する地域については「5年以内」の期限までつけられている▼そんな地域が東京―博多間1100キロのうち、180キロもあるそうだ。国鉄によれば、うち40キロについて61年度中に防音壁の改良工事などを施すことにしている。残りは62年度以降、ということになる。東北・上越新幹線についても、対策はとても十分とはいえない▼政府案が通れば、国鉄は来年4月から分割・民営化される。では、新幹線の公害対策を引き継ぐのは、新会社なのか、あるいは、新幹線保有機構なのか。参院での国鉄審議では、そのいずれにしても十分な公害対策が今後も行われることを政府に確約してもらいたい▼それは、ことし3月の名古屋新幹線公害訴訟の和解に際しての約束だったはずだ。環境対策という忘れものをしては、改革とはいえまい。 劇場から消えるチャプリンの笑い 【’86.11.12 朝刊 1頁 (全837字)】  さきごろ東京、大阪などで、チャプリンの映画のお別れ上映会があった▼映画の配給権は、1972年に東宝東和が取った。当初は「モダン・タイムス」などが大当たりしたので、3年後に10年契約に更新した。しかし最近は、もうひとつ若者に人気が出ない。映画も若者を動員しなければ成功しない時代だから、契約はこれで切れることになった▼近ごろは笑いの質が変わったようだ。NHK世論調査部の調べによると、テレビで放送される笑いを26種に分け、その中から好きなものをあげてもらったら、16歳から24歳の年齢層では、トップは「プロ野球など、珍プレーを集めた笑い」だった。エラー、ポカ、死球などの場面をビデオで再生し、スローモーションにしたりして見せるものだ▼2番目には「テレビ本番中の失敗場面を集めた笑い」がくる。せりふを忘れたり、とちったりの、これまた出演者のしくじりをわざわざ見せるものだ。3番目に「都会的でしゃれたコメディーの笑い」がきて、やっと笑いの正統派を思わせる▼おとなはどんな笑いを好むのか。ちなみに40歳から59歳までを見ると、一番には「人情味あふれるほのぼのとした笑い」があがるが、2番目には「珍プレー集」がくる。3番目は「動物のしぐさや子どもの無邪気さがもたらす笑い」である▼チャプリンの笑いをサマセット・モームは、悲しみに裏打ちされたユーモアだといったそうだ。泣き笑いとも、笑い泣きともいえるものだろう。ドタバタや風刺の裏に、人間の弱さに寄せる思いやりがある▼もともとこれは、日本人の笑いではなかったか。落語にはこの手が多いし、人情劇は喜劇の主流でもあった。他人の失敗、弱み、痛みなどを笑うのとはわけがちがう▼チョビひげ、山高帽、だぶだぶズボンの、あの喜劇王の姿は、これで劇場からは消えたようだ。さよならチャプリンの時代なのだろう。 目立つ過激派の無法行為 【’86.11.13 朝刊 1頁 (全853字)】  俗に5流22派、といわれる。華道や茶道の話ではない。過激派、警察用語でいえば「極左暴力集団」のことだ。中でも中核派など3派が翼付き弾を撃ち込むなど、このところ目立った無法行為を繰り返している▼千葉市の国鉄本社秘書課長宅が放火されて全焼し、奥さんがやけどを負った。残された発火装置の破片から、これも過激派の犯行であることは間違いないようだ。彼ら流の、これが国鉄分割・民営化反対闘争ということか▼千葉では昨年11月にも国鉄幹部の宿舎が放火され母親が大けがをしている。ことし9月には運輸省航空局の職員宅が焼き打ちにあった。明らかなことは、「国鉄」と「成田」に的をしぼった過激派が、個人テロ、無差別攻撃へと、暴走を始めていることだ。先月には圧力ガマを改造した強力な新型爆弾が押収されるなど、武器も凶悪化の一途にある▼「優勢な敵に対して自己を保存し、敵を消滅する」には、テロとゲリラが最も効果的戦術であるらしい。そんな彼らには、たとえ異論があっても国鉄改革の行方を国会にゆだねようとする市民さえ、敵に映るのだろう。そうでなければ家族のいる私宅に火をつけたりすまい▼グループも高齢化しているそうだ。3万5000人といわれる過激派の8割は35歳から40歳近い社会人で、学生は2割にすぎない。15年前とその割合は逆転した。それだけ、「闘争歴」の長い確信犯が多い、ということだろう▼社会人過激派の大半は、「人民の海」と呼ぶ大都会にいる。サラリーマンを装い、アパートの家賃はきちんと払い、他人から部屋の中をのぞかれるのを好まない。これは身の回りにいる、ごくふつうの会社員の姿だ。こちらがへたにせんさくすれば、お隣と気まずいことになる▼この社会から孤立し、次の標的をねらってひそかに爆弾や時限発火装置づくりにいそしむ姿は、想像するだにおぞましい。いまは警察の捜査能力が問われている。 読者つかむ「井上成美」の評伝 【’86.11.14 朝刊 1頁 (全854字)】  井上成美を描いた本が、よく読まれている。4年前、初めて伝記が出るまでは、さほど世に知られなかった。そのあと2冊の評伝が発表され、最新の阿川弘之氏の長編『井上成美』(新潮社)もすでに9万人の読者を得たそうだ▼昭和50年に86歳で亡くなった井上は、敗戦までを海軍の軍人として生きた。その間、少なくとも3回、特記すべきことがらがある。まず昭和7年、海軍省の課長のとき。「有事即応の態勢をとるため」に立案された軍令部条例の改定に、「戦争につながる危険がある」と真っ向から反対した▼軍務局長時代には、日独伊三国軍事同盟の締結阻止に全力を注いだ。そして昭和19年、海軍次官としてひそかに終戦工作に従う。けれども翌20年、敗戦の3カ月前、職を解かれた▼数理、情報を重んじた。「百発百中の砲一門は百発一中の敵砲百門に対抗できる、との思想を批判せよ」という問題を海軍大学校で出したことがある。この「思想」は、戦前、神格化された存在だった東郷平八郎元帥の、有名な訓示の1節だ▼自由という概念とはおよそかけ離れた軍の組織の中に、このような知性と実行力の持ち主が、存在していた。ただ、かつての同輩の1人は「天子様よりも庶民の方を重くみる者の伝記なんぞ読まんっ」と横を向いた▼ある雑誌に30代の会社員の井上観が紹介されていた。「体を張っていた男の緊張感、1つの確固たる意見を持った男の生きざまに引かれますね」。別のビジネス雑誌では、「海軍式マネジメント」特集に登場した。なにごとも経営論、会社処世術に結びつける発想法だが、読まれている理由は、これだけではあるまい▼気がかりなことの多い「いま」という時代。国際的視野、先見性に富んでいた井上がいたならば、日本の進む道をどんなふうに語るだろう。その思いを、現実の政治や経済の進んでいる道と重ね合わせてみる読者もまた、少なからずいるのだと思う。 政治倫理問題を忘れた国会 【’86.11.15 朝刊 1頁 (全843字)】  先日国会議事堂の通用門の前を通りかかったら、大きなふろしき包みが置いてあった。死んだ東京ぼん太が背負っていたような、濃緑の地に唐草模様のふろしきである▼包みを開けたら「政治倫理」がゴロゴロ転がりだした。というのは夢の中の話だが、今度の国会で政治倫理問題が表舞台に出て来ないのは、どういうわけだろう。野党は13日から、減税要求と老人保健法案をからめて審議をストップしているが、忘れ物があるよ、といいたい▼ロッキード事件で収賄の罪に問われた佐藤孝行代議士が上告を取り下げ、有罪が確定したのは、7月の同日選挙直後だった。社会、公明、民社3党は同月末、衆院の政治倫理審査会に審査開始の申し立てをしているが、自民党は知らぬ顔だ▼国会の消息通の話によると、野党側は決して忘れたわけではなく、数少ない切り札だから効果的に使おうとして、チャンスをうかがっているのだそうだ。ところが、自民党からは「思いのほか野党さんの要求は迫力ないなあ」なんて声が聞こえてくる▼野党としては、審査にかけても実際に可能な「処分」は、せいぜい一定期間の登院自粛勧告くらいなので、力が入らないという事情もあるようだ。しかし、数の力を背景に政治責任をうやむやにしようとするのを、見逃してよいわけはない▼もともと政治倫理審査会は、ロッキード事件の政治家被告たちが政治責任を取ろうとしないことから、最低限のけじめをつけるためにつくられた機関だ。登院自粛ぐらいでは最低限にも及ばないという見方もあるが、何もしなかった国会が姿勢を改めることは、意味がある▼来年2月ごろには田中元首相の2審判決も予想されている。すでに有罪が確定した佐藤代議士を不問にしたら、田中判決の際に国会はどう対処するのだろう。自民党も政治の名誉を考えるときではないか▼減税も結構だが、ときにはカネより大事なものがある。 中、高校生の封建的な上下関係 【’86.11.16 朝刊 1頁 (全862字)】  中、高校生の間で、上の世代をこう呼ぶのがはやっているそうだ。20―24歳がアダルト、25―29歳はオジン・オバン。30―34歳に対しては、さらに厳しく「ご先祖さま」▼35―39歳の層はボセキ、つまり「墓石」と突き放され、40歳から上は全部まとめて「化石」で片付けられる。ニヤリ、あ然、感想はさまざまだろうが、それなりに世の中の空気を伝えて、若者らしい明快さがある▼ただ、自分たちのことになると、彼らもやはり、惑い、たじろぐ。中、高校生活では、運動を中心とした部活動のあれこれが、悩みの少なからぬ部分を占めているらしい。全国PTA問題研究会の会報の最新号が、生徒や父母、先生の声を集めて特集を組んでいる▼問題が多い中で、先輩・後輩の「意味もなく封建的な上下関係」が、ひときわ気になった。ある母親が驚きを語る。「中2の娘と買い物をしていて、中1の生徒に出会ったら、相手がまるでコメツキバッタのようにお辞儀するの。まず最敬礼、それも異様に深々と頭を下げて。それをすれ違うまでに3回もした」。先輩が3人いたら、チワース、チワース、チワースと1人に3回、合計9回あいさつしなければならない▼中1の母親の方は「娘と歩くと、いつもオドオドしている。先輩に気付かず、あいさつしなかったら、あとで呼ばれていじめられるんです」。東京都中野区の中学生の作文集にも「言葉遣いや態度に気をつけて先輩に接しないと、にらまれる。先輩に接するときは、緊張で顔も見れない」という1節があった▼なぜ、そうなったのか。いくつか分析ができないわけではないが、そんなことより生徒諸君、単純にいって、この風習は不自然で、異常だよ。「先輩」が率先して、若者らしく、きっぱりやめるべきだと思う▼アダルトやオジン・オバンになれば、いやでも経験しなければならないことがらが、ある。急ぐことはない。と、これは「化石」からの忠告です。 インスタントラーメン 【’86.11.17 朝刊 1頁 (全840字)】  戦後、私たちの食習慣を大幅に変えたものをただ1つ挙げるとすれば、インスタントラーメンではないだろうか。3分間が待ち時間の代名詞となるほど、この簡便さはうけ、さらには生活全般へと広がってインスタント時代を生む▼この画期的食品は昭和33年に誕生した。日本即席食品工業協会というところの統計によると、当初の生産量は年間1300万食だったが、昨年は46億食になった。300数十倍の伸びだ。国民1人が月に3食以上は食べている勘定になる▼手ぬき料理の見本のようにいわれ、おふくろの味を“ふくろの味”に変えた張本人と批判されることも多いけれど、この急成長は、食品では他に例がない。いまでも月に何十種と新製品が出る▼便利さを最も大きなねらいとしたはずのこの食品に最近、ちょっと変わった現象が起きた。待ち時間をさらに短縮した2分もの、1分ものがほとんど姿を消したのだ。一時は販売合戦の主流になるかに見えたが、2、3年のいのちだった。それほど味が落ちたわけでもないのに、と業界では首をひねる▼その一方で、同じ3分間ものでもカップめんの伸びはめざましい。袋めんから13年も遅れて世に出ながら、いまや追いぬく寸前まできている。こちらは文字通りお湯をそそぐだけ。どんぶりもいらないから後片づけもない▼私たちの求めている便利さは、どうやら手間を省くことにあるようだ。時間でいえば、インスタントとはぎりぎり3分間のことで、それ以下だと、早すぎて忙しすぎる。素っ気なさが残るのかもしれない▼こんな話を『忙し母さんの手ぬき料理』を書いた料理研究家の坂本広子さんにしたら、坂本さんは「うしろめたさの裏返しですよ」といった。便利さ一点張りの食生活に、私たちの心はどこかでうずいているのだそうだ。つけ加えてこうもいった。「うしろめたさがあるうちは、まだ健全かもしれませんね」 重度身体障害者の「愛と和の家」 【’86.11.18 朝刊 1頁 (全843字)】  東京・武蔵野市の木造アパートの一角に「重度身体障害者共同生活寮を作る会・愛と和の家」が生まれたのは5年半前である。脳性マヒのため言葉も手足も不自由な市内の女性6人が、一緒に助け合って暮らすことを願って始めた▼親が元気なうちは、面倒も見てもらえる。だが、いつか別離のときがくる。そうなると、別れ別れにどこかの療護施設に入るしかない。やはり友だちや知人のいる土地で、暮らし続けたい▼それには、身の回りのことも、できる限りは自分たちでしなくてはならない。その準備をしようと、毎日集まって食事や革細工などの軽い手仕事をする場を作ったのである▼話を聞いた主婦、大学・高校生、労組の有志といった幅広い人々がボランティアで力を貸してくれた。仲間入りする障害者も12人に増え、寮の資金づくりも徐々に進んでいる▼しかし、最初からのメンバーの矢崎節子さん(56)には、ついに願いはかなわなかった。ずっと2人暮らしで世話をしてくれていた79歳のお母さんが、事故で大けがをしてしまった。ボランティアの女性が交代で泊まり込んでしのいだものの、結局、山梨県の療護施設に引き取られることになった▼16日、「愛と和の家」は、近くの小公園で「愛あいまつり」と名づけた催しをした。各種バザーのほか、中央の舞台で大学生グループが音楽の演奏や落語を披露した。地域の人たちとのつながりを深めるための企画である。同時に、矢崎さんをにぎやかに送り出してあげよう、との気持ちがこめられていた▼最後に『好きな街』という歌が発表された。矢崎さんが詩を書き、大学生の1人がこの日のために作曲した。「この街、好きな街。私が大きくなった街。母がいる、友がいる、恋しい街。私の願い、この街で、いつまでも暮らしたい」▼ポップロック調の、とびきり明るいメロディーを、みんなは繰り返し繰り返し、歌い続けた。 世界を驚かせた金日成主席暗殺説 【’86.11.19 朝刊 1頁 (全824字)】  世界を驚かせた金日成主席暗殺説は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問したバトムンフ・モンゴル人民革命党書記長の出迎えに本人が平壌空港に顔を見せたため、立ち消えになった。終わってみれば情報がマスコミをおどらせ、マスコミが読者・視聴者を振り回した一昼夜だった▼騒ぎの発端は、休戦ライン付近の北朝鮮の放送が金主席死亡を伝え、北側の建物に半旗が掲げられたという情報だ。東西を問わず、国家元首などの死に際して半旗を掲げる習慣があるが、上意下達が徹底している社会主義国の場合、とりわけ厳格に行われる▼正式発表がなくても半旗から、指導者身辺の異変を察知できはしまいか、と新聞記者は考えるし、他の情報関係者もそうなのだろう。毛沢東主席、周恩来首相らの晩年に北京で勤務した同僚によると、ひまがあれば天安門広場や要人居住区・中南海へドライブし、国旗が半旗になっていないかどうかを確かめたそうだ▼かつてソ連や中国では、指導者の動静は秘密のベールに包まれていた。そこで半旗に限らず、公式報道の細部や外国から特に招かれた医師、輸入薬品の種類までを推理の材料にしたものだ。クレムリンの内情を推測するのがクレムリノロジーだが、同じ意味でのペキノロジー、ピョンヤノロジーもまだ廃れていない▼今回は、推測がカラ振りに終わった。だが、外部で盛んに流れる最高指導者の死亡説に知らぬ顔というのも、考えてみればおかしな話だ。情報はできるだけ公開されるのが望ましい。同時に、堂々とガラス張りにできる環境が早く朝鮮半島に生まれるように、近隣諸国も知恵を出し合うべきだろう▼暗殺説はケリがついたようだが、まだ疑問はある。韓国側が聞いたという北からの放送はなんだったのか。本当に半旗だったのか。騒ぎ過ぎはいけないと自戒しながらも、なんとなく割り切れない。 子どもに「遊び」を 【’86.11.20 朝刊 1頁 (全843字)】  「むかしは良かった」「このごろの若い者は」というのは、年配者の2大決まり文句だが、いまの子どもたちも同じことをいいたいのではないか。「このごろの大人は、親も先生も、勉強ばかり強制する。むかしは良かったのだなぁ」と▼京大教育学部の藤本浩之輔助教授が、明治育ちのお年寄り35人からの聞き書きをまとめた『明治の子ども・遊びと暮らし』を読んで、そんな気がした。「勉強ちゅうたって、読本、算術、修身、習字、唱歌よりあらしません」「学校でも、無理に勉強さされるいうことは、あまりありませんでしたな」。というわけで、子どもはせっせと遊ぶことができた▼むろん、学校で勉強させるよりも、子どもに家事や農作業を手伝わせるのに重きがおかれていた時代である。子どもは、その合間を縫って遊んだ。末の妹のお守りを弟に押し付けて勝手に遊びに行き、泣いたら呼びにこさせた、といった思い出が、いかにも楽しそうに語られている▼遊び道具も、遊び方も出来合いのものは少なかったから、みな自分たちで工夫した。何もないから、逆に何にでも好奇心がわき、面白かった、という感じだ。いまは、これでもか、これでもかと遊びが商品化して売り浴びせられる。テレビで何でもかんでも見せられてしまう。勉強、勉強の重圧もさることながら、遊びに主体性が許されない▼8月の日本教育学会で広島大の森楙(しげる)教授らのグループが発表した研究だと、遊び能力と学習能力とは比例しているという。小学校高学年を対象に調べた結果だが、6年生では「遊び能力は低いが、学習面では高い位置にいる」子は1人もいなかった。そして、遊び能力とは、子どもを自由にさせるところで育つものである▼遊びを奪って勉強ばかりさせ、しかも本当には勉強もできない子どもたちをつくっている。もしそうだとしたら「このごろの大人たち」は、どうかしている。 故島尾敏雄さんとヤポネシア論 【’86.11.21 朝刊 1頁 (全843字)】  私ごとで恐縮だが、夏休みが大幅にずれて、今ごろになってのこのこと南太平洋の島へ行って来た。新聞もラジオもテレビもないところで、毎日、海を眺めて過ごした。ふぬけになるんじゃないかと同僚に心配されたが、案の定、海ぼけ、時差ぼけ、暑さぼけである▼帰国して、たまった新聞を読みながら、作家島尾敏雄さんが亡くなったことを知った。偶然の一致だが、海を見、礁湖にもぐりながら一度ならず、島尾さんの南島文化への想念を思いだしていたのだ▼島尾さんには、雑誌の対談で一度だけお会いしたことがある。南島文化を語った時の海のような深い目がなつかしい。あのころ島尾さんには、本土文化に対する絶望的な危機感があったように思う▼効率や勤勉や管理だけがすばらしいものとされ、生き馬の目を抜くすばしこさや追いつき追い越せの心情が支配的で、同じような顔つきのものが、一本調子のことばで話しあっている社会、そういう硬直した社会を見つめながら、肩のぐりぐりをやわらかくもみほぐしてくれるのは「南」の文化だと島尾さんは主張していた▼南の文化とは何か。太平洋の地図をひろげると、ミクロネシアがある。ポリネシアがある。メラネシアがある。琉球弧(島尾流にいえばヤポネシア)がある▼それらの島々に共通する、のびやかで闊達(かったつ)な文化が、歴史以前の日本文化の古層にあるはずだ。私たちの生活の根っこにはたぶん南の文化とのかかわりがあるはずだ。それを底の底まで掘り起こす作業をしないと日本全体をつかまえることができない、というのがヤポネシア論だった▼琉球弧には「もうわれわれには見失われてしまった『生命のおどろきに対するみずみずしい感覚』をまだうそのように残している」島々がある、という主張は魅力的だ▼しかし現実には、琉球弧を含めて、太平洋の島々の文化は恐ろしい勢いで日々、破壊されている。 間接税導入か選挙公約か 【’86.11.22 朝刊 1頁 (全863字)】  世間には山中ファンと称する人がいる。あの、自民党税制調査会の会長、山中貞則氏のことだ。なにしろ「私をライバルと思う人はいるかもしれんが、私自身はライバルだと思う人はいない」といってのける人である▼アクの強さでは定評があるご仁だが、胸のすくような発言もしばしばある。通産相時代、武器輸出問題で「日本を武器を輸出する国にしないというのが私の信念だ。政治生命をかけても子孫のために未来永劫(えいごう)、これを許さない」と大みえを切った。中曽根首相のことを「まだこりないのか、このおしゃべり野郎」ときめつけている▼その言動から推して、大型間接税を新型とか日本型とかいいかえてごまかすような小細工は、政治生命をかけても許さない剛直な人であるに違いない。と思っていたら、新型間接税はやむをえないといわんばかりの談話があった。これは一体、どうしたことだろう▼「公約の減税は死にもの狂いでやる」とも、山中さんはいう。結構である。だが同時に、公約の「大型間接税導入せず」も死にもの狂いで守ってもらいたい、というのが世間の熱い期待ではないだろうか▼大型間接税を導入せずに大型減税を断行するのは難しいことかもしれない。その難しいことを首相がいともあっさりと公約してしまったのだ。軽々しく公約したものでも、一国の宰相の公約は重い▼党税調の結論は(1)公約を守って、大型(新型・日本型)間接税を見送る(2)公約に背いて大型間接税を導入する、のどちらかになる。(2)の公約違反の道を歩むなら、それは首相ののど元にあいくちを突きつけることになる。「おしゃべり野郎」としかり飛ばしたくらいで、こと終われりというわけにはいかない▼井出一太郎さんが歌っている。「政治生命賭くると言ひて成らざるも責問はれざる政治の世界」。首相は「政治生命をかけて」とはいわなかった。だが、選挙中の公約には当然、政治生命がかかっている。 繰り返される噴火 【’86.11.23 朝刊 1頁 (全843字)】  伊豆大島を脱出する時、なにを持ってきたかという問いに位牌(いはい)と答えた人が多かった。着のみ着のままでも位牌だけは忘れない、という気持ちはわかる▼置いてきたもので心にかかるものは、ひもにつないできた犬、あるいはネコ、あるいは乳牛だという。ほっておくと牛が乳房炎になる、と心配する人がいた。ぶじ脱出はできても、いつ島に戻れるのかという不安は続く▼大島の元町は、溶岩流にのみこまれるところだった。流れは途中で大幅にスピードを落としたが、歴史を調べると、この一帯は六百数十年前の大噴火でいちど埋没したところなのだ▼いまの元町は、その災害後に生まれた村である。だから、六百数十年前に元町地域を襲ったような噴火が「将来ないとはいえない」と予言する学者もいた▼そういう危険な場所であっても、根を張って、生きなければならない。火山列島に住む私たちは、多かれ少なかれ地震噴火の災害と紙一重のところに生きているということを、実感した▼大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、出雲では大国主命と呼ばれる神は、火の神でもあった、という説がある。古代の人びとは、闇(やみ)を裂く巨大な赤い川に恐れおののきながら、そこに神の姿、神の怒りの姿をみたのだろう。土地の人びとにはまことに申し訳ない話だが、写真でみる巨大な炎は恐ろしくて、美しい▼昔の人びとは、神の怒りに恐れおののいていただけではなかった。火山は災害をもたらすだけではなく、たとえば火山活動にともなう降灰が島に生命のもとになる土を造ってくれることを知っていた▼中村一明東大教授によると、伊豆大島では百数十年ごとに、巨大噴火が周期的に起こってきたそうだ(『火山の話』)。今回の大噴火もおおざっぱにいえばその周期を刻んだものであるらしい。噴火はこれからも繰り返されるだろう。だが、人びとは位牌をしかと持って、島に帰る。 ララ物資 【’86.11.24 朝刊 1頁 (全854字)】  敗戦直後の日本人にとって、アメリカはまず第1にジープであり、第2にコーラであり、そして第3にララ物資であった▼ララ物資、つまり公認のアジア救済団体の名で毎年海を渡ってきた食糧や衣類は、約1500万人の日本人の生活をうるおした。栄養失調に直面する人びとにとって、ララ物資は力強い支えだった。衣料800万着分、靴26万足、鉛筆14万本、という資料もある▼この一大救援運動の発案者は一体だれだったのか。上坂冬子さんが『中央公論』12月号に「焼け跡の日本を救ったララ物資の生みの親」と題する一文を寄せている。生みの親はサンフランシスコに住む日系人たちだった▼運動の指導者だった浅野七之助さんは、91歳になる。「だれが生みの親であろうと一向にかまわんようなものですが、救援活動に協力してくれた日系人たちが埋もれたままになっているのを見過ごすわけにいかんのです」。そう上坂さんに語っている▼米国内の強制収容所を出たばかりの日系人たちが豊かなはずはなかった。だが「日本には、厳寒を控えて衣類もなく、飢餓線上をさまよう者の数が知れない」という情報をえて浅野さんたちは奔走した▼当時のカネでまず1000万円に相当する物資を集めた。その熱意が、米人側を動かしたらしい。やがて公認の救援機関が生まれた。ララ物資は、日米をつなぐ友愛の橋でもあった▼浅野さんは、サンフランシスコで『日米時事』を創立し、長い間朝日新聞の通信員でもあった。にもかかわらず、筆者は浅野さんたちの日本人救援の苦労を知ることが少なかった。恥ずかしい話だ▼いま、飽食の時代にあって、人は焼け跡のころに助けられたことを忘れがちだ。当時、とぼしい日当の中からカネを寄せた多くの在米日系人がいたこと、たくさんのアメリカの団体や中南米の人びとが力を合わせてくれたこと、そういうことの数々を、ララ物資の名と共に忘れてはならぬ。 全盲の女性と冬のバラ 【’86.11.25 朝刊 1頁 (全847字)】  大阪市の団地に住む岩田美津子さん(34)は、ベランダに出るとしゃがみこみ、手さぐりで鉢植えのバラに触る。バラは3本ある。下から上へそおっと触って、つぼみがふくらんで来たかどうかを確かめる▼点訳絵本の仕事をしている岩田さんは全盲の人だ。小さいころからバラが好きだった。でも、このごろの切り花用のバラは香りが薄くなった。花作りが、見ばえのする色と形を追い、香りを切り捨てたためだろうか。香りの薄いバラを部屋に飾っても楽しくない、という岩田さんの嘆きを本欄で紹介したことがある▼それを読んだバラの育種家、鈴木省三さんが苗木3本を贈った。「芳純」という名のバラだ。水をやり、肥料をやって、岩田さんは育てた。育種の大家が気品のある香りを求めて作ったものだけに、すばらしい香りだった▼あまあいけれども、きつくはなく、やわらかく人の心を包む。何よりも、子どものころのなつかしいバラの香りがあった。「これやったんやあ」と岩田さんは叫んだ▼5月から9月までに35の花が開いた。もう終わりかと思っていたら、10月に入って新芽がでてきた。「バラが今ごろ咲くなんて知りませんでした。春や夏のバラのつぼみは、開きかけたらさっと開きますが、立冬をすぎてから咲くバラは、ほころんでから何日もかかって、開くんですね。長い間ベランダにいて、その様子を楽しんでいます」と岩田さんは電話口でいった▼秋のバラというのか、冬のバラというのか、数日前、その最初の1輪が咲いた。やはり、いい香りだった。「味わうことのできなかった楽しみをいただきました」▼つけ加えておきたい。岩田さんは、2人のわが子に読みきかせるためにボランティアの人に点訳の絵本を作ってもらった。子が喜ぶさまを知って、全盲の母親のために点訳絵本を貸し出す家庭文庫を思いついた。完成した点訳絵本はちょうど1000冊になっている。 国家秘密法案の制定めぐる「右へならえ」式 【’86.11.26 朝刊 1頁 (全845字)】  公明党の竹入義勝氏がこの春渡米してワインバーガー国防長官に会った時のことだ。「日本がSDIに参加する条件として、米国は新たな秘密保護協定を求めるのか」とただした▼長官は「その必要はない」と答えた。さらに「米側から提供した軍事秘密に関し日本は今までも秘密保護の面で実績がある」とも答えた▼国家秘密法案の問題を考えるとき、この問答は考慮にいれておいた方がいい。「スパイ天国」の名に反して、ワインバーガー氏は、日本では軍事秘密はよく守られている、といっているのだ▼国家秘密法制定を求める動きは、いぜんとして強い。その1つの根拠は「多くの地方議会が制定促進の決議をしている」ことだという。だが、審議のさいに「防衛秘密の保持は現行法制で十分」という意見に、どれほど真剣に耳を傾けたことだろう▼本社全国調査によると、地方議会の動きには驚くことが少なくない。(1)社共のケンカで、反対決議案が否決になった市議会がある。共産党は「国家機密法」という言い方をし、社会党は「秘密法」にせよといってもめた末のこと、というからあきれる▼(2)促進陳情を採択した村の村長が今になって「採択はたくさんあるから賛成、反対のどっちだったかな」といっているそうだ。なんとまあ、と驚くほかはない▼(3)中央組織のスパイ防止法制定促進国民会議は、勝共連合の音頭取りで設立されたという。県の促進県民会議と勝共連合県本部が同居している所もあった▼(4)「よその議会が促進の意見書を採択したから」という空気もあったらしい。逆に「同じ郡内でどこもやっていないから」といい、そろって採択を見合わせた地区もあった▼国家秘密法案の中身も恐ろしいが、この「右へならえ」式の体質も恐ろしい。いや、「右へならえ」式の体質が生きているからこそ、国家秘密法の制定は恐ろしい結果を生む、といえるかもしれない。 予知連も「肩の力を抜いて」安全予想を 【’86.11.27 朝刊 1頁 (全863字)】  ある集まりで佐々木信也さんの話をきいた。プロ野球解説でおなじみのあの佐々木さんだ。グラウンドでも会話のキャッチボールが行われているという話がおもしろかった▼広島の川口投手が無死満塁のピンチにあえいでいた。遊撃の高橋が近寄ってささやいた。「お前なんかちっとも信頼してないぞ。はやく打たれちまえ」▼川口は苦笑したが、その一言ですうっと力みが消えたそうだ。楽な気持ちになって投げ、たちまち打者を討ち取って無得点に抑えた。広島の強さの1つは、そういう味のある会話のキャッチボールがあることだ、と佐々木さんはいう▼三原山の観測にあたる火山噴火予知連絡会も、無死満塁を迎えた投手のように、ちょっと力が入りすぎているようだ。噴火前に「数カ月か数年先だろう」と予想を誤った。またここで見通しを誤ったら、と慎重になりすぎているのではないか。こういう時に「どうせ信頼してないんだ。本音で勝負してくれ」といったら、肩の力を抜いてくれるだろうか▼信頼していない、といっては語弊があるが、予想は確率の問題として考えたい。100%確実な予想などはありえない。投手が打たれるか抑えるか、これは確率の問題だし、安全予想も確率の問題だ。100%安全ということはありえないし、100%危険ということもありえない。もし100%安全の日を待ったら、帰島の機会はないだろう▼私たちは、火山や地震とうまくつきあう工夫を重ねてきた。なにをしでかすかわからない何とも困った相手だし、人びとが島に帰ったとたん、また怒り出すかもしれない。だが、島に生まれ、島を愛する人びとはなにがしかの危険にぶつかりながらも三原山とうまくつきあう道を選びたがっているのではないか▼学者も行政官も逃げ腰にならず、お年寄りや病弱な人たちを除く住民が島に帰れることを考えるべき時期に来ている。むろん、いざという時の避難対策を十二分に準備した上での話だが。 地価高騰は土地政策の貧弱さ 【’86.11.28 朝刊 1頁 (全856字)】  大企業の首脳が日本の地価がバカ高いことに腹を立てている。「土地が坪1億円もする国なんて、世界中どこを探してもない。土地政策の貧弱さということもあるが、決して自慢できることじゃありません」と怒っているのは、三菱商事前会長の田部文一郎氏である▼日本人が金持ちになったといっても、それは土地の問題などがあって、実力以上に表に現れているにすぎない。「天下の三菱商事の会長だ、なんて威張ったところで、私の住んでいる家などは、欧米の人の家に比べればちっぽけなものです」といい、土地政策に注文をつけている。『トップ経営者が明かすサバイバル戦略(1)』にでてくる主張だ▼このシリーズの(2)では、三井物産会長の八尋俊邦氏がやはり、地価高騰を嘆き、三井不動産社長の坪井東氏は、国有地とか国鉄用地とかが売りに出されると、非常に高い値段がつき、地価高騰の勢いに油を注ぐ、と訴えている▼まことにその通りだ。国鉄が3年前、一般競争入札によって約7億円で払い下げた用地があった。これが次々に転売され、37億円に化けていたという恐ろしい話があった▼国有地、国鉄用地の払い下げが地価高騰をあおり、それが家を求めるサラリーマンの首をしめている。にもかかわらず、政府や国鉄はあえてその愚を繰り返している。根本的な土地対策を政府はなぜサボっているのか。とまあ、土地の話になると当方もいささか「親のかたきでござる」といった気持ちになる▼加えて、低金利時代である。預貯金の金利が史上最低になって不安がつのるのに、住宅ローンの金利が一向に下がらないのは何としたことだろう。しかも公約に反して、マル優が廃止になり、大型間接税が堂々と導入されようとしている。こうなっては、私たちの中の閉塞(へいそく)感がますばかりだ▼きのう、一斉に発売された年末宝くじには長い列があった。「ひいき目に見てさへ寒きそぶり哉」(一茶) 「藪の中」の間接税導入 【’86.11.29 朝刊 1頁 (全858字)】  芥川竜之介に『藪(やぶ)の中』なる短編があった。さよう藪の中では大型も新型も日本型もごちゃごちゃになる▼閻魔(えんま)に問われたるカザミドリの話。さようでございます。「大型間接税を導入しない」と申したのはわたしに違いございません。わたしはなにしろ「死んだふり上手のカザミドリ」の異名をもつ男でございます。大型間接税に死んだふりをさせて選挙に勝つなぞは造作ないことです。マル優廃止も上手にごまかしました▼選挙公約をどう思っているか?  いえ、反省はしておりません。閻魔様の前ですが、選挙でだますなんて大したことではありません。だまされるほうの知識水準に問題があるのでございます▼閻魔に問われたる党税調の主の話。さようでございます。「しがねえ恋の情けがあだ、つらい幕引きをさせられるのかなあ」と口走りましたのは、わたしに違いございません▼大型間接税を日本型付加価値税といいくるめるほどいやな役目はありません。身の不運を嘆きつつ、国家のために泥をかぶろうとしていることにうそ偽りはございません▼閻魔に問われたる選挙中の党の大番頭の話。さようでございます。「政策問題で国民にうそをつくことがあってはならぬ。その時は私が首相と刺し違える」と申しましたのはわたしに違いございません。どう刺し違えるか? それこそハラ芸というものでございます▼閻魔に問われたる党内批判派の話。さようでございます。「公約がある以上、大型間接税を導入するな」と訴えているのは私どもに違いございません。もし導入されれば、選挙公約は大うそ、あの方は二枚舌どころか、何枚舌をお持ちか、差し出がましうございますが、それもご詮議(せんぎ)下さいまし▼閻魔に問われたる年金生活者の話。金利があてにならず、マル優も廃止され、間接税で物価が上がる、となればこれは一体だれの仕業でございましょう▼閻魔様はだれの舌を抜く? 11月のことば抄録 【’86.11.30 朝刊 1頁 (全858字)】  11月のことば抄録▼「問題はスタートすることじゃない。ゴールすることなんだ。私はそれをやった」。ベトナム戦で両足を失ったボブ・ウィーランドさん。腕の力だけでマラソンに挑み、4日間と2時間48分17秒でゴールに入った▼「日本国の勲章はぼくには似合いません。サイダーの王冠で結構です」。秋の叙勲の発表を横目でみて、作家の北杜夫さん▼「私がみてきた軍国主義時代の日本にはいまわしい側面しかなかった。一人ひとりは魅力的な民衆も、イデオロギーで目をくらまされた。そういう時代を美化しようとするのは危険なことです」。ロベール・ギランさんが知己の言▼「防衛計画の大綱の水準を達成すると、そこでおしまいだ。それ以上やったら平和憲法の枠を超える」と栗原防衛庁長官。本当、でしょうね▼「応援がうれしかった。沿道の観衆はすばらしかった」と、東京国際女子マラソンに優勝したモタ選手はなかなかの外交官だった。松田選手は、飲みものを取り損なったロー選手に飲みかけの自分の容器を手渡した。「規定違反なのよね。でもローさん、とってもほしそうだった。お互い様ですもの」▼「牛を見殺しにできない。これでお別れだ。何かあってもオレを捜すな。早く逃げろ」。伊豆大島脱出を拒んだ清水利一さんが妻に叫んだ。三原山噴火ではさまざまな別れが刻まれた▼閉山する高島礦では、最後の採炭員たちが酒と塩と米を持って入坑した。「切り羽(採掘現場)にまいてお清めをするとですよ」。たくさんの、つらい別れの瞬間があった▼「大きな『会社』だから心配していなかった。それなのに世の中が一番安定した時代に大きな荒波をかぶることになった」。国鉄を去る24歳の青年。分割・民営化法案が成立し、ここにも無数の別れがある▼「裁判所は人の痛みや苦しみをわかってほしい」。殺人犯の汚名を着せられ続けた那須隆さんのうめき声だ。国家賠償の請求をけられて。 オーストラリアの虫退治 【’86.12.1 朝刊 1頁 (全841字)】  五月蠅い(うるさい)という言葉があるように、初夏のハエはうっとうしい。気候が逆のオーストラリアは、これからがハエに悩まされる季節だ。首府キャンベラの邦人によると、白いシャツが黒く見えるほどたかることもあるという▼そんな具合だからハエの最盛期、キャンベラっ子たちは、しょっちゅう顔の前を手で払い払いしてハエを追わなければならない。相手がいるとき、このしぐさはずいぶん失礼なことになるのだが、ここではそんなことも言ってはいられない。「オーストラリア・サルート(あいさつ)」と呼ばれるゆえんだ▼そんなにハエが多いなら殺虫剤でパーッとやればいいのに、とつい思ってしまう。だが、オーストラリア人は違う。なるほど化学薬品だけに頼るのは簡単だ。しかし、それでは生態系全体が狂ってしまう心配がある。人体への影響だって無視できないし、化学薬品に免疫の新しいハエも出てくるかもしれない。オーストラリアの連邦科学産業研究機構(CSIRO)の科学者たちは、こう考えた▼ではどうするか。彼らは、ハエは動物のフンにタマゴを産むこと、ダン・ビートルズというこがねむしの一種に、このフンを食べる習性のあること、の2つに着目した。こうしてすでに10年、オーストラリアではダン・ビートルズをせっせとふやしてきた。一部にききめも表れてきたそうだ▼綿の葉を食いちらす虫退治も同じ発想だ。虫を皆殺しにすると、綿は助かるが他の害虫がはびこる。要は虫が綿の葉に近づかなければいいのだというわけで、まず「なぜ、この虫は綿の葉が好きか」を調べた。その結果にもとづいて、いまオーストラリアの科学者たちは、虫を退けるために綿の葉のにおいを変える、葉の裏をつるつるにする、という研究をしている▼いずれも簡単なことではあるまい。しかしここには、人間と自然が共存することへの、限りない共感がある。 師走に思う1年の「短さ」 【’86.12.2 朝刊 1頁 (全844字)】  師走になると日のひかりが白っぽくみえてくる。そのひかりが、万両の赤い実やピラカンサの朱色の実をあぶりだしている。ヒヨドリが鋭くひかりを裂く▼師走になると、空白だらけの日記帳を眺めながら、1年の短さを痛感する。1年前のツワブキの黄の花をみたのがついきのうのことに思える。年を重ねるに従って、時の流れがますますはやくなる▼1年の1を自分の年齢の数で割る。10歳なら10分の1になり、50歳なら50分の1になる。つまり1年がたつのは、10歳なら0.1で竹とんぼほどの速さだが、50歳になると0.02で新幹線みたいになる、というのが友人の説だ。これを人生体験累積説という▼これに、新しい体験の数々をかけあわせれば、一層、実感に近い数値がでてくるだろう。去年とほぼ同じの日々を送れば1年は短く、非日常的な体験が多ければ1年はより長い、ということになろうか▼世はなべてこともなく、多くの人が、ああ1年が短かったと思う。それはそれで天下太平、結構な話ではあるが、1日を迎え、送ることの思いが浅い、ということもあるだろう▼先日、東京・荒川の本行寺に山頭火の句碑が誕生した。松山市からかけつけた大山澄太んがこんな話をしたそうだ。山頭火が大山家に泊まると、翌朝、夫妻はいつも門口で見送る。だが山頭火は振り向いたことがない。「あれはさみしい」と大山さんがこぼした▼それをいってくれるな、と山頭火は答えた。「自分のようなこじき坊主にはあすの命もわからない。こんなに大事にしてくれて、小遣い銭までくれて、それなのにもしかしたらもう会えないかもしれぬと思うと、別れがつらくて泣き泣き歩いておるのだ。振り向いたり、手を振ったりする心のいとまもないのだ」と▼一期一会を大切にして生きるものの緊張感がここにはある。山頭火にとって、行脚の1年1年はそう短いものではなかったろう。 レーガン政権と武器供与・資金横流し事件報道 【’86.12.3 朝刊 1頁 (全840字)】  レーガン米大統領がマスメディアを非難して「今のように血に飢えたサメが泳ぎ回っているのを見たことがない」といっている。イランへの武器供与や秘密資金横流し事件についての報道がお気に召さないらしい▼つい数日前は、農業団体から七面鳥を贈られてごきげんだった。「ニカラグア反政府ゲリラへの横流しを本当に知らなかったのか」と記者団から追及されても「私が知っているのは、この七面鳥がおいしいということだけだ。七面鳥は食べられたいとは思っていないだろうけれど」とおどけていた▼66%の支持率が43%に急落したこともあったろう。大統領の責任が厳しく問われることへの反発が「サメ発言」になったのだろうか▼ニクソン大統領の陣営は記者団を「敵」とか「ヒル」とかいった。トルーマン大統領は、コラムニストのドルー・ピアソンを「あの野郎」とののしったが、同時にこうもいっている。「マスコミが私の悪口をいわなくなったら、私は自分がまちがった場所にいることがわかる」(ヘレン・トマス『ホワイトハウス発UPI』)▼サメであり、ヒルであり、あの野郎であっても、為政者と記者団の緊張関係があれば、民主主義は機能し、政権の誤りはただされるという信念がトルーマン氏にそういわせたのだろう▼禁輸政策を破ってイランへ武器を供給していたこと、加えて、イランから受け取った武器の代金が、いつのまにかニカラグア反政府右派ゲリラを助ける資金に化けていた、という事実がレーガン政権をあらしに包んだ▼大統領やリーガン首席補佐官はこの事実を本当に知らなかったのか。知らなかったとすれば、政権の構造に大きな欠陥があったことになる。サメやヒルの攻撃は当分、やみそうもない。米上院に調査特別委を設ける、ウォーターゲート事件と同じように特別検察官を設ける、という動きがある。この反応のすばやさはさすがだ。 沖縄の海の珊瑚が危機に 【’86.12.4 朝刊 1頁 (全859字)】  那覇市に住むNTT社員の吉嶺全二さん(51)は、週末になると海へもぐりに行く。7時間でも8時間でも泳ぎ、もぐる。もう二十数年間、もぐり続けている▼ウエットスーツを着、足びれを着けるが、いわゆる素もぐりである。真冬でも、もぐる。水の中で自由に体を動かしているのが楽しいという。相当な変わり者だが、山登りを趣味とする人がいるのだから、海もぐりの趣味があってもいいだろう▼たたみ3畳ほどのエイに会ったことがあるし、4メートルほどのサメにもよく出会う。でもね、沖縄のサメはおとなしいんですと吉嶺さんは気にしない▼昔、といっても十数年前の沖縄の海は淡い緑、淡い紅の珊瑚(さんご)でまばゆかった。目を射る色の魚が群れていた。それが、日本復帰のころからおかしくなった▼5年後、10年後、琉球列島の珊瑚は次々に死に、熱帯魚も消えていった。「こんなことってあるか」と怒りにかられてもぐるたびに、珊瑚の墓場はふえていった。沖縄の海の珊瑚はいま「全滅に近い」といっていいだろう▼復帰後、本土なみの開発事業が各地にひろまった。たとえば山を崩して谷を埋め、耕地を造る。その結果、雨が降れば大量の表土、赤土、化学肥料、農薬が海に流れだす。それが珊瑚という繊細な生き物を殺したのではないか。「いま沖縄の海は珊瑚を失ったという意味で限りなく『本土なみ』に近づいている」という吉嶺さんの訴えはかなしい▼ふしぎな話だが、琉球列島の中でも、石垣島の白保にだけは珊瑚が生き残っている、と海守の吉嶺さんは証言する。特殊な地理的条件が幸いしたのか、白保の海にはいまも、世界でも珍しい青珊瑚の大群落があり、まばゆい、魚わく海が残っている▼県は、ふつうなら「何がなんでもここは守る」というべきだろう。だが、わざわざねらい打ちするように、この守るべき海を埋め立て、石垣新空港を建設しようとしている。不可解、不条理な暴挙だ。 民族音楽を見直そう 【’86.12.5 朝刊 1頁 (全840字)】  忘年会シーズンになると、音痴はゆううつになる。国立歴史民俗博物館教授で民族音楽学者の小島美子さんによると、日本の唱歌世代の多くが自分は音痴だと思っているのは、明治以来の学校教育のせいだという▼学校の音楽教育はほとんど西洋音楽一辺倒だから、音階も発声もリズムも日本人が昔から身につけていたものとは違う。歌をうたうこと自体が不自然さを強いられることになる。自称音痴の人も、もし「せっせっせのよいよいよい」や「かごめかごめ」をうたわせたら、ごく自然にうたえるはずだ。小島さんにいわせると、わらべ歌や民謡は、日本人にとって最も自然な音楽表現ということになる▼そのわらべ歌や民謡が、田植え歌、舟歌、木やり歌、神楽、祭りばやしなどとともに、このところ急速に消えつつある。農業や山林業、漁業などが機械化し、それに伴って生活のしきたりが大きく様変わりしたためだろう。かろうじて生き残っていても、実は発声などがすっかり洋楽風に変わっていたりする▼文化庁は現在、国庫補助事業として全国民謡緊急調査をやっている。都道府県別に地元の研究者らの協力で古老からの録音や聞き取りを急いでいる▼音楽学者や芸能研究家らによる「日本民俗音楽学会」も近く生まれる。民俗音楽、つまりわらべ歌、民謡などはその国の伝統音楽、民族音楽の骨格をなすものだ。音楽は西洋音楽だけではないという認識が、少しずつ形になろうとしている▼近ごろはエスニック(民族)ブームである。料理、民芸、服飾などにファッションとして起こっている。音楽もその1つで、インド、中国、韓国、アフリカなどの民族音楽の演奏会がさかんに開かれ、若者の人気を集めている▼民族音楽には、西洋音楽的発想だけでは説明しきれないほど豊かな内容をもつものが多い。世界の音楽の半分は非ドレミファ音楽であることを、あらためて知らされる。 新型間接税は首相の「公約違反」 【’86.12.6 朝刊 1頁 (全842字)】  今年のヒット商品の1つに、レンズつきフィルムというのがあった。使い捨てのお手軽カメラである。たちどころに熱燗(あつかん)ができる缶入りのお酒もあった。ポケットにいれておいて歩きながらでも使える簡易ひげそり器もあり、即席の大辛カップラーメンもあった▼こういうヒット商品を買ったこともなく、手にふれたこともない筆者などはさしずめ「究極の旧人類」というところだろう。便利でお手軽な商品、使い捨て自由の商品がめだつのは、時代の要請であろうか▼新使い捨て時代にあって、ことばの使い捨てに習熟している中曽根首相には、新人類の資格がある。選挙中に使った公約も、選挙がすめばポイと捨てる。いともお手軽に捨て去る。うそをついてしまったという自戒、悔恨の様子はうかがえない▼自民党税調の山中会長でさえ「総理がうそをついたことは認める」と思わず口走るほどだ。売上税と称する新型間接税は、大型間接税と称するものでないなどというこじつけを、だれが信じよう。今ある間接税で、最も大きい酒税だって約2兆円である。約3兆円もの規模の間接税を大型といわずして、何を大型というのだろう▼「こういう公約違反をしては自民党全体がうそをついたことになる」と鯨岡兵輔氏たちが追及したが、確かにその通りだ。何かを「やります」と公約し、力及ばずできない場合も公約違反だが、何かを「やりません」といっておいて急変して「やる」ことになる公約違反は、より悪質だし恐ろしい▼加えて、選挙中多くの自民党員が公約した「マル優廃止せず」も、うそになった。「思い切った減税」の公約もむなしく、低所得層には増税になるらしい。不公平是正がむしろ不公平拡大になる▼かくも問題の多い税制改革を、政府・自民党はそれでも「やるしかない」のですか。もしやれば、それは自民党の総意にもとづくうそ、を実践することになる。 世界の軍事費、9000億ドルに 【’86.12.7 朝刊 1頁 (全847字)】  世界の軍事費が年間で9000億ドル以上に達した、という国際的な平和団体の報告があった。円になおして約144兆円。人類の業を証明するような数字だ。軍拡症にとりつかれた地球はまもなく軍事費1兆ドル時代を迎えるだろう▼手もとにいくつかの数字がある。〈その1〉第2次大戦後、民間人を含めて2100万人以上が戦争や武力紛争で死亡したそうだ。この数は、第2次大戦で死亡した軍人の数にほぼ匹敵するのではないか。ストックホルム国際平和研の年鑑にこんな言葉があった。「各国がイラン、イラクへの兵器輸出を管理する一致した行動をとっていれば、戦争はとうの昔に終わっていたに違いない」▼〈その2〉年間5億ドルあれば、とユニセフが訴えている。「ハシカ、破傷風、百日ぜきなどの予防接種をうけられずに死ぬ約300万人の子を救うことができるだろう」と。世界の軍事費の1800分の1を切りつめただけで300万人が救える、とわかっていても、それができない。兵器文明は幼い命を切り捨てる▼〈その3〉専門家は、軍事費の伸び率が加速ぎみだ、とみる。最近5年間の成長率は年率4.9%で、それ以前の5年間の年率1.6%をはるかに上回った▼〈その4〉第三世界の軍事費もふえ続けている。1人あたりの所得の低い国が、GNP比5%から10%、あるいはそれ以上の軍事費を負担し、重荷をふやしている。そして乳児死亡率のもっとも高い国43カ国は、保健のために、軍事費のわずか3分の1の予算しか使っていない▼米国の武器輸出にからむイラン・スキャンダルも、以上のような情勢の中で生まれた。25年前、アイゼンハワー米大統領はいっている。「軍産複合体が不当な勢力を獲得しないよう警戒しなければならない。この勢力が誤って台頭し、破滅的な力をふるう可能性は将来も存在し続けるだろう」。この戒めは当然、ソ連にもあてはまる。 戦争体験残したポーランドの子どもたち 【’86.12.8 朝刊 1頁 (全850字)】  グラフィックデザイナーの青木進々さんは、ポーランドのワルシャワを訪ねて目を奪われたことがあった。街角のあちこちの壁に刻まれた墓碑銘である▼お年寄りが、そこで銃殺された肉親のことを書いた墓碑銘に花束をささげ、道ゆく人と当時のことを語り合う、といった光景によく出あった。壁一面に弾丸の跡が残されたままの建物もあった。人びとはそのようにして、第2次大戦の歴史を胸に刻む作業を続けているように思えた▼特筆すべきことは、大戦後すぐポーランドの教育省が全国の小学生に戦争体験の絵と作文をかくよう呼びかけたことだ。6000点の絵と数百点の作文が今も現代史資料館にきちんと保存されている。ナチスの残虐行為や強制収容所のことを子どもたちはかいている▼この作品を日本に紹介したいという青木さんの、とりつかれたような悪戦苦闘がなかったら『子どもの目に映った戦争』という貴重な日本版画文集は出版されなかったろう▼本には、自分の母親が大木の前に立たされ、ドイツ兵に射殺される瞬間の絵がある。家の前に仁王立ちする兄さんが射殺されようとしている。こういう絵が、やすやすと書けるはずはない。筆はためらい、渋り、ひるみながらも、子どもたちは歴史を刻むつらい作業を続けたのだろう。「先生はどうして、こんなことをかかせるの。今でも泣けてくるのです」という小学2年生の叫びがあった▼アウシュビッツの体験を語るために来日したシマンスキさんは「最大の犠牲者は幼い子どもたちだった」といっている。初期のアウシュビッツでは子どもたちは全員殺された。さらに生体実験で殺された子もいたという▼生き残った子どもたちがためらいながらも記録をとどめたのは、大切なものを奪いつくした理不尽な力に対する憤りからだろう。きょう12月8日は、「日本の戦争」だけでなく、世界を襲った理不尽な力の根源を考える日でもありたい。 「群読」の勧め 【’86.12.9 朝刊 1頁 (全857字)】  「群読」ということばは手もとの辞書にはない。しかし演劇の世界ではかなり以前から使われている。1968年には、木下順二構成の〈平家物語による群読『知盛』〉という作品が生まれている▼数日前、木下さんにこんな話をきいた。「平家物語の語りの主体はまさに変幻自在です。源氏の陣中かと思うと平家の船に移る。人物の独白があれば、空から見おろすような描写がある。その変幻自在なさまを舞台で表すには複数の読み手が必要になり、群読という新しい形を生む必要があったのです」▼あの『子午線の祀り』の成功も、1つには群読という試みの成功でもあった。このごろは、小中学校でも群読を試みるところがふえてきた。それはそれで結構なことだが、どうも間違った方向に進んでいるらしい▼群読は、合唱や斉唱ではなく、シュプレヒコールでもない。たとえていえばそれは「雑草のうた」だと、演出家の酒井誠さんはいう▼エノコログサもある。アカマンマもある。カヤツリグサもある。それぞれが自立し、わざわざほかの草の姿に自分をあわせようとはせずに独自の葉や花をつけ、全体としてはたくましく、勢いのある「群れ」を造る。それが群読だ。逆に、斉唱はよく手入れされたチューリップの花園、といっていいだろう▼ところが、昨今の群読教育はむしろ個の自立を殺している。右向け右式に、命令一下ある型にあてはめる。形にとらわれ、声をそろえることに腐心する。「学校を訪ねては、そういう間違った動きをつぶして歩いています」と酒井さんは笑った▼あす10日、東京・有楽町の朝日ホールで山本安英の会主催の『群読とは――その解明の試み』が開かれる。群読のありようを世に問う初の試みだ。群読は新しい演劇の世界を切り開くだけではない。教育の場では、硬直した一斉主義教育をときほぐし、「個のない集団」にやいばを突きつける力をもつ。あえて群読教育のすすめを説きたい。 ビートたけしの講談社殴り込み事件 【’86.12.10 朝刊 1頁 (全842字)】  いまにして思えば昔の芸人はずいぶんむちゃくちゃだったと思う▼新婚初夜に廓(くるわ)にでかけてしまった落語家がいたとか、「女優だけには手を出すまじく候」と一札いれながら、散々、契約違反をやって退社した俳優がいたとか、100歳まで生きて、ふと手を引いてくれた女性のところへ夜ばいに行った芸人がいたとか、そういう話を本で読むと、いまだったらとてもぶじにはすむまいと思う▼ふつうに結婚して、初夜をすごしても、その野球選手の「初夜明け」の顔がニュースもどきで写真週刊誌を飾る時代である。時代にも「器量」というものがあるとすれば、いまという時代の器量はうんざりするほど、小さく、せせこましい▼情事監視官、不倫取締官なる勤勉な人たちが、いつのまにか正義の味方になってせっせと仕事をする。どうでもいいんじゃない、と思える情報を熱心に伝えてくれる▼人気もののビートたけしとその「軍団」が写真週刊誌の取材に抗議して講談社に殴り込む事件があった。ゲンキが出るかわりにゲンコツが出る、というのはなんとも浅はかな、ことごとしい行為だが、これからもこういういざこざは起こるだろう▼写真週刊誌の数がふえた。「売れるスキャンダル」を暴く競争はさらに激しくなる。有名人だけではなく、無名の人もえじきになる回数がふえるだろう。情事の密告ごっこも盛んになりつつあるという。私生活を暴く競争を多くの人が認めているという意味で、昨今の日本は異様にスキャンダラスな社会になってしまった▼聖人君子は別として、われら凡人はスキャンダルが嫌いではないし、他人の私生活をのぞきみたい気持ちも持ち合わせている。だがやはり、スキャンダル好きの欲望をとどまることなく挑発し続けるか、あるいはほどほどのところで自制する知恵を働かすか。そこのところが、ジャーナリズムの踏ん張りどころではないだろうか。 外来語の表記見直し 【’86.12.11 朝刊 1頁 (全853字)】  若いころ、ベニスと書いたらベネチアと直された。ベネチアまで行って「ところで、ベニスはどこにあるの」ときいた日本のご婦人がいた、という笑い話があった。昔のプラーグは、今はプラハと書く。ダンチヒはグダニスクだ。現地の発音を重んじて、そう呼ぶようになった▼やはり昔、ウイルスと書いたらビールスと直された。いまはしかし、新聞ではビールスもウイルスも、両方とも使う。この両方とも使う、ということばは、もっとたくさんあってもいい。ミクロネシアの島じまを訪れた時、島では「マイクロネシア」を使う人が多いことを知った。日本人が、ミクロネシアだけが正しいとするのはおかしい▼国語審議会が外来語の表記について見直しの仕事をはじめるという。結構な話だが、たとえば、政府の運輸白書にはアルゼンチンとあるのに、外交青書にはアルゼンティンとある。ばらばらではおかしいから統一せよ、といった話だとすると、はてなと首をかしげざるをえない▼政府の文書にアルゼンチンとアルゼンティンが共存していても一向にかまわない。なにがなんでも一本化せよという統一癖にこそ問題があるのではないか▼むろん、原則をどうするかについてはおおいに議論をしてもらいたい。ベトナムかヴェトナムかビェトナムか、チームかティームか。現地の発音に近い表記に近づける努力をするのか。それとも現状のままでゆくのか。原則をきめるのはいいが「統一のとりきめではない」と、くどいほどただし書きをつけておくことが大切だ▼外来語の乱用についても、議論をしてもらいたい。中国ではレーザーが激光になり、シンクタンクが脳庫や思想庫になる。なかなか味があっておもしろい▼わが国はもっぱら、ファミコン、財テク、ケミトロという省略法が栄える。これに「ハイソ・カーを売るにはハイセンスでキーポイントを突き」式の、和製英語が飛びだすから話がさらにややこしい。 戦闘機か子どもの命か 【’86.12.12 朝刊 1頁 (全860字)】  もしあなたが、ユニセフ(国連児童基金)のグリーティング・カード10枚を1300円で買えば、そのうち約650円は寄付になる。650円は、予防接種ひとり分の費用となって、どこかの国の子を救うだろう。命の水、難しくいえば経口補水液の粉末65袋分になって、脱水症の子を救えるかもしれない▼おおざっぱにいって、地球上では1日1万人の子が予防接種を受けられずに、はしか、百日ぜき、破傷風などで死に、さらに1日1万人の子が、下痢による脱水症で死んでいる。いかなる洪水も地震も、毎年1日2万人ずつの子の命を奪うことはない▼この慢性的な大量死に対して「静かな緊急事態宣言」をすべきだとユニセフの『世界子供白書』(1987)が訴えている。子どもたちの死を直視しないのは「人間の良心にそむくものだ」とデクエヤル国連事務総長もいっている▼方法は2つある。1つは予防接種、1つは命の水の普及だ。トルコでは、学校の教師やマスメディアの協力で予防接種運動が行われ、2万人を超える子の命が救われたという。アルジェリアでは、下痢による脱水症で年に3万人もの子の命が奪われているが、ここでも80年代末までに子どもの死を半減させる運動が続いている▼第三世界の子の予防接種にはどのくらいの費用がかかるかをユニセフが計算した。年間わずか5億ドルだった。「最新の戦闘機5機分の費用を出すだけで実施が可能」だと白書は訴えている。命の水にしても、筆者の計算では5億袋をつくるのに約3000万ドルですむ。地球人には、何百万人の子の命のために戦闘機5機分、6機分をひねりだす才覚がない、ということだろうか▼第三世界でも進む軍拡をうれえて、パキスタンの蔵相がこう語ったそうだ。「私たちは子どもを飢えさせてまで防衛支出をふやさなければならないのか。私たちの子どもが真夜中に泣きだした時、ミルクの代わりに兵器を与えろとでもいうのか」 宮柊二さん死去 戦争の酷薄な現実を歌い続ける 【’86.12.13 朝刊 1頁 (全840字)】  歌人、宮柊二さんは戦時中、一兵士として中国大陸の戦場にあった。「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す」。戦争というものの酷薄な現実を、宮さんは歌い続けた▼20歳ほどの中国女性が密偵として捕らえられたことがある。「私は中共軍の兵士です」とだけいって女は自ら死を選んだ。「その短い言葉は詩のやうな美しさに張ってゐた」という回想があった▼あえて幹部候補生の道を選ばなかったのは、一兵士として運命を見ようと思ったからだ。一兵士であった宮さんは、戦争の本質を疑いつつ、祖国を愛していた。歌集『山西省』の後記に「一兵隊の悲しい陰影と傾斜の心理を窺ひ見て貰へるならば、私は号泣して平伏するであらう」とある。号泣、平伏ということばの強さにたじろぐ思いだ▼戦後の変化に身をゆだね、やすやすと変節した人たちには我慢がならなかったのだろう。それが「孤独派宣言」になった。歌声は低くとも、自分自身の声で歌おう、という主張である▼31年前から朝日歌壇の選者になった。やがて関節リューマチにかかり、脳血栓で倒れたが、自宅で歌を選ぶ仕事を続ける。「痛み増す手首なだめて暁に始めし選歌長く続かず」▼1日がかりで50首ほどを選ぶ。夫人が書き写す。さらに10首に絞る。書き写した50首ほどの歌は、大切に保存していた。1首1首に思いがこもっているので捨てられない、ということだった▼病は悪化したが、歌い続け、今年あいついで3冊の歌集をだした。奇跡を生む生命力だ、と周りの人を驚かせた。その心には常に戦場の荒涼が焼きついていたのだろう。記憶に残る選歌の1つに「井戸水を全部飲みたいと走り書きの便り届きて兄は戦死せり」(根岸さか恵)という歌をあげていた▼自らも、晩年に歌っている。「中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」。享年74である。 甘やかしの罪 【’86.12.14 朝刊 1頁 (全846字)】  小学生の女の子が、ピンク色の軍手を道に落とした。それを見て、落ちましたよ、と声をかけたら「それは捨てたの」と少女がいった。まだいくらも使っていないのに「こんなのいっぱいあるから惜しくない」という。その言葉が心に残って、という安藤右子さんの投書が本紙『ひととき』欄にあった▼子に物を与えることの意味を親はもっと考えたい、と安藤さんは書いている。この投書のことが気になっていたところに、キャッシュカードやクレジットカードを持ち歩く子がいる、という議論が国会であった▼文部省は対策を検討するそうだが、こういうたぐいのことは親の責任で考えるべきことだろう。なにごとも役所が口出しする、口出しさせたがる風潮は困りものだ、という前置きをした上で、あえていいたいのは甘やかしの罪についてである▼「費え多き遊びをまず早く戒むべし。これを好めばその心必ず放逸になる。幼きより好めば、その心癖となり一生その好みやまざるものなり」と益軒先生も教えている▼子どもにかなりのお年玉を与え、費え多き遊び道具を与えることは、子をかわいがっているようで実は心を傷つけている。それがわかっていながら、子や孫の喜ぶ顔見たさについ、となってしまうところがくせものだ▼昭和12年ごろと比べ、最近の公務員の初任給は1600倍になっている。ところがお年玉の相場は、子ども連合戦線の勢いにつられて何万倍にもふくれあがっているのではないか。昔の子にとって10銭のお年玉は大金だった。たいやきなら3個も買えた。いま、10銭の1600倍、つまり160円ではしらけた抵抗にあうだろう▼明治のころに来日したアメリカの動物学者は「日本は子供の天国だ」といった。日本人の母親ほど辛抱強く子につくす親はいない、ともいった。それはそれですばらしい伝統だが、昨今の父親母親はどうだろう。つくしすぎは、罪をつくる。 緑を守るカネを惜しむな 【’86.12.15 朝刊 1頁 (全857字)】  会計検査院の今回の報告は、国有林事業の膨大な赤字に目を光らせている。累積欠損金6000億円以上、借入金残高1兆円以上という状態を見て、このままでは経営の健全性が保てない、としかっている▼国有林は第2の国鉄になる、という声がはやくも一部にでている。日本の森が分割・民営になり、収益を追いはじめたら、一体どういうことになるのだろう▼外材に押されて国産材が売れない、人件費がばかにならない、かつて天然林を切りつくした皆伐地の跡にいい森が育っていない、などが赤字の原因だ▼つまり収益を追うあまりに犯した間違いを、私たちはまた繰り返そうとしているのではないか。経費節減に努めるのは当然だが、赤字対策に狂奔するあまり、本来、切るべきではない木を、切ろうとしているのではないか▼大切なのは「森でもうける」思想から、「森を守る」ことを第一義とする思想へのきりかえだろう。そのことを、林野庁はむしろ声高く叫ぶべきではないか。森を守るという公益的な仕事のためには、国の一般会計の負担を大幅にふやすよう政策を変える必要がでてくる▼西独はいま、針葉樹と広葉樹の6対4の比率を逆転させる計画を進めている。酸性雨による針葉樹の枯死がきっかけだが、安定した生態系をうるには比率の逆転が望ましい。「われわれは1世紀かけて造ってきた森を、また1世紀かけて造り直す。目的は、環境としての森林だ」と計画担当者が語ったそうだ▼日本人もまた、森とのつきあいにかけては熟達の士のはずである。その面目にかけてもいい森林環境を造り、守ることにカネを惜しんではならぬ。私たちの文明を支えているのは(1)ゆたかな緑(2)いい土(3)きれいな水である。(1)なくしては(2)も(3)も生まれない。緑を守る、という一種の国防費を惜しめば、文明を支える土台が崩れてしまう。会計検査院の報告を読みながら、そのことが心配になった。 出水のツル移転問題 【’86.12.16 朝刊 1頁 (全847字)】  ツルの里、鹿児島県出水平野にことしもまた8000羽を超すナベヅル、マナヅルが越冬のためやってきた。8000羽を超えたのは、3年前に次いで2度目だ▼ツルは瑞(ずい)鳥といわれる。だが、数が増えていくのは吉兆、と喜んでばかりはいられなくなった。エサ場として農家から50ヘクタールの遊休地を借り上げているが、1000羽が理想という。とにかく過密状態なのだ▼とくに心配なのが、伝染病の発生である。大量死して、種の絶滅をも招きかねない。国もようやく、分散させるための調査を始めたが、これがなかなか厄介だ▼シベリア方面を生まれ故郷とするナベヅル、マナヅルは北からの季節風に乗って飛来する。出水平野は方角がいいし、気候も合っている。安全なねぐらがあるうえに、好物の小麦まで毎日もらえる。ほかに、こんな暮らしやすい場所があろうか、とツルたちは信じ切っているのだろう▼例えば、出水と並ぶツルの越冬地である山口県熊毛町に強制疎開させたら、という案もあった。しかし、そこに元からいる数十羽のツルを逆に引き連れて、出水平野に舞い戻ってくるおそれもある、というので取りやめになった▼昔は全国各地でツルの姿が見られたというが、近年の開発によって適地がめっきり減った。いまのところ、四国の四万十川流域など数カ所が移転候補にあがっているが、出水のツルを世話している又野末春さんは「エサ場を広げるなど、出水の住み心地をよくしてやるのが先決ではないか」と、分散には懐疑的だ。世界中の鳥類学者が注目しているという、この移転作戦の成否を決めるのは、結局はツルたち自身だろう▼もちろん、分散に失敗したからといって、人間にツルを責める資格はない。なにしろ、超過密都市・東京の始末もままならないのだから。それどころか、東京重視を打ち出した先の四全総中間報告は、分散あきらめ宣言のようにも読める。 架空書評『1%の興亡』 【’86.12.17 朝刊 1頁 (全843字)】  数年前の週刊朝日に「書かれざる本(?)の『架空書評』」というお遊びの特集があって、好評だった。あの中に松本清張『新・砂の器』が入っていなかったのを残念に思っていたが、こんど『新・砂の器』の補訂版がでたので、あえて架空書評をさせていただく▼この実録の主題は1%の興亡である。1%とはあの防衛費のGNP比のことだ。1%が生まれてほぼ20年、人間でいえば成人の日が近いが、清張氏は社会派作家らしい鋭い分析でその20年を切る。そして「1%は砂の器か」と問いかける▼あの田中首相が日中国交回復のために訪中した時「わが国の防衛費は1%以内だから中国などへの脅威にならないッ」とタンカを切った話や、三木首相が三木おろしのあらしの中で1%枠を閣議できめた話、その時閣僚ひとりひとりのひざをなでて懐柔した話など、起伏に富んだ局面が次から次へ展開して、あきさせない▼昔は野党のほうがむしろ「経済成長と同じに防衛費が伸びたら大変だ」と1%枠に反対していた、というウソのような話も示唆をふくむ。だがこの20年、日本は1%枠によって、野放図な軍拡路線でなく、抑制的軍拡路線を歩んできたことも事実で、作者はそれを膨大な数字で立証する▼1%についての政府首脳の言動が具体的に詳述されているのも便利だ。外相時代の安倍氏の「アジア各国は、1%枠の歯止めがはずれると日本はかつてのような軍事大国にならないかという憂慮を抱いている」という発言などは興味津々▼圧巻は、1%殺しありとすればその犯人は、と推理を進めるくだりである。最近になって「1%枠を守りたいけど難しい情勢だ」と中曽根首相はいいだした。首相はむしろ、本来、鉄の器であるべき1%枠を自ら砂の器に変えた上で、この器が崩れるのを防ぐのは難しい情勢だといっているようなものだ、と結ぶ▼時宜をえた好著、と呼ぶべきであろうか。 ふしぎな増税網 【’86.12.18 朝刊 1頁 (全862字)】  中曽根首相が操る投網は、年収600万円以下のサラリーマンをねらい打ちにするのだろうか。体の大きな魚は逃げられるが、体の小さな魚は逃げられない、というのだからふしぎな増税網だ▼政策構想フォーラムの試算によると、年収600万円強以下の家庭では、所得税・住民税の減税よりも、大型間接税やマル優廃止による負担増などのほうが大きくなるそうだ。サラリーマンのうち、年収600万円以下のものは約8割もいる。ということはつまり、多くのサラリーマンが増税網にひっかかることを意味する▼首相はこの2月には「年収300万から400万の層は子どももいて負担が多いので、この層のことを考えている」といった。選挙直前には「年収400万円から800万円のサラリーマンの所得減税を行う」とも公約した。夢をふりまくばかりで、いや実は減税した分以上を大型間接税による増税でとりもどしますよ、とはいわなかった▼大蔵省の試算は、法人税の減税分はサラリーマン個人に戻される、という前提にたっている。だから600万円以下の層でも負担減になる、というのだ。それはむりです、法人税の減税分は企業にとどまるはず、というのが政策構想フォーラムの考え方だ▼増減税同額の場合、だれかが得をすれば、だれかが損をする。大型間接税の場合は所得の低いものほど、税の重みを感ずることになる。消費者全体に大きな影響を与える売上税を大型間接税ではない、といいはるのは政治の退廃ではないか▼たとえば日本海全体をおおう包括的な網などはありえないのに、勝手にそれこそが大型だと定義し、全体をおおわない網は大型ではないといいはる。穴の多い網だから大型ではないともいう。それが首相の論法だ▼網の穴から87%の業者がもれるはず、と首相はいうが、ここにもごまかしがある。税収でいえば、穴からもれるのはわずか8.7%で、大半はちゃんと捕らえられることになっている。 世相を映す羽子板市 【’86.12.19 朝刊 1頁 (全863字)】  藪柑子(やぶこうじ)が赤い実をつけている。ほの暗い木かげにきらりと光るものがあって、見ると深い紅色の藪柑子の実だった。万両も実をつけている。やはり深紅で、ほとんど見わけがつかないほどよく似た色だ▼17日から東京・浅草の羽子板市がはじまった。「学校で勉強しなかった分をおれは今ここで勉強するよお」と叫んでいる店の若い衆がいる。1000円でも2000円でも祝儀があればシャンシャンと手じめがあって「どうぞお商売の繁盛を。いいお年を」と店のものが声を張りあげる▼昔は3万円の羽子板を5000円に値切ってそのかわり2万5000円を祝儀にする、というお客があって、そんな時は景気のいい手じめが浅草寺の境内に響いたそうだ。昨今は祝儀のほうがしめりがちなためか、人出の多いわりに市はわかない▼羽子板市の本筋は歌舞伎役者の押し絵だが、毎年、人気ものや世相を映したお遊びの羽子板が登場する。1958年は巨人の長島だった。61年は大鵬・柏戸である▼以下、「王将」の村田英雄(62年)、パンダ(72年)、エマニエル夫人(76年)、ピンク・レディー(78年)、山口百恵(80年)、千代の富士、アラレちゃん(81年)、忍者ハットリくん(82年)、田中元首相と野坂昭如、おしん、ロン・ヤス(83年)、エリマキトカゲ、キン肉マン、かい人21面相(84年)、いじめ(85年)と続く▼今年は「幸せって何だっけ」を歌うさんま、公約違反列車、などがあった。その列車が大口を開けて国家秘密法をちらつかせている、という図柄だ。まさにかわら版的政治寸評である▼境内の一角に植木市がある。羽子板の方は1軒が4つも5つも電灯をつけているが、こちらは1店1灯程度で、急に寒さがこたえる感じになる。寒菊が並び、かすかな香りを放っていた。りんりんとした寒さの中で咲くこの黄の花からは、精いっぱい、きばって生きているさまが伝わってくる。 代議士へのもち代 【’86.12.20 朝刊 1頁 (全838字)】  もち代として、今年も各代議士に2、3百万円が配られたそうだ。田中派では、当初200万円の予定だったが、田中元首相の名で別封100万円のもち代が追加された▼300万円なら、1升分のもち米で作ったもち2000枚ほどになろうか。さすがは政治家だ。2000枚のもちをたちまち消化してしまうなんていうのは、これぞハラ芸というものだろう▼かつての政界の寝業師、大野伴睦は、乱れかごの中に政治献金を積んでおいた。子分の代議士がくると「そこから持っていけ」といった、という話が残っている▼戦前も同じだ。「原敬や加藤高明は廉潔な人だったが、政党の首領になったとたん、カネ集めに狂奔し、カネで党員をつなぎとめようとした。わが国においては党首となれば、良心を離縁して腐敗のけいこをしなければならぬ」と尾崎咢堂はにがにがしげに書いている▼昭和の初期、東京駅頭で撃たれた浜口雄幸首相は、病床で若槻礼次郎に後つぎを頼んだ。だめだと断られると、浜口は親指と人さし指で輪を作って「これか」といった。そしてカネなら何とでもできる、とつけ加えた。こういう厳粛な瞬間で、指の輪を見たり見せたりしているこっけいさが、もち代政治の歴史には流れている▼今年の1月、ある政治家は、1日十数カ所、地元の新年会を回った。5000円、1万円とカネを置く。これだけで200万円が消えたそうだ。政治活動の資金がもち代になり、そのもち代の消えゆくはては有権者の新年会である、という政治の風景にもこっけいさがある▼もち代は、派閥固めの儀式でもある。昔の派閥と違うのは、親分・子分の結びつきよりも株式会社的な色彩が濃くなったことだろう。社長が代わっても会社は変わらず、議員は終身雇用になりつつある。その流れの中で、別封にこめられた角栄の「リメンバーオヤジ・コール」はどう受けとめられたことか。 「今」を大事にする若い人の発想 【’86.12.21 朝刊 1頁 (全860字)】  今年の『青少年白書』を読んでいたら「若者らしい壮大な夢や気概はなくなり、極めて現実的な夢しかもっていない」というくだりがあった。現実的な夢をもつとは、さめているということで、それ自体、非難すべきものではないだろう。末は博士か大臣か、といってみたって今の若い人たちが心を躍らせるはずはない▼下重暁子さんの『24歳の心もよう』には、10人の女性が登場し、それぞれの暮らしや心のたけを洗いざらい語っている。十把ひとからげではない、多様な青春もようが見事に表現されている▼「とりあえず」ということばがよくでてくる。とりあえずテニスに熱中して、とりあえず海外で貧乏旅行をして、とりあえずはお金をためて結婚して……▼とりあえずには「一応」とか「今のところ」の意味がある。とりあえずの多用は、若い人たちの「今」に対するこだわりを意味するのではないか。下重さんは10年前にも、24歳の女性の聞き書きをまとめたが、この10年間で働く女性の姿はさらに様変わりした▼(1)壮大な目標のために今を犠牲にするよりもむしろ、今を大事にする(2)悲壮感よりも軽さや遊びを大切にする(3)タテの積み上げに努めるよりも、ヨコに流れてゆく。ごく類型的にいえば、そんな特徴がある▼あるキーパンチャーはいう。「毎日がただ楽しく過ごせればいい。でなきゃ、やってられないですよ」。工業デザイナーは、2年間働いてお金をためた後、突然インドへ行くために会社をやめる。「今生きるなかで何が一番できるか」を考え、別の世界を見るためにパッとやめる。今を大切にし、今の自分が求めるものに忠実であろうとする。旧来の会社人間にはない発想だ▼その非会社人間的発想はもはや企業も無視しえない流れになっている。「これからの企業は、女性の能力、それも一人一人の能力を生かせない企業はだめになると私は確信している」という下重さんの感想があった。 鉛筆 【’86.12.22 朝刊 1頁 (全840字)】  暮れになると、きまって思うことのひとつに鉛筆がある。書いては消し、書いては消し、何本使ったかは知らないけれど、この1年もよく世話になったものだ▼随筆家の串田孫一さんは、鉛筆を使うよろこびの中には、それを小刀で削る楽しみも含まれているという。むかしの筆塚にならって、鉛筆塚を立てたいものだとも書いている。私どもは、小刀はいつのまにか手放しているけれど、鉛筆塚を立てたい気持ちには全く同感である▼その鉛筆の消費量が減ってきたことについては、数年前にこの欄で書いた。この傾向は相変わらずで、年に2000−3000万本も減っていく。いわずと知れたボールペンやシャープペンシルのせいだ▼実は、もっと激しい減り方をしている筆記具がある。万年筆だ。この10年で3分の1になった。ちなみにボールペンは2倍近くに、シャープペンシルは5倍にもふえている▼万年筆会社の調査によると、メモを取るときはボールペンを使う人が一番多い。次はシャープペンシルか鉛筆で、万年筆はほとんどない。事務書類を書くときもほぼ同様である。これが手紙となると逆転、万年筆が過半数を占める。それでいて万年筆の消費量が減っているのは、手紙を書かなくなった証拠だろうか▼手紙の中でもラブレターとなると、万年筆はまだ欠かせぬ存在だ。万年筆がふさわしいと考えている人まで入れると、80%を超える。万年筆会社にいわせると、そのぬくもり感が愛を語るにぴったりなのだそうだ。ボールペンなどに比べると、ペン先のタッチがやわらかい。それが、書く人の思いを伝えるのかもしれない▼弘法は筆を選ばずというが、ことばが筆を選ぶという説がある。いわゆる企業ことばなどには、肉体性をそぎ落としたボールペンなんかが一番いいというのだ。一方では、筆が文体をつくるともいう。ワープロは恋文にどんな文体をつくるのだろう。 GDPとゆたかさ 【’86.12.23 朝刊 1頁 (全857字)】  GDPがいくら上位になったからといって、すばらしいことだと自賛するのはもはや時代遅れだろう(GNPから海外からの配当などを差し引いたものがGDP=国内総生産)▼10年前、日本の1人当たりGDPは世界で16位ていどだった。それが昭和60年は7位になったという経企庁の報告があった。円高を計算に入れると、61年は1位の米国なみになるらしい。日本のGDPがこのように急激にふくらんできたことはむしろ、困ったこと、いまわしいこと、と考えたほうがいい▼たとえば東京の都心に「地上げ屋」がうごめいて、坪300万円前後の土地をたちまち3000万円にした話があった。全国銀行の不動産業への融資残高は25兆円を超える、というからすごい。この地価高騰や土地転がしがGDP気球をふくらませている元凶だ▼ベルギーの1人当たりGDPは世界16位で日本よりもはるかに低い。しかし首都ブリュッセルでは、都心の3寝室つき150平方メートル、東京なら「億ション」といわれるアパートが2000万円以内で買える。都心から20キロほどの緑あふれる郊外で、お城のような豪邸と数百平方メートルの庭が3000万円ちょっとで買えるという▼GDPとゆたかさとは比例しない。家がだんだん都心から遠くなると、通勤費がかさんで、GDPが引き上げられる。満員電車にゆられる時間が長ければ長いほど、GDPのメーターは上がるのだから、ありがたがってはいられない▼元凶はまだある。たとえばスイスのコンサルタント会社が世界99都市の食費、生活必需品などの生活費を比べてみたら、東京が世界一だった。たとえばまた牛肉1キロ当たりの値段は、北京167円、ニューヨーク1686円に対して、東京5000円という調査もある▼きれいな空気や水、静けさ、快適な環境、暮らしのゆとり、そういうものを指数にすれば、日本ははたして世界何位になりうるだろう。 サンタクロース 【’86.12.24 朝刊 1頁 (全856字)】  筆者の知人にサンタのおじさんがいる。背の高さは170センチほどで目が大きく、やや太っている。左肩が右肩よりも下がっている。戦時中、日本の兵士としてシンガポールで戦い、肩に重傷を負った。その後遺症である▼今年、そのサンタのおじさんは北海道知床半島の斜里や羅臼、沖縄の読谷村の保育園や老人ホームに現れた。栃木の女子教護院にも現れた。保育園では赤い服によだれや水ばながこびりつくこともあるが、それはサンタの勲章だ▼「大きくなったら何になる」「タクシーの運転手」「いいねえ。その時はおじさんを乗せてくれるか」「うん、ただただ」。そんな会話の後、文房具やけん玉の入った袋を一人一人に手渡す。老人ホームの場合は、健康器具やひざ掛けだ▼敗戦直後、畑仕事をしていて、上野の地下道で戦災孤児たちに出あった。畑のイモを分け与えているうちに、孤児救済の仕事にかかわってゆく。ゴム長のサンタになったのが39年前だ▼若かったサンタが、いまは67歳である。「やめようと思ったこと? 何回もある。でも子どもたちの目の輝きを思うとやめられない。サンタに定年はないしね」▼かつての孤児だろう。「上野で世話になりました」といって匿名でカネを送ってくる人がいる。毎年、暮れになると10万円を送ってくるスチュワーデスもいる。彼も自らの年金をつぎこんで贈りものを調えているが、背後にはこの無償の仕事を支えるたくさんの人がいる▼知人と話をするたびに、一少女の問いに答えたアメリカの新聞の社説の一節を思いだす。「サンタクロースがいるというのは、けっしてうそではありません。この世の中に、愛や、人へのおもいやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです」▼今夜、われらが太めのサンタは伊豆大島行きの船に乗る。島に帰る藤倉学園の子や老人ホームの人びとと船中でクリスマスイブを楽しむためだ。 公約と現実 【’86.12.25 朝刊 1頁 (全839字)】  「劇場支配制」ということばをつくったのはプラトンだという。ショーとしての政治がさかんに行われる昨今の風潮をみれば、まさにこれこそ劇場支配制そのものだとプラトンさんも目を見張ることだろう▼選挙の舞台で、首相という名の役者がはなばなしく登場し、甘い公約をふりまく。拍手かっさいを得るのが目的だから、公約のほうは勢いがつく。思い切った減税を断行!大型間接税は導入せず!中堅サラリーマンの重税感をなくす!と威勢がいい▼しかしどうだろう。こんどの税制改革案のように、舞台での公約と現実との間にこれほど寒々とした透き間風が吹き抜けると、劇場支配制の魔術も色あせたものになるのではないか▼公約の公という字には「囲みを開く」の意味がある。人びとが自由に出入りできるという意味が「公開」になり、囲みを独占しないという意味が「公正」になる。今回の税制改革案は、選挙中も正体がわからず、選挙後も密室の審議が多かった点で「公開」ではなく、金持ち優遇という点で「公正」でもなかった▼売上税という名の大型間接税の増収分は2兆9000億円になるという。はたしてその通りなのか。実際の増税はそれをはるかに上回るのではないか。将来の売上税は歯止めなく大型化する恐れはないのか。不透明感のみが残る▼筆者のもとにも、税金に関する不満や憤りを伝える読者のお便りがふえている。55歳の主婦から夫の「給料明細書」1年分が送られてきた。35年間働いて、来年は定年になる夫の年収は残業分を含めて約480万円である。税金などを差し引くと年収の手取りは約380万円だ▼「定年後、年金をもらうまでどうやって食べていこうかと考えています。マル優廃止で、定年後にと楽しみにしていた旅行もやめました。内需拡大どころか、どう節約するかを考える年末です」とあった。劇場内の透き間風は相当なものだ。 世界一周飛行成功の「ボイジャー」【’86.12.26 朝刊 1頁 (全849字)】  「月がわれわれを助けてくれた」と、ディック・ルタンさんがいっている。無給油、無着陸の世界一周飛行に成功したボイジャーは、夜、月の光がなければ何度も入道雲の中に突っ込んでひどい目に遭っただろう、という意味だが、月がわれわれを助けてくれたという言葉は詩的に響く。そのままこの冒険飛行記の表題にしたいようなせりふだ▼ボイジャーの冒険には、3つの「非」があった。(1)非ジェット機だったこと。あの、なつかしいプロペラ機で、ふわりふわりと地球を1周したところがすばらしい。(2)非軍用機だったこと。これまでの記録は戦略爆撃機B52の約2万キロだ。今回は恋人の相乗りである。(3)非国家計画だったこと。政府のひもつきではなく、家族やボランティアの仲間が計画を支えた▼危険極まる飛行だった。乱気流にもまれて、2人は体を壁や天井にぶつけてあざをつくった。「恐ろしいことが繰り返し襲ってきて、くぐり抜けた後でぞっとした」とジーナ・イエガーさんはいっている▼狭苦しい機内で過ごした約216時間は、さまざまな心理的かっとうを生んだことだろう。2人はそれに耐えた。そして、ボイジャーの夢に自分たちの夢を重ねたのはアメリカ人だけではなかった▼「チャレンジャー」の悲惨な結末、チェルノブイリ原発事故、続発したテロ、広がるエイズ、アメリカのイラン・ニカラグア秘密工作。暗いニュースの続いた1986年だけに、ボイジャーの成功はまさに闇夜(やみよ)のたいまつ、という格好になった▼それだけではない。政府や大企業に頼らず、草の根に支えられたその飛行計画において、極限までぜい肉をそいだその奇抜なデザインにおいて、スピードにとらわれないその省エネ飛行において、男女の共同作業だったことにおいて、機体の素材や宇宙食の新しさなどにおいて、ボイジャーは私たちにたくさんの今日的情報を届けてくれた。 整備新幹線着工へ意気込む族議員たち 【’86.12.27 朝刊 1頁 (全847字)】  年の瀬の東京・永田町は、族議員たちの活躍の場でもある。今年、とびきり元気印なのが「新幹線族」。なにがなんでも整備新幹線を着工させる、と意気込んでいる▼応援団も負けていない。25日に都内のホテルで開かれた総決起大会には関係自治体の首長ら1000人がつめかけ、議員たちと「着工しないと政治不信を招く」「実現せずには故郷に帰れぬ」とエールの交換をした▼来年度予算の大蔵原案が、新幹線建設については「調整中」としたことから、族議員や自民党にとっては、ここは力のみせどころ、というわけだろう。だが、この張り切りようを冷ややかに見ている国民の多くの目があることも忘れないでいてほしい▼着工は夏の同日選挙で自民党が公約したこと、だから約束は守らねばならぬそうだ。それなら「減税はやる、大型間接税はとらぬ」の、あの公約の方はどうしてくれるといいたくなる。いま、何より気がかりなことは、新幹線より法案が成立したばかりの国鉄改革がうまくゆくかどうか、である▼整備新幹線5線の建設費は5兆3000億円というが、実際にはもっとかかるだろう。しかも赤字は必至だ。仮に公共事業方式でやっても、国民負担に変わりはない。すでに国鉄の抱えた長期債務のうち14兆7000億円が国民にツケ回しされることが決まっている。あれはあれ、で第2の国鉄を作ろうとでもいうのだろうか▼促進派のリーダー細田吉蔵氏が「なぜ推進論を出さぬ」と運輸省にかみつき「先輩大臣からそんなこといわれるとは心外」と橋本運輸相がやり返した。別の族議員は「ひきょう」ということばを橋本氏に投げつけた。これでは論理を通り越している▼東北新幹線盛岡駅から青森方面へ、高架はさらに5キロ続いて途切れている。「必ず完成させるが、いまはその時期でない」と、言いにくいことでも、ここではっきり語るのが政治の理性というものではないか。 難民たちのカレンダー 【’86.12.28 朝刊 1頁 (全852字)】  東京の曹洞宗ボランティア会に、ことしもタイの難民キャンプの人たちが作ったカレンダーが届いた。木綿地にシルクスクリーンで印刷した、素朴な味わいのあるものだ▼2万4000人のカンボジア難民のいるカオイダン・キャンプと、4万5000人のラオス山岳民族モン族がいるバンビナイ・キャンプから、それぞれ2000枚。どちらも、祖国で自分たちの文化・伝統を守りながら、平和に暮らしていたころの光景が描いてある▼戦火に追われて国境を越えてきた人々を救援するのに、まず必要だったのは食糧であり、医薬品だった。しかし、次の段階としては職業訓練であり、文化的な学習援助である。どこに落ち着いて生きるにしても、そのための技術や知識がなくてはやっていけない▼曹洞宗のお坊さんたち有志が中心の同ボランティア会は、79年から難民の自立を助ける活動を始めた。その1つが、印刷技術を覚えてもらうことだった。製版、印刷、製本、機器の修理技術の伝授から、イラストレーターやタイピストの養成まで、教わる側にも教える側にも、容易なことではなかった▼とりわけ文字を持たず、従って出版物に触れたことのないモン族の場合がそうだった。だが、いまでは自力でひと通りの仕事をやってのけられるようになった。両キャンプとも子どもの数が非常に多いが、モンの子どもたちの中には、自分たちで創作絵本を作りだした子がいるという▼木綿製カレンダーには、援助に協力してくれた各国の人々への感謝と、その成果の報告の意味がこめられている。カオイダンのは5年前から、バンビナイのは去年から、日本にも届いている。ボランティア会では、1枚につき2000円の寄金をもらい、翌年の支援経費にあててきた▼しかし、タイ政府は最近、カオイダン・キャンプの閉鎖を宣言した。ここの人たちが、平和への祈りをこめたカレンダーは、こんどが最後になりそうである。 租税特別措置と政治献金 【’86.12.29 朝刊 1頁 (全845字)】  円高の影響が強い中小企業のある団体が、年末の自民党税調に対して税の減免措置を陳情しようと決めたのは、夏の選挙の直後だった▼設備投資をした場合に税金をまけてもらうという内容で、例の租税特別措置の典型的なケースである。本気で工作するとなると、いろいろ経費がかかる。それを各企業で拠出することも併せて決定した▼席を設けて、自民党の先生方に業界の苦しい実情を説明するところから始めた。党本部は各方面からの陳情を1冊の本にまとめて税調の審議にかける。分厚いことから「電話帳」と呼ばれる。ことし陳情は900余件におよび、この団体の陳情は中ごろのページに記載された▼12月8日、審議が始まった。1次査定は大蔵省主税局によるものだ。バツ印(減免の必要なし)がついた。先生の1人は「気にするなよ、どれもバツなんだから。一種のセレモニーだな、このバツは。いよいよ、われわれの出番さ」▼団体幹部が手分けして議員会館を歩いた。2次査定は、さきの査定に議員が反論し、その場で税調幹部が裁定を下す形で進む。やりとりは非公開が建前とはいえ、議員秘書、官僚などを通して逐一、関係方面にはいってくる。「要は理屈と情さ」という山中会長は、へたな反論には厳しいが、ほろりとさせる熱弁にあうと「その言やよし。マルっ(減免)。ハイつぎ」。この団体の陳情は2次でサンカク(なお検討する)になった▼あらためて有力議員や関係省庁をまわった。大詰めの22日、ついにマルの決定を得た。しかしいま、この団体の幹部たち、喜び半ば、不安半ば、という。「会館をまわったとき、先生方はわれわれのことを丹念にメモしていた。いずれ、ごっそりパーティー券を買わされるのでしょうなあ」▼租税特別措置はすべて期限が2年である。来年は、去年マルを得た団体が工作する番だ。自民党の献金集めの工夫はなかなか行き届いている。 12月のことば抄録 【’86.12.30 朝刊 1頁 (全860字)】  今月のことば抄録▼1対4の交換について「自分がそういう選手なのかとつくづく感心している」と落合選手。中日では年俸1億3000万円(推定)だが「落合君が低いといってくれば1億5000万円までは用意していた」と伊藤球団代表。なんとも正直すぎるこの談話につくづく感心した▼「わけのわからない戦争に巻きこまれて原爆でやられるより、この野郎!と軍拡派とケンカした方が気がきいている」と80歳の宇都宮徳馬参院議員。今も私財をつぎこんで雑誌『軍縮』を発行している▼「血刀を下げて白刃の中をくぐり抜けてきた。油断したら失脚する」と中曽根首相。「スキがあればスキを撃つ、虚があれば虚を撃つ」と公明党の矢野委員長。なにやらヤクザの世界のようで▼「売上税は公約違反だ。消費の先行きが不透明な時期に、新税の導入は、暖房を入れるべき時に冷房をかけるようなもの」と日本百貨店協会長の市原晃さん。内閣とは違って、暖房器具の時期に冷房器具を並べるようなデパートはたちまちつぶれる▼今月も日本人批判が続出した。日本の若者向け雑誌がイタリア人を侮辱したことで「日本人は将来ある若者たちまで、知らず知らずのうちに謙虚さを失い、高慢になってしまっているのではないか」とイタリアの社会学者F・アルベーロさん▼「日本人は、三原山の火柱を見て大地震の発生に恐れを抱いた。その日本人がチェルノブイリには鈍かった。問題意識が一種の鎖国状態にあるように思える」と加藤周一さん▼「われわれ日本人の金太郎アメ的同質性からくるひ弱さが次第に露呈しつつある。そんな中で、東京への集中化を加速するかのような計画(四全総)に強い危ぐを覚える」と細川熊本県知事▼佐藤愛子さんの警世の一文も光った。「皆が流されている。踏み止まろうとする者は溺(おぼ)れてしまう。一緒に流れることが生きるための知恵なのだと、子供たちに教えてよいものだろうか?」 防衛費1%枠突破 【’86.12.31 朝刊 1頁 (全845字)】  いつも年の瀬になると「右へならえ、ペンタゴンに向かって最敬礼」という風景がみられるのだが、ことしはその最敬礼の度がひときわ深かった▼ペンタゴンは、防衛費のGNP比1%枠はずしを「すべての点で歓迎」したし、防衛関連産業も「不況の緩和剤になる」と満更でもないらしい。日本の経済構造はすでに軍需に頼らざるをえない状況になっているのだろうか▼1%枠は、中曽根首相や閣僚に守る意思さえあれば、守れる。守れないのは、守る意思がないからだ。いやむしろ、枠はずしの強い意思があるからだろう▼本音は枠をはずしたいくせに、表向きは「情勢が厳しいから枠を超えざるをえない」などと客観情勢のせいにする。「守る努力をする」のするを、「枠を超えることになる」のなるにすりかえてしまう。お得意のごまかし政治である▼2・26事件で暗殺された高橋是清は、その前年の予算折衝で、軍部と対決した。80歳を超える高齢だが、21時間もねばって、超軍拡路線にある程度の歯止めをかけた▼その時、高橋翁は説いた。「うち続く天災で国民は甚だしく痛められている。社会政策上考慮すべき点は多々ある。自分はなけなしの金を無理算段して陸海軍に各1000万円の復活を認めた。これ以上はとうてい出せぬ」と。蔵相が官邸を出る時は一斉に万歳のあらしがあった、と当時の本紙は伝えている。文字通り、いのちをかけての対決だった▼今はそういう対決の気合がみられぬまま、1%枠がすんなりとはずされてゆく。1%枠の歯止めが一度はずれれば、たとえ新しい歯止めができたとしても、いつかそれが破られないという保証はない。歯止めそのものが歯止めなしにふくらむことになる▼まず既成事実をつみあげてしまうというごまかしや、たくさんの政治のうそが続いたあげくの果てに、年が暮れる。一茶流にいえば「ともかくもうそでまかせの年の暮」である。 アマミノクロウサギ 【’87.1.1 朝刊 1頁 (全860字)】  本社機「千早」で奄美大島へ飛んだ。特別天然記念物アマミノクロウサギに会いたい一心である。未明に羽田をたつ。翼に映る金星の光を見ながら南西へ向かう。東西南北、見渡す限りの雲海を舞台にした夜明けの儀式、闇(やみ)と炎の響応を眺めているうちに、奄美の空港に着いた▼アマミノクロウサギは3、4千万年前に繁栄したといわれるムカシウサギ亜科の一種で、今はこの大島と隣の徳之島にしかいない。昼間は主に穴にこもり、夜になると出てくるという聖なる森の隠者だ▼たった一晩ではお目にかかれる確率は極めて低いと覚悟をしていたが、幸い、土地の人の案内をえて、夜の山道で計3匹のクロウサギに会うことができた。会った、といってもほんの一瞬である▼ジープの光でウサギの目が赤くひらめく。黒っぽい褐色の毛だ。耳が短い。ちらとこちらをうかがい、やがてもこもこしたおしりを振りながら、ノイバラの花が咲く茂みに消えていった。森の隠者も結構モンローウオークをこなしているように見えた▼クロウサギは人に慣れない。許可をえて飼育している大和中学校の先生の話では、毎日えさをやっても1メートル以内には近づかないそうだ。その頑固さの中にも、人間のこざかしさでははかり知れぬ知恵があるのだろう▼林道がふえ、車がふえ、森の伐採がふえ、野犬がふえ、森の先住者たちには生きるにつらい世の中になったが、島の人たちは聖なる隠者との共生を模索しているように思えた▼クロウサギの生きる道を考えることは、奄美大島という南島の豊潤な文化の生きる道を考えることと重なる。そのことはまた、画一化・中央化の流れとは別に、異なる風土、異なる生物、異なる文化に対して、私たちがどれほど謙虚でありうるかという根源的なことを問いかけている▼深夜の原生林に車を止めると、湿った風の音と谷川の声がかすかにきこえてくる。また1匹、異形のウサギが現れて、闇に消えた。 予言・予測がはやる年 【’87.1.3 朝刊 1頁 (全841字)】  1987年は、「これからどうなる」という予測がはやる年になるだろう。時代の空気が不透明であればあるほど、人びとは予言、予測にすがりたくなる▼ことしは『意識開国』の年だと予言しているのは、電通である。日本の企業は、国家経済の枠を超えて、国際化の道を進んでいる。ニュースや情報が地球的規模で交流している。にもかかわらず、人びとの意識の中の「鎖国」は強固なものがあった。それが急速に変化する、日常感覚の国際化が進む、という予言だ▼一方、博報堂は、「モノ社会からトキ社会へ」の変化を予想している。余暇がふえ、生活時間が深夜におよぶ。時間をゆたかに使う「時起こし現象」が流行の潮流になる、というご託宣だ。つまり日本人の生活領域や生活感覚は、空間的には地球上にひろがり、時間的には深夜にひろがる、ということだろう▼『科学朝日』1月号に流行色の予測の話がでている。日本流行色協会の藤田征芳さんによると、ことしから来年にかけて、流行色の世界では「清・明・冷・美」が基調になるそうだ。北欧色、カナダ色が新しい方向としてでてくるらしい▼暮らし向きのほうはしかし、たそがれ色がはやるだろう。円高不況がある、失業者がふえる、家計の赤字がふえる、ローンの重荷がこたえる、売上税による実質増税があると数えてゆくと、残念ながらたそがれ色が優勢である▼藤田さんの話でおもしろかったのは、路上観察を重ねる中で、未来につながる流行色の「芽」を見つけるというくだりだった。予測とは、その芽がふくらむことを見抜く力らしい▼たとえば政府は、防衛費をわざとGNP比1%枠から0.004%だけはみださせた。これがさらなる軍拡の芽だと見抜くのは、そう難しいことではない。ただし、流行色の場合は盛衰があるが、軍備の場合は一度ふくらむとなかなか元に戻らない、ということも予測しておきたい。 無人の荒野に足を踏み入れる学問研究 【’87.1.4 朝刊 1頁 (全843字)】  細菌の世界にも男性と女性がいるという論文が発表されたのは今からちょうど40年前のことだった。専門家たちのショックは大きかった▼当時の教科書は「細菌は無性的に2つに分裂して繁殖するのが特徴」と断定していた。細菌に遺伝子があると考える人もまれだった。「そのころの細菌遺伝学といったら、細菌学と遺伝学の間に広がる無人の荒野でした」とジョシュア・レーダーバーグ米ロックフェラー大教授は回想している▼その荒野に挑戦した時、彼はまだ20歳だった。2種類の大腸菌を混ぜて培養してみた。すると大腸菌は寄り添い、遺伝子を組み換え、新しい性質の「子」ができた。細菌にも男女があった。後にノーベル賞の対象となったこの観察が「遺伝子工学」のきっかけを作った▼自然界で細菌が遺伝子をつなぎかえているのなら、同じことが人工的にも可能だろう。そう考えて大勢の科学者たちが研究を進めた。細菌に命令して、糖尿病の治療薬インシュリンや小人症の子のための成長ホルモンを作らせる芸当もできるようになった▼こんど朝日賞に決まった2つの研究も遺伝子工学を駆使して行われた。その1つ、成人T細胞白血病の研究グループは、人間のがんがウイルスによって引き起こされることを連係プレーで証明した。重症のボケを起こすアルツハイマー病の解明にも遺伝子工学はめざましい働きをしている▼レーダーバーグ氏はがんと脳障害を解決しようと願って医学部に入った。大腸菌の世界に転進し、その夢は断ち切られたように見えた。だが、それから40年、彼が端緒を作った遺伝子工学の手法は、がんと脳障害を解決する道を切り開きつつある▼日本のどこかの研究室でも、30年後、40年後に花開く新しい学問の分野が人に知られず芽吹いているだろうか。教科書を疑い、無人の荒野に足を踏み入れる若さが、受験戦争の中で失われてはいないだろうか。 アメリカンフットボールを見る 【’87.1.5 朝刊 1頁 (全863字)】  ラグビーあり、サッカー、大学駅伝ありで、ことしの正月もスポーツのテレビ観戦を大いに楽しんだ。中でも国立競技場で行われたアメリカンフットボールの日本一を決める全日本選手権ライスボウルは逆転につぐ逆転の連続で見ごたえがあった▼このスポーツの魅力は、何といっても攻撃の多彩さだろう。作戦司令塔ともいうべきクオーターバックが、敵陣深く走り込んだ味方に長いパスを送るかと思うと、相手守備陣の待ち受ける中央に突入させたりする。最後はボールを相手のエンドゾーンに持ち込む(タッチダウン)か、キックをゴールにきめて得点を競う▼試合は、4度目の逆転タッチダウンに成功した京大が残り1分余、レナウンのキック失敗で「負けを覚悟した」勝負を拾った。35対34。3年前にも29対28の1点差で日本一になっており、京大はよほど強運のチームであるらしい▼アメリカンフットボールは、日本でも半世紀前から始められ、いまでは国立競技場に3万人の観衆を集めるほどの人気スポーツに成長した。だが、その名の通り、本家は米国で100年以上もの歴史を持つ。テレビを見ながら、いかにも米国らしいスポーツだと思った▼1チームは11人。4回の攻撃で10ヤード前進できないと、攻撃権は相手に渡る。そのとたん、グラウンドには敵味方とも全く別の11人が現れる。つまり、同じ陣営の中に、攻撃、守備チーム、さらにはキックするときだけの特別チームと、それぞれの専門家集団がいて出番を待っているのだ▼野球の指名打者制度、投手の先発、抑えといった専門化とも通じるものがあるだろう。1人が何もかもやるのではなく、勝利という全体の利益のためには、時に応じ適切な体制にすかさず切り替えていく▼底に流れるこの考えは、何もスポーツの世界に限ってはいまい。共和党から民主党への米国民の選択の流れにも映し出されているような気がする。顧みて、わが国はどうだろうか。 国家秘密法案、再び国会へ 【’87.1.6 朝刊 1頁 (全852字)】  自民党のスパイ防止法制定特別委は、再開国会に国家秘密法案を提出して成立をめざすつもりだという。首相は首相で「法案の必要性は党全体の認識になっている」と記者会見で発言した。しかしこれだけ問題の多い法案だ。そうすんなりとゆくはずはない▼それに、どうだろう。首相のいう通り、本当にそれは「党全体の認識」なのか。党内批判派の白川代議士は「今のままの法案を危険だと感じている人は潜在的には党内に3割はいる」という。では、批判派の多くは「大勢にさからわず」の道を選びつつあるのか。そうは思いたくない▼「全国の生徒が基本的に同一の教材を用いて、ほぼ同一の時期に、同一のペースで学習を進める」という日本の教育のありようは、米国の教育専門家には奇異に映るのだろう。日本の教育の硬直性・画一性を批判する報告書が発表された▼教育の世界だけではない。同一歩調志向は私たちの血に色濃く流れている。政治の世界でも、同一の法案に、同一の歩調をとることが常識とされる。国家秘密法案の促進決議をした地方議会の中にも、右へならえ式の動機が少なくなかったそうだ▼そういう意味で、防衛庁出身の2人の専門家が共に「国家秘密法は必要ない」と異をとなえている姿に注目したい▼その1人、前田寿夫氏は『市民版・防衛白書』の中で警告している。「現在は絶えず米軍基地を観察して、米軍の核持ち込みを防ぎ、国民に危害を与える恐れのある行動や配置をチェックしている人たちがいます。法案が通れば、そういう人たちは真っ先に逮捕される」と。軍事上必要な秘密だけではなく、国民に知られて都合の悪いことは秘密にされる恐れがある、という指摘だ▼もう1人、元防衛庁官房長の竹岡勝美氏も法案反対の勇気ある発言を続けている。「立法を推進する陣営の中にも、敬愛する知己は少なくない。それでもなお、私はこの立法の危険性を指摘せずにはおれん」 「話をする人形」 【’87.1.7 朝刊 1頁 (全854字)】  深夜、独り暮らしのさびしさをまぎらわせるために何をするか。若い友人たちの答えはこうだ。(1)電話をかけまくる(2)ビデオを見る(3)深夜放送を見る。聴く(4)コミック誌を読む(5)深夜営業の店でウロウロする。まだまだあるだろうが、昨今はこれに「話をする人形」を加える人がいるかもしれない▼子供だけではなく、若い女性も買うというおしゃべり人形を、試みに買ってみた。かなりのおしゃべり屋さんである。話しかけると、仕掛けられたマイコンが働き、「オカアサン」「オシッコ」と応ずる。オモチャのほにゅう瓶を口にあてるとゴクゴクと音を立てて飲む。途中で瓶を引くと「マダア」と甘える▼こちらが黙っていると、「サビシイノ」といってまぶたを閉じるところなどはなかなかの役者である。サビシイノとつぶやく人形を独り暮らしの若い女性が抱いている図なんて、やはりちょっぴりサビシイ▼視覚、聴覚だけではなく、ここでは触覚がものをいう。それに、抱いて、向き合って、人形の目をのぞきこんで会話をするところに意味があるらしい。目を見つめあっての会話が不得手な私たちも、人形相手だと気楽に向き合える。そこに、日常の会話以上の会話がある、といった触れ合いの錯覚が生まれるのではないか▼一方で、女性の晩婚化が進み、大都会で働く独り暮らしの女性がふえている、といった背景がある。一方で、コンピューターストレスとかテクノ症候群とかの言葉を生む都市の環境がある。おしゃべり人形は、そういう都会の渇きをいやすものの1つの象徴だろうか。コンピューター社会の渇きをいやす人形の声がマイコンの声、というのはこの商品の最高の皮肉だ▼アメリカの企業の第一線で働く男性の中に、机のひきだしに美少女の着せかえ人形を入れておく者もいる、という話をきいた。ひとり静かに人形の着せかえをして、心をいやすのだろう。乾いた時代なのです。 快適な環境をつくる木炭のふしぎな働き 【’87.1.8 朝刊 1頁 (全840字)】  「木炭には、水をきれいにする働きがある」という話をきいて、八王子市の主婦たちはそれをすぐ生活の場に生かした。浅川地区環境を守る婦人の会(加藤文江会長)の人たちだ▼南浅川に流れこむ旧農業用水路には、いまは都市の廃水が流れている。コンクリートのふたのないところからはひどい悪臭が鼻をつく状態になっていた。一昨年の春、みなで作った大量の木炭を、用水路に沈めてみた。木炭を作るには高尾の山で集めた木切れを利用して、ドラムかんで焼いたりしたという▼炭を棒状のまま沈めた。あるいは、八百屋でもらってきた野菜を包む網に細かく砕いた炭をいれて、沈めた。使った木炭は120キロほどだった。そしてこの小さな試みは成功した。あたりの悪臭がうそのように消えただけではなく、アンモニアも減った。水かさがまして炭が流れたあとは、また悪臭がある。そのたびに新しい炭を補給した▼用水が流れこむあたりの水がきれいになったためか、ハヤの魚影がみられるようになった。「私たちの浄化の仕事の影響なのかどうかわかりませんが、去年は蛍がたくさんでました」と加藤さんはいっている▼快適な環境を得るには、まず自分たちの力で、身近にある水や緑や土を大切にする第一歩を踏みだすことだろう。主婦たちの試みはそのことを教えてくれる。この春には、木炭をいれかえ、さらに浄化の場所をふやすよう地域の人たちに呼びかける。ほかの団体と手を組み、南浅川を蛍の乱舞する川にするのが夢だという▼木炭には、ふしぎな働きがある。水の汚れを吸い取るだけではなく、土を改良して地力をつける働きがある。畜産農家はこれをにおい消しに使えるし、木炭生産の副産物である木酢液は殺菌剤にもなる、と林野庁は研究を進めている▼木炭の見直しによって、日本の林業が困り抜いている「間伐材利用」に1つの突破口が開かれるかもしれない。 中国の開放政策の「ゆれ」 【’87.1.9 朝刊 1頁 (全852字)】  南京の高層ホテルのいちばん高い階のバーにいて、まるで香港ではないかと思ったことがある。バーの中を泳ぐ女性たちの深いスリットの入った服も、そのほほ笑みも、その達者な英語もみな対外開放政策の象徴のように思えた▼経済特区の深セン^では、ステレオを持ち、ディスコで踊り、西欧的生活様式を目標にする若者が相当な勢いでふえつつあるようだった。あれが一昨年の旅だから、三点式(ビキニ)も現れる昨今は、もっと開放化が進んでいることだろう▼このごろの中国からのニュースを読んでいて思うのは「ゆれ」の激しさである。たとえばアメリカの星条旗をあしらった意匠のシャツが爆発的に売れたことがある▼当局がそれを「政治的に問題がある」として販売禁止にしたかと思うと、まもなく禁止が解かれたという記事があった。禁じたり、禁を解いたりというゆれの中に、開放政策の難渋のさまを見る思いだ▼上海の人民公園に若者たちが群れ、恋人探しの場所が生まれた。これを地元の新聞が攻撃した。あやうく取り締まりの対象になるところだったが、賛成論がでて、この付きあい解放区はぶじ生きのびたという。ここにも開放と抑制の間のゆれがある▼タブーだった性の問題と取り組んだ小説『男の半分は女』(張賢亮)をめぐっても、賛否のゆれが激しかった。暮れから正月にかけて、上海や北京やで続発した学生デモも、近代化、開放化政策に伴うゆれだろう▼権威のゆれ、価値観のゆれがなまなましく日本に伝わってくることはむしろ、外への窓が開きつつある証拠で、悪いことではない。中国の人たちはこのゆれに柔軟に対処する術を身につけているはずだ▼ただ、党の指導者が、学生に人気のある科学技術大学の副学長に対して「中国のサハロフにでもなればいい」と荒っぽい攻撃を加えているのが気になった。いま必要なのはむしろ、サハロフ博士の事件に学ぶ知恵ではないだろうか。 「組織」 【’87.1.10 朝刊 1頁 (全853字)】  プロ野球の合同自主トレが、そろそろ始まる。この世界での今年の話題は、やはり落合だろう。強過ぎる個性が「組織」になじまず厄介、とトレードされた男が、新しい組織で好成績を上げられるか、生え抜きの選手やコーチとうまくやっていけるのか。世の会社人間たちは、わが身と比べながら注視するに違いない▼総合商社売上高トップの伊藤忠商事が元日付で、組織変更の大幅な権限を全国約200人の部長に与えた。部長は個人の判断で、自由に課を作ったり廃止したりできる。変動の激しい経済環境に即した態勢をめざす「生き残り戦略」なのだという▼円高不況のいま、輸出だけを担当する課の存在が適当かどうか。たとえば、そんな検討が進んでいる。本支社ざっと700の課のうち、すでに数課が統廃合の対象となり、人事が発令された。4月にはかなりの規模の組織替えが予想されていて、ワレはきのうのワレならず、の社員が続出する▼昨春、41歳のとき、大手の都市銀行のエリートコースからスイスの銀行の日本駐在副代表に転職した人が、こんなことを書いていた。「日本の会社では、集団の圧力があって、他人のことを気にしないではいられないし、他人と違っていることも許されない。出世に悪影響があると思うのか、みんな休みもとらない」▼ロンドン支店時代に経験した債券引き受けの仕事に魅力を感じ、帰国後も続けたかったが、会社は認めない。そこへ、得意の分野で働いてほしい、と誘われた。大学を出て銀行に入ったのは「就社」、今度が「就職」、というのが彼の感懐だ▼組織と人間の折り合いは、微妙で難しい。つい最近まで、国鉄職員が退職する際の職場でのあいさつは、たいてい「大過なく過ごさせていただきました」だったそうだ。もう10年以上も前に、国鉄の幹部の1人が「こんなあいさつをしていたら、この組織は間違いなくつぶれる」とつぶやいていたのを思い出す。 <白馬、馬にあらず>の税制改革 【’87.1.11 朝刊 1頁 (全853字)】  馬を飼ってはならない地区なのに小馬を飼い「これはペットだから」とがんばっている人がいる、というアメリカからの短信を読んだ。ペットは馬ではない、だから飼ってもいいという理屈なのだろう▼こちらでも、この馬は馬ではない、とがんばっている人たちがいる。政府・自民党の首脳たちだ。ペット論争にはまだかわいげがあるが、税金の話となると、かわいげがあるなどといってはいられない▼自民党税制調査会が『税制改革Q&A』なる冊子を作った、というので取り寄せて読んでみた。中国では〈白馬、馬にあらず〉は奇弁の代表格になっている。日本流にいえば〈牛を馬という〉である。この冊子はまさにそれだと思った▼売上税は3兆円近い大きな税収を見こんでいる。しかもその税は、最終的には消費者が負担する。消費者が間接的に大型の税を負担するのだ。これを大型間接税といわなければ、世界中から大型間接税なるものが消えてしまう▼それなのに、勝手に「私たちが馬だというのは黒や茶の馬のこと」と定義しておいて「だから白馬は馬ではない」という。これぞ〈朝三暮四〉のごまかしではないか。売上税という名の白馬は間違いなく馬なのだ▼「全事業者の約9割が網の目からもれる。だから大型ではない」と冊子はいう。はたしてそうか。金額でいえば、約9割はちゃんと捕らえられるし、最終的には消費者の財布に響く。網の目が粗いどころか、消費者にとっては〈天網逃れがたし〉である▼「法人税減税が家計に還元されることを考えると、中堅サラリーマンの負担は軽くなる」とも冊子はいう。語るに落ちるとはこのことだろうか。法人税減税のはね返りがあるという楽観的観測のもとに「負担は軽くなる」という。つまり、はね返りがなければ中堅サラリーマンへの思い切った減税の公約は消え、むしろ増税になるということだろう。こういう公約を〈口に蜜あり腹に剣あり〉という。 蝋梅 【’87.1.12 朝刊 1頁 (全803字)】  ロウバイ、蝋梅と書く。この正月の拙宅には、いただいた蝋梅がいけられた。松の内がすぎても、鏡開きの日になっても次々につぼみが開き、馥郁(ふくいく)とした香りはまだ衰えをみせない。黄の花びらはつやがあって、すべすべしていて、しかも半透明なので蝋細工のようにみえる。そんなことから蝋梅と名づけられたのだろうか▼今年はこの花に縁があって、数日前、神代植物公園の知人から「いま蝋梅が芳香をただよわせています。今年は例年よりも咲きっぷりが見事です」という便りをいただいた。便りに誘われて、見に行った▼人気のない冬の公園の一角に近づくと、にわかに風の色が濃くなり、蝋梅特有の香りが流れてくる。青空にとける絹雲のようにやわらかな香りだ。枯れ葉色の世界にあって、その一角だけがまぶしい。老人が1人、座りこんで写生をしている▼黄の花びらはうつむき加減に咲く。外側の花びらは黄で、内側にはチューリップ状の紅紫色の花びらがある。この紅紫色がなくて黄1色なのが渡来したといわれている。だから唐梅とも呼ばれる。宋の詩人、黄庭堅は「金のつぼみ^は春寒に鎖ざし/人を悩ます香は未だ展(の)びず」と蝋梅のことをうたった▼万花にさきがけて咲くこの花の「人を悩ます香」の中にいると、春意が動くのを聴く、といった気持ちになる。霜どけの黒い土の底にはもう春の生気が満ち満ちていることを、香りの使者がいちはやく私たちに告げようとしている。刺激されたように、白梅が2輪、3輪とほころび始めていた▼「幾万の芽のしづかさや冬木立つ」(中島斌雄)。ケヤキやアカシデの裸木のこずえが、心なしかぼおっと明るさをましている。トチノキの芽が光っている。寒明けの日はまだ遠いが、春意の動きは、その千万の芽の静かさの中にもあった。 迫られた自衛隊増強 【’87.1.13 朝刊 1頁 (全855字)】  江戸時代に入って日本は鉄砲を捨てた。厳密にいえば鉄砲の製造を厳しく規制した。このためわが国は当時の最先端をゆく火器の時代から刀の時代へ逆戻りする、という破天荒の歴史をもった▼アメリカの学者ノエル・ペリン氏がこの歴史を『鉄砲をすてた日本人』(川勝平太訳)の中でみごとに分析している。幕府が火器の開発をやめ、世界の他の主導国が経験したことのない長期にわたる平和な、実り多い時代を築きあげた、ということを評価し、世界の軍縮政策はこの経験に学ぶべきだ、と主張する▼戦後の日本も平和国家を看板にしている。ペリン氏はいうのだ。「アメリカの自衛隊増強の圧力に、日本は屈してほしくない」と▼さて、ホノルルの日米安保協議の報告資料を読んだ。ペリン氏の願望にもかかわらず、自衛隊増強は、緊密な日米連携で着々と進んでいることがよくわかった▼苦しかった。だがこれだけの成績をおさめましたと日本側が得意げに報告する。うん、よくやったと米国側はほめ、頭をなでながらつけ加える。「一流の状態になるまでさらに努力をしなさい」▼来年度の防衛予算は5.2%増だ。ドルに換算すると、円高のため実に35%前後の伸び、というからすさまじい。それでも米側は、米議会というトラの威を借りて一層の増強をせまる▼「日本の防衛努力を評価する。でも議会はまだ満足していませんよ」という口説き方だ。日本側も、国内では米国の圧力というトラの威を借りて増強を迫る。この「トラの威」構造のもとでは、GNP比1%枠は破られる運命にあった▼日米は協力して、効率的な防衛態勢をつくるという。しかし効率性を追求すれば、一つの軍隊、一つの命令系統の方が合理的、ということになる。それでは国の主権はどうなるのか。日米間のインタオペラビリティー(相互運用性)という言葉には、何がなんでも自衛隊を強力な軍隊にしよう、というぶきみな響きがある。 世界の気温 【’87.1.14 朝刊 1頁 (全839字)】  零下33度の寒さ、というのはちょっと想像がつかない。中曽根首相を迎えたフィンランドでは、寒さで楽器の音を出せず、儀式が中止になった。首相は背広に6個の携帯用カイロを縫いつけて、市内視察の時の寒さをしのいだという。夫人の心遣いである▼大寒波の襲来で、欧州では凍死者が続出した。冬の寒さには慣れっこのはずのモスクワ市民の間でも「まだこごえ死んでいませんか?」があいさつ言葉になっているそうだ▼気象学者の安藤隆夫さんは、気象庁時代、富士山頂の測候所で観測を続けたことがある。零下20度以下になると寒さも「こわい」感じになるらしい。仕事の最中、感光紙を押さえるピンをうっかり口にくわえてしまった。その瞬間、寒さでピンがくちびるにはりついた。あわててとったが、くちびるのうす皮がピンと共にはがれたという(『気象野帳』)▼一昨年、北極点をめざす旅を続けた女優の和泉雅子さんは、連日、零下3、40度の寒さを体験した。手袋は2枚、靴も、羊やアザラシの革製のものを4つ重ね、カイロを4個身につけたが、それでもたまらなかった▼手袋がバリバリに凍り、手の痛さは地獄にいるようだった。氷をしゃぶったら、たちまちくちびるにくっついて血だらけになる失敗もあった。62日間の頑張りは、相当な精神力だ▼月別の平年気温では、日本の旭川や帯広の1月が零下8.5度を記録している。世界にはさらに寒い所があり、シベリアのベルホヤンスクでは1月の平均気温が零下46.3度だ▼一方、アラビア半島では7月の平均気温37.2度という猛暑の中で暮らす人もいる。「世界の月平均気温」という理科年表の無表情な一覧表の中から、酷寒酷暑に適応する人間の生命力のすばらしさが伝わってくる▼欧州を襲う寒波は長続きせず、首相が欧州を立ち去るころにはおさまるはず、というのが気象庁の「風見」である。 20歳の創造力 【’87.1.15 朝刊 1頁 (全854字)】  ボブ・ディランが、世間に知られたあの抵抗歌『風に吹かれて』を作ったのが、1962年である。ちょうど20歳の時だった、ということはかなり象徴的なことだ。早熟の人もいるし、おくての人もいるから一概にはいえないが、20歳前後は、人がいちばん爆発的な創造力を示しうる年齢ではないか▼ディランは、子どもの時から放浪を重ねた。そして、創造的なこと、それをしたのが自分だと確認できることをしたいと心にきめていたという▼「何回弾丸の雨がふったなら/武器は永遠に禁止されるのか/……いくつの耳をつけたら為政者は/民衆のさけびがきこえるのか?」(片桐ユズル訳)。『風に吹かれて』は、20歳という年齢とニューヨークの街と公民権運動との出あいが生んだ歌だ▼与謝野晶子も20歳を少しすぎたころに鉄幹と出あい、恋をし、奔流のように歌があふれてくる。「その子はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」をはじめとする自己愛の歌、性愛の喜びの歌の数々には爆発的な力がある▼百首会があると、だれよりも早く100首を生むのが晶子で、2番目が石川啄木だったという。ディランもまた、常に歌が心にあふれていたらしく、即興の詩を紙きれなどに書きとめていた▼天才だからこそ、言葉があふれでるのだろうが、では、その爆発的な創造力は天才だけが持ちうるものなのかといえば、そんなことはない。程度の差はあっても、それは多くの若者の心の中にある。ただ、幼いころから、一定の型にあてはめられる教育が続けば、それが心の奥でモヤシのようになってしまう場合だってある。20歳前後になってあふれでる爆発的な創造力を奪いとることに、私たちは力を貸しているのではないか。企業内でも、いちばん創造的な爆発力のある20代の力を、型にはめ、浪費させているということはないだろうか▼きょうは全国で約140万人が「成人の日」を迎える。 専門家養成校の隆盛 【’87.1.16 朝刊 1頁 (全843字)】  専修学校・各種学校などの専門家養成校のことを切り抜きで調べてみた。認識不足だとおこられるかもしれないが、驚いたことが2つあった▼1つ。学校教育法でいう専修学校だけでも生徒数は全国で60万人近くになり、短大を上回る規模に成長していること。各種学校の生徒数をいれれば、これはもう日本を支える一大教育機関ではないか▼2つ。日本の4年制大学は、アメリカの教育専門家に「大学卒業レベルの学習をしている学生は極めて少ない」と批判されたが、それとは違って、職業専門校の生徒たちの多くは、信じられない熱心さで勉強しているようであること▼専門家養成校の隆盛は、1つには企業が「すぐ役に立つ人」を求め始めたからだろう。情報処理関係の分野だけとっても、すぐコンピューターをこなせる実務派の新人が必要なことはわかるし、技術を身につけたほうが就職に有利、と考える若者もふえているらしい▼いってみれば、今の産業構造と既成の高等教育機関とのズレが、専修志向を生んだ。時代の要請が強まると、これからは学校の質についての批判が厳しくなるだろう▼最近、総務庁の行政監察で、専修学校の誇大広告が問題になった。中には(1)資格が取得できない場合でも、取得できると錯覚させるような虚偽の表示をする(2)卒業者の就職率を誇大に記載する(3)定員超過が常態化しているなどの例があった。真剣に学ぼうとする若者たちを裏切ってはならない▼体育専門学校で学び、今はスポーツクラブで健康法の指導、助言をしている青年がいっている。「専門学校でキャンプの実習をした時、テントを張り、仮設トイレを作る作業があった。先生がひと言もいわず真っ先に作業にとりかかった。その手本を見て、これが真の教育だと思った」と▼企業にとってすぐ役に立つ、便利な人間を育てることだけが、専門家養成校の目的であってはならない。 山崎清嗣・高島礦労組書記長の自殺 【’87.1.17 朝刊 1頁 (全840字)】  閉山になった長崎県・高島礦の労組書記長、山崎清嗣さんが自殺した。死を選ぶまでには、うかがい知ることのできないさまざまな心の屈折があったことだろう。自殺の原因はこうだった、と勝手におしはかるのは禁物だが、山崎さんの死からは、親子3代続いたヤマの男のうめき声がきこえてくるようだ▼取材記者に対して硬い表情をくずさず、笑顔をみせることの少ない人だったという。去年、閉山後の慰労会で、山崎さんも酒だるを割った。周りの人が声をかけたがろくに答えず、すぐ姿を消してしまったことがあった。「最近、10キロ以上もやせたよ」と知人に語っていたともいう▼死の直前、東京や北海道に姿をみせた。未確認だが、永平寺に立ち寄ったとも、「組合員は仲よくやってくれ」という意味の遺書があったとも伝えられている▼たとえば閉山から4年たった北炭夕張新鉱の場合、離職者約2400人のうち、就職したのはやっと半数である。地元で職がみつかった人は3分の1にすぎない▼下請けの人も含め、約1600人が離職した高島礦の場合も、再就職は難航するだろう。炭鉱労働者にとっては、他の職種への転身が難しいし、円高不況のさなかでは、求人そのものが極端に少ない▼去年、電力業界の首脳がこういったそうだ。「電力と鉄鋼は昔のカゴかきのように、『石炭』を乗せて長道中をしてきた。ところが相棒の鉄の体力が落ちて、カゴがかつげなくなった」と。ヤマが消える背後にはたしかに、鉄鋼業の不振があった。そしてその背後には円高不況がある▼円高不況によって、日本の失業率は年間平均で3%台に乗り、失業者数は200万人を超える、と通産省は見通しをたてている。敗戦後の混乱期を除けば、失業率が3%台になるのは戦後初めてである▼山崎さんの自殺は、ヤマの悲鳴をのみこむ失業率3%台時代のあらしを予兆するできごとではないか。 胡総書記更迭と開放・自由化 【’87.1.18 朝刊 1頁 (全851字)】  去年の夏、上海の解放日報に〓小平氏と胡耀邦総書記のマンガがのったそうだ。〓氏のほうは、ブリッジを楽しんでいる図である。卓上のカードには「現代化」とあり、右手のカードには「中国式」とある▼胡氏のほうは、背広姿で音頭をとるように両手をあげ「さあ歌おう、新しい曲を」と叫んでいる図だ。胡氏は、上海こそ「開放」と「改革」の機関車であれと呼びかけ、機関車を支援する新しい曲を流し続けたが、志なかばで総書記の地位を追われた▼胡氏には「4つのダメ」という戒めの言葉がある。(1)(判断の)バランスを失い(2)状況の把握ができず(3)指揮するのに熱意がなく(4)幹部としての水準が低いことの4点で、ご本人も「われわれにはみんな経験不足から『ダメ』がある」と自省している。今回は(1)(2)のダメで批判を浴びたのだろうか。しかし批判する側にも、新しい曲に対するバランスある判断があったのかどうか▼その足どりをたどると、変転の激しい中国の権力構造がみえてくる。昔は、共産主義青年団の幹部として活躍した。文革では、反革命修正主義分子だと攻撃されて失脚、文革後に〓氏の側近として頭角を現したがまた挫折、その後再浮上して階段をかけのぼった。かと思うとまた挫折である▼「科学は生産力に転化することで歴史の巨大な原動力になる」という生産力説をとり、科学技術の尊重も説いた。開放政策のためには知識階層の協力が必要だ、という立場である▼だが、開放と自由化は、硬貨の表と裏のようなものだろう。自由化が進めば、当然、党内保守派がいう「精神汚染」がでてくる。学生の主張の中に「一党独裁よりも多党制を」「われわれの社会は主人と奴隷の関係でしかない」という体制批判がでてきて、胡氏の足を引っ張った▼さてこれからは、人民服の〓氏が「さあ歌おう、中国式の新しい曲を」と呼びかけるマンガが現れるのだろうか。 アイドル歌手の握手会 【’87.1.19 朝刊 1頁 写図有 (全838字)】  あるアイドル歌手のファンのつどいと称するコンサートをのぞいてみて、こういう会には入場券のほかに握手券というのがあることを知った。入場券と引きかえに、1人1枚ずつもらうものらしい▼テレビなどで人気の若い女性歌手で、会場は主に中学生で埋まっていた。ざっと1500人。女の子が男の子よりやや多い感じだ▼お目当ての新曲などが2、3曲出て、客席が十分にのったところで司会者がひときわ大声をあげた。「サア、みんなお待ちかねの握手会をやるよッ」。オーッとかキャーッとか歓声が会場にあふれ、立ちあがってガッツポーズをとる子もいた▼しかし、それは一瞬のこと。司会者が「みんな握手券もって1列に並ぶんだ。前の列からいくからね。順番がくるまでおとなしく座ってるんだよ」とことばをつぐと、第1列の子どもたちが整然とステージへ上がった。そして中央で握手して再び元の席へ。そのお行儀のよさは、学校の先生あたりから聞かされる話とは少しちがうようだ▼「キミたち、せっかくの握手なんだから、黙って手を握るだけじゃあもったいないよ。ひとこと話しかけてあげようね、○○ちゃんに」。司会者が景気づけるように声をかけると、紅潮したほおがいっせいにゆるんだ▼レコード会社などの話だと、この握手会というのが、アイドル売り出しには文字通り、いちばん手ごたえのある方法だそうだ。選挙にも似て、スキンシップ時代なのだという。これで全国キャンペーンをやる子までいる▼相手の目を見てニッコリすること。できるだけ両手で包みこむようにすること。これが、アイドル候補たちが会社からいいきかされている握手心得だという。何千人とこなす日もある。真っ赤にはれた手を水で冷やし冷やしがんばるのだそうだ▼アイドル候補は年に数百人も出る。歌のじょうずへたはともかくとして、聞けば、かわいそうな話でもある。 円相場、149円98銭を記録 【’87.1.20 朝刊 1頁 (全853字)】  19日、円相場は瞬間的だが149円98銭を記録した。1年前に200円前後だったことが遠い夢のようだ▼円高にはずみをつけているものの1つに、ジャパンマネーがあるという。機関投資家と呼ばれる日本の大会社や金融機関が投機的な為替の売り買いに使うカネのことだ。その売り買いをとりしきる為替ディーラーが、いまや花形職業になりつつある。30代で、数千億円の資金運用をまかされる場合もある、というから命を削る思いだろう▼(1)皮膚感覚の発達している人、情報の洪水の中でいちはやく流れをつかめる人(2)その流れの展開を自分なりに読み切れる人(3)切りかえのはやい人(4)こだわりがなく、楽観的な人(5)情報をたくさん集められる人、といったところが為替ディーラーの条件だと経済部の仲間はいう▼企業のカネを設備投資に回すよりも財テクに回す、業績の悪いのを財テクで補う、といった思惑が、為替ディーラーの舞台をひろげている。資金を運用することで、本業よりも高い利益をあげる会社が続出するのはまことに異常な状態、という批判もあるが、この勢いはとどまりそうもない▼勤勉な為替ディーラー諸氏の力で、ジャパンマネーは、いまに財テク・オリンピックの金メダルを獲得することになるかもしれない。金メダルをとったとしても、そういう思惑的な動きが円高を進める一因だとすれば、それこそ自縄自縛というものではないか▼そして消費者としての不満は、円高差益還元の歩みがあまりにものろい、ということだ。原油安の影響がなぜこのていどなのか。牛肉や小麦などはなぜもっと下がらないのか。政府のいう差益還元策はかけ声ばかりではないのか▼そういう不満の背後には、この1年間の円高劇第1幕のあと、どういう第2幕があるのか、という不安がある。アメリカ経済に対する不信感がひろがって、より深刻なドル安時代が訪れる恐れはないのか。 ヤンバルの動物保護 【’87.1.21 朝刊 1頁 (全854字)】  沖縄を訪れた稲村環境庁長官はこういったそうだ。「ヤンバルのここにしかいない貴重な動植物に、絶滅の恐れなきにしもあらずだという。自分の目で見、足で歩いてそれを確かめたかった」と▼ヤンバルは山原と書く。沖縄本島北部の山地をさす。その亜熱帯の原生林には今も、天然記念物級のたくさんの生きものが暮らしている。去年の5月、山原を訪ね、世界の珍鳥といわれるノグチゲラの危機について書いたことがある▼原生林にわけいると、生い茂るシイやカシの緑が濃く、体が緑に染まってしまうようだった。クチナシやイジュの花が咲き、まぶしい風の中でサンコウチョウが飛び立つ。メモ帳の上で木漏れ日がゆれ、渦巻くさまに見とれていたことを覚えている。亜熱帯の原生林には、北国の森とは違ったのびやかな明るさがあった▼ノグチゲラは斜面の、やや斜めに立つ木に穴をあけて巣を作ることが多い。よく考えたもので、木の傾いている側に穴をあける。豪雨が木はだを伝わって巣に入り込むのを防ぐためだろう▼森の木が伐採された時、古木が1本、残された。そこに巣が作られた。だが、横なぐりの暴風雨に襲われ、ほかにさえぎる木がないので巣に雨水がたまり、ヒナが死んでしまったことがある▼そのさまを目撃した琉大名誉教授の池原貞雄さんは「このヒナは、死をもってノグチゲラの保護上の問題点を訴えている」と書いた。これ以上、乱伐が続けば、せいぜい90羽程度といわれるノグチゲラの絶滅の日は遠くはないだろう▼では、どうするか。皆伐をやめ、繁殖地では禁伐区域を設けることを急ぐべきだろう。稲村長官は「県指定の鳥獣保護区をひろげ、国指定に格上げすることを検討する」と発言したが、これも大切なことだ▼もう1つ、米軍が山原の演習場内にハリアー戦闘機訓練施設を造るという問題が持ちあがった。騒音公害で、ノグチゲラはますます落ち着けなくなるのではないか。 意志の伴わない歯止め 【’87.1.22 朝刊 1頁 (全859字)】  ある中曽根派の代議士が、防衛費のGNP比1%枠破りに対する国民の反発を心配するといったら、首相は「天のなせるワザだ。天の声がそういうことだから」と答えたそうだ。これはおかしい▼天の声にはいささかかかわりがあるので、諸橋轍次氏の『大漢和辞典』を調べたことがある。天声には「自然に発する民衆の声」の意味があるという。首相のことばがその通りならば、1%枠突破こそは民衆の声、ということになる。民衆はしかし、それを望んでいるのだろうか▼一昨年の朝日新聞世論調査では、1%枠を守れという答えが58%だった。1%枠をやめ、新しい枠をという答えは22%、枠をきめず、防衛に十分金をかけよという答えは5%だ。この傾向が急変したとは思えない。となると、首相は「海のかなたからの声」を「天の声」と聞き違えたのであろうか▼ふしぎなのは、円高のことだ。日本はアメリカから戦闘機や対潜哨戒機を買う。ライセンス生産もあるが、61年度にアメリカに払った金は約2100億円である。1ドル約200円が約160円になったとしておおざっぱに計算すると、62年度は400億円以上も節約できることになる。だがここでも、円高差益の還元はなかった▼1%枠を守るつもりなら、400億円の節減だけでも楽に守れるはずなのに、実際はその分、よけいに買いものをしている。アメリカ兵器産業に払う分は、約10億ドルから約13億ドルにふえている。対米配慮極まれりで、米側が満足するはずである▼「1%を0.004%超えるというが、そのぐらい抑えるのは何でもないはず。こんな財政難の中で傍若無人だ」という経団連幹部のつぶやきがあった。たしかにそうだろう。何でもないはずのことをあえてしなかったのは、歯止めを破るという強力な意志が働いたからだろう▼政府は近く、新しい歯止めをきめるという。守り抜くという強力な意志の伴わない歯止めはあわれだ。 文化庁予算にみる「オーケストラの危機」 【’87.1.23 朝刊 1頁 (全847字)】  井上正澄さんは中学時代からクラリネットを習い、戦前のある時期は、NHK東京サロンオーケストラの一員でもあった。75歳の今も、室内楽のメンバーの1人として時々演奏する、というからクラリネット歴は60年を超える▼眼科医としての井上さんは、ていねいに患者を診る。場合によっては、患者とゆっくりと話しあう。心配ごとをきく。そしてだんだんに患者の様子がわかってくるのを待つことがある。音楽家としての感受性やゆとりが、医師としての井上さんの中に生きているのかもしれない▼その井上さんが「オーケストラの危機」なる短文を『日本医事新報』に書いている。要旨はこうだ(1)フランスでは、文化省予算が国家予算のほぼ1%だが、日本の文化庁予算は0.07%程度ではるかに少ない(2)行政改革で補助金が減り、伝統のある音楽団体も演奏活動が難しくなっている(3)オーケストラ団員の収入はすこぶる低い▼日本では、予算作りにかかわる人たちは、表向き文化を尊重しているようなことをいうが、その実情はかくのごとし、と井上さんは嘆いている▼試みに、62年度の文化庁予算案を調べてみた。総額約360億円で、国民1人あたり約300円である。フランスでは、国民1人あたりの文化予算が約4600円だから、10分の1以下というみじめな状態だ▼たとえばまた、西独のベルリン・フィルには20億円前後の公的補助があるが、東京交響楽団への公的補助は二千数百万円にすぎない。しかもわが国の文化予算は、行革で年々減っている。「民間芸術活動費補助」は、5年前には約12億円だったが、来年度は約7億円になる見通しだ▼行革で痛めつけられた文化は、これからは売上税で苦しめられることになるだろう。日本のオーケストラの危機は文化の危機である。社会の品格を表すものに「ゆとり」があるが、文化の危機は、ゆとりの危機でもある。 弱きをくじく残酷さ 【’87.1.24 朝刊 1頁 (全841字)】  少年たちが、東京・足立の公園に野宿していた男を襲い、こじき、汚い、とののしりながら、重傷をおわせた。棒で殴り、髪の毛をライターで燃やしたそうだ▼中学3年生たちは、進学組ではなくて、長期欠席者が多かった。中卒の子のひとりは無職だった。進学競争の世界からはじかれたものは、受験の季節になるといっそう荒れるという。横浜で野宿生活の男たちが襲われた事件も、冬に起こった▼横浜の事件の少年たちは、学校でも家庭でも、さまざまな意味で「弱者」だった。弱者が、さらに弱いものに攻撃を加えるというかなしくて無残な図は今回も同じではないだろうか▼のけものにされた少年たちが、世間からはみだしたものを集団で襲う。「いじめるとスカッとする」「抵抗するのでおもしろい」といって襲う。弱きが弱きをくじく世界である▼6年ほど前「くたばりかけたジイさんを木にしばりつけ、その目をめがけて吹き矢を吹く」といった残酷な冗談を書いた本が売れたことがある。かつての「ツービート」の本だ▼こういう種類の冗談がうけたのは、作者に世間のにおいをかぎとるカンがあったからだろうか。弱きをくじく心と残酷をおもしろがる心とがぶつかると、火花を散らして、いやなにおいを放つ▼やはり6年前に来日したマザー・テレサはこう語った。「東京で道端に倒れている人を見ました。通行人がだれも救おうとしないのには、ショックを受けました。助けてもまた戻ってくるからといって手をさしのべないのは、その人の尊厳を奪うことになります」▼多くの人は、この「正論」に頭を下げる。下げながらも、内心では公園や地下街に野宿する人びとを迷惑に思っている。助けることよりも「排除」することを願い、「浮浪者一掃」を叫んだりする。人間をゴミのように排除する行為、つまり弱きをくじく行為の残酷さが、子どもたちを刺激しないはずはない。 敵意拡大する防衛費の1%枠はずし 【’87.1.25 朝刊 1頁 (全863字)】  同僚のアメリカみやげに、1冊のマンガの本があった。鳥のような人間のような奇妙な生物のすむユーク国とズーク国の物語である▼2つの国はお互いに敵意をもっている。「ズークのやつらは手にしたパンの下側にバターをぬる。こういう恐ろしいことをするのは邪心のある証拠だ。監視を続けよ」といった調子である▼監視員同士の衝突が起こる。ぱちんこが投石機になり、投石はねつけ機になる。犬に背負わせた大砲が象に背負わせた大砲になり、空飛ぶ巨砲になる▼最後には、1粒で相手の国を滅ぼせる超小型爆弾が発明され、両国ともあわや全滅の局面になる。「恐怖の均衡」の背後には、バターのぬり方の違いといったささいなことから起こる敵意の増幅がある。そのおろかさを、マンガはこきみよく突いている(シェス博士『バター戦争物語』)▼防衛費の実質的な歯止めをはずしたことで、日本はますます地球上の敵意の拡大に加わることになるのだろうか。GNP比1%枠にかわる「新基準」を読み、美辞麗句のそらぞらしさを感じた▼(1)「平和憲法のもと専守防衛に徹する」という。しかし領土領海領空を守ることに限った軍備ではなく、1000カイリの制海、制空をねらうシーレーン防衛を専守防衛だといっても、近隣諸国には通用しない。対潜哨戒機P3C100機の警戒網は世界一の密度だし、それを改造して攻撃能力をつけ「空中巡洋艦」にする構想もある▼(2)「他国に脅威を与えるような軍事大国にはならない」とも新基準はいう。だが円高を計算にいれれば、日本の防衛費はすでに英、西独、仏と肩を並べる規模になっている。軍事大国の定義は別として、この戦力増強が敵意の削減をもたらすとは思えない▼(3)中曽根首相は選挙中「1%枠はできるだけ守る」と公約した。守らないのなら、選挙中にこそ、それを明言し、民意に問うべきだった。守る守るといいながらの1%枠はずしは公約違反だろう。 補助金の罪 岩手・雫石 【’87.1.26 朝刊 1頁 (全870字)】  岩手県雫石町には約2200戸の農家がある。国と県は過去15年間ここに約400億円の農業補助事業を投入した。1戸平均1900万円に当たる▼本紙岩手版の連載記事「近代化のひずみ」はこの補助金の使途を克明に追った。過保護は生産性の向上につながらない。そればかりか、農家に多額の負債を強いることにもなる▼補助金には3つの罪がある。1つは「規格の罪」である。補助金をもらうには、大きくて強固な施設をつくらねばならない。ある集団はリンドウ栽培のために、補助金を得て水田に6棟のハウスを造った。4年目からだめになった。連作障害である。コンクリートを打ったために移動ができなかった▼2つ目は「共同の罪」である。補助金は、原則として個人には出ない。16戸の農家が組合をつくり、補助金を得て28ヘクタールの水田を整備し共同経営を始めた。社会主義国の集団営農のことを笑えない。「日当をもらいに行く感じ」になって、収穫は10アール当たり360キロまで落ちた。解散した去年は600キロもとれた▼畜舎やサイロは、名義を共同にして補助金をもらうが、実際には個人で使っているケースが多い。国の会計検査が近づくと農家は役場で書類整理の“指導”を受ける。納税者にしてみれば、規則通りにやって失敗されるよりも、検査の目をごまかしてでも、税金を生かしてもらった方がまだいい▼3つ目は「保険の罪」である。雫石町に「億友会」というのがある。農協の生命保険に1億円以上かけている人たちで、年1回、農協の招待で温泉に出掛ける。いま約300戸▼補助事業といってもいくぶんの自己負担はいる。それを農協などから借りる。すると万一に備えて、保険にどうぞとなる。契約額2億6000万円でトップの人物は、借金もトップ。年200万円の掛け金を払っていたのでは楽にならない▼最大の罪はいつまでも補助金の実態に目をつぶる農水省の「独善の罪」かもしれない。 「大自然こそ永遠、かつ真の教育者」 【’87.1.27 朝刊 1頁 (全837字)】  教育とは何か。それは大自然を子供と一緒に愛することではないか、と和真人(やまとまこと)さんが本紙の多摩・武蔵野版に書いている。「私たち人間を教育することができるもの、それは大自然だけだと思います。大自然こそ永遠、かつ真の教育者なのです」とも書いている▼67歳になる和さんは、自宅の庭にベンチを置いて通行人に開放したり、吉祥寺で雑学大学を主宰したりして、地域の文化のためにつくしている▼たとえば幼い子供と一緒に1匹のアリの動きを見守る。ベランダに来る小鳥に話しかける。コンクリートの割れ目から伸びる草の勢いに感嘆する。身の回りの1匹のアリ、1羽の鳥、1本の草の中に大自然の力を感じとる。幼いころにそういう体験を刻みつけてやることが大切ではないか、という主張だ▼40億年もの生命の歴史の長さからみれば、人類の歴史はごく短いものだろう。まして、科学文明の歴史は一瞬の光芒(こうぼう)にすぎぬ。その一瞬の光芒で、40億年の生態系の歴史を破壊する愚を犯してはならぬということに気づかせる。人間は自然と対決する存在ではなく、本来、自然の中の一部にすぎないことに気づかせる。自然に学ぶとすればまず、そのことだろう▼詩人の高木護さんは、若いころ、山小屋に住み、時々、頼まれては子供を預かった。親や教師が「問題児」扱いにする少年たちである。山では、木登りを教えた。食べられる草を教えた。風の音色の違いを教えた。あとは子供たちの自発にまかせたそうだ▼山の中でしばらく暮らすうちに、小鳥の声の意味がわかるといいだす子が現れた。子どもの中の心の飢えやひねくれが治ったことを昔は自慢に思ったことがあったが、あれは自分の手柄でも何でもなく、大自然の厳しさ、やさしさが子供たちにさまざまなことを教えてくれたからだろう――高木さんにそんな話をきいたことがある。 「質の高い長寿社会」とは一体何 【’87.1.28 朝刊 1頁 (全849字)】  わが国では、75歳以上の老人で自殺する人が異常に多い。国立公衆衛生院の衛生行政室長、日野秀逸さんによると、75歳以上の自殺者数は人口10万人あたり日本は65.3である。イギリスの14.4、アメリカの19、スウェーデンの26に比べると、はるかに高い▼高齢者の自殺が多いといわれるデンマークの50.4やオーストリアの50.7に比べても高い。以上は1980年前後の国際統計だが、日本の場合、老人の自殺はますますふえている▼「お年寄りにとって住み難い国になっているのではないでしょうか。病苦が原因の場合が多く、その背景には医療制度の問題があります」と日野さんはいう▼本紙声欄に、90歳の老人のつぶやきがあった。「マル優廃止だ、老健法改正だと老人に味方することは何一つないような気がする。私のわずかな年金とばあさんの障害年金でどうやら生きながらえているんだ。ばあさんの世話はこの90歳のじいさんがやっているんだ。食事から洗濯、ふろまで。1日でも早くあの世へ行きたいとばあさんはいうが……」▼中曽根首相は施政方針演説で「世界の模範となる質の高い長寿社会の実現を期します」と胸を張ったが、一体何をもって世界の模範たらんとするのだろう。血の通わぬ、しらじらしい発言ではないか▼最近、経企庁の研究会が「老後の生計費試算」を発表した。65歳以上の夫婦が月25万円程度の生活を送ろうとしても、公的年金の給付は約15万円で、残りの10万円は稼ぐか、働けるうちに蓄えておくほかはない、という試算だった。年金の支給年齢が引き上げになれば、60―64歳の生活はさらに厳しくなる▼働くのはいい。しかし働く機会に恵まれないものはどうするのか。自衛策の1つは、貯金だろう。「内需拡大」だ、さあカネを使え使えと訴える笛の音がいかに高くても、舞台がひびだらけでは安心して踊るわけにはいかない。 トラのしっぽ 【’87.1.29 朝刊 1頁 (全860字)】  中曽根首相が施政方針演説であえて「売上税による増税」にふれなかったのはなぜだろう。共通テストの問題風に選択肢を考えてみた▼(1)表現をあいまいにし、発言内容をぼんやりさせるという日本人特有の「ぼかし」の美意識が働いたもの。(2)国民の厳しい不信の視線をあびて思わず顔をそらす、という「視線恐怖」が無意識のうちに働いたもの▼(3)「売上税創設」というよりも「間接税改革」といったほうが増税感がやわらぐとの親心によるもの。(4)減税分は強調し、増税のことは「改革」といってごまかす。そういう化けの皮をまとうずるい気持ちによるもの。(5)売上税よりも間接税といったほうが翻訳しやすい、という外国重視の感覚によるもの。――正解はたぶん、複数だろう▼一方、流通業界の団体が野党4党と会合をもち、売上税反対で気勢をあげた。この異例の共闘を知って、自民党の安倍総務会長が怒り、「自民党をあまりバカにしてはいけない。トラのしっぽを踏むと大変だ」と語ったそうだ。この発言の真意についても選択肢を並べてみた▼(1)このトラは酔っ払いのトラである。駅などで泥酔中の自民党員を踏むと大変だぞと警告したもの。(2)一瞬、阪神タイガースのことが頭にひらめいただけの話。(3)自民党が「強暴で危険な存在」であることを誇示したもの。(4)このトラは手飼いのトラ、つまり飼いネコのことで、ネコだってなめられたら怒る、と動物愛護を説いたもの▼選挙中、首相を始め、たくさんの自民党候補者が「大型間接税を導入せず」と公約した。誓約書を書いた候補もいた。「私が当選すれば体を張って阻止する」と約束して当選した議員もいた▼それなのに、てのひらを返して公約を破ろうとしている。トラの話は実はあべこべで、トラの尾を踏んだのは自民党のほうだろう。業界や有権者がいくらおとなしいトラでも、こうも強引に尾を踏まれれば、怒りだす。 南極昭和基地、30歳の誕生日 【’87.1.30 朝刊 1頁 (全845字)】  きのう、南極の昭和基地は30歳の誕生日を迎えた。第1次南極観測が国民的行事として報道されていたころ、まだかけ出しだった筆者はよく有楽町の酒場で、先輩記者、矢田喜美雄さんの語る「南極」の話をきいたものだ▼「国際地球観測年の最新資料を手に入れてね。それに各国が南極大陸の観測に参加することが最大のテーマだとあったんだ」。矢田さんは、コップの水で机に「ANTARCTIC(南極の)」と書きながらいった。「この字を見ているうちにひらめいた。これだと思った。それが南極問題にのめりこむ始まりさ」▼敗戦の傷が十分にいえぬ日本人にとって、世界のひのき舞台で活躍することはまだ夢のまた夢だった。だからこそ、この未知の大陸の観測オリンピックに加わり、自信を取り戻すべきではないか。そう本社の役員に訴え、学界を飛び歩き、夢のような計画を事業に変える起動力になった▼矢田さんはベルリン五輪で走り高跳びで入賞した人で、その馬力にものをいわせた。南極のどこへ行くのか。砕氷船はどうするのか。わからぬことだらけだったが、助走は始まっていた▼初期の昭和基地では、日本との連絡は電報だった。今も語りつがれる当時の電報の最短傑作は「アナタ」である。越冬隊員の夫に寄せる妻の思いが、アナタの3文字にこめられていた▼この30年で、昭和基地は「山小屋」から「科学都市」に一変した。電報が電話になった。かつての観測船「宗谷」はソ連砕氷船などに助けられたが、新しい「しらせ」は、豪州の観測船を氷海から救助している▼南極条約は(1)軍事基地をつくらない(2)領土権の主張を凍結する(3)科学観測は各国が協力する、の3原則をうたっている。この条約はあと4年で見直されるが、領土権の主張が噴き出しかねない気配もあるという▼地球上の理想郷を守り抜くことができるかどうか、人類の英知が問われている。 1月のことば抄録 【’87.1.31 朝刊 1頁 (全857字)】  1月のことば抄録▼「年賀はお受けしないといっておりますので、お名刺だけを」。田中元首相邸で門前払いをくった竹下幹事長。「しんぼう、しんぼう、永久しんぼうだ」。のどもとでぐっとこらえて棒をのむのがこの人の特技とか▼「さい銭箱に投げ込んだ人の意図がよくわからない。公のために使った方がいいと判断しました」。大阪の堀川戎神社に投げこまれた当たりくじの5000万円は全額、文化、福祉機関へ。神様も時々味なことをする▼「雑煮祝う膳は厚めに新聞紙」。東京のドヤ街に住む岩崎誠次さんの句だ。「私にとって俳句は生きるってこと。楽しいし、かつ苦しい」▼日本初のエイズ女性患者が発生。「エイズによる死者は、治療用ワクチンが開発されなければ2000年までに1億人に達する」と米厚生省のクープ氏がぶきみな警告▼防衛費のGNP比1%枠が崩れた。「経済が悪く、失業もふえている時に、教育や社会保障費を削って直接の戦力増強だけに力をいれるのは考え直さなくては」と自民党の河本敏夫氏。この人が蔵相だったらおもしろかった▼「必要でないものも、他の自衛隊に取られるくらいならと要求する。他の自衛隊と協力するのは負の思想」という自衛隊幹部のつぶやきがあった。陸・海・空の予算分捕り競争がますます軍拡をあおる▼シカゴ大の入江昭教授。「たしかに米国内には、日本の1%枠崩しを喜ぶ声がある。しかし軍事費をふやすことが逆に日本への警戒や不信を生む可能性がある。ふやさないで一時的に批判を受けるより、ふやすことで警戒心を呼び起こすことの方が日米関係にとって危険だと思う」▼「売上税は、初め小さいのがやがて怪物に育つ。有効な歯止めはあるのか」と批判するのは日商会頭の五島昇氏。「売上税と称する大型間接税には全く不可解なことが多く、無理押しが混乱を招いている」。これも野党の主張ではない。正木正巳東武百貨店会長の発言だ。 財テク 【’87.2.1 朝刊 1頁 (全842字)】  東証第1部の平均株価が2万円の大台に乗った。5000円を突破したのが15年前で、1万円を超えたのが3年前である。つまりわずか3年の間に、株価は1万円台から2万円台になってしまった。こんなに上がっていいものだろうか、と心配するのはどうやら化石人的発想であるらしい▼平均株価の急上昇と「財テク」という言葉の流行とは相関関係にある。本社のデータベースで調べてみると、財務のためのハイテクノロジー、つまり財テクなる言葉は、3年前の新聞にぼつぼつ現れ、昨年になって爆発的にふえた▼「大企業、財テクで高収益」といった用法のほかに、「ボーナス財テク」「大学生も財テク志向」というように、個人の資産運用の場合にも使われる。今はもう、時代の空気を象徴する流行語だ▼円高不況下にあって、企業は設備投資よりも財テクにカネを使う。和光経済研究所の調査では「本業の収益が落ちこんだが、財テクで収益の下支えをした」という企業が多かった。財テクでもうけ、赤字を黒字にした企業もあった▼企業だけではない。個人もまた、低金利時代を迎えて株の勉強を始めた。かくて、株にカネが集まって株価が上がり、株価が上がってさらにカネが集まる現象が生まれた▼財テクの流れはとどめようもない勢いになっている。だが、筆者のような高所恐怖症ぎみのものは、株価の高台がどうもあぶなっかしいものに思えてならない▼平均株価の上昇は、「モノづくりがカネを生む時代」から「カネがカネを生む時代」への変化の表れなのか。産業立国・通商立国から金融立国への変化の表れなのか。そういう変化が、黙々とモノをつくる人をないがしろにする風潮、モノづくり離れの現象を生むことはないのか▼財テクそれ自体は悪いことではない。だが「財テクが収益の大きな部分を占めるようだと社風を損なう」という伊藤昌寿東レ社長の言葉が印象的だ。 日本の中のガイジンさん 【’87.2.2 朝刊 1頁 (全847字)】  やたら日本人論をしたがるのが、日本人であるという人がいた。日本人を論じようとすれば当然、外国人を論じねばならぬ。従って日本人とは外人論を特に好む国民だといえるかもしれない▼ガイジンとはベッドしか使わぬ、コーヒーしかのまぬと思い込み、思い込み通りにガイジンをもてなそうとする。親切な日本人であればあるほど、ガイジンの型に自分を合わせようと努力する▼京都駅前に国際観光振興会のツーリスト・インフォメーション・センターというのがある。京都を訪れる外国人のよろず相談に応じていて、その数は年間8万人を超える。このセンターが外国人2000人から、「日本観光の外国人の行動形態」についてアンケートをとった。そこにあらわれた一般的な行動様式は、次のようなものになる▼宿は素泊まり、3000円ていど。旅館を好む。1300〜1400円で相部屋のゲストハウス、民宿も好まれる。ガイジンは金持ちにあらず、いやたとえ金持ちでも、金の使い方にきわめて細心である。和食を食べ、洋食のレストランへはめったにいかない。英文メニューがなくても別に気にはしない▼タクシーにはめったに乗らない。たとえルートがややこしくてもバスに乗る。「日本のバスはすばらしく、利用しやすく、乗客もとても親切だ」と思う人が多い。バスがなければ歩く。それも節約だけではなくて「歩けば一番その土地のことが分かる」からである▼いま日本人が国際化、国際化と大声をあげている。高校の新教科に「国際」などという科目さえできるという。国際化をねがう都市では横文字の道路標識に大金をかけているところもある。だがガイジンさんは、日本の中で特別待遇を受けることをねがっているとは思えない▼外国人は日本の中ではむしろ「内人」であることをのぞんでいる。国際化が外国人の「外人」化を助長している側面がありはしないか、考えてみたい。 「心をいやす」医療 【’87.2.3 朝刊 1頁 (全839字)】  がんであることを知りつつ、7年間、がんと勇敢に闘ってきた主婦の栗田美瑳子さんが亡くなった。まだ40代の若さだった▼別の病気で、長い間闘病生活を送っている遺伝学者、柳沢桂子さんが栗田さんを励まし続けてきた記録を、去年、この欄で紹介したことがある。あの時は栗田さんを励ますたくさんの便りを読者からいただいた▼夫、躬範(みのり)さんの便りによると、骨がん性骨折、がん性脳出血、肝臓への転移などが重なる中で、栗田さんは「自分は中身の濃い人生を送れて幸せだった」といい、最期は眠るように息絶えたという▼死の20日前、不自由な手で2編の童話風の短文を書いた。「雲の街」と題する小品では、分身である少女が人ひとりいない雲の街を歩いている。だれもいない商店街や駅を通りすぎると、墓地がある。真新しい墓に少女の名が彫ってある▼「少女は自分のお墓に突伏して泣きました。もう病院にも自分の家にも帰れないことがよくわかりました。雲の街はやさしく少女の嘆きをつつんでくれました」。肉体の苦痛から心を解き放とうとする格闘のすえに描いた死の世界であろうか▼死を間近にして、激痛の中で文字をつづった気力にも打たれるが、そこには、苦しみを糧にして、心豊かに一生懸命に生きたことのあかしを残したいという思いがあったのだろう。そういう思いにたどりついた背後には、周囲の支えや励ましがあった▼栗田さんの生と死は、医療の中で「心をいやす」ことがいかに大切であるかを教えてくれる。栗田さんは心を支えてくれる人に恵まれて、たくさんの童話や歌を書き残すことができた。だがそれでも、時には落ちこみ、病状の正確な情報が得られずに苦しんだこともあった▼医療の現場では、医師がセラピスト(臨床心理士)と組んで、患者ひとりひとりの心の治療にあたる形が望ましい、という柳沢さんの主張に賛成だ。 椿まつりの大島を訪ねて 【’87.2.4 朝刊 1頁 (全844字)】  伊豆大島の噴火で、溶岩流が山はだを襲った時、その熱さに反応してそばに立っていた大島桜のつぼみが開いた、という話をきいた▼椿(つばき)まつりが始まった大島を訪ねて、溶岩の塊のすぐわきに咲く赤い椿の花をみた。こちらは熱さに反応したというよりも、焼かれて倒れたシイの枯れ葉におおわれ、窒息しそうな形でもなお生きて、しっかりと花を咲かせ始めた。その姿にはかなりの迫力があった▼噴火から2カ月以上もたつのに、雨を吸った溶岩のすきまからほの温かい湯気がわいている。ふと淡い香りがあって、まさかと思って落ち椿を拾ってみたら、つつましやかな香りがあった。やぶ椿は香りがない、と思いこんでいたのは浅はかだった▼島で椿の研究を続けている尾川武雄さんによると、山を歩き回って、野生の白い花や香りの強い花をみつけたという。甘い香りを放って、「香紫」と名づけられた椿もある▼島内を1周した。銀色の海に小さな雲の影がある。しおさいがあり、風が鳴り渡ってシイの大木が激しくゆれている。ところどころに椿並木があって、黒ずんだ葉が道の天井になっている。散った花が道の両端を赤紫色や金茶色に染めている▼前日の雨や雪が幸いして、葉は洗われ、1枚1枚が鋭く、みずみずしく光っている。200年、300年の島の歴史をみてきた老木がさりげなく枝を広げて花を咲かせている。メジロが黄の花粉をあびながらみつを吸っている▼かつてこの島では、椿は生活の中心だった。椿の防風林は荒れ狂う海風をやわらげた。その木は質のいい木炭になった。その実は椿油になり、灯油、髪の油、揚げものに使われた。椿油の収入を生計の中心にする島民が少なくなかった。子供たちは、即製のササのストローで椿の花のみつを吸った▼今は椿油や木炭の生産は激減したが、大島はやはり椿の島だ。1泊の旅でも、心が椿色に染まった。きょうは立春。 防衛費 【’87.2.5 朝刊 1頁 (全857字)】  最近のロサンゼルス・タイムズ紙の社説が「日本の再軍備を大幅に加速させるような圧力をかけることは賢いことではない」と訴えている。なにを今ごろになって、などとはいわない。その通り、それは賢いことではない、とすなおに受け取っておきたい▼社説はさらに「第2次大戦中のいまわしい記憶をもつ東南アジアの国々は、日本の強大な軍事力の復活を望んでいない。日本はむしろ経済援助を拡大して、東アジアの平和と安全に貢献せよ」とも主張している▼防衛費1%枠廃止のあと、米国内に、日本の軍拡に対する警戒心がでてきた。キッシンジャー元国務長官も、ワシントン・ポスト紙で「1%枠を破ったことで、日本が近い将来に軍事上の大国になることは避けがたいことになった」と警告している▼数年前、カナダ戦略研究所のR・B・バイアース氏も、米国は日本の軍拡を促すことに慎重であれ、と苦言を呈していた。領土防衛の枠を超えた再軍備を果たしたあと、日本は米国のいうとおりにはならなくなるだろう、という主張だった▼円高もあって、日本の防衛費はすでに英、仏、西独に並ぶ水準に達している。歯止めなき軍拡への懸念が深まってきたのは当然だ▼中曽根首相は国会で「1%枠がはずれてもカギはちゃんとかかっている」と答えた。しかしいくら強弁しても、世界の多くの識者は「カギははずれた」と受け取っているはずだ▼舞台は予算委員会に移る。そこで、18兆4000億円という5カ年総額明示のからくりが暴かれるかどうか。第1に、この計画では、人件費や兵器価格の値上がり分が認められている。結果的に、19兆円、20兆円とふくらんでも、それを抑えこむ歯止めはない▼第2に、新兵器を頭金だけで買いこみ、膨大なつけを次の5カ年計画に回して予算をふくらませる、という手口がはやるだろう。それを抑える歯止めもない。ふくらし粉だらけの歯止めなんて、だれが信じよう。 熱烈節約精神 【’87.2.6 朝刊 1頁 (全846字)】  「日本の大企業のトヨタでさえ、一度使われた封筒を何度も繰り返して使い、節約に努めている。われわれもこれに学ぼう」と北京日報が書いている。消費熱をさますのには熱烈節約の精神が大切だ、という主張である▼節約精神といえば、本紙夕刊の「ウイークエンド経済」を開くと、筆者は真っ先に『ケチ風土記』を読む。落語家の先代、桂文治が寄席で気分が悪くなったので、だれかが大型のタクシーを呼んだ。文治が目をむいて「大型に乗るくらいなら、死んじゃったほうがましだ」といった、なんていう話はばかばかしくて、おもしろい▼船場問屋連合会長の西岡義憲さんは、靴下を毎日「なんぼかずつ回してはく」。足のつめもこまめに切っておく。そうすると、靴下は7倍も長くもつそうだ。洋服は20年から25年もたせる。喫茶店で使わなかった砂糖は袋のまま持ち帰る。そのように節約しながら、一方では福祉施設への寄付は怠らない、というところに、ケチ道の美意識があるのだろう▼さて、中国に「模範例」とされたトヨタは、外からの郵便封筒を社内便用に使っている。封筒の表に白い紙をはる。そこには、社内の発信者、受信者を書く欄が5段ある。5回使うと、また白い紙をはり、封筒がぼろぼろになるまで使う、というからすごい▼同じような節約運動をしている企業は少なくない。日立製作所は、封筒再利用のほかに(1)報告書は用紙1枚にまとめる(2)使った紙の余白や裏をメモ用紙にする(3)鉛筆はキャップをつけてシンがなくなるまで使う、というほど物の命を大切にしている▼地球の資源を守るうえで重要なことは、古紙の再生だろう。新聞用紙の場合、古紙のまじる割合は30%から40%になっている。わが国全体では、古紙の入荷量は年々ふえてはいるが、一方に古紙価格低迷の悩みもある。古紙の利用や再生を進めるために、さらに知恵を集めねばならぬ。 名古屋大学の「平和憲章」 【’87.2.7 朝刊 1頁 (全852字)】  「わが国の大学は過去の侵略戦争において、戦争を科学的な見地から批判し続けることができなかった。むしろ大学は、戦争を肯定する学問を生み出し、軍事技術の開発にも深くかかわった」▼こんど名古屋大学が制定した「平和憲章」の前文には、そう書いてある。昔の名古屋帝大は、昭和14年に生まれた。「北支開発、中支振興の一基点として君国にご奉公」することを目的にして創設されたという。戦争政策に協力したことの苦い反省が憲章の土台になったのだろう▼学長の飯島宗一さんは病理学者として、長い間、広島の被爆者たちと接した人だ。「大学は人間社会の未来に責任を持つところだから平和を考えるのは当然だ」といい、この憲章を「天地に恥じないよう骨太く利用する」ともいっている▼たとえば第2次大戦中、理論物理学者のオッペンハイマー博士は、原爆の完成を指導した。そこには、ナチスが先に原爆をつくるかもしれない、という危機感があったはずだ。科学者を軍事協力にかりたてる力を阻むにはどうしたらいいのか、ことはそう単純ではない▼今回の平和憲章運動では、「就職にさしさわりがある」と署名を拒む学生も少なくなかったそうだ。教官、職員の署名率が8割近いのに、学生は5割以下、というところにも、問題の難しさがある▼文部省の科学研究費は、6年前が約360億円で、来年度は約450億円になる。防衛庁技術研究本部の研究開発費は約250億円だったのが、約650億円にふくらんでいる▼つまり前者と後者の重みは、完全に逆転している。今後、軍関係機関の研究費の波はますます高くなり、大学の塀を乗り越えることだろう▼平和憲章はこううたっている。「いかなる理由であれ、戦争を目的とする学問研究と教育には従わない」と。軍関係機関との共同研究を行わないし、これらの機関からの研究資金を受けいれない、と自らに厳しいおきてを課している。 国鉄用地は「民衆の宝」 【’87.2.8 朝刊 1頁 (全879字)】  1坪(3.3平方メートル)100万円の土地が1000万円に化けるのだから、国鉄商法もかなりのものだ。東京都江東区の貨物駅の用地約2000坪が公示価格の10倍の200億円強で売られたという▼燃えひろがる地価高騰の猛炎にかこまれ、ちまたには恨み、憤り、のろいの声があふれているのに、その炎に油を注ぐようなことを平気でする。炎が燃えひろがろうとどうしようと、もうかりゃいいのさ、という心理が働いているように思えてならない▼国鉄は、分割・民営化のあとは3000ヘクタール以上の土地を売る予定だ。すでに汐留貨物駅跡地の周辺の浜松町では、地上げ屋が暗躍、地価がはね上がっている▼試みに、浜松町1、2丁目を歩くと、「廃業しました」「転居しました」という張り紙にであう。ラーメン屋もやきとり屋も店を閉め、まわりをトタンで囲んである▼くしの歯がかけたように、売られた家が壊されてゆく。都市開発の名のもとに向こう3軒両隣が崩壊すれば、近所づきあいが支えてきた土着の文化もまた、崩壊することになるだろう▼国鉄には用地利用の大原則をたててもらいたい。(1)売る場合は、地方自治体を優先させる(2)公共の目的に使うことを優先させる(3)転売を禁ずる(4)利権あさりの対象にして地価高騰をあおることを避ける(5)用地売却はガラス張りで行う。つまり、国鉄用地は「私」のものではなく「民衆の宝」だということをきちんとわきまえるべきではないか▼3000ヘクタールの用地を売ると約7兆円になると国鉄はいう。だが、公示価格で計算してもその2倍の約14兆円になる、という市民団体の報告があった。そうであるならば、公示価格の何倍もの値段で売ってもうけることを考えるよりも、むしろ地価抑制に協力して「国民負担」を軽くすることを考えるのが筋だろう▼立つ鳥跡を濁さず。最後の跡地問題で、国鉄は民衆の宝を守った、と歴史に刻まれるような仕事をしてもらいたい。 「喫煙と健康女性会議」結成 【’87.2.9 朝刊 1頁 (全832字)】  全米6800の連邦政府ビル内では、6日からたばこが吸えなくなった。執務室はもちろん、会議室も廊下も喫煙禁止になり、吸えるのは数カ所の喫煙コーナーだけである。その理由を、政府ビル担当のゴールデン局長は、こう語っている。「喫煙は、たばこを吸わない人の健康までむしばんでしまう。だから、たばこを吸う人、吸わない人が共通に使う場所での喫煙は、もはや許されないのです」▼同じ6日の夜、日本では「女性はたばこの社会的被害者、たばこの害から子どもや女性やおなかの中の赤ちゃんを守ろう」という会が旗揚げした。「喫煙と健康女性会議」(東京都世田谷区上用賀4ノ22ノ13)である▼日本では女性の9割近くがたばこを吸わない。ところが、家庭で、職場で、たばこの後始末や灰皿洗いをさせられているのはほとんど女性だし、女性が男性のたばこの煙に異議を申し立てるのは、相当に勇気がいる。それを口にして「やさしさがない」「女らしさに欠ける」「協調性がない」などといわれ、職場の居心地が悪くなってしまった、と嘆く女性は少なくない。その弱い力を結んで……と、この会が生まれた▼いま、欧米と日本のたばこ産業界はおとなの男たちのたばこ離れに頭を痛めている。そこで「男性から女性へ」「中年層から若者へ」「先進国から第三世界へ」と売りこみの標的を移しているらしい▼だが、たばこの害は男性よりも女性に、おとなよりも年少者により強力であることが、すでにわかっている。妊婦の場合、周りの人が吸っても、胎児の健康に悪影響があるという▼名前は女性会議だが、会員の資格に性差別はないそうだ。男性会員第1号である予防がん学研究所長の平山雄氏は、会の門出を祝って、たばこの罪を訴えるいくつかの川柳を披露した。「家族にがん 亭主吸うなら留守がいい」「この一服 一服ごとに がん育つ」 高松宮の即時終戦論 【’87.2.10 朝刊 1頁 (全854字)】  昭和19年、といえば敗戦の前の年だ。9月、高松宮さまは、当時の海軍少将、高木惣吉氏に「無責任な強がりをいって戦局を引き延ばすことはもってのほか」と即時終戦論を説かれたという▼高松宮さまは、当時の秘書役だった細川護貞氏にもこういわれている。「絶対国防圏(小笠原―トラック島―ニューギニア西部を結ぶ線)を侵される場合は、負けと断ずるをはばからず。然れども此の如き認識は、東条を初め首脳部には、少くも現在はなし」。さらに「足腰立たざるまで戦ふ如きは愚の骨頂にして」とも説かれている▼残念ながら、わが国がポツダム宣言を受諾したのは、足腰立たざるまで戦ったあとだった。あのころ、日本がなぜ、早期終戦に積極的に取り組めなかったのかを問うことは、歴史に学ぶうえで大切なことだろう▼昭和18、9年ごろ、アメリカ国内にはすでに、戦後の日本をどうするかという構想があった。一口でいえば天皇制は維持し、日本国内の自由主義者に力を与えて政治改革を行う、という構想だ。日本がもしも国をあげて即時終戦に取り組んでいれば、18、9年の段階で戦争を終わらせることができただろう▼だが、良識ある人びとのひそかな努力にもかかわらず、即時終戦論は力にならなかった。さまざまな理由の中の1つは「被害待ち」の論理だ▼たとえばこういう主張があった。「国民は事態を知らない。1、2度爆撃を受けるなり、本土上陸されて初めて、国民も終戦への機運に向かう」と。戦局を正確に知らされていない国民に、戦局を知らせるために惨禍を味わわせる、という恐るべき議論だった▼そして私たちは国民に戦局を知らせえなかった言論の責任、戦争政策にからむ秘密主義の恐ろしさという問題に突き当たる。高松宮さまには「戦争終結の仕事は陰でコソコソやるな」という発言もあった。戦争政策を抑える手段の1つは公開の原則である、と思われていたのだろう。 職員の国鉄離れ 【’87.2.11 朝刊 1頁 (全845字)】  4月から分割・民営化される国鉄の新会社への採用内定通知が、間もなく本人に手渡される。知らせを待つ職員や家族には、落ち着かぬ日々だろう▼ところが、ここにきて、おやっと思うことが続いている。新会社の採用枠21万5000人に対して希望者はわずか4300人上回っただけだという。しかも人気があるはずの本州の3旅客会社は定員割れで、その数は合わせて9000人にもなる。東京では関連企業への再就職話をあわてて中止させたりしているというから、聞いていた話と大ちがいだ▼国鉄に残れるチャンスがふえるのは結構なことと思う。だが、それだったら「余剰人員問題こそ国鉄改革のカギ」とあれほどに宣伝され、組合間の生き残りをかけた確執や人活センターへの配属をめぐる騒ぎが続いたのは、何だったのか▼だからこそ、職員の国鉄離れにつながった、といえるかもしれない。本紙に希望退職を申し出た人の声が載っていた。「国鉄がバカらしくなりましたよ」「だれかがやめねばならないので見切りをつけた。職場は活気がなく暗かった」「国鉄に35年いましたが、この1年間の職場の雰囲気はギスギスしてひどかった」▼このことば通りだとすれば、国鉄の職場は相当に傷ついている。力を生かせる場所を求めて優秀な技術者も去った、と国鉄の幹部が嘆いていたが、当局も予想外だったという3万1000人もの希望退職者の数が物語るものは深刻だ▼元国鉄幹部に会った。こんどの改革は国鉄にとって、長期債務のくびきからのがれたこと、新会社の経営者に人を得れば政治の介入を拒めること、などの点でありがたいが、すべては人だ、と話していた▼人員を整理して身軽になること、それは国鉄改革の大きな柱とされてきた。そのために当局側が打ち出したさまざまな施策が、国鉄に残る人びとのこころまで傷つけていないか。そこが利用者の国民には気がかりだ。 うそをつきたがる父 【’87.2.13 朝刊 1頁 (全868字)】  中島らもさんの『明るい悩み相談室』向きの投書が筆者の所に来ました▼私の父はうそをつきたがる悪い癖があって大変迷惑しています。この前も「家族が反対する大型サラ金ローンなるものは絶対に借りないッ」と宣言して、母さんがフフフと暗く笑ったら「おれの性格からいって、一度やらないといったことは絶対にやらない。おれの顔がうそつきにみえるか」と、いつものせりふです▼すぐ後で、かけごとで失敗したのか、300万円も借りちゃって、それでもこれは新型ローンで大型ではないといいはって母さんに首をしめられていました▼悪かった、と謝ればかわいげがあるのに「約束違反すれすれだが違反じゃない」と強弁するので、居合わせたおじいちゃんに「まだこりないのか、このおしゃべり野郎」と意見されていました▼「あすから節煙だッ、1日5本」と約束しながら3日後には6本になります。「5本と6本はわずかな差だ。家族の皆さんも理解してくれるだろう」とか「本数規制より総額規制がいい」とごまかすので、いい加減私もうんざりしています▼家族旅行の前になると、急にうちひしがれて、寝たふりをして中止にし、中止になるとそわそわしてゴルフに行く、なんていう得意技もあります。こういう性格、何とかならないものでしょうか(うそが怖い少女)▼らもさんにかわって愚答。さぞお困りでしょう。でも、立派なお父さんではないですか。お父さんは「うそつきやまん」の勇猛心で、あなたが将来、政治家のうそにだまされないための実習を課しているのです。首相が「大型間接税はやらない」なんて公約しても、あなたならもう見破ることができますよね▼お父さんがうそをついたら(1)父さんの心は白さも白し富士の白雪とやじる(2)うそつく顔とはこんな顔とはやしたてる(3)針の束をちらつかせ針1000本飲ますとおどす。そうやって家族そろってうそつき道に精進するのも楽しいもんですよ。 貝塚茂樹さん死去 【’87.2.14 朝刊 1頁 (全847字)】  京大名誉教授の貝塚茂樹さんは、昔、呉清源9段にけいこ碁を打ってもらったそうだ。局後の雑談で、呉9段がいった。「理想的な対局とは、先手後手が最善をつくして最後に持碁になることです」と▼勝つか負けるかの世界を超えたところに理想を求めるこの話に、貝塚さんは強い印象を持ったらしい。貝塚さん自身も、ものごとを勝つか負けるか、黒か白かで割り切ることのきらいな人だった▼たとえば「足を洗うべし」という随筆の中で書いている。濁流をきらって清節を守ろうとする中国の戦国時代の人、屈原に向かってある漁夫がいう。「滄浪(そうろう)の水すまば、もって我が冠のひもを洗うべし。滄浪の水濁らば、もって我が足を洗うべし」と▼時勢に迎合するのはゆきすぎだが、背をすっかり向けるにもあたらない。ほどほどにつきあっておけ、という中国人の考え方がここにはある。黒か白かで割り切らず、中庸の道を行くのをよしとする心である▼東洋史学界の長者、といわれた貝塚さんの中にも、このつり合いの感覚があった。「わが歳月」の最後にこんな述懐がある。「人を押しのけ、人に勝ち、他人に自慢しようと思ったことはあまりないと自分では思っている」。しかし、とつけ加える。「どんなところで他人をおとしいれたり、みじめな立場に追いこんだりしたことがあるかもしれない」。自らを省みるみごとな均衡感覚である▼棺をおおうて事定まる。この文句はふつう、人の死後になって初めてその人の仕事の評価が下せるという意味に使われている。だが、原義は「人が死ぬことによって、その人の一生の仕事が終わりを告げる。結末がつく」という意味だったらしい▼この原義の方がより意味が深い、と貝塚さんは書いている。生きて、生き抜いたあとに、かけがえのない自分の人生に結論をつける。82歳の貝塚さんもそのようにして、死の瞬間にゆきついたのであろうか。 秋山さんのコックへの道 【’87.2.15 朝刊 1頁 (全840字)】  秋山匡一さんは大学進学の道を選ばなかった。高校時代、家族で東京・日本橋のレストランへ行った時、きびきびと立ち働くコックさんの姿を見て、コックになる、と心にきめたという。27年も前の話だ▼40をすぎ、今は新宿でシチューの店を開いている。凝り性で、前菜には旬(しゅん)のものを使う。白い皿をカンバスに見立て、盛りつけの形や色の組み合わせにも凝る▼店が終わった後、話をきいた。「高校の時は楽しかった。ぼくらの仲間はみなひどい成績で、悪さをして担任の先生によく殴られたもんですが、日曜になると先生の家に押しかけましてね」▼先生はみなが隠れて酒を飲んでいることを知っていて「ほかでは絶対に飲まないと約束しろ」といって、ウイスキーを飲ませてくれた。仲間は約束を守った▼級友の1人が退学させられそうになった時、先生は校長の前で土下座して嘆願したという。仲間もかけつけて土下座し、その子が退校を免れたこともあった。「みな、今は立派にやってます」▼学校では勉強を敬遠していた秋山さんが、コック見習になってからは猛然と勉強を始めた。ひそかに料理のメモを取った。料理の勉強のためにフランス語の自習を続けた。展覧会にもよく行った。名画を見て、目をこやすためである▼少年時代、豆盆栽に凝っていたことも幸いした。丁寧に根気強く、やさしい気持ちで美しいものを作る。それは料理道にも通ずるものがあった。やがて店を持ち、今は味にうるさいたくさんの常連がついた▼そんな話をききながら、ここにこそ、本ものの教育がある、と合点することが多かった。受験戦争や学歴社会に背を向けて、客に「うまい」といわれるものをつくる楽しさに熱中してきた人の話には、奥深い味があった▼秋山さんは、評論家秋山ちえ子さんの長男である。大みそか、長男は母に大きなローストビーフを贈るのを常にしている。 「公約違反」と「党議違反」 【’87.2.16 朝刊 1頁 (全848字)】  「公約違反」のおもりと「党議違反」のおもりとをはかりにかけたらどちらが軽いのだろう。自民党にとっては、公約違反のおもりの方がはるかに軽いようだ▼売上税に反対し、党議違反で深谷、鳩山両代議士が「厳重注意」をうけた。だが、自民党内で今なお売上税に反対している硬骨の士はほかに何人もいる。党県連にも根強い反対意見がある。そういう声を抑えこもうとした税制改革推進会議に対して、「大政翼賛会の時みたいだ」という批判が党内にあった▼筆者はどうしても、中曽根首相の公約にこだわり続けたい。たとえば首相は選挙中の記者会見で、減税の財源についてこういう重要な発言をしている。「財源はいろいろ知恵を使って努力したい。国有財産を多く持っているし、NTTや日本航空の株もある」と▼大型間接税はやらない、財源には間接税以外のものをあてるよう工夫する、という公約で有権者をその気にさせておいて、選挙後は「売上税は所得減税の財源のために必要なのだ」と開き直る。こういう政治手法が続けば、有権者はもはや、宰相の選挙公約をぺらぺら燃えるかんなくずのようにしか思わなくなる▼首相はさらに、選挙中、大型間接税導入は考えないし、「野党がないものをとらえて宣伝がましくいっているのは、四谷怪談の季節だからお化けがでたのかもしれない」と発言した。自民党周辺のお化けは、選挙の季節がすぎるとどうやら急に生き返るものらしい▼「今度のような大型で、大がかりな税制改革」をするには「身命をとす」と首相はいう。この決意を、なぜ堂々と選挙中に明言しなかったのか。明言を避け、今になって、国民や自民党の中にも反対が根強い大型間接税の導入を強行しようとする。「大型間接税を含む大がかりな税制改革」はやはり、お化けではなかった▼厳重注意、いやもっと厳しい処分の対象になるのは、公約違反の張本人の方ではないですか。 馬毛島上空に飛び交うものは? 【’87.2.17 朝刊 1頁 (全861字)】  去年、鹿児島県の南方にある無人島、馬毛(まげ)島にトノサマバッタが大発生し、空いちめんをおおったことがあった。その馬毛島がこんどはOTHのことで話題になっている▼OTHといっても、あまりなじみがない言葉だが、オーバー・ザ・ホライズンの略で超水平線レーダーのことだ。米軍が開発中の新兵器である▼そのOTHを馬毛島にもってくるために、トノサマバッタならぬ黒幕が暗躍し、20億円という大金が政界に流れた、という記事があった。乱脈融資で問題になった旧平和相互銀行グループがこれにからんでいるそうだ。奇々怪々な事件で、東京地検ご自慢のレーダーでも真相を捕らえるのは容易ではないらしい▼OTHって何だろう。まずこれはきわめて長いウサギの耳である。現在のレーダー網は、日本列島の周辺約400キロ以内を監視しているが、OTHは3000キロのかなたを監視しようとする。ただし、きわめて精度が低くて、2000キロ、3000キロ先の物体を確実に捕らえ得るという保証はない▼しかも、強い電波を使うので、近在の住民に迷惑をかける。馬毛島が候補になったのも無人島だったからだろう。数年前までは、自衛隊内にもOTH導入には消極論があった▼これを導入した場合、情報分析の主導権はアメリカ側のOTHレーダー網が握り、日本は手伝う形になる。それは憲法で認められていない集団的自衛権の行使になる、という主張もある▼にもかかわらず、1000カイリシーレーン防衛の名のもとに、自衛隊は導入に踏み切ろうとしている。用地や付帯施設を含めれば500億円、といわれる高価な買い物だ。防衛上の必要性よりもアメリカの要請が優先する、ということか▼トノサマバッタはふつう空を飛び回らないが、大発生と共に変身して飛び回りだしたという。馬毛島もまた、変身してレーダー基地になるのか。「20億円」もの政界工作費といえば、ただごとではない。 テレビショッピングと視聴率 【’87.2.18 朝刊 1頁 (全850字)】  テレビを見て電話をすれば品物が届く。民放にテレビショッピング番組が登場して10年以上になる。最初は生活情報番組の一部で、長くて15分くらいだったが、いまでは1時間が普通である。そのうえ、バナナのたたき売りに似たものまで現れだした▼ある電気器具店提供の番組はこんな具合だ。店の営業マン氏が電気冷蔵庫などをつぎつぎに取り出し、まず「メーカー希望小売価格」なるものを示す。そして「そこを、きょうは特別に半額で!」とやる。すかさず司会の芸能タレントが「もうひと声!」と値切る。アナウンサーまでが「その端数は取りましょうよ」などとかけ合う▼限定販売でもある。「50点限り!」などとやっている。値切り攻勢が激しく続くと、営業マン氏が困った表情を見せる。ひと呼吸おいて、「よし、負けた。その代わり、予定の50点限りは30点限りだ」といったりする▼おまけ商法も盛んなようだ。たんすに花瓶や置物をつけたり、机に本立てをつけたりする。こんな調子で貴金属や毛皮のコートまで売られてゆくのだ。1回の放送で何億円も売り上げたりする。百貨店並みである▼世は通信販売の時代という。居ながらにして買い物ができる。テレビショッピングはそのうえ、バーゲンセールまでやってくれる。なおさら結構なことかもしれない。が、これには衝動買いの誘惑も強い。それに、はたしてこれが、本当に番組といえるのかどうか▼もちろん商品情報は入っている。産地紹介などもある。商品選びのコツを教えたりもする。しかし、最後は「お求めは今すぐ電話で」である。もしこれを広告とみるなら、CM時間はぐんとはね上がって民放の放送基準を超すだろう▼番組だとするなら質はいうまでもないこと、視聴率すら問題でなくなる。いかに視聴者に多く売りつけるか、その手法だけが番組制作者に追求される。テレビの誇りのたたき売りにならなければ幸いだ。 青年海外協力隊 【’87.2.19 朝刊 1頁 (全841字)】  高橋智博君がアフリカに渡ったのは3年前の夏だ。青年海外協力隊員の1人としてザンビアへ行き、写真の技術を教えるためだった。新聞配達の仕事をしながら写真の勉強を続けてきた青年である▼生まれて初めてカメラを手にするような人たちに撮影の楽しさを教え、現像術を教えるのは大変なことだったらしい。それでも、政府内に写真部を作り、専門の写真家をおくことの手伝いができた。帰国した高橋君の企画で、今、小さな写真展が東京で開かれている。自分で撮った写真ではなくて、ザンビアの8人の新人写真家が撮った初々しい作品である▼そこには「ふだん着のアフリカ」の世界があった。わが家の前にござを敷き、母と子が昼寝をしようとしている。眠りにつく赤ちゃんを母親が見守っている▼はちきれそうな乳房を出して、赤ちゃんにおっぱいを飲ませている若い母親の笑顔がすばらしい。白い歯が光っている。靴屋さん一家が、やや緊張した顔つきで食事をしている。酒場の女がなぜか鉄格子の仕切りの中から地酒を売っている。酔っ払いにからまれるのを防ぐためだろうか▼飢えたアフリカでもなく、野生動物のアフリカでもなく、そこにはザンビアの人たちのごく日常的な光景があった。その何でもない暮らしの光景を眺めているのは楽しいし、1枚1枚に新鮮な発見があった▼異常なできごとは、ニュース写真になって外の世界に伝わりやすいが、日常のありふれた光景はありふれたものであるだけにかえって伝わりにくい。しかしその何でもない暮らしの光景の中にこそ、地球人同士がわかりあえる共通の広場があるはずだ▼「ふだん着のアフリカの姿を日本に知らせることこそ、私の本当の仕事だと思っています」と高橋君はいう。このことに気づいたのは大きな収穫だ▼この青年だけではない。今、約1700人の日本の若者が海外協力隊員として世界中で働いている。 救急病院の「たらい回し」防ぐ 【’87.2.20 朝刊 1頁 (全870字)】  東京都では、この2月から救急病院の「たらい回し」を防ぐてだてがとられている。滝口邦彦さんのいたましい死の教訓が実ったのだろう▼明大生の滝口さんは、スーパーに押し入った強盗を追いかけて刺された。一昨年の12月、東京の路上で起こった事件をご記憶の方も多いだろう。この時、救急病院のたらい回しがあった。電話連絡で6番目の病院がみつかるまでに約40分もかかり、まもなく滝口さんは亡くなった▼同じ月に357人の重体患者があった。そのうち20人が救急センターのある病院を5カ所以上も断られていたという▼さまざまな反省があった。(1)病院との連絡にてまどる。交換から担当科の内線へつながり、看護婦が医師にとりつぎ返事をもらうまでに時間がかかる。間違ってほかの科につながる場合もある(2)病院側が受け入れるかどうかを判断するのに時間がかかる(3)ベッドのあきがないために断られることが多い▼すでに、いくつかの改善策がとられており、2月から救急の運営要綱が改正になった。(1)病院内の救急センターに専用の直通電話をおく(2)電話口では原則として医師が応対する(3)院内の連絡をよくし、医師が即答できる仕組みをつくる(4)センターのベッドはなるべくあけておく。満床でも、重症の場合は応急処置をする▼(4)では、こういう例がある。三鷹で64歳の男性が脳出血で倒れた。近くの日赤病院は満床だったが、とにかくここで応急処置をし、その後、文京区の大学病院へ送った。とにかく一刻もはやく手当てを、の精神である▼最近、宇都宮市や松本市などは、医師が救急車に乗りこんで応急処置をする「ドクターカー」を実験的に行っているそうだ。これもまた一刻もはやくの精神だ▼全国の救急車の出動は年間、230万件を超す。14秒に1回の割合でピーポーが鳴るわけだが、軽症者の例も少なくない。救急車をタクシー代わりに頼むような乱用もあるという。 鉄冷えの季節 【’87.2.21 朝刊 1頁 (全843字)】  暖冬に背いて、鉄冷えの季節だという。鉄鋼大手5社は実に4万人もの人減らしを計画しているそうだ。これは従業員全体の約4分の1に達する人数で、「鉄鋼業界始まって以来」の合理化計画である。多くの高炉の火が消える。下請けや地域経済への影響ははかりしれない▼先月の社会人ラグビーの決勝では、新日鉄釜石が「希望の灯を消すな」を合言葉にトヨタの堅陣に肉薄する姿が胸を打った。だが、ラグビー日本一は新日鉄時代からトヨタ時代へ移った。時代を象徴するできごとだった。男子バレー界でも、新日鉄は相変わらず強いが、富士フイルムの45連勝記録のほうがめだつ▼新日鉄釜石のある岩手の釜石市は、近代製鉄業が産声をあげた由緒のある土地だ。ここではいま、2300人の従業員を800人に減らす計画がある。多くの従業員はすでに、使い捨てカイロやシイタケ、マイタケの生産をはじめている▼何十トンもの鋼材を扱ってきた男の手が、1袋60グラムのカイロを運び、シイタケの生育に目を配る。釜石の現場も、重厚長大の時代から、いやおうなく軽薄短小の時代への変化の波に洗われている▼「鉄は文明開化の塊なり」といったのは福沢諭吉だ。戦後についていえば、鉄はまさに高度成長の塊だった。1960年代に、日本の製鉄技術の水準は欧米を引き離した。耐久消費財や自動車の爆発的な大量生産を支えたのも、鉄である▼だが、鉄冷えの季節は容赦なく訪れる。1つには「急激な円高のせいだ」と武田新日鉄社長はいう。昨年度の鉄鋼大手の損失は、円高だけでも2100億円に達した、というから相当なものだ。加えて、韓国、ブラジルなどの製鉄業の追い上げがある▼輸出依存型から内需指向にきりかえるにはどうしたらいいのか。エレクトロニクスや都市開発などの新事業をどう取り入れるか。計画を軌道にのせるために、鉄は熱いうちに打たねばならぬ。 権力による母国語追放運動 【’87.2.22 朝刊 1頁 (全854字)】  建設省など6省庁が「リゾート地域整備促進法案」という名の法案を提出しようとしたら、内閣法制局が待ったをかけた。リゾートという言葉はまだ国民になじみが薄い、という理由である▼かわりの法案名の候補作の1つが「経済社会環境の変化に対応した保養等のための特定地域整備促進法案」だ、という記事を読んで思わず噴きだしてしまった▼リゾートというカタカナ言葉か、しからずんば難解な漢字の羅列か、の両極端があって中間がない。「保養地づくりを手伝う法案」とでもすれば、まだわかりやすいのにと思うが、法案名はかえってわかりにくいのをよしとする風潮があるらしい▼それにしても、各省のお役人が書いたさまざまな事業計画案や予算案説明書を読むと、腹の皮がよじれるほどおかしい。ウォーターフロント整備事業、マリン・コミュニティ・ポリスプロジェクト、アクアトピアといった苦心のカタカナ言葉があちこちで躍っている▼わが国土の水辺をなぜウォーターフロントと呼ぶのだろう。清流計画をなぜわざわざアクアトピア構想というのか。横文字をきどればたちまち夢がふくらむ効用があるのだろうか▼グリーンフィットネスパーク、リバーサイドスクェア構想、これ、どこの国の話なの。ふゆトピア事業、何ですか、これは。リサーチコア構想、テクノマート構想、テレコムプラザ、テレポート構想、テレトピア構想、ヘルスパイオニア・タウン事業、リフレッシュマイロードモデル事業、ああ▼新規事業をめだたせるため、手あかのついた堅苦しい言葉を避けるため、とカタカナ言葉の使用にはさまざまな理由があるにせよ、現状は、権力による恐るべき母国語追放運動が進んでいる▼いま、役所に必要なのは言葉の行革だろう。「いいアイデアです。早速ワード・ルネサンス・プロジェクトで役所言葉のリフレッシュを」なんていう声が霞が関あたりからきこえてくるようだ。疲れるね。 企業の“良心度”評価 【’87.2.23 朝刊 1頁 (全837字)】  クッキーを買おうと思ってスーパーマーケットへ行く。棚にはさまざまな商標の製品が並び、さてどれにしようか迷ってしまう。こんなとき、選択の物差しになるのは銘柄か値段か品質か。いや、最近ではもっぱらテレビのコマーシャルかもしれない▼最近、米国で『アメリカ企業の良心度評価』という本が出版された。民間の研究機関「経済優先度評議会」が、米国の有名企業百数十社の実情を15年以上かけて調べた成果である▼興味をひくのは、その調査内容だ。その企業はどれぐらいの社会的慈善活動をしているか。女性や黒人などを何人ぐらい役員に登用しているか。人種差別政策をとっている南アフリカ政府と関係は無いか。核・非核の兵器製造にかかわっていないか。こうしたことの調査結果が、商品ごとに一覧表になっている▼「キャンデー」の項目を引くと、製造元の8社とその商品がずらりと並び、それぞれの実態と評価が書かれている。どの企業が女性の登用に消極的か、どの会社が軍需関連企業か、一見して明白だ。こうしたデータを持っておれば、この本の編者が言っているように、例えば南アフリカ政府のやり方に反対している人が、同政府に入れこんでいる企業の製品を買うといった悲喜劇は起こるまい▼この本の生みの親は、経済優先度評議会の創設者でもあるアリス・テッパー・マーリンという女性だ。こう書くと、なんだか近寄りがたい感じがするが、昨年夏に来日したときの彼女は、ひょいひょいと全国の民宿を泊まり歩く気さくなご婦人だった▼「資産、利益、売り上げといったものだけでは、企業にとって本当に大切なこと、つまり社会的責任の度合いは量れない」という言葉が印象に残っている。マーリンさんは、この本と同じ趣旨のものを日本でも作りたいのだそうだ▼情報洪水の世の中だが、商品を選ぶときに役立つ良質の情報は意外に少ない。 おしゃれなカモの雄 【’87.2.24 朝刊 1頁 (全853字)】  久しぶりに上野の不忍池へ行ってオナガガモがふえていることに驚いた。大きな袋にパンくずをつめ、バスに乗って鴨(かも)にえさをやりに来る人もいるそうだ▼オナガガモは逆立ちして池に潜り、おしりだけをみせたりする。人の目を楽しませる術も十分に心得ているらしい。池から上がって来た雄が、見物客の手にしていた大きなパンのかけらをすました顔で奪い、それをすぐまたほかの雄に奪われていた▼多摩川でも、昔はみられなかったオナガガモ、ハシビロガモやオカヨシガモなどの姿も、珍しくはなくなった。多摩川が鳥獣保護区になって以来のことだ▼それにしても、鴨の雄はなぜこうもおしゃれなのかと思う。ハシビロガモは頭が緑で、胸が真っ白で、わき腹が明るい茶で、尾が黒い。にぎやかすぎる配色のようだが、熱帯の花の鮮やかさがある。コガモも装いには凝る。目のまわりの濃緑色から、肩羽の白い線へ、さらに腰のあたりの淡い黄色の三角形へと流れる色模様の凝りようはどうだろう▼地味好みのカルガモにも、黒いくちばしの先を黄に染め、腰のあたりにちらっと青をのぞかせるおしゃれ心がある。さらに地味なオカヨシガモになると、もうはなやかな色にはあきましたという調子で、全体を灰色がかった色にきめているが、くちばしとしっぽだけを黒にした意匠はむしろ斬新(ざんしん)だ▼黒と白を今様に着こなしているのが、キンクロハジロとパンダカモの異称をもつミコアイサである。カモの雄は冬羽のおしゃれで雌にサインを送る。若い男性のおしゃれがはやりだしたのは一種の「カモ化現象」であろうか▼日曜の夕方、多摩川を訪ねた時は雨だった。もう大半の鴨は岸辺や河原で休んでいた。川面に注ぐ雨の中にはぐれ鴨が1羽、浮かんでいるのがみえた。遠くの枯れたアシのあたりからピーヨピーヨという鳴き声が流れてきた。ヒドリガモかと思ったが、暗くて確かめられなかった。 有権者の知能指数と政治家の不信度指数 【’87.2.25 朝刊 1頁 (全855字)】  渡辺美智雄元蔵相がまた「知能指数」発言をした。自民党の研修会で、野党のとなえる富裕税につられて投票する人は「かなり知能指数が低い」とこきおろしたそうだ▼渡辺さんは去年も「野党の毛ばりで釣られる魚は知能指数が高くない」と発言し、結局、陳謝したことがある。野党の政策につられる有権者の知能指数は劣っている、という主張は、渡辺さんの信念みたいなものなのだろう。ご自分の知能指数に確固たる自信がなくては、こうは割り切れない▼政治家が有権者の知能指数をあげつらうのならば、有権者としては政治家の「不信度指数」を問題にしたい。公約違反度指数が異常に高いのはだれだろう。うそつき度指数の最高はだれか。ごまかし度指数、おしゃべり度指数、と数えあげると、ひときわめだつ超高値の人がいるはずだ▼さて、知能指数の話だが、政治家があまりにも無造作にこの言葉を使うと、落ち着かない気持ちになる。私たちもまた知能指数の呪縛(じゅばく)から逃れられないでいるので、あまりえらそうなことはいえないが、知能指数や偏差値で人間を決定的に評価してしまう風潮は恐ろしい▼知能テストや学力テストについて、数学者の遠山啓さんが書いていた。学力テストに強い型の人間は(1)一定の枠の中での思考にたけている(2)頭の回転がはやい(3)誤りを犯さない用心深さがある▼これに対して、独創的な型の人間は(1)既成の枠をのりこえる(2)時間にかまわず徹底的に考える(3)誤りを恐れない。後者の型は、テスト体制では優等生になれず、点とりのうまい優等生には独創性が少ない、と遠山さんは嘆いていた▼本来、数値では測りえない人間の知能に序列をつけるのは危険だという自省を、政治家もまた持ち続けてもらいたい。教育政策を考える政治家にこの自省があれば、国公立大の入試で10万人の足切りがでる、というむごい結果を少しは緩和できたろう。 物足りないエイズ対策 【’87.2.26 朝刊 1頁 (全855字)】  米国内にある世界未来学会の予測によると「純愛がもてはやされ、家族を重んずる時代がくる」という。エイズなどの急増で、気軽な性交渉を避け、家庭に生きがいを求める風潮がでてくる、というのだ。エイズは世の中の流れを変えようとしている▼政府は、エイズ問題の対策大綱をきめ、正しい知識の普及などに努めるという。それはそれで結構なことだが、物足りない点が2つあった▼1つはカネのことだ。大綱には明示されていないが、エイズ対策の予算案は全体で約9億5000万円である。予防・治療薬の開発費はわずか6000万円である。ケタが違うのではないかと目を疑う▼アメリカ国立保健研究所でエイズ治療薬の研究をしている満屋裕明さんが、研究のために1キロ約2億6000万円もする薬を買いこんだ話をし「米国だからできるんでしょうね」と語っていた。米国とは深刻さが違うとはいえ、6000万円の予算はいかにも少ない。いいたくないが、戦車が1台4億円の時代だ。政府は予防・治療薬の開発を本気でやるつもりなのかと思ってしまう▼もしも日本がこの分野に巨費を投じ、外国の研究も助け、ワクチンや新薬の開発に成功すれば、地球人の安全保障に立派な役割をはたしたことになる。3兆5000億円の防衛費の1%でも350億円を生みだせるのに、という議論は書生論にすぎるだろうか▼もう1つ。患者の側に立った対策が物足りない。公団アパートに住む主婦に「エイズの疑いがある」という根拠のないビラがまかれて問題になったことがある。エイズ患者は社会的に抹殺すべきだという風潮がひろまりつつある▼だからこそ、感染者や患者がふえるにつれて、いかに告知し、告知後の苦しみをやわらげるための心の医療をいかにするか、というきめこまかな対応が必要になる。不幸にして感染した血友病患者の苦悩にこたえるにはどうするか。忘れてはならぬエイズ対策の1つだ。 野生生物の商取引に規制を 【’87.2.27 朝刊 1頁 (全845字)】  ワニが地球上に現れたのは1億7500万年前、と推定されている。悠々たる時の流れに身をゆだねるさまに、昔の人は神の姿をみたのだろうか。古代エジプト人はワニを神聖視した。インドにもワニを水の神として崇拝する習わしがあるという▼現在は21種が生き残っているが、その大半の種は、乱獲にあって絶滅の恐れがあるそうだ。聖なる動物の皮の製品を身につける人がふえたためだろう▼日本のワニ皮輸入量は、1981年が118トン、82年が208トン、83年が236トンとふえ続けた。85年は234トンで、86年は減りはしたがそれでも164トンである。このうち約半分は不正輸入、といわれている。中には南米や東南アジアで密猟されたものもあるだろう。密林の川辺から、水の神の悲鳴がきこえてくるようだ▼日本は野生生物の超密輸入国だ、と非難されて久しい。保護すべき野生生物の国際取引を監視する特別委員会(トラフィック・ジャパン)によれば、日本は1年間で5万枚以上のトカゲの皮をシンガポール経由で輸入している。タイやマレーシア産のマレーセンザンコウの皮を1万5000枚も輸入している。原産国が全面的に保護しているのに、規制をくぐって日本に流れてくる▼野生生物の密輸国、という汚名をそそぐには、ワシントン条約(貴重な野生生物の商取引を規制する条約)を守るための国内法をつくるのが先決だろう。条約には絶滅の危険度によって、1、2、3の区別があるが、国内法では1だけではなく、全種を規制の対象とするのが望ましい。ワニ皮など現在の不正輸入の大半は2に属するからだ▼不正輸入に対して、厳しい罰則をつくることも大切だろう。アメリカでは、違反者に対して最高懲役5年、罰金2万ドルを科しているそうだ。たとえもぐりでも、国内に持ちこんでしまえば罰をうけない、という状態が続いては、汚名はそそげない。 2月のことば抄録 【’87.2.28 朝刊 1頁 (全841字)】  2月のことば抄録▼「早く元気になって」「ありがとう。シャバで一杯やりたいね」。帝銀事件の死刑囚、平沢貞通が医療刑務所で95歳の誕生日を迎えた▼82歳の加賀由楠さんが川柳の句集をだした。「百までと言う声聞いて嫁頭痛」。ここにもほろ苦い人生の味がある▼「貿易摩擦などで多少ぎすぎすした日米関係をなごませるには、防衛費増よりも桜並木の方が効果的ではないか」。ボストン桜並木計画に力を入れる石田博英元労相▼「ソ連の脅威に対応する防衛努力を効果的に行うためには、GNP比1%を大きく超えた防衛費が必要だ」とこちらはワインバーガー米国防長官。やはり花より刀らしい▼「去年の選挙公報にはっきり『反対』と書いてしまった。今さら総理がウソをついたから私も、というわけにはいかん」(大塚雄司氏)「選挙公報で導入しないと約束した以上、ウソはつけない。平気でウソをつける人だけでやってくれ、といいたい」(鯨岡兵輔氏)。売上税について、自民党国会議員からもウソつき批判の声が上がった▼中曽根首相の施政方針演説に売上税のウの字もなく、ウサギ年ウの字消えればサギ年か、の声がちまたにあった。「新税をつくることは別の血液を入れることであって、アレルギーが起こるのは当然」と首相はいう。輸血を伴う手術ならばなおのこと、選挙前にいうべきだった。選挙後の抜き打ち的強制的逆襲的手術はいけない▼東大病院が新しい入院の案内にこう明記した。「ご自分の病気・検査・治療について医師や看護婦から十分な説明を受けて下さい」。患者の一番強い要望にこたえたものだという。いいことだ。有権者もまた、ウソのない選挙公約について常に十分な説明を受けたい▼「世界の民主国家の流れは、秘密法の流れとは逆、情報公開法制定をめざす方向にある」。来日した英情報自由化キャンペーン議長、デズ・ウィルソンさん。 イランへの武器売却問題に見る米の実用主義 【’87.3.1 朝刊 1頁 (全840字)】  「わけ知り顔の人たちはショーが終わらないのに幕を引こうとしているが、一番よいところは最終幕に残してある」。先月の20日、レーガン大統領はそういっていた▼ところが、大統領の諮問機関である3人委員会は、イランへの武器売却問題では政府に重大な誤りがあったという報告書をだした。大統領は、重大な政策遂行で、なすがままに部下の独走を許していたというのだからあきれる。よほどの逆転劇がない限り、最終幕は重苦しいものになりそうだ▼報告書の要旨を読みながら、アメリカの民主主義の弱さと強さを思った。国家安全保障会議はなぜ、独走することができたのか。秘密主義がなぜまかり通ったのか。肝心のところで民主主義が働かなかった欠陥の数々を報告書は突いている▼それはそれとして、大統領の諮問機関が、こきみよく大統領の責任をあげつらうさまに、風通しのよさを感じた。よどんだ空気を払い、誤りをただそうという風がそこには確実に吹いている▼ウォーターゲート事件の時も上院特別調査委が活躍し、大統領任命の特別検察官が硬骨ぶりを示した。何よりもまず正しい事実をつかむという「事実」そのものへの執着があった▼今回も、レーガン大統領は3人委にすべての事実を明らかにするよう指示したという。「政府を困惑させるかもしれないからという理由で削除したものは1つもない」とタワー委員長は胸を張っていた▼いわゆる政治的配慮で事実をゆがめることは、長い目でみれば米国の国益を損なう、という判断が働いたのだろう。そしてその背後に、プラグマティズム(実用主義)といわれるアメリカ人のものの考え方をかぎとることもできる▼この哲学の中心人物、W・ジェイムズは「プラグマティストは事実と具体性に執着する」と書いているが、正しい事実の公開に執着する風潮はしばしば、アメリカの危機を救う役割をはたしている。 遠くて近い隣国との距離ちぢめてくれる歌 【’87.3.2 朝刊 1頁 (全853字)】  趙容弼(チョウ・ヨンピル)の歌を東京・中野のホールで聴いた。約2時間、聴いているほうもくたくたになるほどの熱唱で、時折胸が熱くなった。歌を聴いて胸が熱くなるのは久しぶりのことだ▼たとえば『ドリームガールズ』の舞台で女性黒人歌手の歌を聴く、沖縄の黒島で古老が歌う島うたのトバルマを聴く、といった時に体にふるえが走ることがある。趙容弼の「恨(はん)500年」「釜山港へ帰れ」「生命」などには同質のものがあった。魂で歌う、というよりも魂そのものが歌っている強さがある▼五木寛之が最近作『旅の終りに』の登場人物に「韓国の歌手には強さがある」といわせている。「自分の体全体を声にしてしまう。その声に思いのすべてを託して、心と体が自然と融け合ってしまうような、そういう発声のことを〈ソリ〉と言う」とその人物は説明する。韓国の伝統的な歌舞の土台にはこの〈ソリ〉があるのだそうだ。趙容弼にもそれがあった▼朴政権下で出演禁止処分をうけ、約3年、失意の時代を送ったことがある。このころ、のどから血を吐く発声練習をし、放浪を続けて民謡の勉強もした▼舞台上の趙は、冬ざれの野を吹き抜ける風に身をさらしているようにみえる。抑えても抑えきれずにほとばしりでる激しいものを、風にぶつけている。そこにはまぎれもなく、外国のまねではない、土俗の歌があった▼歌の合間に観客との会話があった。中年の女性がいった。「私は前に趙容弼さんの舞台をみて感動した。歌の心はわかるが言葉がわからない。残念なので韓国語の勉強を始めた。でもきょう来たら趙さんの方が日本語がうまくなっていた」▼韓国語に不案内な自分に恥じいりながらも、この女性が韓国語で発言したらもっとすばらしいのにと思った。昨今は、ちまたのカラオケおじさんたちが趙容弼の歌を韓国語で歌う。歌はさまざまな形で、近くて遠い隣国との距離をちぢめてくれる。 モノの命が宿る雛人形 【’87.3.3 朝刊 1頁 (全855字)】  渡辺一枝さんの『ひなまつり』という楽しい本を読んだ。2児の母である渡辺さんは20数年前から、自分の手で雛(ひな)人形を作っている▼雛になるのは、大豆、ぎんなんの実、はまぐり、巻き貝、ピンポン玉、木琴の棒の頭、せっけん箱、赤ちゃんが最初にはいた靴下、千代紙、包装紙、竹の皮、とまだまだ続く▼古い雛も健在で、写真入りで紹介されている。子どもと共に雛を作る楽しみについて、小さなモノをいとおしむ心について、モノの命について、この本はたくさんのことを語りかけてくれる▼渡辺さんは、石ころでさえ雛にしてしまう。戦死した父の墓をたずねた時、海辺でおむすび型の石を2つ拾う。持ち帰って絵の具で顔と着物を描くと、雛になった。何年かたって色が薄くなってきた▼「あと何年か、すっかり色がとれて元のおむすび石に戻った石のお雛さまは、またあの海辺に還してあげようと思うのです」というくだりまで読んで、雛を作り続ける心がちらっとうかがえる気がした▼大豆も巻き貝も石ころも、ただのモノではなくて、そこには命があり、霊魂が宿っている。粗末に扱ってはいけない。形を整えて雛にすれば命がはなやぐ。お節句を祝う人びとはそのはなやぎにあやかることができる。赤ちゃんの靴下はそのようにして生き続けるし、石ころは海辺に戻っても生き続ける。そういう一種の万物霊魂観があるのではないか▼渡辺さんの家を訪ね、たくさんの雛人形を拝見した。異色は、菜の花雛だった。菜の花は、厚紙の衣装に身を包んで威儀を正していた。金銀の水引の帯に男雛は松葉の太刀をさしている▼花こそ、命のはなやぎそのものだ。お節句に草雛を飾る習わしは古くからあったらしい。「みなにわらわれるんですが、この雛の水引の帯は、私たちの結婚式の時にいただいた祝儀の水引をとっておいたものなんです」と渡辺さんは笑った。雛の小さな体には家の歴史が刻まれている。 公約になかった「中型」間接税 【’87.3.4 朝刊 1頁 (全869字)】  自民党の安倍総務会長が、意味深長な発言をしている。「同日選では減税論議が先行していたので、財源をどうするか内心、危惧(きぐ)していた。我々も政治家として、もっと勇敢に、親切に、国民に対して税制改革の輪郭を示す責任があった」。時には正直な自省も、政治家にとって必要な資質だ▼減税にみあう財源を明らかにしておくのが政治家の責任なのに、中曽根首相はそれをごまかした。安倍さん流にいえば、政治家として、ひきょうで、不親切で、無責任な態度ではなかったか▼繰り返して指摘しておく。首相は、選挙中、減税にみあう財源について(1)行革による政府経費の節減(2)NTTや日航の政府持ち株の売却(3)国有財産の処分、などをあげていた。間接税を財源にすることは、おくびにもださなかった▼NTT株の売却資金などは国債の元本償還にあてることが法律できまっている。それを無視して減税財源にするなどというのは、もともと荒唐むけいな話なのだ▼しかしたとえ荒唐むけいでも、公約は公約だ。首相はこの始末をどうつけるつもりなのだろう。(1)(2)(3)を掲げてごまかした上、導入せずといっていた大型間接税を導入するというのでは、二重の公約違反になる▼3日の国会答弁で、首相は、いやあれは大型間接税ではなくて、中型間接税だといいだした。億万長者が「いえ、私は中流でして」とごまかしているようでこっけいだ▼筆者は断じて中型間接税だとは思わないが、もし首相が中型だといいはるのならばなぜ、選挙中に「減税財源として中型間接税を導入したい」と明言し、中型とは何かを勇敢に、親切に説明しなかったのか。それを避け、増税隠しに全力をあげながら「国民に全部いい尽くす力がなかった。説明不足だった」とはそらぞらしい▼首相によると、自民党内には売上税を妨害する人もいれば、一生懸命、汗を流している人もいるそうだ。良識があれば、冷や汗もでるだろう。 インドで学校作る森和さん 【’87.3.5 朝刊 1頁 (全849字)】  森和さんはインドで、貧しい子どもたちのための学校作りを進めている▼海外で活躍する若者が年々ふえているが、森さんは、長年京都の出版社に勤めている昭和ヒトケタの女性だ。時間の余裕ができるとインドに飛んでいきたくなるという「重症の」インド病患者である▼長患いの末亡くなった母親の形見の品を抱いてはじめてインドを訪れたのは15年も前になる。焼け跡の東京で育った森さんは、現地の人びとの生きる姿に深い共感を覚えた。「自分に何かできることはないか」と考え、それにはまず英語の力が必要だと、会社を1年間休職して、米国の大学へ留学した。50歳を過ぎてからの留学である▼ベンガル語も習得し、インド人の友人たちと協力して、辺地の農村に学校を作る決意をした。学校といっても屋根はわらぶき、壁はドロの教室を地元の人と一緒になって作る。3年前、西ベンガル州のミドナプール地域に最初の学校が開かれ、昨年は3つ目の学校が誕生した▼ミドナプールはカルカッタからバスで6時間、輪タクのような車に2時間もゆられ、さらに徒歩2時間という大変な辺地だ▼村の人たちは、学校の誕生を喜びながらも、「施し」を拒否する。働いたあと腹ぺこで学校にやってくる子どもたちにミルク1杯ずつの提供を申し出たら「コジキをふやすつもりか」といわれたこともあった▼だから「外国人である私は影法師」と森さんは苦笑する。年に1、2度現地を訪れ、村人たちと喜びと悲しみを心から分かち合う。「私の方こそ、生きるエネルギーを充電させてもらっているんです」▼若い人たちに、カネとモノにとらわれない生き方にふれて欲しい、と願ってはいるが、学校作りの話を聞いた人の多くは「いくらおカネを払えばいいか」とたずねるという。森さん自身は、いつか、無給でインドで働き、年を取り過ぎて現地のお荷物になる前に帰国したい、という老後を夢みている。 岩手靖国訴訟の判決 【’87.3.6 朝刊 1頁 (全850字)】  岩手県が、靖国神社に対する玉ぐし料を県費で支出した。それは憲法違反ではない、という盛岡地裁の判決があった。判決は、閣僚たちの公式参拝も違憲ではない、とのべている。「これほどひどい判決がでるとは予想もしていなかった」と原告団の井上団長が語っていた▼目にはさやかにはみえないが、徐々に、確実に変わってゆくものがある。首相、閣僚の靖国参拝の歴史がそうだ。三木首相のころは公式参拝といわれるのを避ける雰囲気があった。三木さんは、参拝のとき、首相専用車から党総裁専用車に乗り換えて、私人であることを強調した▼福田首相も私人を強調したが、公用車を使い、参拝する閣僚の数もふえた。鈴木首相のころから「私」から「公」への変化があり、中曽根首相は一昨年、公式参拝に踏み切った▼公式参拝はしたが、玉ぐし料を公費で支出せず、かわりに供花料を払った。おはらいや玉ぐし奉呈などの神道の儀式を行えば違憲の疑いがある、という配慮からだ。だが、今回の判決は、その最低限のきまりさえ吹き飛ばさんばかりの勢いである。これこそ一種の「司法のオーバーラン」というべきではないか▼一昨年の靖国公式参拝のときは海外出張中の人を除いて、閣僚全員が参加した。当時の竹下蔵相は午前中に私人として参拝しながら、みなが公式参拝に行くのにつられて、午後は公人として参拝した。「マンガになっちゃったな」という談話があった▼閣僚の公式参拝が定着すれば、内閣の正式行事になってゆく恐れもあるし、神道の色彩が徐々に強まる可能性もある。一閣僚がもし、宗教的信念でそれを拒めば「日本人にあるまじきこと」という非難が起こる恐れもある▼そういうことを防ぐためにも、宗教色のない鎮魂の森、記念廟(びょう)をつくり、そこで公式の行事を、という靖国懇での一部委員の意見を改めてかみしめたい。わが国にはすでに千鳥ケ淵戦没者墓苑もある。 北村西望氏、102歳の生涯 【’87.3.7 朝刊 1頁 (全852字)】  きょう、102歳で亡くなった彫刻家、北村西望氏の告別式が行われる▼井の頭自然文化園内には西望氏の彫刻園がある。ここを訪ねるたびに、筆者はまず「将軍の孫」の邪心のない像の前にたたずむ。それから恐ろしい形相の「快傑日蓮上人」の像をとくとながめ、端正といえばこれ以上端正な顔はそうはない、と思える「聖観音」像を見上げる▼だれかを手厳しくしかり飛ばしている怒りの日蓮は、善人の中の偽善や虚栄を鋭く突いているようでもあり、聖観音の温顔は、悪人の中の善心を黙って聴いているようにみえる▼彫刻園には、長崎の平和祈念像と同じ大きさの像があり、この巨像をみつめていると、日蓮像の力と聖観音の温顔とがほどよくとけあっていることがわかる▼1950年に長崎市に像の制作を頼まれた時、西望氏は迷った。観音像にするか、女神の像にするか、強烈な男性の像にするか。結局、9メートルを超える「山のごとき聖哲」の像にした▼初めは12メートルの像にしたかったが、それに見合う高さのアトリエが建てられなかった。「あの時、あと1000万円あったら12メートルの像ができたのに」と西望氏は悔いた▼平和祈念像の右手は原爆の恐ろしさを示し、左手は平和を示す。たくましい体は絶対者の神威を示し、柔和な顔は神の愛、仏の慈悲を示す。着手してから除幕式までに5年の歳月が流れた▼若いころから、長寿を人生の大切な目標にしていた。自分は人一倍努力しなければいい仕事を残せない、人一倍努力するには時間が必要だ、だから長生きをしたいと願い、むりを避けた▼90歳をすぎても「少しも上手になったような気がしない」といい、洗心大成を口にした。心ができなければ大成しない、の意味だろう。100歳になっても制作を続けた。「たゆまざる歩みおそろしかたつむり」の生涯だった。まもなく95歳になる春野夫人をずっと心の支えにしていたという。 地価高騰のあらしの中で 【’87.3.8 朝刊 1頁 (全858字)】  国鉄はなぜ、地価をつり上げることにこんなに熱心なのだろう。東京・蒲田駅の貨物跡地4800平方メートルには656億円の値がついた。周辺の公示価格の3.5倍という恐ろしいような価格だ▼ここは、大田区が官民共同の会社をつくり、再開発の拠点にしようとしていた所だ。区民ホールなどの文化施設を造る計画もあった。国鉄用地を公のために利用せよ、というこの主張はしかし、ふみにじられた。論外の高値にあおられて、周辺にはかりしれない悪影響がでてくることだろう▼こういうことを野放しにしている政治とはいったい何だろうかと思う。地価の異常について、驚くほど鈍感で、根本治療の処方せんを持たぬまま時をすごしてきた政治とはいったい何だろう▼筆者自身もそうだが、同僚の多くは住宅ローンをまだ返せないでいる。たとえ二千数百万円を借りたとしても、利子をいれれば返済額は4000万円近くになる。これを返すのはつらい▼もっと条件の悪い人がたくさんいることも知っているが、私たちの世代に比べて、若い人たちの条件はさらに悪い。若いサラリーマンにとって、大都会の土地はもはや虹(にじ)でさえもない▼たとえば東京・用賀のある宅地が今は坪(3.3平方メートル)約420万円である。36坪で1億5000万円という広告をみて、ため息をつく。勤労者世帯の平均年収は約600万円だ。年に200万円ずつためても、土地を買うだけで75年もかかる▼27年前、より条件のいい用賀の宅地が坪4万円強だった。この間、平均年収は13倍にふえたが、地価は実に100倍にもふえているのだ。土地はもはや、絶望の象徴だ。寸尺の土地さえ持ちえぬ人と、土地で何億円ものカネをもうける人とがいる現実をほっておく政治とは、いったい何だろう▼繰り返して訴えたい。地価高騰のあらしの中にある都は一刻もはやく、国土利用計画法による地価凍結に踏み切るべきである。 引っ越しの季節 【’87.3.9 朝刊 1頁 (全856字)】  「横持ち料」とか「縦持ち料」とかいう引っ越し業者の専門用語がある。道路が狭くて車が入れなかったり、荷物を高層まで運び上げねばならないときの特別料金のことだ。作業員手数料と二重請求になることもあって、これがしばしばトラブルのもとになった▼運輸省がつくった「標準引っ越し運送約款」で今月からこの特別料金が廃止された。事前に見積もりを無料ですることを業者に義務づけたのも、消費者保護のためには一歩前進だろう。さて、引っ越しの季節の到来である。引っ越し数の約4割は春に集中しているそうだ▼ある業者が、まるで社会の縮図を見る思いです、といっていた。ミカン箱にふとん袋ひとつは昔のことで、最近の独身者や学生は新婚世帯なみの家財持ちだ。4トントラックの出動も珍しくなくて、いまや業界の上得意である▼単身赴任家庭では、こんな現場に立ち会うこともあるという。帰任してみれば家族がいない。荷物運びを頼まれなかったか、と夫が業者に駆け込んでくる。任地への同行を妻が拒んでけんかになり、トラックが着いたとき、すでに離婚話がまとまって弁護士を中に財産分けのさなかだった……▼総務庁の統計では、わが国の人口移動率は17年前の8%をピークに下がり続けているが、それでも一昨年で5.4%とまだ高い。1年間にざっと600万もの人が住みなれた土地を離れたことになるから、たいへんな流動社会である▼一方、労働省によると、民間企業では昭和60年中に93万8000人が転勤になっている。うち単身赴任者は4万9000人で、平均3年勤務とみて約15万人が目下、単身赴任中と推計している▼問題はあっても、働き口があるだけまし、と心得るべきか。例年の人の流れに、国鉄や鉄冷えの街からの再出発を目ざす合理化要員が加わって、この春の転居シーズンは、どこか悲しい。引っ越しに、さまざまな人生を見ます、とも先の業者はいった。 岩手の参院補選でみせた納税者の反乱 【’87.3.10 朝刊 1頁 (全852字)】  アメリカではよく、納税者の反乱がある。カリフォルニア州の反税市民運動家が固定資産税を下げる提案をし、住民投票に勝って州税法の改正に成功したことがある。税金の浪費を抑制する提案が、これも住民投票で大差で勝ったこともある。税金を払う側の監視が行きとどく、というのは民主主義の大切な要件だ▼岩手県の参院補欠選で自民党候補が完敗した。保守対革新の戦いというよりも、この選挙結果はまさに、納税者の反乱といっていいだろう▼自民党を支持する県内のある小売業者が選挙中にいっていた。「自分たちが生きるか死ぬかという時には保守も革新もない。気がねの必要があるだろうか」と▼大勝した社会党の小川仁一氏は、42万の票をえている。得票率は実に64%である。去年の参院選の得票率26%と比べれば、今回の得票が異常にふくらんだことがわかる。だが、社会党は自分の力で勝った、と過信してはいけない▼自民党の候補選びがもたついたこともあった。現地を2度訪れた社会党土井委員長の人気もあった。だがやはり、決定的な勝因は、小川氏のいう通り「中曽根さんのおかげ」だ。今日の選挙に勝てたのは中曽根さんのおかげです、野党のために野党のためにがんばった、中曽根さんのおかげです、といちばん痛切に思っているのは小川氏自身だろう▼岩手県では、各地の商工会議所が県議会に「売上税反対を決議せよ」と陳情していた。自民支持の県内団体のいくつかが、社会党支持に変わった。商店街には「ウソをつくな、公約を守れ」というポスターが張られた。そして、大型間接税導入は公約違反だ、という声はサラリーマンの中にもあったはずだ▼首相は「サラリーマンの声は砂のようで、粘土のように固まらぬ」ことを嘆いているが、これは思い違いだろう。サラリーマンの声が粘土のように固まったら、納税者反乱の火はますます燃えひろがることになりはしないか。 新聞が空襲の悲惨を伝えていたら 【’87.3.11 朝刊 1頁 (全845字)】  42年前の3月の朝日新聞縮刷版を読んだ。書かれざる部分のあまりの大きさに、いまさらながら暗い気持ちになった▼1945年の3月10日、米軍B29による爆撃で東京の下町一帯は火の海になり、約10万の人が死んだ。無数の遺体が、黒く焼けた木片のように無造作にころがる中を歩いたことが、いまも記憶にある▼あのころ東京にはすでに何回も空襲があり、そのたびに多数の死者があった。だがその詳細は新聞にはのっていない。作家の高見順は当時の日記に書いている。「東京の悲劇に関して沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた」と▼3月10日の惨禍についても具体的な描写は極めて少ない。かわりに「汚れた顔に輝く闘魂、厳粛・一致敢闘の罹災(りさい)地」「戦ひはこれから、家は焼くとも・挫けぬ罹災者」といった見出しがおどっている▼当時の新聞は、空襲による被害者の数や焼失戸数を書くな、敵の攻撃効果の判定資料となるものは書くな、被害現場写真は「深刻ニ描写サレテ居ル」ものはのせるな、と差し止められていた。被害地域さえ「都内各所」とぼかされていた▼国家総動員法が言論を規制していた。加えて、国防保安法、軍機保護法、不穏文書臨時取締法、陸軍省令、海軍省令、外務省令などが十重二十重に新聞、ラジオをしばっていた▼さすがに、3月14日付の紙面には、罹災地を目撃した記者たちのうめき声があった。「あれを見て泣かん奴があるか」「国民があれを知らないでゐていいものではない」「罹災者の望むところは自分たちのことを全国民に正しく伝へてほしいのではないか」。だが、実態は伝えられぬまま、敗戦までに、空襲によって4、50万の命が奪われた▼新聞がもし、空襲の悲惨をありのままに伝えていたら、伝えることができる体制があったら、を考えることは国家秘密法に反対する側にとって、貴重な教訓だ。 NHKのど自慢の金子辰雄さん 【’87.3.12 朝刊 1頁 (全838字)】  NHKの「のど自慢」の司会を16年8カ月も担当していた金子辰雄さんが定年で、まもなくこの番組を去る▼金子さんの司会を見ていつも思うのは目の位置の低さである。上から見おろしてものをいう態度がない。そうかといって、へり下ったいやらしさもない。背の低い出演者にマイクを手渡すときはちょっと腰を落とし、へっぴり腰になって渡す。お年寄りが歌につまると、そっとかけ寄って一緒に歌う。そのときの呼吸がいい▼昨今はしろうとの出演者をいじめたり、からかったりして笑いを買う芸がはやっているが、そういう中にあっては金子さんはきわめて古風な司会者であるのかもしれない▼「私は自分を司会とは思わず、26番目の出演者の気持ちでやってきました」という。のど自慢の出演者は25人である。その25人の仲間、会場の人たちといつも同じ気持ちでいたい、だから、土地のことば、土地の暮らしの勉強から始める、という話だった▼現地に着くと、街を歩き回る。商店街で八百屋さんの店先で土地の人と話をする。時には銭湯へ行き、知り合った人たちと赤ちょうちんへくりこむ▼本番では、ジャンパー姿の人が声をふりしぼって歌う。「魚屋のおじさん、あがらないで」と掛け声が飛ぶ。合格のカネで金子さんに泣いてすがりつく女子高校生がいる。ある女性は、マイクに向かって、こう両親に呼びかけた。「前略、父上様母上様お元気ですか」。どろくさいが、あったかいじゃがいもの味が、金子さんの司会にはあった▼NHKののど自慢が始まったのは、41年前である。マイクを人びとに開放したこと、合否をきめるテストの楽屋裏を電波に乗せたこと、の2つの点でこの番組は放送史に残る。昨今は、笑わせることをねらった出演者の過剰演技がやや気になるが、この番組はいつも、その土地に生きる人びとの生活のにおいをさりげなく伝えてくれる。 水俣病患者たちの思い 【’87.3.13 朝刊 1頁 (全847字)】  チッソ水俣工場のそばに、「苦海」とつながる小さなどぶ川がある。有機水銀をたっぷり含んだ工場排水を、水俣湾から八代海にと流し続けた百間・丸島水路である▼この水路の浄化工事が始まった。全長2キロ余りだが、ヘドロは深い所で2メートル、ダンプカーで6500台分にもなる。しかも、ヘドロには最高7700ppmの高濃度の水銀が残留している。工事のため逆に汚染がひろがらないよう、注意しながら4年がかりで進められる▼一足早く着手されている水俣湾内の水銀ヘドロの処理とあわせ、環境復元作業は一応軌道に乗ったことになる。だが、これらの工事で除かれるのは、工場から流出した数百トンともいわれる水銀のごく一部にすぎない▼奇病、伝染病とされていた水俣病が実は中毒による中枢神経系疾患で、その原因が水俣湾産の魚介類であることが、熊本大学研究班によって突き止められたのは30年前だった。汚染源がチッソ水俣工場であることもほぼ確実とみられた▼「もし、この時、生産を中止して、原因究明、対策を立てていれば今日問題になっている患者は100分の1以下ですんでいたと思われる」。水俣病学者の原田正純熊大助教授は『水俣病は終わっていない』という著書で、こう指摘している▼さらに2年後、厚生省水俣病食中毒部会は、主因がある種の水銀化合物であることを明らかにした。それでもチッソは責任を認めようとしなかった▼国や県はどうしたか。「原因物質が特定できない」などを理由に、工場の操業停止や漁獲禁止といった有効な手段をとらなかった。驚くべきことに、水銀のたれ流しはそれからさらに10年近く続いた。汚染魚も食べ続けられた。水俣病の被害をひろげた責任は行政にもある。水路に清流が戻っても、患者たちのこの思いは消えまい▼国と県の行政責任を初めて争う水俣病第3次訴訟の判決が30日、熊本地裁で言い渡される。 虚言 【’87.3.14 朝刊 1頁 (全854字)】  とにもかくにも虚言(そらごと)多き世なり、といったのは徒然草の兼好法師である。そんなことを思いつつまどろみに入ったら、夢に弊衣の兼好さんが現れた▼「きのうはつれづれなるままに、日暮らし、電視机で国会中継を見ておったが、なかなかおもしろかったよ。世の中多くは虚言なり、さ」。そう悟り切っているわけにもゆきません。「うん、だからわしはいっている。友とするにわろき者は虚言する人だ、とな」▼つまり指導者とするにわろき者は虚言する人、ですね。「そうあからさまにいっちゃあ、おしまいさ。中曽根首相は、形ありさまがすぐれて電視机むきのお人だと見受けたよ。ふしぎに思うのは、一国の宰相がなぜすぐウソがばれるような公約をしたのかだ。口にまかせて言い散らすはやがて浮きたることと聞こゆ、なのにね」▼朝日新聞の世論調査では74%が売上税は公約違反だと答えています。公約はウソだった、と。売上税反対は82%、自民党支持層でも73%が反対です。「宰相の約束をねんごろに信じたるもおこがましく、というところだね。公約をひとえに信ずるのもあさましい話さ」▼しかし首相は選挙中、国民や自民党員が反対するものはやらないと明言しています。多くの国民や自民党支持者がこれだけ売上税に反対している以上、今や強行すること自体が公約違反になります▼「それは賛成だ。よろずのとがは、なれたるさまに上手めき、所得たるけしきして、人をないがしろにするにあり。こうなったら税制改革はしかるべく無からやり直すことだね」▼それはそうと、一言いっておきたいことがある、と法師は皮肉な目を光らせた。「みなは忘れてはいないかね。軍費のGNP比1%突破とかいうのも、あれは公約違反じゃないだろうか」。さらさらと紙に書いた言葉を残して、つれづれなる人は姿を消した。「げにげにしく、つまづま合わせて語る虚言こそ、恐ろしき事なり」 中国から帰国者の『異文化適応教本』 【’87.3.15 朝刊 1頁 (全840字)】  第15次の「孤児」たちが中国へ戻った。形を変えて対面調査は続けられるだろうが、これからは帰国者の自立を助ける対策、養父母に報いる対策などが問題になる。異文化にどう対応するかという私たち自身の心がまえの問題もある▼お茶わんにご飯を盛って人にすすめる時、ハシを突き立てて出す帰国者がいた。日本人は死者に供えるしきたりとして、これをきらう。日本人はハシを休める時に皿の上にそろえて置くことがあるが、中国人はこれをきらう。いい悪いの問題ではない。食習慣の違いをあげただけでも、数限りなくある。生活様式の違いになれば1冊の本でも書き切れないだろう▼近く出版される帰国者のための『異文化適応教本』には、帰国者の体験例がいくつもあって、参考になった。なかなか職が見つからない帰国者が、日本人に見下されたくないので、いかに能力があるかをあちこちで訴える例がある。気持ちはわかるが、日本では自己宣伝が裏目にでることがある、とこの本は教える▼ある帰国者が都内にアパートを借りた。ボランティアの人が運んでくれたものに、シミのついた洋服や古い下着があった。冷蔵庫も汚れたままだった。「私はこじきではない」と怒って、その人は衣類や家具を捨てた▼この行為を「ぜいたくだ」と非難するのはやさしい。だが、帰国者には微妙な心理的背景がある。見下されまいという心の動きがある。文化的土壌も違う。中古品の融通は押しつけであってはならないし、一方では、新しい門出を祝う心配りも必要だろう。つきあいの難しさはここにある▼井出孫六さんが本紙で指摘していた。「日本の社会はこれまで異文化を吸収する能力はあったが、異文化と共存する能力を持っていなかった」と。帰国者用の「適応教本」はむろん必要だ。だが、同時に、帰国者の心や異文化にどう対応するかを学ぶ日本人用の「適応教本」もほしい。 統一地方選と売上税反対 【’87.3.16 朝刊 1頁 (全823字)】  「負けたとたんに一転して売上税に反対するのもおかしいが、とにかくこのままでは統一地方選は戦えない」。岩手県の参院補選で自民が完敗したあと、自民党県議の間にこういう意見がでてきたそうだ。結局、県議会は反対の決議に踏み切った▼ご都合主義の感がなくもないが、売上税反対を叫ぶことは、今やニシキのみはたなのだろうか。福岡県のある自民党県議は「中曽根首相が選挙応援に来て売上税の弁明をしたら、わが方の票が減る。来てもらいたくない」とさえいっている▼地方選挙を前にして、売上税反対の声は、大合唱のありさまになってきた。都道府県議会では、反対・撤回要求の決議をした所が12、慎重審議や修正を求める所が19、となっている。逆に、賛成決議はきわめて少ない。知事選の候補者も反対を鮮明にしはじめた▼売上税問題が地方選挙に決定的な影響を与えているのは明らかだ。しかし、どうだろう。自民を含めての大合唱がこれほどひろまると、むしろ争点がぼける。争点がぼければ、売上税問題が選挙結果に決定的な影響を与えるとは限らない、という皮肉な現象が起こるのではないか▼ご都合主義といわれながらも、反対の大合唱に加わる自民党候補が、争点ぼかしに成功するかどうか。それが1つのカギだ。争点をぼかしているものに、相乗り型選挙の流行もある。知事選や市長選では、自公民、あるいは自社公民の相乗り路線がふえている▼たとえば秋田県知事選も自社公民の相乗りだが、社会党県本部では「立候補するタマはいないし、同日選で県本部の金庫は空っぽだ。対立候補を立てられる状態ではない」といっているそうだ。これも社会党の現実だろう▼今回の統一地方選挙の件数は2571、定数は3万7997である。23日、まず13件の知事選が始まる。4月3日には44道府県議選などの告示がある。 草萌えはじめる季節 【’87.3.17 朝刊 1頁 (全843字)】  東京ではコブシが咲きはじめた。雪柳も、白い花をつけはじめた。キブシやサンシュユも、黄の花を咲かせている▼ひえびえとした日が続き、雪が降ったかと思うと、コートを着てはいられない暖かい日がやってくる。3月という月は気難しさに定評があるが、この気難しい季節になるといつも、近くの武蔵野公園に何回か足を運ぶことになる。木の芽、草の芽に対するごきげんうかがい、といったところだ▼公園の枯れ葉色の世界を背景にして、コブシの花が白い打ち上げ花火のように、点々と宙に舞っている。大半はまだつぼみだが、ヒヨドリがもう待ち切れない様子でせわしげに立ち回っている▼遠くからみると、日のあたる大地に淡い瑠璃(るり)色のさざなみがみえる。オオイヌノフグリの群落である。ハコベも咲いている。日の光や地のぬくみが、生きものの中にある再生力に合図を送ると、枯れ葉の衣を破って、草は萌(も)えはじめるのだろう。その合図のことを「母らしき愛」と表現した歌人がいた▼早春の野に咲く小さな花を虫眼鏡でみると、意匠のみごとさ、奇抜さに驚く。オオイヌノフグリの瑠璃色にはしま模様があり、濃淡がある。ホトケノザには濃い紅の点々があって、こっけいな人間の顔にみえることがある。そういう絵模様を通じて、いたるところで花と虫の語らいが続けられるのだろう▼萌えはじめたのは、草だけではない。公園の柳も浅緑色に萌え、ケヤキもぼおっと赤らみ、あたりを明るくしている。「どんな花も/どんな色も/緑の/萌える輝きにはかなわない/「萌」という文字を/つくった人は だれかしら/歴史の中で/いちばんすてきな人だとさえ/思ってしまう」(平井たえ詩画集『川』)▼冬の間、長い準備を重ねてきた選手が、いよいよ出発点に立つ。それをみる時の息づまるような思いが、生の輪廻(りんね)の出発点に立つ草木をみる時にもある。 池子の森 【’87.3.18 朝刊 1頁 (全844字)】  長洲神奈川県知事の提案を受けて、逗子市の池子米軍住宅問題に、新しい動きがでてきた。政府と県と市は話し合いを進めることになるだろうが、いまここで結論を急いで池子の森を破壊することがあれば、悔いを末代に残す▼繰り返していってきたことだが、池子の自然を守れという市民の運動は、反米でもないし、反安保でもない。故郷を故郷たらしめている森を守り抜こう、という母親たちが中心になっている運動だ▼先月、富野市長が長洲知事にだした約8万字にものぼる意見書を読んだ。290ヘクタールもの広さの自然が首都近郊に残っていることは「現代の奇跡のひとつ」だと富野さんはいう▼そしてさらに「歴史の流れに耐えて残されたこの池子の森を持続して、次代に渡すべき史的責任は現代に生きる我々すべてのものである」といっている。オオタカやフクロウの飛ぶこれだけの森を政治的解決で残すことができれば、これも奇跡的なできごとになる▼いちど計画したものを地元の反対で撤回してはメンツがつぶれる、と政府は考えるかもしれない。しかしいま問われているのは、首都近郊に残された貴重な生態系をどう評価するか、緑を残すことを国益と考えるか否か、という政治哲学の問題だ▼池子の森は、もともと住民の土地だった。戦前、旧日本軍に強制買収され、戦後は米軍の弾薬庫に使われた。大半の地域は50年近く人間の干渉を受けず、動植物の聖域になった▼ここを市民に返して森林公園にするのが筋だろう。野生遺伝子資源を保護すれば、21世紀につながる生物科学、生命科学の研究の場として、国益上重要な位置をしめることになる▼これからは、米軍人に基地外居住をすすめる動きも強くなってくるだろう。何よりも、政府・自民党に民意を聴く懐の深さがあれば勇気ある決断も可能だ。4年前から始まった池子の森の運動は、戦後民主主義の1つの決算である。 中野好夫さん没後2年 【’87.3.19 朝刊 1頁 (全847字)】  中野好夫さんの「没後2年講演会」が開かれた。木下順二さん、水上勉さん、加藤周一さんがそれぞれ、戦後の市民運動の先頭に立った中野さんをしのんだ▼中野さんは色紙に「金もいらなきゃ名もいらぬ、酒も女もいらないが、はげた頭に毛がほしい」と書いて、楽しげに、豪快に笑うような人だった。そういう人間的な魅力にひかれた、と水上さんは語った▼木下さんは「中野先生は自らの戦争責任を厳しく問うた」といい、その底にある原罪意識にふれた。敗戦後の深い思索ののちに「祖国への正しい献身とは、批判の中断ではなく、善悪ともに運命を共にすることではなく、むしろ命をとしても、国家の善、人類の幸福のために献身することだ」と主張するようになる▼さらに「ある年齢以上の大人たちは、日本をちゃんとしたものにつくり直して若い世代に引き渡さねばならぬ義務がある」という思いに達したのだろう。そのための献身は一貫して変わらなかった▼中野さんの「怒り」と「笑い」について考察したのは、加藤周一さんである。中野さんは、恨むことなくよく怒り、嘆くことなくよく笑った。ずるずると流されるのではなくて、だれかが間違っていると思ったら怒る。強いやつに対して怒る。権力に対して、大衆に対して、こびずに怒った。同時に、よく笑った▼笑いは、対象からある知的距離をもった時に生まれる。そういう距離をもつことは、精神の柔軟さを示す。中野さんが、分裂する大衆運動の調停役として光ったのは、この精神のやわらかさがあったからだ。加藤さんの綿密な分析を要約するのは難しいが、以上のような言葉が印象に残った▼逆に、心の硬直は「一辺倒」を生む、といっていいだろう。たとえば都知事選の候補者選びで、革新がわが党一辺倒にこり固まっている以上、混迷は続く。「中野さんが健在だったら……」。そんな声が講演会後のパーティー会場にあった。 卒業記念 【’87.3.20 朝刊 1頁 (全859字)】  本紙家庭欄で、学校や先生に記念品を贈ることが話題になっていた。1人200円、あるいは500円ほどを集めて先生に記念品を贈る。卒業準備金として積み立てたお金で学校にワープロや複写機を贈る。お世話になったのだから何か贈りたいという意見もあれば、形式にとらわれた一律徴収はいかがなものかという意見もあって、この問題はなかなか難しい▼一律徴収で記念品を贈ることに対して「無意味ね」という批判もあるが、結局は慣例に従って流される、という話が家庭欄にあった。全員で一律に慣例に従って何かをする、というのは日本的土壌にあったやり方かもしれないが、これではたして、感謝の気持ちが伝わるだろうかと思うと心もとない▼学校によっては、先生に対する贈り物は一切、受け取らない所もある。卒業記念品にしても、高価なモノを避け、子供たちが作った焼きもの、壁画、トーテムポールなどを歓迎する所もあるが、このほうが思いが残るだろう▼鎌倉市のある小学校の父母は、卒業の時ではないが、学年の終わりにカレーパーティーを開き、先生たちを招いた。参加料は300円で、親子だと600円である。参加しない、あるいは参加できない親もいたが、会場の体育館で一緒にゲームを楽しんだ。料理は世話役が作り、浮いた経費で、先生たちに小さな贈りものをした▼東京・成蹊小の亀村五郎先生の話では、子供たちから卒業記念にもらった文集を見ると、今でも涙ぐむそうだ。大きなアルバムに、一人一人が思い出の写真をはり、先生への思いをつづっている▼巻頭にはこうあった。「かめむら学級ってどんなのかな/めんどうくさいことばかりいわれたね/むかつくこともあったっけ/らくばかりではなかったなあ/ごっつんもうれしかったよ/ろんより証拠みんな仲好しだったね/うれしかった亀の子学級」。オー・ヘンリーさんならこれも「賢者の贈りもの」に加えてくれるかもしれない。 春分の日 【’87.3.21 朝刊 1頁 (全833字)】  今年の春分の日は、きょう21日だが、来年は3月20日である。再来年はとなると、これはわからない。東京天文台の話では計算上は21日だとはじきだせるが、確定はできないという▼地球の動きは、ほかの惑星の引力をうけてわずかに乱れる場合もある。だから、5年後、10年後の春分の日は確実に予想はできるが、決定はできない。決定するのは前年の2月1日付の官報である。人工衛星が飛ぶ時代でもなお、宇宙の動きには人知を超えたものがあることを、このことは教えてくれる▼春分のころは、昼と夜の長さがほぼ同じだ。五島プラネタリウムの金井三男さんの計算によると、このころ(といっても3月15、6日ごろ)は太陽の沈む速度が一番速い。東京では、先端が地平線についてから全部沈むまでの時間が2分36秒である。冬至のころは一番ゆっくりで3分12秒もかかる。季節によってこんなに違いがあることを初めて知った▼春分の日、太陽は真東から出て、真西に沈む。昔はお彼岸の中日に、日迎え、日送りの行事をする所があって、午前中は東に向かって歩き、昼すぎは西に向かって歩いたという。日を迎えて歩く、日を送るために歩く。ひたすら歩く。そこには太陽の動きに対する敬虔(けいけん)な祈りがある▼お彼岸になると、私たちは祖霊を迎えて、送る。墓地には線香のにおいが満ちる。お彼岸の詩に、中野重治の「挿木をする」という心にしみる作品がある。こな雪がちらつく春の彼岸の日に、さし木をする。「……おいで妹たち/僕らは挿木をしよう/祖父(じい)さんやそのまたお祖父さんたちがやったように/今日はほとけの日で挿木の日だ/雪は僕らの髪の毛にかかろう/そして挿木はみずみずと根をさそう」▼お彼岸に木を挿す風習を残す所があったのかどうかはよくわからないが、この詩には再生するものへの深い祈りがある。 日本と中国の漢字文化 【’87.3.22 朝刊 1頁 (全837字)】  さきごろ、中国残留「孤児」の日本体験を紹介した際に、日本人用の「異文化適応読本」もほしいと書いた。これについて、友人の1人は、知日派の中国人が最近発表した文章に、参考になるものがあるという▼その例として友人は、桜美林大学講師、金若静さんの著書『同じ漢字でも』、中国で発行されている日本語週刊誌『北京週報』の王暁浜記者が同誌に連載した留学記「中国の眼・日本の眼」、上智大新聞学科に留学中の若いジャーナリスト、孔健氏が書いた「中国人とのつき合い方」などを挙げた▼勧められるままに、走り読みしてみた。3氏ともまず指摘するのは、日中双方で使われる言葉が文字づらは似ていても、意味は大ちがいという例の多いことだ▼金若静さんは清朝の王族出身で、旧制女学校2年までを日本人学校で過ごした人だ。北京でも日本語を教えていたその道のプロだが、いざ日本に来てみるとソウメンの「薬味」や学生心得の「心得」がわからなかった。現代中国語ではそれぞれ「作料」「守則」でないと通じないそうだ▼王記者も、同じ漢字をちがう風に使う日中間のへだたりの大きさを強調する。我孫子という地名は中国語なら「わが孫よ」という大変なののしり言葉になるというあたりは、笑っていられる。しかし、7月7日生まれの同記者が、この日から日本人のように「七夕」を連想するのでなく、日中を戦争に追いやった蘆溝橋事件をまず思い起こすというくだりになると、はっと胸をつかれずにはいられない▼孔さんの文章は、ずばり日本人への注文をのべている。いわく、中国人は尊大ぶる人をきらう。いわく、過度に事務的だったり、命令的な話し方はダメ。友好的な行動と親切な言葉だけが、国境の壁や悪感情を打ち破る、と。人付き合いの潤滑油として、しきりに「巧言令色」を勧めるこの人の先祖が、なんと孔子さまだというから面白い。 売上税反対一色の統一地方選 【’87.3.24 朝刊 1頁 (全864字)】  統一地方選はまず、13の知事選から始まった。東京では、新宿駅東口の車の上に自公民の幹事長・書記長が相乗りしていたが、中曽根首相の姿は見えなかった。首相は党本部で演説をしたが街頭にはでなかった▼首相の「街頭第一声なし」というのはずいぶん異常なことではないか。トランプのジョーカーがわれこそは切り札、と胸を張っているのに、まわりの人はババが来るのを敬遠している。そんな感じだ▼今回の地方選挙ほど、こんがらかったふかしぎな選挙はそうめったにはない。首相が党本部で、売上税について「我々は堅忍不抜の精神でゆく」と叫んでいたちょうどそのころ、自民推薦の知事候補の何人かは「売上税撤回」「売上税の強行反対」を叫んでいた▼1つの政策について、中央と地方の意見がこれほど極端に違う選挙も珍しい。首相は「いろいろあぶくは立っていても、黒潮のあの太い流れが続いてゆくうちには、あぶくは消える」とものべた。売上税反対をとなえる自民候補・自民推薦候補の主張もさしずめ「あぶく」のごときもの、なのか。有権者は、黒潮とあぶくと、どちらを信じたらいいのか迷うことになる▼社会党の土井委員長は「統一地方選挙は売上税反対の住民投票だ」と訴えていたが、これはどうだろう。岩手県の参院補選と違って、今回は多くの保守・中道候補が売上税を批判している。批判の民意が保守・中道にも流れるとすれば、住民投票的な意味を見定めるのはかなり難しい▼こんがらかった事態を整理しておきたい。売上税反対については(1)公約違反だから反対(2)売上税の中身に反対(3)撤回を求める(4)導入の強行に反対し修正を求める、という多様な意見がある。(1)(2)(3)の人もいれば(2)(4)の人もいる。(2)の中には、売上税と地方自治体の財政とを結びつけた議論もある▼多様な意見の違いがあいまいになり、売上税反対一色になっては、争点がぼけてしまう。 大量受験時代の無残な「足切り」 【’87.3.25 朝刊 1頁 (全842字)】  国公立大の入試ではいわゆる「足切り」が約10万人もでた。足切り、というのは昔、子供の遊戯に使われた言葉らしいが、受験用語になると、なんとも無残に響く▼共通1次でふるい落とされ、志願校の門前払いをくい、門の中に入れないのに受験料だけはとられるという人がたくさんでた。その上、合格者の水増しがあり、そうかと思うと、今回は定員割れである。どうなってるんだとくやしがる受験生の声がきこえてくるようだ。国大協は拙速の道を歩んだ、といわれても仕方ないだろう▼大学側には、テストによる偏差値の高いものほど優秀な子であり、将来伸びる人材だという確たる考え方があるのだろうか。共通1次の結果や学校の成績で、その子の能力の一部はわかるかもしれない。だが、それはあくまでも一部だ▼たとえば棟方志功は小学校時代、図画が丙ばかりだったという。その人に備わる潜在能力を見抜くのは、そうやさしいことではない。アインシュタインは、スイスの工科の学校の受験に失敗した。数学の成績は試験官を驚かせたが、語学や博物の成績が悪かったためである。しかし校長は、その才能を惜しんで、ほかの学校に編入させた▼日本の大量受験時代にあっては、そういうきめこまかな対応をするのは難しい。難しい、とはわかっていても、私たちはなお、子どもの一人ひとりを、数値や記号として扱うのではなく、独自の能力をもち、夢をもち、傷つきやすい心をもつ生身の人間として扱ってもらいたい、と訴え続けたい▼教育とは、子どもの品質を管理して数値化することではない。人間には数値化できない、数値化してはならない部分があることを忘れては教育がゆがむ。教育がゆがめば国の土台がゆがむことになる▼数年後には共通1次テストにかわる新テストやらが始まるという。だが、いかなる教育改革も、政治家の功名のためのものであってはならない。 海外旅行いまむかし 【’87.3.26 朝刊 1頁 (全838字)】  1970年ごろ、ある旅行会社のハワイ6日間の団体旅行は、一番安いもので17万2000円だった。同じものがいまは18万9000円である。円高の影響があるとはいえ、17年前と値段がほとんど変わらない、ということに驚く。団体旅行方式の大量輸送がそれを可能にした▼こんど発表された『出入国管理白書』によると、日本人の出国者は約500万人になっている。これは一昨年の数字で、昨年はざっと4、50万人はふえているらしい。海外旅行が自由化された1964年に比べると、昨年は実に43倍にもふえたことになる▼海外旅行の日常化が進めば、異国の人とのつきあいは深まり、同時に、摩擦もふえる。本紙に連載されていた『新・日本とアメリカ』に、日本人の若者をもてあますアメリカの中年女性の話があった▼「私を突き倒したのよ。もう我慢できない。ホームステイはお断りです」と怒る女性のわきで、17歳の若者がいう。「メシがうまくねぇんだよ。寝る時間も早くて、好きなことができない」▼ホームステイでは、好きなテレビ番組が見られない、皿洗いが我慢できない、というたぐいの文句が多いらしい。「2、3年前まで、こんなことはなかった。みんな甘えている」という相談所の人の感想があった▼しかし一方では、若者の行動半径のひろがりに驚くことが多い。一昨日、たまたま昼食を共にした青年の1人は、陶器のことを教え、学ぶためにアフリカへ行くといい、1人は出版社に頼まれたので韓国へ行って来るとさりげなくいった。海外へ行く人びとの心はずいぶん変わった。異国へ行くという気負いがなくなり、旅の仕方も多様になった▼80歳の老人が農業指導のためにアフリカを歩き回っているという話をきいたし、定年後の夫婦が、なべかまさげて、世界漫遊を続けているという話もきいた。脱集団旅行派が徐々にふえているらしい。 『たいこどんどん』と売上税 【’87.3.27 朝刊 1頁 (全840字)】  前進座の『たいこどんどん』をみた。この劇団としては珍しく、危な絵的な場面ときわどいせりふがふんだんにあって、たいこもち・桃八の中村梅之助と、若だんな・清之助の嵐圭史、ほかの芸達者の連中が場内をわかせていた▼原作者の井上ひさしは、心底、怒り続けることができないごますり男・桃八の中に、日本の常民の人のよさ、たくましさ、情の深さ、そして何よりも、そのおろかさ加減を描こうとしたのだろうか▼桃八は、気が弱いくせになかなかこすっからい若だんなの清之助に決定的に裏切られ、東北の鉱山の飯場に売り飛ばされる。3年、地獄の苦しみを味わい、鬼の清之助を殺す夢ばかり見る。だが、うらぶれた若だんなに会うと、馬乗りになってこぶしを振りあげながら、どうしても殴れない。「人の後にくっついて暮らしていた垢(あか)」のせいか、いざとなると、ぐにゃとなってしまう▼だまされ、ひどい目にあいながらも、桃八は「若だんな、日本一」「ただいまのせりふ日本一、大(だい)のきまりだ」とお世辞をいいながら、したたかに生き抜く▼江戸が明治になり、世の中は変わるが、桃八は「何も変わっちゃいない」という。そう、そのたくましさとおろかさ、決してトラの尾を踏もうとしない習性のようなものは、今の世にも続いている▼ところが、こんどの売上税論議では、大勢の自民党支持者が、トラの尾を踏んだ。しっぽを踏まれたほうは怒って、たとえばこういっている。「中曽根首相は同日選挙のさい、抜本的税制改革をやるともいっていた。間接税導入があるな、とわからない方がおかしい。頭が悪い」と▼自分たちのずるさを棚にあげて、ずるさを見抜けずに自民党に票をいれたのは頭が悪い人のすること、といわんばかりのせりふだ。桃八さんならじっと我慢して「ただいまのせりふ日本一、大のきまりだ」と持ち上げるだろうか。それとも。 禁煙列車 【’87.3.28 朝刊 1頁 (全840字)】  新幹線に乗る前は、禁煙車にしようと思う。だが、息せき切って駅の窓口にかけつける時は「禁煙車を」というのをすっかり忘れていて、渡されるままの喫煙車の座席券をもってかけこむ。車両に乗った瞬間に、しまった、と思うことが再三ある▼禁煙車に乗りたいのなら、そのことをきちんと注文する習慣を身につけるのが当たり前ではあるが、1つ、提案がある。国鉄も、もうすぐ国鉄にかわる新会社も、空の旅なみに、「禁煙車にしますか」と必ず窓口でたずねるようにしたらどうだろう▼指定券を売る側も買う側も、きちんとそのことを確かめることにすれば、禁煙車を望む人がどのくらいの割合なのか、正しくとらえることができるだろう▼禁煙車派が多くてさばききれず、一時は混乱が起こるかもしれない。しかしそういう混乱をへて初めて、乗客の要望に応じた対策をとることができる。喫煙派の口からたばこを取り上げよ、というのではない。大切なのは乗客の要望をつかんで、両者のほどよい共存、つまり分煙を考えることではないか▼禁煙列車の新・増設などを求めた今回の嫌煙権訴訟の判決を読んだ。「禁煙車の割合は現状でいい」といわんばかりのところが不満だ。「国鉄は禁煙車をふやした。だから乗客はたばこの煙による被害を受ける機会を回避することが困難ではなくなった」と判決はいう。はたしてそうか。乗客調査をすれば、禁煙車をより多くと望む人の数はかなりのものになるのではないか▼たとえば群馬県の上毛電鉄は、2月から全列車内禁煙に踏み切った。路線が25キロと短いせいもあるだろう。「車内がさわやかになった」という支持派の投書はあるが、今のところ苦情はあまりきかないという▼かつては、1年間に喫煙人口が100万人もふえた。今は逆で、1年間に喫煙者が100万人も減る。そして徐々にではあるが分煙の動きがひろまりつつある。 大阪という街 【’87.3.29 朝刊 1頁 (全842字)】  「東京に魅力を感じますか」という本社世論調査の質問に、大阪の人は81%が「感じない」と答えた。「感じる」人がわずか16%である。さもありなん、と思わせる数字だ。東京なんてあんなとこひとの住むとこやおまへんで、なんだろう▼若い人はちょっと違って、魅力を感じる人がややふえる。とくに20代前半の女性は、半分近くが魅力を感じると答えている。若者は情報の発信源としての東京にひかれる、ということが調査の結果にでていた▼電通の雑誌『アドバタイジング』が花の大阪万博を語ったかと思うと、博報堂の雑誌『広告』が大阪主義の特集をしている。東京論ブームの次ははやくも大阪なのだろうか▼いわく、大阪は背広族をお好み焼き屋へ誘う街である。いわく、大阪には昔から自由の土壌があった。いわく、大阪にはわしらでつくろうの精神が生きている。いわく、大阪人の個性、それは大阪弁と共にある。いわく、東京は体裁やめんつにこだわるが、大阪は中身にこだわる▼特集大阪主義には、数々の筆者、発言者の定義がぞくぞくでてくる。そこにこの街のおもしろさもあるし、大阪の人の大阪へのこだわりが見え隠れしている。大阪という土地の特徴は人びとが大阪にこだわることである、と大阪生まれの友人はいう。大阪にこだわる大人たちが、それほどは大阪へのこだわりをもたぬ若者たちの心をどうやってつかむか。大阪再生の難しさの1つはそこにある▼「それで結局なんぼやねん」の世界が、昔ながらの大阪の体質なのかどうか筆者にはわからないが、大阪主義とはそう単純なものではないだろう▼大阪からひろまったものに、たとえば若者のリサイクル運動があった。主婦のボランティア労力銀行の運動があった。手持ちの衣服の仕立て直しを考えるリフォームの運動もあった。こういう生活のにおいの濃い運動の背後には、よくこえた文化の土壌がある。 ハンセン病に苦悩した隣国の人々 【’87.3.30 朝刊 1頁 (全851字)】  いま、全国で7500人余のハンセン病患者が各地の療養所で暮らしている。平均年齢64歳。うち約400人が在日韓国・朝鮮人だという。なぜ、こんなに多くの人びとが異国で隔離生活を送らねばならなかったのか。『名ぐわし島の詩』を読んで、自分の無知を恥じた▼高松市に住む著者の喜田清さんは、4年前から鉄工所の仕事の合間に片道6時間もかけて対岸の岡山・長島愛生園に通い、在園するこれらの人たちから聞き書きした。病への偏見と民族差別を乗り越えて立派に生き抜く人びとのいる島こそ、名ぐわし(名前が美しい)の島に思えたという▼だれ1人として、日本の植民地時代の波浪の外に生きた人はいない。慶尚北道・慶山の人は、12、3歳のころから父親とともに銅鉱山で働いた。戦争が終わって舞鶴港から帰国船が出る前夜にハンセン病と診断され、ただ1人、長島に連行されてきた▼貧しさゆえに病を得て、貧しさゆえに文字を知らない人びとである。彼らは母国語の勉強を始める。多くの人が指を失っていて、ゴムバンドで鉛筆を右手にしばりつけ、刻むようにハングルを書いていった。自分の国のことばと文字で自分の思いを表現できることの喜び、その尊さ▼ある日、みんなは大声で『涙に濡(ぬ)れた豆満江』を合唱してくれた。「思い出つのりはりさける胸、いとしの君よ……ああ、いつの日かえる」。あの時代に、ひそかに口ずさんだ祖国独立への願い。聞きながら著者は悲しむ。「少年のころ、自分も『若鷲の歌』を熱唱した。だが私は今、その歌を朝鮮・韓国の人びとの前で誇りを持って歌えない」▼治療薬が開発され、ハンセン病はわが国では過去のものになろうとしている。この本に出合わねば、この病に苦悩した隣国の人びとの存在を知らぬまま通り過ぎるところだった。民衆の歴史は民衆自身が語り伝え、そこから学ぶことで新しい時代は開ける、と著者は結んでいる。 3月のことば抄録 【’87.3.31 朝刊 1頁 (全858字)】  3月のことば抄録▼鈴木元首相が胃の手術をした。「医者が内臓がきれいなのに驚いていたので『先入観があるからじゃないか。政治家のハラの中は案外きれいなものだよ』といっておいた」。鈴木さんのハラの中には意外にも、冗談好きの虫がいることもわかった▼岩手参院補選の自民完敗以後、河本敏夫氏のハラをすえたことばがめだつ。「岩手の敗因は99%まで売上税だ。言い訳をしないで謙虚に反省すべきである」「売上税は凍結して、新しい角度で考え直すべきだ。それが議会政治であり、民主政治だ」▼売上税問題では、とことんがんばるしかない、といっていた金丸副総理が一転「統一地方選まで、このまま『おしん』の気持ちだけでいけばいいのかどうか」といいだした。政治家のハラの中を探るのはやはり難しい▼「中曽根首相は公約違反を認め『誤解を与えて申し訳なかった』とわびなければダメだ」と山中貞則氏。売上税の生みの親が「公約違反」だと保証するのだから、これほど確かな話はない。「ペイシェンス(忍耐)ペイシェンスペイシェンス」と首相▼「私の過ちだった」。海の向こうでは、レーガン大統領がイラン武器売却の政策判断の誤りを認めた。「ナンシー夫人は夫のためならトラのように戦う」といったのはレーガン夫妻の親友だ。リーガン氏が去って、ナンシー夫人は最も強力な大統領顧問になった▼「科学にとって権力万能主義は死を意味する」とソ連の週刊紙。サハロフ博士が闘ったのはまさにこのことではなかったか▼「男性の乗客が赤ちゃんの衣服を歯でくわえて助けだすのを見た。信じられない光景だった」と乗客の1人がいった。ベルギーで起こったフェリー転覆事故では死者、行方不明が100人を超えた▼「国鉄は目を肝心のお客さまには向けず、政府・自民党にばかり向けてきた」。東日本鉄道の会長になる山下勇氏。きょうで110余年の歴史をもつ「国鉄」の名が消える。 地価抑制の妙手は… 【’87.4.1 朝刊 1頁 (全855字)】  長年、土地問題を研究している知人がたずねてきて「大土地資産税の創設について」というワープロで書かれた文書を置いていった。これこそ地価抑制策の妙手だし、その税収は売上税にかわる有力な財源にもなる、と知人は熱弁をふるった▼詳しい内容ははぶくが、要は、一定限度以上の大土地資産に対して重税を課す、課税標準は実勢地価に近づける、その土地に良質な賃貸住宅が建てられ、有効に利用されている場合などは税を軽くする、というものだ▼この土地税をつくれば、東京の区部、市部だけでもざっと7兆円という巨額の税収がみこめるそうだ。全国ならその2倍になる。重税をまぬかれるために土地を売る人や質のいい賃貸住宅を建てる人がふえて地価高騰の熱をさます、と文書にはあった▼問題をかかえる案ではあるが、いま必要なのは、こういう案を含めて、みなで土地改革案を考え、地価高騰策に励む政府に怒りのやいばを突きつけることだろう▼新しい地価公示によると、東京都の平均上昇率は53.9%だというからこれはもはや激騰、乱騰である。乱騰のきっかけをつくった政府の国有地払い下げは、大失政の1つに数えていい▼(1)土地で巨利を得るものと寸土を持ち得ぬものとの社会的不公正の拡大(2)サラリーマンの閉塞(へいそく)感の深まり(3)遠く、狭く、高い住宅のもたらす家庭生活への重圧や通勤苦(4)固定資産税や相続税がふえる、という小土地所有者の不安(5)用地難による社会資本の整備の遅れ、などなど。恵みの大地は今やパンドラの箱だ▼たとえば土地転がしに重税を課すという。だが所有期間が2年以内では短すぎる。国土利用計画法を改正して、国公有地売却を監視するという。だがこれも腰くだけに終わった。暴力団がらみの地上げ屋が暗躍し、放火騒ぎまで起こっているのに、政府の土地無策は続く。地価乱騰を放置する社会のしくみに恐ろしさを感ずる。 若王子さん救出 【’87.4.2 朝刊 1頁 (全826字)】  一瞬、エープリルフールではないかと思ったが、三井物産の若王子信行さんの無事は本当だった。指も切られていなかった▼監禁中の若王子さんは「ここの一日一夜は非常に長く、暗く、恐ろしい」とテープに吹き込んでいた。生死の境目に立たされた137日間の痛苦はいかなるものであったろう。「パパ、早く元気で帰って来て」と現地のラジオに吹き込んだ正子夫人と、一人娘の真規ちゃんの祈りが通じた▼若王子さんには申し訳ないが、事件の解決にはやはりある程度の時間が必要だったようだ。フィリピン政府の要人、捜査の最高責任者、カトリック教会のシン枢機卿たちは、1月ごろから口をそろえて「健在説」を語っていた。たぶん、かなり早い時期から犯人の輪郭はつかめていたのだろう▼日本流に考えれば、それならばなぜもっと早く手を打たないのかということになる。だが、短兵急に追いつめず、じわじわと網をしぼり、それなりの時の流れの中で話を積み重ねてゆく、人質の命があやうくなるほど性急にはことを運ばない、というのがフィリピン流なのだろう▼東海大の首藤信彦助教授が「海外の誘拐事件では解決におそろしく時間がかかる。さまざまな意図や関係者が複雑にからみ、調整には3カ月以上かかるのがむしろ普通だ」と書いているが、その通りだと思う▼幸いにも若王子さんは無事に保護されたが、終わりが始まりであるところに誘拐事件の難しさがある。海外渡航者は年間約550万人になった。海外に駐在する日本人も数十万人はいる。誘拐業はもうかる、ということになれば「金持ちニッポン」はますます標的にされるだろう▼「日本人は金もうけのために来て去ってゆく。親しまれる存在ではない」といったのは、マレーシアの漫画家ラットさんである。「親しまれる隣人」であるかどうか。いざという時にはそれがものをいう。 国鉄からJRへ 【’87.4.3 朝刊 1頁 (全855字)】  今まで、国電の車内放送では「乗り換えの方は」といっていたのが「乗り換えのお客様は」というようになった。夜、改札口をでると「お疲れさま」という声がかかった。結構なことだ▼分割・民営で元気になります、というのが改革のうたい文句だった。だがはたして本当に元気になってくれるのか、大都市でも「私鉄なみの運賃」を実現してくれるのか、となると極めて心もとない▼1日の午前零時ごろ、東京の汐留駅構内に立って、国鉄最後の「汽笛吹鳴式」をきいた。その時の印象が、あまりにもうらがなしいものであったために、つい悲観的になってしまうのだろうか▼気温4.3度、という異常な寒さだった。展示中の蒸気機関車に石炭がたかれた。吐きだす黒煙が横なぐりの北風に乗って流れ、目にしみた。なつかしい汽車の煙のにおいがあった。汽笛は2度、鳴った。高く鳴り響く音だったが、巨大な獣がもだえ苦しむ悲鳴のようにもきこえた▼汐留(旧新橋駅)は鉄道創設の地だ。明治5年の開業式には、花火が打ち上げられ、雅楽の音が満ちた。今回はそういううきうきしたところがなかった▼汐留はやがて貨物駅として栄えるようになり、最盛時には年間331万トンの貨物が取り扱われた。東京の「心臓」だともいわれた。今、この約20ヘクタールの広大な敷地は用地処分の日を待っている。汐留周辺はすでに地価乱騰のあらしの中だ▼どこかがおかしい。地価乱騰のツケが国民の肩に重くのしかかることを、政府や清算事業団の幹部はどう考えているのか。「国民の負担を減らす」名目の用地売りが、実は「国民の負担をふやす」ものになることに、当事者はなぜ鈍感なのか。「用地を高く売れ」という至上命令のまま無批判に突っ走る。改革すべきは、そういう体質そのものではなかったか▼国鉄をJRの横文字に変えたからといって、なにかが決定的に新しくなったという実感は、残念ながらまだない。 唐の時代に学ぶ売上税の教訓 【’87.4.4 朝刊 1頁 (全838字)】  昔、唐の徳宗の時代に、売上高に5%の税金を課す制度ができた。今でいう売上税に相当するものだろう▼当時、内憂外患、やや落ち目になっていた唐は、増大する軍事費に苦しんでいた。財政を立て直し、戦費をひねりだすには新税しかないと思いつめたのだろう。策略家の名が高い宰相盧杞(ろき)は、いくつかの新税を考えた。その1つがこの売上税である。当時は除陌銭(じょはくせん)と名づけられ、違反者には厳罰が科せられた▼これは、公約違反でもあった。政府は「今までの税制以外は1銭たりとも徴収しない」と明言していたのである。新税強行は人びとの不満を招いた。物価が上がり、長安の都には怨嗟(えんさ)の声が満ちた▼ついには反乱が起こり、徳宗は都をのがれる。そして、己の過ちを認める詔書をだし、天下にあやまった。悪税は廃止された。作り話ではない。唐の時代に、おおむね以上のようなことがあった、と歴史書は教えてくれる▼教訓の1、民衆の納得しない新税強行は、政府の命とりになる。教訓の2、公約違反に対する怒りはかくも激しい。教訓の3、徳宗はいさぎよく己の非を認め、かろうじて面目を保つことができた▼中曽根首相は公約違反を謝る気はないらしい。今の税制のままでは「日本は10年後に滅びている」と首相はいう。だから売上税導入なる「大きな仕事」を残しては逃げない、と決意を語っている▼売上税が日本の滅亡を救う切り札なのかどうかの是非はともかく、少なくとも首相がそう信ずるのならば、それほどの重大事をなぜ、同日選挙のさいに明言しなかったのか。ある程度の直間比率の見直しはやむをえまいと考えている人たちをも怒らせたのは、首相の公約違反ではなかったか▼道府県議選の告示の前、首相は売上税を修正するかのような発言を始めた。選挙の前と後で軟・硬を使いわける。首相の得意芸が始まった。 木と語る 【’87.4.5 朝刊 1頁 (全852字)】  木と自由におしゃべりできる人がうらやましい。大地に姿を現した子葉と長い間語りあうことのできる人がうらやましい。木とつきあう仕事をしている人はたいていそれができる資質を持った人たちなのだろう。東大小石川植物園の山中寅文さん(農学部技官)もそうだ▼幼いころからカマを手にして山林の下刈りをやった山中さんの場合はとりわけ、かなり深い情で木と結ばれているらしい▼山を歩いていて、岩陰から伸びる稚樹をみると山中さんは大声でいう。「なんだ、お前、そこから生えたのか」。えらいえらいと励ます響きがある。しばらく行くとまた叫ぶ。「いたいた、ここにいたんな」。地上に現れたブナの子葉をみて、話しかける。「お前、白鳥の湖を踊っているみたいだぞ」▼その山中さんが、3月で退官した。実生(みしょう)の専門家として、この人が種子から育てた木は植物園のいたるところにある。ユリノキは直径60センチ、高さ20メートルの巨木になっている。約40年間で1000種の実生実験を試み、それぞれの生き方を明らかにした。無数の失敗があって、成功があった▼「やってみなくちゃあ、わかりませんよ」と山中さんはよくいう。「木のことは木に聞け、です」「大自然に教わるしかありません」。木と話をするとはつまり、大自然に教えをこうことでもあるだろう▼眺めるだけでは木や草とは語れない。触る。木登りをする。木の声に耳をすます。においをかぐ。食べる。葉や花や木の実で遊ぶ。木と語るには、五官をはたらかせることだ、と山中さんは子どもたちに教える。一緒にササ舟を作り、タラヨウの葉に文字を書いて遊ぶ。遊びながらいつか子どもたちを夢中にさせてしまうのが、寅さんの特技だ▼退官後の仕事の1つは、千葉の公園に木登り自由、いたずら大歓迎の場を造ることだという。「自然は偉大な人間教育の場だ」というのが山中さんの信念になっている。 レトロばやりと俳句ブーム 【’87.4.6 朝刊 1頁 (全844字)】  先日、本紙声欄に、ある大学の先生からの投書が載っていた。旧制高校の小会合で、このごろ新聞でよく見る「レトロ」の意味をたずねたら、レトロスペクティブ(回顧的)の略だと即答できたのは10人中、元医大教授ただ1人だったという▼レトロ趣味、レトロ気分、レトロ風味、おもしろレトロなどなど、たしかに今はレトロばやりだ。ハイテクノロジー(高度先端技術)があまり進みすぎて、それでかえって未来が見えにくい。バックミラーに映る過去のほうが明るく新鮮に見える。そんな時代感覚の反映が、ここにはあるのかもしれない▼俳句をレトロ趣味だといったら語弊があるだろうが、最近は俳句ブームだ。女性の愛好者がふえ、カルチャーセンターがにぎわう。3、40代のサラリーマンが、一杯飲みながら句座を組む。通勤句会といって、朝の同じ電車仲間から生まれたのもある▼コピーライターや編集者らの句会もさかんだと聞く。昔はどちらかといえば老人の文学、ないしはたしなみだった俳句が、1つのことば遊びとして、新鮮な目で見つめられてもいる▼全国結社だけでも800近くある。朝日俳壇への投句は週平均1万におよぶ。日本人はもともと詩ごころの強い国民といわれるけれど、575の短さがとっつきやすさにつながるのだろう。俗に「詩人3万、歌人30万、俳人300万」といわれたりする▼世界の俳句熱も高まる一方だという。英、独、仏語の句集や研究書があり、アメリカの辞書にはサムライ、ハラキリ、トーフ、ゼンなどといっしょにハイク(HAIKU)が載っている▼ハイテク時代の世界のハイクだ。ここらでしばらくハイテクのテ(手)を抜き、花鳥諷詠(ふうえい)のハイクに遊ぶ。これでは駄じゃれにしかなるまいが、温泉や縁日が若者にも受ける時代だ。一見相矛盾するものをかかえて流れる、そこに世の中のおもしろさを見るのも一興だろう。 本格的ベトナム戦争映画「プラトーン」登場 【’87.4.7 朝刊 1頁 (全852字)】  映画『プラトーン』が作品賞、監督賞など今年のアカデミー賞を4つも取った。昨年暮れ、アメリカで封切られると大当たりし、タイム誌がカバーストーリーに取り上げて「プラトーン現象」と名づけるほどの反響を呼んだ▼題名は小隊を意味する。大学を中退して志願した若者が、いきなりベトナムの戦場にほうりこまれる。その一兵士の目から見た戦争の狂気と悲惨を、オリバー・ストーン監督は冷ややかに描く。自分自身のベトナム体験をもとに脚本を書き、10年間も温めてきた▼ニューヨーク・タイムズのサイゴン特派員だったデービッド・ハルバースタム記者は「初めての本物のベトナム映画だ」と評した。映画はリアリズムを貫く。果てしない雨とジャングルの夜のやみ。兵舎内の麻薬。待ち伏せの恐怖。仲間どうしの殺し合い▼当然、残虐な場面もある。米兵は農民を村から追い、蓄えの食糧もろとも家を焼き払う。村民を殴り殺し、死んだ敵兵の耳を切り取る。日本人記者の戦場ルポを読んだ者にはおぼえのある話だが、なまなましい映像を初めて突きつけられたアメリカの観客にはショックだったろう。「これまでに作られたもっともいやらしい映画の1つ」という保守派の反発もあった▼これまでアメリカ映画の中のベトナム戦争は、米軍が北ベトナム兵に痛めつけられるか、あるいはその逆か、つまりは『ディア・ハンター』か『ランボー2』のどちらかだった。戦争の後遺症からようやく脱したかに見える今日、やっと戦争の真の姿を描いた映画が可能になった。己の国の戦争を、さめた目で、しかも深く省みることができるまでには、ある歳月が必要だということだろう▼日本の書店にはすでに、映画をもとにした文庫本が並んでいる。筆者が見た書棚に『饗宴 プラトーン』という背文字の本がまぎれこんでいた。はからずも映画の前評判に巻きこまれたギリシャの哲人は、苦笑するほかあるまい。 帝銀事件の平沢、「まないたの鯉」の40年 【’87.4.8 朝刊 1頁 (全839字)】  「まないたの上に悠々鯉(こい)不動」。帝銀事件の死刑囚、平沢貞通の句だ。60代のころの作だが、句を作ったあとすぐ「本当に悟っていれば、まないたの鯉などといわないはずなのに、愚かなことだ」と自省している▼悟りえぬからこそ、まないたの鯉の覚悟を、と祈り続けたのだろう。死刑執行の言い渡しを恐れながら暮らすこと自体が責め苦のはずである▼2月に95歳の誕生日を迎えたころから、平沢は重体となり、絶対安静といわれた。5日には危篤状態になり、気管切開による酸素吸入が行われた。流動食も受けつけず、静脈に栄養剤が注がれている。いまは体重が30キロを割っている▼それでもなお、5日、6日、7日と生き続けている。刑務所当局も「これだけ重い症状でありながら……」とその生命力に驚いているそうだ▼「平沢貞通氏を救う会」の事務局長、森川哲郎さんの長男、武彦さんが平沢の養子になったのは6年前だ。その武彦さんが2月に面会した時、重体の平沢は「シャバで一杯やりたいね」とかぼそい声でいったという。いつかはシャバで、という執念こそが、命を支えてきたのだろう▼逮捕されたのが56歳の時だから、約40年がたつ。死刑を言い渡した東京地裁の江里口清雄裁判長も亡くなり、死刑を確定させた最高裁の田中耕太郎長官も亡くなった。その当時の花村四郎法相も亡くなり、森川哲郎さんも亡くなった。たくさんの関係者の死を見送りながら、自称「まないたの鯉」は生き続けた▼帝銀事件の真相はヤミの中だが、平沢を真犯人とすることに異議をとなえる人が少なくないのはなぜだろう。決定的な物証がない、アリバイの主張にもうなずけるものがある、犯行に使われた青酸化合物の入手先が明らかにされていない、という主張がある。無実の罪の恐れは、本当にないのか▼武彦さんたちは、第18次の再審請求の準備を進めている。 子会社の放漫経営と「第2の国鉄」日航 【’87.4.9 朝刊 1頁 (全852字)】  日本航空が、子会社の日本航空開発(JDC)の経営について行った監査報告書を読んだ。唖然(あぜん)とするばかりの内容である。政府が出資している親会社の日航に対し、会計検査院がここで検査に乗り出したのも当然だと思った▼1970年に設立されたJDCは現在、世界各地で17のホテルを経営している。日航で運んだ客を送り込もうという戦略だが、「実力以上の拡大主義」により早晩、破綻(はたん)にひんする経営状態で、親会社にも重大な影響が及ぶ、というのだ▼この2年間だけで800億円の投資を行い、累積損失は85年の31億円から93年の約300億円へ。借入残高も85年の500億円から96年には930億円になるというからすごい。監査役もよほど驚いたのか、「恐るべき額」と2度も繰り返している▼ニューヨークの名門ホテル、エセックス・ハウスの買収にあたっては不動産鑑定機関の正式評価を受けてないばかりか、「十分な価格交渉も行わず、言い値で購入」したという。気前のいい話だが、赤字続きで「事業運営の意義が全く見当たらない」と手きびしい▼報告書は子会社の放漫経営ぶりを迫力十分に記述しているが、問題はむしろ、親会社の指導管理上の不備をたしなめた点にあるだろう。日航とJDCの合同役員会で、ひとたび計画が報告されると、まだ調査段階にあるものまで了承されたとみなされる。たとえ、それが失敗に終わっても、「共同決定のようにみなされ、経営責任の所在が不明確になる」。これを親方日の丸体質というのではないか▼完全民営化を前にしてごたごた続きの日航に、また難問が加わって、経営陣は頭の痛いことだろう。山地社長は報告書を「解決への第一歩」と語っているが、具体的にどんな手を打つか▼日航が「第2の国鉄」といわれて久しい。そういえば、国鉄でも、経営に警告を発する監査報告書が出されながら無視されてきた。 にせ札事件と福沢諭吉の憂い 【’87.4.10 朝刊 1頁 (全838字)】  『三田評論』の4月号に、土橋俊一さんが福沢諭吉編の「修身要領」について論じている。男尊女卑を「野蛮」と断じ、夫婦が互いに独立自尊をおかさざることこそ人倫の始めだと説くくだりもあって、当時としては極めて新鮮な「修身要領」だったらしい▼君臣、親子のタテの道徳に対して、夫婦、人と人との交際というヨコの道徳が強調されているところに、この要領の特徴がある。「俗界のモラルスタンドアルド(道徳水準)の高からざること」を憂えて、諭吉はこれを編集したという▼時代が変わり、あの世の諭吉先生は、己の姿を刻んだ1万円札のにせもの騒ぎを知ることになる。ふかしぎなのは、「統一地方選の時に使う見せ金として利用する」といわれて印刷した、と犯人の1人が自供している点だ▼何十億円もの見せ金なんてありえない話だが、ひょっとすると、などと思えてくるところに、あるいはそういう口実がもっともらしく使われるところに、この事件の風刺性がある。諭吉先生は俗界、そして政界のモラルスタンダードの高からざることをさぞ嘆き悲しんでいることだろう▼にせ札を人目につく所に捨てるなんて、なんとも荒っぽい手口だが、この事件で新札の偽造が極めて難しいことが改めてわかった。銀行には、紙幣収納装置があって、すかしのないもの、色、紙質の違うものをすぐ発見する。にせ札の1枚もこの装置で発見された。いや、見て、触っただけでも、本ものとの違いがわかるという▼本ものは、1ミリに12、3本の線を彫るほど精密なもので、コピー機やカメラでこれを写しても、細かい部分が黒くつぶれる。今回のにせ札がやや黒っぽく見えたのもそのせいだろう▼諭吉先生はちゃんとにせ札防止策まで心配している。「紙幣を製作するに、殊更に洪大にして精密なる器械を要するの仕掛にすれば、贋(がん)造は先づ少なきものなり」(通貨論) 内需拡大策のかじ取りは大丈夫? 【’87.4.11 朝刊 1頁 (全850字)】  二階堂前副総裁が、中曽根首相を批判している。売上税の公約違反問題では「首相は『間違えました。よく国民の意見を聴いた上で考え直す』といえばいいのだ」と、出直し論をほのめかしている▼日米経済摩擦問題では「思い切った内需拡大策をとらないとだめだ、と一昨年から進言してきたのに、首相はわかったわかったというだけで、今のような状況になった」と手厳しい▼二階堂さんだけではない。河本派首脳も「首相は言い訳をせず、素直に非を認めて方針を変えよ」といいだした。「売上税反対をいうものは党議違反」などといっていたのはついこの前なのに、いまは党議などどこかへ吹き飛んで、凍結論、修正論がちらつく。百家争鳴はけっこうな話だが、多くの有権者はもう、選挙中の甘い発言を信じなくなっているのではないか▼内需拡大策でも、首相の国際公約的決意表明違反が問われているのだ。去年の同日選挙前には「3兆円規模の補正予算案」を組む、という甘い話があった。「政策の目玉がないと選挙を戦えない」という党内の声もあって、公共事業の拡大がはかられた▼だが、選挙後になると、公共事業などに使われる国費はわずか5500億円にすぎないことがわかった。3兆円というのは、民間の設備投資などを含めての話で、規模を大きくするための見せかけ、という批判がでたのも当然だった▼そしてこんどは、首相訪米直前の泥縄式の内需拡大策である。5兆円規模の補正予算案の登場である。5兆円といったって、見せ金が多いのではないか。この内需拡大策を包む袋には、相変わらず緊縮財政じるしがついているのか。積極財政じるしに変わったのか。そういう多くの問題をかかえたまま、自民党案が国際公約になってしまった▼問題は、大減税なしに、この程度のことで内需拡大が進むのかどうか、である。内需拡大策のかじ取りに失敗すれば、国際公約違反の声が噴出する。 「春を歩いてしまいけり」の一日 【’87.4.12 朝刊 1頁 (全839字)】  東京の近郊ではハナズオウが深い紅色の花を咲かせている。2輪草が咲き、イカリソウが咲き、山吹草がつぼみをふくらませている。桜もコブシもレンギョウも、花から緑へ移りつつある▼蕪村に「けふのみの春をあるひて仕舞けり」という句がある。今日のみの春とは何だろう。しろうと流の勝手な解釈だが、桜の咲くころ、よく晴れて、気温が上がって、春の心が天地に満ちる日がある。春たけなわ、春の頂上は今日でおしまいだと思う名残の日を「今日のみの春」と感じとるのだろうか▼そんな日は、自然に足が動きだす。数日前、20度を超す陽気につられて、午後、小仏峠から高尾山のあたりを歩いて、山桜を見た▼青い地衣をまとった桜の古木の下でふりあおぐと、葉と花、えび色と白の点描の世界がこまかく風にふるえている。無数の虫が飛び交う花々の奥に、たそがれ前の露草色の空があった。山が淡いあかね色に染まりだすと、1枚1枚の花びらの重なりあう部分が逆光の中で濃く浮かびあがってくる▼甘糟幸子さんは文庫本『野の食卓』の中で、子供のころに見た桜が「なぜか生々しく、恐ろしく思えた」と書いている。人気のまったくない夕影の桜にも、そんな気配があった▼『野の食卓』はナズナ、ノビル、ヨメナなどの野草を食卓にのせる楽しみを書きつづった本だが、甘糟さんは山道を歩くことについても書いている。「私の足は……歩いていくうちに、大昔の人間はこんなふうに感じていたのかしら、というように、土や樹木と一緒に呼吸しはじめるのです。山の中で木の葉の間を渡ってくる風にあたるのは楽しいものですが、今では歩いている自分が風を起こしているような気がしてきます」▼歩くこと、風に化すことの極意を、この文章は簡潔に表現している。薬王院に着いた時は日が暮れて山桜はやみにとけこんでいた。「春を歩いてしまいけり」の1日だった。 87統一地方選のさまざまな珍現象 【’87.4.13 朝刊 1頁 (全840字)】  統一地方選挙では、さまざまな珍現象が起こっている▼《追い風現象》知事選では、革新が福岡と北海道で勝った。福岡の場合は、失礼ながら売上税の問題がなかったら社共の奥田八二さんは危なかった。「自公民」対「社共」の基礎票は約2対1だ。それでも奥田さんが勝てたのは、売上税反対という追い風のおかげだろう。地方選挙ではあるが、有権者の審判は明確だ▼《いややねん現象》大阪では「いややねん、売上税」が両陣営のうたい文句になった。いや、全国津々浦々で、いややねん熱風現象が起こった。徳島の商店街では、保守系候補がポスター張りを断られたりした。相当な熱風だった▼《擬態現象》南の国に、枝先に止まっている時は頭を朱色にし、花を装って虫を誘い、危険がせまると、頭を緑色の保護色に変える種類のトカゲがいる。3月初め金丸副総理は「売上税の修正、反対をいい、迎合する人がいると自民党はもたなくなる」といっていた。だが選挙と共に、党幹部があいついで売上税の修正をにおわせる擬態的発言を始めた▼《おしゃべり封じ現象》おしゃべり好きの宰相が一度も応援演説に行けない、という珍無類の現象が起こった。いややねん熱風の風見は、首相にも難しかった▼《ねじれ現象》野党は「売上税断固反対」で自民党と対決しているのに、所によって自民党候補と相乗りする現象が生まれた。福岡知事選は売上税の成り行きを占う天下分け目の戦いなのに、公明、民社はあえて保守系候補の側についた▼《呉越異舟現象》仲が悪くても、なんとか同じ舟に乗ってきた東京の知事選で、社・共が違う舟に乗った。どう説明されても、このいがみあい現象はよくわからない▼《不燃現象》今回だけではないが、知事選の投票率が次第に落ちている。平均8割台の時もあったのに、今回は約6割だ。選挙の低調さを救ったのは、これも売上税のおかげだった。 女性の進出がめだった87統一地方選 【’87.4.14 朝刊 1頁 (全857字)】  今回の地方選挙では、女性の進出がめだった。横浜や川崎の市議選では合計16人の女性が当選した。そのうち5人は、生活クラブ生協を母体とする神奈川ネットワーク運動に参加する主婦たちだった▼川崎市議選に当選した36歳の飯田菊恵さんは「ふつうに生活している人の感覚で政治に参加してゆくこと」の意味を訴え続けたそうだ▼たとえば幼児の交通事故が起こりやすい道路にガードレールを設けよと声をあげ、市への陳情が実ったことがある。声をあげれば解決できるんだ、という自信が運動にはずみをつけた▼リサイクル運動を利用してバザーを開き、益金を運動資金にする。毎日のようにどこかの家で小さなホームパーティー、つまり井戸端政治会議を開く。売上税の問題も福祉の問題も、自分たちが声をあげて解決してゆこう、と話し合う▼各候補者は今年に入ってそれぞれ100回前後の小さな集いに顔をだした、というから相当な精力である。共同購入運動を母体とするこの組織の動きには、生活に根をおろした新しい市民運動の姿がある▼静岡の県議選では、74歳の水野シヅさん(社会)が当選した。市議5期で引退しようとしたところに、土井たか子委員長から話があった。「えっ? 私もマドンナ? でも、お役に立てるなら」と引き受けたのが告示1カ月前だ。準備不足でも当選できたのは、売上税だけではなくて、女性に期待する時代の要請があったからだろうか▼栃木県議選では青山二三さん(公明)が当選し、県政史上2人目の女性県議が誕生した。奈良県議選では「勝敗は二の次」で立候補した主婦の中野明美さん(共産)が、予想に反して当選している。東京の都議補選では、杉並区の三井マリ子さん(社会)が自民党候補を奇跡的に破った▼当選した女性の道府県議は52人である。前回の30人に比べれば進出がめだつが、それでもまだ全体の約2%なのだ。「躍進」という言葉は使えない。 知床伐採 ミズナラのつぶやき 【’87.4.15 朝刊 1頁 (全861字)】  私は知床のミズナラです。200年生きてきました。昔のアイヌの人たちの暮らしも、開拓農民の苦労も見てきました▼自慢じゃあないが、直径1メートルのミズナラなんてもうめったにはありません。いや、そこのところが営林署や木材業者には魅力なんでしょうね。きのう、切られました。200年の歳月を生き抜いても、切られる時はほんの2、3分です。涙がでるひまもありません▼伐採対象木だとかいわれて赤いテープにまかれた時から、覚悟はしていました。ずっと前、動物の生態を調べに来た学者が「ここは国立公園の第3種だが、特別保護区か第1種にすべきだったんだ」とつぶやくのをきき、私たちの世界が「第3種」なる不可解な分類に属する地域であることを知りました▼知床の森を分断して、1種だ3種だと品定めするのは人間のおごりでしょう。しかも3種なら伐採はかなり自由だ、というのです。私たちが今日の運命を知ったのも、その時でした▼営林署の人たちのいいたいこともわかるつもりです。3種地域としては、伐採は最低の規模におさえている。ほかの大半の地域は禁伐にするつもりだ。そういうでしょう。でも、第3種とかのおきては金科玉条なのか。人間のおごりを超えたところに、森には森のおきてがあることを、役所はなぜ認めないのか▼と叫びたいところですが、もう声もでません。あ、大切なことを忘れた。ここは日本の国民が初めてカネをだしあって森を造る、という仕事に成功しつつある所です。つまり全国の森林保護運動の思想上の中心地だなんて、学者先生がいっていました。そういう所なら、国有林ぜんぶを特別保護区か第1種にする英断がほしかったし、そうすれば役所のえらい人に森命救助の最高栄誉賞を贈ったでしょうに▼私たちが切られたことで、林野庁・環境庁と国民の間にある信頼のきずなもまた切られる。そんな思いで、次々に切られる仲間のうめき声をきいています。 予算案強行採決、自民党のおごり 【’87.4.16 朝刊 1頁 (全846字)】  304議席のおごりで、かなりの振る舞いはあるだろうとは思っていたが、きのうの衆院予算委の乱暴さにはあきれ返った。野党の委員が「もっと審議を」と叫ぶ中で、自民党は拍手と歓声で売上税の内容を含む予算案の強行採決をした。自民党の中枢には決定的な金属疲労があるらしい▼党総務会でも異論があった。「単独採決すれば国民の信頼を完全に失う。民意を尊重しない政党は必ず滅びる」という内部批判があった。当然だろう▼数々の世論調査や、今回の地方選挙の結果には、中曽根首相の公約のウソに対する国民の怒りが表れている。有権者の多くは、売上税導入に反対の意思表示をした。「国民の反対するようなものはやらない」という同日選挙の時の公約を、首相はどれほど重いものに考えているのだろう▼まず売上税をどうするか、凍結か撤回か、という大筋を早急にきめて、その上で予算案の審議を続けるのが、民意にこたえる道だろう。それをせず、いきなり強行採決をしておいて、売上税についてはあとで大蔵委で審議するという。話の筋道があべこべではないか▼地方選挙のさなか、安倍総務会長は、売上税反対の声に対しては「慎重に謙虚に取り扱う」といった。竹下幹事長は「国民の合意がどこにあるかを見いだす」と語った▼文字通りに受けとれば、売上税はいずれは撤回されることになるだろう。しかし、慎重に、謙虚にといわれても、慎重かつ謙虚な強行採決のありさまを目の前にしては、政治家のことばがあぶくのように軽いものに思えている▼「ことばは魂の代弁者だ」といったのはモンテーニュだが、政治家の魂の代弁者であることばの軽さが今日ほど問題になったことも珍しいし、政治家のことばの軽さに対する根源的な不信感が今日ほどひろがったことも、そうめったにはないだろう。そして政府、自民党首脳がそのことをいまだに甘く見ているところが恐ろしい。 4字熟語にみる世相 【’87.4.17 朝刊 1頁 (全848字)】  朝日新聞のデータベースで「内需拡大」という言葉のでてくる記事の件数を調べてみると、1月から3月までに284件もあった。逆に、ひところはやりにはやった「財政再建」という言葉を調べたら、77件しかなかった。ニシキのみ旗は財政再建から内需拡大へ移りつつあるようだ▼内需拡大や財政再建は2字熟語をつらねて4字熟語にした言葉である。この形はおさまりがいいらしくて、たくさんの時代語、つまり時代を象徴する言葉を生んでいる▼古くは尊皇攘夷(じょうい)、文明開化、富国強兵があった。いずれも国を動かす旗印の役割をはたした。昭和の戦前、戦中は、尽忠報国、一億一心、聖戦完遂、本土決戦、一億玉砕などの時代語がはばをきかせた▼戦後の4字熟語は一変して、農地解放、男女同権となり、やがて特需景気、神武景気、岩戸景気と日本はよみがえるが、住宅貧乏は続く▼安保粉砕、所得倍増、消費革命、列島改造、高度成長のあとは、石油危機、軽薄短小、円高不況、と勇ましい響きが消えてゆく▼時代が時代語を生み、時代語は良くも悪くも、時代の雰囲気を左右してきた。そして4字熟語のうたい文句には、世の中を上から見おろす鳥瞰(ちょうかん)的発想のものが多い、というところがくせものだ。ひらがな、カタカナの流行語の多くが虫瞰的な個人の発想に立っているのとは、鋭く対立している▼1億1心時代の教訓もある。4字熟語にぶつかった時は、虫瞰的な発想に置き直してみる作業が必要ではないか。内需拡大のための予算早期成立といっても、それが大減税となって私たちの懐ぐあいをよくしてくれることに結びつくのかどうか、と▼衆院予算委での予算案強行採決のあと、砂田委員長は「予算の早期成立は国益上最優先課題だ」と語った。4字熟語にすれば「国益優先」である。国益優先というおなじみの文句の呪文(じゅもん)性にだまされてはいけない。 みね子のがんばり 【’87.4.18 朝刊 1頁 (全853字)】  みね子が倒れたのは去年の12月10日、31歳の時だ。皮膚の下にうみがたまる病気が全身にひろがって衰弱し、巨体を足でささえる力がなくなったのだろう。横倒れになったまま動かなくなった。日立市かみね動物園でのできごとである▼カンボジア生まれのゾウのみね子は、3歳の時にこの園に来て、さまざまな芸で人びとを楽しませてくれた。八木節にあわせて鼻にもったバチでたるをたたく芸が得意だった▼獣医や飼育係は24時間態勢の看護を続けた。ゾウは一度倒れたら起き上がれないという。職員は奇跡を願い、夜も泊まりこんで見守った。抗生物質を与え、注射もした。みね子は倒れたままの姿で、鼻でバナナやリンゴを口に運んだ。涙を流して苦しむこともあった▼問題は床ずれである。巨体の重みで血行が止まり、皮膚や筋肉の組織が死ぬ。化膿(かのう)も進み、骨がまるだしになるところもでてきた▼3、4人がかりで床ずれの消毒をする。寝返りをうたせる仕事は5、6人がかりだ。だが長時間立っていないと床ずれはなおらない。及川園長たちは、みね子の腹に毛布や網をあて、滑車でつりあげて立たせようとした。足を踏んばり息を荒くして立ち上がろうとするみね子を見て、飼育の人びとは叫んだ。「みねッ、立てッ」「立ってくれッ」「力をいれてッ」▼みね子は気力をふりしぼって4本足で立った。「驚きました。よくあんな体でがんばって立ったもんだ、すごいやつだと思いました」。飼育係の1人が回想している。が、立つたびに3分とは体をささえきれずに前足を折る。体力の消耗が激しいので中止した。1カ月前のことだ▼今月12日にはえさを食べなくなる。13日の夜明け前、容体が悪化した。注射の痛みを思い「よくがまんしてくれるなあ」とだれかがいった。そのあと眠りに吸い込まれるように息をひきとった。倒れてから125日間も生き抜いた例は極めて珍しいという。 観光政策に揺れる少数民族 【’87.4.19 朝刊 1頁 (全856字)】  いちめんのなのはな いちめんのなのはな と繰り返し歌う山村暮鳥の詩を思い出しました。中国の旅から帰ってきた同僚は、そんなふうに話を始めた▼洞庭湖の南の湖南省は、いま雨の季節だ。平野から山里に近づくにつれて、ぬれた「いちめんのなのはな」は、いっそう色鮮やかに見えてくる。その花の尽きるあたりの高みに、トゥチャ族、ミャオ族、ペー族といった少数民族の村落が散らばっていた▼国民の94%を占める漢族のほかに、中国には55の民族が住む。しかし、海抜1000メートル前後のその地域では、少数民族は住民の4分の3を超える多数派だ。彼らは数百年の間、やせた斜面でトウモロコシ、イモ、サトウキビを栽培して暮らしてきた▼生活は、数年前から変わり始めた。去年の秋、山の奥にまで電灯がついて、さらに変化した。自動車道路が、農閑期の労働力を利用してつくられた。山頂では水洗トイレを備えたホテルを建築中だ。空港の建設計画もある▼そそり立つ岩山に仙人を配した中国の古画は、実在の風景だった。そう思わせるような奇岩、怪石柱の壮大な連なりが、周辺に広がる。「武陵源」と呼ばれるこの一帯に外国人観光客を誘致しようと、国も省も挙げて力を注いでいる。少なくとも経済的には、少数民族の人たちは以前より潤うに違いない▼ただ気がかりもある、と同僚は言った。トゥチャ族の女性は、日本の観光地と同じように土産物の露店を出し、土地の名を刷り込んだだけの、ありふれたハンカチやTシャツを売っていた。優れた伝統刺しゅうの技術を持っているのに、そうした品はない。ペー族やミャオ族の民族衣装を着た若い男女を紹介されたが、いずれホテルの従業員になる人たちで、衣装は「営業用」のようだった▼中国当局の資料には、武陵源の景勝は70年代の終わりに「発見された」と書かれているという。少数民族のそれまでの歴史は、どこに消えたのだろうか。 『国境なき医師団』の活躍 【’87.4.20 朝刊 1頁 (全843字)】  同僚の石弘之編集委員は、国連環境計画の事務局長顧問として1年間アフリカで仕事をしてきた。そのみやげ話に、欧米諸国のボランティア活動家の層の厚さについての感想があった▼『国境なき医師団』(MSF)のことは、石記者が「ひと」欄にも書いていた。パリに本部をおくこの組織はフランス国内にいくつもの基地をもち、それぞれ30日分の食料品と医薬品を常に用意しているそうだ。米、英、西独、カナダなどにも連絡事務所がある▼エルサルバドルの地震の時もエチオピアで飢餓が続いた時も、はやばやとかけつけた。大災害の時は「数時間以内に現地へ」を目標にしている。「困った人に国境はない」を合言葉にし、相手国政府の同意を待たずに国境線を破ることもある▼国内には約4000人の医師や看護婦が待機していて、希望者が殺到して選ぶのに苦労するともいう。組織を支えているのは、政府でも大企業でもなく、市民である。年間予算約30億円の6割は市民の寄付で、あとは事業で収入を得る。緊急医療の前線組と何十万人もの支援組とのみごとな結びつきが、ボランティア活動の背景にある▼MSFの仕事とは別に、フランスの医師の中には夏のバカンスを利用し、家族と一緒にアフリカの無医村へ行って治療を続ける人がいる。妻や娘が看護婦になる、といったことが日常の営みの中にとけこんでいるという▼最近のアフリカでは、フィリピン、インドなど第三世界の医師、看護婦の姿がめだつ、という話もきいた。日本の場合も、国際救援活動は急速に成長した。国際医療協力を進める民間の組織も生まれたし、日本ネグロス・キャンペーン委員会のような「民衆から民衆へ」の援助活動も盛んになった。筆者の周辺にも、世界の各地ですぐれた仕事を続ける活動家がたくさんいる▼だが、「日本の援助はモノが主体でヒトが伴わない」という批判はいぜんとして強い。 変更される防衛費1%枠の哲学 【’87.4.21 朝刊 1頁 (全853字)】  こんど代議士生活50年で表彰をされた三木武夫元首相は、今まで「防衛費のGNP比1%枠破り」の動きがでるたびに、鋭く批判をした▼「1%枠があるから、国民は日本がむちゃな軍事力増強に走らないとみている」といった。「1%枠は、平和国家の象徴として国民に定着している」ともいった▼11年前、閣議がこの1%枠をきめた時、三木さんは首相だった。男は1%で勝負する、といわんばかりの執着をみせてきたのも、1つにはそのせいだろう▼当時、蔵相だった大平正芳元首相も、熱心に1%枠を主張した。三木さんに今も影響力があり、大平さんが健在だったらと考えるのはむなしいことだが、そこでは、歯止めはずしに慎重な政治姿勢が今よりはあったはずだ▼1%枠を破る予算案が衆院本会議で強行採決されようとしている。残念なのは、この極めて重要な政策の変更が、衆院予算委でほとんど審議されなかったことだ▼世界の軍事費をドル換算で計算すると、日本は三木首相時代の1975年度に比べて、86年度は4.4倍にもふえている。西独の場合は1.7倍である。フランスは2倍、英国は2.6倍だ。これらの国の半分か3分の1の規模だった日本の防衛費は、ほぼ肩を並べるまでに急成長している▼1%という数字そのものに、それほどの意味があるとは思えない。だがこの歯止めには、日本が軽武装国家、民需中心国家として生きるという宣言的な意味があり、国民の過半数がその重しの役割を支持してきた。近隣諸国に対しては、過去の反省のあかしでもあった▼総額明示方式の新基準は、1%枠を破るだけではなく、1%枠を支える哲学の変更を意味する。こういう政策の転換が審議されぬまま既成事実になってしまっていいのか。1%枠の歯止めがあっても防衛費は急成長した。歯止めを失ったら「むちゃな軍事力増強」に走る恐れがある、と憂えるのは三木さんばかりではあるまい。 5割を超えた町村長選挙の無投票当選 【’87.4.22 朝刊 1頁 (全842字)】  たとえばニューヨークの街角で、4、5人が立ち話をしているのをみて、それが日本人か中国人かを見わけるにはどうしたらいいか。お互いにしきりにうなずきあっているようなら間違いなく日本人、なのだそうだ。集団的一体感を大切にするわれらはうなずきあって、それを確かめる▼きのう、町村長選挙の告示があって、また無投票当選のことが話題になった。富山、石川、鳥取3県では計21の町村長選がすべて無投票になった。「選べない選挙」は日本型地方選挙の最大の特質だ、といっていいだろう。そこにはやはり集団的一体感が働いているらしい▼対立候補が出馬の動きをしめすこともある。だが、そういう場合は地元の実力者、有力者、顔役と呼ばれる人がでてきて、選挙という名の争いごとを避けるべく根回しをし、出馬をあきらめさせる▼選挙になって争った場合、だれがだれに投票したかがはっきりとわかるから、しこりを残す。しこりを残すものは村の平和を乱すものだ。村の平和を乱したくなかったら立候補をするな、波風を立てるな、と実力者に説得されれば、それでもとはいいにくくなる▼それに、選挙にはカネがかかる。地区の者が立候補すれば、頼まれなくても事務所にかけつけるのがつきあいの義理だし、かけつけた者に飲ませるのも、義理だ。町長選では数千万円を用意する、という話をきいた。従って「ゼニ使ってもつまんないから、よしとけよ」という説得も、かなり有効である。浮動票が少ないから勝敗を読める。負ける選挙にでるのを避ける、という事情もあるだろう▼「争いはもうこりごりという声、それにタテついてまで飛び出すことはできない。自分はここで生まれ、死ぬ人間だから」。そう思って町長選の立候補をあきらめた人の話が本紙栃木版にのっていた▼今回の町村長の無投票は50%を超えた。まこと、和をもって貴しとなす、の国である。 国会牛歩、芭蕉翁ならどう思う 【’87.4.23 朝刊 1頁 (全845字)】  『行脚の掟』を書き残した芭蕉翁なら、「総じてはかりごとは牛歩をむねとすべし。牛歩いでなば居眠りして労を養うべし」と今の国会をひやかしたことだろう。「たとえ夜を徹すとも牛歩に勤めよや」とおかしさをこらえて、からかったかもしれない▼国会内には、特別な歩き方の作法があるらしい。1分間1メートル、靴の長さの分だけ足を動かして歩く、なんていう珍芸は、国会の外ではそうめったにはお目にかかれない。あの、動くともなく動く琉球古典舞踊の足の運びでさえ、ある特定の例をとれば1分間6メートルで進む。国会牛歩は、琉球の舞姫も真っ青、という緩歩である▼社会党の第1号牛歩者は、投票するまでに12分もかかった。背広やズボンのポケットに1つずつ手を突っこんで投票札を探して時間をかせぐところなど、芸が細かい▼これぞ「粛々たるノータッチ、ノーアクション方式」なんだと野党は自慢するが、原衆院議長がしびれをきらして「投票箱の閉鎖」を命じるや、それこそ、瀬古選手も驚く疾走で議長席にかけつけたりするのだからせわしいことだ▼牛歩があり、疾走があり、肩を怒らしての横行闊歩(かっぽ)がある。舞台裏の忍び歩き、探り足、ここを先途の潜行、百鬼夜行もある。国会内の歩きの作法は変幻自在だ▼今回の騒ぎは、もとはといえば首相の公約違反で始まり、売上税の独歩を許すな、という民意が土台になっているが、どうやら与党幹部と首相官邸側との亀裂がめだち、舞台全体に千鳥足めいた動きもでている。竹下幹事長側近の渡部恒三氏が、後藤田官房長官のことを「議会制民主主義の破壊者だ」ときめつける場面さえでてきた▼売上税の廃案があいまいのままでは、いつの日か、死んだふりをしたものがよみがえって横行闊歩をはじめる。蕉翁なら戒めるだろう。「民意に背くこと、しばしばすればうとんぜらるるの言を思うべし。つつしめや」 アンパンを食べて死刑の非人間性 【’87.4.24 朝刊 1頁 (全844字)】  5人の男子生徒が授業中にアンパンを食べて、それがみつかって、校則により「死刑」を宣告される、という話を、あなたは荒唐無稽(むけい)だとわらうだろうか▼青年劇場の『夜の笑い』(作・演出、飯沢匡)の第2部の主題は、この校則による死刑である。アンパンを食べて死刑だなんて、とてもありそうもない話が、いかにもありそうな話に思えてくる劇の段どりや俳優たちの力演は、見事というほかはない。笑って、笑いこけているうちに、恐ろしさがじわじわとはだからしみこんでくる▼たとえば学校が禁じているブラシつきドライヤーを修学旅行に持参した生徒が、教師に殴られ、けられ、踏まれて死亡した現実の事件のことが、頭の中を走る。「宿題を忘れたら校庭を走る」というきまりを守って、そのために命を失った少女のいたましい死のことが浮かぶ▼劇は明治10年代の話だ。少年たちは「授業中に食事したものは罪万死に値する」という校則によっていきなり死刑を言い渡される。「校則ば守るちゅうこつあ教育の根幹ですけんな」と教師はいい、「そぎゃん家名ば傷つけたもんな勘当するけん」と親もいう。当人たちも「しかたんなかたい。校則に違反したつだけん」とあきらめている▼重々しい礼法、しらじらしい建前の世界、卑屈なお上意識、何よりも規則大好き人間の心のひだを細密に再現することで、観客は明治の世界に引き戻され、私たちの心の中に潜む明治が決して遠くないことを、思い知らされる▼教訓の1、悪法はいきなり人を襲う。教訓の2、規則大好き人間はしばしば、規則を守らせること自体を目的にし、己の非人間性に気づこうとしない。その非人間性を劇中の人物が突く。「子を育つるいいよってうち殺すちゅう、そんまちがいに気のつかっさんとだけん。ああたは頭の狂うとっとしか、いいよんありまっせんばい」(第2部の原作は島尾敏雄『接触』) 「自民党政治が危ない」 【’87.4.25 朝刊 1頁 (全857字)】  「自民党政治が危ない」と題する『野人派代議士大放談会』を朝日ジャーナル誌上で読んだ。6人の自民党代議士のざっくばらんな肉声がわかって、おもしろかった▼「自民党が30年もってきた秘密は、党内にいつも反主流を置いたことだよ」「いままでどうにか自浄調整をやってきたのは、反主流がいたからだ」と気炎をあげている▼その通りだろう。異常事態におけるこの党の強さは、反主流をかかえこんだ強さなのかもしれない。こんどの税制改革問題では、宰相の公約違反をなじる党内の自浄調整力が一役買った▼間接税の小史を調べると、昭和23年に生まれた取引高税は短期間であぶくと消えた。その後の付加価値税もあぶくになり、大平首相が提唱した一般消費税もつぶれた▼そして今回も、黒潮として残るはずの売上税があぶくになった。たしかにその通りだが、あぶくのように消えたといい切ってしまっていいのか、という声がきこえてくる▼中曽根首相は逆襲をねらっているのではないか。首相側近は「埋もれ火を残しておきたい」といい、首相自身、事実上の廃案がきまったあとも「勝負はこれからだ。初心忘るべからず」といっているではないか、と。それとも、その強腰は「生きたふり」をせんがための虚勢なのか▼そういう疑念があるのも、首相の言動に対する不信感が根強いせいで、これはあぶくのようには消え去らない。「宰相の選挙公約」への不信感を決定的なものにした首相の責任は大きい▼「勝利だ勝利だ」と叫んでいる野党の幹部にもいいたい。たしかに野党の力は大きかったが、自前の政策で勝ったわけではない。いってみれば敵の大失策に乗じての勝利だ▼税制改革の4野党共同案を正式に公表しなかったのはなぜか、という疑問もある。直間比率の見直しをも含めて、精密な対案を示し、民意に問う責任が野党にはある。それを怠ると、「野党が危ない」という大放談会をすることになる。 いじめ恐れる海外帰国子女 【’87.4.26 朝刊 1頁 (全835字)】  アジアのある国で3年余勤務した知人が先日、一家で帰国した。こんど小学校3年になった長女は「どうしても日本に帰りたくない」と、直前まで強く言い張ったそうだ▼日本の学校に入ると、いじめられるんじゃないか。それが怖くて、しり込みしたのだという。彼女が通っていた現地の日本人学校では、「日本でのいじめ」が子どもたちの最大の関心事だった。情報もしきりに交換される▼たとえば商社員の場合、2、3年に1度、2カ月程度の長期休暇がとれる。家族で一時帰国し、子どもを「将来のため」日本の学校に短期入学させるのが普通だ。そこでの体験は重要な情報になるが、「汚いところから来た」「カレーのにおいがする」などといじめられた、といった報告が多い▼七夕の日、日本人学校で竹飾りを作った。願いごとを短冊に書いたあと、みんなで茶色く濁った川に竹を流す。ほとんどの短冊が「日本にかえっても、いじめられませんように」「いじめにまけない、つよい子になれますように」と読めた▼司馬遼太郎氏の『菜の花の沖』に「いじめる、という隠微な排他感覚から出たことばは、日本独自の秩序文化に根ざしたことばというべきで…漢語にもなく……」と洞察力に富んだ1節がある。新入り異分子に対するいじめは、すでに江戸の昔、はっきりと存在した▼子どもの世界に限らない。九州のある会社で、先輩社員が、上司が不在の時を狙って連日のように、やや要領の悪い新入社員に物を投げつけ、無理難題の質問を浴びせ、いすをけった。新人の彼は、やがて胃痛を訴えて通院し、会社を去った。そんな嘆きの投書が新聞に載っていた▼同じ帰国子女でも、アジアの場合は、欧米から帰ってきた子ども以上にいじめられるらしい。そう知人が語るのを聞いて、いっそう心が冷えた。知人は、長女に新しい学校の様子を尋ねるのを、まだためらっている。 『中国残留孤児』 【’87.4.27 朝刊 1頁 (全857字)】  斎藤厚相が29日から訪中する。6年間にわたった中国残留孤児たちの訪日調査が一段落したのを受けて、中国政府と養父母に改めて謝意を表すためだ。心からありがとうといってきてほしい▼最近、厚生省が『中国残留孤児』を出版したのも、この節目をとらえてのことである。孤児問題の過去と今後をまとめた初の「孤児白書」だが、「孤児とかかわるうちに戦争のツメ跡の大きさを肌身で感じるようになった」という戦後生まれの援護局職員が執筆したそうだ▼ここで「一段落」といっても、それは訪日調査のことで、孤児問題はこれからが正念場であることを私たちは忘れてはなるまい▼厚生省では今後3年間に約1000人の孤児、家族を入れるとざっと5000人が日本に帰ってくると推定している。この人たちの「定着、自立」という一層むずかしい局面にこれからさしかかる。「次々に生ずる新しい問題に試行錯誤を繰り返している」と「白書」は行政の現状を告白しているが、今後は民間の果たす役割が大きくなってくるのではないか▼すでに、さまざまなボランティア団体が帰国した孤児たちの自立の援助に熱心に取り組んでいる。中には、会社を設立して帰国者を中心に事業を行うという新しい取り組みも始まっている。だが、日本に永住しようとするこれらの孤児がいる一方で、養父母を思って「中国永住」を決意した孤児たちがいることも見過ごしてはなるまい▼58年には民間の寄付金で孤児援護基金が生まれ、ここから中国の養父母へ扶養費が支払われるようになった。この基金を拡大して、帰国を断念した孤児にも何年かに一度は日本に来られるような道は開けないか▼孤児や養父母が両国を行き来し、市民同士のつき合いが深まるのはすばらしいことだ。それは政府を通すより、むしろ民間レベルでの方が実現しやすい話ではないだろうか。孤児問題が、そんな新しい方向に進展してくれればいいと思う。 地方選と市民運動 【’87.4.28 朝刊 1頁 (全852字)】  知床の斜里町長選に当選した午来昌さんには、何回か会ったことがある。会うたびに、知床の森の伐採を許すなんて斜里町の恥です、といっていた。人なつこい笑いを絶やさない人だが、いうことは厳しかった。開拓農の祖父の労苦をはだにしみこませて、午来さんは今もウトロで、小麦、ジャガイモを作っている▼千葉の習志野市議選に当選した森田三郎さんには、谷津干潟で会ったことがある。タクシー運転手の森田さんは汚泥にまみれながら、干潟のゴミを拾っていた。悪臭を放つ干潟を生き返らせるには自分の手でやるほかはないと信じて、十数年、ゴミを拾い続けてきた人だ▼2人には共通点がある。(1)真っ黒に日焼けしている。土と共に生き、土を大切にする哲学をもっている(2)既成の政党政治とはかかわりがない(3)市民運動を土台にしている。選挙のしろうとたちが集まって、候補者を支えた(4)環境問題についての危機感を出発点にしている▼「知床の森をこれ以上伐採させたら日本中のわらいものになる、という人びとの思いを痛いほど感じた」と午来さんは電話口で語っていた。森田さんも当選後「ベッドタウンといわれる所の市民も、自然や環境に強い関心をもっていることがわかった」といっていた▼日本列島の生態系を破壊から守る、という人びとの熱い思いが市民運動になり、地方自治体に代表を送りこむ動きが急速に強まっている。時代の流れの1つだろう▼都市部の市議選、区議選でも「美しい水と緑を」「安心して食べられる野菜や肉を」と願う生活クラブ生協の女性候補たちが実力をみせた。その背景には主婦の力があった▼奈良県の橿原市長選では、主婦グループの代表が無投票選挙に異議をとなえて、立候補した。学校給食のセンター化に反対する運動がきっかけだった。タスキをしない新しい型の選挙運動が話題になったが、「全国初の女性市長誕生」は、見送られた。 読み聞かせと図書館活動 【’87.4.29 朝刊 1頁 (全858字)】  図書館づくり運動をしている関千枝子さんに会った。「アメリカの公立図書館は約10万館です。10万館ですよ。日本は何館だと思いますか」と関さんはいった。人口比でいえば5万館あれば上々なのですが、5000館もありません。ただ今約1700館です、と残念そうにつけ加えた▼図書館の本場のアメリカで「The Read―Aloud Handbook」(Jim Trelease)という本がよく読まれているそうだ。子に本を読み聞かせることの大切さを、これほど親切に体系的に心をこめて詳述した本を知らない▼十分にお話をきき、十分に本を読んでもらって育った子は、ものごとに強い関心をもち、情緒や想像力がゆたかになる。しかも、知的な、色彩感のある、感覚の鋭いことばを身につける。テレビ時代であればあるほど、読み聞かせの営みが大切なのだ、と筆者は説く▼たとえばいくつかの7歳児クラスで、教師が1日20分、読み聞かせをした。1年後、これらのクラスの子は、別のクラスの子に比べて、国語力がはるかに高くなっていた。もし親が、学齢前の子に1日15分本を読み聞かせれば、アメリカの学校は革命的に変わる、という発言もあった▼読み聞かせの営みと図書館活動とは無縁ではない。読み聞かせには家庭図書館の存在がものをいうが、家庭図書館はあくまでも前菜で、主食は公立図書館である。そこは、新刊児童書の情報基地でもある▼図書館はまた、専門家が子どもに本を読み聞かせる場を提供してくれる。わが国では、子どもにお話を聞かせる会を開く図書館がふえている。東京の日野市立図書館では、時々、子どもに語るお話をお母さんたちに聞かせる会を開き、これが好評だときいた▼町でいちばん大切な文化的な宝物は図書館だ、とアメリカの人はいう。しかしわが国では今、行政改革の名のもとに、公立図書館に冷たい風が吹いている。あすは図書館記念日である。 おどし文句が目立った4月のことば 【’87.4.30 朝刊 1頁 (全852字)】  4月のことば抄録▼おどし文句がめだつ月だった。「日本が米国のコメを1粒も買わないとなれば、かつての金属バットのように日米摩擦の象徴として一気に浮上する」と米国のリン農務長官▼「もっとしっかりやってくれないと、キミに政権を渡すのも容易ではない」。中曽根首相が竹下幹事長にいった、といわれるせりふだ。かなりえげつないおどしである▼「税制改革はやる、売上税は撤回、と決議すればいいんだ。それで中曽根1人がクビでみんな文句ないんじゃない」といったのは野党ならぬ与党議員の太田誠一氏。中曽根さんはしかしこのおどし文句を無視し、「勝負はこれから」と強気だ▼「東洋人は本当にすまないといえば許す人種だ」。宮崎輝旭化成会長の忠告があった。首相の釈明はこうだ。「公約違反との批判をいただいたが、発言に意を尽くさぬところがあり、国会での説明も不十分で必ずしもご納得を得られなかったことは私の不徳のいたすところで、誠に申し訳ない」▼公約違反の責任は私にはないが、これからは発言に意を尽くして税制改革をやり抜く、という意味のあつかましい釈明で、へたなおどし文句よりもよほど恐ろしい▼「原稿用紙何十枚にもなる話だ。そう簡単にいえるか」といっていたニセ札事件の容疑者、武井遵が、殺人を自供。原稿用紙何百枚にもなる事件の正体が現れた▼「今すぐ次の作品を書くなんてむり。絶対に期待を裏切る予感がする。焦らないでノホホンとしていたい」。文学界新人賞を受けた18歳、鷺沢萌さんのモラトリアム型新人の弁▼「『新人類』とは過去のしきたりにこだわらず、自分の生きざまを貫く人種だと思う。定年まで新人類でいてほしい」と桜井孝頴第一生命社長が入社式で▼新入社員諸君が5月病を吹き飛ばすために次のひとことを。「困難や危険に遭えば新しい発見もある。一歩一歩踏みしめながら山頂をめざせ」。谷井昭雄松下電器社長。 アセビが自生する伊豆の山々 【’87.5.1 朝刊 1頁 (全849字)】  アセビのことをアシビ、アセボと呼ぶ人もいる。馬酔木と書くのはこの木に毒性があり、馬が葉を食べると足がしびれて酔ったようになるからだ、といわれている。馬の名誉のためにいっておきたいが、彼らがアセビの毒性を見抜けないほどおろかだとは思いたくない▼そのアセビの自生するさまを見たくて、伊豆の山を歩いた。標高1400メートルの万三郎岳やその周辺の山はまだ枯れ葉色で、早春の風が吹いていた。点在する豆桜の花が淡いとき色にかすんでいる。キジらしい大きな鳥が一瞬、ササをよぎった▼山でみるアセビは、大半が3メートルを超す背丈だ。花の白さが異様にまぶしく、おいしそうな真っ白な米粒にも見えるし、ツボの形をした宝玉のつらなりにも見える。芳香というほどではないが、意外に甘い、ゆかしい香りがある▼荒々しくねじれたアセビの木には破格の美しさがある。人目を避けて、わずかな花を緑にとけこませている木がある。激しくあわだつように見事な花を咲かせているのもある。一つ一つの花がツボの中に白い炎を閉じこめていて、その炎が花の内側で静かに燃え続けている▼アセビの森に足をふみいれると、枯れ葉がバリバリと音をたて、体が沈むほどやわらかい。林床に枯れ枝を突き刺すとするすると2、30センチはもぐってゆく▼ブナ、リョウブ、ヒメシャラの木々が、芽吹き、緑のひろがる日々を待って息をひそめている。既視感というのか、初めて見る天城の山景色なのに、いつかどこかで見たというなつかしい気持ちにとらわれる▼「日がひかりはじめたとき/森のなかをみていたらば/森の中に祭のように人をすいよせるものをかんじた」(八木重吉)。私たちは森の中の祭りに吸い寄せられ、森の風を食べ、森の沈黙を味わい、太古の森の幻を求める。それは森になじみ、森に生活の糧を求めた大昔の人たちの遺伝子が私たちの血を騒がせるからだろうか。 進まぬ労働時間短縮 【’87.5.2 朝刊 1頁 (全854字)】  お祭り気分の軽装がめだつ東京・代々木公園の中央メーデー会場に、今年も「労働時間短縮」の言葉が踊った。略して「時短」。たしか2年前を「時短元年」と労組はいっていた▼けれども、これがさっぱり進まない。石油ショックから十数年、雇用者が1年間に働くのは平均2100時間ほどで横ばいだ。いろいろ理由はあっても結局はやる気がないからだ、と外国から見られかねぬ。経済摩擦の強風の中で「これでは困る」と、新・前川リポートが年間1800時間程度をめざせとハッパをかけた▼この問題が難しいのは、働く人の意識にかかわるからだ。勤勉さが失われ「先進国病」になったら大変だ、と心配する経営者の声がもれてくる。が、勤勉さと働く時間とは比例するとは限るまい。まして、時間を欧米なみにすることが先進国病への一里塚だ、と考えるのは短絡すぎる▼週休2日と有給休暇20日とを完全にとりきれば1800時間に手が届く。いま、その具体策に労使が知恵をしぼる時ではないか。有給休暇をとり残す原因は職場の横ならび意識や惰性にもある。それを断ち切るため、組合が「休暇日数管理表」を持って完全に消化する自動車メーカーもある▼中小企業では週休2日がなかなか進まないが、理由の第1位は「取引先との関係」で、次は「同業他社の動向」だ。ここでも、横ならび意識が根強い。だが、社内アンケートの結果をもとに問題点を話し合ったり、年間休日カレンダーで計画的に休日をふやしたりという工夫で週休2日にし、しかも生産性を高めた実例が少なくない(労働省編『中小企業の週休2日制』)▼今年は経済の「構造調整元年」だという。そのあおりで、企業に人余り現象が出ている。年功型の日本的労使関係もゆらぐ。仕事だけの会社人間は高成長時代の遺物なのだろう。時短への道はまず、仕事と私生活とのけじめをつけることか。連休の谷間の緑の風の中で、そう思った。 役所の秘密主義と情報公開 【’87.5.3 朝刊 1頁 (全856字)】  前にも紹介したことがある『議会答弁心得帖』(篠崎俊夫)に「議員に対する資料の配付は大雑把にすること」という忠告があった。資料の提供は役所の側が説明するのに都合のよいところで打ち切りなさい、とある▼資料を見せれば見せるほど、相手はもっと肝心なところを見たいという欲望をつのらせる。そうなったら大変ですぞ、と機微をついている。役所の秘密主義に対する逆説的内部批判だった▼「官僚の特質は」と官僚にたずねたらたぶん「官僚の特質に関する情報の公表はさしひかえたい。なぜならそれは最高の機密である」という答えが返ってくるだろう。日本の役所のマル秘の密林にわけいると「国民の目」という太陽光線が届かぬ闇(やみ)の深さに驚く▼きょうは40回目の憲法記念日だ。憲法の保障する「情報を得る自由」がひろがりつつあるのか。それともますます秘密の範囲がひろがりつつあるのか。情報公開への道か、秘密強化への道か。憲法40歳のいま、そのことが痛切に問われている▼情報公開の条例や要綱をつくっている自治体は19都道府県34市14町11区に達している。主婦たちが、禁止されている食品添加物を生肉に使った業者の表を公開せよ、と東京都に要求した例がある。ある県の監査委員が財務監査にでかけて昼食の接待をうけていることも、情報公開制度でわかった▼しかし一方では、役所の秘密主義の壁はあつい。要求しても公開が拒まれる場合が多く、これでは「公開条例」ではなくて「非公開条例」だという批判さえある。役所が架空の工事現場をつくって牧野改良事業の補助金をだましとった時、住民はそれをどうやって見つけるか。いまはまだ難しいが、情報公開を求める力が強まれば、住民が役所の不正や怠慢や冗費を見きわめる仕事は進む▼小さな一歩がなければ大きな一歩もない。そして、情報の自由な流れを求める力は同時に、国家秘密法をはばむ力になる。 日米間の経済摩擦にみる日本の脆弱外交 【’87.5.4 朝刊 1頁 (全843字)】  2つの物体がすれあう時、その接触面で起こる現象が摩擦だ。国と国とが多様で複雑な動きを示してふれあう以上、常になんらかの経済摩擦が起こるのは当たり前の話で、どちらかが100%正しい、100%悪いということはありえない▼「経済摩擦の主因は日本にある」とアメリカ側に非難されれば、日本人は反省はするが、心の底では納得しない。逆にこちらが「われに正義あり」と力んでみても、あちらさんの非難の合唱がやわらぐとは思えない▼日米首脳会談が終わった。終わってみれば「アメリカ側の非難とそれにこたえる日本側の対策」といういつもの図式がめだった。どちらにも非があるのだから、ヤスの対米公約があれば、ロンの対日公約もなくてはならない。それなのに、対米公約ばかりがきわだってしまうのはなぜだろう▼日本側がいくら「5兆円以上の内需拡大策」を約束しても、米国がそれこそ死に物狂いで財政赤字の削減に努め、その目標を数字で約束してくれるのでなければ、実効がない。中曽根首相は具体的な対日公約をせまって「いうべきことをビシビシ」いったのだろうか。いっても得点をあげられなかったのか▼公約の5兆円という数字もあいまいだ。これは補正予算案にもられる国費が5兆円だという意味なのか。つまり真水の5兆円なのかどうか▼そうではなくて、地方自治体の単独事業、公団などへの財政投融資、電力会社の設備投資などを含んで5兆円になる、という意味なのか。つまり5兆円は見せ金なのか。もし後者ならば、5兆円真水説をきちんと否定したのかどうか。そうでないと、あとで真水の水増しとは何だ、公約違反はお家芸か、と非難をあびる▼首相は、日米間のもやは晴れたという。だが、5兆円をめぐるもやはいっこうに晴れない。そして問題の次期支援戦闘機FSX選定についてどんな約束があったのか、こちらももやに包まれている。 朝日新聞記者殺傷事件で思い出す菊竹六鼓のことば 【’87.5.5 朝刊 1頁 (全848字)】  覆面をした男が本社の阪神支局を襲い、いきなり散弾銃を撃った。至近距離だったためか、散弾銃の1発はカプセルのまま若い仲間、小尻知博記者の体内に入り、入ってから炸裂(さくれつ)した。医師はその無残な状態を診て「病院に来るまで、どれほど苦しい思いをしただろう」といった。小尻記者は約5時間後に息をひきとった▼犬飼兵衛記者は100個もの散弾を体に浴び、右手の3本の指を砕かれた。手当ての最中も「手はどうなっているのか。ものが書けるのか」と医師に問いただしていたそうだ。犬飼記者は2本の指で記事を書くことになる。犯人には明らかに殺意があった。無言で放たれたぶきみな凶弾に対して、言論人のひとりとして激しい憤りをおぼえる▼記者の受難は世界的な傾向だ。誘拐されて殺される。犯罪集団の実態を追及していた記者が撃ち殺される。紛争の取材中に誤って撃たれる。そのようにして、世界の各地で毎年、何人もの記者が殺されている▼しかし今回の事件は、戦火やデモの中ではなく、ごく日常的な新聞の現場を襲った発砲である。住民のために開かれた、自由な交流の場がねらわれたのだ。このことを、私たちは重視したい▼犯行の動機もわからず、確信犯であるのかどうかさえわからない段階だが、筆者は、戦前、軍部の横暴と闘った菊竹六鼓(福岡日日新聞主筆)のことばを思いだしている▼「一層悪いことは、法規以外種々の階級者より加えらるる圧迫である。その圧迫による言論の萎縮である。もし国民がそこに覚醒してなんらかの方法を講じて救済の途を発見せぬならば、国民は自ら知らず知らずのうちに、断崖絶壁に立って進退の自由を失う」▼菊竹六鼓は、自分はひきょうだからいつもビクビクだといいながら、命をかけて軍部の脅しと闘い、言論の自由を守ろうとした。事件の性質はまったく違うが、暴力に対する菊竹の憤りを、改めて肝に銘じたい。 テレビ「つまみ見」の時代 【’87.5.7 朝刊 1頁 (全842字)】  カチャカチャと居ながらにしてチャンネルが変えられるテレビのリモコン。これが普及してテレビの見方が質的にも変わった▼幼児とテレビの関係を調べている社会学者の香取淳子さんに、4歳半の男の子を持つある母親が答えている。「おもしろい場面ばかり見ようとして、しょっちゅうカチャカチャやってますね。よしなさい、っていうんですけど、退屈な場面になるとすぐ変えるのです」▼退屈な場面とは何か。香取さんが東京都板橋区内の児童館に通う幼児400余人とその母親にアンケートしたところでは、第1はアニメドラマなどの静かに会話する情景だった。音楽は、あっても穏やかに流れるだけ。いわゆる名作ものによく見られる場面だ▼では、おもしろい場面とは? けんかするか、ずっこけるか、のどちらかだという。子どもに人気の高いアニメや特撮ものには、全編これ闘いというのもある。登場人物のほとんどが敵と味方に分けられる。敵は必ず襲うものであり、味方は結束してそれと闘う。音楽がひときわ激しく鳴り、語り手の声がはずむ。子どもたちの気分は反射的に高まる▼ずっこけシーンはギャグアニメに多い。すべったり転んだり式の笑いだ。大した物語の展開がなくても、瞬間瞬間のおもしろさがあれば子どもは十分に引きつけられる。バラエティーにもこの種のものが目立つ▼むかしの子どもは、テレビの前にすわらせておくと、いつまでもじっと見ていた。これでは自主性のない、受け身人間が育つのではないかと親たちは気にした。もうその心配はない。小さな子でも素早く好きな番組を選んでいく。同時(?)に2、3本の番組を楽しむ子もいる。たしかにこれは受け身ではない▼が、あまり器用にやられると、それだけせかせかした、刺激だけを追う人間に育つのではないかと、親たちの新しい心配が生まれる。テレビは「つまみ見」の時代にはいっている。 阪神支局襲撃で各紙が励ましのことば 【’87.5.8 朝刊 1頁 (全848字)】  朝日新聞社阪神支局襲撃事件をめぐる1つの驚きは、「言論に対する暴力を許すな」(沖縄タイムス)「『報道の自由』を撃つもの」(西日本新聞社)という形の新聞社説の数がきわめて多かったことだ▼いや、驚きといっては失礼にあたるだろう。むしろ「当然のことながら」というべきだろうか。そこには、共に言論の自由を守り抜こうと決意するものの熱い励ましのことばがあった。それを私たちはしかと受けとめたい▼7日までに次の各紙が社説、論説で扱っていた。大分合同新聞、沖縄タイムス、神奈川新聞、紀伊民報、北日本新聞、岐阜日日新聞、京都新聞、熊本日日新聞、高知新聞、神戸新聞、四国新聞、信濃毎日新聞、下野新聞、新日本海新聞、中日新聞、東京新聞、徳島新聞、苫小牧民報、長崎新聞、西日本新聞、日刊福井、日本経済新聞、福井新聞、北海道新聞、毎日新聞、山梨日日新聞、読売新聞、琉球新報▼8日付では次の各紙が予定している。岩手日報、愛媛新聞、河北新報、ジャパンタイムズ、中国新聞、新潟日報、南日本新聞、宮崎日日新聞。以上の36社は私たちが知りえた範囲のものだ。ほかにもまだあるだろうし、コラムが扱った数も相当なものになる。テレビの論評も多かった▼きのう各新聞社に電話で取材をした時、佐賀新聞の河村論説委員長は、1面のコラムにこの事件のことを書いている最中だった。「ある意味では戦後最大の事件だとも感じています。いつも恥をかいていますが、今日こそはいいものを書こうと一生懸命です」と河村さんは語った▼犯人像についてはわからないことだらけだ。だが、相手を売国奴とか反国家分子とかののしり、暴力で屈服させようとするものは、暗黒の全体主義国家をめざすものだ。異見を認める自由な社会、異見の競合の中で活力を生みだす社会、それを築こうという戦後の営みを力で否定するものに対して、ふつふつと怒りがわく。 政治の場にとどかぬ民の心 【’87.5.9 朝刊 1頁 (全848字)】  長谷川如是閑は戦前のコラムで「民有粛心。へい云不逮^」という詩経のことばを引用し、これを「民によろしき心あるも、上にとどかんよしもなし」と訳している。如是閑は、自由にもののいえぬ風潮を詩経に託して嘆いたのだろう▼時代は変わった。だが、民意が政治の場にとどかぬ悩みは今もなおある。総理府が発表した世論調査によると、国民の考えや意見が国政に「反映されていない」という人が54%もいた。過半数というのはやはり異常なことだ▼興味深い事実がある。(1)民意が政治に反映されていないという人はここ数年減り続け、去年は46%になったが、今回、一気に8%もふえた(2)日本の進路が「悪い方向」に進んでいるという人の率も、この傾向に比例する(3)新聞社調査の中曽根内閣不人気曲線も、ほぼこれに比例する▼民意が反映されぬという不満の背景には、円高不況があり、売上税がある。不況産業の人減らしが進む。下請けが打撃をうける。高炉が消える。高島礦がつぶれる。高度成長期には1%台だった失業率が3%前後になる▼円高不況下のうめき声に、政府は十分に耳を傾けなかった。公約違反の売上税が追い打ちをかけた。民意とかけはなれた政治に対する怒りが、岩手ショックになり、地方選挙の結果を左右した▼「政党政治というのは、ややもすると国民に甘いことをいって票を獲得しようということになりがちだが、それはやってはならないと肝に銘じている」といったのは、中曽根首相である。その「やってはならないこと」をやって、そのあげく民意に背こうとしたのはほかならぬ首相自身ではなかったか▼まだある。防衛費1%枠の撤廃に反対する人が6割強、という本社世論調査の結果があったが、政府はこの民意にも背いた。ちまたには土地高騰に対する憤りの声が高いのに、政治はこたえない。政府には「民の心うけとめんいしもなし」なのか。 母の日と親心 【’87.5.10 朝刊 1頁 (全855字)】  俳優の渡辺美佐子さんは、少女のころ長野に疎開していた。戦争末期の飢えの時代である。ある日、どう工面したのか、母がカレーライスをつくり始めた。「できたわよ」の声に、少女は土間にかけおりてナベを持った。喜びに体がはずみ、ゲタの足がもつれて転んだ。カレーは残らず土間に流れた▼「やけどしなかった?」とだけ母はいい、黙々と後始末をした。あの時の母の顔は今でも思い出す、と渡辺さんは近著『ひとり旅1人芝居』の中に書いている。達意の文だ▼後年、渡辺さんの舞台を見た母は「ゲタはいて舞台歩くでしょう、転ぶんじゃないかと気が気じゃなかったわ」といった。娘の芝居を見る母親の思い、とはそういうものだろう▼別の芝居では、渡辺さんが母親に念をおした。「花道でゲタのはな緒が切れて転ぶけど、芝居なんだからびっくりしないでね」。戦時中のゲタの思い出は強烈だった▼「おしん」のしゅうとめ役を演じた高森和子さんの『母の言いぶん』にも、明治の母が登場する。母はいつも白足袋をはく。「汚れがめだつのに」というと母は答えた。「そやさかいに白足袋にしますのや。足元は人間の根ぇだす。何でも根元が肝心だす」▼母は80をすぎてぼけ始め、寝たきりになった。高森さんは1年間仕事を休み、姉と共に24時間の看護にあたった▼母に食事をとらせた姉が、横になって母に語りかけているうちに眠ってしまったことがあった。姉を見た母は、不自由な体を動かし、自分のタオルケットを両手で握った。重そうに上へ持ちあげると、それをやっとのことで姉の肩にのせた。ふるえる手で胸元をたたいた▼その光景にみとれていた高森さんが「おかあちゃん」と静かに声をかける。「ああ」と答える母の目は、穏やかに澄んでいた。今の母に一番必要なものは、お医者さまの薬ではなかった、と思う。心にしみる一文だ▼「寝て居てもうちわのうごく親心」という川柳があった。 帝銀事件の死刑囚、平沢貞通死亡 【’87.5.11 朝刊 1頁 写図有 (全836字)】  95歳の死刑囚、平沢貞通が危篤になる前のある日、看護婦と一緒に「浦島太郎」を歌った、という話はかなしい▼「帰って見ればこは如何に/もといた家も村もなく」。平沢は「しゃばで一杯」を切望していたが、一方では、たとえ浮世に戻ることができても、39年間の空白はうめられないという苦い気持ちもあったろう▼竜宮城の浦島は「ただ珍しく面白く/月日のたつも夢の中」だったが、平沢の獄中生活は、死と向かいあった日々だった▼帝銀事件で殺された人びとの恨みを、私たちは忘れない。平沢が事件後に入手先不明の大金を手にしていた、という傍証を捜査当局は明らかにしている。しかし平沢が真犯人だということに疑いをもつ人が少なくないことも事実だった。薬物の取り扱いにはしろうとの男に、12人を薬殺する犯行が可能かどうか。なぜもっと有力な物証がないのか▼「新刑事訴訟法の手続きを踏んで捜査が行われ、裁判が行われていたのならば、はたして死刑の判決を受けただろうかという疑いがある」。記者時代にこの事件を取材したことのある社民連の田英夫さんがそう語っていた。死刑執行がなく、再審もなく、釈放もなく、という灰色のもやの中で、平沢は世界に例をみないほどの高齢の死刑囚になった▼「浦島太郎」を歌いながら、平沢は獄中の39年間が夢の中であればと祈ったことだろう。それとも、般若心経の「一切の苦厄を度したまえり」の境地に達していたのかどうか。それはわからない▼遺体はきのう「平沢貞通氏を救う会」が釈放に備えて借りていた都内のマンションに運ばれた。「しゃばで一杯」の希望通り、茶わん酒が供えられた。穏やかな顔だったが、治療の副作用のおうだん症状で真っ黄色になり、これ以上やせられないと思えるほどほおがくぼんでいた。玉手箱の煙をあびたように、白髪と白いあごひげがのびていたそうだ。 言論の自由を求めて 阪神支局襲撃事件 【’87.5.12 朝刊 1頁 (全842字)】  去年、南米のチリで、政治週刊誌の編集長が殺された。軍政下のチリでは、言論の自由を闘いとろうとするジャーナリストへの弾圧が続いている。この編集長はたびたび投獄されたが、獄中でも差し入れのタイプで独裁批判の記事を書いたという▼釈放されてからも軍政を批判し続け、ある日、武装グループに連れ去られ、虐殺死体となって発見された。しかし副編集長の女性はひるむことなく「今はわが国の報道史で最悪の時期だが、私たちには抵抗する力がある」といって即時民主化の論陣をはっている、という特派員電があった▼情報や言論の自由な流れがとどこおれば、国民ひとりひとりの利益が奪われる、という認識がそこにはある。左翼政権の国ニカラグアでも、政府の検閲に反対する闘いが盛んだ。反政府党新聞の編集局長はこういっている。「情報が操作されれば、市民には何が真実かわからなくなる。それは警察国家への道であり、国家と国民の自殺行為だ」▼アメリカのコネチカット州のある日刊紙が汚職追放のキャンペーンを続けた。皮肉にも、キャンペーンがきっかけでその日刊紙の社主が逮捕される、という事件になった▼逮捕後、社主はこういった。「報道の自由を守るため、キャンペーンには一切干渉しなかった」(総合ジャーナリズム研究、120号)。ここにも、情報の自由な流れを妨げることは国民の利益に反する、という信念がある▼朝日新聞阪神支局襲撃事件で、日本新聞協会は「言論に対する暴力」に憤る声明文をだした。多くの新聞が社説やコラムで扱った。犯人像はまだわからないが、この事件がもし朝日新聞に対する暴力による報復行為であるならば、それは「ひいては国民全体を敵に回した反民主主義的行為といえよう」(サンケイ新聞)という主張もあった。この主張に賛意を表したい▼言論に向けられた凶弾は、国民の知る権利に向けられた凶弾だ。 そばの味で知る「効率」とひきかえに失ったもの 【’87.5.13 朝刊 1頁 (全850字)】  早稲田大学の数学教授、高瀬礼文さんにとっては、そばの味は恋人のようなものなのだろう。いいそば粉を求めて走り回る。石うすをひき、そばを打つ。自分でもそばを栽培する。石うすも木鉢も打ち棒も、特注の道具一式をそろえているというから、恋の病は相当なものだ▼数日前、ある集いで高瀬教授の伝統的なそば打ちのお手並みを拝見した。いちばんの驚きは「こんなにも時間をかけるものなのか」ということだった▼木鉢の中のそば粉と少量の水を、丹念にかきまぜる。かきまぜるというよりも、10本の指が微妙に動き、そば粉との会話を楽しんでいる。恋人とささやきあう風情である。粉はごく自然に米粒大にかたまり、その粒が次第にふくらみ、ねばりがでてくる。粉体工学でいう「撹拌造粒(かくはんぞうりゅう)」の原理を、古人は体験で身につけていた▼いい味のそばを生む極意は「丹念に気長にやる」ことにあるらしい。「この調子ではとても商売にはなりませんね」とだれかがひやかした。「自然にかたまるのを待つのです」と高瀬さんは動じない▼機械の方がはるかに効率的ではある。だが、石うすのかわりに機械で瞬時に粉砕すれば、高熱がそばの風味を損なう、とものの本にあった。機械打ちでもいい味のものがあるが、手打ちには、きめこまやかな味がある▼逆に、手打ちの場合は、どんな名人でも、常にいい味をだせるとは限らない。「ですから、そば打ちは芸術だというんです」と高瀬さんはいった。かけだし記者のころ、山梨の山深い村の農家に泊まった時、主人が、時間をかけてそばを打ってくれた。高瀬さんのそばにはその時の味があった▼何事も丹念に気長にやることが生活の核にあった時代は、そばを打つ人の指とそばとの間には会話があり、会話があったからこそ、よりいい味が工夫されたのだろう。「効率」とひきかえに私たちが失ったものは、そばの味だけではない。 国電の新名称、「E電」に決まったが 【’87.5.14 朝刊 1頁 (全842字)】  東日本鉄道会社が、国電のことをこれからは「E電」と呼ぶことに決めた。新会社になったのに国鉄時代の国電のままではまずかろう、と利用者から新名称を公募していた▼6万近い応募があって、「首都電」「東鉄」「J電」などの上位候補作をしり目に応募数では20位の「E電」を選んだ理由は、Eがイースト、エネルギー、エンジョイ、エブリデーなどを象徴するうえ、何よりも「E―いい―良い」と転化させる言葉あそびのナウい感覚を買ったものらしい▼やる気がなくてどうでもEようだし、痴漢が乗っていそうでE案とは思わぬ、などという人はきっとナウくないのだろう。筆者の友人の間では、これまで通りの「国電」でいい、という声が多かった。「国民の鉄道」であることには、今後も変わらぬはずだからである▼今回の公募でも「国電」は、E電より上位の15位だったし、第1位の「民電」にも、「官」に対する「民」と同時に、「国民」「市民」の意を込めた人が多かったのではないか▼先日、環境庁が東海道・山陽新幹線の振動調査結果を公表した。昨年秋、国鉄は分割・民営化に向けたダイヤ改定で10キロスピードアップし、最高時速220キロで走行を始めたが、それはすぐ周辺への振動公害悪化としてはね返っていた▼75ホンという環境基準の暫定目標値以下にするよう新幹線の騒音対策を講じることも、国鉄から東日本、東海、西日本会社への重要な引き継ぎ事項だったはずである。これらの公害対策は、いま新会社ごとに作成中の新事業計画に盛り込まれると思う、と運輸省はいっている▼国鉄時代になかった新しいアイデアで新会社が活発な事業活動を始めるのは結構だ。国電が新名称で乗客に愛されるのなら、それもE。しかし、騒音・振動公害や通勤地獄のような忘れものをされては、JRはたちまち「酷鉄」「酷電」に逆戻りし、とてもEとはいえない。 選挙違反に見られる日本の政治腐敗 【’87.5.15 朝刊 1頁 (全845字)】  「だれもがやってることでしょ。捕まった人は運が悪いだけ」と町民の1人がいっている。「前から同じようなことはあった。表に出ないだけだった」という町民もいた。選挙違反や汚職事件が起こるたびに聞く決まり文句だ▼新潟県の黒埼町で「運の悪い」町議14人が買収容疑で逮捕された。県議選で当選した武田議員派の選挙違反にからむ逮捕で、この結果、町議会が開かれず、議長を選ぶことさえできぬ状態が続いている▼「大変なことだ。綱紀粛正を徹底的に」という意見もあるが、こういう建前論の影が薄いのは「選挙の腐敗はむしろ常態で、買収もまた風土の産物の1つだ」ということをみなが知っているからではないか▼こんどの事件では、武田派が町議1人ずつに現金10万円を配って、票の取りまとめを依頼したという。その背景には武田議員と現町長との抗争があった。激しい争いがあれば、より多くのカネが動く。より多くのカネが動けば「運の悪い」人もでてくる▼選挙をめぐる土壌の積み重ねでこうなったのではないか、という現町長の談話があった。町長は、土壌そのものが選挙違反を育てていることを知っている。そうであれば、土の総入れ替えでもしない限り選挙違反は続く▼むろん、この地方だけがきわめて特異な選挙風土をもっているとは思わない。たとえば4年前の広島県議選では、当選議員派の大がかりな買収工作が摘発されて、豊平町の町議16人のうち15人が逮捕された。この時も町議会を開けず、マヒ状態が続いた▼選挙違反ではないが、助役、収入役選任をめぐる汚職事件で、福岡県勝山町の町議14人のうち8人が逮捕されたこともある。結局、全議員が辞職、町長も辞める、という事態になった。この時も、助役が自分を選んでくれた議員に「お礼」のカネをだすのは当然、という雰囲気があった。日本列島ここかしこの、政治腐敗の淵(ふち)は深い。 「本土並み」という名の破壊 【’87.5.16 朝刊 1頁 (全857字)】  去年の夏休みにポリネシアのモーレア島を訪ねた。26年ぶりに見る島の姿はかなり変わっていた。見事だった珊瑚(さんご)も今はもう見る影もないありさまになっていた。島内のある店で、在住のフランス人画家が描いた1枚の絵にであった▼浜辺に半裸の娘が座っている。海の上に1輪のハイビスカスの花がある。茎から根をたどってゆくと、海底にされこうべがある、という油絵だった。もえぎ色の海の裏側にある珊瑚の墓場を描いたものだろうか▼文明が珊瑚を全滅させれば、地球の生態系は相当に乱される。珊瑚が蓄えるべき炭酸ガスが蓄えられなくなれば、空気中の炭酸ガスがふえ、生物の生存に影響がでてくるだろう。モーレア島で見た1枚の絵はそんなことを語りかけていた▼沖縄では、珊瑚礁の中のタコがとれる穴をクムイといい、その一つ一つに名前がつけられているという話をきいた。昔の人は魚わく珊瑚を大切にし、開墾をしても、赤土を海に流さないように気を配ったという。赤土が流れれば、珊瑚は死ぬ▼復帰前後から、沖縄では「本土なみ」の開発事業が進んだ。この本土なみがくせものだった。沖縄の海を守るためには、亜熱帯の土壌や狭い土地に適した工事、土を海に流出させない対策が必要なのに、本土なみの大規模な農地造成事業はそれを軽視した▼大量の赤土が海に流れ、珊瑚を殺した。「二度とよみがえることができないようなめちゃくちゃな開発をしたところも少なくない」。沖縄の海を見守り続けている三重大の目崎茂和助教授はそういう▼珊瑚に対する破壊は海に潜らないとわからない。だが、もっとつかみにくいのは、本土なみの名のもとで続けられる「沖縄の心」に対する破壊だろう▼「行政当局の開発至上主義は、琉球弧の独自な風土を異質化し、自然と文化の破壊をもたらしている」。豊平良顕さんたちの「平和をつくる沖縄100人委」は復帰15年にあたってそう表明した。 「地上げ屋」の横暴 【’87.5.17 朝刊 1頁 (全857字)】  地価の問題についていただくお便りがふえた。東京に住む主婦から「歯のぬける年ごろになって『第2の強制疎開』が再びやってくるとは夢にも思いませんでした。怒りを通り越して恐怖を感じています」というお便りがあった▼2、3年前までは坪200−300万円だった土地が今は800万円になっている。80坪で6億円を超す。戦時中からの借地だが、更新の時や、地主の相続の時にどうなるのか、いつまでここに住んでいられるのか、と思うと眠れない夜がある、とあった▼大都市居住者を脅かしているものに「地上げ屋」がある。この言葉は去年の春からめだち始め、10月ごろから急にふえた▼融資をうけて底地を買う。あるいは頼まれて借地、借家の人を立ち退かせ、サラ地にして高く売る。それが地上げ屋の仕事で、かなり荒っぽいことをやる。(1)放火(2)打ち壊し(3)脅迫(4)詐欺(5)殺人などが起こり、住民の「強制疎開」が続いている▼「火をつけられた人もいるし、ノイローゼになった人もいる。はやく立ち退け」と脅すだけではなく、実際に火をつけ、発砲騒ぎを起こす。警視庁は、地上げにからむ事件を暴力団取り締まりの重点課題の1つにした▼オニヒトデの異常発生が海の生態系の破壊を象徴するように、暴力的な地上げ屋の異常発生は、地価の生態の破壊を象徴している。にもかかわらず、政府与党がいまだに有効な地価抑制策をしないでいるのはなぜだろう。政治家にとっては、地価抑制によって得るものよりも、地価乱騰によって得るものの方がはるかに大きいからだ、といわれても仕方あるまい▼もう1つのふしぎは、これだけの規模の不正、これだけの規模の社会的不公正が続いているのに、人びとの怒りがまとまりをみせないことだ。自分の住む土地の値段が上がればもうかる、という錯覚に支配されているからだろうか。そういう錯覚が一層オニヒトデをはびこらせている。 とかくことばは難しい 【’87.5.18 朝刊 1頁 (全840字)】  記事を書いていて、用語にはいつも苦労する。手もとに本社が作った手引書を置き、しょっちゅうそれを繰っている。実は「手引書」と書いて、手引の「き」は送らなくてもよかったかと確かめる▼NHKはこのほど、放送のことばの手引書を作って出版した。こちらは話しことばとして、世間で1つの規範とされる。私どもとはまたちがった苦心があるようだ▼例えば「早急」の読み。一般にはソウキュウの方が多いくらいだが、ここでは「早速」と同様、むかしの習わしに従ってサッキュウと決めている。古文書(コモンジョ)年中行事(ネンジュウギョウジ)女人禁制(ニョニンキンゼイ)などもそのたぐいだ▼一方、初孫はウイマゴ、ハツマゴのどちらでもよい。初産も同じである。大安吉日はタイアンだけをきちんと決め、あとはキチニチ、キチジツ、キツジツの順で認めている。白夜なども本当はハクヤだそうだが、森繁さんの『知床旅情』の歌詞があまりに有名だからと、ビャクヤでもよいとしている▼同じ慣用や実態を重んじるにしても、語感のよくないものは避けている。チュウブル(中古)は日常会話では生きているようだが、調査では好まないむきが多いとかで、チュウコだけにしぼられた。読み方以前の問題になるけれど、ニュースによく出る「焼け死ぬ」という表現も、耳で聞くとどぎつすぎるというので「焼死」になった▼「おじいさん」「おばあさん」も、呼びかけに使うのはやめることになった。親しみをこめたつもりでも反感を買うことがあるし、なれなれしくて一般視聴者にも耳ざわりだという▼耳ざわりといえば、これもなかなか難物で、本来は聞いて不愉快なことをいう。なのに最近は「手ざわり」「舌ざわり」の連想から「耳ざわりが悪い」といったりする。これも要注意とある。私ども書く者としては、「目ざわりの悪さ」などにも気をつけねばならない。 シーレーン防衛 【’87.5.19 朝刊 1頁 (全849字)】  シーレーンというのは、アメリカ流にいえば、「シーラインズ・オブ・コミュニケーションズ」(SLOC)のことである。SLOCの防衛とは、おおざっぱにいって、海を支配する力をもつことだ▼戦争遂行に必要な海上連絡交通路を守ることであり、これには(1)前線への補給物資や弾薬を運ぶ海の道をおさえる(2)国民の生活物資を運ぶ海の道を守る、という2つの役割が考えられる▼シーレーン防衛というと、今までは、日本に石油や食糧を運ぶ船団を護衛する役割ばかりが強調されて、船団の輸送路、つまり何本かの帯を守ることだと考えられていた。しかしこれは政府の「シーレーンぼかし」だ。シーレーン防衛とは本来、SLOC防衛であり、SLOC防衛は、帯ではなくて面の防衛なのだ▼有事のさい、米軍が大規模な軍事力を投入をすれば当然、太平洋上に長い補給路を確保しなければならない。その仕事を日本に分担してもらう、というのが米軍のSLOC構想だろう。そのためには海域全体を支配する戦力が必要だ▼6年前の国会で、大村防衛庁長官は、シーレーン防衛を「面に拡大することは全然考えていない」と、帯に執着した。だが、政府は以後、帯から面へ、少しずつ軌道修正をしてきた。先週の国会で、防衛庁はアメリカ流のSLOCの考え方を強く打ちだした。いよいよ正体が現れた、という感じだ▼1000カイリの海域を支配する防衛にのめりこめば、膨大な戦力が必要になる。より多くの対潜哨戒機や新鋭戦闘機、より多くの潜水艦や護衛艦、そしてOTHレーダーや新型ミサイルシステムを搭載したエイジス艦、と買い物袋はふくらむ。1隻1500億円以上もするエイジス艦がなぜいま必要なのかということもよく知らされぬまま、導入がはかられようとしている▼防衛費のGNP比1%枠破りの背景にはシーレーン防衛、つまりアメリカお仕着せのSLOC防衛がある。 花の防人 【’87.5.20 朝刊 1頁 (全854字)】  群馬県新里村の長岡武二さんは、85歳のいまもみずから花の防人(さきもり)をもって任じている。老防人は、村に残る何カ所かの桜草の自生地を見回り、花盗人を監視している▼1週間ほど前、長岡さんと一緒に沢の近くにある桜草の群落を見た。小雨にぬれる桜草の葉の緑にはものやわらかな感じがあって、おだやかなうすべに色の花になじんでいる▼シノザサの奥に隠れながら紅を散らしている桜草もある。日陰の花は、うすべに色の紅がいっそう淡くなっている。きらっと白く光るのはチゴユリの花だろうか。アケベコキーとイカルが鳴いている▼昔はカジカがたくさんいた、川べりはどこも桜草でいっぱいだった、と長岡さんはいう。戦後、台風で根こそぎ流され、盗み去る人がふえて、花は激減した▼老防人は、村役場に保護を訴え、歩き回って監視を続けた。「山歩きできるうちは、桜草を守ってやるのが自分の仕事だと思ってね。まだまだ歩ける」と長岡さんはいった。村は、自生地の1つを買い上げて保護を万全のものにする準備を進めている▼江戸時代、隅田川上流は桜草の名所だった。桜草見物が年中行事の1つだったともいう。だが、東京に限らず、桜草の自生地の多くはいまはまぼろしだ▼長岡さんをはじめ、たくさんの花防人がいたから、新里の桜草は守られたのだろう。だが、このことは一方で、山野草の盗採がいかに激しいかを物語る。江戸のころ、庭のない狭い家に住む人びとは桜草を鉢に植えて楽しんだ。珍しい草花をわがものとして楽しむ伝統は、これからも続くだろう。そして、この伝統がある限り、山野草を盗み、商売にする風潮も続く▼こうなったら、バイオテクノロジー(生物工学)の力にでもすがり、ありとあらゆる珍しい山野草を大量に生産してもらうほかはない、と思うことがある。山野草が安くたやすく手に入るようになれば、山野荒らしもやむというのは夢物語だろうか。 行革国民会議の行革白書、中曽根政治の点数は 【’87.5.21 朝刊 1頁 (全861字)】  土光敏夫さんたちが代表になっている「行革国民会議」が民間版・行革白書を発表した。快刀乱麻を断つおもむきがあって、おもしろい▼中曽根首相の行革は減点が多く、総括すると「23点」だという。「国民の期待した水準からすれば4分の1以下にしかならず、行革は道なかばどころか緒についたばかり」という厳しい採点である。快刀乱麻的苦言の一部を紹介する▼(1)国鉄改革「分割・民営化の実現は高く評価するが、整備新幹線の問題で帳消し。財源不明のまま整備新幹線の工事凍結を解除したことは、国鉄改革の精神を根底から踏みにじる暴挙である」(トンデモナイコトヲヤッテクレタモンダという土光さんたちの怒りがきこえてくる)▼(2)増税なき財政再建の実現「ますます怪しい」。不公平税制の改革「手つかず」(3)売上税「導入にいたる手法は極めて欺瞞(ぎまん)的、強権的で、税制の姿として極めて醜悪」(野党もびっくりの酷評ではないか)▼(4)長寿社会対策「今後の展望がはっきりしない」高齢者雇用対策「実効性に疑問が残る」(5)地価暴騰「有効な対策がなにも出てきていない。逆に地価対策のないまま民活や都市再開発が叫ばれ、地価上昇に拍車をかけている」(まさにその通りで、間然するところがない)▼(6)防衛費の1%枠突破「強引な手法は減点の対象」(7)中央省庁の簡素化「検討がなまぬるい」(8)情報公開「法制定の動きは閉じ込められたまま。意欲が極めて薄い」▼これだけ減点が重なったら、会社勤めは左遷は覚悟しなければならぬ。受験生なら不合格電報を覚悟するだろう。しかし行政の場では、その責任が厳しくは問われない。臨調は、行政の責任がうやむやのまま拡散されて消えてしまう体制こそ、真っ先に行革の対象にすべきだった▼自民党の二階堂さんは「今、政治に責任が感じられない」と批判した。首相は行革23点の責任をどう考えているのだろう。 人口抑制への道か、集団自殺への道か 【’87.5.22 朝刊 1頁 (全840字)】  北欧やシベリアにいるタビネズミは、周期的に大発生し、新天地を求めて動き回るという。海を渡ろうとして大量におぼれ死ぬこともある。海の向こうに未来があると錯覚するのだろうか、と動物学者の小原秀雄さんはいう▼全世界の人口が近く50億人を超えると国連人口活動基金が発表した。地球の人口が10億人から20億人へ、と倍増するのにほぼ1世紀の歳月がかかっている▼しかし25億人から50億人への倍増には37年しかかかっていない。この勢いでふえ続けると、人類は2000年には60億人、2010年には70億人になる見込みだ。ネズミが海に飛びこむような集団自殺への道を、人類は突き進んでいるのだろうか。それとも宇宙に未来を求めて、集団脱出を企てるのだろうか▼人類の歴史では、皮肉なことに戦争や疫病や飢餓が人口を抑えた。今も、戦争が続き、飢えや栄養失調で死ぬ人が絶えず、ペストを思わせるようなエイズが人類をむしばみ始めた。だが、地球全体では人類はふえ続けている▼このまま人口の重圧がふえ続ければ、人類の大量殺戮(さつりく)もやむをえないという時代の空気がじわじわとひろがってくるのではないか▼戦争や疫病にかわる人口抑制への道は、計画出産であり、乳幼児の死亡率を下げることだろう。乳幼児の死亡率を下げればかえって人口がふえる、という人がいる▼これは違う。子供の死亡率が大幅に下がるとやがて人口の増加傾向がゆるやかになることは、ユニセフの「世界子供白書」が再三指摘している。死ぬ子が少なくなれば、親も計画的な出産を考えることが可能になるからだ。子供の死亡率の低下は、出生率の低下を招く▼人類は今まで恐ろしい勢いで緑を破壊し、ほかの生物の種を絶滅させ、自らの王国を築いてきた。人口抑制と環境の保護に失敗すれば、人類は動物学でいう「個体群崩壊」の道を歩むことになる。 春日大社のナギ林を守った市民運動 【’87.5.23 朝刊 1頁 (全858字)】  先日は群馬の桜草が守られている話を紹介したが、きょうは奈良の春日大社のナギの樹林が守られた話をお伝えする▼来年開かれる「なら・シルクロード博」に備えて、春日大社の神木、ナギ群生林約1万5000平方メートルを切り倒して駐車場をつくる、という計画があったが、奈良県はこれを断念した。うっそうと濃い緑の林をつくり、世界で唯一というナギの大純林帯は、傷つくことなく残されることになった▼県や春日大社に中止を決断させたのは、全国から寄せられた6万4033人の署名である。奈良女子大教授の菅沼孝之さんらが反対を呼びかけたところ、わずか3カ月でこれだけの署名が集まった▼北海道から沖縄まで、お年寄りもいれば子供もいる。なかでも主婦の反応が目立った。新聞報道で知った人たちが菅沼さんの研究室に連絡してきた▼兵庫県三木市の自由が丘小6年、荒井竜太君からの手紙はこんなふうだった。「ぼくは花や木や鳥が大好きで、ならの春日大社にちゅうしゃじょうをつくるのはぜったいにはんたいです。クラスのみんなや先生たちからもしょめいをあつめたいので、しょめいようしをおくってください」。荒井君は150人の署名を届けた▼「古都保存法」ができて21年になる。高度経済成長期のさなかだった昭和30年代後半、鎌倉鶴ケ岡八幡宮裏山、京都双ケ岡(ならびがおか)、奈良若草山・三笠山の開発計画に対し、市民から保存運動が起き、制定された▼最近は、内需拡大の声とともに古都にも再び開発の波が押し寄せている。「凍結的保存から活用的保存へ」という意向が行政の側に強まっている。しかし、活用と破壊の違いを見誤ってはなるまい▼歴史的環境保存の住民運動が始まった当時、鎌倉在住の大佛次郎は書いている。「過去に対する郷愁や未練によるものではなく、将来の日本人の美意識と品位のために」と。あらためて行政担当者に耳を傾けてもらいたい言葉だ。 しゅっとひと吹きが地球の運命変えるかも 【’87.5.24 朝刊 1頁 (全845字)】  私たちは今、スプレーと称する噴霧器から化粧品や薬をしゅっとひと吹きすることに慣れている。それが地球の運命にかかわる一大事になるかもしれませんよ、といわれても正直なところ実感がない▼そのひと吹きの中にはたいてい、フロンガスという物質が含まれている。それが集まり集まって成層圏に達すると、にわかに悪役に化けてオゾン層を破壊する、といわれている。オゾン層というのは、赤ちゃんをくるむやわらかなガーゼの着物のように地球を包み、太陽からくる紫外線を吸収している▼だが、オゾン層が破壊されれば紫外線がじかに私たちを射る。皮膚がんが発生し、農作物の生育や動植物の生態系に深刻な影響を与える。米国カリフォルニア大のシェアウッド・ローランド教授は70年代の初めから、このことの警告を続けている▼フロンガスは、冷蔵庫や冷房装置の冷媒、電子部品の洗浄剤にも使われている。今の状態でフロンガスが使われれば、オゾンの減少は避けられない、と専門家は指摘する▼数日前、環境庁の委託を受けた専門家チームが「こうした地球的規模の環境悪化は、被害が確認されてからでは手遅れになる。フロンガスの生産量の凍結、削減が必要だし、フロンガスの回収、代替品の開発も必要だ」という報告をまとめた。国連でも規制に熱意をみせている▼たまたま来日中のローランド教授に同僚が会った。「国際的な規制が進みつつあるが、手ぬるいし、手遅れになるんじゃないか。日本の対応はとくに遅い」と教授は憂えていたそうだ▼「われわれがたえず不幸をまぬかれているのは、不幸を予見しているからである」とアランがいったのは、今世紀の10年代だ。地球的規模の環境破壊を予見し、対応する力を失った時、人類は不幸をまぬかれるわけにはいかない。便利であることはいいことか、と日常生活を見つめ直すことから、たぶん私たちの第一歩は始まる。 尾瀬にひきつけられていく長蔵小屋の家族 【’87.5.25 朝刊 1頁 (全851字)】  尾瀬で長蔵小屋を経営する平野紀子さんは、今年の正月、3人の子を前にして、小屋を継ぐ意志があるかどうか、初めてたずねたそうだ。この春北海道大学に進んだ長男の太郎君が「継いでもいい」と答えた▼太郎君には中学時代から、休みのたびに小屋の手伝いを命じてきた。まき割りやササ刈りといったつらい仕事を与えた。万が一小屋を継いだとき、知っていなければならない仕事だと考えたからだ。それは受験が迫った今年になっても続く。勉強に差しつかえる、と忠告する人には「それで大学に入れないようなら、行かなくていい」ときかなかった▼だから、仕事のつらさを知っている子が「継いでもいい」と答えたときは、うれしかったそうだ。もうひとつ、この席で紀子さんは初めて夫のことに触れる。「あなたたちの父はすばらしい人でした」とだけ話した。説明はしなかった▼太郎君の父長靖さんは16年前の冬、吹雪の尾瀬で凍死した。尾瀬自動車道の建設中止に力をそそいだ長靖さんは、小屋を継ぐことを嫌い、悩み続けたことがある。それがいつか、尾瀬にひきつけられていく▼太郎という名前には、長靖さんの格別の思いがこもっている。尾瀬に縛りつけられないように、長蔵―長英―長靖と3代続く長の字を避けた。そういう父の姿や思いを、紀子さんはなぜ子どもたちに語り継がなかったのか。「父親像というのは自然に知るものだと思います。それに私はあの人を客観的に語れませんから」という▼母子が十分に語り合えない環境もあった。紀子さんは小屋の切り盛りに追われ、子どもたちは里の祖父母に育てられることが多かった。「本当は子どものことを思うと切ないのです。あの人が生きていれば、ベトベトの母親になっていたでしょう」ともいった。その母を太郎君は「自分自身に厳しい人。すばらしい母です」と語る▼尾瀬はいま、ミズバショウの花が木道のわきを飾り始めている。 福岡県苅田町の税金ピンハネ事件 【’87.5.26 朝刊 1頁 (全838字)】  税金のむだ遣いの話はよくきく。だが、税金そのものを手品のように消した上で、ひそかに町の収入役の裏口座にいれてしまう、なんていう話はきいたことがない▼福岡県の苅田町で起こった税金ピンハネ事件では、町民140人分の住民税が収入役の裏口座に振り込まれていた。その額は4年間だけでも約1億円になる▼裏工作が始まったのはかなり前からで、ピンハネの全体額は相当なものになるだろう。その裏金の一部が町長選挙の資金に使われたという供述もある。まさに前代未聞、中江兆民流にいえば「大恥辱大滑稽(こっけい)」のあさましい話だ▼税金というものは「天より落つるに非ず地より出るに非ず、皆人民の嚢中(のうちゅう)より生ぜしに非ざるなし。即ち是れ人民は官吏たる者の第一の主人也」と兆民先生は書いている。ごく常識的な見解のはずなのに、昨今はこのごく常識的なことが通用しない。主人のカネをかすめて、「私」のものにする、秘密をはりめぐらせて巨額の買い物計画を既成事実にする、というのがむしろ常態になっている▼苅田町の場合、140人の住民は本来の納税者で、きちんと税金を払っていた。それでいて課税対象者のワクからはずされていた。知らぬうちに幽霊にされてしまったわけで、勝手に幽霊扱いにされてはたまったものではない▼不正は16年ほど前から行われていたらしい。昭和52年以来町長を務めてきた尾形智矩氏(現代議士)がこの裏金のことを知っていたのかどうか。知らなかったとすれば失態で、統治能力が疑われるし、知っていて放置していたとすれば無責任きわまる話だ。東京地検や福岡県警の捜査に期待しよう▼きのう、尾形氏の側近といわれていた人物が自殺した。自殺の真因を推しはかるのは難しいし、今度の事件とのかかわりもまだわからないが、この人の死が事件の解明に影響を与えるのは事実だろう。 しんぼう男、竹下幹事長 【’87.5.27 朝刊 1頁 (全851字)】  今年の元日、田中元首相邸で門前払いをくった竹下登自民党幹事長は「しんぼう、しんぼう、永久しんぼうだ」といって自らを慰めたそうだ▼去年の夏、竹下さんはこういっている。「みんなの意見を聴くには、私はかく思う、といわないのが一番いい」。この人の持論は「はかってはかってはかり抜け」である▼じっと耐え、謀(はか)りごとをめぐらせて、そのくせ「私はこう思う」といわずに柿(かき)が熟すのを待つ。それが竹下流の政治手法だ。口を開けば、真心、謙虚、繊細な配慮、ということばが並んでおよそおもしろみがないし、じれったい▼お得意の繊細な配慮のすえのパーティーでは、予想以上に柿が熟していることがわかった。〈その1〉抜群の集金能力は自民党の派閥の長の条件の一つだが、竹下パーティーはそれを天下に示した。「集金力は政権意欲を裏づける」という竹下側近のことばがあった▼〈その2〉田中元首相の神通力の衰えを、パーティーは証明した。二階堂さんの「決起」は、結果的にはヤミ将軍の影を薄くした▼竹下さんの優柔不断は、田中角栄の濃い影を意識してのことだろう。二階堂さんの決断も、一つには角栄の影を守り抜くためだろう。だからこそ、田中・二階堂会談の写真という踏み絵を公表した。だが、派内の大多数はそれを踏んだ。角栄の身がわりを自負する二階堂さんよりも、代がわりをめざすしんぼう男の方が数を集めた▼竹下さんは、28日に総裁選出馬の意思を明らかにするという。そうであればもう「私はかく思う、といわないのが一番いい」などといってはいられない。めらめら燃えるかんなくずのようにしゃべるのも困るが、「言語明瞭(めいりょう)意味不明」の発言には、こちらがもうしんぼうしきれない▼政治家は、パーティーの規模で勝負するよりもまず政治を語ることで勝負を、とごく当たり前のことをいわなければならないのはむなしい。 小錦の同化 【’87.5.28 朝刊 1頁 (全828字)】  小錦が肩をそびやかせて歩く姿を見て「あ、日米摩擦が歩いている」といった人がいる。アメリカの高速道路を突っ走る日本車の行列を見たら、アメリカ人の中にも、ある種の恐れを抱いて「あ、日米摩擦が走っている」という人がいるだろう▼北勝海が横綱に昇進し、小錦が大関に昇進した。まずはめでたい話で、この2人に双羽黒を加えて、昭和38年生まれのサンパチ・トリオが横綱、大関陣にそろう▼小錦は、昨年の夏場所で5日目に3敗になり、大関が絶望になった。くやしくて、自分の部屋のテレビを窓から投げ捨てた。子供じみたことをと親方にしかられたが「あの時のくやしさがあったからこそ、ここまで来られた」と語っている▼北勝海は古風で、発言も控えめで、闘志を内に秘める。角界の優等生だ。小錦は闘争心をむきだしにする暴れん坊である。だがそれは土俵上のことで、ふだんは支度部屋に来た子供たちとよく遊び、好んでトロンボーンを吹く、という青年だ▼「相撲はけんかだ」「こわいものはない」と豪語して非難されたことがあった。だが、次第に「相撲の厳しさ、相撲の奥の深さ」を口にするようになる。相撲社会の文化とサモア・ハワイの文化の激しい摩擦が続く中で、小錦なりの同化が進んだためだろうか▼外国人力士の存在は、同時に、相撲界の古い体質を照射する。伝統的なけいこのやり方や相撲部屋のしきたりに不合理なところはないのか。兄弟子たちの無用なしごきをそのままにしていいのか。外国人力士を同化させる一方で、摩擦の中から何かを学ぶ姿勢をとることで、相撲界はかえって鍛えられるだろう▼小錦は、一時「日本の相撲ファンに憎まれている」という思いにとりつかれたそうだ。そういう重圧を与える排他意識が日本の社会にあるのだろう。小錦の存在は相撲界だけではなく、日本の社会そのものを照射している。 学校の自由と規律 【’87.5.29 朝刊 1頁 (全833字)】  お花やお茶と同じように、学校での「起立、礼」にも、正しい作法がある。もしご存じなければ、文部省が22年ぶりに改訂した小、中、高校の先生向けの『体育科における集団行動指導の手引』を開くと、すぐわかる▼児童・生徒は「気をつけ」の姿勢で受礼者(つまり先生)に正対し、「礼」の声で上体を約30度前に傾ける。いったん止めた後、静かに上体を起こし「気をつけ」の姿勢に戻る――のが正式だ。小学1年から教えられ、3年では「正確に実施」できなければならない▼オリンピックの日本選手団の入場行進は、よく機械人形にたとえられるが、『手引』にはあのやり方も示されている。行進の指揮者は「かしらー右」と声をかけ、頭を受礼者に向けて注目、後に続く者も一斉に倣う。団旗を持つ生徒は旗ざおを前方45度に保つ▼前の『手びき』が編まれた昭和40年当時、都道府県の半数は集団行動の指導法を定めていなかった。バラバラでは困る、全国共通の方式を、と先生の間から声が上がって、文部省が作成した。こんどもまた、現場の要望で書き改めたのだそうだ▼旧国鉄の現場の職員は、指令や信号には絶対に従い、自分では判断しないよう訓練されていた。鉄道の安全については確かにその通りだが、あまりにも行き届いた『手引』を繰っていると、敷かれたレールの上をひた走る子どもたちの姿が想像されて、ちょっと不安になる▼「気をつけ」のつま先は「45―60度になるように左右等分に開く」と書かれている。2列横隊から4列横隊、3列縦隊から2列横隊への変わり方が説明されている。そこまで、規定しなくてはいけないものだろうか▼英国の学校生活を報告した池田潔さんの戦後間もなくの名著『自由と規律』には、規律の厳しさとともに、規律を超えた師弟の自由で温かい結びつきが描かれていた。それが、読む者を感動させた。 なぜ無料にならぬ点訳絵本の郵送料 【’87.5.30 朝刊 1頁 (全855字)】  郵政省に注文したい。「点訳絵本」の郵送料は、無料にすべきではないだろうか。点訳本は、郵便法第26条によって、無料である。それなのに点訳絵本は点訳本にあらず、といって有料扱いにする郵便局がある。これはおかしい▼大阪市の岩田美津子さんが点訳絵本を作り始めたのは、わが子のためだった。岩田さんは生まれつきの全盲である。だから絵本を手にした子に「これは?」とたずねられても、答えてやれない。これがつらかった▼そのつらさを知人に訴えたことがある。知人が点訳絵本の工夫をしてくれた。市販されている絵本の文章を透明の点訳シートにし、それを文章の部分にはる。牛の絵があれば同じ形の透明シートを切りとって、はる。なんでもないことのようだが、これはすばらしい工夫だった▼岩田さんは子をひざに乗せて、次から次に絵本を読み聞かせることができた。絵の内容は子どもが説明してくれる。そのことで親子の会話がはずんだ。ボランティアの人たちが新しい点訳絵本を持ってきてくれるたびに、2人の子は叫んだ。「お母さんの字がついている絵本が来た」▼本がふえるにつれて、だれもが利用できる「点訳絵本の貸出文庫」の計画が固まってゆく。周りの人の協力でいい本を選び、自らも点訳作業に加わって、絵本をふやしていった。岩田文庫発足は3年前である。本は今、1000冊を超える▼なぜ点訳絵本の郵送を無料にしないのか。郵政省はいう。「点字図書を無料にするのは盲人の福祉増進のためだが、点訳絵本の場合、利用者は健常者の子どもである。だから目的が違う」と▼温かみのない解釈だし、点訳絵本の利用者が健常者の子だけ、というのも間違いだ。今は点字を覚えたての全盲の子も、絵は見えるが字が読めない強度の弱視の子も、絵本が好きになった全盲の大人も利用している。法をたてに点訳絵本の無料郵送を拒むほど、日本の文化はうすっぺらなのだろうか。 5月のことば抄録 【’87.5.31 朝刊 1頁 (全842字)】  5月のことば抄録▼「この国の政治は、体操競技かスポーツの試合のようになろうとしている」と批判したのはアメリカのハート前上院議員。私生活を問題にされて米大統領選を辞退した時に▼日本の政治は無責任体制になっている、と批判したのは二階堂進さん。こちらは総裁選出馬表明の折に「政治家は責任をとることが大切だ。地方選で100人くらいの県議が落ち、税制改革の法案も廃案になった。一番の責任者である総理と、党を支えた幹事長が率先して責任を明らかにすることだ」▼「あなた方は全員腰抜けだ。責任を全うしていない」と青島幸男さんが閣僚たちをにらみつけた。防衛費1%枠破りの問題で▼国会議員の納税額公示で2位になった宇都宮徳馬氏。「SDI参加や防衛費の1%枠突破など、バカなことに使ってもらっては困る」。宇都宮さん80歳、二階堂さん77歳、政治家はやはり年じゃない▼「私には人生は耐えられない。許して」と書いて、フランスの女性歌手ダリダさんが自殺した▼「国民を無謀な戦争にかり立てて行った誤りを、二度と繰り返してはならない」という訴えを書いて、NHK元社会部長の神戸四郎さんが自殺した▼朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲われて小尻記者が死亡した。「言論には言論で対抗して解決するのが基本原則であり、これが守られないと民主社会は守れない」と新井直之創価大教授▼国鉄ならぬJRが国電をE電に変えた。「E電というたびに出るジンマシン」(近藤正夫)と朝日せんりゅうにあった▼「絵画に約58億円もの高値をつけるのは単に国際的な名声を買おうとしているのであり、正気とは思えない」と米国人の億万長者ポール・ゲッティー2世。例のゴッホの「ひまわり」落札をめぐって▼「タヌキの親子が通ります。徐行してあげましょう」。志賀草津有料道路に、こんな標識が立てられた。なかなかいい。 岩波文庫60周年と最近の文庫ブーム 【’87.6.1 朝刊 1頁 (全840字)】  岩波文庫が来月で60周年を迎える。『戦争と平和』(トルストイ)『こゝろ』(夏目漱石)などが最初に発売され、以来、発刊された総点数は4384点になるという▼創刊当時は1冊1円の、いわゆる円本時代だった。そこへ★ひとつ(100ページ)20銭という廉価版を送り出したわけだ。★の表示はなくなったが、岩波茂雄の発刊のことばはいまも巻末に載っている。「いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し……」と▼このところ文庫はブームだという。文庫をもつ出版社は、以前は数社だったが、いまは50社を超す。漫画や料理の文庫本まである。単行本がなかなか売れないから、量で稼ごうというのだろうか。文庫本のほかは雑誌ぐらいしか置いてない書店も見かける▼岩波文庫を例にとるまでもなく、文庫本には必ず親本である単行本があった。単行本が何年か読み継がれたのち文庫本になる。いまはいきなり文庫本というのがふえている。書き下ろしが宣伝文句になるくらいだ▼作家は作品をまず雑誌に発表する。ここで原稿料が入る。評判がよければ単行本になる。印税が入る。こんどは文庫本になる。また印税が入る。ぜいたくなようだが、こういう収入に支えられて作家は次の作品を練り上げる。この形がくずれつつあるのだろう▼文庫本の新刊は多い月だと300点を超す。書店の棚はたちまちあふれる。どこかを間引かなくてはならない。売れゆきのかんばしくないものは1カ月もたたないうちに消えてゆく。段ボール箱に詰めて出版元へ送り返されるのだ▼本が安く手軽に読めるのはうれしい。けれども最近の文庫ブームは、逆に本のいのちを短くしている。書店には流行作家の作品や、タレントが書いた瞬間的に売り上げのいいものしか残りにくくなりつつある。本も使い捨て時代の例外ではないのだろうか。 バードソン 楽しみながらの探鳥募金活動 【’87.6.2 朝刊 1頁 (全852字)】  日本野鳥の会の『バードソン』はバードウオッチングとマラソンをあわせた呼び名だ。4人1組のチームが24時間内に何種類の鳥を観察することができたかを競う。支援者たちは「われらがチーム」が確認した鳥の種類数に応じて、なにがしかの寄金をし、その募金額も、競う。まあ、一種のゲームであり、楽しみながらの探鳥募金活動でもある▼今年のバードソンには、北海道から沖縄まで、50近いチームが参加した。千葉県内を回った女性4人組に同行した同僚の話では、かなりせわしい探鳥会だったらしい。浜辺でオオミズナギドリを見つけた、かと思うと、走り出す。目の前を白い鳥が横切る。「あっ、ハクセキレイ」と叫んで、車に乗る。次の観察地点へ急ぐ。草むらから鳥が飛び立つ。「あっ、ムク」。ムクドリである。たちまち10種、20種と鳥の種類がふえてゆく▼スズガモの群れが遊んでいる。目元を緑色に染めたダイサギが立っている。風があごの毛を逆立てている。水面すれすれにイソシギが飛ぶ。「動く表情がゆたかで、鳥とおしゃべりができそうな気持ちになった」。初めて探鳥会に参加した同僚の感想だ▼チームの中には、偵察隊がバイクで先回りし、無線で情報を知らせる、という機動型の探鳥組もあり、家族そろって、ゆっくりと歩きながら鳥のさえずりを楽しむ組もあった▼赤坂御用地内では、皇太子ご一家もバードソンに参加された。礼宮さまを主将とする「エピオルニス・チーム」と、紀宮さまを主将とする「ムクどり・チーム」が健闘、20種類近い鳥が確認された▼去年のバードソンでは、約1200万円が集まった。今年の予想額は約1400万円だが、結果が心配だ。この寄金は全額、タンチョウヅルを守るため、北海道の鶴居村に建てられるネイチャーセンターの費用に使われる。「ごひいきチーム応援の寄金は今からでも遅くありません」と日本野鳥の会はいっている。 鹿児島・知覧町に「特攻平和会館」【’87.6.3 朝刊 1頁 (全845字)】  太平洋戦争の末期、特攻隊の出撃基地となった鹿児島県・知覧町に、町営の「特攻平和会館」が完成したのは昨年暮れだった▼旧基地跡の一角に、総工費5億円をかけて建てられた会館には、特攻隊員として沖縄戦に出撃、戦死した若者たちの遺影、父母や妻子に書き送った遺書などの遺品約3300点が展示されている。この事業は、実は町の活性化対策だという▼とはいっても、戦死した若者たちを観光資源扱いにするわけでは毛頭ない。特攻隊員の遺族から寄せられた遺品を保存し、次の世代にひきつぐためには、それにふさわしい施設が必要だし、しかもその施設は、戦争のむごさを教えてくれる場になり、平和の大切さを考える場にもなるだろう。町の人たちはそう考えた▼ただ、貧乏町では資金がない。思いついたのが、地域の特性を生かして町づくりを進めようという国の特別対策事業制度である。特攻基地があった町、これこそ知覧町の特性というわけだった▼南九州観光ルートに組み込まれ、団体客がひっきりなしに訪れる。修学旅行の若い人たちも多い。今年の入館者数は30万人を超えるかもしれない▼「哲学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。国のため死ぬよろこびを痛切に感じています」という遺書も残っている。こういう遺書に接して、今の若者たちはどんな反応を見せるか▼会館に備え付けの感想ノートに、若者たちはさまざまな思いを書きつけている。「国のため自分の命を投げ捨て空に飛び立った時、本当にどのような気持ちだったんだろうか」「戦争はいやです。死ぬのはいやです。これが人間の正直な気持ちだと思います」▼こんな小学生の言葉もあった。「かわいそうなへいたいさんが、ぼくたちにがんばれ、がんばれといっているみたいだ。にどとこんなことをはじめないでください」▼ここには、平和教育の生きた教材がいっぱい詰まっている。 政治の世界のダニ退治 【’87.6.4 朝刊 1頁 (全843字)】  厚生省がダニ退治に乗りだし「ダニ問題研究会」をつくる、というニュースがあった。この動きにあわせて、民間にも「ダニ退治総合対策本部」が発足した▼この本部は、主に政治の世界のダニを対象にし、生態、習性、対策を考える。政治学者や社会病理学者のほか、うき世のダニ退治に定評がある中村主水氏も加わった▼たとえば最近、とみにふえているムセキニンダニは、どんな条件がそろうと異常に繁殖するのか、といったことを調べる。このダニにとりつかれた政治家は自分のウソをウソだと思わなくなる症状を呈し、これをナカソネル症候群と診断する人もいる▼「民意」印の殺虫剤をまいてショックを与えると、死んだふりをするのが上手なダニだが、無責任病そのものは完治しない▼畳をねぐらとする極めて日本的なダニにハバツダニがいる。とくに政治家の出入りする料理屋の畳にうごめき、カネのにおいをかいで繁殖する。このダニになじんだ政治家は、多数派工作に暗躍するのが政治だと錯覚するようになる▼親分の身ガワリか代ガワリかという近親憎悪的争いは、やくざの跡目争いに似た症状を呈するが、このハバツダニの防除は絶望的と専門家はみる▼新種のネンショウダニは奇妙な習性をもつ。これに刺された政治家はことあるごとに「5尺4寸の体を燃焼しつくす」と口走るようになる。周囲がよほど、火の気やガソリンに繊細な気配りをしないと5尺4寸の体はすぐ燃え切ってしまう。政策なき燃焼をタケシタル症状と診断する人もいる▼ピンハネダニ。役所内の暗部に生息するのでコウヒテンゴクダニとも呼び、税金を盗み食いして繁殖する。このダニの異常発生で、住民税のピンハネを日常茶飯のことにした恐ろしい町役場も現れた。選挙になるとうごめくタカリダニも日本原産だ。「こういうダニは昔からいる。おれにはどうにもならねえ」と主水がいい、座が白けた。 地価狂騰 尋常でない金銭感覚 【’87.6.5 朝刊 1頁 (全861字)】  中日の落合選手は4年前、東京で1億7000万円で売りにだされた家を買った。当時、地元の不動産業者は「高い物件を買ったものだ」とささやきあったそうだ。今は「4億でも買い手がつくだろう。落合は安い買い物をした」といわれている▼実力のある者が、自分の腕でかせいだカネで1億7000万円の家を買うことに、不都合はない。天下に恥じるところはない。ただ、それがみるみる3億円、4億円になってしまうところに、昨今の土地問題の恐ろしさがある。黙っていても、たちまちプロ球界最高級の年俸以上に家や土地の値段が上がってしまうのでは、プロの誇りが傷つくだろう▼地価狂騰は、日本人の金銭感覚を異常なものにし、人間の品位にドロをなすりつける役割をはたしている。数日前、東京地検が不動産業者を脱税で逮捕した。よくやってくれました、と小気味よく思った人が多かったはずだ▼手に入れた都心の土地を2カ月後に売って4億円近くもうけた、などという話は尋常ではない。しかも、約7億円の法人税の脱税である。宅地建物取引業の免許をもたぬこの業者に、大手の信託銀行などが融資し、その額が最高88億円に達していた、という事実にも驚く▼せんだって、警視庁も地上げ業者の最上恒産に国土法違反を適用した。この会社は、不動産部門の法人申告所得番付で60年が206位だった。それが一気に3位になった。土地転がしのもうけがいかにすさまじいものであるかがわかる▼最上恒産は、新宿の土地5000平方メートルを買い、身代わり会社などを利用して転がし、わずかな期間に約200億円をもうけていた。そしてここでも、カネのだぶついた金融機関が巨額の融資をし、地上げに手を貸していた▼地価は高値のままそろそろ鎮静に向かうという不動産業者もいるが、はたしてどうか。ことここにいたっても、地価狂騰退治の処方書を書けない政治家に、政治を口にする資格があるか。 オートマチック車の功罪 【’87.6.6 朝刊 1頁 (全841字)】  めんどうなクラッチ操作の必要がなくなったオートマチック(AT)車の登場で、車の運転はずいぶん簡単なものになった。人気もあるようだ。国産AT車の新車登録台数の割合をみても、1970年には2.6%だったのが、昨年は57%もの普及ぶりである▼そのAT車の事故が波紋を広げている。昨年夏、東京で主婦の運転する乗用車が反対車線にとび出し、9人が死傷した事故の記憶がまだ新しいところに、こんどは日本ダービー当日、東京競馬場近くの商店街で暴走事故があり、2人が死亡した。数年前にはビルの駐車場から転落し、運転していた人が命を失ったこともある▼もっとも、警察庁によれば昨年の全死亡事故のうちAT車は13%、自家用普通乗用車の死亡事故の中では24%だった。現在、使用されている国産乗用車はAT車が推定35%というから、数字的には従来のマニュアル車より安全ということにはなる▼だが、AT車の事故には、機械と人間のかかわり方を考えさせるものがある。チェンジレバーをD(ドライブ)に入れておけば、あとは右足でアクセルとブレーキを踏むだけでたやすく運転できる。ところが事故の大半は、このブレーキとアクセルの踏み違いという初歩的な過ちから起こっているのだ▼新しい技術が操作を簡単なものにしたが、それが逆にドライバーに気のゆるみをもたらし、新たな過ちを誘発する。どんな技術を開発してみても、それを操作する人間の単純なエラーで仕組み全体が崩れてしまうのは、何も車に限ったことではない▼対策は、運転の基本を守る、という自明のことしかないのか。それとも、ブレーキの踏み違いをも発見してくれる装置まで求めるべきか。人間がアクセルを踏んでも「走る」べきかどうかは機械に判断させる。高度先端技術はまだそこまでは進んでいないが、人間を疑う機械の登場を大歓迎する気持ちにはなれない。 「礼状を書く」ということ 【’87.6.7 朝刊 1頁 (全842字)】  中学生からよく礼状をもらう▼浦和市の宮田直君は小学6年の時「大人の職業」という卒業記念の論文を書いた。直君のアンケートにこたえて、日々、この欄を書くことの感想を書き送ったことがある。「おかげ様でアンケートをまとめ、卒論ができました。今は中学生として毎日が楽しくはりきっています」という写真入りの礼状が届いた▼日野市の稲山剛君は、やはり小学6年の時、天声人語を読んで要約を書き続けた。塾の先生の感想を加えて、小冊子にまとめた。「本ができました」という礼状が本と共に送られてきた。島根県那賀郡の旭中の生徒たちからも、先日たくさんの便りが寄せられた。この欄を学習に使い続けたことの「お礼の意味をこめて」と担任の先生の便りにあった▼わがことを得々と語るようで、ためらいながらここまで書いた。あえて書いたのは「礼状を書く」という今はやや古典的になった行為をきちんと受けついでいる中学生たちがいる、ということをいいたかったからだ▼礼状を書く。お礼の電話をする。心がけているつもりでも失念する。忙しいというのは口実だ。忘れるのは礼の心を失っているためだろう。中学生たちの礼状を読んで「今どきの若いもん」に教えられる気持ちになる▼「前略好物のすだちと栗ありがたう。小咄を御披露します。『すだちの方が柚子よりずっとうまいね』『昔からいふぢゃないか(柚子よりすだち)とね』御禮草々」。志賀直哉が知人にあてた礼状だ。こんな礼状を昔の人はこまめに書いた。有名無名に関係なく、その分野で一流の仕事をしている人、人とのつきあいを大切にしている人は、今でもいい礼状を書く▼碩学(せきがく)で知られた河野与一さんは、フランスの旅で、ある老人に小言をいわれる。「どうして日本人は世話をしてやっても帰ってから手紙1本よこさないのか」と。こういう話をきくと、恥じいるばかりだ。 東村山の「松寿園」火災 【’87.6.8 朝刊 1頁 (全855字)】  半身マヒの72歳の女性は、歩行器でラウンジまで逃げたが、煙に襲われ、再び部屋に戻ってふるえていた。そこへ消防士が来て、はしご車で下ろしてくれた。「神様に会ったような気持ちです」という言葉があった▼出火場所に近い所にいた寝たきり老人たちは、悲惨だった。逃げることができず、ベッドの上で黒焦げの死体になった人もいる。80代、90代の人が多かった▼社会福祉施設などの火事の場合は、5分が勝負だと消防庁の人がいっている。いかにはやく消防士がかけつけて救助にあたるか、が施設にいる人たちの生死をわける▼17人の死者をだした東村山市の特別養護老人ホーム「松寿園」の火災では、非常警報のベルが鳴ってから119番をするまでに5分以上もの時間がかかっている。なぜもっとはやく、連絡が行われなかったのだろう▼宿直の女性2人が奮闘したことは認める。煙の中で、何人かの老人を抱きかかえて外に連れだしたという。だが、当直が2人、というのは少なすぎる。せめて男の働き手が2人いたら、消防隊がかけつける前に、何人かを救うことができたのではないか▼老人ホームの救出作業は難しい。予想もしなかったことが起こる。大島の噴火の時、老人ホームの職員がおばあちゃんをおぶって歩き出そうとした。だが、後ろに引っぱられる。振り向くと、おばあちゃんが手すりを握りしめている。手を離させるのにずいぶん手間どった、という話があった▼「思わぬことが起こる」という体験を積み重ね、情報を交換しあってこそ、救助計画は生きたものになる。今回は車いすでベランダへ逃げる時の、床とベランダの段差が障害になった。きちんとした避難訓練があれば、こういう障害は「思わぬこと」になる前に防げたはずだ▼基準通りの設備をそろえることもむろん大切だ。だが、基準に血を通わせるのは常に思わぬ落とし穴を見つけ、その穴を埋めてゆく不断の努力だろう。 地蔵を守って山に残った老夫婦 【’87.6.9 朝刊 1頁 (全861字)】  丹後半島の山の奥の奥で、品格のある、実にいい顔をした老夫婦に会った。夫の織戸信治さんは80を超え、妻のきみ子さんは80に近い年だ▼高度成長期、このあたりの4つの村落は、追いつめられて崩壊した。老夫婦だけが、残った。2人は荒れ寺のお地蔵さんを引き取って守っている、という話を聞いて訪ねた▼崩れたカヤブキの屋根がまだあちこちにある。廃屋のわきに、ほとばしる勢いでウツギが白い花を咲かせている。「引っ越しをしたら山がさびしがる」と書いて村を去った少女がいたが、今は無人の山なみを風が吹き抜けている。去るのにも勇気がいるが、1軒だけ村に残り続けるのにも静かな勇気がいる。豪雪に耐え、夜の沈黙の中で生きなければならない▼1メートルほどの木彫りの地蔵は離れに安置されていた。やはり、実にいい顔のお地蔵さんだった。なめらかな褐色のほおが日に光り、それが涙の跡のようにも見える▼地蔵はかつて大雪崩の予言をした。信じて逃げた13人が助かって、今の村落を作ったと伝えられている。その地蔵さんを捨てて村を出られようか、という思いもあったろう。2人は迷い、結局、残った。地蔵を守りながら地蔵に守られているということもあるだろう▼夫婦の顔に品格があるのは「足ルヲ知ル」暮らしのせいだろうか。ソバを育て、タケノコを採り、ミソを作り、自分で収穫した米を食べる。「わしはまだ死ぬ気がしとらんなあ」とじいさんがいえば「そうですかえ。わしは毎日死ぬる気がしておるに」とばあさんがまぜかえす。「心足らば身は貧にあらず」の日々である▼丹後半島に住む詩人、池井保は老夫婦のことを歌う。「風/かぜふくな/雪/ゆきふるな/あの山ふところに/爺と婆と稲そだててるではないか/風雪ゆくとふたりは埋まる」(詩集・海の囁き)▼「時々、2人を励ましに行きますが、人間のスケールが大きいから逆にこちらが励まされます」と池井さんはいう。 日本に対する米議員の発言と世論 【’87.6.10 朝刊 1頁 (全841字)】  アメリカの下院議員の議論の中には、かなり荒っぽいのがある。たとえば「通産大臣のシントー・アベが訪米した時、ソ連は日本からの技術移転で大いに技術能力を高めた、と公言している」という発言があった。シントー・アベとは安倍晋太郎氏のことだろうが、安倍氏がこういう発言をしたというのは、なにかの誤解だろう▼半導体をめぐる対日制裁の一部解除についても、米議会内には「時期尚早」との批判が強いという。これまでにも、たくさんの議員の「反日」的発言があった。それに目を奪われていると、アメリカ国内はいま日本憎しの世論に沸き返っているように見えるが、実際は、かなり冷静だということが日米両国の世論調査でわかった▼米国民の調査で、対日輸出の伸び悩みは「米国製品に競争力がない」ためとするものが62%もいた。半導体をめぐる米国側の報復措置は「まずいやり方だ」とするものが53%である。おや、と思わず読み直すほどの自省的な数字である▼日米関係が悪くなっている、と考えるアメリカ人が急増しているのは事実だ。だが、非は自国の側にあると考える人が意外に多い、というところは感動的でさえある▼先月、マンスフィールド駐日大使は、ロサンゼルス・タイムズに長文の原稿を寄せた。その全文を取り寄せて、読んだ▼大使は書いている。「自分だけが殊勝で、正しいとする態度からは、健全な政策は生まれない」「貿易赤字の非はわれわれの経済政策、とくに連邦予算の巨額の赤字にある」「対決よりも協力こそが、正しい処方書だ」▼意をつくした、心強い発言である。一方に反日強硬論があり、一方に、国内の反発を覚悟の勇気ある発言がでてくるところに、アメリカ社会の風通しのよさがある▼日米調査では、貿易摩擦で「日本側に問題がある」とする日本人が30%もいた。こういう数字にも、一辺倒にならぬ民意の成熟をみる。 “贅沢貧乏”を貫き通した森茉莉さん 【’87.6.11 朝刊 1頁 (全837字)】  亡くなった森茉莉さんは、好き嫌いの激しい人だった。貧乏臭さというものを心から嫌い、蛍光灯の光をだかつのように忌み嫌い、ヤッタルデ精神に凝り固まった人を見る時の息苦しさを嫌い、根性でこちこちになっている人を信じることができないといった▼安い香水を使うくらいなら使わない方がいいと説き、「軍事家、政治家達の動きは不透明で愚かに見える」と書き、美人はふえたが美人の心を持っている人は雨夜の星だ、含羞(がんしゅう)というものがなくなったと嘆き、成人の日のおそろいの振りそで姿をののしった▼きれいで、すごみのある恋愛を書きたいといい、「現実の世界の野暮な、厚ぼったさ、野蛮さ、恋愛的なものの穢さ」は見るにたえないと怒った。父である森鴎外の歴史小説は退屈で死にそう、とも書いている。しかしこの人は生涯、「パッパ(鴎外)との想い出を綺麗な筐に入れて」持ち続けた人だった▼父の好みは茉莉さんの好みでもあった。葬式まんじゅうを割って、ご飯の上にのせてお茶漬けで食べるという奇妙な好みさえ、受けつぎ、「渋い甘み」だと珍重した。枯れた夏の花をミルク入れに差して飾る。オレンジを2つに割って皿に乗せ、本棚に置いて香りを楽しむ。英国製の板チョコレートが好きで、ゴルゴ13が好きで、島尾敏雄が好きだった。「贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていること」だといい続けた▼幼いころから、鴎外に「よし、よし、おまりは上等」といって育てられ、17歳になってもふざけて父のひざに乗っかるような甘え方をしたという▼父の存在は「私の物を見る目の半分、話すことばの半分、喜びの半分、悲しみの半分をしめていた」とも書いている。「子供の魂」のままで84歳まで生き、贅沢貧乏を貫いた森茉莉という文士の存在は、鴎外の最高傑作であるのかもしれない。 先進国首脳会議小史 【’87.6.12 朝刊 1頁 (全843字)】  かつて、サミットといえば、西独のシュミット氏やフランスのジスカールデスタン氏の名前がすぐ浮かんだ。「世界の顔」として、おさまりのいい顔だった▼そのシュミット氏が「サミットは回を重ねるにつれて、テレビ、新聞のショーになってきた」と嘆いていた。「世界経済の危機を救う場」が、いつのまにか「世界経済の危機を救う目的の会議で、これこれの活躍をしたということを誇る場」になってきた▼ジスカールデスタン氏はいっている。「ドル安は米国の巨大な財政赤字によるものだ。その削減策がサミットで討議されねばならない」と▼長い長いベネチア経済宣言のどこを探しても、米国の巨大な財政赤字を削減する具体策はでてこない。いつまでにどのくらい減らす、というレーガン米大統領の決意表明もなかった▼第1回のランブイエ・サミットは12年前である。西側先進国の首脳が一堂に集まるだけでも意味があるといわれた。第3回サミットでは、米日独が世界経済を引っ張る、という機関車論がでた。第2次石油危機の後の第5回東京サミットは、さながら石油サミットだった▼第6回あたりから政治色が入ってサミットは変質する。第9回は対ソ戦略会議の観さえあった。第11回ではSDIをめぐる米仏の対立があり、去年の第12回が円高促進サミットであったことは記憶に新しい▼西側の首脳が一堂に集まることは、集まらないよりはいいにきまっている。しかし首脳会議の小史をたどると、それが世界経済の好転に格段の威力を示しているとは思えない。首脳が集まりさえすればいい、という時代はすぎた▼「日本たたき」ではなくて「日本おだて」という新手が現れたのは、今回の特徴だろうか。ノリのいい人はおだてられると、大向こうをうならせる曲芸をする。だが、大仕掛けの曲芸の費用のツケはどうなるのか。「あれはショーでした」という弁明はきかない。 教師の本音語る個人新聞 【’87.6.13 朝刊 1頁 (全849字)】  神奈川県秦野市の中学教諭、武(たけ)勝美さんが個人新聞「エコー」を発行して2年になる。毎月1回、教育現場でのできごとをタブロイド判の表裏につづり、同僚や知人に無料で送っている。なかなか辛口の新聞だ▼なぜ教師が職員室で本音を語らないのかがいつも気になっていた。教師がひとりよがりにならないために、父母にも教育を語ってもらいたい。新聞が討論の場になれば、と思った。「とにかく声を発します」と創刊の弁にある▼無欠席を続けた小学生の話が載っている。6年になった時、担任から「6年間欠席がなかったら表彰してやる」と励まされる。熱を出した日もあったが、とうとう通い切った。だが、卒業式の日、担任からはひと言もない。「ぼくとの約束なんて覚えていなかったんだ」と、しょんぼり帰宅する▼こうした実話を毎号紹介し、ある時ははっきりと本音を書く。たとえば、教師がいじめのきっかけをつくっている、進路指導が「進学先振り分け指導」になって生き方を教えていない、と▼自分の失敗談もある。校舎の陰でパンを食べている生徒を見つけた。遠くからハンドマイクでどなりつけたが、生徒は靴のひもを取り換えていただけだった。「生徒への先入観がありすぎる。体を動かさずに教育しようとしている」と自身を戒める。体罰には「私の場合は全く感情的で、非教育的だ」と認める▼反響はすごかった。先生たちからは共感や反論が、父母からは親の反省や先生への注文が寄せられた。それを紙面で紹介する。エコーは討論の場になった。読者は全国に広がり、いまは270人に送られている。本音を書きすぎる、と心配する先輩もいるが、反響はおおむね好意的だ▼それは武さんの指摘に、生徒を慈しむ思いが見えるからではないか。「生徒にはいつも教えられ、負かされる」と武さんはいう。3年目はそうした子どもたちのすばらしさを書こう、と決めている。 畑の土は命の支え 【’87.6.14 朝刊 1頁 (全843字)】  大都市の中に計画的に農地を残したほうが、かえって住民の心身の健康のためになる、という考え方が見直されている。本紙の東京版に連載された『農の風景』はそのことを主張していた。身内のことで恐縮だが、畦倉記者の極めて地味な仕事が今年の農業ジャーナリスト賞を受賞した▼『農の風景』の写真を撮ったのは八重樫写真部員で、その作品が今、有楽町マリオンで展示されている(17日まで)。東京には、さまざまな農の風景があり、東京人にも、折々の農の風景があることを写真は克明に描いている▼自宅の3階屋上に家庭菜園を作っている人の写真がある。「畑研究会」を作り、大学の一角のごみ捨て場を借りて、そこを立派な畑にしたのは国際基督教大学の学生たちだ。老人農園、区民農園、親子菜園、ふれあい農園、なんと多様な、なんと数多くの小農園が都内にちらばっていることだろう▼サツマイモを焼く小学生たちが、たき火の煙に包まれて跳びはねている写真がある。調布市の私立桐朋小の子供たちだ。「畑の土は命の支えになる。ミミズのような虫も土作りに参加している。工場の土と畑の土とどう違うかを子どもたちは学んでいる」という担任の先生の言葉があった▼学校の隣に畑を借りて「労作園」にしているのは、世田谷の喜多見小である。収穫したトマトやナスを子供たちが高くかかげている。ここでも「畑では、額に汗せねば宝は得られない」ことを子供たちは学んでいる▼農業生産者が農地の一部を消費者に開放するいわゆる「ふれあい農園」の普及に、行政の目が向き始めた。歓迎すべきことだし、とくに子供たちには、「農の心」を味わわせたい。農の心とは、からだで土を知ることであり、土の営みがわかることだ、と有機農業を続ける筆者の知人はいう▼大都市が農地を失い、農の心を失った時、その都市は間違いなく、滅びの道を歩むことになるだろう。 税制改革は土地税制の改革から 【’87.6.16 朝刊 1頁 (全858字)】  明治7年ごろ、背広の注文服は1着25円だったそうだ。銀座4丁目あたりの地価は、明治5年のころは1坪(3.3平方メートル)5円だった。つまり1着の背広代で、銀座の土地を5坪も買える勘定になる。銀座の土地は安かった▼『値段の明治大正昭和風俗史』を読んでいると、おもしろい数字にであう。明治20年ごろ、銀座の土地は坪50円になっている。一方、明治22年当時の国会議員の報酬は年額800円である。こちらの方が1坪の土地よりもはるかに値打ちがあった▼ちなみに公務員の初任給は明治27年当時が月額50円である。まあ、だいたい銀座の土地1坪分だった。今は、1000カ月分を積んでも1坪が買えるかどうかわからない▼改めていうまでもないことだが、こういう異常な状態になった背景には、地価高騰をはぐくむ政治があり、それを支える地本主義的な社会の仕組みがある。企業や個人が土地でもうけることを許す体制を崩さない限り、異常は続く▼『わたしの言い分』欄で、菅直人さんが、土地税制の大改革を訴えていた。固定資産税を払う時、自分の土地の値段を自分できめて申告する制度を導入せよというのだ▼その土地にずっと住み続ける人、農業を続ける人は低い価格の申告をすればいい。だが、土地を売ってもうけが出た場合は重い「土地増価税」がかかる。土地を投機の対象にすると損をする、使わない土地を持っていると損をする、という仕組みをつくろうという興味深い案だ▼土地税制では、飯田久一郎さんの「大土地資産税」論がある。50坪、100坪の土地に住む人は対象にしない。600坪以上で、その時価総額が4億円以上になる土地所有者に対して重税を課す。ただし、自分の土地に質のいい賃貸住宅を建てる人には税を軽くする、という案だ▼こういう案が世間の注目をあびてきたのは、結構なことだ。税制改革は、何よりも土地税制の大改革でなければならぬ。 衣笠選手の信念 【’87.6.17 朝刊 1頁 (全856字)】  広島の衣笠選手のことは、このところ情報があふれていて、何もつけ加えることはない感じだが、その中で、ちょっといいんじゃないと思うことがいくつかあった▼(1)連続試合出場世界最多の記録をつくって、帽子を脱いであいさつした時、頭髪の薄さがめだった。40歳の年輪を感じさせる、なかなか格好のいい薄さだった▼(2)記録達成の何試合か前、背に死球を受けた。すぐ立ち上がり、投手に向かって左手をちょっと上げてみせた。気にするなよ、という一種のあいさつだろう。今はあいさつ代わりにげんこつを見舞う殺伐たる光景が多いだけに、このしぐさは光った▼スポーツは明るく楽しいものなんだ、ということを衣笠は体で表現する。球をぶつけられても痛がらない。ぶつけたくてぶつける投手はいないさ、という。もし頭をねらう投手がいれば、それは野球というものを勘違いしているのだ、マスメディアはそれを教えてやってくれないか、と衣笠はいっている▼(3)三振の数が歴代1位、という記録もすごい。半端には振らない。本塁打が好きで豪快に空振りをする。それを22年間続けた。空振りが首の骨に響いて、むち打ち症のような状態になる。衣笠自身は口にしないが、去年は「首がガクガクだった」と同僚記者に聞いた▼そういうこともあって、去年は極度の不振だった。「引っ込め」のヤジが飛んだ。ミスター・プレッシャー(重圧)を自称する衣笠は、ずいぶんつらい思いをしたらしい。記録を中断させられないという阿南監督の気持ちを知っているからよけいつらい▼どん底の状態にあった時「連続出場の記録は自分のものであって、自分だけのものではない。周りの人に支えられてやってきたのだ。だから自分から望んで記録を絶つわけにはいかない」ともらしていたという。つらい日々、衣笠はよく「あしたがあるさ」とつぶやいた▼政府は衣笠選手に国民栄誉賞を贈ることを内定した。 核兵器に反対する国際世論 【’87.6.18 朝刊 1頁 (全869字)】  げんに配備してある核兵器を、米ソが話し合いで撤去するということは戦後の軍縮史上例がないことだ。いま話題になっているヨーロッパの中距離核戦力(INF)の全廃が実現すれば、米ソ首脳にとって後世に名を残す絶好の機会になる▼去年の10月、アイスランドのレイキャビクの氷の壁は厚かった。INFの削減などで潜在的な合意に達しながらも、米ソ首脳の会談は決裂した。ゴルバチョフ書記長が宇宙兵器禁止にこだわりすぎたからだ、という評があった▼そのレイキャビクに、こんどは北大西洋条約機構の外相たちが集まり、ヨーロッパのINFを全廃するというソ連の提案を受けいれることに同意した。米大統領も、ソ連提案を受諾するという。時代の流れは確実に変わりつつある▼核戦力には、大型の戦略核と小型の戦術核がある。その中間にあるのが中距離核、つまりINFである。Intermediate−range Nuclear Forceの頭文字だ▼米ソ交渉のさい、英仏の独自の核をどう考えるのか。西独が所有する短射程INFを話し合いの対象にするのかしないのか。ソ連のアジア部にあるSS20の弾頭をどうするのか。たくさんの問題はあるが、米ソ合意の機運は高まりつつある▼その背景には、核兵器に反対する国際世論の存在がある。中距離核戦力の配置が西欧をゆるがしたころ、オランダの反核集会には60万の人が集まった。ベアトリクス女王の妹、イレーネ王女もマイクを握り、参加者たちへの連帯を訴えられたという▼去年あたりから、反核運動がまた、盛んになった。2万人以上の市民が英国を横断する「人間の鎖」をつくって核兵器廃絶を訴えた。「草の根からの挑戦で政府の考え方を変えなければならない。ソ連もゴルバチョフ登場で、市民の世論を意識せざるをえなくなっている」とアメリカの反核運動の指導者がいっている▼国際世論は、米ソをINF交渉の舞台に上げる揚力の1つだ。 鶴田浩二 【’87.6.19 朝刊 1頁 (全839字)】  16年も前になる。鶴田浩二に会って、話を聞いたことがある。寡黙な人を想像していたが、相当の論客だった。1時間余り、汚職を怒り、脱税を嘆き、「日本という国を愛するならばね、ミリタリズムへの道なんか、絶対ノー・リターンですよ」なんていうせりふも飛びだした。右寄りの人、といわれるのを気にしていたのかもしれない▼そのころ鶴田の歌う『傷だらけの人生』が大当たりをしていた。世の中、筋の通らぬことばかりで、真っ暗やみである。古い男が筋を通して生きようとすれば傷だらけになる、という嘆き節だが、これが全共闘世代に受けた。レコードは軽く100万枚を超えた▼「今はだれもが、どうすることもできないやりきれなさをいっぱい持ってるんですよ」と鶴田はいった。学生には学生の、自衛隊員には自衛隊員のやりきれなさがある。やりきれない世に傷だらけになって生きる、という心象がこの歌への共感を呼ぶのだ、と彼は解釈していた▼鶴田が演ずる任侠(にんきょう)の男が、土曜深夜の映画館を満員にしたのも、ほぼ同じ理由だろうか。社会から疎外されて任侠の世界に入った男が、任侠道をはみだした集団と戦い、疎外され、筋を通そうとして傷だらけになる。そういう男の美学を鶴田は演じ続けた▼映画監督のマキノ雅裕が「鶴田の特徴は、女にほれる表情をうまくつくることだ」と雑誌に書いていた。男の色気、とやらいうものなのだろう。鶴田の演ずるいなせな侠客は絶品だが、その色気のために、きれいすぎて存在感がやや希薄な場合があった▼7、8年前だったろうか。テレビ劇の『男たちの旅路』で、警備員の監督をする男を演じていた。若い人にお説教して自立をうながしたりする、頑固な市井の男だ。男の日常を十分に想像できる存在感のある演技だった。役者として1つの方向が見えていたのに、がんに襲われた。無念だったろう。 日航ジャンボ事故調査委の最終報告書 【’87.6.20 朝刊 1頁 (全875字)】  一昨年の日航機事故について、航空事故調査委員会が報告書をまとめた。それを読んで思うのは、ミスを犯すのも人間くさい営みであるならば、ミスを防ぐのもまた、人間くさい営みの集積だということだ。ボーイング社が行った圧力隔壁の「不適切な修理」が事故の引き金だと委員会は指摘する▼いくつかの疑問がある。(1)この大がかりな修理に日航の関係者は立ち会ったのかどうか。日航は、ボ社の修理作業の監視を続ける態勢をとるべきではなかったか▼(2)圧力隔壁の半分をとりかえる修理ではなくて、全部をとりかえるという発想がなぜなかったのか。カネはかかるが、その方がはるかに安全性が高いはずだ。(3)重病の患者の場合は、治ったようにみえても、入念なアフタケアが必要だ。隔壁修理という大手術のあと、日航関係者には、アフタケアの心がまえが足りなかったのではないか。修理個所を繰り返して入念に調べる心がまえがあったのかどうか▼(4)修理後、客室最後部の化粧室でたびたびドアの具合が悪くなった。荷物の積み方のせいでもあったらしいが、それが機体の変形と関係がある、という追及がなぜなかったのか▼(1)も(2)も(3)も(4)も、一見、むだなことのようだが、実は、効率を考えるあまり、これらのむだにみえることを切り捨ててきたところに、事故の遠因があるように思えてならない▼圧力隔壁の大修理とは、一体どんな仕事なのかという好奇心で作業を見守る。むだなようだがこれは、きわめて人間くさい営みだ。大修理の後は特別にいたわって面倒をみるのも、「Expect an unexpected」(予想外の事態を予想せよ)という教えを守るのも、共に人間くさい営みである。こういう営みの集積が、事故防止の有力な手段になるのではないか▼日航の整備関係者は、毎月12日、3分間の瞑想(めいそう)をする。犠牲者への追悼と、自分たちの責任を考えるための3分間だという。 焦国瑞教授の気功法 【’87.6.21 朝刊 1頁 (全843字)】  気功法というのは、一種の鍛錬法であり、養生法である。この分野では中国を代表する第一人者といわれている焦国瑞教授が来日し、実技をみせてくれた▼気功法を演ずるには「外3内7」の心がまえが大切だと教授はいう。外に現れるものが3で、内に満ち満ちるものが7という割合の場合は、演者の姿は美しい。逆に、外に現れるものが7だと、おしつけがましい姿になる、という話だった▼「上3下7」という話も、おもしろかった。立つ時は松の木のように立てという。下に根を張る力が7、天に向かって伸びる力が3の割合の時、その姿は美しい。目にみえない部分に力を蓄えるところに、気功の神髄があるらしい▼気功の気は、元気、やる気、気合などの気である。生命力であり、活動力である。人体の生命活動を促す力である。自分の生命力を信じて、気を鍛錬し、気を養うのが気功法だ。中国の医学界ではすでに、病気の予防や難病の治癒のために気功法をとりいれ、成果をあげているそうだ。気功養生学という言葉も生まれている▼教授は、五禽戯(ごきんぎ)と呼ばれる健康体操を演じた。時にクマになり、時にツルになり、自在に体を躍動させる。体操というよりもそれは、舞だった。64歳の人とはとても思えない、やわらかで力強い身のこなしである▼古くから伝わる五禽戯という健康体操は、サルの動きをまね、シカの動きに学ぶことで、人間の中に眠っている野性を呼び起こそうというのだろうか▼気功には、樹木の前に立って樹木に学ぶことがある。これも、人間の中の自然性を呼び起こす営みなのだろうか。気功法の入り口にいる筆者にわかる由もないが、人間の自然回復力を信ずるという点で、3000年以上の歴史をもつ中国の気功法も、古代ギリシャのヒポクラテス医学も、共に同じ哲学をもつところが興味深い▼その古人の知恵がいま、現代の病弊をみつめている。 パントマイムの中の沈黙 【’87.6.22 朝刊 1頁 (全837字)】  先日、ヨネヤマ・ママコのパントマイムを見た。「綱引き」「タコ揚げ」などおなじみの作品で客席を大いに沸かせたあと、5年前の作という「ボタン戦争」を演じた▼1本の指でハンバーグを注文することもできるし、エレベーターのボタンを押すこともできる。核のボタンだって1本の指で押せる。けれども、指1本で愛を語ることができるだろうか。そう訴えるピエロのおどけた姿が、青白いスポットライトの中でかなしみの姿に変わってゆく▼楽屋でママコさんはいった。このおしゃべり時代に、わざわざ黙って語りかける、こんなの、はやるわけはないでしょう、それを百も承知で細々とつづけているんです、と。夕方、ブラウン管にパッと出て「私はパック」とやっていた、あのころのママコ人気を思い出す。まだ白黒テレビの時代だった▼最近の芸能は概して、騒々しくなった。とくに若い人たちの演劇に目立つ。せりふを機関銃のように撃ち出す。音楽がやたらとかぶさる。照明も負けてはいない。みんな「熱演型」になっている▼漫才などでもそうだ。舞台に上がるやいなや、立て板に水の勢いでしゃべりまくる。それはそれで現代的な芸である。しかし、その裏には、それでないと間(ま)がもたない、ということはないだろうか。エンタツ・アチャコをひきあいに出すのは古すぎるけど、ふたりはときどき、せりふを忘れたかのようにじっと突っ立っていた。それがまた、なんともいえずおかしかった▼せりふなしで十分に笑わせ、また悲しませる。そんな存在感のある役者や芸人が減ってゆく。ことばを手に入れた人間は、ことばに頼るあまり、それを空疎なものに変えてしまう▼世間のみなさんがにぎやかにおやりになるので、わたしはなおのこと、パントマイムの中に沈黙したいのです。そういうママコさんの顔は、化粧を落としてもまだ、泣いているように見えた。 岐路に立つ韓国と全大統領 【’87.6.23 朝刊 1頁 (全791字)】  「民主憲法の実現」をうたい文句にして釜山カトリックセンターにたてこもる学生、市民に、さまざまな階層の人がカンパを寄せている。その中に、ふだん着姿の2人の機動隊員がいた▼「上官の命令ではあるが、催涙弾を発射するたびに胸が痛む」といって、2人は修道女にカンパを託したという。このことは、いま韓国内にひろがるデモが多くの市民の共感を得ていることを、暗示している。改憲はソウル五輪後にしようという全大統領の「改憲見送り宣言」に対する抗議行動は、宗教者、大学教授、芸術家、新聞記者などにもひろがっている▼力の政治に対する反発が強まる一方で、昨今の韓国経済は急成長を示している。ほぼ20年前、韓国人の車の保有台数はわずか3万5000台だった。いまは100万台を超す▼韓国製新車の輸出も好調だ。米国の小型自動車市場では韓国車の占有率が約3%に伸び、2、3年のうちに倍になる、といわれている。輸出船の受注では、韓国は日本を抜いて1位になった▼かつて東京五輪がはずみになって日本の急成長があり、急成長が新中間層をふくらませたように、ソウル五輪を前にした韓国では、急成長が続き、ソウルの高層アパートに住むような新中間層がふえている。よりよい暮らしを求める人たちの熱気が国の経済を動かす力になっている▼その熱気が、韓国の場合は、強権的な政治を排して自由を求め、民主化を求める空気と結びついているのではないか。韓国の有力紙の調査では、政権担当者の資格に「民主的な思考方式」を求める人が多く、別の調査では「言論の自由の保証」を求める人が多かった▼そういう民意の流れの中でなお、言論や集会の自由を抑えて改憲をおくらせるか。民意をくみとる道を歩むか。全大統領は岐路に立っている。 沖縄の「6・21人間の鎖」運動 【’87.6.24 朝刊 1頁 (全843字)】  こんど、沖縄の人たちがニューヨーク・タイムズに出した反基地意見広告には〈命どぅ宝(ぬちどぅたから)〉という言葉が使われた。命こそ宝だという意味だ。本土にも古くから〈命は宝の宝〉ということわざがあるから、さして珍しい表現ではないが、沖縄戦に生き残った人がこの言葉を使う時は、格別の重みが加わる▼沖縄を訪ねると、私たちはしばしば〈慶良間や見ゆしが、まちぎや見らん〉ということわざに出合う。かなたにある慶良間列島は見えるが、自分のまちぎ=まつげは見えない。本土の人はアメリカや欧州のことに詳しいが、沖縄のことについてどれほどのことを知っているのか、まつげを鏡に映して見ようともしないのではないか、という問いかけである▼嘉手納基地をとりかこんだ「6・21人間の鎖」運動のことは、本土にも伝わって、大成功だった。日本全国の米軍専用施設の実に75%が、今も沖縄に集中している現実を初めて知った若者もいるだろう▼げんこつと鉢巻きの反基地闘争にかわって、人びとは「やさしい心を武器にして」を歌った。「戦さの嫌いな人が住み/戦争をやめたこの邦に/誰が決めたか基地がある/やさしい心を武器にして/平和な邦を創ろうよ」▼6月。沖縄の心はうずく。十数万人の県民が命を奪われた沖縄戦の組織的戦闘がほぼ終わったのは6月23日だ。あの戦闘は、結局は沖縄を本土の捨て石にするためのものではなかったか、今また戦争が始まれば、真っ先にねらわれるのは膨大な米軍基地を持つ不沈空母・沖縄ではないか、と▼アメリカ国内には「日本は米国の軍事力にただ乗りしている」という非難がある。だが、基地公害に苦しむ沖縄の人は「米軍こそ、ただ乗りだ」という。あるいはまた「沖縄にしわよせしている現実を見ようともしない本土人こそただ乗りだ」という▼基地を囲んだ人間の鎖は、本土人向けの訴えでもあった。 暴力団に対抗する住民の動き 【’87.6.25 朝刊 1頁 (全837字)】  暴力団。「暴力に訴えて私的な目的を達しようとする反社会的団体」と広辞苑にはある。任侠(にんきょう)。これは「弱きをたすけ強きをくじく気性に富むこと」とある▼浜松市内で、住民に監視されていた一力一家は「自分たちは任侠の組織だ」といっていたそうだ。そんな組織は映画の世界でしかお目にかかれるはずもないが、もし本当の任侠ならば、しろうと衆を脅したり、刺したりはしない▼住民側の三井弁護団長が刺されて重傷を負った事件の犯人はまだわからない。だが、状況からみて、暴力団側は極めて不利である。監視する住民たちを取り囲んで脅した組員10人が現行犯で逮捕されたばかりだし、住民運動の指導者の家の窓ガラスや門灯をたたき割った組員も逮捕されている。この暴力団が正真正銘の暴力団であることの証明だ▼最近は、暴力団の抗争で、市民がまきぞえをくう事件がめだつ。熊本市では、入院中の知人を見舞いに行った男性が、病室を襲った暴力団員に短銃で撃たれて亡くなった。この人は、入院中の暴力団員と間違えられて襲われたのである。たまったものではない▼こういうまきぞえ事件があちこちで起これば「組の連中」ときいただけで住民がおじけをふるい、お引き取り願いたいと思うのは、当然の人情だろう。恐ろしい。だが恐ろしがってばかりはいられない。腕を組んで暴力団に対抗しよう、という動きが昨年から急にめだってきた▼つい先日、千葉県下の住民たちが2つの暴力団事務所前で「すみやかに組事務所を撤去せよ」という声明文を読みあげた。博多では、暴力的ないやがらせを続ける地上げ屋に対して、住民たちが「所有権を守る会」をつくって対抗している。暴力追放広島県民会議というのもできた。基金を作り、お礼参りの損害の補償などをする▼暴力団と闘うための数々の非暴力的工夫が積み重ねられるのは、これからだ。 雨水の一滴を大切に 【’87.6.26 朝刊 1頁 (全870字)】  「水なくば命なし」ということわざがドイツにある。オランダ人やアメリカ人は「水は賢く使え」という。「水は最古の薬」というフィンランドのことわざにも、水を大切にする心がある▼水を湯水のように使ってはならぬ、というのが今や地球人の合言葉だ。いや、湯水だってそんなに使っていいはずはない。毎朝のシャンプー洗髪派向けにはシンガポールのことわざがある。「水は命、その一滴を大切に」▼水について、私たちは知らないことが多い。そこで質問。(1)日本は雨の多い国といわれる。では日本の人口1人当たりの降水量はサウジアラビアのそれよりも多いか、少ないか。(2)東京の水道料金は、シカゴやパリと比べて安いか、高いか。(3)地球全体の水のうち、私たちが使用できる淡水は約3割というのは正しいか▼3問正解なら、あなたは知水派です。(1)日本のそれはサウジアラビアのほぼ4分の1にすぎない。(2)おおざっぱな計算では、東京家庭の水道料金はシカゴやパリのほぼ2倍だ。(3)間違い。0.8%にすぎない。しかもそのわずかな淡水を私たちは汚している。今のままでは命の水は決定的に不足する▼東京では、10%の給水制限が続いている。こうなるときまって、山にもっとダムを造れ、という声がでてくるが、筆者は反対だ。山を改変してダムを造る計画よりも、その前に国をあげてやるべきことが2つある▼1つは、山野の緑をさらにふやして、雨水を地下に貯留する力を高めること。1つは、再三書き続けたことだが、都市に小ダムを造って雨水を蓄えることだ。東京では、葛西トラックターミナルや後楽園ドームなど、雨水を利用する施設、つまり小ダムを造る建物がふえつつある。だが、都市が使う雑用水の大半を小ダムでまかなうまでには、まだ道が遠い▼ハワイに「天が泣くと地球は生きる」という天地の営みを見事に表現したことわざがある。雨水の一滴を大切にしないと、天は怒る。 日航機事故と職業の基本 【’87.6.27 朝刊 1頁 (全856字)】  先日、日航機事故のことで「ミスを犯すのも人間くさい営みであるならば、ミスを防ぐのもまた人間くさい営みだ」と書いた後、東京の浅岡太郎さんから便りをいただいた。1929年(昭和4年)から48年間、ビルの空調・給排水の管理を続けてきた人だ▼浅岡さんは「機械はよく面倒をみればそれにこたえてくれる」という信念で仕事をしてきた。職場に「口数も少なく、地味な人柄で学歴も私と同じ小学校卒の後輩」がいた▼後輩は出勤すると、母親が子のひたいに手を当てるようにモーターや機器を手で触って回った。触診である。手で触ってモーターに異常な熱があればすぐ調べる。それは無言の事故防止策だったと浅岡さんは書いている▼日航機の修理では、圧力隔壁の全部をとりかえず、半分だけをとりかえた。しかし昔は、先輩から「ある部品の一部が故障した時は、他の故障しないものもとりかえよ」という教訓をたたきこまれた▼ある部品内の数十本のボルトのうち1本が故障しても、数十本全部をとりかえた。1本だけ新品をいれると、不均衡が生まれる。「機械はバランスが大切だということを念頭におけ」と教えられた▼むろん、修理作業には立ち会う習わしがあったし、修理後とくに念入りに点検を続けることも常識だった。保守点検などの作業をやった方がいいかどうか迷った時は必ずやる、という教えも手紙にはあった▼「予防保守を忘れても心配のない機械なんてありっこない」。この平凡な結論をいうまでに、約半世紀の機械とのつきあいがあった。浅岡さんを始め、舞台裏で生きる人たちの極めて人間くさい営みの集積こそが、この国の技術を支えてきたのだ▼職業人が職業における「基本」を見失い、人間が人間として生存する「基本」を見失った社会を、安田武さんは「型なし」社会と名づけた。型なし社会にあって、職業の基本に忠実であれ、と説く76歳の職業人の手紙に心を打たれた。 花便り 水金梅が咲く 【’87.6.28 朝刊 1頁 (全846字)】  水金梅(ミズキンバイ)が咲いている。5弁の黄の花だ。直径40センチほどの水盆らしきものに土を入れ、水を入れてこの水草の株を植えつけておいた。5、6年前から毎年いまごろの季節になると律義に咲いてくれる▼冬も外に出したままで、氷がはりついたりしているが、それでも根はちゃんと生きていて若緑の茎を伸ばし始める。脱帽するほどたくましい。やがて茎が縦横無尽にはい、はみだし、先端が起きあがって花をつける▼タンポポ色というのか、温かみのある黄の花の中央部はだいだい色で、花びらと花びらのすき間に、緑のがく片が姿をみせる。黄とだいだいと緑の対照が鮮やかで、小さいがめりはりのある花だ。夜は、先端の葉が合掌の形になって眠っている▼三浦市文化財保護委員の鈴木一喜さんは、沼地の消滅と共に消えてゆく水金梅を守る仕事を続けた。株を育てては湿地帯や田んぼに植えてふやした。わが家の水金梅も、実は鈴木さんがふやした株をいただいたものだった▼この春、鈴木さんから電話があった。「湿地が埋め立てられ、田が畑になり、あっというまに水金梅が全滅してしまった。そちらのが健在だったら株を分けてほしい」という話だった▼「里に帰すわけですね。お安い御用です」。いささか得意げに、そう答えた。先日、三浦半島に戻った水金梅は快調です、適性地をみつけてまたふやしてゆきます、という鈴木さんの便りが届いた▼ハンゲショウも咲いている。これも水を好む草で、花穂に近い葉が白く染まるので、片白草(カタシログサ)とも呼ぶ。沖縄に、小(くう)さ愛(かな)さということわざがあるが、片白草の1枚の葉に、白と緑がとけあうさまを眺めていると、まさに、小さ愛さの実感がある▼木陰で、ヤブコウジが花を咲かせている。小さな地味な花だが、よく見ると、白地に薄紅色の点々がある。さりげないおしゃれには恐れ入るほかはない。 赤十字国家論 【’87.6.29 朝刊 1頁 (全838字)】  日本は赤十字国家になるべきだ、と言い続けている小林多津衛さんを長野県望月町の自宅に訪ねた▼小林さんはこの8月で満91歳になる。大正、昭和の2代を教壇ひとすじ、若いころから柳宗悦、武者小路実篤らに傾倒した、いわゆる信州白樺派教師の1人だ。熱中のあまり実篤の「新しき村」に飛びこんだこともある▼1955年(昭和30年)にいっさいの公職を離れ、郷里の望月町協和に引っ込んだ。悠々自適のつもりだったが、折から強まる逆コースの風潮に抗すべく、個人雑誌『協和通信』の発刊を始めた。第1号は6年前の3月、以来今日まで22号を数える。当初200人足らずだった定期購読者が今では1000人を超え、その範囲も全国に広がった▼小林さんは『協和通信』で繰り返し赤十字国家論を説いているが、最初に提唱したのは、それよりずっと以前の1970年のことだ。赤十字の旗のあるところを攻撃することは、だれにもできないのだから、日本は赤十字国家になろう。防衛費を医療費に振りかえ、軍艦を改装した医療船に医師と医療品を積んで、世界の国々に派遣しよう。これが赤十字国家論の骨子だ▼小林さんの部屋にはロマン・ロラン、シュバイツァー、ガンジーの肖像画が掲げられている。こうした人々の影響を受けているだけに、赤十字国家論もきわめて理想主義的色彩の濃いもの、といえるかもしれない。しかし、ここには私たちが日常の暮らしにとりまぎれて、つい見落としてしまう貴重な視点がある▼小林さんの平和論は、民芸を愛する心から出発している。民芸の大切さは「民衆の可能性」の発見にあると気づいたとき、すべての出発点は世界の平和であり平等であると悟る。けっして観念論ではない▼民芸の専門家でもある小林さんは晴耕雨読、いや晴れた日は染色に精を出す。民芸は実践が大事だというのが、この卒寿翁の口ぐせである。 6月のことば抄録 【’87.6.30 朝刊 1頁 (全858字)】  6月のことば抄録▼20代「コンピューターの世界だけにとじこもっていると、おもしろいソフトはできない。発想が枯れてくる。遊びの楽しさ、エネルギーがアイデアを生む」。テレビゲームの高橋名人こと、高橋利幸さんの「遊びのすすめ」だ▼20代「被爆国の日本で、どうして若者はこんなに無関心なの」。反核行進に参加した米国のフェリシア・トニーさんが怒っている▼30代「彼は頭脳の回路スイッチが常にONになっている」。仲間にそういわれるパソコン時代の開拓者、ウィリアム・ゲーツさんが、米国で最も若い億万長者になった。夕食会が時事問題や歴史のクイズで始まる、というのがおもしろい。「雑談のすすめ」である▼30代「勝てるなんて、まさかのまの字も思わなかった」。米女子プロゴルフツアーで岡本綾子さんがまさかの優勝。米ツアーの賞金総額が100万ドルを超えた▼50代「大学で勉強したことがうちでは役に立たないことが多い。逆に害になることもあるので、高校卒を積極的に採用している」。堤義明西武鉄道社長の体験的大学教育批判だ▼50代「私は自分の青春と美ぼうを男たちのためにささげた。今は私の知恵と経験を動物たちのために生かしたい」。動物愛護運動を続けるブリジット・バルドーさん。本当に「美ぼう」といったのかなと気になる▼60代「歌わないと票にならない」といって民社の塚本委員長がカラオケで熱唱した。歌を忘れた政治家は、票をたばねてぶちましょか▼70代「やはり舞台に立つことが薬。へまをやってもそれがまた楽しい」。肺がんの手術後、舞台に戻った宇野重吉さんが巡業を続けている▼70代「どうも乳幼児のような気がするんだなあ」と自民の稲葉修さんがニューリーダー3人を切り捨てた▼80代。今の学生は「優秀だが質問をしないね。なぜなんだとつきつめていく情熱は薄い」。82歳の現役大学生(一橋大3年)の木下光雄さん。 韓国に新しい風、人々に「静かな喜び」 【’87.7.1 朝刊 1頁 (全839字)】  新しい風の中にいる韓国の人たちの表情には「静かな喜び」があると特派員が電話で語っていた。激しく揺れたフィリピンの政権交代劇とはそこが違う▼ソウルのある大学構内の立て看板に、何も書かれていない白紙がはられているという。学生たちは何も書かずに、事態を見守ろうとしているのだろうか。それにしても白いタテカンとはまた随分いきな話ではないか。韓国の人は白い色が好きだという。この白紙は「主張の留保」の意味だろうが、「静かな喜び」を託す気持ちも若干は潜んでいるのではないか▼大統領の直接選挙制や言論の自由の保障を得るまでには、韓国言論人の役割も大きかった。1月、ソウル大学生、朴鍾哲君が捜査当局の拷問で死んだことがわかった時、東亜日報の金重培さんはコラムに書いた▼「天よ地よ人よ、この死を見つめて下さい。この死を最後まで見守って下さい。この死を再び殺さないで下さい。……国の中心は力をもつ者の側に置かれてはならない。力がない民衆の側に、国の中心が握られねばならない」▼拷問事件についてどんな報道規制があったのかは明らかでないが、各紙の報道で抗議の火が燃えた。去年の元女子学生に対する「性拷問事件」への憤りも、下地にはあった▼5月には、東亜日報の記者114人が全大統領の改憲見送りに抗議する声明をだした。声明は、朴君の拷問死事件とでっちあげ捜査などで国民の間に不信感が生まれたことを憂えている。続いて、韓国日報の記者140人も言論の自由化を要求する声明をだした▼経済の繁栄や生活の安定は、政治を監視するための言論の自由によって支えられる。そのことを肌で知る市民の力が強くなった、という背景もあるだろう。今回の与党特別宣言には「言論の自由を保障するために、関連の制度の画期的な改正が必要だ」という項目がもりこまれた。韓国言論人、市民のねばり勝ちだ。 高校教科書「現代社会」に厳しい検定 【’87.7.2 朝刊 1頁 (全845字)】  高校教科書「現代社会」の検定で日本は「世界でも有数の防衛力(軍事力)をもつ」というくだりが削られた。「公務員が横柄な態度で国民にのぞんだり」する傾向がみられるという記述も姿を消した。検定とは、横柄な態度で国民にのぞむことだ、などと揚げ足をとられたくなかったのだろう▼日本は世界有数の防衛力をもつ、と教科書の原稿本にはあるが、ここのところはむしろ、具体的な数字を示して、検定意見をはねつけるべきだった▼1984年度の数字では、日本の防衛費は約3兆円で世界9位だ。為替レートの変化もあり、いまの日本の防衛費はフランス、西独なみになっている。その現実から目をそむけて、日本の防衛を考えることはできない▼「兵力の順位は各国と比べて必ずしも高くない」と検定側はいう。だが昨今は、兵員数や飛行機の数だけで軍事力を比べるのはむり、というのが常識だ。日本は世界で第一級の戦闘機やP3Cやミサイルをもち、それらが防衛費をさらにふくらませている。日本の海軍力は、質の面で英国を追い抜こうとしている、とさえいわれているのだ▼こういうことをすべて教科書に盛りこめというのではない。日本の防衛力が急増してきたのはなぜか、日本が兵器輸出を抑えているのはなぜか、それらを自由に議論するのが「現代社会」の教育であり、議論を触発させるための正確な資料を、教科書は提供すべきだろう▼ニューヨークの郊外ですぐれた教育をしているので評判の公立小学校を訪ねたことがある。校長先生が、学校の教育方針を説明したあと、最後にこういった。「将来、国の政策の是非を自由に判断することができる人を育てること、それが私たちの目的です」▼日本でも、同じ考え方をもつたくさんの教育者がいることは承知しているが、今も鮮やかに、一校長の言葉を思いだす。あの公立小学校では先生たちが作った教科書も使われていた。 老人医療と予算の「抑制」 【’87.7.3 朝刊 1頁 (全850字)】  厚生省は老人の長期入院問題を根本から見直すという。しかしこれは難しい仕事だ。週刊朝日で連載中のルポ『老人病棟』(大熊一夫記者)を読むと、老人医療の現場にメスをいれるのは、なまやさしいものではないことがわかる▼このルポにある神奈川県の老人病院では、かなりの数の患者が午後6時をすぎると手足をベッドに縛られる。多くは12時間、時には19時間も、はりつけ姿で過ごす▼縛る最大の理由はおむつだ。患者が自分でおむつをはずせば着物やシーツが汚れるし、換えるのに手間がかかる。夜、院内を歩き回るのを防ぐ意味もある、とルポにはある。医療の世界では、この縛りを「抑制」と呼んでいる▼縛られて動けないだけではない。まくら元には看護婦を呼ぶベルもなく、見舞客用のいすも見あたらない。窓も10センチほどしかあかない。ベッドとベッドの間に車いすが入るすき間もない▼今週は、心臓監視装置がふしぎな使われ方をしていて、医療費の請求がふくらむ、という事情も報告されている。厚生省、県、健康保険支払基金の専門家たちは、こういう現場の事情を知らないほど雲の上の人なのか。あるいは専門家の間では黙認されていることなのか▼入院の時は歩くことができた老人も、寝かせきり医療の中ではかえって容体が悪化するだろう。みじめに縛られて、人間としての尊厳を傷つけられ、衰えてゆくことはないのか▼病院が患者を「抑制」するように、政府は、老人の福祉や医療の予算を「抑制」することに力を注いでいるように思える。老人下宿、デイホーム(保育所に似た保老施設)、訪問看護、さまざまな試みが生まれつつあるが、こういう試みを支えるためにも、カネを惜しむべきではない▼介護を必要とする老人は約60万人といわれている。2000年には100万人を超える。予算の「抑制」にのみ目を奪われていては、老人医療の現場は悪くなるばかりだ。 NHK24時間衛星テレビで広がる「寝ない街」 【’87.7.4 朝刊 1頁 (全842字)】  4日からNHKの衛星第1テレビが24時間放送に入った。のべつ幕なし、文字通り四六時中の放送である▼真夜中はスポーツ中継、音楽情報番組につづいて、午前3時から「ワールドニュース」が始まる。これが目玉番組の1つだそうで、ニューヨーク、ロンドン、パリなど地球の裏側からも直接、ニュースが流れてくる。ウォール街の経済情報なども即時に入る▼もう1つの目玉は娯楽番組のようだ。アメリカの大リーグをはじめテニス、サッカー、ゴルフなどの国際試合の中継、それに世界の名作映画やテレビドラマもある。おまけに電波に障害物がないので、画像も音声も美しいときている▼もっとも、これを受信するには専用の装置を付けなくてはならない。いまのところ、それを備えている家庭は全国で14万弱である。しかし、100万ぐらいには1、2年でなるだろうという▼人間の体の中にある自然は、外界の自然と密接に関連している。ホルモンの代謝や神経系のはたらきなど、生理機能の大部分は昼間活発で、夜になると弱くなる。この何万年ものリズムをこわしたのが、電灯の発明だ▼都会には「寝ない街」が広がっている。コンビニエンスストアに行けば真夜中に何でも買える。夜間専門のスポーツクラブや美容院もある。社会はすでに24時間時代に入っている▼そこへテレビの24時間化である。ビデオに撮ることもできるのだろうが、ついつい見つづけてしまうものだ。NHKの国民生活時間調査によると、日本人の睡眠時間はここ15年間で14分も減っている。現代人の宵っぱりと睡眠不足が、これで一層ひどくならないかと心配になる▼人間はいじらしいことに、無理をしてでも環境の変化に体を適応させようとする。これが精神医学などでいう過剰適応である。体や心の変調にもつながるという。世界には、1日に4、5時間しかテレビを放送していない国も多い。 コメの問題に2つの顔 【’87.7.5 朝刊 1頁 (全843字)】  東京の神田で、親の代からの「めし屋」を続けている友人がいる。最近、長いつきあいだった米屋を断って、大手の問屋からコメを買うようになった。「1食で何円という、もうけの薄い商売だからね。キロ当たり何十円高いか安いかでも、響くんだよ」▼常連客には、付近の中小零細企業に勤めるサラリーマン、学生が多い。一時、その数が減ったことがある。持ち帰り弁当の店がいくつか開店し、ほんの少しだがそちらの方が割安だったためだ。それと分かって、なんとか無理して値下げしたら、また来てくれるようになった▼セールスに出かけた先で昼どきになっても、安い食堂がなければ腹をすかしたまま神田まで戻り、かけこんでくる。「グルメブームなんていうけど、そうやってがんばっている人だって、いっぱいいるんだよ」▼31年ぶりに、生産者米価が引き下げられることになった。そのニュースを聞いてまず思い浮かべたのは、この友人の顔だった。彼の店のカウンターで、どんぶり飯を1粒も残さずに食べていた男たちの顔であった▼しかし、その一方で思い起こす別の男たちの顔もある。2年ほど前、田舎の小学校の同窓会に、久しぶりに出席する機会があった。卒業後初めて再会する者も少なくなかったが、たいていはどこか残る昔の面影で思い出せた▼ところが、どうしても分からない顔がいくつか交じっていた。というより姿かたち全体が、同じ年とは考えられない老人のそれなのだ。そばの友人に、そっとたずねて聞かされたのは、みな学校を出て以来、農業をしてきた友だちの名前だった▼すっかり薄くなった頭髪、黒い顔に刻みこまれている深いしわ、歯が欠けた口元。これが、あの○○君、××君なのか。野良で働くことの過酷さを見せつけられる思いがして、胸を締めつけられたものだった▼コメの問題には、とても簡単には割り切ることのできない、つらさがある。 ナチ裁判に見る仏国民の歴史感覚 【’87.7.6 朝刊 1頁 (全833字)】  第2次世界大戦中に2万人のユダヤ人、レジスタンス参加のフランス人を死の強制収容所に送った元ナチ・ゲシュタポ(秘密警察)の隊長クラウス・バルビー(73)が「人道に対する罪」で裁かれ、終身刑をいい渡された▼フランスでは死刑は廃止されており、終身刑が最高刑である。40年以上も逃げ回ったバルビーには「リヨンの虐殺者」と恐れられたおもかげはなかったが、拷問を受け九死に一生を得た被害者の老人たちがつえにすがって証人台にのぼり、「ナチの悪夢」をよみがえらせた▼この裁判でフランスは古傷のうずきに耐えねばならなかった。被告側はレジスタンスの中にも多数のコラボ(対独協力者)がおり、最大の英雄として尊敬されてきた、ジャン・ムーランもナチに殺されたのではなく、仲間に裏切られ絶望して自殺したのだ、と主張した▼「バルビーが人道に対する罪に問われるなら、アルジェリアやベトナムで多くの現地人を殺害した仏、米も同罪」と反撃も行っている▼フランスでは「臭いものにふた」「過去を水に流す」というコトワザは通用しない。古傷の痛みを覚悟で、バルビー裁判に踏み切ったのは仏国民の多くが鋭い歴史感覚を持ち、「この裁判はナチズムを知らないすべての人々に、真実と教訓を示す最適の場」(シャバンデルマス元首相)と信じたからだろう▼経済大国になったいまこそ、歴史に学ぶべきだが、過去の事実の直視をさける風潮が強い。経済・文化摩擦に過去の読み方の違いが加わって、わが国の孤立化が深まる懸念もある。歴史感覚をみがくためにも、人びとが自分や両親の戦争体験を語り合う試みが強まってきたことに注目したい▼「歴史の女神クリオに真の尊崇をささげる者は、自国民が独り徳性あるいは知性において他に勝るというような主張をしようとは考えないのである」(E・H・ノーマン『クリオの顔』) 及び腰の地価対策に失望 【’87.7.7 朝刊 1頁 (全855字)】  「地価対策だなんて今ごろなにさ言ってくれるじゃないのと思う」。俵万智さん風に表現すればそんな感じだ。中曽根内閣は、任期中に地価の鎮静に成功する見通しがあるのか。「『地価をやりますよ』と君が言ったから7月6日は土地の記念日」として覚えておこう▼首相が所信表明演説で土地問題に触れた部分を読んで、失望した。首相にいってもらいたかったのは、(1)土地投機を追放する(2)土地ではもうけられない仕組みを作る(3)そして地価を下げる(4)土地は天下のものだと宣言する、という所信表明だ▼首相がいう「国土利用計画法の効果的運用」とは何なのだろう。なぜ地価凍結に踏み切る、という強い決意を示さないのか。「地価対策関係閣僚会議の機動的運営等総合的対策(なんという官僚的表現)を実施する」とも首相はいう。なぜこんななまぬるい表現しかとれないのか▼地価のことで「臨時行政改革推進審議会から適切な助言を得べく措置した」ともいう。それはそれでいい。しかし、これは本来「何としても地価を下げるため、一刻も早く名案をまとめるよう頼んだ」というべきだった▼戦後政治の総決算をいうならば、総決算さるべきことは何よりも戦後歴代内閣の土地無策であったはずだ。異常高騰の兆しがみえた数年前から、きちんとした土地政策を求める声はちまたに満ちていた。政府はその声に耳を傾けなかった。地価対策はあまりにも遅れて、しかも及び腰で姿を現した▼話は飛ぶが、いま評判の俵万智『サラダ記念日』を一気に読んだ。「1人住む部屋のポストを探るときもう東京の顔をしている」という歌があった。田舎から帰ってきた時の作品だ。「見送りてのちにふと見る歯みがきのチューブのへこみ今朝新しき」という感度の高い歌を読みつつ、失礼ながら小さな部屋を想像した。約200平方メートルで17億円の超高級マンションが現れたというニュースがだぶった。 オモコワ症候群 【’87.7.8 朝刊 1頁 (全843字)】  いまはオモコワ時代、なのだそうだ。オモコワ症候群といってもいいだろう。オモシロイとコワイとの合成語である▼症状1。オモコワ族は、たとえばディズニーランドのシンデレラ城ミステリーツアーに群れる。地下室に悪役の人形やがいこつが現れると「キャーッ」と悲鳴をあげつつも「かっわいい」と叫ぶ。怖いものをかわいいと感ずるのが、オモコワ道の極意であり、きわめて特徴的な症状である▼症状2。胴体が切れ、血が飛び、内臓がでるという特撮の恐怖映画、もしくは「血しぶき映画」を好んで見る。映画館で、残虐な場面が始まると「それっ」「やれっ」と叫ぶようになると、かなりの重症だ▼さらに症状が進むと、血しぶき映画のビデオを借りてきて、けらけら笑いながら見る。虚構のことをどこまで真にせまって、おどろおどろしく描いているのかを見て、楽しむ。SFX(特殊視覚効果)の研究をするのもはやっている。「よくできている」ものがおもしろいのだ▼症状3。テレビゲームの世界でも、妖怪(ようかい)ものを好む子が結構多い。「ぶきみなキャラクターがすごくかわいい」と子供たちはいう。オモコワ症候群は低年齢層に顕著である▼症状4。がいこつに特殊粘土の肉づけをし、悪魔を作る。それを特殊な液にいれて粉をかけると泡がでて肉が溶け、がいこつが残る。そんな、アメリカ製のうすきみ悪いオモチャが姿を現した▼診断。怖いけれどなんとなくおもしろい、おもしろいけれどちょっと怖い……というものを求める症状を、若者たちはオモロシイ(オモシロイではない)現象と自己診断している。意外性の希薄な日常にあって、虚構の世界に意外性を求める心がオモコワにつながるのだろうか▼若者たちはむしろ、大人の軍拡ゲームやマネーゲームこそ、オモコワ症候群の代表格だと診断する。本当に恐ろしいものは、ゲームの名を借りて忍び寄ってくる。 「安芸託老所わすれな草」 託老運動を考える 【’87.7.9 朝刊 1頁 (全853字)】  先週、老人の長期入院の問題を調べていて、デイサービスという名の託老所がかなりふえてきていることを知った。ふえてはいるが、第一線で仕事を続けている人たちの悩みが深いことも知った▼還暦前に看護婦の仕事を退いた藤戸和子さんは、2カ月前、仲間と一緒に高知で「安芸託老所わすれな草」を開いた。親を忘れるな、老人を忘れるな、という意味の命名である▼週に1度か2度、日中だけ、ぼけ老人や寝たきり老人を預かって介護するのをデイサービスという。家族が息をつけるので大都会ではなかなか好評だが、小さな町や村ではまだ、世間体を気にして預けるのをためらう雰囲気がある▼「わすれな草」でも、これまで4人の老人を預かったが、今は82歳のおじいちゃん1人になっている。この人は、初めはまったくしゃべらず、目の輝きもなかったが、親身になって世話をするうちに変化があった。履物を脱ぎ散らすと「きれいに並べて下さい」というようになった▼藤戸さんは、自分の体験からいくつかの教訓をしぼりだしている。(1)お年寄りの物腰にあわせてゆっくりと対応する(2)低音で語りかけたほうが理解される(3)テレビでも、高齢者のためにゆっくりと低音で語るニュース放送があってもいい(4)しかってはいけない(5)それぞれの人が背負ってきた個人史を大切にし、心を閉ざす理由を知る努力をする▼東京都中野区は、老人ホームに頼んでデイサービスを行っている。お年寄りは週に2度、ここで体操をし、入浴をする。公費の補助があるし、車の送迎があるので常に何人かが順番を待っているほどだ▼厚生省は、いずれは託老施設を中学校の数ほどにふやすという。みながデイサービスを当然のこととするようになれば、世間体を気にする風もうすらぐだろう。藤戸さんたちが始めたようなボランティアの託老運動をみなでどうもりたててゆくか。私たちに課せられた問題だ。 宰相の条件 【’87.7.10 朝刊 1頁 (全864字)】  中曽根首相によれば、宰相になるには(1)人類愛(2)同胞愛と愛国心(3)見識と人材活用能力(4)強固な意志と実行力、などをゆたかに持つことが必要だという▼この宰相論は話が抽象的であまりおもしろくない。中曽根さんはかつて「風見のできない政治家なんて小人物だ。現代は勝海舟、西郷南州のような風見どりが必要なのです」といっていたが、中曽根調の開き直りがあって、この方がおもしろい▼元首相の石橋湛山さんに政治家を論じた一文がある。「最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ。金を集めることが上手で、大ぜいの子分をかかえているというだけで、有力な政治家になっている人が多いが、これはほんとうの政治家とはいえない」▼中曽根さんがこういう発言をしていたら、国会もずいぶんもりあがったことだろうに、と思う。もっとも昨今は、石橋さんのいうつまらない政治家の条件がむしろ、いい政治家の条件に数えられているようだ。時代は変わった▼池田元首相は、内閣発足と同時に、側近の進言をいれてゴルフと待合通いをやめた。宰相として、大衆の立場でものを見ることを己にいいきかせるためだろう。同じようなことを、ハロルド・J・ラスキが『アメリカの大統領制』の中で書いている。『大統領として成功しようとしたら、自分の時代からあまり進み過ぎてはならない。自分をになっている大衆の眼を以てものを見なければならない』▼指導者として何よりも大切なのは大衆の心を心とすることだとラスキはいう。中曽根首相がもし、税制改革で大衆の理解を得たかったのならば、同日選挙の最中にこそ「直間比率の是正」を主張すべきだった。選挙に勝たんがために大型間接税否定の公約をし、選挙に勝ったあとに急変、それを持ちだした風見どり的手法に、人びとは反発した▼宰相の条件に、首相がつけ加えるのを忘れたことが1つあった。それは「公約を守る人であること」。 がんと闘ったジャーナリスト千葉敦子さん逝く 【’87.7.11 朝刊 1頁 (全855字)】  ニューヨークで亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんは、がんと闘いながら、最後まで記者魂を失わなかった▼朝日ジャーナルに連載中の『死への準備日記』について、いつも原稿に乱れがないかどうかを気にしていた。「気がかりです。念入りにチェックして下さい」と編集部に注文していた。病状が悪いことに甘えて恥ずかしいものを書き残したくはない、という思いからだろう▼アメリカのイラン秘密工作事件が起こった時は、ワシントンの知人に電話をかけまくって「一線記者に戻ったような気分」になった、と書いている。起き上がる体力もなく寝たままの電話取材だ。書く予定のない主題なのに、血が騒ぎ、取材をせずにはいられなかったらしい▼『死への準備日記』を書き続けたのは、がんと闘う自分を自分で取材することにジャーナリストとしての生きがいを感じたからだろう。死を見つめることよりも、死ぬまでをどう生きるかのほうにずっと関心がある、と書いているが、死を前にした自分を見つめる目は驚くほどしつようで、乾いている▼「私は自分の病気のことで泣いたためしなどただの一度もない。感傷に浸っている時間などありはしないのだ。どうやって残された時間を意味あるものに使うか、だけを考えてきた」▼死が数カ月後に迫った時も、明日がどうなるかわからなくとも、計画はたてる、計画をもたなければ死んだも同然だといい、芝居の切符を買い、ドライブの約束をし、本を買いこんだ。小脳に転移したあとでさえ「即座に治療を受ければ記者活動を続けることも可能だという事実を証明してゆきたい」と気力を見せていた▼「体調非常に苦しいのですが、次回の原稿は7月7日に送る予定です」という連絡がジャーナルにあったが、追いかけて原稿断念のメモが届いた。「いつこの世を去ろうとも/悔いはひとつもない/ひとつも」。去年の暮れ、千葉さんはそう書いている。享年46。 世界に流れた「バディ少年」のデマ 【’87.7.12 朝刊 1頁 (全848字)】  「バディ少年」のデマはなぜ、どのようにしてひろがったのだろうか▼「英国のバディ少年ががんで重体です。死ぬまでに世界中から絵はがきを数多く集め、ギネスブックに記録を残そうとしています。ご協力を」。そういう異例の電文が各国の空港、基地の通信施設に流された。わが国にはカナダ海軍基地からフランスの通信施設をへて、この情報が伝わった▼電文にこたえて、各国の人びとがバディ君あての絵はがきを英国の某郵便局私書箱に送った。だが、その私書箱も、バディ少年も、架空のものであることがわかった。郵便局は、1日2、3000通にもなる受け取り手のない絵はがきの処理に、手を焼いているという▼実は、同じ作り話が4年前にもまことしやかに全世界にひろまり、この英国の郵便局に約200万通の絵はがきが寄せられていたこともわかった。がんの少年のために、ギネスブックのために、という殺し文句が美談好きの人びとの善意をとらえたこともあったろう▼だまされて情報を流したカナダの当事者は「子どもの死をだしに使って世間を騒がせるなんて、ジョークの範囲を超えている」と怒っているそうだ。流言はふつう、災害の時などに人びとの不安に比例してひろまる。こんどのように、流言によって善意が手玉にとられたという例は珍しい▼だが、深刻な実害がなかったからといって、笑って見すごすことのできないうすきみ悪さがこの事件の背後にはある▼「善意の利用」が「悪意・敵意の利用」にすりかえられるのは容易だろう。悪意の作り話が巧妙に仕組まれた時、現代の情報社会はそれをどうやってはじき返すことができるか。人から人へという古典的なデマの流れにかわって、いまは一瞬のうちにデマが世界に流れる▼バディ事件では、人びとは確認を怠って、デマを信じた。テレタイプやパソコンに流れてくる「情報」は、もっともらしい顔をしているので困る。 植物が持つ感覚 【’87.7.13 朝刊 1頁 (全847字)】  植物には「鼻」もあり「耳」もあるらしい。植物同士の「会話」もあるようだ。東京では今、公園などにクチナシが咲き残って独特のなつかしい香りを放っているが、そのクチナシを使った実験がある▼たとえばバラに含まれているシトロネロールという香料成分をクチナシの葉に吹きつけると、特定の反応がでる。つまりクチナシは、においを知る働きを備えているということだろう。東京農工大、松岡英明助教授たちの貴重な実験だ▼クチナシに限らず、程度の差はあれそれぞれの植物がそれぞれのにおいに反応した。しかもきわめて微量のにおいをかぎわける力をもっていることがわかった▼この力を応用すれば、植物によるにおい感知器が実現する。たとえば果物や魚肉の生鮮度をたちまち見抜いてくれる測定器、患者の吐く息の中にある微量成分を教えてくれる臨床用の検知器ができるかもしれない。「まだ夢のような話なんですよ」と松岡助教授はいっている▼植物は音にも反応する。騒音を流すと生体電位なるものに特定の反応があるし、音楽を流すとこんどは別の反応がある。たいこの音や雅楽のような音楽の時は反応は大きいが、モーツァルトの場合はむしろ反応が少ない。こちらは、早大理工学部の三輪敬之教授たちの研究だ▼音や磁場や熱の刺激を変えると、その環境の変化を知り、自分に都合のいいように舞台をつくりかえる。植物には、そういう力が備わっているのではないか。「植物は気ままで、研究は難しいことばかりですが、ロマンはありますね」と三輪さんはいう▼ポプラは虫に襲われると大気中に苦みをもったガスをだす。それを知った周りのポプラも苦みをもった物質をだして虫を防ごうとする、という話をきいたことがある。植物間には会話もある▼「樹林は妙法をのべる」と古人はいった。近代科学がその妙法にせまればせまるほど、自然界のふしぎの深さがわかってくる。 電柱の地中化 【’87.7.14 朝刊 1頁 (全851字)】  先日、発表された『国土建設の現況』で、日本人の「空間のゆとり」がいかに貧しいか、という指摘があった▼欧米諸国に比べると、都市の公園がいかにも少ない。別荘の所有者も少ない。そして、電線の地中化率が極端に低いことも指摘されていた。パリやロンドンは電線の地中化率が100%だそうだが、東京の主要道路では、電線の地中化率は10%以下だ▼都心の日本橋馬喰町の商店街は、歩いていて楽しい。空をおおっていた電線が姿を消したせいだろう。片道2車線の江戸通りの空はのびやかにひろがり、街路樹のハナミズキが風に葉をひるがえしている。アベリアが花を咲かせている▼白っぽい色に舗装された歩道は幅が広くて、歩きやすい。電柱の林立や電線の網を見なれた目には、この町並みの空間のゆとりは新鮮にみえる。しかし、14本の電柱を追放し、並木や照明灯で街路を再生するのに約3億円がかかったそうだ。地元では1000万円を負担した▼松江市内の、武家屋敷や小泉八雲記念館が並ぶ塩見縄手でも、2年前に電柱が姿を消した。信号機も古風なものに変えた。城下町のたたずまいが備わってきたし、何よりも歩道が広くて歩きやすくなった、とここでも電線地中化は評判がいい▼電力会社の円高差益が問題になるまでは、1年間、400億円で100キロ分の電柱を追放する計画だった。しかし円高と共に計画を変え、年間1400億円をかけて300キロから350キロの工事が続けられている。何といっても障害は、地中化が高くつくことだ▼東京電力は、関電工と共同で、電線を地中に埋める工事をする新型ロボットを開発した。全長4.6メートルのモグラ式ロボットは自由に地下を掘り進み、くねくねと障害物をよけて進む。このロボットは、特定の工事用のものだが、一般の配電線の地中化にも使えるものが開発されれば、電柱追放のお値段も少しは安くなるのではないか。 米軍の訓練飛行場問題はもっと自由な発想で 【’87.7.15 朝刊 1頁 (全855字)】  政府はどうしても三宅島に米軍のための訓練飛行場を造るつもりらしい。「飛行場の建設地は三宅島以外にはない」と栗原防衛庁長官が発言した。はたしてそうか。三宅島以外にはない、とどうして断言できるのか▼横須賀に空母が入港した時の夜間発着訓練場は「遠隔地では困る」と米軍はいう。理由の一つに「訓練場が遠いと、パイロットたちが家族と会う機会が減るから」というのがあった。将兵も人間だ。寄港中に家族と会える時間は多いほうがいいにきまっている▼そのことをぜいたくな言い分だとは思わないが、「家族に会えないから遠隔地は困る」ことが一つの理由ならば、日本側もまた「そのために国立公園内の自然が壊されては困る」と主張し続ければいい。主張と主張がぶつかって、初めて理解が生まれ、名案がでる。米軍の要望に唯々諾々と従ってふるさとを壊すべきではない▼艦載機の夜間発着訓練はすさまじい騒音をだす。だから厚木基地からどこかへ移すことには賛成だ。千葉の下総基地説は住民の反対でつぶれた。硫黄島説は、遠すぎる、経費が高くつくという理由で米軍が敬遠した。三宅島説が浮上したのは、4年前だ。米軍内には、緊急時に備え、訓練中の艦載機を関東周辺におく、という強い要請があるのだろう▼繰り返すが、三宅島はほぼ全島が国立公園だ。飛行場予定地わきには特別保護区もある。自然の保護を第一義に考える国の大方針があったからこそ、ここを国立公園に指定したのだろう。英国の野鳥観察家が「27年間、40カ国を訪ねたが、この島ほど貴重な場所はない」と感嘆したほどの島だ。なぜわざわざ、ここに騒音ただならぬ軍事基地を造ろうというのか▼ひところ、沖合に浮体滑走路を造れという案があった。たとえばタンカーを並べて空母らしき滑走路をつくる。米軍の古い空母を買い取って訓練用に提供する。この問題は、もっと自由な発想で議論をしたほうがいい。 本田義信氏逝く 日本の老人福祉、在宅福祉の開拓者 【’87.7.16 朝刊 1頁 (全845字)】  老人福祉の世界に大きな足跡を残した春日市社会福祉協議会の本田義信さんが亡くなった。十数年、人工透析を続け、すでに血管は傷みきっていたそうだ▼本田さんは幼いころに父を亡くし、兄や姉と共に祖母に預けられた。極貧の中で暮らしの知恵を身につけた。たとえば10銭の予算で6、7人前のうまいものをつくるにはどうしたらいいか、を考える知恵だ。これが後年、仕事の栄養素になった▼独創的な発想をする人だった。業績の1つに「老人下宿」の成功がある。この名づけ方が、まずいい。シェルタード・ハウジング(介護つき住宅)などのカタカナ言葉を避け、老人下宿を名乗ったところに、借りものではない「土着の福祉」の発想がある▼社協の隣に建てられた昔なつかしい下宿に、老人たちが住む。安いし、食事つきだし、面倒を見てくれる人がそばにいるから安心だ。仲間の多い街中に住めるという利点もあって、お年寄りに喜ばれている▼「老人別荘」も大分や熊本に造った。市内の老人たちをバスで送迎し、安い利用料で泊まれるようにした。地ならしも土止めも、職員たちが汗を流してやりぬいた。たくましさを身につけさせるために必要なこと、というのが本田さんの哲学だった▼何といっても、最大の業績は「福祉給食」を定着させたことだろう。温かい昼食と夕食を求めに応じて配る。1回約160食分を1日も欠かさずに配る。雪で車が動かない時はみなで手分けして歩いて配った。おせち料理の時は、調理や配達のために、中学生を含めて約200人のボランティアが集まるという。給食の献立でも、本田さんは年寄りの口にあう土着の料理を大切にした▼金がないから仕事をしないという発想を否定した。仕事をすれば金ができる、と信じて次々に夢を実現していった人だった。日本型の老人福祉、在宅福祉の開拓者だった。その開拓者を春日社協の職員と市民が支えた。 横田基地の騒音公害、「音の囚人」の耳鳴りは続く 【’87.7.17 朝刊 1頁 (全843字)】  アメリカのある雑誌の編集者が音頭をとって、乗り物の中の音を追放する運動を始め、それが成功したという話を以前、なにかで読んだことがある。車内のラジオ放送や音楽は、ある人には楽しくても、ある人には迷惑千万になる場合があって、「音の囚人」をつくることになるという主張だった▼さすがに騒音防止の先進国だけのことはあると感じ入る話だが、アメリカ人でも、軍隊の制服を着ると、騒音をまきちらすことに無神経になってしまうのはなぜだろう▼横田基地の騒音公害訴訟の口頭弁論で、ある主婦が訴えていた。「生まれたばかりの長女は、飛行機が飛ぶとブルブル体をふるわし、火がついたように泣きます」。1970年ごろ、基地周辺のある小学校の児童を調べたところ、他校に比べて聴力の損失が大きいことがわかった。根気強さに欠ける、という結果もあった。爆音と共に育った子の心の内奥に、それはかなりの影響を与えているはずだ▼横田基地で聞く音は、キーンという高い音ではなく、ゴーッという感じで頭の上からかぶさってくる。同僚が訴訟団長の福本竜蔵さんと1時間電話で話をしている間に、18回、爆音があった。福本さんの電話は防音工事の部屋にあったが、それでも18回、話が中断した▼「原告側のほとんどは耳鳴りと高血圧に悩んでいます。夜、爆音で目をさますと耳鳴りがしています。その瞬間は非常に恐ろしくて不安になる。自殺した人もいますが、めざめた時の恐ろしさと関係があるのではないかと私は思っています」。7人目の孫が生まれる時、福本さんはいった。「この孫には飛行機の飛ばない夜をプレゼントしてやりたい」。それからもう7年がたつ▼2審の判決も、賠償は認めた。「平和時の国防の公共性は外交、経済、運輸等の公共性に等しい」ことを明確にした意味は大きい。しかし、深夜の爆音は続き、「音の囚人」の耳鳴りは続く。 第2次大戦と甲子園 【’87.7.18 朝刊 1頁 (全852字)】  及川和男さんの『甲子園への遠い道』という力のこもった作品を読んで、岩手県の一関中にかつて阿部正という名投手がいたことを知った。戦争のために、ついに甲子園の土を踏めなかった少年である▼夏の甲子園大会は、昭和16年から5年間、中断している。甲子園の花形だった多くの選手が戦場に散った。松山商の景浦、京都商の沢村、海草中の島。甲子園組ではなかったが、阿部もまた戦死者の1人である▼戦前の東北球界では逸材といわれた。相手チームの応援団が三塁手にばらばらと小石を投げたことがある。阿部投手はタイムを求めて三塁に近づき、小石を拾って応援団をにらみつけた。相手を黙らせる迫力があった。阿部は小石をそっと投げてマウンドに戻った。おとなびた風格のある選手だった▼最上級生になり甲子園行きは確実といわれていた。だが練習中に「大会中止」の報が伝えられ、選手たちは夢遊病者の群れのようになった。卒業した阿部は、やがて南方洋上で戦死した▼戦後、甲子園大会が再開された時、阿部の後輩たちはいちはやく練習を始めて甲子園行きの切符を手にする。当時は各校とも、野球用具の調達に困ったが、一関中は違った▼秘密は、阿部の才覚にあった。敵国スポーツの野球用具を焼けという声さえあった時、夜、母校を訪ねた阿部少年が野球の用具一切を銃器庫の屋根裏に隠しておいたからだった。伊藤野球部長も一役買った。阿部たちの熱い思いが、後輩を甲子園へ導いた▼「強大な国家権力がどんなに禁圧しても、人間の心の中にある欲求は窒息しないで生きていたのだ」と及川さんは書いている▼阿部の親友だった岩沼浄さんは、60すぎの今も毎日のように一関一高(旧一関中)の練習場へ行き、選手たちの面倒をみているそうだ。阿部と共にあった青春への愛惜が岩沼さんを動かしているのかもしれない▼今年も、たくさんの若者が甲子園への遠い道を歩んでいる。 「おれたちの青春」を表現した石原裕次郎 【’87.7.19 朝刊 1頁 (全850字)】  石原裕次郎に初めて会った時、水の江滝子は、一見して、あっ、スターだなと思った。「スターだけが持つ何かがあった」といっている。彼が初めてカメラの前に立った時、伊佐山カメラマンはいった。「阪妻(阪東妻三郎)の再来だ」▼志賀直哉も裕次郎がごひいきだった。「彼の演技は型にはまっていないよさがある。さっそうとした痛快さがたまらない魅力だ」。さっそうとしたさまをイカスという。このイカスという言葉は裕次郎が映画の中で使ってから流行したらしい▼スターは時代の気分がつくりあげる。裕次郎が『狂った果実』『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』などで売り出したころの日本では「戦後は終わった」というせりふが経済白書で使われた。電化製品による生活革命が進み、2DKの団地が造られた。アメリカに追いつけ、という呪文(じゅもん)が人びとをとらえていた▼裕次郎の足が長くて、アメリカ人なみだったということはずいぶん意味のあることだったろう。当時、女性たちはいった。「世界で一番足のすてきなのはローレンス・オリビエ、2番目が裕次郎よ」▼因習にとらわれぬ自由な行動、よく育ったしなやかな肉体、スポーツカー、ヨット、サングラス。太陽族映画に描かれた世界は、戦後教育の下で成長した世代が考える「アメリカ」だった。アメリカに追いつこうという1950年代の気分を、裕次郎は銀幕の上で具現した▼「自分をさらけだしてしまえばもう怖いものはない」と自分でもいっているが、この人は自分の個性をさらけだして成功した。若いころ、監督と衝突して「うるせえ、バカとは何だ。てめえ、やってみたらどうだ」と怒ったりした。半面、折り目正しくあいさつができる青年、ともいわれた▼お坊ちゃん的不良少年、もしくは無頼派的健康優良児のほとばしる力を画面にぶつけることで、石原裕次郎はあの時代の「おれたちの青春」を見事に表現した。 東芝機械問題と田村通産相の訪米 【’87.7.20 朝刊 1頁 (全849字)】  田村通産相は「訪米の目的をはたした」といっている。冷たい反応にさらされて、さぞ心労の多い旅だったろうとは思うが、ワシントンから流れてきた記事を読む限りでは、釈然としないものが残る▼きちんと謝るべきことと、謝る前にただし、事実を明らかにした上で対応すべきことの2つが、ごっちゃになってしまった▼東芝機械が対共産圏輸出統制委員会(ココム)の規制に違反したのは事実で、このことは辞を低くして謝らねばならぬ。だが、この工作機械がソ連原潜の音をどのていど低くしたのかという因果関係はわからない。「嫌疑濃厚」というだけである。軍事機密の名のもとで真相が明らかにされないのに、東芝のラジカセをハンマーでたたき壊す政治家が現れ、ソ連原潜の音の低下は100%東芝機械のせいだ、といわんばかりの議論がまかり通る▼「たとえばわが社のハイテク製品が東側に流れ、軍事用に使われたと非難されてもわれわれには反証する力がない」と、大手電機メーカーの首脳が不安を語っていた。そういう不安にこたえるためにも、通産相は、因果関係の事実を示せという強い姿勢を貫くべきではないか▼アメリカ民主主義の背景に、何よりも事実を尊重する精神があることを私たちは尊敬している。そして、東芝機械にソ連原潜音低下の責任がまったくないとは思っていない。ただ、何割の責任があるのかを示す事実をきちんと説明してもらいたい。それがなくて、情緒的な製品壊しが横行するようでは、日本国内の知米派もとまどってしまうだろう▼通産相は、ココム体制強化のため米国と同一歩調をとると表明した。簡単に約束をして、ココム規制緩和派の欧州各国が反発する恐れはないのか。外為法の罰則を厳しくするとも発言したが、これは他の刑事罰との関連もあることだ。難航して、公約違反の非難をあびることにならないか。頭の下げ加減というのはなかなか難しい。 日高高校生物部 野鳥保護実績で朝日森林文化賞受賞 【’87.7.21 朝刊 1頁 (全837字)】  和歌山県立日高高校の生物教諭、黒田隆司さんはもう37年もこの学校の「生物部」を指導している。「好きなことをやれ。責任は持つ」というのが口ぐせだ▼野鳥観察の合宿では、山地の奥深くを歩き回る。マムシ、ハチ、雷、そういう命にかかわることについてはうるさいほど注意するが、計画はすべて生徒に自由にたてさせている。危険はたくさんあるが、それにぶつかって自然の厳しさを知り、危険を避ける人の和と知恵を身につけるだろう。「自由にさせないと自主性が育たない」という方針だ▼この学校の生物部が野鳥保護の実績で有名になるにつれて、土地の人が傷ついた鳥を持ちこむようになった。それを生徒たちが世話をする。世話といってもなみたいていではない。鳥によってえさが違う。ツバメは虫で、ワシ、タカ類は肉だ。カワガラスの場合は水生昆虫をとりにゆく▼ヒナは生徒が家へ連れて帰る。夜中でも1時間ごとにえさをやる時がある。「自然は命の集まったものです。傷病鳥の世話は命を大切にすることです。生存競争に負けたものに思いをいたすことです」と黒田さんはいう。放鳥率が50%強だから、世話をしている最中に死ぬことも多い。死ねば悲しい。けれども、放鳥の喜びは格別だ▼5月、衰弱したホトトギスを市民が持ちこんだ。生物部が預かる612番目の傷病鳥だった。やがて元気になったが、渡りの仲間はすでに北に移動している。生徒たちは、OBの運転する車で北上し、ホトトギスを奈良の森に放してやった。拍手をあびて、鳥は木の枝に止まり、しばらくこちらを見てから一直線に森に消えた。「自然は頭で考えるものではない。肌で感じるものだ」という黒田語録があった▼生徒の要望がもとで、ウミネコ産卵期の立ち入り禁止地区や日高川の銃猟禁止地区が実現したこともある。生物部の仕事に、今年の朝日森林文化賞が贈られた。 土地問題と金丸氏の遷都論 【’87.7.22 朝刊 1頁 (全855字)】  14年も前の話だ。当時の金丸信建設相は珍しく、元日を東京ですごした。見あげた空が実にきれいだった。日本晴れで、富士山をはるかに望むことができた▼東京の人たちがいつも、きれいな空を見あげられるように過密を解消すること、そのために政府が率先して、政治、行政の中心をどこかへ移すことが必要ではないか。そういう思いが金丸遷都発言になったという▼わが国の立法、司法、行政を中心におく人口100万人の新首都を造る、という構想は当時、話題を呼んだ。「土地問題を野放しにしておいて、なにが『政治』か」という勇ましい金丸発言に拍手を送る人もあった▼小松左京さんは遷都論に賛成した。「日本のシンボルとしての皇室が京都に帰って、行政の中心がたとえば富士吉田に行ってもいい」。磯村英一さんは「政治の中心、つまり国会を富士のふもとの公有地に移せ」と主張した。大阪を経済の中心地にという案もあったし、東北首都説もあった▼しかしその後、遷都論ないし分都論は次第にしぼんで、政治の舞台で脚光をあびることがない。それだけ、東京集中主義が強いのかもしれない。遷都をしても、その地区に過密、乱開発、地価高騰を押しつけるだけだとか、土地投機家をもうけさせるだけだとかの反論もあった▼しかし昨今の東京1極集中のすさまじさと狂乱地価を思うと、金丸さんの大ぶろしきがなつかしい。先日の本紙『討論のひろば』で地価対策が論じられた時も「土地の需要を減らすためには首都機能の分散が必要だ」という意見が強かった▼土地の供給をふやす政策もいい。だが、もっと必要なのは、遷都計画などで東京の土地需要を冷やすことだ。遷都のためには、主に公有地を利用し、周辺の地価抑制には先手を打つ。そうしておいて、2000年を目標に、日本人の知恵を集めて理想的な、緑濃い新首都計画を作る。そういう大ぶろしきを現実のものにするのが政治だろう。 ドラマの世界から消えてゆく悪 【’87.7.23 朝刊 1頁 (全843字)】  ドラマの世界に限っていえば、近ごろ悪者がめっきり減ったように思う。たまに現れても、葵(あおい)の御紋か何かを見せつけられると、わりと簡単にひれ伏してしまう▼悪を描いたドラマでは、古い話だけれどテレビの「3匹の侍」を思い出す。3人のはみだし者が体制内の悪に逆襲する痛快さ。殺陣(たて)の激しさは、画面を突き抜けて迫るものがあった▼これを追って「木枯し紋次郎」と「必殺仕掛人」が生まれた。しかし、あのニヒルな紋次郎はとっくにいないし、15年つづいた「必殺シリーズ」も、この秋にはレギュラー番組から姿を消すそうだ▼「必殺」の山内久司プロデューサー(朝日放送)によると、いまは悪が描きにくい時代だ。ドラマの虚構をはるかに超えた悪が現実の世の中に横行しているからだという。豊田商事まがいの商法は後を絶たない。日米悪者論議も盛んなことだ。この世の悪が複雑すぎて、ドラマの悪党など出る幕がないのかもしれない▼もう1つの理由は、悪役不足だそうだ。いまどきの俳優は、あまり悪党をやりたがらない。とくにテレビとなると、孫が学校でいじめられるからとか、娘が泣いて懇願するからとかで、いちどは悪役で鳴らした俳優も、しだいにしりごみしてゆく。それにごく一部の売れっ子を除けば、数をこなさないと生活が苦しい。役柄でイメージを固定させては損だというのだ▼京都の撮影所には、ピラニア軍団という名の切り役・切られ役専門集団があったが、すでに解散した。東京には、悪役商会と名乗るグループがあるにはあるが、最近は本職のヤクザやギャングの仕事よりも、お笑いのバラエティーショーなどに出演することの方が多くなった▼悪を徹底して描いてこそ、正義を強く訴えることができる。ドラマの世界から悪が消えてゆくことが、それだけ世の中の正義が希薄になってゆくことの証拠でなければ、さいわいである。 「大暑」の首都圏大停電 【’87.7.24 朝刊 1頁 (全840字)】  日本列島の温度が平均1度上がると、全国の電力需要量が350万キロワットもふえるそうだ。この数字には、クーラーの普及が一役買っている▼暦の「大暑」にあたる23日、東京の八王子では、寒暖計が39度を示した。天気の神は、暦の「大暑」にあわせるいたずら心をもっていた。午後、関東地方では一時、広い地域で停電があった。暑さにうだって扇風機やクーラーを使う人が急増し、電力を供給する側が対応しきれなくなった。ひととき、電車の運行が乱れ、道路の信号機の光が消えた。ビルのエレベーターに閉じこめられる人があり、銀行や病院のコンピューターが混乱した▼「夏は来ぬ相模の海の南風にわが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ」と吉井勇が歌ったのは20代のころだ。勇はこうも歌っている。「海風は君がからだに吹き入りぬこの夜抱かばいかに涼しき」▼潮風の心地よさをなまなましく表現したこういう歌にお目にかかると、散文的な話で恐縮だが、体感温度は、湿度に比例し、放射熱に比例し、さわやかな風に反比例するという話を思いだす▼きのう35.9度を記録した東京・銀座の裏通りを歩くと、アスファルトの放射熱と、クーラーから吐きだされる熱風とがくわわって、ただならぬ暑さになっていた。私たちは、海風や緑陰の風をからだに吹き入れる自然涼法の暮らしから、人工涼法の生活に移っているが、この人工涼法のもろさを、今回の事故は教えてくれた▼話は飛ぶが、ある駐車場ビルで、銀座のツバメがこの一帯では最後の抱卵をしている、と友人にきいて見に行った。たしかに1階の軒下に巣があったが、親鳥はいない。「一等地だからね。高い値段の巣だよ」と駐車場で働く人がいった。「この暑さじゃ、親鳥がいなくても卵がかえっちゃうね」ともいった。親鳥がさっと戻ってきて卵を抱えた。からかわれたのをどこかでききつけた、という様子だった。 米「経済優先度評議会」のSDI批判 【’87.7.25 朝刊 1頁 (全851字)】  前にもこの欄で紹介したアメリカの「経済優先度評議会」が米戦略防衛構想(SDI)を批判している。「今のままでは、SDIはアメリカ史上最悪の、高価で不可解で、しかも戦略的効果のはっきりしない計画になる」と▼SDIのために、どの州がどのくらいの税金を払い、どのくらいの契約を得ているのか。評議会のロージイ・ニムルディーさんはこのことを調べ、近く米国で出版される本の中で「大半の州が損をしている」と結論づけている。納税者意識の強い国の人らしい分析でおもしろい▼ニューヨーク州など43州の住民は、SDI予算の80%を払っているのに契約額は14%しかない。一方、カリフォルニア州など7つの州とワシントン特別区は、SDI予算の20%しか払っていないのに86%の契約額を得ている。こういう不均衡はアメリカ経済を混乱させるという主張である▼レーガン政権は、SDI計画に4000億ドルから1兆ドルの支出を見こんでいる。ベトナム戦争の出費をはるかに超える額で、納税者の負担は重いが、そのわりに雇用には貢献しない、という分析もあった▼アメリカの納税者に、これほどの厳しい監視の目があるのだ。日本の企業が参加しても、どれほどの契約が見こまれることか。事実、英国ではすでに契約額の少なさに失望の声があるという▼西独の企業にも、SDI参加に消極的な空気が強かった。(1)予想される投資額があまり大きくない(2)民生技術への応用がそれほど期待できない(3)東西貿易に支障のでる心配がある、という理由によるものだ▼SDIをめぐる日米共同研究で、ある新技術を開発したとする。その新技術をたとえば洗濯機に組みこんだ場合、共産圏への輸出はどう規制されるのか。そういった重要なことも、秘密のままでわからない。やたらに秘密がふえて、秘密保護を求めるアメリカの圧力が強まる、ということだけは想像がつく。 歓迎したい点訳絵本の郵便料金の無料化 【’87.7.26 朝刊 1頁 (全842字)】  参院予算委で、下村泰さんが「点訳絵本の郵便料金を、点字図書なみに無料にせよ」と主張した。唐沢郵政相は「可及的速やかに無料化を図る」と答えたが、可及的速やかではわからんとせまられ「27日から」といい直した▼こういういい直しは歓迎だ。郵政省は、点訳絵本は点訳本ではないなどと理屈をこねず、有料にしたものを撤回するのはメンツにかかわるなどと突っ張らなかった。そこのところがいい▼点訳絵本というのは、画期的な発明だ。「おかげで子どもに、ひらがなや数の大きさを教えることができた」という目の不自由な母親の感想もあった。親と子が一緒に1冊の絵本を読みつつ話し合うことができる、というところにも意味がある▼2カ月前、岩田美津子さんの点訳絵本の会の話を紹介し、郵送料の無料化を訴えたことがある。たくさんの賛成のお便りをいただいたし、北九州市議会が無料化を望む「意見書」を郵政相に送る、という動きもあった▼岩田さんはこういっていた。「郵政省の方にお願いしたい。この問題をお役所の机に向かって考えるのではなく、ひとりの人間として、子を持つ親として考えていただきたい」と。郵政省の企画課の人たちは、議論を重ねた。そして無料化にふみきった▼6年前、服飾デザイナーの森南海子さんが点字で『手縫いの服づくり』という本を出版したことがある。盲人とボランティアが一緒に仕事ができるように、図版や写真をいれた。そのために点字図書扱いを拒まれ、郵送料が無料にならなかった。「抗議する前に悲しくなった」と森さんは語っていた。当時に比べれば、今回の判断は上出来だ▼今は4、50人の点訳者が、点訳絵本を作って送ってきてくれる。ボランティアの人が全盲の岩田さんの仕事を支えている。「よかったあ。本当によかったという気持ちでいっぱいで」。岩田さんのはずんだ声が電話口にはね返ってきた。 日本人とふろ 【’87.7.27 朝刊 1頁 (全838字)】  なんとヨーロッパの若い女の子たちは、シャワーもろくに浴びないのです。と、リュックひとつ背負って貧乏旅行してきた女子学生がユースホステルでの体験を新聞に投書していた▼「彼女たちのほとんどは、洗面台でタオルを使って体をふくだけ。毎日のようにふろに入る日本人からすれば、これでいいのか、と」。東北地方から西の日本列島は連日、猛暑、多湿のただなかにある。われらがなぜ、ふろを好むのか、説明の要もない▼寛永18年(1641)の記録では、すでに江戸の町ごとにふろ屋があり、庶民の生活に欠かせない存在になっていた。江戸期のユーモア作家、式亭三馬が『浮世風呂』で描いたように、そこは世間話をし、ぐちをこぼし合う、人びとの社交場でもあった▼銭湯の壁絵(ペンキ絵)は白砂、青松、白帆と決まっていたものだが、最近はマンガのドラえもんやハワイ、ニュージーランドなどの観光地風景が主流だそうだ。自宅ぶろの普及率は70%を超えたといわれ、ふろ屋さんも客の引き留めに知恵をしぼるが、劣勢は覆いがたい▼それでも銭湯愛好家は少なくないし、この2、3年は都市近郊の道路沿いに車で行ける「レジャー浴場」がつぎつぎに誕生、主婦層の井戸端会議場としてよく利用されている。江戸以来の伝統は健在だ▼ところで、水不足の東京では、公立の敬老館やコミュニティーセンターに設けられたお年寄りのための無料共同浴場が、もう1カ月近くも閉鎖されたり、週2回が1回に減らされたりしている。ここに通っていた74歳の男性は「ウチにもふろはあるが、大きい湯船で仲間と話すのが日課だったのに」とさびしそうだった▼節水策は必要だ。けれども、真っ先に対象とされた1つが、弱い立場にある老人というのでは、心やさしい社会とはいえまい。詩人の田村隆一さんは書いている。「仁義廃れば銭湯廃る  銭湯廃れば人情廃る」 ナゾ多いウナギ 【’87.7.28 朝刊 1頁 (全847字)】  数年前、ミクロネシアのポナペ島でオオウナギにお目にかかったことがある。滝が流れこむ沼の岩陰に潜んでいて、頭をのぞかせていた。見える部分だけでも20センチはあった。全長は1メートルを超えるだろうと案内役の土地の青年が手をひろげた。透明な水の底で目が鋭く光り、かなしげな顔にみえた▼人間どもが近づいても動じない。ある島の王子が別の島の姫を慕ってウナギに化け、海を渡る昔話が、南の島にはある。堂々としていて逃げ隠れしないところは、いかにも王子の化身にふさわしい▼ウナギは遠い海のどこかで、卵を産む。成長した子ウナギは長い旅を続けて河口にたどりつき、川をのぼる。いわゆるウナギ登りである。土の上でも、湿り気さえあればはって進む習性がある▼そういえば、ウナギに化けた王子は、沼で2、3メートルのウナギに成長するが、人間の姿に戻れなくなる。怖がって逃げる姫を追って、のたうちながら地上をはうことになる。このかなしい昔話は、ウナギの生態の一面をよくとらえている▼私たちが食べるニホンウナギはどこで卵を産むのだろう。琉球海溝を中心とする海域だという説もあれば、フィリピン海溝説もある。ウナギという生き物にはナゾが多くて、水槽にいれておくと、絶食したまま100日も200日も生きる例があるという▼ウナギは、ぬらりくらりとして始末におえない。海水でも淡水でも生きられるしぶとさを備えている。泥の中に身を隠すすべも知っており、その生態はなんとも精力的である。別に、政治家の姿に結びつけようとして、特性を並べたてたわけではない。どんなにいきのいいウナギでも、新聞紙で押さえると、屈伸の自由がきかなくなる、と書いた本もあった。なんとも妙な話だ▼きのうは、土用の丑(うし)の日だった。丑の日にかごで乗り込む旅うなぎ、という古川柳があったが、近ごろの旅うなぎはジャンボ機で来る。 節水は「水源自立」から 【’87.7.29 朝刊 1頁 (全849字)】  中国の長春と大阪とでは、飲む水がよく似ている、と中学生の柴田明子さんは思う。薬のにおいがして、あまりおいしくない。国が違っても、都会の水の味は変わらないなと思う▼明子さんが、母の祖国である日本の土を踏んだのは3年前だ。母、兄、姉とは一緒だったが、父は今も長春で暮らしている。長春では毎年のように川の水が少なくなり、水道の水がでなくなった。両親はバケツやおけに水をくんでためた。学校では、先生が口ぐせのように「水を節約しよう」といった▼来日して驚いたのは、水がむだに使われていることだった。洗濯に、なんとたくさんの水が使われることか。ぞうきんをすすぐのになぜ水を流しっ放しにするのだろう▼明子さんは9歳の時に失明し、今は大阪府立盲学校中学部に在籍している。掃除の時に試してみた。バケツに3分の1ほどの水をいれてぞうきんをしぼった。4人の机をふくにはこれだけの水で十分だった。水を流しっ放しにしてぞうきんをすすぐと、水は倍もかかることがわかった▼明子さんはまた、市民の水がめである琵琶湖の水のことも勉強した。水が大量に使われ、水位が下がれば生態系が変わってさらに湖の汚れがます。だからこそ節水が必要なのだ、という思いを文章にした。それが水の作文コンクールの最優秀賞に選ばれた▼国土庁の今年の「水資源白書」によると、昔は10年に1回の割で発生していた渇水が、昨今は4年に1回の割で発生している。雨量が少なくなり、しかも平均気温が上がっているので雨の蒸発量がふえている。利用できる水の量が減り、日常的な節水が必要な時代になっているのだ▼さらに大切なのは「水源自立」の考え方だろう。上流の雨をあてにするのではなく、都市に降った雨をゴミのように捨てず、蓄積して利用する道に成功するかどうか。このことを抜きにして水資源を論ずるのは、それこそ水に絵をかくようなものだ。 国会は政治倫理法の制定を 丸紅ルート2審判決 【’87.7.30 朝刊 1頁 (全845字)】  ロッキード裁判丸紅ルートの1審の時は、必ず自民党田中派の国会議員が2、3人、法廷に姿をみせていたそうだ。初公判から判決まで、欠かさず傍聴に来ていた人もいた。だが2審では、その人たちの姿がほとんど消えた▼控訴棄却を伝えるテレビを、田中角栄被告は自宅でみていたという。どういう表情でみていたのか、「誠に残念至極だ」という通りいっぺんのコメントからは想像することができない▼この判決は「政局の動向に関係がない」と政府、自民党の首脳はいう。元首相にもはや政治的な影響力がないという意味ではまさにその通りだ。それはそれでわかるのだが、首脳たちが口々に「政局に影響なし」といいはるのを読むと、待てよ、という気になる▼「政局」への影響はともかくとして、「政治」への影響を考えないでいいのか。2審の判決は「行政の利権化は民主主義政治の基盤を揺るがす」といっている。それを本気で「厳粛に受けとめる」つもりなら、何よりも判決の重みを政治に影響させることが民主主義の基盤を守る道だろう▼国会がもたついている間に、地方自治体に「政治倫理条例」をつくるところが現れた。市川俊司さんは、その著『いま政治倫理を・手づくりの条例で』の中で各地の実態を詳しく紹介しつつこう書いている。「政治は住民の政治意識を反映し、政治倫理は住民の政治倫理に対する意識を反映する」と▼条例第1号を生んだ堺市の場合も、汚職議員の辞職を求める市民の力が背景にあった。条例は(1)汚職事件を起こした議員、首長に対する措置(2)資産公開制度の2つを柱にしている。「政治浄化を果たすのは住民しかないことを肌で感じて始まった」先駆的な運動の成果だ。今は8つの市や町に政治倫理条例が生まれている▼国会は、政治倫理審査会の設置などでごまかさず、利権政治を監視する「政治倫理法」をつくることに力を注ぐべきだろう。 7月のことば抄録 【’87.7.31 朝刊 1頁 (全843字)】  7月のことば抄録▼緊迫のペルシャ湾で。「機雷の危険地点を見つけたので知らせる。我々は被害を受けた。気をつけられたい」とタンカー護衛の米艦がソ連艦に交信した。「米軍艦、米軍艦、それは確かか」「確かだ。近寄らないように忠告する」「ありがとう、米軍艦」。そういうやりとりが本当にあったという。ちょっといい話だ▼「国務長官の海外出張の飛行機代を提供していたホワイトハウスが、旅費を支給しないなどのいやがらせを始めた」とシュルツ国務長官が証言した。イランへの武器売却に反対した長官へのいやがらせだ。大国アメリカにして、こういうことがあるのかと思う▼「日米間の緊張は各分野で高まり、日本の経済政策に対する米国の寛容度は、戦後最低のところにきている」とマルフォード米財務次官補▼「1つの違反が二重、三重に悪乗りされて、極度の悪者にされている感じがある」と富士通の山本社長が東芝機械のココム違反事件で。アメリカ国内にも「東芝製品は最高で、これこそ顧客が求めているものだ。東芝製品の輸入が停止されれば新規顧客を得られず、会社は倒産してしまう」という電話設備会社社長の異見もあった▼今月は、日米関係をめぐる話題であふれた。朝日せんりゅうに「参加することに疑義ありSDI」(深尾幸介)。「宇宙戦艦ヤマト」の漫画家、松本零士さんが疑義を呈している。「よその計画に乗って、日本人の意図と違うことが起こった場合、一体だれが責任をとるのだろうか」▼三宅島の米軍機訓練用飛行場建設問題で「島の人は純情だ。特定のイデオロギーを信じこんでしまう」と栗原防衛庁長官。「国防のためだからと基地を押し付けるのも特定のイデオロギーではないのか」という島民の反論があった▼「本当によくやったと思うけど、勝てない。来年まで泣いて待つしかない」と岡本綾子さん。アメリカの大舞台で、熱い惜敗。 信州の高原で感じる「無一物中無尽蔵」 【’87.8.1 朝刊 1頁 (全845字)】  1週間ほど前、信州の高原を歩いていて、にわか雨に打たれた。傘をさして、人気のない道を歩いた。カラマツの林の縁にヤマホタルブクロが咲いていた。暗い感じの赤紫色の花がぬれて上下にゆれている。長さ10センチもあるミミズが現れて、道をはっている。雨を吸ったダケカンバの幹がさんご色に輝いている▼やがて雨がやんで、淡い露草色の空が現れた。急ぎ足で去ってゆく雲のはてに、目にしみる絹雲があった。ほんの一瞬だが、自分はいま地球という小さな惑星にあって宇宙の中をただよっている、というふしぎな感覚にとらわれた▼天と地があって、ほかに何もない。空と山があってほかに何もない。そういう何もない空間に、実はたくさんのゆたかなものがあふれている。「無一物中無尽蔵」という言葉はこんな時に使うものではないのかもしれないが、空と山だけの世界にふと、この言葉を重ねあわせたい気持ちになる▼雨あがりの高原には、光のしずくが乱舞している。群生するヤナギランが風を求めて背のびをしている。細い葉も細長い花穂も空を突く形になっている。白いめしべがめだつ赤紫の花にははなやいだ雰囲気があって楽しい。紫のしっぽをぴんと立てたクガイソウが、所在なげに風と遊んでいる▼25歳で夭折(ようせつ)した立原道造が、高原の恋が終わってしまったあとの思いを歌っている。「また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる/明るい青い暑い空に 何のかはりもなかったやうに/小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほってゐる」▼「無一物中無尽蔵」は、一物もない中にこそ尽きることのない宝がある、という意味だろうか。私たちには、文明性の原理に頼る心があり、同時に、自然性の原理に回帰しようという心がある。そして私たちはしばしば、文明性の原理を拒み、つかのま、文明的なものが一物もない世界に、無尽蔵の宝を求めようとする。 「制服」 【’87.8.2 朝刊 1頁 (全833字)】  パキスタン最大の麻薬密売組織の運び屋となっていた33歳の日本人が、逮捕されオランダで服役中だ。ヨーロッパの数カ国に計27億円相当のヘロインを持ち込んだが、彼が巧みだったのはボーイスカウトの指導者の制服を着用していたこと。そのため空港の入管手続きも簡単で、税関検査もなかったという▼日本でも事情は同じ。消火器のいんちきセールスでつかまった男が「偽の制服に偽の文書、それに役人的な口のきき方。これで百人力だね」と手のうちを明かしていた▼警察庁が先日、悪質商法から消費者を守るために、と作ったパンフレット『あなたを狙うだましのテクニック』に、犯人たちの告白が紹介されている。一見常識的ながら、実は人間学の教科書を読む趣がある▼海外商品先物取引にからんで、犯人いわく。「もうけ話に弱いから、私らにだまされるんだよ。そんなにもうかりゃ自分でやるさ」。格安に海外旅行に行けます、との「特典」付きで英語教材を売りつけていた男は「大人も子どもと同じで、オマケでよく釣れる。そのオマケもごまかしなのに」▼彼らの人間観察は鋭く、弱点を確実に突いてくる。「一流会社が関係しているとかさ、一流という言葉ほど私らに役立つものはないね。客はすぐ信用して、乗ってくるよ」▼去年のいまごろ、東ベルリンのタクシー運転手が、3体のマネキンにソ連将校の制服を着せて車に乗せ、自分は伍長服で運転、将校の西ベルリン巡視を装って、まんまと「壁」を突破した。検問所の警備兵は、身分証明書の提示を求めるどころか、車内のマネキンにうやうやしく敬礼し、さっと通してくれた▼海外はもちろん、日本の各紙も、記者会見で公開されたマネキンの写真を添えて大きく取り上げた。ところが、これが作り話。運転手がテレビ局に200万円で売り込んだ映画のネタだった。新聞も「制服」に惑わされた。 メッカ事件とイ・イ戦争 【’87.8.4 朝刊 1頁 (全853字)】  サウジアラビアの町、メッカで起こった悲劇の真相は、まだよくわからない。約400人もの死者がでたというが、そんなにたくさんの犠牲者がなぜでたのか。イラン人巡礼団のデモと、それを抑止しようとするサウジ治安当局との間に、どういう形の衝突があったのだろう▼私たちはごく気軽にメッカということばを使っている。高校球児のメッカは甲子園で、演劇人のメッカはブロードウェーだ、というように使う。だが、イスラム教を信ずる人にとってメッカは最も重要な聖地である▼イスラムの信仰を支えるものに5柱がある。(1)信仰の告白(2)1日5回の礼拝(3)喜捨(4)断食(5)メッカ巡礼の5つの柱のことだ。ある期間、メッカには60以上の国の信者約200万人が集まる。この巡礼を生涯の悲願にしている人が大勢いるし、炎暑の砂漠を歩いてやってくる人もいる▼事件はその、イスラム教の聖地で起こった。いや、聖地だからこそ、起こるべくして起こったのだろうか、信者たちは、この聖地巡礼を、イスラムの大義を訴えるのにふさわしい時、場所と考えたのだろうか▼事件の背景にはイラン・イラク戦争がある。イラク支援のクウェートのタンカーを護衛する、という米軍の動きがイランを刺激した。米ソのペルシャ湾介入に対する怒りが、イランを硬化させている。その背景にはさらにイスラム教シーア派の反西欧の主張があるだろう▼G・H・ジャンセン氏はその著『挑戦するイスラム』(最首公司訳)の中に書いている。「イスラムに対する西欧の態度は第1に『恐怖』であり、西欧に対するイスラムの態度は第1に『憎悪』である」と。相互誤解の長い歴史の積み重ねが、緊張を高めている。根底に恐怖があり憎悪がある限り、すべての努力はサイの河原に石の塔を積みあげるようなものだ▼今回の事件に限っていえば、非難の応酬の前に、事件の真相のなっとくできる説明がほしい。 生涯の友「1冊の本」 【’87.8.5 朝刊 1頁 (全833字)】  この夏休みに、君は「1冊の本」にであうことができるだろうか▼作家の大岡昇平さんは、中学1年の時に漱石の『坊ちゃん』にであった。大人の世界をのぞき見する心のときめきを覚え、なるほど人生とはこんなものかという気持ちになったという。その後、何十遍も読み返し「読み返すごとに、これまで気がつかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す」と書いている。大岡さんにとってはかけがえのない1冊の本だ▼劇作家の飯沢匡さんは、小学5年の時にキャロルの『ふしぎの国のアリス』を読み、異常なほど興奮する。そこには教訓的な話やセンチメンタルな読み物とは別の世界があり、ナンセンスの楽しさ、といったものに刺激をうけた。飯沢さんはやはり、大人になっても、この本を時々読んで楽しむそうだ▼私たちはたくさんの本とすれ違う。すれ違っただけでは気がすまず、また会いに行くことがある。2度、3度と会っているうちに、離れがたい思いがわいてくる。そのようにして何冊か、生涯の友と呼ぶにふさわしい本が生まれる。生涯の本を何冊もつことができるか。それは10代、20代の読書量がきめることになるだろう▼作家の松本清張さんは、芥川竜之介や志賀直哉にはひかれず、菊池寛の『啓吉物語』にひかれた。自分のやるせない年少のころ、『啓吉物語』でどんなに活力を与えられたことか、と書いている。本の個性と読み手の個性との間で火花が散る時、そこに生涯の本が生まれる▼私ごとになるが、新聞記者になりたてのころ、新潮文庫の『俳諧歳時記』4冊を買った。ある俳人を取材するので、歳時記の何たるかくらいは知っておかないと、という軽い気持ちだった。「目をとぢて秋の夜汽車のすれちがふ」(中村汀女)という句が飛びこんできて、たぶんそこで火花が散ったのだろう。古ぼけた歳時記は、34年後のいまも机上にある。 映画「風が吹くとき」が訴える民衆の責任 【’87.8.6 朝刊 1頁 (全856字)】  ベストセラーになったブリッグズの絵本『風が吹くとき』がアニメ作品になって、上映されている。見終わったあと、心に深く響いてくる映画だ▼突然、核戦争が起こり、英国の田舎に住む老夫婦ジムとヒルダが次第に放射能に「破壊」されてゆく物語だ。いまの戦争の指揮官はだれだとジムが問い、ヒルダが「たぶん、コンピューターじゃないの」と答えるくだりがあった。コンピューターは核戦争の責任をとらない。では一体、だれが責任をとるのか▼核戦争で何億、何十億の人が殺された時、裁かれるべき戦争指導者が生き残ったとしても、裁き得る民衆は死に絶えているだろう。しかもあらゆる責任は、コンピューターという盾の陰であいまいにされてしまうだろう▼核戦争は、それが起こってから責任を追及しても、遅い。核戦争に生き残る道は核戦争を起こさないことだ。ジムとヒルダは政府の手引書通りに簡易核シェルターを作り、政府を信じ、政府にすべてをまかせて死を迎える。裁かれるべきは戦争指導者だけではなく、民衆のこの愛すべきおろかさではないか、と映画は訴えている▼ジムは最期に「彼らのなすべきことは論ずることにあらず/彼らはただ戦い死すのみ/死の谷に600の兵士は進む」というテニスンの詩の断片を口ずさむ。しかし、むだ死にを防ぐためになすべきことはまさに、論じ、反対することだと原作者は主張しているようだ▼この欄で前に紹介した宝塚市の北浦葉子さんから便りをいただいた。単身、アメリカの学校を回ってヒロシマの映画『にんげんをかえせ』を1万6000の子供たちにみせた女性だ▼北浦さんと志を共にする7人の若者がこの1年、アメリカで5万の人に同じ映画をみせ、交流を深めているという。その仲間の1人がいっている。「今の若者を動かせる平和教育とは過去を語るだけでなく、では自分たちに何ができるかという答えを共に考えることではないだろうか」 土地転がしとB勘屋 【’87.8.7 朝刊 1頁 (全853字)】  B勘屋というえたいの知れない言葉が社会面にでてくるようになった。土地転がしの暗部にうごめく商売のことで、ブラックマネーのBと、裏勘定の勘だ。ブラックでしかも裏とくれば、かなりおてんとさまがまぶしい稼業だろう▼ある不動産業者が土地転がしのもうけをごまかす時に、B勘屋を呼ぶ。B勘屋は取引の仲介をしたかっこうにしてニセの領収書を作り、脱税の操作をする。そのB勘屋対マルサの闘いの中で政治家の姿が見え隠れし、東京地検も内偵を始めた。やるからにはとことんまでやってもらいたい▼真相はまだわからない。だが、地価対策に責任のある政治家がもし、土地転がしにからむ脱税をもみ消す役目を引き受けたとすれば言語道断だ▼司馬遼太郎対談集『土地と日本人』の中で、司馬さんは重要な指摘をしている。昨今の日本人の顔にはかつての面差しにはなかった卑しさがでている。そしてそれは「土地の不安定さに根源があるのではないか」という問題提起だ▼その指摘から10年以上がたち、残念ながら卑しさの度合いはとめどなくましているように思う。土地転がしにからみ、1枚のニセ領収書を作るだけでたちまち5億円が手に入るこの異常さ、投機の対象になる土地を切り刻んで投げ合うすさまじさ、政治がいままで有効な手を打たずにきたおろかしさ、司馬さん流にいえば「人類史上はじまって以来の異常社会」なのだ▼国鉄清算事業団が、都心の超1等地をいくつか、売りにだすという。何たることかと思う。旧国鉄総裁公館は、いま売り出せば坪4、5千万円になり、地価高騰をさらにあおることは目に見えている。東京都が猛反対するのは当然だ▼赤字解消のためなら何をしてもいい、ということはない。国鉄跡地の売却では、地方自治体の意向を十分に反映し、地価高騰をあおる愚を避けることだ。国鉄清算事業団は、木を見て森を見ぬ硬直性をいまだに清算しきれないらしい。 岸信介元首相の死 【’87.8.8 朝刊 1頁 (全858字)】  岸信介元首相の政治的才能、その説得力、その時局を読む早さ、そのソツのなさは相当なものだった。若くして「革新官僚」として頭角を現した人だ▼戦争中の『重光葵手記』にこうある。「東条内閣は一種の改新イデオロギーを以て出現し、戦争から統制へと直進して、次から次へと軍歌と号令で突進した。その中心人物は、鈴木企画院総裁、……岸商相であり」▼岸氏は、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されるが、よみがえって、宰相への道を歩んだ。拘置所をでる時「ゴー・ホームならんと窓に通訳の告げし日今日はクリスマス・イブ」という歌を作ったそうだ。戦争政策の最高指導者であったものの歌としては、あまりにも心の痛みの影がないことに驚く▼やがて、評論家の阿部真之助氏がこう書く。「多くの追放者が徒らに過去のカラを捨て切れず、ボヤボヤとしているのに、岸のみは溌剌として世の中に躍り出てきた。かつては軍閥官僚の寵児であったものが、いまでは民主主義の流行歌を高らかに唱って調子をはずさない」▼しかし阿部氏はこうも書いている。「おおむねの日本人で、機会主義者ならざるものが、どれほどあったことであろう」。岸氏を首相の座につかせたのは「おおむねの日本人」の発意だった、ということを否定するのは難しい▼岸氏には有名な3S政策があった。スマイルとサインとシェークハンドの3つだ。漫画家、清水崑氏との対談で「まあ、なんですな、大衆が納得し、理解するのは理屈だけではいけませんな」といい、崑氏に「大衆という言葉を一段高いとこからおっしゃるのはよくない」と切り返されている▼切り返されて「ヒャー、やられた」とおどけてみせるところに、この人のソツのなさがあった。常に「大衆」に接することに努めた政治家であったが、人びとの心の声に耳を傾けるのはあまりお上手ではなかった。私たちはそこに日本的権力構造の中枢に生き続けた人の限界をみる。 早口時代 【’87.8.9 朝刊 1頁 (全844字)】  作家の佐藤愛子さんと中山あい子さんが、ある雑誌の対談で「ひとつのことをゆっくりしゃべろう」をテーマに、こんなことをいっていた▼テレビに出ると、こちらがしゃべろうとしているのに司会者がペラペラとしゃべりまくる。なにか言おうと思っても、時間がくればパッとCMで切ってしまう。あんなところでは言いたいことなんかゼッタイ言えない、と▼アメリカではいま、会話遮り術というのがまじめに研究されているそうだ。早口でまくしたてる相手をいかに遮り、こちらの言い分を逆にまくしたてるか、つまり早口で相手を言い負かす方法である▼これを身につけたコンサルタントがふえて、会社重役、タレント、テレビ司会者らにさかんに実技指導しているという。それによると、アーウーなどもってのほか、ときには相手と同時にしゃべりあう気迫を示さなければならない▼世の中、なにかにつけてスピードの勝負だ。話し方も例外ではない。NHKのアナウンス室にきくと、ニュースを読む速度が、テレビの初期までは1分間に270−280字、速いアナウンサーでも300字は超えなかったのに、最近は平均で350字、速い人は400字にもなるという▼芸能タレントなどのおしゃべりになると、さらにその倍くらい速くて、しかもそれがうける。にぎやかだし、華やかだし、調子がいい。数年前にテレビに漫才ブームがあって、それでビートたけしらが出てきたのだが、それはもう、ことばのマシンガンの撃ちあいに見えた。これがテレビ界全体の早口化を進めたようだ▼口が利くこと、すなわち口が機敏にはたらくことが利口である。利口なことをかしこいという。沈黙は金などというのも、しょせんはこの価値意識の裏返しかもしれない▼けれども、この利口さが伝統の間(ま)の文化まであだ花にしてよいものかどうか。早口時代が、口先人間の時代にだけはならないように。 軍事費大国日本、防衛費削減の具体的スケジュールを 【’87.8.10 朝刊 1頁 (全844字)】  「日本は軍事大国ではないとの声は国内で聞かれるが、軍事費大国であることだけは確かである」。東大教授・佐々木毅さんが最近の本紙にこう書いていた。同感である▼来年度の防衛予算要求の基準を、政府は前年度当初予算比で6.2%増と決めた。金額にして2180億円。まるまる認められると、来年度の防衛費は3兆7000億円を突破する。こんな大金を防衛に投じている国は、世界でもかぞえるほどしかない。軍事費を広くとらえ、例えば軍人恩給費などまで含める北大西洋条約機構(NATO)の方式をとると、日本の防衛費はもっと増える▼このお金で防衛庁は、新鋭戦闘機F15や地対空誘導弾パトリオットを購入するほか、新型ミサイルシステム搭載のエイジス艦を買ったり、超水平線(OTH)レーダー建設の調査を始める。エイジス艦は敵のミサイル多数を同時に探知、撃破するのだそうだが、世界広しといえども持っているのは米国だけだ▼なにしろ値段が高い。日本が導入するのは1隻千三百数十億円。当初の見込みより下がったが、それでも最新のミサイル護衛艦の約2倍だ。海上自衛隊はこの巨額艦を8隻そろえたいという。そうなれば、陸上、航空の両自衛隊も黙ってはいまい。新鋭装備競争に火がついて、防衛費はいくらあっても足りないだろう▼肝心なのは、そういう高価な装備が本当に日本の防衛に役立つか、ということである。米国防長官顧問を長いこと務めた軍事専門家ウィリアム・カウフマン・ハーバード大教授に会ったとき、教授は「作っても役にたたないか、屋上屋を架す」装備の1つにエイジス艦をあげた▼日本はこれまで、外へ向けては軍縮の重要性を説いてきたが、自分の軍事力は軍縮の対象外といった顔だった。しかしこれほどの軍事費大国になった今日、それではすまない。防衛費削減の具体的スケジュールを示す時期にきているのではないか。 言葉の学びあいこそ国際化への道 【’87.8.11 朝刊 1頁 (全852字)】  日本語で国際会議をやれたら、どんなに楽だろう。英語がうまく話せないばかりに、スリープ(居眠り)スマイル(にやにや笑い)とサイレント(沈黙)の3S主義でしのぎ、外国人からバカにされる。もし日本語が通じたら、堂々たる見識を披歴して、かれらを驚倒させるものを▼そんな夢をかなえてくれるシンポジウムを年に1度、福岡ユネスコ協会が開いている。25年目の今年は18カ国から230人が集まり、日本語だけで3日間、『現代の日本と世界』を論じあった▼日本語を学ぶ外国人は世界中で60万人もいる。数だけでなく、質の向上がすばらしい。それを改めて痛感させられた。たとえば「日本は本当に経済大国だろうか」と問いかけたブルピッタ京都産業大助教授▼祖国イタリアでは3世代同居がふえている。老齢年金が多いし、なにより「親を置く場所があるからだ」。わがスパゲティを米国がしめ出しにかかっているが、心配ない。「ドイツと日本のみなさんがたくさん食べてくれるからだ」。満場爆笑すると「笑いごとじゃありません。米国だけ相手にしていて、日本は大丈夫ですか」とクギを刺す▼韓国の李御寧・梨花女子大教授は「日本語ほど侮辱語の少ない言葉はない」と日本人のやさしさを説き、返す刀でそのせわしなさを切る。「時ハ金ナリ」という西洋のことわざが、中国や韓国に定着せず、日本だけに普及したのはなぜか。「日本はアジアから見ても、ふしぎな国です」と語った▼鋭く、しかもユーモアにみちた発言をきいていると、これほどのスピーチを日本人ができるだろうかと考えこんでしまう。英語だからダメで、日本語ならまかせておけ、とは到底いえない▼われわれの言葉を、これほど海外の人びとが学び、使ってくれる。日本も大したものだとうぬぼれる前に、こちらもいっそう外国語に精を出さねばなるまい。こういう学びあいこそ、国際化への道というものだろう。 なぞの絵師・写楽 【’87.8.12 朝刊 1頁 (全852字)】  写楽とはそもそもなにものなのだろう。写楽は江戸の後期、彗星(すいせい)のように現れ、あやしい光を放ってたちまち消えていった。どこで生まれ、どこで絵を学び、どこで死んだのか、一切がナゾだ。わかっているのは、寛政6、7年の10カ月間に、写楽の落款のある約140点の浮世絵が残った、ということだけである▼その写楽を、ベラスケスやレンブラントと並ぶ世界3大肖像画家の1人に数えたのは、ドイツ人のユリウス・クルトだった。1910年(明治43年)のことだ▼写楽がわが国で見直されようとした時、その作品の多くは欧米に流れていた、という皮肉な事実に私たちはこだわり、ちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。西欧の名士のお墨つきがあってはじめて見直しがあったとすれば、そのことを一番おかしがっているのはあの世の写楽自身だろう▼こんど、米国・ボストン美術館にあった北斎の絵の版木の裏に、写楽の版画が彫りこまれていたことが、わかった。江戸を代表する絵師2人が1枚の版木を共にしていたという偶然を、どう解釈したらいいのだろう▼この人こそ写楽だという仮説は20も30もある。応挙説、十返舎一九説、山東京伝説とさまざまだ。NHK特集『謎の絵師・写楽』で、池田満寿夫さんと取材班は精力的な追求のすえ写楽は歌舞伎役者、中村此蔵だと推理して、話題を呼んだ。ただし此蔵の作品は芸術的にすぐれている第1期の28点だけで、あとは別人の作、とみる▼写楽の役者絵は、今でいえばブロマイドである。当時、経営難だった大手版元の蔦屋は、起死回生の思いで無名の写楽を起用した。ありきたりの役者絵ではなく、そこには芝居をする生身の人間の存在感があった▼写楽のナゾ解きはこれからも続くだろうが、ナゾがナゾのままであるほうが写楽にはふさわしい。この腕のいい職人には、死後の人気をしゃらくさいと笑っているようなところがある。 全日空機と自衛隊機のニアミスに空の安全を憂う 【’87.8.13 朝刊 1頁 (全872字)】  岩手県の雫石町上空で自衛隊機が全日空機と衝突した。16年前に起こった事件だが、私たちには今なおなまなましい記憶がある。この事故で全日空機の乗員・乗客162人全員が死亡した▼そういう悲惨事が再発してから「なぜ」を追及するのでは遅い。だから今回のニアミス事件でも、厳しく警告しておきたい。防衛庁も運輸省も、異常接近の原因を追及し、事故防止のてだてをつかんでもらいたい▼いまのところ、自衛隊機が四国南方の訓練空域の内側を飛んでいたというのに対して、全日空機は間違いなく訓練空域の外側を飛んでいたといい、両者のいい分はくい違っている▼もし自衛隊のいう通りなら、民間機が訓練の邪魔をし、乗客を危険にさらしたことになるし、全日空側のいう通りなら、自衛隊機が民間機の空路を侵し、安全をおびやかしたことになる。一体どちらのいい分が正しいのか。状況を正しくとらえておかないと、同じようなニアミス、そして惨事を防ぐことができない▼全日空機は100メートルか200メートルの異常接近で「非常に危険を感じた」といい、自衛隊機は13キロ、もしくは5.5キロていどの接近だといって問題にしていない▼200メートルと5000メートルとでは、びっくりするようなくい違いだが、ここでは「すれ違った時の乱気流で機体が揺れた」という全日空機長のことばを信じたい。ニアミスそのものも恐ろしいが、さらに恐ろしいのはニアミスがあってもそれを問題にしない風潮だ▼空の安全は大丈夫なのだろうか。空の自由化がますます空路の過密化を生んでいるのではないか。今回の全日空機が本来のルートよりもやや南を飛んだことも、空路の過密化と関係があるのではないか。軍用機が訓練空域をはずれることは絶無なのか。米軍機の使用が激しい沖縄でニアミスが多いのはなぜか▼ニアミスは、日本の空の病状悪化を告げる悲鳴だ。この悲鳴に耳を傾ける姿勢がなくては、治療はできない。 カエルの鳴き声 【’87.8.14 朝刊 1頁 (全845字)】  カエルの鳴き声をみごとに擬音化した、という意味で草野心平は稀有(けう)の詩人だろう。詩の中のカエルたちは「ろべえるろべえるろべえるろべえる」と鳴くかと思うと「げりんげるげりんげるげりんげる」と鳴き、「ぼああげるぼああげるぼああげる」とも鳴く。心平さんは、心ゆくまで耳を傾け、一匹一匹の鳴き声の違いをききわけていたに違いない▼詩人の耳のたしかさを、科学は裏づけている。同じ種類のカエルでも、個体によって鳴き声に微妙な差があるという。日本両棲類研究所、篠崎尚史さんの興味深い一文にそのことが書かれている(東芝発行の雑誌『ゑれきてる』の特集「歌う」)▼同種類のカエルは体の大きさによって声の高低が違う。体の大きな雄は低い声で鳴き、小さな雄は高い声で鳴く。カエルの雌は低音にしびれ、いちばん低音で鳴く雄のところに集まろうとする▼雌にもてない若い小型の雄は、悟ったかのように鳴くのをやめる。おもしろいのは、その小型の雄が、最も大きな雄の縄張りに身を潜めることだ。そして大型の雄を求めてやってくる雌をちゃっかり横取りする、というからやるものである。小さなものにも機会を与えるというなにものかの意思が働くのだろうか▼漫画家の東海林さだおさんは、少年時代、疎開先の栃木県でカエルを石にたたきつけて殺し、皮をむき、火にあぶって食べたそうだ。「ひもじかったのです。許してやって下さい。もうしません」と書いているのを『週刊朝日』で読んだ。戦時中はカエルの受難時代だったが、戦後の受難はさらに進んだ。農薬や開発で、私たちの身の回りからアマガエルやアオガエルの姿が消えた▼去年、沖縄北部の山奥で深夜、リュウキュウカジカガエルの鳴き声をきいた。きゅるきゅるきゅるという澄んだ声で、まぎれもなくあれは闇(やみ)をこがす恋の歌だった。あの雄は雌たちに合格点をもらえただろうか。 本になったテーマ談話室「戦争」が問いかける 【’87.8.15 朝刊 1頁 (全844字)】  去年の夏、本紙のテーマ談話室が『戦争』を主題にして連載を始めた時は、3カ月ほどで終える予定だった。しかし噴き出すような勢いで投書が集まり、連載の期限が次々にのばされた。今月末で連載が終わるが、寄せられた投書は4000通を超える▼その連載が『戦争・血と涙で綴った証言』という本にまとめられた。通読して、戦争というものの細部が語り明かすおぞましさがはだにこびりつく感じがあった▼戦時中のごく日常的な銃後の光景も語られている。在郷軍人に号令されて消火訓練をする。男も女も、ある外交官の家に水をかけるのだ。「非国民の家だ」といって水びたしにしてしまう▼戦時中はいつでもどこにでもあった日常的なできごとだが、あのころ、少年だった自分に、在郷軍人に反抗して水をかけるのを拒む力があったかと思うと、まことに心もとない。非国民だとののしられるのを恐れて水をかける側にまわっていただろう▼そして今、思想統制が強化され、同じような状況になった時、人びとは反抗しうるだろうか。利敵行為だ国賊だとののしられ、家族も村八分にされる道を選ぶよりも大勢順応の道のほうが楽だ、とは考えないだろうか。この本の中で語られる一つ一つの状況に自分をおく。自分ならどうするかを考える。どうすれば戦争の狂気を防ぎえたかを考える。この本は常にそういう厳しい問いかけを迫る▼戦場で、中国の農村少年を処刑する話が語られている。無実だと思い、救ってやりたいが命令にはそむけない。惑乱しながら、処刑に立ち会う話だ。銃後の消火訓練の話と少年処刑の話は飛び離れたできごとのようだが、実は強く結ばれている▼その状況状況で大勢に順応して生きる道を選ぶ。その無数の集積がじわじわと戦争政策を許し、ついにはそれを支えたことは否定できない。順応しまいと思った時の肉体的な恐怖感は、私たちのはだにしみこんでいる。 アメリカの中高校で日本語ブーム 【’87.8.16 朝刊 1頁 (全859字)】  「はじめまして私の年は18歳で高校の4年生。取っている学課は微分積分と経済と米国史と芸術と英語とスペイン語と日本語です」米国の首都ワシントン郊外のベセスダにあるホイットマン高校で日本語の勉強をしている生徒が、日本語で書いた作文の一節である▼担当のジーン・モーデン先生が学習の仕上げとして「自己紹介」という課題を与えたのだ。「本当は積分の方がむずかしいはずですが上級になるにつれ、日本語の方がむずかしくなると思いますよ」と書いた生徒もいる▼この高校では全校2000人の生徒のうち約100人が、週5時間、4段階のクラスに分かれて日本語に取り組んでいる。20編の作文に目を通してみたが、内容といい、字のきれいさといい、なかなかの出来栄えと感心した▼スタンフォード大学と海軍の学校で日本語を習得したモーデン先生は、この高校で8年前から選択科目として日本語を教え始めた。教科書と並行して使う手作りの教材が面白い。動詞の種類というプリントでは、「よむ」を例に現在、過去、未来形、さらには「よませる」という使役や敬語の表現をたたきこむ▼ひらがなから入り、どんどん文型を暗記させる。百人一首や格言を登場させる、という工夫もする。上級クラスの試験には「側面」「磁石」といった漢字にふりがなを付ける問題も出る▼日本語とくに漢字は難関らしく脱落する生徒も少なくないとか。敬語の勉強で「どなた」と言うべきところを、「お」を付ければ間違いないと「お・だれ」とやって、先生を苦笑させた生徒もいた。夏休みにすし屋でアルバイトをし、日本語の腕を磨く頑張り屋も▼この高校に子供を通わせている日本人が、漢英辞典を寄付したり、ホームステイをはじめたりして協力しているのもうれしい話だ▼ちょうど訪日中のモーデン先生は「アメリカの中高校では日本語ブームです。日本たたきと違う世界があることを知ってほしい」と語った。 都会の星の行方 「星空の街コンテスト」 【’87.8.17 朝刊 1頁 (全838字)】  織女星を頂点とした三角形の中に、双眼鏡でいくつの星をみることができるか。それを調べる「星空の街コンテスト」が始まった▼星がよくみえないのは、町の空気が汚れていることの1つの証拠だ。そういうことに関心をもってもらおう、というのが呼びかけ人である環境庁のねらいだ。コンテストには約8000人が参加するが、それはそれとして、夏の夜のひととき、あなたも銀河や織女星をあおいでみませんか▼15日の夜、東京の郊外は曇り空だった。大気内のゴミに街明かりが乱反射するせいだろう。空いちめんの鉛色が鈍い赤みをおび、雲の切れ目があっても肉眼ではほとんど星はみえない。16日の夜明け前、雲が切れて、東の空にシリウスがあった。3つ星がぼおっとかすんでみえた。織女星は雲に隠れているのか、よくわからない。銀河もさだかにはみえなかった▼一茶に「うつくしや障子の穴の天の川」という句があるが、いながらにして天の川と共にあるのは、今や私たちにとってはかなり、ぜいたくな話になった▼銀河は「川」であり「道」である。エジプト人は「天上のナイル」だといい、ユダヤ人は「光の河」だという。英語ではMILKYWAY(乳の道)だ。古代ギリシャの女神が赤子に乳房をふくませていた時に乳がほとばしって天空の道になったという▼中国には「月のある晩に銀河の光が淡くなるのは、銀河にすむ銀色の魚が月光を恐れて水に隠れるからで、ことに新月のかかる夜は、それを釣り針だと思って魚がひどく恐れる」という美しい伝説がある(野尻抱影『星の民俗学』)▼2月と3月にも環境庁の呼びかけで、すばる星団の星を数える星空観察比べがあった。100万人以上の都市では、30万人未満の都市に比べて、見える星の数がほぼ半減した。星は闇(やみ)を食べて光る生きものだ。闇を失った大都会では、多くの星が死んでしまう。 レイテ島に増やそう“水牛家族” 【’87.8.18 朝刊 1頁 (全846字)】  フィリピンのレイテ島は、太平洋戦争の激戦地の1つ。ここで死んだ日本軍の将兵は、8万人とも9万人ともいわれるが、現地の人たちも巻き込まれて犠牲になった▼それから40余年、なお安定と繁栄に遠い島には、熱帯林の中で、貧困に苦しんでいる農民がたくさんいる。もっと田畑を増やそうにも、熱帯植物のやぶをクワで切り開くのは容易ではない。農耕用の水牛がいれば、ずいぶん楽になる。しかし、自分たちで買う余裕はない。ときたま地主から賃借りして使うのがやっとだ▼日比の教会関係者の会議で訪れて、この実情を知った東京の踊哲郎牧師は「1頭どのぐらいするのか」と聞いてみた。水牛に引かせるスキの費用も入れて約6万円との答えだった。1集落に5頭もいれば十分だし、子牛も生まれる。母牛の出すお乳は、子どもたちの、すばらしい栄養源になる。帰国した踊さんは自分の教会で募金を呼びかけ、今年2月、まず5頭分を届けた。だが、集落は全部で70もある▼これが知人の間に伝わり、「一度には無理でも息長く協力しよう」という会ができた。海外援助とか国際協力とか、おおげさなものではなく、水牛の親子、そして島の人たちと、1つ家族のつもりで生きてゆこう。そんな思いをこめて『水牛家族』と名づけた▼会費は子どもたちにも参加してもらえるようにと、月200円。さっそく学校で話したら、みんなが賛成して、クラスぐるみの募金が始まった、という例も出ている。自分たちの牛がフィリピンにいる。次つぎ子牛が生まれ、育っている。その想像は、たぶん子どもたちに、いろんな国の人と共に生きる実感を持たせるだろう▼レイテには、日本人の手で戦死者のための慰霊碑がたくさん建てられている。だが、未来に向けて心のきずなを結ぶことも、また大事だ。「水牛の歩みと同じく、ゆっくりと家族を増やしてゆくつもりです」と、踊さんはいっている。 作家・深沢七郎さんをしのぶ 【’87.8.19 朝刊 1頁 (全851字)】  日劇ミュージックホールでギターをひいていた深沢七郎さんの『楢山節考』が中央公論新人賞に選ばれたのは約30年前だ。当時、伊藤整選考委員はこの作品に「強烈な芸の魂」を見、「現文壇に全く類似性のない芸術の特質」があると書いている。一新人に対するほめ言葉としては相当のものだ▼『楢山節考』には、うば捨てを悪として糾弾する姿勢はない。深沢さんは、山へ行って新しいむしろの上にきれいな根性で座り、死ぬことを願う「年寄りの気持ち」を静かに、したたかにみつめている。うば捨ての世界もまた、木の葉が舞い、木が朽ちるのに似た輪廻(りんね)である、という思いが読者に伝わってくる▼それは年寄りの福祉を考える思想とは対立するが、私たちの体内にある土俗的なものの深みに気づかせてくれた。自然の輪廻といえば、この人は生涯、技術革新・反土俗の流れに暗い恐怖心をもち、自然人であろうとした▼「ボーッとしているのがいちばん楽しいね。なにも考えないでボーッと」といい「生きるに値する何かを発見するなんていう思い違いをしないで、とにかく漠然と生きることだね」といい続けた▼若い人にも「偉い人にならなくてもいい、カネをかせがなくてもいい。川の水が流れるように生きることだ」と説いた。自ら埼玉のラブミー農場で「自分の食べる分だけ働いて、あとはボーッとして暮らす」生活を続けた▼『みちのくの人形たち』が川端康成文学賞に選ばれた時は辞退し、同じ作品で谷崎潤一郎賞を受けた。いいかげんではないかといわれても「行きあたりばったり、いいかげんなとこでいいのよ」と悪びれなかった。「怠惰」「いいかげん」という世間的常識に反することがらに、むしろ好んで光をあてた▼組織がきらいで、「偉い人」がきらいで、農を大切にし、うたかたのような流行歌が好きで、自らを、そして人間を、自然の生滅の流れの中でとらえる道を歩んだ。 「薬学外論」 【’87.8.20 朝刊 1頁 (全840字)】  『薬学外論』(小山泰正編)を読んでいたら、海は消毒できるかという問いかけがあった。大腸菌群が多い海水浴場は「不適」と判定される。そのため、大量の塩素を投入して消毒することになるが、それははたして、本当に効果があるのだろうか、という問いかけだ▼塩素消毒といっても、海に塩素をまくわけではない。海に流れこむ川に塩素をいれる。実際にこれを行い、河口付近の水質を調べると大腸菌群は大幅に減るという。それは当然、海水にも影響するはずだ▼しかしどうだろう。塩素をまいたあと、しばらくたてば川や海の汚れは元に戻るのではないか。毎日、まき続けた場合はどうか。それでも、海の底のほうの大腸菌群は残るのではないか。しかも、毎日大量の塩素を投入すれば、当然、川や海の生き物に影響を与える、とこの本は説く▼『薬学外論』は保健所の第一線で働く人や薬剤師が中心になって書いている。外論の外は、つまり机上ではなく、外で考え、現場で主張する、という意味らしい。海水が汚れている、だから大量の塩素で消毒するというのは対症療法だが、自然環境を守るために必要なのはむしろ根本治療だという主張には同感だ▼たとえば首都圏のある海水浴場では、夏場だけの雑排水の共同処理場を作っている。海水浴客が自らの排水で海を汚すのを防ぐには、これも1つの解決策だろう▼家のダニ、カビ退治の話もあった。ダニに刺されたと保健所に訴えてくる人の家に共通していえることは、通気が悪く、過湿になりやすいことだという▼カビやダニを防ぐ大量の製品を使うのは対症療法だが、それだけでいいのか、ダニ、カビ皆殺し作戦に問題はないのか、それが新たな環境汚染をひきおこすことはないのか、ダニ、カビが異常に発生する居住環境にこそ目をむけるべきではないか、と本の筆者たちは考える▼こういう「薬学の現場」からの目は貴重だ。 自衛隊はもっとニアミスの原因究明を 【’87.8.21 朝刊 1頁 (全850字)】  「自衛隊には、悪ければ認め、国民の不信を招かぬようにといっている」。民間機と自衛隊機の異常接近(ニアミス)について、栗原防衛庁長官はそう国会で答えた▼その通りだ。不利なことでも、あえてそれを公表してこそ、信頼が生まれる。しかもニアミスの究明は国民の生命と財産を守る安全対策につながることだ。過ちがあればいさぎよく身をさらしてもらいたい。身をさらすのも一つの勇気ではないか▼ついこの前、四国沖の上空で自衛隊機と全日空機のニアミスがあった。今度は、北海道の千歳空港近くの上空でやはり自衛隊機と全日空機のニアミスがあった。四国沖の時と同様、双方のいい分が食い違っているが、真相はどうか。防衛庁のいい分をすなおに受けとれない理由の一つは、過去の事実にある▼4年前、那覇空港上空で自衛隊機と南西航空機のニアミスがあった。当時、自衛隊側は「安全高度差500メートルを確保した。ニアミスとは思っていない」と断言した。だが、運輸省航空局安全監察官は、その後の調べで「高度差は約120メートル、空中衝突等の発生する可能性があった」と判断している▼やはり4年前、名古屋空港北の上空で、全日空機と自衛隊機のニアミスがあった。この時も自衛隊側は「距離は十分にあり、ニアミスとは考えられない」といっていた。だが、安全監察官はのちに「衝突または接触の危険が発生する可能性があった」と判断している▼かつて、アメリカの安全技師ハインリッヒがいった。「1人の重傷者の背後には、同じ原因で29人の軽傷者があり、さらに300件の無傷の事故がある」と。1件の重大な航空事故が起こるまでには、29件の同種の小さな事故があり、さらに300件のささやかな不具合が起こっている、ともいえるだろう▼国民の生命を守ることを第一義とする自衛隊は、「ささやかな不具合」の原因究明にもっと熱心になってもらいたい。 超伝導フィーバー 【’87.8.22 朝刊 1頁 (全855字)】  高温超伝導は、鉄器以来の大発見だという人がいるし、世界を変える革命的な錬金術だという人もいる。科学に弱い筆者にも、どうやら大変なしろものらしいということはおぼろげにわかってきた。が、それにしても昨今の超伝導熱のすさまじさには驚く。超伝導にも興味があるが、「科学史上、最大のフィーバー」といわれる超伝導過熱現象にはもっと興味がある▼いま開かれている国際会議で「数カ月前にしめきられた研究成果の抄録は、この世界では化石だ」という批判がでたそうだ。きょうにも画期的な成功の発表があるかもしれない、という不安と闘って、研究者は身を削る競争を続けている▼ある企業がこの高温超伝導技術の分野で、半年に600件もの特許を出願した話、「日本に負けるな」という大合唱がアメリカで起こっている話、わが国では、ある大学の教室で何十人もの学生が乳鉢で粉をすりつぶして実験を体験した話、子ども用の超伝導観察セットが売り出された話、あれよあれよというばかりの過熱である▼真夏の夜の夢は開く。超伝導技術の進歩は、リニアモーターカーを普及させ、高速の電磁推進船や無公害自動車を生むだろう。電力輸送のむだがなくなり、電力をためることもできる▼たとえばカナダと日本に海底ケーブルを置き、深夜のカナダから昼の日本へ、あるいはその逆に、電力を融通しあえば、発電所をふやさずに電力の供給をふやすことができるだろう▼しかし真夏の夜の悪夢もある、と科学畑の友人がいった。たとえば人工衛星に効率のいい超伝導蓄電池をつければ兵器の電力源になる。超伝導技術はSDIにとりいれられ、新型兵器の競争がさいげんもなく続くだろう、と▼超伝導技術の優劣は21世紀の各国の実力に決定的な影響を与える、という前提で特許をとる競いあいはさらに激しくなるだろう。人類の未来のために、過熱を上手に制御する術をそろそろ考える時がきている。 歩道の涼しさと街路樹 【’87.8.23 朝刊 1頁 (全844字)】  今ごろの季節はエンジュ(槐)の並木がいい。もう花の盛りはすぎて数珠のような実をぶらさげている木がめだつが、それでも何本かはまだ炎暑の盛り場で花を咲かせている▼みばえのする花ではないが、街の夜の光やガソリンのにおいや車の騒音や道路工事の土ぼこりの中で咲く風情はけなげでもあり、肩をたたいてやりたい気持ちになる。エンジュの肩というのはどのへんだろう▼東京・銀座のみゆき通りの歩道にはところどころにこのエンジュの花が散っている。拾いあげるとたまにはまだ咲いたままの形のものもある。白一色ではなくて、黄緑もまじって涼しげな花だ▼エンジュでもスズカケノキでも、姿のいい街路樹のある道には風格がある。それに、涼しさが違う。並木のない道の暑苦しさを逃れてみゆき通りに曲がるとほっとした感じになるのは、緑が呼ぶ風のせいだろう▼緑が涼しさを呼ぶ効用については中部電力の実験がある。プレハブの6畳間を2棟建て、南側をガラス戸にした。1棟には朝顔やヒョウタンなどをからませた「植物すだれ」をかわるがわるにかけ、1棟はガラス戸をむきだしにした。これだけで、クーラーに使う電力が2割から4割も節約できることがわかった▼よしずと植物の葉とを比べると、ここでも後者の断熱効果がすぐれていることがわかった。同じ太陽の光量でも、よしずは26%の熱をさえぎり、植物の葉は60%の熱をさえぎっていた▼歩道の涼しさは、街路樹の緑の総量と相関関係がある。真夏の並木は頼りがいのある緑陰をつくってくれる。それなのに、大都会では、はやばやと剪定(せんてい)して木々の緑を奪い、みすぼらしい姿にしてしまう例がたえないのはなぜだろう▼皇居周辺のユリノキの並木がほんの少し黄に染まり始めた。桜田門のトチノキもくすんだ茶色の実をつけている。甲子園大会が終わると、夏は遠ざかってゆく。あすは処暑だ。 はやる迷路遊び 【’87.8.24 朝刊 1頁 (全845字)】  迷路遊びがはやっている。広い土地に高さ2メートルほどの仕切りを並べていりくんだ迷路を造る。10分以内でぬけでる人もいるし、3時間迷い続ける人もいる。そこがおもしろいのだろう▼大阪万博記念公園内の「迷路の砦(とりで)」には1年間に76万の人が入場している。いまは全国に110カ所の巨大迷路が生まれている、と家庭欄にあった▼迷路遊びがはやるのは、実生活の上で迷路がなくなってきたせいかもしれない。フランスで生まれた日本人2世の女性が、東京の街を歩き、高層ビルの裏に意外にも「村」が残っていることを発見して安心した、と友人に語ったそうだ。迷路のような路地があり、植木鉢が並んでいる光景を見ての感想だろう▼そういう話をきくと、東京はいまだに迷路の多い街だとは思うが、それでも、昔に比べればずいぶん減った。昔は空き地や野原やがけや竹やぶや雑木林が身の回りにたくさんあって、それが子どもたちの迷路だった▼都市は格段と機能的になり、コンクリートで固められ、迷路が片隅に追いやられつつある。だが、街は、迷路があるからこそ美しいし、曲がりくねった未知の道を探検するところに、街を歩く楽しさがある▼街のたたずまいの話だけではない。仏教でも、迷いの道があるからこそ、悟りの美しい花が咲くと教えている。たとえばまた、川喜田二郎さんの名著『KJ法・渾沌をして語らしめる』は、迷路の中でものを考えることの大切さとその方法論を克明に説いている▼川喜田さんは書いている。「すでにできあがった整然たる知識体系の殿堂にばかり酔いしれている人にとっては、その体系の網にかからず、時としてそれに叛逆するようなハプニングはあってもないにひとしい」と▼日常の暮らしや思考の迷路体験が少なくなっている分だけ、人はゲームとしての迷路遊びにひかれるのだろうか。しかし、しょせんそれは疑似迷路だ。 地域中心の精神医療改革を 【’87.8.25 朝刊 1頁 (全842字)】  一人暮らしの43歳の男が、近所の親子3人を植木ばさみで刺し、家に放火して殺した。男はさらに別の家の主婦に重傷をおわせ、「やってやった」と叫んで自殺した。なんともいたましい事件だった▼男には被害妄想的な言動が多かったという。恐らく心の病気にかかっていたのだろう。近所の人たちはこの男にどう対応したらいいのか、困り抜いていたらしい▼先日は、やはり43歳の男が包丁を手にしてサマーキャンプ中の子供たちを襲い6人に重軽傷をおわせた。こういう事件が起こるたびに、私たちは「地域社会は心の病にどのように有効に対応しうるか」という問題にぶつかる▼犯したことは憎みてもあまりある。両親を失った子にも包丁で刺された子にも、深い心の傷が残るだろう。だがそれでは、患者を排除して病院に閉じこめるのが正しい解決策になりうるかどうか▼仮定の話になるが、今回の事件でも、たとえば、町内に公立の「精神衛生センター」があり、医師を中心とするチームがたえず心の病のある人の早期治療をし、時には訪問して面倒をみる態勢ができていたら、そして妄想や幻覚を薬で鎮圧する治療が続いていたらどうだったか。そういう備えがあれば、結果として、精神病者による無残な犯行はかなりの部分、防げるのではないか▼とっぴなことを主張しているわけではない。精神医療の進んだ国はどこも「隔離収容主義」を改め「地域医療中心」の道を進んでいる。街の中にも精神医療の現場をおく思想だ。患者や住民の側からいえば、頼りになる人びとが身の回りにいることになる。精神衛生法の改正案は残念ながらこの点がなまぬるい▼技術革新は新しい心の病を生む。それに備えるためにも、また、犯罪防止のためにも、精神医療の大改革が必要な時にきている。大改革には巨額のカネがかかるだろう。だが、今までは精神医療にカネをかけることが少なすぎた。 山形県三川町の「全国方言大会」 【’87.8.26 朝刊 1頁 (全857字)】  山形県の三川町で行われた「第1回全国方言大会」は、こんな調子だった▼各地から参加した人が故郷のことばで規定の掛け合いをしゃべる。「こんにちはー、おっさんおるけぇー」「おーおーおるどよー、まああがんねえ」で始まるのは広島の因島市のことばだ。新潟の三川村ではこれが「こんちはー、だっかいたべか」「あーいたいた、さあはいらせえ」になる▼大分の大山町では「こんちは、おるかい」「おるおる、まああがんない」である。日本列島には実に多様な、いきいきとしたことばの器があることを、この大会はあらためて教えてくれた。中央の大会ではなくて、東北の小さな純農村の呼びかけに応じて九州や大阪の人びとがかけつけたところがいい▼地元の三川町の代表はこう語った。「方言はいいんだよな。こうやって思ったことちゃーんと言われさげのぉー。ことばさあったかみあんだやな」(方言はいい。こうして思ったことをちゃんといえるからね。ことばにあたたかみがあるんだよね)▼大会の一部始終を、あとで録音テープできかせてもらった。どの発言者も、のびのびとした調子でしゃべっている。借りものではない自前のことばだ。たとえばあの、選挙の時の無味乾燥なテレビ政見放送に比べると、これが同じ国のことばかと思えるほど、抑揚がゆたかでことばにくつろいだ表情がある。やわらかみのある、おどけた感じがある▼審査員の伊奈かっぺいさんは「東北6県で結束して東京をやっつけるべえという気持ちが必要ですね。共通語だ、標準語だといばっているが、東京人は1カ国語しかしゃべれない。われわれは2カ国語しゃべれる」といって会場をわかせた▼たとえば、琉球放送のラジオやラジオ沖縄は今も、沖縄のことばでニュースを伝える時間をもち、島うたの放送に力をいれている。お国なまりの主張は、借りものではない地域文化の主張につながる、と思うんだどもどげなもんだなあ。 錯覚工学 【’87.8.27 朝刊 1頁 (全842字)】  ハム、ソーセージの「手づくり」の意味が論争のまとになっている。消費者は「機械づくりなのに手作業で作ったかのようにみせている」といい、業者は「手をかけ、時間をかけて作った高品質のものを手づくりと呼ぶ」といっている。手をかけたものが手づくり、という弁明はちょっと苦しい▼これからはしかし錯覚を利用した商品はさらにふえるだろうし、錯覚そのものを目的にした商品もふえるだろう。『三田評論』の7月号に「錯覚工学」の座談会があって、これがすこぶるおもしろかった▼ホログラフィー(物体の立体像を再現する技術)は、人間に楽しい錯覚を与える。この技術を使って、地下のレストランの壁にアメリカや宇宙の風景を立体的に再現させることができるし、阿弥陀(あみだ)様の像を仏壇の奥に安置することも可能になるだろう。慶大理工学部の中島真人さんの話だ▼鐘紡の石沢一朝さんは、登別や白浜の温泉の水を分析し、同成分のものを合成して売りだした話を語っている。自宅のふろで、ひとときの錯覚にひたれるのがうけたのか、これが売れた▼コンピューターゲームの話もあった。非常に解像度の高い画面を生む技術がでてきたら、媒体そのものが現実になる。いや、現実よりもすばらしいものになる可能性がある、というのは作曲家の岩竹徹さんだ。ここにも錯覚工学の1つの未来がある▼実物よりもきれいに映る鏡、コンピューターで画像を修正できる鏡が生まれたらなんとなくいい気分になれる、というくだりを読んで、この鏡づくりに精をだしている人たちのことを思った▼そう、政治の指導者は、いつのころからか、いかにして己をよりよく映す鏡をつくり、いかにして有権者に錯覚をふりまくかに腐心するようになった。そこでは、実体よりも錯覚がものをいう。たとえば「深刻な日米摩擦」も「親しげに手を握るロン・ヤスの笑顔」となって現れる。 音楽を鳴らさない喫茶店 【’87.8.28 朝刊 1頁 (全842字)】  拡声機騒音を考える会という小さな市民グループの代表の高梨明さん(横浜市、フリーライター)に教わって、東京・神田のある喫茶店に行った。クラシックにしろ何にしろ、ここは音楽をいっさい鳴らさない店だ▼10人も入れば満員になるほど狭い。昼休み時だったので、OLやサラリーマン風の客が数人、本を読んだり新聞を広げたりしている。ひとりで入ると一瞬、間(ま)がもてないようなヘンな気分になる。けれども次第に、もし周りに、やはりひとりでポツンとしている客がいれば、暑いですねのひとこともかけてみたいような、そんな人なつかしい気持ちになってくる▼昭和8年から続いている店だそうだ。場所柄か、むかしはこの町に古本を探しに来る人が常連だった。川端康成、小林秀雄、中村草田男、石川淳、それに植草甚一さんらもよく来たという▼メニューはコーヒー、紅茶と和菓子つき緑茶だけで、どういうわけかジュースはない。そしてもう1つ、冷房がない。黒塗りの、いかにも時代がかった扇風機が2つ、静かに首を振っている▼拡声機騒音を考える会は、音楽家、教員、主婦らが十数人集まって、2年ほど前にできた。駅、商店街、学校、広場など、日本はどこも拡声機音が多すぎる。これを少しでも減らして街を静かにすることはできないだろうか。これが会の主張するところなのだが、会員たちは遊び半分に、音楽のない喫茶店探しを東京ではじめた▼意外と見つからない。ドアを開けてみて、何か鳴っていればすぐ閉める。やっと「あった!」と思って中に入り、ウエートレスに「音楽はかけないの?」ときくと「すみません、すぐかけます」とやられる▼最近、駅の売店などで「耳せんあります」のはり紙を見かける。旅行、通勤、読書、昼寝などに愛用され、なかなかのヒット商品だそうだ。音楽会にはこれが欠かせない、などという音楽評論家も出てきた。 防衛白書 【’87.8.29 朝刊 1頁 (全854字)】  何年かまえの西独の防衛白書に国防相がこう書いている。「外部からの危険にどう対処すべきか激論がある。これに加わっている国民の不安を真剣に受け止めることは重要だ。政府は安全保障及び国防政策の原則と目標を示す義務がある」▼防衛での国民的合意の大切さを思えば当然の態度といえよう。こんど発表されたわが国の防衛白書でも「国民の理解と積極的な支持、協力」を不可欠の前提としている。だが一読して「国民の疑問に真正面から答えていないのではないか」との印象をもった▼例えば三宅島の米軍発着訓練場の建設問題である。白書は「村民の反対には情報不足による誤解もある」とし、対話を通じ地元の了解を得たい、と述べる。一方、私たちは「安保、これは日本の国是じゃあないか。それよりも生活のほうが大切という言い方のほうがどうかしている」と野党の質問を一刀両断にした栗原防衛庁長官の国会答弁を知っている。どちらが本心なのか、誤解はどちらの責任か、問いただしたいことはいっぱいある▼防衛費のあり方について白書は、GNP比1%枠はずしの経緯を説明し、「防衛費は国民の代表である国会の審議などを通じ、適切な文民統制のもとに決定される。軍事大国になる懸念はあり得ない」と言い切る▼ところが「国民の防衛意識」という別の個所では、防衛予算と自衛隊の規模について、現状維持の意向を示す者が増大し、過半数に達していると書く。ここで紹介されたグラフをみると「防衛費は増額したほうがいい」「自衛隊は増強したほうがいい」は急カーブで落ち込み「今の程度でよい」がどんどんふえている▼国民の不安を真剣に受け止める、というなら1%枠はずしとの関連で、国民のなかに増額・増強反対派がふえている事実を論ずべきではないか▼これでもかとソ連の脅威をとき、核抑止力を強調する白書に、専守防衛の理念はどこにいったのか、との思いだけが残る。 地震の液状化現象 【’87.8.30 朝刊 1頁 (全858字)】  大地震で恐ろしいことの1つは、いわゆる液状化現象である。震動と共に土砂がドロドロになって噴出することをいい、流砂現象と呼ぶこともある▼新潟地震では、このために橋げたが沈み、鉄筋の建物が倒れた。日本海中部地震でも、砂地の上の住宅がこれに襲われ、たんぼには月のあばたのような跡が残った▼古くは安政東海地震でも「泥中より煙のごとく砂のごときもの吹出で、目口だに開き得ず」という記録がある。大地震につきものの恐ろしい、ぶきみな現象だ▼関東大震災でも、液状化があったことを体験者が証言している。都の土木技術研究所は、約300人の震災体験者に会って話をきき、泥水が噴きだした場所をつきとめる作業を続けた。そして『東京低地の液状化予測』という貴重な報告書をまとめた。大地震があれば、東京の低地の24%で液状化が発生する恐れがある、と報告書はいう▼地盤がドロドロになれば、家が倒れて人命を奪い、道路が寸断されて交通がまひする。問題はその対策だが、一昨年、横浜市と大成建設が共同で、液化を防ぐ新工法を開発した、という朗報があった▼問題のある地盤に、直径5センチから10センチの管を4、5メートルの深さに埋める。管の表面は網状で土中の水が入りやすいようになっている。水は入るが砂やゴミは入らない仕掛けだ。大地震があると、水がこの管から噴き出して、土砂の液化を防ぐ。すでに首都圏の各地でのべ3万3000メートル分の管が埋められたそうだ▼「今も在る氷室なつかし震災忌」(佐藤文思)。あの日、東京・本所の被服廠(しょう)跡では数万人の避難民が亡くなった。かろうじて生き残った人は近所の氷室に蓄えられていた氷で渇きをいやした。一片の氷が霊薬だった。しばらく前まであったこの氷室も、つい最近姿を消した▼64年前の9月1日を記憶する人もまた、少なくなったが、その体験談からは今もなお学ぶべきことが多い。 8月のことば抄録 戦争体験を伝える 【’87.8.31 朝刊 1頁 (全851字)】  8月のことば抄録▼自分のラジオ番組で3週連続して「戦争体験をいまにどう伝えるか」を特集した落合恵子さん(42)。「わたしはわたしを生きたい。だれにも侵されずに生きたい。だからほかのだれかの自己生存権や決定権を侵すものとは戦いたい」。レモンちゃんは、変わらずさわやかだ▼作家の竹西寛子さん(58)の静かな決意も記憶に残る。「8月15日を『終戦の日』とよばず『敗戦の日』とよび続けるのは、公平な事実認識を自分で訓練したい私の願望、強いていえば、ささやかな意志である」▼今年のその日、東京・渋谷の街頭で女性たちによる7回(年)目の反戦マラソン演説会が開かれた。右翼宣伝車のはげしい妨害騒音のなか、作家の沢地久枝さん(56)もマイクを握った。「どんなに大きな声で叫ぼうとも、真実を、平和を訴える声に勝てるものはありません」▼最近の世相の一面を群馬県の高校教諭、多賀たかこさん(47)は語る。「平和運動とか広島や長崎の話をすると、親が『あの先生はアカ』と」▼アグネス・チャンさん(31)は、故郷の香港で日本人との婚約を発表した際、現地の記者たちに質問を浴びせられ、泣いてしまった経験がある。「もう一度日中戦争が起こったら、あなたはどうしますか」「子供が生まれたら日本兵、それとも中国兵?」。彼女はつづる。「人々の心に残された傷は信じられないほど深かったのです」▼いま、日本たたき。フランソワーズ・モレシャンさん(49)は説く。「男性週刊誌の見出しに『ざけんな、アメリカ!』とあった。これではヤクザ以下、気弱なチンピラである。大国、小国を問わず、相手を愛することが、愛されることに結びつく」。つまり「国際性と恋愛の鉄則」は同じなのだ▼イーデス・ハンソンさん(47)の指摘も耳に痛かった。「他人を理解するには豊かな想像力がいるのに、いまの日本はそんな教育を全然してない」 都会の子どもが過ごす山村の夏 【’87.9.1 朝刊 1頁 (全848字)】  群馬県の過疎の山村で、住む人のいなくなった農家を借りている東京の若い人たちのクラブがある。気が向いたときに出かけて、山仕事などを楽しんでいる。夏には毎年、都会の子どもたちに自然に親しむ機会を提供している▼8月下旬、近くへ出かけたついでに寄ってみたら、今年も、ある施設の小学生9人が、付き添いの職員5人と一緒に3泊4日の日程で訪れていた。両親を失ったり、いても一緒に暮らせない事情があって、その施設に入っている子どもたちだった▼現在の「家主」であるクラブの青年もまじって、昼間は沢で水遊びをしたり、近くの養魚場で夕食用のマスを釣ったり。夜は、ふんだんにある木材で、男の子も女の子も、それぞれ好きな細工物を作って、1日中、歓声の絶えるときがなかった▼職員の1人が外に出て「すごく星がきれいだよ。みんな見てごらん」と声をかけた。なるほど、銀河がさえざえと流れ、夏の星座が満天にきらめいていた。見上げていると、しきりに流星が走る。それに願いごとをすればいいと聞いて、子どもたちは躍起になった▼いざ待ち受けていると、タイミングを合わせるのは、なかなかむずかしい。「あっ、だめだ」「また失敗しちゃった」。しかし、そのうちに「やった」「間に合った」と、うれしそうな声があがった。どの子がどんな願いをかけたのか。むろん、だれも尋ねはしなかった▼子どもたちと別れて帰ってきて、たまたまある事業家の話を聞く機会があった。各地でリゾート施設を手がけ、急速に業績を伸ばしている人である。日本人は、もっと休みをとるべきだという機運の高まりで、長期滞在型のホテルの会員権が、よく売れているそうだ。最近は、食事のメニューはじめ、サービスの質の高さを求める傾向が強まっているという▼そういえば、海外への出国者数も過去最高だったとか。人さまざまの過ごし方があって、今年の夏が終わった。 週刊誌にみる世相の写し絵 【’87.9.2 朝刊 1頁 (全836字)】  「百恵さんにうらみはないけれど」と宿直勤務明けの女性の同僚が、週刊誌を何冊か抱えてきた。「ほら、たとえばこの記事を見てごらんなさい」▼たいていの女性週刊誌は、本文のとくに強調したい部分を太いゴシック体で印刷してある。指された個所を拾い読みすると「いいカミさんでいろよ――この裕ちゃんの言葉を百恵さんは教訓としてきた」「女は家庭を守っていくものですよ、という三枝夫人の話に百恵さんはうなずいていた」などなど▼「聖子ちゃんの記事も同じこと」だという。なるほど。「将来は義母と、神田家の嫁としていっしょに暮らしたい、と聖子は語る」「子どものいる家庭が、どんなに幸せかをかみしめています」▼男は外に女は内に路線、良妻賢母の勧め。今様『女大学』が、みごとに毎週続いている。1つには、もちろん読者に迎えられるからだろう。先日の総理府の世論調査でも、「男は仕事、女は家庭」という考え方をはねつける女性は32%で、共感派(37%)を下回った▼しかも否定派は、前回調査の59年は41%だったのだから、じり貧だ。背景には、社会の保守化傾向があるに違いない。それと、女性の各方面への進出が、実際にはさまざまな障害に阻まれ、容易でないことの表れでもあるのだろう▼相変わらず男性優位の世相を、これらの記事はかなり忠実に映しているといえる。たしかボーボワールの言葉だった。「人は人間と女性の2種類に分けられる。そして女性が人間のように行動しはじめると非難される」▼さて男性週刊誌の方は、「むかし角栄いまマネー」なのだそうだ。立身出世して権力と金力を得た田中元首相のことさえ取り上げれば、なんであろうと売れた時代があった。しかしいま、中曽根氏では売れず、安竹宮氏ではもっと売れない▼人間抜き、ずばりカネもうけの話題だけが、受ける。これもまた、世相の写し絵。 自閉症児教育の「武蔵野東学園」、レキシントンへ 【’87.9.3 朝刊 1頁 (全847字)】  この11日、米国マサチューセッツ州レキシントンに「ボストン東スクール」という新しい学校が開校する。州の援助でできる米国の学校だが、校長はじめ教員の大半は日本から行く▼東京・武蔵野市にある私立武蔵野東学園は、自閉症児と健常児を一緒に生活させる教育で知られている。それをアメリカでもやってほしい、という向こうの自閉症児の親たちの強い要望で生まれるのが、今度の学校である。海外にいる日本の子どものために、日本の学校が現地に進出するのとは違う▼武蔵野東学園の北原キヨ校長(62)は、結婚して小学校の教師を退職後、小さな幼稚園を開いていた。たまたま自閉症の子が入園してきたのを、特別扱いせずに他の子どもたちと一緒に育てたら、ちゃんと適応してくれた▼伝え聞いて全国から、行き場のない自閉症児が集まってきた。その成長に合わせて10年前にまず小学校、次いで中学校、去年からは高等専修学校まで作った。この実践の積み重ねが「生活療法」の名で国際的に知られるようになって、外国からも入学希望者が現れだした▼「困っているのは、どこの人も同じ」と、新たに国際学級を設けて、米、韓、フィリピンなどの子ども約40人を受け入れたのが3年前。しかし、日本まで子どもを出すのは、大変な費用がかかる▼それと、他人と口のきけなかった子が、話し始めるのはうれしいのだが、それは日本語だ。自分の国の言葉で話せるように育てたい。いちばん数の多い米国の親たちが中心になって、海外校開設の運動が生まれ、ついに北原校長とマサチューセッツ州を動かした▼先生25人のほか、向こうの自閉症児と一緒に生活して彼らの自閉克服を助ける役割をする日本の子どもたち35人は、1日旅立った。北原校長も、当分は米国暮らしを決意している▼こういう「輸出」ができて、日本の国際化は本物になる。困難はあろうが、成功を祈りたい。 政府はもっと愛国民心を 三宅島に見る 【’87.9.4 朝刊 1頁 (全833字)】  三宅島の事件を目撃した記者の話では、重装備の機動隊員は脱水症状になって次々に倒れたという。七転八倒の同僚をみて、隊員たちは「このままじゃ死んじゃう。水を下さい」と座り込みを続ける反対派のおばさんたちに頼んだ。手をあわせ、涙を流して頼む隊員もいた▼息子の年のような機動隊員をみると、にらみ合う相手ではあっても、水をあげないではいられなかった。モンペ姿のおばさんたちは、飲み水用の6個のバケツの水のほとんどを、隊員たちの水筒にいれてやり、体にもかけてやった▼いわゆる「機動隊とデモ隊の衝突」とは一味違った雰囲気がそこにはあった。米軍機の夜間発着訓練場反対運動は、そういう情を知るふつうのおばさんたちが主力らしい。政府はしかし、反対派を「特定のイデオロギーに振り回される連中」に仕立てあげたいのか、夕方になって、実力で島民を追いたて、8人を逮捕した▼島の人たちはなぜ、これほど強烈に反対するのか。訓練場の建設は、自分たちの暮らしにとって利益よりも不利益が大きいと判断するからだろう。三宅村が誇るものに、静かさがある。ゆたかな緑がある。天然記念物の鳥アカコッコやイイジマムシクイの生息地がある。海中のサンゴがある。火山性の島で生き抜く植物の営みがある▼それらを、都会の人に心ゆくまで楽しんでもらう、というのが「鳥の島」計画である。島全体を鳥の聖域にし、自然を守り抜くことで客を呼び、それを村おこしにつなげようという計画だ▼政府はむしろ、国立公園にふさわしいこの村おこし計画の後押しをすべきなのに、逆にその前に立ちはだかろうとしている。既定方針をしゃにむに押し進める姿には、情を知らぬ巨大なロボットのぶきみさがある。反対派の1人がいっている。「国はもう少し愛情をもって国民に接してもらいたい」と。愛国民心を持て、という注文である。 政治資金献金と土地政策 【’87.9.5 朝刊 1頁 (全849字)】  昨今は「田中的なるもの」という言葉が金権体質の代名詞のように使われている。それでは田中角栄以前に田中的なるものがなかったのかといえば、断じて、そうはいえない。日本の政界の金権体質は、全国的・伝統的な特産品だ▼岸元首相以後の総裁選びの時、なにかのはずみであの児玉誉士夫氏が叫んだことがある。「こうなったら、金権選挙の醜悪な舞台裏をそっくりそのまま国民に知らしめよう」と。裏の裏を知りつくした黒幕が「醜悪」を保証するのだからまあ、間違いはあるまい▼憲政の神様といわれた尾崎咢堂翁もこういっている。「明治27、8年ごろより金力が腕力に代わり、ついに政党の盛衰興亡は一に黄金の多少によって決するようになった」と。神様はさらに、わが国の政党党首は、良心を離縁して腐敗になじむけいこをしなければならぬ、とも皮肉っている▼政治資金そのものは悪ではない。ただ、気になるのは、献金する企業と政治家との間にどういう取引があるのか、という点だ▼61年分の政治資金報告書によると、土地高騰でもうけたはずの不動産業界からの献金がめだっている。銀行・金融についで、建設・不動産が第2位の献金額になっている。政府・自民党が内需拡大という大義名分のもとで、公共事業に力をいれることをあてこんだものだろう▼なかには、地上げや土地転がしで名を売った業者からの献金もあった。受けとった政治家は「知らなかった」というが、知っていたら受けとるのを拒んだのだろうか。政治家は、調べもせずになにもかも飲みこんでしまう習性をもつのか▼なによりも気になるのは、一方で献金をうけながら、一方で悪質な不動産業者が打撃をうけるような地価鎮静策を実行することができるのか、ということだ。少なくとも今までの土地政策、開発政策は、建設・不動産業者にとって望ましい道を歩んできた。その道をさらに歩み続けるのだろうか。 やっと動き出した地価凍結 【’87.9.6 朝刊 1頁 (全843字)】  衆院の土地問題小委員会で、自社公民が地価を抑えるための政策提言をまとめた。その中に「必要な地域については地価凍結を」という意味の項目があった。この提言には大賛成だ▼誇り顔でいうようにとられたくはないが、この欄では前々から繰り返して地価凍結を主張してきた。都心の地価暴騰をみて、地価凍結という伝家の宝刀を抜かなくては、ことは住宅地におよぶ、と警告したのは2年前の秋だ▼その後、たとえば東京・田園調布の住宅街で、1坪(3.3平方メートル)300万円台の土地が1年で1300万円を超えるという異常事態が起こった。それでも政治家は「宝刀を抜くべし」と脅すそぶりさえみせなかった。今ごろ地価凍結をいうのは財布の底がみえてから節約を説くようなものだが、しかしまあ、遅くなるとも来ぬにはまさる、としておこう▼国土利用計画法によって、都道府県知事が地価抑制の必要な地域を指定し、取引価格を規制するのが、いわゆる地価凍結である。規制地域の範囲を広くとるのか。限定するのか。ヤミ取引をどう防ぐのか。地価高騰や乱開発が凍結地域外に飛び火するのをどう防ぐのか。不動産業界の反対を押し切る覚悟があるのか。宝刀も、ただ抜けばいいというものではないだけに難しい▼早川和男さんが『経済評論増刊』に書いている。戦後建設された公共住宅の全住宅戸数に占める割合は、1978年まででイギリス59%、西独42%に対して、日本はわずかに9%である、と。今日の地価暴騰は、戦後政治の誤った住宅政策の高価なツケである▼地価凍結は重要な対症療法ではあるが、それだけの話だ。地価を抑えるには住宅政策の改革をふくむ根本的な治療が必要であり、それを支えるのは有権者の力だろう。早川さんは書いている。「変革を可能にするには、土地・住宅政策の現状に国民の広汎な階層が『ノー』というほかないだろう」と。 われさき症候群と海外不動産 【’87.9.7 朝刊 1頁 (全845字)】  電車の中で、空いた席に座ろうとすると、後からするりと回りこんで座ってしまう人がいる。ドアが開いて何人かが降りる。その時、わきの人を腕で押しのけて、一足でも先に降りようとする人がいる。人が降りる前に突き飛ばす勢いで乗りこんでくる人もいる▼表情を変えず、黙々と人を押しのけ、周囲との調和を考えない。ごく見なれた光景なのだが、この「われさき症候群」は、外国人の目にかなり異様なものに映るのではないだろうか▼いま、外国の土地やホテルや家を買う日本人が激増している。スペインやハワイのマンションを買うのがはやっている。ニューヨークの高層ビルを次々に買う企業がある。すべてがそうだとは思わないが、そこにはかなり「われさき症候群」的病状があるのではないか▼海外不動産視察ツアーが人気を呼び、海外不動産コンサルトという商売も現れている。「海外不動産情報」なる小冊子をくると、スペインのゴルフ会員権付き高級リゾートハウスが1600万円で買える。安い、と思うのは、高騰地価に慣らされた当方の感覚が異常になっているからだろう▼ブームの背景に日本国内のカネあまり現象がある。地価暴騰の現実がある。円高がある。企業の財テクがある。老後の生活を海外に求める人がいる。節税対策の人もいる▼海外にすばらしい夢を追うのはいい。たくさんの日本人が海外で暮らし、土地の人とまじわるのもまた、一種の国際化だ。だが、たとえばワイキキでは、不動産の値が上がり「日本人のおかげで長年の夢だったマイホームが買えなくなってしまった」という不満の声があるという。「また日本人か」のいらだちもあるという▼海外の土地を商品と考えることのみに熱心で、そこに生きる人びとの気持ちにはとんちゃくしない。そういう「われさき症候群」への自省なしに海外不動産が買いあさられては、国際化が非国際化を生むことになる。 70年の歴史を閉じた新国劇 【’87.9.8 朝刊 1頁 (全844字)】  新国劇が看板をおろし、70年の歴史を閉じた。創始者、沢正こと沢田正二郎が亡くなった時は、新聞の号外がでるほどだった。日比谷公園の大衆葬には何万もの人が集まったそうだ▼沢正のあとをついだ島田正吾、辰巳柳太郎は共に80歳を超えている。40代、50代で活躍したころのご両人の舞台姿があまりにも強烈なので、80代の舞台は想像できない。新国劇としての最後の8月記念公演は「万事カッコいい」舞台だった、という評を後で読み、見損なったことを悔やんだ▼新国劇が消えるのは寂しいが、2人の名優が60年近くも競演を続け、「2人座長」を務めてきたことを、今はすばらしいことだったと思う。好敵手のぶつかりあいがいかに役者寿命を長くするか、の好例だ▼辰巳はゴルフで大きなミスをすると「わあーッ」とコース中に響く大声を発してひっくり返る。負けず嫌いな男だ。島田はそれを「ライオンの放し飼い」といってからかった▼「辰巳はわがままな野人で、なんの因果でこんなヤツと芝居をしなくちゃいかんのかと何度も思ったが、こいつとオレは芝居の神様が結びつけた男夫婦なんだと思いましてね」と島田はいう▼辰巳は辰巳で「芸人ちゅうもんはね、一番近い者が一番かたきなんだよ、いい意味のかたきなんだ」といっている▼2人の役者魂は衰えていない。島田は50年間「一本刀土俵入」を演じ続けて、やっと2年前に納得のいく幕切れの工夫ができたというからすごい。辰巳も「後々まで残るものを舞台でもう1本こしらえたい。寝ても覚めても、それだけです」と志を失わない▼新国劇の劇団マークは柳に蛙(かえる)だ。苦境のどん底にあっても、この劇団は常に異常な跳躍力で柳に飛びついてきたのだが、もはや奇跡は起こらなかった。だが、劇団が消えても、70年間、この劇団が蓄積してきた芸は死なない。「居直りて孤雲に対す蛙かな」(蕪村) シマホザキランの大量培養 【’87.9.9 朝刊 1頁 (全850字)】  「こうなったらバイオテクノロジー(生物工学)の力にすがり、珍しい山草を大量に生産してもらうほかはない」と数カ月前に書いたことがある。山草荒らしを嘆いてのことだったが、世の中の動きの速さはしろうとの想像を超えていた▼しばらくたって絶滅状態のシマホザキランを生物工学の力で大量に培養することに成功した、という記事が科学欄にあった。小笠原諸島には、500余種の植物があるが、その4割は固有種だという。シマホザキランもその1つだ▼写真では、黄緑の花を咲かせるごく地味なランに見えるが、マニアの間では数万円の値がつき、そのため根こそぎ、という形の盗採が進んだ。現在、島内では1株も見つかっていない▼幸いにも、小笠原の植物の研究を続けている都立大の小野幹雄教授が、研究用に、1株だけ育てていた。株分けでは5年かかって2株をふやす程度だろう。だから大量にふやして島に戻すにはどうしてもバイオの力が必要だった▼この仕事に協力し、大量培養に成功したのは塩山市の向山蘭園である。先日、小野教授と共に蘭園を訪ね、ぶじに育っている何株かのシマホザキランを見てきた。ランの芽の先端を切り取り、フラスコの中に置くと、小さな若緑色の生命がふくらむ▼それを2つに切って、倍々ゲームでふやす。やがて根が生え、フラスコから水ごけの鉢に移されたランは、もう10センチを超える葉をつけていた。「もうけにはつながらないかもしれませんが、こういう仕事は楽しいですね」と社長の向山武彦さんがいった▼洋ランの大量培養で値下がりが起こったように、このランもいつかは小笠原で1株数百円で売られることになるだろう。「値が安くなれば、山に戻しても盗採されることもなくなるでしょう」と小野教授はいう▼小笠原には絶滅の危機にある植物が2、30種もある。シマホザキランの例はその絶滅を救う1つの解決策を示してくれた。 東西ドイツの首脳会談実現 【’87.9.10 朝刊 1頁 (全840字)】  20年前、当時の西独首相が「東独は幻であって、国家ではない」といったことがある。ドイツ統一国家への悲願がそういわせたのか。幻であるはずの東独の元首が西独を訪問し、首相官邸で東独の国歌が演奏される日が20年後に来ることを、当時、どれほどの人が予想したことだろう▼首脳会談というものは「会うことに意味がある」とよくいわれるが、今回の東西ドイツの首脳会談はまさに、会うこと自体に意味があった。東独元首が西独の首都を訪れたのは、初めてのことである▼ホーネッカー東独議長は、ザール地方(現在は西独)の炭鉱労働者の家庭に生まれた。いまも西独に妹さんがいる身だが、東西ドイツを分断する「ベルリンの壁」創設の責任者でもあった。引き裂かれたドイツの現実を象徴する人物なのだ▼一方、コール西独首相は前に「東独は2000人以上の同胞を政治犯として獄舎と強制収容所に拘束している」といって、東独を怒らせたことがある。ベルリンの壁を造って鎖国政策をとった人物と保守派の首相が、うちとけて、12時間以上も話し合いを続けたというのは歴史の皮肉だが、そこには、避けることのできぬ時の流れがある▼さて、この首脳会談は「1つのドイツ」にいたる一里塚なのか。それとも「2つのドイツ」を一応認めつつ善隣関係を進めるための第一歩なのか。むろん、結論はでていないが、どうやら後者の色合いがにじみでている。両国間の壁を物理的に取り払うことはできないが、心理的な意味で、壁の高さを次第に低くして交流を深める、という合意があったようだ▼共同コミュニケは核軍縮への道を見つめ、「ドイツの地から再び戦争が始まってはならない」とうたっている。過去の戦争の非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい、というワイツゼッカー西独大統領のことばが、この声明には生きている。 総裁選前に料理屋へ通う政治家たち 【’87.9.11 朝刊 1頁 (全857字)】  自民党総裁選を前にして、党内各派の料理屋通い合戦はかなり激烈なものになっている▼1日は宮沢派幹部と安倍派幹部が料理屋で会った。別の料理屋で宮沢派中堅と安倍派中堅が会った。2日は各派若手の会合、宮沢派と安倍派の会合、安倍派と竹下派の会合などがあった。3日は竹下派の会合があり、4日はまた宮沢派と安倍派が会い、7日は旧田中派二階堂系と宮沢派が同席し、竹下派と宮沢派が顔を合わせた、と書きつらねたらまだまだ続く▼なぜかくも政治家は料理屋がお好きなのか。それは「酒が入らないと政策を論じられない」からではなくて「政策を論ずるというヤボな話をしないですむ」ために、酒宴を張るのだろう▼酒宴のねらいは、顔つなぎであり、腹のさぐりあいであり、毛づくろいをする仲になるための儀式である。日本的儀式のためには、日本風のお座敷の方がいい。総裁選では、悲しいことに、国民をうならせる政策よりもこの顔つなぎの方がものをいう▼中堅どころの料理屋でも10人集まれば60万円は飛ぶ。100万円、200万円の酒席もあるはずだ。そして多くの場合、政治資金が使われるだろう。政治資金は無税だ。その特典のあるカネが政治活動の名のもとに料理屋に消える現実に、政治家諸氏は少なくとも若干の恥じらいを感ずべきではないか。料理屋のマージャンで「きのうは50万円負けた」といっている議員もいるそうだ▼ヤボな話のかわりにカネの話はでるのかもしれない。昔の総裁選では多額の実弾が飛び、2派からカネをもらうのをニッカ、3派からカネをもらうのをサントリーなどといったものだが、そんな体質は今も残っているのだろうか▼昨年の政治資金報告書で、中曽根首相がかかわる政治団体が支払った飲食費、会合費を同僚が計算したら、八千数百万円になった。報告書以外の飲み食いの支出はどのくらいになるのか。とにかく、わが国の政治活動は胃袋をねらう。 「カミーユ・クローデル展」をみる 【’87.9.12 朝刊 1頁 (全849字)】  東京・渋谷の東急本店で『カミーユ・クローデル展』を見た。この女性彫刻家の若き日を、弟のポール・クローデルは「美貌と天才に勝ち誇るように輝やいていた」と書いている。「その瞳の青はきわめて深く、小説のなかでしか出会わぬような稀な色」だとも書いている(渡辺守章著・ポール・クローデル)▼尊大、攻撃的との評もあったが、20歳のカミーユの写真には常ならぬ美しさがある。誇り高く野性的で、その大きな目が、人をひきつけ人を拒んでいる。彼女は19歳でロダンの弟子になり、愛人になり、自立を決意して別れ、やがて狂う▼弟のポールは、45歳の姉の様子を突き放した調子で書く。「壁紙は引き裂かれて長く垂れ下がっている。おぞましい不潔さ。彼女はものすごく肥って、顔は汚れたまま……」▼カミーユは49歳からほぼ30年、精神病院で暮らして死ぬ。自分を監禁するのは不当だ、と訴える手紙が残っているが、終生、病院の外にでられなかった▼師ロダンは大家として名を残し、弟ポールは詩人、劇作家、外交官として活躍し、駐日大使にもなった。だが彼女は歴史の暗がりに不当に押しこめられ、忘れられていた。その忘れられていた女性彫刻家に、光があてられている。3年前、パリでカミーユ回顧展が開かれた時、その天賦の才が市民の心をとらえたという▼会場には、一種の劇的な緊張感がある。光が渦巻き、光があふれる優美な彫像にも、どこか危なげな、不安な感じがつきまとうのはなぜだろう。大波にのみこまれそうな3人の裸女の像は何の予兆だろう。ブロンズ像の愛らしい少女の目にも、おびえた影が走るのはなぜだろう▼40代で挫折したのは悲劇だが、実は彼女の中にある悲劇性そのものが、数々の名作を生んだのではないかと思えてくる。彼女の作品群を「私彫刻」と評した人がいるが、そこには傷口から血を噴きだしながら石や土と格闘した跡がある。 「地価凍結」へ政治家は決断を 【’87.9.13 朝刊 1頁 (全857字)】  「この田園調布がどんどんすさんでいくようで、なんとも嘆かわしい」と音楽家の渋沢一雄さんがいっている。東京の田園調布は、大正の末、一雄さんの父秀雄さんが情熱を注いで計画した町だ▼それが昨今は、地価狂騰で巨額の相続税が払えず、宅地を切り売りする人がふえている。一雄さんも、億を超える相続税がかかり、一部の土地を手放さざるをえなかった。手放した土地はたちまち高騰している。巨額の相続税のことを考えると私たちはもうここに住んでいられない、と嘆く商店主もいるそうだ。田園調布だけではない。地価高騰は東京の古い町並み、そこに住む人びとの暮らしを内側から破壊している▼このところ、中曽根首相が土地政策で重要な発言をしている。1つは、国土利用計画法による規制区域を指定し、いわゆる「地価凍結」を考えようということ、もう1つは、旧国鉄用地の払い下げでは地元の自治体の意向を尊重せよ、ということである。この発言に賛成する▼ただ、「必要なことは先手を打ってどんどんやっていく」という中曽根節を読み、先手を打つというのは少なくとも3、4年前にいってもらいたかったと苦笑するのみだ。それに、民間活力の名のもとに国有地を高値で払い下げ、地価高騰の炎を燃え上がらせたのはほかならぬ首相ご自身ではないか、といいたいことは山ほどあるが、とにかく、いいことはいい。強い指導力を発揮してもらいたい▼地価凍結には、役所の周到な準備がいるが、同時に、政治家の決断力が必要だ。旧国鉄用地問題も、地価抑制という大原則を明確にした上で対応してもらいたい。さらにいえば、総裁候補諸氏は、合従連衡劇に精をだすよりもまず、きちんとした土地政策を世に問うべきではないか▼東京の土地の値段は総額で約600兆円になる、と計算した人がいる。もしそれに近い数字なら、国民総生産の2倍近い額だ。ため息をつくというよりも、恐ろしくなる。 主婦主催で古楽器によるバッハ音楽会 【’87.9.14 朝刊 1頁 (全848字)】  「J・S・バッハ 教会カンタータの夕べ」が来月8日、東京・目黒の聖パウロ教会で開かれる。オリジナル楽器と小編成合唱による、とのサブタイトルが示すように、作曲当時そのままの楽器、奏法、解釈で、バッハのカンタータを演じてみよう、という趣向である▼登場する楽器は木づくりのフルートである「フラウト・トラベルソ」、同じ木製で飾りの少ない「バロック・オーボエ」、さらにバイオリン、ビオラ、コントラバスなども古い時代の様式のものが使われる。バッハをどう再創造してくれるか、楽しみだ▼面白いと思うのはこの音楽会がごく普通の主婦の集まりである「ひとしずくの会」の主催ということ。なぜ古楽器の演奏家との結び付きが生まれたのか▼話は数年前にさかのぼる。東京・世田谷に住む明智由美子さん、井上尭子さんたちを中心にするこの会は、最初のころはとりとめのない会話を交わす場という域を出なかった。そのうち「井戸端会議の社会化」というべき変化が起こってきた▼その1つが井上さんの家で開かれるホームコンサートだ。音楽を楽しむ場を提供し、入場料の一部を奉仕活動をしている人たちや組織に寄付する。そしてこの活動を通じて社会に目を開いてゆく。別に肩ひじを張ってやってきたわけではないが、コンサートはすでに12回にもなった。この過程でフラウト・トラベルソの演奏者である朝倉未来良さんたちとの交流が深まっていった▼「オリジナル楽器で、古典的な作曲家の視点にたった演奏をもっと日本でも」と、朝倉さんたち若手の古楽器愛好者は願っていた。一方、そう広くはない個人の家での音楽会だから、室内楽の夕べみたいな催しをと明智さんや井上さんは考えていた。両者の接点はここにあった▼いつもは30人ほどの集まりだが、今回は教会の聖堂を借りての「カンタータの夕べ」という形に発展した。平凡の中の非凡ということを思う。 在宅老人のための「福祉あんぜん電話」 【’87.9.15 朝刊 1頁 (全838字)】  青森県津軽の過疎地区に「福祉あんぜん電話」が誕生した。こういう動きは各地に起こりつつあるが、東北では初めてのことだ。しかもこれを始めたのがお役所ではなく、内潟療護園という民間の身体障害者療護施設だということをきいて、驚いた▼出稼ぎの多いこの地区では、ひとり暮らしの老人が多い。あんぜん電話に加入した老人は、必要な時に電話のボタンか、首につるしたペンダントのボタンを押す。すると療護園内のベルが鳴って時には救急車の発動となる▼連絡によって、あらかじめ登録してある近所の協力員がかけつけることもある。各戸の火災警報機とも連動しているので、消防車の出動も早い▼この話がでた時、入園中の重度身体障害者の青年2人が「自分たちも協力したい」と申しでた。加入者の情報をコンピューターに入力する仕事を手伝い、今も緊急ベルの受け手として活躍しているそうだ▼この園は、約50人の老人のデイサービスもしている。バスで老人を送迎する。園ではふろに入り、雑談し、機能訓練をし、食事をする。地域の婦人が毎日2、3人ずつ現れて無償でこの仕事を手伝っている▼職員たちは、老人たちの暮らしを自分の目で見て回る。その上で定期的に電話をする。長時間、悩みを訴える人もいる。訴えにはきちんと対応し、役所に連絡をとったりする▼地吹雪の時は寂しくて眠れない、という85歳の老人がいった。「あんぜん電話のおかげで長生きできる。それに、時々電話をもらうと涙が流れる。いいあんばいだあ」▼きわめて先進的な試みが、この過疎の町村で成功しつつある背景には何よりもまず、園長野上四郎さんの夢と実行力がある。職員たちの熱意がある。車いすの青年たちのすばらしい協力がある。土地の人たちの相互扶助の心がある。在宅老人福祉の仕事は、結局は、人と人との、人くさいつながりがものをいっているようだ。 国際鉄鋼彫刻シンポで鉄都の再生願う 【’87.9.16 朝刊 1頁 (全840字)】  国内外の現代彫刻家10人が北九州市の洞海湾周辺に集まり、来月10日から開かれる国際鉄鋼彫刻シンポジウムに出す作品づくりに取り組んでいる▼各地の鉄工所などにもうけられた工房はいつも開放され、鋼板で組み立てられた巨大な部屋や工場の天井にとどきそうな高い鉄の門、赤くさびついた鉄のかたまりなどを前に、鉄とは何か、人間とどうかかわってきたか、といったことを制作者と自由に語り合う。シンポジウムは制作の段階から始まっている▼一味違った、この芸術祭が実現したのは皮肉なことに鉄鋼不況がきっかけだった。官営八幡製鉄所の創業以来、鉄とともに栄えてきた北九州はいま、新日鉄のあいつぐ合理化で、衰退がめだつ。なんとか、町の活性化につながる催しを、と地元の有志が考えついたのが、このシンポジウムだった▼鉄鋼彫刻の場合、クレーンなどの設備がある工房が必要だが、不況による受注減で、空間に余裕のある工場がすぐに見つかった。素材の鉄鋼も、新日鉄が1人あたり30トンを無料で提供してくれた▼たしかに人類と鉄のつき合いは長い。しかし、われわれが鉄や鉄鋼という時、思い出すのはタンカーであり、自動車であり、鉄筋のビルであり、武器である▼「人間は、文明の利器としての鉄の有用性のみを追い求めてきた」と、彫刻家の1人、村岡三郎滋賀大教授はいう。鉄には、たとえば鋼材の切れはし、廃品捨て場に転がっている鉱石のかたまりにも、深い味わいやぬくもりがある。そうした鉄の芸術性を見直すことが物質万能の社会を問い直すことになる、と村岡教授は語る▼北九州では、鉄からの脱皮が叫ばれている。しかし、鉄鋼業が不振だからといって鉄を見かぎっていいものか。むしろ、違った角度から光を当ててみる。それがひいては鉄都の再生につながるのではないか。シンポジウムには、地元のそんな願いがこめられている。 身代金誘拐事件 【’87.9.17 朝刊 1頁 (全857字)】  「お父さんだよ元気?」「元気。これから帰るよ」という電話での会話があって、その後で、犯人は5歳の功明ちゃんを殺した。橋の上からモノを投げ捨てるように、全裸にして川に捨てた、とみられている。夜、ベルが1回だけ鳴って切れる電話が何度もあった。それが何を意味したのかはわからない▼身代金誘拐は、人前に自分をさらさずに容易にカネがとれる、かのような錯覚を犯罪者に与えるらしい。しかし繰り返していってきたことだが、誘拐事件で実際に身代金が奪われた例はきわめて少ないし、逆に、逮捕される確率はきわめて高い▼そういうことをきちんと判断できないものが子をさらい、殺し、破綻(はたん)して捕まる。人間のおろかさや残忍性を次々にみせつけられるようでむなしい▼今年の2月、長野県で2歳10カ月の幼女が誘拐されて殺された。犯人は現金4万5000円入りの封筒を取って逃げようとしたところを捕まった。犯人には約150万円の借金があった▼去年の5月、東京都で6歳の男の子が誘拐されて殺された。犯人は少年にカブトムシの幼虫をみせて近づき、神社の裏に連れて行って殺した。その上で両親が用意した200万円を奪おうとしたところを逮捕された▼古典的な例では、アメリカのローブ=レオポルド事件がある。1920年代の話だ。2人の少年は完全犯罪を実証するために小学生を誘拐し、殺して埋めた。しかし完全犯罪はたちどころに破綻して捕まった▼かつて柳田国男は「小児を夕方に誘うて行く怪物」のことを書き、隠し神、物迷い、人さらいなどの通称があると指摘している。現代でも、小児をさらって無残に殺す隠し鬼がたえない。誘拐の被害者の6割は小学生以下の子どもだ▼それにしても、日本のGNPがふえるにつれて身代金誘拐事件がふえてきたのはなぜだろう。犯罪学者の究明をまつが、鬼の心を生むものの1つに、間違いなく金銭感覚のゆがみがある。 秋は移ろいの季節 【’87.9.18 朝刊 1頁 (全851字)】  前夜の強風で、咲き始めたばかりの白い萩(はぎ)の花がずいぶん地面に落ちた。白い色の水引草の花が小さな、ぬれた粒になって光っている。白い色の彼岸花も咲いている▼「秋風の墨すられつつにほひけり」(木下夕爾)。秋も、霧が深い山の家などで墨をすり、筆をとると、墨の色がよくなじむような気がする、と墨象家の篠田桃紅さんがいっている。すずりも紙も霧を吸って墨になじむようになるのだろうか。そんな日の墨はとりわけ鋭いにおいを放つのだろうか▼「ひろ葉の赤の染め色の深さ、針葉の黄の織りのこまやかさ」を墨に託す。秋の色を墨に託すことは、目に見る色を心の色に置きかえることだと篠田さんは書いている(『墨いろ』)。秋気に心が染まり、それが墨にうつるような心のはたらきがあって、初めて墨に託すことができるのだという▼秋気に心が染まるということは、移ろいの姿を心に刻むことだろう。9月は、月の初めと終わりの温度差が激しい月だ。「秋涼」が「やや寒」に移ろい、時には「冷気が身にしむ」夜を迎える。ザクロの実が日々、赤みをまし、ムラサキシキブの実が緑色から紫色に移る▼夏の盛りから冬の盛りへと移ろう姿を心に刻むとき、私たちは、わずらわされることのない自分自身の時間の中で遊んでいる。寒山詩の中にある「天然無価の宝」をかいまみる気持ちになる。無価の宝とは、価値を超越した宝物の意味だという▼話は飛ぶが、国際面で読んだカムチャツカのペトロじいさんの話がおもしろかった。ペトロさんはもう25年も厳寒の地の針葉樹林に隠れ住んでいる。魚やキノコを食べ、凍土に穴を掘り毛布にくるまって寝る。人間は自然をだめにした大ばかものだ、と嘆きながらこうもいう。「だれでも、私のようにしばらく孤独に暮らした方がよい。自分の生をじっくりと考えるためにね」。25年、ペトロさんは天然無価の宝を友に生きてきたのだろう。 旧国鉄用地の処分方法 【’87.9.19 朝刊 1頁 (全841字)】  自然保護の運動をしている人たちから「旧国鉄用地を買おう」という声がわき起こってもよさそうにと思うのだが、残念ながら筆者はそういう声をきかない▼売られる予定の旧国鉄用地には、鉄路が通り、その周辺に原野や谷や森がある地域もあれば、市街地の1等地もある。中には、開発よりも緑地として保護するのに適している土地も多いだろう▼夢物語かもしれないが、それをみなで買う、あるいは地方自治体と手を組んで買って「国民有地」にする、という発想があってもいい。原生林を大切にすることもむろん大切だが、自分たちの力で用地の利用方法を考え、いい自然環境を造るという創造的な運動があってもいい▼さてその旧国鉄用地だが、国鉄清算事業団は「目玉商品」といわれる都心の超1等地などを、第1回売却予定地として資産処分審議会に諮問することを見送った。地価抑制につながる処分方法を考えてみようということだろう。その意味でこの見送りを歓迎する▼事業団が、用地を少しでも高く売って借金を減らそうという気持ちはわかるが、土地を商品としてのみ考えると、深い傷を負うことになる。土地を商品として扱うか、それとも、かけがえのない都市空間、あるいは貴重な自然環境をもつ大地とみるか。事業団の哲学が問われている▼用地の処分は第1に、地価高騰を避けることだ。東京のある旧国鉄用地周辺でわずか1.3キロの道路を造るのにざっと1兆円はかかる、という話があった。大半は用地買収費である。これでは社会資本の充実に税金を湯水のように使っても間に合わない。地価を高騰させない処分方法を、知恵をしぼって考えてもらいたい▼第2に、処分は、その地域の自然環境や都心環境をよくするものであるべきだろう。そのために、地方自治体は説得力のある利用計画を示すべきだし、住民は「国民有地」の利用に、もっと熱心であっていい。 米ソINF廃絶合意 開かれた核軍縮への道 【’87.9.20 朝刊 1頁 (全836字)】  ホワイトハウスの記者会見室で、レーガン大統領は「現存する核兵器を削減することで米ソの合意があった」と発表した。「ソ連のことをまだ悪の帝国と思うか」という質問に、大統領は答えた。「ユリのように純白とは思わないがね」▼レーガンさんらしい当意即妙の答えだが、少なくともこのことばには敵意の拡大ではなく、縮小がある。悪魔だとののしって敵意をつのらせるよりも、徹底的に話しあい、同意しうるところは同意するという姿勢が「歴史的な核軍縮の合意」を生んだ▼中距離核戦力(INF)廃絶の合意はまた、「もし平和を望むなら戦争に備えよ」という軍拡思想とのお別れ、とまではいかないが、決別への一歩前進を意味している。難関はある。SDIのことがある。検証の問題がある。米国内のタカ派の強硬論がある。ソ連にも警戒論があるはずだ▼難関はあるがしかし、核軍縮への道は開かれた。その背景には、第1に、経済的な理由があるだろう。「強いアメリカ」をめざす軍拡が国内経済に打撃を与え、かえって「弱いアメリカ」を生みつつあることへの恐れがある。ソ連国内にも、国防主導型の予算が生活を圧迫することへの不満があるだろう▼アメリカはこのところ、防衛予算の伸びを抑えている。1971年と85年の防衛費を比べると、イギリス、西ドイツ、イタリアなどの伸びはきわめて小さい。伸びがややめだつフランスでも、44%増である。その中で、日本は127%も伸びている。異常な突出だ。各国が日本の非軍拡路線による繁栄の教訓に学びはじめた時、日本が逆に軍拡路線をとりだしたのは歴史の皮肉だ▼米ソ合意の背景には、第2に各国の反核運動があった。世論の力で核軍拡競争を封じこめようという動きである。その世論の力を信じながら、スジャトモコ前国連大学学長はいっている。「われわれにとって最大の敵は絶望です」 真打ち昇進試験制度の廃止 【’87.9.21 朝刊 1頁 (全840字)】  落語協会(柳家小さん会長)がさきごろ、7年ぶりに真打ち昇進試験制度を廃止した。昔ながらの推薦制に戻る。落語家にとってはその方がきびしそうだが、試験、試験のご時世だから、なんとなくホッとする話だ▼東京の落語家は普通、入門して半年か1年後に前座になり、4、5年修業して二ツ目に上がる。そしてその上が、給金もぐっとふえるあこがれの真打ちなのだが、ひところ、大学の落研ブームの影響などで入門者が急にふえ、二ツ目が100人近くになった▼落語の寄席は東京に4軒しかないので、二ツ目たちはなかなか高座に上がれない。以前なら4、5年で真打ちにばってきされた者もいるのに、実力を評価してもらう機会がないまま、10何年も二ツ目でくすぶる者も出てくる▼真打ち試験は、受験資格を前座から数えて12年以上とした。試験日は春秋2回。7人の協会幹部、つまり師匠連中の前で得意の一席を披露する。5人以上が○をつければ合格となる。これでバタバタと昇進して行った▼推薦制はどうかというと、ここでは寄席主である席亭が大きな発言力をもつ。「あの子、近ごろよく勉強してるよ。そろそろどうだろうね」と席亭が師匠連中にもちかける。逆に師匠が弟子を推薦して、席亭たちの賛同を求めることもある。審議会などは開かない▼席亭はお客に一番近い。ふだんの高座を聴いているから、だれが本当にお客にうける芸を身につけてきたかを、よく知っている。真打ちはその日の番組の看板になるのだから、お客を呼べることが第一だ。甘くするわけにはいかない▼ある席亭は「正直いって試験で作りすぎましたよ」という。試験だといえば間違いないみたいだけれど、たった一席しゃべるだけの一発勝負だ。きびしいようで、実のところは甘いのかもしれない。○×でない加減のよさ。そんな「いい加減さ」を、芸の世界ぐらいは残してもらいたい。 新型光メモリーと人間の記憶力 【’87.9.22 朝刊 1頁 (全840字)】  わずか1センチ四方の面積に、文字なら新聞4万ページ分の情報を記憶することができる、といわれても、当方はよくわからぬまま、ただただ舌を巻くのみだ。三菱電機中央研究所が基礎実験に成功した新型光メモリーのことである▼こういう光メモリーの開発が進めば、コンピューターの外部記憶装置の小型化がいちじるしく進むだろう。情報の中身が格段に濃いコンパクトディスクも生まれる、と専門家はいう。昨今は、人間の脳にかわって、しっかりと記憶を引き受けてくれる手段が次々に現れる▼プラスチックのカードに集積回路(IC)をうめこんだものが普及しつつある。そういうICカードに、たとえば個々人の健康診断歴が刻まれる。車の整備歴などが刻まれる。多数の名刺がすべて1枚の小さなICカードに記憶されることもあるだろう▼私たちは今に、そういう記憶器をポケットにいれて暮らすようになるだろう。それはそれで悪いことではないが、その普及につれて私たちの記憶力は衰えてゆくのではないか。ボタンを押さないと自分の生年月日も思いだせず、記憶器を携帯することさえ忘れるようになる、とよけいなことが心配になる▼ぼけ症状のネズミの脳に、神経成長因子なるものを注入する実験で、明らかに記憶力の回復があったという米国とスウェーデンのチームの研究発表があった。いずれは老人のぼけの回復にも役立つだろうと期待されているが、老人に限らず、将来は社会全般の記憶力減退症状に対する治療法になるかもしれない▼中国に取り残された王吉明さん(本名橋爪利秋さん)は、幼いころ暮らしていた長野県の故郷の養蚕所、墓地、井戸などを克明に覚えていて、それがものをいって身元がわかった。故郷をおもう心が、幼い記憶を定着させたのだろう▼光メモリーのニュースも驚きだが、王さんのきわめて人間的、持続的な記憶力にも心を打たれる。 防げぬか、車の騒音 【’87.9.23 朝刊 1頁 (全862字)】  大阪の一主婦から投書をいただいた▼「ついこの前騒音をふりまくオートバイに棒を振り回した人がいて事件になりましたね。わが家は住宅地のまん中ですが、横に6メートル幅の道路が走っていてこの道路のために泣いています」▼「制限時速は20キロですが、朝も夜もバイク、乗用車、工事用の車、大型トラックがものすごい速さで走り、本当に気が狂いそうになります。どうしてあんなすさまじい音をたてて走るのでしょう。五臓六腑(ぷ)をえぐる音です。走り出て、丸太ん棒をぶつけてやりたいと本気で思います」▼「仕事のための車ならがまんすべきかもしれませんが、やはり車をのろいたくなり、そういう自分を反省し、だからといって家を売って引っ越すわけにもいきません」▼6日、大阪市内で、7台のオートバイに向かって道ばたから男が飛びだし、長さ1メートルの棒を振り回した。1人の少年が倒れ、重体になった。「事件」とはこのことである▼深夜を走るトラックにはそれぞれの事情があるし、オートバイに乗る若者にも言い分があるだろう。暴行は悪いにきまっている。だが、道路わきの住民にとっては、すべてが「騒音をふりまく無表情な鉄の塊」なのだ。車をのろう自分を反省しながらも、どうにかしてくれと叫ぶ主婦の思いに共感をもつ人は少なくないだろう。今のままでは、轟音(ごうおん)に対する住民の反乱はますますふえることだろう▼もしも、住宅街の静穏を尊重する都市計画があったならば、もしもメーカーが車の騒音を極限まで低くすることに成功していたならば、もしも鉄路の輸送を大切にし、大型トラックの総量を抑制していたならば、もしも轟音や猛スピードをだすものの免許証を半永久的に取り上げるだけの厳しさがあったならば、と私たちはたくさんの「もしも」を考える▼しかし現実には今夜も、何十万、いや何百万の人が轟音に脅かされて夜をすごす。それが経済大国の裏の姿だ。 「閉じられた履歴書」 婦人相談員、兼松左知子さん 【’87.9.25 朝刊 1頁 (全857字)】  兼松左知子さんが、東京・新宿の婦人相談員になったのは、約30年前だ。筆者も当時は警察回り記者として新宿を回っていた。兼松さんと一緒に、子を捨てて姿を消した女性を探すためにドヤ街を歩きまわったこともある▼主婦であり母親である兼松さんはずっと婦人相談員の仕事を続け、売春、性暴力、未婚の母、女子学生の性、子殺し、やくざのヒモ、少女の性を買う男たちの実態をみつめてきた。いや、みつめるだけでなく、その性の荒野にあって、女たちをしかり、励まし、約5000人の相談にのってきた▼生まれた赤ん坊を手に、へその緒をぶらさげて夜の公園を歩く女がいる。ヒモから逃れて高層ビルの屋上のすみに隠れている女がいる。そういう人たちの人生の重さにひきずられ、ひきさがることもできずに仕事を続けてきた、と兼松さんはいう▼その30年の仕事が『閉じられた履歴書』という本にまとめられた。ここには、だまされて日本に連れて来られた3人のフィリピン女性が登場する。虐待され、売春を強要されて脱出した女性の1人がいう。「フィリピンの生活も決して楽ではなかったけど、こんなにひもじくって、つらい思いをしたのは生まれて初めて」だと▼麻薬中毒の女性、緑(仮名)の話もでてくる。緑には何回も裏切られ、行方を探し回った。禁断症状の緑と格闘したこともある。毛布をかぶせて馬乗りになる。飛ばされ、壁に頭をぶつけてもまた飛び乗る。緑と一緒だったやくざがいった。「ねえさん、ねえさんにはまいりました。あんたさんと緑とはどんなご関係です? 緑のこと本気、ですね」▼十数年後、主婦になった緑と再会する。そして1足の白い靴を贈られる。「私のために兼松さんはどれだけ靴の底を減らしたことか。だから、この靴を受け取って、ね。そして私のこと、喜んでね」▼兼松さんは深い怒りを抑えながら、60数人の女たちの語りたくない履歴をあえて描いている。 ネバーアゲーンキャンペーン、1年後 【’87.9.26 朝刊 1頁 (全856字)】  戦後派世代の7人が1年前、重い荷物をかかえてアメリカへ渡った。荷物にはヒロシマの記録映画『にんげんをかえせ』のフィルムや日本紹介の資料がつめこまれていた▼7人はアメリカの各地に散って、学校や家庭で映画を見せ、日本の文化を語り、真珠湾攻撃や原爆について論じあう仕事を続けた。北浦葉子さんが提唱したネバーアゲーンキャンペーン(NAC)である。政治色抜きであること、戦後生まれの世代が語りべになることが運動の原則だ▼語りべとしての力に不安をもつ出発前の7人に向かって、体験者の北浦さんはいった。「へたでも、やらへんよりはやったほうがええにきまってるやんか。やってるうちにうまなるから心配せんとき」▼苦労の連続だった。2カ月間、各学校に手紙をだし続けたが一度もお呼びがないことがあった。「会場でその日本人を殺してやる」という電話が主催者の所にかかってきたこともある。小学生が「おじいさんが真珠湾のことをいつもいっていた。たくさんの人が死んだんだ」と怒りにふるえながら発言したこともあった▼ある退役軍人がいった。「私は真珠湾攻撃に怒りをもち、原爆投下はよい決断だったと思い続けてきた。しかしこの映画を見て考えを改めた」▼米国人の父と日本人の母をもつ子は「原爆投下については両親の意見がわかれ、私も迷っていたが、映画を見て、問題はもっと根本的なこと、戦争そのものが論外なのだということがわかった」といった。南部では黒人の子供たちが、あの手をパチンとあててから深く握りあう仲間同士の握手をしてくれた▼7人の名は加藤由佳さん(19)、石田昌隆さん(19)、中村里美さん(23)、中谷文彦さん(25)、荒川明美さん(27)、穴井久子さん(38)、大島道子さん(39)。1年後、アメリカで仲間と会った北浦さんは、みなの変わりように驚いた。どっしりと根をおろした感じが出てきた、と思った。 朝日新聞社寮襲撃事件と言論の自由 【’87.9.27 朝刊 1頁 (全853字)】  朝日新聞名古屋本社の単身者寮を襲撃した犯人は食堂のテレビに散弾銃を撃ち込んだ。食堂にだれかがいれば、阪神支局襲撃事件の時と同様、そのだれかをめがけて凶弾を発射したことだろう▼共同通信社などに届いた犯行声明と犯人の結びつきはまだよくわからないが、朝日新聞を「反日分子」ときめつけていることに強い憤りをもつ。こういう言葉がのさばりはじめたところに、時代の雰囲気を感ずる▼戦前も、右翼は朝日を「非日的」ときめつけて攻撃した。2・26事件では、朝日を襲った1隊が「国賊朝日をやっつけろ」「非日的新聞に天誅(てんちゅう)を」と叫んだ。非国民、国賊というレッテルをつけて言論機関を暴力で攻撃する。そういう戦前の亡霊が復活したのだろうか▼2・26事件の時、朝日新聞社で反乱軍に対応した緒方竹虎はのちに吉田内閣の副総理になった。そして「日本の新聞が、満州事変直後からでも、筆を揃えて軍の無軌道をいましめ、横暴と戦っていたら、太平洋戦争は防ぎ得たのではないか」「これには言論の自由の確保されることが前提条件だ」と書いている▼国を憂えればこそ、言論の自由が大切だと考える。政府の政策を監視し、批判する言論の自由を確保することが、一国の政策の決定的な誤りをただしうるという教えを、私たちはこの大先輩から学んだ▼かつて中江兆民は「新聞は世論を運搬する荷車なり」といった。新聞は新鮮な情報をつかんで読者の判断材料を提供するし、自由な立場で社論をのべる。だが、新聞の役割はそれだけではない▼読者や専門家の言い分に耳を傾け、紙面参加をしてもらう、という大切な役割がある。新聞という荷車は読者に支えられ、読者と共に運搬するものだろう。阪神支局事件の社葬に、なんとたくさんの読者が参列して下さったことか。なんとたくさんの弔意のこもったお便りをいただいたことか。そのことが私たちを力づけてくれた。 月刊誌『平凡』と『週刊平凡』の廃刊 【’87.9.28 朝刊 1頁 (全855字)】  ひところは大衆娯楽雑誌の世界に君臨していた月刊誌『平凡』と『週刊平凡』が廃刊になる。萩本欽一が「悲しいよ、悔しいよ」といっている。欽ちゃんはこの雑誌を読み、芸能人を身近に感じ、自分でもやれると思うようになってこの世界に入った▼敗戦の年に誕生した『平凡』はたちまち100万部を超えた。7S、つまりスター、スクリーン、ステージ、ソング、ストーリー、スポーツ、セックスを扱って売れた▼1959年に生まれた『週刊平凡』は7Sに1Tを加えた。テレビである。当時テレビは急成長期にあった。59年の普及率は1割強だが、65年には8割を超える。テレビの急成長は次々に人気ものを生み、人気ものを追った『週刊平凡』も急成長した▼この雑誌のおもしろさは異種交配にあった。第1号の表紙はテレビ界の高橋圭三と映画界の団令子との組み合わせだ。以後、三島由紀夫と雪村いづみ、浅沼稲次郎と若尾文子、長島茂雄と北原三枝、という組み合わせが表紙を飾った▼異種交配的な思想は、中身にも反映していた。軟派系ごった煮的総合雑誌のおもしろさがあった。60年安保を扱う幅の広さがあった▼70年代以降、雑誌の極端な細分化、専門化がはじまり、『週刊平凡』は芸能誌化する。だが、ちまたに芸能情報や暴露記事があふれ、両『平凡』は次第に存立の基盤をゆすぶられる▼決定的なのは、タレント多くして大スター少なし、の時代を迎えたことだ。夜空の星のように、スターには神秘性がある。だが人気ものの身辺をあからさまにする光の前ではスターは消える。スターを身近なものにした芸能誌は、その故に、大スターを失う羽目にもなった▼それにしても「平凡」というすばらしい表題が出版界から消えるのはさびしい。雑誌は生きもの時代の子、だという。平凡な、人並みであることの願いを超えて、人びとは、強烈に自分自身であることを求める時代に入ったのだろうか。 9月のことば抄録 【’87.9.29 朝刊 1頁 (全853字)】  9月のことば抄録▼「ほしいものを6年も待ったのは初めてだ」とレーガン米大統領。米ソ軍縮交渉の画期的な合意ののちに▼「国家が危機に直面しているというのに、内輪もめしかできないの」。フィリピンのアキノ大統領の怒りが爆発した、と比紙が伝えている。閣僚の口論にうんざりした大統領は、ある閣僚に「あなたの首をほしいという人だっている」ときめつけた▼一方、「私の細首がどうなるかは、国会対策委に預けてあります」といったのは参院環境特別委の山東昭子委員長。ゴルフ番組出演で本会議をさぼったことを追及されて。預ける前にスパッと辞めていれば、まだしもね▼「良宮(ながみや)はどうしている?」。長い手術を終え病室に戻られた陛下が最初に口にされたのは、皇后さまを気づかうことばだった▼「長寿の秘けつ? あんまりこせこせしないことじゃあないですか」。東京は早稲田のたばこ屋の看板おばあちゃん、100歳の堀田つなさん▼「年金で暮らしてるのに、カネなどあるか」。74歳の日口さんはそう一喝して強盗を撃退した。松阪市で▼「いまこそもっと日本人が日本のことを外国語で書いたり、しゃべったりしなくてはいけない時期だ」「知的討論のできる語学力、書く能力も大学時代に養うべきだ」。国際人の松本重治さん、87歳の弁だ▼西船橋駅ホームの教諭転落死事件で、元ダンサーの女性は逃げればよかったという主張に対して、裁判長はいう。「それは被告人に対して屈辱を甘受せよと無理強いし、逃げ去る悔しさ、みじめさを耐え忍べというに等しい」▼「2度も何でや」と犬飼兵衛記者。名古屋の朝日寮襲撃事件の一報を聞いて。犬飼記者は阪神支局襲撃事件で負傷し、通院生活を続けている。「警察への挑戦でもある」と捜査員の1人がいった▼「中村清先生のことばは耳と心で聞く。心は走るのに一番大事」。世界陸上のマラソンで優勝したワキウリさん。 増える銃の密輸と発砲事件 【’87.9.30 朝刊 1頁 (全822字)】  東京・杉並で短銃を持った男が不動産会社の社長宅に押し入った事件は、人質にされたお手伝いさんが撃たれて死亡、警官1人と犯人が重傷という惨劇になった▼同じ夜、埼玉県越谷市と東京・浅草で、2つの暴力団が互いの事務所に短銃を撃ち込む抗争事件が相次いだ。いつのまに日本は、こんなにも銃弾が日常的に乱れ飛ぶ国になったのか▼朝日新聞データベースで、銃が登場する国内の犯罪記事を呼び出してみた。今年に入ってからだけで、短銃、猟銃あわせて152項目がえんえんと画面に流れつづけた。やはり多いのは、暴力団関係である▼それ以外でも、東京・上野の宝石商殺し、病院で来客を射殺して自殺した元千葉県議など、そのつど世の耳目を集めた事件は少なくない。あれもこれも、ついこの間発生したばかりだ。しかし、なにか遠い過去のできごとのような感じもしないではない▼あまりにも似たようなことが起こり過ぎると、慣れが感覚をまひさせるからだろう。これがこわい。どんな凶器でも同じだが、とりわけ銃の場合は、それを手にした者を、たちまち強者にする。銃には、その存在自体が犯罪を誘発する危険性がひそんでいる▼それが、このところ続々と密輸入されている形跡が濃い。今年3月に神奈川県警が摘発したグループだけでも、フィリピンから600丁以上の短銃を運び込み、各地の暴力団に流していた。もっと小規模な密輸は、数えきれない▼空港などの水際取り締まりをもっと厳重にしてほしいものだが、「日本の表玄関として、あまり客を待たせて嫌な思いはさせられない」(成田税関支署)という事情がある。ひそかに入ってくる短銃は、間違いなく増えている▼そして、許可を得て所持されている猟銃が全国に50万丁。「世界一安全な国」であり続けるためには、銃器対策の根本的な見直しが必要なようである。 自民党総裁選と料亭政治 【’87.10.1 朝刊 1頁 (全842字)】  自民党内では時々、思いもよらぬ論理が幅をきかすことがある。金丸副総理は、総裁選挙の予備選挙が行われず、国会議員の投票で決める本選挙だけになった場合には「日程を繰り上げるべきだ」と主張し、こんなふうに演説した▼「10月8日の告示から30日まで選挙運動をすると、料理屋で飲み食いしたり金が舞ったりするうえ、いろんな不祥事が起きかねない。選挙運動を短縮して1日も早く総裁を決めるのがいい」▼繰り上げ論には派閥の駆け引きの色彩が強いが、金丸氏のように考える人は自民党内には多いらしい。総裁候補の安倍総務会長も日程繰り上げを求めて「約450人の党所属国会議員が相手なので、毎日料理屋で会合などをやっていたら国民から批判が出る。われわれ3人(ニューリーダー)の責任も問われかねない」という▼総裁選挙の運動とは「飲み食い」や「金が舞う」ことなのか。投票資格が国会議員に限られた選挙なのだから、皆が良識ある行動をすれば「いろんな不祥事」は起こらない。少なくとも、金丸氏や安倍氏のような実力者が「金を使う」ことをやめれば、すっきりできるはずだ▼選挙運動の期間は候補者間の政策討論など、有効に活用する手がある。「どんな政治をしようとしているのか、とんとわからない」という声がよく聞かれる。もちろん、予備選挙がない場合に日程を繰り上げてはいけないというのではない。まともな理由であれば繰り上げもそれなりに理解できるが、「不祥事防止論」を根拠にするのはいただけない▼自民党総裁選挙は現状では、最高の公職である首相の選出を意味する。ところが党内行事のため、公職選挙法は適用されず「買収」「供応」は野放し状態だ。中曽根首相は30日の記者会見で「自民党では、そんなきたないことはない。心配は不要です」と断言した。総理と副総理のどちらが本当のことをいっているのだろうか。 日本人の味覚から消えていく“渋い”味 【’87.10.2 朝刊 1頁 (全840字)】  「渋柿の滅法生(な)りし愚さよ――たかし」。ある幼稚園の先生から、ちょっとかわいそうだったけどとことわりつきで、こんな実験の話を聞いた▼渋ガキをさがし求め、60人ほどの園児に食べさせてみた。ウェーッと吐きだした子がほとんどだったが、涙ぐみながらのみこんだ子もいた。そこで先生はきいた。「どんな味がした?」。子どもたちは答えない。2、3人が自信なげに「苦い」といった▼「いまの子は、渋いというのがどんな味か知らないのです。サルカニ合戦のお話ができないわけよね、カニのあのくやしさがわかりませんもの」。これが先生の結論だった。渋みもまた、日本人の味覚から消えゆくのだろうか▼果物の酸味は確実に薄らいだ。むかしなら、いまごろは小玉の青リンゴが出てきて、歯ぐきにしみる酸っぱさが、さわやかな秋を感じさせたものだ。品種改良が進んだせいか、リンゴはみんな大きくて甘い。ぼつぼつ出回るミカンもそうだ▼カキの渋いのはいただけない。けれども、渋みがすべてまずさかというと、そうでもない。日本茶のうまさは、渋み抜きには語れない。ひと口ふくんだときに渋さが広がり、じわじわと微妙な甘さに変わってゆく。お茶好きにはこの一服がたまらない。甘渋みということばもあるほどだ▼しかし最近のお茶は、どうも渋みが敬遠される。マイルド化というのか、あっさりしていて、何杯もおかわりできるのが好まれるという。ウーロン茶などが伸びるわけだ▼渋みは甘みのように、人間が生まれながらにして欲しがる生理的な味とはちがう。苦みと同様、味わいつけないと、ただの不快な味でしかない。いわば趣味の味である▼渋い顔という。渋さは不機嫌や苦々しさを意味する。一方で渋ごのみとか渋い男とかいう。この場合は地味で風流な趣をいうようだ。どちらにしろ、渋いが死語となる日は、そう遠くないのかもしれない。 朝の連続テレビ小説、大阪発の「はっさい先生」 【’87.10.3 朝刊 1頁 (全841字)】  NHKの朝の連続テレビ小説は5日から「はっさい先生」がスタートする。大阪に赴任した東京育ちの若い女教師が言葉や文化の違いに直面し、戸惑いながらも明るく生き抜いていく半生記である▼制作する大阪放送局は「主人公が出会う様々なカルチャーショックを通して上方文化の再評価を試みたい」という。ドラマは昭和6年からはじまる設定だから、東京と大阪の文化がそれぞれに独自性を誇っていたころだ▼関西にも共通語がどんどん浸透し、町並みや習慣も画一化が進んでいる。「はっさい」は漢字で「発才」と書く。大阪弁で「おてんば」という意味だが、地元でもわかる人は年配の層に限られるのではないか▼在阪テレビ局のプロデューサーによると、大阪発のドラマが年々制作しにくくなっている。出演者は名前があがるとみな東京に行ってしまう。大阪弁、あるいは関西弁をしゃべれるスターが少なくなり、方言指導のトレーニングからはじめねばならないからだという▼「上方の文化の灯を消すな」という点では文楽も同じだ。大阪の町人言葉を基調に市井の義理や人情を映すこの伝統芸能は、若い後継者の不足に悩んでいる。微妙な大阪弁の抑揚とリズムが要求される義太夫節の苦労は、共通語が圏域を広げる中で、並大抵でない▼通信技術の世界では「音声タイプライター」の研究が進められている。人間が機械に共通語で語りかけ、しゃべった言葉がそのまま文字になるワープロである。難しい点はまだいくつかあるが、実現すれば確かに便利だ。しかし、便利さゆえに共通語化に一層の拍車がかかった時、方言の存在はどうなるのだろう▼作家の田辺聖子さんが書いている。「日本語の乱れというのは、方言が標準語(共通語)に吸収され、方言独自の生々発展の力を失い、ひいてはその地域に住む人々の心まで委縮させてしまう、そのことを指すのではないだろうか」と。 他人の目 【’87.10.4 朝刊 1頁 (全844字)】  他人の目に自分がどう映るかを気にするのは世の常だ。人間ひとたび権力を握ると、ますますそのような思いがつのるものらしい▼身長の低かったナポレオンは、しばしば立派な白馬にまたがって公の場に現れた。馬上ゆたかなナポレオンの雄姿は、数々の名画となって残っているから、彼の作戦は成功したといえよう▼ニューリーダーと呼ばれる自民党の総裁候補たちも、新人類風の洋服を着てみたり、魚市場でおばさんと談笑したり、それぞれパフォーマンス競争に忙しいようだ。この程度はご愛きょうのうちだろう。だが、自己粉飾がだんだんエスカレートして歴史上の事実までゆがめるようになると、ことは深刻になる▼ソ連のスターリンはやはり小柄な人で、見ばえをよくするために、ヒゲの手入れを怠らなかったといわれる。それだけでなく、自分の都合に合わせて歴史の書き換えもはかった。そのためにソ連が支払った代償は大きかった。事実がまげられることによって国民は傷つき、西側の対ソ不信感も増幅したからだ▼だが、歴史の振り子はいつかはあるべき姿に戻っていく。ソ連でも最近になって、ようやく自国の現代史の見直しが始まった。これまで反党分子として極悪人に仕立てられ、あるいは無視されてきた革命当時の指導者トロツキー、ブハーリン、ジノビエフらがそれなりの客観的評価を回復してきた▼これらの人びとは一時は革命の父レーニンの協力者として、弁舌や理論の才をうたわれたことがある。そうした評価も一部分はとり入れて、複数のソ連共産党史教科書が刊行される予定だという▼緊張緩和にとって大事なのは、相互の信頼感を醸成することだろう。事実を正しく観察しようとする誠実な姿勢が信頼をはぐくむ。人間でも、国家でも、陰ひなたがありすぎては、信用されない。クレムリンの指導者が遅まきながらそれに気付き始めたとすれば、悪いことではない。 乱獲されるツキノワグマ 【’87.10.5 朝刊 1頁 (全845字)】  ツキノワグマは驚いたり、興奮したりすると鼻を鳴らすような音をたてる。これが「クマッ、クマッ」と聞こえることからクマの名がついた。韓国で「コム」と呼ぶのも共通の語源だという説がある▼このツキノワグマが乱獲されている。韓国では全国に57頭しか確認できなくなった5年前に、天然記念物に指定した。わが四国でも、戦前の九州に続いて、いま絶滅の危機にある。残っているのは剣山系に10頭たらずと推測され、昨年暮れに高知県、この4月からは徳島県が狩猟の完全禁止に踏み切った▼人間の狙いは、今も昔も漢方の霊薬「クマの胆(い)」だ。韓国で天然記念物のクマを密猟して得た胆のうが、180グラムで1000万円余という途方もない値段で売られた話があった。品不足に悩んだ韓国の業者が目をつけたのが、日本のツキノワグマ。記録によると、55年から5年間に268頭の生きたクマが韓国に渡った▼昨今のグルメブームで人気のクマの掌(てのひら)料理は、本場中国よりも日本のほうが手軽に食べられる。1皿10万円から20万円の値段を気にしなければのことだ。掌はほとんどが中国からの輸入品。国内のクマははく製にまわる▼このような資料を集めている野生動植物国際取引調査記録特別委員会によると、ツキノワグマの輸出入には数字に表れないやりとりがあって、絶滅のおそれのある生物の商取引を規制したワシントン条約に違反する疑いがつきまとう▼これからの季節、キノコ採りの人を襲い、農林産物を荒らすクマは、害獣として1年中射殺することが許されている。狩猟と合わせ、殺される頭数は年平均二千二百余頭におよぶ▼秋田県では昨年400頭を撃ちとった。生態を知るため、専門家がぜんぶの胃袋を解剖して調べたら、ポリープのある胃が1つ見つかった。この初めての発見は、追いつめられるクマ族のストレスを示すものかもしれない。 ベトナム難民の青年との出合い 【’87.10.6 朝刊 1頁 (全858字)】  千葉県東金市の看護婦・行方百合子さん(49)と、ベトナム難民の青年ファン・トルン・トゥエン君(29)の初めての出会いは、去年6月。地元のボランティア協会が、東京にいる難民50人を招いて交流する会を開いた。その夜のホームステイ先の1軒として、受け入れを頼まれたのである▼公務員の夫と大学生の一人息子の家庭に、「1晩ぐらいなら」と軽い気持ちで迎えた客であった。「難民なんていわれるのは嫌でしょう?」「お母さんと別れて船に乗ったとき、さぞ泣けたのでしょうね?」。いま思えば、なんとつまらない質問ばかりしたことか▼「僕は難民ですが、人間です。どう呼ばれようと、気になりません」「泣きませんでした。70%の確率で死ぬ船出でしたから、母の思い出に残す息子の最後の顔は、明るいものにしてやるべきだと思って我慢したのです」。トゥエン君の答えの一つ一つが、行方さん一家の胸に響いた▼サイゴンの高校で数学の教師をしていた彼は、3年前、日本にたどり着いて、いまは東京の工場でプログラマーの仕事をしている。つらい運命にありながら、毅然(きぜん)として未来を切り開いて生きようとしている▼以来、トゥエン君は行方さんを「お母さん」と呼び、行方さんも、新しい息子のつもりで行き来が続いている。行方さんは、大好きだったパチンコをやめた。魅惑的だったギンギラのネオンは「資源のむだづかい」としか見えなくなり、興奮をかきたててくれた軍艦マーチは、聞きたくもない歌になった▼「トゥエンに会わなかったら、私は、ごくつまらない主婦で終わったでしょう。この年になってですが、広く深くものごとをとらえる目を、彼に開いてもらいました」。人間の値打ちに、その人の属する国の貧富は関係がないのだ▼いま日本人は国際化を迫られている。が、そのほんとうの意味は何なのか。行方さんの話には、一つの答えが含まれているような気がする。 元同志社大学総長、住谷悦司さんの死 【’87.10.7 朝刊 1頁 (全839字)】  大学には、かつてその学校の「顔」とでもいうべき人がいた。戦後の京都でいえば、立命館総長の末川博さん、同志社総長の住谷悦治さんだろう▼民法と経済学史。専門とする分野は異なったが、ともにすぐれた学者であり、教育者であった。平和と民主主義を守る運動を支える主柱だった▼末川さんの死(昭和52年2月)をことのほか惜しみ、悲しんだ住谷さんが亡くなった。東大時代、吉野作造の指導を受け、大正デモクラシーの良さをたっぷり吸い込んだ学究でもあった。「鬼も歯が立たない美しいキャラクターの持ち主」と、もう60年以上も交際を続けてきた同志社大学の元学長で、憲法学者の田畑忍さん(85)はいう▼その人柄ゆえに総長時代、「優柔不断」との批判を受けたこともある。ただ、このおだやかなジェントルマンは、「にせもの」を嫌い、自由を抑圧するものに対しては容赦がなかった。「ほんものとにせもの」と題して朝日新聞に寄せた一文(昭和43年6月30日付)では「軍部と結んだ国家権力の不当な弾圧に出会ったとき、沈黙したり、もろくも腰くだけしてしまった」キリスト教徒を厳しく批判した▼同じころ、「建国記念の日」の創設に反対を表明していた住谷さんのところに「猛省を促し、抗議する」手紙が来た。これに対しても「いつか来た道」と題し、新聞紙上で反論している。なまなかな温顔ではない。戦前、治安維持法違反で検挙されたとき、100日間もの取り調べや拷問にも耐えたという▼同志社大学内にひとつの碑が立っている。「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」。創設者、新島襄(にいじま・じょう)の言葉である。同郷、群馬県出身の師の言葉通りの生涯を送った住谷さん。最後の社会的な活動は、京都在住の学者とともに「スパイ防止法」案の反対意見書を自民党に送ったことだった。2年前、89歳の時である。 生活満足派減少の中流意識 【’87.10.8 朝刊 1頁 (全848字)】  総理府が国民生活に関する世論調査の結果を発表した。自分の生活程度は中流と思っている人が全体の9割を占めている傾向には変わりないが、生活に満足と答えた人は6割にとどまり、2年つづきで減っていることがわかった▼この調査は昭和33年から毎年1回ずつ実施されていて、中流意識9割という結果は、40年代からずっとつづいている。これが実は、日本人の七不思議のひとつのように思えた▼生活水準は先進国並みに高いのだろうが、時間当たりの賃金は低い。食料品など生活必需物資は割高だ。所得格差も広がる傾向にある。加えて地価の狂乱は、資産格差を絶望的に広げてゆく▼今回の調査では、同じ中流意識でも「中の中」がやや減り、逆に「中の下」がふえた。生活満足派の減少傾向もはっきりした。おかしな話だが、これを見て内心ホッとした▼めでたさもちう位也おらが春。中流意識が出るたびに思うのが一茶のこの句である。ちう位(中くらい)とある以上、その上のめでたさは当然ある。しかし一茶は、それを高望みだとしたのかもしれない。人並み、世間並みの願いと同時に、みずから足れりとする心情がにじんでいる▼荻原井泉水によると、一茶は積極的に、めでたさは中くらいにかぎるとしていた。下積みはたまらないが、上に行くと落ちる心配がある。一茶のほんとうの気持ちは「めでたさはちう位也」だという。一茶の中流意識は、満足派と不満派のどちらを向いていたのだろうか▼一茶は当時、奉行所に「役金ちとの間休ませ可被下候(くださるべくそうろう)」と願い出ていた。所得税として長く金1歩ずつ上納していたが、たまたま中風をわずらって歩行が困難になった。薬代に加え、かご賃など出費がかさむ。それが免税願の理由だったという▼これが聞き届けられたかどうかは不明だ。総理府調査では、政府への要望の第1は「税の問題」だった。3年連続である。 自民総裁選、ニューリーダー3氏に望む 【’87.10.9 朝刊 1頁 (全844字)】  金太郎アメは、どこを切っても同じ顔が出てくる。こんどの自民党総裁選挙に立候補した3氏を眺めていると、つい、この金太郎アメを連想してしまう▼思うことはだれも同じなのか、最近の米誌『タイム』までが、自民党総裁選の解説記事にキンタローアメを登場させ、ニューリーダー3人を語っていた。日本のおとぎばなしのヒーロー金太郎も、とんだことで国際的になったものだ▼同じ自民党の大黒柱ばかりなのだから、3人の掲げる政策が似ていても、別に不思議ではない。それにそれぞれの政権構想をよく読むと、そこにはやはり微妙な違いがあっておもしろい。しかし、最も金太郎アメ的で私たちを白けさせるのは、ニュアンスの差こそあれ、お三方とも「中曽根政治の継承」を打ちだしていることだ▼政権を目指す3氏に聞きたいのだが、あなた方は現政権にないもの、欠けたものがあると痛感したからこそ総裁選に立候補し、自らの手でそれを改めたい、と思ったのではないのか。もし、そうでなく、心から中曽根政治に心服しているというなら、ここはむしろ中曽根続投に一役買うほうが、筋は通っている▼しかし3人とも本心は別のところにあるのだろう。要するに中曽根派を敵に回したくないのだ。だからこそ、中曽根氏とは政治的手法も歴史観も違うと思われていた人たちまでが、中曽根政治というみこしに乗ろうとしている。今からでも遅くない。3人は中曽根政治のなにを継承し、なにを否定するか、明らかにすべきである▼7年の病に3年の艾(もぐさ)、という言葉が『孟子』にある。7年の長患いというのに、急に3年も乾かした艾を求めようとしても、間にあうものではないという意味だそうだ▼安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏が、ニューリーダーといわれるようになって何年たつだろう。病気も政治も同じこと、平素から細心の配慮が肝心だ、と先人は教えている。 世界の日本語学習熱 【’87.10.10 朝刊 1頁 (全825字)】  いま、日本語に対する興味と関心が世界的に高まっているらしい。最近中国を旅してきた友人は、日本語学習熱が北京、上海などの大都市ばかりでなく、地方中小都市に及んでいることに驚かされたという▼作家魯迅の生まれ故郷で、銘酒紹興酒で知られる浙江省の古都紹興を訪ねたら、「越秀外国語学院」という専門学校に案内された。在校生は英語科83人、日本語科48人。6年前に設立され、約170人の日本語科卒業生を送り出した▼もともとは、米国や日本に留学した知識人たちが、中学の校舎を借りて開いた夜学だった。いまでは自前の校舎があり、政府から補助金も出ているそうだが、人口25万の地方都市で、私立の外国語学校が成り立つところに、一時的なブーム以上の底の深さがうかがわれる▼同じ浙江省の古い港町寧波で、世話になった通訳の青年は、独学で日本語を学んだ。「先生はいないし、日本語の本もない」ため、テレビの日本語放送などをテープに録音して、くりかえしくりかえし、耳からたたきこんだらしい▼中国でも、英語や日本語を習得しておくことは就職の際、有利な条件になるそうだ。しかし、外国語学習熱を支えているのは、それだけではない。諸外国の事情を知り、一刻も早く追いつくのだという、国をあげての大目標がある。会話を主体にした実戦的な訓練と熱っぽい学習ぶりに圧倒された、と友人は話している▼外務省の調べでは、全世界で日本語を学ぶ人は約60万人(昭和59年)。それが70年までには400万人にふえそうだ。そこで、浦和市に「日本語国際センター」を設け、諸外国の日本語教師を招いて、ここで研修してもらう計画が進んでいる▼こうした計画は、世界の人たちに日本を理解してもらうための近道でもある。日本語は特殊としりごみせず、世界の日本語学習熱に積極的にこたえていきたい。 劇団「ふるさときゃらばん」公演にみる現代農村問題 【’87.10.11 朝刊 1頁 (全842字)】  手づくりのミュージカルをたずさえて、全国の町や村を巡演している劇団「ふるさときゃらばん」の東京公演「兄んちゃん」をみた。農村の嫁不足という主題はありふれたものだし、都会の若い娘を招いての集団見合いや家の跡を継ぐ長男と長女の悲恋といった筋立ても、いかにも古めかしい▼にもかかわらず、2時間半を引き込まれた。あまりもうからないダイコンづくりに情熱を傾ける農家の長男を主人公に、土のにおいが押し寄せてくるような舞台だった▼5年前に誕生したこの劇団は、四百余りの町村で約600回の公演を続けてきた。地元に働きかけてまず受け入れ組織をつくり、交流を深めながら公演を成功させるのがこの劇団のやり方だ。脚本・演出担当の石塚克彦さんが「各地で公演に協力してくれる若者が長男・長女ばかりなので、日常生活でも苦労の割に報われることの少ない跡取りを取りあげることになった。せめて舞台では意気あがるものにしたいと……」と話すように、新しい企画もこうした交流のなかから生まれる▼劇団員には脱サラ組や演劇青年もいるし、公演をみて後を追ってきた農村の若者もいる。スターをつくらず、アルバイトも認めず、トラック2台に舞台装置一式を積み込んで、1年のほとんどを旅に暮らす▼減反や農産物自由化、かさむ農家の借金といった問題がつぎつぎに出てくる。「自分が舞台に上がっているよう」と農村では大好評だ。それが都会でどう受け取られるかに興味があったが、拍手と笑いが絶えず、観客との呼吸は合っていた▼東京には地方出の人が多い。最近とかくぎくしゃくしがちな都市と農村の相互理解を深めるきっかけも、ふるさとの共有を確認することにあるのでは、とあらためて感じさせられた。しかし、実際にはこの舞台ほどに土のにおいのするふるさとは、最近めっきり減っている。そこに一番の問題があるのかもしれない。 パキスタンの核兵器製造疑惑 【’87.10.12 朝刊 1頁 (全845字)】  パキスタンが核兵器を製造しようとしているのではないか、との疑惑が折にふれ問題になる。この国に多額の援助を与えている米国は、核保有国を増やさない政策をとっていて、議会の外交委員会を中心に真相究明を求める声が絶えない▼レーガン大統領も、先ごろ国連総会に出席した機会にジュネジョ首相に「核施設の国際査察を受け入れなければ、議会は40億ドルの援助を遅らせるかもしれない」と注文をつけた▼パキスタン側は「南アジアの非核化」という提案で切り返した。お隣のインドが核兵器を持っているとみられる以上、こちらだけ持たないと約束するわけにはいかない、という意味だ。イスラマバードからの報道をみていると、パキスタンの駆け引きは、なかなかしたたかである▼例えばこんな具合に反発する。「核兵器を開発している国は、ほかにもあるのに、なぜわが国だけを目の敵にするのか」「核兵器の保有国、とりわけアメリカは、政治的に成熟した自分たちは核を持ってもいいが、感情に走りやすい未成熟な国はだめだ、といわんばかりのいい方をする」▼かと思えば、「援助を停止するなら、こちらにも切り札はありますよ」と、けん制してみせる。パキスタンは、アフガニスタンの反政府ゲリラへの支援基地になっている。それを計算に入れての発言だ。さらに、マスコミの論調などの中には米ソも核の均衡で平和を保っているのだから、南アジアで同じやり方をしてなぜ悪い、と開き直る意見もある▼それでいて、日本がこの問題を持ち出すと、「核利用は平和目的に限っている。この政策は変わらない」と、いともソフトに釈明する。これまた多額の援助国である日本の立場を読んでの反応と考えられる▼核軍縮というと、まず米ソ交渉に目が向く。当然ではあるが、その一方には、こうした処理のむずかしい核の拡散問題もひかえている。核は、まことに業の深い兵器だ。 市民の気迫勝つ 逗子市長選の富野氏再選 【’87.10.13 朝刊 1頁 (全858字)】  逗子市の市長選挙で、「緑派」の富野暉一郎氏がふたたび当選した。池子の森の米軍住宅建設を、長洲神奈川県知事の調停案の線で受け入れるか受け入れないか。こんどの選挙の争点は、この一点だった▼そして市民の過半数は「受け入れられない」という意思を明らかにしたわけだ。従来の日本的感覚でいくと「もうそろそろ手を打つしかないのじゃないか。国と県を相手にして最後まで突っぱっても」と、あきらめに傾くところだろう▼防衛施設庁が、選挙を前に工事に着手したのも、「もう始まってしまったのだから」という気分を誘うねらいがあったのではないだろうか。事実、調停案受け入れ派候補の陣営は、選挙戦でそれを強調した。しかし、逗子市民の多数は、はっきりと「ノー」をくり返した▼3年前の市長選に始まり、市議会リコール、市長リコール、出直し市議選と、この問題は何度も住民投票に問われた。そのつど、一貫して多数意思は揺るがない。地方自治の歴史でかつて例をみなかったできごとであり、たいへんな気迫である▼反安保でも反米でもない。ただ、自分たちに残された貴重な自然環境をこわさないでほしい。それは一度なくしたら、もう取り返しがつかないものだから、という一念がその強さを生んでいる。政治的な要素をもたないがゆえに、政治の力を恐れないということかもしれない▼選挙には勝ったものの、富野市長と緑派にとって、こんごの見通しはきびしい。政府は既定方針に変わりはないといい、調停案をこばまれたかたちの長洲知事も、当面、再度の調整には消極的のようだ。施設庁は、旧弾薬庫の取りこわしなど、整地作業を着々と進めている▼だが、地元住民の多数が、地方自治の手続きに従って真剣に出した答えは、尊重されなくてはならない。「国のため」の大義名分で、力で押し切るのは、長い目でみて国の成り立ちの、いちばん基礎の部分を掘りくずすことになりかねない。 東大か京大か論争 【’87.10.14 朝刊 1頁 (全836字)】  「東大に気のきいた教官食堂がないのが、京大出身者にばかりノーベル賞をもっていかれる理由だ」と学内紙で東大教授がこぼしたことがある▼「京大の先生方は市内にたまり場を持ち、そこで違った分野の人たちが飲みながら談論風発、刺激しあって新鮮な発想を得ている」。ところが「広大無辺の東京では、町中に共通の場はないし、いまの教官食堂では気がめいる」。そこで「外国人にも自慢できるような、しゃれた専用食堂、バー、クラブがほしい」▼またも京大卒の利根川進さんが医学生理学賞に決まったところをみると、新しい食堂はまだ実現していないのだろう。京大側にいわせれば「本学の在野精神と許容度の幅の広さが、自由な発想に結びつく」のだという▼東大の方からは、こんな声もきく。「立場上、学会や研究分野の取り仕切り役、管理担当にまわる場面が多く、ノーベル賞的研究から縁遠くなりがちなのだ」。しかし、かつて物理学賞を受けた江崎玲於奈さんは、京都の旧制三高出身ながら最後は東大卒だ。そう躍起になって弁明することもあるまいに▼利根川さんは京大の入試に失敗して浪人、大阪の予備校にかよった。江崎さんも中学浪人だったそうだ。ノーベル賞の頭脳を見抜くほどには、学校は門を広く開いていなかったことになる。つまり学校という存在は、万能ではない。となると、東大か京大か論争も、当事者が熱を込めるほどには意味がないのかもしれぬ▼「もし日本の大学に残っていたら」と利根川さん自身が語っている。「独創性を発揮できず、いまのような仕事はできなかったろう」と。京大時代の恩師もいう。「彼のように鼻っ柱の強い人は、アメリカでもまれるのがむしろいいと思った。頭脳流出といわれるが、彼の場合は向こうで頭脳形成された」▼日本では個人と学校のどちらを重くみるか。東大京大論争にも、一端がのぞいている。 「ノリ」の時代 【’87.10.15 朝刊 1頁 (全852字)】  マドンナ旋風のときだから話は少し古いが、あるコンサートでマドンナがステージからいった。「プログラムの最後だけど、これで終わってもいい?」。総立ちの聴衆が「イェーッ」と答えた。面くらった表情のマドンナが「いいの?」とくり返した。答えはやっぱり「イェーッ」だった▼歌手や司会者が「ノッてるかい?」と声をかける。聴衆が「イェーッ」とやる。近ごろのコンサート、とりわけニューミュージック系のそれでは、こんなかけあいが珍しくない。総ノリ現象といい、これが起きないとコンサートは失敗とされる。マドンナの場合は、英語だったせいもあって、これがトンチンカンに起きたわけだ▼ノリということばは、そもそもは邦楽のものだ。謡曲や義太夫節で、リズム感を出して謡(うた)ったり語ったりするのをいう。いまはジャズなどがノリを大事にするが、この場合は、演奏者同士の曲の解釈や感じ方がピタッと一致し、譜面に書き切れていない要素までうまく表現するのをいう。ごきげんのアドリブなどがそれにあたる▼つまりノリは、もともとは演奏する側のものだ。だから、ひとつまちがうと、ごきげんのアドリブもひとりよがりになり、単なる自己陶酔でしかなくなる。これを悪ノリという。品がないときらわれたものだ▼今のノリは、最初から客席に下りてくる。ときには手拍子などを要求して、早く会場にノリ現象をつくろうとする。客席もそれを待ちかまえる。だから、なんでもかでも「イェーッ」となる▼この現象は音楽だけに限らない。テレビのショー番組などにもよく見かける。視聴者を巻き込んでの番組づくりだ。世の中すべてがノリの時代にも見えてくる▼時流にはなるべくのりたいものだ。それが楽しく生きる道でもある。けれども、相手は悪ノリということもある。ノリだ、ノリだと、悪ノリにまでのせられるとしたら、私たちは少々、人がよすぎるような気がする。 中国の取材事情と新聞記者の心意気 【’87.10.16 朝刊 1頁 (全859字)】  さる5月、中国黒竜江省の大興安嶺で森林火災が起きた。1カ月近く燃え続け、東京都の面積のおよそ5倍にあたる1万100平方キロを焼いた▼山火事が広がり始めた時、北京の日刊紙、経済日報社では、日本の社会部にあたる「記者部」で現地に急行する記者を募った。5、6人がすぐ手を挙げ、記者2人、カメラマン1人が選ばれた。大学で経済学を学んだ入社5年目の女性記者、隋明梅さん(29)もその1人だ▼最近は中国のマスコミも競争が激しい。一刻も早く現場へ、着いたら1人ずつ分かれて幅広い取材を、とデスクの指示だ。列車や貨車を乗りつぎ、2日がかりで中ソ国境近い火災現場にたどりついた▼昼間は煙の立ちこめる“前線”へ行く。夜は夜具なしでは寒くて寝られないので、消火作業から帰った兵士の話を聞く。暖かくなると、草の上でまどろんだ。他社の記者3人とグループで行動したが、被災地は水も食糧もとぼしい。4人がまる2日間を、キュウリの缶詰1個で持ちこたえたこともあった▼だが兵士も記者たちも、ただ1人の女性である隋さんにやさしかった。隋さんは実際に見たことだけを書くよう心がけ、19日間で合計2万字以上を書いた。事実をかくしたがる林業当局の姿勢に疑問を感じて書いた一文は各社の原因追及キャンペーンの先がけとなり、翌月には林業相らが解任された▼隋さんはいま、日本経済新聞社の招いた経済日報代表団の一員として来日している。大火取材の感想を聞くと「深入りしすぎて四方を火に囲まれたこともあった。こわくないといえばウソになるが、仕事にはそれ以上の手ごたえがある。読者の励ましが何よりうれしい」と答えた▼夫も同じ新聞社の記者だ。隋さんは「私にとっての事件取材とは、困難に直面する人びとの状況を理解し、その立場でものを考える機会です」とも語った。隣国の若い仲間の言葉は、新聞の仕事にたずさわる初心を思い起こさせてくれる。 心の遺産 【’87.10.17 朝刊 1頁 (全842字)】  子孫に美田を残すという考え方の人が、だんだん少なくなっている。総理府の世論調査でも、「資産は老後の生活のために活用する」という答えが64.4%を占め、「できるだけ子どもたちのために残す」という人は18.7%にとどまった▼美田の代わりというわけでもあるまいが、自分史を書く人が最近多いらしい。あちこちで「自分史講座」や「自分史の作り方教室」が開かれ、どこも盛況だそうだ。その手引書も出版されている。出生から老年期までのさまざまな事がらについての質問があり、それに答えて体験や思い出などを書き込んでいくと、自然に自分史ができあがるという仕掛けになっている▼当然のことながら、この種の講座や本を利用するのは、高齢者が圧倒的に多い。その動機としては「自分が生きた証(あかし)を書き残したい」「子供たちへの遺書がわりに」などがよく挙げられている▼それにしても、それぞれに山も谷もあった自分の人生を記録するのは、なまやさしいことではない。たとえ手引書があっても、遠い記憶をたどり、文章にまとめるには、相当の時間と努力がいる▼本紙の声欄に、こんな投書が出ていた。「長い歳月のお陰で、ようやくふさがりかけた傷口をほじくり返し、むかし流した涙をもう一度流す勇気など私にはない。自分史を書ける人は、よほど幸せな人か、よほど強い心の持ち主かと思う」▼それでも、自分史に取り組む人がふえている。戦前、戦中、戦後にわたる激動の時期に遭遇したこの人たちの人生体験は、波乱に富むものといってよい。この時代をよくぞ生き抜いたという思いが、執筆の原動力になっているのだろう▼むろん、全部がすぐれた自分史に仕上がってくれるとは限らない。それでも、思い立った以上はまとめたくなるのが人情だ。肉親への「心の遺産」であるとともに、庶民史の1ページを加えることにもなりうるのだから。 公衆電話やトイレの順番待ち 【’87.10.18 朝刊 1頁 (全840字)】  ロンドンの公衆電話で、ボックスの前に行列ができていた。長電話のようだ。さんざん待たせたうえ、やっと出てきたと思ったら「だれか細かいお金を持っていませんか。もう1本かけたいもので」。行列の英国人たちは話し合い、ひとりが「はいよ」とお金をくずしてやった。男はまた悠々と電話にとりついた▼この話を披露した友人によると、行列のつくり方も私たちとは違うらしい。ボックスがいくつあっても、順番待ちは1列しかできない。空いたところに先頭から入る。わが公衆電話では、あとから来た隣人に先を越されて、いらいらすることがよくある。とくに駅のトイレで朝顔ごとに待ち、待たれるのは気分のいいものではない▼本紙夕刊の生活情報特集欄(東京)に、欧米ふうの行列を提案する投書が図解付きで載った。早速、「勇気をだして自分のうしろの人に声をかけよう」という反響があった。それを読んで都内の主婦から「実行してみました」という手紙が欄担当者に寄せられている▼「有楽町の映画館で、あの投書を思い出した。で、友人と2人で決然とトイレの入り口のところに並んでいたら『先に行かないんですか』といぶかしげな声。すかさず、うしろの人にも聞こえるように趣旨を説明した。あとには次々と列が続き、外に出て2人でヤッタネ!!と小躍り。快挙でした」▼この直列待機方式にどれほど共感の輪が広がるか、多少心もとない。1列をつくる余地のないことも多い。しかし、並び方の違いは、どこからくるのだろう。早い者勝ち、強い者勝ちではなく、みんな機会均等に譲り合って、という社会の気持ち。その強弱の差が映し出されているような気がする▼NTTは、公衆電話の扉に「すぐ終わります」「しばらくかかります」と表示する電子装置を試作した。いらいら防止策だそうだ。これでまた、外国人の目に日本的名物が1つふえることになる。 自民党総裁選、政権交代のルールとは 【’87.10.19 朝刊 1頁 (全857字)】  二階堂進氏が突然立候補の名乗りを上げてから、5カ月あまり。自民党の次期総裁選びは、ようやくフィナーレを迎える。首相調整とかで、中曽根さんの出番もあるらしいが、筋もはっきりしなければ、見せ場もない退屈な芝居を長ながと見せられた気がする▼この期間に重要な変化があったとすれば、二階堂氏の突進のあおりで田中派が割れたことぐらいだ。3人の候補は自分の政治を語らずに、中曽根政治を継承するというのだから、いっそジャンケンで決めたらといいたくなる。「最近の新聞は、自民党のニュースが多すぎる」という読者の声はもっともだ▼政治はドラマだというのに、今度ほど起伏のない政権交代劇も珍しい。これまで11人の総裁選びでは、「神に祈る気持ち」の椎名裁定とか、予備選挙での敗北に対する「天の声にもへんな声がある」との発言とか、そのつど名言、珍言のたぐいがあったのに、今回は記憶に残るようなことばもない▼そのくらい興味のわきにくい総裁選びだが、「だれがなっても同じ」としらける前に、考えてみたいことがある。政権交代がルールに従って、衆人環視のなかで行われるのは民主主義の基本だ。このことを踏まえて民意に忠実であろうとつとめれば、自民党も国民に背を向けた「密室の談合」をくり返さずにすむはずだ▼評論家の田中直毅さんの話だが、5年前、当時の鈴木首相が政権の座を離れたとき、アジアの友人から「日本は、首相が平気で政権を投げ出すことができる社会になったのか。どこで、われわれとこんな差がついたのか」と、うらやましがられた▼社会主義国や発展途上国には、政権交代のルールが明確でなく、うかつに政権を投げ出したりしたら、次の権力者にひどい目にあわされかねない国もある。だがそれにしても、自民党内ではまたカネが動いているという。そんなことでは、日本に民主政治を成熟させるのに、まだどれだけ時間がかかるのだろう。 「ジェシカちゃん救出報道」にくぎづけになった人々 【’87.10.20 朝刊 1頁 (全849字)】  しばらく米国内の漫遊を続けた。帰国の前日、アメリカ国内はテキサスの幼女、ジェシカちゃんの話題でわいていた。古井戸に落ちた1歳6カ月の子が57時間ぶりに救出されるまでの実況を見るため、人びとはテレビの前にくぎづけになっていた▼それにしても、テレビのジェシカちゃん報道はかなりのものだった。大詰めの時は、いくつものテレビ会社が実況を流し続けた。実況を望む視聴者の注文が殺到したそうだ▼この事件は人びとの心をとらえる多くの要素をもつ、という分析がロサンゼルス・タイムズにあった。(1)愛のドラマであること(2)生命が脅かされていること(3)かっとう(争闘)があること(4)同情に値する被害者がいること。被害者が幼女であれば、同情の心はさらに高まる▼救出にあたる人びとの無償の行為はまさに愛の物語であり、難しい救出作業は一種の争闘の物語だった。主人公は1歳半の幼女だ。その背景にはたとえば「マッチ売りの少女」や「赤ずきんちゃん」の物語にひかれる心がある▼だが、さらに人びとをひきつけた要素は、事件が「進行中だった」ことだろう。しかも、複雑でわかりにくいイラン情勢やウォール街の動きとは違って、この物語は身近で、わかりやすくて、結果は目前にある。いかにもテレビ的、劇場社会的な主題だった▼1949年にも、古井戸に落ちた少女の救出劇があった。その時米国のテレビは初めて、事件の実況放送がいかに人びとの心をとらえるかを知った。その時は、少女は死んだ。「少女の死は悲劇だが、テレビは新しい時代を生んだ」といわれたものだ▼深夜まで続くこの事件の画面を見ながら、劇的な生活の断面を追うテレビの強さを思った。このことは同時に、劇的なもの、劇的なものをねらう部分が肥大し、劇的ではない、地味で複雑な社会の動きが隅に追いやられる危険な時代に私たちが生きていることを示唆している。 自民党次期総裁竹下氏の3つの「ばり」 【’87.10.21 朝刊 1頁 (全850字)】  自民党の次期総裁になる竹下登氏には、3つの「ばり」がある。「気くばり・ねばり・カネくばり」だ。気くばり。これは定評がある。落選議員の就職の世話から野党の代議士に外遊のせんべつを渡すことまで、恐ろしいほど面倒見がいい、とよくいわれる▼総裁選に立候補した時、門前払いを承知で、目白の田中元首相邸へあいさつに行った。礼をつくした形をとっておく、という一種の気くばりだろう▼ねばり。カキが熟すのを待つその異様なまでの忍耐力を、宮沢蔵相も安倍総務会長も「すごい」と舌を巻く。国会対策委員長時代は、野党との話し合いで、切れた繊維をまた1本1本丹念によりあわせてつなげるようなねばりをみせた▼中曽根首相は、目標を鮮明にぶちあげて中央突破をはかる。だが、竹下氏はごそごそ何をやっているかわからないうちにことを進め、ねばり強く目標に到達する。そういう評があった。創政会をはやく竹下派にせよ、という強硬論があった時も歯切れが悪く「謙虚に謙虚に」といい続けた。そういいつつ結局は目標を達成した。沈黙と忍耐の人である▼カネくばり。これには2つの意味がある。1つはゆたかな集金力にものをいわせて、派内にカネをくばること。1つは、中央から地方へ補助金などのカネをくばるパイプをより太くしようという政策で、これは「ふるさと創生論」につながる▼ふるさと重視には賛成だが、1つだけいっておきたい。各地域に活力をもたせる唯一の道は、中央から地方へばらまくカネをふやすことではなく、地方自治体が自由な発想で使える独自の財源をふやすことにあるのではないか。竹下ふるさと論はなぜかその点を明らかにしていない▼気くばり、ねばり、カネくばりは主に裏の力だ。この竹下型政治手法には、目標をめざしてやみを走る黒い忍者集団のにおいがある。この手法が、国際政治の舞台でどこまで通用するか、となると心もとない。 株のこわさ 【’87.10.22 朝刊 1頁 (全838字)】  「株はおもしろいものではあるが、それ以上にこわいものである。身内が夢中になりだすと説教したくなるというのも妙な気分だ」と作家の嵐山光三郎さんが書いている▼「株式相場は人間の欲と煩悩の反射鏡です」というのは、やはり作家の黒岩重吾さんだ。黒岩さんは若いころ大阪の証券会社に勤めていて、野放図な株買いをした。1953年春にスターリン暴落があって大打撃を受けた。先祖の屋敷も手放し、釜ケ崎に逃げこんだという▼この時の株ブームの引き金は朝鮮戦争の特需景気だった。一時は85円だった東証ダウ平均株価がみるみる474円になった。だが、その株価がすさまじい勢いで転げ落ちた。黒岩さんの損害はいまの金額にして3億円を超えた。「魔法の風船なんかあるわけないと悟った時には、もう手遅れでした」とご本人は回想している▼一転、大きく反騰はしたものの、今回の株式相場の大暴落はすさまじかった。いまは情報が瞬時に世界をかけめぐり、情報次第でコンピューターがさまざまな株を一斉に売る指示をだす仕組みになっている。そういう高度情報社会の恐ろしさもかいまみることができた▼大暴落の日、同僚が証券についての講座を続ける学院をのぞいた。中年の女性やサラリーマンにまじって、学生風の青年もいた。この日の講師はくどいほど「待っていれば何とかなる。開き直れ。持っている株のことは一時忘れなさい。仕事にさしつかえますよ」といい続けた。受講者たちの硬い表情をほぐすためだろう▼財テクという言葉はどうしても好きになれないが、いまは企業が競ってこの財テクに精を出す。いや、国もまたNTT株を利用した財テクに走る。外国証券会社が激しい勢いで日本に進出し、テレビゲーム機で株の在宅売買ができるようにもなった▼今度の大暴落は、花見酒に酔った人びとへの、酔いざましの薬であったのかもしれない。 アーミッシュの暮らし 【’87.10.23 朝刊 1頁 (全862字)】  アメリカ・ペンシルベニアのランカスターは、静かな、こぎれいな町だ。その周辺の農村で、アーミッシュの人びとに会った。アーミッシュは古い伝統をもつキリスト教の一派で、(1)謙虚(2)簡素(3)大勢非順応(4)非暴力を生活の核にしている人たちのことをいう▼原則として自家用車をもたない。電気を使わない。家には電灯がなくて灯油のランプがある。人びとはテレビを拒み、化粧をせず、宝石もつけず、古めかしい馬車に頼っている▼農場では、青緑色のシャツを着た少年が、手にカマを持って働いていた。別の農場では、20前後の青年が短い言葉で馬を自由に動かし、刈りとったトウモロコシを荷台に積みあげていた。2頭の馬をのんびりと操り、麦のタネまきをしている中年の農父がいた▼なぜ大型のトラクターや電気を拒むのか。「私たちは長い間このスタイルでやってきた。教会のしきたりだ」という人がいた。「電気や機械をとりいれれば簡素な生活が乱される」という答えもあった▼アーミッシュは土を愛し、穀物も野菜も肉も卵も牛乳もほぼ自給できる営みを続けている。1930年代の大不況の時、感想を求められたアーミッシュの人が聞き返した。「えっ、大不況って、何だね」。そんな話があるほど、自給率は高い▼政府の社会保障制度を拒んでいる、という事実にも驚く。家族や近隣のもので年寄りの面倒をみる生活習慣を頑固に守りぬくためだ。年寄りは、子に農場を譲ると母屋のわきに家を建てて住む。野菜畑や花壇の手入れをし、孫と遊び、いまは特産品になったキルティングを楽しむ▼アーミッシュはまた、戦闘で人を殺すことに反対する良心的参戦拒否者としても知られている。戦争に反対し、社会保障を拒み、食料の自給に心を配ることの底には、ひとことでいえば強烈な自立の思想がある▼進歩の名のもとに近代が葬った貴重なものの数々が、この浮世離れした独立文化圏には生きていた。 秋深まる 【’87.10.24 朝刊 1頁 (全835字)】  中野重治が「10月」をうたっている。「空のすみゆき/鳥のとび/山の柿の実/野の垂り穂/それにもまして/あさあさの/つめたき霧に/肌ふれよ/ほほむねせなか/わきまでも」▼東京では、ホトトギスが咲き、シオンが咲いている。ほんの少しばかりのサルスベリの花がしがみつく形で咲き残って、秋の深まりを告げている▼ハナミズキの葉はもうすっかり小豆(あずき)色に染まって、赤い実をたくさんつけている。深い緑の中でガマズミの紅の実がきらっと光っている▼わが家の狭い庭には、ムラサキシキブの紫の実が小さな坊主頭を並べている。ヒヨドリがやってきてそれを次々にたいらげてゆく。木の実は鳥に食べられることを期待しているのだろうから、こちらはひたすら、その盛んな食欲を鑑賞するのみである▼アメリカ生まれのハナミズキの実には、大陸の風土にふさわしい透明な明るさがあるが、ムラサキシキブの実が木陰でにぶく光るさまは、渋くて、いかにも日本的だ▼昔の人は紫という色に特別の思い入れがあったらしく、高雅、優艶(ゆうえん)、あてやか、と表現した。なつかしい色、なまめかしい色、ゆかりの色、ともいわれた。人びとは時に、紫の色の中にひそやかな恋の炎をみたのだろう▼伊東静雄に、木の実についての詩がある。「哀しみの/熟れゆくさまは/酸(す)き木の実/甘くかもされて  照るに似たらん」。秋の日は木の実を甘く熟成させ、歳月はかなしみを熟成させる。かなしみのともなわない熟成はない、と伊東静雄はうたっているように思える▼きょうは霜降(そうこう)。つゆの陰気に結ばれて霜となりて降るゆえなり、と暦にはある。北海道の各地ではすでに初霜があり、東北の一部や日光、河口湖などでも初霜が観測されている。三重県の津ではきのう最後のツバメが飛び去った。いつもの年よりもかなり遅い旅立ちだった。 拡声機の規制 【’87.10.25 朝刊 1頁 (全854字)】  人間の肉声が主人公になる社会をめざして、拡声機の規制を考えてほしいと、作家や音楽家たち約40人が、環境庁に新しく設けられた拡声機騒音対策検討会に要望書を出した。城山三郎、五木寛之、武満徹、中村紘子といった人たちが名をつらねている▼フランスからきた知人が電車に乗って「次はどこそこ」の車内放送に日本は親切だと感心していたが、そのうち「雨が降り込むようだったら窓を閉めましょう」とか「傘を忘れないように」とか「ホームは滑りやすいから気をつけて」とかになって、ついに笑いだしたことがある。電車にかぎらず、日本の拡声機放送の多さは格別のようだ▼要望書は商業宣伝放送をとりあげ、商店街や駅前広場などに拡声機を固定してくり返すもの、電車やバスの車内でのもの等々を、音量を落とすなどもう少しひかえめにならぬか、としている。車による役所の広報なども、緊急の場合にかぎったらどうかという▼一部の政治活動の宣伝放送にも、悩まされることが多い。拡声機を通して流れる音は、ことばにしろ音楽にしろ、多くの人に聞かせることを目的にした意味のある音だから、工事現場や自動車、新幹線などの騒音とはちがう。JR線車内でのプロ野球速報や喫茶店などのBGM(環境音楽)のように、サービスとして善意で流されているものも多い。法的な規制などにはなじみにくいだろう▼しかし、とりわけ音楽家たちが心配しているのは、拡声機音が野放しになることによって、日本人の耳がだんだんと小さな価値ある音を聞かなくなってしまうことだ。沈黙というと、活動が止まった様子、発展のない状態を思う。けれども、音楽は休止符をふくめて音楽であるように、沈黙がなければ音もことばも深さを失ってしまう▼近ごろの拡声機放送には、自動的にテープが回っているものが多い。こうなると、相手はもう、くたびれて休むことも知らない。なおのこと厄介な話だ。 中国へ日本の杉とケヤキを植えに 【’87.10.26 朝刊 1頁 (全863字)】  富山から上京してきた知人に久しぶりに会って食事をしていたら「中国へ木を植えに行く」という▼「杉1000本にケヤキ5000本、場所は湖南省の長沙と桃源です」「ひとりで、ですか」「いや、若い人たちと一緒です。若い連中は張り切ってます。自分たちの植えた木が中国の山や公園で育ち、あるいは何世紀も残ると思うと心が躍る、といっています」▼ケヤキの苗木は、富山在住の90歳になる伊東森作さんからすでに中国へ贈られ、苗の畑に仮植されている。杉の苗は、一行が手荷物として持ってゆく。そのために船旅を選んだ。杉は富山の県木である。県が1000本の苗木を寄付してくれた▼知人は農業の技術協力者としてしばしば中国を訪れている。そして子々孫々のために形あるものを残したい、無言のメッセージを託したい、と思った。説明過多の時代ではあるが、木を植えるという行為に言葉はいらない。50年後、100年後、中国や日本の若者が生長した木を見て、なにかを感じとってくれればいい▼一行11人の中には、「山で人生を見つけた」といって林業の専門家になった若者もいれば、服飾デザイナーの女性もいる。60代の養豚家もいれば、草刈り十字軍に参加した20代の学生もいる。みな、自弁である。話を聞いた森作さんは「そうか、植えてくれるのか。うれしいね」と喜んだ▼知人というのは、富山の廃村を舞台にして新しい農の営みを追求している足立原貫さんだ。若い仲間と共に、廃屋を手入れし、道や水路を直し、荒れていた耕地を復元して、コメ、ジャガイモ、大根などをつくっている▼この人の言葉に「いつかだれかがやらねばならないことなら、いま、おれがやろう」というのがあった。中国へ贈られたケヤキの苗が仮植されたままなのを目撃した時、おれがやろうときめた▼「子どもにね、お父さんはやったよといってやりたい」という足立原さんは、仲間と共にまもなく中国へ向かう。 テニスいまや格闘技 【’87.10.27 朝刊 1頁 (全834字)】  東京で開かれていた男子テニスの87スーパー大会では、21歳のエドベリが、世界ランキング1位、27歳のレンドルを破って優勝した。大会を見に行った同僚が「ラケットがどのように振られるのか、速すぎてわからなかった」といっていた▼野球のスピードガンで調べると、超一流といわれる男子テニス選手のサービスは、時速250キロにもなる。これを受けた瞬間、ラケットはしなる。写真で見ると、球は網の部分にぶつかり、網に食いこみ、突き抜けるような形になる▼球に飛びつく反射神経、足の速さ、瞬発力、持久力、と数えあげると、優雅な貴族のスポーツとしてイギリスに育ったテニスはいまや、過酷な格闘技になっていることがわかる▼「2本の足を持ったコンピューター」といわれる女王ナブラチロワは、瞬時に球に反応する練習を反復するだけではなく、長距離を走り、短距離ダッシュを繰り返し、ウエートトレーニングを続けている。食事内容にまでたちいるコーチ陣の功績は大きい▼今度の大会で試合途中で棄権したベッカーの場合は逆に、コーチとの決別が不振の一因だといわれている。子どものころから寝食を共にしてきたコーチと別れたのは、ベッカーにガールフレンドができたため、といわれている▼そう単純にわりきれるものではなかろうが、心の動揺が不振に結びついたのだとすれば、それは格闘技であるテニスという競技の厳しさを物語るものだろう。若くしてテニス界の覇者になったボルグも、恋人と暮らすようになってから「テニス以外の人生があることを知った」といいはじめ26歳で引退した。「闘争心を失った」というコーチの評もあった▼女優と結婚し、昨今は不振にあえぐマッケンローも、ふと「ボルグの気持ちがわかるよ」といったことがある。時速250キロの球は、無表情のように見えて、実に人間らしい顔をしている。 米ランカスターの農場で働く一家 【’87.10.28 朝刊 1頁 (全844字)】  16歳の長男マイクは、学校から帰ると、仕事着にきかえて牛舎に入る。約40頭の乳牛に干し草をやる。自家製の粉末飼料をやる。ナンシー(牛の名前)にはこれだけ、ラッキーにはこれだけ、と分量をはかってやる。牛舎は清潔で、においはそんなに強くはない▼11歳の3男ジョールが牛の乳首を洗い始める。13歳の次男スティーブがトウモロコシ畑の方からトラクターを運転してくる。はだしで愛犬と走り回っていた8歳の4男ランディが、小型トラクターを上手に操って、大鶏舎の床にたまったフンを片づけている。父親は麦のタネまきの準備に追われている。母親は小鶏舎の卵を集めている。長女シェリーは洗濯をしている▼やがて乳しぼりだ。「ゆうべは子牛が2頭生まれた。力仕事だったよ。きのう来れば見られたのに」とマイクがいった。16歳の長男は、農場のほとんどすべての仕事をとりしきる力をもち、それを誇りにしていた。宿題に追われた子供たちは翌朝、5時半には起き、牛の世話をし、乳しぼりをしてから登校した▼米国のランカスターの近郊で、伝統的なキリスト教の一派、メノナイトの人たちの農場に泊まった時の話だ。ここでは車も電気も使う。だが、簡素な暮らし、自給に近い生活を続けているところは、アーミッシュの人たちと同じだった▼長男はパイロットになり、長女は保母になり、動物の好きな次男は牧場の仕事をし、3男が農場をつぐことになるかもしれない、と父親がいった。しかし今は家族がみんなで力をあわせ、きょう1日を楽しく生きる。子供たちは祈り、そして働く両親の後ろ姿をしかと見て、育っていた▼廊下の壁の額にこんな詩があった。「人びとは尋ねる。あなたはなぜ農場で働くのか。こんなにも稼ぎが少ないのにと。人びとは知らないのだ。私たちの歓(よろこ)びと誇りを。神が与えてくれたこの大地に立つ私たちの心の安らぎを」 野生生物の密輸入大国日本 【’87.10.29 朝刊 1頁 (全854字)】  東京のある毛皮店で、ユキヒョウの皮のコートが高い値段で売られていたそうだ。ユキヒョウはアジアの山地などに生息する美しいネコ科の動物だ。絶滅の恐れがある野生動植物を保護するためのワシントン条約でも、国際商取引が禁じられている。その毛皮がなぜ売られているのか▼インドネシア産のイリエワニの皮が大量に日本に密輸入されている、という指摘が国際会議であった。このイリエワニも、ワシントン条約で規制の対象になっているが、ハンドバッグとして人気があり、日本は有数の消費国になっている▼わが国は残念ながら長い間「野生生物の密輸入大国」という非難を浴びてきたし、今もなお浴びている。だからこそ私たちは、この条約の精神に沿った国内法の政令が生まれ、取り締まりが力を発揮することを期待していた。今回、環境庁に答申された政令の内容は、その期待を裏切るものだった▼こういうなまぬるいものでは、相変わらず、大量のワニやヘビの皮が日本に上陸するだろう。条約がきめた規制すべき野生生物は982品目である。政令はそのうち約半分しか対象にしていない。半分は規制の対象外なのである▼しかも、現在、違法取引が問題になっている品目の大半は対象外だ。加工品なども規制からもれている。「これではトラの敷皮や毛皮のコートなどが実際には規制から外れてしまう。インドゾウのぞうげも野放しになる」と動物学者の小原秀雄さんが指摘する通りだ▼この夏、カナダで開かれた野生生物保護の国際会議で、日本などが名ざしで非難されそうになった。日本の業界代表が現金の包みを事務局に贈った話が報道された。そのためかどうか、名ざしの非難はなかった。日本はこの時、むしろ非難の声を謙虚に受けとめるべきではなかったか▼だが、現金を贈った業者の話を、私たちはわらえない。毛皮にせよぞうげにせよ、争って買う客がいれば、業者もまた血まなこになる。 10月のことば抄録 【’87.10.30 朝刊 1頁 (全859字)】  10月のことば抄録▼「語弊があるかもしれないけどよくできない子の方がね、人間てのは全体的なスケールとして大きくなるんじゃないでしょうか」といっていた利根川進さんにノーベル医学生理学賞が贈られる▼「たとえ生命を縮めても芝居をするんだという情熱はどこからくるんでしょう。いま宇野先生の体の中には演劇の火の玉が爆発している」。肺がん手術後も舞台行脚を続ける宇野重吉さんのことを、共演の日色ともゑさんが▼「報道機関は社会と市民とのパイプだ。日本人はぜいたくなほどのパイプを持っているのに、その大切さに気づいていない。自分たちのパイプだという意識を持ち、これ以上こんな事件が起こらないよう声を上げるべきだ」とサウジアラビアのユスフザイ特派員。朝日新聞襲撃事件をめぐって▼「逗子市民の意思は池子の森を守りたいということなんです」と市長に再選された富野暉一郎さん。市民はその意思を数で示した▼同じ日、総裁選に関連して「民主主義社会は最終的には数が基本原理だ」と中曽根首相。となると、逗子市民の多数の意思を尊重するのも民主主義の基本原理ではないか▼「重い重い荷物を小さい肩に背負って痛みさえ感じている」と竹下総裁候補の第一声。こちらはやはり、数がものをいった▼「夜、公邸に帰ると家内がしょんぼりとテレビを見ている。売上税反対、中曽根けしからんという画面を眺めていた。私は後ろから黙って立って見ていた。どんなに家内はつらいだろうと、声をかけるのもちゅうちょした」と中曽根さん。「秋月を浴ぶ岩風呂の孤愁かな」という首相の句があった▼斎藤厚相が禁煙をする。「私は人間斎藤としてやめるのでして、厚生大臣だからやめるわけじゃありません」。わかりにくいなあ。だれも公式禁煙はいかんとはいっていないのに▼「無形文化財のような貴重な財界人を失ってしまった」と三井物産の八尋会長。稲山嘉寛さんが亡くなった。 犯罪の国際化 【’87.10.31 朝刊 1頁 (全849字)】  藤曲(ふじくま)という男は麻薬の所持容疑でフランスの警察に捕まったことがある。刑務所でフランス語を覚え、こんど3億3000万円強奪事件で手配された2人のフランス人ともそこで知り合いになった。国際化というのは、こういう分野では急速に進むものらしい▼2人のフランス人は、日本通運の現金輸送車を襲った事件だけではなく、コロー作の「夕暮れ」などの名画5点をパリの美術館から盗んでいたそうだ。その絵を、藤曲が1点数千万円で売りさばいていた▼本紙日曜版に連載された『世界名画の旅』で、モネの「印象・日の出」など9点が盗まれた話が紹介されていた。事件は一昨年、起こった▼銃をかざした覆面の5人組がパリの美術館を襲い、絵を奪って逃げた。藤曲が、この時奪われた絵のカタログを持って画廊に売りこんでいた、という情報もある。コローの絵もモネの絵も、同じ一味のしわざかもしれない▼フランスの美術品は3つのグループからねらわれているという。1番目は税務署で、2番目が日本人、そして3番目が泥棒である。日本人に対しては「カネにあかせて美術品を買いあさる」という印象が強いのだろう。名画窃盗団も、売りさばく舞台に日本を選んだ▼かつてマルコ・ポーロはまだ見ぬ日本について「この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人はだれでも莫大な黄金を所有している」と書いている。いかに名画とはいえ、盗品が数千万円で売れる日本は、フランスの窃盗団からみれば「カネのうなる国」なのだろう▼今回の強奪事件は、荒っぽい犯罪だった。犯人は、自分たちが外国人であることを知らせる品々を平気で置いていった。すぐ国外に飛び出せば、たとえ身元が割れたってとタカをくくったところがある。手配にまでこぎつけたのはお手柄だが、犯罪の国際化が急速に進むほどには捜査網の国際化は進んでいない、というもどかしさが残った。 障害者のためのミニ工房 【’87.11.1 朝刊 1頁 (全842字)】  13年前、3人の若者が東京でガレージを借りて、小さな木工所を始めた。自動車会社の設計技師と大企業の工業デザイナー、もう1人は芸大で彫刻を学んでいた。共に九州育ちの幼なじみ。上京して数年がたち、自分たちの作り出す物が本当に必要とされているのか、と悩み続けた末の木工所開きだった▼まもなく、1人が知人に頼まれて、ふろ場で障害児が使う腰かけを作る。ごく普通の箱型だが、市販のものより大きい。座っても余った部分に手がつけるので具合がよく、たいそう喜ばれた。「こんな物すら作られていないのか」「これほど喜んでもらえる物作りの場があったのか」。その驚きが、何を作るかの答えでもあった▼木工所は「でく工房」という。でえく、つまり大工のでくであり、でくの坊のでくでもある。以来、工房は障害者のために木製の用具を作り続けている。注文はいすが多い。一人ひとりの体や用途に合わせるので、同じいすはない▼注文を受けると複数で会いに行く。できるだけ多く障害者の生活を見るためだ。じっくりと話を聞き、体をもっとも楽に保つにはどのようないすがいいかを見極める。寸法をとり、設計図を描き、作り、使い手に座ってもらう。具合が悪ければ何度でも直す。量産時代の死角を埋める仕事だ▼話を聞く時間が長いので、1人が1カ月に5脚しか作れない。収入は月に15、6万円だ。面接と製造を分ければもっとはかがいく。けれども分業はしない。使い手の気持ちが見えなくなるし、そうなれば仕事がつまらなくなる▼同じ理由から工房を大きくする考えもない。人は変わったが、いまも3人が薄暗い部屋でノミを振るう。初めからいる竹野広行さんは「貧楽ですよ」といった▼これまで多くの若者が一緒に働き、実習に訪れた。でく工房は小さなままだが、こうした仲間が開く障害者のためのミニ工房は、全国30カ所に輪を広げている。 米沢の草木塔 【’87.11.2 朝刊 1頁 (全852字)】  ちょうど1年前の「文化の日」に米沢市の三沢地区に草木塔(そうもくとう)が建てられた。当時公民館長だった鈴木亮さんが音頭を取ったそうだ。山に囲まれ、全面積の約9割が山林だという地区にふさわしい石塔の建立だった▼三沢を訪ね、草木塔を拝見した。長さ2メートルの自然石に「とかく自然が破壊されがちな昨今、この草木供養塔を建立し、自然愛護の精神を子々孫々に伝える所存である」という碑文があった▼米沢一帯には、実は江戸の昔から明治、大正にかけて建てられた草木塔が40基以上も残っている。人びとは山の神をあがめ、山の恵みに感謝し、草木の生を絶つことに痛みを感じて生きた。乱伐をすれば山が荒れ、山が荒れれば報いを受けることも知っていた。そういう心が草木を供養する石塔を生んだのだろう▼昔は年に2度、農閑期を利用して、村民総出で山の木を切り、川に流し、下流で集めてマキとして売る「木流し」のしきたりがあった。農家にとってマキは貴重な現金収入だった▼木流しで生を絶たれる木々の霊を供養するためにも、人びとは草木塔にぬかずき、山の神の許しをこうたことだろう。自然をねじふせるのではなく、自然を敬愛しつつつきあう心がそこにはあった▼三沢地区は蛍の里としても有名だ。人びとは川の汚れに気を配り、山野草の乱採を避け、タネを分け合って育てている。年に1度、泊まりこみで山にのぼり、清掃作業をする小学生たちもいる▼三沢だけではない。草木塔をよりどころにして山を開発から守ることに成功した地区もあり、毎年、植林や下刈りの共同作業を続けている地区もある。石塔を受けつぐだけではなく、石塔の心を受けつぐ。文化の伝承とはそういうものだろう▼米沢の山では、黄や茶や紅に染まった木々が夕暮れ前の淡いさんご色の光を浴びていた。杉がたくさんの落ち葉をまとい、飾りつけがすんだクリスマスツリーのように見えた。 脇役を湧かせ役に 【’87.11.3 朝刊 1頁 (全840字)】  NHK元専務の川口幹夫さんが「ヒットしたドラマは必ず脇役(わきやく)が大活躍している」と、その著『主役・脇役・湧かせ役(わかせやく)』の中で書いている▼紅白歌合戦を国民的行事に育て、芸能部門の責任者として力を発揮してきた人の発言だ。間違いはないだろう。大河ドラマの『赤穂浪士』では、くもの陣十郎役の宇野重吉、堀田隼人役の林与一に人気がでた。脇役が番組をもりあげた。『はね駒』では、母親役の樹木希林が話題になった▼脇役は単に脇の役ではない。湧かせ役でもある。主役と脇役とのカラミが功を奏すると、ドラマは深みをまし、思いもかけぬ成果を生むと川口さんは書いている▼西武・巨人の日本シリーズ最終戦では、清家がいきなり本塁打を放った。貴重な追加点だった。プロ10年目で打った初ホーマーだそうだ。「一生忘れられない1発だ」と本人がいうのもむりはない。脇役の意外な活躍があると、チームは湧く。勢いがつく▼第5戦では5番にすえられた安部が初回、二塁打を放って追加点をあげ、やはりチームを活気づけたし、辻が2つの超美技で東尾を支えた。最終戦で、清原や辻を本塁に走らせた伊原コーチの判断も、光った。そういえば、阪神が日本一になった最終戦で、満塁本塁打を放ったのは、主力選手ではなくて、長崎だった。主力選手の力量だけでは、日本一になれない▼脇役こそが大切だという考え方は、サラリーマン社会でも通用する。脇役的な立場にいる人たちが自分の力を信じて、生き生きと力を発揮する組織と、その人たちがくさりにくさってほとんど役に立たないような組織との差は大きい、という川口説に筆者も賛成だ▼5戦まで13打数無安打の清家を、森監督は使い続けた。その守備力を高く評価したからだろう。清家はその信頼にこたえた。脇役をいかにして湧かせ役にするか、指導者にとってはそれが難しい。 斎藤信也さんの死 【’87.11.4 朝刊 1頁 (全855字)】  斎藤信也さんは本紙夕刊の『素粒子』を19年書き続けた。退社は1977年の夏だ。戦後まもなく夕刊に(葉)の署名で『人物天気図』を連載した人でもある。ありていにいえば人語子が朝日新聞を志した理由の1つに(葉)氏へのあこがれがあった。その人が亡くなった▼新聞記事で一番難しいのは、新聞用語でいう「雑報」だと斎藤さんは書いている。火事や泥棒の記事も雑報だし、大災害や政変の記事も雑報である。新聞の質を決めるのは雑報のよしあしだといってもいい▼「私を含めて、論説委員などにしても、完全な雑報を書けた記者が何人あるか。火事場に出され、国会風景の点描を命じられ、どれほどの雑報が書けたか甚だ心もとない」という自省があった▼いい雑報を書くには要件がある。現場へ行く腰の軽さ。ねばり強さ。細密で確かな観察眼。熱い思いを抑える冷静さ。先入観を排するやわらかな心。ここに人間らしい動きがあると見極める目。意外性をみつける嗅覚(きゅうかく)▼『人物天気図』は雑報とはいえないが、少なくともそこにはいい雑報の要素がある。たとえば高田保さんとの問答がある。阿部真之助評いかん「群馬の長脇差、仁侠の精神ですからね。いい人なんです」大宅壮一は「原稿用紙をムダ使いせぬ男ですがね、いい男ですよ」。いい男ばかりでは困るのであるといった趣を申し上げると「人物評論は当たり障りのないことじゃないですか」▼さりげない問答の中で高田保の人物像が浮かびあがる。斎藤さんは「人物」という現場に飛んで、細密で確かで、意外性のある雑報的人物論を書き続けた▼手術後、看病を続ける敏子夫人に斎藤さんはいった。「おかあちゃん、疲れただろうから帰ってお休み」。それが最期の言葉になった。出棺の日、夫人は棺の中に愛用の広辞苑と鉛筆と原稿用紙を入れた。酒仙だった「おとうちゃん」のために、ウイスキー1本分を体にふりかけたそうだ。 株大暴落で「電子の検知能力」の限界を「学習」 【’87.11.5 朝刊 1頁 (全836字)】  長野県地獄谷のニホンザルは、温泉につかって目をほそめる。25年前、子ザルがおそるおそる手を入れ足をつけ、ついに露天ぶろの味を「学習」するにいたった▼近ごろは、乗用車までが学習する。でこぼこ道にさしかかると、それを知って車体を支えるばねを硬くしたり軟らかくしたりする。エンジンも力の出し方を変え、いつも快適な乗り心地に近づけようと努める。そういう知能をもった車が走っている。へぇっと驚くのは、世界の先端をいく技術革新を知らないからだそうだ▼東京・晴海の国際モーターショーで、各社のうたい文句に共通のカタカナ語がある。翻訳すると「総合電子制御」と「検知」という2つのことばで、その新技術を競い合い、自賛している。検知は、電子の耳と目と口であり、触角だ。排ガスのようすも探るから、電子の鼻でもある▼暗くなって雨が降れば、ひとりでにライトがつき、ワイパーが動くのは、まず検知器が働くおかげだ。雪道では、横滑りしないように力の配分を工夫して車輪を回してくれる。こうしたことは、さきの2つのキーワードで説明がつく、というはなしだった▼最新のジェット旅客機では、異常があっても飛行中に乗員が原因を突きとめて直すことはもとから考えていない。コンピューターが不具合の機器を止め、自己診断の知恵で代わりの回路に切り替える。ささいな異常なら乗員にも知らせない。いらない負担をかけて操縦の判断を誤らせては困るからだ▼その設計思想には「人間」はまちがうものだ、という前提がある。電子の頭脳が利口になっていき、そのぶん私たちの出番が少なくなる。感心し頼りにしながらも、なにか悲しい気持ちが残る▼株のコンピューター取引が大暴落に拍車をかけ、世界経済を一喜一憂させた。電子の検知能力が人間の意思を裏切ることもある。この当たり前のことを、ヒトは改めて学習した。 放射線障害の恐ろしさ 【’87.11.6 朝刊 1頁 (全840字)】  ブラジルのある都市で、ある古鉄商が廃品の大型医療機械を買った。解体したら、青白く光る粉がでてきた。暗やみで光るさまがあまりにもきれいなので、近所や親類に配った。手で触り、体にこすりつける者もあった。粉のついた手で果物を食べた者もあった▼やがて、人びとは吐き気、下痢、脱毛、貧血などの症状に襲われ、数人の死者がでた。重体の者もいる。信じられないことだが、この機械はがん治療装置で、青白く光ったのは塩化セシウムだったようだ。セシウムはラテン語で「青」を意味する▼子どもたちの中には「光る、光る」といって体になすりつけたものもいただろう。人びとが「きれいなもの」として珍重した光る粉が、実は死の粉だったというのは、どんな怪談よりも恐ろしい▼セシウムは血液などにまじって全身にひろがる。急性障害がなおっても、何年かたって白血病などのがんになる恐れがある、と専門家はいう。がん治療機関はなぜ、この廃品を国の原子力委に引き渡す手続きをとらなかったのか。ふしぎな話だ▼放射線が病気の診断や治療に役立つことは広く知られている。がんの部分に放射線をあてて、がん細胞を退治する。脳の中にできるシュヨウをなおすのにも放射線は力を発揮する。そういう大切な役割があることは承知しているが、放射線の利用と放射線による障害はあざなえるナワのようなものだ▼今世紀初めのアメリカの話だ。時計工場が、文字盤にぬる蛍光塗料に少量のラジウムなどをまぜた。労働者は、筆を口でしめらしながら塗料をぬったのだろう。致命的な放射線障害が続出したという▼チェルノブイリ原発事故のこともある。この事故の結果、放射性物質が欧州にちらばった。今後、数世代にわたってがん患者の発生率が高くなる、と予告する学者もいる。放射線の汚染食品の流入を防ぐ水際作戦に、私たちは目を光らせなければならない。 竹下内閣発足、目標を明らかに 【’87.11.7 朝刊 1頁 (全855字)】  「政治で一番大事な点は、目標をはっきりすることです」。お別れ記者会見で中曽根首相がそういっているのをきいて、おやと思った▼中曽根さんは目標を明示し、号令をかける型の宰相だったといわれている。「私は連合艦隊司令長官だ」などと口走るほどの人だから、たしかにそういう面はあったろう。だが中曽根さんは、かんじんな時にかんじんな目標をぼかしてしまったのではないか▼去年の同日選挙では、明らかにしなければならぬ3つの目標を、明らかにしなかった。第1は「間接税導入」という税制改革の基本になる目標だ。中曽根さんはこの目標を隠し、「大型間接税はやらない」といってごまかした。これがその後の失政につながった▼第2、選挙中に「地価対策」という大切な目標にふれなかった。任期切れ直前で「地価対策を断固やる」といいだしたが、これはあまりにも遅かった。地価対策の遅れは中曽根失政の1つだろう▼第3。選挙のさい、防衛費のGNP比1%枠はずしを目標にする、と明言するのを避けた。選挙大勝後、一気にこの歯止めをはずしてしまった▼きのう、竹下内閣が発足した。新首相は、中曽根さんの忠告に従って、あるいは中曽根さんを反面教師として、目標を明らかにすべきだろう。新型間接税を導入するつもりならば、その目標を明言してもらいたい。「直間比率の見直しをはじめ国民が納得できる公正で簡素な税体系の実現をめざす」(政権構想)だけでは、正体がつかめない▼土地問題でも同じだ。地価対策では、たとえば大土地所有者に対する保有税を設けるという土地税制の改革も必要だろうが、新首相はそこまでふみこむつもりがあるのかどうか。「1極集中から多極分散へ」という政策が「地価高騰の多極分散」になるのを防ぐてだてはあるのか▼「その件につきましては意見をいうのはさしひかえたい」という得意のせりふは、これからはさしひかえてもらいたい。 姿なき公害、雑音電波 【’87.11.8 朝刊 1頁 (全860字)】  テレビのそばでドライヤーやパソコンを使っていると、テレビの画面が乱れることがある。一種の電波障害である。家庭で使われている電気製品のほとんどがいわゆる雑音電波(不要電波)をだす。この電波が影響を与えるのだろう▼体に入れた心臓のペースメーカーが雑音電波のために止まってしまった、という例が学会で報告された。3人の患者はいずれも極超短波を使った温熱治療をうけていたが、温熱治療器の発する雑音電波がペースメーカーを止めてしまった。この場合は正体がわかって、すぐ手当てができたが、原因もわからずペースメーカーが止まったままになったら、と思うと恐ろしい▼私たちは雑音電波公害、電子スモッグ公害という新しい公害におびやかされはじめた。ある私鉄駅で、列車無線の交信ができなくなった。調べてみたら、近所のゲームセンターのテレビゲーム機からもれる電波が悪さをしていたという▼工場の産業用ロボットが勝手に動きだし、作業員がそれにまきこまれて死んだ例もあった。工場内のクレーンの電気部品からでた電波が原因だった。凶器ならざるものが知らぬまに凶器になってしまう、というぶきみさが雑音電波にはある▼日本では、郵政省がわりあてている電波周波数の数は1万3000を超す。これらはすべて許可をえて電波をだしているが、おもちゃのトランシーバーなどの微弱な電波については規制はない。しかも高度技術社会になればなるほど、私たちは雑音電波にとりかこまれる▼おびただしい電磁波が健康に悪影響を与えることはないのか。雑音電波障害を防ぐにはどうしたらいいのか。早急に研究を進める必要があるだろう。光化学スモッグが現れた時、私たちは正体の見えにくい公害、というものに直面した。エアゾール製品によるフロンガスが成層圏オゾン層を破壊するという現象も、姿なき公害といえるだろう。文明はまた1つ、見えにくい、新しい敵を出現させた。 世論に負けた「E電」 【’87.11.10 朝刊 1頁 (全851字)】  E電という言葉は無神経だ、言語の混乱を示すものだ、と新運輸相の石原慎太郎さんがいっている。E電という言葉を選んだ人びとの蛮勇には敬意を表するが、筆者も石原説に賛成だ▼JR東日本会長の私的諮問機関でも、E電は世論に負けた、という声がでたそうだ。E電がこのまま消えることになれば、人びとは「受けつけたくない言葉ははね返す」という実績をつくったことになる▼この国籍不明語を甘受すれば、いつかは中央線がC線になり、山手線がY線になり、急行がEXPRESSになり、「JRE電C線のEXPRESSにお乗りの方は」というようになる。そんな悪夢が人びとの心にはあったろう▼ABCと漢字のまぜ書きはうす汚い。ひところC調(いい加減な)という言葉がはやったが、E電にはそういううす汚さがある。ABC文体というお遊びをはやらせた張本人の嵐山光三郎さんでさえ「何かこびている感じがしていやですね」といっていた▼E電のEはENJOY(楽しむ)EASY(ゆったりした)を示すという説明への反発もあった。ラッシュ時のHELL(地獄)やHIGHRATES(割高運賃)を考えればH電こそふさわしいという人がいた▼オーウェルの『1984年』には、権力が新語法をつくり、言語を統制し、思想を統制しようとする話がでてくる。GOOD(いい)があればBAD(悪い)はいらない。UNGOOD(よくない)でいいといった論法で言葉を切り捨ててゆく▼横文字やカタカナ言葉のはんらんは、私たちの精神生活の大切な部分を切り捨てているのではないか。E電の登場ははからずも、そんなことを考えるきっかけを与えてくれた▼もう1つ。古いものを壊して新しいものに飛びつく、という考え方がE電を生んだとすれば、同時にそれは、古い赤れんがの東京駅を壊して再開発を進める考え方に結びつくだろう。このことはまた、別の機会に論じたい。 富士市のヘドロ公害と闘った甲田寿彦さんの死 【’87.11.11 朝刊 1頁 (全835字)】  富士市でヘドロ公害を告発し続けた甲田寿彦さんが亡くなった。69歳だった。この人の真価は終生、現場主義を貫いたことだろう。タイの農村で井戸を掘る仕事を支え、ミシンを贈る活動をした時も、12回、タイを訪れ、村びとたちと共に暮らし、飲み、踊った▼「60までは何が自分の星かわからなかった」とふともらしたことがある。63歳の時「キラキラとした光の文明にはいや気がさした。タイのスラムの住民の生きるエネルギーに学ぶ」といい、スラム街に飛びこんだ▼やがて、スラム住民の故郷の農村をたずね、村びとたちから「電気も車もいらないが、水がほしい」という話をきく。甲田式の援助がはじまる。「心を結ばぬままカネさえやればという考え方は自立を妨げる」「バラの花束を向こう岸に投げこむだけでは協力ではない」「こちらが10万円だせば、地元も10万円をだすという関係が望ましい」▼タイにこんな短編小説があるそうだ。ある農村に、数十人の都市青年がやってくる。「共同社会の発展のため大公民館を造る」と宣言し、たちまちのうちに建物を造り、風のごとく消える。だが、公民館を利用したのは強い日差しを避けて迷いこんでくる水牛だけだった▼甲田さんは日本で集めた浄財を持って行った。村びとには「身銭を切れ、酒を断ってカネをつくれ」と要望した。3本の井戸が完成した時、甲田さん夫妻は現場を訪ねた。つるべでくみあげた水に空がゆれている。熱い思いで飲み「アローエ(うまい)」と叫んだ。次は水洗トイレだ、と話し合った。夫妻は名誉村民になった▼甲田さんは「志の人」だったという。己の家の井戸水を枯らし、海を赤く染め、異臭をふりまく公害と闘い、志なかばで倒れた。しかし、わが家の井戸水にかわるうまい水をタイの農村で飲んだ瞬間、甲田さんはそこに「自分の星」を見たのではなかったかと思う。 川久保玲さんの服 【’87.11.12 朝刊 1頁 (全856字)】  デザイナーの川久保玲さんがパリの繊維業界紙による人気投票で1位に選ばれた。投票したのは専門のジャーナリストたちだ。ゴルフの岡本綾子さんが米女子プロツアーの賞金王になった後、このニュースが届いた▼筆者の手もとに『コムデギャルソン』という題の型破りの写真集がある。序文も解説も後書きもない。服をまとったモデルの写真が並んでいるだけである。作品に説明はいらない、という川久保流の美学を筑摩書房がよくも受けいれたものだと思う▼写真集の川久保作品は、ミイラを包みこむように肉体を隠している。かと思うと風をはらみ、風にひるがえり、よじれ、はだけ、時には穴ぼこをのぞかせるセーターがあって、見ていて楽しい。服は理屈でつくるのではない、だから説明抜きがいい、としたところに川久保さんの強い自己主張がある。本らしい本の常識を破るという拒否の精神もあったろう▼服飾評論家の小指敦子さんがいっている。「川久保さんには、時代の心をつかみとる力、常識にとらわれぬやわらかな心、ほかの人の作品と同じものはつくらないという独創性がある」▼6年前、パリのファッション界を驚かせた時はいわゆる豪華な服、優美な服を否定した。ぜいたくな布地のかわりに、一見そぼくに見える手のこんだ黒い布地を使い、美しい体を賛美するかわりにおおい隠した、と小指さんはいう▼ぼろルックといわれながらも、それが若い人たちの心をつかんだ。着ていて楽だ、自由な気分になれる、ということもあったろう。ファッションは移ろう。今年の川久保さんは、かつては否定したたくさんのはなやかな素材をふだん着にとりいれて発表している▼ある対談で、「時代が何を要求しているかをいち早く感じる」ことが必要だと答えているが、新しい作品群の核を考えだすまでは七転八倒する、というのは本当だろう。時代を見すえる目の確かさは「売り上げ」という形で常に試される。 沖縄戦跡の文化財化 【’87.11.13 朝刊 1頁 (全866字)】  沖縄県の南風原町(はえばるちょう)が南部戦跡を文化財として保存し、後世に伝えようとしている。沖縄戦の最中、病院などに使われていた壕(ごう)の多くはつぶされ、学校や住宅が建っている。だが、遺骨と共にそのままになっている壕も12、3はある。そのいくつかを保存する計画だ▼この一帯の病院壕には当時の女子中学生たちが救急看護隊として参加した。血とウミとウジムシとシラミの中で、1日80人の手術を手伝った少女もいた。若い人たちのために、沖縄戦の一端を書いておきたい▼沖縄戦の性格の1つは「本土決戦に備える時をかせぐため」のものであったことは、当時の沖縄守備軍司令官、牛島中将も認めている。結果的には、本土決戦に備えての捨て石として、住民は闘った▼米軍の戦史も、たとえば伊江島では乳のみ子を背負った婦人まで戦闘に参加し、住民たちは竹やり、手投げ弾、爆薬箱をかかえて米軍陣地に突入したと書いている(大田昌秀『これが沖縄戦だ』)▼海軍の現地司令官、大田少将は、自決直前の電報に書き残している。「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ  看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ重傷者ヲ助ケ 輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ」。最後に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という有名な言葉がある▼沖縄師範男子部の少年は386人が戦闘に参加し224人が戦死した。県立一中は371人が参加し210人が戦死した。男子生徒の戦死者は計1224人、女子生徒の戦死者は計336人といわれている。全体では約12万人の県民が死に、約6万6000人の将兵が死んでいる。本土に生きる者は沖縄で流された血から目をそむけるわけにはいかない▼南風原町は、町の条例で戦跡を保護することを考えているという。沖縄戦跡を国の史跡として指定するには難しい議論があるだろう。だが、戦争の歴史を大地に刻みこむという発想は大切にしたい。 江川投手の引退 【’87.11.14 朝刊 1頁 (全841字)】  江川投手の引退記者会見をきき、この人は、劇的な内容を淡々として語ってみせるのが実にうまい人だなと思った。解説者としてのおめみえ会見のようでもあった▼話のヤマは、天王山の広島戦を前にして、選手生命を絶っても針を打って登板するかどうかに苦しむところだ。ここで江川が投げたくせだまは、組織批判の形をとらない一種の組織批判だった▼あの広島戦の前に「肩の痛み」を理由に登板回避を主張したらどうなっていたか。投手生命をのばすことができたか。それとも、わがままだと否定されたか。勝つことを至上命令にしていた巨人では、江川でさえも登板回避をいうことができなかった、というところに組織内の風通しの悪さがあった▼いや、巨人に限らない。日本の組織には、そういうたぐいのことがいえない、いってはならないという慣習のようなものがある。自己犠牲の美学が強調される組織では、上役が個々人の体や心の状態をいかに察するかが大切になる▼『朝日ジャーナル』の最新号で、元大洋監督の近藤貞雄さんが「練習をやりすぎて故障して、肩やヒジを痛めた選手がどれだけたくさんいるか。高校のころ毎日250球も300球も投げさせたらヒジが曲がるのがあたりまえです」といっていた。外国から来たプロ野球の選手がいちように驚くのは、練習時間が異様に長いことにあるらしい。選手を育てるべき練習が選手を壊してしまうというのも、おかしな話だ▼世界最強のラグビーチーム、オールブラックスのハート監督によると、集団の練習は1日1時間だという。体力づくりは「個々の体力はそれぞれ異なるから自分にあった方法でやる。チーム全員がそろって腹筋運動をするような方法はナンセンスだ」ともいう。野球とラグビーを同一に論ずるつもりはないが、練習は量ではなくて質であり、真の管理は個の尊重だということを、この話は教えてくれる。 徒歩のすすめ 【’87.11.15 朝刊 1頁 (全856字)】  「歩くということは、自然に出あい、文化に出あうことだ」と、オランダの元首相ファン・アフトさんがいっている。「日本歩け歩け協会」などが主催した国際シンポジウムでの発言だ。歩くことを楽しんでいる時に出あった風の気配、人の暮らしの気配は、ふしぎなほど強く心に焼きつく▼このシンポジウムでは、国際マーチング・リーグ事務局長のファン・リューエンさんが「歩くとは、喜びに満ちた自己解放への道だ」と発言している。これもいい言葉だ▼ひところ、歩くことは過去のもの、不必要なものとされた時代があった。しかしいま世界中で、歩くことが新しい暮らしの型として見直されだした、とリューエンさんはいう。自由に歩くことの中に人間らしさを求める人がふえたのだろう▼私事になるが、筆者の場合は出勤時刻を割合に自由にできる仕事なので、思い立つと電車を降りて歩きだす。日比谷公園から皇居周辺を歩く。上野の不忍池から上野公園を通って谷中へ抜ける。銀座8丁のあちこちを歩く▼「自己解放への道」になるほど歩くことに熟達はしていないし、騒々しい街中の散歩には限界があるが、それでも歩いたあとは気分がいい。いまは井の頭公園から久我山へ、玉川上水に沿って歩く道が紅葉の盛りだ。ケヤキの巨木が黄土色の葉を散らしている。イイギリやオオカメノキの赤い実がみえる▼山奥の森の静寂は味わえないが、桜の葉が散るところに「育てよう耐える心と思いやり」という看板が立っていたりして、街の散歩道にはそれなりのおもしろさがある▼この玉川上水緑道のように安心して歩ける道が、都市内に網の目のようにはりめぐらされていればと思う。今度のシンポジウムでも何度か「歩道をもっと」という議論があった。楽しい歩道がほしいという主張は、自分自身が使う車をいかに抑制するかということと表裏になる。つきつめればそういうことになる、と自分にいいきかせてみる。 修学旅行の今昔 【’87.11.16 朝刊 1頁 (全844字)】  クイズを1つ。ニューヨークやワシントンを見たことのないアメリカ人は、多い。しかし、京都や東京を一度も訪れたことがない日本人は、少ない。なぜか▼答えは、日本には「修学旅行」があるから。全国の小、中学校の97、8%が実施し、参加する子どもたちは高校も含めると年間600万人に近い。今月下旬、大阪の高校生が北京の天安門広場で持参のたこを揚げ、中国の若者と交流するなど海外組も増えてきた▼明治19年(1886)、鉄砲を肩にした東京師範学校の生徒99人が、千葉県内200キロの行程を11日間かけて歩いた。この「長途遠足」が修学旅行のルーツとされる。発火演習、散兵演習をくりかえす一方で、魚介類採集、灯台や小学校の見学、貝塚での考古学指導などもおこなわれた。「兵式操練演習」と並んで、「実地に学術を研究させる」のが目的だった▼ある調査によると、いま中学教諭の95%、高校教諭の90%が、修学旅行の目的は「集団生活の規律を学ばせ、公衆道徳を身につけさせる」ことだと考えている。京都で最近、ポケットベルを持たされた修学旅行生をよく見るそうだ。福岡や兵庫ではスキー修学旅行が急増、公立高の8、9割が採用している。それもこれも生徒を管理しやすいため、との解釈を聞いた▼先日、教育功労者表彰を受けた東京のある高校長が、その直前に、校長を兼務する定時制の修学旅行に付き添って関西に出かけた。「大変な勇気」と仲間うちで評判になった。旅先で事故、不祥事があれば、表彰を取り消されかねない。しかも校長の同行は、義務づけられているわけではない。危険を冒さなくても、という話だった▼旅行中に生徒だけで行動する「自主見学」が減っている。京都で座禅を組んだり、広島で被ばく者の話を聞いたりといった「体験学習」が少なくなっている。第2世紀に入った修学旅行の、これが1つの傾向という。 心と心を結ぶ冗談 【’87.11.17 朝刊 1頁 (全844字)】  ホワイトハウスでホロビッツ氏の演奏会があった。終わってレーガン大統領があいさつを始めた。座り直そうとした大統領夫人が倒れて、花束の中に消えてしまったことがあった▼隣に座るホロビッツ氏が、今度は大統領夫人を守るようにやさしく左手をそえ続けた。「こうしてもらいたくって、倒れたのよ」という夫人の一言が爆笑を誘った。さすがに堂々たる機知である▼テレビ朝日の『ニュースステーション』で、アメリカの上院議員が激しく日本の貿易黒字を非難していた。ところがこの画面がおおいに乱れた。とっさに久米宏がいった。「画面に乱れがありました。これからはテレビ局の受像機をアメリカのゼネラルエレクトリック製に代えようかと思います」。こういう機知に富むところがこの人の身上だろう▼「地価高騰とかけて何と解く」と記者に問われて、三遊亭円楽師匠が答えた。「恐妻家の殿様」と解く。こころは「オクで悲鳴をあげています」▼なにげない冗談が人を力づけることがある。がん患者の心の問題と取り組む医師、柏木哲夫さんの新著『生と死を支える』にこんな話があった▼58歳の食道がんの末期患者E子さんは、食べ物がのどを通らず、点滴で栄養を補給していた。ある日柏木さんに「何を食べたいか」ときかれたE子さんは「マグロのトロ」と答えた。「トロですか。つまらずにトロトロと入ればいいけどね」と柏木さんがいった▼その冗談にE子さんが笑った。入院以来初めての笑顔だった。そして「トロトロと1日中眠っていないでトロを食べてみましょうか」といいだし、つきそいの夫も「私もトロい男だが」といいながらトロを買いに行った。夕方、E子さんがいった。「先生、トロを2つも食べました。ほんとにおいしかった」▼たとえ月並みな冗談でも、それが看(み)取る側と看取られる側の心を結ぶことがある。だじゃれをさげすんではいけない。 アジアからの留学生・就学生 【’87.11.18 朝刊 1頁 (全855字)】  「横浜市海外交流協会」という組織がある。市の補助金で運営する財団法人で、市内に住む外国人に生活情報を提供するのが仕事の柱だ▼ボランティアが交代で相談に応じている。相談にくるのは留学生、就学生がほとんどで、下宿、日本語学校、アルバイトの紹介が多いという。協会には安い部屋代の下宿のリストがある▼経済同友会の呼びかけで、企業が社員寮の一部を留学生に開放する試みもひろまっている。留学生は独身寮の社員と一緒に住み、ふろで背中を流しあう。「アジアの人と一緒に生活できる場があることは、若い社員に貴重です」と同友会の幹部がいっている。この試みも評判がいいそうだ▼バングラデシュからやってきた青年が、木造アパートで飢えのために亡くなった。青年は観光ビザで来日し、日本語学校に入る準備をしていたという▼留学生の相談の仕事を続けている人がこのニュースを読んで「日本の現実は厳しいという情報をアジアの各国にきちんと流さなくては」といっていたが、筆者もその通りだと思う。同時に、横浜市や経済同友会が始めたような貴重な試みが、まだあまりにも少ないということを思わずにはいられない▼留学生と就学生は違う。大学や高専などで学ぶ人は留学生で、日本語学校などで学ぶ人は就学生という。共に円高、高い住居費、働き口の少なさに苦しんでいることに変わりはない。だが、留学生は医療費や学費の補助があり、不十分ながら奨学金もある。就学生にはそれがない。留学生は週20時間以内のアルバイトが認められているが、就学生には認められず、もぐりで働いている▼中には就学生を偽装する者もあるが、多くは向学心に燃えて訪れる若者たちだろう。そういう就学生が激増している現実にきちんと対応しないと、日本嫌いをふやすだけとなる▼日本はアジアの国なのにアジアに友人が1カ国もない、という前西独首相シュミット氏のことばが耳に痛い。 三原山噴火を見つめる目 【’87.11.19 朝刊 1頁 (全864字)】  作家、林芙美子は若いころ、ひとりで伊豆の大島へ行き、こんな詩を書きとめている。「眼とぢたり/瞼ひらけば火となりて/涙吾れをば焼く憶ひなり」▼波浮の港の宿で地酒を飲んでうたたねをして、目がさめた時、自然にこの歌ができた。「死ぬのだったら三原山のあのガラガラ土や煙の中ではなくて、こんな港の美しいところがいい」とも書いている。林芙美子はなぜか噴火口の光景には目をそむけた▼その三原山の噴火が続いている。18日、黒煙は一時、高さ2400メートルに達し、かなりの降灰があった。山腹がふくらみ、山頂が沈むような地殻変動も観測された▼1年前の噴火の場合といちじるしく違うのは、御神火(ごじんか)の鼓動が実況放送のように伝わってくることだ。予知にはほど遠いが、少なくとも重要な変化をかなり正確につかめるようになった▼それは、三原山の動きを見つめる目の数がふえたからだ。地震計、磁力計、地殻変動を調べる傾斜計などが数多く新設された。費用は約11億円だが、これらが防災に役立ち、予知技術の進歩に役立つことを考えれば安いぐらいだ▼奇妙なことに、鹿児島の桜島も、三原山に呼応して大きな爆発があった。1平方メートルに12キロもの灰が降った所もあり、被害はかなりのものだという。ここで特筆しておきたいのは、京大の防災研が桜島の異常を事前につかんでいたことだ▼防災研は、山腹にトンネルを掘って傾斜計を設け、コンピューターに解析させて爆発を予知するという貴重な研究を進めている。爆発予知の的中率は約7割で、数分前から6時間前に予知できるそうだ。このトンネル方式はほかの火山でも有効なのではないか▼伊豆大島の安永の大噴火というのは猛烈だったらしい。大地はゆれ、黒煙が海上まで渦巻き、灰によって草木も枯れ、田畑の実りは皆無となり、人びとは島から去ったと記録にある。今回の噴火が小規模なものでおさまることを祈るのみだ。 ロンドンの地下鉄火事 【’87.11.20 朝刊 1頁 (全845字)】  ロンドンの地下鉄駅で火事があった。混雑時だったこともあって、かなりの死傷者が出た。猛煙に包まれ、逃げ遅れた人が多かったという▼地下生活者の大先輩に、モグラやプレーリー・ドッグがいる。地中で暮らす哺乳(ほにゅう)動物はみな、穴掘りの名人だが、彼らはただやたらに長い穴を掘るだけではない。必ず複数の出入り口をつくっている▼『生きものの建築学』を書いた長谷川尭さんによると、複数の出入り口はまず、外敵の襲撃に備える意味があるらしい。袋小路の中で逃げ場を失うことのないように、ちゃんと非常口をつくっておく、というのが彼らの知恵だ▼複数の出入り口は換気にも役立つ。プレーリー・ドッグは、土手が低くて穴の大きい出入り口と、土手が高くて穴が狭い出入り口をもっている。この狭い穴はちょうど煙突の役割をはたし、汚れた空気を外に流しているという▼地中で暮らすことにかけては人類は新参者だ。太古からの地下生活者の知恵に敬意を表さねばならぬ。何よりもまず、モグラたちに習って、地下鉄や地下街と地上とを結ぶ避難口や排煙口をたくさんつくることだ。東京消防庁は、地下鉄内にできるだけ多くの避難口をつくることを要望している。避難口は消防士のための非常用進入口にもなる。駅と駅の間に照明装置をつけて出口までの距離を示す、軌道の外側に避難通路をつくる、という工夫も必要だろう▼東京・葛飾にはトンネルや地下の火災を想定した東京消防庁の訓練場がある。265メートルのトンネルに熱風と煙を送りこみ、そこで救助活動の訓練をしている。酸素ボンベは15分しか使えない。つまり消防士の進入口がたくさんないと実際の救助は難しい、ということがこの訓練でもわかる▼東京の地下鉄では、ここ24年間に101件もの火災が発生している。全国ではかなりの数になるだろう。ロンドン地下鉄の火災はひとごとではない。 国会の土地論議は地についた住宅政策を 【’87.11.21 朝刊 1頁 (全859字)】  国会の特別委で「土地」が議論されている。政府の意気ごみはわかるが、その答弁の中に「都心の地価が沈静化しつつある」という表現があったのには驚いた▼たとえばの話だが、5000万円の土地が狂騰して3億円になり、それが2億9000万円になったからといって沈静化といえようか。火事は炎がほぼおさまった時に沈静したという。3億円の地価を大幅に下げてはじめて政府は胸を張って沈静を宣言することができる。2億円だ3億円だというのは、私たちの身の丈にあう値段にはほど遠い▼土地問題の本格的な議論はこれからだろうが、今までの政府答弁からは住宅に苦しむ「人間の顔」が浮かんでこない。再開発だ、多極分散だということばが上すべりして、人間の顔が忘れられている、という印象をもった▼人間の顔というのは、たとえば千葉・浦安のわずか74戸の公団マンション募集に押しかける約3万の人びとの顔だ。池袋のサンシャインビルが見える木造アパート3畳間に住み「おんぼろアパートとあのビルと、この2つの建物は、本当に同じ時代の同じ国、同じ町に建っているのだろうか」とつぶやく留学生の顔である▼大阪の木造文化住宅を視察して「これではウサギ小屋ではなくてウサギ穴だ。政府はこれを放置しておくのですか」と驚くイギリスの住宅問題専門家の顔でもある▼国会論議の焦点の1つを「安くて質のいい賃貸住宅を大量に供給する」ことにしぼってもらいたい。土地政策とはつまり、20代、30代の人たちも快適に暮らせる家を創出する住宅政策でもあるだろう▼古い木賃アパートを広々とした賃貸住宅に建て直す人に大幅な公的助成をするとか、低所得者の家賃補助をするとか、農家が自分の土地に良質の賃貸住宅を建てることをさらに奨励するとか、そういう足が地についた住宅政策を議論してもらいたい▼その大前提として必要なのはやはり、土地神話を崩す強力な地価規制だろう。 「エコマーク」 【’87.11.22 朝刊 1頁 (全840字)】  「エコマーク」というのができるそうだ。正確にはエコロジカルマークである▼環境庁の説明をきくと大変けっこうな話で、ただちに賛成挙手といきたいところだが、さて、エコマークという印を見ただけで、はたしてどれほどの人がその内容をつかむことができるだろう▼たとえばフロンガスを使わない霧噴き製品などにこのマークがつけられるという。環境を守るのに役立つ製品を奨励するためにマークをつける、という趣旨はいい▼騒音の低い洗濯機、窒素酸化物があまりでない暖房機器、水銀を含まない乾電池、組み立て式の防音室、再生紙、川や湖を汚しにくい養殖魚のエサ。そういう商品が対象になるそうで、この試みは公害防止に役立つだろう。先進国の西独では9年前から「環境マーク」の制度をはじめている▼だが、私たちのまわりの商品にはすでにJISマーク、JASマーク、Gマーク、Qマークという約150ものマークがある。多くはカタカナ言葉やローマ字で、たとえば、Gマークはグッドデザイン商品のことだときいて初めて合点がゆく。そういっては失礼だが、日本語の言語環境をいちじるしく汚染しているマーク群の1つに、またひとつ環境庁は難解なマークを加える▼エコロジーには、地球の生態系全体のつながりを調べ、それを守る学問という意味がある。それはそれで現代を解き明かす大切な言葉だとは思うが、この比較的新しい輸入語を、ふつうの人にもわかってもらわねばならぬ商品マークに使うのはどうだろう▼たとえば草木にも仏性がある、草木でも命あるものを殺せば報いがある、因果応報の網は天地の間にはりめぐらされている、といった古い教えを子どものころにきいた。こういう教えは自然環境を守る思想とどこかでつながるのではないか。エコロジーという言葉を直輸入的に使うことで、私たちはともすれば土着の発想を切り捨ててしまう。 歴史教科書の書きかえ進むポーランド 【’87.11.23 朝刊 1頁 (全840字)】  ポーランドはいま、歴史の国定教科書の書きかえを進めている。そのうちの中学校用を手にする機会があった▼1944年、占領軍のドイツ相手に市民らが戦った「ワルシャワほう起」のページを開いてみる。西側の歴史書の多くが「この時、ソ連軍は近くまで来ていながらドイツ軍を攻撃せず、ポーランド国民を見殺しにした」と書いている部分だ▼新しい教科書は、評価はまだ定まっていないとして、異なったいくつかの見解を列挙する。たとえば従来通りの説「ソ連軍は長い戦闘に疲れ、攻撃する余力がなかった」▼一方、これまでは書かれなかった説も紹介される。「ソ連軍は、政治的観点からドイツ軍への攻撃を中止し、ほう起を支援しなかった――という見解もある」と。教室でどう教えるかは、教師にまかされる▼先日、同僚がこの国を訪れた。教育省の幹部たちは、こう語ったそうだ。「歴史教育者ならば、本当のことを調べ、教えるのが義務だ」「正直にいって、以前はソ連との歴史的関係を率直につづることが出来なかった」▼ワルシャワ市内を歩くと、建物の外壁のそこここに石板がはめ込まれ、花が手向けられているのに気づく。ある石板は「1944年9月2日、ここで50人の市民が殺された」と読めた。ほう起の犠牲者だ。戦争は市中心部の建物の98%までを破壊した▼その壮絶な歴史の、記述の見直しが始まったのは、「連帯」のワレサ議長らによる政府批判の運動が起こって以後だという。同僚の問いに、教育省幹部は答えた。「タブーのテーマも、今後ははっきり書かなければ。でないと、人びとは政府を信用しなくなる。逆にきちんと書けば、政府を信用するだろう」▼日本では、高校世界史のあり方をめぐって、いろいろな声が投書欄をにぎわせている。ポーランドのこの話は、歴史を教えることのむずかしさ、歴史を学ぶことの大切さの一端を示している。 NHKのテレビ番組「きょうの料理」満30年 【’87.11.24 朝刊 1頁 (全843字)】  NHKのテレビ番組「きょうの料理」が今月で満30年になったそうだ。「テレビ体操」と並んで最長寿を誇っている。さきごろ東京のデパートで記念展をやっていた▼目を引いていたのが30年前の台所と茶の間、いまでいうダイニングキチンのモデルだった。部屋の真ん中にちゃぶ台があり、すぐ横に放送博物館から借り出した白黒テレビが座っていた。流しのそばには七輪や炭びつがあり、ブリキのバケツや竹ぼうきも見えた▼30年前の昭和32年というと、自動電気炊飯器が1カ月に20万台も売れるなど電化ブームが始まりかけたころだが、戦後の飢餓時代がまだ終わってはいない。翌33年、厚生省は国民の4人に1人が栄養欠陥と発表している。強化米、強化みそ、強化マーガリンなどがはやった時期でもある▼36年には冷凍食品が出回り、39年に電子レンジが登場する。40年には手づくりパンブームが起きた。番組には冷凍食品がしきりに現れ、パンやジャムの手づくり特集も組まれた。そして47年、新聞の見出しなどに「1億総肥満化」が出てくる。番組ではサラダがもて、同時に「おばあさんの野菜料理」も特集された▼50年代に入るとグルメ時代が始まる。「プロによるフランス料理の基本ソース」などが人気を呼ぶ。一方で「成人病の食事」に電話で何百本もの反響がある。初めて「男の料理」が登場したのは58年だそうだ▼テレビはいま、料理番組が花ざかりだ。旅や温泉つきのものまで入れると、ドラマや音楽番組より多いかもしれない。それだけに視聴率競争がきびしいようで、ここでも芸能人やスポーツ選手ばかり目につく▼「きょうの料理」の最初のころは、バターを使ったら「ぜいたくだ」という文句もあった。いまは「あのお皿、どこに売ってるの?」式の電話が多いそうだ。料理は、グルメの時代からファッションの時代に入っているのかもしれない。 トイレシンポジウム 【’87.11.25 朝刊 1頁 (全849字)】  先日、横浜市で開かれたトイレシンポジウムで、広瀬洋子さんたちが「なぜ女はがまんを強いられるのか」という報告をした。女性用の公共トイレットは、日によって大混雑になる。それは女性用の数が少ないからだという▼日曜のデパートでは、化粧室の前に列ができることがある。泣き叫ぶ子をかかえて、空いた所を見つけようと階段をかけ下りるお母さんがいる。がまんの限界が短いお年寄りはみもだえして待っている▼チャックをおろすだけですむ男性と比べて、女性は約3倍、時間がかかる。小用の場合、日本人の男性の平均は31.7秒、女性は1分33秒、という数字が日本トイレ協会長、西岡秀雄さんの『トイレットペーパーの文化誌』にあった▼1人あたりの使用時間が長い。頻度も多い。だから、本来女性用は男性用の3、4倍は必要なはずだが、現実はそうなっていない。報告によると、比較的評判のいい都内のあるデパートでも、女性用の便器数は男性用の2分の1で、女性は男性の何倍も待たされる計算になる。劇場や競技場では、女性の化粧室は「悲惨な状況」になる▼シンポジウムでは、小野清美さんたちが障害者のために多様性のある公共の手洗いを、と訴えた。介護者が、おむつを使っている高齢者の面倒をみることができる設備、便尿器を洗える設備なども必要だという意見である▼昨今は、公共の手洗いを改善する運動が盛んだ。駅構内の化粧室も、汚い、臭い、暗い、怖いの4Kを返上しようとしている。きれいで明るい公共の手水場(ちょうずば)を造る地方自治体もふえている▼そのことは大歓迎だが、女性用をよりふやし、身体障害者用の多様な設備に心を配っている所はまだそう多くはないだろう。今回のシンポジウムでは、公共トイレベスト10入りをめざして、全国から65の応募があった。そのうち、女性用を男性用よりも多く設けた所はごくわずかしかなかった。 在日米軍の基地経費 【’87.11.26 朝刊 1頁 (全845字)】  防衛面で日本は米国にただ乗りしている、という非難がある。この非難を聞くたびに不当なはずかしめを受けた気持ちになる日本人が少なくないだろう▼まさかとは思うが、アメリカでは「日本は在日米軍のために1銭も払っていない」と本気で思いこんでいる人がいるのだろうか。そう思いこむ人が多いからこそ「日本は防衛予算がGNPの3%に満たない場合は、その差額分を安保料として米国に払え」という極端な法案が米下院で可決されたりするのだろうか▼在日米軍の基地経費の問題がまたやかましくなったのを機会に、基本的な数字をあげておきたい。日本に駐留する米軍の経費は概算で約8200億円である。うち米軍人の人件費は約2300億円だ。これは米軍が払うべきものだから除外すると、残る経費は約5900億円になる▼このうち、日本側の負担は施設費約740億円、労務費約360億円、施設周辺対策費など約740億円、民公有地の借地料約460億円、基地交付金など約250億円。ほかに国有地の借地料相当額が約620億円もある。米軍人人件費を除く諸経費の54%を日本側が負担している▼さらにいえば、米軍専用の基地は約330平方キロである。日本の住宅地の平均価格で計算すると36兆円になる。計算上の話にすぎないが、日本人にとっては貴重な土地だ。政府は、日本の負担増を迫るアメリカに対してもっと強腰になってもらいたい▼朝日新聞の過去の世論調査では「日本が戦後経済的に発展できたのは米軍のおかげだ」と思う人が55%もいた。多くの日本人の素直な気持ちだろう▼だが一方、「いざという場合、アメリカは本気で日本を守ってくれると思うか」の問いには、そう思わないと答えた人が56%もいた。結局は米本土を守るための日本防衛だろう、というさめた現実感覚が56%の数字になっている。ただ乗り論はこの現実感覚を刺激する。 落ち葉の山を歩く 【’87.11.27 朝刊 1頁 (全842字)】  中央線の鳥沢駅で降りて近くの山を歩いた。山に向かう途中のネギ畑に霜が降りていた。紅葉の盛りは過ぎていたが、それでも山は、れんが色やえんじ色に染まっていた。昔は木炭やマキにしたのだろう。コナラやクヌギなどの木が多い▼谷川の音が耳に入るようになると、落ち葉のにおいに包まれる。チチとシジュウカラが鳴く。リュウノウギクがわずかに咲き残っている。乾いた落ち葉をひとつかみ、手で握りしめるとバリバリと砕けて、カシワモチのカシワの葉のにおいがする▼峠にでる。遠山がみえる。国木田独歩が「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐かし」といった、あの風景がある。鮮やかな紅色がある。くすんだこはく色がある。あずき色、えび茶色、ぶどう酒色、からし色、かば色、と多彩な色が溶けあって、山を歩くものの心を染めあげてゆく▼地をはう風が山はだに沿って吹き渡り、立ち枯れの草の中にわけいる。カサ、カサカサとかすかな音が続く。トチノキの葉が落ちているのに木の姿がない。探すと、数百メートルも離れた沢筋にあった。木枯らしがこれほど遠くまで吹き飛ばしたのだろう。深夜の漆黒の世界で、ホオノキやトチノキなどの大型の葉がうなり、乱れ、舞いあがるさまをふと想像した▼落ち葉というと、凋落(ちょうらく)、盛者必衰、滅びの世界といった言葉がつきものだが、このごろは、風に舞う落ち葉に「死」の姿ではなくて「生」の姿をみることのほうが多くなった▼夏葉樹は、冬を迎える前に、葉柄のつけ根の部分に離層という特別の組織をつくる。葉はまだ枯れていないのに、木と別れを告げる。1本の木にとって、それは冬を生き抜くための知恵である。葉は落ちて、土になり、木々の栄養になる。葉落としは、生きるための営みである▼散りつつあるコナラの葉のわきにはもう、たくさんの赤い芽がついていた。 ふるさと創生へ思い切った行財政改革を 【’87.11.28 朝刊 1頁 (全842字)】  竹下首相は、料理屋「辻留」の主人の「ふるさととは、3年ねかせた信州みその味だ」という話をきいて、感心する。そんな味をいかして地域開発ができないかと思う。竹下さんの「ふるさと創生論」の底には、どうやら古いみそだるのにおいがあるらしい▼手前みそという言葉がある。自分が造ったみそを自慢することだ。今でも自分たちでみそを仕込んでいる群馬の知人にきいたら「手前みそかもしれないが、大豆はやはり国産のものがいい」といっていた。それに、その土地で作られた大豆、こうじを使えば一層、土地独特の味が生まれる。外国産の大豆を原料にし、大量に生産されるみそに、はたしてふるさとの味があるかどうか▼ここでいいたいのは、手前みそを大切にする、その土地独特のものを大切にするという営みの集積こそが、ふるさとの味を作り、独自の文化圏を作るということだ。北海道仁木町の島本虎三前町長が「地方は中央に頼っていてはだめです」といっていたが、中央からの補助金に頼っていては、その土地独特の味はぼけてしまう▼ふるさと創生をいう以上、中央の財源を大幅に地方自治体に委譲し、地方が自由な発想で使えるようにすることが必要だ。首相はすでに「地方が知恵をだし中央が助成を」「現行の補助金制度改善を」という構想を発表しているが、これではなまぬるい。地方が中央の意向とかかわりなく、独自の判断で使えるカネをふやすためには思い切った行財政改革が必要なのではないか▼国土庁が、九州のある市の県外在住者を調べたら、実に76%が「ふるさとに戻りたい」と答えたという。ふるさと志向はかくも強い。だからふるさとを大切にという政策目標が間違っているとは思わないが、田園都市構想の二の舞いは困る▼きのうの首相演説をきいた範囲では、ふるさと創生をめぐる竹下さんの「大胆な発想」はいっこうに伝わってこなかった。 未来に残したい東京駅の景観 【’87.11.29 朝刊 1頁 (全837字)】  『岐路に立つ現代建築・破壊と再生』というNHK教育テレビの番組をみながら、東京駅周辺の再開発問題を考えた。イギリス放送協会が作った地味な記録番組だが、「過去に学ぶ」機運が強まってきた、という海外の建築界の昨今の流れがわかって、おもしろかった▼古いものをただ、博物館的に保存するのではなく、都市再生の仕事の中で歴史的な建造物をよみがえらせる。古いものを、新しい景観の魅力的な核にする。そういう形の再開発がふえている▼西独のフランクフルトでは、古い建造物を市が買い取って修復し、建築博物館や美術館としてよみがえらせている。ロンドンでは、河畔の工場を壊さず、修復してテレビのスタジオにして再生させている▼多くの国が、新旧の建物をいかに調和させて未来にひきつぐか、という仕事に取り組んでいる。「それは未来に対する私たちの義務だ」。画面の中で、ある建築評論家がそういっていた▼東京駅周辺の装いを新たにするのはいい。だがそのために、丸の内駅舎を壊して高層ビルを建てる、という考え方に筆者は反対だ。確かに老朽化はひどい。だから大規模な改修工事は必要だろう。戦災で、大正3年に誕生した当時の面影を失っているとの声もある。そういう批判が強い場合は誕生当時の形に復元したっていいではないか▼丸の内駅舎にこだわるのは、何よりもそこに、私たちの歴史があるからだ。南口ホールには、原敬首相が暗殺された場所を刻む印がある。駅舎のあちこちに大正のにおいが残っている。東京駅と青春のひとこまを重ねあわせている人もいるだろう。その壁にはおびただしい数の自分史が刻まれている▼丸の内のビル街を抜けて、西日をあびる東京駅を眺めた時の、のびのびとした空間もいい。駅舎内の、かなりぜいたくな空間もいい。高層化の進む東京にあって、こういう空間はやはり未来に残す価値がある。 空飛ぶ漁船員 【’87.11.30 朝刊 1頁 (全844字)】  墜落した南アフリカ航空機には50人近い日本人乗客がいた。そのうち38人は日本水産の漁船員だった。事故の知らせをきいた漁船員の叔母が「船乗りが飛行機事故に遭うなんて」と語っていた。海の男たちの命を奪うものはシケばかりではなかった▼日本水産の「漁場図」をみて、日本の漁船がこんなにも遠い海で仕事をしているのかとあらためて思う。南米沖ではイカやアジを取っている。ニュージーランド沖ではイカやホキを取り、豪州沖ではエビを取っている。アフリカ沖でもアジやタイを取っている▼漁業基地が遠くなると、往復に費やされる航海日数を節約するため、漁船を基地に置き、船員だけを航空機で送り迎えする「外地交代方式」がとられるようになる▼底引き網漁の場合は、現地で最長10カ月と20日間をすごす。帰国すると2カ月ていど休む。船に乗れば、帰国の日を指折り数えるようになる。漁場では24時間を2交代で働くこともある。ビデオで、おなじみの寅さんものを何度もみたり、1年前の紅白歌合戦に興じたり、という暮らしである。そして内地の(と、船乗りはいう)新鮮なニュースに飢える▼日本に電波が届くうちに送る年賀電報も楽しみの1つだ。「ピカピカの1年生がんばれ」「卒業おめでとう」という内容の年賀電報がまじるのは、来年の夏まで留守家族に会えないためだろう▼かつては沿岸漁業の全盛時があった。魚が減って、次は近海漁業が盛んになり、ついで遠洋漁業が盛んになりだした。しかし各国が200カイリの規制をはじめるようになって、遠洋漁業はいま難しい時期にある▼1つの道は、より遠くに基地をもつ遠遠洋の漁業にすがることであり、1つは深海魚、その他の新魚種を探し回ることだ。そして漁業の拠点が遠くなるにつれて「空飛ぶ漁船員」が登場する。こんどの事故の背景には、魚の資源を求めて苦しむ日本漁業の縮図がある。 11月のことば抄 【’87.12.1 朝刊 1頁 (全840字)】  1日遅れで、11月の言葉▼「雨あがる、竹下のぼる、日本はよくなる」と後継者をもちあげて中曽根首相が退場した。故郷で「いまは留置場から許されて家に戻った気分だ」▼「たいがいのことは知っているが、何もわかりませんがどうしたらいいんだ、と聞く。と、専門的なことをいってくれる」。竹下新首相の発言だ。発散型宰相から吸収型宰相への移行である。「竹下さんは官僚、党、マスコミも含めてそういう声をできるだけ吸収し、それを政策に高め、実行する能力にたけている」と、これは側近、小渕官房長官の弁。この言葉はよく吸収しておこう▼「自殺と辞職は他人に相談することじゃない」といって、社会党の秋山長造元参院副議長が勇退の意思を表した▼「投げたい。でも肩が上がらない」といって巨人の江川投手が引退した。「彼は納得するまでやったのだからいいだろう。おれはこのままだと不完全燃焼だ」といっているのは、ロッテを解雇されたリー選手。まだ他球団の誘いはない▼「あのな、悲しいのは村を出て行った人たちの何人かと最近会ったら、みんな、ものすごくやつれてたなあ。病気したり、しょぼんとしたり、ろくなことないみたい」。ダムで水没する旧徳山村を撮り続けた地元の人、増山たづ子さんの感想だ。11月は去る人、去った人の話が多かった▼「ゴルフは苦しんではいけない。楽しまなくては」。米国女子プロゴルフ・ツアーで賞金女王になった岡本綾子さん。「みんなとても忙しそう。人生の楽しみはゆとりを持って歩くことだよ」とオランダから来た80歳の男性、ベルクールさん。都心の公園で3日間、テント生活をした▼「県や国は『空港ができたら島が豊かになる』というけど、お金がないから貧乏だなんて、だれが決めたんだろうね」。石垣島の白保に住む71歳の東崎原春さん。こういう言葉は心のメモに刻んでおきたいと思う。 激減する有明海のムツゴロウ 【’87.12.2 朝刊 1頁 (全801字)】  干満の差が大きいことで知られる九州の有明海はまた、珍しい魚介類の宝庫である。一番の人気者はムツゴロウだろう▼干潟をねぐらにするハゼ科の魚で、目玉がぎょろりと突き出て、大きな胸びれで泥をはね、歩き回る▼この愛きょう者が近年、激減しているという。たとえば、昭和40年代の初めには、年間200トンを超えていた漁獲量が最近では3、4トンにまで落ちた。いま、市場に出回っているのは、ほとんどが韓国や東南アジア産だ。「このままでは幻の魚になりかねない」という専門家もいる▼激減の原因の1つは、乱獲である。かば焼きが珍味だともてはやされ、ごっそりと取られる。ところが、ムツゴロウは繁殖力がそれほど強くないから個体数は加速度的に減る▼加えて、生息環境が悪くなったこともある。30年近く有明海の風物を撮り続けている写真家、音成三男さんによると、黒っぽかった海の色がだんだん赤や黄色っぽい色に変わってきたという。流域でダムを造ったりすると、干潟を形づくる泥土の流入が減る。しかも、農薬や家庭排水による汚染が進んでいる。この結果、エサになる珪藻(けいそう)が不足し、ムツゴロウが育ちにくくなっている、と音成さんはみる▼佐賀県有明水産試験場ではことしからムツゴロウの人工増殖に着手した。韓国産のムツゴロウと縁結びさせて、強い体質のムツゴロウを生み出そうという実験も始まった。また、昨年から、求愛活動に入る5月中だけは禁漁にした▼いくら珍味だからといってこれ以上取り続け、さらに生息環境を壊し、ムツゴロウを絶滅にまで追い詰める身勝手が許されるはずがない。求愛期間だけでなく、ある一定の数に回復するまで全面禁漁にすべきではなかろうか、という声もある。この愛きょう者と共存できる道を探りたい。 『一人も楽し貧乏も楽し』を著わした雫石とみさん 【’87.12.3 朝刊 1頁 (全847字)】  雫石とみさんが数年前に自費出版した『一人も楽し貧乏も楽し』という本を読んだ。今どき珍しいガリ版刷りである。76歳の雫石さんは現在病床にあるが、50歳のころ、独力で小さな土地を買い、廃材を集めて3畳1間の小屋を建てた。その悪戦苦闘をつづった記録だ▼豪雨が降りこむ部屋でかさをさしながら「自然も人生も、あらしはつきものだ。必ずおさまる時がくる」といってあわてない。こきみいい居直りである▼東北の村の極貧の家に生まれた。小学校もろくに終えずに働き続けた雫石さんは、上京後は土方になる。所帯をもったが、3月10日の東京大空襲で夫と3人の子を失い、戦後は上野公園を拠点にした。盗み、売春、ヒロポンのはびこる中で、モク拾い、クズ拾いを続けた。自分はうじ虫ではないぞ、人間として耐え、努力するんだ。そういう思いが雫石さんを支えた▼浮浪女子たちを収容する施設に入ってからは、職員の暴力や仲間のいじめに耐えながら日雇い労務者として働く。約30万円をためて家造りの資金にした。後年、当時のことを書いた記録が『荒野に叫ぶ声』という本になった▼日雇いの日々も、飢えたように活字をあさった。時々夕刊を買って読むのがささやかなぜいたくだった。そして日記を書き続けた。「私は書くことで救われた。だから、ものを書きたい人のために手伝えることがあれば」といい、こんど『雫石とみ文芸賞基金』を作った▼いまも暮らしは極めて質素である。だが、全財産を売って借金を返し、墓を作り、残りの金2000万円を基金にした。毎年「高齢社会の人びとの生き方」を主題にした作品(小説、記録、ドラマなど)を募集し、表彰金をだす。「基金は30年もつそうです。もういつ死んでも安心です」。身寄りのない雫石さんはそういっている▼雫石基金の問い合わせ先を紹介しておく。NHK厚生文化事業団(03―464―4860) 夜間離着陸訓練飛行場を海上施設に 【’87.12.4 朝刊 1頁 (全872字)】  不穏な状況が続いているペルシャ湾の公海上に、幅30メートル・長さ120メートルの“浮かぶ米海軍基地”が出現した、と先だっての外電が報じていた▼クウェートに基地建設を断られた米海軍が、窮余の一策として巨大な「はしけ」を運んできて係留したもので、200人以上が寝泊まりできる。掃海ヘリコプターや掃海艇、哨戒艇の出撃基地に使うそうだ▼これを読んですぐに思うのは、いま問題になっている米軍機の夜間離着陸訓練(NLP)飛行場。あれをこんなふうに海上に造れないものか、ということだ。もちろん長さ120メートルでは短いし、ヘリコプターと戦闘機では比較にならないかもしれない。しかし検討してみる価値がある▼実は、NLP用の浮体滑走路を、という計画は早くからあり、一部では青写真もできている。現横浜国大教授・宝田直之助氏らの構想では、幅120メートル、長さ1800メートル、高さ21メートル。シミュレーションによると、風速25メートル、約7メートルの波でも滑走路の上下動は1.1センチだという▼そんなにうまくいくかどうか疑問はあるだろう。また技術的には大丈夫となっても、どこに建設するかでもめるかもしれない。しかし防衛施設庁のように最初からこれに消極的というのは困る▼公明党の在日米軍基地実態調査特別委員会のメンバーが米海軍厚木基地を訪れた際、同基地のウィルソン司令官は「(NLPは)海上施設であっても揺れが少なく、米海軍が受け入れられるものなら構わない」と述べたという。日米間で詰める余地はあるのだ▼浮体滑走路方式のほかにも、退役の米空母を改造して使うとか、日本周辺の無人島を活用するといった、あらゆる方法が検討されてしかるべきだ。その労を省いて、なにがなんでも三宅島だと言い張っていては、まとまる話もまとまるまい。第一、今のような空気の中で、三宅島に訓練飛行場を造っても、後味が悪かろう。出直してはどうか。 農産物の自由化 【’87.12.5 朝刊 1頁 (全843字)】  昔は冬になると焼きいもを売る店が繁盛した。裏店のおかみさんや子守たちが2銭、3銭と投げだしてはいもの焼けるのを待った▼空っ風の夜は役所帰りの小役人や書生が焼きいもの包みを懐に押しこんで両手を暖めながら帰って行った、という描写が明治末の『東京年中行事』(東洋文庫)にある。クリ(九里)より(四里)うまい十三里、というだじゃれ的な看板は当時からあった▼いまは鹿児島産のさつまいもの大半はでんぷん用だ。このでんぷんは、水あめやぶどう糖などの原料になり、清涼飲料水、キャンデー、菓子、医薬品などに使われている。時代は変わった▼だが、これからはさらに変わる。農産物の自由化で海外から安いでんぷんが輸入される可能性がある。自由化には反対だが将来への備えは考えておく、というご時世になった▼県も音頭をとって、最近西独ケルン市で開かれた国際食品市に、さつまいものシャーベットやパイを出品した。紫、黄、だいだい、白と種類によって違うさつまいもの色を生かして、色違いのアイスクリームや紫色の水あめも開発した。まだお目にかかったことがないが、天然の「実に美しい色」なのだそうだ▼青森でも、りんご協会が果汁用のりんごを植える運動を始める。これも、農産物の自由化に備え、飲料業界がほしがるりんごをつくろう、という動きだ▼「スイスの空は雲低く実にゆううつだった」。ジュネーブのガット総会から帰ってきた宇野外相がいう通り、日本は孤立した。採択は見送られたが、日本の農産品12品目の自由化を求める外圧は強い▼たとえば牛肉調製品の輸入自由化が進めば、210円のハンバーガーが150円になるという計算もある。消費者にとって歓迎すべき点は少なくないが、一方で「ふるさとの空は雲低く実にゆううつだ」という状態が続いては困る。脱孤立化政策と活力あるふるさとをつくる政策は車の両輪だ。 心の奥深く届いた新聞広告 【’87.12.6 朝刊 1頁 (全850字)】  その新聞の1ページ大広告はこう呼びかけている。「“女の子”を追い払おう」。書類を女の子に渡してくれ、君んとこの女の子に返事するよ、そういういい方を追放しよう、という主張である。文章の結びはこうだ。「“女の子”は10代を過ぎれば間違いなく女性になるはず。あなたと同じに彼女にも名前があります。使おうじゃありませんか」▼ウォールストリート・ジャーナルにのったこの広告のリプリントを求める人は13万人を超えた。広告主はアメリカのハイテク産業、ユナイテッド・テクノロジー社である▼この会社の意見広告には、「世界で一番創造的な仕事とは」というのもある。「それに関係するもの、味覚、ファッション、装飾、教育、心理学、ロマンス、料理、デザイン、文学、医薬、工芸、園芸、経済学、近所づきあい、老人医学、会計……」と続いて、最後に「これら全部をやってのけられる人はきっと特別な人に違いない。その通り。彼女の名はホームメーカー」とある。これも大きな反響があった▼商品の広告ではなく、人生を語る賢いことばをちりばめた風変わりなこの会社の広告集が『アメリカの心』と題して、翻訳された。原文も紹介されている▼たとえば早起きや節約を説く。ゴシップを嫌う。「君のアイデアを僕の名刺の裏に書ききれなかったら、君には明確なアイデアがないってことだね」という名言を紹介する▼ごく常識的な訴えも多いが、ベトナム戦争以後のアメリカ社会では指標となる常識がゆらぎ、そのためにこそ、常識の復権を説くこれらのことばが人びとの心の奥深くに届いたのだろう。リプリントを求めた人は全体で360万人を超えた▼賢いことばのかわりに、ずる賢いことばで扇動を続ける意見広告がもし現れた場合はどう対応するか、という難しい問題はあるが、この『アメリカの心』は、活字の力が健在であることを示し、私たちを勇気づけてくれる。 地上げがらみ?の放火 【’87.12.7 朝刊 1頁 (全852字)】  「未明に出火しわが家の一部が焼けてしまいました」と東京近郊に住む知人から手紙をもらった。20日ほど前のことという▼駅のすぐ近く、ネオンの海にそこだけぽっかり浮かんだ住宅地の一画に、彼の家はある。会社の出張などで、家族みんなが留守だった。1階のベランダに置いてあった洗濯機のあたりから燃え広がった。放火だった▼ベランダに面した部屋の壁や天井に火が回った。彼は趣味の域をはるかに超えた植物写真家でもあるが、炎と放水で、15年間撮りだめた2万枚のカラースライド、二十数台のカメラなどが駄目になった。フデリンドウ、シュンランといった、以前は付近に群生していたのに、いまは見ることがむずかしくなった花々の写真も消えうせた▼「地上げがらみの放火か」と報じた新聞がある。知人は「犯人はまだわからない」と推測を避けるが、去年の秋以来、一帯の家が大手建設会社を背にした地上げ屋の、丁重な物腰ながら脅し言葉もまじえた攻勢にさらされてきたのは事実、という▼等価交換してほしい、と地上げ屋は売り家の案内を持ってくる。気にいらず、彼は断固交渉を重ねた。最初「お宅は4500万円の家と交換します」と持ちかけてきたのが、7800万円の家になり、1億5000万円の家が等価ということになった。「相場から見て4億9000万円まで行くはず」と教えてくれる人もいて、彼はあ然としている▼火事のあと、友人たちがつぎつぎに手伝いに駆けつけた。カンパも届いた。水につかった2000枚のカラーネガは、知り合いの現像会社の10人が即日、6時間がかりで修復してくれた。「今回の災難で得たものは、温かい友情でした」と彼の手紙にあった▼一方で、30年も付き合ってきた一画の二十数軒のうち、すでに17軒がばらばらに引っ越して行った。家並みに隠れていた100メートル向こうの電車の線路が、はっきり見えるようになった。 戦争への道開いたやむなし主義 【’87.12.8 朝刊 1頁 (全838字)】  46年前の12月8日、日本は米英との戦争を始めた。開戦にいたるまでの記録を読んで気づくのは、当時の指導者が「この上は開戦やむなし」「対米戦あえて辞せず」という表現をよく使っていることだ▼対米戦は避けたい、しかしいつかはやむを得ない事情にせまられ戦争を敢行することになるだろう、という意味のやむなし、辞せずである。戦争回避に体を張るよりも、情勢に流される、やむなく既成事実を認める、という姿勢がある▼そしてその情勢を左右するのは、もっぱら軍部の中堅層だった。武力による南進が米国の対日禁輸政策を生み、それが対米戦の引き金になる、と予測しながら、中堅層の戦争衝動はふくらむ。南進の決意を上層部にせまって突きあげるのだ▼『太平洋戦争への道』(7)の中の角田順さんの力作を読んだ。海軍の永野軍令部総長が、仏印進駐の決裁を求められ、「だれとだれの範囲で研究したのか、これで戦争だ」といいながら裁決するくだりがあった。仏印武力進出―対日禁輸―対米戦という予測を承知しながら「やむをえない」と流されてしまう。このやむなし主義は当時の多くの戦争指導者のものだった▼しかも、軍部の中堅層に勝算があったわけではない。南方作戦図上演習の結論は「日本の戦争持久力はまず1年くらいで持久戦に持ち込んでは勝ちめがない」というものだった▼昭和15年、重大な南進政策をもりこんだ時局処理要綱を、政府は1時間半の審議でいとも無造作にのんだという。勝ちめがない対米戦に突き進むもとをつくっていいのか、悪いのか、それを真剣に議論するふんいきはなかった▼その要綱には「已ムヲ得ザル自然的悪化ハ敢エテ之ヲ辞セズ」とある。開戦の1年前に、すでに対米英戦やむなしの情勢はつくられた、といっていいだろう▼太平洋戦争では、民間人を含めて約300万の戦没者があった、といわれている。 乱塾時代の子どもたち 【’87.12.9 朝刊 1頁 (全849字)】  子どもたちの教育はランジュク状態なんだと友人にいわれて、えっと聞き返した。爛熟ではなくて、乱塾なのだという。なにしろ塾に通う小中学生は全国で450万人を超えるそうだ▼文部省の調べでは、子どものために使う家庭教育費はさらにふえて、小学生は年間約9万3000円、中学生は約8万7000円である▼ここ10年で比べると、中学生の場合はとくに2.1倍にふえている。この間の消費者物価の値上がりは1.3倍だから、家庭教育費はかなりふくらんでいることがわかる。なかでも学習塾、家庭教師、けいこごとの費用が多い▼すばらしい塾もある。ものの考え方をきちんと教えてくれる塾もある。だから十把ひとからげにするつもりはないが、世の中にはあまりにも受験一辺倒の塾が多すぎるのではないか▼勉強に追われるあまり、子どもたちが運動不足になることはないか。土と親しむ機会が減り、遊び不足、自然体験不足になることはないか。点数主義に災いされて、自己中心的な協調心不足、探求心不足の人間になることはないか▼思う存分に遊ばせてやりたいが、ほかの子がみな受験勉強をしているのだし、いい学校に入れるためには仕方ないのだと親はいうだろう。しかし、教育費の重い負担にあえぎながら、子のためだといいながら、親が子の体や心をむしばむ、という場合があるだろう▼西武セゾングループ代表の堤清二氏が新入社員にこう説いていた。「最近は社会性を少ししか持っていない新入社員がふえているような気がする。自分と違う考え方や好みの人たちがいることを認め、そういう人とも仲良くやっていくという意識が十分でない」▼いい企業に入ることといい仕事をすることとは違う。ひよわで自己中心的なところのある受験秀才は、一流企業に入っても落ちこぼれる。いい仕事をするためにはやはり、子どものころのゆたかな生活体験がものをいうのではないか。 歴史を演出した米ソ首脳会談 【’87.12.10 朝刊 1頁 (全839字)】  米ソ首脳会談の様子をテレビで見ながら、朝の5時までつきあってしまった。INF全廃の条約調印のあと、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長が記念の万年筆をにこやかに交換するさまも、目をこすりながらとくと拝見した▼核の削減という歴史的な瞬間が延々と公開され、それを地球上の人びとが見守ったという意味で、これはマスメディアの世界でも歴史的なできごとだったろう。「歴史」を演出した歴史的瞬間だった▼ドラマの主人公は、カウボーイ姿の資本主義の巨魁(きょかい)ではなく、悪の帝国の帝王でもなく、1人は胸に白いハンカチをのぞかせた、魅力的な笑顔の「平和の使者」であり、1人は陽性で頭の回転がはやく、真新しい背広を着た紳士だった▼レーガン大統領が演説の中で、ロシアのことわざをもじりながら「信ぜよ、されど検証を怠るな」というと、ゴルバチョフ氏がすかさず「お得意のせりふですね」という意味のことをいい、会場がわいた。「好きなんですよ、この言葉が」といって大統領が笑い返した▼ドラマの題名は、アメリカ流にいえば『人質からの解放』である。核兵器を持つことで核兵器の人質となっては困ると大統領はいった。核削減は、財政赤字という人質からの解放をも意味するだろう。ソ連流の題名は『ペレストロイカ』だ。核兵器体系の改革は同時に、国内経済の改革に連動する▼2人が何回も演説を繰り返したのは、世界の人々に訴え、米ソ両国民に訴えることで、国際世論の支持をねらい、その支持を背に米上院の批准を手中にし、ソ連内強硬派を抑えようという意図があったからだろう▼メディアぐるみの、メディアを利用した国際政治のありようが定着した、という意味で今回の米ソ首脳会談は記憶されることになるだろう。ソ連の書記長は「理性の勝利」を強調したが、もし会談が成功すれば、それは「演出の勝利」でもある。 ユニセフの年賀状購入が子の命を救う 【’87.12.11 朝刊 1頁 (全846字)】  もしあなたやあなたのお子さんがユニセフ(国連児童基金)発売の年賀のはがきを10枚買えば、その純益が経口補水塩(ORS)の15袋分になって、開発途上国の何人かの子の命を救うことができるだろう。毎年のことだが、今年もユニセフの肩を持ってその仕事を紹介したい▼きのう発表されたユニセフの『世界子供白書』に、いまも世界中で約300万人の子が、きわめて安い費用で防げるはずの脱水症で死んでいる、という記述があった。きわめて安い費用、というのは経口補水塩のことで、「命の水」と呼んでもいい▼塩と砂糖、場合によっては栄養分もまぜた粉末を1袋10円ほどで買い、水にとかして子どもに飲ませる。それを飲ませるだけの簡単な療法だが、これが下痢性の脱水症に劇的にきくことが最近、わかってきた▼エジプトは、この命の水を与える療法をひろめ、年間10万人を超えていた下痢性脱水症による子供の死を半分に減らすことに成功した。ホンジュラスも同じ運動を起こし、やはり死亡者激減の成果をあげた▼この新療法のおかげで、年間約60万人の子の命が救われるようになったとユニセフはみている。さらに普及が進めば、年間150万人の子が下痢性の病気で死ぬことがなくなるともいわれている▼昨今は、「南」の諸国の対外債務がたまって、大量の資金が「北」の諸国へ逆流し、経済飢餓という現象が起こっている。そのしわよせで苦しむのは幼児で、下痢性の病気、急性の感染症、はしか、破傷風などで年に約1400万人の子が死んでいる。「静かな大量死」という状況が生まれている。そしてその背後には、栄養不良、環境の悪さ、医療の貧しさという奥深い問題がある▼「子供たちのための大同盟」を提唱するユニセフの仕事に共鳴する人のために、つけ加えておく。年賀状購入の問い合わせ先はユニセフGCO駐日事務所(03―582―6669)。 税金の無駄遣い 【’87.12.12 朝刊 1頁 (全843字)】  会計検査院の辻敬一院長が「今の役人の頭に、節約や効率という言葉はない」といっている。辻さんはまた「役人には、規則通りにという頭はあっても、もう少し安くあげられないかという意識がない」ともいっている。こういうのを辻説法という▼会計検査院の新しい報告書を読むと、相変わらずひどいことをしているなあと腹が立つ。中学校の用地取得のカネを過大に見積もって2億円近くも税金をむだにしている▼国立大学11校が米国製医療機器を買った。円高でずいぶん安くなっているのに、十分な値引き交渉をせず、少なくとも1億5000万円は節約できるのにそれをしなかった。自分のふところを痛める取引なら、こうもおうようではいられなかったろう▼日本道路公団は、土地の測量に使う新式の機材を導入した。これを使えば人手がうくはずなのに、旧式の機材を使う時の人件費を計上し、これで7000万円がむだになっていた。技術革新を進めながら人件費を減らさない、ということが続けば企業ならつぶれる▼会計検査院が各省庁や公団などの一部を調べただけで約214億円のむだ遣いがみつかった。しらみつぶしに調べれば、何百億、何千億円の税金がむだに使われていることがわかるだろう▼いや、あるいは不正に、不当に使われている税金は何兆円になるかもしれない。逆にいえば、節約をすればそれだけのカネがうくということだ。「倹約は大きな収入だ」というフランスのことわざがあった▼鉄建公団の不正経理事件に端を発した公費天国追及があってから、8年がたつ。そして行政改革がうたい文句のように繰り返されたが、はたして行政のむだ遣いのどこに、根本的な改革があったのだろう、という苦い思いにとらわれる▼税金のむだ遣いをすれば処分され、必ず返納をせまられる、節約すればなんらかの形で得をする。そういう厳しいおきてをつくれないものか。 落語が大衆芸能でなくなる? 【’87.12.13 朝刊 1頁 (全856字)】  人情ばなしが聴けなくなったと、東京のある席亭(寄席の主人)が話していた。人情が薄くなったからというわけでもあるまいが、お客にうけないから、自然と落語家が高座にかけなくなるのだという▼落語そのものが衰弱していく、という話も聞く。いまの寄席には、はなしを聴くよりも笑いに来る人が多い。まくらが一番うけている、などという光景をしばしば見受ける。まくらは本題への導入部だから、おもしろおかしくやってお客を引き込むわけだ▼落語はいうまでもなく、虚の世界を語る話芸である。右向いてご隠居さん、左向いてはっつぁんと、ひとりで何役も演じながら、1つの物語を作りあげる。そのあげく、すとんと現実に落として笑わせる。いまのお客にはこの道中が少々退屈なようだ▼むろん演者の力量にもよる。が、本筋に入ると、とたんに客席がシラけたりする。団体客の時などとくにめだつ。落語家によっては、漫談調のまくらだけでお客を沸かせ、そのまま高座を下りてしまうことがある。落語を演ずることを落語家の芸とするなら、芸ぬきで落語家をやっているようなものだ▼このことがいいかどうかは別にして、笑いの世界で芸が通用しにくくなったのは、やはりテレビのせいではないだろうか。バラエティー番組がいい例だが、芸人というよりタレントが、なま身の人間をさらけ出して何かを演じ、そこに起こるハプニングを視聴者と一緒に楽しむ。練りあげた芸はここにはいらない▼先年なくなった林家彦六(正蔵)さんから、1つのはなしで3回も笑わせたら多すぎると聞いたことがある。肝心のはなしをこわすというのだ。その時もらった名刺は、肩書が「噺(はなし)家」となっていて、横に小さく「俗に落語家という」とあった▼噺家ということばもなつかしいが、落語それ自体が大衆芸能でなくなる。そんな時代がそろそろ来るのかもしれない。新内や義太夫がすでにそうであるように。 土一揆元年 【’87.12.14 朝刊 1頁 (全843字)】  今年を「昭和土一揆(いっき)元年」にしたい、と東京・新宿の女性が熱っぽく訴えていた。地価高騰で高い相続税を払わされることになり、老後の生活設計がこわれた、という定年生活者の訴えもあった▼「とりもどそう・土地と住まいを」をうたい文句にした市民行動がきのう、東京で開かれた。あいにくの雪で、参加者はあまり多くなかったが、一同は地上げの跡のなまなましい西神田を行進し「土地を金もうけの道具にするのをやめさせよ」と訴えた。土地に恨みは数々ござるという人びとの声がようやく、本当にようやく街角に響くようになった▼衆参両院の土地特別委員会の審議の一部を速記録で読むと、かなり問題点があぶりだされていて、勉強になった。国土庁の奥野長官は「土地はできる限り公有が望ましい」「国会がまず率先して移転すれば、多極分散が進む」「土地取引の監視制度強化が遅かった」と答えている。正論である▼だが、不安なのは、政府の考えている地価対策が、もっぱら供給を進める策に傾いていることだ。投機的な土地取引をにらみすえる仕組みを強化せぬまま土地供給をあおれば、それはかえって地価をあおる結果にならないか。土地税制を緩和して土地の供給を進め、失敗した例が過去にある▼いまのところ、政府の地価対策には全体図がない。西独の連邦建設法なみの壮大にして細密な都市計画を作るのか、作らないのか。その計画づくりに市民を参加させるのかどうか。大土地所有者に対して保有税を強化するつもりがあるのかどうか。持ち家政策の転換をはかり、質のいい賃貸住宅を大量に造るつもりなのかどうか。さらに、極めて重要なことだが、遷都の決意があるのかどうか▼朝日新聞世論調査で、「土地の値段は下がることはない」と答えた人が74%もあった。土地の値下がりなしという神話を崩す政治を生むのは、結局は「土一揆」の力だろう。 名誉ある撤退 【’87.12.15 朝刊 1頁 (全859字)】  この秋、アメリカの旅をした目的の1つはジャイアントセコイアを見ることだった。地球上最大の生物、といわれるこの巨木は、アメリカ西部のシエラネバダ山脈の森に群生している▼セコイア国立公園内の「巨大な森の村」で何日かをすごした。村といっても、山小屋や雑貨屋や食堂があるだけだ。真っ赤な帽子をかぶったキツツキが深く澄んだ響きをたてている。リスが走る。クマの姿も、何回か見た▼人影のない森でジャイアントセコイアの群れに取り囲まれると、巨人国をさまよう心もとない気持ちになる。根元の直径が2メートルもあれば、私たちの常識では巨木だ。しかしシャーマン将軍と名づけられたセコイアは、それが約11メートルである。恐ろしい、という感じがある。高さは約84メートルで、樹齢は2500年から3000年といわれている▼数字では、天に向かって噴き上げる炎の柱のようなこの木の存在感を説明できない。「将軍」の前に立っていると、次第に恐ろしさが消え、巨神にぬかずくといった気持ちになる▼木のはだは明るい蒲(かば)色で、朱がまじったようにも見える。この巨木群が長生きしてきた秘密の1つは、皮にある。皮は極めて厚い。森には昔から山火事がつきものだが、セコイアは皮の厚さで火を防いだ。皮の中に含まれるタンニン酸にはすぐれた耐火能力があり、虫や宿り木をはねつける力もある▼火事に耐え、強風や豪雪に耐えてきたこの巨木群も、昨今は人間という強敵にあって困惑している。「巨大な森の村」に車で来る観光客がふえるにつれて、車の振動がセコイアの根を痛め、排ガスが環境を悪くしていることがわかってきた▼太古、大地の精、水の精、風の精が共同で制作したこの一大傑作を守り抜くために、国立公園当局が下した決断は見事だった。近く「村」を撤去し、影響のない地域に新しい村を造ることをきめたのだ。こういうのを名誉ある撤退、というのだろう。 韓国大統領選に与える大韓機事件の「陰」 【’87.12.16 朝刊 1頁 (全840字)】  「蜂谷真由美」なる女性が、韓国の金浦空港に降りるところをテレビで見た。白いテープを口にはられた異様な姿だった。自殺を防ぐためのものだろうか▼今回の大韓機事件と偽造旅券事件ほど情報の「過密」と「過疎」が同居している事件も珍しい。1日、バーレーンで「蜂谷真一」の偽造旅券をもった男が自殺して以来、さまざまな情報が乱れ飛んだ。だが核になる新しい情報はほとんどない▼大韓機は、どうして墜落したのか。空中爆発が原因だとすれば、それを仕掛けたのはだれか。その目的は何か。2人の「蜂谷」は何をしたのか。そもそも「真由美」とは何者なのか。偽造旅券はどのようにして作られたのか。事件の中で浮かんだ「宮本明」なる人物はどこにいるのか。なにもかもナゾのままだ▼日本政府が「真由美」の引き渡しを求めなかったのは韓国の国民感情を配慮したからだという。韓国の国民感情は理解できる。だが、外務省などには「偽造旅券を使ったのは明白なのだから、日本がまず身柄を引き取るべきだ」という声もあったそうだ。引き渡し要求せずの本当の理由はなにか。これもわからない。政府は、なっとくできる理由をきちんと説明すべきではないか▼韓国大統領選の候補者たちが、演説で大韓機事件にあまり触れなかったということは逆に、この事件の影の大きさを示すようなものだ▼候補者に向かって石や卵が飛び、催涙弾が爆発する、という騒然たる選挙だったが、一方では、歌あり、踊りあり、伝統芸能ありの楽しい雰囲気もあったらしい。韓国の共同体には、まつりの場(ナンジャン)にみなが集まって司祭者と共に祭りを楽しむ風習があると聞いた。今度の選挙にもそんなお祭り的な要素がなかったとはいえない▼そのお祭り的な「陽」の部分とは対照的に、大韓機事件は「陰」だった。この陰の部分が票の行方に影響を与えるだろうことは想像がつく。 「アジアの笑いばなし」 【’87.12.17 朝刊 1頁 (全861字)】  「野原がかわれば、バッタの種類もかわる。水の深さがかわれば魚の種類もかわる」。インドネシアのことわざだ。アジアの中でもタイとフィリピンとは違う、それぞれの国に独自の文化がある、という意味だろう▼このことわざを紹介している『アジアの笑いばなし』(松岡享子監訳)には、なぞなぞもある。(1)かんむりかぶったこのご婦人、なんとからだじゅう目だらけ(フィリピン)(2)鼻3つ、足10本、舌4枚、畑で1日ごくろうさん(スリランカ)▼(1)のパイナップルはわかるが(2)の「男が2頭の水牛にスキをつけて畑を耕しているところ」というのは難しい。4枚目の舌はスキだ。なぞなぞにも土のにおいがある▼笑い話の中には、鋭い風刺があり、アジアの笑い、アジアの心がわかって興味深い。貧しい暮らしの老人が金持ちに招かれた。ぼろをまとって行ったら相手にされなかった。次に招かれた時、老人は立派な衣装を借りて着た▼うやうやしくもてなされた老人はごちそうを取って、上着のそで口に入れた。そして上着にいう。「さあめしあがって下さい。私はあなたさま故に丁重にもてなされているのですから」と(イラン)▼この本を編集したのはユネスコ・アジア文化センターである。アジア各国の人がまずおもしろい話を英訳して東京に持ち寄る。議論を重ね50編ほどを選び、英語の本を作る。それを今度は自分の国の言葉に訳して出版する▼センターが今まで編集したアジアの昔話や児童文学選などは20点で、38種類の言語で出版されている。アジア人の心を結ぶ大切な仕事だ▼東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳に会った竹下首相は「文化交流をはかるセンターを新設する」と語った。そのことは大歓迎だが、既成のセンターの地道な活動にも目を向けてもらいたい。政府のもう少しの後押しがあれば、アジアのたくさんの子がもっと安い値段で、仲間の国のお話を読むことができる。 韓国大統領選挙 【’87.12.18 朝刊 1頁 (全853字)】  すべての道はホドリに通ず、の感があった。ホドリとは、ソウル五輪のマスコットになるトラの愛称だ。五輪の成功を願う心と政局の安定を求める心とは、かなり密接につながっていたはずだ▼東京五輪当時の日本では自分の生活程度が「中の中」だと答えた人が50%だった。中の上、中の下をいれると87%の高率で、中流意識が定着したことを物語っていた。ソウル五輪を前にした韓国でも、自分を中産階級だと感ずる人が60%だという。この新中間層の票が、大統領選の結果を左右したのではないか▼東京五輪のころ、日本は造船受注高の新記録を作り、その後の経済成長の速さを象徴するように新幹線が走り始めた。ソウル五輪前の韓国は、日本を抜いて世界一の船舶輸出国になり、国産車の生産が急成長している▼そういう変化の中で、盧泰愚(ノ・テウ)氏は己が「ふつうの人」であることを強調した。「偉大なふつうの人の時代」をうたい文句にした。質問されて「偉大な」は「時代」にかかるのだと弁明したそうだが、「ふつうの人」という宣伝文句を考えだしたのが選挙参謀なら、その参謀はふつうの人ではない。投票日前日に「蜂谷真由美」の姿をテレビの画面に映しださせたのも、これは並の才覚を超えている▼凡人キャンペーンのねらいは、脱権力主義、脱軍政を印象づけるためだったろう。6・29の民主化宣言を実行するためには、独裁的な権力者であってはならない。背広の似合うごくふつうの人だという宣伝で、新中間層の共感を得ようとしたのだろう▼そして、民主化も重要だが五輪前後の混乱は避けたいという心理、「変化を、されど安定を」と望む人びとの心理が与党を支えたのではないか▼とはいえ、金泳三、金大中両氏をあわせた票の方が盧氏の票を上回る、という事実を新大統領は無視するわけにはいかない。「安定を、されど変化を」という民心の動きを力で抑えるのは難しい。 ブロック塀から生け垣に 【’87.12.19 朝刊 1頁 (全840字)】  玄関先で立ち話をしていたところに強震があった。ブロック塀の上3段が帯状のまま倒れ、ものすごい力で立ち話中の女性2人を押し倒した。1人は首や後頭部の骨を折って亡くなり、1人は重傷を負った。今度の千葉県沖地震では、60人以上の重軽傷者があったが、ブロック塀の下敷きになったり、屋根がわらにあたったり、という例が多かった▼大地が揺れる。驚き、すくんでいるうちに重いブロック塀が倒れて来て頭を打つ。押し倒す。顔がつぶれてわからなくなる場合もあるという。9年前の宮城県沖地震では、ブロック塀や石塀の倒壊で16人の死者がでている。そばにいた人に危害を加えるだけではない。ブロックの破片が道路に散乱すれば車が通れなくなり、救助活動がまひする▼岩手の盛岡市も今年の1月、強震に襲われたが、ブロック塀の倒壊はなかった。市の担当者が丹念に検査をし、危ない塀に対して改修を申し入れる、鉄筋を入れて丈夫にする、という地道な仕事を続けたためだ▼秋田市では、4年前の地震で倒れたブロック塀が500カ所を超えた。市はその後、生け垣を奨励し、苗木を現物で渡す制度をつくった。今までに約850カ所がこの制度を利用、約2万本の苗木が植えられた▼人気のあるのはドウダンツツジで、ほかにイヌツゲ、マサキ、ムクゲなども植えられている。緑の生け垣がふえ、町並みの感じが変わった、といわれるほどになった▼東京・江戸川の区役所は、ブロック塀を生け垣にしたい家があると、出かけて行って測量し、樹種をきめ、面倒をみるそうだ。生け垣補助事業が成功している例だが、東京全体の成績、となるとかんばしくない。「いくら笛を吹いても、生け垣事業はのびない」という区の職員の嘆きもあった▼路上にある不完全なブロック塀は凶器になって、人を殺すことになる。道行く人を守るために、傍観者であってはならない。 「石にしがみついても」 73歳の俳優、宇野重吉 【’87.12.20 朝刊 1頁 (全852字)】  東京の三越劇場で、宇野重吉、滝沢修、大滝秀治たちが演ずる3つの一幕物を見た。宇野重吉が演ずるのは『馬鹿一の夢』である▼舞台を見たあと楽屋に寄ったら、宇野さんは横たわって栄養剤の点滴をしていた。顔をくしゃくしゃっとさせて笑った。3月に肺がんの手術をし、今は体重が41キロ程度だという。点滴を受ける腕はやせて、静脈が浮き立っていた▼何日かたって『馬鹿一』をもう一度見た。2、3日前から発熱があり、やはり点滴を打っての演技だった。しかしこの2度目に見た舞台は、声に張りがあった▼昔、宇野さんは書いている。「親が死にそうでも、その枕もとに居られるのは楽屋入りの時間までである。自分の発熱ぐらいで遅刻や欠勤が出来る筈がない」。そして、舞台に出た以上はできの悪さを病気のせいにするわけにはいかない、というところに舞台の恐ろしさがある▼20分足らずの小品だが、途中で激しく、せきこんだ。その突然のせきこみをあるがままに生かして、かえって貧乏画家のわびしさをにじませていた▼「石にしがみついても」というせりふが2回ある。最初は夢の中で会う美女に向かって、石にしがみついてもあなたをかくという。勢いこんだ、若やいだ口調である。夢がさめ、急に30年も年をとった感じになり、「僕は石にしがみついても、この道を歩いてゆきます」とつぶやくところで幕になる▼宇野さんの顔のことを「きびしいが、人を安らぎに誘ういい顔」と評した人がいたが、この幕切れの表情がそうだった。夢の中で有頂天になった自分をあわれむ心があり、なにかにすがる気持ちがあり、しみじみとした決意がある▼虚名を求めず、「いい仕事」を求めて石にしがみつく画家の姿に、観客は、石にしがみついてもと舞台に立ち続ける73歳の俳優の実像を重ねあわせる。宇野さんには、がん手術後の自分の生き方を、芸のこやしにしているようなところがある。 地価という名の鏡に移した世界地図 【’87.12.21 朝刊 1頁 (全836字)】  コペンハーゲンの遊園地に「鏡の家」という建物がある。中に入るとさまざまな鏡があり、その前に立つと、どんな美形も顔が横にふくらんだり、短足になったりしてすましこんではいられなくなる。鏡によって、人間はかくもゆがんでしまうものかと感心しながら、人は己の姿を笑い飛ばす仕組みになっている▼「地価」という名の鏡に世界地図を映すとどうなるか。国土ではアメリカの25分の1ほどの日本列島の姿がみるみるふくらんで、アメリカの2.5倍にもなってしまう▼今回の経企庁の報告によると、日本の土地の値段は、1308兆円にもなる。これは公示価格や固定資産税評価額をもとにして、かなり複雑な操作ではじきだしたものだ。国公有地の場合は、財産台帳の中の資産額を使っている。いずれにしても、実勢価格で計算すれば2.5倍どころではないだろう▼この病的なふくらみようを、「鏡の家」でのように笑い飛ばすわけにはいかない。鏡の中のゆがんだ世界地図こそ、地価大国の貧しさを象徴している。アメリカの2倍半にもなる地価総額の重さに、多くの日本人は押しつぶされそうになっている。地価高騰を嘆いてみせる政府首脳たちは、日本の国土のこの怪物的な異様さを、どれほど切実に感じとっているのだろう▼世界地図を映す鏡は、さまざまな形で国力のありようを教えてくれる。経企庁が作成した『日本の総合国力』によると、日本の経済力、金融力、科学技術力はまあまあだが、エネルギーの自給率になると、世界地図の中の日本の姿はぐんと小さくなる。食糧自給率でも、そうだ▼さらに、国際貢献能力の指標になる「対外活動への合意」でも、西欧諸国に比べて見劣りがする。経済協力費のGNPに対する比率が低いし、民間組織の海外援助活動もまだまだ低調だ。鏡に映しだされた世界地図の中の、われらが国の姿のゆがみを直視したい。 冬至の季節 【’87.12.22 朝刊 1頁 (全840字)】  数年前、浅草観音の年の市で柚(ゆず)の苗木を求めた。まだ実をつけるほどには生長していないが、葉をもぎると、葉っぱにも柚の香りがある。しみじみとした、あたたかみのある香りだ▼冬至にはかぼちゃを食べる、こんにゃくを食べる、大根の輪切りを食べる、というならわしがある。かぼちゃを食べると中風にならない、小遣い銭に不自由しなくなるといわれたものだ。今でもこのならわしは絶えていない▼わが家は冬至ととうなすには縁がないが、柚湯には入る。柚湯に入ると体が温まってかぜをひかない、といわれているが、これは一陽来復を念ずるみそぎの名残だという説もある。香気が邪気を払うということかもしれない▼一陽は、易でいう陽の気である。冬至の日を境に、陰の気がきわまって陽に転ずる。日あしが少しずつ伸びる。昔の人が夏至よりも冬至を大切にした気持ちがよくわかる。この日には聖なる人が村を訪れるという伝説が各地にあって、サンタクロース伝説と重なる。聖なる人が「一陽の春」をもたらしてくれる、と昔の人は信じたのだろう▼「柚子湯してあしたのあしたおもふかな」(黒田杏子)。日あしが伸び、光の季節は春に向かうが、寒さはこれからだ。厳しい寒さを越えなければ万物をよみがえらせる春は来ない。一陽の春は、あしたには来ない。けれども、あしたのあしたには、来る。そんな思いがこの句にはある▼北海道の冬のことを、作家の原田康子さんが書いている。寒さがきつい日は雪道のきしむ音が高く聞こえる。牛乳が凍って盛りあがり、瓶のふたがはじけ飛ぶ。北ぐにが最も北ぐにらしくなる季節だ、と原田さんは書く▼「雪のけはいに包まれたクリスマスの夜は、祈りに似た感情をおぼえることがあります。わたくしが冬を好きだと申しますのも、人を思索的にする静けさ、きよらかさがこの季節にあるからです」(イースターの卵)。 難民救済のため「犬養基金」に協力を 【’87.12.23 朝刊 1頁 (全847字)】  ヨーロッパから帰国中の犬養道子さんが、難民救援のための全国行脚をし、評判になっている▼66歳の身を酷熱のアフリカにさらし、体あたりで難民の惨状を見、救援活動を続けている人の発言だ。迫力のある話だった。きのうは東京・築地の朝日ホールで昼夜2回、犬養さんは語った。各地の講演の主題の1つは「心を開こう」ということだ▼難民キャンプの鉄条網の中にいたカンボジアの少年がいったという。「鉄条網のない生活にあこがれて日本に来たけれども、ここにも鉄条網があった」と。私たちの心の中には目に見えない鉄条網があるのだ▼難民に対して部屋を貸したがらない。進んで日本語を教えてやる人が少ない。働き口がない。学びたいのに学校へ行けない。管理の中に入りきれないものを捨ててゆく社会のしくみについて、心の鎖国について、犬養さんは憤りをこめて語った▼たとえばアフリカの難民のために1枚の毛布を送る。食糧を送る。それはいい。だが、毛布や食糧をその国に運ぶ運賃はどうするか。さらに現地に運ぶトラックがいる。ガソリンがいる。運転手がいる。食べるにはマキがいる。水がいる。乱伐地に苗木を植え、井戸を掘る。それをどうするか▼そういうことを全部考え抜いた上での毛布や食糧でなければ本当の援助ではない。それは1人の力ではむりだが、組織を作ればできる。カネを出す人、組織を動かす人、現地で働く人の共同作業でできる。心を開くとは、大同団結してことにあたることでもあるだろう▼たとえば500人の子が1つの組をつくり、1人が月100円ずつ出せば5万円になる。それを3年続ければ難民の子1人を高校に通わせることができる。「犬養基金」はそういう考え方で仕事を続けている。「正直いって、おカネがほしい」といって犬養さんは笑った▼どの講演会でも、たくさんの人が募金をした。築地ではその額が100万円を超えた。 男優女立の時代 63年のニュースの主役たち 【’87.12.24 朝刊 1頁 (全840字)】  岡本綾子さん、俵万智さん、マドンナ、山東昭子さんと数えあげると、今年のニュースの主役はやはりというか、またしてもというか、女性たちだった▼流行語になった「マルサ」も、映画の看板娘は女優宮本信子さんだ。あれが「マルサの男」ではさまにならなかった。「マルサの女」が「マルセの女」になると選挙に強い女、選挙運動をする女になる。4月の地方選挙ではマルセの女たちが各地で堂々たる実力を示した▼米女子プロゴルフツアーで賞金女王になった岡本綾子さんは「こんなうれしいことはもう一生ないでしょう」といった。同じゴルフで山東昭子参院議員はどじをふんで委員長の座を降りた▼俵万智さんの『サラダ記念日』がミリオンセラーになり、時代の花になった。「寂しくてつけたテレビの画面には女が男の首しめており」▼女優三原じゅん子さんは私生活を撮られたことに怒り、カメラマンの上に馬乗りになって髪の毛をひっぱった。エジプトのサーカス団が飼っていたトラが2歳の子をオリの中にひきずりこもうとした。その子の母親がかけつけ、トラの前足にかみついて子を救った▼アイドル後藤久美子さんの『ゴクミ語録』には「ゼンゼンムシムシカタツムリ」「口がヒマワリになっちゃう」といった表現があっておもしろい。「トロイヤツは殴る。ホントだよ」ともあった▼超一流をめざしてがんばる女性の中に「スーパーウーマン症候群」というのがあるらしい。きびきびと働く女性が「しば漬け食べたい」とため息をつくコマーシャルには時代のにおいがあった▼東京駅を守ろう、と訴え始めたのは主婦たちだった。資産運用に乗り出す主婦もふえた。大卒女子の就職率がぐんと上昇した。スカートのすそも上がり出した。一方、新入男性社員のための化粧教室がにぎわっている▼男優女立の時代だという。この場合の優は優位ではなく、やさしいを意味する。 海外に飛び火する日本の土地問題 【’87.12.25 朝刊 1頁 (全841字)】  今年になって、この欄で地価高騰のことにもう20回以上も触れてきた。土地の問題はもうたくさんだといわれそうだが、あえてまた書く▼先週の社会面に、ハワイのホノルルに住む人の談話があった。「日本人による最近の集中豪雨的な不動産買い占め攻勢で、日本人は迫害者だ悪者だというイメージが定着するのを心配します」と。業者の不動産買収はかなりのものなのだろう。おかげでアパートの家賃がはねあがったと嘆く人がいる。嘆きはいつか日本人への憤りになる▼竹下首相は国会で「内政上の最大の課題の1つは土地対策だ」と断言した。日本の土地問題はしかし、海外に飛び火している。ホノルルの例のように、国際摩擦の対象になりつつあることを指摘しておきたい▼それはそれとして、首相は内政上の課題としてまずどんな手を打つつもりなのか。そう思って来年度予算の大蔵省原案を見守ってきたが、いまのところ、いい点をつけるわけにはいかない▼首相は「緊急土地対策要綱を着実に実施する」と公約した。要綱の柱の1つは、土地取引の規制を強めることである。監視区域をひろげ、地価凍結の準備をすることである。この公約をはたすには当然、思い切って予算をさく決意が必要だろう。だが、大蔵省原案からはその決意が伝わってこない▼早めに規制を強め、いつでも凍結に踏み切れる準備をするには、かなりの人員とカネがいることは承知している。だが、首相が約束している以上、かけ声だけでカネをださぬというわけにはいかない。質がよくて安い家賃の公的住宅をいかにふやすかという点でも失望した。首都圏での公営住宅建設戸数はむしろ下降ぎみだという▼首相は「うるおいのあるまちづくり」を説く。現実には、地上げ攻勢に脅かされる神田っ子の「日本の社会は恐ろしい」といううめき声がある。向こう3軒両隣の人情は、待ったなしで破壊されている。 朝日・ハリス「5カ国世論調査」に見るソ連観 【’87.12.26 朝刊 1頁 (全864字)】  サッチャー首相が、ソ連のゴルバチョフ書記長を英国に迎えた時「偉大な勇気を備えた人だ。断固として改革を進めるだろう」といって励ましている▼サッチャーさんがペレストロイカ(改革)路線を歓迎するのは、それがいずれは経済協力の問題にはねかえり、西側の利益になるという現実的なヨミがあるからだろう。そこには先入観に縛られない柔らかさがある▼西独では、今年ホーネッカー東独議長の歴史的訪問があった。この訪問がヨーロッパの緊張緩和に与えた影響は大きかった。西独の人びとは、東独議長訪問の背後に、ゴルバチョフ氏登場後のソ連の変化を見たらしい▼中距離核戦力(INF)の全廃調印をめぐる『5カ国世論調査』を読むと「この結果、緊張が緩和される」と答えたものが、英68%、西独66%、仏54%、米51%である。日本の35%よりも英国や西独が高率をしめした背景には、東西首脳の交流、という事情がある▼米ソ首脳会談のあと、レーガン大統領はいった。「過去のソ連の指導者は世界を共産主義の国にする目的を明らかにしてきた。(ゴルバチョフ書記長には)そんな感触がなかった」と。書記長もまた「私の対米観も変わった」と答えている▼各国首脳の対ソ観、対米観の変化が『5カ国世論調査』の結果には微妙に反映している。だが、日本の世論は、欧米に比べると否定的な色合いが濃い▼緊張関係は変わらない、というものが50%もいるし、ソ連への不信感が信頼感を上回ったのも日本だけだ。北方領土問題がその底流にはあるだろう。だれが何をしたってどうせ変わらないさ、という無常感的冷笑主義もあるだろう▼ただ、若い人の場合はやや違う。「ソ連はこれまでより信頼できる」と答えた人は全体ではわずかに34%だが、20歳代は40%を超えている。「SDIは有効に機能しない」との答えは日本人全体では42%だが、20歳―24歳ではこれが62%にはねあがっている。 「本屋さん」 【’87.12.27 朝刊 1頁 (全845字)】  東京・新宿区の1軒の本屋が、さきごろ店を閉じた。店主は80歳、終戦の翌年からの店だった。表に「閉店ごあいさつ」の張り紙があり、こんなことが書いてあった▼「昭和50年ごろから出版界の知的傾向が急速に変わり始めました。漫画本の大流行、文学書の内容低下と大量出版、単行本の売れ行き不振、雑誌のめまぐるしい創刊と廃刊、そして最近は本の宅配便。40余年、本が好きで、本に囲まれて暮らしてきた者として、こんなにさびしいことはありません」▼ことしは本屋の様変わりが激しかった。取次店や大手書店が宅配業者と組んで始めた本の宅配便は、全国に広まった。電話やはがきで注文すると、早ければ翌日に届く。外出しにくい人には、これは便利だ。しかし、町の本屋にすれば、それだけお客を失うことになる。老書店主を嘆かせたのもむりはない▼郊外型書店がふえたのも一つだろう。従来の本屋の5、6倍もある大きな店が、町はずれの幹線道路沿いにできる。お客は車でやってくる。深夜まで営業しているところが多いから、これも便利だ。経営者には不動産業、パチンコ店、ガソリンスタンドなど、いわゆる異業種の人が多いそうだ▼商品複合化というのも進んだ。文具、レコード、ビデオテープなどはごく当たり前で、海外旅行用品、健康食品、キャンデーなどもいっしょに売っている。映画、演劇のチケットを売る店もある。一番の人気商品はテレホンカードで、本の売り上げの半分近くをこれでかせぐところもあるという▼極め付きは文庫本のコンビニエンス・ストアへの進出だろう。雑誌や漫画に次いで大手の新刊文庫が、ことしの夏から全国約4000店のコンビニエンス・ストアに配られている。「カップラーメンを買う感覚で気軽に」というのがねらいらしい▼これをコンビニエンス(便利)時代というのだろうか。ますます「本屋さん」の出る幕がなくなる。 島根県の「ふるさと喪失」 【’87.12.28 朝刊 1頁 (全862字)】  ふるさと創生を掲げる竹下首相はご自身のふるさと島根で進んでいる「ふるさと喪失」事業の有り様と、それに対する疑問の声をご存じだろうか▼美しい落日の風景で知られる松江大橋に立つと、西に宍道湖、はるか東に中海。合わせて日本第2の大湖だ。湖水は日本海の満ち干にしたがって流れ、塩分を微妙に含む▼この中海の4分の1を干拓し、生まれる農地の用水を得るため日本海との水路を閉め切って両湖を淡水化する。そうした工事が農水省によって始められたのは38年だった。開田による食糧増産が国策とされた時代だ▼それから今日まで、米が余り、減反で水田をつぶすのが国策となっても、720億円をつぎ込んで工事は続けられた。新年度には予算案に60億円が盛られ、一部で営農できるようになる。あとは、水門を閉じさえすれば、淡水化が始まる▼しかし、事業の見直しを求める住民の声は高まっている。古代出雲の歴史的遺産に調和した水辺の景観を守りたい、という県条例制定請求の署名がこれまでに15万人を数えた。必要数の13倍、沿岸10市町では有権者の半数にのぼる▼その主張は、はっきりしている。(1)干拓でできる農地の3倍の水田がことし県内で減反された。事業の目的はとっくに失われている(2)干拓農地の価格は高く採算がとれない。どんな作物をつくったらいいのか県も決めかねているほどだ▼(3)淡水化すれば湖が汚れ、アオコが発生するのは、茨城・霞ケ浦の前例などもあり、県も認めている(4)試しに3年間、水門を閉じたいという農水省の妥協案でも、稚貝をふくめ全国生産の9割を占めるヤマトシジミは繁殖を妨げられる。シジミ汁が日本の食卓から姿を消すかもしれない▼竹下さんは実は4年ほど前、問われてこう語ったことがある。「えっ、シジミもだめになるの。知らなかったな。これからよく勉強しますよ」。まだ間に合う。勉強の成果を聞かせていただけまいか。 来年こそは体罰をやめて 【’87.12.29 朝刊 1頁 (全836字)】  来年のことをいっても、もう鬼は笑うまい。そこで来年こそは、と小、中、高校の先生がたにお願いがある。子どもたちへの体罰をやめてもらいたい▼首都圏のある中学では、体罰に名前がつけられた。「モミジ」は、上半身を裸にした生徒の背中を先生が5本の指を広げて平手打ちする。跡がモミジのようになって、痛みは1週間続く。「つねり」は主に女の先生のやり方で、両手の指で目の下をつねるのが「たれ目」、ほおをつねると「ペコちゃん」▼足でけとばす「けり」は、男の先生に一番人気がある。「ビンタ」された子は大声で「ありがとうございました」というのがルールだ。体罰の理由は忘れ物をした、忘れ物をした生徒に教材を貸した、反抗的な顔をした、テストの成績が平均点以下だった、黒板に書かれた以外のことをノートに書いた、白以外の靴下をはいた、などなど▼心が寒くなる。こんな場所を「学校」と呼んでよいものか。しかも、この中学だけがそうなのではない。61年度に体罰が原因で処分された先生は167人。これまで最多の前年度の125人を大きく上回ったが、これは氷山の一角、と文部省も認めている▼教室での先生の苦労は、よくわかる。手に負えないと感じる子もいるだろう。言葉による指導に限界を覚えることもあるかもしれない。しかし、子どもを殴って従わせるのなら、専門家としての先生は必要ない▼学校の外でこうした暴力行為が起これば、たちまち警察ざたになる。学校の中だから構わない、という理屈は立たない。なにより体罰は学校教育法で明確に禁じられている。体罰を認める意見が先生の間にもあるようだが、それならば学校教育法の改定運動から始めるのがスジだ▼『エミールと探偵たち』の作家ケストナーは、こんな意味のことを書いている。「8歳の子どもの悩みも80歳の大人の悩みも、同じ重さを持っている」 伊豆の孤島で学ぶボランティアの若者 【’87.12.30 朝刊 1頁 (全855字)】  東京都青ケ島村は、伊豆諸島のなかでも、人が住む島としては最南端にある。人口200人弱。全国でも一番小さい村の1つだ。宇野道子さん(26)が、この島に来たのは今年5月▼何しにきたかを、はじめ島の人たちはなかなか理解できなかった。前にも1度紹介したことがあるが、日本青年奉仕協会という団体の「ボランティア365計画」で派遣されてきたのだ▼若い人たちに、普通ではしにくい体験の機会を通して、人間的成長をとげてもらいたいとの趣旨で、全国の福祉施設や過疎地などに、1年間送り出している。岡山県で看護婦をしていた宇野さんも病院をやめて参加した▼地元の学校を出、地元で勤めて4年。どうしても、初めの情熱はにぶってくる。その自覚が「思いきって、全く違う場に自分を投げこみたい」という気持ちにさせた。そして山間育ちの宇野さんに与えられたのが、この孤島だった▼村では、計画の趣旨を体して、何をしてほしいと注文をしなかった。自分で役割を見つけねばならず、初めは悩んだという。だが、台湾人の老医師が守っている村の診療所の手伝い、寝たきりのお年寄りを訪ねての世話。それがいまの宇野さんの主な日課だ▼「看護婦でも、狭い経験しかなかったので、慣れないことが多くて。でも地域医療の本当の意味が分かってきた気がします」。失いかけた自分の職業への意欲がより広い視野の中でよみがえってきているようだ▼もう1つ、声はずませていうのは「たくさんの人と会えた」喜びである。村では、みんな顔見知りだ。人口が多い土地ほど逆に人間同士のつきあいは薄い。人と触れ合うことなしに、どうして人生が分かるだろうか▼海中に孤立し、過疎なればこそ、人びとは助け合い、親しみ合って生きているといえる。協会は募集中の来年度分から、こうした島への派遣を増やすという。若者が学ぶ場は学校以外にも探せばいくらでもある、といえそうである。 12月のことば抄録 【’87.12.31 朝刊 1頁 (全841字)】  12月の言葉抄録▼来年度の防衛費は大蔵省の原案で早くもGNP比1%枠を超えた。「この円高の時代、1%以内に戻そうと思えばできないことはない。2年連続で1%を超させる、ということに意味があったのだろう」と軍事評論家の前田寿夫さん▼「予算上の『思いやり』というものが、日本の弱者にではなく、在日米軍にという形であらわれているのも、国民感情としては納得しかねる」と東京経済大、宮崎義一教授が語っている▼防衛費が伸び、米軍駐留費がふえたことについて小渕官房長官がいった。「米国からも率直に評価してもらえると確信している」。いくら米軍にいい点をもらっても、米連邦議会にはいい点をもらえぬまま軍拡が進むという構図がいつまで続くのだろう▼「ロン・ヤス関係と別に、日米間の経済衝突は5年前の『戦後最悪』よりもっと悪くなった」と京極純一千葉大教授が批判している▼「私たちは歴史を作った」とレーガン米大統領。8日、米ソ両首脳は中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した▼「米国の極右は、他の保守主義者らも巻きこんで、ソ連の軍事的優勢をいい立ててきた。それが穏健派をおどし、対ソ関係の改善を妨げてきた」とニューヨーク・タイムズ紙▼米ソ首脳会談のさなか、ミッテラン仏大統領がいっている。「軍縮に逆行するプログラムは、経済を破壊する」▼アメリカの核問題月刊誌が、表紙に掲げている「運命の日の時計」を3分間だけ戻す。核戦争による破滅の日までは「6分前」になった。戻し幅がわずかなのは「戦略核兵器などの課題が積み残しになったままだから」▼「文語体の伝統と口語体の実験とを兼ね備える天衣無縫の文体をあやつった。その点では明治維新以後第一でしょう」。亡くなった石川淳さんについて丸谷才一さんが語っている。野性のものたちを愛し、山の中に残る古い日本を愛した椋鳩十さんも死去。 時には南の島の巨神の目で己の姿を見つめてみたい 【’88.1.1 朝刊 1頁 (全776字)】  東京から南へ約1200キロ飛ぶと硫黄島に着く。さらに東へ約1200キロ飛ぶと南鳥島だ。数日前、本社「千早」機でその日本最東端の島へ行った。いまは住民はいない。自衛隊員11人と気象庁職員17人が共同で暮らしている▼島にはモンパの木が茂り、グンバイヒルガオが咲いていた。寒冷の地の方には申し訳ないが、若い人たちと一緒に人語子も海で泳いだ▼珊瑚(さんご)礁の内側、つまり礁湖に浮かぶと、白地に黒い横じまのあるシマハギの群れがやわらかな身のこなしで歓迎してくれた。大きな青い魚の群れが礁岩の藻をつっついている。帯のように細長い銀白色の魚が遊泳している。珊瑚礁の海に来るたびに思うのは、海のもつ命のまばゆさである▼翌朝、日の出を見た。南の島の夜明けにはなまめかしい、という感じがある。風がなまあたたかい。闇(やみ)の中でごうごうと海が鳴り、珊瑚礁に砕ける白波がおぼろげに見える。やがて薄墨色の雲の小さな裂けめから珊瑚色の光がにじみでてくる。光と雲が天空にむつみあうさまがしばらく続く▼ポリネシアには巨神タネの天地創造の話がある。タネは貝が閉じた形の天と地の間に入って天を押しあげたという。そして闇が光に変わり、青い空、青い海、緑の島が生まれた。南鳥島の夜明けの儀式に立ち会って、天を押しあげている巨神の姿を思い描くのは楽しかった▼世阿弥の書に離見という言葉がある。見物人の目で舞台の己、己の後ろ姿を見る、ということだろうか。宇宙の目で人間の小さな営みを見るのも離見の1つだろう▼1988年の日本はやはり、せちがらく、緊張過多で過ぎてゆくだろう。米軍の沿岸警備隊員20数名と共に、焼きそばを食べて新年誕生の瞬間を祝ったはずである。 角界の体質にも原因ある双羽黒廃業事件 【’88.1.3 朝刊 1頁 (全842字)】  横綱双羽黒の廃業事件には、なんともすっきりしない思いが残った。去年の10月には双羽黒の付け人6人の脱走事件があった。今回の横綱の雲隠れがおおごとなら、あの集団脱走はもっとおおごとではなかったのかと思う。相撲協会の幹部はなぜあの時、あの事件を問題にしなかったのだろう▼こんどの事件は、相撲界というみごとに構築されたタテ社会をゆるがす問題だ、といわれている。たしかにそういう一面はあるだろう。横綱という権威が、師匠や師匠夫人の権威に反抗して、憤然として席を立った。しかも夫人を手で振り払った時にけがをさせた。タテ社会を維持するための権威を大切にするこの世界では、こういう反抗は許しがたいものなのだろう▼だがしろうとの目には、付け人脱走事件のほうがより底深いものを感じさせる。付け人に加えられた暴力は、今回とは比べものにならぬほどきついものだったらしい▼けいこの場でのしごきは覚悟していても、日常生活でのわけのわからぬげんこつは我慢がならぬ、と付け人の1人がいっていたそうだ。理不尽な暴力に耐えかねての反抗だったろう▼格闘技の修行に荒々しさはつきものだ、ということは承知しているが、相撲界では一般に、けいこの場以外での「むりへんにげんこつ」が多すぎるのではないか。それが実際にどのていどのものなのか私たちにはわからない。あの脱走事件はそのわからない部分をほんの少し、のぞかせてくれた▼相撲の世界の古いしきたりにはむろん、残したほうがよいものがたくさんある。だが命令には黙って従えというしきたりにしがみついていると、それに対応できぬ新世代の若者がますますふえる恐れがある。真の権威を保つためにも、「むりへんにげんこつ」的な体質を考え直す時にきている▼角界が集団脱走事件にきちんと対応しなかったことが、今回の事件の遠因になった、と思えて仕方がない。 本当に幸せですか 【’88.1.4 朝刊 1頁 (全851字)】  あなたは今、幸せだと思いますかという問いに78%の人が「思う」と答えた。本紙世論調査の結果である。そのくせ過半数が、自分の暮らしはゆたかではないと思い、老後に不安があると答えている。幸せ派が多いからといって、万事めでたしというわけにはいかない▼元日付の紙面にスペインに住む作家、堀田善衞、遠くから祖国を見ると「大きなザルのなかで豆が26時ちゅう揺さぶられている」ように見える、と書いている▼「今日の日本社会で、仕合わせというものが、どういう人間の在り方に対して報われるものなのかさえが、多忙と社会変動の激しさにまぎれて、考えにくいことになってしまっているのではなかろうか」と重要な指摘をしている▼堀田さんは、1台のギターを作るのに17年をかけたスペインの職人の話を紹介し、それをやりとげた時の仕合わせの感について書いている。筆者も、飛騨で1軒の邸宅を建てるのに12年もかけた名工の話を取材したことがある。明治のころの話だ。名工はその仕事に精魂をこめた末「よう気長うやらせて下さった」と当主に頭を下げる▼そこには深い充足感があったろう。だが、12年間、家族は赤貧の中にあったという話もきいた。己の幸せが他の犠牲を強いることがある、というところに人のかなしさがある▼四国のへんろ道で70すぎの老人に会ったことがある。妻には先立たれた老人は、港湾で荷揚げ作業をし、カネをためては四国に来てのんきに歩いている、といった▼「べつに自分がしあわせになるなんてえこと、そんなこと願かけねえでもいいと思うんだね。自分1人しあわせになったって何もならねえ。世の中、みんながよくなれば自分もよくなるんだからね」。老人はそういった。己と己以外の人の心の充足について考えている人の言葉だったように思う▼改めて「今は幸せ」派約8割という数字を思う。あなたはしかし、本当に幸せですか。 学歴社会のなかの孟母たち 【’88.1.5 朝刊 1頁 (全841字)】  おとなたちの仕事始めはきのうだったが、受験期の子どもたちには正月はなかったかもしれない。民放テレビの「ゆく年くる年」も、大みそかの真夜中から元日にかけ、一室で連続テスト攻めにされている小学生の集団を中継していた▼中国の小学4年生が、母親に4時間も棒でたたかれ死亡したと、旧冬の新聞が伝えた。期末試験の算数と国語の成績が90点に満たなかったためで、「息子の立身出世を願う」母親のもと、少年は家にいても遊ぶ時間もなかったという。孟母(もうぼ)ではなく猛母だ▼ただ、日本の親もきびしい。通知表を親に見せたときの「一番ひどいしかられ方」を小学5、6年生に聞いた調査によれば、「家に入れてくれない」「コラ! バチン」「ほうきでたたかれた」といった回答が並び、「包丁で脅された」と書いた子までいた▼「先生が使っているトラの巻を特別に売ります」と、中学生の親を電話で勧誘する商売があらわれたそうだ。教科書会社でつくっている教師専用副読本には、教え方や試験のやり方、解答をこと細かに説明したものがある。「これさえあれば、先生がどこを試験に出して答えは何か、たちどころにわかります」が業者の殺し文句。3年分をまとめて購入するのが条件で、30万円もする▼「答えの丸暗記だから、あまりよくないことは、わかっている。でも、内申書でいい点がつかないと始まらないもの」とある母親はいった。トラの巻をグループ買いする孟母たちもいると聞いた。1セット買って、あとはコピーするのだという▼学歴社会のただ中、この母親たちの言葉や行動には、せつなさ切実さもにじむ。批判する資格がある人は、少ないのではないか▼三が日、各地の受験の神様、天神は初もうでの人たちでにぎわった。ここにいる全員が合格するはずは絶対にない、とわかっていて祈願するわれわれは、では何を信じているのだろう。 入院患者にも化粧の自由を 【’88.1.6 朝刊 1頁 (全835字)】  入院生活を送っている人々にも化粧の自由を、という声が東大病院の一角から聞こえてきた。看護職の専門誌『看護展望』の巻頭で飯尾正宏東大教授(放射線科)がこう提案している▼「せめて土曜の午後と日曜には、患者さんが病んだ素顔を知友に見せないですむような優しい心くばりはできないものだろうか。化粧は患者の気持ちを支える1つの大切なポイントではないか」▼入院したら「素顔で寝間着姿」は日本では常識のようだが、外国は必ずしもそうではないらしい。脳卒中で倒れた80歳の実母を入院させたクロムランク・吉田悦子さん(在ベルギー)はその時の体験を『福祉のひろば』誌にこう記している▼「入院とあってあわてて寝間着を買い込んだ私は、病院から『できるだけ明るい色の洋服と靴、そして化粧道具とオーデコロンをもってきてください』と言われました。毎朝看護婦さんがきれいにお化粧してくれて、長い髪も結い上げてくれます。病気以前よりずっと若々しいのです」▼検査手段の乏しかった昔は素顔のままでなければ貧血や黄だんを見誤ったかもしれない。だが、検査の進歩した現在はそんな心配もまずない。飯尾さんが病棟の看護婦さんたちに「もしあなたが入院したら…」と尋ねると「薄い化粧ぐらいはしたい」という答えが返ってきた。入院中の女性たちは「素顔のままで見舞客に会うのは苦痛」と訴えた。それが、化粧の解禁を提案したきっかけだった▼目下のところは放射線科病棟での、それも土日だけの改革だが、その理念は全国の病院にじわじわ伝わっていくだろう。考えてみると自宅にいれば当たり前なのに入院すると奪われる自由は他にもたくさんある▼例えば日中を寝間着姿で過ごさない自由、眠れぬ夜に読書をする自由、ベッドから電話をする自由……。これらを奪うことが本当に必要なのかどうか点検してみてはどうだろう。 星の時間 【’88.1.7 朝刊 1頁 (全845字)】  ことしは閏年(うるうどし)で、1年366日。1日24時間の366倍と考えると、案外長いような気がしてくる。しかし、元日から今日で、すでに1週間。これをあと51回繰り返すと、ことしもほぼ終わるのかと思うと、こんどはばかに短いように感じられるから、不思議なものだ▼時計の針の刻む1分の長さは、今日も昨日も変わらぬはずなのに、主観的な時の長さは、どうも一様ではない。子どものころの1年は、ずいぶん長かったが、とだれしもが思う▼10代、20代、そして50代と年齢を重ねるにつれて、時間の方はどんどん速くなっていく。「年齢と時間の間にも、相対性原理が働いているのだろうか」という熟年の嘆きもうなずける▼時間の長短は、なにも年齢だけにかかわるものではないらしい。文化とも密接にからんでいるように思える。西欧に住んだ人が、日本に戻ってくると、たいがい「忙しい」という感想をもらす。ある友人は「東京でひとと食事すると、テンポが合わなくて困る」とこぼしていた▼食事の途中にふと周りを見ると、みんなはもう食べ終わっていて、いつも1人だけ取り残されてしまうというのだ。西欧なら昼食にほぼ1時間かけるのも普通のことだが、わが国ではその何分の1か。ある日、社員食堂ではかってみたら、大体7、8分。10分間すわっている人は長い方だった▼忙しさは確かに活力の源である。みんなが未来の目的に向かって競走すれば、エネルギーが煮えたぎり、生産性は向上するだろう。しかし、そのためにわれわれは「現在」を犠牲にしすぎてはいないか▼「瞬間よ、とまれ。お前はあまりに美しいから」。これはゲーテの『ファウスト』の主題の一句である。「個人の生活にも、また人類の歴史にも、運命的な一瞬、いわば星の時間がある」といったのはツバイクだった。毎日息せききって「星の時間」を見失ってはつまらないと思う。 面白時代 【’88.1.8 朝刊 1頁 (全850字)】  新春の本屋をのぞいて、ことしも「面白時代」かなと、あらためて思った。「面白」とつく本がやたらと目につくのだ▼「語源おもしろ話」「英会話面白知識」「武田信玄おもしろ事典」「オモシロ健康ガイド」「日本酒おもしろ雑学事典」「お天気おもしろ読本」……。取次店のコンピューターに打ち出してもらったら、100点を超えた▼流行のグルメに関する1冊を開いてみる。「ともかく食べる前に一席ぶちたい人のために」という章があって、がんもどき、だて巻き、大学いも、シャリアピンステーキ、ハンバーグなどの故事来歴が説かれている。宇宙食、冒険食、刑務所食などの紹介もある▼この種の本は、若いビジネスマンやOLがよく買ってゆくそうだ。酒をのみながら、食事やビリヤードを楽しみながら、仕入れたての「面白知識」を交換しあう。年寄りがこれをやれば、蘊蓄(うんちく)を傾けるということになるのだろうが、そんなしかつめらしい雰囲気はここにはない▼テレビ式のクイズ遊びもさかんなようで、「ぼたもちとおはぎのちがいは?」などとやる。当たれば「ピンポン」で、はずれれば「ブブー」だ。知識は本来、人間が生きてゆくうえに欠かせない情報だったのだろうが、ここでは遊び道具の一つである▼「面白時代」の説明にこんなのがある。八百屋の店先に大根が積まれ、その中に股(また)割れしたのが1本まじっている。昔ならこれは「できそこない」としてはねのけられたものだが、今は「面白い」と真っ先に買われる。実用性とか合理性とかが、だんだん人間の価値基準から消えつつあるのだ▼正月は、テレビもまた「面白番組」であふれていた。面白いのは結構なことだ。面白いからこそ耳に入りやすく、目にも留まる。ただ、よくあることだが、不健康だと「健康食品」が売れる。世の中、ほんとうに面白ければ、そんなにまで面白いことはいらないような気もする。 砂漠都市東京に水を求める 【’88.1.9 朝刊 1頁 (全837字)】  東京の隅田川をゆく遊覧船は正月、乗れない客が出るほどにぎわった。川面の散歩はこのところ大人気で、1年に80万人が楽しむ。3年間で2倍にふえた▼本紙に連載されている『東京よ』を読むと、水を求める人々の気持ちがわかるような気がする。東京の湿度が年々下がり、砂漠の海岸都市、エジプトのアレキサンドリアより低いのだという。原因はコンクリートジャングルにある。コンクリートは熱しやすく、さめにくい。都会から出る人工熱はためこまれ、気温が上がる。この熱汚染で湿度が下がる▼かつて東京は水の都だった。銀座は掘割や川に囲まれていた。だが戦後、ほとんどの水路は埋め立てられ、あるいはふたをされた。そこが高速道路やビルに化けた。川は湿気を含んだ海風の通り道でもある。それをふさげば、砂漠化を早めることにもなる▼いま東京湾の開発計画がにぎやかだ。都は440ヘクタールの埋め立て地に新副都心をつくろうとしている。そこには霞が関ビル24棟分の超高層オフィス街が生まれ、5万人以上が暮らす高層住宅が建つ。海を埋め、コンクリートで覆う町づくりはいっそうの熱汚染を巻き起こすことにならないか▼都心では明け方、露を結ばなくなったと、早大教授の尾島俊雄さんが都市環境工学の立場から心配している。路上に覆いかぶさるようなビル群がふとんのような役割となり、地表が十分に冷えないからだという。朝露の恵みを受けられない大地もまた乾いているそうだ▼尾島さんは、水と緑を網の目のように設け、コンクリートジャングルを細かく分断すべきだと提案している。そうすることで気温を下げ、海風を通し、露を結ばせ、大地をよみがえらせる▼砂漠の遊牧民はかぶりものなどで肌の乾燥を防いでいる。このまま東京が乾き続け、カサカサ肌や水分蒸発防止用の服を着た人たちがあふれる。思い浮かべたくない光景だ。 盲導犬 【’88.1.10 朝刊 1頁 (全854字)】  街角や駅の階段で盲導犬を見かけても「キャーッこわいっ」と叫ぶのはやめよう。「かわいいっ」といって頭をなでるのも遠慮しよう▼その時、盲導犬、つまりアイメイト(目の友達)は主人の安全を考え、マウンド上の投手のように気を張っているのだ。気を散らしてはいい仕事ができなくなる。ハーネス(胴輪)に触れるのもやめよう。ハーネスは、人と犬が微妙に信号をかわしあう命の綱だ。命の綱の交信を乱してはいけない▼温かい目でそっと見るのはいいが、じろじろ見つめるのもやめよう。犬はその気配を感じとって、心を騒がせる。アイメイトを連れた人が電車に乗る時に、その人を後ろから両手でかかえるのは避けよう。たとえ親切心でも、主人に危害が加えられると思って盲導犬が後ずさりする場合がある。かえって危険だ▼電車の床に伏している盲導犬に食べものを与えるのも思いとどまろう。犬が腹をこわして下痢状態になれば、外出はできない。それに外食?のくせがつけばいい仕事ができなくなる▼盲導犬を断るホテルやレストランがある。支配人は彼らの仕事ぶりをしかと見た上で判断しているのだろうか。盲導犬に口輪を求めるバスの運転手もいる。口をあけて体温を調節する犬にとって、口輪は拷問だ▼福沢美和さんが書いた『盲導犬フロックスとの旅』を読んだ。全盲の美和さんがアイメイトと一緒に四国を1周する話である。金比羅さんの階段も上り、栗林公園の池の飛び石も渡った。ホテルの人たちはみな歓迎してくれた▼「ふたり」は足なみをそろえて歩く。美和さんが語りかける。「鳥が鳴いてるね」「芝刈りの音がするね」。フロックスも、無数の言葉で美和さんに語りかける。「この世の中で一番すばらしいつながり」である道づれの言葉を、これからもわかってやりたい、と美和さんは書いている▼本を読むことで、フロックスの無言の言葉のいくつかが、私たちにも伝わってくる。 舞台に命かけ、宇野重吉さん逝く 【’88.1.11 朝刊 1頁 (全838字)】  木下順二さんが宇野重吉さんを最後に見舞った時、すでにのどの切開手術で声がだせない状態だったという。宇野さんは「見かけほど大変じゃないんだよ」という意味のことを紙に書いて笑った。「笑った、と思える顔だった」と木下さんはいっている▼晩年の宇野さんは一座をつくり、のぼりを立てて旅興行をした。本当に芝居を楽しむ心をもった人たちが、カキモチなどを持って見物に来た。舞台にはおひねりが飛んだ。いい芝居を見たいと熱望する人たちが、どの土地でも応援してくれた。吹雪の日も、会場は満員だった。子どもたちのはじける笑いがあった▼せりふや演技をきめこまかく、大事につくりあげてゆく芝居をむしろ敬遠する風潮が大都会にはある。だからこそ大都会を離れて、したたかな生活者に自分たちの芝居をじっくりと見てもらうのだ、という思いがあったのだろう。「分け入っても分け入っても青い山」という山頭火の句を愛する宇野重吉は、山の奥や海辺の町に分け入った▼旅興行のなかばで倒れ、肺がんの手術を受けた後にまた、復帰してからは、観客の層がひろがった。沖縄の20代の女性が、舞台を見た後にいったという。「舞台に命をかけている人の生き方を見て来いと琉球舞踊の先生にいわれました。すばらしかった」▼ただ長生きするというのではなく、今をどう生きるかという生命力、自分のその生命力を信じる生き方をしたい、とかねがね語っていたそうだ。「演技は俳優の自己主張である」という自分自身の言葉通り、点滴を続けながらの舞台には、強い自己主張があった。奮演、といってもいいものだろう▼「分け入っても分け入っても青い山」の句を、どんなに分け入っても人間の深さや激しさはつきない、というようにも宇野さんは解釈していたらしい。最後まで、人間の深さ、激しさに分け入ってやまぬ姿勢を私たちに示し続けてくれた。 新春川柳大会作品にみる世界と日本 【’88.1.12 朝刊 1頁 (全840字)】  日本貿易振興会が行う恒例の新春川柳大会の作品が発表された。海外にいる職員の作品も多かった▼「見栄張って株屋の前で眉ひそめ」。いまどき株に縁がなくては気がひける、というのだろうか。あるいは笑いをこらえてまゆをひそめてみせる、という芸当か▼「うさぎ小屋売ればドイツで城が買え」。これもうまい。あのドイツのギムニヒ城を約22億円で買ったのはホテル業者だったが、うさぎ小屋居住者による外国の不動産買いはいま、大はやりだ▼「売り方を忘れるほどに物を買い」。アメリカの過剰消費批判である。シュミット前西独首相がいっていた。「今の米国は太りすぎだ。健康になるには生活水準を下げたらいい。消費を減らし貯蓄をふやせといいたい」。もっとも、アメリカの鏡には日本の姿が「買い方を忘れるほどに物を売り」と映るだろう、というところに国際経済の難しさがある▼「星条旗赤地部分が太く見え」。財政と貿易の双子の赤字に家計を加え、これを3つ子の赤字という▼かくて日本は、貿易黒字を減らすために「小屋住まい胃袋だけは国際化」への道を進む。日本が輸入する食料品はさらにふえて、約200億ドルになった。オカタイはずの鉄鋼マンが、外国のワインを売りさばこう、という世の中になった▼「ゴシゴシと摩擦で身体強くなり」。なるほどねえ。石油危機の体験もある。内需転換という体質の改善に成功すれば、日本経済は強くなり、円高はさらに続く、ということになるのか▼「ゆとりある暮らし求めて残業し」。朝日新聞世論調査によれば「心にゆとりを持って生きることを人生の目標とするもの」43%で第1位。しかるに「収入増」と「時間短縮」のどちらをとるかの問いには、収入増55%、時短35%。新前川リポートが指摘した「低い居住水準、長い労働時間」のひずみ現象は続く▼日本人にとって「ゆとり」は逃げ水なのか。 星空に宇宙を思う 【’88.1.13 朝刊 1頁 (全847字)】  このごろはすっかり夜ふかし型になってしまって、午前2時ごろ、外に出て空を見あげたら半月がふわっと浮いていた。目を移すと北斗七星がのびやかな姿で斜め立ちしていた。「夜を帰る枯野や北斗鉾立ちに」(誓子)▼星の文学者、野尻抱影さんは冬空の星を「天の乱舞」と表現した。「もし星々のきらめきに音を与へたなら、ベートーヴェンの大交響楽どころではない。瞬間、耳がけし飛んでしまふだろうと私はしばしば空想する」とも書いている(『星恋』)。天の乱舞にはおよびもつかないが、冬型の高気圧のせいだろう、きのうの北斗の光にはつやがあった▼去年、宇宙のかなたからの旅人が15万年もかけて地球にやってきた。姿なき旅人たちは地球を突き抜け、私たちの体も通り抜けて、去って行った。140兆キロのさらに1万倍、というかなたから来たこの旅人たちを、専門家はニュートリノと呼ぶ▼ニュートリノとは、幽霊素粒子である、超新星の爆発時に飛び出すナゾの素粒子である、と説明されても筆者などは頭をひねるばかりだ。だが、このニュートリノの存在を日本の神岡観測グループ(代表、小柴昌俊東海大教授)がつきとめたのは大変な快挙だという。グループには今年、朝日賞が贈られる▼ナゾの素粒子の究明が進めば、宇宙がこれからも膨らみ続けるのかそれともいずれはちぢむのか、そのあたりの見当がつくかもしれない。百何十億年も前に誕生した宇宙とは何かを知る1つのカギを旅人たちは残していってくれた。宇宙とは何かに思いをめぐらす時、私たちは哲学者になる▼東北の宿で、夜になって降りだした雪を見たことがある。それが1つの演出なのだろうか。照明灯の強い光が谷のむこうの冬山を照らしだしていた。空をよぎる光の帯に、おやみなく降る雪が銀色に映しだされる。旅人にはそれが銀河に見えた。ここにも小さな宇宙がある、と思ったのを覚えている。 脳死と臓器移植 【’88.1.14 朝刊 1頁 (全838字)】  米国での心肺同時移植を希望し、5年間も待った仲田明美さんが亡くなった。「最後の望みのつなを信じて断末魔の苦しみの中を生き続けるのは残酷すぎる」という日記の一節が週刊朝日に紹介されていた。心臓と肺臓を提供してもらう望みはかなえられなかったが、自分自身の角膜はアイバンクに提供したそうだ▼その死の8日後、日本医師会の生命倫理懇談会は「脳死と臓器移植についての最終報告」を発表した。問題点をきちんと整理している、という意味ではいい報告書だと思った▼脳死と臓器移植をめぐっては、さまざまな意見がある。「臓器移植がふえれば早すぎる死の判定が起こる恐れがある」と考える人がいる。あるいは「自分の最後の社会的貢献として、新鮮な臓器を必要な人にあげたい」と願う人がいる。一方「1日も早く臓器移植を」と熱望する人がいる▼生と死について、多様な意見があることを認めることは大切だろう。この問題については、賛成か反対か、黒か白かで争うよりも、黒と白の間に、濃淡の色合いの違う無数の灰色の意見があることを認め、認めあいながら道をさぐる、という営みが大切ではないか▼この報告書で移植手術へのはずみがつくことになるだろうが、筆者には、だが、待てよという思いがある。第1。脳死と判定された女性が生命維持装置をつけながら出産する、という例がある。専門家には珍しくないのだろうが、こういう生命のふかしぎさに対して、私たちは常に謙虚でありたい▼第2。医者への信頼感の問題がある。医療の現場には、たくさんのすぐれた、信頼できる医者がいる。だが「脳死に対する反対の中には、医師への不信によるものが決して少なくない」という報告書の指摘はその通りだと思う。たとえば「臓器摘出」という言葉を無造作に使う。部品の摘出ではあるまいし、という反発は、案外、届いていないのではないか。 都市の真のゆたかさとは 首都圏中央道路計画の功罪 【’88.1.15 朝刊 1頁 (全842字)】  東京の高尾山にトンネルを掘って首都圏中央道路を通す計画がある。これができると、どのくらい空気が汚れるか▼トンネルにたまる排ガスは、換気塔から上空に吐きだされる。同僚の計算では、ここから吐きだされる窒素酸化物(NOx)の量は予想交通量で1日約200キログラムになるという。えっ、200キログラムも、と思わず聞き返した▼トンネルと中央自動車道を結ぶ接続道は二重三重の弧を描くことになるが、ここでも200キログラムのNOxがまきちらされる。合計で1日、400キログラムだ。排ガスは拡散するから高尾山一帯によどむことはない、と道路推進派はいう。だが、はたしてそうか▼前にも書いたが、高尾山よりも自然度の高い奥多摩の御岳山の空気を調べた人が、かなりの公害物質を見つけて驚いたそうだ。高速道のNOxがきれいに大空に飛び散って、高尾一帯の空気を汚さない、と考えるのにはむりがある▼首都圏の人びとは、深呼吸をするために高尾へ行く。体の深呼吸だけではない。心の深呼吸のために、山を歩く。清浄な空気と静寂を求めて歩く。都市近郊に深呼吸ができる場所を持つことは、一流の大都市の条件だろう。そういう場所に高速道路をつくるというのは、かなり大胆な発想だ▼高尾ではすでに、中央自動車道の騒音がきこえ、ライトが見える北斜面からムササビが姿を消したそうだ。ブッポウソウも見られなくなった。圏央道の建設が、そういう現象を加速させることにならないか、と土地の人は心配する▼道路推進派に「地域の発展」という大義名分があることは知っている。長洲神奈川県知事や畑埼玉県知事が圏央道建設を支持するのにも、それなりの開発計画があるからだろう。では、都市の真のゆたかさとは何か。たとえば、高速道の拡充と歩道の拡充と、そのどちらにカネを使うべきなのか。圏央道の問題はそのことを問うている。 「蜂谷真由美」の記者会見 【’88.1.16 朝刊 1頁 (全842字)】  「蜂谷真由美」の記者会見があった。これほど陰陰滅滅たる記者会見というのも、めったにないだろう。暗くて、重苦しくて、そのくせテレビの画面から目を離すことができない、という雰囲気があった▼大韓民国の捜査陣の発表では、真由美は、朝鮮民主主義人民共和国の金賢姫(キム・ヒョンヒ)だという。女性工作員は、テレビの画面で見る限りでは、会見中、終始うつむき、顔を上げなかった▼質問されると、しばらくいいよどむ。それがくせなのか、あるいは緊張のせいか、唇の両端を時々きゅっとひきしめる。やや厚めの形のいい下唇が動き、低い声で、つぶやくように語りだす。一筋なわでゆかぬ闘士というよりも、その表情には、少女の硬さが残っている▼ソウルに来て車で市内を見、テレビを見ているうちに、北朝鮮で考えていた現実と正反対のものであることがわかった。欺かれて生きてきたことがわかり、裏切られた感じがした、と金賢姫はいう▼この発言が本気なら、彼女は、欺かれて115人の命を奪ったことのおろかさを、命を奪った後に悟ったことになる。恐ろしい話だ。ソウル支局から届いた長文の会見内容を読むと、初めは「記者会見はやめてくれ。静かに死なせてくれ」といっていたらしい。「私は100回死んでも当然です」ともいっている。会見内容にはなお虚実があるだろうが、それを読み、むざんだという思いが消えない▼五輪開催を混乱させる、というおろかしい指令があったとすれば、そのために命を奪われた人びとがむざんである。身をさらして罪をわびる工作員もむざんだ。金賢姫がうつむき続けたのは、彼女がとりえた唯一の拒否の姿勢であったのかもしれないし、罪の意識のためであったのかもしれない▼会見の最後に、今度の事件は「無意味でむなしいこと」だったと彼女はいった。無意味でむなしい事件の筋書きを書き続けるのはなにものか。 越廼村の成人式 【’88.1.17 朝刊 1頁 (全861字)】  福井県の越廼村(こしのむら)の成人式には26人が参加した。越前海岸に沿ったこの里では、山の斜面に白い水仙の花が咲く。暖冬の今年はもう、盛りがすぎていた▼越廼村で取材した同僚の話では、式のあと、村長を囲んでの座談会があったという。「わがふるさと」が主題だった。26人の大半は福井市や東京などで頑張って働いている。ガラス工事の現場で腕を磨く青年もいる。なぜ村を離れるのか、と司会者がきいた。みな、黙っている。1人の青年がいった。「働き口がないから……」▼結婚して村に住んでもいいと思う人はいないか、いたら手をあげてといわれても、女性はだれも手をあげなかった。男性は2人だけ手をあげた。「親の面倒をみる」と1人がいい「ここは環境がいいから」と1人がいった▼「みなさんの力を貸してもらいたいのだ。村を見捨てないでくれ」と村長が訴えたが、ふるさと論議は話の花が咲かぬままに終わった。「話が難しくてよお」と青年が笑った▼漁業の規模が小さい。電気部品や魚加工の小さな工場があるが、若者をひきとめる力はない。「村はいい。海も美しい。潮風にあたるとふるさとに帰って来たなあと思う。でもここで暮らすのは別です」。夜の同窓会で、福井市の写真現像の店で働く女性がいった▼海や山を観光のもとでに、という意見が村にはある。地価高騰で都会には家を持てなくなった人たちを誘うてだてはないか、と考える人もいる。だが、まだ形にはなっていない▼国土庁の『過疎白書』はいう。「大幅な人口減が続いている地域、将来への手がかりを依然としてつかむに至っていない地域も多数存在する」と。都市では、新成人を対象にしたタレントの講演会やコンサートがにぎやかだったが、越廼村のような、ふるさとを案じながらの成人式もまた少なくなかったろう▼いま日本の国土面積の約半分が過疎地域である。大都市の地価高騰と、それはうらはらの関係にある。 カタカナ言葉 【’88.1.18 朝刊 1頁 (全844字)】  この正月、中国を訪問した日本の青年代表団と、日本語を専攻している中国の大学生たちが対話集会をした。中国の学生たちの日本語はなかなかのもので、よく分かる。ところが日本側のしゃべる日本語が、うまく通じない▼原因は、外来語である。「ナショナル・チームが…」「テレビのタレントが…」といった言葉が出るたびに、中国の学生が困った顔になって「分かりません」。日本の青年も焦って日本語で言い直そうとはするのだが、これがとっさにはうまくいかない▼すっかり日本語として使っているから、翻訳できないのである。「よくいわれていることですが、思っていた以上にカタカナ言葉を使ってたんですね」と、若者たちはショックを受けたようだった▼先に来日した英国のハウ外相が日本記者クラブでおこなった講演によると、大体、このショックという言葉も、向こうの人とは発音も使い方も違っている。で、最新版のオックスフォード英語辞典には逆輸入の新語として登場しているそうだ▼知人の米国人も「私は日本語でいってくれれば分かるのに、外人だと思って英語らしきものを乱発されるのが困る」とこぼしている。英語をそのまま使っているつもりでも、このありさまである▼ある韓国の大学の日本語教授が悩んでいるのは、ワープロ、パソコン、マイコンといった和製英語の扱いだという。商品とともに、この種の言葉がどんどん入ってくる。そのまま通用させたのでは、もとの意味が分からなくなってしまう▼経済大国としての日本の地位が高まるにつれ、世界中で日本語を学ぶ人が増えている。その人たちにとっては、いくら勉強してもつかまらない化け物じみた言葉といえるかもしれない▼カタカナという便利な文字を持つのは、日本語の強みだった。しかし、それに甘えすぎて、国際的な日本理解の努力に背を向ける結果になっているとしたら、ことは深刻である。 汚職の構図 【’88.1.19 朝刊 1頁 (全870字)】  公明党の田代富士男参院議員が収賄の疑いで調べられた。その弁明を読んで、牽強(けんきょう)付会もここまでくればまことにご立派、だと思った▼砂利運搬船の業者団体である全自連の会長たちは、田代議員の政治姿勢にいたく感動して政治献金を続けているのだという。どういう政治姿勢に感動したのかはともかく、大阪地検特捜部の調べでは、その額はこんど問題になった1000万を含め、総額約7000万円にのぼる、というから高い感動料だ▼一方、田代議員は「正当な政治活動」として全自連を応援し、力になった。それは政治信念にかなうことだという。つまり(1)その団体からカネをもらい(2)その団体のために活動をしたことは確かだが、(1)と(2)には因果関係はない、というのだ▼カネをもらったから応援したのだとか、応援したからカネをもらったのだとかんぐる連中は、志高き政治信念をいやしめるもの、といわんばかりである▼矢野委員長は「事態の重大さを深刻に受けとめる」と語った。公明党にとっては現職参院議員の取り調べは初めてのことだろうが、こういう形の「献金」は政界ではそう非常識なものではないらしい。自民党議員秘書の「1000万円という額は大きいが、仕事をすれば、それに見合った献金を受けるのは常識」という感想が事件の本質を語っていた▼中村達也さんの『歳時記の経済学』の中に、こんなくだりがある。「それぞれの地方が、自らの桃太郎(政治家)をもち、きび団子(票)を与えることによって鬼ケ島(中央)から宝物(利権と財源)をもってくるといった構図」がこの国の「互恵」社会の特徴の1つだ、と▼地方を業界にかえ、票をわいろにかえれば、これは汚職の構図を説明してくれることにもなる。いや、鬼ケ島は中央の権力だけではない。大月市の市長、収賄で逮捕、矢板市の市長も逮捕、という記事が並ぶと、汚職の鬼ケ島はずいぶんあちこちにあるものだと思う。 『かけだし泣きむし地方記者』 【’88.1.20 朝刊 1頁 (全855字)】  朝日新聞静岡版に、200字ちょっとのコラムがある。記者の哀歓をすなおにつづったものだ。それが『かけだし泣きむし地方記者』という本になったので、通読した。身びいきかもしれないが、おもしろかった▼たとえば、首つって死ねとどなったり、こんなものでは紙面が汚れるといって原稿を投げつける鬼デスクが登場する。つい先日、相撲界のむりへんにげんこつを批判したばかりの当方としては、苦笑しながら読んだ▼ダイアナ妃来日の時は支局のみながテレビを見た。新人女性記者が「この人と私、同い年なんです」。なにげなくいったら、一瞬の沈黙をおいて、笑い声が起こった▼「優しい先輩記者はそっと私から目をそらす。……傷心を隠して警察へ夜回りに行ったら、おまわりさんが『こんな夜遅くまでウロウロしてると補導するぞ』」▼かけだし記者が夜、警察に電話した後「今夜は警視庁人事だけだそうです」と報告した。「軽傷人身事故」の聞き違いだった。アキスサンニン逮捕を、パキスタン人逮捕と聞き、なにごとぞと署にかけつけた記者もいる。寝不足と緊張で、支局のふろに入ったまま3時間も眠ってしまった新人もいた▼阪神支局襲撃事件のコラムはこうだ。「小尻記者とは同期入社だった。同じ記者として張り合ってきたつもりだった。小尻君の無念さを思うと、胸がしめつけられる。彼の死は、自分が、これまでどんな仕事をしてきたのかを問いかけているようでもある」▼支局横の駐車場でコオロギが鳴いていた。懐中電灯で見ると、コンクリートの片すみにわずかなコケがあった。空調機の排水管から落ちる水が、そのコケをうるおしていた、という街の詩もある▼先輩格の記者のこんな感慨もある。「君らもっと怒れよと若い記者をついどなってしまった。このコラムが誕生して丸18年。記者の思いに、ニヤリ、ホロリとさせられる。が、最近どうも怒りが足りない、と思えてならない」 竹下さん、「大型間接税はやらぬ」はずでは 【’88.1.21 朝刊 1頁 (全837字)】  政治の世界では都合の悪いことはいともあっさりと白紙に戻してしまうものらしい。中曽根政治の継承継承と呪文(じゅもん)をとなえていた竹下首相も、総裁になってしまえば別だ。あれよあれよという間に「多段階で包括的で網羅的な大型間接税はしない」という前首相の国会答弁を白紙にしてしまった▼ついでに、「国民や自民党が反対する大型間接税はやらない」という中曽根さんの公約も白紙に戻してしまいたいようだが、これはどうだろう。選挙の時の幹事長だった金丸さんは「政策問題で国民にウソをつくことがあってはならない」といっていた。首相が公約を守らない場合は刺し違える、とさえいった▼その後、大型間接税を強行しようとした宰相の公約違反が世論の反撃を浴びたことは、ご承知の通りだ。では、宰相が交代すれば、この公約を白紙に戻すことができるのか▼竹下さん自身、中曽根内閣時代は蔵相や幹事長を歴任していたのだ。当時の首相公約に反対なら、なぜ敢然と首相をいさめ、公約をひっこめさせなかったのか。昨今の安倍幹事長ではないが、「正々堂々とやれ」とせまらなかったのか▼大型間接税導入せず、の公約が選挙の勝因の1つだとすれば、その公約ゆえに得た300議席の数の力で、大型間接税を強行しようという発想にはむりがある。首相の顔が変わっても、事情は同じだろう▼マウイ島の常夏の風に吹かれて緊張感がとけたわけでもなかろうが、首相は税制改革法案の今国会提出に強い意欲を示したそうだ。選挙の試練をへずに、こんな方向転換をしてもいいのか、という議論にはいぜんとして説得力がある▼百歩譲っても、「国民や党の反対するものはやらない」という公約を重視し、拙速を戒めることに汗を流してもらいたい。新型間接税は大型間接税にあらず、というようなごまかしの手法だけは、きれいに白紙に戻したほうがいい。 お年寄りの集いからの男性2人の除名 【’88.1.22 朝刊 1頁 (全836字)】  勉強や助け合いを目的にしたお年寄りの集いがある。その集いで「会の和を保つ上で好ましくない」という理由で男性2人が除名された。発会式の時、1人は司会役であるのに式次第を無視し、40分間、歌をうたい、奇術をした。1人は勝手に酒席の予約をし、いったん中止を約束したのに、当日みなを誘ったという▼会員の批判もあって、女性会長が2人を除名した。名誉を傷つけられたといって2人は会長を訴えた。裁判所の判決は逆に、2人の行動が「独善的で強引」だったと指摘し、会長に対して慰謝料を払えと命じた。記事を読んだあと、なんとなく気持ちが沈んだ。結局、男のほうが不器用なのだろうか▼一般論になるが、お年寄りの集いでは、女性のほうが協調性があるという。男性に比べて、隣近所とのつきあいに慣れているからだろうか。年寄りの同好会では女性の数がはるかに多いそうだ▼東京都が行った高齢者の調査に「あなたの話し相手は」という質問がある。男性は「妻」が1位で46%もあるのに対して、女性は「同性の友人」が54%で1位、「夫」はわずか20%だった。男はつらいよ、というところだろう▼話は飛ぶが、羽田澄子監督の名作『痴呆性老人の世界』の老人施設にはたくさんのおばあさんが登場するが、おじいさんはあまり登場しない。なぜでしょうか、と羽田さんにきいたことがある▼「男性も撮影しようと努めたんです。でも施設内の男性はたいてい孤立していて、動きがないんです。映画になりにくいんです」。そんな答えだった▼施設内の女性は、ぼけの症状があっても、たとえば隣に座った人に気楽に話しかける。すぐに顔なじみができて、おしゃべりが続く。だが、男性は自分の城に閉じこもりがちだ。昔の地位にしがみついているようなところがある。「自己中心で、かまえているように見えました」。羽田さんの観察である。 富士に引き込まれた人 【’88.1.23 朝刊 1頁 (全854字)】  写真家、伊志井桃雲さんは毎日、深夜の1時に起きるという。妻の勝子さんの運転で、静岡県富士宮市の自宅を出てその日の撮影地点に向かう。富士のさまざまな姿を撮り続けるためだ▼漆黒の空間に富士が染みこんでいる。2人はカメラの向きを調節しながら、夜明けを待つ。桃雲さんは若いころの病気で目に障害が残り、ほとんど視力がない。右目はわずかに光を感ずるだけだ。左目は0.01で、もやの中のようにしかものが見えない。刻々に移り変わる光の変化を追うため、ファインダーに拡大鏡をつけなければならない。拡大鏡の中で、雪の山頂が淡く紅色に染まる姿を、雪煙が髪を逆立てた形になって太陽を呼びこむ姿を、つかむ▼日が昇り切ると夫妻は自宅に戻る。妻はトラックに果物を積んで移動販売にでかける。その働きが今は一家を支えている。撮影日誌の口述筆記やフィルムの整理は、中学2年の長女の仕事だ。一家の協力で、富士の撮影は続いている▼『富士山』と題する桃雲さんの写真展がいま、銀座の富士フォトサロンで開かれている。「朝も夕も、富士が最もいい色に輝く時がある。その時の紅の色がたまらなくいい。これを見るたびに命がグーンと盛り上がってくる」と桃雲さんは表現した▼昔、商売がうまくいって、写真と二足のわらじをはいていた時は、富士と薄くつきあっていた。「つらい日々の中で、初めて富士に命を感じた」そうだ。自分のかせぎで早く家族に楽をさせたい、とも桃雲さんはいった▼偶然のことだが、築地の朝日新聞社2階でも、大山行男さんの写真展『富士山』が開かれている。こちらの写真展は、雲と富士、といった趣がある。富士の頂を巨大なくらげ状の雲がおおっている。夜明け時の深紅の雲がある。藤紫(ふじむらさき)の雲がある。巨大な不死鳥の雲がある。その一瞬の姿の美しさをカメラはとらえる▼ここにも、富士に引き込まれた人がいるな、と思った。 繁華街ねぐらにするハクセキレイ 【’88.1.24 朝刊 1頁 (全847字)】  ハクセキレイの大群が千葉県の常磐線柏駅西口前のビル街をねぐらにしている。県内有数の地価高騰地だ。どうやら、地価の高いところを自分たちの寝る場所に選んだふしがある▼夜、そのねぐらを見に行った。雨の日だった。銀行のビルの屋上などに、ハクセキレイは並んで眠っていた。たとえば、銀行の看板の1字1字に十数羽ずつが行儀よくとまるという具合で、看板も電柱も鳥のアパートになっている▼大半はうずくまって雨に打たれている。時々全身をふるわせて雨滴をはじく鳥もいる。居場所を争って追われ、パッと飛び立つ姿がネオンの光に浮かびあがる▼同行してくれた都市鳥研究会の金子凱彦さんが、700羽まで数えた。振り返ると駅ビルにもさらに数百羽がとまっている。緑の木が1本もない駅前の空間を、1000羽を超える鳥がねぐらにしている。その風景をどう解釈したらいいのだろう。ヒチコックの映画のようでもあるし、鳥たちが、人間どもの都市集中現象のパロディーを演じているようにもみえる▼ハクセキレイの繁殖地が最近は南下している。西日本でも繁殖が確認されているそうだ。そして、繁華街をねぐらにする集団がふえた。「ハクセキレイは今や都市鳥です」と金子さんはいう▼なぜ繁華街なのか、は鳥にきいてみないとわからないが、鳥の世界に生態系の変化が起こっている証拠だ。鳥たちは朝、サラリーマンの出勤と同じように、えさを求めて飛び立ち、水辺へ行く。春になると、大群は去る▼当然、冬の間はビルのガラス窓や看板がフンで汚される。清掃に骨が折れるし、看板も、汚れれば取り換えなくてはならない。大変は大変ですが、追い払ってはかわいそうだし、まあ、今は静観です、と三和銀行の人がいっていた▼梅がほころびた、ツクシが顔をのぞかせた、という記事が北や南の地方版をにぎわせている。「冬ぬくゝ畦やはらかき故郷かな」(勝又一透) マンガやアニメの『源氏物語』人気 【’88.1.25 朝刊 1頁 (全844字)】  カルチャーセンターなどで中高年の婦人に源氏物語の人気が高いことはよく知られているが、最近はこの年齢が高校生あたりまで下りてきたようだ。上映中のアニメ映画『源氏物語』のお客は大半がはたち前後のようだし、それよりも前に少女マンガの源氏物語『あさきゆめみし』(大和和紀著)が数年前からベストセラーをつづけている▼このマンガは原作に沿って話が進み、いまは8巻目、女三宮が青年柏木と密通するところまできている。少女ものは10万部も出ればヒットだそうだが、これは各巻70万部を超すという▼なぜ源氏が若い人にうけるのかを考えると、第1の理由は絵にあるようだ。平安時代の美男美女といえば、絵巻物などに見るように下ぶくれの引き目かぎ鼻、つまり一線に引かれた目と短い「く」の字形の鼻と相場が決まっていたものだが、ここではちがう▼女性たちは目がぱっちりしてまつ毛の長い、いわゆる少女マンガ風のかわいい子であり、源氏はほそおもての西洋流ハンサムである。アニメ映画の源氏などはロック歌手風の長髪で、耳には赤いピアスをつけている▼そんな源氏が巧みな殺し文句でつぎつぎ女をくどくのである。いまどき二枚目やカッコつける男は女性に好かれないタイプといわれるけれど、しかしその一方で、いつまでも女を見捨てないやさしさやひたむきさが源氏にはある。そのへんが若い女ごころを酔いしれさせるのかもしれない▼それにもう1つ、政治も権力もかかわりないかのように源氏はひたすら自己愛に生きる。この反政治、反世俗が風雅と映って若い人をとらえているようでもある▼京都のある女子高校では学級文庫にマンガ源氏をそろえ、教科書として使っている。源氏物語の本当の面白さはマンガやアニメなどからは読み取れないともいえるだろう。そこはマンガ世代、映像世代だと思うし、ヘンに教養主義に傾くよりはましな気がする。 竹下首相の施政方針演説にこだわる 【’88.1.26 朝刊 1頁 (全854字)】  言葉じりをとらえるということはあまりしたくないが、きょうはあえて言葉じりにこだわる。竹下さん、まあ、聞いて下さい▼首相の施政方針演説を読んでいると「積極的に推進」「強力に推進」という言葉が浮きあがってくる。テロ防止を積極的に推進し、経済構造調整を積極的に進め、均衡ある国土づくりを積極的に講じると首相はいう▼財政改革を強力に推進し、行政改革を強力に推進し、高齢者雇用対策を強力に推進するという。エネルギーの安定供給を着実に推進し、道徳教育の充実などを着実に実行に移すという▼積極的に強力に着実に推進する、といった言葉がふんだんにあるだけではない。「全身全霊を傾ける」式のおおぎょうな決意表明が並び、それに「所要の措置を講ずる」「諸般の準備を進める」という中身のよくわからないお役所言葉が加わる。まことに無味乾燥で、ところどころ力み返った不協和音があって、という妙な文章になっている▼政治倫理の確立では、積極的に、強力にという表現のないのが気になったが、とにかく、諸施策を熱心に進めるという首相の政治姿勢は明瞭(めいりょう)にわかった。だが、本当に聞きたい政策の中身は不明瞭のままだ▼税制改革や地価対策で、私たちが一番期待しているのは、首相がどういう中身で勝負するつもりなのか、という政策表明である。それは明らかでない。積極推進とか所要の措置とかの言葉は、実は争点回避用の巧妙な官製用語なのか。あるいは無味乾燥という化粧を施して無関心層をひろげるのが竹下流の深謀遠慮なのか▼戦後宰相の名演説に数えられるものに、池田首相の「浅沼稲次郎社会党委員長を悼む演説」がある。池田さんは、「演説こそは大衆運動30年の私の唯一の武器だ」という浅沼さんの言葉を引用しつつ、暴力によって倒れた政敵をたたえた。社会党議員も目をふいたという▼後世に残る施政方針演説、というのを聞きたい。 自然とどうつきあうか オーストラリア建国200年 【’88.1.27 朝刊 1頁 (全853字)】  きのうはオーストラリア建国200年目の日だった。ヨーロッパ人が入植してから200年ということになるが、原住民(アボリジニー)は5万年ほど前から豪州大陸に住んでいる。その歳月の長さに比べれば、200年の歴史はそう長いものではない▼豪州の児童文学者パトリシア・ライトソンさんは、アボリジニーの伝承に学びつつ作品を書いている。代表作『ミセス・タッカーと小人ニムビン』(百々佑利子訳)を読んで、心をゆさぶられたことがある。彼女が来日した時、オーストラリア・ニュージーランド文学会主催の会合で話を聴いた▼「アボリジニーは自然に対して畏怖(いふ)と尊敬の念をもっています」と彼女は語った。作品の中でも、地霊の小人、ニムビンがいう。「古い人間は自分を敬い、新しい人間は自分の存在にすら気づかない」と。古い人間とは原住民のことだろうか▼「新しい人」の1人であるミセス・タッカーというおばあさんは、自然を征服する気はない。大自然の懐に抱かれて暮らすことを夢見て、人里離れた小屋で暮らし始める▼しかし地霊の小人は、この侵入者が気にいらない。おばあさんは犬を飼い、ニワトリを飼い、殺虫スプレーを使い、電気を使う。ライフルを使う少年まで登場する。小人は意地悪を重ね、ついに小屋暮らしをあきらめさせる。ニムビンの反撃は大地の意思、自然の意思であるのかもしれない▼では人間は、自然とどうつきあったらいいのか。この作品は解答を示さない。作家のメッセージは、と問われてライトソンさんは答えた。「解答つきの問題を読者に与えようとはしておりません。私のメッセージは問いの形になるでしょうし、私自身、答えが出せるかどうかわかりません」▼作家にできる最良のことは、その問題を取り囲む状況に強い光を投げかけ、全員が答えを探そうとするよう励ますことです、ともいった。味のある言葉だな、と思いながら聴いた。 生活には「間」が大切 【’88.1.28 朝刊 1頁 (全848字)】  2時間10分法、というストレス解消法がある。2時間はたっぷりと緊張状態の中にいてもいい。そのかわり、そのあとの10分間は頭をからっぽにして、完全に仕事から離れること、全身の力を抜くこと、というのだ▼日経連編集の雑誌『経営者』で、経営者の健康問題と取り組む有川清康さんが提唱している。仕事をびっしりと詰め込まず、1日に数回、5分から10分の休憩時間をとり、緊張感をやわらげなさいという。1日に、合計して30分以上の運動をすること、おおいに笑うこと、ともあった。そう、笑いは人の薬、という格言もある▼厚生省がまとめた「健康マップ」によると、40歳から64歳までの男性では、心筋こうそく・狭心症による死亡が都市部にきわめて多いという。東京がずばぬけて多く、神奈川、埼玉、大阪も平均をかなり上回っている▼都会人に心臓病による死亡が多いのは、運動不足や飽食もあるが、ストレスの影響もかなりあるのではないか。心筋こうそく・狭心症にかかりやすい人には(1)いつも多忙で、せかせかしている(2)物事に精力的に打ち込み、休むことを潔しとしない(3)競争心が強く、まわりの人と張り合うという特徴がある。名古屋第2赤十字病院内科部長、前田聡さんがそういっている▼去年、セイコーエプソン社長の服部一郎さんがゴルフのプレー中、心臓に異常が起こって倒れ、亡くなった。ほかにも数多くの経営者が心臓の病気で亡くなられた。さまざまな原因があるだろうが、激務による疲労が一因、といわれている▼緊張過多をほぐすにはどうしたらいいのか。前田さんの「すすめ」はこうだ。「ストレスが高まってきたかな、と思ったら短い時間でいい、目を閉じて、深呼吸をする。簡単な瞑想(めいそう)をする。首を回すなどの簡単な体操もいい。緊張の流れをこまめに断ち切るのです」。生活には「間」が大切だ、ということだろう。 「テヨダワことば」 【’88.1.29 朝刊 1頁 (全851字)】  明治のころ「テヨダワことば」というのがあった。よくってよ、いやだわという表現が東京の娘たちの間ではやり始め、これがテヨダワことばと名づけられた。世のひんしゅくをかいながら、テヨダワは生き続けた▼「チャッタことば」というのもあった。野口雨情が『赤い靴』で「異人さんに連れられていっちゃった」と歌ったのは大正10年で、「チャウ」系の言いまわしは世の反発を浴びつつも広く親しまれてゆく▼戦後は「ネサヨ運動」があった。(土井さんがネ、税制改革でサ、かみついたのヨというネサヨである)。これを追放しようという運動があったが、ネサヨは衰えることなく広がっている。以上は雑誌『図書』1月号にあった国語学者、田中章夫さんの分析だ▼昨今はさらにめまぐるしくことばが動く。たとえば「ツマリことば」がある。スゴイがスッゴーイとつまる。オシャレがオッシャレーになり、カワイイがカッワイイになる。ア、ソウカはア、ソッカだ▼「スルスルことば」もある。女子大生スル、美容院スル、ウミソトスル(海外旅行をする)。どうせ人間やってんなら渋い顔せずに、などという。しっかり朝日新聞してますか、という投書をいただいて苦笑したことがある▼「トカミタイことば」「ナンカナンテことば」もある。ヤなことばとかがはびこっちゃってるみたいで、おじさんなんかとてもついてゆけんなんていってみても、もうだめみたい、という勢いで表現のぼかし化が進んでいる▼田中さんは、ことばの変化を見守りながら「結局は、子どもたち・若者たちの勝利に終わってしまうものらしい」と書いている。今はやりのことばのいくつかは廃れ、いくつかは生き残るだろう。新しい表現への許容度は時代と共に変わる▼しかし一方で、珍奇な表現とかに目なんか光らせちゃって小言こうべえする人がいなくては、日本語とかは乱れに乱れちゃうみたい、な状況でもあるのだ。 同日選神話 【’88.1.30 朝刊 1頁 (全841字)】  「同日選は、今日の時点ではまったく念頭にない」と竹下首相が国会で発言した。今は念頭にない、というのは、来年は念頭に浮かぶかもしれませんよといっているだけの話で、結局、何の保証もない▼来年は参議院選挙がある。首相は、今年は解散せず、税制改革を仕上げておいて、来年解散し、同日選に踏み切る腹づもりなのだろうか。もしそうであれば、国民は事前に、税制改革案に審判を下すことができなくなる▼来年また、ということになれば、同日選は定着してしまう。中曽根内閣時代に同日選の動きがでてきた時、福田元首相は「憲法の精神に反する重大問題だ」と反発した。「選挙の最中に国政をゆるがす大問題が起こったらどうする」と怒った▼当時の副総裁だった二階堂さんも「重要問題が山積している時に、政治空白をつくってよいか。党利党略で選挙をやるべきではない」と批判し、宮沢さんも反対した。蔵相だった竹下さんも「3年ごとの衆参同日選が定着してはいけないと思っている。2院制の根本に触れる」と記者団に語っている▼同日選が定着すれば、ますます参院の政党化が進み、衆院の相似形ができるだろう。参院は衆院と質を異にすることで監視の役目をはたせるのに、その存立の意味が次第にうすらいでゆく、という恐れもある▼党内外の批判を浴びながら、同日選に固執する動きが強いのは、きわめて単純な理由だ。野党の共闘がうまくゆかず、自民党が強みを発揮するからだろう。勝つためには「憲法の精神に反する」ことでも、やる。大義名分らしきものを探してきて、看板にする。看板は手段にすぎない▼首相は、今国会でも「同日選が普遍的なものとして定着することは好ましくない」といいつつ「同日選定着回避を積極的に強力に着実に推進する」とはいわなかった。同日選をやると自民が負ける、という実績が生まれない限り、同日選神話は続く。 1月のことば抄録 【’88.1.31 朝刊 1頁 (全849字)】  1月のことば抄録▼正月は、提言・予言が多い。「官僚主導の時代は終わりましたよ。国民のためのサービス機関に変えていかないといけない。各省の利己的行動で日本の企業はずいぶん不自由を感じている」と野村証券の田淵会長が主張している▼行政改革の出発点になるはずの肝心の情報公開がかすんでしまっている。「はよせい、といいたいのです。10年近くも放置するなんて怠慢ですよ」と怒るのは自民党代議士の有馬元治さん▼「ぼくは、日本が受け身に徹するというのを1つの個性にしたらどうかと思うんです。お国柄である異文明に対するあこがれと尊敬を、さらに深めていってほしい」。上山春平さんの極めて個性的な提言だ▼世の中はどう変わるか。「私たち団塊の世代は、他の人の生き方を全否定することができないんですね。人それぞれということを認める。ですから画一的でない、多様な、悪くいえばバラバラかな? そんな社会になっていくのではないでしょうか」。NHKアナウンサーの山根基世さん▼「男たちは、会社、体制の論理に組み込まれて、くたびれていくでしょ。元気な女たちは、まだ世の中をつくる側にいないし、明るい見通しはないなあ」と中山千夏さん▼「恒例の大予言で、今年は『志を立てる年』としました。それぞれオリジナルな生活を築きあげる、好みのライフスタイルを立てる年といった意味あいです」と電通の木暮社長▼豊かさについての発言もめだった。「豊かさは保守性を持っている。それは豊かでないものを差別し、排除する」と大岡昇平さん。「幼児化した中産階級」ほど御しやすいものはない、と大岡さんは説く▼アフリカのモザンビークで、ゲリラと難民、飢えと死の実情を見た黒柳徹子さんは、シサノ大統領にお土産の双眼鏡を渡し、これでゲリラを探して下さい、といった。大統領がニッコリしていった。「いいえ、これで未来を見ましょう」 記録的な暖冬 【’88.2.1 朝刊 1頁 (全844字)】  記録的な暖冬である。全国各地で「気象台の観測始まって以来の暖冬」が続出することになるだろう▼きのう、近所の公園は、タコあげや木登りをする子どもたちの声でにぎわった。陽光を浴びてシャラノキの芽が白く光っている。梅が咲き、そのわきでお父さんは大の字になって居眠りをし、お母さんが子どもたちとサッカーのボールを投げ合っている。「3月の日曜日」を思わせる光景だった▼異変その1。冬はふつうニワトリが卵を産む率が下がる。今冬は暖冬のため、ニワトリが気分よく卵を産み続け、ところによって値下がり現象が起こっている。野菜が早く育ちすぎて、やはり値が崩れたところもある▼異変その2。流行性感冒が減っている。この前の冬、保育園児から高校生までの感染者は、11月から1月中旬までで約1万4000人だった。この冬はわずか約3200人だ。東京都でも学級閉鎖の数が4分の1に減っている▼異変その3。北の国から来る渡り鳥の数が減った。たとえば石川県では、オオハクチョウが姿を見せず、逆に、西日本へ飛んでいくはずのヒドリガモがまだ腰を上げずにいる▼異変その4。満員の特設売り場が暑すぎて、7日間も冷房をいれ続けたデパートがあった▼異変その5。湖の氷が割れて監視員がスノーモービルごと水中に落ちたり、釣り人が落ちたり、という事故が起こっている▼異変その6。雪が少なすぎてスキー場が苦しんでいる。雪まつりのため、トラックで雪を運んで雪像を造る、発泡スチロールで疑似雪像を造る、雪ごい祈願をする、という苦労が続いている▼なぜ暖冬なのか。日本の南の気圧が高くて寒気の南下を邪魔している状態だからだという。だがどうしてそうなるのか。いつどのていどの寒さの揺り戻しがあるのか。雪不足が水不足につながることはないのか。天気のことは、天気の神様にきいてみないとわからないことばかりで困る。 若い女性のアルコール依存症が増加 【’88.2.2 朝刊 1頁 (全849字)】  若い女性のアルコール依存症がふえているそうだ。アル中といえば、われら昭和ヒトケタ族はすぐレイ・ミランドの迫真の酒びたり演技を思い出すのだが、昨今は、暗い中年ばかりではなく、ごくふつうの若い女性が酒の害に苦しんでいる▼総理府の調査によると、この19年間で、酒を飲む女性が一気に24%もふえて43%になった。そのうち「ほとんど毎日」飲む女性が約2割もいる。女性の飲酒文化は、ここ5年で急速に花開いた、といわれているが、百薬の長も、過ぎれば万病のもとになる▼「お酒に依存しない社会」をめざすアルコール問題全国市民協会(ASK、代表今成知美)の雑誌『アルコール・シンドローム』6号が「20代の女性の依存症」の特集をしている▼医師の話では、5、6年前までは3、40代の主婦の依存症がめだったが、最近は20代の女性がふえている。男性は平均して20年も痛飲し続けた末に肝硬変になる例が多いが、女性は平均12年でなる。依存症になるのも男性は平均20年、女性は8年である。飲みだして2、3年、時には半年で依存症になる女性もいる▼女性の方がアルコール処理能力が劣るから、と考えられているが、恐ろしいのは、女性、とくに若い人の場合は治りにくいことだ。重症の神経症や摂食障害(拒食症や過食症)と重なりあう例が多く、治療法もまだ試行錯誤の段階なのだ。そのうえ、妊娠中も酒にひたった女性に未熟児の障害児が生まれた例も報告されている▼密室で苦しむ人に密室から出よとすすめるのは難しいが、ASKは、求めに応じて専門の相談機関を紹介している。イッキのみの危険を訴える運動などをしたこの組織は熱心なボランティアに支えられている。ボランティアには依存症の体験者だった人もいる。時代の呼び声、いや、うめき声が生んだ会だ(事務所は東京都千代田区神田神保町1ノ17。電話03―293―6279)。 温かみのある優遇税制を 【’88.2.3 朝刊 1頁 (全839字)】  藤沢市の公団賃貸住宅に住むご夫婦から投書をいただいた。夫は60歳まで働き、妻も数年前に体調を悪くするまで働いた。いま、持ち家もなく土地もない▼夫は求人広告を見てでかけるが、求職者が数十倍、時には100倍もいて再就職が難しい。「働きづめの日々でした。そして老後に備え、人さまに迷惑をかけずに暮らせるようつましく生きてきました。長い年月、税も払い続けてきました」▼年金だけでは老後の糧に足りないので、少しでもと蓄えてきた。その利子収入も金利の引き下げで減った。加えて、マル優の廃止である。生活費になる利子から有無をいわさず20%の税金を取る▼一方で、65歳以上の資産家は、新マル優の恩恵を受ける。どこかおかしい。かなしい。私たちは、この「金持ちニッポン」の中にあってまことにつらい。じっと手を見るのみである、という訴えだった▼1日から、65歳以上の者、母子家庭、身体障害者を対象にした新マル優の受け付けが始まった。しかし今回のマル優廃止が、投書のような、65歳未満のご夫婦の嘆きを生んでいるのは事実だ。この制度の改正は、何よりもまず、ささやかな蓄えをし、つましく生きてきた人を守り抜くことを、最大の前提にすべきだった。それを逆に切り捨てようとしている▼たとえば大土地所有者や土地を動かして富を得たものに対して、なぜもっと厳しい課税をしないのか。株や債券の売買益に対してなぜもっと厳しい課税をしないのか。それを怠ってなぜ、マル優廃止だけを急いだのか▼欧米には、勤労者の老後のための貯蓄を優遇する税制が根づいている。アメリカでは「個人退職勘定」がある。毎年の所得から、老後のための積み立て貯蓄の一定額を控除して、課税所得を減らす仕組みだ▼老後の不安のために貯蓄せざるをえないわが国では一層、こういう温かみのある優遇税制があるべきではないか。 手話の通じる町 【’88.2.4 朝刊 1頁 (全851字)】  北海道の日高山脈を望む十勝支庁新得町は、手話の町ともいわれている。この町には聴覚障害者のための授産施設わかふじ寮や老人ホームがある。そこで暮らす人びとと町民との長年のつきあいが手話の通じる町を育てた▼役所にも警察にも、手話を使える人がいる。病院では看護婦さんが手話を学んだ。手話を習ったことのないすし屋さんも「わかる、わかる、心があれば通じる」といい、洋品店の主人も「簡単な手話は自然に覚えます。世間話もします。話そうと思うと通じるものです」といっている▼「手話は難しいものではありません。自分の気持ちを素直に表情と手の動きで表せば、きっとわかってもらえます」。そんな添え書きをつけて、町の社会福祉協議会などが「基本手話」の絵を全戸に配ったこともある▼おおらかな風土色がこの町にはあるのだろう。役所の努力もあったろう。だが、つきあいを深めた最大の功労者はわかふじ寮施設長の田中皎一さん(64)だ▼田中さんは小学校の時に耳が聞こえなくなった。ろう学校の教員をしたあと、35年前にここに聴覚障害者たちの寮を造った。最初はみなで町の木工所や菓子工場で働き、基礎をつくった。妻の恵子さんは、身重の体で畑を耕した。やがて授産施設を造り、寮生がふえてゆく▼田中さんは、町民にとけこむために積極的に外にでて、理解を求めた。手話講習会も始めた。今は、手話を学んだ主婦や子供たちが施設に遊びにきて、手話でやるゲームを楽しむ。田中さんの部屋の壁には「楽しきこころは/すなわち私をはなれたこころ」という八木重吉の詩があった▼この町で最も酒が売れる、といわれる日がある。耳の不自由な人と町民が一緒に楽しむ盆踊りの晩だ。もともとわかふじ寮が始めたこの祭りが今は町をあげてのお祭りになった。聴覚障害者は、太鼓の響きを体で受け止めて踊る▼田中さんには、今年度の朝日社会福祉賞が贈られた。 増える日本の対南ア貿易 【’88.2.5 朝刊 1頁 (全858字)】  『ブラックアフリカ詩集』(登坂雅志訳)という1冊の本がある。たとえばカメルーン生まれの詩人が歌う。「ぼくは黒人じゃない/ぼくはインディアンじゃない/ぼくは黄色人種じゃない/ぼくは白人じゃない/じゃなくてぼくはただの人間なんだ/戸を開けてくれ 兄弟よ」▼黒いことへの賛美もある。「うっとりさせるしなやかな四肢を持った」裸の女、くらやみの女について「真珠はおまえの肌の夜の上に輝く星だ」と歌うのはセネガルの詩人だ▼全編を貫くのは、差別に対する大きな怒りであり、忍耐強く芽吹くものへの賛歌だ。南アフリカ共和国生まれの詩人は、人種隔離政策を告発する。「人間が人間でなくなってしまった/人間が畜生になってしまった/人間がえじきになってしまった」▼アフリカの詩人が「やつらの文明は おれの首を傷つける枷(かせ)である」と歌う時、その枷の重みを私たちはどれほど実感としてわかるか、という思いにとらわれた▼日本に対する風当たりが強まりつつある。日本の対南ア貿易が前年比19%増で世界1位になる、ということへの反発だ。円表示でも2%ふえている。対日批判を心配する外務省の幹部が経団連を訪ね、経済界の慎重な配慮を求めたという▼今、南アフリカの白人の国外脱出がめだっているそうだ。脱出の理由には、いずれはくる黒人支配体制への不安や人種隔離体制に身をおくことの精神的な重荷があるという。著名な財界人の出国もあり、この国はあらしの中にある▼南アの女性ジャーナリストがいっている。「日本人は親切で、南アに関心を持って活動する人もたくさんいるが、南アの人は日本人が『名誉白人』として商売する姿を見て人種差別主義者だと思っている。不幸なことだ」と▼日本の企業が南アの黒人の生活向上のため、50万ドルをだして基金をつくることは知っている。だが経済制裁下にあって貿易量がふえているのも、まぎれもない事実だ。 木のいのち 【’88.2.6 朝刊 1頁 (全849字)】  木のいのちはやはりすばらしい。千数百年も土の中にあってなお、盾や鳥はそれらしい形を保っていた。奈良の古墳で見つかった大量の木製品が埴輪(はにわ)なのか、それとも死者を祀(まつ)る特別の小道具なのか、これからの究明が興味深い▼木製の盾、鳥、王者の杖(つえ)などは大半がコウヤマキでつくられていたという。地下水のゆたかな場所で、密封された状態になっていたことが幸いしたらしい▼木を腐らせるバクテリアが繁殖するには4条件がある、と専門家はいう。(1)水分(2)温度(3)栄養(木の成分そのもの)(4)酸素の4条件だ。この1つが欠けると腐朽菌が繁殖しない▼地下水につかる木は、その重量の150%以上の水分を含むようになり、この状態では酸素が少なくなるから腐りにくい。木場で原木を水につけて保存するのと同じ原理だ。そういえば、大阪の三ツ塚古墳からでてきた巨大な修羅(しゅら。木ぞり)も、水につかっていたために原形をとどめた、といわれている▼それに、コウヤマキは水に強い。300年の歳月に耐えた東京の千住大橋の杭(くい)もコウヤマキだったらしい、という話をきいたことがある。コウヤマキはまた、木曽五木の1つにも数えられている。樹形がいいからよく公園にも植えられる。日本人にとっては大切な木だ▼木は鉄筋コンクリートよりも長く生きる、と宮大工の西岡常一さんはいう。法輪寺三重塔の建立の時、クギの補強を主張する学者に西岡さんはかみついた。「ヒノキの命が1300年以上もあることは、法隆寺で証明ずみだ。なのに、せいぜい100年で腐ってしまうクギを打ち込めば、木の命をちぢめることになる」と▼奈良の古墳から出土した数々の木製品をつくった人びともまた、木のいのちを信じ、豊穣(ほうじょう)な木の文化と共に生きていたはずだ。私たちはいま、木のいのちをあまりにも粗末に扱っている。 株と政治家 【’88.2.7 朝刊 1頁 (全858字)】  株で2億円もうけたことの申告漏れが明らかになって、自民党の相沢英之代議士が衆院法務委員長を辞めた▼申告漏れについて「私はそういうつもりはなかったが不注意だった」と釈明している。元大蔵官僚の相沢さんでも、注意を怠るとつい申告漏れをするほど、いまの税制は複雑怪奇なのか。ここのところは「私はマルサに見つかるようなへまはしないつもりだったが、不注意だった」といい直すべきだろう▼おもしろいのは、兜町(シマ)の反応だ。「氷山の一角です。シマから永田町のセンセイ方に流れる金は年間50億、100億じゃきかないんじゃないか」といっこうに驚く様子がない。今さらいうまでもなく、政治家と株は切っても切れぬ縁がある▼選挙が近づくと、いわゆる政治銘柄が動く。特定の会社の株が異常人気を呼ぶ、ということはよくある。閣僚の資産公開でも、投機性の高い株や優良株を持っている人の多いことがわかる。時価で計算すると、少なからぬ株長者がいる、という分析があった▼株などのもうけに課税せよ、という主張に対して、自民党の渡辺政調会長は「少女趣味やひがみ根性だけでやると、株価大暴落などで大きなケガをするかもしれない」といって、暴投ぎみのけんせい球を投げたが、課税強化で大けがをするのはだれよりも、株のもうけを政治資金に回している政治家諸氏だろう▼いや、政治家だけではない。株の取引や不動産の高騰で、資産格差がひろがりつつあることは、貯蓄動向調査などを見ればすぐわかる。カネ余り現象が、資産家をますます資産家にしている▼だからこそ、税制改革の基本は、何よりもまず、株などのもうけに対する課税を強めること、大土地所有者に対する課税を強めることだろう。土地税制改革こそは、地価対策の妙薬であり、不公正是正のかなめでもあるのに、政府は腰を上げない。税制改革とは大型間接税導入なり、という政府筋の誘導ばかりがめだつ。 補聴器は“医療器具”だ 【’88.2.8 朝刊 1頁 (全857字)】  西独のボンにあるベートーベンの生家で、彼が使った補聴器を見た。メガホンのお化けのような形で、みるからに原始的なものだった▼わが国には約300万人の難聴者がいる、という。高齢者がふえ、ひどくなる一方の騒音を思うと、難聴で苦しむ人は今後も確実にふえるだろう。その悩みを救う手段の1つが補聴器だが、これがベートーベンのころと違って、小型で軽くてスマートになった。それに、だれでも手軽に街の眼鏡店やデパートで買える▼小さいときから難聴気味の同僚がいる。軽薄短小の補聴器なら、とデパートへ出かけた。売り子の口上を聞き、あれこれ試しているうちに、変なことに気づいた▼眼鏡を作るとき、視力検査は欠かせない。近視か遠視か乱視か。その人に合うレンズはどれか。そうした検査を繰り返した上で、最も適切な眼鏡ができる。難聴も千差万別のはずだ。とすれば、補聴器も眼鏡と同様、きちんと聴力検査をやり、一人一人に合う補聴器を作るのが本当ではないか。こう思った同僚は何も買わずに帰ってきた▼そうしているうちに、大和田健次郎さんを知ることになる。大和田さんは戦中戦後、慶応大学病院で耳鼻科医をつとめ、そのあとは東京学芸大で難聴児の研究と治療にあたってきた▼今でも現役のお医者さんだが、特に補聴器の研究に力を入れている。その人に合う補聴器を決めるまでに、綿密な事前検査とテストを何回も繰り返すそうだ▼大和田さんが憤慨するのは「補聴器は医療器具だ」という当然のことが忘れられ、売らんかな商法の犠牲になっている面のあることだ。「補聴器をつければ、当然よく聞こえます。しかし肝心なことは、周囲の音ではなく人の話す言葉をどれぐらい正確に聞きとれるかです」。大和田さんはそういう▼そのためには耳の専門家の助言と事前検査が必要だ。大和田さんは、今も関係者にそのことを説いてまわっているが、その労はまだ報われていない。 国会中継という名のテレビショー 【’88.2.9 朝刊 1頁 (全839字)】  面白テレビの仕掛け人、といわれる横沢彪さんの『イケナイ!?発想読本』には視聴率かせぎの知恵のあれこれが披露されていて面白い▼いわく、嫌われものを引っ張り出せ。いわく、バカバカしいことを平気でやってしまう感覚を。いわく、ものごとは予想外に展開したほうが面白い。いわく、番組はお祭りである▼衆院の予算委員長に浜田幸一氏が起用されるときいた時、これは、テレビの裏表に詳しい陰の演出者がたくらんだ芝居ではないか、と筆者は思った▼国会中継を面白くするには、品位にすがりついてはいられない。そう、浜田氏自身がいっている。「ぎまんに満ちた品位より、わかりやすくものを主張する人間のほうが、国民に受け入れられる」と▼変幻自在にものをいう。「お前、出て行け」式の強圧的な言葉を平気で使う。ほんねをむきだしにすることをもって、よしとする。憎しみを増幅させるやりとりを好む。そのほうがたしかにテレビの視聴率はあがるだろう▼そして浜田幸一氏ほどテレビを意識する予算委員長は、かつてなかった。社会党の山口書記長の質問を一方的に打ち切ったのも「テレビの放映時間を考えたから」だし、共産党の正森議員の質問をさえぎったのも、テレビの放映が切れる直前だった▼もしかしたら浜田氏は、衆院予算委の場を、国会中継という名のテレビショーの場と取り違え、そのショーの主役を演じている、という錯覚におちいっていたのではないか▼「あなたがほんとに民主思想が好きなら、口でしゃべり、その種子を人々の脳髄のなかにまいておきなさい。何百年か後には、国じゅうに、さわさわと生え茂るようになる」という意味のことを中江兆民が書いている(三酔人経綸問答、岩波文庫版)▼国会中継を面白くすること自体に異存はないが、国会はまた、日々、民主思想の種をまき続ける場所であることを、忘れないでもらいたい。 アフガン侵攻の後遺症 【’88.2.10 朝刊 1頁 (全844字)】  シャーロック・ホームズの相棒であるワトソンは、軍医だった。19世紀末の第2次アフガニスタン戦争に参加し、肩に重傷を負ったが、一命をとりとめた。小説の中の話ではあるが、勢力拡張をはかるイギリス軍とアフガニスタン軍との戦闘は、実際にも相当な激戦だったらしい▼約100年後、今度はソ連軍がアフガンの泥沼にのめりこんだ。帰還した兵士たちは夢にうなされ、酒びたりになる者もいれば、麻薬中毒になる者もいるという▼ある麻薬中毒病院に3人の帰還兵が治療を求めてきた。「彼らは麻薬中毒以上に深刻な病に侵されている。つまり、彼らを戦争に引き戻す『戦場の記憶』にとりつかれているのだ」とソ連の医師が語っている▼ソ連の記録映画に、やはりアフガン帰還兵士がでてきて、こういうそうだ。「ぼくの手は汚れている。忘れようたって、だめさ。死ななきゃ、なおらない」「みな、おとながわるい。うそばかりつくからな」。雑誌『世界』1月号で、藤村信さんがこの話を紹介している▼こんな話もある。ソ連を亡命した異端派知識人が「アフガニスタンのソ連兵士は市民の虐殺を強制されている」と訴えた。編集陣を若返らせた『モスクワニュース』はこの訴えを、堂々と掲載したという。かつてのソ連では考えられないことだ。「ソ連でも言論の場における公正な決闘が展開されるようになった」と藤村さんは書いている▼アフガン侵攻の後遺症は深刻だ。ソ連に対する非難は同時に、東西の軍拡を加速させたし、軍拡のツケは、やがてはソ連経済の重荷になった。そして大義名分のとぼしい戦争にかりだされた若者たちの心の傷は深い▼ゴルバチョフ書記長は、5月15日からアフガン撤兵を始める、と声明した。私たちはいま、ソ連の後遺症にばかり目を向けているわけにはいかない。戦争は破壊を生み、破壊は難民を生む。その数は500万人、ともいわれている。 伊方原発問題の背後にあるもの 【’88.2.11 朝刊 1頁 (全856字)】  チェルノブイリ原発事故のあと、原発についての日本人の世論が逆転した。一昨年8月の朝日新聞世論調査によると、原発推進に反対の人が41%で、賛成が34%である。その2年前、つまりチェルノブイリ事故が起こる前の調査では、原発推進賛成派が反対派を上回っていた▼日本の原発でも大事故が起こるという不安を感じている人が67%もいた。四国電力伊方原発の出力調整試験に対する反対運動の背後にあるのは、この不安だろう▼出力調整のための操作というのは、原発の定期検査などで運転を止める時には必ず行われるものだ、と会社側はいうだろう。だがたとえば、出力調整運転が日常化した場合はどうなのか。電力会社はもっとすばやく、もっと詳細に、もっとわかりやすく、情報を公開し、不安にこたえる姿勢をとるべきではないか▼出力調整の必要があるのは、電力の需要が極端に低い時に電力が余るからだろう。それは電力の供給を、需要が極端に高い時にあわせているからだろう▼それならばと、しろうとの筆者は考える。供給の調整の前に、使用量の調整をはかる工夫や呼びかけがあってもいいのではないか、と。それは消費者の生活の質を変えることを求めるものになるかもしれないが▼伊方原発の問題は、原発についていろいろなことを考えさせてくれた。たとえば正月2日の朝などは、火力、水力の発電量が抑えられ、原子力の発電量が全体の58.1%になるという数値は、筆者には驚きだった▼たとえばまた、1日付のニューヨーク・タイムズ紙にのった「原発はお荷物か」という意味の記事も興味深かった。アメリカでは、完成し稼働する前に計画が取りやめになった原発のために約4兆円近い経費がむだになっている、原子力発電が石炭よりも割高になっている、という指摘だ▼日米では事情が違うから短絡的な比較は禁物だが、アメリカにこういう議論があるということは知っておきたい。 ファクシミリのプライバシーをどう守る 【’88.2.13 朝刊 1頁 (全841字)】  ある会社から、社員たちの「実績速報」なる文書がわが論説委員室のファクシミリに舞いこんできた▼極秘文書ではないだろうが、その会社の社員名や契約数の成績順位などが記されている。成績順位を社外の人の目にさらされるなんて、ご当人たちにしてみれば迷惑千万な話だが、こういう間違いはそう珍しいものではないらしい。ファクシミリの網の中で、どうやってプライバシーや企業秘密を守るか。これを真剣に考えなければならない時代になった▼同僚がただちにその会社に連絡すると、送ったはずの文書が営業所に届かず、情報が迷子になった、と話しあっていたところだった。ファクシミリ番号の末尾のヒトケタを間違えたことが原因らしい▼こちらから連絡しなければその文書は迷子になったままだった。そしてこの迷子になった文書を発信者が探すのは難しい、というところにも問題がある▼ファクシミリを利用したいたずらもある。ある会社がファクシミリを自動受信にしていたところ、深夜「オレはデビルマン」という手書きの文字が送られてきたり、白紙が60枚も送り続けられたり、ということもあった▼30年も前の話だが、気象庁担当の先輩が「ファクシミリで気象庁と本社をつないで天気図を送ってもらうようにしたらどうか」と主張したが、夢みたいな話だと退けられたものだ▼いまは、天気図はファクシミリでくる。筆者もまた、日曜日に家で原稿を書いた時などはファクシミリで論説委員室に原稿を送る。間違ってよそさまの受信機に届き、なんだ、このおかしな原稿は、と紙くず箱に捨てられることがあるかもしれないが、いままでのところは無事である▼ファクシミリはたしかに便利だ。しかしこの情報電送機の使用が日常化すればするほど、プライバシーがもれる、企業の情報が宙をさまよう、ということがふえるだろう。ファクス情報拡散防止策が必要だ。 自民党・浜田氏の予算委員長辞任 【’88.2.14 朝刊 1頁 (全840字)】  D・T・キングズレー氏の『上手なクビの切り方』(近藤純夫訳)という本に、こう書いてある▼解雇で大切なのは、準備だ。十分に時間をかけ、解雇の「表向きの理由」について「一貫性のある、もっともらしい話を、外部に説明するためにも用意しておくべきだ」と▼表向きの理由は「会社のイメージをそこなうものであったり、その従業員を無能に見せたり、手に余る人間であるかのように思わせるものであっては困る」とあった▼会社を自民党に、従業員を衆院予算委員長の浜田幸一氏に置きかえてみれば、自民党は十分に時間をかけて、上手な首切りに成功した、といっていいだろう。「予算案審議の遅滞の責任」が表向けの理由だ。だが、辞任をめぐって「大義に殉じた」「男らしい」という称賛の辞が飛びだすのをきくと、待てよ、という気になる▼山東昭子さんは参院の環境特別委員長を辞める時にこういった。「自ら招いた軽率なミスから火事を起こした。私が焼け死んでも大切なかわいい子(公害健康被害補償法の改正案)を何とか助けたい一心です」。この時は男らしい決断とも女らしい決断ともいわれなかった▼浜田氏の辞任の弁も、表現は違うが、法案審議を優先するために己を犠牲にする、という表向きの理由は同じだ。中身は変わらないのに、今回はなぜか男ハマコーの男らしさが強調され、社会党の山口書記長まで「男らしい態度」だといいだした。土井委員長としては、一言あってしかるべしだろう▼国家のために犠牲になるのが男らしい、という言い方は、日米安保という国是のために三宅島の島民は男らしく生活を犠牲にせよ、という主張にもつながる▼国家のためとはいわず、「民主主義のルールを守る上で、誤りをおかした。反省して辞める」とわびていれば、それは男らしい発言でも女らしい表現でもなく、まことに政治家らしい決断だったのに、と思う。 現代人に好まれないねばり強さ 【’88.2.15 朝刊 1頁 (全850字)】  糸引き納豆の話だけれど、最近どうもねばりが弱いと思う。昔は、どんぶりの中でかきまぜていて、はしが折れたりしたものだ。業界の話によると、新しいタイプのものはたしかにその通りだという▼若い人の納豆ばなれがずっといわれているが、理由をつきつめると、あのねばりとにおいにある。納豆のにおいは発酵臭で、これはねばりにつきものだから、結局はあのねばねばがきらいだということになる。若い人に好かれなければ将来性が薄いとすれば、納豆も変わらざるをえないのだろう▼納豆は大豆に納豆菌を植え、これを発酵させてつくる。発酵が十分でないと、ねばりは出ない。発酵が不十分というのは、一粒一粒の豆の中に菌が入っていないということで、それだけ味が未熟だということでもある▼しかし、そこは今日の食品加工技術の進歩で、化学調味料の添加などで味を補うことができる。糸の引きぐあいが悪くても、けっこううまい納豆はできるという。この業界では近ごろ、納豆菌のかわりにテンペ菌という発酵菌を使ったものをつくりはじめた。これだと、ねばりもにおいもほとんどない▼落語の『まんじゅうこわい』にこんなくだりがある。「糸を引かなかった日にゃあ納豆ァうまかねえや。クモを2、3匹つかまえて納豆ン中ィたたッこんで、きゅうッとかきまぜてみろ。糸を引いて納豆のうめぇうまくないの……」。ねばりこそ納豆のいのち、などというのも昔話だろうか▼ついでにいえば、ヤマノイモも同じだ。栽培品種のものは、切ってはさくさくしているし、すればそのままとろろ汁になる。昔のとろろは、だし汁で必ずのばしたものだ。そのかわり、あくも少なくなったのか、口のまわりがかゆくなることもない▼もう一ついえば、もちも近ごろのはねばりがない。煮たり焼いたりしているうちに、とろけてしまうのがある。ねばり強さはどうやら、現代人の好みではないようである。 春を告げる節分草 【’88.2.16 朝刊 1頁 (全855字)】  秩父でセツブンソウ(節分草)をみた。この花は節分のころに咲く、というのでこの名があるが、秩父市の近郊では今ごろ、咲く。山の奥では3月になって咲くという▼大地に春意が訪れる気配を感じとって、節分草はいちはやく春を告げる。白い花びらのようにみえるのがガクで、その白さには、日の光をはね返す強いきらめきはない。光をしみ通らせて自分をあたためよう、というひかえめな、地味な白だ▼花びらはさらに地味で、ガクの中に隠れている。筒状の形で、先端がカタツムリの目のように2つに割れて伸び、目玉の部分が黄になっている。筒状の花びらは、青藤(あおふじ)色の頭をもったオシベを囲んでいる。葉には赤紫色の縁取りがしてあって、なかなかの凝りようである▼花との出あいを書いた滝田吉一さんの『自然の片隅から』という本に、秩父山地の節分草の話がある。滝田さんはいつも、3月の上旬に節分草に会いに行く。その年は斜面が一面の雪におおわれていた▼「もしやと雪を掘ってみた。はっと息をのんだ。雪の下で節分草が咲いているのだ。雪は節分草の咲くところだけ、小さな雪洞になっている。節分草は雪の下の小さな洞の中で咲いている。いったい何がこうして雪を融かすのだろう」。その姿をみながら、滝田さんは「脈々と大地を流れる春の生命の音」をきいた▼私たちがみた節分草は、茶畑の隣に咲いていた。石ころや枯れ葉の中で茎を伸ばす姿をみて、『ルバイヤート』(小川亮作訳)の歌を思った。大昔のペルシャの詩人オマル・ハイヤームの作品だ▼「川の岸べに生え出でたあの草の葉は/美女の唇から芽を吹いた溜め息か/1茎(ひとくき)の草でも蔑んで踏んではならぬ/そのかみの乙女の身から咲いた花」。このペルシャの詩人には自然の営みとの一体感があり、人間もまた死ねば土になり、自然の輪廻(りんね)の中にあるという思想があって、そこにひきつけられる。 黒岩彰選手の「離見の見」 【’88.2.17 朝刊 1頁 (全846字)】  銅メダルを手にしたスピードスケートの黒岩彰選手が「だれが勝っても心からおめでとうといってやろうと思っていた。きょうの勝負より、この4年間をむだのないものにすることを一番大切にしてきたから」といっていた。味のある言葉だ▼500メートルを滑り終えた黒岩は、世界新をだした東独のメイ選手のもとに行き、相手の胸をトンとたたき、笑顔で語りかけた。「やったな。おめでとう」といっているように見えた。たとえ敗れても、相手の勝利をたたえられる自分でありたい。試合前にそう思ったというところに、この選手の成長がある▼スポーツ選手が勝つために精進するのは当たり前だが、4年前の黒岩選手は、勝つことにこだわりすぎていたように思う。「たくさんの人たちの恩にむくいるためにもサラエボ五輪で勝ちたい」といっていた▼いや、当時、米国のエリク・ハイデン氏がいっている。「すべての日本人が黒岩に勝つことを期待していたために、彼に大きなプレッシャーがかかっていた」と。そこには、勝ちにこだわる「国民の期待」があった▼前に世阿弥の「離見の見」について書いたことがある。舞台の上の自分の姿を見物席から見るように、見る。見物人の目で自分の後ろ姿を見る、というのが離見の見だ▼敗れた時に勝者を祝福するという自分自身の姿を想像し、そういう自分でありたいと願った時、黒岩選手には離見の見に似た心構えが育っていった、と思いたい。勝利のみにこだわらず、自分と同じように精進してきた選手の存在を認め、その選手とかかわって闘う自分を見つめる、という心のゆとりが生まれたのだろう。試合前のゆとりは緊張で硬くなる筋肉をほぐす▼「4年間をむだのないものに」という言葉もいい。心と体を鍛え抜いた過程を大切にする。メダルがとれようととれまいと、4年間の精進の記録をこれからの人生の宝物にする、という意味だろうか。 土地対策の「大胆な発想と実行」を願う 【’88.2.18 朝刊 1頁 (全869字)】  カルガリー発の記事に、こんな話があった。競技には関係ないが、カルガリーでは、新興住宅地の一戸建てが2500万円ほどで買えるという。800平方メートルの土地に建つ床面積200平方メートルの2階家である。東京近辺だったら数億円だと記者がいうと、土地の人に「クレージーだ」といわれる▼「そんなところに住まないで、家族をカナダに移住させなさい。あなたは単身赴任で東京で働き、時々ここに来ればいいでしょう」とすすめられる。ひょっとしたら、こういう暮らし方が、これからははやるかもしれない。そのかわり、押し寄せる日本人のためにカルガリーの地価が暴騰するだろうななどと考えながらこの記事を読んだ▼ここでいいたいのは、日本の大都市とその周辺の地価は、よその国からみればいぜんとして気違いざたの状態にある、ということだ。それなのに、国会から土地を論ずる熱気が消え去ったようにみえるのはなぜだろう▼衆院予算委の公聴会で、かろうじて2、3の人が土地政策を論じた。上智大の岩田規久男教授は「土地税制の基本原則は、利用を有利に、所有を不利にすることだ」と主張した。「住民参加による土地利用計画をつくれ」とも説いた▼税制改革を論ずるならば、大型間接税の前にまず税の不公正を論ずべきであり、税の不公正を問題にするならば、土地税制の改革をこそ、急ぐべきだろう。大土地の保有や売買についての課税を強めれば、軽く数兆円の税収があるだろう。現状は、大土地所有者が当然払うべき税が、勤労者にしわ寄せされているように思えてならない▼中曽根さんの失政は、1つは貿易摩擦対策であり、1つは土地問題だった、という財界人がいた。竹下さんは「土地対策は内政上の最大の課題の1つ」といいながら、待ちの姿勢をとり続けている。新しい土地税制にせよ、遷都の問題にせよ、そろそろ「大胆な発想と実行」の約束をはたしてもらいたい。失政の踏襲はごめんだ。 プロの誇りと心で売る商い 【’88.2.19 朝刊 1頁 (全842字)】  朝、洗濯屋で受け取ってきたワイシャツを着る。前のボタンをかけて、さて、とそでのボタンをかけようとすると、ボタンがない。あるいは割れている、ということがよくありませんか▼ボタン1つくらいどうだっていいじゃないかと思いつつも、これが度重なると、腹が立つ。大量サービスとはなにかを切り捨てるものです、という業者のつぶやきがきこえてくるようで、寒々とした気持ちになる。これもご時世なりとあきらめるほかはないのでしょうか▼クリーニング業界の総合研究所の話では、ボタンは洗っている最中にとれたり、プレスの時に割れたりという例が多いそうだ。プレスでは、洗濯物の下に置くマットが弾力を失って硬くなると、割れやすくなる。「割れたら新しいボタンをつけるよう指導しているのですが」という話だった▼ボタンをつける工賃がばかにならないという事情もあるだろう。問題はしかし「プロの誇り」といったことではないか▼『銀座百点』2月号に、劇作家の野口達二さんがこんな話を書いている。野口さんは、母の日の贈りものは銀座のある履きもの屋の草履、ときめている。もともと「老いたる母は、そのお店の低目のコルク底の草履に、丈夫な緒をすげてもらって愛用していた」▼ある年の母の日の前、野口さんは初めてその店に行った。コルク底の草履はいちばんの安物だが、事情をきいた店の主人は「お母さんが、ご安心できるように」と自分で緒をすげてくれた▼「私はなんとも言えぬ安堵感を覚えた。たいていは、並んでいるものをただ売る時代である。屈強とは言えぬまでも、男が、きびきびと緒をすげている姿に肯かされるものがあった」と野口さんは書いている▼以来、母の日が近づくと、その店に立ち寄る。主人はもう覚えていて、いつも自分で緒をすげ、黙って、カーネーションの造花を添えるという。心で売る商い、というのだろうか。 日本しんばり棒論と米国防報告 【’88.2.20 朝刊 1頁 (全840字)】  アメリカの国防報告が「日本は90年代にもなお、自衛力増強のための顕著な努力が必要だ」と説いている。「米国は、そのための日本督励に努める」ともあった。90年代もまた軍拡のための「顕著な努力」を督励されることになる日本人としては、なんというごうまんなもののいいようかと思う▼2年前、米国のアーミテージ国防次官補が「日本はクマの檻(おり)のしんばり棒だ」という表現を使った。この言葉は、米国にとっての日本の役割を見事にいいあてているが、檻のしんばり棒だといわれて、楽しかろうはずがない▼しんばり棒にはカネをかけたほうがいい。そのカネも、しんばり棒自身が負担すればもっといい、という議論を進めると、これはさいげんのない日本軍拡期待論になる▼だが、それでいいのかという警戒論が米国内にあるのもたしかだ。去年の世論調査では、米国の有識者の4人に1人が「日本の軍国主義復活の可能性」について「非常にある」「かなりある」と答えていた▼米国防総省の長期戦略報告書も「日本が軍事大国の道を歩むかどうかが米国の長期戦略のカギだ」と説き、キッシンジャー元国務長官は「2000年までに日本は重要な軍事大国になる」と予測している。米国は日本の軍拡について「警戒する。されど期待する」という複雑な立場にある▼政府は、いうべきことをきちんといっているのだろうか。日本の防衛力はすでにNATOの主要諸国と肩を並べる水準にあるということを。1%枠というと少ないように見えるが、85年度の防衛費は80年度と比べて、ドルで換算すると23%の伸びを示していることを。この間、フランスは5.9%増、西独は0.1%減だということを。日本が軍事大国になれば近隣諸国だけでなく、アメリカの脅威にもなるということを▼米国防報告には、INF条約調印の時の風とはまた違う風が吹き抜けている。 家庭でも気配ろう、雑排水対策 【’88.2.21 朝刊 1頁 (全844字)】  『水情報』という小雑誌がある。発行人は下水道問題の専門家、中西準子さんだ。第7巻2号で中西さんはこう書いている。「安心できない飲料水を作り出しているのは、安全なものを求める市民自身である場合もある」と▼環境庁は排水規制の対象をひろげ、外食産業にも目を光らせようとしている、という記事があった。それはそれで歓迎するが、家庭排水にも問題がある。たとえば東京湾の汚れの半分は、家庭がたれ流す雑排水によるものだという▼八王子市が一部の家庭に雑排水対策を呼びかけた。(1)食器などのひどい汚れや油は紙でふきとってから洗う(2)三角コーナーや生ごみ受けに濾紙(ろし)袋をつける(3)油はできるだけ使いきり、流さない……などを各家庭が7日間、試みた(ちなみに、使い古したてんぷら油0.5リットルを魚が生息できるまでに薄めるにはふろおけ330杯の水が必要だという)。この試みでたちまち排水路の水の汚れが、2割ほどきれいになった▼空き缶に穴をあけて土中に埋め、そこに汚水を流すと微生物の力できれいな水になる。熊谷市のある小学校や給食センターはこの力を利用して2次、3次の浄化槽に空き缶をいれて成功した▼私たちは大規模な下水道に頼り、自分たちが流す水の行方に鈍感になりすぎている。下水道がない場合はとくに、排水の汚れに気を配ることが必要だろう。その意味で、下水を処理せずに捨てておいて「飲み水を安全にせよ」というのはおかしい、という中西さんの主張に賛成だ▼自分の下水を自分で浄化する施設を個人下水道という。これが今は技術的に可能になり、大型下水道よりも経済的だとさえいわれている。中西さんはこの個人下水道を評価し、「下水処理生協の勧め」を説く。生協が「自分たちの下水道」の設置や管理に乗りだしたらどうか、という勧めだ。げんにこの勧めにこたえる動きがある、ときく。 深刻化する農山村の嫁不足 【’88.2.22 朝刊 1頁 (全832字)】  「嫁不足は騒いでもしようがない。それより安心して農業ができる、働けば食べていける環境をつくるべきですよ」。農山村の嫁不足問題を取り上げた本紙鹿児島版で、36歳になる青年がこう語っている▼この青年は10年前に、勤めていた横浜市の電気メーカーをやめ、郷里の大隅町で農業を継いだ。32歳のとき、農家の娘さんと初めて見合いした。青年が農業の話を始めると、相手の親から、「娘は農業をやったことがありませんから」と、その場で縁談を断られた▼仲介をしてくれた人が気をきかせて、農家の後継ぎであることを相手に伝えていなかったのだ。その後2回ばかり見合いをしたが、うまくいかない。「家庭を持つ必要は感じるが、結婚を急ぐことだけがいいこととは思いません」。自分に言い聞かせるような青年の言葉が胸を突く▼大隅半島の中央部にある大隅町は、それほど秘境というわけではない。ありふれた農山村だが、農家の嫁取りがだんだん難しくなっている。38歳未満の農業後継者163人のうち、半分以上の84人が未婚である▼農村を回ると、創意工夫によって道を切り開いている後継者たち、若くて魅力的な夫妻に出あうことも少なくないが、一般には、全国農山村の8割が嫁不足に悩んでいるといわれる。そして年を追って深刻さをましている。山村問題を研究している林政総合調査研究所の森巌夫さんも「最近の花嫁難はただごとではなくなった」といっている▼「減反や米価より嫁キキンの方が大変だ」「個人の結婚に行政が口を出すべきではないが、このままでは村がつぶれる」。森さんが農山村で聞かされるのは、こんな話が多い▼一部の自治体では、フィリピン人など外国人との縁組に踏み切っているが、こうした農山村の国際結婚のありようについては批判もある。これも「ただごとでない」現象の1つの表れに違いない。 故黒川利雄氏と胃がん 【’88.2.23 朝刊 1頁 (全840字)】  亡くなった黒川利雄さんは、91歳でなお、財団法人、癌研病院の名誉院長として、毎日、患者の診察を続けていた。病院の2階から内科病室の6階まで、エレベーターを使わずに階段で上り下りをしていたそうだ▼胃病の患者にはよく「お薬をのむ時には、にっこり笑ってのむように。にがむしをかんでのんじゃ、薬はきかない」といっていた。人間の心のふしぎさをいつも考えていたお医者さんだった▼「医学の目的は、人間をわかろうということでしょう? まだ、私にはわからない。とても人に説くどころではないのですが」といいつつ、若い人には人間の心を考える医者であれ、といいきかせていた▼黒川さんの業績は、胃がんの集団検診を進める体制を作ったことだ。昭和の初めに留学、ウィーン大学のホルフクネヒト博士の指導をうけた。博士は、レントゲンで胃腸を診断する方法を世界で初めて切り開いた人だが、実験を続けているうちにレントゲンの放射能の影響で亡くなった。黒川さんはその遺志をついだ▼東北大時代「患者が来るのを待っているわけにはいかない。ただ待っていたのでは、無自覚無症状の早期がんの発見など思いもよらない。私は診断装置を車に積んで行く」といい、トラックで宮城県の山村漁村をめぐり歩いた▼胃がんの集団検診―早期治療という当時としては画期的な診察法のおかげで、たくさんの人が命を保つことができた。胃がんは、がんの中で相変わらず死亡率1位を占め続けているが、近年、急激に減り始めている。その有力な理由の1つが集団検診だ▼黒川さんは今から25年前、こういっている。「米国では政府から年に300億円の金ががん研究に出る。日本の癌研では、経常費3000万円をどこから出すかが頭痛のタネです」と。がんの治療法は大幅に進んでいるが、政府の補助が極端に少ないという事情は、残念ながら今も変わらない。 2・26事件の真相 【’88.2.24 朝刊 1頁 (全844字)】  いまから52年前の2月26日、東京は雪だった。現役将校と兵たちが首相官邸などを襲い、高橋蔵相、渡辺教育総監、斎藤内大臣たちを殺害した。これが2・26事件である▼この事件は、はねあがりの将校たちの決起だけではなく、背後には陸軍上層部の関与もあった、と疑わせるに足る重要資料が公表された。当時の軍法会議首席検察官の匂坂春平(さきさか・しゅんぺい)氏が残した資料で、極秘とされていた文書も少なくない▼沢地久枝さんの『雪はよごれていた』を読んだ。沢地さんは、NHKとの共同取材で匂坂資料を追い「軍人たちは何を、雪の闇(やみ)へ消し去ったか」を追究する。630点の資料を入念に調べ、そこから浮かびあがるものを凝視する▼たとえば匂坂検察官の驚くべき意見書がある。ひとことでいえば「陸軍の幹部の身柄を拘束して調べなければ真相はわからない。真相を明らかにしないと禍根を将来に残す」というものだ。陸軍の検察部は、上層部の反乱幇助(ほうじょ)の有無を究明することに強い意志を持っていたらしい▼当時の東京憲兵隊長、坂本大佐も匂坂氏あてに「軍上層部内ノ叛軍一味徒党検挙計画案」をだしている。反乱幇助の疑いで香椎戒厳司令官たちを検挙せよ、というものだ▼だが、軍中枢の関与の有無はナゾのまま封印された。「もしあのとき、匂坂さんが香椎中将たちを起訴していたら、陸軍は皇道派も統制派もない。すべて崩壊していたでしょうね」。元陸軍法務官、原秀男弁護士の感想である▼匂坂資料は、2・26事件の闇に挑む手がかりを与えてくれた。しかし、闇は、あまりにも奥深い。本を書きあげた感想を、沢地さんにきいた。「軍の極秘の壁の中で歴史の真実がいかに消し去られてしまうか、武力集団が権力を握った時、いかに恐ろしいことが起こるかを改めて思いました」▼2・26事件の翌年、日本は日中戦争に突入する。 世界の子どもに広がる“HAIKU” 【’88.2.25 朝刊 1頁 (全892字)】  小学4年生が作った俳句に「シャボン玉私の顔も飛んでいく」(鈴木和代)というのがあった。「あかちゃんをとうふのようにだっこした」(小三浦匠)「夏の雨わたしのかさはピアノです」(小6土屋美奈)も楽しい▼「おじいちゃん柿もじゅくした死んだらあかん」(小3滝本晃雄)。どきりとさせられる句だ。「ひまわりやまっきいきいのフライパン」(小2三角綾子)となると、これはおとなには作れない。英訳は Sunflowers!/Yellow,yellow,yellow/Fryingpansである▼日航広報部編集の『俳句の国の天使たち』には子どもたちの秀作がたくさん登場する。世界の子どもを撮り続ける田沼武能さんの写真つきで、苦心の英訳もあって、なかなか楽しい▼一昨年、日航はカナダで開かれた「交通博」に、日本の子どもたちの句を英訳して風景写真と共に紹介した。反響があった。そこで、カナダのある州に呼びかけて俳句コンテストを行った。予想を上回り、1万4000句も集まった▼たとえばThe friendly snowman/Enjoying the sun´s heat/Feeling the mistake(小6スーザン・ファン)というのがあった。これを「雪だるま/日なたぼっこで/あ いけない」と訳した人がいる▼私たちがあまり気づかないうちに、俳句は海外でもてはやされている。外国の小学校ではHAIKUを教えるところもある。「俳句は日本文学のなかでもっとも国際性にとんでいる。文芸のジャンルとしては唯一の輸出文学だ」と佐藤和夫早大教授が書くような現象が起こっている(『俳句からHAIKUへ』)▼日本の子が出稼ぎの父の句を作り、カナダの子が、編み物をして生活費を稼ぐ母親や原野のオオカミの句を作る。そういう句を知り合うことの意味も大きい。日航では、毎年、世界のどこかの国で俳句コンテストを行う計画だという。いずれは地球規模の歳時記ができるかもしれない。 コメと食糧安保 【’88.2.26 朝刊 1頁 (全848字)】  「食糧は、外国産より高くても、生産費を下げながら国内で作る方がよい」と答えた人が32%もいた。「少なくともコメなどの基本食糧は、生産費を下げながら国内で作る方がよい」と答えた人が39%で、あわせると71%になる▼基本食糧を外国に頼っていては危ない、と食糧の安全保障を考える人がいかに多いか、をこの総理府調査は語っている。同時に、この人たちが「生産費を下げること」を条件にしていることを見落としてはならない。為政者がこの自給派の心を見誤ると、厳しいしっぺがえしをくうことになる▼コメについては、2つの流れがある。1つはコメの消費量が年々減っていることだ。26年前は、国民1人が1年間に食べるコメは118キロだった。それが最近は73キロにまで減っている。コメを食べる量を減らしながら食糧安保をいうのは矛盾しているようだが、現実はそうだ▼もう1つの流れは、そのコメ離れにどうやら歯止めがかかってきたらしい、ということである。学校給食でのごはんは、10年前は週に1回あるかないかだったが、いまは週に2.2回で、いずれは週3回になる勢いだ▼パンの給食がほとんどだったころの調査では、学校給食体験派はその後も洋風の献立を好み、非体験派は和風を好む、という傾向があったという。ごはんの給食がふえればふえるほど、これはコメ離れの歯止めになるだろう。そのためにも学校給食の場では、飛び切りうまいコメを、飛び切りうまい状態で食べさせてやりたい▼外食産業界でも、ごはんがもてている。おむすびにソーセージやえびのてんぷらをつけたファッションむすびなるものがかなり前からはやっている。ファミリーレストランでも、客の8割はごはんを注文するそうだ▼こういうコメ人気の中でなお需要が伸びない理由の1つは、値段だろう。いかにして安いコメを作るか、それはまさに食糧安保の緊急課題である。 「ふつうの人」強調する盧泰愚新大統領 【’88.2.27 朝刊 1頁 (全840字)】  盧泰愚氏がワイシャツ姿で現れ、円卓を囲んで組閣の話し合いをするという光景が大韓民国のテレビニュースで紹介された。これを見た韓国人は少なからず驚いた、という記事があった▼韓国では会議といえば四角のテーブルを囲んで上座に上司が座り、上意下達式に話が進む場合が少なくないという。盧泰愚新大統領は、ワイシャツ姿で丸テーブルに現れる演出をすることで「ふつうの人」を強調したかったのだろう。なかなかの演出家だ▼新大統領は、竹下首相に対して「ふつうの人という考え方は、1932年当時、犬養首相が平民、庶民、民主という話の中でいっている」とも語った▼犬養木堂首相は「帝国主義、軍国主義から平和主義に移りたい」と叫んだ人だ。そして青年将校たちに襲撃され、凶弾に倒れた。朝鮮独立の志士とも交わりのあった人でもあった。その犬養木堂の名前を持ちだしたことには、かなり象徴的な意味があったろう。竹下首相がこのことで的確な受けこたえをしなかったのは、さびしい▼首相は、日韓は「近くて近い国」でなければならぬ、とのべた。そのことはいい。だが、近くて近い、あるいは近くて深いつながりのある国になる道はけわしいものになるだろう▼韓国はめざましい経済成長をとげている。大統領は5年以内に所得を2倍強にする、と発言している。韓国経済界は、中国との交流をはかるだろう。さまざまな舞台で、日韓経済摩擦が激しくなる恐れがある▼ソウル五輪の問題もある。ロサンゼルス五輪では台湾代表の選手たちが野球の試合に出場した。それを見た中国の選手たちがルールのわからぬままに熱烈に声援した、という話が本紙の座談会記事にあった▼ソウル五輪で、朝鮮半島の南と北の選手たちが声援しあう光景を期待するのはもはや絶望的かもしれない。そうであっても、日本政府は最後まで「仲介」に力をつくすべきではないか。 2月のことば抄録 【’88.2.28 朝刊 1頁 (全853字)】  2月のことば抄録▼「11対3。完勝に近いと思います。4年戦ってきても崩れない。これが一番、大きいと思う」。三宅島の三浦次男さんが語った。村議選の結果は、米軍機の訓練飛行場建設に反対する固い意思を示した。そこにはふるさとの怒りがこめられている▼「気がついたら、周囲の家は日本人のものになっていた。買った家には住まずに売る。平和に暮らしている私たちの生活を乱している実態を、日本人投資家は知っているのか」。日本人の買いあさりが固定資産税をはねあげるとハワイの住民が怒っている。ここにもふるさとの怒りがある▼「国と国との対立の中で2人の命なんて本当に軽いんですね」。紅粉峰子さんの夫は第18富士山丸の船長で、朝鮮民主主義人民共和国に抑留されている。大韓航空機事件にほんろうされる政治状況への怒りだ▼「何か仕事をやり終えたというか、虚脱感というか、さわやかな気分というか」と語る水野栄市郎さんは、暴力団一力一家追放運動で何度か襲撃にあった。怒りが、恐怖感をはね返して勝った▼「自民党の安倍幹事長が『男らしい身の処し方』といったそうだけど、あれ不思議ねえ。どこが男らしいのかしら」。浜田幸一氏辞任劇についての上坂冬子さんの感想だ。ここにも形を変えた怒りがあった。浜田氏に一句あり。「ささめ雪やさしい心で道を説く」▼今月は怒りのことばばかりではなかった。「法安さんは、老人性痴ほう症のおばあさんを見つけると、手を引いて家まで送り届けるような親切な方でした」と村田新平さん▼千住署の法安巡査部長は、高層住宅に住む独り暮らしの老人の安否を確かめようとして墜落死した。「法安さんに、これをあげて下さい」。3000円の香典をもってきた少年がいた。巡査部長の手で立ち直った少年だった▼カルガリー五輪の聖火最終走者は12歳の少女だった。本部役員がいっている。「未来に向けて選んだ」と。 カルガリー冬季五輪のいい顔 【’88.2.29 朝刊 1頁 (全876字)】  競技を終えたあとの選手の表情には、人生がある。女子フィギュアで失敗したソ連のイワノワは、唇をかみしめ、成績の放送の途中で、いたたまれない表情で立ち去った▼スピードスケートの優勝候補、アメリカのジャンセンは、500メートルでも1000メートルでも転倒し、宙をかきむしってくやしがった。白血病の姉は「私も頑張るから、あなたも」といっていた。500メートルのレース直前に、その姉が亡くなった。姉のためにも金メダルを、という思いが体を硬くしたのだろうか▼公開競技のショートトラックで優勝した獅子井英子は、4年前に父を失っている。「天国で見てくれる父がきっと喜んでくれたと思います」。獅子井はそういってさわやかに笑った。タイツをめくると27針も縫った跡があるそうだ。けがの多い、厳しい競技なのだろう▼スピードスケートで4種目入賞の橋本聖子は、髪を短く切って五輪にのぞんだ。500メートルでは40秒を切り、日本新を記録した。「髪を切って切って、40秒を切りたいと思って」。レース後にそういっていた。この談話もなかなかいい。自己最高の記録をだしたことが、聖子にとってのメダルだ。最後の5000メートルは「ゴールに倒れ込んだらもう立てないほどにがんばる」と聖子はいった▼女子フィギュアの伊藤みどりは、うれしさに泣いた。観客は立ちあがって拍手をしてくれた。カナダの選手の好敵手であっても、たたえるべき演技はたたえる、というゆとりが観客にはあった▼そういえば、大会前半戦の人気をさらったのは、ジャンプ競技の英国選手、エディ・エドワーズだった。ジャンプ歴2年、左官工のエディの成績はびりだったが、堂々と胸を張り、「今日は生涯最高の日だ」と、両手を突きあげて喜びを表した。観客席はわいた▼人生を楽しむ術を知った選手と、スポーツを楽しむ術を知った観客との交歓があった。メダルの数なんかどうでもいい、という気にさせてくれる話だ。 「○○記念日」 【’88.3.1 朝刊 1頁 (全883字)】  ついこのあいだバレンタインデーで騒いでいたかと思ったら、またすぐお返しのホワイトデーとかがやってくる。義理チョコにしろ何にしろ、もらった以上は……と考えてしまう。数はたいへん少ないけれど▼サラダ記念日は別としても、最近は商売がらみの「○○の日」がやたらとできる。仕掛け人のひとりは広告業界だ。ここにはいろんな業種から、どうしたら売れゆきにはずみがつくか、何か妙手はないかと注文がくる。そこでバレンタインデーがお手本になる。つまりチョコレートの日である。チョコレートの全国の売り上げは、この1週間そこそこで1年分の1割強、四百数十億円にのぼるという▼問題はいつにするかだ。おあつらえむきの故事来歴が何にでもあるわけではない。お手軽なところでは「ごろあわせ記念日」が生まれる。はちみつの日(8月3日)ハムの日(8月6日)宝くじの日(9月2日)くしの日(9月4日)ふろの日(毎月26日)ニワトリの日(同28日)といったぐあいだ▼クイズ並みにひねったのも出てくる。いくつかあげてみる。挑戦してみてください。(1)電池の日(11月11日)(2)トイレの日(11月10日)(3)掃除の日(5月30日)(4)そろばんの日(8月8日)(5)イワシの日(10月4日)(6)ハイビジョンの日(11月25日)=答えは最後に▼広告業界の話だと、○○の日は年に10日ずつ以上ふえている。365日すべてがそうなる日も近い。とても全部にはつきあいきれない。義理チョコもいいが、いかに不義理して日々を暮らすか、これが一番の生活の知恵になるかもしれない▼その場合に、最後まで例外となる日が1日だけありそうだ。きのう、4年に1度の2月29日である。もっとも、それでもいいと、ニンニク業界あたりが乗り出せば話は別だが▼(1)11をプラス、マイナスと読む(2)いいトイレ(3)ゴミゼロ(4)パチパチ(5)10はイ<1>とワ<0>(6)走査線が1125本。 ペレストロイカに望む日本人の名誉回復 【’88.3.2 朝刊 1頁 (全846字)】  ソ連ではいま、スターリン時代に不当に弾圧され、粛清された人々の名誉を回復する作業が進んでいる。ペレストロイカ(改革)の一環だ▼この中には、ブハーリン、ルイコフといったロシア革命の大立者がいる。1938年、かつての同志スターリンに「おまえは帝国主義のスパイだ」と断罪され、銃殺されたブハーリンの論文も、処刑から50年、やっとソ連共産党機関紙に掲載されるようになった▼ゴルバチョフ書記長は昨年11月、スターリン時代に何千人もの党員や非党員が大量弾圧の犠牲になったと述べた。フルシチョフ第1書記のとき、一度は名誉回復の作業が積極的に進められたが、ゴルバチョフ氏によれば「(こういう)正義の復活は60年代半ばに事実上ストップさせられた」▼調査次第では、スターリン時代の犠牲者は途方もない数字になるかもしれないが、20世紀の愚行を明らかにするためにも、徹底的にやってもらいたい。その際、ぜひ頭に入れてほしいことがある。それは、スターリンによる粛清のあらしはソ連人以外にも及んでいるということだ▼戦前の日本共産党の幹部・山本懸蔵は、スターリン時代にモスクワで逮捕され、1942年、監禁中に死んだ。戦後、共産党の度重なる要請で、ソ連はやっと死後に名誉回復したことを伝えてきた。最初の問いあわせから十余年もたっており、くわしいことはいまもわからない。共産党同士でもこの程度なのだ▼大庭柯公(おおば・かこう)という人がいる。かつて毎日、朝日、読売の各紙で働いた私たちの大先輩だが、1920年代の初めにソ連に入ったあと、今日まで生死不明である▼荒畑寒村は当時の新聞に、大庭はスパイ容疑で逮捕されたらしいと書いている。その後、処刑説、病死説などが飛びかったが、決定的なものはなにもない。その大庭の随筆集『江戸団扇』が、こんど中公文庫で復刊された。ひょうひょうした味だ。 雛人形 【’88.3.3 朝刊 1頁 (全853字)】  沢村貞子さんが随筆集『私の浅草』でお雛(ひな)さまの話を書いている。父は、男の子のお節句には熱心で、毎年、床の間に金太郎や鐘馗(しょうき)さまが飾られた。しかしお雛さまが飾られることはなかった▼そのかわり、雛まつりが近づくと、手の器用なおばが、千代紙で紙人形を作ってくれた。茶の間にその紙人形を並べてあずきご飯を食べたという▼手製の紙人形というのは雛まつりの原型なのかもしれない。人形に災いやけがれを移し、それを川に流し去るという習わしは昔からある▼ひな遊びの古習がいつか、豪勢な雛人形を飾るおまつりになった。埼玉県越生(おごせ)の「笛畝(てきほ)人形記念美術館」に古い雛人形が展示されている、ときいたので見に行った▼17世紀の寛永雛があった。おそろいの金糸の衣装を着た男雛女雛は、よく太っていて、思わず笑いに誘われるようなあいきょうがあり、目も口も鼻もこぢんまりとしていて、昔の美男美女かくありき、と思わせる表情だった▼享保雛になると、衣装もかなり豪勢になる。「庶民には手が届かなかったでしょうね。でも人びとは土や紙で、自分たちの雛人形を作っています」と、館長の西沢形一さんがいった▼また、沢村さんの話になる。女学校の修学旅行で奈良へ行った時、古風な人形屋で、縦横3センチもない内裏さまを見つけた。高い買い物だったが、小遣いをはたいた。子ども心にやはり、自分のお雛さまがほしかったのだろう▼戦後、疎開荷物の中から、忘れていたそのお雛さまがでてきた。長い間押しこめてすまないと思った。40数年後の今も、小さな内裏さまは、居間の棚のガラスの箱に、品よく座っている。「男雛の太刀が折れちゃいましたが、かえって平和的でしょう。3月3日が近づくとガラス箱からだして、毛せんの上に座ってもらいます。いい顔してますよ。私同様古びてはいますけど、ね」と沢村さんはいっている。 環境破壊の毒物を「たれ流す」ということ 【’88.3.4 朝刊 1頁 (全838字)】  もう32年前の話だ。アメリカの国立保健研究所の疫学部長、カーランド博士は、熊本県で水俣病の患者を診察した。「治療法がないことを思い、医師として怒りにふるえた」と博士は当時を回想し、証言している▼チッソ水俣工場が流した毒に対して、怒りにふるえた人はたくさんいた。工場がたれ流した有機水銀は、2100人を超える認定患者を生み、そのうち八百数十人が亡くなっている。もしも会社側や行政が、機敏に手を打っていれば、被害はもっと少なくてすんだろう。患者が続出してもなお、たれ流しは続いた▼最高裁は、水俣病を発生させた最高責任者として、チッソの幹部2人の執行猶予つき有罪を支持した。会社の最高幹部が刑事責任を問われた意味は大きい。水俣の問題はしかし、終わっていない。水俣病を生んだたれ流しは、姿を変えて地球的な規模でひろがりつつある▼成層圏のオゾンを破壊するフロンガスを使うこと、あのシュッと一吹きのエアゾールなどを使うことも、一種のたれ流しだろう。いや、オゾン破壊の原因は窒素酸化物にもあるという。ガソリン車も軍用機も超音速旅客機も、オゾン破壊の物質をたれ流している、といっていい▼台所から流す下水はどうか。水道水の塩素処理で発生する発がん物質はどうなのか。ゴミのたれ流しはどうか。焼却炉で処理した灰の中から、有毒物質のダイオキシンがでてきたという話もあった▼定置網や船底の塗料が原因で大量の海の生物が死んだ例もある。塗料に生きものを殺す劇毒物が含まれていたためだ。いわゆるハイテク産業がたれ流す新しい汚染物質が地下水を汚す、という問題も起こっている▼たれ流すというのはいやな言葉だが、たれ流すという醜悪な現実がある以上、この言葉を使い続けることになるだろう。私たちは毒物を恐れながら、毒物をたれ流すことにあまりにもむとんちゃくになっている。 『けやきのうた』 【’88.3.5 朝刊 1頁 (全841字)】  山梨県の豊富村に住む石原明さんの敷地内には3本の欅(けやき)がある。樹齢400〜500年で幹の回りは6メートルもある。NHKの取材班がこの3本の木を追い『けやきのうた』という番組を作った▼劇的なことが起こるわけではない。たとえば欅に巣を作ったフクロウがノネズミを捕らえてヒナにやる。ヒナがそれをのみこむ。ムクドリの夫婦が、ブッポウソウとの闘いに敗れて巣を明け渡す。3本の木が何百年も繰り返してきた営みが描かれる▼その営みを、カメラはけれんみなく描く。ただなんとなく、心を解き放って見ていると、雨にぬれて卵を抱くアオバズクの姿や、闇(やみ)の中で桜の花を食べるムササビの営みがいとおしいものに思えてくる▼石原家を訪ねて、欅を拝見した。巨樹の皮ははがれ、ひびわれ、裂け、よじれ、波打つ模様を描き、なめらかに光るかと思うと、暗緑色のこぶを作っている。ヒヨドリが鳴く。小穴にもぐりこむシジュウカラの姿がある▼時に、銘木を扱う業者が来るが、石原家は売らない。「落ち葉でご近所に迷惑をかけますが、村の名物なので大事にしませんと」と75歳になる石原さんはいった。この巨木を切るべからず、という家に伝わる教えを石原さんは忠実に守っている▼欅は風を防ぎ、緑陰を与えてくれる。落ち葉はぶどう畑のすばらしい肥料になる。「フクロウがゴロイチホーと鳴くようになると、本当の春です。春だなあと思いますね」と石原さんはいった。「秋は『老愁ハ葉ノ如ク掃(はら)ヘドモ尽シ難シ』(柳湾)の状態です。黄葉が見事に舞います」ともいった。欅は季節を告げる暦でもあった▼『けやきのうた』の画面は、ひと昔前ならごくふつうの光景だったろう。だが今はそのふつうの光景がいかに貴重なものになってしまったことか。そのことを、番組は教えてくれる(山梨を除ききょう午後NHKテレビで再放送)。 専修大の幽霊学生事件に思う 【’88.3.6 朝刊 1頁 (全846字)】  専修大の教授がにせの学生証を作って何人かの青年をだましていた。だまされた青年たちはまことに気の毒だと思うが、この事件にはなんとなくこっけいなところがある▼大学の目的の1つは、にせものと本ものを見わける目を養うことだろう。この書物の記述はおかしい、と見抜く。そういう判断力を育てるのが大学の役目の1つだろう。その大学で、教授の職にある人が、にせものを本ものだと思いこませようとしたのだから、こっけいだ▼幽霊学生証を渡された青年たちが学内試験を受けたのかどうかはわからないが、もし学内試験を受けていて、その成績が優秀だったとしたらどうだろう。実力は劣るが学生証のあるのが大学生で、実力は勝るが幽霊学生証のものは大学生ではない、というこっけいなことが起こったかもしれない▼イタリアに、にせ医者がいた。しかしこの脳外科医は同僚からも「脳手術の名人」といわれていた。にせであることが発覚したあと、警察側は「医学部再入学」という寛大な処置を提案したそうだ。なにが本ものでなにがにせものか、ということをこの話は考えさせてくれる▼幽霊がはやる時代だ。幽霊会社をつくり土地を転がしてもうける不動産屋がいる。幽霊出産者を勝手につくって分娩(ぶんべん)費の水増し請求をしていた健保の職員がいる。幽霊消防署職員が現れて消火器を売りつける。幽霊団体をつくって難民救援活動を装う。専修大の教授は、そういう幽霊ばやりの時代にあって、ひたすら反面教師であろうとしたのか▼一方、幽霊らしい幽霊の代表格「ひとだま」は、実は幽霊でもなく、リンが燃える現象でもなく、雷が発生しやすい地形や気象条件で現れる火の玉であることを、早大の大槻義彦教授がつきとめた。実験で火の玉を作ることにも成功した。幽霊らしい幽霊の正体はわかったが、人間の煩悩が生む幽霊らしからざる幽霊の正体はつきとめにくい。 多様な人材選ぶ大学入試の小論文 【’88.3.7 朝刊 1頁 (全845字)】  長野県松本市の旧制松本高校の記念館に、卒業生の作家、北杜夫さんの物理の試験答案が展示されている。ぎっしりと書かれているのは計算式にあらず、詩のごときものだ▼「恋人よ/この世に物理学とか言ふものがあることは/海のやうにも空のやうにも悲しいことだ」と延々と続く。保存に値する傑作だが、むろん師弟の間に心の交流があって書けること。1回きりの試験では、こうはいかない▼きのうあたりで、大学入試も山を越えた。「小論文」という出題形式が、広い範囲の大学で採りいれられて10年になる。今年の小論文を見て、受験学力で劣っている者を「落とす」のではなく、たとえば北さんのような?多彩、多様な人材を「選ぶ」方向で作られた問題が、かなり増えてきたと思った▼大阪大文学部の出題は、ネコの長所と短所を主題に、「けだし」「ちなみに」「うらみなしとしない」など5つの言葉を使って300字以内の文章を書かせるものだった。型通りの受験勉強では通じにくい▼京大経済学部は、定員の一部を対象に、いわゆる学力試験を全くやめ、小論文だけを課した。受験生は午前、午後の6時間をかけて「社会の成立」について論じ、『福翁自伝』などを参考に翻訳語が果たした役割を述べ、降水確率をめぐり考えを書いた上でその計算もする。「論文だけだから、ひょっとして受かるかな」と偶然を期待した者は、問題を見て当てが外れる仕掛けになっている▼今世紀の初めまで中国にあった官吏登用試験「科挙」で、ある年、ただひとこと「○について解釈せよ」という問題が出た。正解はほとんどなかっただろう。「○子曰(しいわく)……」のように『論語』などの文章の頭に付けられた、あの○のことなのだから。受験生の意表を突くのだけが狙いの奇問だった▼行き届いた小論文の一方で、いくつかの大学では今年もまだ、科挙の話を笑えない入試問題があった。 戦時中の青函連絡船と有事立法 【’88.3.8 朝刊 1頁 (全855字)】  いまはもう、知る人が少なくなったが、戦時中、青函連絡船の12隻が全滅したことがある▼米軍の空襲で、青函連絡の客貨船、貨物船のうち、9隻が沈没し、1隻が座礁炎上し、2隻が座礁損傷した。旅客52人が死亡し、乗組員332人が殉職した。ほかに実習生14人、海軍派遣の隊員27人を失った▼当時は、7月中旬に青函連絡船に対する大空襲があるという情報があった。連絡船運航の責任者たちは船の疎開を軍に進言したが、敗北思想だと退けられた。多くの乗組員は遺書を残し、攻撃を覚悟して船に乗った。船には13ミリ機銃1丁と15ミリ機銃1丁しかなく、丸裸の状態で襲撃され、沈没した(坂本幸四郎『青函連絡船ものがたり』)▼疎開して乗客、乗組員の命と船を守ろうという主張は、軍の玉砕思想の前では「非国民」の思想になった。非合理きわまるものでも、軍の命令は優先した。この青函連絡船の悲劇が、いま問題になっている有事立法のこととだぶって仕方がない▼日米は、戦時のさいに重装備の米軍が日本にやってきて作戦に入るための共同研究、なるものに着手するという。米軍来援のしくみでは、必要な武器などの事前配備と、米軍の兵員、装備の輸送や補給をどうするかの問題がある▼そのばあい、鉄道、水路を確保する、道路を封鎖する、市民を立ち退かせる、民間機、民間の鉄道を利用する、そのために乗組員を指揮下におく、民間の家屋を取り壊す、といったことのすべて、あるいは一部が研究の対象になるだろう。当然、有事立法が問題になる▼しかも米軍の武器などの事前配備は数千億円の予算を必要とするかもしれない。だれがそれを負担するのか。米軍は日本本土を守るためにのみ来援するのか。米本土を守る必要のために日本を前線にすることだってあるだろう。こういうきわめて重要な研究なのに、十分な審議のないまま防衛庁のアクセルを踏む音ばかりがきこえてくる。 電話盗聴事件に思う 【’88.3.9 朝刊 1頁 (全841字)】  たぶん、ひと昔前の話だろう。イギリスの古い電話は雑音が入りやすいが、盗聴されると音質がよくなるといわれていた。1人の英国人が新聞に投書した。「私も電話を直したいが、どうしたら盗聴してもらえるんでしょう」▼昨今の盗聴の普及度は相当なもので、米粒大の盗聴器や髪の毛より細いコードが使われだした。岩手県のある町長選で、候補者の自宅に盗聴器がしかけられていたかと思うと、自民党副幹事長、保岡興治氏の事務所の電話にも、マッチ箱型の盗聴器がとりつけられていた▼モスクワで建築中のアメリカ大使館の新館で、ソ連のしかけた盗聴装置が見つかったかと思うと、ワシントンのソ連大使館が、これぞアメリカ側がしかけた盗聴装置である、といって新館の一部と装置を公開している▼盗聴大はやりの世の中だが、だからといって、政府が組織的に行う市民監視を見逃すわけにはいかない。たとえ国内治安が理由であっても令状のない盗聴は認められない、とアメリカ連邦最高裁の判決文はいう▼「もし行政府の裁量で(盗聴のような)国内監視手段が行われるなら、(市民保護の)憲法修正第4条は保障されなくなる」「政府が、自らの政策に激しく反対する者を疑惑の目で見がちなことは、歴史に残るおびただしい記録が示している」と▼日本共産党幹部宅の電話盗聴事件で、東京地裁は共産党側の請求を退けた。「職権乱用罪にあたらない」という解釈にはおおいに議論があるところだろう。だが、盗聴という違法な行為を「現職の警察官が組織的に行ったことは許されるべきではない。法治国家として看過することのできない問題だ」というくだりは、その通りだと思う▼さきにあげた岩手県町長選の盗聴事件では、容疑者が電気通信事業法違反で起訴されたが、共産党盗聴事件では、警官は起訴猶予、不起訴になった。法治国家として、看過しえぬ問題ではないか。 戦時中、餓死させられたカバ 【’88.3.10 朝刊 1頁 (全846字)】  戦時中、上野動物園にいたカバの大太郎は水と食料を断たれてから2週間生き続けた。雌の京子は37日間も生き抜いて死んだ。早乙女勝元さんの『さようならカバくん』に、そのいきさつが書かれている▼空襲に備えるため、トラやゾウなどが殺されたことはよく知られているが、それから2年後、3月10日の東京大空襲の直後に、カバが餓死させられたことはあまり知られていない▼大空襲では、約10万の人の命が奪われ、上野公園にはたくさんの遺体が運びこまれた。混乱の中で動物たちの飼料の納入がとだえた。大食漢のカバを養うのはむり、という判断からか、絶食がきめられた▼円形プールの水が抜かれた。2頭のカバの体はやがてかさかさにひび割れてゆく。早乙女さんは書いている。「あの大きな体ですから、体力がなくなると、前足はどうにか立っても、うしろ足で体重をささえきれなくなり、水のないプールの中をはいずりまわって、ブォーッブォーッと、苦しそうになく日がつづきました」▼大太郎が死んだ時、飼育者たちは泣いた。4月、また空襲があり、息もたえだえの京子を火の粉の吹雪が襲った。飼育係や応援の人がバケツリレーで京子に水をかけて救った、と本にはある。だが、その京子もそれから10日後、どろどろの血の汗を流して死んだ▼当時は、コメにかわるジャガイモや大豆の配給も十分ではなく、人びとは慢性的な飢餓におびやかされていた。そういう時代ではあったが、はたして、本当にカバを絶食させるほかなかったのか、という思いは残る▼きのう、上野動物園で雌のナゴヤ、サツキと雄のジローを見た。3頭とも水から上がって、早春の日を浴びていた。サボテンのとげのようなひげを蓄えたカバは、いかにものどかな動物だ。おしりを向けたままのナゴヤのしっぽが時々、左右に動く。カバのしっぽがこんなにあいきょうがあるものとは、知らなかった。 土地売買の「幽霊届け出」に厳しい対処 【’88.3.11 朝刊 1頁 (全835字)】  地価を監視する立場の役所の職員たちが、どうもおかしいといいだした。土地の売買の届け出について、である。ある不動産会社の6件の契約はいずれもその会社の社員が買い手だった。別の業者の契約では、売り手も買い手もその業者の社員だった。そんなことが現実にあるのだろうか▼まだある。役所の担当者がたまたま売り手や買い手に電話をし、売る意思も買う意思もない架空の取引であることがわかった。あるいはまた、住民からこんな電話がかかってくる。「どうも地上げ屋みたいのがうろついている。まさかと思うが自分の土地の売買の届け出がだされてはいないだろうか」▼職員が調べてみると、その住民の知らぬ間に、ちゃんと売買の届け出がだされていた、というから油断がならない。なぜこういう「幽霊届け出」がはやりだしたのか▼昨年、首都圏の一部で地価監視制度がはじまった。売買する土地の値段が高すぎる場合、行政側が指導価格を示し、時には勧告し、値段を引き下げさせる制度だ。業者としては事前にその指導価格を知っておきたいのだろう。つまり幽霊届け出は、指導価格をさぐるための手段だというからあきれる▼こういう虚偽の届け出が殺到すれば当然、事務量がふえ、人手がかかる。地価高騰対策のために、あるていどの税金が使われることはやむをえないと思う。だが、幽霊届け出をさばくために税金が費やされていると思うと腹が立つ。悪質業者に対しては、宅地建物取引免許の取り消しも含めて、厳しく対処してもらいたい▼話は飛ぶが、土地臨調が、市街化区域内の農地などについて案をまとめた。農地として残すべき土地は宅地化させないという意味の「逆線引き」をせよという案だ。問題点は多いが、都市の農地をあらかたつぶして宅地にせよという議論よりはいい。都市にも農地を、という哲学なしには土地政策は成り立たない。 薬害防止の責任 【’88.3.12 朝刊 1頁 (全847字)】  アメリカ人をサリドマイドの薬害から救ったのは、米食品医薬品局の女性医務官、F・O・ケルシー博士だった▼博士は、製薬会社の申請に対して「胎児に無害だという証明を示せ」といい、申請資料の矛盾を突いて却下した。さまざまな圧迫をはねつけて認可をしなかった。そのうち、各国で奇形児出生が問題になりはじめたが、アメリカは悲劇を防ぐことができた。ケネディ大統領は博士に公務員として最高の勲章を贈った▼スウェーデンにスモンの流行がなかったのはやはり、役所の医薬品担当者たちがしっかりしていたからだ。キノホルムの副作用の情報を敏感にとらえ、早めに手を打った。日本がキノホルムの販売中止にふみ切る1年半前に、スウェーデンは規制措置をとっていた▼クロロキンの薬害は、以前から問題になっていた。1962年にはわが国でもクロロキン網膜症の報告があった。その3年後、当時の厚生省担当課長は薬害の情報をえている▼ところが、この薬を飲んでいた課長は、自分が飲むのをやめただけで何の規制策もとらなかった。薬の安全性について責任をもつべき立場にいる人がなぜ、薬害を知りつつ薬害防止の責任をまっとうしなかったのか、ふしぎなことが起こるものである。そしてこれは厚生省という組織の問題でもあるだろう▼きのう東京高裁は、クロロキン薬害について「国の責任なし」と判断した。判決理由要旨を読み、憤りをおぼえた。当時はまだクロロキン網膜症の発症率が高くはなかった、だから厚相に義務違反はない、という意味のところを読み、これはおかしいと思った▼薬害がひろがるまでは「慎重かつ控えめ」にしていろというのか。早めに、積極果敢に手を打って薬害を未然に防ぐことが厚生省の役目ではないのか▼クロロキン製剤の副作用では目に障害が起こる。失明者も少なくない。弁護団は、全国に約1000人の患者がいると推定している。 「問答有用」の価値観否定 静岡支局爆弾事件 【’88.3.13 朝刊 1頁 (全835字)】  私たちは私たちのふるさとを愛する。ふるさとの木々に吹き渡る風の香りを愛し、春の光の中で鳴くヒヨドリやカワラヒワの声を愛し、照葉樹林にすむ小さな生きものたちを愛する。インドの人がインドの風土を愛し、アルゼンチンの人がアルゼンチンの草原を愛するように、日本の山河を愛する▼私たちは日本列島に生きてきた先祖の知恵を大切にしたいし、先祖の遺産である伝統的な工芸品や舞台芸術を誇りに思っている。そして、第2次大戦後、他国との戦闘行為に参加して死んだ日本人が1人もいないことを誇りに思う。人びとがつくりあげてきた「問答有用」の社会が極左極右の動きにおびやかされながらも、定着しつつあることを誇りに思う▼きのう、本社静岡支局の駐車場にピース缶爆弾がしかけられていたのがみつかった。缶には火薬や多数のクギなどがつまっていて、時限発火の装置がついていた▼「赤報隊」を名乗る声明文には「朝日は日本人の心から大和だましいをとってしまった」とあった。反日分子に対しては「1人多殺」だと声明はいう。一連の朝日襲撃事件と同一人物であろうか。激しい憤りをおぼえるのは、犯行と声明が、戦後の日本人が築いてきた「問答有用」の価値観を根底から否定していることだ▼戦前の5.15事件では、犬養首相は「問答無用、撃て」の叫び声によって倒れた。当時の本紙社説にはこうある。「その暴行は予め計画した団体的行動らしく、……その乱暴狂態はわが固有の道徳律に照しても又軍律に照しても、立憲治下における極悪行為と断じなければならぬ」と▼1匹の虫の命、1本の木の命をいとおしみ、虫塚(むしづか)や草木塔を建てるのが私たちの先祖の心ではないか。意見が違うという理由だけで荒々しく人命を奪おうとする行為、先祖の心に反する行為については、私たちもまた「極悪行為」と断じなければならぬ。 「なまの舞台でなまの声」は昔話 【’88.3.14 朝刊 1頁 (全855字)】  東京で先日、俳優、声楽家、演出家、舞台音響家らが集まり「ワイヤレスマイクの使い方をめぐって」というシンポジウムを開いた。聞いていて、演劇にしろ音楽にしろ、なまの舞台はなまの声で作られるというのは、もうとっくに昔話になっていることを知らされた▼商業性第一の大劇場主義にもよるのだろうが、ミュージカルやオペラ、さらには歌舞伎までが無線のマイクなしには成り立たなくなりつつある。いかに上手に、つまりはいかにお客に気づかれないようにこれを使うか、そこに音響家の腕がかかる▼音響技術はここ10年ほどで急速に進んだ。マイクはどんどん小型になる。以前は棒マイクで、役者の胸もとから先がのぞいたりしたものだが、いまのはマッチの頭ぐらいだ。えりやシャツの裏にピンや接着テープで留めればよい。かつらの中に埋めこむこともある。客席から見えるはずがない▼お客に気づかれるとすれば、音を調整するときの操作のまずさによる場合が多い。後ろ向きで声を出しているのに、音量をしぼり忘れると正面向いての声と同じに聞こえる。そでに消えるときなども同様だ。ささやきや捨てぜりふは、聞こえなくてはいけないし、聞こえすぎてもいけない▼オペラ歌手などには、マイクを使うことをいさぎよしとしない人も多い。実際には、天井のかくしマイクで声を拾うことがあたりまえになっていても、直接からだにつけるとなると抵抗が強い。「声がよく通ると思ったら、なんだマイクを……」と思われては面目ないのだ▼客席にも「なま信仰」はある。「マイクを通した声は、声でなくて音だ」とする考えもある。しかし「それならご心配なく」と、日本音響家協会会長の八板賢二郎さんはいう。限りなくなまに近づける。不自然さを消してゆく。究極の音響技術はここにあるという▼「ただし」と八板さんは念を押した。「下手を上手にしろといわれたって、それは無理ですよ」と。 青函連絡船の最終便と辺地の校長 【’88.3.15 朝刊 1頁 (全842字)】  本社機「千早」に乗って、青函連絡船の最後の便を見た。青緑色の海を羊蹄丸が行く。白緑色のしっぽをつけて移動する。船体は、赤さびていてむしろ痛々しい。連絡船がなくなったことを、いずれは悔いる時がくるかもしれないが、今はただ、これも時の流れだと思うほかはない▼青森空港に降りて青森駅にかけつけ、青函トンネルを通る列車に乗るつもりだったが、急に下北半島へ行きたくなって方針を変えた。ひき寄せられるように、東通村の尻労(しつかり)に向かった▼30年ほど前にこの尻労を訪ね、辺地の教師の取材をしたことがある。当時は辺地の中の辺地といわれた土地だ。バスの便もなく、医者もいなかった。肺炎の子を背負って田名部まで7時間も歩いた母親がいた。子どもは母親の背で息がたえた▼その時、帰りの列車で取材が足りないことに気づき、また引き返したことを覚えている。雪をかきわけて夜道を歩き、深夜、校長宿舎の戸をたたいた。校長は川村武一さんだった▼当時はまだ単身赴任だった川村校長は、暖かいこたつぶとんをかけて寝るところだったが、さっとそのふとんをはぎ、不意の客の床をつくってくれた。湯たんぽもいれてくれた。こごえた体に、そのあたたかさがしみた。川村さんはしかし、7年前に亡くなっていた▼尻労はすっかり姿を変えていた。小学校は鉄筋の新校舎になり、バスも通い、何よりも漁業が尻労を活気づけていた。道路が改装され、魚の運搬が自由になったためでもあるだろう▼むつ市に寄って、川村夫人や息子さん夫婦の住む家を訪ねて線香をあげさせていただいた。10年、校長を務めた川村さんが尻労を去る日、村人はほとんど総出で見送ってくれたという。古武士のようにいかつくて、そのくせ柔和なところのある写真が飾られていた。高度成長期前の日本の辺地教育を支えた人の写真が、青函連絡船の最後の姿に重なった。 音楽は自然との調和 ポール・ウインター氏来日 【’88.3.16 朝刊 1頁 (全836字)】  アメリカのジャズのサックス奏者、ポール・ウインターさんがこのほど日本にきた。目的は演奏会ではなく、北海道や富士山のふもとの自然保護運動を見るためだという▼「音楽は自然との調和だ」。ウインターさんは熱っぽく語る。その調和がひいては、思想や宗教や肌の色を超えて人間同士を結びつけるのだという。「ぼくは楽天家なのかなあ。モスクワで詩人のエフトシェンコ氏と話したら、理想主義すぎるといわれたよ」▼彼の音楽をアメリカではエコロジカル(生態系の)ジャズといったり、アース(地球の)ミュージックと呼んだりする。大自然、とりわけ野生の動物との交流を音ではかるのだ。代表的なアルバム『コーリングス』(叫び)では、クジラ、アシカ、シロクマ、シャチなどの鳴き声と、彼のバンドのサックス、ピアノ、チェロ、ギターなどが共演する▼ザトウクジラの歌には自分たちの声のハーモニーをのせてみた。ただし、きわめてひかえめに、だ。クジラは何千万年も前から歌っている。それに比べると人間の歌の歴史は浅い。ここはクジラに敬意を表したのだという。子守歌のようなメロディーが流れる▼シャチの遠ぼえと彼自身のサックスとの合奏もある。カナダの太平洋上で実際にやってみた。レコードを聴くと、たしかにシャチたちがサックスにこたえているようだ。オオカミとかけあいをやったこともある。みごとな短調のメロディーで鳴く。名手チャーリー・パーカーのサックスにも似ていたという▼ウインターさんのバンドは一昨年秋、ソ連を旅した。モスクワで古来のロシア民謡を歌うディミトリ・ポクロフスキー合唱団とにわかコンサートをやった。テープを聴かせてもらったら、ロシア民謡がジャズにごきげんにのっている▼48歳。クジラのように目を細めて話す。おでこがちょっと出ていて、失礼ながらマッコウクジラに似ておられる。 暴力に屈さない報道 国家秘密法問題に見る 【’88.3.17 朝刊 1頁 (全832字)】  本社静岡支局襲撃事件をめぐってある識者の談話が本紙にあった。識者は「ここ1年ばかりの間、有力なメディアが国家秘密法問題をほとんど報道していない」と断じ、ジャーナリズムの自主規制を心配している▼暴力に屈するな、という励ましの発言であることはわかる。だが、この談話を読み、どうしてもひとこといっておかなければと思った。「有力なメディア」の中に、朝日新聞が入っているとすれば、この1年、本紙が国家秘密法問題を「ほとんど報道していない」というのは事実に反する▼本社データベースによれば、襲撃事件のあった去年の5月から12月まで国家秘密法問題にふれた記事は、声欄も含めて133件である。一昨年の5月から12月までは165件だから、数の上ではそう変化はない▼まして「ほとんど報道していない」という事実は断じてない。市民団体の動きも記事になっているし、戦前の軍機保護法の恐ろしさを主題にした国家秘密法への警鐘という特集もある。このほか、全国の地方版で扱った秘密法関連の記事はおびただしい数になる▼ただ、秘密法の記事がとくに集中したのは、法案が国会に提出される恐れのあった一昨年11月から去年の5月までだったこともつけ加えておきたい。「国会提出見送り」の動きに沿って記事もやや減る。だが、これは襲撃事件とは関係がない。情勢の緊迫度と記事の本数との相関関係だ。そしてその国会提出見送りをかちとったのは、市民の力であり、ペンの力だった▼なかには、事実をふまえずに朝日新聞を名指しにし「暴力に屈し、筆がにぶった」と批判する人がいる。失礼ながら、ご自分で新聞を読んで判断するのではなく、だれかがそういっているからそうなんだろう式の批判も少なくない。そういう発言をきいて喜び、勇気づけられるのは犯人と、暴力による言論封殺を願う人たちだけだろう。 『尾瀬に生きる』 【’88.3.18 朝刊 1頁 (全849字)】  今年1月、84歳で亡くなった尾瀬の長蔵小屋主人、平野長英さんはこの10年ほど心臓を病んでいた。けれども、ふもとの自宅から小屋までの山道を何度か登っていたようだ▼「老いづきてやまひもてども尾瀬沼のほとりの家を離れがたかり」。そのころの歌が小冊子『尾瀬に生きる』に紹介されている。山小屋を開いた父長蔵さんに従い、山に入ってから70年、長英さんは尾瀬に抱かれて暮らしてきた。遺族が編んだこの小冊子からは、自然に寄り添い、人や生きものをいつくしみぬいた山守の姿が伝わってくる▼29歳で歌の同人だった靖子さんと結婚してからは、小屋の経営は若い2人の肩にかかった。客が途絶える冬、吹雪に身を縮めながらじっと小屋にこもる。それでも「山小屋を営む。何といういい語であろう。これこそ私たちのものだ」と心はゆるがない▼ただ、雪の山で、小屋を建て替えるために木材を運ぶ新妻の姿はふびんだった。「人手少なきことをかなしみ愛(いと)し妻を今日も叱(しか)りて山に連れだす」と若い夫は詠む▼昭和15年、中国南部に出征する。戦地でも珍しい花を見つけてははがきに写生し、「カワイイ チャウセイ(長男の長靖さん)」へと送った。土地の子をかわいがり、軍馬の労苦を思いやる歌も多い▼出征前、尾瀬ケ原の電源開発計画に「自然の勝景は黄金を以て購(あがな)ひ得ず、自然美の人間情操に及ぼす影響は甚大である」と書いて激しく反対した。晩年「心ないハイカーに、今思えば恥ずかしいような言葉でつらく当たったが、近頃ではおだやかな言葉で自然愛護を呼びかけることができるようになった」と書いている▼亡くなったあと、遺書が見つかった。家族に感謝し、ヤナギランの丘に葬ってもらいたい、とあったそうだ。尾瀬沼を望むその丘には、父長蔵さんと、尾瀬自動車道の建設に反対しながら三平峠で凍死した長男長靖さんが眠っている。 体感震度 【’88.3.19 朝刊 1頁 (全843字)】  きのうの早朝、関東を襲った地震は相当なものだった。わが家の揺れ方は震度4、それも5に近い4、という感じだった。だがあとで、東京の震度は3という気象庁発表をきいて、またはずれたなと思った▼考えてみれば、体感というのは、特定の場所での主観だからズレがあるのは当然だろう。地盤の違いもあるだろう。鉄筋の庁舎と木造の老朽家屋とでは、揺れ方が違う。不安感が強ければ、弱い地震も大地震になる▼むしろ、東京なら東京に住む人が一糸乱れず、全員震度4を感じたという現象があったとすれば、そちらのほうが気味が悪い。気象庁職員の体感と自分の体感に、一体感がないほうが自然だろう。たとえば十勝沖地震の後、室蘭市民の体感震度を調べた北大理学部の報告がある。同じ市内でも震度4と思った人もいれば、震度5と思った人もいる。震度3の人もいた。震度とはそういうもので、だから気象庁発表は1つの目安と考えたほうがいい▼とはいっても、発表の震度は、その土地の平均に近い値であるほうがいいにきまっている。気象庁は体感による震度観測とあわせて、世界にさきがけて計測器による観測を考えているらしい。それはそれで結構だが、機械をおくならぜひ平均的な木造の建物に置いてもらいたい▼もう1つ、震度3を弱震と表現するのはいかがなものか。震度は強い順に7654321となっている。この数字に激震、烈震、強震、中震、弱震、軽震、微震という表現がつく▼激震は7で微震は1だ。震度3は弱震になる。眠っている人が目をさますほどの強い地震なのに「震度3の弱震でした」といわれれば、そんなバカなといいたくなるのが人情だ。震度4を中震と呼ぶのも実感と離れている▼どういう表現がいいのかはともかく、このあたりは極めて強い地震(5)、強い地震(4)、やや強い地震(3)という意味の表現に改めたほうがすっきりする。 言論の自由を守る固定観念からの自由 【’88.3.20 朝刊 1頁 (全843字)】  先日、本社静岡支局の事件について書いた。その時「ここ1年ばかりの間、有力なメディアが国家秘密法問題をほとんど報道していない」と書かれた識者の談話をとりあげ、この有力なメディアに朝日新聞が入っているとすれば、朝日が「国家秘密法問題をほとんど報道せず」は事実に反する、と書いた▼ところがその識者から、あれはある特定のメディアを指した批判で、朝日を含めたものではないというご指摘があった。当方のはやとちりであり、まことに申し訳ない▼それはそれとして、一連の襲撃事件以後、たくさんの励ましの手紙や電話をいただいている。なかには「朝日は襲撃事件で筆がにぶった」といういわれない批判もある。暴力の問題だけではなく、異端者を非国民扱いにする風潮の恐ろしさを訴える便りもあった▼そこで思い出すのは、石橋湛山元首相の大戦前の主張である。小島直記さんの『異端の言説・石橋湛山』から引用する。「わが国には、社会精神としての思想に対する寛容がない。自説と違えば異端邪説として排斥する」「一体日本人の一部には、彼等の気に入らぬ言論をなすものを売国奴呼ばわりをする弊がある」▼自由主義者、湛山はそういう圧力と闘い続けた。「私は自分の正しいと信ずる主張、言説のために、今後いかなる圧迫、艱難(かんなん)が降りかかって来ようとも、これは甘んじて受けるつもりです」。言論の自由こそ政治のかなめだと湛山は信じていた▼言論封圧を試みる力の背後には、昔も今も、異端の言説を吐く者を「売国奴」「民族の裏切り者」ときめつける固定観念がある。固定観念は、その観念を補強する材料のみを集め、その観念に反する材料を受けつけない。自分の固定観念を支える部品をバラバラにして一つ一つを吟味し直すという営みのないところが恐ろしい▼固定観念からの自由、ということは言論の自由を守る上で大切なことだ。 お彼岸の中日 墓参りの墓地は花園 【’88.3.21 朝刊 1頁 (全846字)】  お彼岸の中日を待っていたかのように、アンズの花が何輪か咲きはじめた。いつのまにか、ハコベの緑が濃くなっている。福寿草の葉の緑も、黄の花を圧倒する勢いで濃くなっている。サンシュユの花は小さな黄の花火だ。レンギョウの花の黄、ヒイラギナンテンの花の黄と、木の芽が萌(も)えるころは黄の花がめだつ▼もうそろそろエサを打ち切ろうかと思いながらも、やはりヒマワリの種などをエサ台に置いてしまう。カワラヒワは群れで来るが、シジュウカラはつがいの2羽だけで来る▼シジュウカラは種をくわえるとあたりに目を配り、すばやくキンモクセイなどの葉の中に隠れる。足で種を押さえ、くちばしで上手に皮を割って中身を食べる▼多摩の墓地でお墓まいりをしたあと、墓地の隣の雑木林の丘を歩いた。白地に黒の横じま、といういでたちのコゲラが木のはだに吸いつくようにして、らせん状に上ってゆくのが見える。日本産のキツツキ類ではいちばん小さい鳥だ▼ツグミもいた。林の道を横切る時、ちょっと立ち止まっては、きどった様子で首を伸ばす。さらに近づくと飛び立って枯れ葉のからまったクヌギの枝に隠れる▼切れこみの深いクヌギの木はだや、芽吹きの準備に余念のないコナラの群れを眺めていると、田村隆一の美しい詩の一節をつぶやきたくなる。「木は/愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて/枝にとまるはずがない」▼鳥は木の枝にとまる。さえずるために来る。眠るために来る。風とささやきをかわすために来る。虫をとるために来る。巣を作って卵を産むために来る。花や実を食べるために来る。そして木は、惜しみなく与えることを拒まない▼丘から眺めると、墓まいりの人でにぎわう墓地は花園だ。梅が咲き、ジンチョウゲが咲き、灰色の墓の群れは黄や紅の花でいろどられる。木の芽や花の霊気に、人びとは此岸(しがん)の心を託そうとする。 「選びの外交」と「合わせの外交」【’88.3.23 朝刊 1頁 (全847字)】  「ヨーロッパは国益を中心軸にすえた『選びの対米外交』を伝統的にやっている。日本は対照的に、アメリカの顔色をうかがいながらアメリカに合わせるという『合わせの外交』をやっている」▼ココム問題の研究家で知られる山本武彦さんが、だいぶ前の雑誌『公研』でそういっていた。東芝機械のココム違反事件についての発言だが、まさにその通りだと思った▼きのう、東京地裁は東芝機械に有罪の判決をいい渡した。「国際社会でのルールを無視するような企業活動は慎め」という判決の趣旨はわかる。だが、この事件をめぐる日本外交は「合わせすぎ」のきらいがあった▼今月の上旬、おや、と思ったワシントン特派員電があった。それは、東芝機械が大型工作機械を最初にソ連に輸出する3年前から、ソ連の潜水艦は静かなスクリューを持っていたという内容のものだ。米国防総省高官の書簡にそう書かれてあるという。東芝機械からの技術流出による実際の損失を測るのは難しいともいう。これでは話が違う、といいたくなる▼米国防総省当局者は去年、東芝機械の工作機械輸出の影響で1兆円から8兆円相当の被害を受けた、といっていた。こういう発言が米国の世論を刺激したことは容易に想像できる。「実際の損失を測るのが難しい」のが事実なら、なぜもっと早い時期に訂正しなかったのか。「遅すぎた訂正」は、ワインバーガー氏らタカ派の幹部の辞任と関係があるのかどうか▼今回の事件では最初から、東芝機械が輸出した機械がソ連潜水艦のスクリュー音を低くしたかどうか、が問題になっていた。その因果関係を厳しく追及せず、政府はアメリカの抗議に合わせて頭を下げた▼アメリカにはアメリカなりの、技術戦略がある。対ソ戦略だけではなく、自国の産業の利益を脅かすものをたたく、という意思が働くのは当然だ。だからといって、こちらがその意思に合わせすぎることはない。 中国にもある地価高騰 【’88.3.24 朝刊 1頁 (全852字)】  北京はじめ中国の主要都市で、このところ「地価」の高騰が激しく、住宅政策が思うようにいかぬという話を聞いた▼カネ、カネで土地まで投機の対象としてはばからぬどこかの国ならいざ知らず、土地国有の社会主義の国に地価の悩みがあるとは驚いた。以下は、中国を旅行した同僚記者の取材メモによる▼北京内燃機総廠(しょう)という有力なエンジンメーカーがある。日本の会社と異なるのは重役陣が、住宅、医療、老後など従業員と家族の民生面まで責任を担っていることだろう。重役陣は16階建てのアパートを7年間に14棟造ると、公約した▼自前の建設部門を使って、これまでに10棟つくった。しかしこれからが難題だ、と重役の1人がいう。「すぐ隣に製紙工場がある。業績の割に広い土地を持っているので、そこに2棟建てさせてくれないか、1棟そっくりあげるから、と交渉した。答えはノーです」。使用権という名の地価は、いまや16階の高層ビルの建設費以上に高騰した、というわけである▼北京市の郊外は、東京よりも広びろとしている。そこに建てたらどうか。「何棟かは実際に、そうした。しかし新たに電気や水の供給を受けねばならないし、そのためには16層のうち相当部分を関係方面に譲ることになる。目減りの大きさは、市の中心部とそう変わらない。それに農家との交渉も難しくなってきた」▼中国ではこれまで家賃を低く抑えてきた。80平方メートルで月10元(約350円)程度である。安いのはいいが、次の建設の資金が生まれないし、企業に住宅建設の意欲がわかないうらみもある。そこで政府は最近、建設資金を積み立てた人にアパートを分譲する、家賃もコストに近いところまで認めるなど、政策の大転換を図りだした。「住宅の商品化」と呼んでいるが、民間活力導入の中国版だ▼東京では中曽根民活が地価狂乱の1つの引き金になった。くれぐれも、用心を。 高知県の高校生が調査する水爆実験被害 【’88.3.25 朝刊 1頁 (全838字)】  高知県幡多(はた)郡の高校生のグループが、34年前に亡くなった若い漁業実習生の死の背後にあるものを追及している。当時、実習生が乗っていた船は放射能雨をあびた。ビキニ環礁などで、アメリカの水爆実験が続いていたころの話である▼帰港後、その実習生は頭痛と体中の痛みを訴えた。白血球も極端に減っていた。水産高校の相撲部に属し、頑健な体を誇っていた若者は、えたいの知れない病魔と闘い、やがて力つきた▼若者は乗船前から痔(じ)に苦しんでいた。船では雨中、パンツまでびしょぬれになって仕事をする。放射能雨が痔の傷口から入った可能性もある。高校生たちは、歩き回り、肉親の話をきき、事実を積み重ねていった。死の灰が死因だったと断定はできない。しかし強いつながりがあることも否定はできない▼当時、水爆実験で被災した漁船の数がのべ856隻にもおよぶことを、やがて高校生たちは知る。高知の漁船も少なくなかった。本当のことを知るための聞き取り調査が始まった。医師、教師たちが加わる高知県ビキニ水爆実験被災調査団も生まれた▼数多くの漁船員の証言があった。被災後、めまいや脱毛があり、以後入退院を繰り返している人がいる。頭痛に悩まされ、いまも左手が不自由のまま、という人がいる。歯が抜けて、毎年、血を吐く人もいる▼2年間にわたって調べた漁船員187人のうち、13人ががんで亡くなっていた。ほかに肺がん、胃がんの手術をした人も少なくなかった。被災後25年ほどたってから、がんが多発しているという調査団の医師の分析があった▼ビキニ水爆実験の犠牲者といえば、私たちは南の島の悲惨な様子を思い、第5福竜丸や久保山愛吉さんの死を思う。だが、犠牲者はそれだけではないのではないか。調査はそのことを訴えている。調査の記録が今度『ビキニの海は忘れない』という本にまとめられた。 高校生の海外修学旅行 【’88.3.26 朝刊 1頁 (全850字)】  中国の列車事故で、修学旅行中の高校生26人と引率の教諭1人が亡くなった。「これから夢と希望がいっぱいあるのに、こんな形で死ぬなんて」と亡くなった女子生徒の母親が語っていた。高校1年生といえば、まだ15、6歳だ。肉親の人びとのかなしみと無念の思いはいかばかりだろう▼昨今は、日本人の海外旅行者が年間500万人を超えている。デンマークの国民全部ほどの数の日本人旅行者が、世界各国にちらばる。不幸な事故に襲われる人の数もふえざるをえない▼高校生の海外修学旅行もまた、ふえている。年間4万人の高校生が韓国や中国などへ行く。たとえ短い期間でも、未知の世界を体験することは意味のあることだと思う▼高知県のある私立高の生徒約100人がことし、修学旅行で北京を訪ねた。北京の高校にあたる学校を訪問し、交流の会をもった。卓球やバレーボールをし、お互いに歌や踊りを披露した。ことばの壁を越えて、両国の生徒たちは笑いあい、肩をたたきあい、バッジの交換をした▼やわらかな心をもつ時期に外国を訪ね、地球上には多様な生活様式があることをはだで知るのはいいことだ。ただ、修学旅行を考える場合、筆者は、海外旅行の方が国内旅行よりも実りがあるとは思わない。海外であれ国内であれ、それがいい旅になるかならないかは、ひとりひとりがいい旅行者であるかどうかにかかわってくる。国内でも、学びうる未知の世界はたくさんある▼高校生の海外旅行では、受け入れ国のことも気になる。たとえば大量の生徒が集中的に同一のコースをとり、同一の学校と交流会をもつことが重なれば、その学校の生徒たちは交流過多にあえぐことになるだろう▼今回のいたましい事故の原因はまだわからない。だが、原因をさぐることから、やがて安全運行の技術面のことで日中協力が進むことになれば、亡くなった人たちの無念に、少しでも報いることができる。 伊藤栄樹検事総長の巨悪との闘い 【’88.3.27 朝刊 1頁 (全844字)】  「仕事を辞めたら、40年苦労をかけた女房を世界旅行にでも連れていきたかったんだが、こんな体になってしまった」。伊藤栄樹(しげき)検事総長はお別れ記者会見でそういっていた。女房のそばにいてやりたいとも、語っていた▼伊藤さんは去年の7月、盲腸炎の手術後に腸がんであることを医師から告げられた。10月に再入院した時、腹水が5キロもあったそうだ▼同じ月の検事長会同には点滴管をはずして病院からかけつけ、がんを患っていることをみなに告げた。やがて2回目の手術をした。今年の1月に公務に復帰してからも、手術の傷口がいえず、腹に包帯をまいたままの登庁が続いた▼伊藤さんは「官反内貨来」という初代最高裁長官の座右の銘を、後輩に伝えている。官は官権をかさにきない、反は反感を抱く者でも公平に扱う、内は仕事について身内の者と相談しない、貨は金品をもらい受けない、来はひそかに来訪する者の意見をいれない、を意味する▼とくに厄介なのは「貨」だといい、贈られたものがあれば事務局を通して返せと戒めている。厳しく身を持すると共に、巨悪に対する闘いを説いた。「検察はつねに飢えていなくてはならない。庶民の心を心とし、鷹のような鋭い眼で社会の動き、経済の流れなどを凝視してゆくところに、検察のとりくむべき巨悪のおぼろげな輪郭が浮かび上がってくる」と▼しかし巨悪の糾弾はままならない。伊藤さんは最後に「政党内部での政策決定にからんで金品が贈られるのを取り締まるには、そうした規定をもりこんだ政党法が必要だ」と年来の主張を繰り返していた。戦いやすい武器を検察に与えよという発言に、政治はどうこたえるか▼40年間使い続けた検事のバッジは、傷だらけになっている。「私は棺桶の中まで誇りをもってこのバッジを連れていきたい」と2年前に書いているが、そんな日はずっと先であってもらいたい。 モスクワ芸術座の『真珠貝のジナイーダ』 【’88.3.28 朝刊 1頁 (全855字)】  モスクワ芸術座の上演となると、見るほうもやや緊張ぎみで、ひたすら真剣なおももちで舞台の名演技を見守るかっこうになるのが常だが、新作『真珠貝のジナイーダ』は違った。しばしば笑いの波が立った▼舞台で踊り狂う若者たちが、主人公の作家に「リラックス、リラックス」と呼びかけるところで、あ、これは観客にも呼びかけているんだなと思った▼肩ひじはって、建前ばかりの議論をしたり、妙に絶望的な自己否定をしたりせずに、肩の力を抜いて自分たち自身をわらい抜こう、というのが作品の意図だろうか▼長い間、上演が許可されなかったものだけに、舞台は奔放だ。「ここは自由にあふれている/セックス、恋愛、ファッション/見て、何と美しい西側の世界」といった歌が、アメリカのミュージカル曲に乗る。「これが作家先生の冷蔵庫? ソ連の生活水準の恥だよ」というせりふが飛びだす▼どたばたがあって、アメリカ人の女性旅行者の腕がもげる。手術を頼まれるソ連の医師がいう。「アメリカ人か。それなら縫おう。でないと、後でアメリカなら縫えたなんていわれるからな」。ペレストロイカ(改革)時代の世相描写には猥雑(わいざつ)な感じがあり、それがかえって新鮮だった▼見終わって、その猥雑さが、1960年代後半のアメリカで見た小劇場の舞台の感じと似ていることに気づいた。政治風刺劇の『マクバード』やベトナム戦争下の米国社会の非人間化や暴力主義を風刺した『アメリカばんざい』が大当たりしたころの話だ。そこにも、今回の舞台にも、自分たちの姿をわらい抜く強い精神がある。既成の演劇への反逆が舞台の猥雑さと結びついていることも似ている▼『真珠貝……』に登場する若者のシャツに「いくさよりも恋を」という英語の文字があるのを見た時は、驚いた。単なる偶然だろうか。この文字こそは、1960年代後半のアメリカで最もはやったスローガンの1つだ。 サラリーマンに重い、不公平税制の改革を 【’88.3.29 朝刊 1頁 (全845字)】  あなたの感じとしては、税金の面でどんなところが一番とくをしていると思いますか、という本社世論調査の問いに、医師、政治家、宗教法人、大企業、資産家をあげた人が多い。農家、商店、中小企業をあげた人はむしろ少なかった。サラリーマン層だけの答えでも結果はほぼ同じだ▼これで思いだすのは、政府税調の小倉武一会長の『週刊朝日』誌上での発言だ。「サラリーマンがそんなにつらければ、農家に婿入りしたり、八百屋や魚屋を始めたらいいんだ。できもしねえくせに、税金が高えなんて、とんでもねえや」▼威勢のいい発言だが、サラリーマンの多くが不公平だと考えているいちばんの対象は農家や商店ではなく、政治家や宗教法人なのだということが、小倉さんにもわかったはずだ▼参院で、野末陳平氏が質問した。政治家がパーティーで集める億単位の金がなぜ無税でいいのか。料亭やゴルフの金も無税の政治資金から支出されているのか、という質問に、小渕官房長官が答えた▼「政治活動の一環として行いましたことにつきましては、これをもって政治活動として行ったものだ、こういうふうにご理解いただきたい」。珍妙な答えが飛びだすところに国会問答のおもしろさがあるのだが、こと政治家の優遇税制についてはおもしろがってばかりはいられない▼元大蔵事務次官、相沢英之代議士の約2億円の申告漏れがあった。問題は申告漏れの事実だけではない。政治家の収入がきわめて不透明で、政治活動の名のもとに無税になる部分があまりにも多い、という税制のゆがみについて、人びとは怒っているのだ。昨今は、不動産業者が宗教法人を買収し、優遇税制を利用して悪質な税逃れをする動きもめだっている▼サラリーマンにつらくあたる前に、不公平税制の改革をやったらいいんだ、できもしねえくせに。いきなり大型間接税だなんて、とんでもねえや――といいたくもなる。 ゆたかに生きるこころ 【’88.3.30 朝刊 1頁 (全855字)】  第一生命保険の元社長で、随筆家としても知られる矢野一郎さんが、東京の小学校の卒業式に招かれて話をした。二十数年も前のことだ。実にいい話だったと評判になり、それがやがて『ゆたかに生きるこころのはしら』という1冊の本になった。これこそ最高の教科書だという人もいた▼矢野さんは「協力」というきわめて平凡なことをわかりやすい言葉で説いている。たとえば無人島にひとりで流れついたと思いなさい。そこでお金をだして「ライスカレー1つ」といってみたまえ、と話を進める▼ライスカレーは現れない。ではどうする、コメやカレー粉をどうする、と考えて初めてたったひと皿のライスカレーでも大変な数の他人の手でつくられていることがわかる▼夜、眠る。これは他人には関係がないと思うかもしれないが、無人島では猛獣や蛇に襲われる恐れがある。ここでも、町の夜の暮らしの安全が、たくさんの人によって守られていることに気づくだろう。いろいろなことを無人島というレンズにかけて調べてみなさい。そうすれば私たちがどれほど多くの人の世話になって生きているかがわかる。矢野さんはそう教える▼今は、都市そのものが無人島化しつつある。口をきかなくても、ボタン1つでテレビの画面も音楽もジュースもでてくる。多くの人と関係なくひとりで生きていられる、という錯覚を抱きやすい。だからこそよけいに、本ものの無人島のレンズで生活を見直せ、という教えには意味がある▼話は飛ぶが、中学の卒業アルバムで、校則違反の髪形の生徒の顔写真が花の写真に化けた、というニュースがあった。卒業アルバムなどというものは、みなの協力でつくるところに、教育的な意味があるのではないか。ほかの生徒の意見はどうなのか、ほかの学校はどうしているのか、ということが気になる▼規格外の写真ははずす、というのは、許認可行政の場ならともかく、教育の場には似合わない。 3月のことば抄録 【’88.3.31 朝刊 1頁 (全842字)】  3月のことば抄録▼「息子の死はつらいが、若い生徒さんの死を思うと嘆いてばかりもいられない。天国でも生徒さんたちの引率を立派にやってもらいたい」。26人の生徒と共に中国の列車事故で亡くなった川添哲夫先生の父親が語った。剣豪日本一で知られた先生だ▼今月は、子どもをめぐる風景が見える話が多かった。「こんなに多くの子どもたちが、こんなに静かにしているのに出あったのは初めて」と女優オードリー・ヘプバーン。ユニセフの親善大使として、食糧の配給を待つエチオピアの子どもたちを見て▼「悪いことだとわかっていたが、父親の喜ぶ顔を見たかったのと空腹を満たすために盗んだ」という中学3年生のことばはかなしい。父親は盗みの目的地に子を連れて行ったりしていた▼「友だちになってやってくれ」。小沢純先生は中学2年の級友にそう呼びかけ、台湾から来た少年をクラスにとけこませようとした。少年はしかし先生を刺し殺した。少年を孤立状態に追いやる閉鎖的な雰囲気があったのかどうか▼「つらいこともあったが、何とか卒業にこぎつけた。最後の時になってこんなことになるなんて」とある障害児の母親が訴えている。中学の卒業アルバムに、3人の障害児の写真が落ちていたことに抗議して。ここにも、一種の閉鎖性があるのではないか▼3月は、別れの月だ。「これまで海の荒波をかきわけて来たんですから、人生航路も何とか切り開いて行けますよ」と青函連絡船の船長だった山内弘さん。13日、青函連絡船は廃止された▼「地球発23時」という番組と別れるのは中村敦夫さん。「3年半、170本。民放最強のゲリラ軍団という意気でやってきた。ゲリラはいつか死ぬものだ」。中村さんが番組を降ろされたことに、菅原文太さんが抗議している。「今度ばかりは『あっしにはかかわりのないことでござんす』というわけにはまいりません」 田谷力三さんをしのぶ 【’88.4.1 朝刊 1頁 (全851字)】  「70を過ぎましてねえ、タヤの歌はうまいなあって思えてきましたんですよ。どうかタヤの芸を大事にしてやって下さいませんか」。ぬけぬけとそういっても、それが愛嬌(あいきょう)になるところに、田谷力三さんの真骨頂があった▼80歳の自分の歌声を、ステレオで聴く。「ああ、この声があったのか。これがある間は、と涙がぽろぽろこぼれた」とも語っている。いまだってラジオ局の表の方に30人や50人、ファンがいてくれる、と意気盛んだった。自信を芸のこやしにしているようなところがあった▼大正時代、浅草オペラはなやかなりしころの、田谷人気はすごかった。あのエノケンが、その人気に舌を巻き、「客が入りすぎ、2階から人が落ちるほどだった」と回想していた▼詩人、宮沢賢治も浅草オペラをよく見物したらしく「あはれマドロス田谷力三は/ひとりセビラの床屋を唱ひ」と詩に書いている。賢治没後50年記念のつどいで、田谷さんは「賢治さん、終わりのない銀河鉄道に乗りながら、この歌を聴いて下さいね」とあいさつをして浅草オペラの魂を熱唱した(雑喉潤『浅草六区はいつもモダンだった』)▼89歳でも現役で、3月、勝田市で公演する予定だったが、病に倒れた。病床で、断りの手紙を書いた。「今後勝田市に私がおうかがい出来るようになりました折はいろいろの面でかならず今回の埋め合わせをいたしますから」▼見舞いに来た勝田市の主催者の手を握って、田谷さんは「ごめんなさい」「くやしい」といって泣いた。亡くなった夫人の名を呼び「まだ呼ぶなよ、まだ行けないぞ」ともいった。オペレッタの主人公になりきっているようでもあったが、最後まで公演取りやめを苦にしていたところに、江戸っ子の律義さを見る▼手もとにある何冊かの声楽家の名鑑に、この人の名はない。浅草が育てた芸人、田谷力三の名はしかし、人びとの心の名鑑に刻まれている。 五輪とメダル数 【’88.4.2 朝刊 1頁 (全841字)】  新発売のウイスキーの車内づり広告が、話題だという。ポスター2枚分に「一度でいいから、飲んでくれ。一度でいいから…」と同じ言葉が50回くらい繰り返されていて、なるほど一種の迫力はある▼繰り返しでは、首相の私的諮問機関「スポーツ振興懇談会」がまとめた報告書も、相当なものだ。オリンピックでいかに金メダルをとるかを追求した全文14ページの中に、「我が国」なる語が20回以上も出てきて、これも迫力がある。極め付きは「我が国は自由世界2位の経済力を擁するが…オリンピックでの地位低落は、我が国の将来を考えるとき、スポーツだけにとどまらない重要問題だ」▼首相も先日、スポーツ関係者を招いたパーティーで「とにかくスポーツ大国になろう」と声を上げた。けれども、スポーツ「大国」をめざし、メダルの数を「国力」に結びつける発想は、そろそろ卒業してもいいのではないか▼ローマ五輪の開会式の日、日本のある競技の監督は選手村の宿舎に閉じこもって、帰国したときに記者会見で発表する敗戦の談話を下書きしていたという。マラソンの円谷選手が「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」とつづって自殺したのは、メキシコ五輪の前だった。走るのは個人だ。国家が走るのではない。それなのに五輪を国威発揚の場と考えた時代の、喜劇であり悲劇だったと思う▼東京五輪のとき、大国のすさまじいメダル争いを見て英国の特派員が書いた記事が、記憶に残っている。「オリンピックが国家の間の代用戦争になるのなら、金メダルや銀メダルは廃止し、ウランやプルトニウムでメダルをつくればいい」▼ウイスキーの繰り返し広告は、「愛してます。愛してます…」という言葉だけで便せんを埋めつくす、恋文の古典的な書き方にも似ている。ただし、事情通によればこの手法は、勝手な押しつけと受けとられることが多いそうだ。 黙って盗め 自発を重んずる教育法 【’88.4.3 朝刊 1頁 (全839字)】  入社式の社長語録に「カンニングは、学生時代であればしてはいけないことだった。しかしビジネスの世界では、他の人の良いところをどんどん盗んで自分のものにして成長してもらいたい」というカンニングの勧めがあった。リクルートの位田社長である▼真意は「いいことは、いちいち教えてもらわなくても、黙って盗め」ということだ。新入社員の自発性をとくに強調するのは、昨今の教育のありように対する一種の批判でもあるだろう▼狂言の野村万蔵は「昔は弟子にあまり詳しく教えず、小言の方がもっぱらだった。相手の自覚を待つ。それこそが至芸の極美を引き出す方法といえる」と書いている。いいものを欲深く盗む。そういう自発を重んずる教育法は昔からあった▼寺山修司の「教育は与えるものではなく、受けとるものである」ということばは至言だ。寺山はさらにいう。「人生いたるところに学校ありで、ゲームセンターにも競馬場にも、映画の中にも、歌謡曲の一節にも、教育者はいるのである」と。いいものを盗むだけではなく、たった20行の雑報記事の中に人生を読みとる力を養え、といっているのだ▼学ぶ側の自発を尊重する教育理論はモンテーニュにもある。最近、荒木昭太郎東大教授の『モンテーニュ遠近』を読んだ。読みごたえのある本だったが、荒木さんはその中で『エセー』から名句50を選んで解説している▼たとえば「教師は生徒に、すべてを篩(ふるい)にかけさせ、何事も単なる権威、信用によって頭に宿さないようにさせるべきだ」「蜜蜂(みつばち)はあちこちと花をあさって回るが、彼らはそのあとそれによって蜜をつくり、それはまったく彼らのものだ」という名句があった▼蜜とは、学ぶ者の判断力のことだとモンテーニュはいっている。自ら花をあさって回らなければ蜜はえられないし、そうして得た蜜は完全に蜜蜂自身の味になる。 再利用できない武器 【’88.4.4 朝刊 1頁 (全850字)】  武器というのは値の張るものだ。イージス艦(新型ミサイルシステム搭載護衛艦)が1隻1223億円だと最初に聞かされると、あまりの金額に感覚がマヒしてしまい、1隻379億円の潜水艦も、一瞬「安い」と錯覚してしまう▼鳥取県の1987年度予算に計上された地方税収入総額は360億4600万円。これを全部投じても潜水艦1隻が買えない。それほどの値段なのだ。ここのところを考えて、なるべく長く使うようにするのが当然だろう▼武器にはそれぞれ耐用年数が決められている。海上自衛隊の護衛艦は約24年、潜水艦は約16年。これを過ぎると、原則として引退、除籍となる。71年就航の潜水艦「うずしお」は昨年、ぴたり16年で姿を消した▼これは少し早すぎはしないか、というのが専門家の指摘だ。老齢艦の多いソ連圏は別にしても、たとえば英国ではオベロン級の通常型潜水艦全12隻が60―67年に就役、今なお現役である。米国でも艦齢25年以上の主力艦艇がごろごろしている▼なぜ日本だけ引退が早いのか。武器の質、維持管理ともに世界のトップクラスだけに、老朽化が原因とは思われない。新しいものに飛びつきやすい防衛庁の体質と、耐用年数がくれば半ば機械的に更新を許す大蔵省の姿勢に、問題があるのではないか▼自衛隊機のジェットエンジンは、ふつう寿命が尽きると破壊され、廃棄される。機密保持が理由といわれているが、石川島播磨重工がこれに目をつけた。壊すのはもったいない、産業用ガスタービンとして十分に使えるのもあるから、再利用させてもらいたい。昨年春、同社は防衛庁にこう提案した▼カネに糸目をつけない軍用機のエンジンだけに、ヘリコプターのもので1000キロワット、F4Eファントム戦闘機のものなら1万キロワット級の発電設備に転用できるそうだ▼採算は十分にとれると同社は意欲的だが、返事は1年たった今も無い。 政治の先見性問われる政府機関移転計画 【’88.4.5 朝刊 1頁 (全847字)】  国土庁が発表した公示地価の一覧表を見て驚いたのは、埼玉県所沢市の高騰ぶりだ。1平方メートル18万円の土地が50万円と、3倍近くも上がっている。サラリーマンにとって、都心からかなり離れた都市でも、3、40坪の土地を買うことが遠い夢になりつつある▼所沢市が全国一の上昇率を示したいちばん大きい理由は、遺産相続がらみで広い土地を手放す地主がいたことだ。土地が出回り、土地取引が爆発的にふえて地価がつりあがった▼国有地や国鉄跡地の放出が地価高騰のあらしを呼んだ苦い経験を、私たちは忘れない。入念な地価抑制策を伴わない土地の供給、国有地の売却はかえって危険だということを、いやというほど味わってきた▼しかるに政府内には、政府機関の移転問題について、移転の費用に跡地を売った金をあてる案もあるという。跡地をどこやらに高く売りつけて移転費をかせぐのでは、同じ愚を繰り返すことになる。では、東京都に適正な価格で売ればいいのか。都との交渉はどうなっているのか。都が買うとすれば、どんな利用計画があるのか。なにもかもあいまいだ▼スウェーデンが行っている「分都」はかなり徹底したものらしい。本庁の国家公務員の4人に1人が分都政策の対象になった。その8割の職員が、移転に伴う引っ越しを拒んで役所を辞めた。それでもスウェーデン政府は分都を強行しつつある。よほどの覚悟がなければできないことだ▼国情の違いを頭にいれた上でも、参考になるのは政治の先見性、ということである。分都によって、各地域を活性化させないと首都と各地域の格差が激しくなる。だから先んじて手を打つという先見性がそこにはある▼わが国の政府機関移転計画は、地価抑制にどれほど役立つのか。1極集中解消にどのくらいの効果があるのか。きちんとした予見もなく、行き当たりばったりの移転計画でお茶を濁されたのではたまらない。 国会の女性用バッジ 「婦人週間」の前に 【’88.4.6 朝刊 1頁 (全845字)】  バッジというのは面倒なもので、男性用は背広のえりの穴にさしこめばそれですむが、女性の場合は、留め金具を安全ピンやネクタイピン型にしないと、使い難い▼国会議員のバッジに女性用が現れたのは昭和30年前後だった。こんど、国会に出入りする政府委員、公務員、記者たちのために初めて女性用バッジができた、という記事があった。国会議員の女性用バッジ誕生から30年以上もたっている。そうか、旧習尊重型男社会にあっては、バッジ1つ変えるのも大変なことなんだな、と思った▼労働省婦人局長の佐藤ギン子さんは今まで国会バッジの留め金の穴に細い銀色の鎖を通し、ペンダントのように首からつるしていた。「証明書を」とよく衛視に呼びとめられた▼別の女性公務員は、身分証明書入れの角の部分に穴をあけてバッジのひもを通し、証明書ごと胸ポケットに入れていたそうだ。服を買う時は、だから大きな胸ポケットのあるものを探した▼女性はみな苦労しています、という佐藤さんの話をたまたま聞いた自民党の小杉隆氏が衆院事務局にかけあい、バッジ改革が実現した。「主に一方の性によって担われている分野が、もう一方の性にとって大変不便に感じられる例は多い。女性の側だけでなく、男性も同じように不便を感じる時があると思うけれども、互いに相手の不便に思いが至らない。バッジ問題はその象徴です」と佐藤さんはいう▼敗戦の翌年の4月10日は、わが国の女性が初めて参政権を行使した記念すべき日だ。10日からは「いま個性が性を超える」をうたい文句にして第40回の婦人週間が始まる▼たとえば国会の婦人議員の割合は3.8%で、地方議会では1.7%だ。かなりふえてはいるが、まだ男性の圧倒的優位は動かない。ものをきめる時に女性が入っていないと女性に不都合なルールがでてくる。国会バッジの話はそのことも、象徴的に教えてくれる。 成功したコウノトリの人工繁殖 【’88.4.7 朝刊 1頁 (全839字)】  うれしいですねえ、と多摩動物公園の矢島稔園長がいっている。飼育を担当する人たちの努力が実って、コウノトリの卵がかえった。人工繁殖の成功がこんな大ニュースになるなんて、江戸時代の人には想像できぬことだろう▼昔は浅草でも青山でも、たくさんのコウノトリが寺の屋根や松に巣を作っていたそうだ。松とツルの絵は、実はツルではなくてコウノトリの場合が多い、という話をきいた▼やがて受難の時代がくる。白くて大きな鳥だったのが災いして、狩猟の標的にされた。巣を作る松の木が減り、農薬汚染がひろがった。それがコウノトリ激減の理由にあげられている。いまは日本で生まれたコウノトリは1羽もいない。だからこそ、飼育者たちは祈りながら、ヒナ誕生を待った▼こんど卵を産んだ夫婦は、中国のハルビン動物園からやってきた。よほど相性がよかったのだろう。風切羽を切らなかったことも成功の一因かもしれない、と矢島さんはいう▼動物園では、鳥がオリから飛びだすのを防ぐために風切羽の一部を切る。そうすると鳥は均衡がとれず高く飛べない。しかし均衡がとれないと、交接もうまくいかないのではないか。担当者たちは漁網を張り、風切羽を切るのをやめた▼3月の初旬、4個の卵を産んだ。有精卵であることを念じながら見守った。1カ月たった。「きょうかあすか、だね」と矢島さんはいい、「わかりませんよ、これだけは」とみなは慎重だった。5日「いたあッ」と叫んで飼育の担当者が園長室にかけこんできた。6日、また1羽がかえった。動物園や水族館の関係者による「種の保存委員会」が発足したばかりのところに、この朗報があった▼コウノトリの属名キコニアは、一説には「自然の愛情」を示すギリシャ語に由来するらしい、とものの本にあった。コウノトリを絶滅寸前に追いこんだのは、自然の愛情をないがしろにした人間である。 内申書の公開を 【’88.4.8 朝刊 1頁 (全840字)】  だいぶ前の家庭欄に、内申書についての女子中学生の感想がのっていた。ことあるごとに「また内申書に書く材料がふえましたね」「あとでシッペ返しがくるから覚えてろ」という教師がいて「いっつも脅されてるって気がする」と少女は嘆いていた▼最後に、大切な指摘があった。「間違ったことが書いてあっても、生徒にはそれを直すことができない。そういうものが記録に残っていくこと自体、怖い。せめて内容を見せてほしいし、違ってたら違うよっていいたいし」▼昔の学籍簿にあたるものが今の指導要録だ。内申書は指導要録をもとにして作られる。だが、それらの記録は非公開である。内申書という秘密の武器を使って生徒を管理しようとする姿勢が教育の現場にない、とはいいきれまい▼先生も人の子だ。指導要録の記入に、時には判断の偏りもあり、誤解もあるだろう。5段階相対評価による記入も、多くの問題をかかえている▼内申書の場合はさらに「受験戦争に勝ち抜く」名目で、ある生徒の点数を別の生徒の点数と取り換える、という驚くべき操作が一部で行われている。だからこそ、指導要録や内申書は親や本人に見せよ、と私たちは主張してきた▼奥平康弘さんはその著『知る権利』の中で、学校教育の場で、生徒らが自分に関する情報から隔離されているのはおかしい、と指摘している。1974年、アメリカで制定されたバックレイ修正法にはこうある。「学校当局は、こどもの保護者(および18歳以上の生徒・学生)が請求した場合には、本人の教育上の記録を閲覧せしめること」。記録が不正確な時、誤解を招きやすい時は修正、削除を求めることができる、ともある▼総務庁は「個人情報保護法案」の最終案を固めた。残念なことに、案を読む限りでは、教育上の記録の秘密主義は守られている。この秘密主義の打破こそ、教育改革のかなめであるはずなのに。 シャウプ教授と税制改革 【’88.4.9 朝刊 1頁 (全854字)】  米コロンビア大のカール・サムナー・シャウプ教授ら学者グループが来日したのは、1949年(昭和24年)の5月10日である。戦後日本の税制改革をマッカーサー元帥に勧告するのが、かれらの役目だった▼やがてその活動に世間が驚く。実に精力的に取材するのである。東京・銀座の喫茶店で問答する。教授「税金で情実がありますか」女主人「ありますとも。この街でも1軒だけ、少なかったところがあります」教授「帳簿をみせてください」女主人「いまはつけていません。税務署が去年、帳簿をみずに税額を決めてきましたから」▼手分けして農村を歩いた。千葉県で麦刈りの農夫にきく。問い「あなた方、申告は自分で書きますか」答え「半数は自分で書く。3割は役所が、残りは農協の人が書きます」。教授らは、どうすれば所得を自分で書けるようになるかをききとる。当時の朝日新聞によると、その夜一行は「6畳の汚い部屋に日本のフトンを敷いてやすみ翌朝は味噌汁つけものの朝食をとって」つぎの調査に向かった▼通訳を担当した外務省の赤谷源一事務官(のち国連事務次長、故人)は、かれらが「大蔵省その他官庁からの資料には、無視に近いほど依存していない」と感心する。徴税の第一線をみるときには、政府の立てた予定をすっぽかして別の税務署をたずね、脱税が多いから税率をあらかじめ高めにしておくという話を聞き出したりした▼シャウプ勧告に基づく税制改革が実現したのは、占領軍の強権があったからだ、とよくいわれる。しかし、それだけだっただろうか。勧告の中には、筋を通して米軍の反発を招いた項目もある。当時の新聞の論調はおおむね勧告の中身を評価している▼こんどの税制改革は「シャウプ以来の大改革」といわれている。しかし政府の税調や自民党の税調に、自分の足と目と耳とで実態をつかむところから始めるという改革者らしい謙虚さと情熱があるだろうか。 春たけなわの花の盛り 【’88.4.10 朝刊 1頁 (全841字)】  冬に戻ったような寒い日があったかと思うと、20度近い陽気になる。そうかと思うとまた雪が降りだすといったあんばいで、上旬の東京のお天気はまことに不順だった。七難八苦の憂き目をみた桜も、きのうは初めて安心した趣で咲き誇っていた▼春の光を満喫しているのは、桜だけではなかった。都心の日比谷公園では、スモモが咲き、ユキヤナギが咲いていた。盛りをすぎたコブシも、雪に耐えて咲き残っていた。ユリノキやサンシュユはもう、命のかたまりのような新芽を伸ばしている▼きらっと光る水たまりに、シダレヤナギの芽立ちの姿が映っている。ウグイス色の新芽をまとったケヤキがある。そのお隣のケヤキはもう、若草色に萌(も)えている。若葉がさざなみだって、躍って、光の渦を描いている▼上野の山の花見客は、夕方までに25万人を超えたそうだ。桜咲く桜お山にお酒(ささ)がなければただの山。花をだしにして集まり、にぎやかに騒いで憂さを捨てる習わしはいつのころから定着したのか。酒なくて何のおのれが桜かな、の世界は年々盛んになるのみである▼昔と違うのは、企業花見の隆盛だ。熊兄いと辰さんが連れ立って行く。長屋の仲間で行く。それが落語の中の花見だ。「袖すり合うえにし大事に花の下」(田頭良子)ということもあったろう。いまはもう、日本人の会社人間化を象徴するように、目にみえない会社の看板が張ってある▼日本画家の鏑木清方は、花見時のほこりっぽさをきらい、雨の桜、夜桜を選んだ。とくに月下墨堤の夜桜は忘れがたい、と随筆集の中に書いている▼仰げば雲母(きらら)色の花の雲、空にはおぼろな月が花隈(はなくま)の透いたところからみえる。「春たけなわの花盛り、天上に月あり、地上に自分の他に人影とてもない」。そういう隅田河畔の夜桜風景を、清方は愛した。群れるもよし1人もよしの花見かな、である。 偉大なるヤンチャ、桑原武夫氏の死去 【’88.4.11 朝刊 1頁 (全842字)】  偉大なるヤンチャが亡くなった。文化勲章受章者で京都大学名誉教授の桑原武夫さん。昭和21年、東北大学助教授時代に『俳句第2芸術論』を発表。俳壇はもちろん広く文化界に衝撃を与え、以来、40年余、幅広い分野で問題を提起し、論議を巻き起こしてきた▼岩波書店の雑誌『図書』が昨年、岩波文庫創刊60年記念で『私の3冊』という臨時増刊を出した。300人を超す学者、知識人らが文庫の中から多くの人に読んでほしい本を紹介している▼桑原さんは『三酔人経綸問答』(中江兆民)、『ROMAZI NIKKI』(石川啄木・ローマ字日記)、『赤と黒』(スタンダール)をあげた。そしてこう記している。「以上3点、いずれも私自身の関与したものですから短評は差しひかえます。いずれも岩波文庫によって日本の若い人にぜひ読んでもらいたいと念願して、いささか努力した作品です」▼この3冊にみられる幅の広さ、自分が現代語訳や翻訳したものをすすめる自信。この人らしさが、よくあらわれている▼桑原さんと長年、交友のあった作家の富士正晴さん(昨年、死去)は氏を評して「ひょっとすると、まだ少年性が残っているのかもしれない」と書いている。「少年」ゆえに好奇心はおう盛だ。隣の垣根も平気で乗り越えていく。もともとの専門、フランス文学の枠にとどまらず、領域を広げていった▼親友の京大名誉教授、今西錦司さんや弟子の国立民族学博物館館長、梅棹忠夫さん、国際日本文化研究センター所長の梅原猛さん、評論家の鶴見俊輔さん……桑原山脈につらなる人たちはみんな、一つの枠におさまりきらない▼いま、大学からも一般社会からもそんなヤンチャが少なくなっていく。だれもが与えられた領域にとじこもり、他の分野の出来事には関心を示さなくなってきた。共同研究で数々の成果をあげた桑原さんは、晩年、そのことを大変憂えていた。 「通」ばやり 【’88.4.12 朝刊 1頁 (全839字)】  懐古ばやりで江戸文化が見直されているという。その表れかどうか、近ごろ「通」(つう)ということばにやたらと出くわす。そう思っていたら、このことを調べた人がいた。小高恭さんという国文学者(大阪産業大教授)だ▼小高さんは昨年、いろんな分野の雑誌260誌から通ということばをさがした。94誌に計226例あった。まず見出しに躍っている。「ファッション通になるマニュアル」「きもの通なら見逃せない」「事情通になるための読書術」といったぐあいだ▼雑誌の広告文には「だれよりも人間通に」というのもあった。写真週刊誌の1つだ。テレビ番組の宣伝に「ひと晩でアメリカ通」というのがあるかと思えば、本には「この一冊で東京通」とか「これ一冊でラグビー通を気取る」とかいうのもある▼最も多いのは食べることに関する記事だ。お好み焼きやもんじゃ焼きは、ハシを使わずにテコで食べるとか、くず切りは黒みつでなく白みつをかけるとか、すし屋などで行きつけの店があるとか、白玉はゴクッと一気にのみこむとか、そんな人が通と称されるというのである▼通は江戸時代の1つの理想の生活スタイルで、いきという美意識に裏打ちされていた。通であるためには、いきでなければならない。生涯をかけ、身代までつぶして通をきわめようとしたものだ。それにひきかえ当世の通は、お手軽になったと小高さんはいう。1冊の本で通になれるとすれば、たしかにこれは安直だ▼もう1つのちがいは、その道の研究者や専門家までが通になっていることだろう。料理研究家や料理長が料理通と呼ばれる。国会議員が内政通だの外交通だのといわれる。通は本来、それを職業としない人、つまり素人の趣味の領域であったはずだ▼玄人と素人、プロとアマのけじめがつきにくくなった現代の、これも1つの特徴だろうか。いずれにしろ、通ぶるのを半可通という。 「夢のかけ橋」瀬戸大橋は騒音の橋  【’88.4.13 朝刊 1頁 (全842字)】  「四国路へわたるといへばいち早く遍路ごころとなりにけるかも」。昭和9年、吉井勇はそう歌った。船で四国に渡るには、長い間、瀬戸内海の空と島をながめることになる。ながめながら、こころはゆるやかに四国路に傾いてゆく▼旅びとにとっては、そのゆるやかな時間が大切なのだが、地元の人びとはそうばかりはいっていられない。連絡船では1時間もかかったところが、いまは車で10分である。列車では5、6分だ。たしかに便利にはなった▼しかし、瀬戸大橋が開通した日、列車の轟音(ごうおん)に跳び起きた人びとがいた。橋のすぐわきの下津井田之浦地区に住む主婦は、はれぼったい目でこういったという。「漁協に勤める主人が寝不足で交通事故を起こさないかと心配です」▼地区の人びとは、試験運転のころから抗議していた。「80ホンといわれたって、われわれにはどれだけの音かわからん。体験してみて、こりゃいかんと気がついた。夜働き、昼間寝る漁師は体がもつかどうか」という漁師のことばもある▼本四公団と岡山県などが結んだ協定では、騒音の上限が陸上部80ホン、海上部85ホンとなっているが、この協定は少し甘すぎないだろうか。国の環境基準は、列車ではなくて道路の場合ではあるが、住宅地で昼間が60ホン、となっている▼岩黒島の島民も、試験運転の騒音に驚き、「我慢の限界を超えている」と訴えていた。列車に車の騒音が加わり、「夢のかけ橋」は同時に騒音の橋となっている▼本州と四国を結ぶ橋は、住民の悲願だった。9.4キロの橋が実現したことで、四国が新しい時代を迎えるというのも事実だろう。だが、文明という名のレールは、何かをけちらかして伸びてゆく▼大橋の下に住む人びとの静謐(せいひつ)を公共のために犠牲にするのなら、全力をあげて騒音を減らす心配りが必要だろう。静謐もまた、貴重な公共財産である。 旧石器時代のたき火跡 【’88.4.14 朝刊 1頁 (全849字)】  旧石器時代のたき火の跡がみつかった。たき火の跡の中心に5センチほどの棒状の炭が埋まっていた。多数の石器や樹木も発掘されたという▼みつかったのは仙台市南部の富沢遺跡だ。2万年も前、どんな顔の、どんないでたちの男や女や子どもたちがたき火を囲んでいたのか、と想像するのは楽しい。杜(もり)の都の文化の厚みが、氷河時代にまでさかのぼる、ということもわかった▼たき火の火はどのようにしておこしたのだろう。たき火は暖をとるためのものだったのか。なにかを焼いたりもしたのだろうか。旧石器人はナウマンゾウやオオツノシカを仕留めて食べたといわれるが、このあたりではどうだったのだろう▼最後の氷河期の当時は、平均気温が今よりも5度か8度は低かったという。よほど寒さに耐えうる皮膚でなければ生き抜けないはずだ。今の都会人が裸同然でほうり出されたらたちまち凍死したことだろうと、あれやこれや考える▼考古学者の戸沢充則さんは、その著『古代の知恵を発掘する』の中で書いている。「石器づくりの技術は人類の誕生とともに、少しずつ改良されながら、200万年以上もかけて子孫に伝えられてきた」と。200−300万年の歳月の中で、人類は猿人から原人へ、さらに旧人へと進化し、やがて新人(ホモ・サピエンス)が誕生する。そして、旧石器人の文化は縄文人へと伝えられた▼「そこには歴史的な積み重ねがあると思います」と戸沢さんはいう。一口に石器といっても、長い時の流れの中でさまざまな工夫が加えられ、精巧になり、それがやがて鉄の道具の原形になる。人類の文化は積み重ねの歴史だ、というごく平凡だが貴重なことを、埋蔵文化財は教えてくれる▼縄文時代の人は、ヤマイモを掘る時は少し根を残し、子どものイノシシを捕るのは避けたという。自然の恵みを大切にする知恵もまた、私たちの文化に積み重ねられてきたはずだった。 車いすで渡った日中友好の橋 【’88.4.15 朝刊 1頁 (全853字)】  きのう、東京のブリヂストン美術館会館で小さな催しがあった。小さいけれども心にしみる会だった▼まず西村光世さんのハープ演奏があった。招待されて、中国から来た張海迪(ジャン・ハイディ)さんが車いすで現れた。体の不自由な張さんは、独学で勉強を続け、童話を書き、「中国の宝」として記録映画の主人公になったこともある▼「車いすに座って友好の橋を渡ってきました」。32歳になる張さんは、意外にも日本語で語り始めた。自分が踊りの好きな活発な女の子だったこと、5歳の時に重病にかかり、大手術を繰り返したが、胸から下の知覚を失ったこと、恐ろしいのは病気ではない、前に進む心を失うことだと自分にいいきかせたこと、独学で医学の本を読み、自分を実験台にし、15歳で針治療を習得したこと、農村で何千人もの治療をしたこと、張さんは汗びっしょりになってそれらを語った▼言葉がつかえると、はじけるように笑った。拍手がわいた。奇跡をみる思いでその上手な日本語をきいた。大学に通ったわけではない。厚い日本語の本を丹念に読み、人の何倍もの時間をかけて勉強したのだという。英語も手製の辞書で覚えた▼張さんは、文筆活動のほか福祉の仕事をしている。なぜそんなに楽観的に仕事を続けられるのか、と問われると、彼女は答える。「病気は苦痛です。でも、何もせずに生きていることはもっと苦痛です」▼招いたのは福祉施設「かにた婦人の村」を主宰する深津文雄さんと、評論家の秋山ちえ子さんだ。1920年代に大連の小学校に通った深津さんは、中国人の親友が来日した時「友情の記念」に張さんの招待を約束した▼招待の資金は秋山さんたちが受け持った。「友好とか外交とかいっても、結局はひとりひとりが知りあうことでしょう?  張さんを通してたくさんのことを学びたい」と秋山さんはいう▼この催しは館山市、蒲郡市、京都市、別府市でも行われる。 アフガン難民 【’88.4.16 朝刊 1頁 (全846字)】  500万人を超える難民、というのが想像できない。難民たちが連れてきたヒツジ、ロバなどの数は300万頭以上になるという。このことも想像するのが難しい▼三原山噴火の時の避難民は約1万人だった。あの500倍もの人が国境を越えたことになる、と計算してみるのだが、実感がわかない。「世界最大の規模」といわれるアフガニスタン難民の数はそれほど多いのだ▼アフガニスタンからパキスタンに流入した難民は約300万人、イランに流入した難民は約200万人である。国民の3人に1人が国境を越えて避難し、来る年も来る年も故郷に帰れないでいる。地球上で起こっている最も深刻な事態の1つだ▼和平協定によって、ソ連は来月15日から撤兵を始めるという。しかしそのことがすぐ難民問題の解決につながるとは思えない。現地には悲観的な見通しが強い▼協定調印の裏には「米ソ両国は支援するそれぞれの勢力への武器援助を継続してもよい」という了解があるという。この奇妙な了解のもとでは、内戦は容易にはおさまらず、反政府ゲリラの活動は続くだろう。いままで「反ソ」の大義で結びついていた反政府の側も、分裂し、内部抗争が激しくなるかもしれない▼たとえ戦火がおさまったとしても、すでに農地は荒らされ、水利施設は破壊されている。ただちに多数の人が故郷に戻れば飢えに直面することになるだろう。引き揚げにともない、当然、強力な国際救援活動が必要になる▼アフガン紛争は、パキスタンの人びとの暮らしをも脅かしている。まず緑が奪われた。難民たちが1年間に消費するマキの量は40万本の樹木に相当するといわれる。パキスタン国内のテロがふえ、麻薬が大量に流れるようになり、難民対地元民の摩擦が激しくなっている▼難民の帰郷を実現させるには、どういう援助が必要か。あらゆる救援組織が対応をせまられているし、日本の役割は大きい。 故田宮虎彦さんを忍ぶ 【’88.4.17 朝刊 1頁 (全851字)】  東京・銀座の兜屋画廊で、きのう鈴木悌一さんの個展を見た。76歳になる鈴木さんは、ブラジルに住み、サンパウロの街や樹木を描き続けている▼案内状に、作家、田宮虎彦さんの一文があった。「日本の現在の絵画に馴れすぎた人たちは、彼の作品を古風すぎるというかもしれないが、私は日本の絵画がむしろ彼の作品にまで帰らねばならないと思う」▼個展のために里帰りした鈴木さんは、中学時代の親友である田宮さんを見舞った。田宮さんは脳こうそくで入院していた。それでも、きやすく推薦の辞を書いてくれた▼2人はお互いをどなりつけては気合をいれる仲だった。鈴木さんが「日本ではおれの絵を相手にしてくれる人が少ない」と嘆いた時は、田宮さんがどなった。「そんなこと気にするやつがあるか。自信をもて」▼退院後の田宮さんが病気のことをいい「みじめな思いをしたくない。死にたい」とぐちると、今度は鈴木さんが「ばかをいうな」とどやしつけた。しかし個展が開かれる3日前、田宮さんはマンションから飛び降りた。「鈴木君、許せ」と遺書にはあった▼「高邁(こうまい)なものをもった男だった。うすぎたないやつが大嫌いだった」というのが鈴木さんの田宮評だ。自殺を知った時「やった、か」と思ったそうだ。いさぎよく死んだのだ、とも思った▼『足摺岬』『絵本』『菊坂』という作品を読み返してみた。『絵本』の最後の描写はいまも新鮮だ。戦時中、ある中学生が、強盗のぬれぎぬを着せられて逮捕され、拷問にあう。傷だらけになって戻った少年は、雨の夜、墓地で首をくくって死ぬ▼戦前戦中の時代の暗さを、田宮さんは書き続けた。私は私なりに私のいのちの底をコツコツと掘り続けてゆくばかりだといいながら、時流に流されることを拒み続けた。田宮作品を古風すぎるという人がいるかもしれない。だがそこには、年をへても光を失わぬ品格、というものがある。 「子ども弁護団」発足 【’88.4.18 朝刊 1頁 (全839字)】  先月末、「子ども弁護団」という弁護士の全国組織が発足した。いま子どもたちのなかには、人権じゅうりんといっていいほどの目にあっている者が、たくさんいる。それが、学校のなかで起きている例が多い▼ひどい体罰、理屈に合わない校則の強制はじめ、法に触れる疑いのあるような仕打ちまで、平気でおこなわれている。子どもには、これに抗議する力はない。学校の権力のほうが、圧倒的に強い▼「弱い子どもの側に立ってものをいってやる大人が、もっといなくてはならない。われわれは、法律家の立場で力になろう」。2年前から、そのための研究をつづけていた各地の弁護士有志が、行動に移ったわけだ▼学校は治外法権の場ではない。世間で守られている法律は、学校の中でも守られなくてはならない。当たり前の話である。ところが学校では、未熟な子どもを教育する場合には、何をしてもいいのだと考えられているふしがないではない▼こんどの組織を作った弁護士たちは、実際にいろいろな事例を扱って「これでは子どもが、かわいそうすぎる」と感じた経験を持っている。そして親が、学校にものをいった時、どんなあしらい方をされるかを、いやになるほど見てきたという▼「そんな事実はない」と突っ放す。「子どもさんのためになりませんよ」とおどかす。「あの親は問題がある」と言いふらす。たいていの親は、涙をのんであきらめるしかない▼「私たちは、何でもすぐ訴訟に持ち込もうなどとは、考えていません。子どものぶつかっている問題を、できる限り早く解決してやる。そのために、親に力を貸してあげたいのです」(吉峯康博弁護士)。たしかに、日常のごくささいなトラブルにまで弁護士を間に入れる米国型のやり方は、はやらせたくない▼しかし、子どもに「規則を守れ」という以上、学校にもそうしてもらおう、というのは不自然な話ではない。 中村勘三郎の「間」 【’88.4.19 朝刊 1頁 (全842字)】  「どこかヒョウヒョウと軽妙でいて、色好みのネットリヌラリとした味もある」。かつて漫画家清水崑が中村勘三郎のことをそう評している。うまい表現だなと思う。駘蕩(たいとう)とした独特の味をもった歌舞伎役者だった▼勘三郎には3人の父がいた、といっていいだろう。1人は実父の歌六である。上方出身の役者だった。1人は20以上も年が開いている兄の初代吉右衛門だ。兄というよりも父親の立場で芸を教えてくれた。1人は岳父の6代目菊五郎である▼吉右衛門にはしぼられた。踊りのけいこで「そこはヒザをつけ」と兄がいう。だれだれはヒザをつかなかったと意地をはると「なにいってやんだい」という声と共に、茶わんが壁にめりこむほどの勢いで飛んできた▼菊五郎もすごかった。鏡獅子(じし)のけいこでは、フンドシ1つになって体の線を教えてくれた。だが、初日の舞台をみて6代目は涙まで浮かべて怒った。「なんだ、きょうの鏡獅子は!おれはあんなふうにはおせえねえよ。なんてザマだ」(『自伝、やっぱり役者』)▼ある時代の歌舞伎界を代表する2人の名優にどなられ、どなられて育ったことは、勘三郎にとって幸運だった。たとえば戦時中の空襲の時、吉右衛門はさっと押し入れにもぐりこんで絶対にでてこなかった。菊五郎は窓から首をだして空中戦を眺め「それ、そこだ」と騒いだ。2人は姿も芸風も違ったが、「間」の取り方だけは奇妙に一致していたという▼勘三郎自身がいっている。「役者は間がすべてです。それしかないと思っています」。亡くなる日の朝、勘九郎は、父勘三郎の手を握り、行って来ますといった。何も答えない。もう一度「これからやって来ますよ」というと、父は「うるせえな、ばかやろう」とどなった▼むろん無意識のことだろうが、1度目で何も答えなかったところに、役者らしいうまい間の取り方があったように思う。 大蔵省製の“形状記憶商品” 【’88.4.20 朝刊 1頁 (全855字)】  3年前になる。鐘紡会長、伊藤淳二さんは「あまりにも無策な土地政策」に憤り、「戦後の農地解放に似た革命的土地政策を断行するしかない」と本紙論壇で訴えた▼地価高騰を憤る声はちまたにあふれ、竹下首相はついに、昨秋の施政演説でこういわざるをえなかった。「現在の内政上の最大の課題の1つは、土地対策であります」と▼革命的土地政策の1つは土地税制の改革である。内政上の最大の課題の1つは「土地改革」と「税制改革」という2つの改革を結びつけることだと私たちは思い、期待をしてきた。だが、期待はさめつつある▼本社と政策構想フォーラムが主催したシンポジウム『税制改革 ここが問題』では、土地税制の改革を訴える声があった。東京青色申告会連合会の吉田文一さんはこう主張していた▼「法人所有の土地は相続税がかからない。固定資産税や都市計画税は時価評価からみると評価額が小さい。このためカネ余りの大企業は土地買い占めに走り、その被害が庶民に及んでいる。地価高騰の原因でもあり、財源ということも考えて大企業の土地保有税を考えよ」と▼連合の名井博明政策局長も「土地税制が土地問題のきめ手になる。新たに土地保有税を創設したらどうか」と提言した▼土地を持つものと持ちえざるものとの格差は将来、さらにひろまってゆくだろう。この不公平感をやわらげるためにも、なんらかの形の土地保有税の強化は必要だろう。このことでかなりの増収がみこめれば、減税の有力な財源にもなるだろう。だが、政府税調にはこの問題と正面から取り組む姿勢はない▼税の不公平緩和についての地道な議論なしに、減税といえばすぐその財源に大型間接税を持ちだすのでは、芸がない。最近、形状記憶樹脂というのが開発されたが、「減税」とか「税制改革」とかの文字を熱湯にいれるとたちまち「大型間接税」という文字に変化するのを、大蔵省製の形状記憶商品という。 アカヤシオの咲く一帯を保護地域に 【’88.4.21 朝刊 1頁 (全856字)】  数日前、秩父の山を歩いた。沢ぞいの草地にアズマイチゲの白い花が咲いていた。古峰神社という小さな社のある山の頂にのぼると、何本ものアカヤシオがあった。岩場に根を張って斜めに伸び、やわらかな、淡い紅色の花を咲かせている▼花の好みは人さまざまだが、樹木博士の小林義雄さんは「ツツジの女王コンテストになったら容姿、色合いのすぐれたアカヤシオにやはり票が集まるだろう」と書いている。それほど、この花には人をひきつけるものがある▼秩父の山の雑木林はまだ枯れ葉色をまとっていた。離れてみると、アカヤシオの淡い紅やアブラチャンの花の黄が枯れ葉色の世界にしみこんで、みごとな調和をみせている。イヌブナなどの1000万の木の芽が光っている。「大空にすがりたし木の芽さかんなる」(渡辺水巴)。大空にすがって生きようとするのは木の芽であり、木の芽をみる己のことであろうか▼夜、このあたりのアカヤシオを盗みに来て、岩場から足をふみはずして死んだ人がいる、と土地の人がいった。岩にしがみつくようにしてイワウチワが咲いているのがみえる。アカヤシオの花をさらに淡くした色の花だ▼「このイワウチワも、昔は岩場に花を敷きつめて咲いていたものですが、盗採でこんなに減りました」。同行してくれた秩父市大田小校長の守屋忠之さんがいった▼私たちは足をのばしてカタクリの大群落をみてから帰途についた。草地に咲く姿を先ほど見たばかりのアズマイチゲの群落がそっくり姿を消しているのに、驚かされた。石の陰の1輪だけが命拾いをし、あとは全部、盗採にあったらしい▼「チチブドウダンやシロヤシオなどの立派な木が盗み去られたこともあります。節分草もカタクリもイワウチワも、年々秩父の山から消えてゆきます。残念です」と守屋さんはいう。山の神の怒りを軽くみてはいけない。アカヤシオやカタクリの咲く一帯を保護地域にはできないものか。 首都高値上げを考える 【’88.4.22 朝刊 1頁 (全847字)】  東京五輪の前、東京に高速道路が開通した。「灰色の路面を車が矢のように走り、夢のハイウエーにふさわしい快適さ」だと当時の記事にはある▼まもなく今野源八郎東大教授のこんな発言がでる。「高速道路は、早く安く走れることがねらいなのに、150円均一という料金は高すぎる。これからは輸送の能率をあげ、料金を安くすることが課題だ」▼この「早く安く」の理想は逃げ水のようなものだった。いまは夢さめて、高速道路に対する不満の声が高まっている。首都高速道路公団の値上げに対して、ある利用者は90回以上の不払いを続けた▼ある利用者は値上げ認可の取り消しを求める訴訟を起こした。値上がり分にあたる100円玉1個を1回だけ不払いにする、という新戦術をとる組織も現れた▼利用者の不満はこうだ。(1)渋滞が多い。これでは高速でなくて低速だ。渋滞による損失ははかりしれない(2)鉄道は、遅れた場合に特急料金の払い戻しをするが、高速道路はそれをしない▼(3)利用者の意見も聴かずに値上げをする(4)有料道路はいずれは無料にするはずなのに、新道路を造る名目で、無料化が遠のいている。無料開放の時期をきちんと示せ▼道路公団側にもいい分があるだろう。いわく「そもそも道路整備特別措置法には公聴会のような規定がない」。いわく「高速道路は鉄道とは違う。道路という施設の使用料をいただく立場で、払い戻しはできない」。いわく「道路の新規工事では土地買収費の予測がたちにくい。従っていつ無料にできるかの計算はしていない」▼新しい高速道路を造る、だからカネがかかる、だから料金を上げるという方針を、公団は金科玉条にすべきかどうか。高速をふやすよりも、既成の高速道路の「早く安く」を実現するためにもっと力をつくせ、と考える利用者の数が案外多いかもしれない。公団は利用者の声にもっと耳を傾けてもらいたい。 中国映画「芙蓉鎮」の暗示 【’88.4.23 朝刊 1頁 (全838字)】  中国映画界を代表する謝晋監督の最新作『芙蓉鎮(ふようちん)』を岩波ホールで見た。中国で数々の賞を独占したという前評判どおり、やはり堂々たる作品だった▼文化大革命という政治のあらしにまきこまれ、屈辱的な生き方を強いられる1組の男女が、恋におちる。5悪分子だと断罪された米豆腐売りの女、胡玉音は、やつれはて、おびえながら、甘美な愛に心が傾いてゆく▼暗いあばらやでまぶしいほど光る目で男をみつめる。その目の演技が圧倒的にいい。どんな革命もどんな運動も、人間の尊厳を、人を愛する心を奪うことはできないと監督はうたいあげる▼何よりも知識人、秦書田という男の描き方がおもしろい。幹部にウスノロとののしられながら、秦は卑屈に見える態度で生き抜く。かつては文化館の館長をしていた男が、反革命分子として毎朝、石畳の清掃をさせられる。しかし、その仕事を楽しみ、ワルツにあわせてホウキを使ったりする▼秦は、恋人の玉音に「やみ夜が明ければ悪党も出没できなくなる」といい、2人が懲役刑を言い渡された時も「生き抜け。ブタになっても生き抜け。牛や馬になっても生き抜け」といって励ます▼一見、卑屈で、ずるがしこくて、という否定的にとられがちな人物像なのだが、その徹底した面従腹背があまりにもみごとで、こきみよくて、久しぶりに存在感のある人物像を映画で見た▼中国の社会がここまで政治のおぞましい一面をさらす勇気をもったことに敬意を表する。だが、えたいの知れない「運動」の熱気が人間の判断を誤らせる恐ろしさは、消えてはいない。そのことを最後の場景で監督は暗示している▼岩波ホールの高野悦子さんは、ホール創立20周年を記念して、この映画を選んだ。外国公開では短縮された海外版を使うのに、高野さんは交渉を重ね、あえて2時間45分の国内版を輸入した。この選択は正しかった。 東京都の『伊豆大島噴火災害活動誌』 【’88.4.24 朝刊 1頁 (全852字)】  東京都が『伊豆大島噴火災害活動誌』をまとめた。1177ページにも及ぶ大作だ。たとえば島に残された犬が警察署の署長室のソファでちゃっかりと寝入っていた、などという話もある。犬たちにとっても、めったにはできぬ体験の日々だった▼残された飼い犬は三百数十頭、ネコは約300匹だった。小鳥もいた。駐在のお巡りさんが面倒をみた。ペット班も編成されて、エサや水を与えた。警視庁の警察犬担当者も派遣された。5000キロ近いエサも島に運ばれた、などという記述を読み、かなりきめこまかな対応があったことがわかった。乳牛131頭、ブタ804頭、鶏6129羽については、畜産班が面倒をみた▼大島噴火のさいの避難と災害活動は、よく組織されていた。とくに避難が整然と行われた原因を災害活動誌はかぞえあげる▼(1)近所同士のつながりが強く、寝たきりの老人をだれかがすぐ車で迎えに行ったりした(2)指揮をする消防団員が顔なじみの人で、信頼されていた(3)生活道路の破損がなかった(避難後にはあったが)(4)電気、電話が確保された。東京電力やNTT職員も頑張った(5)天気がよかった。風が強ければ元町港は使えなかったはずだ▼だが、この状況がすべてあべこべだったらどうだろう。大地震が起こる。人と人とのつながりがうすい都会では避難の指揮をとる人がだれかもわからない。倒れたブロック塀などで生活道路が寸断され、消火や救助ができなくなる。電気が切れ、電話もつながらない、という状態では、パニックも起こるだろう▼伊豆大島老人ホームの看護婦、山本すみ江さんは「毎月の防災訓練がきわめて役に立った」と書いている。氷砂糖数個が2日間のエネルギー源になったこと、1反のサラシが緊急時の背負いひも、荷造りひも、包帯、おむつの代用としていかに役立ったかということも書いている。この災害活動誌には学ぶべき点が多い。 幻影の時代 【’88.4.25 朝刊 1頁 (全842字)】  16世紀のフランスの思想家モンテーニュは、修辞学者が嫌いだったらしい。有名な『エセー』の第51章「言葉の空虚について」のなかで、次のように皮肉っている▼「小さな事柄を大きくみせたり、大きく思わせたりする」修辞学者は、いってみれば、ぶかぶかの靴をつくるのがうまい靴屋さんのようなものだ。彼らはわれわれの判断を欺き、物事の本質を変えようとはかる▼この物差しを当てはめてみると、米大統領の前副報道官ラリー・スピークス氏は、さしずめ現代の修辞学者といえそうだ。3年前ジュネーブで開かれた米ソ首脳会談のときのこと。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の雄弁で、レーガン米大統領の影が薄くなるのをおそれ、氏は大統領の言葉を創作して、報道陣に伝えたのだという▼でっちあげの裏話を同氏は自著「スピーキング・アウト」で、とくとくと発表。世間はあきれるやら、怒るやら。また、レーガン大統領が自分の発言とされたものに、どうやら目を通していないことも、ばれてしまった▼米国には有名人の講演や論文の代筆を業とする人たちがいる。その1人が「名士たちはしばしば自分が講演の原稿を書いたのではないという事実を忘れ、打ち合わせのときから、私の書いたものを引用したりする」と、嘆くのを読んだことがある▼作りごとが、別の新しい作りごとを呼び起こす。米国の文明史家ブーアスティン氏のいうように、現代は幻影の時代なのであろう。われわれは疑似イベントに取り囲まれ、影を自分と思い込む危険にさらされている▼その証拠に、スピークス氏の著書自体が、実は代筆らしいという。大統領の発言を代筆したと、別の代筆者が書いているのだから、ややこしい話だ。この事件でスピークス氏は証券会社副社長(報道担当)の地位を失った。偽物創作の罪というよりは、幻影の時代のからくりを、無邪気にあばいたためかも知れない。 原発とエネルギー政策 【’88.4.26 朝刊 1頁 (全843字)】  ソ連のある映画監督がチェルノブイリ原発の惨事を撮影した。監督は無人の町に腰をすえ、事故直後の5月から8月まで撮影を続けたという▼自らもカメラを持った。ガリガリと鳴るガイガーカウンターの音が画面に入った。事故の恐ろしさを伝えるなまなましい記録映画は残った。だが、放射線をあびた監督は倒れ、世を去ったそうだ▼原発事故の後始末、生産低下などによるソ連の被害は約1兆8000億円にものぼると伝えられている。その後遺症の深さは、金額だけでははかれない。この2年間、たくさんの劇的な変化があった▼たとえばソ連では、ある地方に計画されていた原発が建設中止になった。施設の耐震性に対する疑問の声が強まり、中止に追いこまれた、とプラウダが伝えた。チェルノブイリの惨事前だったら、こういうことがありえたかどうか。あっても新聞に伝えられたかどうか。皮肉な話だが、今回の惨事はソ連の情報公開をはやめるきっかけになったように思える▼ソ連の外では、たとえばイタリアで政府提案の原発中止法が成立した。スイスでは、政府のエネルギー諮問委員会が「経済に大打撃を与えることなく、2050年までに原発全廃が可能」という結論をだした。わが国でも、2030年までに原発の発電量を全体の60%にするという計画は、見直しをせまられることになるだろう▼石油、石炭などの化石燃料が酸性雨の原因になること、窒素酸化物をまきちらすこと、炭酸ガスを増大させて地球の温度の上昇をもたらすことなども、私たちは知っている▼風力、波力、太陽熱などを、日常のエネルギー源にすることが可能なのかどうか。より多くのエネルギーを消費する暮らしから、より少ないエネルギーですます暮らしへの転換をどうするか。息せき切ってかけてきた私たちはいま、深呼吸をしながら子孫に残すべき未来のエネルギーのことを考える時期にある。 ヤッピー去ってトゥイナー栄ゆ ニューヨーク 【’88.4.27 朝刊 1頁 (全855字)】  ヤッピー去ってトゥイナー栄ゆ、というのが昨今のニューヨーク現象らしい。とくに昨秋の株の大暴落後にヤッピーの上昇志向と自信が大きくゆらいだ。『ニューヨークよ』という本紙の続きものにそうあった▼ヤッピーというのはヤング・アーバン・プロフェッショナルのことで「カネ、権力、栄光などを求めてやまぬ都会派の若者」とでもいおうか。金融証券界にとくに多い。トゥイナーはビトゥイーン(間)からきた言葉で、大金持ちの暮らしと貧乏な暮らしの中間にいて、安定した生活を求めるが、拝金的ではない、という人びとのことをいう▼このトゥイナーの名づけ親であるABCのビル・オライリー記者に同僚が会い、話をきいた。「アメリカ人は上昇する人、成功する人が好きだからはじめはヤッピーたちがよくやっている、と思っていた。だが、カネやモノへの執着が強い彼らはやがてのさばり、買いまくり、最高のものをほしがり、それを見せびらかしはじめた。そして反発が起こった」▼株の大暴落後、ウォール街で大量の解雇があった。ヤッピーのたそがれがいわれだしたころから、トゥイナー型の生活が脚光をあびた▼トゥイナーたちは、たとえば最高級のレストランよりも、てごろな値段の良い店を選ぶ。いいものをほどほどに楽しむ術を心得ている。派手な暮らしは避け、貯蓄をし、親、友情、伝統的な価値観などを重んじ、カネよりも心の平穏が大事だと考える▼アメリカの大学生を対象にした調査がある。人生の価値は「経済的に豊かになること」と答えたものが、1967年は40%で、85年には70%にふえた。「意義ある人生を尊重する」と答えたものは逆に85%から43%に減った。つまり、昨今のトゥイナー現象はこの流れにさらに新しい変化が起こったことを、意味するものではないか▼派手なことをきらい、普通の人を志向する風潮は米大統領選候補者選びにも表れているようだ。 日本型一斉休暇のありように思う 【’88.4.28 朝刊 1頁 (全847字)】  こんどの連休では、行楽地に約5000万の人出が予想されているそうだ。街中の人ごみは好きなのに旅にでると途端に人ごみ恐怖症に襲われる筆者などは、1カ所に7日間でのべ100万、200万の人出があるという話をきいただけでも、恐ろしい気持ちになる▼にぎやかさが好きな人がにぎやかな所に群れる。それはそれで結構な話だが、なんとなく群れさせられて、動き回り、心身の疲れをいやすどころか、疲れを再生産するようでは休暇の意味がない▼日本の遊び場では、人びとは「血まなこで遊んでいる」。4半世紀前、作家開高健さんはそう名言をはいた。「奇妙な表現だけれど、私たちは血相変えて“楽シイ!”と叫んでいるかのようなのである」と書いている。血相変えて、とはよくいったものだ▼一方、余暇開発センターの『レジャー白書88』によると、年間を通じて4日以上の連続休暇をとれない人の数がまだ、3人に1人はいるそうだ。特定の期間、特定の行楽地に血相変えて集まる。そういう日本型一斉休暇のありように疑問を持ちつつも私たちは流されている▼第1に、各企業が長期休暇の時期をずらす工夫をしたらどうだろう。『白書88』にも「まとまった休みを自由にとりたい」という声が多かったとある。桜前線や紅葉前線に沿って、休みたいものが自由に連休をとるようにするのは、この管理社会にあっては極めて難しいことだろうか▼第2。カネをかけた集団旅行がいい旅だとは限らない。幕末のころ、山口県の百姓庄兵衛は、大きなふろしきにわらじを包んで江戸へ行った。カネがないからひたすら歩いた。数カ月の旅のおみやげは、浅草雷門のわらじ1足だけだったとものの本にある。あこがれて歩く。歩くことを楽しむ。ほかに何の目的もないこのような行為にこそ、旅の神髄がある▼一斉旅行の流れに逆行する、こういう「私だけの旅」の演出がもっとあっていい。 「検察審査会」立ち上がる 【’88.4.29 朝刊 1頁 (全841字)】  ヘンリー・フォンダ主演のアメリカ映画『12人の怒れる男』は陪審員の話だ。被告の少年に対して初めは有罪論が大勢をしめていたが、ある陪審員が起訴状の欠陥をしつように突く。長い議論が続き、結局、無罪論が勝つことになる。市民の目のたしかさをうたいあげた作品だった▼日本は陪審員制度をとってはいないが、市民が司法に参加する制度の1つに「検察審査会」がある。市民が、検察の動きを見守る制度だ▼この審査会が、共産党幹部宅の盗聴事件について「いけないことはいけません」という判断を示した。盗聴したとされる警察官たちを、検察は不起訴処分にしたが、これはなっとくできない、再考を求める、というものである▼検察の態度には「いけないことかもしれないが、まあまあ」という身内意識があったように思うが、市民たちはそこを突き、ごく当たり前のことを当たり前に守ってもらいたいと主張している▼東京地裁が先月に出した決定を読み直してみた。決定は、警察官が盗聴に成功したと推定した上で「警察官が職務上組織的に行ったことは許されるべきではない。法治国家として看過できぬ」とまでいっている。ここでも裁判官は「いけないことはいけません」とはっきりいっている。この内容は市民集団の考え方にも影響を与えたはずだ▼今回のニュースを読んで、検察審査会のことを初めて知った人が多いのではないだろうか。まず市町村の選挙管理委員会が、選挙人名簿の中から、くじで若干名の候補者を選ぶ。検察審査会事務局はさらにくじで11人を選ぶ。審査会は全国に約200ある。常時、二千数百人の市民が審査員になっている▼全国の各検察審査会は、昨年約2000件を扱った。検察の不起訴を不当だとし、起訴を相当だとした例が95件あった。だが、検察側が処分をひっくりかえしたのは、わずか2件である。市民の声はまだ届きにくい。 4月のことば抄録 【’88.4.30 朝刊 1頁 (全848字)】  4月のことば抄録▼「よく分からない理由で長い間休んでいた生徒が卒業式の時だけでてくると、生徒たちが『怠け者でも卒業できる』と思いかねない。こういう悪影響を避けたかった」。ツッパリや登校拒否の生徒たちを卒業式から締めだした中学校の担任教師の発言だ▼「登校拒否の子には、逆に、卒業式の日こそ出席を求めたらどうでしょうか。その日に出席すればすばらしいことだ。学校はいま、子どもが人間らしく成長することを助けるという教育の根本を見失っている」と、自由の森学園長の遠藤豊さんはいう▼「非行というものは、校則を守れない子が1人でもいると、他の生徒に伝染する」。転校してきた女生徒の髪形や服装が校則にあわないとの理由で、9カ月間授業を受けさせなかった中学校の校長の言い分だ▼「この程度の個人的な逸脱を理由に何カ月も授業を受けさせないのは明らかに異常で、憲法の『教育を受ける権利』を否定している」と茨城大の今橋盛勝教授▼「異常なほど細分化し、秩序化している『校則』もなにやら宗教の戒律じみていて、薄気味悪い」と劇作家の山崎哲さんが書いている。校則とは何だろう。過度の校則を支える心、校則と格闘する心、校則と体罰、校則とその背後にあるもののすべてを、いまは詳細に吟味することが必要な時代だ▼「9は数字の上で最大を表す。おれたちは1999年には日本のトップにいるんだという世間への宣言である」。中学校の校庭に9の字の形に机を並べた卒業生たちが供述した。その意図はどうあれ、キュウは窮に通ずる。行きづまって身動きのとれないさまを窮という。窮には時代の声がある、とみるのは読みすぎか▼戦後の人びとの暮らしを撮り続けた薗部澄さんが自分の写真集をくりながらいっている。「子供の表情が明るいのには、びっくりしますね。この写真の子供と比べて、今の子供たちの表情のなさはどうでしょう」 郵便局・現金自動支払い機故障の教訓 【’88.5.1 朝刊 1頁 (全841字)】  きのうの午前11時半すぎ、「郵便局の現金自動支払い機が動いてないんですよ」という男性からの電話が本紙の東京本社社会部にあった▼自動支払い機の故障はしばしばある。だが念のため、遊軍席の社会部員たちが2、3の郵便局に問い合わせてみた。「使用停止の状態です」「操作してもうまくいかない」「機械がだめで、お客さんの列ができています」。そんな答えがはねかえってきた。九州のほうでも止まっているという情報が入った▼そのころ、全国の郵便局から各郵政局へ問い合わせが続いていた。やがて郵政省の誇る郵便貯金のオンラインシステムが全国的な規模で動かなくなっていることがわかった。郵政省としては初めてのことである▼原因は、大型連休の行楽費などを引き出す人が郵便局に殺到したためだ。集中豪雨的な支払い請求が、通信容量をはるかに超え、洪水を起こしたのだろう。ついこの前、人気ロックグループの公演予約の電話が押し寄せて、都内のほぼ全域で電話がかかりにくくなったことがあった。集中豪雨型の需要に襲われると、通信の網は意外にもろい▼教訓の1。1極集中の弊はなかったか。郵便貯金の自動機では、全国の拠点の中でもとくに東京の役割が大きい。今回はその東京がまず洪水になり、あふれた水が全国におよんだらしい▼教訓の2。連休時でもこの騒ぎだ。大地震の警戒宣言がでた時などは大丈夫か。郵政省も各金融機関も、パニックを避けるため、緊急時の集中豪雨型需要に耐える対策にさらに力を入れてもらいたい▼教訓の3。今回は、窓口にいる多数の職員が大活躍をして急場を救った。頼りになるのは人の手であり、コンピューター社会の懐を深くするのも、結局は人の手だということを、改めて教えてくれた▼皮肉なことに、あす2日は「郵便貯金創業の日」(明治8年)である。いろいろなことを考えさせてくれた事故だった。 「えんちょうせんせいは90さい」 【’88.5.2 朝刊 1頁 (全851字)】  「えんちょうせんせいは90さい」という、たった15ページだが、とても温かい絵本に出合った▼東京都北区のもみじ幼稚園の園長、徳川宗敬さんは、1年前に卒寿を迎えた。いつもは、5月生まれの園児といっしょの「おたんじょうかい」で壇上に並ぶのだが、去年だけは特別に、1人だけのお祝いの会を開いてもらった。そこで、いろいろ質問が出た。「あのね、えんちょうせんせい、こどものころ、ちょんまげあたまだったの」▼「ハハハ、ちょんまげはしなかったよ」「いたずらしたこと、あるのかな」「そう、とってもいたずらがすきでした。にわの、おおきなきに、かくれては、のぼったよ」。そんなやりとりを、2人のお母さんが文と絵で、ぜひ記録しておきたいと思った。計画はふくらみ、先日、彼女たちの自費出版の形で実った▼たぶん、現役で最高齢の園長だろう。けれども毎朝、門のところで、登園してくる子どもたちに「やあ」と手をあげ、「おはよう」と声をかける日課は欠かさない。もう十数年になる。あたりには、名曲が静かに流れている。園長先生が自分で選んだ「四季」や「田園」である▼実は、絵本の計画は幼稚園には内証だった。でき上がったとき、先生たちは驚いた。しかし父母の方では、できるべきものができた、と感じた人が多かったらしい。園長室に子どもたちが自由に出入りして、床で転げ回っている。同じ組のこの子は絵をかき、あの子は砂場で遊び続けている。そんな幼稚園なのだ▼つねづね徳川さんは「人を育てるのは木を育てるのと同じ。根がしっかりしていないと倒れてしまう」といっている。林業の専門家でもあって、毎年4、5月の全国植樹祭を支えてきた▼この数日、めずらしく軽い風邪をひいて、引きこもっている。でも、電話の声には張りがあった。「子どもは気持ちいい。私は、おとなはあまり好きではないなあ」。もうすぐ91歳の誕生日がくる。 言論の自由求め犬飼記者復帰 【’88.5.3 朝刊 1頁 (全859字)】  「君とは生死を分けた。自分が撃たれたあのとき、君に声をかけてやれなかった。……あのとき『小尻、逃げろ』と言うことが出来ていれば、あるいは死ぬことはなかったかもしれない。この思いは自分に重たすぎる」と犬飼兵衛記者が書いている。本社阪神支局襲撃事件から1年がたつ。そしてきょうは41回目の憲法記念日である▼犬飼記者は第一線復帰の一文の最後を「小尻、焦らずに一緒に行こう」という言葉で結んでいる。新聞記者としての旅を共に続けようという呼びかけである。筆者もまた、だれかれにともなく呼びかけたい。一緒に旅を続けませんか、焦らずに一緒に行きましょう、と。憲法でいうもろもろの自由を求めての旅である▼あの日からたくさんの人がペンの力を説き、朝日新聞よ頑張れと励ましてくれた。そのことを力強く思いながらも、なにがしかの割り切れなさが心に残っている▼言論の自由の大切な要素の1つは「国家が何を意図しているか」を新聞が正確に伝える自由をもつことだろう。人びとが国の政策の是非を判断しうる材料をゆたかに提供することだろう。そのために記者は渾身(こんしん)の力をこめる。それは記者の責務だが、重いマル秘のとびらを少しでもよけいに開く作業は、私たちの力だけではどうにもならないことがある▼たとえば防衛政策がある。防衛機密約11万、防衛庁秘約100万という秘密主義に憤る世論が日々強まる、ということがなければマル秘の範囲はさらにふくらむだろう▼国民の命運にかかわる日米共同作戦計画の概要が国会にも報告されない、といったことに憤る声がちまたに満ちなければ、既成事実はひそかにふくらんでゆくだろう▼防衛政策だけではない。取材活動の自由は、あらゆる税金の使い道についての情報公開を切望する人が何人いるか、ということと無関係ではない。知る権利を求める人たちと一緒に歩く以外に、言論の自由を求めての旅はない。 長者番付 戦後の歴史 【’88.5.4 朝刊 1頁 (全845字)】  おととい、高額納税者の一覧表が発表された。長者番付などというものは眺めて楽しくなるしろものではないが、調べてみればそこにも戦後の歴史がある▼敗戦直後から1950年までの番付上位には、ヤミ屋や金貸しなどの新興成り金が多い。糸へん、つまり織物業者も景気がよかった。番付十傑のうち7人までがヤミや脱税の疑いで起訴されたり捜査されたりという年もあった。焼け跡派成り金の時代である▼1951年から4年間は、炭鉱経営者が番付の上位を占める。石炭が黒ダイヤとしてもてはやされた時代だ。55年以降は、神武景気の波に乗った家庭電化の時代に入り、長者番付の上位に松下電器の松下幸之助氏、三洋電機の井植歳男氏が顔をだす。高度成長経済型長者番付が恒例となる▼しかし次第に、地価の異常高騰が問題になりはじめ、1969年以降、土地でもうけた大型長者が番付の上位に躍りでる。長者番付上位100人のうち95人、97人が土地長者になるという年が続き、日本列島改造ブームに乗って地本主義は定着する▼その後の土地長者は、たとえば石油危機のあとに一時激減することがあってもすぐに盛り返し、86年も87年も土地無策をあざ笑うように圧倒的な勢いで長者番付を制覇している。今回の発表では、首都圏だけではなく、長野や新潟でも土地長者の進出があった。別荘地開発の影響だろう▼戦後の長者番付一覧表を調べながら、一体私たちは何をしてきたのかというむなしい気持ちになった。土地を売りさばき、転がしただけでたちまち日本有数の長者になる。営々として働き、汗を流して得たカネでは寸地もままならぬ。そういう病的な状態を19年も許してきたことへの痛恨がある▼「土地の保有及び処分等により利益を得た者に対しては、当該利益が社会に還元されるよう適正な課税を行う」。野党が説くこの土地基本法の原則に、筆者は賛成する。 現代っ子の五感 【’88.5.5 朝刊 1頁 (全841字)】  いまの子は感性が豊かだという。音楽環境の貧しい時代に育ったおとなからすると、リズム感がすばらしく発達していて、複雑な拍子にも巧みに乗ってゆく▼一方で、いまの子は感性が鈍いという話も聞く。ある音楽の先生がいっていた。「カラオケ式にひとりで歌わせると実に調子いいんだけれど、コーラスになるとダメ。とくに声を落とすところなどなかなかハーモニーがとれない」▼子どもの生活と感性教育研究会(代表・寺内定夫さん)というところが、東京と大阪の保育園で五感調査をした。ニンジン、キュウリ、ダイコン、リンゴ、ミカン、イチゴを目隠ししてひと口ずつ食べさせる。果物は約8割が正しく答えたが、野菜の正解は4割弱しかない。においとなると、でたらめに近く、ダイコンやニンジンを消しゴム、せっけんと答えるし、イチゴをレモンという子もいる▼五感、つまり視覚、聴覚、嗅(きゅう)覚、触覚、味覚は感性を磨く基本的な感覚で、生活経験の積み重ねで発達する。イチゴとレモンの区別がつかなくても生きてはゆけるが、これで感性が豊かになるかといえば、心細い話だ▼近ごろは家庭生活にもいろんなセンサー(感知装置)が入ってきた。ガスもれや煙の感知器、手をかざすだけでつく電灯、電話が鳴るとテレビの音を下げる装置、そして水不足を知らせる植木鉢まである。五感不要といわんばかりだ▼しかし、センサーが故障したらどうなるか。それが取り越し苦労だとしても、小さな音、かすかなにおい、さらには気配や沈黙に対する感受性が消えてゆくことはたしかだろう。カラオケはうまいが弱音のハーモニーがとれないというのは、その表れの1つだとも思える▼きょうは、こどもの日。家族そろって、うんと小声で“柱のきずはおととしの、を歌ってみてはどうだろう。小声では景気はよくないにしても、なにか大事な発見がありそうな気がする。 見直される街歩き 【’88.5.7 朝刊 1頁 (全848字)】  『WALK』という雑誌は、歩くことの好きな人にとっては格好の情報誌だ▼最近は、山や野を歩くことだけではなく、街を歩くことにも編集の力点をおいている。街歩きは、健康法の世界でひろまりつつある新現象の1つらしい。ニューヨークでも、ウオーキング・シューズとやらをはいてさっそうと街を行く女性の姿がめだっているそうだ▼6月号には、地下鉄と人間の足とを比べる話があった。2人が同時に東京の芝・増上寺三門前を出発する。A君は目的地の青山墓地まで歩く。B君は地下鉄を乗り換えて乃木坂駅まで行き、後は歩いて同じ所に行く▼さて、どちらが先に着いたか。歩いたA君の所要時間は32分57秒で、地下鉄のB君は37分30秒だった。地下鉄のほうが人間の足よりもはるかに速いとだれもが思う。実際、そういう場合が多いだろう。だがその常識を破って、場所によっては人間の足が勝つ、というところがおもしろい。歩道を軽んじてきた大都会の交通政策のありようにも一石を投ずる話だ▼先月号の『WALK』では、自然人類学者の岡田守彦さんが、人類が2本足で歩き始めたのは約400万年前ごろだと語り、その話を受けて、太田愛人さんが指摘している。「最近、『歩く』意味が問い直されてきていますが、まあ、このあたりが400万年という『歩き』の歴史を持つ人類の賢い選択じゃないかと思うんです」▼きのう、5月の陽気につられて、国立競技場前から迎賓館前をへて、日比谷公園内の図書館まで歩いた。所要時間は53分だった。あとで地下鉄を利用してみたが、この時は30分だった。地下鉄利用のほうが早く着いたが、その差は23分だ▼歩くことでトチノキ、ユリノキ、イチョウと東京の並木が光り輝くさまを十分に楽しむことができたし、絵画館前でナンジャモンジャの白い花が咲き誇る姿もみることができた。歩いたおかげで季節の風が心にしみた。 赤ちゃんムササビとおふくろの心 【’88.5.8 朝刊 1頁 (全857字)】  東京に住む甲斐義孝さんと芳子さん夫妻が、病弱な次男のために転地を思い立ったのは6年前だ。知人を頼って、愛媛の山奥に土地を探し、3人の子と共に引っ越した。家を建て、谷川の水を引き、慣れない手で畑仕事を始めた▼そこに、1匹のムササビの赤ちゃんが現れた。義孝さんが、山仕事の最中、親を失った赤ちゃんムササビをみつけて連れ帰ったのである。さっそくムーチョン兵衛と名づけられた▼芳子さんの育て方がすばらしい。ムーチョン兵衛は、授乳びんからミルクを飲もうとしない。途方に暮れながらも、ムササビの母親だったらどうしただろうと芳子さんは想像する。そして赤ちゃんの耳や鼻の頭を舌でなめてやる。やはりそうだった。赤ちゃんは安心しきって、ミルクを飲み始めた▼いずれは山に帰す。過保護はいけないという方針を貫いた。ムーチョン兵衛は家の中で宙を滑る練習を始めた。墜落して失神したこともあった。傷口をなめてやった。本当の母親なら上手に飛び方を教えてやれるだろうに、と思うとふびんだった▼ムササビはやがて夜は山へ行き、朝に帰るという暮らしを始め、生活力を身につけてゆく。雪の夜もおしりをたたいて「山の学校」へ通わせた。あらしの夜も、心を鬼にして外にだした。1年半後、青年になったムササビは山へ去って戻らなかった▼芳子さんが書いた『ムーチョン兵衛山に帰る』という本を読んだ。「ムーは野生のなかで生きてく術を独力で会得していった。ムーはそうやって、山での生き方をわたしたちに教えてくれた」という一節が美しい▼芳子さんは長男に対しても、たとえばニワトリにえさをやる責任をもたせるが、どういうやり方がいいのかは教えない。何度か口や手をだそうとして、がまんした。1カ月かかって長男は独力でそれを習得した▼ハラハラしながら突き放し、突き放しながら温かく見守る。そこに私たちはおふくろの心をみる。きょうは母の日。 野抜けの時代 【’88.5.9 朝刊 1頁 (全845字)】  日本で初めての屋根付き球場、東京ドームが幕を上げて50日ほどになる。当然ながらテレビやラジオは大助かりだ。雨天中止を考えての雨傘番組の用意がいらない。弁当屋さんも大喜びだと聞いた▼観客はどうか。雨天中止がないのはこれまた結構だ。それに、実際はともかくとして、野球がいっそう楽しくなるはずだという。なぜなら、後楽園球場に比べて、左右両翼が10メートルも深くなった。野球で最も面白いのは三塁打の多いゲームだといわれる。その三塁打が出やすくなる理屈だ▼つまらなくなったという声も聞く。平凡な外野フライと思ったら風に乗ってホームランになる。逆にホームランが外野フライに終わる。ここではそれがない。野球はとりわけ意外性の強いスポーツだ。それがあまり期待できない▼マウンドに立ったらまず風を見た。背中に感じたら、これを利用して速球で勝負する。もう風を見る必要がない。草魂の鈴木啓示さんが先日、こんな話をテレビでしていた。少し物足りなさそうだった▼もう1つの魅力は、打球が空に吸いこまれるときの、あの抜けるような快感だろう。青空なら最高だが、夜空もまたいい。カクテル光線に照らし出された白球が、くっきりと浮かぶ。それがドームにはない。ボールをどこに追っても、その先は閉ざされた壁ばかり▼音についてもいえるようだ。バットの快音が空へ抜けない。場内にこもってしまう。これも室内野球の宿命だろう。確実に抜けるものはといえば、野球の野の字だけかもしれない▼ついでだが、近ごろの野菜も野が抜けた。ハウスものがそれだ。土などひとにぎりもいらない工場野菜もある。おかげで季節や天候に関係なく育っていく。一方で、あく、にがみ、辛さ、しぶさ、におい、硬さ、といった昔ながらの持ち味は薄れた▼「野抜けの時代」とでもいうか。それなら野党はどうか。いろいろあるようだが字数がつきた。 特別救急医療士を日本にも 【’88.5.10 朝刊 1頁 (全854字)】  霊柩(きゅう)車が救急車を兼ねていた時代が、米国にはあったという。病院へ患者を運ぶ途中で、救急隊員が本来の葬儀屋さんとなる。このブラックユーモアのような話に終止符を打って、米国民は1960年代以降にたぶん世界で一番進んだ救急医療体制を作り上げた▼日本の救急医療の水準も、病院の中についていえば先進国に数えられる。だが、病院にたどりつく前の医療はまるで空白だ、と東京消防庁の救急担当主幹が嘆いている。昨年1年間に東京の救急車は、5501人の仮死状態の人を運んだ。入院7日後の生存者は345人、6%だった▼仮死状態でも十分な救急処置を受ければ4人に1人(25%)は生き返って社会復帰できる。処置が不十分だと20人に1人(5%)まで落ちることが米国の研究で分かっている。わが国の数字では、助かる人も助けていないことになりはしないか▼米国で目覚ましい救命成果をあげている「パラメディック(特別救急医療士)」の資格制度を作ってほしい。そうした声が救急の現場で聞かれる。高度の救急処置技術を学んだ救急隊員のことで、資格者は医師と連絡をとりながら投薬、注射、輸液など、いまの日本の救急隊には許されていない処置ができる。心臓発作の急患に有効な回復装置も使える▼外国で可能な救急処置が、なぜ日本ではだめなのか。消防法では長い間、救急隊の仕事は病院などへの「搬送」であると定めていた。法改正で緊急時の「応急手当て」が付け加わったのは、つい昨年1月のことだ。応急手当ては人工呼吸、心臓マッサージ、止血、包帯などに限られている。医師法で医療行為は医師にしか許されていない▼東京消防庁の諮問機関が「救急隊員も医師法に触れない範囲で積極的な処置を施すべきだ」と答申した。厚生省も医療の空白を埋めるため具体策を検討してほしい。日々、助かる命をみすみす失っているとしたら、なんとも残念なことだ。 奥野発言問題 【’88.5.11 朝刊 1頁 (全861字)】  3年前、当時の中曽根首相は国会でこう答えている。「私はいわゆる太平洋戦争、大東亜戦争ともいっておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。また、中国に対しては侵略の事実もあったということもいうております」▼翌年にはこう答えている。「日中戦争では、中央政府は不拡大方針をとっておったが、現地軍が次第に拡大の方へ持っていったという歴史的事実も指摘されています。侵略的事実は否定することはできないと私は考えております」▼これは、竹下内閣にも受けつがれた政府の基本認識だろう。奥野国土庁長官の考え方は、これとは違う。侵略戦争という言葉は嫌いだ、日本にはそういう意図はなかった、政府は日中戦争では不拡大方針を指示してきたのだ、という意味のことを長官はいう▼こういった発言が日中関係にどういう波紋を投げかけるかということを、奥野さんほどの老練な政治家が知らぬはずはない。知っていながらあえていうのは、発言を支持する空気が一部にあることを知り抜いているからだろう▼長官は、マスメディアの伝え方が悪いから中国側が怒るのだといわんばかりの非難をしているが、閣僚が政府の考え方とは違う発言をすれば、これを伝えるのは報道の責務だ。己の発言が問題を起こしたのではなく、マスメディアが問題を起こした、という主張はあまりお上手な弁明とはいえない▼若い人には遠いできごとだろうが、日中戦争によって、中国では千数百万の人が死んだといわれている。最近の中国側の調査では死者だけで約2000万人、という数字もある。少なくとも100万の単位を超える犠牲者があった▼また日本では、戦時中、民間人を含めて約300万の人が死んだという推定がある。戦争の責任を論ずる場合、私たちは常に、おびただしい数の無告の民の訴えに謙虚に耳をすます、ということに立ち戻らなければならない。 帰国していた「よど号」ハイジャック犯 【’88.5.12 朝刊 1頁 (全841字)】  「よど号」ハイジャック犯の1人柴田泰弘は、子供たちの自立を助ける養護施設を訪ねてはボランティアとして働いていたという。施設というのは財団法人青少年と共に歩む会の「憩いの家」だ。この記事を読み、小林道雄さんの『翔べ!はぐれ鳥』という本を思いだした▼「憩いの家」のことを、小林さんは「ヒナドリのための荒海に浮かぶ止まり木」と表現している。崩壊家庭の子や家庭を拒んでいる子が、この家で暮らし、心が休まる場所を得、時には働きに出てやがて自立してゆく。今は15歳から18歳の子がいるそうだ▼柴田は、16歳の高校生の時、日本刀を持って「よど号」乗っ取りに加わった。長い間、朝鮮民主主義人民共和国で暮らし、34歳のいまは、住居を転々と移して警察の目から逃れようとしていた。柴田は子供たちの姿に、16歳の時の己の姿を重ねていたのかもしれないが、その心象風景はわからない▼わからないといえば、18年前に起こった「よど号」事件も、わからないことだらけだった。独善的で稚拙な乗っ取りと、男たちのもくろむ革命とやらがどこでどう結びつくのかがわからなかった。犯行後、われわれは未熟だった、はねあがっていた、間違っていたという反省の声が届いてくるのも奇妙な、腹だたしいことだった▼そして、今回の突然の逮捕である。日本に戻ってきたのは柴田だけなのか。柴田はどのようにして日本に戻ることができたのか。北朝鮮はなぜ、出国させたのか。柴田はなぜ何回も海外へ行ったのか。旅先で日本赤軍の丸岡修と接触したのか。接触したとすればその目的は何か。テロを考えているのか。わからないことばかりだ▼柴田自身は、荒海にもまれ、時々、止まり木を求めて「憩いの家」にやってきたのかもしれない。「ふだんの生活の重さをホームで発散しているようには感じていました」という施設長の観察を鋭いと思った。 NHKの間接税導入問題の世論調査 【’88.5.13 朝刊 14頁 (全860字)】  NHKが、自分のところでやった世論調査の結果を放送しなかったのは、やはりおかしい。間接税導入に反対するもの48%、という結果の放送をなぜ見送ったのだろう▼「政府税調素案の公表とかちあった。調査結果がこの素案についての意見と誤解される恐れがあると判断して放送しなかった」と川原会長は弁明している▼視聴者の誤解を恐れるのなら、この世論調査が10日以上も前に行われたものだということをくどいほど説明すればいい。それでもだめだと考えるのは視聴者を愚民視するものではないか▼NHKが恐れたのはむしろ、視聴者の誤解ではなく、政府や政府税調の誤解ではなかったかと筆者には思えてくる。わざわざ素案公表にあわせて間接税反対の結果を放送するとはなにごとか、けしからんという政府筋の誤解ないしは曲解を恐れての自主規制ではなかったか▼さらにおかしなことがある。NHKは去年の12月にも間接税導入問題の世論調査をしたが、この時は賛成が46%だった。この結果は放送した。となると賛成多数の世論は放送され、反対多数の世論は放送されなかったことになる。しかも、12月調査の賛成多数は、その中身を分析すると、かなり疑問のあるものだということがわかる▼放送法によると、NHKの番組には「報道は事実をまげないこと」「意見が対立する問題では、多くの角度から論点を明らかにすること」などの定めがある。今度の放送見送りはこの定めを忠実に守ったもの、といえるだろうか。NHKは世論調査をしても政府に都合の悪い部分は省略する、という不信感がひろがった時のことが恐ろしい▼藤堂明保説では、公という文字にはもともと「私有のワクをとり払って、がらりと開く」の意味があるそうだ。公共放送の公には、だから公開の原則がつきものなのだ▼公共放送の公は、さらにいえば公衆であり、皆の衆であり、視聴者のことだろう。公権力の公であっては困る。 カタクリの里で「雪を活かす」 【’88.5.14 朝刊 1頁 (全855字)】  岩手の「早春」を見に来ませんかと、雪崩の研究家高橋喜平さんに誘われて、沢内村、湯田町のあたりを歩いた。萌(も)え始めたブナが山はだを薄緑に染めていた。山桜が咲いている。急斜面のあちこちで、淡い若紫色のシラネアオイが風と戯れている。ヒメギフチョウが1羽、ゆらゆらと飛んで消えた▼カタクリの花はそれこそあたり一面を埋めつくす、という感じで咲いていた。枯れ葉色の地面に紅紫や緑の点描がひろがっている。カタクリにも白い花があるんですよ、といって森の奥に消えた喜平さんがやがて、あった、あったと叫んだ。白花のカタクリは、雪の精と交わり合ったもののように、おしべまで白かった▼林床のそこここに残雪があり、表面を見ると、小筆の先のようなものがいくつも姿を現している。触れると、しなやかでやわらかい。カタクリの芽だ▼残雪は硬い。その接地面は氷のようになっている。弱々しくてやわらかなものが、硬くて冷たい残雪を突き破る。「このふしぎさに私は目をみはるばかりです」と喜平さんはその著『カタクリの里』で書いている▼カタクリの中に、雪をとかす特殊な力があるのだろうか。雪を貫いたカタクリの芽にはしかし、雪と闘っているという感じはない。雪と親しみながら日なたぼっこをしている、といった風情だ▼豪雪の沢内村を古人は「天牢(ろう)雪獄」の地だと表現した。しかしいまこの村は「雪を治め、雪を活(い)かし、雪に親しむ」ことをめざしている。「雪国文化研究所」を建て、雪の恵みを活かす道をさぐっている▼野菜などの貯蔵庫を造り、その上を厚く雪で覆う。もみがらやアルミシートをかぶせて雪室にする。野菜、イチゴの苗、リンドウの苗などを貯蔵し、時に応じて出荷する実験を続けている。ニンジンやゴボウは雪室では甘さをますこともわかった▼活雪、親雪の効用を説く村の人たちの姿に、あの残雪を貫くカタクリの姿がだぶった。 電話番号案内の有料化 【’88.5.15 朝刊 1頁 (全857字)】  電話の104番を有料にするかどうかで有料君と無料君の意見がぶつかった▼「番号を教えてもらうのだからなにがしかの対価は当然だ。いっそ1回100円くらいにしたらいい。10回なら1000円だ。これはいかんというので自分で番号を調べる人がふえるだろう。だいたい昨今は、まず自分の力で調べるという力が衰えてきたからね」と有料君が嘆いてみせた▼「暴論だよ。電話番号を自分の力で調べるといっても電話帳が必要だろう。たとえば東京の多摩地区に住む人が23区内の電話帳を全部そろえるのにいくらかかると思う」と無料君が反撃する▼「あれは、タダなんだろう」「いや、23区以外の人が希望する場合は買うのさ。23区のハローページは23冊、タウンページは3冊」「なんだい、それは」「ハローが人名別でタウンが職業別さ。なんでこんな変な英語が登場するのか104番に問い合わせたいぐらいだがね。とにかく全部そろえると2万円を超す。全国の電話帳をそろえたら700冊を超すよ。それを集めて自分で調べるのかね」▼「うん、それはわかった。しかし最近は通販業者や名簿業者が集中して利用する。そのための案内業務に膨大なカネを使うのはおかしいという議論がある」「それをいうのなら、もっと説得力のある実態調査を明らかにしてもらいたいな」▼「本音をいえば」と有料君はやや後退した。「消費者保護のために、たとえば米国マサチューセッツ州の方式なんかを参考にすればいいと思うんだ。(1)住宅用は無料(2)ビジネス用は月に10回まで無料、といったぐあいにね」▼最後に無料君がいった。「NTT流の窓口基本用語でいえば、オ待タセイタシマシタ、諸般ノ事情ニヨリ、恐レイリマスガ104番ヲ有料ニイタシマス、申シワケゴザイマセン、ということだろうが、これは困る。当方としてはこういいたい。NTTさん、恐レイリマスガ、少々オ待チクダサイマセ」 銀座目抜き通りにカラスの巣 【’88.5.16 朝刊 1頁 (全853字)】  銀座の目抜き通りの並木にカラスが巣を作った。それも、2本の木に2つだ。土地の値段が日本位置、といわれているあたりを選んでわが家を作るなんて、やるものである。1つの巣ではすでにヒナがかえっている▼おとといの夕方、そのそばを歩いていて、ちょうどヒナにエサを与えた親ガラスが飛び立つところを見た。道路の反対側の高いビルのらんかんに長い間止まっていて、時々ヒナにカアカアと呼びかける。街の人波には目もくれず、きっと四囲をにらんでいる。その姿は堂々としていて、頼もしげで、親の威厳があって、ほんの少しカラスのことを見直した▼都市鳥研究会の金子凱彦、銀座の真ん中でカラスの巣を見たのは初めてだという。よほど珍しいことなのだろう。街の人は街路樹のカラスなどに気をとめない、という都会の死角をうまく利用したのかもしれないし、交番のすぐそばというのも頭がいい。だが、都会砂漠の中心地で巣を作るのは大変だ。どこからか針金を運んだりしてかなり苦労したらしい▼きのうの早朝、銀座一帯を歩いて、残飯をあさるカラスの数の多さに圧倒された。ネオンの消えた街路は、きちんと打ち水のしてある所もあったが、あちこちでゴミの袋が破られて中身が散乱し、異臭がたちこめていた▼ネズミがいる。ノラネコがいる。そしてカラスが大挙してビルの谷間にはばたく。段ボールを集めるおじさんが自転車でリヤカーをひいている。銀座のもう1つの顔だ▼何百羽ものカラスは早朝の銀座で残飯をあさった後、どこかへ消える。しかしここでヒナをかえした親ガラスはやはり巣の周りのビルの屋上に止まって、警戒を怠らない▼残飯の量がふえれば、カラスもふえる。カラスはハトやヒヨドリを襲うから、都市鳥の生態系は微妙に変わる。銀座目抜き通りのカラスの巣は、カラスの銀座制圧の先ぶれではないのか。ただし、その原因をつくっているのは人間の飽食文化だ。 立ち遅れの障害者施設 【’88.5.17 朝刊 1頁 (全854字)】  去年、まだ茨城県の高校生だった佐藤敬子さんは、重度脳性まひの44歳の男性につきそって、アメリカへ行った▼車いすに乗ってキリスト教の伝道をする彼を助けて、アメリカの街を歩いた。驚いたのは、街を歩いている時に感ずる温かさだった。たくさんの人が笑顔でハローとかハーイとか声をかけてくる。すれ違いざまウインクをする車いすの人もいる▼もう1つ、佐藤さんが驚いたのは、街で見かける障害者の数が日本に比べてはるかに多いことだった。それは、障害者を受け入れる施設が日本よりも整っているからだ、ということに少女は気づく▼少女はまた、東京で「車いす1日体験」をしてみた。自分で車いすに乗って、改めて日本の都市がいかに健常者中心にできているかが、痛いほどわかった▼佐藤さんの体験記は、国際障害者年日本推進協議会などが「障害者の10年」中間年を記念して募集した作文の中の優秀作に選ばれた。論文の部で優秀作になった千葉県の小野清美さんもまた、わが国では、いかに障害者、高齢者の外出に備えた施設が貧しいかを嘆いている▼たとえば埼玉県のある禅寺は、車いすを常設しており、障害のある人の手洗いを造ろうとしている。そういう動きがめだってはきたが、観光地を含めて、障害のある人が利用できる道、エスカレーター、公共の手洗いなどはまだ決定的に少ない。都内の有名ホテルで障害者を含めたパーティーがあった時、健常者用のトイレしかなくて困ったという話を小野さんは紹介している▼頚椎(けいつい)の病気で入院した岩城宏之さんは、『週刊朝日』の闘病記にこう書いている。「身障者たちは自由に外に出ることができない。乗り物も街も人も、優しくないからである。その点で、少なくとも、先進文明国といわれている国のなかでは、ぼくの見るかぎり、日本は最低の国である」と▼私たちが総力をあげて取り組むべき課題が、この発言にはある。 アルゼンチン大使の津田さんはハドソン研究家 【’88.5.18 朝刊 1頁 (全849字)】  津田正夫さんが亡くなった。90歳だった。「かつてのアルゼンチン大使」というよりも、津田さんには「ハドソン研究家」「ファーブル研究家」の名のほうがぴったりする▼今から30年前、津田さんは当時の外相、藤山愛一郎さんに呼ばれて大臣室へ行った。いきなり「大使になってくれ」といわれる。民間人の起用というのは型破りのことだったろう。「アルゼンチンに行かせてくれるなら」と条件をつけて、引き受けた。同盟通信のブエノスアイレス支局長として、戦時中この国にいたことがあったためである▼民間人起用も型破りだったが、アルゼンチンでの「外交」もかなり型破りのものだった。たとえば、この国に生まれて『緑の館』などの名作を残した作家W・H・ハドソンの生家を訪ねる。生家は荒れ果て、朽ちかかり、なにものかが勝手に住んでいた▼ハドソンを敬愛する津田さんはすぐ新聞に投書した。ぜひ修復し、記念館にしてもらえないか、と。ブエノスアイレス市民の共感の電話が鳴り響いた。机上には手紙が山積みになった。やがて州知事が修復を約束した。津田さんは現地でハドソン大使と呼ばれた▼この国が誇る画家キンケラ・マルチンたちが、津田大使をつかまえて「大統領に会えるようとりはからってくれ」と頼んだこともある。タンゴ保存策の陳情のためだ。なぜ日本の大使が、と苦笑しつつ、津田さんは仲介の労をとった▼キンケラ・マルチンたちは、本職以外のことに熱中する変わり者に「ねじくぎ勲章」を贈っている。タンゴやハドソンに夢中になる日本大使にも、当然この勲章が贈られた。型破りではあったが、そこには本来の姿の外交があったように思う▼ハドソンは、野にあって鳥と暮らし、「神様の小鳥」を殺すような文明の心に敵意を抱いた。「彼は愛し続けた。鳥と緑と草原の風を」とハドソンの墓碑銘にはある。そしてこの墓碑銘は津田さんにもふさわしい。 強制連行の実態 【’88.5.19 朝刊 1頁 (全840字)】  ルポライター、林えいだいさんの『朝鮮海峡―深くて暗い歴史』は、千葉県在住の在日韓国人、鄭正模さんの記録だ▼鄭さんは、朝鮮半島南部の生まれ故郷の路上を歩いているところを、日本人警官に呼び止められ、そのまま日本に連行された。開戦前夜の1940年のことで、鄭さんは22歳だった。残された妻や子供は、それから20余年もの間、突然消息を絶った鄭さんを待ち続けることになる▼送り込まれたのは、福岡県の筑豊炭田だった。過酷な労働、悲惨な炭鉱事故、リンチもあった。1カ月後、鄭さんは炭鉱を逃げ出し、朝鮮独立のための地下工作組織に加わる。東北や北海道を転々としながら、朝鮮人労働者を脱走させる活動にもかかわった▼警察や憲兵隊の拷問のくだりを読むと、肌があわ立つ思いだ。同志3人が死んだ。鄭さんの体にも、その時の傷跡が残っている。きびしい弾圧の中でも、同胞の組織的な救出活動が続けられていた事実に驚かされる▼戦時体制で手薄になった国内の労働力を補うために、朝鮮半島の人たちを日本に連れてくる。これが強制連行だが、その実態となると、まだ解明されていない部分が多い。ほとんどの資料が敗戦の時、焼却処分されたからだ▼たとえば、強制連行された人は75万人とも150万人ともいわれる。その実数さえはっきりしない。その人たちがたどった人生の軌跡となると、さらにつかみようがない。15万人が連行されたという筑豊地方には、あちこちに朝鮮人労働者の無縁仏が眠っている。寺の過去帳にも、この人たちの名が記されている。遺骨を集めて供養したり、母国に送りとどけたりする運動が、一部の民間人の手でいまも続けられている▼心につきささるような鄭さんの言葉がある。「口惜しさで、このままでは死ねません」。日本の植民地統治の深くて暗い歴史をうやむやにしないためにも、鄭さんの記録は貴重だ。 5年前、スイスで消えた重水 【’88.5.20 朝刊 1頁 (全845字)】  5年前のこと、ノルウェーの首都オスロの空港から某国の民間航空機が飛び立った。届けられた行き先は西独フランクフルト。だが同機が舞いおりたのは隣国スイスのバーゼルだった▼飛行機には、西独の原子力企業が発注した15.18トンの重水が積みこまれていた。この重水がバーゼルでおろされたことだけは確認されている。しかし、それがどこへ運び去られたか、いまに至っても不明である▼重水は重水素と酸素でできている。外見はふつうの水と変わらないが、沸点など物理的性質が違う。中性子を吸収しにくいという特性を持ち、原子炉での減速材に使われている。原子力の平和利用に一役かっているわけだ▼だが厄介なことに、重水は核兵器づくりにも大きな働きをする。「重水とは何か、知っている人は少ない。これこそ核兵器拡散の張本人なのだ」。米ウィスコンシン大学のミルホリン教授は、昨年末に出た米誌「フォーリン・ポリシー」で、こんな警告を発している▼教授によると、イスラエル、インド、フランスは「平和利用だ」と誓約してノルウェー、米国から重水を大量に入手、これを核兵器製造用のプルトニウム生産のために使っているという。イスラエルにはフランスからも重水が渡っており、それらをもとにイスラエルは核保有国になったのだそうだ▼5年前に消えた重水の行方を、ノルウェーと西独の捜査当局が必死になって追っている。なぜ今までほっておかれたか不思議だが、事件には国際的な重水ヤミ市場が介在しているとの説もある▼では重水はどこへ流れたか。米紙の報道では、インドが疑われている。インドは重水を作る能力を持っているが、核兵器を作るには足りない。輸入しようと思っても、核拡散防止条約に加盟していないから、規制が厳しいというのだ▼ヤミ市場を通じて重水がまき散らされては大変である。抜け道封じに力をあわせるときではないか。 ミティラー民俗画の素朴さ 【’88.5.21 朝刊 1頁 (全846字)】  ミティラー民俗画展と題した珍しい美術展が開かれている。6月5日までは東京・渋谷のたばこと塩の博物館で、そのあと新潟など各地を回る▼北インドのビハール州ミティラー地方で、母から娘へと数千年も描き継がれてきたという一種の宗教画だ。最近の絵には自己主張が強いほど芸術的に高く評価されるむきがあるが、これはちがう。気負いがなく、のびやかで、屈託がない。子どもの落書きに見るような、なつかしさや楽しさがある▼構図と色彩が特徴的だ。ヒンズーの神々や動物たちを図案化したものが多いが、どれも輪郭線がはっきりしていて、モダンアートを思わせる鮮やかさと大胆さがある。それでいて繊細な情感が漂うのは、女から女への伝承ならではのものだろうか▼ガンガー・デービーという61歳の婦人の「人の一生」と題する作品がある。縦1.5メートル、横3メートル弱の画面に、母の胎内に宿ったときから結婚までの女の生涯がびっしり描かれている。気が遠くなるほど複雑で細かな線描画だ。2年間かかったという。時間を超えた悠久のインドを見る思いがする▼彼女は絵筆をとる前に必ず、どう描いたらいいか神におうかがいを立てる。全インドの手工芸局長だったププル・ジャヤカル女史がテレビで話していた。どこで絵の知識を教わったのかとここの女たちにきいたら、みんな子宮の中に宿していると答えたそうだ▼折から全国でインド祭が催されている。この美術展はその一環だ。会場には2人のミティラーの女性もきていて、実際に壁画を書いている。マッチ棒のような筆で、こつこつと。2人とも日本が初めてなら、飛行機も初めてという。どこに泊まっても、朝は一番に太陽をさがしてお祈りをする。東京タワーに案内されたときは、神様になったみたいだと目を輝かせたそうだ▼人の心をなごませるのは、いつも素朴さだ。文明社会はますますそれを強く求める。 対話とざした潤滑油の食事 【’88.5.22 朝刊 1頁 (全839字)】  よく使われる「シンポジウム」(討論会)という言葉の語源は、一緒に飲むこと、つまり宴会を意味するギリシャ語だそうだ。古代ギリシャの人たちは、食卓につき、酒をくみかわしつつ、ニワトリが先か卵が先か、といった議論を楽しんだ▼飲食と対話とは、昔から深い関係にあった。そういえば、テレビのホームドラマが全盛だったころ、家族団らんというと、かならず一家そろって食卓を囲む場面が登場したものだ。食事とはそれほどに、人と人との間の潤滑油として役立つ場合がある、ということだろう▼お客を自宅に招待したとき、日本人はいかに豪華な献立にするかに気をつかう傾向がある。アメリカ人は献立よりも、いかに会話を豊かにするかに重点を置く。そんな話を聞き、わが経験に照らして納得した覚えがある。われわれはまだまだ、その面の付き合い方がうまいとはいえないようだ▼十数年前、中ソ対立が激しかった当時のこと。外国の賓客を迎えて、中国政府が宴会を催した。北京に駐在する各国大使も招待するならいで、ソ連・東欧圏の大使も招かれた。席上、中国指導者が演説したが、なかにソ連を非難するくだりがあると、ソ連側は憤然として退席した▼招待宴のたびに同じ場面が繰り返される。取材していた同僚はやがて、ある法則に気がついた。中国の非難演説はきまって、料理のコースがほとんど終わったころにおこなわれるのだ。ソ連圏大使は、食事と会話を楽しんだあと、「憤然と」退出する仕掛けである。懐の深さを感じさせる話だ▼アジア卓球で、「北」の選手団が途中帰国するきっかけになった昼食会では、中国料理が出された。キノコとトリ肉のいため、芝エビのチリソース煮と続いたところで突然、退席騒ぎになった▼潤滑油のはずの食事がもとで、対話が途絶え、冷え冷えとした後味が残ってしまった。懐が深くなかった、ということだろうか。 吉見信一さんの「一等人生」 【’88.5.23 朝刊 1頁 (全841字)】  海軍少将から小児科医に転身して93歳で亡くなった吉見信一さんの葬儀が、おととい東京でおこなわれた▼マーシャル群島のウォッゼ島守備隊司令官に吉見さんが着任したのは1943年夏のことだ。太平洋の制海、制空権は次々とアメリカに奪われ、約3500の将兵と民間人がたてこもる小島は補給路を断たれて孤立した▼飢餓との戦いがはじまる。野ネズミをつぶしてヤシ油でいためたものが最高のごちそうだった。毎日、何十人もの兵士が栄養失調で倒れていった。発狂して自殺する部下もいた。終戦の時に生き残っていたのはわずか1000人余りだった▼復員して見た祖国は、元提督の目に弱肉強食と下剋上(げこくじょう)の世界と映った。みる夢はきまって、なすすべもなく餓死させた部下たちの姿である。どう生きれば、彼らの霊を弔えるのだろう。そして、虚脱した自分自身の心を、もう一度奮いたたせることができるのだろう。そんな思いが畑違いの医の道を選ばせる。50歳、知命の年だった▼学徒動員から戻って東大受験を目指す長男と、机を並べての猛勉強が続いた。あくる年、慶応大学の医学部に合格した。ふかしいもや黒パンをカバンにいれて大学に通った。学生服は軍服の襟章をはがして間に合わせた▼卒業後、横浜の自宅に小さな内科小児科医院を開いた。子供の急患ときけば、真夜中でもかけつけた。診察室にひとりでいると、海のざわめきが耳によみがえるようになった。一度捨てたはずの海が、たまらなく恋しく思えるのだ。船会社にかけあって船医として何度も外洋航海に出た。それはひそかな鎮魂の旅でもあったのだろう▼開業して間もないころ、吉見さんはある雑誌に請われて転身のいきさつを書いた。その最後を「三等医者だった私の人生は、思えばそのものが三等人生だった」と結んでいる。その言葉をいま、「一等人生」と言い換えてあげたい。 生きていた「からむし織」 【’88.5.24 朝刊 1頁 (全842字)】  「からむし」という植物がある。麻と並んで、古代から織物の原料にされてきた。戦前までは、越後上布の名で知られる反物が、これで織られていた▼戦争中、畑が食糧生産でつぶされ、戦後は化学繊維の登場に押されて、すっかり姿を消した。そう思われていた。しかし、生きていた。沖縄の八重山地方と、福島県会津の昭和村という山村で、細々とではあるが昔ながらの生産が続いていたのである▼昭和村の場合は、もともと山を隔てた越後に、からむしの糸を供給していた産地だった。その技術を五十嵐初喜さん(73)スエコさん(74)夫妻が、維持していた。「先祖代々伝えられたものを、われわれの代で途絶えさせては、申し訳ない」という気持ちからだという▼こんど、2人のからむし作りの全過程を克明に記録した映画『からむしと麻』が、完成した。栽培から収穫、繊維を取り出して、糸にしてゆく。伝統のノウハウの豊かさと、練り上げられた手仕事のみごとさに、圧倒される思いがする▼私たちの先祖は、このようにして生きてきたのか。戦後のわずか40年で、われわれが手に入れた多くのものは、底の浅いまがい物でしかないのではないか。そんな気がしてくる▼映画を作ったのは、全国のこうした伝統技術や習俗を記録し続けている民族文化映像研究所の主宰者・姫田忠義さんたちである。作品を見せっ放しにするのでなく、見た人との対話を大事にしている。先に東京で開いた初上映会でも、集まった人たちと「からむし織を生かし続ける道はないか」を話し合うシンポジウムをした▼地味な催しなのに、定員400の会場が満席になる盛況だった。かけつけた五十嵐初喜さんも交えて、意見や提案が飛びかった。何が本当の豊かさかを考える人たちが、確実に増えているのだろう▼ちなみに、17年前、姫田さんたちの最初の作品上映会は、入場者がたったの7人だった。 昭和の「虎大尽」 【’88.5.25 朝刊 1頁 (全839字)】  ある実業家が列車事故に遭った。思わず叫んだ言葉が「カネはいくらでも出すから、助けてくれえ」。大正6年ごろ、第1次大戦の特需景気で成り金が輩出した当時の話だ▼船舶業でぬれ手にアワの大もうけをした別の人物は、総勢200人を引き連れ、朝鮮半島に加藤清正気取りでトラ狩りに出かけた。人呼んで「虎大尽(とらだいじん)」。帰ってくると、帝国ホテルに大臣や大将を招き、盛大なトラ肉試食会を催した▼「日本の対外純資産が3年連続世界一になった」「海外旅行した日本人が記録的に増えた」。こんなニュース自体は結構なことだろう。しかし、大正の昔を思わせる「成り金根性まる出しの日本人」といった話も、つぎつぎに伝えられる▼ハワイの中心、オアフ島では、すでにホテルの4割、ゴルフ場の8割が日本資本の所有に帰した。とともに「カネを払えばいいんだろう」といわんばかりの、わが同胞の無神経な態度が目立っている。先日の現地紙には「日本の不動産業者、ハワイの家は汚いと語る」との記事が載って、地元の人たちの怒りを買った▼中国・北京空港の免税店でみやげを買っていた日本の農業視察団十数人のふるまいを、そばにいた作家の景山民夫さんが『週刊朝日』に書いている。――コロコロと変わる注文に中国の服務員の女性が対処しきれずにいると、日本語で聞くに耐えないような言葉を投げかけるのだ。「その煙草(たばこ)じゃねえだろが、バカか。日本語分かんねえのか、こっちの煙草だよ、こっちの」▼大正の虎大尽は、成り金呼ばわりに反発して、つぎのような意味の抗議文を記した。「国の富を増やすことは、世界競争で帝国の地位を確保するうえで最も必要だ。成り金と冷笑するのはおかしい」▼あるいは現代でも、こうした意見は少なくないかもしれない。ただしこのお大尽は、にわか景気が過ぎると、たちまち没落したそうだ。 核戦争から目をそむけるな 【’88.5.26 朝刊 1頁 (全841字)】  たとえばの話だが、電柱が街や野や山のたたずまいを醜悪なものにしている、ということから私たちはしばしば目をそむけようとする。電柱や電線を視界から切り捨てて風景を見ようとする。意識的にせよ、無意識的にせよ、感覚をまひさせることで醜悪なものに耐えるという心の働きがあるように思う▼大規模な核戦争によって何億、何10億の人が死ぬ、といった話をたびたびきかされる場合は、やはり同じような心の働きが生まれるのではないだろうか。数字の発表が悪いというのではない。警鐘を鳴らし続けることは大切だ▼恐ろしいのは、数字の恐ろしさから目をそむけるために、数字を受け取る側が自らの感覚をまひさせてしまうことである。はやい話が、核戦争後の地球の姿を想定した映像を繰り返して見せられると、SF映画のひとこまを見せられている1人の観客の目になる▼それにしても、今回、国連が発表した研究報告には説得力があった。たとえば大規模核戦争のあとの気候変動で農業は壊滅的な打撃をうけるという。30億の人が常食にしているコメはとりわけ低温に弱い。北半球の稲作はしばらくは不可能になり、南半球もやがて同様の運命をたどる▼稲作をだめにするのは温度の問題だけではない。モンスーン地帯の雨量の減ることが重大な影響を与える。油田や石油精製施設の破壊は多量のエネルギーを必要とする近代農業に打撃を与える。途上国の人びとは自分たちとは無縁の核戦争にまきこまれることで、農業を破壊され、飢えに直面する▼報告書はいう。「核戦争による直接の死者に加えて、10億から40億の人びとが長期にわたる飢餓で死ぬことになるだろう」。電柱から目をそむけても、電柱がある限り醜悪な風景は消えない。核戦争の惨禍を告げる報告から目をそむけても、核兵器がある限り、私たちは40億人の中の1人に加わる恐れの中に生きている。 口もとのしまり 【’88.5.27 朝刊 1頁 (全835字)】  このごろ口を開けている人が多いと思わないか、と友人がいった。ポカーンと、というのではなくて、半開きの感じだという。若い人にめだつともいう▼あらさがしをするみたいで気がひけたが、駅や車内で観察をつづけてみた。たしかに、と思えるふしがなくもない。少なくとも、キリッとへの字に結んだ口もとにはあまりお目にかからない▼奥歯をかみしめて口をつむっていると、かしこく見える。むかしはそう教えられた。いまは男も女も、かしこく見えるより優しく見えた方がいい。となると、口もとはほどほどにゆるんでいる方がいいのかもしれない▼よく聞く話だけれど、ものをかまずに食べる子がふえ、医学界などで問題になる。幼児のときからかむくせをつけないと、あごが十分に発達しない。むし歯など歯の病気にかかりやすい。よくかめば頭のはたらきがよくなるともいう▼神奈川歯科大の研究グループの調査によると、学校給食のときの子どもたちのかむ回数は、平均700回足らずだ。戦前の食事では1400以上が普通だというから、半分にも満たない▼スパゲティ、ハンバーグ、クリームシチュー、サラダなど最近の子ども向けの献立は、どちらかといえば軟らかいものが多い。おまけにそれを、牛乳などで流し込み食いする傾向がある。たくあんポリポリの以前の食事からすると、すでにかむ必要がなくなりつつあるように思える▼口を閉じる筋肉は、そしゃく筋である。文字通りものをかむときにはたらく。たいへん強力な筋肉で、訓練すれば、天井からつり下げたひもを口でくわえてぶら下がることもできるそうだ。が、なまけぐせもつきやすく、弱まるととたんに口もとのしまりがなくなる。あくびをかみ殺すこともできなくなる▼ついでにいえば、この観察で、あくびをするとき手を口に当てない人が多いのに気づいた。これはどういうわけだろうか。 「汚職やめますか それとも役人やめますか」 【’88.5.28 朝刊 1頁 (全840字)】  政府広報汚職事件で逮捕された総理府の元幹部は、辞職のときに4470万円の退職金を受けとっていた。びっくりぎょうてん、あきれが宙返りするような話である▼ふつうなら懲戒免で退職金なし、というところだろう。それがなぜか勧奨退職扱いになり、一般退職の場合の3600万円よりもはるかに高額の退職金が支払われた▼退職時には、東京地検特捜部の内偵が進んでいた。上司がそれを知っていて勧奨退職扱いにしたのだとすればずいぶんずるい話だし、知らずにそうしたのなら、でたらめな監督の責任が問われることになる▼年間235億円も使うという政府広報とは、一体なんだろう。政府のやっていることをきちんと知らせるのが広報の目的なら、政府広報にからまる汚職やむだづかいの実態もまた、きちんと広報に励んでもらいたいね、というのが大方の納税者の気持ちではないか。広報を避けたいものでもあえて発表するのが、納税者への義務だろう▼汚職は総理府に限らない。全省庁の『汚職白書』を作って、表紙には渥美清さんに登場してもらおう。「汚職はあっちこっちで作られる」を副題にすればいい。今度の広報汚職では、総理府内で「だれそれの業者とのつきあいは目に余る」「だれそれの飲み食いぶりは接待の度を超えている」式の中傷合戦が盛んだという。業者との癒着は「あっちこっち」にあるらしい。そういう実態をなまなましく知らせてもらいたい▼税制改革の政府広報に「直接税ばかりに頼ってちゃ、お父さんたちのヤル気はなくなっちゃうぞ」というくだりがあった。直接税だろうと、間接税だろうと、あっちこっちに汚職があって、その汚職をかばって退職金におまけまでつける体質がこうあからさまでは、お父さんたちの納税意欲は減退しちゃうぞ▼『汚職白書』の最後はこうしめくくるほかはない。「汚職やめますか。それとも役人やめますか」 不惑にしてただいま3冠王 【’88.5.29 朝刊 1頁 (全846字)】  失礼ながら胴長短足の部類だし、愛読するのは儒教を基本に人生哲学を説いた中国・明の時代の『菜根譚』。40歳のオジンで、余暇にひっそりと楽しむのは陶芸のろくろ回しときては、あまりもてそうにない▼事実、先日かの長島茂雄氏の通算444本塁打の記録をあっさり抜き去ったときも、新聞の扱いは大騒ぎというにはほど遠かった。南海ホークスの主砲、門田博光選手のことだが、熱心なファンにとっては、かえってその方が本人の謙虚な人柄に似合っている、とも映るらしい▼その際の談話が「長島さんを抜いた感激はそりゃあります。でも、それはきょう限り。あすからまた新たな日々が始まる」。去年の夏、史上24人目の2000本安打を達成したときも「あすは、これ以上のファイトでやらないかん」。頼まれて色紙に書くのも「努力」の2字だ▼身長はやっと170センチなのに、標準よりずっと重い1キロのバットを使う。振りこなせると実感するまでに、3年かかったそうだ。54年にアキレスけん切断の大けがをしたが、翌年はみごとな成績でカムバック賞を受賞。つぎの年は月間16本塁打の日本記録をつくった▼ファンを大切にし、手紙にはかならず返事を出す。未知の人が批判めいたことを書いてきた。誤解だ、と夜中にタクシーを1時間走らせて、先方の家まで説明に行った。ある試合で、味方の打棒おおいにふるった。門田はいった。「相手がかわいそうやで。あれらも、野球で生活しとるのやから、もうやめとこ」▼たかが野球に、日本人は人生論や会社論を重ね合わせすぎる。そんな批評も聞くが、原や長島2世をめぐる騒ぎにくらべ、門田には熟したおとなの魅力がある、というオジン連中も多いに違いない▼きのうの対阪急戦はノーヒット。しかし「不惑にしてただいま3冠王」の座は保った。きょうも声援を送りたい。立派すぎて、少しまばゆい感じはするけれど。 5月のことば抄録 【’88.5.30 朝刊 1頁 (全848字)】  5月のことば抄録▼「私たちの武器はペンしかありません。暗い過去の悲劇の再現につながりかねない風潮を根絶やしにするためにも私たちは私たちの武器をとって存分に立ち向かおうではありませんか。その意味でも、再びペンを手にしたあなたの勇気に拍手を送りたかったのです。健筆を祈ります」。2日付毎日新聞社説は、現場復帰の犬飼兵衛記者にそう呼びかけている▼右翼化の風潮をとらえ、如月小春さんがジャーナリズムに注文している。「あいまいな論議と繰り返しによる慣例化でことを進める政治の体質は不快極まりないが、それだからこそジャーナリズムには、あいまいさや繰り返しの底に流れる思惑を明確に見据えてほしい」▼「私は常に日本国に向かっていっているのに、中国に向かっていっているようにマスコミは持っていってしまう」と奥野前国土庁長官。「どういう伝え方をするかで(中国側が)怒りもするし、何もいわないでもいる」という発言もあった。このことば通りなら、中国側はおろかにもマスコミの誤報に踊らされて怒っている、ということになりませんか▼NHKが新型間接税反対48%の世論調査の発表を見送った。「非公表にした結果、世間がどう取るかを予測できなかった判断の甘さとニュースセンスの欠如を感じる」と元NHK放送世論調査所長の川竹和夫さん▼「新たに設置される放送基準評議会は、放送の自由に対する強力なクサビである」と英国の野党議員。セックス・暴力番組の規制が政治批判規制につながる、という心配だ▼「社会党にとって非常に恥ずかしい」。土井委員長が社会新報の「誤報」騒動で陳謝した。韓国前首相に事実の確認をしなかったのはジャーナリズムの鉄則違反だが、その後、前首相に直接の確認をせぬまま謝罪文掲載に踏み切ったのは二重の鉄則違反ではないか▼今月はジャーナリズムのありようを考えさせることばが多かった。 防災に雨水利用 向島の路地尊 【’88.5.31 朝刊 1頁 (全847字)】  東京の下町、向島のしし頭職人徳永暢男さんが三宅島に2泊3日の1人旅にでかけたのは今月はじめのことだ。遊びの旅行ではない。島の人たちがふるくから使っている天水槽をこの目で見たいと思ったからである▼三宅島の人びとは、家ごとに大きな水槽を作って、屋根に落ちる雨水をためてきた。それは島に水道ができたいまもかわらない。「7割以上の家にちゃんとあった。その水でお茶をいれてくれたのがうまくってねえ」▼わざわざ出かけるについては、もちろん訳があった。この春、向島の路地にちいさな、しかし注目すべき防災用の貯水槽ができた。容量3トンのタンクにためる水はすべて雨水でまかなわれる。日常生活にとけこんだ雨水利用のさきがけといっていいこの計画を、町内会の先頭に立って呼び掛け、設計図を書き、「三宅島にならっておれたちも」と熱弁をふるったのが徳永さんだった▼まず名前がおもしろい。路地の安全を守る象徴、という意味を込めて「路地尊」と名付けた。デザインもしゃれている。江戸時代、街のあちこちにあった天水おけにも似せてあって、ポンプを押せばいつでもくみだせる。設計図を書いた人、土地をただで貸した人、雨の受け皿になる屋根を貸した人が、みんな言問(こととい)小学校時代のわんぱく仲間だった、というのも楽しい▼先日、見学にでかけた同僚がいっていた。「ポンプをギッコンギッコンやって水をくんでみた。すると、水というものはありがたいもんだなって、水道の蛇口をひねってるときには思わない気持ちになるのが不思議だね」▼ことしから個人の住宅に雨水の貯留設備をつけるときに、住宅金融公庫の融資が50万円増額されることになった。雨をむだに下水に流さず、企業や家庭がそれぞれ小さなダムをつくる。自前の水源をつくる。ためられた雨水を有効に利用する。そういう一見、昔風の試みが、いまは新鮮に思える。 気になる資金集めのパーティーでの与野党呉越同舟 【’88.6.1 朝刊 1頁 (全846字)】  政治面の永田町の消息に目を通していて、ときどき気になる記事にぶつかる。野党の議員を励ます会に自民党の幹部が出席して、大いにもちあげたり、冷やかしたりしたといったたぐいの記事である▼日ごろ党の看板を背負って角を突き合わす仲でも、時にはかみしもを脱ぎ、杯を交わすことがあっておかしくない。だが、資金集めのパーティーでの呉越同舟はひっかかる。出席する自民党幹部は「ご祝儀」を包んでいると思われるからだ▼共産党の機関紙が86年の政治資金収支報告書をもとに、主な自民党議員の政治団体から野党議員への金の流れを洗い出したことがある。それによると、かなり広範囲の自民党議員が祝儀、会費、賛助金といった名目で、社会、公明、民社、社民連議員のパーティーに協力している▼筆者も、新聞社内に保管してある報告書のコピーを点検してみた。金額は5万、10万が多いが、社会党代議士の「議員生活10周年の集い」に100万円が贈られたり、民社党の某大物議員の励ます会への会費390万円という大口もあった。ほかに、届け出を怠っている分もあるはずだ。どうやら自民党議員の「協力」は常識らしい▼もちろん、純粋に党派を超えた友情から、ご祝儀を包む場合もあるだろう。だが、政治の世界に貸し借りはつきものだ。持ち込まれた大量のパーティー券を引き取ったり、企業や役所に顔をきかせてやったりする裏には、当然計算がある▼先週幕をおろした通常国会では、政府提出法案の90.4%が成立する一方、税制論議や防衛論議はきわめて低調だった。対決型の案件が少なくなったなどの事情があるにしても、果たしてそれだけだろうか。ご祝儀で野党が「金しばり」になっているというようなことは、まさかないでしょうね▼資金源に乏しい野党議員のつらさはわかる。しかし、金権政治とたたかう姿勢を忘れたら、野党の魅力は失われてしまう。 小さな個人の信仰への寛容性 【’88.6.2 朝刊 1頁 (全855字)】  モスクワを訪れたレーガン大統領は、おみやげにアメリカ映画『友情ある説得』のフィルムを持って行った。ゲーリー・クーパー主演というところはやや古めかしいが、よくよく考えた上での選択だろう。けちをつける筋合いはまったくない▼映画の主題の1つはクエーカー教徒の非暴力主義だ。銃を取り、敵を追いつめるがついに殺せない、という男が描かれる背景に、私たちは、少数者の信教の自由(たとえば良心的参戦拒否)を認めるアメリカ社会の寛容性をみる▼自衛官合祀(し)拒否訴訟についての最高裁判決でも、他者の信仰に対する寛容性が問題になった。おおざっぱにいえば「県護国神社が合祀することは信教の自由で保障されている。原告の中谷康子さんは他者の信仰に寛容であれ」という判断だ。なんとも納得いたしかねる判決である▼護国神社や県隊友会の行為が自衛隊の地連、つまり国の意思に強いつながりを持つことは周知のことで、その証拠に、ある地連職員は「日本人は家庭での宗教とは別に公には護国神社にまつられるのが当然である」と発言している。このような強要に対しても、ひたすら従順であれというのだろうか▼最高裁で反対意見を貫いた伊藤正己裁判官はのべている。「思想や信条の領域において、その保障が意味をもつのは、多数者の嫌悪する少数者の思想や信条である」と。大きな組織は小さな個人の信仰のありようについて、それがたとえ気に入らないものであっても、もっと寛容であるべきではないか▼提訴後の中谷さんの所には「非国民は日本に住むな」といったいやがらせの手紙が続いたそうだ。だが彼女はいう。「いやな思いもありましたが、同じ時代に生きたものとして私にもそんな気持ちが潜在しているかもしれない、と考え直すこともありました。その方たちも、私と同じように平和を重んじている人だろうと思いました」。ここには本当の意味での寛容の心がある。 首脳外交時代における演出 【’88.6.3 朝刊 1頁 写図有 (全855字)】  17世紀に活躍したフランスの外交官カリエールはその著『外交談判法』の中でこう書いている。「大使は、いわば、大切な役割を演ずるために、舞台の上で公衆の目の前に身をさらしている俳優である」と。大根役者ではとても外交官はつとまりませんよ、とカリエールはいっているのだ▼首脳外交の時代にあっては、大使のかわりに1国の首脳が自ら舞台に立って身をさらす。まして17世紀にはなかったテレビが今は舞台上の演技をそのまま居間に届ける。かねがね「政治ってのは、ショーの舞台と同じだね」といっていたレーガン大統領は、今回のモスクワ訪問で、さまざまなショーの見せ場をつくった▼夫妻でモスクワの目抜き通りを歩きだし、たちまち市民に囲まれ、歓声をあびた。カメラを向けられてポーズをとり、投げキッスもした。人の輪がふくれあがって、警備陣が夫妻を「救出」するのに手を焼いた、という雑報を読み、カリエールさんの教えを忠実に守っているなと感心した▼舞台にはむろん劇的要素をもりこまねばならぬ。たとえばレーガン夫妻主催の晩さん会に、あの反体制派のサハロフ博士が招かれたということも、ゴルバチョフ時代以前には考えられないことだ▼ソ連人ジャーナリストが大統領をインタビューし、2億人近いソ連国民がそれをテレビで見たということにも驚く。「好感がもてる」「ハンサムな人」「人の良さそうな人」というソ連国民の反応があった▼もっとも劇的な瞬間は、クレムリンに足を踏みこんだ大統領が「いまでも悪の帝国と思うか」と記者団に問われ、「ノー」と答えた時だろう。俳優レーガンの最高の見せ場だった▼「東西がお互い接触をもたず悪口をいっているだけでは何もできない。首脳同士が知り合い、一般市民が自由に行き来することが大事だ」というソ連の1市民の感想があった。米ソ関係のペレストロイカは、ほとばしる勢いで進むことになるのだろうか。 友情は2万キロのザイールへ 【’88.6.4 朝刊 1頁 (全843字)】  その登校拒否児の話が朝日新聞にのったのは一昨年の夏だ。東京・池袋第一小4年2組のA君は担任の中嶋美沙子先生が迎えに行っても「るせーなー」「行かねえよ」と毒づくような少年だった▼中嶋さんは根気よく迎えに行った。少年がトイレに隠れると、戸をたたき、引っ張り、力あまって取っ手ごともぎ取ってしまうこともあった。1人の教師と1人の少年の真剣で、少しおかしみのある格闘の話が本紙家庭欄にのった▼アフリカのザイール共和国で海外援助活動をしていた城田琢磨さんは、日本から送られてきた新聞で、次第に心を開いてゆくA君の物語を読み、感動する。先生もすばらしいが、級友たちの援助もすばらしいと思った。さっそく励ましの手紙を書いた▼ザイールでは、子供たちはぼろきれの袋に草の葉をつめこんでサッカーのボールをつくっている、鉛筆もノートもなく、マラリアでたくさんの子が死ぬ、とも書いた▼4年2組の子供たちは、サッカーボール、ノート、鉛筆、消しゴムなどを段ボール箱につめて城田さんに送った。2万キロ離れたアフリカの小学校で、盛大な贈呈式が行われた。ザイールの子たちは、新品のサッカーボールを、幾重にもビニールで包み、ひもでしばって大切にした。中嶋先生が書いた『友情は2万キロのザイールへ』に、そのいきさつが書かれている▼4年2組の子たちは、心を開いていたからこそ、A君をはじき飛ばすことなく迎えいれることができたのだし、城田さんのザイール便りに好奇心を燃やし、同じ地球に生きる仲間との交流に強い関心をもつこともできた▼ザイールの人は器用で、木のタイヤ、木のハンドルで自転車を作ることを、毎日3キロも4キロも水を求めて歩く子がいることを、地球上にはさまざまな異文化の暮らしがあることを子供たちは学んだ。この物語は、異なるものに対して心を開くことの大切さを、教えてくれる。 アジアからのボランティア 【’88.6.5 朝刊 1頁 (全843字)】  3日、男4人、女2人の外国人が風雨の東京をたって、日本の各地へ散っていった。中国、シンガポール、スリランカ人が、それぞれ2人ずつ。彼らは来年3月まで、福祉施設や過疎の村に住み込んで、ボランティアとして働く▼日本から外国へ、そうした活動に出てゆく動きは、しだいに増えている。しかし、アジアの国々から、日本へきてもらうというのは珍しい。「一方的に与える者と、受ける者の関係では、ほんとうの心の通い合いはない」と、あるボランティア振興団体が始めた▼第1回の去年は、シンガポールの青年が東京・山谷へ、タイの主婦が山梨の精薄者共同生活寮へ、バングラデシュの男性は福島県の過疎の農村へ。日本人でもあまり行きたがらないようなところへ、みんなこだわりなく飛び込んでいった。自分の国で何かの活動をしている人ばかりだ▼なかには、日本語はもちろん英語も話せない人もいた。「あなたの国は貧しくて、困っている人がたくさんいるだろう。どうして日本に来て、こんなことをするのか」と聞かれ、分かってもらうのに苦労した例も少なくなかった。だが、最後は「ぜひ、また来て」と名残を惜しまれながら、帰国していった▼経済大国ニッポンにあこがれたのでも、円を稼ぎにきたのでもない。国籍、肌の色、習慣は違っていても、同じ人間同士なのだということを、たがいに実感し合うためにきた。その思いが通じたのだろう▼今年は、活動先へ出発するまでの10日間、合宿をして日本のことを勉強した。会ったばかりなのに、昔からの友だちのように話し合い、交代でお国料理をつくって食卓を囲んでいた▼「私たちは、国を代表して交流にきたのではありません。個人と個人がつきあうのです」。スリランカからきた農村開発運動家ソマシリさん(41)の言葉が、印象的だった。こういう人たちに、もっともっと扉を開きたいという気がする。 人形浄瑠璃と日本企業の文化性 【’88.6.6 朝刊 1頁 (全1057字)】  昨年6月、東京・原宿で「曽根崎心中」を上演して話題になった人形浄瑠璃文楽が、ことしも「原宿文楽」と名づけて5日間、同じラフォーレミュージアム原宿で「義経千本桜」を公演した。若者の街という場所柄からか、若い観客が半数以上を占めるなど、年配客中心のいつもとはちがった劇場風景だった▼今回の公演には、クレジットカードのアメリカン・エキスプレス社が1000万円を文楽協会に寄付して主催者になった。市場競争が激しいからといえばそれまでだが、同社は日本でのイメージアップのためにと、昨年も1000万円を協会に贈った。協会ではこれをもとに「文楽基金」を設け、中学校鑑賞教室の運営や文楽研修生の補助などに充てる。日本の伝統芸能が外国企業の援助を受けるのは珍しいことだ▼文楽はかつて、歌舞伎と同様に松竹が持っていたが、25年前、商業的に維持できなくなって投げ出した。以来、国や大阪府、大阪市の補助で文楽協会が運営している。しかし、このところ国の補助金が半減するなどで台所は苦しい▼大阪の代表的な文化だから、以前は地元財界の支えが大きかった。これも経済の東京集中の時勢に足並みを合わせるように、最近はどんどん減ってゆく▼冠コンサート(かんむりコンサート)などを例にとるまでもなく、近ごろの企業はたいへん文化づいている。海外から一流の芸術を競って呼んでくる。それでいて、存続が危ぶまれている日本の伝統文化にはほとんど目もくれない。話はあべこべのようだが、文化も商売と考えれば、これも至極当然のことなのか▼太棹(ふとざお)の響きに乗った浄瑠璃が民族音楽としていくらすぐれていても、人形の3人遣いが世界的にいかに珍しい舞台芸術であっても、お客を大量に呼べるものでないかぎりは企業の目は冷たい▼こう考えると、なにかと宣伝する日本の企業の文化性も、そう大したものではなさそうだ。  行橋市(福岡県)堀助男氏(72)=無、保守系、4選。高橋忠隆氏(67)=無、中道系=、進弘旨郎氏(47)=無、中道系、サラ新推薦=、倉石春政氏(65)=無、保守系=、田中純氏(41)=無、保守系=の新顔4人を破る。  当10886 堀  助男無現    7723 進 弘旨郎無新    6490 田中  純無新    5532 倉石 春政無新    5365 高橋 忠隆無新 「不公平不是正」な自民税調のあいまい論議 【’88.6.7 朝刊 1頁 (全828字)】  ある証券会社がファジー(あいまい)理論をもとにした人工知能システムを開発した。株の動きには、理屈通りにはいかない複雑さがあり、あいまいな部分がある。そのあいまいな部分を扱うのに最も適したファジー理論をとりいれて、買い、売り、見送りなどの判定を下すのがこの人工知能システムだ▼自民党も最近、ファジー理論をとりいれた人工知能システムを備えつけた模様である。ところが、どこでどう間違えたのか、このシステムは、あいまいでないものをあいまいにしてしまう自民党のお家芸をそのまま身につけてしまったらしい▼その証拠に、不公平税制是正のお題目の多くが、人工知能システムのおかげで、あいまいなものに変わっている。たとえば、いわゆる医師優遇税制の手直しも、宗教法人などに対する課税強化も、いつのまにかあいまいなものになりつつある▼何よりももどかしいのは、土地の値上がり益は課税によって社会に還元すべし、土地の保有税を強化せよという議論が盛んだったのに、この問題がきわめてあいまいにされてしまったことだ▼新型間接税と称されるものも、党税調は早々と一般消費税型(帳簿方式)の方針を固めた。あいまい好みの人工知能システムは、わざと事業者の収入をあいまいにし、捕らえにくくするためにこの方式を選んだのではないか▼先月19日の日経連タイムスは、怒りの筆をふるっている。「今回の税制改革の基本問題である不公平税制是正について、大きく後退するような方針が相次いで出されていることはきわめて問題である」と。明らかに不公平税制とされるものを是正する。それが今回の税制改革の常識だったはずだ、という主張である▼党税調会長の山中さんがいくら張り切っても、人工知能システムは「不公平是正」の5文字を、勝手に「不公平不是正」の6文字に変えてしまうへんな癖がある。 中国、その歴史と現在 不変の学習熱に思う 【’88.6.8 朝刊 1頁 (全847字)】  蘇、という字を中国・蘇州の人はこんなふうに分解する。字の下半分は、魚と米がたっぷりとれるの意。草かんむりは、1に花、2に工芸美術の芸、3に野菜の菜を意味する。作物も生活もたしかに豊かな土地柄だ▼その蘇州に虎丘という名所があって、大きな池の中に3、4メートルの高さの岩が立っている。頭にあたる部分が1辺60センチ程度の立方体の岩なのだが、それがあたかもお辞儀をしているように傾いている。池のほとりの岩壁に、生公講台と大書してある。生公という賢者がここで講義をしていたが、話が上手で、いつのまにか岩までうなずいたそうな▼学問に熱心な人になるように、と岩を背景に子どもを立たせて写真をとる親たちでいっぱいである。そういえば、同じ蘇州の寒山寺も学問と関係がある。月落烏啼霜満天…という、唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」の中で、姑蘇城外寒山寺、とうたわれている寺だ。そもそも科挙、つまり試験に落ちて落胆した時の詩だという。たしかに最初の7字など、いとも心細く、かつまがまがしい▼学問に熱心な歴史は承知していたが、と、中国訪問から帰った同僚が現在の中国の学習熱に感じ入っていた。北京で、政府や言論界の人々を前に話をした。中国国際友好連絡会に招かれての、21世紀を考える趣旨の集まりだった。熱心な聴講のあと質問が山と出た。日米関係の今後は、アジアNICSの展望は、太平洋時代の意味は……と、メモをとりながらよく考えぬいた問題点が提起された▼理論だけでなく実際的な学習、研究もさかんだ。たとえば杭州郊外の双峰村。龍井茶の栽培で1000年の伝統をもつ茶の村だ。10年前は茶が収入の7割だったが、昨年の年収266万元のうち、茶は3割、あとは何と旅館経営や自動車修理などの工場でかせいだという▼よりよい生活を目ざし、開放的な政策の中で猛烈な学習と工夫がはじまっている。 朱鷺絶滅に思うこと 【’88.6.9 朝刊 1頁 (全860字)】  ビタミン剤も照明によるホルモンの分泌促進も、人間なら70歳をこえたキンの産卵を助ける力とはならなかった。13年間に5億円かけた国際保護鳥トキの人工繁殖は、失敗に終わった▼学名ニッポニア・ニッポン。日本を代表するこの鳥は、雄のミドリとともに2羽の余命をもって絶滅する。保護に寄せる関係者の熱意と苦心にもかかわらず、すでに手遅れだった。この鳥を日本で全滅に追いやったのは、私たち人間だ。そのことはいつまでも覚えておきたいと思う▼明治のはじめごろまで、水田でえさをついばむトキの姿は北海道から沖縄まで普通に見られた。朱鷺(とき)色の優美な姿が世界に初めて紹介されたのは1835年(天保6年)で、あのシーボルトが持ち帰った標本をもとにオランダの研究者が論文とスケッチを発表している▼美しい羽が狙われて乱獲が続いた。羽根ぶとんの材料として輸出もされた。生薬として食べられた。煮ると赤い汁が出たという。巣をつくる森が減り、農薬がエサの小魚や昆虫を奪い……いや、死んだ子の年を数えるような話はやめよう▼過去のことではない。目の前に、生息環境の悪化で緊急の保護を必要とする天然記念物の動物と淡水魚がカワウソやツシマヤマネコ、ミヤコタナゴなど15種類もいる、と文化庁はいっている。だが、これ以上人間の管理下で人工的に野生動物を増殖させようという試みは、私たちの思い上がりかもしれない▼秋田では、トキは伝説の名工・左甚五郎が赤い杉の木を彫ってつくったといい伝えられている。名工には程遠いレベルの生命工学しか持たぬ私たちにとって、なすべきなのは彼らから取り上げた野生の環境をもう一度返してやることではないか▼地球上には動植物の種が500万から1000万あるという。この1割が人間活動による生態系の変化で西暦2000年までに絶滅する、と国際自然保護連合が予測している。ヒトもまた種の一員なのである。 水泳に潜む政治的意味 【’88.6.10 朝刊 1頁 (全840字)】  いろいろあるスポーツの中で、ふしぎに政治的な意味を持つ、いや、持たされることが多いのが水泳だ。裸になることが示唆的、なのだろうか▼20年以上も前のことだが、米国の軍用機の衝突で、水爆が1個、スペイン沖の地中海に落ちた。当然のことながら、汚染を心配する抗議の声が高まった。米国はやっきになって安全だと説明したが、なかなかおさまらぬ。結局、米大使が裸になって海にはいり、泳いでみせた。何か原始的でユーモラスな説得だった▼故毛沢東氏の言動がしばらく明らかにされず、死亡説まで出た時、揚子江で泳いでいる写真が公表されて無事がわかったことがあった。昨年の夏は〓小平氏が渤海に面した避暑地、北戴河で水泳中の写真が発表された。背の立たない深いところで、お付きの人々が声をかけるまで、7、80分、休まずに泳ぎまわった、との説明つき▼中曽根前首相の水泳姿の写真を、東南アジア旅行中に地元の新聞で見た時は驚いた。水泳帽に、いかりのマークがはっきり。この人は日本帝国海軍の軍人であった、ということを強調する扱いだ。スポーツあるいは趣味の報道ではなく、政治ニュースとしての裸だった▼南アフリカでは昨年、港湾都市ポートエリザベスで混血のヘンドリックス無任所相が「白人専用」の海水浴場に規則を無視して侵入し、アパルトヘイト(人種隔離)政策への抗議の水泳をした。この非白人の閣僚は、泳ぐ前にまず「これはだれの浜辺でもない。神の浜辺だ」と演説し、支持者たちと海に飛び込んだ。りっぱな太鼓腹の写真が世界に配信された▼さて、フジヤマのトビウオの話である。1949年ロサンゼルスの全米水上選手権で活躍した古橋広之進氏たちに、遅ればせながら記念品の花瓶が贈られた。思い出せば、あの裸の勝利にはやはり政治的意味があった。あれだけ国中が沸き、敗戦後の日本人に元気が出たのだもの。 脱スパイクタイヤ運動の成功に思う 【’88.6.11 朝刊 1頁 (全853字)】  自動車文明に待ったをかけたのだと思う、ちょっとだけれど。脱スパイクタイヤ運動を進めてきた北国の人びとが、そういっている。脱帽する思いで、その言葉を読んだ▼雪道で滑らないように鉄のびょうを打ち込んだタイヤが、3年以内に製造も販売も中止されることになった。健康と環境を守る立場から長野、東北6県、北海道の住民らが法律家と協力して展開した運動が実った▼特殊合金のびょうは、ダイヤモンドに匹敵するほど硬い。1本のタイヤに120本も付いている。それが舗装道路を削りとる。舞い上がったアスファルトやコンクリートの粉で、初冬と春先の街は灰色にかすむ。洗濯物が黒くなる。横断歩道のペンキも消え、えぐられた道は波打つ▼子どもたちに気管支ぜんそくの発作が多くなり、野犬の肺からはびょうの破片らしいものまで見つかった。全国初のスパイクタイヤ使用規制条例を設けた仙台市では、幹線沿いで今年3月中に1平方キロあたり90トン余の粉じんが降った▼だが、チェーンと違って巻いたり外したりの手間がいらない。スピードも出せる。この便利さが受けた。38年に国産品が売り出されると、中部以北から今では山陰、九州にまでも普及しつつあるという▼そうしたなかだからこそ、この市民運動の成果に拍手を送りたい。1つは、取り返しのつかない健康被害を未然にくいとめたこと。歴史的な4大公害訴訟の苦い例にみるように、これまでの公害病の対策はたいてい後追いだった▼2つには、ともすると車優先の世の中で、その便利さにブレーキをかけても守るべきものがあることをはっきりさせたこと。運転者はだれもがこの粉じん公害の加害者だが、同時に被害者にもなる。そのことさえ忘れなければ、雪道でスピードが出せなくなるなどといって不満を口にする人はいるはずもない▼西独や東欧諸国では、とっくに全面使用禁止に踏み切っていることも初めて知った。 業界の符丁 【’88.6.12 朝刊 1頁 (全844字)】  すしを食べ終わって「おいくら」と聞いたら、主人が「へい、メノジ頂き」と答えかけ「いえ、5000円頂きます」と言い直した。メノジとは、この業界の符丁で5のこと。目という字を書くと5画だからだそうだ▼「ほら、接待とか女連れのお客で先方に値段を知られたくない場合があるでしょ。そんなときに使うんですよ」と主人。当然、客の方でもゲタは3(穴が3つ)、キワは九(10のすぐ近く)といった言い方を知らなければ、通じない▼お坊さんの世界にも符丁はある。一把大無人(だいむじん=大の字から人を取る)、四は置無直(ちむちょく=置に直がない)と、それなりに理屈にかなっている。しかしこれも、予備知識がなければ何のことやら。特定の仲間集団だけに通用するのが符丁なのだ▼配電盤メーカー「明電工」の脱税事件に関連して、国会質問で同社の目玉商品を取り上げた前社会党代議士に、100万円が渡ったことが明らかになった。だが前代議士は、記者の質問に、2年後の昨年夏に返した、と述べた▼証拠として、手帳のその日付のページを見せてもいる。「午後6時、会館でステッキを返却する」と書き込まれており、本人は「私の生家は酒屋。ステッキというのは、酒屋の符丁で1を指すんです。100万円のことです」と説明したという(『毎日新聞』)▼では、2は何というのだろう。まったくの好奇心から、酒のメーカーや問屋、小売店などに聞いてみた。ところが、返ってくるのは「ステッキ? そんな符丁、知らないねえ」といった内容ばかり。前代議士の生家の近辺でも、電話への返事は同じだった▼もとより思い付き、短時間の作業だ。この符丁の存在を否定するつもりなど、ない。ただ、問い合わせたなかで、ある造り酒屋の当主が笑いながらいった言葉は、印象的だった。「それ、もしかしたら、政治の業界の符丁じゃないの? 絶対そうだよ」 保革共存図ったミッテランの当選 【’88.6.14 朝刊 1頁 (全840字)】  フランスで、王と呼ぶべき人物は3人しかいない。ルイ14世とナポレオンとドゴール将軍である。そして4人目がミッテランだ、とフランス人記者がいっている。おおげさすぎると思わないではないが、再選をはたしたミッテラン大統領が「国民の父」と呼ばれていることは事実だ▼「僕はミッテランに投票したんだ。社会主義者に、じゃなくて、ミッテラン自身に」という学生の感想もあった。その再選は、赤いバラの勝利というよりも、個性的で老練な一政治家の勝利だった▼大統領再選の余勢で、仏国民議会の総選挙では社会党が圧勝する、と予想されていた。ふたをあけてみると、社会党は単独過半数をとれなかった。とれなかったのか、とらなかったのか、では議論がわかれるところだが、ミッテランの側にも有権者の側にも、票のとりすぎを抑制する意図があったことはたしかだろう▼社会党が圧勝して単独政権が実現すれば、かえって保革の対立は深まる。むしろほどほどに勝つ程度にとどめ、仏民主連合(UDF)との連合をはかり、中道的性格を強めたほうがいい。そんな思惑があったのだろう。ミッテランは「1党だけの政府は健康ではない」という言い方で、党の圧勝に自ら水を差していた。ここらあたりの見通しや駆け引きはなかなか老練だ▼「連帯を望むすべてのフランス人を私は1つにしなければならない」ともいい、人種差別に反対するグループの集会ではこうも発言している。「私は歓迎の叫びの方が憎しみの叫びよりも好きだ」。対決や争闘よりも連帯や共存の道をさぐる。保革対決よりも保革共存の道をさぐる。そのこと自体かなり革新的な実験だ▼わが国では、埼玉県で、社会、民社、共産、社民連推薦の畑和氏が5選をはたした。大型間接税問題も背景にはあるが、多くの票は、革新の畑に、ではなくて、有能な現実政治家である畑に向けられたものだろう。 人間凶器が砕いた夢 【’88.6.15 朝刊 1頁 (全845字)】  山田勝達さんはハワイ行きのパスポートを取りに行った帰り道に軽自動車にはね飛ばされた。歩道を、車いすで移動していたところだった。猛スピードで突っこんできた車は車いすに激突し、さらにコンクリートの塀を突き破った▼小児まひの山田さんには、こんな話がある。少年時代、歩行訓練で頑張り、やっと1人で歩けるようになった。だが、両手を広げて均衡をとらねばならなかった。酔っぱらいが、まねをしてからかった。妹が男に抗議したが、兄は「おこらなくてもいい」とおしとどめた。そして何もいわずに、手を後ろに組んで歩く練習を始めた▼妻と一緒のハワイ行きは、初めての海外旅行のはずだった。妻は、オモチャ部品の配送をして働き、家計を支えていた。夫は14、5年前から足腰が弱まり、車いすの生活になっていた。ハワイでは、アメリカの身体障害者対策を自分の目で見てきたい、といっていた▼小金井街道で、事故の現場を見た。頑丈そうなコンクリート塀が2、3メートルにわたって、崩れていた。それほどの勢いに、なまみの人間が耐えられるはずはない。山田さんは車いすごと、塀の内側の民家の庭に飛ばされて、息を引きとったそうだ▼軽自動車を運転する21歳の大学生は、70キロぐらいのスピードで飛ばしていたらしい。人間凶器は、58歳の夫の命と50歳の妻の夢を一瞬に砕いた。現場近くには「事故多しスピード落とせ」とあった。ガードレールはなかった。ツバメが鋭く宙を切る狭い歩道を、足の不自由な老人がつえを頼りに窮屈そうに歩いているのが見えた▼『論壇』で、玉井義臣さんが「スピード違反は日常茶飯事になっているが、道路事情劣悪なわが国ではスピードこそが危険なのである」と説いている。ことし、交通事故による死者はすでに4000人を超えた。この10年で最悪の記録だ。無謀運転と、歩行中の高齢者の死者がめだつという。 大型間接税にみる「とりあえず」方式 【’88.6.16 朝刊 1頁 (全839字)】  とりあえず、という状況をつくりだすのが得意なのは、日本型政治の世界の特徴だろうか▼本当は戦車といいたいのだが、戦力なき自衛隊という建前にこだわって、とりあえずは「特車」と呼ぶ。ころあいを見て、特車を戦車に変える、というのが抵抗の少ないやり方として珍重される▼「自衛隊は軍隊ではない」という言い方も、とりあえず方式の所産だ。とりあえずは「軍隊ではない。戦力は持たない」といいながら、一方で既成事実を積み重ね、いつのまにか世界有数の軍隊に仕立ててしまう。日本ではこの方式はかなり威力を発揮する▼大型間接税の税率を3%にする、というのも、とりあえず方式の最たるものだろう。自民党税調の山中会長がこの3%について「将来、絶対不変ではなく、税法に歯止めを書くといった自縄自縛の不見識なことはできない」といっているのは、いっそ正直でいいが、3%がとりあえずのものにすぎないことを明言したようなものだ▼税制改革のシンポジウムで、立花隆さんは「大型間接税の税率を3%、5%といっているが、導入後、税率が上がるのは間違いない。だまされないでもらいたい」と発言しているが、その通りだと思う。「食えるボタモチにしよう」という意見が党税調にあった。とりあえずは甘いボタモチで釣りあげるが、そのボタモチもいずれは苦い味に仕立ててゆく趣向なのだろう▼森鴎外は『青年』の中で、こんな意味のことを書いている。日本人は小学校の門をくぐると、一生懸命にかけ抜けようとする。その先に生活があると思う。職業につくと、一生懸命に働き抜き、その先に生活があると思う。「そしてその先には生活はないのである」と。多少の不満があっても、とりあえずは今をひた走りに走る生き方と、政治のとりあえず方式はどこかで重なり合うのか▼「食えるボタモチ」をとりあえず返上しておく、という手もある。 森の深い闇 【’88.6.17 朝刊 1頁 (全841字)】  信州の山では、まだミヤマザクラ(深山桜)が咲いていた。白い花が葉の中にうもれるようにして咲いている。細い枝からひょいと頭をもたげた茎の先に、いくつもの小さな花が塊になっている。花びらが小さい割にオシベが長く伸びて、精いっぱいに虫を誘っている▼ミズナラの、まだ幼い葉の葉脈が、日を浴びてくっきりと浮かびあがっている。その向こうに淡水色の空があって、淡水色が灰白色に濁りはじめるあたりに浅間山の頂があった▼木の影の濃い林床に、ミヤマエンレイソウの群落もあった。異様に大きい3枚の葉の真ん中に、地味な白い花がちょこんとのっかっている。ホトトギスが鳴き続ける。カッコウの鳴き声が谷間に響く。いわゆる観光コースをはずしたためだろう。4、5時間歩いても、ひとりの人にも会わなかった▼歩きながら、いま評判の『マハーバーラタ』(ピーター・ブルック演出)のことを思った。王族と王族の血なまぐさい死闘の末に生き残った神の子ユディーシティラは「森に隠れて、放浪を続けたい」という▼この神の子は、死闘の前、かけに負けて一族と共に森に追われたことがある。そのことを思い、妻はいう。「今こそわかった。あなたはあの時、すべてを捨てて森に隠れたいために、わざとかけに負けたのですね。一族をまきぞえにし、不幸にしながらも、森の中のあなただけは生き生きとしていた」と▼目に見えぬ森の深い闇(やみ)が、常に舞台の背景にはあった。森は隠遁(いんとん)し、放浪する場所であり、心や体をきたえる場所であり、恐怖が支配する所であり、その息吹は万物を生む。人類にとって、森の深い闇とは何か。それは、8時間も続く舞台の1つの主題ではなかったかと思う▼信州の山では、ダケカンバが、若緑の葉を風に遊ばせていた。山はだ一面にひろがるササの海が、午後の日に光ってさざなみを立てているのも見えた。 モース生誕150年に思う 【’88.6.18 朝刊 1頁 (全854字)】  『日本その日その日』の名著を残したE・S・モースが生まれたのは150年前のきょう、6月18日である。モースはまた、111年前の6月19日、大森貝塚を発見している。この発見はわが国の近代考古学の発祥を告げるものだった▼「彼ほど日本人に愛され、日本に深い足跡を残した外国人もいなかった」と伝記作者は書いている。日本人を分析したり、頭で解釈したりはせず、対等の人間として受け入れ、日本での生活を楽しんだ。子供を集め、自分がガキ大将になって戦争ごっこをするような人だった▼日本の宿屋で、女中が古い鉢に菓子を入れて運んできた。「これ、たいへん古いです」「いいえ古いことはございません」「いえ古いです」「いいえ今朝焼いたばかりです」。磯野直秀著『モースその日その日』にでてくる話だが、そんな調子で日本人とつきあった▼「この地球に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない」とも書いている。海ぞいの街道の木に大きなワシが飛んできた。西洋人だったら、どんなに鉄砲をほしがったことだろう。だが、街道を歩く人びとは大急ぎで紙と筆を取り出して、ワシの写生を始めた▼そういう日本人の姿にひかれながらも、1883年(明治16年)に帰国したあと、二度と日本の土を踏まなかった。変貌(へんぼう)したさまを見たくなかったからだ、といわれている▼しかし、たとえば若きラフカディオ・ハーンは、モースが影響を与えた天文学者P・ローウェルの『極東の魂』を読んで日本訪問の決心をしたという。モースが集めた日本の陶器や民具は、いまは貴重な文化財だ。そういう形あるものだけではなく、かつての日本人の心、美意識、品性、心やさしさ、といったものも書き残してくれた▼モースは、形なきものの変貌をも予知したのだろうか。なかばおもはゆく、なかば遠い昔の化石を見る思いで、その日本人論を読んだ。 誉め上手、存在感のある父親の姿 【’88.6.19 朝刊 1頁 (全761字)】  父親は子どもをしかる時、どのようにするか。父親自身の答えでは、(1)その場でよくわかるように説明する(2)どなる(3)体罰を加える、の順だ▼では、しかる時にどういう言い方をすることが多いか。「相手のことも考えなさい」が一番多く、「やることをやってから−−しなさい」「いいかげんにしなさい」「はやく−−しなさい」が続く。佐藤毅一橋大教授を中心とする社会化研究会の「家庭におけるしつけの実態調査」の結果である▼父親の自己診断では、そのしかり方はまあ、比較的冷静なもののように見えるが、しかられる側に立つと、必ずしもそうではない。うるさい、やることをやってから−−しなさい、こらっ、口答えするな、へりくつをいうな、と高飛車な場合が多い。ちなみに、母親は「何度いったらわかるの」が多いそうだ▼あなたはお父さんに何でも話す方か、と問われた小、中学生のうち「そう思う」はわずか8.9%だった。父親の気持ちをよく理解している、と思う子もわずか15.6%、という結果は切ない。「父親と子の線が弱い」と佐藤教授は診断する▼森鴎外は、よく子供をほめた。次女の杏奴は10歳のころ初めて和歌を作った。目のつけどころがいいと父にほめられ、得意になって5つも6つも歌を作ったという。「杏奴は今にきっと偉くなるぞ」といわれて、その言葉が胸の中をうるおしてくれた▼寝る前に、杏奴と弟はよく父の部屋へ行き「パッパ一緒に来てよ」とねだった。父はまくら元で話をしてくれた。杏奴は父の手を両手で大切そうに持って寝た。「パッパ、僕にも手」。どうかすると両方から片方ずつ手をもらって寝た、という。存在感のある父の姿が、ここにはある。 『ベルリン・天使の詩』の魅力 【’88.6.20 朝刊 1頁 (全823字)】  ビム・ベンダース監督の新作『ベルリン・天使の詩』は、不思議な魅力をもった映画だ。主人公は、丈の長い黒いオーバーを着た中年の天使ダミエルである。彼は冬のベルリンを歩く▼孫のロック狂いにいらだつ老人がいる。年金の少なさを嘆く老人もいる。交通事故で死にかけた男がいる。天使は悩み苦しむ人々の内心のつぶやきを聞けるが、人間たちにはその姿が見えない▼やがてダミエルはサーカスのブランコ乗りの娘に恋をする。そうして、彼女に会うために天使をやめる。それまで天使の目を通じて淡々と描かれてきた黒白の画面が、突然、鮮やかなカラーにかわる。観客はそのとき、物には色やにおいや味があるという、単純な事実の素晴らしさに気づかされることになる▼地上に降りたダミエルは、通りかかった人に「あれは何色?」とたずねては、うれしそうにうなずく。コーヒースタンドに駆け込む。湯気のたつコップを両手で大事そうに包んで、その温かみに感激する。いつも悲しげな表情を浮かべて人間の歴史をみつめ続けてきた天使は、いまや娘を追ってばたばたと地上を走り回るちょっとこっけいな中年男である▼ミステリーファンらしい天使のこんなせりふがある。「いいもんだろうな。長い1日のあと家に帰り、フィリップ・マーロウのように猫にえさをやる。体温をもち、新聞で手が汚れる」▼あわただしい都会生活のなかでわたしたちが意識することを忘れてしまったもの、この地上に生きて暮らしていることのかけがえなさ、といったものが伝わってくる▼ベンダース監督はある雑誌のインタビューにこたえて「いま映画は人間を真の意味で救うことを模索しなければいけないのではないか」と語っている。東京・有楽町のシャンテ・シネ2にかかって2カ月近くになるが、観客は若者から年配へと静かな広がりをみせているという。 続く日本の肉牛生産者の苦悩 【’88.6.21 朝刊 1頁 (全851字)】  2、3年前の話だが、南米のウルグアイでは、1人が1年間に約100キロの牛肉を食べるという記事が本紙にあった。人口が300万人で牛が200万頭を超す、というお国柄だけのことはある▼私たち日本人が食べる量は年間4、5キロだから、ケタが違う。その当時の値段で、1キロ430円ていど、とあったが、これもケタが違う。逆に、日本には100グラム1000円もする霜降り肉があるとウルグアイの人が聞けば、それこそあきれ返って、目をむくだろう▼肉の値段を比べるのは難しいが、実感としては、日本の牛肉はアメリカの2倍、というところだろうか。そういう差が生まれるのは、生産の方法にも問題があるからだろう▼『農協』を書いた立花隆さんが、アメリカのカリフォルニア州で、肉牛の肥育の現場を見学した。この地域には年間110万頭(日本全体の年間総出荷頭数にほぼ等しい)が肥育されていた。平均1万5000頭の肥育をわずか12、3人で管理しているさまを見て、立花さんは驚いている▼日本がアメリカに比べて経営規模が小さいのはある程度やむをえないが、肥育の日数が異常に長く、配合飼料の値段が高いことも生産費に響いている。肥育日数が長いのは質のいい霜降り肉をつくるためだ。霜降りに対する執着があり、飼料費がかさむ実態が再検討されない限り、値段を下げるのは難しい▼むろん、生産農家の努力は続いている。ことし朝日農業賞を受けた岩手県川井村の門馬牧野組合は、自分たちで金を出しあって牧野を確保し、そこで共同放牧を行い、その土地からとれた干し草などの粗飼料を多く与えて、肉牛の生産費を安くすることに成功した。こういう例は、ほかにもたくさんあるだろう▼牛肉・オレンジの自由化をめぐる日米交渉が決着した。自由化の荒波をまともにかぶりながら、一方で食糧自給率を保つためにはどうしたらいいのか。生産者の苦悩が続く。 沖縄戦の集団自決 【’88.6.22 朝刊 1頁 (全855字)】  牧師の金城重明さんは裁判で「自分は兄と2人で自分たちを生んでくれた母親を手にかけた」と証言している。それだけではなく、小学4年の妹と6歳の弟にも手をかけた、と証言している。第3次教科書裁判で沖縄戦当時の集団自決事件が問題になった時だ。証言は2月に行われた▼沖縄戦の特色は、政府と軍による住民対策が決定的に欠落していたことだ、とよくいわれる。欠落の結果の1つが集団自決事件だろう。金城さんは渡嘉敷島の体験を証言する。「夫が妻を、親が子を、兄弟が姉妹を棍棒(こんぼう)や石でたたいたり、ひもで首をしめたり、カマやカミソリでのどや手首を切ったり、あらゆる方法で自決の道が選ばれた」と▼混乱状態の中で、金城少年は考えていた。「愛する者たちを鬼畜米英の手に渡して惨殺されることのないように、自分たちの手で殺すことがせめてもの慰めだ」と▼渡嘉敷では、約300人が集団自決の形で亡くなっている。生きのびたが、あとで「米軍に通じた」といわれて日本軍に命を絶たれた少年もいた。沖縄本島一帯で起こった同じようなことを遠い日の別世界のできごとだと片づけてしまっていいものかどうか▼当時の金城少年は「軍と運命を共にする」ことをもっともよい死に方と考えていたらしい。空襲と艦砲射撃で島は壊滅の状態にあった。軍は玉砕する、と少年は信じ、住民は軍と運命を共にして最期をとげるべきだと考えていた▼日本人の死生観の中には集団志向性がある、と加藤周一氏は説いているが、この時、渡嘉敷の人びとの心の中にあったのは、軍との共生共死の考え方であり、共同体の中の死なばもろともの意識だろう。そういう集団志向性は今も私たちの血の中にある▼いや、それだけでは島民を破局に追いつめた怪物の正体は説明しきれない。その正体を見きわめようとするものに、沖縄戦の死者は沈黙のことばで語りかけてくれる。あすは沖縄慰霊の日だ。 トロントにみるサミットの変化 【’88.6.23 朝刊 1頁 (全840字)】  去年までのサミットと比べてみて、変わったなあと思うことがいくつかあった。ジャパン・バッシング(日本たたき)がジャパン・プレイジング(日本称賛)に変わった、と思えるような雰囲気があったこともその1つだ▼もっとも、日本人はトロントのラジオカーを借り切ったとか、日本のテレビ会社はカネにあかせて2つの放送スタジオを確保し、各国のテレビは残る1つのスタジオを使わざるをえなくなったとかの例をあげて「金の力に頼るニッポン」をやゆするアメリカの新聞記事もあった。私たちが思う以上に、外国人の目には、日本人は変わった、円の力を誇示している、というように映るのかもしれない▼ソ連に対する評価もずいぶん変わった。アフガン侵攻が問題になったのちのベネチア・サミットでは、激しいソ連攻撃があった。「アフガン占領は容認できない。世界全体の平和の基礎をゆるがす」という声明が採択された▼翌年のサミットも対ソ強硬姿勢の強いものとなり、「ソ連の軍事力増強を深刻に懸念する」という議長総括が生まれた。次の年のサミットでも、ソ連に対抗して西側の軍事力を強めよう、というレーガン構想が色濃く声明にもりこまれた▼それがどうだろう。トロント・サミットの政治宣言は、西側諸国とソ連との関係に変化が生じているとのべるだけではなく、ソ連のアフガン撤退開始を歓迎し、核兵器削減について、レーガン大統領がゴルバチョフ書記長と共にあげた成果を評価している。条件つきではあるが、ソ連の改革路線を歓迎する思惑が宣言の行間にはある▼変わったといえば、もう1つ、NICS(新興工業国・地域)がNIES(新興工業経済地域)に改められたことがある。呼び名の変化だけではない。進出めざましいアジアのNIESの動きを抜きにしては、もはやサミットの論議は成り立たない、ということを首脳たちは認めたらしい。 照明文化の発達 【’88.6.24 朝刊 1頁 (全843字)】  ライトアップということが街づくりや建築の世界でよくいわれる。広場や建物に照明を当て、夜目にも鮮やかに浮かび上がらせるのだ。新しい都市の景観として注目されている▼光イベントと呼ばれるものも盛んなようだ。何キロワットもの探照灯を何十本と使って、川べりや公園に光のスペクタクル(見せ物)をつくりだす。音楽と組んで、夜のやみを切り裂くひとつの芸術作品に仕立てたりする。最近の照明文化の発達には目をみはるものがある▼おかげで私たちは、夜は暗いということを忘れてしまいそうだ。とくに大都会は、ビジネスの24時間化にともなって、ひと晩中こうこうと輝いている。家の中にしても、夜中に廊下やトイレのスイッチを手さぐりで探すなど、だんだん昔話になりつつある▼新潟県の山あいの過疎村で、音楽の創作活動のかたわら都会の子どもたちのためにフリースクールを開く長谷川時夫さん(40)が、こんなことを書いている。ある夏のこと、小学校3年ぐらいの乱暴な男の子がいて、少し興奮すると周りの子をたたいたり、けったりする。止めようとすると、おとなにも向かってくる▼夜になって、真っ暗やみの中をひとりずつお墓まで行こうということになった。一歩も歩けずに泣きだしたのがこの子だ。昼間なぐられても耐えていた小さな女の子が、自分に言いきかせるように懸命に歩いて行く▼「その男の子には自分をコントロールするという力が培われていなかったのだろう。大きな闇(やみ)は、彼に自分を超える本当に恐ろしいものがあることを教え、自分の小ささをまるごと教えた」(『宇宙の森へようこそ』)▼夏の夜、昔の子どもたちはよくきもだめしをやった。墓地はなくても、路地裏などで真っ暗な場所はどこにでもあった。近ごろは遊園地のお化け屋敷がはやっている。ただしここは、みんなでキャーッといって、それでおしまいのようだ。 梅雨期に咲く花 【’88.6.25 朝刊 1頁 (全834字)】  「梅雨に入ってからの雨が少ない。雨が待ち遠しい」と一昨日の『きょうの天気』欄にあった。降らないね、さっぱりだね、というのがここしばらくのあいさつ言葉だったが、その雨が久しぶりに降った。西日本の各地には激しい雨があり、被害が出ている▼倉嶋厚さんの『おもしろ気象学』によると、東アジア特有の梅雨の原因は、地球の大気の大規模な流れによるものであり、ヒマラヤ山系やチベット高原が大気の流れを変えることに大きな役割を演じているそうだ▼ちなみに、日本の冬に雪が多いことも、低気圧が日本付近を通りやすいことも、梅雨があることも、みなチベット高原が関係している。この高原がなければ日本の水事情は一変していたかもしれない▼ことしは7月2日が半夏生(はんげしょう)だ。このころに降る雨を半夏雨といい、出水を伴う大雨になる恐れがあるから要注意だ、といわれている。今でいう「集中豪雨」のことだろう▼水辺などに咲く野草にハンゲショウという名の多年草がある。濃い黄緑の葉が雨にぬれると、ハンゲショウは生き返ったようになる。白い花が穂の形で咲くころ、茎のてっぺんの方の葉が2、3枚、白くなる。1枚の葉の半分ほどを白く染める例が多いので半化粧という名がついたとの説もあるし、半夏生のころに咲くからだ、ともいわれている▼いずれにせよ、1枚の葉を涼しげに緑と白に染めわけたところは、いかにも技巧派といった感じだ。シャラノキの白い花も、雨にぬれると輝きをます。ちぢみ模様の入った独特の花びらも、すべすべした木はだも、雨を吸って生気を取り戻している。梅雨期に咲く花は、やはりぬれて咲くところに風情がある▼「雨は一粒一粒ものがたる/人間のかなしいことを/生けるもののくるしみを/そして燕のきたことを」(山村暮鳥)。雨の一粒一粒は花との語らいを、ものがたってくれる。 兵器の製造 【’88.6.26 朝刊 1頁 (全843字)】  日産自動車が定款に「兵器」の製造、販売を明記する準備を進めている、という記事があった。定款に明記したからといって「兵器生産に力点をおく」というものではなく、以前から続けているロケット弾などの製造を「あるがままに」認めるためのものだという▼この記事を読んで、20年前の本紙の『自衛隊』という続きものを思いだした。当時は、多くの企業が、兵器生産の技術の高さを誇らしそうに語る一方で、「兵器、兵器といってくれるな」といっていたそうだ▼「企業イメージをぶちこわしたくないから、兵器生産のことは知られたくない」といったりする雰囲気があった。時代は変わり、今はもはや定款に兵器製造をうたっても世間の抵抗がない、と日産は判断したのだろう。しかしはたしてそうだろうか▼日本の兵器産業は、1970年ごろはまだ1000億産業といわれていた。だが、78年の受注高は6000億円を超える規模になり、あっというまに1兆円産業になった▼成長めざましいといわれた化粧品産業でも、1986年の出荷額は70年の約5.7倍だ。兵器産業はざっと12倍にもふえている。着実な、めざましい成長をとげてきたところにGNP比1%枠の取りはずしがあって、いっそう勢いづいた。1%枠はずしによって、企業は、景気に左右されない着実な受注の伸びを期待できることになった▼昨今は、軍需と民需の境界があいまいだ。テニスのラケットなどに使われている炭素繊維素材が、戦闘機の主翼をつくる時に役立つという人もいるし、秋葉原で買えるIC(集積回路)で最新兵器がつくれるという人もいる。つかみどころのないまま、見えざる兵器の生産が拡大している、という不安が私たちの中にはある▼兵器が産業を必要とするだけではなくて、産業が兵器を必要とする、という仕組みは、いちどふくらむと、それをちぢめるのが至難のことになる。 日本のアマチュアスポーツのあり方 【’88.6.27 朝刊 1頁 (全870字)】  日本のアマチュアスポーツのありようについて、ハンマー投げの室伏重信さんが貴重な提言をしている。新著『その瞬間にかける』の中で、室伏さんは選手強化のための5つの条件をあげている▼(1)練習施設の確保(2)練習時間の確保(3)優れた指導者や医師がいること(4)疲労回復の時間の確保(5)適切な栄養補給。日本の第1級の選手でも、5条件の(1)と(2)の条件さえ満たされないものがいる▼たとえば、あるハンマー投げの選手は、勤めを終えると車を走らせて海辺へ行き、防波堤の上からハンマーを投げる。太平洋に向かって投げるなんて、いかにも雄大な感じだが、砂浜にハンマーがめりこんで、探すのが大変らしい▼日本のアマチュアスポーツの多くが学校に依存しているから、選手は卒業すると練習場を失う。条件に恵まれる者は一部の選手にすぎない▼打開策はある。それは学校依存をやめ、国営、県営、市町村営のスポーツクラブをつくることだと室伏さんはいう。試行錯誤の練習を続けてきた名選手のことばは、傾聴に値する▼豪華な施設はいらない。競技場に観客席の必要もない。トラックの周りには緑があればいい。老人も子供も、一流選手も初心者も、共にスポーツを楽しむ▼子供は、すばらしい選手の動きを見て多くを学ぶ。優れた指導者によって、あらゆるスポーツに必要不可欠な運動感覚を身につける。そういう地域スポーツのひろがりの中からいい選手が育つ、と室伏さんは説く▼英国に滞在した柔道の山下泰裕さんがこんなことをいっていた。「日本では、現役を退くと楽しくけいこをする場所がなくなる。英国の道場では、さまざまな年齢の人がきて楽しく汗をかいている。女性もいる。世界に通用する選手もまじって、練習をしている。生活に密着した市民スポーツの中から有名選手がでている、という感じだ」と▼日本を代表する2人のスポーツマンが、ほぼ同じことをいっているのが興味深い。 このままでいいのか、情報のあいまいさ 【’88.6.28 朝刊 1頁 (全854字)】  もう20年も前の話だ。沖縄の嘉手納基地で、B52の墜落事故があった。すさまじい爆発音と共に、火柱が上がった。しかし正体がわからない。「艦砲射撃だ」「水爆だ」と人びとはおののき、叫んだ。いや、大変な騒ぎでした、と土地の人はその当時、おもしろおかしく、自分たちのあわてぶりを語ってくれた▼水爆だ、と叫ぶのは過剰反応かもしれないが、その過剰反応には一面の真実があると思いながら、話をきいた。情報のあいまいさにも問題があったのだ。この事故の時、嘉手納村長は再三、爆発の真相をたずねたが、米軍の確答がなかった▼数日前、愛媛県の伊方原発近くに米軍のヘリが墜落し、7人の米兵が遺体で発見された。原発の施設を直撃したらどうなるのかという恐れを、過剰反応だとはいえない。今度の事故でも、情報のあいまいさに、もどかしい思いをした▼この一帯が米軍機の飛行コースになっていることは承知している。しかし運輸省は少なくとも、原発の上空だけは避けるよう指示するのが筋だと思うのだが、厳しい規制ができないままになっている。米軍がどれほどの頻度で原発上空を飛んでいるのかという情報さえ、あいまいだ▼去年、紀伊半島の山奥で、米海軍の電子戦機が超低空飛行訓練を続け、林業用のワイヤを切断する事件があった。この一帯は米軍機の訓練空域と離れているのになぜ、超低空の訓練が続けられたのか。この場合も、あいまいさがつきまとった▼サンフランシスコを核兵器搭載可能のミズーリ号の母港にする問題が起こった時、W・ジャクソン・デイビス博士たちは、公聴会で、こういった。「米艦船が核搭載の有無を秘密にする軍事的理由はわかる。だがこの重大な情報が欠けている限り、サンフランシスコ湾域で、核兵器による破局的な事故が発生する確率を決定することができなくなる」と▼情報のあいまいさが問題になっているのは、日本だけではなかった。 6月のことば抄録 【’88.6.29 朝刊 1頁 (全850字)】  6月のことば抄録▼「みんなで楽しくやろうじゃないか、というオリンピックはベルリン大会で完全に変わったんですよ。メダルが国威発揚に利用され始めた。東京五輪の時もそうだった。もう、そっちの方は、ほっておけばいい」と野坂昭如さん。経済大国になった日本はもっとおっとりと構えた方がいい、とも▼「橋本さんのおかげで自転車競技の面白さが(みなさんに)わかってもらえたはず」と鈴木裕美子選手。橋本選手に敗れて、五輪代表にはなれなかったが、金メダル級のすてきな笑顔を見せてくれた▼「せっかく馬がウマくやってくれたのに。だから馬にあやまりました」。減点もあったが、ウマみのある演技を見せてくれた63歳の井上喜久子さんが馬術の五輪代表に▼「私たちは韓国熱を歓迎しません。熱は必ず冷める。そうではなく、何十年もかけて蓄積していけるような韓国理解を、と思います」。子どものためのハングル教室を開いた東京都豊島区教委の安斎省一さん。日韓共同世論調査によると、韓国がきらいという日本人は21%、日本はきらいという韓国人は51%。考えこまざるをえない数字だ▼「これにて一件落着。遠山桜、しばらくとんずらつかまつる」と山中自民党税調会長。「(消費税の導入は)公約違反といわれても仕方ないでしょう」とかみつき、一件落着ならずといっているのは自民党の鯨岡兵輔さん▼「税をとる側として、とられる側の気持ちはわかっているつもりでいたが、不遜(ふそん)だった」と大蔵省OBの田口和巳さんが痛恨の弁。スーパー業界に転出しての感想である▼「終末期の患者を抱え、ぎりぎりの命のやりとりの段階に至ってしまうと、もはや医師の力だけではどうしようもない。医者がいまそこに気づいているんです」と日野原重明さん。『医療と宗教を考える会』のシンポジウムで。みとられる側の気持ちに心を向ける、という姿勢を評価したい。 日常生活の中の動物--東京とロンドン 【’88.6.30 朝刊 1頁 (全855字)】  カルガモ一家が三井物産の人工池から皇居のお堀に引っ越して、1週間たった。この一家の動静は、6月の東京風物詩として、すっかり定着。いまでは国語の教科書にのるほどの人気者だ▼もっとも、このフィーバー、外国人にはいささか異様らしい。「ただのカモだ」と知って、外人記者はあきれ返ったというし、最近英国から帰った同僚は「面白うて、やがて悲しき話だね」と首を振った▼彼の目には、カルガモの熱気も、東京の緑の貧しさの裏返しと映るらしい。「ロンドンなら町の真ん中に、もっとたくさん動物がいるから」と、彼はいう。イヌ、ネコはもちろんのこと、馬、リス、ウサギ、そして時にキツネ……。自宅の裏庭に出没する鳥類や小動物の種類も、まことに豊富らしい▼彼が住んでいたのは、ロンドン北部の住宅街。地下鉄に乗って中心まで20分ほどのところだ。ある初夏の夕方、裏庭の小暗い樹陰でガサガサと音がする。「なんだろう」と、棒で草を払うと、茶色のまん丸いものが転がり出てきた。よく見ると、ハリネズミである▼針を逆立てて、懸命に身を守っているのだが、目元は実にかわいい。身長は20センチほどで、害虫を食べるところから、英国では「庭師の友」と呼ばれている。同僚もミルクを飲ませて友情を結び、英国ハリネズミ保護協会の会員になった▼ロンドンでは、いまでも馬が市民生活とまじり合っている。東京なら日比谷公園にあたるハイドパークでも、乗馬姿の人たちにたくさん出会う。騎馬警官も健在だし、郊外の住宅地にいけば、しばしば蹄(ひずめ)の音を耳にする。そのせいであろう。英国の交通法規には「馬優先」が、はっきりしるされている▼東京では馬も自動車に駆逐されてしまった。マンションで庭先の小動物を見ることはできない。グリーンとは、なにも植物のことだけではあるまい。日常生活に動物の姿をもう少しよみがえらせることができれば、と思う。 事故を防ぐ、ほどよい注意力 【’88.7.1 朝刊 1頁 (全839字)】  どうして事故はつづけて起きるのだろう。機械に問題があるのか、それとも人間のミスなのか。このところ、事故のニュースを読まぬ日はない▼6月25日に四国電力の伊方発電所近くの山中に米軍のヘリが落ちた。26日には東フランスでお披露目飛行中のエアバスが墜落し、翌27日にはパリのリヨン駅で通勤電車のいたましい衝突事故。29日になると、日本海上空で自衛隊のジェット戦闘機が接触、墜落、西ドイツでも米軍機の同じような事故が起きた▼飛行機や電車のような大量輸送機関の事故はこわい。むろん、大きな事故の起こる率は10万にひとつといったような小さなものだろう。だが、その万が一が、事故にあう人にとっては決定的だ▼往々にして、事故が起きると不注意のせいにするが、これは正しくないらしい。不注意つまり緊張不足によって事故が起きることはあるが、同時に緊張過多が原因のこともある。不足でも過多でもない、ちょうどよい緊張を一定時間保つのはむずかしいことである▼安全を追求し『機長席からのメッセージ』を著した日本航空の上田恒夫機長にきくと、機械や環境などに直接の事故原因があることもあるが、それらを掌握するパイロットが、事故の芽にどう対処するかがたいせつだという。結局は人間のミスである。だが、同時に、人間の能力はすばらしい。事故によって人間への不信感が増すと機械過信になり、それがまた事故につながるおそれがあるとも言った▼エアバスの場合は最新鋭のハイテク旅客機である。優秀な機械も、結局は人間の代行のはずだ。事故多発のあとしばらく事故が起きぬということは、人間の注意集中力がものを言っている証拠ではあるまいか。時間がたつと、ふしぎに事故は連発する▼以前はその間隔が5年くらいあったが、最近は短くなったとか。夏に向けて旅の季節。ほどよい緊張を関係者にお願いしたい。 帽子は「不体裁な行状」? 【’88.7.2 朝刊 1頁 (全840字)】  福岡地裁で帽子をかぶって傍聴していた女性(49)が退廷させられるという出来事があった。ワンピース姿に幅5センチほどのつばがある夏用ハット。「帽子は服装の一部」とのべて脱帽を拒否、裁判長(53)は「法廷内で帽子をかぶることは許されていない」と退廷を命令した▼人によってさまざまな受け止め方があろう。裁判長のように「日本ではまだ室内で帽子をかぶる風習はない。不体裁」か、当の女性のように「帽子はファッション」か、あるいは「どちらもそれほどつっぱらなくてもよいのに」と思うか。年代によっても意見は異なるだろう。傍聴規則では「不体裁な行状」はいけないことになっている▼身体にまつわる作法は文化によっていろいろだ。人に会う時、ふつう、帽子をぬぎ、冬ならオーバー、マフラーをとり、手袋もはずす。韓国の人にきくと、目上の人の前ではそこまで同じだが、さらに、たばこは絶対厳禁だという。父親の前での喫煙はご法度▼さきごろ、はじめて日本に来た韓国人が、説明役の日本のお役人が断りなしにたばこに火をつけたのに面くらったそうな。この種のことには文化の違いが出る。福岡の出来事を聞いたある米国人はまずこう質問した。「その帽子は他の傍聴人の視界を妨げたのだろうか」。機能の観点からの疑問で、帽子をかぶること自体については「表現の自由の一部」と割り切っていた▼米国には、そういえばいつも派手で大きな帽子をかぶっているベラ・アブザグという下院議員がいた。男性議員との間で最初もめたが、その主張が通り、帽子はトレードマークになった。室内での帽子、といえば、皇族や外国賓客の女性の着用が目立つ。衆議院傍聴規則には着帽を禁ずる条文があるが、運用面では女性の正装などの場合の例外は認めている▼さて、今回の出来事、国内での文化の衝突、常識のぶつかり合い、ということであろうか。 マルチ人間だった荻昌弘 【’88.7.3 朝刊 1頁 (全836字)】  しばらくテレビで顔を見ないような気がしていたが、やはり体調が悪かったらしい。映画評論家の荻昌弘さんが、亡くなった。62歳、まだ若かった▼ある分野ひと筋に励んで業績をあげ、生を閉じる人もいる。しかし荻さんは、あえて「マルチ人間」と呼ばれる道をたどった。映画を愛しながらも、映画評論は肩書の1つにすぎない。グルメで知られ、オーディオを評し、ディスクジョッキーをこなし、旅番組のリポーターとしても活躍した。大学で映像論を教えたこともある▼ビデオを購入したのは、東京オリンピックのころだった。いち早くワープロを使いはじめ、東京の自宅のほか京都や大分など3カ所の仕事場から、ファクスで原稿を送った。電子手帳なるものも愛用した。時代の、しゃれた風俗の先端の風を敏感に受けとめてみせた▼器用貧乏とか軽いといった人物評が、あるいはあったかもしれない。けれども、荻さんは荻さん流の、心に決めた生き方を持っていたと思う。テレビ局から『月曜ロードショー』の解説者に、と依頼されたときが1つの転機だった、とご本人が書いている。「これを受けることは、44歳にして〈批評家〉を捨てることだな、と直感した。熟考のあと、私はテレビを通して映画娯楽をひろげる仕事を選んだ」。あの解説がなぜ分かりやすかったか、得心がゆく▼グルメ談議ブームには反省もあるが、と言いつつ、こうつづる。「人が食への関心をやめれば、つくる人が精いっぱい、多くの市民のためにいいと信じてつくるホンモノは、確実に途絶に向かう。食への監視を続ければ、この世がニセモノで汚染されきってしまう悲劇だけは防げるだろう」▼ものごとを楽しみ、好奇心にあふれていた。「専門語でなく、ふつうの言葉で話す」ことを心掛けた。しゃれていながら、嫌みにはならない秘密は、その辺にあった。テレビが、少しさびしくなる。 郷土への思い溢れる「手賀沼讃歌」【’88.7.4 朝刊 1頁 (全864字)】  4時間にわたる舞台の幕が、下りた。それから約10分間、客席を埋めた1600人の拍手が続いた。ほおをつたう涙をぬぐう人びとが、幕をはさんで向き合っている▼オペラ「手賀沼讃歌」の本当のフィナーレは、幕が閉じた後、会場を満たしたこの共感の渦そのものだったろう。一度きりの公演を惜しみながら、この沼に澄んだ水を取り戻す夢がみんなのものになった▼手賀沼は、千葉県北部にある。全国一汚れのひどい湖沼として環境庁のリストに載って、13年がたつ。お年寄りの話では、戦後まもないころまで、漁をしていてのどがかわくと沼の水をすくって飲んだ。わき水が水底の砂を吹き上げていた▼汚濁の第一歩は、食糧難を解決するための干拓だった。沼は半分にちぢみ、生命を宿す力も衰えた。魚が白い腹を見せて浮き始めた。ホタルが消えたことで、人びとは農薬の毒を知った。ヘドロが水草を窒息させた。都市化で、産業廃水に加え家庭の雑排水が流れ込んでいる▼地元に住む作曲家の仙道作三さんが、隣町の作家山本鉱太郎さんにもちかけた。ひん死の沼をなんとか救いたい。オペラで世間に訴えかけることができるなら、あなたの台本に私の曲を付けて公演してみたい▼それから1年8カ月間。牧師、スーパー社長、画材店主、漁協組合長、市議、教諭、主婦ら140人の実行委ができ、400人のアマチュアの合唱団が生まれ、小学生をふくむ100人の出演者が60回のけいこを積んだ▼二期会と藤原歌劇団のプロも賛助出演を快諾した。沼にまつわる民話や沼を愛した白樺派の作家たちをつづった舞台は、汚染に苦しむ虫たちが人知への期待をうたう大合唱でしめくくられた。地元在住の宗左近さんの詩だ▼この一部始終を報告する写真集が、先日できあがった。船で沼を訪れた出演者の目の前で突然、大魚の群れが飛びはねた。その瞬間をとらえた写真には「沼の主が踊らせたのだ」と、一同の思いが書きつけてある。 痛ましいイラン旅客機撃墜事件 【’88.7.5 朝刊 1頁 (全841字)】  ニューヨークの警官は、追いかけている容疑者がポケットに手を入れかけただけで、ためらわず発砲することが多いという。法的にはきわめて疑わしい行為だが、日常の生活の中で、だれもが武器を持っている社会だ。やられないうちに、やる。その考え方が浸透しているらしい▼米軍がイランの旅客機を誤認し、ミサイルで撃墜した。記者会見で、軍の最高幹部が「司令官たちは、反撃する前に攻撃される手はない」と述べているのを読んで、ニューヨークの警官の話を思い出した。やられる前にやれ、だ。背景に、戦場とそうでない世界が隣り合わせ、という日常がある▼その結果、290人のいのちが消えた。うち57人が12歳以下の子どもだったとの報道は、いっそう痛ましさをそそる。親類に会いに、あるいは買い物のため、この飛行機に乗ったイラン人が多かったと伝えられる。洋服を買ってもらう約束の子もいたのだろうか▼米側は、正当な防衛行動だと強調している。しかし、これまで発表された弁明内容は、はなはだ説得力に欠けると思う。旅客機が民間航空路をはずれていたというが、かりにそうだとしても、何十キロもはずれていたとは考えにくい。警告したのに応答がないので撃墜した、との説明もあった。だが、警告のあと、まず威嚇発砲するのがふつうではないか▼イージス艦が戦闘機と、大きさがだいぶ違う旅客機を、状況はともあれ識別できなかった点も、重要な問題だ。米軍高官は「イージスシステムは万能ではない」と語っているが、海上自衛隊がイージス艦導入を決める以前には、こうした言葉は聞かなかった▼1914年のサラエボでの暗殺者の銃声が、第1次大戦の導火線になった。1937年の盧溝橋での銃声は、日中戦争の発端になった。けれども、今回の撃墜を、さらに大きな悲劇につなげたくはない。人間は、少しは思慮深くなっていると信じたい。 五重塔復元 【’88.7.6 朝刊 1頁 (全845字)】  某紙社会部の次長(通称デスク)席の電話が鳴ったのは7月6日の未明だった。「火事です。現場に行きましょうか」と警視庁で宿直勤務をしている若い記者からの通報。「何が焼けてんだ」「台東区で木造の非住家が1棟燃えているそうです」▼「木造非住家? 1棟? たいしたことないな。行かなくていい」とデスク。いまなお社会部外史に残る、伝説的判断ミスである。焼けたのは確かに、人が住んでいない建物が1棟。しかし、東京・谷中の、幸田露伴の名作で知られる五重塔だった▼高さ34メートル、総ケヤキ造り。現場にかけつけた、露伴の娘で作家の文さんの談話が、他紙に載った。「美しいだけに、前からこの塔は火事にかかりそうな気がしていたのですが、とうとう……」。昭和32年のことだ▼この五重塔を復元しようという話が、地元の人たちの間で持ち上がった。下町の情緒濃い一帯だが、このところ地上げ攻勢にさらされ、急速に姿が変わっている。塔の建立200年を3年後にひかえ、「愛着をもって永住できるよう、谷中の誇りを再現したい」との趣旨だ▼実は、五重塔づくりはちょっとした流行になっている。最古の法隆寺にはじまって、いま全国に40基を超える五重塔があるとされるが、うち戦後に建てられたものは十数基を占める。現在も3基が建造中だ。養鶏業者が建立した畜魂五重塔、タクシー会社社長がつくった観光用のエレベーター付き五重塔というのもある。川崎市の土地長者30人は昨年、総工費10億円の五重塔を地元の寺に寄進した▼谷中の五重塔の復元費用も、ざっと10億円。こちらの方は、まず個人を中心とした資金カンパでまかなう計画だ。復元の趣旨に沿ったやり方で、いい。塔が炎に包まれて31年目のきょう、音楽と光を駆使した「鎮魂の集い」が、募金運動に先立って催される。「地元」の東京芸大の学生や卒業生らが全面協力する。 政治家とカネ 【’88.7.7 朝刊 1頁 (全840字)】  「カネさえあれば仙女でも買える」ということわざが、ベトナムにあるそうだ。中国では「カネと酒に友達が集まる」といい伝える。デンマークは政治家を登場させ「カネは10人の代議士よりも雄弁だ」。国柄は違っても、カネの魅力、引力あるいは魔力は変わらない▼大正時代に「珍品5個」事件なる政治騒動があった。ある実業家が保守党総裁に5万円を政治献金した。受取状に、総裁みずから書いたのがこの文句で、暴露され大問題に発展した。当時の代議士の報酬は年額3000円だから、「珍品5個」はデンマーク流にいえば、代議士16人強の1年分の雄弁、もしくは沈黙に値したことになる▼リクルート関連非公開株の譲渡事件の目新しさは、カネが入っても受取の類をいっさい必要としない点だ。政治家本人が必ずしもおもてに出ず、秘書が取りしきる傾向も特徴といえる。ドイツに「カネに、においはない」との言葉があるのを思い出す。カネはにおわないから、きれいなカネか汚いものかわからない▼株と政治家では、有名な話があった。中曽根康弘代議士が、殖産住宅の株式上場を利用し、自民党総裁選の出馬資金をつくろうとしたのではないか、との疑惑が噴出した事件だ。52年に国会に喚問された同社の東郷元会長は「中曽根氏から『株を公開するとき私にも政治資金をねん出してくれないか。政治資金というものは、そうやってつくるものだそうだ。過去の例にならおう』といわれた」と証言した▼中曽根氏は「多少でももうかれば応援してくれよ、と東郷君に頼んだ記憶があるが、株の売買は彼が独断でやったのだろう」と反論した。このときも、こんど名前が出た同氏の秘書がからんでいた▼リクルート関連株をめぐる資金調達が、法にふれるかどうかは、まだわからない。しかし「法は最低限の道徳」ということわざは、洋の東西を問わず、ほとんどの国にある。 「大人のぬり絵」 【’88.7.8 朝刊 1頁 (全839字)】  ストレス解消ビジネスというのがあって、このところ急成長という。代表的商品に、小川のせせらぎの音などをキーボードで入れたテープがある。香りの商品もさかんで、木のにおいをしみこませた布がある。まくらの下に敷くと、寝ていて森林浴の気分になるのだそうだ▼つい最近は、ぬり絵が出た。本の形をとっていて「大人のためのぬり絵本」とうたい、書店で売っている。社員用に何百部とまとめて買う会社があるなど、企業が関心を寄せている。原作はアメリカで、ニューヨークでもよく売れているそうだ▼あるページを開くと、少し擬人化されたイヌ、ネコ、カバ、ハトが黒い線で描かれている。クレヨンや色鉛筆で好きに色をぬればいい。あなたが好きな動物に変わることができるとしたら何になりたいか、という質問もついている。ぬり絵を楽しみながら、夢や童心をとりもどそうというわけだ▼ぬり絵は、そもそもは子どものものだろう。幼児の遊びや勉強にはつきものだった。しかし近年は、ややすたれ気味だ。幼稚園や絵画教育の先生にきくと、いまの子は、線と線の間をていねいにぬりつぶしてゆくほど、それほどひま人ではないという▼教育的効果を疑問視する意見もある。色彩感覚をみがくにはいいけれど、線からはみ出さないようにぬって「ハイ、よくできました」になる。これでは、のびのびした創造性は育ちにくいのではないかという▼そのぬり絵が、大人の世界でよみがえるのだ。この本のまえがきには、仕事や家庭での疲れや重荷をこれで吹き飛ばしてください、とある。好きな色を自由に使って、ともかくもひとつの絵を完成する。絵が苦手の大人にとっては、この喜びは意外に大きいのかもしれない▼それに、自由だといいながら、ひとつの線からむやみにはみ出すわけにはいかない。枠の中の自由である。そこがまた、すぐれて当世風でもあるのだろう。 深刻な北米の干ばつ 【’88.7.9 朝刊 1頁 (全838字)】  アメリカの中西部で、農家に泊まりこんで農作業を手伝ったことのある友人によると、農村には胃かいようをわずらう人が意外に多いそうだ▼原因はかんたん、お天気である。あすは日が照るだろうか、そろそろ雨が来てくれるだろうか、と思いなやむ毎日で、知らぬうちに軽いかいようになるのだという。この夏、大規模な干ばつが北米から伝えられている。たくさんの農民が、きっと胃のあたりを押さえて土をみつめているにちがいない▼いつもは豊富な水をたたえてゆったり流れるミシシッピ川は、水流が細って、地肌を無残にさらしている。「こんな光景はマーク・トウェインも見たことがなかったはず」と米誌。100年あまり前の彼の描写によれば、この川は、暴風雨あり洪水あり、生命力にあふれていた▼国の胃袋をまかなう穀倉地帯はこの川に多くを負う。中西部を中心に、干ばつの災害指定地域は30もの州にひろがった。電力、水不足など市民生活への影響もあるが、心配なのは農業への打撃だ。大豆、トウモロコシ、小麦などの生育状況は1934年以来の最悪となるか、と懸念する向きさえある▼リン農務長官は大統領への報告書で「最悪」と表現しながら、しかし干ばつが物価に及ぼす影響は今年1%、来年2%程度、と騒ぎすぎぬよう配慮をした。だが、すでに穀物相場は敏感に上昇、インフレを気づかう声も出ている。食糧の大輸入国である日本にとっても気がかりだが、在庫は多いので直ちに品不足の心配をする必要はないという▼それにしても異常気象の心配がない年は異常、という昨今である。昨年夏の欧州の熱波では1000人にのぼる人が死んだ。地球は確実に気温を上げつつある、大気の中に二酸化炭素がふえる、いわゆる温室効果のためだ、と科学者は説明する。人間の活動により、二酸化炭素以外にも、温室効果に加担する気体はふえているそうだ。 どうして起きた、中2の肉親殺害事件 【’88.7.10 朝刊 1頁 (全839字)】  無残、としかいいようがない。東京・目黒の中学2年生による肉親3人の殺害事件▼筆者は少年を知らないから、彼が心にどんな屈託を持っていたかわからない。父親がどんな言葉づかいでどのくらいはげしくしかったかもわからない。母親がどの程度に教育熱心だったのか、祖母君がどういうかわいがり方をしていたかもわからない。でも、わからないながらも、事件がひとごとと思えない▼どうしてこんなことが起きたのか。8年前、両親を金属バットで殴り殺した犯人も、裁判で、事件後3年間なぜかを考えたがわからない、と陳述した。こんどの少年だって、自分の行動を分析、説明できるわけではないだろう。いまは周囲も象をなでて思いあぐねるだけだ▼しかられたことが引き金らしい。一般論だが、親の過ぎた関心、過ぎた干渉は、どんな子供にもたいへんな抑圧に違いない。勉強、受験、就職と、「あなたのためを思って」の単一路線疾走のしりたたきも負担だろう。子供の側でも、しかし、人生には楽しいことと同時につらいことや悲しいことがつきもの、ということを幼時から体験でおぼえこむ必要がある▼ひとりっ子には横の人間関係の練習がむずかしい。常に親との縦の関係だけだ。せめて、斜めの間柄、つまり、他人でよいから叔父さん格の、話のわかるおとながまわりにいてほしい▼少年はサッカーが好きらしい。存分に走ったあとの快感を本当に知っていただろうか。アイドルにあこがれたともいう。音楽にしびれる体験を味わっただろうか。まっくらな山で夜を過ごしたことがあったろうか。夜明けの美しさ、花のかぐわしさを知っていただろうか。考えの違う人々と語り合う面白さを知っていただろうか。ひとつのことを人々とやりとげたうれしさを知っていただろうか▼勉強は勉強として、少年の興味や可能性の間口がもっとひらかれていたらどうだっただろう。 まだまだ難しい女性の立場 【’88.7.11 朝刊 1頁 (全843字)】  ギリシャの首相が自分の妻を公式の場に出させないときめ、話題になっている▼パパンドレウ首相が外務省の儀典局にあてて、マーガレット夫人には公式行事への招待状を出さぬよう、首相夫人として同席させぬよう、との趣旨の通達をしたというのだ。何たること、と怒ったのは女性議員たち。全ギリシャの既婚女性への冒とくだ、男女平等を定めた憲法に反すると国会で攻撃した▼米国生まれの夫人は政治活動に熱心だが、首相はどうやら奥さんがあまり積極的に活躍するのには賛成でないらしい。それに不仲説まで加わった▼本紙朝刊の連載小説『凪の光景』に徹底したがんこおやじが出てくる。丈太郎氏だ。ろくに口をきかずとも、妻には意思が通じると信じている。妻は家にいるのが当たり前、男の世界は別、とでも考えているらしい。日本にはよくある型だが、パパンドレウ氏、まさか丈太郎型というわけでもあるまい▼話は飛ぶ。女性に対しても、男性に対してと同じように自然体で接することができないと、きょう日、男は仕事にならない。米紙に、面白いような、深刻なような、ゆゆしきことのような、こんな記事が出ている▼米国の官庁で働く女性は多いが、とくにその存在が目立つのが米通商代表部だ。この役所のおもな任務は外国との通商交渉で、弁護士、経済専門家など100人の強力なスタッフの約半数は女性。彼女たちも当然、交渉の表舞台に出て活躍する▼そこで問題が起きる。日本や韓国などアジアの国との交渉の時、女性陣が多いと相手側はやりにくいらしい、というのだ。女性とふつうの対話がしにくく、意識するためにこだわりが生じ、結果的に米国に有利にことが運ぶ、という。まさか、とは思うが、当の女性たちの、アジア男性の観察はなかなか鋭い▼日本通の女性交渉者の発言に、でも若い日本人は年配の人たちとは違い、より自然体です、というのがあった。 実った「草の根国際交流合奏団」 【’88.7.12 朝刊 1頁 (全860字)】  「拝啓 竹下登首相殿」の書き出しで始まる杉本暁史さんの訴えが、朝日新聞「論壇」欄に載ったのは、今年3月半ばのことだった。杉本さんは武蔵野音大出のファゴット奏者。ウィーン留学後、そのまま向こうに残り、現在は西独のウルム市立歌劇場で首席奏者をつとめている▼西独にいても、日本の経済大国ぶりは企業の駐在員などが増えたことでよく分かる。しかし、ドイツ人からは「日本人は、われわれに溶けこもうとしない」と、あまり評判がよくない。当の日本人たちにいわせると、「すぐ芸術の話になって、会話についてゆけないものだから、つい敬遠してしまう」という▼これではいけない、と杉本さんは考えた。そして、自分なりに母国の人々に西洋音楽に親しんでもらう活動をしよう、それも音楽会などの少ない田舎を回ろう、と思い立つ。身近な日本人音楽家や、ヨーロッパ人の演奏家仲間に話したら、みなボランティアとして協力を申し出てくれた▼あとは受け入れてくれる土地を探すことだ。よし、「ふるさと創生」を掲げる竹下さんに訴えてみよう、と送ったのが「論壇」の一文だった。新聞に出てすぐ、大使館を通じて「相談に乗りましょう」と連絡があった。が、もっとうれしいことに、日本各地で「ぜひ迎えたい」という町や村が名乗りをあげてくれた▼北は東北から南は四国、九州まで10カ所。大半がクラシックの音楽会など初めての山村や漁村だが、杉本さんの気持ちを、まっすぐ受け止められる心情の人たちがいた、ということだろう。こうして、日本人5人、ドイツ人2人、チェコ人1人の「草の根国際交流合奏団」によるコンサートツアーは現実のものとなった▼その初演奏会が11日夜、宮城県小野田町で開かれた。会場は、雑木林の中にあるペンションの野外ステージ。家族ぐるみで集まった400人が総立ちで「故郷」「赤とんぼ」を大合唱して終わった時は、予定を1時間以上すぎていた。 カナダの日系1世たち 【’88.7.13 朝刊 1頁 (全847字)】  真珠湾攻撃によって日本と米国との間に戦争がはじまると、米国にいた日系市民たちは強制収容の憂き目にあった▼この話はたいていの人が知っているが、あまり知られていないのは当時カナダにいた日系市民たちが味わった苦難だ。移住した1世はもちろん、現地生まれの、れっきとしたカナダ市民である2世、3世たちも、日系人は一様に敵国人と見なされ、太平洋岸の2万1000人が内陸部に強制移送された▼ドイツ系市民にそうした措置はとられなかった。日系人だけが財産没収、強制労働、そして強制分散を命じられ、つらい日々を送った。その悲惨ないきさつはカナダ文学賞、全米図書賞などを受けたジョイ・コガワ著『OBASAN』(邦訳『失われた祖国』)にくわしい▼そのころ辛酸をなめた1世の人々のうち、2000人あまりがいまなお存命だ。ことば、食事などに「日本」を追憶しながら、広い国に点在する欧米風の老人ホームで沈黙と孤独の老後を送る。カナダ政府は4年前、戦時中の苦難に対してはじめて公式に遺憾の意を表したが、実質的にこの老人たちを援助しようとの募金運動が進んでいる▼「カナダ日系1世を考える会」が山口県や松山市などに誕生、またトロント市に日系人専用の特別養護老人ホームをつくる計画も2世、3世市民を中心に進められている。そうした流れの中で、かつてトルドー首相の秘書もつとめた2世の詩人ジョイさんが、こんどは日本の若い人のための本を書いた▼太平洋岸に住んでいた少女ナオミの目にうつる強制移送。史実を下敷きにしてはいるが、カナダ人やカナダ政府への恨みごとではない。多民族社会での体験をのべながら、民族とか国といった壁を超えた、人間としての生き方がだいじなのだ、と考えさせる▼古い戦争の話ではない。若ものに読んでもらいたい、いまなお新しい主題。『ナオミの道』という書名は「友情の道」と読める。 地図を大切にする心 【’88.7.14 朝刊 1頁 (全870字)】  しばらく、スイスの山々を歩き回った。人語子の場合は「登る」というよりも「歩く」といった方が正しい。実際、この国では標高2000メートル級の山地でも、なだらかな道を縦横に歩くことができる▼スイスの人々はよほど、地図が好きなのだろうか。スイス航空の機内で、前方の画面にたえず地図が現れるのがおもしろかった。現在、ここを時速何百キロで飛行中ということを示す地図だ▼エンガディン地方の小さな村でも、駅の売店に詳細な地図が何十種類も並んでいた。ホテルの人に山を歩く計画を告げると「ではこれを」と5万分の1の地図をくれた。地図には、山歩きの道が詳しく指示されていて、スイスの旅行産業が、いわゆる観光よりも、山を歩く人を基本にして成り立っていることがわかる▼エンガディンの山々は、私は高いぞ、私は美しいぞと存在を誇る風はなく、4000メートル近い山もごくさりげない姿で立っている。雪のはだを、ゆうらりと雲の影が移動する。湖面が金色をとかしこんで光っている。吸いこむ空気の一粒一粒がやわらかく、ひんやりとしていて、心地よかった▼アルペンローザが紅色の花を咲かせている。キンポウゲ科の黄の花が山はだ一面に咲いている。ワスレナグサに似た空色の花が風にふるえている。リンドウ科の濃い紫紺の花もある。黄の花は黄の花として、紅の花は紅の花として、紫の花は紫の花として生き、くったくなく共存しているさまが歩くものの心にしみてくる▼地図を大切にする心は、自分のよって立つ大地ないしは土台を客観的に知り、それを大切にする心につながるのではないか。歩くことを楽しむ旅人のために、立て看板を1枚たりとも置かず、調和を壊す建物を1軒たりとも建てない。山は山であれ、牧野は牧野であれと土台を大切にする。そのことが旅行産業の利益になるというかたくななまでの決意がこきみいい▼いまさらスイス礼賛でもあるまいと思いつつも、筆に任せた。 生き残った茶室 【’88.7.15 朝刊 1頁 (全843字)】  ご記憶の方もいらっしゃるだろうか。一昨年「池上の茶室が危ない」という話をこの欄で書いたことがある。数寄屋造りの粋を集めたといわれる建物が東京都大田区の池上本門寺前にあった。大正のころ、棟梁(とうりょう)の川尻善治さんの手で建てられたものだ▼その土地がマンション業者の手で開発されることになった。地元で保存運動が起こっているが、雲行きが悪い、という話を書いた。母屋も茶室も、多様な材を自由に使っていて、遊び心に満ちた建物だった。日本の大工技術の1つの頂点を示すものでもあった▼その後、地元の反対の声はブルドーザーの音にかき消された。母屋はつぶされた。だが、奇跡的に茶室だけは生き残った。地元の中島恭名(やすな)さんはじめ、たくさんの人の尽力で、かろうじてゴミになるのを食い止めることができた▼業者が母屋や茶室の一部を壊したあと、中島さんたちは雪と泥の中から、捨てられた建具を集めた。すでに持ち去られたものもあった。かけつけた棟梁の二村次郎さんは、破壊のさまをみて「日本文化のために、涙も出ないほど残念なできごとだ」といった▼茶室を慎重に解体し、保存する費用は中島さんが負担した。土地っ子の中島さんは池上で戦災を体験している。空襲でも焼けずに生き残ってくれた木造建築文化の粋を後世に残す。それこそ自分たちのつとめだ、という思いにかられたという▼うれしいことに、最近になって、大田区がこの茶室を「池上梅園」に復元する、という朗報があった。西野善雄区長が復元計画の音頭をとり、保存に努めた人たちの労が報われることになった。建物、庭園のすべてではなく、12.5坪(約41平方メートル)の茶室だけではあるが、こういう形で文化を守り抜いた人びとの仕事に感謝したい▼生き残った茶室は、土地の人たちの茶会に使われ、たくさんの人とのつきあいを深めるはずである。 内申書裁判判決に思う 【’88.7.16 朝刊 1頁 (全849字)】  中学教師の山田暁生(あきお)さんが、内申書を記入する悩みを書いている。高校の教師はいう。「どの生徒の場合もいいことばかり書いている。よくない点も記されていれば、よい点の記述内容にも真実性が感じられるのだが」と。しかし、と山田さんは反論する▼「高校の先生方は、なるべく手間のかからぬ、できのいい子を入学させたいと思っているのではないか。となると、内申書に『よくない点』を書けば、それが注目され、不合格の引き金になるかもしれない。中学教師には、高校に対してそんな不信感がある」と(『行動や意識にみる現代中学生気質』)▼「よくない点を書かれれば、不合格の引き金になる」という恐れは親や子どもの中にも強い。従って、「内申書に書くぞ」という教師のせりふは極めて有効な脅し文句になる。内申書の存在は、学校に対する自由な批判を抑える役割をはたしている▼今回の内申書裁判は、中学の教師が内申書に「よくない点」を書き、それが不合格の引き金になったとされる例である。最高裁は2審判決を支持し、原告が敗れる形になった。心に重い澱(おり)が残る結果だ▼9年前の1審判決では原告が勝った。その時の判決文にはこうある。「原告の行為はいささか穏当を欠く。だが、中学2、3年のころは第2反抗期にあり、ややもすれば合理的な判断を欠き、既成の秩序に対する激しい反発的行動となって表れることもある。こういう行動には慎重な配慮をもって対応しなければならない」。ここには、教育のありように対する真剣な洞察がある▼すべての教育の現場がそうだとは思わないが、「内申書に書くぞ」式の文句が使われるという現実は確かにある。最高裁判決がそれを追認した、と受けとられる恐れはないか。この裁判をきっかけに、むしろ内申書の内容について、その内容を本人や家族に公開することについて、議論が広まることを期待したい。 魚の目で人間を見つめた魚博士 末広恭雄さん死去 【’88.7.17 朝刊 1頁 (全835字)】  昭和初期の話だ。カツオの漁場に行く時は、船の活間(いけま=活魚槽)に生きているイワシを入れていった。死んだイワシではカツオは釣れない。だが、困ったことに、活間のイワシはかんじんな時に死んでいる場合が多かった▼原因は酸欠による窒息死、と考えられていた。それだけではない、と若き日の末広恭雄さんは考え、実験を重ねた。そしてイワシの多くが、脳や内臓の傷がもとで死ぬことをつきとめる。イワシを網で捕る。イケスにいれる。活間に移しかえる。その時の傷をいかに少なくするか、という対策が以後、とられるようになった▼魚博士と親しまれた末広さんの研究は「現場」に密着していた。たとえば米軍射撃場の砲音が沿岸のイワシ漁にどういう影響を与えるかを調べ、イワシが音に敏感であることを証明した。サンゴを荒らすオニヒトデ退治に乗りだしたこともあった。文部省の補助金を得て、地震とナマズの関係を追求したのも、常に「現場」に身をおいてものをいおうとする姿勢の現れだろう▼人類の歴史はせいぜい何百万年だが、魚には4億年の歴史がある。「魚は人類の大先輩だ」といっていた。天変地異を知るカンも、人類がおよぶはずはない、魚はざま見ろといっているといい、常に魚の声に耳を傾けていた▼地球上の新参者である人間の自然破壊を憤り、人類は「もはや発展のピークを過ぎて滅亡への坂を急ピッチで下りはじめている」「人類は人類によって滅びる」と主張した(『生命のプラスとマイナス』)▼人類以外の生物は、自然と協調しつつ生命を保持し、子孫を残している。しかるに人類は「科学」という頭脳で、天与の資源を破壊し、他の生物はそのまきぞえをくらっている、という深い嘆きのことばがあった▼末広さんは、人間の目で魚を見るよりも、終生、魚の目で人間のおろかさを見つめていたのかもしれない。享年84。 警官の拾得金横領事件 【’88.7.18 朝刊 1頁 (全846字)】  警官の拾得金横領事件についての大阪地裁口頭弁論調書を読んだ。改めて恐ろしい事件だと思った▼堺市のスーパーで15万円入りの封筒の落とし物があった。店主の妻が交番に届け出た。ところが、受け取った巡査がそれを横領してしまう。落とし主も現れ、当然、この15万円の行方が問題になる▼堺南署は店主の妻を疑い、夫に対して「奥さんがお金を届けたという時間帯には、派出所内に巡査はいなかったと付近の住民がいっている」「落とし主の指紋のついた封筒の切れ端がスーパーの敷地内で見つかっている」といったが、これらは事実無根のいいがかりだった▼「お宅も事業をやっている以上、脱税もしてるやろ」「こんど来る時は逮捕状をもってくる」ともいった。妻は身重だった。通院中の産婦人科に警察官が現れ、「彼女を留置して調べたいが健康状態はどうか」と聞いていった▼ここのところは極めて重要だが、妻が「なぜ内部の調査をしてくれないのか」と警察に迫った時も「その余地はない」と相手にされなかったという。調書にはこう書いてある。「世間の耐え難い風評にもさらされ、原告(店主の妻)は、家族に迷惑をかけてはならぬと一時は離婚を考えるまでに悩み、ノイローゼ状態になった。夫は妻の自殺を心配した」と▼巡査が着服の事実を自供しなかったら、夫婦の日々はどうなっていたことだろう。こういう人権無視の捜査は日常的に行われているのではないか、というおびえを伴う不安を、この事件は市民に与えた。捜査当局は、店主の妻を安易に疑ったいきさつを、赤裸々に、詳細に公表すべきだ。それが市民の不安にこたえる1つの道である▼妻の求めにそむいて、警察が内部調査に目を向けなかったのはなぜか。弁護士が府警監察室分室に調査を申し入れた時、なぜ門前払いをしたのか。警察側の自己監察力にも重大な問題があることを、この事件はあらわにした。 ヒマワリ 【’88.7.19 朝刊 1頁 (全854字)】  月見草が白い花を咲かせていた植木鉢から、1本、にゅうっと伸びはじめた太い茎があった。初めはそれがヒマワリだとはなかなかわからなかった。冬の間、カワラヒワに与えていたヒマワリの種がこぼれて、芽ばえたものらしい▼鉢では窮屈なのだろう。さすがにあまり背丈は伸びないが、それでも最近になって、つぼみをつけた。緑色のヨロイのようなものに幾重にも包まれて、黄の花びらが夏の日の輝きを待っている▼アメリカの高名な写真家、デイヴィッド・D・ダンカンが『ひまわり――ヴァン・ゴッホに捧げる』という写真集をだしている。「ゴッホとわたしは、100年の歳月をへだてて、おなじ少女に恋をした。わたしたちはどちらも彼女のファーストネームだけを知っていた。ひまわりという」。そういうしゃれた言葉で写真集は始まる▼18世紀のヨーロッパの農家のわきに咲くヒマワリがある。暗雲の中であやしく光るヒマワリ畑の花々がある。老いた水車小屋のわきの若々しいヒマワリがある。夏の終わりのヒマワリへの鎮魂歌がある▼圧巻は、この本にゴッホが描いたヒマワリの絵の全部(12点)がカラー印刷で収録されていることだ。この画家にとってヒマワリとは何であったのか。筆者には知るよしもないが、彼はこういう言葉を残している▼「黄金を溶かすために充分加熱する必要があるように、この花のトーンは――だれにもいきなり出せるものではなく、一人間全体のエネルギーと集中力を必要とするものだ」。ゴッホは激しく燃えるヒマワリを描いて、旧来の静物画の壁を粉砕した▼女性の服や水着や傘にヒマワリの模様がはやっている、といわれて久しいが、デパートなどではいまも、ヒマワリ模様によくお目にかかる。流行にケチをつける気は毛頭ないが、ヒマワリの花言葉に「偽りの富」というのがあった。ゴッホなら、ヒマワリに「不安の絶叫」という花ことばをつけたことだろう。 軍需産業と戦争 【’88.7.20 朝刊 1頁 (全839字)】  イラン・イラク戦争による死者は双方で50万人を超えたといわれている。いや、すでに去年、死者は60万人から80万人という説があった。第2次大戦よりも長い間、両国は戦ってきた。イランは国の予算の3分の1を戦費に費やしている▼スウェーデンのストックホルム国際平和研究所の報告に「今すぐ戦闘を中止しても、完全な復旧に、イラクは10年、イランは20年を要するだろう」とあった▼その惨状の背後に、武器の売り込み合戦がある。前線を取材した本紙の特派員が去年「武器売買のすさまじさを改めて感じた」と書いていた。イラク軍の大倉庫には捕獲したイラン軍のロケット砲や機関銃が並んでいた。ソ連製もあれば米国製もあった▼イラク軍の近代装備の主な供給国はソ連とフランスだった。「顧問団」と呼ばれるたくさんのソ連人、フランス人が近代装備の影にいたという。スウェーデンは戦争地域への兵器輸出を禁じている。しかし、この国でさえ、兵器会社がひそかにイランへ兵器を輸出していたことが明るみにでている▼国際平和研によれば、イラン・イラク両国に兵器を売ったり、支援を行ったりする国はアメリカ、ソ連、中国、フランス、イギリス、西ドイツ、東ドイツなど28カ国にのぼるという。むろん、イラクのみ、イランのみに兵器を売っている国もかなりある▼去年の6月、国連安保理の常任理事国(米、ソ、英、仏、中)がこの戦争をいかにして早く終わらせるかを話し合った。だが「両国への兵器禁輸」については意見が一致しなかったらしい、という記事があった。それはそうだろう。5カ国とも、両国に兵器を売りこんでいる当事者なのだ▼「わが国の軍需産業は国内の需要だけでは維持できない。だから輸出する」という西側外交官のことばがあった。兵器産業はしばしば、憎悪や敵意のタネのあるところに、兵器を売りつけようとする。 「一芸に秀でた人」の枠は1割!?東大の入試改革 【’88.7.21 朝刊 1頁 (全843字)】  一芸に秀でた人を選びたい、という東大の入試改革の話をきいて、落語家の桂文珍さんが「一芸、というなら、ぼくも受けてみるかなという気になる」といっているのがおもしろかった(毎日)。入試のための落語の競演、なんていうのはしゃれている▼作家の北杜夫さんは、自称マンボウマブゼ共和国の主席で、星新一さんや遠藤周作さんに文化勲章を授与している。条件は「一芸に秀で、しかも変人であること」である。東大がもし本気で一芸に秀でた者を世に送ることになれば、北さんも結構、忙しくなるだろう▼円高で輸出から内需への転換に努めるある洋食器会社の会長が「生地つくりや絵つけに、一芸に秀でる技術力があれば、十分やっていける」ともいっていた。一芸に秀でるというのは、ある意味では時代のことばなのだろう。東大がその流れをたくみにとらえたことは評価したいが、「1割の枠」というのがいただけない▼むしろ、従来通りの4教科テストで選ぶ定員を1割にし、一芸に秀でた者の枠を9割にすべきだ。そういう大改革に踏み切ってこそ、硬直した偏差値教育のしくみに打撃を与えることができるのではないか▼日米両国の教育の実態を調べたドナルド・スチュアートさん(全米大学入試協議会理事長)がいっている。「今の日本の入試制度では、創造的な思考のできる人材は育成できないという議論が日本国内にもあるが、私も同感だ」と▼一芸に秀でた者の中に、観察力、分析力、創造力などに秀でた者も含めるとすれば、大学側はそういう能力を見ることを選抜の基本にすべきだろう。「1割の枠」にみみっちく押しこめるべきではない▼個性と個性がぶつかるところに教育があるという信念に基づき、大学の担当者が高校を回る、というアメリカの大学の話をきいた。担当者は、学生の成績だけではなく、さまざまな個性を見、伸びる可能性にも目を向けるという。 リクルート事件と政治家 【’88.7.22 朝刊 1頁 (全843字)】  『ことばの贈物』『ことばの饗宴』といった文庫本のページをめくっていると、まことに英知に満ちたことばに出あうことがあります▼たとえば石橋湛山元首相のことばがあります。「政治家の私利心が第1に追求すべきものは、財産や私生活の楽しみではない。国民の間にわき上がる信頼であり、名声である」。石橋さんが今も存命で、リクルート事件にゆれる政界のありさま、国民の間にわき上がる不信感を知ったら、何といったことでしょう▼「政治は『蛇のように怜悧であれ』と言う。道徳は(それを制限する条件として)『そして鳩のように正直に』と付け加える」。カントです。日本の政治家にはハトは似合わない、ということでしょうか▼「害をなすのは、心を素通りする虚偽ではなく、心の中に沈んで居すわる虚偽である」。英国の哲学者ベーコンのこのことばは、何となく心の中に沈んで居すわります。リクルート事件でもうけた秘書を持つ政治家諸氏に対する大方の反応は、ひらたくいえば「ずるい」ということでしょう▼大学を出て、35年以上勤めても、退職金の平均は2000万円ちょっとです。一般の人が入手できぬリクルートの非公開株を持っていた人は、一挙に2000万円も4000万円ももうけている。その上、売却益には税金がかかっていない。さらにその上、政治家諸氏が「秘書が勝手にやったこと」といいはり、何千万円もの売却益を知らずにいたなんていうのも、不可思議極まる光景ではありませんか▼殖産住宅事件で、最高裁は上場前の株の譲渡も「職務権限がからみ、贈与の趣旨がともなえばわいろ」という決定を行いました。リクルート事件では、職務権限とのからみはどうだったのでしょう▼最後に、芥川竜之介です。「他をあざけるものは同時にまた他にあざけられることを恐れるものである」。今度の事件は言論界の自戒を迫るものでもありました。 フロンガスの規制強化を 【’88.7.23 朝刊 1頁 (全851字)】  この45億年の間に地球上に起こったことを7日間にちぢめてみるとどうなるか。ドミニック・シモネ氏がその著『エコロジー』の中でこう書いている▼地球が生まれたのを月曜の午前零時だとすると、生命の誕生は水曜の正午ごろになる。日曜の午後4時になって、やっと恐竜が現れる。人類の登場はその夜の午前零時3分前というから地球上の生物としては新参者中の新参者だ。そしてその新参者が産業革命を始めたのは午前零時の0.025秒前である▼そのわずかの間に、人類は自然環境を破壊し、農薬をまき、砂漠化を進め、汚染を進行させ、たくさんの動植物の種を絶滅させた、とシモネ氏は告発している▼自然界の均衡を破壊しつつあるものに、噴霧剤などに使われているフロンガスがある。オゾン層破壊の犯人、というだけではなく、最近はこのフロンガスが「地球の温室効果につながりがある」という指摘が盛んだ▼温室効果というのは、地球上をおおう炭酸ガスなどが地表や海面からでる熱をためこんでしまう現象で、この100年、地球は1、2度は暖かくなっているという。炭酸ガスだけではなく、どうやらフロンガスも地球の温暖化に手を貸しているらしい▼専門家は指摘する。炭酸ガスとフロンガスが今のままふえ続ければ、数十年後に地球の気温は5度上昇する、と。となると、氷河が解け、海面が上昇し、かなりの土地が水没する。雨降りの型にも変動が起こり、中緯度地帯は乾燥し、干害が常になるかもしれない▼フロンガスの生産制限を求める国際条約が締結されたのは、かろうじて、地球の新参者に芽ばえだした危機感によるものだろう。わが国も、この条約に従って、フロンガスを段階的に減らすことにはなった。だが「規制はまだ極めて不十分」という声もある▼「自然の収奪はぎりぎりのところにきています」。フロンガスの規制強化を訴える作家の野間宏さんがそういっている。 自衛隊は真相公表を 潜水艦・釣り船衝突 【’88.7.24 朝刊 1頁 (全856字)】  海上自衛隊の潜水艦と大型釣り船との衝突事故で、死者や多くの行方不明者がでた。これだけたくさんの民間人をまきこんだ事故は、海上自衛隊としては初めてのことだという▼釣り船といっても、154トンもある巡航船である。船の長さは30メートル以上もある。これだけの船が2分間で沈んでしまった、というのだからよほど激しくぶつかったのだろう▼事故が起こってからほぼ3時間もたっての記者会見で、自衛隊の幹部が「現在まだ事故の模様はわからない。潜水艦から情報が入っていない」といっているのには驚いた▼「艦長が帰ってくればわかる」ともいっていたが、もしこの幹部のいう通りだったら、自衛隊内の緊急連絡は一体どうなっているのだろう。衝突時の模様が即座に詳しく伝えられてこそ、救助活動も有効な手を打つことができるのではないか。艦長の帰りを待つ、などと悠長なことをいっている場合ではないだろう▼あるいはまた、と思った。現場から事故の模様についての連絡があったのに、なんらかの理由で最初の記者会見ではそれを隠したのだろうか、と。もしそうであれば、去年、自衛隊機と民間機の間であいついで起こったニアミス事件を思いだす。「自衛隊側にとって不利なことでも、あえて公表してこそ、信頼が生まれる」とあの時には書いたが、この思いは変わらない▼潜水艦は浮上したままで横須賀港に近づいていた。当然、艦上には見張りの人がいたはずだ。見張りがいなければ大問題だし、見張りがいてなお、衝突を防げなかったとすれば、いかなる欠陥、あるいは怠慢があったのか。いずれにしても、海上自衛隊にとっては最悪の「展示」になってしまった▼事故の真相はわからない。だが、国民の生命を守るべき自衛隊がなぜ、これほどの事故を起こしたのか。真相究明の結果を自衛隊は積極的に公表してもらいたい。国民の信頼を得たいのなら、身をさらす勇気をもつことだ。 民放の泣きどころ 【’88.7.25 朝刊 1頁 (全841字)】  この春、民放テレビの主婦向け名物番組で、ライバル番組でもあった昼3時台の芸能情報番組が2本、そろって生活情報中心の番組に模様替えするというので話題になっていた。芸能一辺倒はもうあきられた、ということだった▼この話はどうもちがったようだ。熱心に見ているわけではないので断言はしにくいが、元に戻った感じだ。けっこう芸能ものが出てくる。先日は石原裕次郎1周忌をトップニュースにしていた。当の番組担当者の中には「きれいごとをいいすぎましたね」という人もいる▼やはり主婦向けの朝のワイドショーでもひところ、芸能ニュースはやりませんと宣言した番組があった。これも最近はちゃんと復活させている。芸能リポーターも復帰している。理由はひとつ、視聴率競争でおくれをとらないためだという▼テレビで芸能ニュースというのは、タレントやスポーツ選手など有名人の、だれとだれがくっついたとか離れたとか、だれそれに赤ん坊ができたとかできるとか、芸能そのものとはあまり関係のなさそうな私生活の報道までふくまれる。そんな話題があると、朝の民放ワイドショーには、申し合わせたように同じ中身が並ぶ▼1局がこれをやめるといいだしたころ、例のたけし事件が起きた。世間は、たけしの暴力を非難する一方で、相手が芸能人とはいえ、あそこまで私生活を追うのはけしからん、と写真週刊誌側にもきびしかった▼そんな折だから、この芸能路線廃止は、少しは歓迎されるのではないかとの予想もあった。しかし外れた。他局の番組に話題の芸能ニュースが出ると、視聴率でてきめんに差がつく。硬派路線だ、まじめ路線だ、と胸を張ってみても、スポンサーがつかなくなれば番組はおしまいだ▼ここが民放の泣きどころなのだろうが、視聴者の意識調査などをみると、くだらないとか不快だとかの番組には決まって芸能ニュースが入っている。 自分の人生 【’88.7.26 朝刊 1頁 (全843字)】  歌人の佐佐木幸綱氏が、本紙の文化面に、一生の作歌数について書いておられた▼ひとは一生に何首くらい歌をよむのだろう。この疑問は興味深い。歌人なら何首ということになるが、畳屋さんなら何枚、扇子屋さんなら何本つくったか、という話である。自分が生きたことのしるしを残す。どんな分野の人にも関係のあることだ▼もちろん、数さえ多ければよいというものでもないだろう。50歳までに約2500首で、多い方ではないらしいという佐佐木氏のいわく「それでいいじゃないか、という気もする」。70歳まで生きた斎藤茂吉氏の約1万4000首、などは多い例だが、古典歌人はすくないという▼極端な例ではマーガレット・ミッチェルという人がいた。『風と共に去りぬ』1作だけで人々に記憶されるにいたった作家だ。一生を通じての仕事の量や質を考えることも面白いが、ひとの才能や力が、一生のどの時期にもっともよく発揮されるのか、ということを考えてみるのも一興である▼論語には、吾十有五にして学に志し三十にして立ち……と70歳までの節目の説明がある。シュバイツァー博士は、学問や芸術をおさめたあと、30歳から人のためにつくそう、と決意していたという。はたちになるやならずやで、すばらしい作品をものする芸術家もいれば、20歳代でりっぱな論文が書けない学者はもはや望みがない、などといわれる現実もあるらしい▼明治から昭和にかけて生きた武者小路実篤氏の遺作を見て感じいったことがある。90歳で亡くなった方だが、何と80を過ぎてからの書や絵のみごとなこと。この人は、79歳の時に朝日新聞記者に「油絵だけは、たのまれ仕事じゃなしに勉強している。これが今年はモノになりかけている」と語っていた▼早熟あり、晩成あり。能率の高い人、低い人。いろいろあるからたのしい。自分の人生を、夏の休みに考えてみますか。 クラシック・コンサートとアルコール 【’88.7.27 朝刊 1頁 (全846字)】  先日、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場が東京文化会館で公演したとき、ロビーでビールやワインが売られた。この公営ホールでは初めてのことなので、日本の音楽会も変わったものだと話題になった▼クラシックだからといって、なにもかしこまって聴くことはない。とくにオペラの場合は、幕あいの1杯の酒がより華やかな気分をもり上げてくれる。欧米ではごくあたりまえの演奏会風景ではないか。というわけでクラシックとアルコールが手を結んだようだ▼きっかけをつくったのは東京・赤坂のサントリーホールらしい。2年ほど前にできたこのホールは、そこはお手のもの、従来の日本のコンサートホールの常識を破ってロビーの一角にバーを設けた。これが当たって、ワインやビールが何百杯と出るときがある▼酒会社にしてやられた感じがなくもないが、以来、クラシックの演奏会には酒がつきものみたいになってきた。渋谷のNHKホールなどは、最近、わざわざロビーの一部を改装してバーをつくった。N響の定期演奏会にかぎって、ここで軽い酒を出す▼ところで、同じクラシックでも、曲目や演奏家によって酒の売れ方がちがうようだ。バーテンさんたちの話を総合すると、圧倒的によく売れるのがタレント性の強い女流ピアニストらしい。とりわけそのモーツァルトやショパンになると、白ワインがだんとつになる▼ベートーベンは欧米人の演奏のときワインがよく売れ、日本人の場合はビールになる。ソ連、チェコなど社会主義圏の演奏家は全般に売れゆきがにぶる。花束を持ったお客の目立つ日もだめだそうだ。これは義理客が多い証拠だという▼マーラーなどの1時間以上の大曲にはビールが出ない、という話もおもしろい。切符が高いほどよく売れるとも聞いた。2万円のカラヤンのときは、1杯2500円のシャンパンが一番よく出たそうだ。もっともなようで不思議な話だ。 「さくら隊」を散らせたもの 【’88.7.28 朝刊 1頁 (全834字)】  女優園井恵子さんは、43年前の8月6日、広島に落とされた原爆で亡くなった。戦争末期の映画『無法松の一生』で阪東妻三郎演ずる松五郎にひそかに慕われる役を演じた女優、といえば思いだされる人もいるだろう。戦時中の国策映画の中にあって、なぜか「園井恵子」の印象はあざやかだ▼後年、キネマ旬報は俳優列伝の中で『無法松』の園井には「気品に満ちた清雅な美しさ」があり「後世に伝えられる名演」だとたたえた。生きていれば間違いなく、大女優の道を歩むことのできた人だ▼園井さんは、丸山定夫さんの率いる移動劇団さくら隊の一員として、広島にいた。丸山さんもまた当時の演劇、映画の世界でふしぎな光芒(こうぼう)を放っていた役者だ▼新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』を見て初めて、この人たちの最期の様子がわかった。さくら隊9人のうち5人は即死だった。けがのなかった丸山さんは、やがて放射能で内臓を破壊され、もだえ死んだ▼園井さんも、知人の家にたどり着いたが、髪の毛が抜け、潰瘍(かいよう)ができ、注射針でそれを突くと黒紫の血が噴きだした。清雅な美しさは、すごい形相に変わり、身をよじり、苦しみ抜いて息絶えた▼丸山さんも園井さんも、芝居から離れられず、さくら隊にすがりついていた役者だ。芝居をしていれば道がひらけると信じていた、と新藤さんは解釈する。当時の役者たちの志のあわれさを、監督はいとおしむように描いている▼監督はしかし、さくら隊の人びとの死だけを描きたくてこの映画を作ったのではないし、アメリカを非難するために作ったのでもないだろう。広島や長崎では、けがらしいけががなくても、丸山さんや園井さんのような経過で死んでいったたくさんの人がいる▼放射能は、体内に忍びこみ、じわじわと内臓を破壊する。そういう怪物の正体を、映画は正面から見すえている。 ねばり強く原因究明を 潜水艦・釣り船衝突 【’88.7.29 朝刊 1頁 (全842字)】  衝突事故を起こした潜水艦と大型釣り船との間には衝突を避けるための交信が警笛以外にはなかったらしい▼海上交通ではそれが当たり前のことなのかもしれないが、しろうとにはふしぎに思えてならない。数キロ離れていた時点で「先に横切るぞ」とか「待つから早く南下してくれ」とかの交信があれば、状況は違ったものになっていただろう▼今は、通信衛星を利用し、都心からはるか離れた島との即時電話も可能な時代だ。海のむこうの情報も瞬時に伝わってくる。それなのに、狭い湾内を進む2隻の船が、大切な時機に大切な情報を交換していなかった、ということをどう考えたらいいのだろう。文明はしばしば、こういう落とし穴をつくって、悲劇を生む▼東京湾は日本一混雑する海の難所だという。大事故が起こるのを心配していた、と海の現場で働く人びとはいう。だが、海上自衛隊にも民間の船にも「最悪の難所」を進むための手だてが十分にあったとはいえない▼国会で、この衝突事故の連合審査が開かれた。このことはいい。しかし大切なのは、打ち上げ花火的な審査ではなく、「再発防止」のかけ声を繰り返すことでもなく、ねばり強く本当の原因を浮かびあがらせることだろう▼そのためには、捜査や審判とは別に、現場を熟知した実務者や学者を含めた真相調査委員会をつくり、あらゆる角度から衝突の状況を調べ、分析し、結果をすべて公表し、その上で、対策をたててもらいたい。そのためには自衛隊も身をさらす勇気をもってもらいたい▼1日700隻を超える船が行き交う浦賀水道の過密をどうするか。大型船に限られている運航の規制をもっと厳しくするにはどうするか。信号機なき航路での交通整理をどうしたらいいのか。軍艦優先航行はないのか。過密東京湾内での基地のありようをどう考えるか。責任をとるとは、こういう問題について明確な航路を示すことだ。 柿田川流域の買い取り運動に参加しませんか 【’88.7.30 朝刊 1頁 (全847字)】  富士の湧(わ)き水が危機にあるときいて、現場の柿田川を見に行った。柿田川、といっても全長わずか1.2キロの長さだ。短いがしかし、その清流の美しさは日本屈指のものだろう▼川底のあちこちから、湧き水が噴きあげているのが見えた。富士山の雪は解けて地下にしみこみ、地下を流れ、長い歳月をへて、静岡県清水町のこの溶岩の裂けめから湧く。透き通った流れの底から砂を含んだまま、もこもこと湧く。いや、湧くというよりも、踊っている▼柿田川では、驚かされることばかりだった。山奥の渓流に生息するアマゴが、この都市を流れる川にいるというのも驚きだし、川面に沿って、真一文字に飛ぶヤマセミの姿を見ることができたのも驚きだった▼あるいはまた、この川でしか見られないといわれるミシマバイカモが、冬も水中で花を開くという話に驚く。湧き水は冬の最中でも15度の温かさを保つからだ。2月の初め、川べりにはもうセリが新芽を吹き、トウカイタンポポが咲く▼柿田川湧水は1日100万トンの水を噴き、周辺都市住民に、日本で最もうまいと思われる水を供給している。ところが、工場群の地下水くみあげ量がふえ、宅地化が進み、農薬が使われ、不動産業者が流域の木々を切り倒す、といった事情が重なって、この湧水の量が昨今はやや減り始めた。ヤマセミの巣が脅かされ、アマゴが減り、ヤマサナエという名のトンボが激減した▼柿田川自然保護の会が、川べりの私有地を買い取る運動を始めたのは「日本最後の清流」の1つを失ってはならぬ、私たちの世代が勝手に富士の泉を絶やしてしまっては子孫に申し訳がたたない、という思いからだろう▼第1次の目標は1億5000万円だ。この柿田川流域買い取りの運動に、あなたも加わってみませんか(1口3000円、送金先は静岡県駿東郡清水町伏見766、柿田川みどりのトラスト委員会代表、漆畑信昭)。 7月のことば抄録 【’88.7.31 朝刊 1頁 (全854字)】  7月のことば抄録▼「63%の人が東京に魅力を感じていないし、79%もの人が東京に住みたいと思っていないというのは、一国の首都としてはかなり異常だ」と大橋巨泉さん。本紙世論調査の結果を見ての感想だ。にもかかわらず、1000万を超える人びとの数が減らないというのもかなり異常だ▼「付き添いに疲れた。おばあさんは極楽に、自分は地獄に行きます」との遺書を残して、老人が自殺した。病気の妻は首を絞められ、意識不明で発見された▼「からかうと必死で追いかけてくるので面白かった」と神奈川県の中学生たち。「50回も60回もいろんな生徒にバカにされる」と書きつづっていた男が中学校を襲撃した▼「技が面白いようにかかるので気持ちよかった」という中学生は、弱そうな子を誘い出しては、荒技をかけ、重傷をおわせていた。「親を殺して、パッと遊ぼう」と友人にいっていた中学生が、両親と祖母を殺した。さまざまな事件の背後に、目に見えぬ都市砂漠がひろがっている▼イラン・イラク戦争の停戦決議受け入れをきめたホメイニ師がいっている。「私にとっては殉教の方がまだ甘美だ。決議受け入れは、毒を飲むよりひどいことだ。しかし私は神の意思に従う」。このことばの背後には、何万何十万の人びとの死がある▼「この重荷は、私が一生背負う」。イラン航空機を撃墜した米巡洋艦の艦長の発言だ▼「なぜ、あなたたちは助けてくれないの」。潜水艦と大型釣り船との衝突で、海に投げだされた19歳の女性は、潜水艦に向かって叫んだ。「救命胴衣をつけて飛び込むこともあってほしかった」と西広防衛事務次官▼「根性のある子ですから、どこかの島に流れついているのではないか。そのうち『お父さん』と、私の前に現れるのではないかと思っています」。亡くなった湯原真美さんの父、明雄さんの物腰には、心を打つものがあった。今月はつらいニュースが多すぎた。 政治家優遇税制の改革を 【’88.8.1 朝刊 1頁 (全870字)】  ある人がヤクルトの長島選手に、1軍と2軍の違いはどうか、と尋ねたら「親と子ほど違います」と答えた、という話をどこかの放送できいた。ほかの選手なら冗句にならないが、ジュニアがいえば、これは巧まざる冗句になる▼アメリカの大統領選では候補者同士の討論がある。昔と今とではベートーベンの交響楽とCMソングほどの差がある、のだそうだ。では、リクルートコスモス株の問題でゆれる政界の政治家と秘書の場合はどうだろう。「浄化装置」と「浄化装置からでる水を飲む人」との差だという人がいた。月並みなたとえだが、当たらずといえども遠からず、というところだろう▼政治家たちがもし、何千万円もの売却益のある株の動きを本当に知らず、秘書が勝手にやったのだとすれば、恐るべき管理能力の欠如だし、関与したが忘れてしまったのなら、恐るべき金銭感覚のまひだ。知っていてごまかしているのなら、なにをかいわんや、である。このカネが政治資金に使われたのかどうか、も知りたい▼自民党の伊東総務会長が「最近は自分自身を含めて、政治家がぜいたくになっている。100万、200万はカネじゃないという感覚だ」といっていたが、まことにその通りだ。この問題については、当事者たちのもっと厳しい自省の弁がほしい▼私たちは竹下首相の所信表明演説に次のことを期待していた。(1)株の売却益の課税を強化することに、どの程度踏み込むか(2)江副浩正氏の国会喚問を含め真相究明にどう取り組むか(3)政治家優遇税制の改革に取り組む意思があるか▼(1)はともかく、(2)(3)については、期待がはずれた。この問題は「えりを正す」程度の表現でごまかすわけにはいかない。不公平税制の是正をいうなら、政治家優遇税制の改革が先決だ。それこそ、辻(つじ)に立ち、改革に身を燃えつくしてもらいたいと多くの人は考えている、とご理解いただきたい▼きょうから、国会論戦が始まる。 貴重な戦争の記録、『玉砕しなかった兵士の手記』 【’88.8.2 朝刊 1頁 (全846字)】  日本軍の兵士が戦争中に書いた手記を読んだ。兵士は3年前に死に、手記はこのほどはじめておおやけにされた▼『玉砕しなかった兵士の手記』(横田正平著)という。「玉砕しなかった」とは、属する隊が最後の総攻撃で玉砕、つまり全滅する直前に、抜け出して米軍に投降した、という意味である。手記は米軍の捕虜収容所にいた間に書かれたらしい▼兵士は中国大陸にいて、のち南の島へと転戦する。時局や人間心理の観察は鋭く、軍隊生活をこまかいひだにいたるまで丹念に描写している。威圧だけで指揮しようとする上官や、感情にかられて兵にあたりちらす将校。万事要領よく、時に盗みも平気な兵たち▼太平洋上で、すし詰めの輸送船が敵の魚雷で沈没する。判断と指揮の悪さで多くの兵が死ぬ。必死の漂流の間に、主人公は小銃を捨てる。兵の魂であるはずの銃と剣とが深い海に沈んでゆき、後悔の念と、そして同時に身軽さとを味わう。身軽さは、戦争と軍隊にいや気がさしていたためか▼サイパン、グアムでの生活の記録は克明だ。やたら穴を掘る仕事が多い。指令に右往左往の毎日。全体の戦略はよくわからない。大本営発表は元気がよいが、本当だろうか。「われ、身をもって太平洋の防波堤たらん」という標語も、ただ威勢がよい▼現地の住民や他の組織の人間など、知らない人に冷淡な日本兵。責任の所在がはっきりしない軍のあり方。そんな指摘はいまの日本人にも当てはまりそうだ。潜水艦の衝突事故で、ことによると自衛隊の中にも昔ふうの軍隊意識の芽ばえが、などと心配になる▼横田兵長は穴の中で戦争や死を考え抜き、自ら捕虜になることを決意する。生きて虜囚のはずかしめを受けず、が当たり前だった時代である。戦後も、そのいきさつは家族にも話さなかったという。悩んだに違いない。しかし、この種の記述はめずらしい。読みつぎたい、貴重な戦争の記録である。 コンピューターのウイルス 【’88.8.3 朝刊 1頁 (全843字)】  コンピューターも、ウイルスに感染することがあるのだそうだ。といっても、別に機械がかぜをひくわけではない。ウイルスというのは、いわば、あだ名▼ソフトに仕掛けられた悪質ないたずらのことをいう。そうしたいたずらが、あたかもインフルエンザのウイルスのように、人知れず機械にはいりこむ。いたずらは一種のプログラムになっていて、きまった日付とか、きまった操作の時に発動する▼ある日「誕生日おめでとう」と画面に出る。こんな善意のいたずらなら罪はないが、突然、蓄積してあるデータをすっかり消してしまう、などという仕掛けは、たまったものではない。米国の新聞社で、フロッピーに入れておいた記事が全部消え、かわりに、「ウイルスに注意。ワクチンのご用は当社に」という通信がパキスタンの会社名、電話番号とともに画面に出るという事件があった▼被害は、米航空宇宙局(NASA)や環境保護局(EPA)など政府機関のコンピューターにも及び、情報が破壊されていることが判明、連邦捜査局(FBI)が調査に乗り出した。軍事用のコンピューターの中の情報が乱されたり操作されたりしたら、と心配になる▼潜伏期間をおいて発病するので、ウイルスは「時限爆弾」と呼ばれたり、かくれてしのびこむので「トロイの木馬」ともあだ名されているという。だれが仕掛けたかを追跡するのはむずかしい▼というのは、米国などでは、PDSと呼ばれる無料のプログラムがパソコン通信の場に登場しており、それがネットワークに乗って流通する過程でウイルスがはいりこむことがあるからだ。何せ時限装置。いつ、どこから入れたものが悪かったのか特定しにくいらしい▼このウイルス、まだ日本には来ていないらしいが、時間の問題だそうな。いま、すでに日本で問題なのは、政治の世界をむしばむカネ・ウイルスだ。これは確実に国民の信頼を破壊する。 「木を生かす」、北海道・置戸の木工品 【’88.8.4 朝刊 1頁 (全837字)】  北海道・置戸(おけと)町のある小学校は、給食に木の器を使っている。お盆はミズナラ、皿はエゾマツ、トドマツ、おわんはイタヤカエデ、という具合で、ぜんぶ、町の人たちが作ったものだ▼その給食風景の写真にひかれて、置戸を訪ね、「オケクラフト・白い器」と呼ばれる品の数々を拝見した。小鉢にしても菓子器にしても、手にとって、白地の木はだをなで、木目を見ていると、あきない。木目には木の命が刻まれている▼森林に囲まれた置戸は、原木の産地であり、ワリバシの生産地でもある。だが、ワリバシのように使い捨てられるものだけではなく、末永く使ってもらえる木工品を作りたい、と町の人たちは考えた▼昔は、アテと呼ばれる極めて扱い難い部分が多い材は捨てていた。この材を木工品として生かせば、かえっておもしろい意匠のものが生まれるだろう、とも考えた。アテの部分をあてにすることから、置戸の器作りは始まった▼工業デザイナーの秋岡芳夫さんや時松辰夫さんの指導で、みるみる実力をつけた。若い人も加わった。難しい乾燥の技法も、ずいぶん進歩した。「木とつきあっているうちに、人間がすなおになりました」と木工家の1人、片岡祐士さんがいった▼「気負ってこちらの主張を通そうとして木を削っても、木のことばを無視するとどうにもならない。木を生かして自分も生かす。それが大切だと木に教えられました」。木とていねいにつきあうことは木を生かすことで、木を生かすことは森林資源を大切にすることだ▼置戸の例は、置戸だけの話ではない。試みに、全国林業改良普及協会が編集した好著『木工品・木のクラフト』のページを繰ると、木のすはだを生かした生活用品を生産する動きが全国に芽ばえていることがわかる。それを求める心が人びとの中にある。私たちは新しい木工品文化の復興期を迎えた、といっていいだろう。 渡辺氏の黒人差別発言に思う 【’88.8.5 朝刊 1頁 (全846字)】  自民党の渡辺美智雄政調会長の発言に、アメリカの黒人議員連盟などが抗議している。「黒人は破産しても『明日から何も払わなくていい』とそれだけだ。ケロケロケロ、アッケラカのカーだよ」という発言に対してである▼差別の意図はまったくない、とあとで政調会長はいっているが、かなり次元の低い比較の仕方で、これでは抗議を受けるのもやむをえない。黒人の中には、破産や失業や家計の赤字に苦しみ、あすを思いわずらう人も多いだろうし、逆に日本人の中にも、金を借りまくって破産をし、それでもケロリとしている者もいるだろう▼それを、黒人はこうで日本人はこうだときめつけるのは、その底になにがしかの偏見があるからではないか。今から約200年前、独立宣言起草後のトーマス・ジェファソンに、ある黒人が手紙をだした▼それには「私たちは長い間、努力する能力をもたない連中だと、さげすみの目でみられてきた。そういう誤った、ばからしい観念を根絶するために力をふるっていただきたい」とあった▼200年たった今も、そういう偏見をなくすために、アメリカの心ある人びとは、はかり知れないほどの努力を傾けている。「アッケラカのカーだよ」発言は、そういう努力をあざ笑うものだ、と受け取られたのだろう▼かつてヨーロッパのある学者が「アメリカの黒人の問題は、アメリカ人の心の中の問題だ」といったことがある。その「アメリカ人の心の中にある黒人問題」が、日本に住む私たちにもゆがんだ影像を与えているのではないか、と自戒したい▼黒人問題だけではない。国民と国民、文明と文明がふれあう時、それぞれの特徴を知ることは大切だ。だが、心しなければならないのは、すぐに優劣の尺度を持ちこむことだ。たとえば森の民ピグミーが、1日を24時間に切り刻んだ暮らしをしていないからといって、どうして軽侮の対象にすることができよう。 教養 【’88.8.6 朝刊 1頁 (全853字)】  教養を身につけるのに役立っているテレビ番組は何か。こんなアンケート調査をNHK放送研究部が東京圏に住む20歳から70歳までの男女について試み、このほど結果をまとめた。それを見ると、教養ということばの意味も変わったなと思う▼ベスト5をあげるとこうなる。(1)ニュースステーション(テレビ朝日系)(2)NHK特集(3)NHKニュース・トゥデー(調査時点では「ニュースセンター9時」)(4)各局のニュース(5)日曜美術館(NHK教育)▼「NHK特集」はドキュメンタリー番組だが、時事的素材を扱ったものが多く、報道色が濃い。したがって「日曜美術館」を除けば、あとはニュースだといってもいい。教養番組は報道番組ということになる。ニュースの時代だとかニュース戦争だとかいわれるゆえんがうかがえる▼「ニュースステーション」は久米宏キャスターの人気もあって、この種の番組では視聴率の断然トップを誇っている。視聴者の興味を引きながら、リベラルな立場から問題を掘り下げる努力に加えて、庶民的な親しみやすさがうけているようだ。これが一番の教養番組にあがるところを見ると、教養には、おもしろさ、親しみやすさも欠かせないことになる▼6位には「なるほど!ザ・ワールド」(フジ系)があがっている。クイズ仕立ての情報番組で、歌手やお笑いタレントたちがにぎやかに出演する。知識や情報をおもしろく提供する見本のような番組だ▼ちなみに何冊かの辞書で「教養」を引いてみると、ほとんどが「教え育てること」を第1にあげている。続いて「その人の品格をつくっている学識や趣味」「人格的な生活を向上させるための知識・情意の修練」といった解釈が出てくる。人格や品性に重点が置かれているようだ▼ことばは生きものだという。時代の気分などに乗って意味合いが変わってゆく。広まれば広まるほど軽くなる性質もあるように思う。 平和がいいに決まってる 【’88.8.7 朝刊 1頁 (全856字)】  「たった1回、平和コンサートやったからって、平和なんてやって来やしねえ。お笑いさ。『平和がいいに決まってる』ってコトバに逃げこむなよ、オマエラ。オレたちゃやり続けるぜ」。ロックバンド『RED WARRIORS』が威勢のいいタンカを切っている▼広島市で開かれた平和祈念コンサート『平和がいいに決まってる』を2日間、聴いた。超満員の聴衆の大半は女子の中学生高校生だ。ロックの大音響は体に響く。昭和ヒトケタ族にとってはきびしい試練の延べ十数時間だったが、芸の激しさはしばしば肌に伝わってきた▼なによりも舞台の熱狂につれて、総立ちになって踊る聴衆の姿はなかなかの見物だった。5000人を超える会場は巨大な鉄のナベになり、その熱いナベの底で無数の黒い頭の豆が一斉にはじけているように見えた▼平和という文字を「ダサイ、クサイ」で片づける風潮に危機感を覚える、と主催者の1人、山本コウタローさんがいっている。その2文字に今様の息吹を与えて若ものの心に投げつけたのは、コウタローさんや南こうせつさんの功績だ▼竜童組も世良公則も、出演者はみな無報酬で舞台に立った。約300人の若いスタッフが舞台を支えた。戦争を知らない世代が、1つの誓いを立て、1つの夢を実現するために力を合わせている。それは、平和のためにノーというべき時はノーということを誓う場を毎年持つことであり、自分たちの力で、たとえば新しい原爆養護ホームを建てることだ▼去年はこの催しで7000万円の収益をあげ、主催者はこれを第3の原爆養護ホーム建設の基金として広島市へ寄付した。居住条件の悪い今の養護ホームに代わる新ホームを早急に建ててもらいたい、と市にお願いしておく▼うれしいことに、とコウタローさんがいった。「20代の仲間に、ぼくたちの志をついでくれるものが育っています」。コンサートは、10年間、「やり続ける」そうだ。 ちょっとした誇張 【’88.8.9 朝刊 1頁 (全852字)】  NHKのテレビ番組「関東甲信越・小さな旅」に登場するアナウンサー山根基世さんが『であいの旅』という本を書いた。その中に「ちょっとした誇張」という一文がある▼4年前、東京で、電話の地下ケーブル焼失事故があった。山根さんは休暇で家にいた。テレビのニュースで近所の酒屋やそば屋のおじさんがいっている。「困りました。商売あがったりで首つりです」「もう死活問題ですよ」▼それを見て、おやと思う。酒屋には客が歩いて注文に行くから、さして困った様子はなかった。そば屋だってそうだ。それなのに、テレビのカメラの前では、「首つりだ」とおおげさにいう▼「確かに電話が不通になれば本当に困る人も多いだろう。しかしそうでない人たちが、なぜおおげさに困ってみせなければならないのだろうか。多くの人はのんきに、たくましく暮らしているという事実はニュースにはなり得ないのか」▼そう問いかける山根さんは、おじさんたちを責めているのではない。たとえ善意の誇張でも、そういった誇張が積み重なれば真実とかけ離れた世界がつくられてゆく、ということを恐れているのだ▼テレビだけではない。ニュースを伝える側にはしばしば「ちょっとした誇張」を求める風がある。そして人びとは、その暗黙の期待にこたえてある役割を演じようとする▼マスメディアは巨大な劇場となり、取材する側もされる側も正体不明の演出者の意図を察して演技をする。ジャーナリズムの世界では、その誇張の部分を見きわめる目、非日常的な事件の中にある日常的な部分を見る目が必要だろう▼「関東甲信越・小さな旅」の評判がいいのは、やらせじみたわざとらしさを避けている点にもある。山根さんは、土地の人とごく自然にであい、ごく自然に語りあう。新婚そうそうの取材の時、土地の人にお祝いの地酒をもらう一文がある。名文はこういう時に生まれる、という典型のような文章だ。 早池峰 【’88.8.10 朝刊 1頁 (全852字)】  10日ほど前、岩手の早池峰(はやちね)に登った。早池峰の山伏神楽を見たい、ハヤチネウスユキソウと呼ばれる花をぜひ一度は見たいというかねての願いが、2つともかなった▼薄雪草とはいい名前をつけたものだ。ヨーロッパアルプスのエーデルワイスに似た花で、花も葉も淡い雪をかぶったように、綿毛におおわれている。ちょっと異様だが、なまめいた感じがあって一度見たら忘れられない姿だ▼天から降る霊華を胸の上にのせて眠った女神が早池峰になった、という伝説があるが、この霊華はハヤチネウスユキソウであったかもしれない。やはり早池峰でしか見られないナンブトラノオが、淡い紅色の花を咲かせている。国の特別天然記念物に指定されているだけあって、この山の植物には、この山でしか見られない固有種が多い▼岩場のほんの少しの土に根を張って、ホソバツメクサが白い小さな星のような花を咲かせている。ミヤマオダマキの気品のある青紫の花が風と遊んでいる。渋い古代紫色の花を咲かせるミヤマアケボノソウも風の中にあった▼頂上に着くのに、4時間もかかった。案内役を買ってでて下さった地元の写真家、高橋亭夫さんはもう4、500回も早池峰に登っている。どの岩陰にはどの花が咲いているかを熟知している人だが、その高橋さんがいった。「この前あったはずの花が盗採でなくなっている。それを見るとたまらないですね」▼頂上の蛇紋岩の上に横になると、花の色に染まった風がひょうひょうと耳に鳴った。早池峰は、数億年の歴史をもつ。昔は、海の中にあってここだけが突出していた時代もあっただろう。氷河期には、北方から、たくさんの植物がここにたどり着いたことだろう。だから珍しい遺存種がこの山にはある▼重なりあう奇岩、巨岩の中にいると、昔の人がここを聖なる山とした気持ちが伝わってくる。前夜見たお神楽の白翁の姿が風の中に現れては消えた。 リクルート国会、議員の良心はどこへ 【’88.8.11 朝刊 1頁 (全844字)】  昔、飛騨一の名工といわれた棟梁(とうりょう)が国分寺を建てた。仕上げ近くなって、弟子たちが柱になるヒノキの名木をいずれも短く切っていたことに、棟梁は気づく。致命的な誤りである▼困り切っていると、娘が助け舟をだした。「短くなった分だけ、ますぐみを作って乗せたら」と。名案だった。寺は完成し、ますぐみの工夫が評判になった、というところで棟梁は最愛の娘を殺してしまう。娘の口から真相がもれるのを恐れたからだろう▼人間の本性をえぐった昔話として記憶にあるが、己の体面のために娘を殺した時、棟梁は良心を殺した、といっていいだろう。リクルート国会の様子を見ていて、この棟梁の話を思いだした▼真相が明らかになっても困ることがなければ、堂々と受けて立ったらいい。政府自民党の首脳はなぜ証人喚問を恐れるのか。真相隠しに躍起になるのは、暴かれて困ることがありすぎるからだ、と思われても仕方がないだろう▼リクルート関連株を秘書が買ったというのなら、納得できる物証の数々を進んで示すべきだ。もうけたカネは秘書が自由に使ったというのなら、これこの通り何千万円もの遊興費に使いました、政治資金には使っておりませんという証拠を提示すればいい。隠せば隠すほど疑惑は深まる▼証人喚問は、とりあえずは現行法の枠内で人権に配慮する工夫をこらしながら、どんどん進めればいいのだ。証言法改革が実現する日まで証人喚問を見送る、という理屈はおかしい。まさか、税制改革が実現する日まで税の徴収は一切、見送りにするとはいわないだろう▼それに、国会の機能の中枢でもある国政調査機能の改革を10年近くもさぼっていたのはだれだろう。衆院予算委員長の「見解」をかなしい思いで読んだ。戦後43年、議会政治の自浄機能はまだこの程度なのか、という苦い思いが重なる。関係議員諸氏よ、良心を殺してはいませんか。 発車ベルのなくなった駅 【’88.8.12 朝刊 1頁 (全845字)】  東日本旅客鉄道・千葉駅の板倉義和駅長たちは、この8日から、列車が出発する時のベルを全廃した。勇気ある決断である▼ベルをやめたら苦情がでるかもしれない。乗り遅れの人がでるかもしれない。初日、駅長は不安と緊張でいっぱいだった。午前6時から、ホームに立った。苦情はすべて自分が引き受けるつもりだった。だが、覚悟していた苦情はひとつもなかった。駆け込み乗車も減った。「構内が静かになった。いいことだ」という手紙や電話がきた▼千葉駅は日に約1200本の電車、列車が発着する。朝の出勤時は、間断なく予告ベルが鳴り響くことになる。近接する住宅地からの苦情があった。乗降客の3大苦情も、(1)ベルがうるさい(2)放送がうるさい(3)トイレが臭い、というものだった▼まず、ベルの全廃にとりかかった。だがこれは、日本の鉄道関係者にとっては一種の「革命」だ。周到な準備を重ねた。部分的にベルをやめ、客の反応を観察しながら廃止の部分をふやしていった▼夕方の混雑時、ベルの鳴らぬ駅の様子を見た同僚がいった。「初めは間の抜けたような奇妙な感じだった。そのうち、どことなくのんびりした雰囲気が新鮮でよいものに思えてきた。あわただしいベルが鳴るのが当然、という自分の感覚の方がおかしかったと気づいた」▼7年前、当時の国鉄が2、3の駅で「駅構内の放送なし」の実験をしたことがある。あの時も、大きな駅特有のせかせかした雰囲気がうすらいで、まずまずの評判だった。放送やベルをどこまで減らせるか、一工夫も二工夫もほしいところだ▼「日本人は個人的には非常に敏感な、デリケートな耳の持ち主だと思う」と詩人の田村隆一さんがある会合で発言している。「しかし社会的な音に対しては、歴史が浅いので感受性が鈍い」とも語っている▼静かさが売りものの静養の地に、のべつ幕なしに音楽が流されることもある。 匿名の残忍性 【’88.8.13 朝刊 1頁 (全860字)】  江副リクルート前会長宅が銃撃されたあと、赤報隊の「声明」が通信社に郵送された。一読して、知性のかけらもない脅迫文だと思った▼なぜ、知性のかけらも感じられないのか。声明は、己の憎むものを処刑し、処罰するといっている。自分と意見を異にするものの存在を暴力で抹殺しようというのだ。思い上がりもはなはだしい▼自分にとっては不快きわまりない思想であっても、その言論の自由が脅かされる時は、それを守る側に立つ。己とは異なる意見でも、発表の自由は認めるというところに、人類のたどりついた知性がある。声明は、その知性をふみにじっている▼人類はまた長い間、排外的な自国至上主義と闘ってきた。自分の国だけが卓越していて、よその国は劣っている、という偏狭な考え方と闘ってきた。それぞれの国の文化には固有の価値があることを認めあうところに、人類のたどりついた知性がある。赤報隊の一連の声明は、それを認めようとしない▼それにしても、なぜこうも匿名の脅迫がはやるのだろう。瀬古選手に対しても「足元に気をつけろ」といういやがらせの電話があった。シンポジウムで戦時中の体験を話すつもりだった元憲兵のところには「死ね」「日本の恥だ」という電話があった。脅迫状や脅迫電話は、自分の正体を隠したまま、相手の背中をねらって銃弾を放つようなものだ▼アメリカで恐ろしい実験があった。「罰として電気ショックを与えると、生徒の学習に効果があるかどうか」という名目で、1000人の男性が集められた。男性たちが電気ショックの電圧を次第にあげると、罰を与えられる生徒たちは悲鳴を上げた(むろん、電流は通じてなくて、悲鳴も演技だった)▼驚いたことに、3分の2の男がこの実験を続け、最高のボルトまで目盛りをあげた。男たちの顔は生徒には見えないようにしてあったのだろう。正体が隠された時、人間の残忍性はしばしば予想を超えたものになる。 犬と一緒の旅 【’88.8.14 朝刊 1頁 (全853字)】  数日前、連載マンガ『ペエスケ』のガタピシ君が、なにやらすねている場面があった。一家が旅行にでかける。その間どこかに預けられることを察したらしい▼わが家の犬も、そっくりそのままの反応を示すので、おかしかった。家族で旅行に行く準備を始めると、数日前からご機嫌が悪い。食卓の下に寝そべって、でてこない。旅行カバンを開けると、うらめしそうに横目でちらりと見て、ため息をつく▼「犬は、飼い主たちのささいなことまで、注意深く見守り、小さな事実を根気よく取り集め、関連させ、独自の判断を作りあげる」。生涯、犬の生態の研究を続けた平岩米吉さんがそう書いている▼日曜日はよく家で原稿を書き、夕方、送稿する。終わってわきにいる犬と目が合う。サンポニ行クカと心の中でつぶやくともう、それだけで察し、玄関へ飛んで行って散歩用の首綱をつけてくれとせがむ。犬は読心術の天才だ、と犬自慢を始めると際限がなくなるのが飼い主の常である▼わが愛犬も最近は老いがめだつ。昔は、走ると前脚と後脚がぴんと伸び切って一直線になったものだが、今は脚がそれほどは上がらない。昔は、遠くから筆者の足音を知り、ほえながら出迎えたものだが、今は時々、帰宅に気づかず寝こんだままのことがある。ややあって起きだし、ばつが悪そうに近寄る。共に暮らしてきた犬の老いを見ることはつらく、いとおしい▼先月のスイスの旅で、山里の歩道に犬のふんをいれる木製の箱が所々にあるのを見た。箱には小さなスコップもついている。スイスでは、いたるところで犬を連れた旅人にであった。犬と共に鉄道に乗り、ホテルに泊まり、山道を歩き回る。そういう人が多いからこそ、都会ならぬ山里にも、こういう箱が必要なのだろう▼スイスの山村で見た木箱は、人と犬との新しいつきあい方の例を示している。犬と一緒に旅ができる環境が整えば、ガタピシがすねることもなくなる。 詩人・高木護さんの8月15日 【’88.8.15 朝刊 1頁 (全864字)】  詩人の高木護さんは8月15日が近づくと、頭を丸めることにしている。今年ははやばやと6月に丸坊主になった▼15日は一切ものを食べない。水も飲まない。午前4時半から24時間、眠らずに黙想を続ける。戦で死んでいった人びとが次々に登場する。高木さんは少年軍属として東南アジアの戦地へ行った。当時の戦友や土地の人たちと話しあうための黙想だ▼お前はもっと生きたかったろう。やりたいことがたくさんあったろう。それなのにおれは今、こうしてのうのうと生きて、ぜいたくになれている。申し訳ない。まだこげん生きながらえているおわびの、ほんの気持ちのつもりで丸坊主になるとですたい▼高木さんは、戦地で熱帯の風土病にかかり、死体置き場に捨てられたこともあった。その病気のため戦後は定職につけず、今も後遺症に苦しんでいる。戦争の指導的な立場にあった者は、戦で死んでいった人びとに謝罪する気持ちがあるのなら、せめて年金やら恩給やらを返上すべきだと、絶食の中で思う▼復員後は、山野をさまよい、野良仕事を手伝っては飢えをしのいだ。厳寒の夜、鹿児島の山中のくぼみに身を沈ませて眠ったこともあった。夜半、大きな獣が近づいてきた。目をあけられず、身を硬くして死んだふりをしていた▼獣は、鼻をクンクンとさせた後、足でかき集めたらしい落ち葉を高木さんの体に何回もかけて去って行った。「なんちゅうこっかい」。涙があふれた。獣も、石も木も虫もみんな仲間だ、と叫びたかった▼貧乏暮らしは相変わらずだが、昨今は自分もぜいたく病にかかったと思うことがあるそうだ。亡き戦友たちを思い、落ち葉をかけてくれた獣を思って座り続けることは、自分自身の心にこびりついた垢(あか)をみつめることでもある。  ×  ×  あすから筆者交代です。この欄を書き始めてから12年余になります。皆様と共に過ごすことのできた歳月の実り多かったことに感謝します。 米議会での戦時市民強制収容補償案の可決 【’88.8.16 朝刊 1頁 (全849字)】  きのうに続いてもう一度、戦争にまつわる話を▼真珠湾への日本の攻撃は1941年12月8日だった。そのすぐあと、米政府は西海岸に住む日系市民たちを内陸に移し、転住センターと呼ばれる一種の強制収容所に入れた。追い立てられた1世や2世たち12万人余は、家財道具を捨て値で売り、集団生活にはいる▼その精神的、経済的な打撃、損害をどう考えるべきか。戦後ずっと大きな問題だった。先週、それにひとつの答えが出た。「市民の自由法」(戦時市民強制収容補償法案)が議会で可決され、レーガン大統領の署名で法律となったからだ▼生存している6万人に対し、1人2万ドルの補償金を支払う。そして、「市民(日系人)の自由と憲法上の諸権利の基本的な侵害に対し、米議会は国に代わって謝罪する」。結果だけみればかんたんなようだ。だが、印象的なのは、ここまでの長い道のりである▼れっきとした米市民なのに、この差別的な扱いは不当だ、と考えた日系市民たち自身の努力。2世たちは、欧州戦線での活躍で忠誠心を証拠立て、またルーズベルト大統領による収容命令の不当さを世論に訴え続けた。「補償要求など恥ずかしくて鳥肌が立つ」という声もあって、内部の論争もたいへんだった▼注目されるのは米議会がつくった「日系人の戦時収容に関する委員会」の働きだ。全米20カ所で、2年間、750人もの証言をきく公聴会を開いた。開戦当時の政策としてはやむをえなかったとする意見も当然出た▼はげしい反日感情の存在、日系人がスパイ行為を働くおそれ、日系市民への迫害を予防するための隔離、といった指摘である。さまざまな議論のあと委員会は、収容を「人種的偏見、戦時ヒステリー、政治家の怠慢」の産物、と結論づけた▼過去を徹底調査し、未来への教訓を引き出す。国が誤りを認めるのは容易なことではない。それができる勇気と度量とを、米国は示した。 変わる星の世界 【’88.8.17 朝刊 1頁 (全858字)】  山や海で、空をながめる。実にたのしい。大きなカンバス。刻刻かわる雲の表情。色のうつろいに、時のたつのを忘れる▼夜空もすばらしい。星くず。流れ星。薄暮、明け方などには、人工衛星が見えることもある。はじめての人工衛星、ソ連のスプートニクが打ち上げられたのは、1957年10月だった。早朝5時前に、札幌の上空を衛星が横切るのを発見した時は、いささか興奮した。北の空を西から東へ。定規で引いたように、着実に、静かに飛んでいた▼新しい時代のはじまりだった。観測の記事は全国的ニュースになった。隔世の感あり。もはや事情がちがう。あまりにも衛星や打ち上げ物体がたくさんあって、大げさにいうなら、いまや宇宙混雑時代らしい。軌道をまわっている人工物体の数は7000以上、と欧州宇宙機関は報告している▼スプートニクからこの方、人工衛星の打ち上げは3000回を超え、約3600個が軌道に乗った。さらに他の打ち上げ物体や、それらの破片もある。活動中のものは一部だが、とにかくたくさんの物体が宇宙空間を飛んでいる。秒速10キロなどという速度で破片が衝突すると、衛星や宇宙船が傷つき、こわれるおそれもある▼赤道上空、高度3万6000キロの、いわゆる静止軌道も込み合ってきた。機能がとまった物体、つまり宇宙粗大ゴミを、どう処理するかはむずかしい課題だ。もっと火急の問題は、この秋にも落下するといわれるソ連の海洋偵察衛星コスモス1900号である。偵察用レーダーの電源として、小型原子炉を積んでいる▼10年前に、コスモス954号がカナダ北部に落ちたとき、雪の原野に放射能がまき散らされた。大気圏に突入して燃えつきてしまう場合も、汚染の問題は残る。米国の原子炉衛星も20年あまり前に落ちた。今回、落ちる時刻は2、3日前、正確な落下地点は2時間前にはじめてわかる、とか▼星の世界も牧歌的といってはいられない。 おかしなお天気 【’88.8.18 朝刊 1頁 (全848字)】  うちの庭でウグイスがホーホケキョと鳴きました、と、東京・世田谷の読者が知らせてくださった。16日朝のことだという▼ふつうなら春を告げる鳥。夏のさなかに、はて面妖(めんよう)な。気象庁には、鳥や昆虫の鳴き声が最初に聞こえる日の統計がある。東京でアブラゼミの鳴き声をはじめて聞いたのは、8月5日。平年なら7月28日だ。長野県の松本市では、8月6日で18日遅れ、福島県白河市では17日遅れ。どうもこのところのお天気、おかしい▼兵庫県川西市。大雨でびしょぬれの子スズメ約2000羽が街路樹から落ち、1000羽が死んだ。小さな発熱体の羽がぬれて動けず、体温が下がったためらしい。東京西郊の奥多摩では、里におりてウサギを襲ったツキノワグマが射殺された。長雨のせいで、夏の山にみのるヤマモモなどが口にはいらない。ニューヨークでは観光馬車の馬が猛暑で倒れた。動物受難の夏である▼甲子園の高校野球では10日、雨で、昭和7年以来56年ぶりのコールドゲーム。雨は、海の家を直撃し、ビールやアイスクリームの業界をおびやかす。百貨店の売り上げは、東京地区では7月に前年同月より1割近く伸びた。消費者の足が、行楽地でなく買い物に向かったためか▼中国や米国、カナダなどは熱波。上海では多くのお年寄りが死に、米国の刑務所では暑さで暴動が起きた。山火事や氷河がとけるというニュースが続く。穀物減産も心配だ。大西洋にあるはずの高気圧が米大陸に居座っているという。太平洋では、北部の海が例年より高温になっているのも「雨の夏」の一因らしい。いわゆる温室効果と関連づける仮説もあるようだ▼江戸時代に、「明日は雨降る天気にては御座なく候」という名文句があったそうだ。晴れなら、そのままでいい。雨になったら、「明日は雨降る」と言ったではないか、といえばよい▼そうもゆかぬ現代の予報官、ご苦労さま。 在日外国人の不満 【’88.8.19 朝刊 1頁 (全846字)】  日本で発行されている英字紙の投書欄は、なかなか興味深い。日本に住む外国人たちがさまざまな意見や体験を率直に書く。日本人には見えていない風景が、そこに現れることもある▼このところ、ひとつの論議が続いている。ガイジン、である。街頭で、車内で、日本の子どもたちが外国人を見ると、ガイジンだ、ガイジンだ、とはやす。まず、これがやりきれない。さらに、日本人の大人が外国人に箸(はし)が使えるか、とたずね、うまく使えると驚いて褒めそやす▼まるで珍獣扱いだ、という不満、そして怒りである。自衛策を披露した投書もある。はしが使えるかと聞く日本人には、あなたはナイフやフォークが使えるかと反問せよ。刺し身が食えるかとの問いには、あなたはステーキが食べられますか、と聞け。もちろん、という返答だったら、驚きを示すべし▼酔ったサラリーマンがやたら英語で話しかけるのもきらわれている。これにも、英語以外の言語でこたえるのがよい、と秘策伝授の投書。日本人の態度をいちいち気にするな、相互理解が必要だ、とゆったりかまえる投書もある。だが、ほとんどがガイジン呼ばわりに神経をとがらせている▼外国人、という表現と違い、ガイジンということばに、排除されるべきよそ者とでもいったにおいを感じ取るのだろう。実際に外国人たちと話すと、このことばを侮辱的、差別的と感じている人が多いのに驚く。外国人にはちかごろ日本語をよく勉強している人が多く、日本では日本語で話しかけられることを望む、という▼さきごろ、大阪で、国際結婚の家庭の子どもたちが集まった。やはりガイジンと言われる悩みが表明された。ハロー、ハローと話しかけられ、こっちが日本語を話すとびっくりする、という話も出た。国際化とは何かという話題になったら、こんな発言があった▼「日本人が外国人を見て、『あっ、外国人』と思わなくなる時」 イラン・イラク戦争きょう停戦 【’88.8.20 朝刊 1頁 (全851字)】  はじめは、どんな名前で呼ぶのか迷った。イラン・イラク戦争、だと新聞の見出しには長すぎる。さりとて、イ・イ戦争では、何だかいい戦争のように響く▼読者から手紙が来て「不要な戦争なのだからイラン戦争にしなさい、いや、実感からいえばイラ・イラ戦争がよい」。あれから8年。きょう日本時間の正午に、世界をいらいらさせた戦争が停戦となる。国連の停戦監視団も配置についた▼ふたつの国は、それぞれ事情が違っていた。イラクはきびしい統制で臨戦態勢をかためた。イラク、つまりアラブによる、イラン、すなわちペルシャへの戦い、という民族的な考え方が底にあった。イランにとっては、これはイスラム教シーア派の使命感によるジハド(聖戦)だった▼事情は違っても、長い戦いがふたつの国の人々にもたらしたものは似ている。家族、友人の大量の死。傷ついたのは体だけではない。流血の日常に気持ちがすさんだ。緊張と、深い精神的な疲れ。そして、途方もない規模の破壊。国土は荒れ、街のたたずまいもかわった▼死傷者数は、両方で100万にも達するという。経済的な打撃も大きかった。損失は、ひかえめに見ても数千億ドル、いや、1兆ドル(約130兆円)以上だという試算もある。ベトナム戦争に米国がつぎこんだ戦費の何倍にもなりそうだ。戦争の常で物資はやみに流れ、人々は耐乏生活。イランは外貨不足に、そしてイラクは借金に苦しむ▼だがもちろん、ひとの戦争でもうけた者もいる。武器をつくって売る、いわゆる死の商人はうるおった。西側先進国や共産主義国の軍事産業だ。これから復興がはじまると外国の助けが必要になる。戦争でも復興でも先進国が甘い汁、と中東には嘆きの声がある▼困ったことに、和平のおぜんだてをした国連が、火の車だ。分担金の未払いが6億5000万ドル。停戦監視費を考えると秋には破産、という。イライラはまだ続きそうだ。 「昔の味」はそのままに 【’88.8.21 朝刊 1頁 (全846字)】  禅問答を1つ。昔の味は、そのままに味わうがよいか、それとも、今様の味つけで賞味するがよいか▼たとえば、昔の人が書いた文章を読むとする。多少むずかしくても、書かれたままに読む努力をするか。あるいは、漢字を仮名に直したり、別の漢字に変えたりして、読みやすくするか。ちかごろ、戦前の作品などを、現代ふうの表記に書き直した出版物が目につく。若い人には読みやすいだろうが、原文の趣はそこなわれてしまう▼アメリカで、しばらく前に、カラー化論争というのがあった。映画の話である。往年の名画には、白黒が多い。コンピューターで色をつける技術が進んだ昨今、テレビ用に古い映画の着色がはやる。「カサブランカ」の色つきも朝めし前だ。これに猛反対の声があがり、議会で公聴会が開かれたりした▼監督の意見を無視した改作はけしからん、道義的に許せぬ、と、ウディ・アレン氏や、白黒映画を好んで撮るシドニー・ポラック氏など有名監督が反対。女優ジンジャー・ロジャースさんも、自分の映画の人工的な着色に「傷ついた」と批判した。カラー化を進める側の言い分は「アメリカの大衆は名作をカラーで見たがっている」▼本も映画も、現代の好みに合わせて飲みくだしやすくする。糖衣錠現象、とでも呼ぼうか。それとはいささか趣が異なるが、かつてソ連では、前の時代の人や文献を批判し、場合によっては歴史から抹殺したりもした。過去の味が苦い味なら、それは味わいたくない、なかったことにしたい、とでもいうように▼歴史に空白があってはならぬ、というのがゴルバチョフ氏の考え方だという。そこで、消されていた歴史的人物の名誉回復や百科事典への登場、公募による歴史教科書の製作などが進んでいる。いまの歴史教科書には問題がある、として、中学の歴史試験が中止されたほどだ▼昔の味は、甘くなくても、かみしめてみるべきではないか。 全国高校野球・監督の言葉抄 【’88.8.22 朝刊 1頁 (全842字)】  甲子園の高校野球もいよいよ決勝戦。どの試合もひたむきで、人の心をつかんだ。監督さんの何げない話もなかなか面白かった▼江の川の木村監督「日ごろから、1度失敗した子にはもう1度させ、その教訓を生かすことにしている」。6回スクイズ失敗の藪野に、8回でスクイズを「あえてさせた」。逆転となった。失敗に学び、再挑戦の機会を得られる、という人生はすばらしい▼おおらか野球も目立った。法政二の大石監督「ふだんの練習も生徒たちが自主的に組んでいる。小細工せず思いきって勝負させた」。浦和市立の中村監督「のびのびしていてすごい、と感心した。私の方が硬くなっていたようだ」。高崎商の林監督「知らず知らず緊張した。彼らを冷静にしてやれなかったことは反省している」▼なぜ、のびのびがよいのだろうか。鹿児島商の塩瀬監督「どんな子どもにも、親や教師や監督にはわからない『未知の力』がある」。かつてスパルタ式指導者だった日大一の高橋監督は、長男が高校生になった時、「もし息子が選手だったらこれで楽しいだろうか」と方針をかえ小言をやめた。「たまに怒りたまにほめてこそ、効き目がある」▼ほめることは、だいじだ。中村監督「練習中、どんどん声をかけて選手の気分を乗せるようにしている」。怒り方は。佐賀商の田中監督「めったにしからないが、自分勝手な行動をする時しかる」。やはりチームワークである▼堀越の桑原監督「野球は自己犠牲」。米子商の朝山監督「野球は石垣。大型選手ばかりでも勝てるとは限らぬ。素質はなくともチームをまとめるのがうまい子、安打は打てなくてもバントを確実に決められる子。そんな小さな石になれる選手がいないとチームはつくれない」▼1対19の感想。小浜の溝田監督「一生懸命やれば、結果は関係ないと言ってきた。大差で敗れたが、このチームは最高にいいチームだったと思う」 インサイダー取引に甘い日本 【’88.8.23 朝刊 1頁 (全840字)】  だれが考えても当たり前のこと。企業の内部情報を知り得る立場の人が、未公開の情報をもとに他の人を出し抜き、株の売買でもうけたら、これはおかしい▼昨年来、おかしい事件が続く。いわゆるインサイダー取引だ。この種の事件にとくにきびしいのは米国である。証券取引委員会(SEC)という機関が監視し、あやしい場合は捜査する。摘発は年に30件以上。時には証券会社に乗り込み、そこで手錠をかけるというはげしさだ▼英国でも最近、こうした取引にからんで証券会社や新聞社の社員が解雇されている。サッチャー政権は、大衆資本主義のかけ声で小口の一般投資家を優遇する。不正株価操作などを防ぐため、特捜局までつくった。金融の中心、シティーの信頼性を守らねば、というわけだ▼ロンドン、ニューヨークとともに、東京は世界の金融の重要な一角。兜町での株式の売買代金は昨年250兆円という。時価総額では世界最大の規模である。外国からの上場もふえ、国際化が進む。米国議会では、インサイダー取引などの捜査、取り締まりの国際協力を強めよう、との法案が出された。連動が必要となるかも知れない▼証券取引法がことし改正された。これまでの法でもきびしい摘発はできたはず、という指摘がある。「禁止される行為」を定めた条文は、たしかに抽象的だった。だが、実は、米国の法律とあまり違わない。米国ではどんどん摘発し、裁判で争い、判例を積み重ねた。日本では摘発がなかった▼むろん、個人投資家の比率が日本では小さい、といった違いはあろう。だが、トウキョウがこんなにも巨大な資金調達の場となっている事態を、大蔵省など役所は正確にとらえていただろうか。行政指導と業界保護、という昔からの感覚にとらわれてはいなかったか▼改正法の中の大蔵省の検査権の部分はきょうから施行される。しっかり目を光らせてもらいたい。 少数民族の国際交流 【’88.8.24 朝刊 1頁 (全845字)】  米国から、スーインディアンの少年少女5人がやって来て、アイヌの人々を訪ねた▼北海道・平取町の二風谷(にぶたに)である。折からアイヌ民族の伝統行事、チプサンケ(舟下ろし祭り)があった。かつて密林(ニプタイ)で、カツラの木が多かった二風谷。カツラの丸木舟(チプ)を初めて川に下ろす時に、舟に魂を入れ、安全と豊漁を祈る。インディアンの子たちも分乗、儀式に参加した▼その前夜祭で彼らが喜んだのが、アイヌの踊りだった。「私たちの踊りにそっくり」とノーマ嬢。もちろん、いっしょに踊った。自分たちも、と用意してきたテープで音楽を流し、インディアンの踊り。この輪にアイヌの人たちも加わった▼スー族はサウスダコタ州に住む。ダコタは「同盟」を意味するスーのことばだ。5人の高校生の1人はストライクスエネミー(敵をやっつける)という勇ましい名字を持っている。みなアルバイトで資金をため、日本に来た。「ビンゴ・ゲームの遊技場で弁当を売って稼ぎました」(マーク君)▼計画したのは両国のYMCAだ。引率役のYMCA主事コール氏の感想は「アイヌの人々が自らの文化、価値観、伝統をしっかり守り、伝承するさまに接して、高校生たちにはすばらしい勉強になった」。エクアドル、インドなど、他の国の先住少数民族とも交流しているが、アイヌの人々との接触や資料館見学などははじめてだった▼米国の若いインディアンたちには、明るい将来展望を持てないものが多いといわれる。差別に苦しみ、希望を失いがちだという。個人として、民族として、固有の文化を伝えてゆきたい。その点で、コール氏によればアイヌの人々は一行を「勇気づけてくれた」▼これとは別に、ホピ族のインディアンが「ホピ独立国」の旅券で来日している。少数民族の来訪。少数民族同士の交流。国際交流もいまやきめが細かい。一行はきのう広島に向かった。 防衛白書 【’88.8.25 朝刊 1頁 (全845字)】  防衛白書を読んでいて、思い出したことがある▼1890年、つまり明治23年の12月6日、第1回帝国議会で総理大臣の山県有朋が施政方針演説をする。その中でこういう。「蓋(ケダシ)国家独立自衛ノ道ニ2途アリ、第1ニ主権線ヲ守護スルコト、第2ニハ利益線ヲ保護スルコト」▼主権線は国境であり、利益線とはその主権線の安危に密接な関係のある区域、と説明した上で、列国の間で独立を維持するには、主権線を守るだけでは「決シテ十分トハ申サレマセヌ、必ズマタ利益線ヲ保護致サナクテハナラヌコトト存ジマス」と続く▼これに先立ち、山県は「利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と判断していた。当時の、朝鮮をうかがうロシアの勢いを意識してのことだ。国境を守るために朝鮮半島を確保、次はそこを守るための利益線として旧満州地域を考え、そこを手に入れればさらに新たな利益線は、と進む。山県演説には、拡大の論理がかくされていたかに見える。「重大な発想の原点」というのが、軍事史に詳しい成瀬恭氏の分析だ▼昨年の防衛白書では、防空作戦は「侵攻してくる敵の航空機をできるだけわが国の領域外で要撃」となっていた。ことしの白書では「敵の航空機をできる限り遠くで要撃」とある。また、上陸する敵への「早期前方対処の可能性」を研究している、とも発表された▼活動領域を遠くにまでひろげようとするのか、と気になる。はじめてF4戦闘機が配備された時、周辺諸国への配慮から、空中給油装置はつけなかった。その後のF15配備ではその装置がついた。自衛隊の行動範囲も「領土・領海・領空」から「周辺の公海・公空」、さらに「シーレーン」防衛、「洋上防空」へ、「イージス艦購入」へと拡大の方向だ▼安全を考えればここまでは準備しておきたい、という気持ちもわからぬではない。だが、専守防衛の原則と、拡大の危険とを忘れてはならぬ。 「岸壁の母」 【’88.8.26 朝刊 1頁 (全839字)】  道を歩いていて、どこからか音楽がきこえてきたとする。その音楽の速さが自分の歩速にほぼ近い時、いつの間にか音楽に合わせて歩いている自分に気がつくことがある▼シャクにさわって無理にずらして歩こうとすると、とてつもない努力を必要とするものだ。と、そんな意味の作曲家芥川也寸志さんの文章を読んだことがある。音楽の基本になっているリズムというものが、いかに人間の肉体的感覚と深く結びついているか。芥川さんは進軍ラッパなどに歩調を合わせてしまう例を引いて、説いていた▼ソウル五輪に先立って、来月早々から京都国体の夏季大会が始まる。ボート競技の会場は舞鶴市だが、その開始式で演奏される行進曲が、かつての大ヒット歌謡「岸壁の母」を編曲したものだ、との記事を目にして驚いた。海上自衛隊舞鶴音楽隊が奏でる「母は来ました 今日も来た この岸壁に  今日も来た」のメロディーに合わせて、1100人の選手が行進するのだという▼ソ連や中国などから、昭和33年まで13年間にわたって、66万4000人と遺骨1万6000柱が引き揚げてきた港、舞鶴。実際には岸壁ではなく木の桟橋だったが、そこで泣きながら帰らぬ息子を待ち続けた東京の老いた母をモデルに、歌はつくられた▼けれども、いま、市に選曲を依頼された自衛隊音楽隊の責任者は、語る。「あの曲はメロディーだけで選んだ。戦争を賛美するつもりも、悲惨だと訴えるつもりもない。明るくリズミカルに編曲するのに苦労した」。そして市当局も「ご当地ソングで行進すれば、選手たちも楽しいはず」と何の屈託もない▼たとえリズミカルな曲になっているとしても、努力して、無理にずらして歩きたい。そんな思いに駆られる。記者に感想を求められた永六輔さんは「ご当地ソングというのは名物を歌ったもの。帰らぬ息子を待ち続けた母は名物ですか」と痛烈だった。 CIすなわちイメチェン 【’88.8.27 朝刊 1頁 (全844字)】  岡山にある山陽相互銀行が「トマト銀行」と、思いきった改名をするそうだ。トマトは健康野菜の代名詞でイメージがいい、全国にも海外にも通用する、といったあたりが公式理由だが、発案者の社長は「なに、理由はあとからの思いつき。直感、フィーリングですよ」とのたもう▼まず家族が反対、行内でも最初は相手にされなかった。「とんでる」はずの若い世代ほど否定的だった、との話もある。決定後のいまも、客離れが心配、プライドが持てない、などと懸念の声は消えぬ。一方で、遠く東京から「かわゆいので」通帳をつくりたい、と申し込みがあったとか。ともかくも、話題集めには成功した▼相銀のほとんどが来春、普通銀行へと看板を塗り替える。それに伴っての改名で、トマトほどではないが、山形しあわせ銀行だの肥後ファミリー銀行だのと、らしからぬ名称がいくつも登場する。社名、マーク、制服の変更などを含む、流行のコーポレート・アイデンティティー(CI=企業イメージ戦略)の一環だ▼CIといえば、数年後からの学生減をひかえた私立大学、短大にも流行の波がおよんでいる。かつて隆盛を誇った短大の「家政科」の多くが、生活福祉、生活文化、生活科学科などと名をあらためた。旧名ではイメージが古く、志望者が集まらないためという▼校名そのものを変えた例もある。神奈川県の幾徳工業大は、神奈川工科大と改名し、校旗や校歌を一新した今春、志望者が3割もふえた。ただし、生活科も工科大も、講義の中身はほとんど変わっていないらしい。考えてみれば、新しい名をつけたからといって、銀行が住宅ローンの利率を劇的に下げてくれるはずもない▼われわれ日本人は外見に惑わされがちで本質を、などと目くじら立ててみても、始まらないか。CIすなわちイメチェンと割り切って、つぎつぎと魅力的な言葉の「傑作」を考えつくのも、日本人なのだ。 ゾウと人間の共存を祈る 【’88.8.28 朝刊 1頁 (全845字)】  ゾウを見ていると、思わず気持ちがなごむ。どっしりした大きな体。ちいさくて、やさしい目。長い鼻を振りながらの、あのゆったりした歩き方もいい▼本紙日曜版の新どうぶつ記に、ゾウは人間と同じように喜び、悲しむ、という話がのっていた。「ゾウの先生」と呼ばれるタイのサラガンさんは「子ゾウが死んだ時、母ゾウは涙を流していつまでもそばを離れません」という。アフリカの大草原でも、他の動物と違い、ゾウは死んだ仲間の骨をみつけると悲しみ、死をいたむように振る舞うそうだ▼人に慣れているゾウが急に興奮した時のことを、映画監督の羽仁進さんが書いていた。居合わせた人々の中に、象牙(ぞうげ)の装飾品を腕につけた女性がいて、ゾウは突然その腕を鼻でつかんだ。女性はふるえながら「一生、象牙は身につけない」と叫ぶ。細工された象牙を、どうしてあんなに素早く見分けたのか、と羽仁さんにはゾウの「ふしぎな感覚」が気になった▼ゾウには神秘的なふんいきがある。神話や説話に登場するのもそのためだろうか。科学者の研究でもわかっていない部分がある。ゾウの行動をみると、雄と雌の間、群れと群れの間などになんらかの交信が存在する。しばらく前に米国の研究家が、ゾウは低周波数の音波で交信している、と発表して話題になった。おでこの部分がかすかに振動、パイプオルガンの低音のような音波を出し、遠くと交信するのだという▼この、陸上で最大の動物と人間との関係はどんなものか。力の強い機械として使うため、保護する。と同時に象牙を求めてたくさん殺す。そういう2つの面があった。いまでも密猟が続き、生活環境の悪化ともあわせてゾウの数は減っている▼インドネシアのスマトラ島で、森林をきりひらいて移住する人々とゾウとの間で、衝突がふえている、と報道されている。何とか共存の工夫はないものか、と祈らずにいられない。 「香りの時代」考 【’88.8.29 朝刊 1頁 (全845字)】  香りの時代だとよくいわれる。香りの商品がいろいろ出ている。花の香りの浴用剤は何十種とあるし、ペットのにおい消し芳香剤まである。香りへの関心は社会の成熟度の反映だ、などといわれたりする▼とりわけ注目されるのは、食べものにまでどんどん取り入れられていることだ。香料は、そもそもは香水や化粧品に使うために作られていたが、いまでは食品用の方がはるかに多い。国内生産量は4倍近い。なかでも一番伸びたのが調理用香料だという▼マツタケやシイタケの香りはもちろん、野菜をいためたときのにおい、焼き肉のにおい、さらには炊きたてのごはんや、せんべいのしょうゆの焼けた香りまでが作られる。香料の技術は進んで、作れない香りはないくらいだそうだ▼即席ラーメンのスープのもとにいためたモヤシのにおいが加えてあると、モヤシが入ってなくてもモヤシ入りを食べている気になる。ウナギのかば焼きのたれにウナギのかば焼きの香料が入れてあると、焼きたてでなくてもそれらしい味がする▼食べものの味と香りは切り離せない。かば焼きに代表されるように、香りに誘われて食欲も増す。香りなくしておいしさはない。食品香料がよく使われるのは、ひとつには加工食品が増えたことによる。加工すると、どうしても素材そのものの香りがとんでしまう。おいしさを出すため、あとでそれをつける▼香りを大事にするのは結構なことだ。花の品種改良がいい例だが、どちらかといえば私たちは、見た目の美しさにとらわれすぎて、香りをおろそかにしたきらいがある。見えないものを大切にすることは、生活の豊かさにつながるだろう▼ただ気をつけたいのは、そのために本物の香りがどこかへとんでしまうことだ。天然の微妙な香りを忘れることだ。近ごろは、キンモクセイの香りに「あ、トイレのにおいだ」という子がいるそうだ。これは笑い話にとどめておきたい。 国を閉ざしてきたビルマ 【’88.8.30 朝刊 1頁 (全845字)】  大きな地震の時には、大小のゆれが何度も来る。このところ鳴動が続くビルマの様子をみていると、どうもただごとではない▼毎日のようにはげしいデモだ。きっかけは昨秋の全国的デモだった。75チャッドなどの高額紙幣を使うべからず、と政府がきめたことへの反発である。なぜそんなことをきめたのかというと、不法所得をためこむヤミ商人への対策だった。ヤミ商人がはびこるのは経済政策の失敗のためで、それが不満の背景にある▼不満はつのり、ことし3月に暴動がおきた。さらに6月、流血のデモがあり、これは激震となった。26年間も強力な指導者として君臨したネ・ウィン氏が辞任したからだ。かわってセイン・ルイン氏が指導者となったが、気性のはげしさからか、戒厳令をしき、強い態度に出た。反政府デモはひろがり、あえなく18日間の短期政権で辞任▼今月、文民のマウン・マウン氏が指導者の座についたが、人々の不満はおさまらぬ。複数政党制への欲求が強まっている。社会主義計画党による1党支配にはあきあきした、という気分であろう。民主化を求める声が学生たちから出され、戒厳令に反発したあたりからオレンジ色の僧衣がデモ隊の中に目立ちはじめた▼小乗仏教で、戒律がきびしく、少年の時に少なくとも一度は仏門にはいって修行するお国柄。柔和な人々に愛着を感じ、この国にほれこむ人は多い。ビルマ・メロメロという表現まであるそうだ。しかし、この国があまり知られていないのも事実である。戦後の長い間、鎖国してきたためだ。経済の不振も若い人々の不満も、もとはといえば鎖国のためである▼だが、なぜ、国を閉ざしたのか。考えれば、そこには同情すべき事情がある。60年あまりの英国支配、日本による占領。今後はできるだけ外国の干渉を絶ち、自力で生きよう、と考えたとしてもふしぎではなかった。いまはその見直し、なのだろう。 8月のことば抄録 【’88.8.31 朝刊 1頁 (全846字)】  8月のことば抄録▼「原爆は風化していない。むしろ身近な問題になっている」と新藤兼人監督。「日本へ強制連行され、被爆した同胞がいかに多かったか。そして、戦後、韓国人生存者の多くは治療の援助も受けていないということを強調したい」(原水禁世界大会に反核舞踊で参加したソウル大助教授、李愛珠さん)▼原爆の月は、戦争を考える月でもあった。「あんな戦争は二度といやですよ。今の世の中、平和だけど、ちょっと不安もある。こんど戦争になったら、原爆や水爆だから疎開もできない」と靖国神社で四日市市の中島まささん。夫は戦死。「徴兵状が来たら」という世論調査の質問に、全国の中学生の58%が「受けない」。「もし戦争になったら」には38%が「逃げる」▼「平和の回復は、両国民にとって戦争よりはるかに大きな勝利をもたらすだろう」と国連のデクエヤル事務総長がイラン・イラク間の停戦を発表▼リクルートコスモス株の譲渡問題で竹下首相「李下(りか)に冠を正さず、ということであり、私自身も含め一人ひとりが政治家として今後も心していくべきもの」「国民の政治不信が募っているのは大変遺憾」。本紙への投書に「竹下首相の発言には一片の誠意すら感じられない。政治不信をかきたてているのは自らであることを知るべきだ」(東京都の沢田信一氏)▼鈴木永二日経連会長の警告「ものをつくる実業を軽視し、マネー操作などによる利益を過度に重視すると、国の経済は衰亡し、社会は退廃する」▼即席ラーメンが誕生して25日でちょうど30年。国内で年間45億食。「南極観測や山登り、冒険など、海外遠征隊をどれだけ支えたか、考えてみるとたいへんな食品だ。今後は宇宙食などにも応用できるだろう」と小松左京氏▼米国から人種差別だとして批判された黒人人形の発売元、サンリオの総務部長「無知は罪だということを思い知らされた」。 「防災の日」に思う 【’88.9.1 朝刊 1頁 (全848字)】  暴風雨の夜。外は荒れている。男たちは酒をのんでいたそうだ▼道にあふれた水が酒場に流れこむ。くるぶしまで水が来て、だれかが悲鳴をあげた。いや、たいしたことはない、ゆっくりのもうや。やがて、ひざまで漬かった。なに、そのうち引くだろう。ついに腰近くまで。濁流の中、酔っぱらいの避難はおおごとだったという▼好ましくない現実を、人はなかなか認めたがらない。昨年暮れに総理府が発表した「防災に関する世論調査」にも、それはあらわれた。今後10年ほどの間に大地震がおきる、と予想する人はけっこう多かったが、では、災害に備えて家族で話し合いをしているか、ときくと、具体的に話している人はわずか25%だった▼死者3000人近くを出した昭和9年の室戸台風では、子どもの痛ましい被害が多かった。親が登校をひかえさせなかった背景に、たいしたことになるまい、という警報の軽視があった、と指摘されている。危険をなるべく割引して考え、自分だけは大丈夫、と思うことを社会心理学では「正常化の偏見」と呼ぶそうだ。ある程度の楽観がないと、人生、息がつまるだろうが、甘く見すぎたり、鈍感だったりすると災害に結びつく▼逆に過敏になるのも問題だ。不安な状態からは、デマや過剰反応がうまれやすい。太平洋戦争中のデマは、戦局の悪化、つまり不安につれてふえた。災害のさい、デマに踊らされるととんでもないことが起きる。関東大震災の時の朝鮮人虐殺は典型だった。ふだんでも刺激を求めているような、欲求の多い社会では、いったん災害に見舞われたらどんな心理状態になるだろう▼楽観もしすぎず、悲観にも走らずとなると、望ましいのは、まず十分な防災の準備と、落ち着いた判断だ。そのためには正確な情報が欠かせない。整然と避難がおこなわれたロサンゼルス地震では、情報伝達のうまさ、たしかさが特筆された。きょうは防災の日。 和平交渉の席の位置 【’88.9.2 朝刊 1頁 (全854字)】  人と話す時、面と向かってすわるとあまり話しやすくない。日ごろ経験することだ▼ひざをまじえて、とか、さしで語り合う、などというが、実はこのすわり方、はじめから、いわば対決型の姿勢である。壁を背に、隣り合わせにすわる方が、おのずと話がはずむ。ちかごろ、そういう形に席をつくる料理屋もふえてきた▼ジュネーブでイランとイラクの和平交渉がはじまった。席のつくり方がふるっている。調停役の国連をふくめ、3者が出席するのだから、長方形の机をコの字に並べればよいのに、なんとこれがワの字である。あるいはムの字というべきか▼底辺にあたるところに国連代表がすわり、きのうの敵、イランとイラクの代表は、長い机を平行に置かず少しずらした。上から見ると三角に近い形となり、特派員の目測では、国連席に近い所で約10メートル、遠い端で約4メートル離れている。両国の代表たちは、これなら視線を合わせずにすむ▼机の配置は、微妙な国際交渉ではだいじな意味をもつ。体面や原則のためだ。ベトナム戦争の終結をめざし、米国と北ベトナムが1968年にパリではじめた和平交渉でも机の形は問題だった。まず、ロの字に机を並べ、両者が向き合った。交渉の第2段階で、南ベトナム政府と南ベトナム解放戦線とが加わることになり、もめにもめた。交渉は棚上げになった▼ようやくできた合意は丸テーブルだった。その両端に45センチ離して小さな事務用の机を置く。なんとなく2分されたように見える。そして、片側に米国と南ベトナム政府の各代表、反対側に北ベトナムと解放戦線の各代表。北ベトナム側はこれを「4者会談」と呼び、米国は「われわれ側」と「向こう側」の交渉、と呼んだ▼ふだんはあまり気にしないことだが、席の位置はたいせつである。差し向かいよりは隣り合わせ、さらにそれより飛躍的に話がはずむのは、机の一角をはさむ形ですわる時だそうだ。 議員さんと鉄道の深い関係 【’88.9.3 朝刊 1頁 (全841字)】  議員さんと鉄道の間には、きってもきれぬ深い関係があるらしい▼明治政府の総理、伊藤博文が、鉄道局長だった井上勝に、東海道線はいつごろ出来上がるか、ときいたそうだ。答えがいい。「23年の帝国議会が始まるまでに間に合わせて議員を乗せることにしましょう」。伊藤は大喜び。明治22年7月に東京・神戸間が全通した。うれしそうな議員さんたちの顔が見えるようだ▼日露戦争のあと、鉄道は国有化され、鉄道を支配する力が、軍から政党へと移る。政治家が地盤をひろげるため、鉄道を利用することが目立つようになった。鉄路を敷いて票を集める。我田引水ならぬ、我田引鉄だ。原敬という人など、ずいぶん露骨だったらしい。大正末期、政党同士のたたかいの中で敷かれたといわれる東北の大船渡線は、いわゆる政治線の典型だろう。利害にふりまわされ、曲がりくねっている▼話は急に整備新幹線に飛ぶ。財源の話を先送りにしたまま、このほど着工優先順位がきめられた。新幹線を自らの地元に呼び込むのは、議員さんにとり、実力誇示のよい機会だろう。竹下内閣にとっては、税制改革の審議をひかえ、自民党内の結束をはかるため、こういう決定が必要だったという。そのへんがわかりにくい。あまりにも、政治だけが先行してはいないか▼古い話ついでにもうひとつ。都市を結ぶ最初の私鉄は南海電鉄の前身、阪堺鉄道である。この線をつくろうと考えた松本重太郎という人が最初にしたことは、紀州街道をゆく人馬の交通量調べだった。毎日、右のたもとに大豆と小豆を入れて立つ。人が来れば小豆、車なら大豆を、ひと粒ずつ、左のたもとに入れかえる。背が低かったので、人々は「豆男」とうわさした▼新幹線の場合でも、いちばんだいじなことは、民営の道を歩みはじめたJR各社の経営判断のはずだ。政治的な決定を押しつければ、第二の国鉄になりかねない。 国会答弁の独特な話法 【’88.9.4 朝刊 1頁 (全845字)】  リクルート問題についての、衆参両院の予算委員会議事録をあらためて読んでみた。国政調査権に関する答弁の一例▼「法制局長官が読み上げられましたのはたしか昭和49年で、私が内閣官房長官のときに一生懸命相談してつくったものが、私がやめた後の井出官房長官のときだったと思いますが、参議院で公表された。書いてあるとおりのことは私も大体整理をいたしておりますが、国政調査権に最大限協力すべきものとその限界、そのときどきの公益の問題についてさてだれが判断するかというと、やはり判断するその人に帰属してくるのかな、こんな疑問を持って勉強したことを思い出しました」▼速記録のまま、竹下さんの答えだ。ひとつの典型である。遠回り、記憶力の誇示、おさえ、薄める言い方。独特な話法にはおそれいる。政府委員、つまりお役人の答弁もそうだが核心にふれる答えが少ない。代議士は国民のかわりに質問しているはずだが、長期政権で行政府優位となっているのか、国会の権威、機能が十分発揮された感じがない▼結局、事実関係をはっきりさせるための証人喚問や、資料提出などは実現しなかった。疑惑解明への努力は続くが、のらりくらりでなく、いきいきした議論、事実をさらけ出す迫力、それを支えるきびしい倫理感、といった当たり前のことを政治家に望むのは無理なのか▼典型的答弁をもうひとつ。「確実に値上がりするという1つの前提ということについて、1つの商行為として考えればそれはそれなりに妥当であるとも言えるかと思いますけれども、やはり私の関係者がそのような、世間をお騒がせしたと申しますか国会でこうしてご質問を受けるわけでございますから、そのことに対して私なりに、長い間一緒にやっておったからやはり反省すべきだな、素直にそう思っておるところでございます」▼お騒がせした点だけを反省、と議事録では受けとれる。 スズカケを思い出して 【’88.9.5 朝刊 1頁 (全869字)】  夏の日盛り、旅人は白い道を歩き疲れていた。運よく1本のスズカケノキがあった。救われた思いで大きな木陰に横になり、ひと息いれた▼さて、と立ち上がった旅人は木を見上げてつぶやいた。「実らしい実もなっていない、役立たずの木だ」。それを聞いたスズカケノキは、恩知らずで身勝手な人間にあきれる。イソップ物語の一場面▼スズカケ、つまりプラタナスは日本でも身近な街路樹である。ふだんお世話になっていながらそれに気がつかないことでは、私たちもこの旅人を笑えない。同じ並木のケヤキの話だが、高さ10メートルほどになると畳100枚分くらいの葉を茂らせる▼試算によると、それだけ広がった葉は1日に2.3グラムの二酸化窒素(NO2)を吸収する。NO2は物が燃えるときに発生して空気を汚す。工場と車、それに家庭の石油ヒーターも発生源だ。せき、たんなどの呼吸器症状を引き起こし、発がん性の疑いもあるという▼1本のケヤキは、乗用車が9.2キロ走った分のNO2を1日かけてきれいにする勘定だ。しかし、この緑の恩恵をよそに、人間は大気汚染を広げている。東京、大阪、神奈川の3都市圏では、幹線道路ぞいで測定点の9割以上がNO2の環境基準を超えた▼景気がよくて工場や車がたくさん動いたこと、冬の北風が弱くて汚れた空気を吹き飛ばしてくれなかったこと、この2つが主な原因だと環境庁は見ている。お天気まかせの公害対策か、と冷やかしてみても始まらない▼都内では、ディーゼルエンジンのトラックやバスが全体の4割の窒素酸化物をはきだす。世界一の技術を誇るわが自動車業界が、いまだに解決策を見いだせないというのはふしぎな話だ。ビルの暖房を18度に抑え、通勤のマイカーも減らして、と環境庁は訴える。一人ひとりの省エネ努力が大気浄化につながる▼スズカケの手も借りよう。その花言葉は「天才」だそうだから、人間の知恵不足を助けてくれるかもしれぬ。 五輪にみる政治・経済 【’88.9.6 朝刊 1頁 (全843字)】  ソウル五輪大会まで、あと10日あまり。選手村も開かれ、各国の選手や観光客が集まりはじめた。161カ国・地域が参加する。史上最大の規模である▼ソウルの町には熱気がもりあがっているようだ。韓国ではじめての歌舞伎が、また、これもはじめての、ソ連のボリショイ・バレエが上演された。だいたい、ソ連と韓国の間には国交がない。選手団の第1陣を乗せてソ連の船が韓国の港にはいったが、これもこの40年来なかったこと。五輪ならではの光景である▼過去2回の大会には全世界が参加したわけではなかった。1980年のモスクワ大会の時には、その前年のアフガニスタンへのソ連の侵攻に抗議して日本や米国などがボイコット、参加国は81だった。次の84年、ロサンゼルス大会には、ソ連や東欧諸国などが出ず、参加国は140にとどまった▼こんどは、東からも西からも、多くの国の人びとが一堂に会する。世界的なひろがりをもつ祭典だ。分断国家の片方で開かれるわけだが、もう一方の朝鮮民主主義人民共和国は、南北共同開催を主張、残念ながら話がつかず、不参加となった▼本来、スポーツの大会だが、前の2回の例でもわかるように、五輪は時の政治情勢を如実にうつし出す。今回の大会に何があらわれているかといえば、まず米ソ両国がこのところ信頼関係を深めているという背景をあげることができるだろう。西からも東からも、という状況にそれが見える▼もうひとつ、無視できないのは、ちかごろのアジア新興工業経済地域(NIES)の発展ぶりだ。韓国はその代表だが、これはその首都を舞台として、にぎにぎしく催される世界的な集まりである。当然、韓国を世界に紹介する効果をもつことになる。中国やソ連、東欧などが、韓国と友好的な関係をすすめようとしているきざしが早くもみえる▼競技を楽しみながら、政治・経済の動きにもご留意を、だ。 リクルート贈賄工作の「隠し撮り」事件 【’88.9.7 朝刊 1頁 (全847字)】  カメラをかくして撮影する、という手法のテレビ番組がある。うつされる主人公はカメラがあることを知らない。知っているのは、サクラの出演者たちと、番組を見ている人たちだけ▼何か出来事が起きるように設定されている。何も知らぬ主人公は驚きあわてる。それを、安全な立場にいる視聴者に笑ってもらうのがねらいらしい。本気だった主人公は、かくしカメラがあったことを最後に知らされる。一瞬、やんぬるかな、という表情。ついで、さまざまな反応を示す▼笑い出すのがいる。ばかばかしいと思うからだろう。若い女性の場合は、涙にかきくれることもある。緊張の極にあったからか、恥ずかしいあまりか。怒りをあらわにするのは、当然のことながら屈辱感のためだ。そういう反応まで、観客に見届けさせる▼楢崎代議士に、リクルートの人が金を渡そうとしたそうだ。2人の対話が撮影、録音されていた。生々しく、迫力があった。公開のあと、リクルート側は、はめられた、という表現で怒りをあらわした▼どんな事情があるにせよ、疑惑が人の口にのぼっている時に、金を渡そうとする、というのはどんな神経か。やはり、政治家に金を渡せば、それだけの効果があるのだろうか。常識で生きている人には考えにくいことだ。世の中、万事、金で片がつくといった考え方が、もう体質になっているかのように思える▼政治家をばかにしている、失礼だ、という感想が、政治家の中にあった。甘くみるな、という誇りはうれしいが、正直いって、はて、異なことを承る、という感じもした。あなた方は、とうにばかにされているのですよ。民主制度の基盤である定数是正も十分にせず、リクルート疑惑も解明せず、金権の風潮にも無為。そんな政治から、敬意や信頼は離れる▼隠し撮りを見た人は、ばかばかしさに笑い、恥ずかしさに泣き、そしていま、ばかにされた政治のあり方に怒っている。 ダーク・マター 【’88.9.8 朝刊 1頁 (全845字)】  「政治家にとってお金とはなんですか」という問いに、自民党の若手議員が答えたそうだ。「カネはどんどん目の前を通り過ぎて行くもの」▼自分の考えを文章にして定期的に送ってくれる衆議院議員がいる。最近「政治家と金について」という文書をくれた。とかく金がかかる実態が書かれ、それを放置したままの資金規制だけではどうにもならぬ、とあった。さらにいわく、ちかごろ「すべての代議士が資金集めに血眼になり、どこかに金になるネタはないものかと」さがしまわるようになった▼自治省が公表した昨年の政治資金総額は1442億円。各政党や政治資金団体などが集めた金だ。国政選挙がなかったにもかかわらず、史上第4位の金額だという。もっとも、この金額、動いた資金の全部ではない。献金、党費、パーティー券代金など、領収証つきのはっきりした資金だけだ。リクルート疑惑などは、ここに現れない金の流れの、ほんの一部だろう▼科学者たちの最近の話題に、ダーク・マター(暗黒物質)というのがある。宇宙に存在するが、目に見えない。星のように目で見ることもできず、さりとて観測に用いられている電磁波でもつかめない。しかし、質量の測定から、その存在が知られるという。銀河のまわりには、大量のダーク・マターがあるらしいが、その正体は、しかとわからない▼見えている政治の世界を、どのくらい大量のダーク・マターが取り巻いているのだろう。金がかかって困る、と政治家が言うのは、政治家にいろいろな種類の金を使わせる、いわば、たかりが有権者の側にあるということだろう。同時に、便宜をはかってもらうための、金の提供もある。合わせて、ダーク・マターはふえるばかり▼自民党の当選1回の国会議員たちが「政治と金」を考える会をつくった。「金になるネタはないか」ばかりでは本務にさしつかえる。さて、自浄の努力、どうなるか。 米大統領選の様々な戦術 【’88.9.9 朝刊 1頁 (全851字)】  綿密に調べたところ、演説会には1000人の人が来る。どんな会場を準備したらよいものだろう。あなたならどうするか▼小学校の体育館には、席が800人分しかつくれない。町の公会堂なら定員は1200である。それなら公会堂を予約しておけば安全、と考えるのがふつうだろう。ところが、それはまちがい。すくなくとも、いま米国で大統領選挙の運動をやっている参謀たちなら、わざと体育館の方を選ぶ▼政見演説をききに集まる人々は、会場の近くまで来ると、ふしぎに、これは込みそうだな、とか、すいているぞ、と感覚的に察知する。込みそうだ、と思うとしぜんに足もはやくなる。席を確保するためだ。その早足で会場が熱気を帯びてくる。演説会はもう成功したも同然だという▼あぶれた200人あまりの人は、丁重に中庭へ案内される。すでにいすが並べてあり、特別にジュースのもてなし。会場内の様子はすべて大きな画面のテレビで見られる、という仕組み。演説会は「はいりきれぬほどの盛会」と報じられる。これはほんの一例だが、米国の選挙には、この種の大衆心理をつかんだ戦術や工夫がいっぱいつまっている▼共和党のブッシュ氏と民主党デュカキス氏は、テレビ討論を2回行う、ときめた。討論の内容もさることながら、候補の身なりを見るのも一興である。多くの人の心をつかみ、清新さ、活力、情熱、信頼感などを印象づける色を身につけねばならない。多くの場合、それは青い背広に赤いネクタイである。新入社員ふうだが、心理学に通じた顧問たちが選ぶ▼討論といえば、米国では中学から討論になじんでいる。2人あるいは4人が賛否2派にわかれ、ルールに従って議論する。級友たちは議論をききながら採点する。理論構成はどうか、事実の調査は十分か、説明は明確でわかりやすいか。米国の有権者たちは、クラスでやった時と同じように吟味し、点をつけるのだろう。 日本に海上の記念物を 【’88.9.10 朝刊 1頁 (全848字)】  日本空襲にやってくる米軍機は、まず富士山を目標にした、という話をきいたことがある▼外国から久しぶりに帰国するときなど、雲の上にそびえる秀峰を見ると独特の感慨をおぼえる。これが、空からでなく、海から日本にはいる場合は何が見えるだろう。いまの日本には、海の玄関口に、これといって目立つ表札、あるいは象徴がない。外国住まいが長かった小平尚道氏が、『海辺のパラダイス』に面白いことを書いている▼米国入りする時、東海岸からはいる欧州の人は、ニューヨークの湾内にある「自由の女神」に迎えられ、自由の国への希望に燃える。しかし、西海岸にはいる東洋からの移民は、巨大な橋、ゴールデン・ゲート・ブリッジを見て、威圧される。氏自身、戦前、欧州は歓迎、東洋はお断りか、と感じたそうだ▼日本に海上の記念物を贈ろう、という計画がフランスで持ち上がり、日仏間で進んでいるという。フランスから視察団が今週やって来た。来年がフランス革命から200年なので、その記念に、という話だ。ニューヨークのリバティー島に立つ「自由の女神」も、フランスから米国への贈り物だった。米国の独立100年を記念してのことである▼たいまつを掲げ、冠をつけた「女神」の本名は「世界を照らす自由」である。照らす、という語には、啓発する、教化する、という意味もある。米国人の使命感にぴったりだ。また、その台座に刻まれた詩に「亡命者の母」とうたわれている。米国が多くの亡命者や移民をうけいれてきた歴史を示している▼まさか、こんどの計画では同じ「女神」を建てるわけではなかろう。「女神」に自由、移民受け入れといったメッセージがすでにあるように、記念物は必ず何らかの意味を発信する。何がよいかは衆知を集めるのが望ましい。「平和」がよい、という小平氏の案は、ややレトロが意外だが、江戸を戦火から守った勝海舟の像、である。 「水洗大国」 【’88.9.11 朝刊 1頁 (全851字)】  朝から尾篭(びろう)な話で、と本来なら恐縮しなければならないのだが、それが当節それほどびろうでもなくなったらしい。トイレの話である▼この2、3年、とくに公共トイレへの関心の高まりは目ざましい。駅の手洗いは、汚い、臭い、暗い、怖い、の4Kを返上するという。観光地のトイレも、明るく、使いやすいものに、と色直しがすすんでいる。毎年11月10日(いいトイレ)にはシンポジウムが開かれ、トイレ学、トイレ文化などということばも出てきた▼公共の場なのに、男性用と女性用の数の割合がうまく考えられていない。だから女性用がいつも込む、という事情も明らかにされ、改善、合理化が求められるようになった。トイレが、理にかなった、明るい存在になるのはよいことだ。だが、使い方について、昨今、気になることもないではない▼最近女子高校生たちと話し合う機会があった。彼女たちの9割以上が、トイレ使用中に水を2度流す。子どもの時は、最後に一度だけだった。中学にはいり、他人が途中でも一度流すのを知って自分はおくれているのかと思った、という。2度流し、音消し水、などという表現もある▼いつのころからか、女性の間にこうした習慣ができたらしい。ある調査では、女性は平均2.5回流すという。東京の百貨店の調べでは、音を消すため「必ず流す」女性が46%、「流さない」は15.5%。若い女性ほど、必ず流す派、だそうだ。ちかごろの若ものの清潔志向のあらわれかも知れぬが、同性の間ですら、それほど、音は恥ずべきものなのだろうか▼かりに恥ずべきものだとして、行儀がだいじか、資源がたいせつか。ひとり1日に使うトイレの水は何十リットルにも及ぶ。資源節約の面からは、この習慣、どう考えたらよいだろう。米国の女性は、家に客のあるとき53%が、家族だけの時でも7人に1人が2度流す、と統計にある。両「水洗大国」だ。 障害者との共同社会 【’88.9.13 朝刊 1頁 (全846字)】  健康な人間を、寝かしたまま、立たせずにおいたらどうなるだろう。そんな実験が米国であったそうだ。数週間で筋肉がおとろえ、足が細くなり、循環器系に変調がくる。骨は細く、もろくなったという。カルシウムが出てしまうためだ▼なるべく立たせてやりたい。立てなければせめてすわらせたい。寝たきりの子の体を、なんとか起こしてやりたい。そう考え、心身障害児の施設でいろいろ苦心する話を、工業デザイナーの光野有次さんが『生きるための道具づくり』に書いている▼大手メーカーの研究所にいた光野さんは、ある時、障害児のための訓練の道具類をみて、いかにデザイナーがこの分野を無視していたかにおどろく。会社をやめ、友人と道具の工房をつくり、やがて九州の重症児の施設へ。いす、便所、遊具などを、子どもの症状に応じて仲間とつくってゆく▼目の悪い人がめがねを使うように、障害のある人は、配慮された道具を使えば生活しやすいはず、という考えである。障害児の目の高さで世界を見なおし、工夫する。床とおなじ平面にすわって使える便所。掘りごたつの知恵の利用。専門のデザイナーに腕をふるわせる施設、職員もりっぱである▼米国で、26歳の工業デザイナーが80歳と見まがうおばあさんに変装した話があった。老人の目で世界を見て、デザインを考えなおすという発想だ。3年におよぶ変装生活の記録には人の心を打つものがあった。光野さんと仲間たちの仕事も、ひたむきである。だが同時に、そこには、ゆとりと夢がある▼障害をもつ人々が家族とともに同じ町に住む。これが、ひとつの夢である。光野さんたちは、いま、「ロバのパン屋さん」計画にとりかかっている。障害をもつ人もいっしょに働く場所。パン屋がいい。ロバに積んで団地などに売りにゆこう。第1号店が諫早市にできた。「よく売れてます。ロバはまだですが、場所は確保しました」 1200年の歴史を語る「木簡」 【’88.9.14 朝刊 1頁 (全844字)】  それにしても木はすごい。1200年あまり前に墨で書かれたまま地中にとどまり、いまわれわれの前に姿を見せるとは▼奈良で見つかった木簡3万点。当時の生活を知るための貴重な手がかりである。短冊の形の木片に、墨で文字を書くのが木簡だ。ヒノキやスギが多いが、こんなにも長く星霜にたえるものなのか。携帯にも便利なのでよく利用された。いまでいえば、さしずめカードの役目も果たした▼荷札に使われていれば、流通や物産、商習慣などを推理することができる。公式文書なら、組織や、行政事務のあり方をしのべる。落書きがあれば、人々の関心事や、教養などもわかるかも知れない。こんどの発見では、奈良時代の宰相、長屋王(ながやのおう)が、皇位継承権をもつ「親王」の名で呼ばれていた。政治状況を考えるための新しい材料だ▼思わず笑いを誘われたのは、お役人の勤務日数をしるした木簡である。29歳の出雲臣安麻呂(いずものおみやすまろ)くんの勤務は、1年に日勤320日、夜勤185日となっている。モーレツ社会ではないか。ずいぶん働いていたんだなあ、と感心する。こまかい生活事情が明らかになると、大げさにいえば、万葉集の読み方にも変化が生ずるかも知れぬ▼大きなやしきに住み、イヌやツルがいたこともわかった。「長屋親王宮鮑(あわび)大贄(おおにえ)十編」は、アワビを10束とどけた荷札らしい。月を見ながらアワビでいっぱい。乙なものだろう。面白く、意外だったのは「牛乳持参人米七合五夕」である。牛乳を持ってきた者に米7合5勺(しゃく)を渡せ、という指示だ▼彼らは、牛乳をのんでいたのである。これ以前に、中国から来た善那という人が、孝徳天皇に牛乳を献じたといわれている。そういえば、牛乳の中に野菜やトリ肉をいれて煮る料理で、飛鳥鍋(なべ)というのがある。牛乳。それが天平美人の秘密だったのか。 「敬老の日」に思う 【’88.9.15 朝刊 1頁 (全848字)】  人生50年、といわれた時代があった。村の渡しの船頭さんは、童謡によれば、「ことし60のおじいさん」だった。いま、電車の中で、席をかわられたら恥ずかしがる60歳が多いのではなかろうか▼SCOPE誌が、日本のお医者さん2000人あまりに質問している。「高齢者ということばからは、何歳くらいをイメージしますか」。いちばん多いこたえは「70歳から」で、56.1%もある。「75歳から」は19.3%、「80歳以上」が11.5%もあった。「60歳から」というのは、2.0%にすぎない▼老年医学の専門家は、20年前には、60歳以上を老人とかんがえていたそうだ。たいへんな速度で長生きの社会になっている。そういう社会への提言を求められ、「高齢、高齢とさわがないことがたいせつ」とのべている人もいる。なま身の人間を毎日みているお医者さんたちの意見には、なるほどと思わされるものが多い▼「老人ホームを小学校の隣に」という意見もそのひとつ。老人の集まる施設は「小学校と同じくらいの数が必要」というのもある。老人だといって、人里はなれたところで生活させようと考えるのはよくないという見方である。一般に、老人への考え方には、うばすて的な要素があるのではないかと見る、きびしい目がそこにのぞいている▼せまい住宅、高い地価などの問題がある。核家族が多くなり、老人のための施設は遠い郊外になりがちだ。むろん、家庭によって状況はさまざまだが、臨床の実感からか、3世代の同居をと説く意見が印象的である。年端もゆかぬ人たち、年をとった人びと、すべてがまじって生活してこそ社会である。すべてが出会えるような工夫がほしい▼老人ホームと併設の保育園もある。年長者と自然にまじわりを深め、あいさつし、声をかける習慣はたいせつだ。ただし、いつも、である。1日だけ「敬老の日」とは、いかにも不自然だ。 身のまわりの寸法 【’88.9.16 朝刊 1頁 (全850字)】  竹下首相のこんな談話が、本紙の政治面にあった。「ウィリアムズバーグ・サミットでは、家具の寸法が大きくて、ファンファーニ伊首相と私がいすに座っても足が床にとどかなかった」▼ところかわれば、品だけでなく寸法もかわる。たしかに、米国にゆくと家具が大きい。ある人が、使っていた長い食卓を日本へ持ち帰ったら、ひと部屋におさまらず、次の部屋までつき出た、という話をきいた。道路も広く、土地の面積が大きい。いきおい、まちにある階段は、日本の歩道橋などにくらべれば、ずっとゆるやかになる。これはソ連などでもそうだ▼目立たないが重要なのは、スポーツの世界の寸法だろう。たとえばテニスコート。本来、西洋の人の体格にあわせてつくった。西洋の人を相手にプレーするとそれを痛感する。相撲の土俵は、むろん日本人の寸法だ。寸法が決定的な意味をもつことが、いちばんはっきりしているのは、五輪にもあるボート競技だという▼骨の長さである。日本選手と西洋の選手は、身長で10センチの差があり、両腕を伸ばした長さも大差がある。力学的にみて、勝つのは至難、不可能に近い、とまでいわれる。音楽の世界はどうか。ピアノは、西洋の人の骨の長さに適した寸法でつくられている。キーの幅、全体の大きさなど、不都合を克服して、これまでのちいさな日本人がよくも自分のものにしてきたものだ▼座席の寸法も日常だいじなものである。鉄道や飛行機では、金を多く出せば楽な寸法を買うことができる。劇場では、寸法でなく場所を買う。名刺にも寸法がある。フランスの名刺にははがき大のがある。しまうのに困るが、切手をはればはがきになる。ちかごろ小型の名刺をもつ日本女性はすくなくなった▼かんづめ、冷蔵庫などには、ひとり分の寸法のものが出ている。単身赴任やひとり住まいの増加の反映だろう。身のまわりの寸法は、いろいろなことを語っている。 台風の季節 【’88.9.17 朝刊 1頁 (全852字)】  米国のアイオワ州で、竜巻にでっくわしたことがある。ひるすぎ、草野球を見ていたらあたりが暗くなった▼風がにわかに強くなる。草がなびき、ものが飛ぶ。野球のミットもころがる。全員大あわてで片づけ、車へ。地平線に、黒い雲からゾウの鼻が1本、おりている。それが太くなり、かなりの速さで近づいてくる。雨が降りはじめた。夜のような暗さ。風の音がものすごい。ヘッドライトをつけ、竜巻と反対の方へ必死に逃げる▼明るさがもどるまで30分足らず。隣の町がひっかきまわされたようになった。「オズの魔法使い」の主人公がやられたのも、この竜巻である。家や車、むろん人間も巻き上げられ、たたきつけられる。何百人が死ぬこともある。近くで経験してみれば、さこそ。自然のエネルギーのすさまじさは驚嘆するばかりだ▼いま、ギルバートという名のハリケーンがカリブ海を襲っている。中心部は超大型の竜巻のようで、瞬間風速が96メートルという。ジャマイカでは、全家屋の8割の屋根を吹き飛ばした。空港でひっくり返った飛行機の写真はまるでおもちゃのよう。想像もつかない力である。カリブ海のハリケーンは熱帯低気圧だ。太平洋では台風、インド洋にゆくとサイクロン、と名がかわる▼ちょうど160年前のきょう、日本は、過去300年間で最強といわれる台風に襲われた。たまたま長崎・出島のオランダ商館にいたドイツ人医師、博物学者、シーボルトが帰国しようとしていた。その荷を積んだ船が長崎港内で難破、積み荷を陸あげしたところ、伊能忠敬のつくった日本地図など、海外持ち出し禁制の品が見つかった。いわゆるシーボルト事件のはじまりである▼政治にも及ぶ破壊力を台風がみせた例だ。13世紀の蒙古(もうこ)襲来の時をはじめ、日本の歴史には台風が顔を出す。われわれの生活とはきりはなせない訪問者である。足早な秋台風の季節だという。ご用心を。 足音なかったソウル五輪開会式の入場 【’88.9.18 朝刊 1頁 (全842字)】  ソウル五輪が、はなやかに、そして無事にはじまった。まずは何よりである▼よくもこれまで、と思われるくらい周到に準備された、みごとな開会式だった。何せあつまったのが、参加を予定しながら来られなかったマダガスカルを除き、160カ国・地域の1万4000人ちかい選手団である。五輪大会としては記録的な多さだ。一部の国が参加できぬのは残念だが、開催にこぎつけた韓国の人々は、筆舌につくしがたい喜びと誇らしさを味わっていることだろう▼いろいろな工夫が開会式をいろどっていた。オソオセヨ(歓迎)から5つの輪へ、そしてシンボルマークへと、変幻自在の人文字。空中に五輪がえがかれるかと思えば、色あざやかなパラシュートが次から次へと降りてくる。無名の人たち3人による聖火の点火、男女ふたりによる宣誓など、新鮮な演出だった▼なんといっても、しかし、開会式の花は選手たちの入場行進だろう。毎度のことながら、しみじみした感動をもよおす。顔の色が違う。着ているものもさまざま。ふんいきもそれぞれ独特である。そして、みんな笑っている。ほぼ世界中の人たちが、である。こんな場はほかにはひとつもない▼オランダ勢の、オレンジ色の傘という着想は秀逸だった。作務衣(さむえ)に似た衣装のブータン、すげがさふうのかぶりもののレソト、はだかを見せたアメリカン・サモアやモンゴル。中東、アフリカ諸国の民族衣装も目をたのしませた。遊具の円盤を観客席にみんなで投げたカナダや、「かあさん、ぼくここ」と矢印のついた白い布を掲げた米国選手など、少々のいたずらっ気も、よき香辛料だ▼入場で気にいったのは、どの国も足音をたてずに歩いたことだ。自然な状態では、動物もひとも足音はたてない。荒々しい足音に、ろくなことはない。とくに異なる民族が出会う時、ざっくざっくという高い足音は、ないのが一番なのだ。 渡り鳥 【’88.9.19 朝刊 1頁 (全845字)】  いつのまにか、東京のまちからツバメの姿が見えなくなった。冬をひかえ、泥の底にもぐって越冬にはいったらしい、と考えたのはむかしの話▼もちろん、南へ向けて飛びたちはじめたのだ。1羽1羽が、私たちの前からきらめく夏をすこしずつ運んでいってしまう。北の方からいなくなり、瀬戸内や九州あたりからも来月中には姿を消すだろう。あの特急のスピードで、台湾、フィリピン、さらに南方へと渡ってゆく▼カッコウ、ホトトギスなどの夏鳥にとっても旅立ちのとき。かわりに、平地に降りてきたモズが、独特の高鳴きで秋を告げはじめた。日照時間に感応するのだろうか、鳥がきちんと季節をわきまえて移動するのには驚かされる。飛び方もふしぎである。とくに、ひろい海原をわたるときなど、どうやって正しい方向を知るのだろう▼視覚、たとえば星座などをみることで判断するのか、それとも、においで感知するのか。体内の組織が働き、太陽の位置から方向を割り出すのか、磁気をとらえて方向を知るのか。はっきりした答えは、まだ見つからないらしい。親と離れた幼鳥も未知の場所に向かって飛ぶ、というのだから感心する▼広大な太平洋いっぱいに大きな8の字をひとつ書く。ハシボソミズナギドリはそうした経路で移動する、と考えられていた。最近の研究によると、そうではないようだ。鳥の移動を観測するのに、もっとレーダーを使うと研究が進むだろう、と山階鳥類研究所の吉井正さんはいう▼吉井さんはレーダーものぞき、足に標識をつけるやり方も用いて、日本海の渡りの経路を調べた。シベリア方面から日本海をまっすぐ越える、というかつての見方と違い、鳥は大陸からサハリンに渡り、日本海岸にそって南下、われわれの前に姿をみせるらしい▼どんな道をたどって去るにせよ、来るにせよ、栄養はたっぷり足りているだろうか。ことしはとにかく不順な夏だった。 いないとわかってはいても、火星と聞けば火星人 【’88.9.20 朝刊 1頁 (全841字)】  この22日、火星が、ちかごろではもっとも近い距離にまで来るという。赤くて大きな、この地球の姉妹星、ひときわその輝きをますことだろう。天文好きの人には、のがせぬ観測のときである▼いないとわかってはいても、火星ときけば火星人を連想してしまう。そもそもは牧歌的な観察をしていたころの産物だ。望遠鏡で火星の表面をみると、何本もの線がみえる。それらを運河だと思いこみ、かわいた土地にかんがい用水をひくからには、と想像をめぐらした。きっと高い知能の生物がいるに違いない▼前世紀のおわりごろ、作家H・G・ウェルズが「宇宙戦争」を書き、火星人のようすを描写した。頭が大きく、目と口がきわだち、足が細い、タコのような生物。ほかの人の想像図でも、右の特徴はだいたい一致する。引力が弱く、大気が薄く、脳が発達し、ほかの器官は無用化しているはず、というのが根拠になっている▼大さわぎが起きたのは1938年10月だった。米CBS放送の番組がもとである。火星表面にガス爆発が観測され、やがてロケットで火星人が来襲、熱光線と黒いガス弾で地球の都市を破壊中、という“実況”放送だ。本気にした人たちが逃げ出し、一部にパニックがおきた。オーソン・ウェルズ演出のラジオ・ドラマだが、人々の頭の中で、火星人はよほど身近な存在だったように思える▼表面に見える円形、五角形などの模様は火星人からの信号だ、地球人からの返答を待ちこがれているに違いない、と天文学者は戦後も言っていた。人工衛星の時代になってからも、ソ連の科学者は、火星をまわるふたつの衛星は宇宙ステーションと思われる、などと説明した▼異星人に、なぜこんなに人は心をひかれるのだろう。むろん、それが存在すれば人類にとって最大のニュースだ。知りたい、という夢、あるいは好奇心。それが、宇宙への挑戦の原動力なのかもしれない。 まことに不自由な話 【’88.9.21 朝刊 1頁 (全846字)】  天皇陛下が人間宣言を出されたころのことである。文相だった前田多門氏に、こんな話を自らなさったという▼後水尾上皇がまだ天皇の位にあったとき、水疱瘡(みずぼうそう)にかかられた。お灸(きゅう)がいい、ということになったが、現人神(あらひとがみ)の玉体にすえるわけにはゆかぬ、と異議がでた。ついに譲位をなさって、おきゅうの治療を受けられた。まことに不自由な話である▼こう言われた陛下ご自身は、そういう不自由なことなしに、昨年、天皇としては、はじめての外科の手術をお受けになった。執刀にあたった医師は緊張したであろうが、陛下のお気持ちとしては当たり前のこと、だったのではないか▼象徴天皇制とはちがうが、ほかの君主制の国には、王家の人の体に気軽に手をふれることはしない、というしきたりがある。たとえば英国の女王が、外国を訪問する。迎える国の元首が、あいさつのあと、女王を案内するために歩きだす。その時、ついと手が出て女王の腕をささえたりする▼女性と歩くときの作法で他意はないのだが、この光景はどうも英国人を落ち着かぬ気持ちにさせるらしい。とくにラテン系の国でこういう出来事が多い。肩を抱かんばかりに、女王に親愛の情を示すこともある。英国内でなら、おそらく握手が最大限だろう▼こんなことを思い出したのも、ちかごろの陛下のごようすを見てのことである。那須への往復で、一歩一歩ゆっくりとお歩きになる姿は、時においたわしかった。乗り降りのときや、階段でなど、かたわらの人が手をおかしすればよいのに、そうもならぬものなのか、と思った人は多かろう▼那須から帰られて、トランク3つ分の本をご自分で整理なさった。独力でおやりになる方だ。それにしても「まことに不自由な話」になることがないよう、ご家族のお見舞いもふくめ、人間的な配慮のゆきとどいた、十分なご治療をと望みたい。 俳人中村汀女さんの死 【’88.9.22 朝刊 1頁 (全843字)】  俳人の中村汀女さんが、88歳で亡くなった。女性の俳句がさかんになったのは、この人に負うところが大きい。指導もたくみだった▼句をつくるのがいちばん多いのは「ゴトゴト走る都電の中」といっていた時期がある。自ら「身辺俳句」と称し「台所俳句」などとも呼ばれた。「むずかしい理屈はわからない」が、日常生活の中で「心にあふれ、そのまま消し去るにはしのびないものを17字にする」。女性俳人には官能派もあるが、この人は、いわば日常茶飯事派といってよいだろう▼そもそもはじめてつくった句が、むすめのころの冬の朝、玄関でぞうきんがけをしていての写生だったという。「吾にかへり見直す隅に寒菊紅し」。句は日記です、といった。「咳(せき)の子のなぞなぞあそびきりもなや」。こうした句に、私も俳句をやってみたい、と多くの女性は勇気をえたに違いない。といって、なまなかな観察力でできるものでもない。「すし冷ます絵うちは有無を言はず取り」▼熊本のふるさとを、だいじにした。自分をはぐくんだ風景や両親を、長い生涯、かぞえきれぬ回数、思いおこし、いつくしんだ。「父若く我いとけなく曼珠沙華」「炎天を歩けばそぞろ母に似る」。白寿ちかくまで元気だった母君が96歳の時、汀女さんのひ孫まで家族5代が一堂に会したことがある。ひ孫に、母君が「これかい」とひとこと。「十分の愛情の一語であった」▼ふるさと、家族、生活、そして自然を、ふかい愛情をもち、丹念に、ていねいに見つめた人である。句にも随筆にも、それがあらわれた。ぞんざいな見方、生き方をしているものはそれを知らされる。句をつくることで、気持ちがやさしくなり、落ち着いてくる、といっていた。この境地はすばらしい。「外にも出よ触るるばかりに春の月」▼色紙をたのまれると、モットーにしていることばをよく書いた。「その日の風、その日の花」 JR東日本の不正乗車対策 【’88.9.23 朝刊 1頁 (全847字)】  渡し舟などの乗りものにただで乗るのを薩摩守(さつまのかみ)といった。さつまのかみだった平家の武将、平忠度(ただのり)の名にかけてのことば遊びだ。キセル乗りも同様。はじめとおわりだけがカネ、まん中はカネなしの不正乗車である▼このキセル乗りが多いらしい。JR東日本によれば被害額は1年に500億円にもなる。120円のきっぷで乗車し、途中の運賃を払わず、定期券で下車、という小細工の積み重なりだ。あまりのことに、JR東日本の社長さんが記者会見で不正防止の方針を明らかにした。その中に、おや、と思った話がある。悪質なキセルは、勤務先や学校に通報する、というのだ▼そのくらいきびしい姿勢です、という意味だろう。だが、本気でやることになると、困る人はさぞ多かろう。もっとも、これはおかしい、筋違いだ、という意見もあるのではないか。だいたい、会社員としてキセルをやっているわけではない。個人としての不正である。このさい、会社や学校は関係ないではないか、と▼ただでさえ日本人と会社の密接な関係は世界の話題である。職業をきかれ、たとえば、エンジニアです、といわずに会社名を名乗るのがふしぎがられる。個人と会社の一体化の意識。会社に通報する、という考えは、邪推かもしれないが、会社の生活にどっぷりつかった社員の不正は会社に管理してもらう、とでもいった発想かと感じられる▼いや、実際のところは、会社に言うぞとおどして、恥の意識にうったえる作戦なのだろう。たまたまカナダのオンタリオ州で、あまりの売春のゆきすぎに、警察がいま、売春行為に関係した人の氏名を新聞に公表する方針を考え、論議になっているそうだ。同じ、恥の意識の利用作戦である。公表されたら自分も家族も困る、という弱みをつく▼それにしても、キセルをやる方も、会社に言いつけるという方も、何か、心はずまぬ話ですなあ。 全人的な治療 【’88.9.24 朝刊 1頁 (全848字)】  国民性のあらわれなのかどうか、米国などでは、いわゆるアルコール中毒の治療は患者ひとりの必死の闘い、の形が多かった。日本では、夫なり妻なりに協力させて、夫婦で闘う、という形をとらせることが多い▼難病にあたって、共同体験を重ねながら病にいどむ。そういう治療の仕方をよく耳にするようになった。ひとりではむずかしい目標にも、多数で力を合わせればゆきつける。到達したらさらに勇気が出て、もっと高い目標に立ち向かう。そういうやり方だ。ガンの患者たちが、訓練をへて、モンブランの高峰にのぼった話はその好例だろう▼ガンの場合、まず、患者に病名をしらせるかどうかという問題がある。医師たちを対象に調べたら、自分はガンになったら知りたい、他人がガンになったら知らせない、という傾向がはっきりした。一見矛盾するが、それだけむずかしい問題だということだろう。モンブランを目ざした人々は、病気を知り、ショックを闘争心にかえて、目標を果たした▼平尾彩子さんのくわしい記録『モンブランに立つ』は、共同の体験と、恐怖にうちかつ前向きの姿勢のたいせつさを教えてくれる。この間、フランスのガン患者たちがやってきて、富士山にのぼり、自転車で日本をまわった。これも同じように、充実した生活への挑戦がよき治療、との考えからに違いない▼肉体への対症療法だけでなく、生きがいや心の状態をふくめて治療に取り組む、いわば全人的な医学に海外でも日本でも関心が集まっている。だいじなのは人間の生き方そのもの、ということであろう。古今東西の医療についての知恵を、あらためて調べなおす試みもおこなわれている▼このほど創刊された『伝承と医学』誌に、興味深い研究があった。200年近くも前に安元法師が記した「養生の歌」と、国立がんセンターの医師がつくった「ガン予防の常識12カ条」。基本の考えが、そっくりなのだ。 ソウル五輪・水陸100メートル競技 【’88.9.25 朝刊 1頁 (全875字)】  水陸の100メートル競技が楽しめた、きのうのソウル五輪。背泳ぎの鈴木大地の記録55秒05は、6590CCの肺活量と、現代っ子らしいものおじせぬ心臓、そしてたゆまぬ訓練のたまものだろう。りっぱな金メダルだった▼陸上もすばらしかった。カナダのベン・ジョンソン。9秒79の世界新記録である。盛りあがった肩から背中への筋肉。走ることが、まさに全身の筋肉を総動員してのものだということを見せる、みごとな肉体。禅僧をおもわせるような風姿のジョンソンは、それこそ、あっという間の勝負に、全身全霊を集中した▼ふつう、ひとが歩く速さは1時間に4キロくらいだ。それが自転車だと15、6キロになり、自動車が60キロ台、新幹線やプロペラ機が250キロ前後で、ジェット機が約1000キロ、となる。右の数字をじっとにらむと、順次、4倍の速さになってゆくのがわかる。体系がかわる時に4倍の規模になるなどというらしい。もっともこれは技術の領域の話▼人間が、走る速度を上げるにはどうするか。理屈っぽくいえば、歩幅を大きくすることと、地面をける回数をふやすこと、につきるだろう。筋肉をきたえ、じわじわと、この2つを実現するしかない。下り坂を走ったり、スクーターでひっぱったりして歩幅をひろげる訓練がちかごろ考案されている▼ジョンソン選手のすごさは、走り出すときの速さだ。太ももに爆発力があるのはたしかだが、240キロものバーベルを扱うという筋力訓練がものをいう。ベルの音にすぐに動作を起こす、という反射の訓練もしているという。号砲1発、とび出した時には、すでにほかの選手をひきはなしている。180センチ、75キロの弾丸といった趣だ▼それにしても100メートルという種目は記録の壁が厚い。吉岡隆徳さんが10秒3で世をわかせてから、半秒ほど縮めるのに53年かかった勘定だ。「この記録は今後100年間、破られない」とはジョンソンの自信の弁。 米大統領選挙の両候補、いよいよテレビ討論 【’88.9.26 朝刊 1頁 (全847字)】  米大統領選挙の候補ふたりが、いよいよテレビ討論にのぞむ。日本時間のきょう午前、米国では日曜日の夜。何千万世帯もの米国民が見入る。今回の選挙の、ひとつのやまである▼政治家にとって、ことばはもっともたいせつなもののひとつだろう。だれにも誤解のないような、明確なことばで政策を語り、ひとにわかる論理で説明、あるいは説得する。不言実行は誠意があらわれてけっこうなこともあるが、一方で、危険なこともある。民主的な社会では、政治家と国民の間に、まずことばによる理解が欠かせない▼なにしろ、全国に放映される一騎打ちである。うちわの集まりではない。仲間うちにだけ理解される話し方は通用しない。司会者のほかにジャーナリストの質問者が3人いて、ずばりと考えをただす。1回の質問に、2分以内で的確、明快にこたえなければならない。だらだら、むにゃむにゃ、はすべて自分のマイナスだ▼これは、候補者にとってたいへんな試練、いや、試合の場である。有権者の4分の1は、まだ投票態度をきめかねている浮動票といわれる。これをつかめるかどうかは、討論の成果による。テレビうつりをよくし、風さいからも信頼感を与えられるよう、専門家の助言、指導をうけている。むろん、話す内容がきわめて重要だ▼ブッシュ共和党候補が、いま、デュカキス民主党候補よりすこし支持率が多い。だが、デュカキス氏は討論が得意である。おたがい、あらゆる論点を考え抜いてあるはずだ。米国では中学生も討論をやるが、大学生の場合など、あるテーマを与えられて準備をし、当日その場でくじを引いて賛成、反対のどちらを主張するかきめたりする。問題の裏おもてを勉強しつくしておかなければならない▼あけっぴろげの討論には、はだかで全力をつくす五輪の個人技のさわやかさがある。政治がみんなの目と耳を前にして語られ、判定をうける。結果はどうか。 もの思う秋、詩歌を読む 【’88.9.27 朝刊 1頁 (全844字)】  秋の長雨。本を開いたら、うめばちそう、という題の詩に出合った。「秋冷の山気の中に/凛(りん)然と白い硬質の花。/少年は誓った/この花のように生きよう と。」(『人生』中尾彰詩集)▼この季節になると、ひとは、ものを思う。昔の人もそうだったらしい。「木の間よりもりくる月のかげ見れば心づくしの秋は来にけり」(古今集)。物思いの限りをつくす、つまり、心がこまやかになる秋、である。少女を姪(めい)にもつ独身青年から、こんな話をきいた▼めいに贈り物をしなければならない。前からあたためている案がある。古今東西の詩歌から好きなものを選び出し、手書きで、いわば自家製の詞華集をつくる。よい歌や詩は、子どもの時にそらんじてこそ身につくと思う。それを贈り、やがておかあさんになったら自分の子どもにも教えるように、と言う▼なかなかの名案だ。詩や歌は100もあればいいでしょう、と彼はいった。それらの詩歌は、さぞや少女の宝になることだろう。私たちには、万葉の昔から愛唱されてきた、かずかずの歌や詩、そして句がある。すばらしい財産だ。正月に百人一首を楽しむ習慣に、外国の人々はおどろく。詩歌の伝承は、生活にうるおいをもたらす▼奈良時代の木簡が、この間たくさん発見された。その中に、役人の勤務日数を記したものがあった。出雲臣安麻呂という人の日数は、1年に日勤320日、夜勤185日。姫路の読者が興味あるお手紙をくださった。万葉集の「ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる」の解釈が、変わるのではないか、というのだ▼暇あれや、は、ひまがあるからか、がいまの一般の解釈。ひまがあるというわけでもないのに、という反語表現の解釈も可能だ。大宮人の勤務ぶりがわかってみると、反語が正しいかも知れませんよ、との指摘だった。「ひとつふたつ星のひかりや秋の暮」(稚志)。 追いこまれた選手たち ベン・ジョンソンの薬物使用 【’88.9.28 朝刊 1頁 (全857字)】  「いやはや。ソウル五輪のベン・ジョンソン、薬物使用で金メダル召し上げ、とはね」「100メートル9秒79はすごいと思ったが、薬の助けでとわかって、世界新記録は抹消、一場の夢だ」▼「筋肉増強剤だって?」「そういう話だ。競技後の尿検査で、禁止薬物のアナボリック・ステロイドの一種のスタノゾロールが検出された」「なんだ、そりゃ」「たんぱく同化ホルモンだ。たんぱく質の合成をうながして、筋肉を肥大、増強させる」「薬といっても、興奮剤だけじゃないのか」「中枢神経を刺激する薬が、たしかに以前は多かった。いまは筋肉増強剤のほか、精神安定剤、開発中のヒト成長ホルモン、などがある」▼「水泳の古橋は、試合の前に、おはぎを食うのがいい、といっていた。にわとり3羽を食って出場した重量挙げの選手もいたが」「そんな牧歌的な時代じゃないよ。いまやスポーツ大会のたびに薬が問題になる。運営側は不正をあばこうとするし、選手側は見つかりにくい新手で対応する」「そこまで、選手は追いこまれているわけだね」▼「商業主義もあるな。勝てばもうかる、何としてでも勝ちたい、と思う」「ジョンソンなど、自制、克己心がつくり上げたような体をしていた。もったいないなあ」「いろんな競技をみて、基本的な体格の差はいかんともしがたいのか、と感じる。勝つためには幼児から選手向きの人間をつくれば、などと悪魔的な想像もしてしまう。ヒト成長ホルモンと筋肉増強剤の併用で、身長2メートル半もの筋肉人間がつくれるかもしれない」▼「たいへんだ。五輪は人間賛歌、などと言っていられなくなる」「この間、フランスで妙な本が売り出されてね。『肉体的、精神的に実力以上の力を出すための薬品300種』といい、あっというまに売り切れた。危険だ、と議論になっている。一般の人も、薬にたよりたい時代、なのかな」「なま身のすばらしさに拍手したいのに、ね」 9月のことば抄録 【’88.9.29 朝刊 1頁 (全846字)】  9月のことば抄録▼「風邪をひいて、みなに心配かけたが、もうすっかりよくなったから、安心してもらいたい」と天皇陛下、2日、記者団に▼19日夜、ご容体悪化。25日、テレビの大相撲、結びの一番で「(千代の富士が)全勝だね」。27日、藤森宮内庁長官に「みなが心配してくれてありがとう。よろしく伝えてもらいたい」。さらに「あのね」と呼び止められ「雨が続いているが、稲の方はどうか」▼祭りなど、行事の自粛あいつぐ。「わざわざ派手にイベントをやる必要はないが、自粛したり中止したりするのはむしろ陛下に対し失礼に当たる。……むしろ陛下の容体回復を祈って実施したらいいと思う」と作家の藤本義一氏▼社民連の楢崎代議士にリクルートコスモス社の松原社長室長、「政治家は何かと金がかかるでしょうから私どもは応援を続けさせていただきます」。石原経済同友会代表幹事(パーティー券による政治資金あつめに関連して)「政治に金がかかるなら国民が納得できるように使途を明示する方がよい」▼ソウルの五輪スタジアムを設計した建築家金寿根(キム・スグン)氏の妻、金(矢島)道子さん「人々を中に中にと包み込む、五輪スタジアムのような温かい人でした」。寿根氏は、がんに倒れた▼「あきらめないで、あきらめないでと自分に言い聞かせながら泳いでいました」と平泳ぎの長崎宏子。「勝負に勝つには経験と、もうひとつ幸運も」と体操の女王シュシュノワ。「ぼくはお母さんのために走る」と言ったジョンソン、薬のために金メダルを失った▼女子マラソン最年長のクリツキー(48)、びりから2番目で完走、「2歳の孫娘に自慢できるわ」。ヨット競技フィン級、2位を走行中に、他国選手が海に落ちたのをみて救助にゆき、最下位ちかくでゴールしたルミュー、「海上でのいちばん大事なルールは、助けを求めている人を救助することなのです」。 学校教育における“目の高さ” 【’88.9.30 朝刊 1頁 (全848字)】  迷子が泣いている。どうするか。うしろから突然大きな声で「おい、どうした」などと聞いてはならぬ。ただでさえ動転している子どもである。おびえてしまう。正解は、前の方から笑顔で近づき、同じ目の高さになるよう、ひざを落とし、やさしくたずねる▼遊園地によってはこういう社員教育をきびしくやっているところがある。人間関係の中で、目の位置はたいせつだ。お医者さんの中には、よく、病室にはいると、突っ立ったまま患者を見下ろして、「どう?」などと言う人がいる。そうしないで、必ずいすに腰かけて話すようにしている、という人もいる。弱気になっている患者にとっては、こうした配慮は心づよい▼考えてみると、学校の先生も、生徒たちを上から見下ろしていることが多い。黒板があり、たいていその前に立つ。しかも、ふつうの教室の机の並べ方では、生徒は、1対1の形で先生を見つめている。ほかの子どもの反応は見えず、横を向けばわき見になってしまう▼子どもの指導上これは案外だいじな問題だ、と考える教育者がいる。先生が子どもと同じ目の高さの平面におりると、一方的に指示をくだす存在ではなく、ともに語り、考えてくれる人、と生徒は感じるという。そこから、机の並べ方をかえて向き合えるようにしたり、先生がその中にすわったり、という工夫がうまれる▼教室の中だけでなく、学校建築のあり方が、ちかごろ興味深い。学校というと、片側に廊下、4間×5間の寸法の教室、左側から採光、と相場がきまっていた。明治20年代の政府の指導によるものらしい。あまりにも画一的、というので、この10年あまり、この規格とちがう建築がふえてきた▼開放的で、人間としてのいろいろな活動や生活のための場があり、地域社会も利用できる、という建て方である。いれものが変わる。先生と生徒をつなぐ視線も、1対1、上下、だけではなくなってゆく。 天皇陛下ご病気、自粛の過剰 【’88.10.1 朝刊 1頁 (全846字)】  夏目漱石が日記に「天子重患の号外を手にす」と書いたのは、1912年(明治45年)7月20日、土曜日のことである▼その日明治天皇が尿毒症と発表された。両国の川開きの行事を中止する動きがすぐに出たらしく、「天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし」とつづけている。ほかにも「演劇其他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也」との記述がある▼天皇陛下のご病気を心配し、ご回復を祈る。それにはさまざまな形があるだろう。ひとりしずかに敬慕の念をもって祈る人もいよう。記帳によってそれを表現する人もいる。それぞれの個人が自然な形であらわすのがいちばんよいのではないか▼通達や、集団の無言の圧力で、自粛がゆきすぎるのは考えものだ。漱石の筆は続く。「当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども其実は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず」。その目は「細民」、つまり貧しい人々の暮らしに向けられている▼これは明治天皇崩御の10日前、主権在民のいまとはちがう時代の話である。公表する文書でなく、日記ではあるが、うろたえない見識がみてとれる。ご病気は、「万臣の同情に価す」る、「心より遠慮の意あらば」営業をやめればよい、しかし、強制や干渉、右へならえ式の自粛はよくない、と要点をついている▼このごろ、マネキンの衣服の色まで地味に、と変えているそうだ。思い過ごしの黒着用は、世間常識からいってもかえって失礼にあたる。10月上旬は運動会の季節。自粛の過剰反応がないように、と先生方にお願いしたい▼自粛は、かえって陛下が喜ばれないのではないか、といった表現もよくきく。陛下はどうお思いになるか、という言い方は昔もあった。陛下を利用したい人の論法だったように思う。だいじなのは、自分で考えてきめることである。 グロムイコ最高会議幹部会議長の引退 【’88.10.2 朝刊 1頁 (全843字)】  1年あまり前のこと。モスクワの赤の広場に、クリミア・タタール人400人が徹夜ですわりこんだ▼自治共和国再興の要求だ。グロムイコ最高会議幹部会議長が面会して話をきく、ときめたがなかなか解散しない。朝日新聞記者がわけをたずねたら、タタール人のいわく「旧世代のグロムイコでなく、新世代のゴルバチョフに会いたい」▼その「旧世代」のグロムイコ氏が、ついに引退ときまった。79歳。ソ連の外務省にはいったのが29歳の時だから、半世紀のつとめだ。そのうち、外務大臣を28年もやっていた。こんな人はちょっとほかにいない。歴史の生き証人である▼スターリン、モロトフの時代からだ。駐米大使、初代国連大使、駐英大使などもつとめ、戦中、戦後の重要国際会談にはほとんど出席、冷戦では米国を相手にわたり合った。国連の安全保障理事会で25回も拒否権を発動したため、「ミスター・ニェット」とあだ名された。ニェットは、ノーという意味のロシア語だ▼フルシチョフ氏が首相の時、外国からの客の前で、かたわらのグロムイコ氏をこう評したという。「ズボンをおろしたまま氷の塊の上に座っていろ、といえば、きっと、やめてよいというまで座っているような男です」▼交渉相手だった米国のキッシンジャー元国務長官の評はこうだ。けっして大向こうをうならせたり、劇的な術策を使ったりせず、ブルドーザーのように頑固に、こつこつと主張を重ねてくる。「それでも、グロムイコをだんだん好きになり、尊敬するようになった。高潔なところがある」▼どんな時代、どんな指導者にも合わせて、着実に任務をはたした地味な実務家だった。しかし、たとえばアフガニスタンへの軍事介入などに直接の責任をもっていたグロムイコ氏が、ゴルバチョフ氏の新しい時代に生き残るのは、もう、むずかしいことなのだろう。時代がかわることを示す退場である。 自己の内に潜む敵、プレッシャーと闘う 【’88.10.3 朝刊 1頁 (全876字)】  日本の柔道はソウル五輪であまりふるわなかった。「プレッシャーに勝てなかった」からだ、などといわれている。どの種目でも、選手はプレッシャー、精神的な圧迫感という内部の敵と闘わなければならない▼眠れなくなる。下痢をする。精神状態が不安定になる。調子が乱れる。そういう自分をどうやって安定させ、鼓舞するか。過去の五輪メダリストたちを対象にした、ある調査によると解消法は3つあるそうだ。(1)十分に練習し、自信をもってのぞむ(2)自己暗示を利用する(3)平常心を保つ▼95キロ超級で金メダルをとった斉藤は、試合のあと「無の心境で、いままでやってきたことをすべて出しきろうと思った」とのべた。(1)の例だろう。それには悔いのない練習が前提だ。それで思い出すのは、スケートの黒岩のことばだ。サラエボで失敗した黒岩は、カルガリーの冬季五輪にそなえ、「自分がやるべきことをしっかりやろう、ということだけ考えた」▼「あと2週間ですね」「まだ2週間やるべきことがあります」「あと3日」「まだ3日やるべきことがある」と考え続けたという。そして銅メダルを手にする。練習の一部として、自らの最善の状態を想像するイメージ訓練も効果がある。(2)である。黒岩もそうだが、新体操の山崎も徹底している。ひたすら壁に向かい、イメージを描き、精神を集中する▼「プレッシャーを励みにする」という人もいるから世はさまざまだ。たとえば橋本聖子。「自分を追いこんだところで力を発揮する」という。水泳の鈴木大地も、強気の発言が口をついて出るのは「ラッパを吹いて自分を追いこまないと、やらない性格ですから」▼それにしても若い選手たちは一般にのびのびしていた。(3)の部類だろうか。レスリングの佐藤など、試合の前に、金メダルをとった時のパフォーマンスまで考えていたそうだ。こちこちより、のびやか。おしゃれのジョイナーに見えたゆとりはよかった。花だった。 今後の展開が楽しみ、日中楼蘭探検隊 【’88.10.4 朝刊 1頁 (全849字)】  探検隊が砂漠をゆく。炎熱の中をじりじりと進み、月の光を浴びてやすみ…。日本と中国の共同探検隊が、楼蘭に到着した▼いまどき探検隊とは大時代な、と思う向きもあろう。どうして、ここは秘境中の秘境である。何しろ、1000年以上もほとんど人が住まず、砂の中に眠っていた。かつては、青い水をたたえたロプ湖を望み、シルクロードの東部にあった王国。東西の文化がまじわり、また刺激し合う、花のようなオアシス国家である▼戸数1570、人口1万4100、と漢書の西域伝にある。2000年前の楼蘭だ。その後、この国の存在は史書から消えた。1900年になって、スウェーデンのヘディンが砂の中に遺跡を発見、欧米、日本の探検隊が訪れる。それから半世紀以上、戦争などもあって埋もれたままだった▼日本全土の9割もの広さがある、タクラマカン砂漠の東北端。雨が降らず、蒸発量の多いのが砂漠である。からからに乾ききり、地下からは塩分が出てくる。日中、砂の表面は80度にもなり、上昇気流が砂あらしを起こす。日本に来る黄砂にはこのへんの砂もあるかも知れない▼「上ニ飛鳥ナク下ニ走獣ナシ……唯死人ノ枯骨ヲ以テ標識ト為スノミ」。4世紀から5世紀にかけてこの地域を旅した僧、法顕の形容だ。きびしい自然条件。それに抗しての探検に魅力を感ずるのは、日本の文化が多くをシルクロードに負うからだろう。ウルムチの社会科学院考古研究所の穆所長も、小社の記者にこう言った。「私たちの文化が今日あるのも、長安やローマの東西文明が楼蘭に橋渡しされたから」▼中国と日本が共同で探検隊を組むことができた。これは意義深い。中国の人にとってみれば、かつての外国人による探査は、略奪にも思えただろう。人類共通の遺産としての楼蘭を、協力しながら踏査するのはよいことだ。今回、無事に到達できて何より。今後の展開、研究がたのしみである。 チリはどうなるか 大統領信任の国民投票を見つめる 【’88.10.5 朝刊 1頁 (全848字)】  チリに行ってきた友人の話。首都サンチアゴを観光中、大統領官邸でガイドにきいた。「ここでアジェンデ氏が殺されたの?」「いいえ」とガイドが答えた。「公式には、自殺したことになっております」▼中南米で、はじめて選挙による社会主義政権が誕生した国。それがチリである。1970年のことだった。世界は驚いた。各国の革新政党は、議会政治を通じての政権獲得の実例に、元気づいた。3年後に、もういちど驚く。クーデターが起き、大統領官邸は爆撃され、アジェンデ大統領も政権も死んでしまったからだ▼炎上する建物の中で、アジェンデ氏は銃を手に戦ったあと、銃弾を自ら頭に撃ち込んだ、と警護員がいう。だが、射殺されたという説もある。クーデターの中心人物だったピノチェト陸軍司令官が、いまの大統領。もう、あれから15年たつ。そして、きょう5日、ピノチェト将軍を次期大統領として信任するかどうかを問う国民投票が行われる▼クーデターのあと、市民多数が逮捕、拷問された。そして戒厳令。10年ほどたって、軍政への不満が反軍政国民抗議デーの形でふき出した。警察軍と市民が衝突する。市民の間に、ひとつのメロディーが流れはじめた。小さく口笛で、あるいは土笛で、また肉声で。ベートーベンの第9「歓喜の歌」。民主主義切望の心を、この歌に託したのだ(伊藤千尋『燃える中南米』)▼ちかごろ、テレビで反政府派の主張が放送される。アジェンデ夫人をはじめ、国外に亡命していた人々の帰国も許可となった。軍政は、民主的なよそおいを見せている。だが、内心は不安にちがいない。反軍政の声は高く、昨年チリを訪問したローマ法王は、軍政に冷たかった。人口の9割がカトリックの国である▼アジェンデ時代とちがって、いま、経済の状態はまずまずだという。72歳の将軍にあと8年、政権をまかせるかどうか。世界が、また、チリを見つめる。 ユニセフ・カード 【’88.10.6 朝刊 1頁 (全856字)】  ユニセフ・カードというものをご存じだろうか。ふだんも使え、年末や年始のあいさつなどにも使える、いわゆるグリーティング・カード、あいさつ状だ▼ユニセフ(国連児童基金)の仕事をささえる財源のひとつは、このカードの売り上げである。ユニセフが世界の発展途上国で力をいれている、子どもたちの健康を守る仕事に、カードの存在は欠かせない。たとえばあなたがカードを10枚買うとする▼その収益で、ユニセフは衛生状態のよくない地域の子どもたちに、70人分の経口補水塩、あるいは1人分、6種類の予防接種ワクチンを贈ることができる。経口補水塩というのは、下痢で脱水症状を起こした子どもの治療に使う。いま、年間60万人以上の子どものいのちがこれで救われている▼日本の衛生水準は高い。戦前、乳児死亡率は1000人あたり90人という高率だった。いまでは、1000人あたり5.5人、少産少死を実現した。北欧と並んで世界最低だ。だが、世界では幼くして死ぬ子どもが多い。予防接種で防げる病気で死ぬ子ども、障害児となる子どもの合計は、1年に700万にもなる▼その700万人に6種の予防接種をほどこす費用は、日本の全家庭が、年間2枚のカードを買えばまかなえるそうだ。宣伝めくが、世界の子どものためのユニセフの活動の貴重さを思うと、片棒かつぎたい。金持ち日本のカード売り上げ枚数は世界で11位、ひとりあたりの購入数は24位(1986年度)▼戦後荒れたチェコスロバキアの村で、食料や医薬品の援助を受けて感激した7歳の少女イトカ・サムコーワが、絵をかいてユニセフに送った。太陽のもとで踊る子どもたち。「しあわせとは国が平和なこと」と題されていた。ユニセフはその絵からカード第1号の着想を得た。平和への希望もこめて▼カタログの申込先は、〒107東京都港区赤坂1ノ11ノ39第2興和ビル西館ユニセフGCO駐日事務所。 注目される国会論議 不公平税制をめぐって 【’88.10.7 朝刊 1頁 (全847字)】  大げさな言い方をするなら、税は歴史をかえる。アメリカの独立戦争も、フランスの革命も、そのかげに税金の問題があった。古今東西、ひとは金を出す段になると、過敏なまでに用心深くなる▼不公平税制をめぐる審議がようやくはじまった。衆院の税制問題等調査特別委員会を舞台に、はじめて落ち着いた議論の席ができた。これだけ大きな問題だ。みっちり討議することが望ましい。政府・自民党の税制改革案そのものの審議でなく、それに先立つ論議である。国民に見えるところで議論がくりひろげられるのは歓迎だ▼朝日新聞社の世論調査によると、政府案を廃案にすべきだ、と考える人は4人に1人である。税制改革を、だから、人々はあたまから否定しているわけではない。必要性は認めるが、あくまでも公正なものを、と望んでいるのだろう。改革により、さらに不公平さが増しては困る、と危ぶんでいる▼調査では、消費税の人気はどうもかんばしくない。基本的なところで疑問をもつ人が多いのではないか。たとえば、いったん導入したら税率をあげるだけで税収をふやせる税。自然増収が見込める現在、それが本当に必要なのか。また内需をふやすことが求められている時に、消費を抑制する税は国際感覚に欠けないか、など▼そうした疑問をめぐって、さきの話だが、存分な討議をきかせてほしい。与野党の政策担当者の話し合いも必要だろう。だが、国民からみて密室のやりとりになってはいけない。国会こそ公開の論議の場である。税そのもの以前に、国会あるいは政治への不信感が強まることは、政治家にとって危機というべきだろう▼税制改革法案をまとめた政治家が、リクルートコスモスの株で利益を得たことに関係したのではないかという一般の不信感。これは無視できない。疑問や不信をときほぐすていねいな作業が必要な時。急がず、納得のゆく国会論戦をきくことにしよう。 木を考える 【’88.10.8 朝刊 1頁 (全874字)】  森は緑色の貯水池、などという。それがどういう意味かを証明する、こんな実験があるそうだ(石弘之著『地球環境報告』)▼3.5度の傾斜をもつ、同じ面積の土地を4種、用意する。(1)森林、(2)草地、(3)きび畑、(4)裸地、の4つである。それぞれの土地で、雨のあと流れ出す水と土壌とを測定する。(1)雨水0.4%、土壌0、(2)1.9%、0、(3)26%、78.1トン(1ヘクタール当たり)(4)50.4%、146.3トン▼右の結果からこういうことがわかる。樹木は水を吸いこみ、土地をも守る。樹木に吸収された水分は蒸発し、雨になって、また降ってくる。樹木がない場合は、雨の半分以上が地表を流れ、土壌を押し流してしまう。あとは雨も少なくなって乾燥するばかり。実は、この乾燥化がいま問題である。地球上の森がどんどん少なくなっているのだ▼木はすばらしい。ちかごろ、木のよさが見直されて、学校などにも木造建築が目立つようになった。素材として、こんなに心をなごませるものはない。手ざわり、あたたかさ、そして、木目の美しさ。だが、伐採と造林とがほぼ見合う先進国はよいとしても、発展途上地域で森が消滅しつつある状況は深刻だ▼最大の理由は、土地のない農民や貧しい人々による焼き畑だという。森の木を倒して焼き、畑にする。土地はすぐにやせる。さらに森を焼く。もうひとつの理由は、自国内の森林を温存しつつ、熱帯林で伐採する先進国の動きだ。先進国の熱帯材の輸入はこの20年で16倍。中でも日本の輸入は最大だ。森が消えてゆく中国では、棺おけの節約の話まで出ている▼樹木がなくなると土地が流される。さらに、水が失われる。そればかりか、気象にも影響があらわれる。われわれの環境は鎖のようにつながっている。10月8日は木の日。十と八とで、なるほど木の字になる。しかし、ことは木にとどまらぬ。木を考えることは、生活すべてを考えることだ。 燃える男仙さん、セ・リーグ制覇 【’88.10.9 朝刊 1頁 (全845字)】  6年ぶり、4度目のセ・リーグ制覇を果たした中日ドラゴンズ。星野仙一監督とは、どんな人か▼選手たちは、監督を仙さんと呼ぶ。「仙さんは公平な監督」「競争がすごいが、チャンスがいくらでもあるチーム」といった声がきこえる。実力主義の運営、という意味だ。実力があれば若手でも大胆に起用する。昨年の監督就任以来、チームの空気がかわった。チャンスもあるかわりに、ぼやぼやしていると落後する▼就任の時「私は熱くなるタイプ。選手も同じように熱くなってほしい」と言った。現役時代のあだ名は「燃える男」。明大で「闘志なきものは去れ」の島岡監督に仕込まれた。巨人戦で、王助監督がベンチでやじったのに「黙っとれ」とマウンドからどなりつけたのは有名な話。いま、若手の前で中堅にどなるくらい朝飯前だ▼チームを燃え立たせたのは、しかし、熱情だけではない。大胆と同時に細心さがみえる。ずっと取材している運動部の同僚は、それを1点野球と形容する。1点をとること、1点を与えぬことに全力をあげる。沖縄のキャンプでも東京の新聞のスポーツ情報をファクシミリでとり、しさいに点検する▼細心の計画性は情報からというわけだが、自らが発信源にもなる。「闘争心を学ぶ」ため、ラグビー試合にチームを連れてゆき、ニュースとなる。審判に抗議するときの派手な動きにも、ことによると、人々の目をひきつけてチームを盛り上げようとの計算があるかも知れない▼テレビで解説者をやった経験も有利に働いているのだろうか。パフォーマンスが喜ばれ、個性が歓迎され、情報になることがプラス、というあたりを心得ている。大胆、細心、と同時に、選手や観客みんなを乗せてしまう演出型の指導者でもある▼川上監督の管理野球で巨人が9連覇を果たしたのは、日本の高度成長時代だった。いま、新しい時代の、新しい型の監督が現れたのかも知れない。 藤ノ木古墳に見る被葬者の服飾変化 【’88.10.10 朝刊 1頁 (全849字)】  和服は、男も女も左のおくみを右のおくみの上に重ねて着る。その逆の「左前」は、物事がくい違う、没落の運命、などという意味に使われることばだ▼上代の日本では、左前はふつうだったらしい。はにわ人物像からもわかる。中国では野蛮な着装法とされていた。遣隋使が派遣され、中国の服制がはいって来ると、左前の変更とともに朝廷の服飾は一新する。といっても、人々の間では、左前はしばらく残っていたらしい。生活面の大変革が起きる時、新旧が混在してエネルギーをかもし出す▼藤ノ木古墳は、遣隋使のすぐ前の時代である。すでに朝鮮半島を通じて大陸の影響が及び、服飾の面でも変化があったと想像される。新しもの好きの人は、経済さえ許せば新奇なかっこうをしただろう。渡来してきた人たちも、刺激的な文物で人々を驚かしたに違いない。石棺の中の、目もあやなる服飾品は、当時の躍動的な社会を想像させる▼金銅製の歩揺(ほよう=小さな飾り金具)のついた衣。同じく歩揺で飾られた金銅製の沓(くつ)。耳飾り。首飾り。腰の帯にさげる飾りもので、魚の形をしている魚佩(はい)などがあった。歩揺も魚佩も、朝鮮半島で生まれたスタイルだという。そこで、この古墳に葬られていたのはだれか、というなぞにつきあたる▼半島から知識、技術を持ってきて高い地位についた渡来人か、半島と密接な交渉があった豪族。そのどちらかだろう。北まくらでなく、東まくらだった、ということから、どうも仏教色は薄いようだ。となると崇仏派の蘇我氏ではないだろうなどと素人探偵もやってみたくなる▼さきに発見された華麗な馬具から、朝廷の儀式馬の担当者だった額田部(ぬかたべ)氏か、とする説。聖徳太子ゆかりの膳(かしわで)氏と考える説。古墳のある斑鳩に伝承の多い物部氏、との見方。候補は10人あまりもいる。ハイカラ被葬者はだれなのか。なぞ解きが楽しみだ。 落書き 【’88.10.11 朝刊 1頁 (全846字)】  洋の東西を問わず、人間は落書きが好きらしい。法隆寺の天井板や唐招提寺の仏像台座には、7、8世紀の落書きがある。シューベルトの「菩提樹」の幹にも、たしか、愛の言葉が彫られていた▼昔の子どもは、たいていポケットに蝋石(ろうせき)をしのばせていた。気楽にしゃがんで、土やいしだたみに字や絵をかいた。遊びのための陣地や境界線を書くにも、ろうせきは必携だった。ちかごろの子は、地面や塀にではなく、帳面に、よしなしごとを書くそうだ▼ある調査によると、落書きノート、という専用の帳面を持つ子どもが約9割いる。家でのちょっとした時間や、学校の休み時間にかく。乗りものや戦争の絵が男の子に多く、女の子が花やお姫さま、家などを好むのは昔とかわらない。受験や塾通いで忙しいばかりかと思っていた子どもたちが、すこしの時間でも落書きのゆとりをもつ、と知ると、何となくほっとする▼まんがの主人公もよく描かれる。落書きがこうじて本職の画家に、というのも多かろう。この夏に死んだ米国の画家バスキアなど、それこそ地下鉄や壁に描いた落書きによって才能を発見された例だった。ひところのニューヨーク地下鉄は、すさまじい落書きだった。車両全体が、赤、黒、黄色と、ぬりつぶされ、スプレー式塗料やフェルトペンなどの販売を市条例で禁止したほどだ▼取り締まらなければならないほど野放図な落書きになっては、もはや公害である。宇治の平等院では、鳳凰堂の白壁が鉛筆や硬貨で傷つけられる。防戦には妙案がない。横浜港の赤レンガ倉庫のように、明治時代からの歴史的な建物が、スプレーなどによる落書きでよごされ、問題になったところもある▼新聞への投書などで目立つのが、海外の観光地で見た日本人の落書きへの怒りだ。ほかの国の人の落書きも、むろんあるのだろうが、日本語は目につくし、多いらしい。うれしくない話である。 政治倫理とプライバシー 【’88.10.12 朝刊 1頁 (全857字)】  リクルート問題で新たに1枚の人名表が現れた。共産党が発表したもので、9人の名前がある。社会党の方は、氏名を伏せて同様の資料を公表した▼リクルートコスモス社の未公開株を、ドウ・ベスト社経由で手に入れたとされる人々である。その中に前労働事務次官の名があった。ご当人は、リクルートの元社員から「上がると思いますよ」といわれ、融資を受けて買った、軽率だった、と言う。未公開株は店頭登録直後に売ったので、当然、売却益があった▼この件で、「労働省などに報告を求める考えはないか」ときかれた竹下首相の答えに、おや、と思った。「ありません。個人のことだから。これからもずっとありません」。リクルート問題が中央官庁の首脳部に波及したことへの感想は「それも個人のことだ。国会で質問でもされない限り僕はプライバシーのこともありますから答えないことにしています」▼そんなに「個人のことだ」と割り切ってしまっていいものか、と、こちらがいささか心配になった。リクルートという会社は求人情報誌を発行している。そして、ほかの省はいざ知らず、労働省は求人情報誌の業界を管轄とする。「職務権限とは関係ない個人的行為だと思う」と中村労相。職務権限との関係は、むろん調べなければわからない▼だがそれ以前に、次官の立場にあった人のこうした行為は、いらぬ疑いを招く、と考えるのが常識だろう。竹下氏が、国会で何度も口にした「李下(りか)に冠を正さず」とは、まさにそうした行為をつつしむ慎重さと、毅然(きぜん)たる態度をさすのではないか。その場のがれで「李下の冠」を繰り返したのなら、国会と国民をばかにしている。本気で繰り返したのなら、どうして前労働次官の行為をプライバシーなどというのだろう▼責任感と清潔さは公人に欠かせない。そこをあいまいにした政治は不信を育てる。リクルートの件も、あいまいではすまされぬ問題だ。 コピーにみる時代の空気 【’88.10.13 朝刊 1頁 (全844字)】  広告の文案(コピー)をつくる人の集まり、東京コピーライターズクラブが結成25年を迎え、東京で「コピーの百貨展」をやっている▼4半世紀のコピーを年ごとに見ると、われわれの暮らしが、そして時代の空気のようなものが浮かんでくる。「まず手はじめにハワイへ行ってみませんか」「避暑地で会ったすてきなミセス」などは1960年代前半。観光渡航の自由化、東京五輪、新幹線開通、の成長期だ▼後半。ジャルパック登場、人口は1億を超え、昭和元禄をいろどる新三種の神器(カー、クーラー、カラーテレビ)。「奥さまは1日じゅうお湯とおつきあいです」という生活になり、「最近腰のまがったおばあさんをみかけなくなりました」▼70年代前半。モーレツからビューティフルへと転換する。「ゆっくり走ろう。ゆっくり生きよう。」と、省エネへ。金融関係のコピーが目立ちはじめる。「いま世界でいちばん強い『お金』」や「時は円なり」。脱サラがはじまり、ファストフード市場が急成長▼後半、金権のにおい。ロッキード事件。豊かさがのぞく。「陽焼けしてますか」「きょうも、いい日に。」と、のんびり、うっとり。「男がいて、女がいて、おまけに春。」「君のひとみは10000ボルト」▼さて80年代。理屈でなく、感性の時代だそうな。「好きだから、あげる。」「シャンプーしないでデートすると」「触ってごらん、ウールだよ。」「夏ダカラ、コウナッタ。」個性の時代でもある。「ひとりひとり違う人間を同じモノサシで計るのはおかしいと思うな」▼面白がるのもはやりだ。「残念ながら、知名度だけは二流です。」「ボクとメロンはメロウな関係」「カエルコール」「こんなパンダ、ほかにイルカ。」▼短い期間にこの大変化。便利さ、快適さを求めた、歴史的な生活革命。問題は、しかし、ずしりと充実した生きがいを十分に味わっているか、である。 1つの命を2人でわかつ 【’88.10.14 朝刊 1頁 (全849字)】  ベトナム語で数字の3は「バー」といい、4は「ボン」だ。生まれてきた2人の子に、両親はバーとボンの名を付けた。番号を名前とした親の気持ちはどんなだったろうか▼2人は、1つの体を共有している二重体児だった。後に、暮らすことになった病院の名前にちなんでベトちゃん、ドクちゃんと改められた。7歳になった兄弟の分離手術、その後の容体の変化が刻々と伝えられている。予断は許さないが、いくつかの幸運があって第1の危険は乗り越えたという▼いっしょのまま生きていくことは、だれの目にも困難なことだった。では、1人を切り捨てて、1人を助けるのか。1つしかない命をどちらに与えるか。その判断はだれに下せるというのか。人間の手にあまる問題に、医学倫理上からも答えが求められた。苦悩のすえに医師団が下した結論は、まことに平凡なものだった。2人の「平等救出」である▼肝臓もすい臓もこう丸も、2人分あった。難問とされていたじん臓も、開腹して見たらそれぞれ一対持っていた。これは、メスを持つ医師たちをほっとさせたことだろう。早々と絶望にくみしないでよかったなあ、と思う▼日本にきたときに覚えた「赤い靴」を、ドクちゃんが口ずさんだ。ベトちゃんに便がでた。1つの命を2人でわかちあうことができた。二重体児は7万回から10万回の出産に1回の割合でおこるという。各国で手術の成功も失敗もある。だが、これほど一部始終が伝えられた例はない▼さらしものにしている、という批判もある。米軍の枯れ葉剤との関連で、「政治宣伝」のにおいをかぎとる人もいよう。しかし、死と闘う生命はそれを見守る者に黙って何かを語りかける。鋭敏な胎児に起こった不幸と私たちの未来のこと。生と死と、過去と現在と、戦争と平和と▼このところ、私たちは哲学者になったり、歴史家になったりしながら日々のニュースを見ているような気がする。 リクルート株と秘書 【’88.10.15 朝刊 1頁 (全846字)】  おやおや、という感じである。リクルートコスモスの未公開株の話。宮沢蔵相が、株の名義はご本人のものだったことを明らかにした▼これまでは、秘書の友人が秘書の名義で株を買い、売って2000万円余の益をえたのかと考えられていた。いや、そもそも、この株売買の話で宮沢氏の名前が出たとき、宮沢氏は、株取引については知らない、ノーコメント、と言っていた。そのあと秘書が名前を貸した、売買で差益があった、といった発言が少しずつ出てきた▼数日前、ご本人の名前が書かれた文書を共産党が発表した時も、その資料の真偽がわからない、確認しようがない、とのべていた。それが、本人名義だったと確認された、というのである。こんなことなら、3カ月以上も前の最初から、きちんと調べて、委細を説明してくれればよかったのに▼自身、取引には関与していない、と宮沢氏は言う。それにしても、秘書まかせというのか、秘書との連絡がよくないらしい様子に、われわれは驚き、とまどう。宮沢氏に限らない。多くの政治家が、よく、秘書がやったことだ、と涼しい顔をして言う。もっと連絡を密にしてくれぬものか。秘書というのは、世間の常識では、ボスの意思の代行者だ▼宮沢氏の発言によって、共産党が公表した内部文書といわれるものが、一段と真実味を帯びてきた。重要人物9人の名前を表に書き出したのは、そも何者か。国会での問題解明があまりにもはかどらぬことに、業を煮やしての内部告発だろうか。うやむやで不透明な政治は、不信の母胎だ▼竹下首相は、元秘書がだれから株を入手したかを伏せていたが、やはり内部文書がきっかけでドウ・ベスト社と発表した。その時の表現が「反省しているのは、名前を出すのは私の生きざまに合いません、といったことが言葉としては適当でなかった」。何だか、そのまま江副リクルート前会長に贈りたいような文句だ。 子どもの心を広げる文通 【’88.10.16 朝刊 1頁 (全861字)】  うちでつくった野菜は、出荷されるとどこへ行くのだろう。野菜といっしょに箱にはいれば、つきとめられるぞ。いや、車であとをつけるか▼子どもは面白いことを考える。八ケ岳連峰の東、長野県の南牧村にある南牧北小学校の3年生は、議論の末手紙作戦を思いつく。去年の夏のことだ。「野さいがどこに行ってるか、しりたいのです」という、平仮名の多い手紙105通が、レタス、ハクサイ、チンゲンサイなどの箱に詰められた。返信用はがきを添えて▼結果は、「社会科の勉強に」と考えていた関本美津子先生を驚かす。全国の多くの県から返事がきたのだ。漬物店、ハンバーガーの店、病院に食料品を届ける店、スーパー、その他。どの返事にも、うれしい驚き、野菜の使い方、土地の説明、近況などが親切に記されていた▼「やったぁ」と子どもたち。そして文通がはじまる。ことしになって、訪問、交流に発展した。本紙家庭欄に出た話である。子どもの心を外にひろげる試みはすばらしい。ごく最近、厚木市立愛甲小の2年生が飛ばした手紙つき風船が、東京湾を越えて千葉県市原市の出光エンジニアリング会社の事業所に届いた。文通がはじまり、工場見学の話も、と発展中だ▼文通、といえば海外との文通はちかごろどんな様子だろう。全容はつかみにくいが、韓国や中国など、アジアの国に、日本人との文通を望む若ものがふえている。日本語の勉強がさかんになっていることと、無関係ではない。だが、日本の側に希望者があまりいない。アジアの隣人と知り合う好機だと思うのだが▼40年以上も文通の橋渡しをしている東京都江戸川区の北畠武敏さん(国際ペン・フレンド協会代表)によると、中高生の文通あっせんを学校から頼まれる場合、希望先はきまって米国だそうだ。まず英語の勉強、という発想らしい。しかも、相手からの手紙に返事を出すのは1割未満。交流以前だ。海外文通事情は、いささかさびしい。 先生と生徒が鍛え合う土俵として新聞を 【’88.10.17 朝刊 1頁 (全873字)】  生徒と先生とでは、もっている情報や、世の中の認識の仕方に、ずいぶん違いがある。それが、大分県立日田林工高校の先生たちの調査から浮かび上がった▼「生徒と教職員の現代度」と題するアンケート。たとえば「光GENJI」を「よく知っている」と答えた生徒は77%で、先生は30%だった。「後藤久美子」は、85%に対して54%、「ペルシャ湾問題」は29%対82%、「国家機密法」は16%対77%、そして「美味しんぼ」は、45%対42%、というぐあいである▼芸能・スポーツの分野では生徒の方が「よく知っている」場合が多く、政治・経済ではこれが逆になっている。ハイテクの分野では生徒が意外に知識、情報をもっていて、先生を上まわることもある。調査をまとめた先生は、教師の側に、生徒とその背景を理解する努力が足りないのではないか、と結んでいた▼第三者からみれば、これは、どちらにも努力してもらいたいところ。先生の自省もけっこうだが、同時に、それにおとらず生徒にも身のまわりの現実をもっと勉強してもらいたい。だいたい社会のこと、経済の動き、政治の問題、世界情勢などを調べて考える、つまり、市民生活をはじめる前の助走が、少なすぎるのではないか▼先生と生徒がいっしょに調べ、考えるための道具として、新聞を利用している学校がある。水戸市の県立水戸工業高校では、塙雅文先生が、新聞記事を参考にして作文を書かせている。東京・六本木のディスコ事故や宇野重吉氏死去の記事をとりあげ、「死について考える」。ちかごろでは「オリンピックと私」▼聖心女子学院初等科の岸尾祐二先生も新聞を存分に使ってのリポートづくりなどで、生徒の視野と知識、関心をひろげさせている。新聞を使った教育、いわゆるNIEは、米国でますますさかんである。日本でも工夫が出てきた。新聞週間に宣伝めいて恐縮だが、生徒と先生がきたえ合う共通の土俵として、先生方、ご一考を。 中ソ対立、幕引きへ新しい風 【’88.10.18 朝刊 1頁 (全855字)】  「あそこに小さな男がいるのが見えるでしょう。彼はとても知恵のある男で、彼の前途は洋々たるものです」と、毛沢東氏。1957年、モスクワ。そう言われたフルシチョフ氏は、その人物を知らなかった▼その時の小さな男、〓小平氏が、来年モスクワにゆくつもりがあることを、このほど明らかにした。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会う、という。中ソ両国の首脳がひざをまじえて会談したのは、59年のフルシチョフ首相の北京訪問が最後だった。実現すれば、30年ぶりの歴史的な首脳会談となる▼50年代の末から両国の間柄はきびしいものになった。いわゆる中ソ対立である。イデオロギーの問題。国境をめぐる紛争。69年には珍宝島(ダマンスキー島)で正規軍が交戦し、死者を出す事件まで起きた。中国からすれば、ソ連との関係改善をはばむ障害は3つあった▼(1)中ソ国境のソ連軍の配置(2)アフガニスタンへのソ連軍侵攻(3)カンボジアへのベトナム軍侵攻。このうち(1)(2)はゴルバチョフ氏の大胆な新政策で、もはや問題ではなくなっている。残る(3)も動きはじめている、ということだろう▼米ソの関係が、首脳会談を重ねてすでに緊密になっている。さらに中ソが対立の幕引きに動く。大きなゲーム、というか、国際情勢に流動がはじまっている、という感じだ。アジアにどんな影響が及ぶのかを計測しなければなるまい。新しい風を感じとり、韓国はすでに敏感な反応を示しているように見える▼国交をもたぬ中ソ両国との経済関係の拡大や、朝鮮半島での南北緊張緩和を国連に訴えかける、といった動きである。日本の外交にとってもだいじな時だ。天皇陛下のご病状を気遣い、外相や蔵相の海外出張とりやめ、外国要人の訪日中止などが続いた▼外務当局が休んでいるわけではむろんない。だが、外の世界に突き出した政治家のアンテナの感度がひときわ問われる時である。 リクルート・ラプソディー「法にふれては…」 【’88.10.19 朝刊 1頁 (全847字)】  このところ、耳をすましてリクルート・ラプソディーを聴いている。いままでに、3曲聴いた▼第1曲の「法にふれてはおりません」は、7月から8月にかけてさかんに演奏された。「違法性のない民間の取引」(渡辺自民党政調会長)や「何回おっしゃっても私の調査で違法性はないと確認している」(竹下首相)などのリフレーン。法にふれなければ問題ではあるまい、と開き直っているような、つよい曲想に聴衆はゆさぶられた▼この曲が得意なのは政治家だけではない。未公開株を譲渡された前労働事務次官について「法をまげるような行為はない」と労働省職業安定局長。みごとな合唱である。ああ、政治家や公務員に望みたいのは、法にふれるかふれないか、ではない、ずっとそれ以前のところで身をつつしむ清潔さなのに、と聴衆は感想を抱く▼それにこたえるかのように、第2曲は「法にふれてはいませんが」である。「違法ではないが、もっと自制すればよかったという反省がある」(安倍自民党幹事長)「違法性がなくても追及されてしかるべきものだ」(中村労相)。とくに今月にはいって響きはじめた。ふしぎなことに、反省、軽率だった、の大合唱のわりには事実はかすんだままだ▼そこへきこえてくるのが第3曲。「それはそれ、これはこれ」(竹下首相)の名調子だ。いつまでもこんなことをやっておらず、早く税法改正を、が歌の心。まず事実の究明を、と考える聴衆の前では第2曲を大声で歌っておけ、という割り切り方だ。ここには、夏以来、自民党がかなでてきた通奏低音がある▼「リクルートは、これ以上いくらやっても何もない。脱税してるわけじゃないし、もう終わりだ」(党首脳)というものだ。党3役はきのうの協議で、証人喚問について、たとえ参考人聴取という形でも応じない、と申し合わせた。さて、勝手に幕を引かれても困る。しり切れラプソディーなんて。 プロ野球球団譲渡に見る産業構造の変化 【’88.10.20 朝刊 1頁 (全844字)】  またまた、プロ野球球団の名前がかわる。阪急ブレーブスを、オリエント・リース社が買いとることになった▼半世紀あまり続いた名が消えることへの感慨とともに、ふうむ、いかにも産業構造の変化があらわれているなあ、と思う。買い手の会社はリースで業界首位となり、多国籍化も進めている。情報、金融の時代の選手みたいな企業である。南海ホークスを買ったダイエーも、量販店を基礎に、百貨店や外食産業、レジャー会社などに手をひろげる企業。ともに消費、サービス産業の時代を代表するかっこうだ▼球団をキャッチボールする企業の名には、大げさにいえば産業の消長が見てとれる。松竹、大映、東映と、かつて球団を所有した3つの映画会社の名はもう球界にない。大映の永田雅一オーナーは球団を手放すとき「映画界は最大の危機なんだ」と泣いた。鉄道も、国鉄をはじめ東急、西鉄、南海、阪急、と離れてゆく。ゆたかな時代のいま、隆盛なのは、口にはいるものを供給する企業だ▼ロッテが球界に進出するとき、社内では賛否両論があったという。会社の宣伝になるという考えと、いや、ほかの球団のファンを敵にまわすことになる、という意見と。ちかごろの様子をみるとどの企業もPR効果を十分に楽しんでいるらしい。といっても、PR料をあてにして経営した「コマーシャル球団」は、西鉄時代直後のライオンズのように失敗する▼米国の大リーグでは、親会社の名はつかず、都市の名だけが球団につく。商品のように球団が取引される、という感じがあると、野球そのものの印象を悪くするからだろう。球団があまりにも親会社の宣伝媒体という性格を強めると、面白い野球で独立採算を、との気概も薄れる▼さて、相次ぐ球団の譲渡で、パ・リーグに活力があふれるかどうか。あまりの「偏セ値」は球界全体にとってよくない、と野球評論家の近藤貞雄さんはいうのだが。 言いつくされた政治倫理 【’88.10.21 朝刊 1頁 (全844字)】  ずいぶん大がかりな家宅捜索である。押収した資料を入れた段ボール箱が、1700個という。これはたいへんな量だ。捜索は約19時間に及んだ▼東京・銀座のリクルート本社、リクルートコスモス社から、東京地検特捜部は、おびただしい量の資料を運び出した。さらに、リクルートコスモス社の前社長室長を逮捕した。資料の綿密な点検と、具体的な取り調べがいよいよはじまる。さて、何が出てくるか▼前社長室長の容疑は贈賄申し込みである。リクルート社は、政財界関係者などに未公開株を幅広く譲渡した。それに関して国会で追及する立場にあった楢崎代議士(社民連)のところに現金を持ち込んだ、という疑いだ。何百万円もの金を、自分で用立てるだろうか、と人は思う。はたして組織ぐるみのことかどうかは、捜査ではっきりするだろう▼司法の動きとは別に、国会は国会で事実究明の努力を続ける。当然のことだ。政治家への信頼が問われている。安閑としてはいられまい。いささかふしぎに思うのは、政府首脳が、各界の有識者を集めて懇談会をつくろう、と考えているらしいことだ。事件の再発防止と政治倫理の確立をねらってのこと、とか▼はて、と思う。政治倫理なら、国会のみなさんは3年前にりっぱな綱領と行為規範をおつくりになった。「われわれは、国民の信頼に値するより高い倫理的義務に徹し、政治不信を招く公私混こうを断ち、清廉を持し、かりそめにも国民の非難を受けないよう政治腐敗の根絶と政治倫理の向上につとめなければならない」▼こうもいう。「われわれは、政治倫理に反する事実があるとの疑惑をもたれた場合にはみずから真摯(しんし)な態度をもって疑惑を解明し、その責任を明らかにするようつとめなければならない」▼すでに言いつくしている。いまさら有識者を集めなくても、これで十分。解明にひたすら努力すればよいのではないか。 「さまよえる生物学者」宮地伝三郎さん 【’88.10.22 朝刊 1頁 (全847字)】  宮地伝三郎さんが亡くなった。幅の広い人だった。ロンドンの国際会議で、米国の魚の学者が「ミヤジという男は、何者なのか紹介がむずかしい」といったそうだ▼動物学を専攻、いろいろな分野を手がけた。湖の生物、魚、海、サル、と学会のたびに新しい主題で報告する。外国の学者がとまどったのもむりはない。宮地さんは「自分は生物学者だと思っている」と答えた。平生、自らを「さまよえる生物学者」と考えていた。狭い専門にとじこもらず、関心のおもむくままに何でも研究する、という意味だ▼「40にして大いに惑うべし」とも言っていた。瀬戸内海の因島に生まれ、歴史、英語、生物学、と人生の志望もかわった。興味の範囲がひろく、さかんな好奇心はその仕事によくあらわれた。アユ研究の第一人者だが、江戸時代の俳句が、アユその他の動物の生態知識、文化情報として重要だ、と役立てたのなど、真面目を発揮したものだろう▼京大では、教授や助手、学生などが昼食をともにしながら談論風発、グループ研究を進める、という気風をつくった。研究成果の1つ「日本ザルの群の文化的習性の獲得」には、イモを洗って食べるサルの学習の話もでてくる。宮地さんが国際学会で発表した▼ちかごろ、ともすれば学者は細分化された領域にこもりがちだ。自らひろい関心を持つと同時に、垣根をとりはらって交流、研究を、と目ざした業績は貴重である。もちろん、この人にはヒトもかっこうの研究対象だった。もっとも、動物の社会行動に人間的なものを、また、人間のふるまいに動物的なものを発見して、教訓のような結論を出そうとするのは「悪いイソップ癖」と自分で言ってはいたが▼学術会議の一員としてソ連と中国に行った時、旅の先々に須賀子夫人からたよりが届き、それにまた手紙を書く。仲のよさが話題になった。それにしても、夫人の死の10時間あとの大往生、とは。 豊漁のサンマ 【’88.10.23 朝刊 1頁 (全847字)】  あはれ/秋かぜよ/情(こころ)あらば伝へてよ/――男ありて/今日の夕餉(げ)にひとり/さんまを食(くら)ひて/思ひにふける と▼あまりにもよく知られた、佐藤春夫の「秋刀魚(さんま)の歌」のはじめの部分。七輪の火でじゅうじゅうと焼き、油が落ちて火がついて、といった食べ方をしていたころの詩である。当節、煙が火災報知機を鳴らしたりにおいで隣近所に文句をいわれたり、というので、マンション住まいの人びとは、店から焼き上がったサンマを買ってかえる▼ま、何でもいい。サンマはうまい。そして、そのサンマが、いま、安い。いつもの2割から5割安、というのだからすばらしい。あまりたくさんとれるので、サンマ漁の生産調整組合は、すこし休むようにと漁船に呼びかけた。水揚げが多ければ、どうしても値くずれする。とればとるほど安くなり、もうけがなくなる▼サンマは北海道の東から、親潮にのって三陸沖を南下してくる。8月に北海道の沖にあらわれるころは脂肪分が10%くらい。これが10月にはいると、鹿島灘や房総沖では20%ほどで、最高の味となる。和漢三才図会という、江戸時代の百科事典には、サンマは魚の中の「下品」と書かれているそうだ。下等な魚と、えらい殿様の取り合わせだからこそ、落語の「目黒のサンマ」は面白いのだろう▼ことし、なぜ大漁なのか。どうも、異常気象が海の中にも及んだようである。例年より勢力の強い暖水塊が北に張り出して、金華山沖から釧路沖へと、帯のようにつながった。ふつうなら北海道沖から太平洋の広い海域に分散、南下するサンマが、ことしは暖水塊と寒流の境目の、えさの多い近海を南に泳いできた、というのが豊漁のゆえんらしい▼さんま、さんま/そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて/さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。……と詩はつづく。深まる秋を、味わいますか。 むずかしい廃棄物処理の問題 【’88.10.24 朝刊 1頁 (全844字)】  天高く、ごみ増える秋、とでもいいたいくらいの感じである。このところ、内外で、ごみをめぐるニュースが多い▼東京湾に、大量のごみを捨てた砂利運搬業者が逮捕された。宅地造成のさいに出たごみを、ふつうなら陸上で焼却などの処理をすべきものなのに、船で木更津の沖まで運び、どさっと捨てた。燃料代や処理費用を惜しんだのだろう。漁網にアスファルト片がひっかかり、明るみに出た▼カレイやスズキがとれる漁場である。アスファルトや土砂で荒らされては、魚も漁民もたまるまい。この種のごみ捨てが増えている。東京湾だけでなく、瀬戸内海や伊勢湾、有明海などでも、海上保安庁は監視をつよめるという。24時間態勢で空と海から目を光らせる、というから大作戦だ▼ごみを海に捨てる話は、日本に限ったことではない。1年近く前に、英国など北海に面する8カ国が、ごみ捨てを慎み、環境を守るため、科学調査や空からの監視などを行う、ときめたことがある。この夏以来、話題になっているのはアフリカだ。海ではない、陸の上▼それも欧米の工業国から出る産業廃棄物、とくに有毒物質や放射性廃棄物をアフリカに捨てるという話である。外貨がほしいアフリカの国が危険なごみを輸入、穴を掘って埋める。それにからむ汚職も起きる。やりきれない話だ▼地下水汚染のおそれもある。反対運動が起き、外交的な摩擦も生じた。アフリカ統一機構(OAU)は、有毒ごみを引き受けるな、とアフリカ諸国に呼びかけた。そうした動きを受けて、廃棄物を積んだまま、どこの国の港へも入れてもらえぬ「さまよえる有毒ごみ船」が出た。いまも、イタリアの港に入れるかどうかでもめている▼廃棄物処理の問題はむずかしい。日本の科学技術がこの分野で貢献できないものか。開会中の国連でも、首脳たちの大きな関心事だ。来春までに規制のための国際条約をつくる、というが。 最後の日まできちんと生きる 【’88.10.25 朝刊 1頁 (全842字)】  米国から訪ねてきた友人と、ひさしぶりに会った。米国人と結婚している日本人女性である。よもやま話の中で、夫君の母親が亡くなったことをきいた▼90歳に近い高齢である。息子たちとは離れて暖かいフロリダに住み、時々、訪ねてきていた。飛行機に乗るとき、万一、粗相があっては、と、おしめを身につけ、きちんと服装を整えて旅行する人だった。晩年の様子をきくと、最後の日まで、ボランティアの仕事をしていたという▼仕事といっても、かんたんなことだった。老人の施設に毎日ゆき、2時間ないし3時間、車いすを押す仕事である。足が不自由になった老人が、外の空気を吸い、バラの香りをかぎ、雲の美しさに見入ることができるように、語り合いながら、ゆっくりと押す。「できる手助けはしなくちゃ」。それにしても、自分はおしめをしている身である▼最期も、彼女らしかった。体調が悪い、と感じると、電話をかけ「お願いします」と救急車を呼んだ。もちろん、身のまわりはいつも整理されていた。病院で平安のうちに息をひきとった。「すばらしい生き方だった。強い意志と、やさしい心。まねしようったって、とてもできそうもない」と友人▼「8月の鯨」という映画の試写をみた。米国メーン州の島。数人の老人が登場する。リリアン・ギッシュ、ベティ・デービスといった90歳、79歳の名女優が姉妹の役を好演する。ギッシュの、何と魅力的で、かわいらしいこと。少女のころ、8月になると鯨が岬から見えた。老年のいま、もう来ないのか、と疑いながら「それはまだわからない」と希望を持ち続ける▼最後の日まで、きちんと生きる。これは、だれにとっても大きな問題だ。助け合うことも、映画の、いや人生の、大きなテーマである。老人が老人を助けなければならぬ場面も、これからは多くなるのではないか。老いたるボランティアの時代、でもある。 健康を考える秋 【’88.10.26 朝刊 1頁 (全848字)】  スポーツの秋。食欲の秋。そして健康を考える秋。定期診断を受ける人も多かろう。たいていの会社と同じように、学校でも、いまは健康診断と呼ぶ。昔はちがった▼学校で健康診断といいはじめたのは1958年(昭和33年)のことである。その前は身体検査といった。この時代は長い。1897年から、60年以上に及ぶ。それ以前は1877年にきめられた、活力検査という名前だった。いかにも明治のはじめらしく、勇ましい名だ。古い話ついでに、思い出すことがある▼戦時中、子ども向けの科学雑誌に、日本人の胴が長いことがとりあげられていた。西洋人にくらべると腸が長いが、これは日本人の優秀性を示す、と説明があった。科学的というよりは、政策的な説明だったのだろう。文部省の調査では、日本人の身長は今世紀の85年間に男女とも約10センチのびた。座高はほとんど変わらない。脚がすらりとのびたことになる▼身体検査には時代がのぞく。戦前から戦中にかけては、体位向上の必要と、結核の多さが大問題だった。徴兵検査で、学生が甲種合格とならず丙種が多いこと、東京では半数が結核という区があったことなどが当時の記事に見える。身体検査表の「栄養要注意」欄への記入がなくなるのは、戦後10年あまりたってからだ▼1960年代にはいり、近視と虫歯が増え、大学生に精神衛生の面で問題が出てきた、と指摘される。栄養はゆきわたったが、体格はよいのに体力がない、といわれるのもこのころ。遊びの環境が変化したためか、土ふまずができるのが遅いことが発見される。ほんのちょっとした動作で骨が折れる「不可解骨折」。原因は身のこなしが悪いから、と発表された▼そしていま、12歳児のおなかの皮下脂肪は、20年前にくらべて10ミリ以上厚いそうだ。学校の健康診断に、成人同様、心電図や血圧、尿の糖検査などを加えることが検討されている。 さわって質感楽しむ、大理石の球 【’88.10.27 朝刊 1頁 (全856字)】  どっしりとした大理石。直径30センチほどの、なめらかな球形をしている。わずかに感じられる凹凸が、何とも、てのひらにこころよい▼「瞑想(めいそう)のための球体」展を見た。見た、というより、さわった、というべきだろう。東京・渋谷にある「手で見るギャラリー・TOM」は、視覚障害者にも自由に彫刻に触れてもらおうという美術館だ。日仏共同企画で、8カ国、10人の作品を展示している。直径70センチくらいの、紙のひもでできた球が宙に浮いている。ブロンズ、鉄、木と、さまざまな素材の球▼さわって質感をたのしむうち、子どもの時の感覚がよみがえる。へこんだサッカーボールのような大小の球の群れ。さすると、やさしい木の肌のぬくもりだ。「自然ともういちど手をとり合う」ことが彫刻家の仕事、とオーストリアのプランテル氏は言う。心が休まる大理石の球の作家である▼ベトナム戦争のころ米国で「砂箱」がはやった。何のことはない、子どもの砂場の小型版だ。役員室などに置き、仕事の合間に砂をまさぐり、張りつめた神経をほぐす。戦争で国じゅうが疲れていた。「トイ(おもちゃ)」売り場の隣で「パシファイヤー」という名で売っていた。平安具、とでも訳したらよいか▼木や石をなでるうち、さきごろ上海に行ったときの、ある感触を思い出した。虹口公園の奥、魯迅の墓の前にちいさな広場がある。1辺50センチほどの、四角い石が敷きつめてあり、人だかりがしていた。見ると青年がひとり、かがみこんで字を書いている。バケツに水、毛筆は直径5、6センチもある、太いものだ▼石1枚に1字を書く。ゆっくりと、龍飛鳳舞。達筆である。花。夢。のびやかだ。数分たつと、字は順にうっすらと消えてゆく。すすめられるままに、筆に水をふくませて書いた。感触のよさ。石に水で書く。なんという、ゆとりの境地か、と思った。たのしいだけです、と青年は笑った。 大病院が軒並み不正 【’88.10.28 朝刊 1頁 (全849字)】  むかし、薬9層倍などといった。呉服5層倍、ということばもあり、多分に口調のよさから同じ音を重ねたのだろう。それにしても、薬はもうかったらしい▼いまは、なんと薬10層倍である。厚生省が調べたら、保険の不正請求をした病院のうち、ひどいものは購入価格の10倍もの差益を得ていた。薬のメーカー「ミドリ十字」事件の調査で明るみに出た実態だ。この事件、病院にお世話になる立場の一般の人々にとっては何とも困った話である▼こんな構図になるらしい。製薬会社が病院に薬を売る。厚生省の承認を受けていない薬を売ることがある。安い。病院や医師はこれを買って、治療に使う。保険請求するときに、別の、承認されている薬を使ったかのように偽る。正規の価格で請求すれば、当然、差額が利益となる▼不正請求の話はいままでも多かった。医は仁術、ではなく、医は算術だなどといわれて久しい。だが、個人の医師がもうけるという話ではなく、国立病院や国立大付属病院など、大きな医療機関が勢ぞろいして不正請求をしていた、というのが今回、目新しい▼みんなで渡ればなんとやら、でもあるまいが、病院側には、そう深刻な罪悪感はないらしい。一種の慣行のようになり、そうした請求法を方便として薬の業界が教えている、ともいう。頭をかかえているのは厚生省である。ふつうなら、多額の不正請求があれば、保険医療機関の指定を取り消す▼こんどの場合、多くの病院が、それぞれの地域でもっとも先端的な設備をもつ、中心的な医療機関だ。それが軒並み指定取り消しとなると、人々は自費でしか、これらの病院で治療を受けられない。入院費、治療費とも、全額、自弁となる。たいへんだ▼かといって処分をしないわけにもゆくまい。これまで、数十万円の不正請求でも、悪質なものは指定を取り消した。今回、1億円を超す病院だけで14もある。どんな処方になるか。 ロンドン・タクシー 【’88.10.29 朝刊 1頁 (全845字)】  東京の浅草を、ロンドンのタクシーと同じ型の車が走っている。2軒の料理店が、それぞれ客の送迎用に買い求めた。好評だという。それはそうだろう。あの乗り心地は格別だ▼ロンドンでタクシー運転手の24時間という取材をしたことがある。彼らの行きつけの食堂で、飲み食いしながら話をきいた。一人前になるための試験も見学した。かんたんではない。2つの地点の名前が出題される。それらを結ぶ最短経路の道路名をすべて書き並べる。何十問も出る。市内の街路の名を、全部おぼえておかねばならぬ▼数人が自転車にまたがり、地図を片手にきょろきょろしながらロンドンの町を走っていたら、それは試験前のタクシー運転手だ。猛勉強ぶりとともに、車そのものにも驚かされた。タクシー専用のオースチンである。合理精神の権化、の観がある。回転半径がきわめて小さい。ロンドンの小路で、らくにUターンできる▼天井が高い。客はちょっとかがめば、歩いて乗りこめる。座席は比較的かたい。運転席とはガラスで仕切られ、運転手のたばこの煙ははいってこない。運転手は、馬車における御者の立場だ。動作もそうで、気軽に外に出て荷物をあつかう。スーツケースのような荷物は助手席の場所にたくさん積める▼よその国への旅から英国に帰り、空港でこの車に乗ると、えもいわれぬ安心感、快適さがあった。タクシーの乗り心地でこれにかなう国はないのではないか。ふつうは乗用車をタクシーに使い、それが当然と考えている。だが、乗用車は必ずしも乗り降りに便利な車ではない。体をエビのように曲げ、しりからはいり、座席の上を奥へとずってゆく。老人や病人には気の毒というほかない▼外国をまねる必要はない。だが、客や荷物の立場から設計した、使用目的に合った車、乗用車の転用ではないタクシー専用の車が作られてもよいように思う。採算の問題があるのだろうが。 またまたコスモス株の譲渡 【’88.10.30 朝刊 1頁 (全844字)】  リクルートコスモスの未公開株を譲り受けていた人の名が、また出てきた。秋の野道のコスモスの花ではないが、どこまで続き、どんなひろがりをもつのか▼こんど明らかになった名前は、中曽根政権のときの官房長官と官房副長官だ。本人、あるいは秘書など関係者が譲渡を受けた、として、首相にはじまり、ひとつの政権の蔵相、外相、通産相、農水相、文相、防衛庁長官、官房長官、官房副長官の名がずらりと並ぶ。いや、ずいぶん精力的に、幅ひろく、株を譲ったものである▼江副リクルート前会長は中曽根政権のときに、審議会の委員など、いくつもの公職についている。凡人は、素朴に、疑問をいだく。おおやけの肩書を得て有名になることと、株のばらまきとは関係があるのだろうか。未公開株の譲渡は、一種の政治献金なのだろうか。あるいは、ほかにかくされた深い動機、事情があるのだろうか▼病床質問のとき、江副氏はこう言った。「多くの方々に氏名公表のご迷惑をおかけし、これ以上、辞める人、バツの悪い人が出るのは耐えられないので、発表するぐらいなら、私が自滅し、死んだ方がよいと思っている。経済人の信義を守りたいので、申し上げないことによって刑事罰を受けても、私からは申し上げることは差し控えたい」▼これを聞き、ことばのあやとしても「自滅」「死んだ方が」「刑事罰」とはずいぶん大げさな、と感じた人が多かったのではなかろうか。「株の譲渡はたんなる経済行為」という趣旨の、政治家たちの平然とした発言とは、いかにも不釣り合いにひびいた。だが、思い詰めたようなこの返答、かえって、水面下に大きな氷山あり、と言っているようでもある▼国会には、税制法案の審議をいそぐ空気がある。だが、重要政治家がそろって株譲渡に関連、という状況に説明がなければ政治不信はつのる。「死んだ方が」は、どうみても、尋常な表現ではない。 天皇制強化と自粛 【’88.10.31 朝刊 1頁 (全856字)】  10月のことば抄録▼「例年、古本まつり1週間で年間売り上げの2割近くになります。これが越年資金にもなるんです。ことしはどう手当てをしたらいいのか」と東京・神田、みわ書房の三輪峻さん。祭りなどの行事の自粛が、暮らしにひびく▼「キーポイントは、周囲に合わせて、なのです。悲しいかな、『みんな記帳に行くなら行かんとならんねえ』。1人だけ1社だけ違う事は出来ない社会なのですね」と東京の会社員、皆川よしのさん。上山春平・京大名誉教授は「初めは自粛ムードが先行したが『自粛も行き過ぎると天皇制強化につながる』と揺りもどしが来ている。これも日本の言論の現状が健全であることの表れです」▼中旬に新聞週間。「情報の洪水の中で私たちは自分の物差しと感性で必要な糧を吸引し、自分の中で『自己の新聞』を毎日毎日印刷している。……パルプの無駄はあるかも知れない。しかし、戦争が大量殺りくで人間の命をムダにすることを考えればこれほどのムダはない」(西沢千尋氏の投書)「原稿を一行も書かずに、ただ目を凝らす。しかし、この態勢があったからこそ、明らかになったこともある。わずかな情報の積み重ねが大きな変化を知る手がかりになると信じて、1羽のカラスになっている」。カラスとあだ名される皇室門番記者のつぶやきだ▼軍人に襲われて重傷を負った韓国の中央経済新聞、呉弘根社会部長。「長い間、わが国では軍事文化がはびこっていた。書くべきことを書き、正道を歩いていかねばならない。私は弱気にはなっていない」▼軍政にノーの国民投票をしたチリで年金生活者ロサ・ドアルテさん。「あの時は悲しみでいっぱい。いまは喜びだけ。多くの人が殺され、その中には知り合いもいた。暗い時代がやっと終わるんだよ」▼在日ビルマ人協会代表ミン・ニョウさんに、祖国の姉からの手紙。「町は武力によって抑え込まれ……国民は心の中で怒っています」 灯台記念日 【’88.11.1 朝刊 1頁 (全847字)】  まだ夏が終らない/灯台へ行く道……と詩人、西脇順三郎はうたう。岬の突端へ。たいていは、あまり用事があって歩く道ではない。……人間や岩や植物のことを考えながら/また灯台への道を歩きだした、と詩は結ばれる▼春のそよ風、夏の草いきれ、秋天のいわし雲、冬の烈風。どんな場合にも、灯台は絵になるような気がする。海潮音を伴奏に、灯台はいつもそこに立つ。だれにとっても子どもの時から、ずっとそこにあった、と感じられる風景なのではないか。きょうは灯台記念日▼陸でなく、海から見れば、たよりになる、ありがたき道しるべ。さかのぼれば、664年に対馬、壱岐、筑紫に烽(のろし)とさきもりを置き、使船を見たら、1発、賊船なら2発、のろしをあげよ、と定めたそうだ。のちに、のろしは遣唐使船の誘導に使われた。日本の航路標識の起源である▼徳川時代、豊後水道の姫島に、かがり火が置かれ、初の航路標識となった。明治いらい、灯明台番士、灯台看手、などと係の名がかわる。灯台守の俗称もあった。いまは航路標識事務所職員。だが「喜びも悲しみも幾歳月」で描かれたような、家族で守る灯台は、10年ほど前から姿を消す▼むろん沿岸の船にとって、20キロ、30キロのかなたから見える光の標識はだいじである。全国4835の灯台は健在だ。だが、いまや、無人でも離れたところで管理できるようになった。「喜びも……」の舞台となった瀬戸内海の男木島灯台など、多くの灯台が、住居部分の歴史的な洋館を地方自治体にと売りに出している▼最近は、ちいさな漁船でも電波による自己位置測定をする。いわゆる「電波の灯台」の利用だ。そのひとつ、米沿岸警備隊の運営するロランCがやがて中止され、日本の船も影響を受ける。灯台も先端技術の時代。こんな感懐はまだ可能だろうか。「このたびは犬吠岬の灯台の冷たき色におどろかずわれ」(晶子) クジラ救出作戦に60万ドル! 【’88.11.2 朝刊 1頁 (全849字)】  「先月、アラスカ北岸の北極海で救出されたクジラのことだが」「いまごろ何かね。そういうのを、6日のあやめ、10日の菊という」▼「いや、どうも気になってね。なぜ、あんなに世界中で大騒ぎしたんだろう」「とくに米国はすごかったな。こまかく報道されたし」「大統領まで激励の電話をかけたのだもの」「エスキモーがはじめに助けようとした。それに自然保護団体、石油採掘会社、政府まで加わった」「どうしてそこまで、と考えると、何かもうひとつわからんね。大統領選挙なんかも関係あるんじゃないの」▼「そりゃ、無関係ではないかも知れない。ソ連砕氷船の出動も、良好な米ソ関係の誇示といえなくもない。だけど」「だけど?」「そんな要素だけでは、あれだけの大作戦にはなるまい。やはり基本的には、挑戦すべき事態があれば全力をあげて解決しよう、という米国人かたぎがあるな」▼「井戸に落ちた子の救出作戦などに表れる協力態勢だね。それにしても、クジラたった2頭だ。いくら金をかければ気がすむんだ」「60万ドル、とかいう数字を見たな」「その金額を投ずべき対象はもっと他にあるんじゃないの。アフリカには飢えている人がいるし、米国にも家のない人や困っている人がいるだろう」▼「必要なのはバランスだ、と言いたいんだね。たしかに、そういう議論はできる。だが、こんどの作戦に、環境をめぐる世の中の考え方が如実に表れたこともまた無視しにくい、という感じがする」「世の中といったって、欧米の一部の動物愛護論者だろう」「いや、アフリカ諸国などもだ▼話はひろがるが、いま、動物を資源とする考え方、人間と動物の関係が激変中だ」「関係?」「人間がふえ、生態系をこわし、日に1種ないし3種の動植物が消えてゆく」「野生の動植物との共生を目ざす?」「まだ、そのずっと手前。まず保護を、だよ。この話、6日のあやめ、ではないぞ」 心通う2人のはがき 【’88.11.3 朝刊 1頁 写図有 (全860字)】  そういえば、ここしばらく例のはがきが来ない。元気だろうか。東京の下町から最初に絵入りのはがきが届いたのは、10年ちかく前のこと▼はじめは、ニュースの感想だった。いつも美しい色の絵を大きく描いたはがき。上質の小型ポスターのようで目にたのしい。ときに、3枚つづき、というのもあった。時候のあいさつ、偶感が記されている。ラテン・アメリカ好きの男性なのか、中南米の風物の絵が多い。美人画もある。体調がよくないらしいのに、つねに明るい空気がただよう▼ありがとう、すばらしいという気持ちになるのは、量産品でなく、世界にこれひとつという手づくりだからだろう。この種の、心の通う絵入りの便りをかわすことが最近ふえている。ファクシミリにも、印刷物だけでなく手がきの絵を入れる人がいる。相手のため、手間ひまかけて、時間も費やして、字と絵をかく▼筆を使うのだから書も画も同源、ということか、中国では2、3世紀からいわゆる文人画の伝統がある。朝鮮の李朝(りちょう)時代にもあった。日本の文化にも、その伝承がある。絵をかいて字をそえる。あるいは、文の合間に絵をはさむ。人々の間で、それが現代ふうに生き続けている▼それぞれ、工夫をこらすところに喜びがある。素材も、内容も、きまった規則があるわけではない。何でも教則本、というご時世だが、こういうものに手引きはない方が面白かろう。推進運動をするほどのこともなし。あくまでも、ひとりひとりの独特の趣向に味が出てくる▼冒頭に記した読者とは別だが、この欄に毎日、絵入りのはがきをくださる人がいる。書いた内容につけて、さし絵が送られてくる形だ。達者なペン画に彩色。短い題と説明がつく。10年以上も前から、毎日のことである。無署名で、豊橋の消印。励まされる当方としては、どうぞ名乗り出てはくださらぬか、と書きたいが、名も明かさぬ、この無償の行為に、しびれてもいる。 「ウスメ・ヒカエメ・マジメ」竹下首相の表現 【’88.11.4 朝刊 1頁 (全847字)】  竹下さんが首相になって1年。その考え方や心理が十分に理解できたか、と考えながら、秋の1日、国会での発言を議事録でじっくりと読んでみた▼とにかく、まわりくどい話し方の人だ。「言語明瞭(りょう)、意味不明瞭」と野党議員。「私は平素慎重に言葉を選ぶ習癖がございます」はご本人の分析。その話し方に、こんな特徴があることに気づいた。「ウスメ・ヒカエメ・マジメの原則」とでも呼べばよいか▼まず、ウスメ。何でも薄める表現法である。「違うと思う」とは言わずに「ちょっと違うのじゃないかな、こんな感じを持っております」と言う。「かな」の多用は驚くばかり。かなかな、とまるでヒグラシである。変形だが、なのかな、ではないか、なかろうか、もお好きである。ひとつの答弁に、なかろうか6連発、の例もある▼辞書で「かな」をひくと「判断を保留して自問する意を表す」。保留だから責任はもたない。それをさらに「そんな感じがする」と、薄墨でぼかす。感じ、のかわりに、印象を持つ、気がしている、なども多い。「と思う」と断言するのがよほどきらいらしい▼ヒカエメは、文字通り謙譲の姿勢。やたらに「乏しい頭」「平素乏しい知識」「素人」とへりくだる表現が出る。「私なりに」の頻発も耳につく。私のごとき卑小のものが思うだけで絶対の真理とはいえないが、という限定の心理か。これにはヒカエメだけでなく、ウスメの効果もこめられている▼最後にマジメ。「勉強させていただく」「調べてみた」「率直に申し上げる」などが花ざかり。たいしたことでなくとも「非礼千万」と恐縮する▼竹下さんの表現につきまして、平素乏しい知識で、私なりに関心を持って勉強いたしましたところ、こんなことが言えるのじゃないかな、というふうな印象を持ちました。すこし非礼すぎるかな、という感じもございますが、私なりに率直に申し上げたしだいです。 ソ連、地図も情報公開時代 米はメルカトル採用せず 【’88.11.5 朝刊 1頁 (全846字)】  道順を知りたくて、見ている前で地図を描いてもらったことがある。めずらしいやり方だった▼駅を長方形に描く。駅前から、自分が歩く気分で道路を前方、つまり紙の上方へと伸ばして描いてゆく。四つ角を描き、ええと、ここを右折、などと言いながら、紙を90度、左へ回転させ、道をまた上方に伸ばす。角を曲がるたびに紙を回転させる。歩いて10分ほどの道のりだ。何度も曲がる。交番、たばこ屋といった目印の書き込みは、だからすべて天地がめちゃくちゃ▼うなりながらの、なかなかの力作だった。たわむれに人を幾何型と代数型などと分類するそうだ。地図を描いてくれた女性は、どうみても幾何型とは呼べまい。後日、利用する時、さまざまな方向の文字を読むため、紙をぐるぐるまわしながら、目的地に着いた。宝島などということばを思い出した。地図をたどる作業には、いつも楽しい興奮がある▼米ソ両国から地図をめぐるニュース2題。ソ連の地形図は、これまで、登山にもハイキングにも役に立たなかったという。スパイ恐怖症から地図は故意にゆがめられていた、と測量・地図製作の責任者が語る。「道路や川が移され、市街が広く引き伸ばされ……」というからひどい。それが改められ、情報公開時代の、頼りになる地図づくりがはじまった▼米国地理学会は、1922年以来のファンデルグリンテン図法による地図にかわり、新しくロビンソン図法を採用する、ときめた。これまでは、高緯度地帯の大陸や国が、実際の2倍から5倍以上もの広さに描かれていた。それが実際の姿に近く修正される。日本など、世界で広く採用されているメルカトル図法は、ソ連やカナダなどがひずみで大きく、米国地理学会は採用していない▼球形の世界を平面図にしてしまう。ひずみも避けられぬ。だが、現実とは別の抽象とわかってはいても、やはり地図は実像に近いに越したことはない。 黄落の季節 【’88.11.6 朝刊 1頁 (全847字)】  草木の葉が黄ばみ、はらはらと散る。色づいた実も落ちる。俳句の季語にいう、黄落の季節▼ちかごろ、黄落という字を見ると、一瞬別のことを連想してしまう。金権の世の中、黄金の輝きに目のくらんだ公人の名が次々にあらわれ、彼らに寄せる信頼がはらはらとはげ落ちる。そんなニュースの読み過ぎだろうか。「黄落や風の行手に地獄門」(翠舟)。どうもいけない。虚心に句を味わうことができず雑念がまじる▼リクルートコスモスの未公開株を譲り受けていた、とされる人の数が増えている。労働、文部の事務次官など、官界の要職にあった人々にまで株のばらまきは及んでいた。どちらの役所も、リクルート社の事業、江副前会長の活動と関係を持っている。官僚のトップがこんな形で問題になるなど、そう前例のあることではない▼文部次官だった時に、高石邦男氏はどんな主張をしていたのだろう。ご本人の書いたものを読んでみた。従来の教育は「貧に処する人間の生き方を教えることに主眼がおかれていた」といい「勤労の重要さ、分かち合いの心、忍耐心、思いやりの心、物を大切にすること、節約など、その例である」と書く▼そして「貧しい時代における教育手法では通じなくなった」ことを指摘し、「富に埋没するのではなく、富を有効に使いこなす人間に育てる教育手法が必要」だとして「富に処する教育」というものを訴えている。豊かな時代になった、との認識に立つ教育論だが、こんどの事態と「富に処する教育」の取り合わせが皮肉である▼しかも、株譲渡が明らかになったら、その利益を自分が理事長をつとめる財団に寄付するという。加藤前労働事務次官も福祉団体に寄付すると言った。寄付すればすむというものでもあるまい。おおやけの利益につくす国士の志、気概、そして香気はどこにいったのか。貧の時代のものなのか▼「黄落や香りにひと日縁なく過ぎ」(湘子) 8888回目迎える「秋山ちえ子の談話室」 【’88.11.7 朝刊 1頁 (全857字)】  88・11・11・8888。この数字の羅列は何を意味しているのだろう。まず、なぞなぞから▼種を明かすと、ことし、つまり88年の11月11日に「秋山ちえ子の談話室」というラジオ番組が8888回目を迎える、という意味だ。TBS(東京放送)で毎週月曜―金曜、午前10時からの10分間、秋山さんは毎日の暮らしの中のいろいろな話題を拾って話す。30代にはじめて、いま70代になった。最長記録である▼はじめのころは、自身、3人の子どもを育ててもいたので、育児の話題などが多かった。最近は、老後や死の問題、人間のしあわせなどについて話すことが多い。映画や読書の感想も話す。なんらかの話題と意見を毎日。たいへんなことだ。感覚、知覚を全開にして日々を生き、味わわなければならぬ。肩ひじ張らずにそれを続ける秋山さんの生き方は、どんなに多くの人を力づけたか▼放送を聴いていたひとり暮らしの老人が、遺産3500万円の受取人に秋山さんを指定した話。それを女性の施設に寄付した話。いろいろなことがあった。「種をまく人間のしあわせを感じます。こわい気もしますけれど。1人の力はたかが知れていますが、1人が始めなければ何も生まれませんし」▼ある年の8月15日に「かわいそうな象の話」(土家由岐雄作)を読んだ。上野動物園で戦争中に象が餓死させられる話。反響が大きく、この22年間、毎年読む。小学校の教科書にのり、米国の副読本に、また欧州でも、と出版の話がひろがっている。「戦争のおそろしさ、みじめさ、悲しさ、あわれさは、くりかえし話しておきたい」▼「ちいさなしあわせが理由なくくずれる、としたら戦争のためです。それには反対し続けたい」とも秋山さんは言う。今回のふし目の記念に、日ごろ、野菜づくりの好きな秋山さんは「野菜の花」という、うつくしい随想集を出版した。部数?  もちろん8888部だそうだ。 米大統領選挙戦、中傷合戦に各紙はうんざり 【’88.11.8 朝刊 1頁 (全857字)】  ブッシュ氏(共和党)、デュカキス氏(民主党)のどちらが当選するだろう。8日は、米大統領選挙の投票日である▼もう終盤のある日のニューヨーク・タイムズ紙。「2人の善人」という長文の社説が両候補を分析している。米国では、選挙の時に支持候補を明記する新聞が多い。そこで読み進む。両者どっこいの力量、と書いたあと小差でデュカキス氏に軍配、としている。それではワシントン・ポスト紙の社説はどうだろう。何と「今回は棄権する」という結論だ▼ポスト紙だけではない。米国の業界誌によると、支持候補がきまらない、あるいは支持表明をやめた、という新聞が過半数、と数日前の報道にあった。これはどういう現象か。「ひどい選挙戦で、国じゅうが失望した」というのがポスト紙の理由だ。「本当は2人とももっと善良で、力のある人物なのに」とニューヨーク・タイムズ紙▼テレビ画像が実体とずれ、等身大の候補像が伝わらない、という指摘だ。「何と不快で表面的で人に誤解を与える選挙戦か」と同紙はいう。テレビを最大限に利用しての中傷合戦にうんざり、という論調がほかにも目立つ。ベトナム戦争のような大問題もなく、平和と繁栄の中で、論争よりも中傷、という見方もある▼「ブの字とデュの字とどっちが強い?」と聞きたいところだが、「Lの字」の扱いも真剣な話題になっている。「Lワード」つまりLの字とはリベラリズムのこと。公立学校での国旗への忠誠宣誓の問題、死刑、妊娠中絶といった問題で、ブッシュ陣営は「民主党のリベラルな考えは米国社会の安全と秩序を崩す」と攻撃した。まるでLの字の考えが悪いかのように▼指揮者のバーンステイン氏など新聞への投稿で「私はアメリカのリベラル。誇りにしている」。奴隷解放も公民権運動も無料公教育もすべてリベラルな考えが基礎だったと、Lの字の米国における重要さを力説する。Lの字の命運も気にかかる選挙だ。 金銭感覚 【’88.11.9 朝刊 1頁 (全868字)】  「有っても苦労無くても苦労」とことわざにいう。金と子どものことである。いや、金はあるに越したことはない、と思う人も多かろう。金銭感覚について本社が世論調査をした▼同じ100万円でも、働いて得た100万円の方が、宝くじで当たった100万円より価値が重いと思うか。同じだと思うか。調査の結果は「重い」90%、「同じ」9%と出た。ほう、まだまだ、人は勤労の意義を重視し、いわゆる不労所得をいさぎよしとしないのだな、と思わせる数字だ。「祈るより稼げ」のことわざどおり▼だが、9割もの人が不労所得に冷たい顔をしている割には、と疑問も起きる。労せずして金を手に入れようとする傾向が、ちかごろ目につくのではないか。金がらみの犯罪も多い。金融機関につとめる人の詐欺や、保険金目あての殺人、もうかりますよと客を集めてだます商法。だます方はむろん、だまされる方にも「欲と2人連れ」の場合がある▼米国の企業の親玉は、かつて、ものをつくる人だった。やがて、製品をうまく売った人が親玉になる時代が来る。いまはその次で、売ってもうけた金を上手に運用する財務専門家の時代だ。日本も同じ変化を経験しつつある。産業構造も変化中だ。それにしても、国じゅうが金の運用をこうも意識するのは開闢(かいびゃく)以来のことだろう▼だが、だからといって、人々は金万能だと思っているわけでもないらしい。「金さえあれば、たいていの楽しみは手にはいると思うか、思わないか」という問いへの答えは、3年前の答えにくらべると、意外にさめていた。半数近くが否定的だということには、したたかな常識があらわれているように思える▼もっとも、さめているというより、あきらめている、というべきか。なにせ地価だけを考えても、働いて手にする金の力の限界をさとらされる毎日だもの。金銭感覚がおかしい、と思うものの筆頭には「政治家の資金集め」が来た。さもありなむ。 素朴な発言、行動力の人 茅誠司さん死去 【’88.11.10 朝刊 1頁 (全846字)】  茅誠司さんが89歳で亡くなった。東大学長をやめたあとも、いくつもの組織の長をつとめた。その身に、人をひきつける磁力を帯びていたのだろう。専門は強磁性結晶体の磁気的性質の研究。物理学者である▼東京高工の学生の時のあだ名が「馬力」、北大教授時代のあだ名は「無分別」だった。素朴でまっとうな発言。率直な話し方。そして行動力があった。新聞社にはありがたいことだが、投書をよくくださった。「声」の欄に、草花のこと、ゴミ追放の成功例、など具体的な指摘を寄せた▼だいぶ前のことになる。18歳以上の自閉症者の更生施設をつくろう、と自閉症児の親たちが考えた。シイタケ栽培などで社会的自立をはかろうというものだ。10年越しで用地をさがし、埼玉県・鳩山村の国有林が借りられることになった。だが住民の一部が反対した。お気持ちが少しでも変わるなら、といって茅さんは住民説明会に出た。茅さんには自閉症の孫がいる▼自閉症は乱暴しない、物事をすべてゆっくりやる、超然としているようなところがある、自分の意思を表さない……と、心配のないことをくわしく説明、「人間としてそれなりに生きていける場を与えてやらない限り親は死んでも死にきれないのです」と訴えた。説得は実らなかった。やっと3年前に、川越市に「初雁の家」という施設ができる▼「これで親はいつ死んでも安心です」と、病をおして開所式に出た茅さんはあいさつした。お孫さんはここで自立への道を歩いている。副理事長の須田初枝さんによると、近くの農家から「イチゴをとりに来んかね」と声がかかる。成人のお祝いに行列をつくって鎮守の森にゆくと、人々が拍手で迎えてくれた▼学長として東大卒業生に贈ったことば、「小さな親切を」は、現代への茅さんのメッセージだろう。心と心の間に働く磁力を信じていた人のことばだった。なにげない表現に、含蓄が深い。 韓国をゆるがすセマウル疑惑 【’88.11.11 朝刊 1頁 (全846字)】  「旧官が名官」と、韓国のことわざにいうそうだ。前任の人が後任者よりよかった、と思う人情の機微をついたものらしい。でも、いまの韓国の様子は、ちょっと違う▼全斗煥前大統領とその一族の不正への疑いが、国をゆるがしている。実弟の全敬煥元セマウル(新しい村づくり)運動中央本部会長に、業務上横領や収賄で実刑判決。李順子夫人が会長だった新世代育英会に、約223億ウォン(約40億円)の寄付金の管理などで不正の疑い。さらに夫人の実弟、前大統領の実兄なども利権を得ていたらしい、というぐあいだ▼五輪を終えたあと最優先の政治課題は、との世論調査に「全政権時代の不正解明」をあげた人が48.2%で首位。全夫妻を逮捕せよ、と叫んでいるのは学生たちだ。はげしい。2万人ものデモ。手製の爆弾や石が飛び交う。警官隊も応酬し、連行する。「煮え立つ粥(かゆ)を杓子(しゃくし)で押さえる」のことわざ通り怒りが高まっている▼国会の動きも目ざましい。第5共和国非理(不正)調査特別委員会ができ、疑惑44件の調査をきめた。また、16年ぶりに国政監査をはじめた。すでに、国家安全企画部(旧KCIA)など、聖域のようだった機関へも調査の手がはいった。前政権時代の不正や、人権弾圧事件などの追及が進む▼前政権との断絶を、と迫られているのが盧泰愚大統領だ。だが、前政権のあとを受けて誕生した政権だけに、ここは「浅い小川も深く渡れ」の用心が必要。義理もある。といって、勢いにまかせれば共倒れになりかねない。すでに学生たちのプラカードに、全夫妻と並んで盧大統領の名も書かれている▼全斗煥氏が謝罪し、不正取得した財産を国家に返還し、故郷に帰る、といった幕の引き方が取りざたされている。週明けに外遊から帰る盧大統領も、決断せざるを得まい。待つのがもどかしい思いは、「孫の還暦が迫る」と表現するそうだ。 自民の税制法案強行可決 【’88.11.12 朝刊 1頁 (全847字)】  相当なものだった。テレビにうつる、10日の衆議院第1委員室。ヤジと怒号、ボリュームいっぱいのマイク。おびただしい衛視。立法の府の、このおぞましき騒ぎを、多くの人が、やれやれと思いながら見つめたのではないか▼騒ぎもさることながら直後の竹下さんの言葉にやれやれは倍増した。「速記もいるし……」のひとことだ。たしかに、速記者が記録をとれなければ正式の議事として成り立たない。だが速記がとられ、手続きに遺漏なく議事が運ばれれば問題はない、というものでもあるまい。宰相の感想としては、あまりにも事務的だ▼法にふれているわけではない、という論法を思い出した。未公開株の譲渡は法にふれていないかも知れぬ。税制問題の特別委員会も速記者がはいって議事運営はきちんとしていたかも知れぬ。だが、それで十分、とは割り切れぬものがあることを、多くの人が感じている。人々の感じ方、考え方に、自民党はもう少し想像力をめぐらせてもよいのではないか▼これまでいくつもの重要問題がいわゆる強行採決できまった。舞台裏ならぬ公開の場で、話し合いによって妥協点に達する、という技術はいまだしなのだろうか。野党のあり方にも問題はあっただろう。しかし、今回はいささか事情が違う。第1に、リクルート疑惑がひろがりつつある最中のことである。第2に、いまの自民党多数の議席は、大型間接税を導入しないと選挙で公約して得られたものだ▼リクルート疑惑と税制審議とを「それはそれ、これはこれ」と切り離して考えられない人が多いのには理由がある。疑惑は、資産課税に抜け穴があることを明快に見せた。ところが、税の不公平をなくす論議をする人々の中に、抜け穴の面白さを知っている人たちがいる。ふつうの人の常識では、これは重なり合う▼「速記もいるし……」の発想で、政治への不信をくいとめられるか。危うきかな、かたきかな。 ナチス犯罪に時効はない 【’88.11.13 朝刊 1頁 (全845字)】  水晶の夜。ドイツ語で、クリスタル・ナハト。響きは詩的だが、実はおそろしい一夜だった。1938年の11月9日から10日にかけてのことだ▼発端は、その2日前のパリでの事件である。ドイツ大使館員が、ポーランド系ユダヤ人の少年に殺された。ナチス政権のゲッベルス宣伝相は、これを利用するような形で、ユダヤ人への報復をドイツ国民に呼びかける。一夜のうちにドイツ全土のほとんどのシナゴグ(ユダヤ教の教会堂)が焼かれ、破壊され、7500のユダヤ人商店がたたきこわされた▼教会堂や商店のガラスが街路いっぱいに散らばり、街灯のもとでつめたくきらきらと輝いた。水晶の夜、と呼ばれるゆえんである。ユダヤ人の死者は91人。3万人近くが強制収容所に送り込まれた。ヒトラー政権はユダヤ人に贖罪(しょくざい)金として10億マルクを科し、国外強制移住を行い、ユダヤ人の生存をおびやかしはじめる▼結局は、総数600万といわれる大虐殺にゆきつく、その第一歩が、水晶の夜だった。今月は、それからちょうど50年である。驚いたことに、記念追悼集会でイエニンガー西独連邦議会議長がヒトラー時代を評価するともとれる発言を行った。人びとは怒った。まだ亡霊が、の思い。同議長は辞任した▼水晶の夜については、それ以前から存在していた反ユダヤ感情と、耐乏生活の不満が結びついて迫害が起きた、という分析がある。それにもとづいての議長発言だったかもしれない。しかし、ドイツの人には、自分たちの無関心、沈黙が非人道的なナチスの犯罪を助長した、との反省が強い。「大多数の国民がユダヤ人迫害に沈黙を守っていたことを、われわれはいまだに苦痛とし恥とする」とコール首相はのべた▼西独でもオランダでも、ナチス犯罪に時効はない。追及が続く。追及も反省も、外国の話としてではなく、人間の問題として、無視できぬ重さを持つ。 三木元首相のことば 【’88.11.15 朝刊 1頁 (全844字)】  81歳で亡くなった三木武夫さんに、「嫁ぐ娘に贈る」という一文がある。「娘、紀世子を思う時、それは直ちに戦争の記憶に連なる」という書き出しだ▼戦時中、幼かった長女を郷里に疎開させた時の思い出にはじまり、結婚した娘のしあわせを願う父親の気持ちがつづられている。外務大臣の時、請われて雑誌に書いた。淡々とした、情理兼ね備えた文章だ。この人は自分で文章を書くことを実にだいじにした。自分の発言には責任が伴う。「だから、文章作りを絶対にゆるがせにはできないんだ」と言っていた▼首相の時に、国会で施政方針演説を2回、所信表明演説を3回やった。どの場合も自分でこつこつと書き上げた。ふつうなら、首相演説は、各省が提出する官僚作成の草案にたよってまとめられる。三木さんは毎回自分で書く。自分の文だから演説も堂々としていた。張りのある渋い声に、力強い文。その力強さを、文人政治家の井出一太郎氏は遒勁(しゅうけい)と評した▼三木さんにはりっぱな演説・発言集がある。近ごろの政治家の中で、自分のことばによる演説が出来て、それが似合った最後の人かも知れぬ、と思う。政治にとってのことばの重要性を知り、ことばの力を信じていた人だった。考えをまとめるためのメモづくりも周到だった▼1975年に、首相の靖国神社参拝への道を開く。現実への妥協の一例だろう。だが、どちらかといえば、その発言は書生論、理想論とされることが多かった。理想論が力を発揮したのはロッキード事件の時だ。「三木首相は捜査に関してはひとこともおっしゃらなかった。さいわいだった」と、当時の布施検事総長がのちに退官の弁で語った▼金権政治についての三木さんの意見。その言や、よし。「政治は力だ、実行力だ、といっても、社会正義や政治倫理とのバランスを欠いた政治に民主政治の成熟も、社会の真の安定もあるはずはない」 日米双方に直言したマンスフィールド駐日大使 【’88.11.16 朝刊 1頁 (全847字)】  マンスフィールド米駐日大使にインタビューしたことがある。話がはじまる前に、つと立って大使は執務室の奥にはいった。何やらごそごそ。やがて、コーヒーのカップとポットをお盆に載せて出てきた。部屋中によい香り。自らいれて、すすめながら「さて、何から話すかな」▼その立ち居振る舞いは、米国の画家ノーマン・ロックウェル描くところの典型的な米国人。飾りけがなく、直接的で、誠実、素朴な温かさにあふれている。話しぶりも、枯淡、率直、ものごとの核心をずばりとつく。硬い問題についてひと通り質疑応答を重ねるうち、思わず個人的なことまで聞きたくなってしまった▼第1次大戦のとき、14歳なのに18歳といつわって海軍にはいる。さらに陸軍、海兵隊にはいり、フィリピン、中国に派遣された。当時の日本にも寄った。「この地域を知り、重要性がわかりはじめたのは海兵隊のときだ」。帰国し、郷里モンタナ州ビュートの銅鉱山で働く。鉱山学校で学ぶうち、そこで教えていたモーリーン夫人と知り合う▼「自分は8年間の初等教育も終えていない、と話すと、彼女は勉強するようにと勧めた。不況のさなかだった。妻は保険を解約して現金をつくり、私に通信講座をとらせ、私は高校卒業に必要な単位をとった。その後私はビュートを出てモンタナ州立大学で学んだ」。妻に支えられて勉強した鉱山技師は、やがて政界に出て、米上院の長老となる▼大使として際立っていたのは、日本にも米本国にも直言し、それが重みをもっていたことだ。本国に対しては、過度に日本の防衛努力を求めるのをいましめ、日本には市場開放をきびしく要求した。太平洋の時代に、日米友好関係は最も重要だ、と考えていた▼冒険家、植村直己さんを語るのに熱がはいる。若い世代への期待を自信をこめて話すさまが印象的だった。「おとなと、その時代おくれの考えの方が心配だ」といった。 竹下首相の達者、何がなんでも税制改革にケリを」 【’88.11.17 朝刊 1頁 (全844字)】  「税制改革の問題を、何がなんでもこの国会でケリをつけることにより、来年からの明るい課題に取り組まなければならない」(竹下首相、自民党全国政調会長会議で15日)▼「何がなんでも」と言っただけのことはある。いや、達者である。水際立っている。実にたくみにことは運ばれた。着々と、粛々と、の心境であろうか。16日の税制法案採決で、首相は心に期していた目標をいっきに達成した。まず、2野党の参加で自民党の単独採決を回避できた。そして、リクルート問題を、別に委員会をつくることで切り離した▼水面下での2野党への働きかけがものをいったらしい。公明党は関係者の名が党内に出たことから、リクルート疑惑解明に強い姿勢をとらざるを得ぬ。そこで、証人喚問とリスト公表を約束して同党の参加を求める。民社党に対しては法案修正で譲歩を約束、参加してもらう。3つの党による国会討議だ。形は整っている。竹下式国会運営術に、間然するところなし▼と言いたいが、右は、あくまでも国会対策の面に限っての達者さである。強行採決をやり、妥協を引き出し、といった永田町でのかけひきの話。そこから離れ、国民的合意を目ざした政治、指導性のあり方からみれば、また別だ。長い間、人びとの生活に影響する税制である。十分な審議をつくすべきだ、と考える人は多い。強引すぎる、との不満感が残りはしないか▼いまになって、こんな株譲渡リストが出てきたのには驚く。すでに報道された人名ばかり。はじめての名がひとつ。古いケーキのてっぺんに、新しいイチゴをひとつのせた観あり。疑惑は消えぬ。公表されたからには、リストの中の公人たちの証言をぜひききたい。証人喚問を、江副氏たち3人に限る必要はない▼冒頭の首相発言の、「明るい課題」。いま、竹下さんの心象風景、よほど暗いのか。それとも、国民の心境を言ってくれているのか。 ミッキーマウス、満60歳に 【’88.11.18 朝刊 1頁 (全859字)】  きょう18日、満60歳の誕生日を迎える人物がいる。いや、人物ではなかった。正確にいうと、1匹のネズミである▼その名はミッキーマウス。世界でもっとも有名なネズミだろう。初のアニメ・トーキー映画「蒸気船のウィリー」の封切り日が60年前のきょうだった。「人畜無害のいいやつ。窮地に陥るのも自分のせいじゃない。でも、いつもなんとかしてはい上がってきては照れ笑いしているかわいいやつ」と言ったのは、原作者のウォルト・ディズニーだ▼映画スタジオのくずかごに人がサンドイッチの食べ残しを捨ててゆく。ネズミがふえる。ディズニーはネズミたちをかごに入れて飼う。引っ越しの日、ネズミたちを放した。すると、モーティマーと名づけた1匹が、名残惜しそうにディズニーを見つめていた……というのがミッキー誕生のきっかけとなる挿話である▼ミッキーは、米国、中西部の農場で育ったディズニーによく似ているといわれる。冒険心。正義感。洗練とは縁遠い。少年のような野心。裸一貫からたたき上げた人間へのあこがれ。そして、生涯ひとりの女性をたいせつにする心……。ミッキーは米国人の人気者となった。はじめは、素手にはだし。やがて、くつをはき、手袋をはめ、眉(まゆ)毛もはえて人間に似てくる▼子どもたちへの影響が大きい。いきおい、だんだんと模範少年に成長する。あとから誕生させたアヒルのドナルドダックが、怒りっぽくて暴れん坊の性格を担当する形になった。ディズニーについては、人びとから想像の余地をうばい、あまりにも人工的な世界をつくった、との批判がある。だが、米国だけでなく各国に彼の世界はひろがった。その中心に、ミッキーがいた▼ユニセフ(国連児童基金)の親善大使にミッキーをという話は、先日、任命せずときまった。各国をまわって話をするには、やはり生身の人間が向いているからだろう。ミッキーには、夢の世界こそふさわしい。 横綱千代の富士、45連勝 【’88.11.19 朝刊 1頁 (全853字)】  蕪村に、こんな句があった。「負(まく)まじき角力を寝ものがたり哉(かな)」▼角力はもちろん相撲のこと。ここでは「すまひ」と読むらしい。この句、2通りに解釈できる。負けることはないでしょうね、と立ち合いの前夜に話し合っているのか。それとも、いや、負けるはずがないと思ったよ、と結果が出たあとで話題にしたのか。どちらをとろうと、ご自由だ。昨夜の読者諸賢は、おそらく後者だったのではないか▼ついに、横綱千代の富士が45連勝を達成、同じ記録をもつ大鵬と並んだ。最高峰には「不滅の69連勝」と呼ばれる双葉山の記録があり、ウルフは単独2位に迫ったことになる。双葉山のころは1年に2場所だった。6場所のいまとくらべて、連勝はどちらがむずかしいだろう。2年半もの間、体調を維持するのと、忙しい半年あまりを全力で駆け抜けるのと▼記録もさることながら、相撲の面白みはやはり1番、1番の取り口だ。毎回の地味な努力の結果が、晴れがましい数字になった。不断のけいこがあればこそ、だ。浅黒く、分厚い胸板。筋肉の盛り上がる肩。やすみなく鍛えぬいていることが歴然のからだ。バーベルなどを使って筋力・減量訓練にはげむ現代ふう、スポーツ選手的な力士である▼身長183センチ、体重123キロは、角界では小兵といってもよい。200キロを超す力士も出てきた肥満・重量時代だ。その中で力を発揮するには体調管理が欠かせない。千代の富士のからだをよく知る日本相撲協会の林盈六医師にきいてみた。「最大の特徴は、むだな脂肪がいっさいないこと」だそうだ。一般成人男子の脂肪の量は体重の15%だが、千代の富士は10%。ちなみに小錦は40%▼次に、と林先生。過去10年間の内臓諸器官の機能が完全に正常。さらに「筋肉にさわると、力士の中でいちばんやわらかい」。しなやかな筋肉の持ち主、昨夜はさすがに硬くなっていたようで。 励まし、ほめることの大切さ 【’88.11.20 朝刊 1頁 (全844字)】  中国でゴルフをやってきた友人がゴルフ場の様子を話してくれた。中国人女性のキャディーがつく。日本人客のため、全員、訓練を受けていて、片言の日本語を話す。きまり文句が2つあったそうだ。「センセイ、ダイジョウブデス」と「ガンバリマショウ」▼あまり上手でない友人、まず第1打から打ち損なう。「センセイ、ダイジョウブデス」。やっと打てた。ところが、球は林に消えた。「センセイ、ダイジョウブデス」。林の中。打ち出せるかな。「ガンバリマショウ」。ようやく出たが、こんどはバンカーへ。「センセイ、ダイジョウブデス」。グリーンにたどりつく。「ガンバリマショウ」▼いや、励まされることが、あんなにいいものとは知らなかった、と友人は述懐した。「それも、たった2つの表現で、ね」。律義に、懸命に、励まし、そして拍手でほめたキャディーさん。「だれが、あんなにうまい言葉を教えたのかな」と自信を得た友人の感心することしきり。子どもも、しかるだけでなく励まし、ほめることがだいじだ、という話になった▼コップに水が半分はいっている。これを「半分ある」と見るか「半分からっぽ」ととるか。違いが出るところだ。ものごとを積極的に見てゆく。禁止するより激励する教育の方が子どもの意欲と可能性を引き出しやすいのではないか。そんなことを考えている時に、教育行政の元締だった高石前文部事務次官の記者会見があった▼思い切って、ほめ、励ます、としたらどう言おう。えらい、さすがだ。ウソをついていた、と認める潔さは見習いたい。やはり夫人の独断でなく、相談してのことなのか。緊密な対話の存在は夫婦のかがみ。それに、こんな事態にひるまず、衆院選出馬の初志を貫くとは、全くもって見上げたもの……とでも言いますか▼こういう官僚や国会のセンセイたちに、本当はこう言いたい。「センセイ、ダイジョウブデスカ」 図書館ネットワーク 【’88.11.21 朝刊 1頁 (全847字)】  米国で、米国人の友人一家と夏休みを過ごしたことがある。第1日、海岸の家に落ち着くと、まずみんなで町へゆく。最初の仕事は食料を買うことだ。その足で図書館にまわり、名前を登録した。どこへ行っても、いつもこうする、と友人▼米国人は実によく図書館を利用する。図書館の数も多い。ざっと10万館、という。人口がおよそ半分の日本には5万館あるだろうか。いや、その20分の1もない。約1700館だそうだ。数は少ないが、いま図書館の世界に新しい工夫がはじまっている。名づけて図書館ネットワーク▼読みたい本が図書館にないとき、それがどこの図書館にあるかを見つけ、入手できるようにするための情報連絡網だ。北海道の北見市と、置戸町、訓子府町など周辺八町で、この試みがはじまった。域内9つの図書館にコンピューターを置いて、蔵書データをそれぞれ入力する▼「過疎地の小さな自治体が持てる本の数には限りがあるが、9館あわせれば50万冊の規模になる」と北見市立図書館の浦本満男館長。その全蔵書が検索できれば、域内の人びとが利用できる本の範囲はひろがる。図書館も本を分野別に、分担購入できる。訓子府町は1人あたりの年間貸し出し数が16.5冊と、全国一。図書館活動のさかんな地域だ▼情報ネットワークの次は、配送網である。日本図書館協会の栗原均事務局長によると「同1自治体の中での図書館同士の本のやりとりはふえている。複数の自治体間、種類の違う図書館の間でのやりとりが、今後の課題」。北見地域のような動きはひろがりつつある。いつの日か全国ネットワークができるだろう▼ミッテラン仏大統領は、来年の革命200周年に欧州全域と結ぶ大図書館建設の構想を発表。ユネスコなどにも、気宇壮大な世界的規模の図書館網の計画がある。国立国会図書館は、「図書館の未来を考える」というシンポジウムを22日に開く。 動かないテレビの画面 リクルート証人喚問 【’88.11.22 朝刊 1頁 (全857字)】  衆院リクルート問題調査特別委員会の証人喚問のようすをテレビで見た。いや、厳密にいうと、聴いた。証言中は動く画面がほとんどなく、声が聞こえるばかり。テレビの箱がラジオに化けた日だった▼動く画面をうつさないのはなぜか、という電話が、夕刻までに500件以上NHKにかかったという。なぜか。議院証言法の改正のためだ。「証人に対する尋問中の撮影については、これを許可しない」(第5条の3)。許可しない、というから全面禁止だ。法廷では、撮影などは「……裁判所の許可を得なければ、これをすることができない」(刑事訴訟規則第215条)と制限規定になっているのに▼法改正は証人の人権尊重が目的だ。「人民裁判的で、つるし上げ」になる、と自民党には国会での証人喚問に否定的な意見が強かった。改正では、証人が補佐人を選べるようにし、「威嚇的または侮辱的な」尋問はいけないと明記した。と同時に、撮影が禁止ということになった。人権を損なうおそれがあるのは、どちらだろう。尋問の仕方か。それとも、うつし出すカメラか▼NHKは、証人喚問の直前に、3台のカメラを使い、証人を呼ぶ委員室を70通りの角度から撮影したという。声だけの放送の間に、さまざまな静止画面を見せるための工夫だ。証言中の国会を、ヘリからうつしもした。これほど大きな問題だ。本来は、声も映像も公開、がいちばんいい。NHKが人々の関心に最大限こたえようとした努力を買う▼今回の喚問で、人権上の問題はなかったのではないか。人権を尊重し、しかし、公人の社会的責任にかかわる事実関係はきちんと問いただす。その基本が守られれば、撮影を認める方向で、法をまたあらためてもよくはないか▼質問には重複や無駄な発言があった。追及の迫力十分だったとは言いがたい。カメラを遠ざけた法の改正、まさか、たよりにならぬ質問者を隠すための遠謀深慮ではありますまいね。 「かいしゃ川柳」にみる会社勤め百態 【’88.11.23 朝刊 1頁 (全862字)】  本紙「ウイークエンド経済」のページにある「かいしゃ川柳」欄。毎週、投稿が多い。会社勤め百態の観がある▼「単身の夫に電話で食べさせる」渡辺史郎。きょうの休日、単身赴任の男や女は、ひさびさに家族といっしょに過ごしているだろうか。「単身赴任始めて知った妻の文」高松重孝「ドラマほど単身赴任に濡れ場なく」酒井たけお。単身赴任者の数17万5000人と労働省調査はいう。子どもの目には、「単身の父は細って母太り」一色由香里「単身赴任父の分までしかる母」桑田信輝▼勤めているとストレスがたまる。「朝起きて休む理由が見つからず」日下部修一。観念して外出だ。「ポケットベル鳴ってコーヒーまずくなり」松添信夫。やがて「引き出しの売薬いつのまにか増え」小谷津ゆきお。えらくなると、「副のつく席で胃ぐすり切らせない」遠藤正利「胃の痛み会社の景気医者が聞き」木村文治▼本心はともかく、辞職を口にする人が意外に多い。「辞めますとタンカをきれる能もなし」浅野寛「宝くじ外れてまじめに出社をし」岩城英雄。いささか深刻なのもあった。「子の寝顔みつめて辞めぬことにする」松村総七郎。結局、そうかんたんにはゆかない。「辞めるなよ辞めたら負けと元同僚」向井十二郎。もっとも、若い間は様子が違う▼「女子社員上手に休暇取っている」松井勝治「うらめしく貴族のプラン課長聞き」堀ひとし。中には、落ち着きとやさしさを思わせる、こんな句もあった。「3日分花に水やる金曜日」高橋和子。花との対話。これが真のハナキンだろう。「サラリーマンの哀歓がにじむ。めそめそしたのばかりでなく、明るいのもいい」というのは、選に協力している神田忙人さん▼そういえば、だれしも「優秀な人材だった入社の日」戸倉正三。一家を背負って働くうちに、疲れも身体のすみずみまで。せめて休日くらい、のんびりしたいのに、ああ、「有能な亭主家では置き場なし」藤野光世。 初冬の街路を歩く 【’88.11.24 朝刊 1頁 (全868字)】  山でくりひろげられていた色の饗宴(きょうえん)が、あふれ、こぼれて、里へ、街へと降りてきた。いま、都会でも紅葉、黄葉のまっさかり▼いっせいに明るい黄色に衣がえをしたイチョウ並木がうつくしい。木によって、また同じ木でも枝の位置によって、黄葉の度合いが違う。それもまたよし。緑から黄へと、微妙に異なる色調が混在する。ひと晩でも冷え込んだら、真っ黄色になるか、と思わせる。すべての葉が黄色に輝いている木を見ると、つめたい風がひと吹きしたら散ってしまうのではないか、と危ぶむ▼黄葉したトサミズキの夕暮れの姿に、しばし見とれた。くろずんだ幹を背景に、黄色の葉が浮かび上がり無数に宙に舞っている。その乾いた色。点描の画家にもこうは描けまい。名手の作品である。透明に近いようなハナミズキの紅葉と、かれんな赤い実。それらに何げなく飾られた街路を歩く。ぜいたくな気分だ▼霊長類の研究で知られる河合雅雄さんから、アフリカの気候のことをうかがったことがある。エチオピアでの話。乾期にはいると、雨はもちろんのこと、雲とまったく無縁になる。来る日も来る日も真っ青な空。これが何カ月も続くと、やりきれない。ようやく雨期が近づき、ある日、地平線に雲が出現する。狂喜したという。「当時の写真を見ると、雲ばかり写している。よほど感激したんでしょうな」▼国によって、冬がほとんどなかったり、春と秋が極端にみじかかったり。1年が四季に等分されている日本は恵まれている。移ろう自然のすがた、造化の妙を、味わいおそれる心。生きているものの営みへの目。それらがとくに鋭敏になるのは、いまのような季節の境目だ。ひともまた、衣をかえ、日々、厚い重ね着となる▼カリンの木の下を歩いていたら、こぶし2つ分ほどの大きさの実がどすんと落ちた。黄色いラグビーボール。そこから放たれるかすかに甘い香りが、初冬の室内にただよっている。KW OFF 時間旅行は理論的に不可能ではない!? 【’88.11.25 朝刊 1頁 (全858字)】  時間旅行、タイムトラベル、ということばがある。いまの時間から抜け出し、自由に過去や未来へ飛んでゆく。科学小説などによくある話だ▼これが、理論的に不可能なことではないという。米物理学会の学術専門誌「フィジカル・レビュー・レターズ」にカリフォルニア工科大の理論宇宙物理学者3人が研究論文を発表した。何でも、宇宙に存在すると考えられているワームホール(宇宙の虫食い穴)という現象を利用すれば、時間的、空間的に遠く離れた世界に、ほぼ瞬時にゆけるのだそうだ▼へえ、面白いな、と思う。だれしもそんな空想をすることがある。そんな想像から文学作品や映画も生まれる。「戦国自衛隊」は、自衛隊の1個小隊が戦車やヘリもろとも突然戦国時代に出現、武田信玄の軍勢と戦う。英国映画「時空を超えた戦士・ビグルス」では、現代米国の青年が第1次大戦の英独の戦線に投げ込まれる。米映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、両親の青年時代の過去に飛んでゆく青年の話だ▼時間旅行の可能性は想像力を刺激する。もしも過去に旅して若い時の親を殺しでもしたら、自分の存在はどうなるか。右の米映画では、青年が、独身のころの実の母親から恋心をもたれて困るところがある。過去の人々から見れば、突然現れるのは未来からの人間だ。未来の世界で発明される道具や、未来の風俗、社会情勢などを知っているふしぎな存在▼時間旅行を扱う旅行社があったら、いまごろはきっと忙しいだろう。リクルート疑惑に関係のあるご一統さまが、団体旅行を申し込んでいるかも知れぬ。ちょっと過去にもどり、未公開株を配る前の会議で計画をつぶす発言をしたり、譲渡の話があった場面で「とんでもない」と断るなど、いろいろやり直したいという人も多いのではなかろうか▼米国の論文は、理論上の可能性を示しただけで、とても実現はむり、と専門家。やはり歴史に「もしも……」はないか。 投げ銭のすすめ 【’88.11.26 朝刊 1頁 (全856字)】  山梨県の中富町で続いている「投げ銭講演会」が好評だそうだ。若者たちが永六輔さんを招いて始め、ことし5回目を迎えた。畳の上で、人生、時事問題などについての話を聞く▼面白いのは話を聞いた人が、自分できめた入場料金を、段ボール箱の中に投げ込んで帰ることだ。10円、100円玉、1000円札。「価値がないと思えば、ただでも結構」と永さん。芸のあと、ざるを持ってまわるサルまわしの「サルまね」だという。いつも3万円前後になるが、若者たちの集まりの資金にと大半残してゆく▼投げ銭とはなつかしい言葉。いわゆる大道芸、門付芸(かどづけげい)などが多かった時代の表現だ。戦前はサルまわしや獅子舞(ししまい)が珍しくなかった。考えてみると、最近の生活では投げ銭の機会はほとんどない。おおらかな大道芸が減って、芸が室内にはいったり、スポンサーつきになったことが原因だろうか▼どこの国でも、物まねや歌、踊りにはじまる各種の大道芸は大昔からあった。近代ややすたれたが1960年代の後半からまたさかんになった国が多い。舗道に絵を描いたり、楽器を演奏したり、タップダンスを踊ったり。日本でも若者のパフォーマンスは盛んだが、ほとんどは投げ銭を期待していない。外国では、多くが投げ銭のための熱演だ▼米国などで興味深いのは、音楽を勉強中の若者がフルートやバイオリンを携え、ひとり、あるいは2人で街に出ることだ。練習のための演奏だが、ちょっとした音楽会。聴く人は勉強の足しにと、楽器のケースの中に投げ銭をする。恥ずかしいことではない。客の反応を知ることは勉強だ。音に誘われいくつもの街角で思わぬ音楽会に出っくわす。市民の楽しみの場でもある▼日本でも、音楽を志す人は、街角に出てはどうか。騒音ならぬ楽の音には投げ銭も来る。政治家に株をばらまくのと違い、投げる方も気分がよかろう。投げ銭はいつも小銭にかぎる。 パンダ大使の打ち明け話 【’88.11.27 朝刊 1頁 (全861字)】  パンダの彼と彼女が昨夜、そっと訪ねてきた。さすが毛皮を着た大使さん、日本語も達者なものだ。そこでの打ち明け話を公開していいものかどうか。誤解されて国際親善にひびがはいっては困る。でも、黒いふちどりの目にあふれた真情はお伝えすべきだと思う。以下はパンダの肉声である▼私たちに値札が付いているのをご存じですか。男女のセットで国際相場では30万ドルから50万ドル。売られるわけではなくて、数カ月間の貸出料金です。国際的な人気は、一族の名誉のためにうれしくないことはないのですが。祖国には外貨も入りますし▼私たち、いま和歌山の展示場ぐらしです。3月に岡山の動物園に来て瀬戸大橋開通のお祭りに一役かって、7月に中国に帰れると聞かされていたのに、なぜか青函博に遠征して、さらに和歌山に年末まで。それぞれ数千万円でリースされたんだと、さく越しのささやきも耳に。地方博ブームでレンタル希望が数え切れないとかで▼思い切っていいますけど、客寄せパンダはもうごめんというのが一族の気持ちなのです。故郷にも仲間はもう1000頭もいません。竹が枯れて食糧難、開拓されて住宅難。密猟で、この春にも仲間が146枚の毛皮に変わり果てて。日本で1枚200万円で売られているって本当かしら▼野生でも小グループに分断されて暮らしていると、子どもたちが増えにくいのです。海外出稼ぎが忙しくなってからは、かえって捕獲も増えたみたい。国際条約で商業目的の取引は禁じられ、展示も飼育繁殖のものに限られているけれど、それがきちんと守られているとお思いですか▼世界自然保護基金(WWF)も貸し借りをやめるようにいってくれています。私たちは出稼ぎしている間は、繁殖の可能性を失っているわけです。国際的な繁殖計画に参加して、仲間の絶滅を食い止めなくてはいけないのに。ええ、人間から死ぬほど愛されているのはありがたいことなのですが。 若い人たちとボランティア 【’88.11.28 朝刊 1頁 (全840字)】  静岡県ボランティア協会が、この年末、男女高校生8人をタイへ送り出す。期間は1週間と短いが、貧しい農村やバンコクのスラムに泊まりこむ旅だ。地元ライオンズクラブから「若い人に、いい体験を贈りたい」と寄せられた30万円を生かすため企画された▼「こういう旅行に、どこまで今の若者が応募してくれるだろうか」と協会でも見当をつけかねながらの募集だった。結果は、それどころではなく、40を超える高校から93人の応募があった▼受験勉強中の3年生男子は「今のままでは漠然と進学するだけ。何かをつかみたい」。ある女生徒は「欧米ならともかく、なぜタイなんかに、と父にいわれた。でも私は、アジアの国だからこそ行きたい」。添えられた文章は若者らしい真剣味に満ちたものばかりだった▼「どの子もみんな行かしてやりたい。それが大人の務めだ。本当に心から、そう思いました」(小野田全宏事務局長)。お金の工面に走り回って、やっと5人の予定を8人にまで増やしたが、それが精いっぱい。結局、面接をして選ばざるをえなかった▼全校でボランティア体験に取り組んでいる東京・順天高校は、飢餓に苦しむフィリピンのネグロス島へ、去年から生徒を送っている。ここでも、2人の枠に60人もの希望者があり、どうするかが問題になった▼学校では、生徒たち自身に任せることにした。その結果、自分の気持ちをたがいに述べ合い、みんなが「私より、この人を」と納得できる形で選び出した。「あと1人、どうしても行かしてあげたい」という子のために、校内で募金活動を始める話にまで発展した。熱意にうたれた学校側は、同行の先生を1人減らして、その生徒に回したという▼いつの時代も変わらず、若さは何かを求めている。いま大人は「予算」や「基準」を絶対のもののようにいい立てて、若者の思いを切り捨て過ぎてはいないだろうか。 万物を愛した草野心平さん死去 【’88.11.29 朝刊 1頁 (全845字)】  「漢字は硬い感じ。平仮名は天平美人のまゆ。片仮名はジャックナイフ。いろいろの特色を持つ日本語はすばらしい」▼昨年秋の、文化勲章受章の時の草野心平さんのことばだ。日本語で詩を書く喜びをそう表現した草野さんが12日に亡くなり、昨日、東京の青山葬儀所で「送る集い」が催された。「嫌いだったのは、権威をかさにきたやつと、けちくさいやつ」(粟津則雄氏)。集まりで惜別の辞をのべた多彩な顔ぶれの紹介も肩書なし、さん付けの心平流だった▼85年の生涯、「こたつにはいれと言われてはいったら火がなかった」(伊藤信吉氏)時代のこともふくめ、さまざまな思い出が語られた。詩人としてだけでなく、多くの人を世に出し、感化を与えた「アジテーター=オルガナイザー」(入沢康夫氏)としての存在の大きさが、あらためて感じられる集いだった▼「ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ」が二十何行もつづく。蛙(かえる)のなき声のはいる詩は有名だ。草野さんは「人間だけでなく、動物、草木、石など万物を愛した」(長男雷氏)。詩人自身、「私にはどうも地球創成期への郷愁みたいなものがあるらしい」と語っていた。ちいさな動物や花に寄せた愛情のこまやかさと、一連の富士山や天の詩の力強さ、雄大さ▼読者は彼のように、自分も「自由に、率直になって、原始人の手づかみのように、彼の詩を食べればいい」と、吉原幸子さんがいみじくも書いている。詩人は漢字や仮名を使っただけでなく、黒い丸、●ひとつを置いただけの詩もつくった。題して「冬眠」。谷川俊太郎氏は●を「大きなピリオド」と呼び、「見つめはじめると底無しに深く大きくなる1個の宇宙」とのべた▼同人誌「歴程」の創刊から53年。おおきな足あとを残したこの人に「おれも眠らう」という詩があった。「るるり。/りりり。/るるり。/りりり。/るるり。/りりり。……」 11月のことば抄録 【’88.11.30 朝刊 1頁 (全868字)】  11月のことば抄録▼紫綬褒章を受けた「男はつらいよ」の渥美清さん。「寅さんならおそらく辞退するんじゃないですか。背中丸めて手を振りながら『いやー、まあ、いいよそれは』なんて言いながら、どこかに消えていくんじゃないかな」▼旧国鉄用地の処分凍結解除を求めて政府部内に動き。「ここで凍結を解除して、また一般競争入札方式を導入すれば抑制策は台なし。それをあえてやるというのだから思想分裂でしょう」と鈴木俊一東京都知事。「予定以上に金もうけしようなどという感覚はすべて払拭(ふっしょく)してもらわないと困る」▼広島県で中学生にニワトリの絵を描かせたら、153人のうち19人の絵が4本足。「自然とのかかわり方が昔より薄く、ニワトリを抱いたり、追いかけたりの直接の経験が減っている。いざ絵にするとなると、わからなくなるようだ」(二宮力教諭)▼米大統領に選出されたジョージ・ブッシュ氏の勝利宣言。「世界にあっては強力で断固とした米国、国内にあっては力強いが寛大な米国」。韓国の前大統領、全斗煥氏。在任中の事件や、一族の不正などが原因で落郷。「本当に面目ない。心から謝罪し、頭を下げて、許しをこう」。大乃国に敗れ、千代の富士の連勝は「53」で止まった。「あーあ、ガクッ、だ」▼リクルート問題で、諸氏前言をひるがえす。「最初から3000株という数字が出ていれば素直に認めた。1000株といわれたので」と加藤孝前労働事務次官。「(なぜ最初から自分が買ったと言わなかったかときかれ)大変申し訳ない。家内と相談していくプロセスや突然のマスコミからのお尋ねで、心の整理がつかないまま、私の心の弱さから……」と高石邦男前文部事務次官。「(国会答弁と江副証言との食い違いについて)江副さんのおっしゃる通り」と宮沢蔵相▼江副浩正リクルート前会長、株の譲渡についての国会証言で「率直に言って私自身がかなり関与しました」。 結婚後の名字と人格の象徴 【’88.12.1 朝刊 1頁 (全858字)】  英国にいた時、ある集まりで、若い女性に会った。その名字が、なんと、キラー(殺人者)さん。へえ、めずらしい。「無難な名前の男性を募集中です」と笑う。「結婚したら向こうの名字に変えようと思って」▼結婚の時に、英国の女性は夫の姓に変えてもよいし、変えなくてもよい。いわゆる夫婦の別姓選択の自由、だ。女性は結婚後も独身のときの姓で生きてゆける。中国では、婚姻法に「夫婦双方はそれぞれ自己の姓を使用する権利を持つ」とあり、別姓が当然、となっている▼日本ではどうだろう。民法に、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」(750条)とある。どちらか1つにきめなさい、というわけだ。だが、これに疑問をもつ人も多くなっている。ひとつには実際上の不便さ、不都合からである▼女性が自分の姓で仕事をし、一定の業績をあげ、人にも知られているとする。結婚で改姓すると、混乱が起き、そのままの方が好都合、という場合がある。そうした事情をくんで、会社や組織によっては、女性の旧姓を仕事上の通称として認める方に動いている。年金その他、公的な書類では、通称でない戸籍上の名を使う▼実際上のことだけが問題なのではない。改姓は夫の側に吸収、所有され自己を喪失する感じを伴う、という女性も多い。現実には約98%の夫婦が夫の姓を使っている。男が改姓しないのに女が改姓とは、という考え方もある。女性の意識と、社会的な活動がこれだけ高まれば当然出る考え方だ▼家族の統一感、先祖からの歴史の記憶、などの理由で夫婦別姓に反対する意見もある。本紙のテーマ談話室「家族」でも論争が続いた。いま、職場で旧姓を使わせるべきだ、として女性教授が国と大学を訴えている▼氏名とは、「人が個人として尊重される基礎」「個人の人格の象徴」「人格権の一内容を構成する」(最高裁判決)。社会の実態に、法は即しているだろうか。 朝シャン現象と清浄さの追求 【’88.12.2 朝刊 1頁 (全863字)】  朝、若い人とすれ違うとシャンプーの香りがする。いまはやりの朝シャン。ある調査では、高校、大学生の男子の4割以上が、毎朝、頭髪を洗う。時間がない時は朝食より洗髪、という女子高校生も多い。シャワー付き洗面台がヒット商品だ▼この現象、どういうことだろう。服装については学校で厳しく指導されるが、頭髪はおしゃれができる部分だ、と説明する高校教師。あまりにもちんまりと右へならえで、無菌状態なのは、活気に欠けて面白くない、との分析。家庭の中でもいろいろな議論があるに違いない。たしかなのは、清潔さへの志向だろう▼「口臭がひどい」と思い込んで病院にゆく人もふえている。実際にはほとんどにおわない。医者は口腔心身症(こうこうしんしんしょう)と呼ぶ。一般の人々を対象に、うがい液の会社が調べたところ、「他人の口臭」「自分の口臭」が「気になる」と答えた人が、ともに7割を超えたそうだ。朝シャンのような清潔願望と関連があり、それに迷いやストレスが加わった状況、と医者は言う▼話はとぶが、先端技術の世界で、超LSI(大規模集積回路)を作るのに、ごみの無い部屋が必要だ。それも、1立方フィート(約27リットル)の空気中に直径0.5ミクロン以上の微粒子が何個あるか、というほどの厳密な基準である。日本の技術は世界一で、1個以下という清潔度を実現している。ちなみに、富士山頂あたりでも1万ないし10万個▼この技術を取材した、技術哲学専攻の同僚の感想。「徹底的な清浄さの追求は、伝統的な心性では精神的行為なんだ」。むずかしいことを言う。昔から、寺社で小僧などは掃き清める作業をやらされる。清めるというひたむきな努力が心を清めることに通じる。日本人技術者に生きている、その伝統が、極端な清浄度の実現を可能にしたという解釈だ▼そういえば、学校や運動部などでも、よく掃除をやらせる。われわれ、相当なきれい好きらしい。 スクールソシアルワーク 【’88.12.3 朝刊 1頁 (全846字)】  いまは核家族の時代。昔の子どもは、周囲におじさん、おばさん、いとこなどが大勢いて、濃密な人間関係の網の中で育った。山下さんは、担当する子どもたちに自分を「先生」でなく「おじさん」と呼ばせる▼山下英三郎さん(42)の仕事は、米国などにもあるスクールソシアルワーク(SSW=訪問教育相談)だ。埼玉県所沢市教育委員会から委嘱され、登校拒否の子どもの相談役になっている。学校からの依頼をもとに、子どもと、家庭を訪問する。朝から夜まで盛りだくさんの日程▼訪問して、話したり遊んだり。はじめから「登校しなさい」とは言わない。3カ月間、会うたびにオセロゲームをやったこともある。登校拒否の子どもたちに共通していることは? ときいてみた。「孤立していることですね」。昔と違い、取り巻いて支援する人間関係がない、というのだ▼学校にものを言いにくい親と学校との間で、意思疎通をはかる役も果たす。子どもと学校に同行、一室で話をして、それを出席扱いにしてもらうこともある。こういう第三者に、子どもは心をひらきやすい。「といって過度の依存はよくない。子どもの人生のある期間の伴走者とわきまえています」▼文部省の発表では、「学校ぎらい」を理由に50日以上欠席した子が、昨年度、小、中学生あわせて3万8000人もいた。学校側は「怠学(ずる休み)による拒否」が多いと見ているようだが、はたしてそうだろうか。各地の教育相談所によると「不安を中心にした情緒的な混乱による神経症的な拒否」が断然多い▼こんなにも多数の子どもが、学校から逃避する。やはり、学校のあり方への警告信号なのではあるまいか。山下さんは東京・新宿の朝日カルチャーセンターでSSWを講じている。関心をもつ人が多く、勉強会も発足した。「マラソンと同じです。子どもには、沿道で声援を送る人が多いことがだいじだと思います」 日本人と日記 【’88.12.4 朝刊 1頁 (全847字)】  日本文学の研究家、ドナルド・キーンさんは、戦争中、珍しい体験をした。日本兵の日記を読み、翻訳する仕事だ。戦場に遺棄された日記。戦死した将兵のものもあっただろう。それらの中には、軍事的に価値のある情報が記されているかも知れぬ、と米軍は考えた▼さまざまな日記がある。読むうちに、キーンさんは引きこまれ、心を動かされる。のちに著した労作『百代の過客――日記にみる日本人』の中で「日記への日本人の強い執着に初めて気付いたのは戦争中のこと」と書いている。戦時中、将兵が日記をつけることを米軍は厳禁し、一方、日本軍は日記帳を支給していた▼子どものころの夏休みにはじまって軍隊生活まで。われわれ、実によく日記をつける。具体的、実務的な記録をしるす日記。あるいは内面的なことがらをさらけ出すもの。どちらの場合も、自分が生きている時間を忘却のかなたに流してしまわぬよう書きとどめておきたいとの気持ちからか▼残された日記を後代の人が読めば、書かれたころの生活様式や考え方などがわかり、興味深い。最も長く日記を書き続けた日本の作家は、野上弥生子さんらしい。30代半ばから、100歳になんなんとするまでだ。先日亡くなった小林英男さん(元川崎市議)は、中学1年の時から死の前日まで74年間書き通し、市の生き字引といわれていた▼師走の声をきくと、店頭に並ぶ日記帳が目につきはじめる。300種もあるという。美しい印刷。さまざまな意匠。型にはまる、として市販のものをきらい、日にちも形式も自由自在な日記を好む人もいる。まっしろなページに、さて、来年は何が書かれるか▼日ごろ考えることがある。回顧録の公刊が日本では多くない。政治家など公人が克明に日記をつけ、日記あるいはそれにもとづく回顧録をもっと出してくれると、有意義だろう。歴史必ずしも書かれているものとは限らない、としてもだ。 当たり前のようだけれど不合理なこと 【’88.12.5 朝刊 1頁 (全842字)】  温泉にゆき、旅館のふろに入る。男湯と女湯に分かれている。さて、どちらの湯ぶねの方が大きいか▼ほとんどの場合、正解は男湯である。考えてみると、ふしぎなことだ。男尊女卑の考えの名残なのか。それとも、統計的に男性客の方が女性より多かったのか。あやしみはじめると、夫婦茶わんの大きさまで気になる。湯ぶねの場合、もっとふしぎなのは明らかに女性客の方が多くなっているちかごろでも、大きさが変わらぬことだ▼「男湯と女湯の看板をかけかえなさい、と言っているんです」と細川熊本県知事が言う。県内に温泉旅館が多く、どこでも女湯が込んでいる。合理的に考え、不都合を改めるべし、というわけだ。知事との会話が頭にあったので、ことし東京にできた豪華ホテルの披露の時、湯ぶねを偵察した。やや男湯が大きかった▼日常、慣れて、当たり前のように思っていることを、ひとはなかなか変えようとしない。気もつかない。そんな例がいくらもある。街が騒々しくなる歳晩に痛感するのは、バックグラウンド・ミュージック(通称BGM)の存在だ。いつのまにか、その押しつけがましさに無神経、無抵抗になっているが、妙な代物だ▼戦後の産物である。広い意味では、昔からあった作業歌やいわゆる食卓音楽も一種のBGMだ。だが、それらは特定の人々のために選曲された音楽だ。第2次大戦中に、英国の工場でラジオ音楽を流し、能率を上げたのが今様BGMのはじまりだという。目的がはっきりしていれば、選曲にも一定の基準があろう▼問題は、不特定多数の人が集まる場でのBGMだ。気にならない人はいい。こまかいことをいうと、その場のだれもが望まぬ音をすべての人が聴かされる場合がある。これは何だろう。サービスのつもりだろうか。BGMを流すJRの駅が多くなった。耳にイヤホンをさしこみ、自分の好む曲に聴き入る人の気持ちがわかる。 中央線の追突事故 【’88.12.6 朝刊 1頁 (全851字)】  バスに乗っていて、事故にあったことがある。横丁から自転車が飛び出した。思わず急ブレーキを踏む。運転手にとっては、ただそれだけのことだった▼大変なのは客である。比較的すいていて、乗客はほとんど座っていた。窓を背に、長い布張りのベンチ。昔の形式だ。それぞれ、睡眠中、読書中、思案中、と好きにしている。筆者は運転席の背後4、5人目で窓外を眺めていた。突然、キキーッ、という音。気がついた時は全員が、何と全員が、折り重なって前部中央の床に倒れていた▼運転手のすぐ横まで、いちばん後ろの席の学生たちが飛んできているのには驚いた。衝突の痛さは、すぐには感じない。おのおの眼鏡ははずれ、くつが脱げ、持ち物は飛び、スカートはめくれ、顔や手足に血。ドアの横の席にいた女性は骨にひび。意外な修羅場になった。けが人を病院へ。何ともないと思った筆者も、あとで衣服を脱ぎ、擦過傷に気づく▼人力で抗すべくもない物理的な力。柱で骨を折りそうな席に座らぬ、という習慣は、それ以後のことだ。5日、東京のJR東中野駅で起きた事故でも、この恐るべき物理的な力で死傷者が出た。車内のつり広告が全部落ちた。座席は、くの字に曲がった。直接的には物理的な力だとしても、その前に人為的な原因がなかっただろうか▼英国に生まれた蒸気機関車に、当初、満足なブレーキはなかった。初期の機関車ロケット号が、線路を横切る男をひいてしまった事故に、鉄道の安全の基本問題が示されている、と柳田邦男氏は書く(『事故の視角』)。(1)外からの障害に対し無防備だった(2)異常、危険な事態にあって、機関車を止めるシステムを持たなかった▼今回は(2)の場合だ。前にも事故の起きた場所だという。止まらずに追突した原因をきちんとつきとめ、再発を防いでもらいたい。これだけ過密な状況での平生の安全運転がすばらしいと思うだけに、残念だ。 対南ア政策と人権問題 【’88.12.7 朝刊 1頁 (全859字)】  20年前の南アフリカ。まごつくことが多かった。バスに乗れば、席が白人と有色人種に分かれている。手洗いも別々。有色の方を選ぼうとすると、お前はあっちだと言う。何でも、日本人は白人並みなのだそうだ。同じような顔の中国系の人と、なぜか別扱いだ▼最近訪れた友人の話では、この数年で事情はだいぶ変わり、公共の場での差別表示が減った。だが、選挙権や住居地を選ぶ自由など、だいじな点で黒人への差別政策はそのままだ。日本人は“名誉白人”だという。この表現、実は南アの人から聞いたことがない。特別扱いをさす日本語か▼妙なことばである。なぜ日本人は特別なのか。察するに、南ア側の経済的考慮からではないか。昔は日本人も有色人種として差別され歯がみをした。しだいに日本の雑貨輸出などが増え、60年ほど前、アジア人にふれた法律の中で、日本人は除外、と規定される。1961年、内相が、日本人を欧州人と同様に扱うとのべた。英連邦脱退に伴う経済見通しと無関係ではあるまい▼日本の方も、経済活動に有利なこの扱いに異議は唱えない。だが、そこには人種や人権の視点はとくにない。先方も当方も経済優先。よく考えると、中曽根さんなど要人の発言に現れたような、また、われわれが一般に持つ、人種や人権についての鈍感さが、現れているのではなかろうか▼国連総会が南アのアパルトヘイト(人種隔離)政策への非難を決議した。南アとの最大の貿易相手国の日本を名指しして、貿易断絶を求めている。経済界は、自粛を進めているというが、日本の貿易の数字はたしかに大きく、また、経済制裁について日本の評判は芳しくない。68年の対ローデシア禁輸で国連安保理決議を守らなかった、との不信感が根強いのだ▼金もうけ専門、火事場泥棒、といった批判は、すでにある。国内に多くの外国人を抱えるいま、自分の問題として、本気で、人権から発想すべき時ではないか。 12月8日 戦争と平和に思いをめぐらす日 【’88.12.8 朝刊 1頁 (全845字)】  12月8日は何の日ですか。人によって、答えは違う。40代後半から上の人は、もちろん、開戦の日。若い人にきけば、ビートルズのジョン・レノンが撃たれた日と言うだろう▼47年前のきょう、日本軍はマレー半島に上陸、ハワイの真珠湾を空襲した。政治学の内田健三さんが、本紙に書いている。「戦前、戦後という言葉が若い世代には通用しない」。たしかに、開戦は半世紀近く前のこと。いまの大学生には、「戦後生まれ」などという感覚すらあるまい▼一昨年から昨年にかけ、本紙テーマ談話室の「戦争」シリーズに4200を超える投稿があった。戦時下のさまざまな体験をぜひとも証言しておかなければならぬ、という人々の熱気が行間にわき立っていた。忘れられぬ、忘れてはならぬ戦争の個人史である▼あとで考えれば、資源の点でも、人力の面でも、地政学からいっても勝算きわめて乏しい戦争。外から、あるいは、あとから見れば、非論理的に思える行動だが、まぎれもない、われわれの歴史である▼ビートルズと聞いて、どんな言葉を思い浮かべるか、と若い人にきいてみる。平和、愛、非暴力といった返答が多くに共通している。「イマジン」という詩の中でジョン・レノンはこう歌いかけていた▼「…国が無いと想像したまえ……所有物が無いと想像したまえ…」。固定的な価値観を疑い、人間らしさを求める叫びがビートルズの調べにはあった。国境を超えて彼らの詩と音がひろがる。世界の若ものたちの、いわば共通言語▼「いかに人々に語りかけるか、いかに世界を変えるかは人々だけが知っている」と歌い、人々よ、集まろう、と呼びかけたジョン・レノンは8年前のきょう死んだ。1960年代の歌声は、いまなおみずみずしく、生き続けている▼47年前の12月8日を考え、問い直す集会が、きょうはたくさん開かれる。戦争と平和について、思いをめぐらす日だ。 28年ぶりのソ連書記長国連行き 【’88.12.9 朝刊 1頁 (全853字)】  「何をそんなに感心しているんです」「いや、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の演説だ。世の中、変われば変わるもの。陳腐な表現だが、隔世の感あり」▼「何でも、ソ連書記長の国連行きは28年ぶりですって?」「そう、きみの生まれる前、東西両陣営の対立がはげしかった60年の秋に、フルシチョフ氏が乗りこんだ。すごかったな」「とげとげしかったんですか」「まるで、けんかだ。フ氏は、時の国連事務総長、ハマーショルド氏を、口をきわめてののしった」「今回、デクエヤル事務総長を持ち上げていますよ」▼「他の人の演説に、フ氏は猛烈なやじをとばしてね。英国のマクミラン首相など、やじのロシア語がわからず、通訳を求める、という珍風景もあった」「ゴルバチョフさんは、ずいぶん紳士的じゃないですか」「フ氏はやじだけじゃない。両手のげんこつで机を連打してね。スペイン代表の発言の時など、くつを脱ぎ、それで机をたたく始末さ」▼「今回は、それじゃ、様変わりですね」「国連の能力に賛辞を呈し、第三世界や環境の問題で各国の協力を呼びかけているんだから」「2年以内の兵力50万人削減、通常兵器削減なんていう約束も飛び出しましたよ」「けっこうなことだが、通常兵力では依然ソ連が欧州で西側より優勢だ。西側は歓迎ばかりしてもいられまい」▼「でも、これ、一方的な軍縮構想ですよ。ソ連国内の経済立て直しの必要から、本気なのじゃないかな」「ゴルバチョフ氏は、平和な時代に理性的な競争をすべきで、それはソ連の新しい思考の重要な要素だ、と言っている」「それに対し、ソ連に動きがあると、西側が、だまされるな、とまず身がまえる。ワンパターン。古い思考じゃないかなあ」▼「古い思考の裏には古い体験、さ。だが、ゴルバチョフ氏の指導力を見きわめながら、新しい思考には新しい対応をしなければなるまいね。28年後に、さらに隔世の感かな」 「飛行船」竹下内閣の行方 【’88.12.10 朝刊 1頁 (全846字)】  世論調査にたずさわる本紙記者によると、竹下内閣の人気は「飛行船型」だ、という。いや、だった、というべきか▼1年あまり前に発足した時、支持率は48%だった。その後、少しは減ったが、4割台が1年間つづいた。こういう内閣はほかに例がない。たとえば、田中内閣62%、鈴木内閣52%、というふうに、最初の調査で期待をになった高い率が記録されても、あとになって数字が下がることが多い。しかし、竹下内閣は1周年直前の10月末、なお41%の支持を維持していた▼動きがゆっくりで急降下も急上昇もしない。飛行船である。しかも、積極的な支持理由が、はっきりしない。骨組みがつかみにくいところも飛行船的、というわけだ。ところが、ここで変化が現れた。このほど行った調査で、「支持する」は41%から29%に下がり、「支持しない」が31%から47%に上がった▼ふうわり飛行船、とは言っていられない。支持が一気に3割を切り、不支持はいまや半数になんなんとする。飛行機並みの上下動だ。リクルート疑惑がひびいたと見るのが常識的だろう。「悪いと思うのは何ですか」との問いに、「政治倫理」が6%から12%へと倍増。「税制改革」を挙げる高い率は相変わらずだった▼そういう空気の中で、宮沢蔵相がついに辞任した。未公開株の譲渡をめぐり、発言がめまぐるしく変わった末のこと。辞任の理由をただすと、「私の至上命令は税制改革の仕上げということだから、そのために自分が身を引いた方がよいのであればそれを第1に考える」。待てよ▼これを翻訳すると、辞任と税制改革とは取引される関係にある、ということにならないか。人々がやりきれぬ思いをしたのは、疑惑のうさんくささからだ。蔵相辞任で税制改革へ、が竹下さんの考えらしい。しかし、これで疑惑解明に幕、のつもりなら、政治への信頼感と飛行船は着実に降下するだろう。 コーヒー1杯の値段 【’88.12.11 朝刊 1頁 (全851字)】  1杯のコーヒーから/夢の花咲くこともある……と人々が歌ったのはほぼ半世紀前のこと。東京の上野に可否茶館なるコーヒー屋が誕生したのが、ちょうど100年前だった。コーヒー1杯1銭5厘なり▼日曜日の朝、部屋にコーヒーの香りがただよっている家も多かろう。ちかごろ家庭で飲むコーヒーの量が多くなっているようだ。コーヒー生豆輸入量は毎年ふえつづけ、10年あまり前の2倍。その一方で、喫茶店の数が減っているらしい。この数年で、東京都内の喫茶店は4分の3に減って1万5000店ほどだ。全国で約15万店▼減るにはいろいろな理由がある。家庭でと同じように、いわゆるファミリーレストランで、家族連れや2人連れが、お代わりのできるコーヒーを飲むようになった。週休2日の会社や役所がふえ、土曜日、都心の喫茶店は商売にならぬ。さらに、都会の地価が高くなり、店を維持しようにも賃借りの負担が大きすぎる▼たとえば東京の神田。喫茶店の組合に加入している店が、かつて330店あったそうだ。地上げ騒ぎなどで地価が高騰、近所の常連は立ちのき、土地や店の借り賃が上がり、で、いまや250店ほどに減ってしまった▼こうなると、借り賃をかせぎ出すほど高価なコーヒーを売るか、あるいは客の回転を速めて薄利多売でゆくか、になる。実際、その2極に分かれつつあるようだ。1杯1000円もする豪華店と、150円で立ち飲み、という趣向と。昔ふうの、値段も落ちつき具合もほどほど、という居心地のよい店がすくなくなり、なげく人が多い▼別役実さんの『当世・商売往来』という本に、ある喫茶店主の名案が出ていた。喫茶バスである。道路に、いろいろな店の名の停留所がある。待っているとバスが来る。乗りこみ、風景を楽しみながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。走るのだから地代はいらぬ、というのである▼何だか、話がちと苦くなりましたかな。 釧路湿原でタンチョウを育てている高橋良治さん 【’88.12.12 朝刊 1頁 (全847字)】  高橋良治さんは北海道の釧路湿原でタンチョウを育てている。頭の赤い、特別天然記念物のツルだ。はじめ、タンチョウは高橋さんをこわがった。ある日、ひょんなことで警戒心が解ける▼白いベレー帽をかぶり、黄色のカーディガンを着たら、ツルが安心したのだ。30年も前の話である。30数羽しか確認されず、絶滅寸前だったタンチョウは、いま400数十羽にふえた。保護のため多くの人々が努力した結果だが、鶴公園の管理人だった高橋さんの働きは目ざましい。何しろ世界で初めて、人手で卵をかえし、育て、しかも飛び方まで教えたのだから▼高橋さんは、子どもに話すようにツルに話しかける。「よしよし。約束を守るってのは気持ちのいいもんだべさ」。北海道なまりだ。仲良くできたコツは決していばらないこと、だった。卵をかえすのが苦労だった。湿原の水が増すと、親ツルは卵を放棄せざるを得ぬ。そういう卵を持ち帰り、高橋さんは親のやり方を観察しながら必死にかえす▼中で動き出すひなに「ピーちゃん、がんばれ」と呼びかける。生まれるひなは、高橋さんを親だと思っている。いっしょに寝る。酔って眠り、一度ひなをつぶした。その時から酒を断つ。これまでに39羽を育てた。喜び、悲しみの中で、圧巻は、何といっても、人間が鳥に飛び方を伝授するところだ▼両手をひろげ、羽ばたきを教える。次に、ふうふう言いながら疾走する。タンチョウがあとを追う。浮力を感知する。繰り返す。ある時、美しく羽をひろげ、大空へ舞い上がる。高橋さんは地上にぶっ倒れ、はあはあ。感動的なこの光景、テレビでも紹介された。高橋さんの近著『鶴になったおじさん』に、右の委細が描かれている▼もう1冊、鳥の保護の本を読んだ。『トキよ舞いあがれ』(国松俊英著)。まさに絶滅寸前のトキ。保護につくす人々の働きと、自然が失われてゆく現状について、教えられる。 「外圧」にこと欠かなかった63年 【’88.12.13 朝刊 1頁 (全847字)】  ことしを振り返るには、まだ早いかも知れない。だが、いくつかの出来事を思い起こすと、ひとつ感じることがある。この年も、「外圧」にこと欠かなかった、ということだ▼たとえば、日本の建設市場への米国企業の参入の問題。米企業が建設に加われるよう、開放の対象をひろげ、日本政府が参入を勧奨する、という申し合わせが日米両国間にできた。米側からの強い働きかけの結果だ。また、たとえば牛肉、オレンジの自由化の問題。これも米国の要求から政治問題となっていたが、自由化の方向で話し合いがついた▼また、たとえば南アフリカについての国連決議。貿易額1位の日本を名指しで非難したのは対日圧力のつもり、とアフリカの国連代表はのべた。さらにまた、たとえば建設業者の談合の問題。公正取引委員会は先日、在日米海軍の発注工事をめぐる談合を摘発した。米側から取り締まり強化の要請があったといわれ、米国は談合をふくめ日本の建設市場の実態を調査する、という▼建設、農業のどちらも、必要な市場開放とそれに対応する態勢づくりは自主的にやるのがよい。それなのに後れをとる。公共工事の談合は、政、官、業者の癒着で税金を食う話。納税者にとっては許せぬが、これも国内だけでは是正のはかがゆかぬ。国会の定数是正は好例だが、改めるべき点を自力で改める、というのが実に不得手だ▼外圧でことを運べば感情的なしこりも残る。にもかかわらず自嘲(じちょう)的な外圧歓迎論がある。それ以外にこの国では改革を進めにくい、というわけだ。この調子なら新商売ができる、といたずら好きの友人。会社をつくり、さしずめ「日本ガイアツ」とでも命名する。日本社会の改良したい部分を洗い出し、しかるべき外国の顧客に資料を提供、圧力のかけ方を教える。外圧の輸入業、金になるぞ▼皮肉屋の悪い冗談だ。だが、日本の現状を考えると、笑いごとではない。 アルメニア地震 【’88.12.14 朝刊 1頁 (全842字)】  アルメニアで起きた地震の死者はいったい何万人になるのだろう。人災の要素もあったらしい。無念さがつのる。被災者は、全く不運というほかない▼12年前に中国の工業都市、唐山を直下型地震が襲った。死者24万人。実はこの時、外の世界はとまどった。中国が日本政府の援助を謝絶し、同時にすべての外国からの援助を受ける意思がない、と日本政府に伝えたからだ。自力更生の精神で困難を克服する決意、という発表だった▼2年前の春にチェルノブイリで原子力発電所の事故が起きた時、ソ連政府は外国からの援助をほぼ全面的に拒絶した。わずかに放射能障害を専門とする米人医師数人の助力を得ただけ。アルメニア地震は、しかし、全く新しい様相だ。世界中からの援助をソ連が受け入れている。とくに米国からの援助は、第2次大戦直後の援助の波いらい最大規模、ともいわれる▼東欧諸国はもちろん、西側諸国、そしてソ連と国交を持たぬバチカンやイスラエルなどからも援助が届く。報道の面でも、援助受け入れの面でも、ソ連社会の相当な開かれ方が見てとれる。災害に当たっての人間同士の助け合いには、国境がないのが本来だ。今回、国際的な助け合いが実現したのはけっこうだった▼だが、ソ連の国内では、地震によって、建物だけではなく、政治への信頼感もあらためて揺さぶられたらしい。というのも、崩れ落ちた建物のほとんどが、ブレジネフ政権下の「停滞の時代」、1964年からの18年間に建てられたもの。昔ながらの暗赤色の凝灰岩で建てた家は無事なのに、近年の高層建築が軒並み倒壊した▼セメントが極端に少ないコンクリート。人災といわれるゆえんだ。ゴルバチョフ書記長は「セメントを盗んだのはだれか」と、責任追及の委員会をつくった。ただでさえ中央政府の権力に反発、もめている地方だ。いろいろな意味で復旧の努力はたいへんだろう。 裸運動の裸観さん 【’88.12.15 朝刊 1頁 (全859字)】  オホーツク海を渡る風が、骨の髄にまでしみる。まつ毛も鼻毛も凍りついてかちかち。そんな中で、耐寒訓練が行われていた▼30年あまり前。南極観測に先立ち日本隊は北海道の濤沸湖(とうふつこ)で寒さに慣れる訓練をした。各種の機材がどの程度の低温に耐えられるかを知る必要もあった。氷の湖上に簡便な宿舎や便所を建てた。ひと通りの生活を、営んでみる。何でもすぐに凍る。氷上の用便もたいへんだが、その山を突きくずす後始末はさらに難事だった▼オホーツクの水平線上に流氷が見えた朝は零下27度。流氷は日に日に近づき、10日ほどで接岸する。底冷え。手がかじかみ、取材のメモがとれぬ。防寒衣料の性能調査の必要もあり、着ぶくれした面々が氷上でふるえていた。そのときだ、珍事が起きたのは。「おおい、おおい」という叫び声が聞こえた。湖上を、見知らぬ男が近づいてくる。それが、裸なのだ▼現れた男はパンツに地下足袋だけ。「みなさん元気ですかな」と、われ鐘のような声。はげ頭も裸の上半身もつやつや。いっこうに寒そうな様子がない。「耐寒の陣中見舞いです。わっはっは」。一同、あっけにとられた。にわかに、氷上の温度が上がったような気がする。手には、「全身を顔にせよ、笑いは健康の泉」「無一物中無尽蔵」の旗▼及川清、通称裸観(らかん)さんは、病弱な子どもだった。青年時代、薄着と柔軟体操と笑いとが健康にたいせつ、と悟る。皮膚は生きた着物、厚着では赤ちゃんも白ちゃんになってしまう、と裸運動をはじめた。寒さは最高の健康道場、にこにこ笑って南極に行きましょう、感謝、感謝、わっはっは▼健康法は人さまざま。裸が常によいとは限るまいが、野鳥を愛した中西悟堂さんは60歳近くなって裸主義に転じ、長生きした。裸観さんは、この春まで各地の裸行脚を続け、このほど86歳で亡くなった。人びとに、さわやかな驚きと笑いを配った一生だった。 科学者の観察眼と詩人のひらめきは同じもの 【’88.12.16 朝刊 1頁 (全846字)】  「100歳の齢(よわい)を思ふ菊枕(まくら)」。96歳で、山口青邨(せいそん)さんが亡くなった。芥川龍之介と同年の生まれ、俳壇の最長老だ▼「自然現象を眺める態度は、自然科学者も俳句者も全く同じ。処理の方法が違うのみ」と言ったことがある。「たとえば1個の石を、科学的実験で研究するか、詩的に考えて客観写生するか」の違い。自身、選鉱学を専門とする科学者で、東大名誉教授、工学博士だった。それかあらぬか、観察を重視する。俳句に虚構(フィクション)がはいることをきらった▼「まず、観察。その上に文学的香気を、と常におっしゃっていた」(俳人黒田杏子さん)。虚構でなら無限に句はできるが鑑賞に値しない、俳句は「私」である、自分の行為である、それであればこそ些末(さまつ)なことでも価値がある、と書いた。句だけでなく、写生文も、子規、虚子の流れをくんで巧みだった。句作にあぶら汗を流す内輪話が、味わい深い文章に散見される▼科学者の観察眼と詩人のひらめきと。世俗の本業にも俳句にも、両方、真剣にいそしむ。たいへんなことである。明るさ、健康さ、といおうか。10歳下のいそ子夫人と昔ふうの日本家屋に住んで、自然、自在の境地に生きていた。ちいさな畑の野菜。夫人の手料理。一合弱の酒。それもゆっくりと。「風呂吹(ふろふき)や一家といふも2人きり」▼「夏草」を主宰した。結社では平等を貫き、無欲、温和な人柄。慕うものが多い。俳句を指導した東京女子大では、80歳近くも年齢のへだたる学生たちと、柔軟に交流。ひらかれた心を学生たちは感じていた。若き日にドイツ留学。「舞姫はリラの花よりも濃くにほふ」「曇りつつ大英帝国馬鈴薯(ばれいしょ)の花」▼盛岡出身で故郷をいつくしんだ。私にはみちのくということばを使った句が多い、と言っていた。「みちのくの町はいぶせき氷柱(つらら)かな」 国民の司法参加、昭和3年に東京初の陪審法廷 【’88.12.17 朝刊 1頁 (全856字)】  陪審裁判といえば、ペリー・メイスンの法廷物や、ヘンリー・フォンダが主演した映画『12人の怒れる男』を思い出す人も多いだろう▼この制度、じつは戦前の日本にもあった。東京初の陪審法廷が開かれたのは、ちょうど60年前のきょうだ。放火事件で無実を訴える若い女性が被告。大変な関心を集めたらしい。東京地裁の大法廷は200人を超える傍聴人で埋まった▼12人の市民が、陪審員に選ばれた。様々な職業の人たちがいる。こんにゃく屋、そば屋、干物屋、酒屋、農業、会社員……。「日焼けした童顔が多い」と、当時の新聞にある。日ごろ裁判などには縁のない、ふつうの市民が、固くなって居並ぶ様子がわかる▼はじめの2日間、陪審員たちはだまって耳を傾けるだけだった。「『便所に行きたい』というほか一語も発しなかったのはさびしい」と皮肉たっぷりに書かれている。3日目、やっと緊張がほぐれる▼警察官が、手荒な取り調べはしていない、と証言した。被告は「このお巡りさんはでたらめです」と訴えた。そんな場面で、1人の陪審員が警官に向かって口を開く。「被告の言い分が秩序立っているのに、あなたの話はあまりに物足りない。もっと我々がうなずけるように答弁できぬものか」▼これに勢いづいて、ほかの陪審員も声をあげる。「証拠のマッチ箱から指紋をとらなかったのはなぜか」。法律家顔負けの追及ぶりだったらしい。結論が出たのは5日目。「然(しか)らず」つまりシロの評決だった。裁判長の判決も同じ。晴れて無罪になった女性はうれし涙にくれた▼日本の陪審裁判はそれから15年後に、戦争の激化で中止される。短命だったのは国民性に合わなかったから、という意見もある。だが、60年前の白熱したやりとりを追うと、素人もすてたものではない、と思う▼最高裁が国民の司法参加を検討しているそうだ。国民の能力にじゅうぶん信をおく改革を、望んでおこう。 六中観にならえば六中金 【’88.12.18 朝刊 1頁 (全849字)】  忙中閑あり、という表現がある。忙しい最中に暇を見つけて楽しむことをいう。このように、何々の中に何がある、という言い方を6つ集めたものがある▼忙中閑有リ/苦中楽有リ/死中活有リ/壷(コ)中天有リ/意中人有リ/腹中書有リ、の6つだ。あわせて六中観と呼ぶそうだ。これを座右の銘にしている人もいる。戦前から戦後にわたり、政財界に精神的な影響力をもっていた故安岡正篤氏の6カ条である▼忙しい時にこそ暇を、苦しいからこそ楽しさを、見いだす。死中に活を求めて、という言葉があるが、活路は必ずあるものだ。壷中の天、というのは、おのれの生活の中に独自の天地を持つこと。仕事以外の趣味もこれにはいるだろう。くだらない男や女を頭の中に置くより、意中にりっぱな人、すぐれた人を持つしあわせ。ふだん何を愛読しているかもだいじなことである▼毎日次々にあきらかになるリクルート疑惑のあれこれ。きのうからの東京・浅草の羽子板市には、政治家にカブをあしらった意匠が登場した。週刊紙アエラのアンケート「88年ニュースの顔」では、「88年を象徴する顔」の部でも「気にくわない人」の部でも、江副浩正氏が首位を占めた。カネが主役の戦略が各界に広く深く及んだことへの反応▼六中観をまねるなら、まず、謀中カネ有リ、にはじまる。疑惑の公人たちが口を開けば、きまって句中カネ有リ。志中カネ有リ、につけこまれ、口座を見れば、壷中カネ有リ。もともと、意中カネ有リ、に、腹中カネ有リ、だ。六中金とでも呼びたい情けなさ▼超党派の議員たち200余人が「政治倫理綱領を実行する会」を結成した。結構だが、どうせつくるなら「時間をかけ対象もひろげた徹底的証人喚問を実行する会」の方が、倫理徹底のためにはよほど実際的だろう。政治不信を懸念した自民党若手議員は「政治改革への提言」をまとめた。さて、党中人有リ、が示せるか。 小磯良平さん逝く 【’88.12.19 朝刊 1頁 (全847字)】  小磯良平さんの絵が好きな人は多い。10年ほど前に美術雑誌が人気洋画家のアンケートをしたら、小磯さんが他の画家たちを引き離して首位だった▼絵の雰囲気を何と表現したらよいだろう。まず、端正である。均整がとれている。理知的で秩序と調和を感じさせる。きよらかな叙情。清涼感。そして落ち着き、典雅。およそ退廃とか虚無といったものとは無縁だ。激情のあまり取り乱す、ということがない。常に平穏で、温かく、淡々として、幸福感をたたえている▼小磯さんは動ではなく静の人だった、という。幼い時から、寝かせておけばいつまでも上を向いておとなしく寝ていた。だから頭のうしろが平たく、横が広い。口数が少なく、照れ屋である。そんな小磯さんには珍しい中学生時代の振る舞いを友人の竹中郁さんが披露していた▼倉敷の大原コレクションを2人で見に行った。ゲランの「伊太利女」という絵が小磯さんの気に入った。人がいないのを見すまし、突然、いすの上に乗り、絵の下の隅を、舌を出してなめた。出来のよい油絵はなめればタッチのよさがわかる、と油絵の教本にあったのを、実地にやってみたのだった▼勉強家だ。デッサンの正確さ、うまさはダビンチのよう、とも評された。若い時の欧州留学で、徹底的に絵を見た。「好きなのはドガとマネ、そしてアングル。古いところでフェルメール」。西欧で吸収したものと日本的な感性とが練り合わされて、あの質実かつ優雅な世界となった。古典的な具象画を描くことで一貫した▼戦争中、絵筆を持つ人々の一団が彩管部隊として戦地に送られた。小磯さんもそのひとり。戦争の記録画を描いた。後年これを悔やみ、語らなかったという。残酷な死体などは描かなかった。開戦の年の作品「斉唱」は色彩をおさえた女人群像。祈りが感じられる。16日、85歳で亡くなった。その作品はいつまでも人々を魅了し続けるだろう。 サバクワタリバッタ 【’88.12.20 朝刊 1頁 (全857字)】  我が輩はバッタである。名前は、ええと、いろいろある。いまアフリカで話題になっているのはサバクワタリバッタの仲間。穀物や野菜を食い荒らす、というので人々は躍起になっている▼この調子だと、アフリカ救済のため今後10カ月間に2億4000万ドルが必要、と国連食糧農業機関(FAO)は発表した。仲間たちが元気づいているのは雨のためだ。長雨による湿度と高温とが卵にも成長にもさいわいした。最大で1平方メートル当たり800匹の密度。何千万匹いっしょに空を飛ぶ時なんざ、そりゃ壮観だ▼だが、科学の発達で、きょう日、われわれも楽じゃない。いつも見張られている。衛星やレーダー。日本製の殺虫剤もこわい。困るのは研究が進んだことだ。草むらでぴょんぴょんはねているバッタと、大群で空を渡るバッタとは別の種類、と昔は思われた。実は同じバッタが時に応じて「ヘンシーン」するのだ。1921年、英国の学者に見破られた▼ひとりの時は背中が盛り上がり、後ろ脚が強く長い。集団生活だと背中が平らで後ろ脚は短く、羽が長くて飛行に便利、というふうに変わる。変身のかぎは密度だ。1世代は45日だが、混雑してくると2世代くらいの間に孤独相から群生相に変化する。活発にもなる。なに、おかしいって? 徒党を組むと、形相もひとも変わったようになる。人間の世界には無い、かな▼農業環境技術研究所の昆虫管理科長、桐谷圭治さんなど意地が悪い。わが生態を熟知している。「群生相のバッタに孤独相のバッタを混ぜると、朱にまじわれば赤くなる。群生相のバッタが分断されて少数になると、孤独相にもどる」なんて。そういう知識で立ち向かわれると困るんだ▼おととし、鹿児島県の馬毛島を騒がしたトノサマバッタは、カビが体にはびこり、思わぬ伏兵で全滅した。だけど、旧約聖書に残るほどの祖先の活力を継ぐ我が輩だ。人間との戦い、そう簡単には終わるまい。 ユニセフの「子供白書」に思う 【’88.12.21 朝刊 1頁 (全845字)】  タイの農村を訪れた特派員の報告を思い出す。小学校に行った。弁当を持って来られない子供が半数もいる。持って来た子のおかずの中で、カエルやトカゲはごちそうだ。とうがらしと塩だけの子もいる▼持っていない子にも分けてみんなで食べる。国に給食予算はあるが、まだ回って来ない。学校は独自に池で魚を養殖し、また児童から週に1バーツ(6円)集めて豆乳をつくる。その1バーツも、3割の子は払えない、という話だった。食べるものに不自由しない日本の子供にとっては、想像しにくい現実である▼アフリカの状況は、もっと深刻だ。エチオピアで農村復興指導をしていた日本国際ボランティア・センター(JVC)の林達雄医師の報告を思い出す。食糧がないため、妻を離婚して実家に帰したり、食糧事情のましな地域に出稼ぎにゆく時に、子供を置き去りにしたり。親のない子が残されている。子供たちの栄養状態はひどい。抵抗力が弱く、病気になればすぐに死ぬ恐れがある▼20日に、国連児童基金(ユニセフ)が「1989年世界子供白書」を発表した。子供は、どこで育っても、おとなの社会の問題を背負わされる。たいへんだ。豊かな国の飽食や拝金や学歴信仰も、子供たちにそれなりのツケがまわる。だが、悲劇的なのは、貧困に直撃され、生命を失う恐れのある子たちだ▼本来は子供が主題だが、あえて今年は経済問題を論じた、と白書はいう。80年代のアフリカ、中南米での経済後退と債務。保健や教育予算が削られ、この1年、50万人もの幼児の死に結びついたと推定されるからだ。白書は、保健知識と予算の不足で、母親の死亡率が開発途上地域で異常に高いことも統計で示した▼昔と違い、飢餓などによる大量死を放置できぬと世界の人々が考えるようになったという。新しいエトス(社会的気風)の誕生、と白書の表現に期待がこもる。思わずおのれを省みる。 「走る凶器」を制御する人間 【’88.12.22 朝刊 1頁 (全845字)】  自動車の窓ガラスに、車内が見えなくなる着色フィルムを張る。それはご法度、と運輸省が指導に乗り出した。運転者の視野が狭くなる、などの影響が事故に現れたためだ▼あたかもサングラスをかけたような、真っ黒い窓。サングラスの中の目が見えないのと同じで、不気味である。それを取り去って、はればれと内部の表情が見えるのはよいことだ。鋼鉄の無機的な怪物がひとりで走っているのではなく、運転、つまり機械を支配している人間がそこにいる、ということがはっきりするからだ▼ひと昔まえの英国では運転者の手信号をきびしく義務づけていた。窓を開けて腕を出し、徐行する時は上下にゆっくり振る。道端に寄るぞ、とか、後ろの車は追い越せ、など、手の動きひとつで周囲の車や人に自分の意思を知らせることができる。はじめは面倒だなと思ったが、やってみると、これがなかなかいい▼前の車から、細いしまの背広の腕が出る。あ、男性だな。レースの手袋の、たおやかな女性の腕が出ることもある。腕まくりした毛むくじゃらのトラック運転手。タクシーの運転手さんはこれは奥さんの手編みに違いない、と思われるセーターの腕だったりする。みんな、人間が運転している、と表示し合っている感じなのだ▼中でも、タクシーやトラックなどの職業運転手は、視界も広いから、混雑の中では腕1本でみごとな交通整理をする。車がふえた昨今は前ほどひんぱんではないが、タクシーなどの手信号は健在だ。要は、車が勝手に走るのではなく、人間が動かしていることが、常に感じられるような工夫である。英国で自転車に乗る人は夜光塗料のたすきをかける。現実的な自衛策だ▼今年の交通事故の死者が、20日に1万人を超えた。事故の多い理由として、夜間運転や週末レジャーの増加などが指摘されている。「走る凶器」を制御できるのは人間、という自覚があらためて必要だ。 あいさつ・えがお・ネットワークつくって 【’88.12.23 朝刊 1頁 (全847字)】  小学生のきみ、げんきかな。このごろ、東京のまわりで子どもをゆうかいし、殺したりするじけんが起きている▼埼玉県川越市の絵梨香ちゃんは、ゆくえ不明になり、何日かたって死体で見つかった。ゆくえ知れずのままの子もいる。子どもを殺すなんて、人間のすることじゃない。ゆるせない。悪い人間につかまらないようにするにはどうしたらよいだろう▼ゆうかいしようとする人は、道をおしえて、とか、おかあさんが事故にあった、などと、つい本気になるようなことをいう。だから「道をきかれてもことばをかわさないように」「顔見知りの人にもついてゆかぬように」などと先生はおっしゃる▼たしかに十分な用心が必要だ。先生も親も心配だもの。私は、ふだん、気だてのよい子を見かけると、知らなくても、やあ、げんきかな、などと声をかけることがある。だから、今はこまっている。声をかけたら、うたがわれるかもしれないから▼でも、きみに2つのことをいいたい。第1に、声をかける人や道をきく人が、ぜんぶ悪い人というわけではない。もちろん、今は安全第一だ。だが世の中は悪い人ばかりでなくよい人も多いことは知っておいてほしい。きみの親もそうかんがえながら、いまはまず安全がだいじだから口をきくな、なのだ▼第2のこと。ふだん、きみは家や学校のそばで出会う人と、あいさつをかわしているだろうか。名は知らないが、よく会うおじさんや、おばさん、おねえさん、おにいさん。どうも、悪い人があらわれるのは、住民がおたがいを知らず、母親はしごとでるす、などという新しい住宅地らしい▼ふだんから、よく出会う人には、えがおであいさつし、知り合うようにしたらどうだろう。前からの仲よしとばかりつきあうのではなく、あいさつ・えがお・ネットワークをじぶんでつくる。きみの顔を知る人がまわりにふえれば、もうちょっと安全さも高まる、と思う。 「怒声、やじ、押し合いへし合い」の税制6法案採決 【’88.12.24 朝刊 1頁 (全858字)】  怒声。やじ。押し合いへし合い。衆、参院の特別委での税制6法案採決は、すさまじい肉弾戦だった。そして本会議の採決へ。成立への道筋はとてもほめられた図ではない▼「議員各個に就いて見れば、何(いず)れも天下の名士、一廉(ひとかど)の紳士であるのに、多数集合して団体として働くときは、此(こ)の天下の名士、一廉の紳士が洵(まこと)に想像も出来ないやうな意外なる行動に出づる。群集心理と言ふ言葉を以てしては、決して之(これ)を弁護することが出来ぬ」▼謹厳重厚、ライオン首相と呼ばれた浜口雄幸(はまぐちおさち)のことばだ。いまの自民党の議席は一昨年の衆参同日選挙で中曽根氏が「大型間接税は導入しない」と公約して手に入れたもの。それを考えると、数にまかせた国会の動き、どうも釈然としない。万年与党に、民意への鈍感さはないか▼いまの与党は野党の経験がない。1929年から民政党内閣の首班となり、のちに東京駅で右翼青年に狙撃された浜口は面白いことを言っている。「余は8年の間攻撃軍を代表し、5年の間防御軍として演説をした……攻撃は難(かた)く防御は易(やす)いと思ふ」。つまり、攻める野党より政府側は楽、というのだ▼野党は5分以上の相撲をとらねば勝てず、漠然と質問に名をかりて政府弾劾をするくらいが関の山、とも言う。それは議会政治の理想ではなく「攻撃軍が全力をつくして政府を攻むれば、政府もまた同様の誠意を披歴してこれに応答するのは当然」と力説する。「けれども今日の実際はさうなって居ない」▼まさに60年後の今日も、そうなっていないのが情けない。リクルート疑惑の解明は中途半端。「一廉の紳士」たちは銅臭にまみれ、政治への信頼感は、むしばまれている。ふたたびみたび浜口のいわく「今日の政治は何人の罪とは言はざるも確かに国民道徳の平均以下に堕落して、却(かえ)って国民道徳を破壊しつつあり」。 88年世界の流行語 【’88.12.25 朝刊 1頁 (全851字)】  ことし、中国では「なにぶん初級段階ですので」という言い回しがはやったそうだ。昨年の第13回党大会で、中国の現状は社会主義の初級段階と規定された▼それを受けて、サービスが悪い時も、交通渋滞の時も「初級段階のため」。「官倒」(クアンタオ)も多かった。「倒爺」(タオイエ、悪徳ブローカー)の役人版。政府機関や軍まで、不法営業や投機で暴利をむさぼる。対外的には、「対話」(トイホワ)の精神が登場した▼ビルマでは人々が熱狂的に「デモクラシー」(民主主義)と叫んだ。聞こえない日はなかった。韓国でよく人の口にのぼったことばは「和合」(ファーハプ)。五輪開会式は、原始の時代から、混とん、争いの時代、そして和合へと進む過程を表現したという▼ソ連の「ノーボエ・ムイシュレニエ」(新思考)は外交面で波紋をひろげた。ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)も、新しい表現ではないが、今年のソ連を特徴づけた。中心人物ゴルバチョフ書記長の名は米国で「ゴルビー」。愛称となったところに両国関係が見てとれる▼米国は選挙の年だった。「リベラリズム」(自由主義)が、放縦、放漫財政を意味する悪いことばであるかのように使われた。干ばつのため「グリーンハウス・イフェクト」(温室効果)ということばを人々は覚え、環境問題への関心が高まった▼フランスで人々が口にしているのは2つの数字である。「89」と「93」。革命200周年が来年の「89」で、統合欧州が1992年に成立し、発足するのが「93」、というわけだ。国のあり方を、いやでも考えざるを得ない▼ことしの日本でことばを拾うとしたら、やはり「リクルート」と「自粛」だろう。仲間うち、小集団にだけ通じる「なかまことば」の流行も目立った。島国の中の、さらに仲間だけの符丁。話の通じるものだけで集まりたい、という気分が若者の間に強いらしい。 海外に向かう日本の金 【’88.12.26 朝刊 1頁 (全850字)】  「カリフォルニア州の上位12の銀行のうち6行、シカゴの10行のうち6行、ロサンゼルスの下町のりっぱなビルの4分の1以上、ニューヨーク市の相当な部分、全国のゴルフ・コースやリゾート。みんな日本人の所有となった」▼さきごろ訪日したクライスラー社のアイアコッカ会長はこう数え上げ、「米国のほとんどあらゆる街角で日本の存在を感じる」と演説した。日本の対米直接投資は昨年330億ドルで、うち不動産投資が130億ドル。今年それは190億ドルになろう、とも同氏はのべた▼日本の金はこの1、2年、海外の不動産に向かっている。それについて海外の懸念は相当なものだ。日本が米国を買い取るような動きが進めば主権が損なわれる、との議論が出たり、日本の買収で首都の事務所経費が上がると非営利団体が活動できなくなる、と心配したり▼このほど本社と米ハリス社が日米両国で行った共同世論調査にも、それが表れた。日本の対米投資を「奨励した方がよい」は米国人の中に10%、「抑えた方がよい」が63%もいた。日本人の側にも、最近の空気を感じ取って「抑えた方がよい」は55%だった▼ハワイ・ワイキキ海岸のホテルの3分の2、そしてオアフ島のゴルフ場のほとんどが、日本人に買い占められている、という。オーストラリアのゴールドコーストにも日本企業が進出、観光関係の施設の約7割を所有。ハワイでもオーストラリアでも、今年、住民による反対の動きが表面化した▼資金余剰、円高、地価急騰、とくれば、金が外に流れ出るのは当然、との考え方もあろう。日本からの投資を期待する声が海外にあるのも事実だ。だが、一国から集中豪雨のように、というのは、貿易の場合と同じで歓迎されない。「かつて醜いアメリカ人という表現があった。あすの日本人がそう呼ばれぬように」とアイアコッカ氏▼そう呼ばれはじめた年でなければよいが、と思う。 大岡昇平さん逝く 【’88.12.27 朝刊 1頁 (全845字)】  「黒い土とケヤキ、それに寒い空気といったものが60ぐらいになると無性に懐かしくなる」と言っていた作家、大岡昇平さん。つめたい青空を背に、はだかのケヤキの枝がうつくしい季節、79歳で亡くなった▼凝り性だった。ゴルフをはじめると万巻の書を読み、自ら本を著す。無声映画時代の女優、ルイズ・ブルックスに関心を寄せたのは若いころだが、晩年、これも本にする。ピアノをはじめると2年半でモーツァルトのソナタを弾き、さらに作曲にも挑戦。入院すれば「溶血性貧血」という病名から、血液について医学書を調べつくす▼徹底的な調査、考証は、とくに『レイテ戦記』のような戦争についての著作に表れた。そもそもはスタンダールの研究家である。フランス心理小説のような骨組みをもつ『武蔵野夫人』はベストセラーだった。清潔、明せきな文体で知られたが、ことばの方も甚だ簡明率直。文学論争はむろん辞さず、ひとに注意もし、かみつきもした。正義感の持ち主。後味は、しかし、さっぱりしていた▼17年前、芸術院会員になるのを断り、話題になった。「フィリピンで捕虜になったことが恥ずかしくて、そんな国家的栄誉は受けられない」というのが辞退の弁だった。自分の考えをきちんと言う。がんこさと、さわやかさとを感じさせる知性▼「いまや、8月6日から15日にいたる10日間は私たちが正気を取り戻す時間」だと書いていた。戦争の悲惨さが、年々、忘れられてゆく。「かつては異常な悲しみと惨めさを思い出し、死者を追悼して、翌日から幸福な生活に戻ることができたのに、今日では、その日常の方が不安で緊張に満ちていて、8月が平常心を取り戻す日と変わったのは悲しいことだ」▼「戦争の問題には、一生こだわり続けていきます」と話していた。戦争のすべてを見つめる冷静な目と、憤る心とを持った、戦後文学を代表する大型の文士だった。 御用納め 【’88.12.28 朝刊 1頁 (全843字)】  内輪の話で恐縮だが、新聞社の編集部門の一部に、筆洗いというしきたりがある。毛筆で原稿を書いていた時代の名残だ▼年の終わりに仕事場の面々が顔を合わせる。ひとつの区切りである。昔なら、めいめい使ってきた筆を丹念に洗い、すずり箱に納めたのだろう。筆が鉛筆になり、ボールペンになると、洗うわけにもゆかぬ。ましてワープロの時代である。かわりに、ビールでのどを洗う。残るのは筆洗いの表現だけ。「古筆も洗ひて御用納かな」瓜青▼もっとも、これは大みそかの夜のこと。きょう28日は、いわゆる御用納めの日だ。諸官庁がその年の執務を終える。株式市場でも1年最後の立ち会いの日、大納会である。来年からは週休2日制との関連で30日が大納会となる。威勢のよい手締めの音は歳末の風物詩。26日の韓国の大納会では、立会人たちが書類を切ってまき散らし、それが風物詩と報じられていた▼まき散らし、で思い出すのは、ブラジルのサンパウロ市で、突然の紙吹雪にびっくりした同僚の話。クリスマス休暇がはじまる24日だった。目抜き通りの建物の窓という窓から、何万枚もの紙がひらひらと舞い落ちる。事務所の人々が、いらなくなった書類、伝票をいっせいに投げ捨てるのだそうだ。路上は真っ白。解放感あふれる仕事のやめ方である▼書類の処分法、窓からポイ、とは気楽なもの。年の暮れに掃除はつきものだが、江戸時代はこれを煤掃(すすはき)といったそうだ。はじめは20日に、のちに13日に行うようになった。当時の絵を見ると、畳を上げて棒でたたくもの、柄の長いほうきで欄間などのすすを払うもの。面白いのは、胴づきと称して、終わると主人を胴上げすることだ。体を丈夫にするため、とか▼改造内閣が発足した。税制改革法案の採決もすませ、首相は胴上げ期待の心境かも知れぬ。疑惑の煤掃がまだ終わっていないことをお忘れなく。 12月のことば抄録 【’88.12.29 朝刊 1頁 (全855字)】  12月のことば抄録▼「リクルートファッション知ってますか/そで口広くて肩身が狭く/裏はコスモス花柄で/表は黒と灰色よ」。あとに「あーあ、いやんなっちゃった」と続く。受けた。ウクレレ漫談の牧伸二さん▼竹下首相が公務員に綱紀粛正を指示。「管理・監督の地位にある者は、率先して自粛自戒を……私を含む政治家や退職した高級官僚に対する世論の批判が厳しい」。漫画家・秋竜山さんの感想。「常識であるべきことを言って聞かせなけりゃいけない奇妙さ。ネクタイを締めた偉い人たちのやることはほんとに子どもの世界だなあ。漫画ですよ」▼三木元首相の死を惜しみ井出一太郎元官房長官の詠める「おぞましき疑惑拡がる政界を振りさけみつつ三木氏逝きます」。宮沢氏が蔵相を、真藤恒氏がNTT会長を辞任。真藤氏「社会生活上の女房である村田秘書に預金通帳も全部まかせてあった。そういう口座に売却益が入っていたことに責任を痛感している」▼「リクルートコスモス株の買い受けは一種の災難で、マスコミなどの追及は魔女狩りの感じだ」と民社党の春日一幸常任顧問。同党の佐々木良作前委員長、「民社党だけでなく、政界全体でけじめ論を燃え上がらせるためにも、あえて一石を投じるつもり」で塚本三郎委員長に辞任を進言▼「戦後43年たって、あの戦争が何であったかという反省は十分できたというふうに思います。外国のいろいろな記述を見ましても、日本の歴史をずっと、歴史家の記述を見ましても、私が実際に軍隊生活を行い、とくに軍隊の教育に関係をいたしておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任はあると私は思います」と本島等・長崎市長が市議会で発言、賛否のうず▼米誌タイムが恒例の「今年の人」に人間ならぬ「危機にさらされた地球」を選んだ。「今年、どんな人物、事件、社会の動きも、われわれの住む地球ほど人々の関心をとらえたものはなかった」 1988年点鬼簿 歳晩にしのぶ 【’88.12.30 朝刊 1頁 (全926字)】  ことし亡くなった人々の、ごく1部を記し、歳晩にしのぶ。1988年点鬼簿▼「財界の荒法師」といわれた土光敏夫さん(91)。行政改革に情熱を傾けた。宴会嫌い、質素な生活。政治倫理をかかげた元首相、三木武夫さん(81)。ロッキード事件発覚時の検事総長で、田中角栄元首相の逮捕、起訴に踏み切った布施健さん(75)。戦後の疑獄事件をいくつも手がけ「ミスター検察」と呼ばれた前検事総長、伊藤栄樹さん(63)。岩のような信念の持ち主、という感じの人ばかり。全国地域婦人団体連絡協議会の前会長、大友よふさん(83)もそのひとりだ▼多くの学者が鬼籍にはいった年でもあった。新京都学派の指導者だった桑原武夫さん(83)。多彩、優秀な学者たちが門下から出た。胃がんの集団検診体制を作り、90歳を過ぎても診察を続けた黒川利雄さん(91)。魚の博士、末広恭雄さん(84)と檜山義夫さん(79)。「小さな親切運動」の茅誠司さん(89)。実践面でも話題をまいた社会学者、清水幾太郎さん(81)▼明治生まれを中心に、各分野の大御所が、姿を消してゆく。さびしさと同時に、時が確実に刻まれているのを感じる。文学者では中村光夫さん(77)と大岡昇平さん(79)。詩人の草野心平さん(85)。俳人は山口青邨さん(96)、中村汀女さん(88)、安住敦さん(81)。日本画の池田遥邨さん(92)、洋画では小磯良平さん(85)▼芝居一筋の最後が感銘を呼んだ宇野重吉さん(73)。歌舞伎の中村勘三郎さん(78)。映画の字幕で草分けの清水俊二さん(81)。欧州で活躍したソプラノ歌手、田中路子さん(79)。角界では玉の海梅吉さん(75)と朝潮高砂浦五郎さん(58)。尾瀬の山を守った長蔵小屋の主人、平野長英さん(84)▼高齢の人々が最後まで現役の日々を送ったことが印象的だ。これから、と惜しまれた人も多かった。画家、おおば比呂司さん(66)、「マルチ人間」自称の荻昌弘さん(62)、詩人の山本太郎さん(62)、放射線の学者佐藤周子さん(50)。 世界の10大ニュース 【’88.12.31 朝刊 1頁 (全854字)】  いつのころからか、押し詰まると世界10大ニュースなるものが発表される。米国のAP通信社が10大ニュース選びをはじめたのは1936年のことだという▼その年の第1位は「英国王とシンプソン夫人のロマンスによる大英帝国の危機」だったそうな。ことし、同通信の加盟社編集者たちが投票で選んだ1位は「米ソ首脳会談と中短距離核廃棄条約の発効」。中国の国営新華社通信も10大ニュースを選んでいるが、これには順位がついていない。日付順である。AP通信のものとくらべると、ソ連が関係する出来事が多かった▼対象とする分野により、また、だれが選ぶかによって、10大ニュースは違ったものになる。利害の近さや、主観の反映だからそれが当然だろう。あなたの10大ニュースはあなた独特のはず。国内の動きの中から、在京の、日本の新聞、通信各社の社会部長が選んだ今年の10大ニュースには1位が2つあった。「リクルート疑惑」と「天皇陛下ご重体」▼10大ニュース、の形で出来事を並べるのは新しい手法だろう。昔の人のように、思いつくまま「何々であるものは……」式にやるとどうなるか。清少納言のまねをしてみると、これがいくらでもある。「いみじうきたなきもの」リクルート疑惑「あぢきなきもの」リクルート疑惑「いやしげなるもの」リクルート疑惑▼「はづかしきもの」「人にあなづらるるもの」「あさましきもの」と枚挙にいとまなしだ。改造内閣の発足直後に法相が辞任、という事態。首相にはこの疑惑の深刻さを徹底的に認識してもらいたい。でなければ「ゆくすゑはるかなるもの」政治への信頼の回復、である▼国の外には、それでも多少「心ときめきするもの」があった。米ソ間に暖流が流れ、イラン・イラク戦争が終わり、アフガニスタンからはソ連軍が撤退。アジアでも対話がはじまりつつある。世界の天気図を頭に入れて、新しい年の針路をさぐりたい。 新年のささやかな祈り 【’89.1.1 朝刊 1頁 (全845字)】  年があらたまっただけで、空気にすがすがしさが感じられる。身がひきしまる、とはいわぬまでも、目にうつる景色にきよらかさがただようのはなぜか▼祖先の知恵はすごい。時の流れにしるしは無いはずなのに、区切りをつけた。惰性に流されやすいわれわれ、おかげで心あらたまる思いを味わう。心機一転、である。若水をくみ、顔を洗う。若水、とはいい言葉だ。きのうと同じ水道の水、などといっては身もふたもない。若水で口をすすぎ、煮炊きし、その年の邪気を払いたい、と人は念じてきた▼初明かり、初日の出、初富士、初鏡、初もうで、初がらす、初商い、と初づくし。新しい心で感じ、新しい目で見れば、朝日の光は常にもまして力強く、見慣れた山の姿もひときわ森厳。ひとの心のふしぎさを思わされる。正月は、新しい光の下にものを見るとともに、未来を夢みる時でもある▼元日か2日、もしくは節分の夜、昔の人は宝船の絵をまくらの下に敷いて寝た。よい夢を見るためだ。のちに「長き夜の遠の眠(ねふ)りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな」と書いた短冊もそえるようになる。いまでもこれを書く人は多いだろう。さかさに読んでも同じに読める、いわゆる回文だ。よき将来を、と願う小さな工夫は日本だけではない▼スコットランドの人たちと年越しをしたことがある。元日午前零時の寸前に男が1人、外に出て、零時に家にとびこむ。ポケットから3つのものを出して見せる。小さなパンのかけら、石炭のかけら、1ペニー銅貨。1年間、最小限の食べものと暖がとれ、お金に困らぬようにとの祈りだ。髪の色の濃い男の役まわりときまっていて、年男をつとめさせられた▼祈りといってもささやかな願い。1ペニーというのがいい。お金のニュースにはうんざりした去年だった。ひろく世界を見はるかし、心をひらき、ひとを思いやり、感動が味わえる年を、と祈りたい。 ジェット気流に乗り、アメリカを目指す 【’89.1.3 朝刊 1頁 (全857字)】  下界は静かな日でも、空の高いところでは、激しい風が吹いている。日本の上空を西から東に流れるジェット気流は、時速100キロもの速さだ▼それに乗って旅ができたら愉快だろうな、とまでは、だれしも考える。横浜の会社員、丹羽文雄さんは来月、それを実現することになった。3年前からの夢。38歳の冒険である。直径17メートルの、化学繊維の気球に、ヘリウムガスをつめる。その下にゴンドラをつるし、自分がはいる。動力はないが、風が運んでくれる、という寸法だ▼ある年齢以上の人なら、ジェット気流と聞けば「風船爆弾」を思い出す。敗戦の前の年の11月。福島、茨城、千葉の海岸から、直径10メートルほどの気球が、ひそかに次々と飛び立った。つるしているのはゴンドラならぬ爆弾。ふわりふわりと米国の西海岸まで飛び、あちこちで爆発や山火事を起こした。数人の死者も出す▼「富号試験」とも「ふ号作戦」とも呼ばれた。敵本土をたたく機動力を失った日本軍の、まさに風だのみの長距離兵器だった。コウゾを原料とする手すきの和紙をコンニャクのりではり合わせる。動員された女子学生などが暖房もない工場でつくった。のりを扱う手が感覚を失う。工場の隅に、電極のはいった洗面器があり、その水に手を入れると一瞬の熱さが味わえる。多くが体に変調をきたしたという▼米国では、被害が出ても秘密にし、報道もひかえさせた。日本国民の戦意が高まるのをおそれたためだ。米国の情報管制のため、日本ではこの新兵器の効果のほどがよくわからなかった。しかも、日本側では降伏決定とともに関係書類を焼却、あまり記録が残っていない▼冬空を仰いで隔世の感あり。同じ西海岸に着くのでも、それが爆弾でなく、日本からの人間だというのは喜ばしい。零下50度の寒さの中を、ひとりで8000キロあまり、3日ないし4日の旅である。楽ではない。丹羽さんの計画に声援を送る。 正月ミカン、自然希求の変化の時? 【’89.1.4 朝刊 1頁 (全847字)】  地中海のほとりで白身の魚にレモンをじゅっとかけて食う。中国・杭州で味わう黄岩蜜桔(黄岩ミカン)の甘さ。フロリダで朝の食卓にさわやかに香るグレープフルーツ。いずれも捨てがたいが、日本のかんきつ類の王は何といっても正月のミカンである▼古事記や日本書紀に出てくる、かぐわしい「ときじくのかくのこのみ」とやらはダイダイであろう、という。紀伊国屋文左衛門が江戸へ運んだのは紀州ミカンだった。いま、われわれがいちばん多く食べているのは温州(うんしゅう)ミカンという種類らしい▼このところ、気に入ったミカンと出合い、つきあっている。無農薬、有機栽培。コクがある、というそうだが、甘さもすっぱさも、とにかく味が濃い。まるで昔のミカンだ。なかなかくさらない。皮が黒ずみ、見た目には美しくない。大きさもまちまち。だが、ひとたび口にすると、自然の恵みという思いが頭に浮かぶ▼自然のままの甘露を味わうには、しかし、つくる苦労は並大抵ではない。夏草との戦い、虫との共存。農薬で一挙に平定するのと違い、手間がかかる。でも、安全が当たり前のはず、と静岡県清水市のミカン園からの「みかんたより」にあった。実についている葉の厚さ、先端のとんがりの鋭さなどに樹勢の強さが見える▼和歌山県にも農薬を使わない工夫をしている人たちがいる。その、10年間の記録を読んだ。『ミカン山から省農薬だより』。筆者の植物病理学者、石田紀郎さんは、仲間たちとおそるおそる省農薬栽培に挑む。舞台は、農薬で息子を失ったミカン園主とその弟の農園だ▼天敵を調べ、雑草防除のために草を植え、と、手さぐりで課題に取り組む。農薬は3分の1に減らせる、というところまで来た。良心的な作業ぶりが心強い。人々が、ピカピカで見た目にきれいなミカンを選ぶという状況はいつまで続くだろう。自然希求の、変化の時なのではないだろうか。 いい顔で過ごし、いい顔に会う年に 【’89.1.5 朝刊 1頁 (全847字)】  目かくしをして顔をつくる正月の遊び、福笑い。いまの子供には、まだるっこくて、面白くないかも知れない▼まゆ、目、鼻、口など数枚の紙片を、だいたいの見当をつけて配置する。顔の枠からはみ出しもする。その珍妙さに笑う。置き方によっていろいろな表情が現れ、これがまたおかしい。考えてみると、たった数個で顔の造作ができるのがふしぎでもある。雪だるまもそうだ。極端な場合は、丸の中に点を2つ並べるだけで、目のある顔に見える▼世界に50億人。同じ顔がないのが何ともふしぎである。部品は数個なのに、その寸法、色彩、形、配置の仕方などが全部ちがう。東京の松屋(銀座)で開催中の展覧会「能の華」を見にゆき、あらためて、顔や表情について考えさせられた。似た能面にもごく微妙な差がある。ひとつとして同じものはない▼梅若家の所蔵。歴史に耐え、熱演に鍛えられた面。美術品としての見事さだけでなく、さまざまな心をそのおもてににじませてきた、生き物の魔力のようなものをたたえている。不気味でもある。怒った顔のような「瞬間表情」の面。あいまいな感じの「中間表情」の面。中間表情には、演者と観客しだいで、あらゆる表情があらわれる▼人類学者の香原志勢さんによると、本来、顔と目鼻立ちは左右対称的だが、表情には対称的なものと非対称的なものがある。左右対称的な表情は情緒にひたっている時だが、非対称的な表情は、心の流れが意識的、意図的、作為的な時だという。言われる通りで、口をへの字に曲げたり、ゆがんだ表情をするのは、気持ちが素直でない時だ▼問題なのは、こうした表情を何万回と繰り返すうちに、あわれ、それがしわとなって刻まれることである。どんな気持ちで生きたかが刻印される。顔は履歴書、とか40過ぎたら自分の顔に責任を持て、というのはそんな意味だろう。いい顔で過ごし、いい顔に会う年にしたい。 米軍機のリビア機撃墜 【’89.1.6 朝刊 1頁 (全852字)】  「いや驚いた。正月早々、リビア機を米軍機が撃墜とは。物騒な年明けですね」「何でも、公海上の米空母から発進した戦闘機F14、2機にリビアの戦闘機ミグ23、2機が接近した。敵対的としか思えず、ミサイルで撃墜したというんだ」▼「それ、米政府の説明ですね。リビアは納得するかな。報復、ということになりますか」「米国は、偶発的だった、これで落着を望む、という姿勢のようだ」「リビアはすぐ国連安全保障理事会に提訴したし、外交的に米国を非難する作戦のようですね。それにしても、唐突で乱暴、という印象です。両国間は、これまでどうだったのかな」▼「リビアが化学兵器の工場を造っている、という情報があって、米国は神経をとがらせてきた」「そういえば、日本の企業がそれに関与しているんじゃないか、という話も出ましたね」「日本政府は否定した。去年の秋だったな。工場建設そのものの情報はだいぶ前からだ」「中央情報局(CIA)情報ですか」▼「そう、航空写真もあるらしく、規模と生産能力は第三世界で最大級だという」「英国も同じような情報を独自に持っている、と英外務省が発表しましたね。米国も当局が明らかにしているんですか」「レーガン大統領自身が昨年暮れに、重大な関心を抱いている、と語ったし、ホワイトハウス報道官は工場への攻撃の可能性も検討しているとのべていた」▼「こんどの事件の背景として、無視できぬ話ですな」「一方、リビアの最高指導者カダフィ大佐は医薬品の製造工場だと言っている」「化学兵器はイラン・イラク戦争でも使われましたね。拡散したら大変ですよ」「だから、化学兵器禁止に関する国際会議が7日からパリで開かれる。日本もふくめて100カ国以上が集まり、禁止を話し合う予定だ」▼「こういう話は国際的な場が望ましいですね。ある国がある国を懲罰、という形は、えてして報復合戦になりますもの」 外国育ちの感受性が生んだ『春遍新漢英字典』 【’89.1.7 朝刊 1頁 (全841字)】  春遍雀来さんに会った。ハルペン・ジャック、と読む。日本に住んで15年あまり。イスラエル国籍の人だ。いま、漢字の字典をつくっている。間もなく完成、春には世に出る▼西ドイツに生まれ、ブラジルや米国など6カ国で育った。8カ国語に通じる。物理、天文を勉強したが、ある時、漢字の魅力にとりつかれた。イスラエルのキブツ(農業共同体)で日本人に会った時のことだそうだ。その人が地面に「木」の字を書いた。2つ並べて「林」、3つで「森」、これが漢字だと言った。その瞬間、体がしびれた。感動した。「なんてうまい仕組みなんだ!」▼日本語を学ぶ外国人にとっての頭痛は、漢字の学習である。春遍さんは、字典に、外国人が学びやすいような工夫をこらした。たとえば、字を引くのに、部首によらない、新しい「字型式検字法」というものを考えた。あらゆる漢字をその形から、左右型、上下型というふうに、4つに分類する。形を認識すれば引けるから初歩の人にも便利だ▼字の意味も、まず中核となるような「中心義」を簡潔な英語で記し、そこから熟語や用例を紹介する。多くの外国人がとまどっている略語(「大卒」「原発」など)も登場する。また、類義漢字を英語で説明する試みは、外国人だけでなく、日本人にも面白そうだ。たとえば、見、観、覧、眺、仰、顧、視、看、察。どう違うか▼「論理的、体系的」に漢字をつかもうとする企て。とかく暗記と反復で覚えるもの、と考えがちな漢字を、外国人の科学者がどうとらえたかは、日本人にとって刺激的だ。「漢字は合理的にできている」と春遍さんは、漢字原子論も唱えている。「原子と原子が組み合わされて分子や化合物がつくられるのと同様のことが、漢字の世界にも存在する」▼42歳だが青年のように見える。外国育ちの感受性と分析力とが生み落とす『春遍新漢英字典』。面白い時代である。 昭和が終わって新しい日本 【’89.1.8 朝刊 1頁 (全846字)】  昭和がしずかに終わった。無類のお人柄、そして激動の時代だった。痛悼の気持ちとともに、深い感慨をおぼえる▼皇居の中、道灌堀(どうかんぼり)のあたりを歩き、驚いたことがある。木も草もうっそうと茂るにまかせ、手を入れてない。さながら深山の趣。お亡くなりになった陛下のお望みときいた。「草木は季節によって非常に違う。いくら歩いても、時期をちょっと違えれば植物の様相は全く異なる。歩きつくすといったものではない」。風のうつろいを知る心。飾らぬ野の草花を好まれた▼相手の心の武装を解除してしまう、誠実さの持ち主だった。最初の会見の時、はじめ演説口調だったマッカーサー元帥は、やがて柔らかい話しぶりになる。しかも予定をかえ、自ら玄関口まで見送った▼たくまずしてかもし出されるほのぼのとした雰囲気。柔道の山下泰裕選手へのご質問がふるっていた。「どう? 柔道は、ずいぶん骨が折れますか?」「はい、2年前に骨折いたしまして」というこたえに、愉快そうに笑われた。まわりもどっとわいた。園遊会でのことである▼昭和は、だが、いつもほのぼのというわけではなかった。「人間宣言」が、すがすがしく平明な文章で新しい時代の日本への心組みを示して以後、国民統合の象徴の時代は昭和の3分の2あまり。それに先立つ戦争の日々は、だれにも重く、苦しかった▼「戦争の悲惨さと平和の貴さを、戦後に生まれた人々に知ってほしいと切に願っています。二度とこのようなことが起こってはならないからです」。きのう即位された新しい天皇は、かつてこう演説なさったことがある。新憲法の時代に青年期以降をお過ごしになった「戦中派」▼心強い言葉である。こうした平和と民主主義のお考えを、これまで同様、語りかけていただきたい。国内でも、また国外へも。世界は、新しい日本の象徴に、日本のこれからの姿を見ようとするだろう。 新しい元号「平成」 【’89.1.9 朝刊 1頁 (全845字)】  新しい元号が明治にきまった、と知るや、こんな落首が現れた。「上からは『明治』だなどといふけれど『治(おさ)まるめい』と下からは読む」。どんな元号もはじめは違和感があるらしい▼時代をとらえるのに元号はたしかに便利だ。「昭和ひとけた」という。例外はあるにしても、ある共通点、特徴をもった人々の一群が想像できる。これを「1926年から34年までに生まれた人々」といっても、ピンと来ない。「降る雪や明治は遠くなりにけり」という草田男の句も、「明治」が「1912年」では何の興趣もわかぬ▼元号はそのくらい生活や意識に住みついてしまっている、といえる。毛沢東は明治26年生まれ、ケネディは大正6年、アラン・ドロンは昭和10年、そしてフロレンス・ジョイナーは昭和34年、と考えると、親しみというか、ちかしさが増すような気までする。だが、われわれの年号神経は複線になっていて、西暦による表現もけっこう意識に根をおろしている▼世界の若者が新しい価値観をもとめて反逆し、活発な運動をした1960年代。それを昭和何年とは言いかえられない。外来のもので、週の曜日は完全に定着した例だが、西暦はすでに日常の生活にはいっている。仕事で西暦を使う人は多い。外国と関係をもつ業務もふえている▼旅券はいい例だが、あらゆる国際交流の場で西暦が便利な時代である。ふたつの呼び方で年を数えるのは、文化としてみるとゆたかだが、実際面では換算の面倒がともなう。実務的な面では、むしろ西暦の利用を進める時代が来ている▼平成への改元で、若い女性が「としをとるような気がする」と言う。人をからかうのに使った「前世紀の遺物」呼ばわりを思い出す。1930年代あたりまで残っていた。彼女たちも「へえ、昭和生まれ!」と言われる日を予感するのだろう。さて、としを少なく思わせるには、どちらの方が便利かな。 新天皇のご発言に思う 【’89.1.10 朝刊 1頁 (全845字)】  英国に住んでいたころ、ある日、新聞をひらいて驚いた。一面に大きく、女王の夫君の死亡記事が出ている。むろん夫君は亡くなってなどいない▼その新聞の冗談めいた企画だった。各界から数人えらび、死んだことにして長文の評伝を連載する。どきりとさせられる。人気のあるテレビ司会者、モデル、毒舌評論家などと並んでエジンバラ公も登場、というわけだった。趣味のいい企画とはいいかねる。目くじらたてるでもなく、英国人は笑いながら読んでいた▼女王をはじめ王族はよく漫画の材料になる。女王の声帯模写が格別うまい芸人もいる。時事コントは抱腹絶倒ものだ。がんこに王制や王室を批判し続ける政治家もいる。人々は王室の歳費が妥当かどうかを自由に論じ、米国の大統領選挙などをみると、英国の制度は安定性、継続性、安上がりの点で勝る、などという▼いろいろな形で話題にされる。だが、少々のことではびくともしない。英国の王室には、市民との間にたたかいを含む長いやりとりの歴史があり、ようやくいまの関係に落ち着いた、といった安定感がある。それでもなお、王室に対する市民の目には、温かさと理性的なものとが共存する▼きのう、新天皇は「皆さん」という言葉をお使いになった。終戦まで詔勅の中で「臣民」だった。「人間宣言」で「国民」となり、そして「皆さん」へ。感慨がある。新天皇は前例をやぶって家族いっしょの生活を選ばれた方だ。これまでのご発言でも、くり返し、言論の自由をふくめ、新憲法のもとでの民主主義社会の価値観をお語りになった▼歴史的背景があまりにも違うから、外国との単純な比較は意味がない。だが、政治家にも他のだれにもできぬことを、天皇家がなさり、それを市民が理解する、という姿で安定感と統合の象徴となられるのが望ましい。国際親善、文化、福祉、環境などで、いっそうのご活動とのびやかなご発言を。 松本重治さんを偲んで 【’89.1.11 朝刊 1頁 (全844字)】  松本重治(しげはる)さんが亡くなった。国際交流につくした生涯。89歳だった。偉大な国際人だった、などというと、しかられるだろう。「国際人という人種はいない」と言い、「どこの国にもりっぱに通用する日本人」がだいじだ、と力説していた▼大阪で生まれ、日本に育ち、欧米に留学したあと松本さんは学者になる。30を過ぎて新聞連合通信(のちの同盟通信)にはいり、上海支局長を6年間。戦後しばらくして東京・六本木に国際文化会館をつくった。それからは各国の人びとを招いて交流につとめた。駐米、駐英、国連大使などへの誘いも断り、「自由業が好き」と一貫して民間人だった▼米国留学中、日本と中国との関係悪化は必ず日米関係におよぶ、とさとる。中国に友人をつくり、中国、米国との戦争回避に全力をあげたが、事態は志と違った方向に進む。「1930年代をどうすることもできなかったオールド・リベラリストとしての反省が、国際交流の仕事につながった」とのべたことがある▼「負け取った民主主義」というのは松本さんの表現だ。もし日本が戦争を回避でき、あるいは米国に勝っていたら、いま、はたして自由で民主的な国になっていただろうか。日本の軍部はいばり続けていないか、というのだ。民主主義を敗戦で手にした「日本現代史の悲しさ」を、忘れてはならぬと言っていた▼近隣諸国に迷惑をかけたことを忘れる、ムシがよすぎる、とも警告した。ベトナム戦争の時は米国で政策批判の講演や寄稿をした。愛情をもって率直にものを言うことがたいせつ、と言い、その実践者だった。そうした実践、交流の場として国際文化会館が果たしている役割の大きさは、はかり知れない▼松本さんは、戦争、敗戦の昭和史から学ぶべきことをこう言っていた。「軍部に力を持たせない、外国と真の相互理解をする、国民に情報を公開し、批判の自由を保証する」 早い春のたより 【’89.1.12 朝刊 1頁 (全854字)】  「たくあんの波利と音して梅ひらく」楸邨▼この間寒の入りを迎えたばかり。節分までは、まだ寒の内である。本来なら「大寒(おおさむ)小寒(こさむ)山から小僧が泣いてきた……」とうたう季節だ。熊本では、このわらべうた、はじめの部分を「ああ寒(さ)み小寒(さ)み」とうたうそうだが、九州でさえこの時期は寒い。それなのに、もう梅のたよりである▼東京の日比谷公園で、きのう、例年より20日以上も早く梅の花がほころんだ。街ゆく人もコートを脱ぎ、電車の窓をすこし開けた。日中は3月下旬の陽気だった。鹿児島でも白梅が咲き、元日に松山でひらいた梅はいつもより24日も早かった。「ゆったりと寝たる在所や冬の梅」惟然▼梅といえばウグイス。三宅島では6日にホーホケキョを聞いた。21日早い。「朝風呂(あさぶろ)にうぐひす聞(きく)や二日酔」青蘿。高松ではヒバリが高らかに鳴いた。10日のこと、34日早い。気象庁の産業気象課には、毎日、各地から「暖かい寒」の報告がしきりである▼奄美大島の名瀬で咲いたヒカンザクラは例年より14日早い。ツバキの花もあちこちでいっせいに開いた。輪島で11日に例年より67日も早く、前橋でも同日、43日早く、松江では4日に34日早く、といったぐあいだ。静岡では10日にタンポポが咲いた。48日も咲き急いでいる▼暮れの3カ月予報では「1月、2月は寒さがきびしい」はずだった。気象庁は10日「寒波は下旬から。だが2月には長続きしない」と向こう1カ月を予報した。暮れまで南北に蛇行していた偏西風が、東西に真っすぐ流れるようになり、おまけに南の亜熱帯高気圧が強まって、シベリアの寒気が南下しにくいのだそうだ▼「冬日柔(やわら)か冬木柔か何(いず)れぞや」虚子。ヒキガエルくんも眠そうな顔を出している。だが、これはつかのまの春らしい。だまされずに、もうすこし眠っていたまえ。 大喪の礼と恩赦 【’89.1.13 朝刊 1頁 (全848字)】  亡くなった天皇の大喪の礼に合わせて、政府は恩赦を行うことを考えている。「遺徳をしのび、人心を一新する」ねらいだという▼恩赦があると、どうなるか。裁判できまった刑が無効になったり、場合によっては、裁判中の被告や捜査段階の被疑者も赦免される。つまり、全部ではないが、いったんアウトになった、あるいはアウトになるかも知れない人が、一挙にセーフになる。昔は、君主の慈愛や威厳を示す制度だった▼恩赦には2種類ある。個別恩赦と政令恩赦だ。個別恩赦というのは、中央更生保護審査会というものの審査に基づいて、ふだんから行われている。画一的、あるいは硬直したやり方で法が適用された場合に、それを補正するため個々の事例について検討するものだ▼政令恩赦の方は、対象にする罪の種類をきめ、政令で一律に行う。昨年、恩赦がとりざたされた時、法務省はこの政令恩赦を「刑事政策上、好ましくない」と言っていた。個別恩赦を恒常的に実施しており、「恩赦制度としては的確に運用されている」という理由だった▼それはそうだろう。アウト組が一挙にセーフになるのでは、犯罪に立ち向かう人たちの意欲がそがれてしまう。それに、君主の仁政、という時代と異なり内閣が決定するのだから、いわば行政権が司法権に介入する形だ。三権分立の原則からみても気になる▼1956年の暮れに、日本の国連加盟を機会に恩赦が行われた。時の牧野法相のことばが忘れられない。「国連加盟は政治的重大事だから、政治に関する罪は全部許す」。約7万人が大赦となり、そのほとんど全員が選挙違反だった。造船疑獄で政治資金規正法違反に問われていた佐藤栄作氏も免訴となる▼文字通りの政治恩赦。公明選挙連盟理事長、前田多門氏は「政党人は猛省せよ」といきどおった。検察への打撃も大きかった。また選挙違反を帳消しに、と考えるならそれは恩赦の政治的乱用だ。 「半ドン」が消える 【’89.1.14 朝刊 1頁 (全839字)】  「半ドン」という言葉、今では使う人も少ない。オランダ語に由来する「ドンタク(休日)」の「ドン」をとり、土曜日の勤務が半日なのを、半ドンと呼びならわした。きょうから言葉だけでなく実質も消えはじめる。国の役所が、第2、第4土曜日に休みとなるからだ。全ドンである▼来月からは、ひと足さきを行っていた銀行や郵便局などの金融機関が完全週休2日になる。銀行と官庁は、さしずめ週休2日の時代に向けて走る機関車の役まわり。一般も、学校も、週休2日を迎える日が着実に近づきつつある。休まず、わき目もふらず、せっせと働いてきたが、労働時間短縮に本気で取り組むとなると生き方の見直しを迫られる▼当面、気にかかるのは、土曜閉庁で行政サービスが低下しないかという点だ。中小企業では隔週の週休2日も実現していないところが多い。公務員が休む、ということに、わだかまりがないわけではない。サービスの水準が落ちないよう、工夫、努力が必要だろう。同時に、人々が生活の質の充実に関心を深めるから、行政も対応が欠かせない▼土曜も開き続ける、という公的機関には美術館や博物館がある。市民の休日の過ごし方はもちろん千差万別だが、こうした場所で学び、楽しみ、憩う人は多いだろう。同じように図書館もひらかれた施設であるのが望ましい。国会図書館がお役所ふうに土曜閉庁というのは、ちと残念だ。地方の図書館に波及すると困るし、こういう施設をこそ市民は休みの日に使いたい▼欧米より労働時間が1、2割も長い。だから文句をいわれて国際的にまずい、というような一面的な話ではない。いまのような生活が最善なのか、とだれしも考えている。仕事と別に、独自の領域、地域、趣味などに自分を発揮する。それを実現する好機だ▼個人のあり方、人の関係、社会のあり方、産業構造などに、変革、再編成がはじまるだろう。 現代学生百人一首 【’89.1.15 朝刊 1頁 (全856字)】  「犬のごと受験戦争終わるまであれもおあずけこれもおあずけ」高3・鍛治良哲▼日ごろの思いを詠みこんだ「現代学生百人一首」。東京の東洋大学が、全国の中学、高校、大学、専門学校、予備校の生徒から募ったら、5,387首が集まった。歌人の神作光一学長などの審査で100首が選ばれた。学生たちの生き方が三十一文字から立ちのぼる。口語の歌が断然多いのは俵万智さんの影響か。「クラスでも賛否両論万智の歌『軽すぎるよね』『いや面白い』」高3・安岡由美▼地域差があまりない。情報化、平準化の時代に彼らは生きる。「先生にみつからぬようびくびくとワープロ実習ラブレター打つ」高3・宮田かおり。そう、書くかわりに今は打つのだ。電話も生活の一部である。「『電話代だれが払うの』母の字のはり紙さすがにかけづらくなる」高2・大木敦子「漱石の『こころ』に1人涙して不意に回した友へのダイヤル」高1・水溜真由美▼小さき決意あり。「わたし15眉(まゆ)よりのばす前髪の長さの分だけ自己主張かな」中3・清和泉「絶対に海外旅行してみたい10代のうち円高のうち」高2・小嶋利花。秘めた心ものぞく。「さむざむと朝の電車を待つ君にかけてあげたい心のマフラー」高1・高木三幸「君を待つ雪降る中で君を待つほんの少しのかけを信じて」盲学校高3・小森雅夫▼家事もけっこうやっている。「春近しミルク色したとぎ水の柔かな光掌(てのひら)に優し」高3・越中屋寿「スーパーで高い!と野菜に声を掛け主婦してるなとしみじみ思う」高3・山崎忍。だが、微妙な心理も。「朝起きて野菜を洗う母を見て『冷たくないの』と聞けないわたし」高1・富山美穂子▼「楽しみは刈り田の見えるローカル線秋一色を飽かず見る時」高2・上月章司。自然派もいれば、内省派もいる。いいなあ。励ましたくなる。「考えも気持ちも言葉で表せば全部他人の引用ばかり」高3・谷口希。 宇宙のなかでの地球 【’89.1.16 朝刊 1頁 (全822字)】  いま、宵の空がにぎやかだ。オリオン座の赤い巨星ベテルギウスを中心にシリウス、カペラ、リゲルなど、冬の星座の一等星たち7つが輝きを競う▼これらの恒星群を相手に、ひときわ明るさを誇るのが木星だ。そばの火星は、昨秋の最接近時に比べると衰えたりとはいえ、まだ一等星に負けない。両星は、これから春先にかけて、どんどん寄り添う。17日明け方には、金星と土星が並ぶ。晴れてほしい▼私たちの惑星像は、この20年ほどですっかり変わった。1969年版の『理科年表』によると、太陽系の衛星は月も含めて全部で33個だった。89年版では、名前がついたものだけで54個にふえた。米国の探査機ボイジャーが木星、土星、天王星でたくさん見つけたからだ▼ことしは、太陽系再発見のスタートの年になりそうだ。まず今月末にソ連の探査機フォボス2号が火星の周辺に到着する。将来の人間着陸に備えて表面をくわしく調べるのも使命のひとつだ。4月には奇妙な衛星フォボスへ回り、密着飛行しながら素顔に迫る。この衛星はどこから迷い込んだのか。火星のなぞがまたひとつ解けるかもしれない▼ボイジャー2号が最終目標の海王星に最接近するのは8月25日。太陽系の果てを巡るこの惑星にも、土星や天王星のような輪があるのではないかと予想されている。どんな輪や衛星の映像が送られてくるのか楽しみだ。このほか、4月に金星へ、10月には木星をめざして、探査機が飛び立つ▼こうした活動で、私たちの宇宙観はまた豊かになるだろう。だが逆に、太陽系を探査している知的生物がいたら、この第3惑星をどうみるだろうか。近年、その大気に天然にはない放射性物質や化学物質が増え、炭酸ガス濃度が急上昇している。よほどお行儀の悪い生物の仕業と思うに違いない。宇宙のなかでの地球を再認識する年にもしたい。 戦後日本の「写しべ」、薗部澄さん 【’89.1.17 朝刊 1頁 写図有 (全845字)】  休みの1日、写真集『忘れえぬ戦後の日本』を手にし、飽かずながめた。薗部澄さんの撮影。戦後、1965年までの日本全国のありのままが2冊にまとめられている▼貧しかったなあ、と思う。ついこの間のことのようだが、こんなにも生活様式が変わったのかと驚かされる。牛や馬が荷車をひいている。汽車はもくもくと煙を吐いている。人は体で荷を運搬している。背負ったり、天びん棒でかついだり。おわい屋さんが東京・新宿の町におけを積み上げている▼実に丹念な撮影だ。当時のことだから白黒フィルムである。かわら屋根の町。かやぶきの農村。農家も台所、土間、野良(のら)での昼食、田植え、脱穀と、生活ぶりがくわしい。いま第三世界で問題になっている焼き畑が行われていたこともわかる▼風雨に耐えるミノや、ヒゴモ、バンドリなど身につけるもの。素材の質感がみごとだ。さまざまな道具類と、それをつくる人びとの様子。地域により作業によっていろいろな服装をしていた時代。いまではどこへ行ってもシャツとズボンだ。衣装も道具も風景も変わる。人の顔も変わった▼写真の人々の表情が、何がなし、しっかり、くっきりしている。うつろでない。生きること、食うことに必死だった。「後世に資料を伝えるなんて気はさらさらなかった」と薗部さん。だが、語りべという言葉をまねるなら、これは貴重な写しべの仕事である▼1960年代にはいると、東京の人口は1000万を超え、兼業農家が農家の約半分となり、東海道新幹線開通、東京五輪と、日本は工業国としての高度成長の道を走りはじめる。自動車道路、空の交通網も整備される。そうなる前夜のわれわれの姿を、復員した江戸っ子カメラマンは全国を歩いて記録した▼60年代は大きな節目だった。便利さの中で「なくなったもの?」、それは人情だろう、と薗部さんは解説者の神崎宣武さんに語っている。 政教分離と大喪の礼 【’89.1.18 朝刊 1頁 (全846字)】  あとひと月あまりで、昭和の天皇の大喪の礼が営まれる。ひつぎを乗せた自動車が皇居を出てから新宿御苑の葬儀会場に着き、そのあと八王子市の武蔵陵墓地に到着するまで。これを国の儀式として行うことを政府はきめている▼大正天皇の時も新宿御苑だった。この時は葬儀会場の2カ所に鳥居を建て、祭官が参加して「葬場殿の儀」を催した。こんどは鳥居を建てない。憲法の20条には政教分離の原則がはっきり書いてあるから、国の葬儀を宗教色のないものにすることは当然だろう▼だが、国の行事とは別に、皇室の行事としての「葬場殿の儀」が今回も行われる。祭官が加わり、新天皇の主催による神道形式のものだ。新宿御苑の葬儀会場では前半がこの儀式となる。つまり、皇居から武蔵陵にいたる一連の長い行事の一部分に神道の儀式がはいる、という形である▼2つの儀式の場所が離れていれば、政教分離ははっきりする。国の行事ということでは、戦後、1度だけ国葬があった。吉田茂元首相の葬儀である。この時は故人の信仰に従ったカトリック教会での葬儀と、東京・日本武道館での宗教色なしの国葬とを明確に分けた▼同じ新宿御苑での2つの儀式をどう分けるか。いま考えられているのは「葬場殿の儀」の間は、幔幕(まんまく)を張る、というものだ。だが、部分的に一応仕切るが、なお参列者から葬場殿が見えるようにするのだという。どんな形なのか、竹下首相はその宗教的儀式にも「参列」するとのべた▼能の舞台に「つくりもの」という象徴的でかんたんな舞台装置を置くことがある。それを見て、観衆は情景の意味をさとる。幕1枚にも、意味を察してほしいとでもいった感じがある。だが、誤解を招かぬためには、憲法にのっとり画然と政教を分けた方がよい▼海外から客が集まる。アジアをはじめとする諸外国も、天皇制と国家神道が結びついていた時代を忘れていない。 ブナの自然林の減少は、経済優先時代の精算書 【’89.1.19 朝刊 1頁 (全850字)】  知り合いが送ってきた荷物の中におまけが入っていた。ひとつかみのフキノトウ。「春を届けます」。ひゃあ、駿河湾の近くにはもう春が来たのか。驚き、同時に感激した▼いつもフキノトウを摘むのは、雪がとけはじめるころの東北か信越地方。もっと遅い時期だ。ところによって、ずいぶん季節が違うなあ、と思う。ほろ苦い味が口の中にひろがったとたんに、明るみはじめたブナ林、ミソサザイの声、フキノトウ、ギョウジャニンニク、といった春の雪山、山里の風景が脳裏に浮かんだ。まだ北国は雪深いだろう▼春の到来をどう感知するかは人により所によってさまざまだ。雪の山で、ブナの木の根方の雪が少なくなりはじめる光景は、春そのもの。ブナの幹がほてるからだという。雪どけはそこから森にひろがる。光はもう春、というころ、雪のブナ林で湯を沸かし、しばし憩う快さは何にもたとえようがない▼ブナ林は、落ち葉や根の働きから緑の貯水池といわれる。清水がわく場所も多く「水筒いらず」ともいうそうだ。日本各地にあるブナの森は、古来、数多くの動物や植物、そして周辺に住む人々に自然の恵みを与えてきた。だが、戦後、1960年前後から「ブナ退治」などという言葉が出てくる▼国有林の拡大人工造林計画により、経済性の高いスギやヒノキなどの針葉樹の人工林をつくりはじめたからだ。天然のブナ林はきられた。サルなどの動物は里に下り、裸の山は保水能力を失い、それは、洪水の害などにつながった。「国憂林」という批判も高まった。環境庁の調査ではこの10年前後でブナの自然林は東京都の面積の2倍強も減ったという▼人工造林や開発のためだ。日本自然保護協会の工藤父母道さんは「ブナの森は遠い祖先からの贈り物、子孫からの借り物」と言う。約44万ヘクタール減という数字は経済で頭がいっぱいだった時代の精算書である。春の味は思ったよりも苦かった。 新しい米国とどうつきあうか 【’89.1.20 朝刊 1頁 (全849字)】  個人も国も似たところがある。熱の出る大病の後は心身ともに消耗しなかなか回復しない。ベトナム戦争とウォーターゲート事件に苦しんだあとの米国がそうだった▼この2つの余波をかぶったカーター前大統領は「米国は病んでいる」と言った。自分にも他人にも制度にも信頼が持てなくなる病気である。いま、ホワイトハウスを去ろうとするレーガンさんの任期8年間を思い返すと、どうやら、米国にとっての回復期だったように見える▼レーガン時代を68%の米国人が肯定的に評価している。ニューヨーク・タイムズ紙によると、戦後の歴代大統領の中で、任期を終える時の評価としては最高の数字だそうだ。いままでの最高はトルーマン氏で、60%、最低はニクソン氏の24%だった▼持ち前の明るい個性。常に冗談を言うゆとりを失わず、危機にあっても楽観主義で立ち向かう。そうした人間的魅力に、米国人は政策上の賛否を超えて共感を抱いた。政策の面では巨額の赤字を残すなど批判されるべき点もあるが、米国の空気を変え、ソ連との関係を改善した功績は大きい▼20日に就任するブッシュ新大統領の演説には何が盛られるか。レーガンさんの対ソ姿勢はソ連のことわざにある「信頼、しかし検証」という現実的なものだった。ブッシュ政権も現実主義でゆくという。平和、軍縮の機運を生かし続け、赤字を克服する。内外の宿題、容易ではないだろう▼共和、民主両党間で政権が移る時、ワシントンでは民族大移動となる。政治家はむろん、官僚も上の方が入れ替わる。次官から局長、時に部長まで。2000人から3000人もが交代、雰囲気もかわってしまう。今回は共和党の中の政権の引き継ぎだが、大人事異動の時であることに変わりはない▼気分一新の米国と、どうつき合うか。卑屈にならず、さりとて慢心せず、平常心で、対等に、誠意をもって話し合う。個人の場合と同じだろう。 鏡 【’89.1.21 朝刊 1頁 (全842字)】  「鏡屋の前に来てふと驚きぬ見すぼらしげに歩むものかも」と詠んだのは啄木である。ロンドンの街で、貧相な男が向こうにいる、寄ってみたらガラスに映る自分だった、と漱石もたしか書いていた▼ある映画監督の話にこんなのがあった。子どものころ、父親が家の中に鏡をいくつもかけさせ、おのが姿をひんぱんに見ていた。いまの自分にそんな趣味はない。だが、考えてみると、自分と同じ年齢のころの父親は自分の数倍も押し出しがよかった。鏡の魔力ではあるまいか▼鏡を見る機会の多い少ないで、人の風さいに違いが出るだろうか。たまに見てがっくりするのに比べれば、たびたび見る方が、表情や風体に微調整がほどこせて、よいのかも知れぬ。このところ、若い人が鏡をよく使うようになったと聞く▼輸入もふえ、売れ行きもいいらしい。妙な表現だが日本にある鏡の全面積は、近年、大幅に増えているのではないか。理由はいろいろだろうが、業界では、ひとり用マンションの増加、狭い部屋を広く見せる工夫、住まいの洋風化などを指摘する。住宅1戸あたりの鏡の面積が米国は日本の4倍、とか▼だが、何といっても最大の理由は姿見の欲求に違いない。鏡が無かった太古、人は水鏡によって自分を見た。鏡は自己認識の道具であると同時に、その向こう側の世界のおそろしさ、ふしぎさから、魔術的、神秘的な存在とも考えられた。鏡にまつわる文学・映像作品が古今東西にわたるのも故なしとしない▼当節の話題は、湯気でも曇らない鏡とか、米戦略防衛構想(SDI)用の鏡は日本製がよい、など神秘と縁がない。興味をそそられるのは、大学生協などで2、3年来、鏡がたくさん売れるという話だ。最近、若い人の関心は内向的だという。だが、政治や社会に興味を失い、関心はひたすら自分の容姿に、というわけでもあるまい。鏡としたい人がいない、ということだろうか。 語呂あわせいろいろ 【’89.1.22 朝刊 1頁 (全836字)】  昨日ときょうは共通1次試験。入試の季節が、始まった。テレビの受験講座で、講師が「試験直前の時期は暗記ものに力を入れるのが効果的」などとしゃべっている。そういえば、と若かりし日を思い出す▼無味乾燥に思える数字を、懸命に覚えたっけ。〓5は「富士山ろくオーム鳴く」(2.236…)なんていうのもあったが、語呂(ごろ)あわせでで暗記するのはもっぱら歴史の年代だった。「蒸し米で祝う大化の改新」(645年)とか「取ろうまるまるインドの富を」(1600年、東インド会社設立)とか▼仏教伝来は、一般的な538年説のほか552年説などもある。しかし1212年(オイッチニ、オイッチニとやって来た)と記憶している人もいるだろう。これは、西暦でなく「皇紀」。すなわちトシがわかる。最近の参考書には「ひどくなる金権腐敗のロッキード」(1976年)まで載っていて、トシを感じさせられる▼語呂あわせは、多くの国にある。中国で、健康な人が「私は気管支炎だよ」というと、相手はニヤリ。気管支炎は「恐妻家」と発音がそっくりだからだ。けれども、日本のように、たとえば結婚式場の電話番号4122番を「よい夫婦」と読みかえる「数字語呂あわせ」が盛んな国はめずらしい▼予算の大蔵原案がまとまると、語呂あわせが大蔵省から発表される。少なくとも30年以上つづいている習わしで、今回は「60兆で良い世に」。過去の例を眺めても「1兆良い国」(昭和34年度)「いい世直し」(47年度)「よく胸張れや皆」(57年度)と、立場上当然とはいえ、いいことずくめ▼ただし、呼び方と内容が一致するかどうかは、保証の限りでない。語呂あわせとは、しょせん言葉遊び。シェークスピアは「人殺しの家に生まれ、いろいろなことをして死んだ」(1564―1616)と筆者は習ったが、彼の父親は町長だった。 女優の和泉雅子さんがもう一度、北極点に挑戦 【’89.1.23 朝刊 1頁 (全852字)】  4年前、北極点まであと一歩というところで涙をのんだ和泉雅子さんがもう一度、挑戦するという。41歳の冒険を励ます会がおととい東京であった▼銀座のすし屋に生まれ、下町で暮らす彼女らしく、和気あいあいの集いだった。「お嫁に出すつもりでいかせて、といった人が、出もどってきたかと思うと、また出かけるといいます。みなさんこの娘をどうぞよろしく」。母親代わりというプロデューサー石井ふく子さんが、そういって会場をわかせた▼町内会を代表して、近所の雑貨店の吉田洋子さん。「たくさん買っていただいて、お届けしますといっても、いつもご自分で両手にさげてもってかえる。ああそうか、北極に行く訓練なのかな、と思ったりして」。銀座・泰明小学校の同級生は「マコちゃん、泰明小のためにがんばって」▼85年の初挑戦いらい、極点踏破を目指す女性がぐんとふえたという。3年前には、犬ぞりの米国隊に加わった女性隊員が極点を踏んだ。この春は和泉さんのグループのほかに、米国シアトルの女性がスキーで、アラスカの女性はなんと単身犬ぞりで、それぞれ挑戦する▼女性の進出は、実は南極にもあてはまる。オーストラリアはぜんぶで4つの南極基地をもっている。そのうち2つは、女性が隊長をつとめているそうだ。日本はまだそこまでいかないが、一昨年の第29次南極観測隊に初の女性隊員が加わった。もう、北極も南極も、男だけの世界ではなくなった。そんな時代の変わり目を、1人の女優の冒険が雄弁に物語っている▼もっとも、当の和泉さんはそんなに力んでいない。最後のあいさつ。「成功するとは確実にはいえません。相手は偉大な自然なのですから。その時は、また行けばいいじゃないかって。40すぎると、女もおそろしくなります……アハハハ」▼北極に太陽が顔をのぞかせる3月8日、和泉さんの第2次遠征隊はカナダ最北のエルズミア島を出発する。 今世紀末にフロンガス消費量を半減させる 【’89.1.24 朝刊 1頁 (全861字)】  風が吹くと、おけ屋がもうかる。ゴキブリめがけて殺虫スプレーをシューとやると、すしのネタが減る。おけ屋の方は、切り株にぶつかるウサギを待つような話だけれど、すしネタの話は本当のことらしい▼話の糸口はフロンと呼ばれるガスだ。目には見えないが、どこの家庭にもある。これがなければクーラーや冷蔵庫は冷えないし、スプレーにもたいてい含まれている。近所のクリーニング屋さんから電子部品メーカーまで、油などを洗うのに使う▼シューと空気のなかに出ていったフロンは、ゆっくりと高い所に上って、強い紫外線にさらされ壊れてしまう。それでおしまいなら万事めでたしなのだが、そうではないからややこしい。壊れたフロンは原子のいたずらで、地球のマントに穴を開ける▼マントとは地球が身にまとうオゾン層。集めてみればたった3ミリの厚さで、有害な紫外線を吸収して生物を守る宇宙服だ。それが薄くなってほころびたら、じかに降りそそぐ紫外線のために地表の植物も海中のプランクトンも致命傷を受ける。それを食べている小魚が減り、さらにそれをえさにする大きな魚の種類も変わってくる▼それを食べる私たちにとっては、すしネタの変化ぐらいならまだいい。オゾンの量が1%減ると、紫外線が2%増え、皮膚がんが4―6%多くなると予測されている。南極上空のマントに穴が開きかけている、という異変に世界で最初に気づいたのは、日本の南極観測隊員だ▼今世紀末にフロンの消費量を半減させるための国際取り決めができて、この1月から国内法とともに全面的に発効した。これが炭酸ガスなどによる地球温暖化や熱帯林の破壊、酸性雨に代表される地球規模の環境破壊に人類あげて立ち向かう第一歩となるかどうか▼早くも、「半減では間に合わない。フロン全廃を急ごう」という声が欧米諸国から聞こえてくる。のんびりペースのわが産業界とわが政府は、このままだと孤立しかねない。 超現実主義の巨匠 ダリ死去 【’89.1.25 朝刊 1頁 (全848字)】  サルバドール・ダリと聞けば、ほとんどの人があの口ひげを思い出すだろう。闘牛の牛の角のような形にかためてピンとはね上げた独特のひげ。大きな目玉。そして30本以上も持っていたというステッキ▼84年の生涯を終えたダリ氏は、ピカソと並んで、スペインが生んだ画家である。画業もさることながら、その所業、風さいも人を驚かすものだった。パリの大学での講演で、演壇に260個の花キャベツを並べたり、米国を訪れた時、船中で焼かせた2メートル半もの長さのパンをステッキがわりに記者会見にのぞんだり▼ヒョウを連れて豪華客船の旅をしたかと思うとエッフェル塔の下を象に乗って歩いた。あまりにも自己宣伝のにおいが強く、金もうけにも熱心、と反感も買った。だが、気にしなかった。人気はなかなかのもので10年ほど前に欧州で開かれた展覧会には100万を超える人が集まった▼チーズのように、ぐにゃりと柔らかな時計。いちど目にしたら記憶から消しにくい。超現実主義の後期に現れた巨匠といわれ、常識をくつがえす、幻想的な絵を描いた。「妄想症的・批判的方法」を唱えた。何かを見つめると別のものが重複して見えてくる。意識の下の世界や欲望の反映だ。それを二重、多重の像として描く▼超現実主義の運動から離れたあとは古典的、宗教的な作品が多くなる。1945年の原子爆弾に衝撃を受け、その後の作風には原子の世界への関心もあらわれた。絵だけでなく、装飾や宝石デザイン、映画、詩などにも手をそめ、多彩な能力を発揮した▼思うがままに描いた独特の人生。評価はさまざまだ。奇人といえば奇人だが、凡俗の発想や固定観念をゆさぶる存在は貴重である。自分のことを私といわずダリと呼ぶ本人が、こんなことを言っていた。「地球上にダリが20人、30人もいたら、世の中、目茶苦茶だ。だが、心配ご無用。そんなことは絶対に起こり得ない」 漫画的なリクルート疑惑をめぐる閣僚辞任 【’89.1.26 朝刊 1頁 (全847字)】  原田憲氏が経済企画庁長官を辞任した。リクルート疑惑をめぐる竹下内閣の閣僚辞任はこれで3人。原田氏は国会でリクルート問題調査特別委員長だった▼いま思えば、献金に無縁でない身で委員会を指揮とは、はなはだ漫画的な光景だ。その人物がさらに閣僚となり、認証式では首相の横に立った。首相の両隣を固めたのは原田氏と長谷川前法相だが、その2人がひと月もたたぬうちに辞任とは、もっと漫画的である。それも、かなしい漫画だ▼辞めたのはコスモス社から献金を受けていたからか、と問われた。「それだけで辞めたのではない。献金は合法だと思っているし、間違ったことをしているとは思わない」。そうだろう、間違ったことをしていると思えば、要職を引き受けはすまい。では、なぜ辞めたのか▼「間違ったことをしているとは思っていません」と繰り返した上で「ただ、国会に迷惑をかけてはならん。それを道義と呼べば、道義だろう」。要するに野党から追及されて予算審議に影響が出ては困る、との党略をさすらしい。これは道義の話ではない。どうも合点がゆかぬ、他に何かあっての辞任ではないか、とも思いたくなる▼小渕官房長官が、辞めたから献金の内容は公表しない、としているのも合点がゆかない。宮沢前蔵相は未公開株の購入代金の払い込み証明書提出を拒み、そのまま辞任した。長谷川前法相は野党の追及が避けられぬ情勢と見て辞任。今回も疑惑の具体的内容はうやむやのまま辞任、である。露見さえしなければよいと考えていたのだろうか。そうは思いたくない▼企業献金がすべて悪というわけでもない。政治資金規正法の基本理念は「ガラス張りの政治」ということだ。判断材料をさらけ出してこそ、疑惑の解きようもあろう。「平成ほど欲しい内閣好感度」。小渕氏の最近の川柳だ。政府が一般の人々の見方にこう鈍感では、好感度の期待、ちと無理ではないか。 ひたむきに生きたアイヌの彫刻家、砂沢ビッキさん 【’89.1.27 朝刊 1頁 (全853字)】  北海道の木を素材とし、独特の造形の世界を彫り上げてきたアイヌの彫刻家、砂沢ビッキさんが亡くなった。本名は恒雄さん。ビッキは幼時からの愛称で、カエルという意味だ▼旭川で生まれた。独学で絵を描き、22歳の時にモダンアート展に入選したが「彫刻の方が合っている」と木彫りをはじめる。同展の新人賞をとり、27歳で審査員になった。「なったばかりの者が、いいです、悪いです、なんて言ったらワヤだ」と思い、先生と呼ばれる身に安住すまい、と辞任。あとは個展中心の活動だった▼過疎の村、音威子府の廃校を創作と生活の場とした。涼子夫人が山菜のキトビロを採ってきて植えたら、根づいて増えた。「とるな、眺めるべし」という。自然とのかかわり合いをだいじにした。アイヌは必要な分はとるが乱獲はしない。根こそぎとったり切ったり、という自然への姿勢に批判的だった▼作品には力強さとやさしさが同居する。アカエゾマツなどの質感を生かし、おもちゃふうの小さなものから、そびえ立つ大きなものまで。「現代は視覚が中心だが、退化してきた触覚の中から、もっと根源的な人間というものをつかめないか……見るのでなく触れてまわる彫刻を」▼カナダでインディアンの造形に出合い、感激した。自然とのかかわりに共通性を見つけたのか。また行く計画だった。アイヌ民族として芸術の中に何を目ざすかが悩みだった。「大和民族と違った1つの表現、流れ、根底があるということが作品の中に出てこなければならぬ」と言っていた。意欲満々、57歳の死は惜しまれる▼折しも横浜市の県民ホールでは展覧会が開かれている。ひたむきな生き方を語るような、こんな詩が配られていた。「風よ/お前は4頭4脚の獣/お前は狂暴だけに/人間達はお前の/中間のひとときを愛する/それを四季という/願はくば俺(おれ)に最も激しい風を全身に/そして眼にふきつけてくれ……」 政治の世界をデータベース化してみると… 【’89.1.28 朝刊 1頁 (全806字)】  「面白いね。プロ野球のデータ分析がはじまるそうだ」「どういうこと?」「これまで試合に出た4000人近い選手のデータをコンピューターに入れる」「ははあ、そうすると過去の記録、行動の仕方がどうだったかを取り出せるわけか」▼「そう、たとえば巨人・長島は阪神・村山の何球目をよくヒットしたか、なんて記録がすぐ出る」「予測できる面白さもあるかな」「それはそうさ。中日・落合が7回以降の得点のチャンスで2ストライクに追い込まれた。さて打率は。すぐ答えがわかる」「監督には重宝だ」「報道にも面白い」「小さな機械で持ち歩けるようにでもなれば、外野席のファンも楽しめるね」▼「他の分野もデータベース化すれば面白いのに。政治の世界はどうなの」「コンピューターには入れてないが経験に基づくデータはある」「たとえば」「衆議院は任期4年だが、3年たつと必ず解散風が吹き出す、とか」「首相の資格についての経験則は」「田中元首相の説によると、党幹事長を務め総務会長か政調会長の1つ、蔵相、外相、通産相のうち2つを経験した者というんだ」▼「国務大臣の場合は」「選挙当選回数6、7回から、なんて言う」「もっと細かくデータベースをつくればいい」「どんなふうに?」「たとえば疑惑で閣僚が3人も辞職した。首相の行動は、総辞職の可能性は、といったふうな」「キーをたたけば『フトクノイタストコロデス』」▼「政治不信で国中が怒った時、政府は何をするか、なんてのはどうだろう」「そりゃ『シモンキカン、ケンジンカイギノタグイヲツクリマス』だよ、きっと」「前例があったね」「10年前だ、航空機疑惑問題等防止対策協議会というのができた」「成果は?」「部分的改革だった。要は政治家の意識だ。こればかりはデータベースに入れにくい」 新しい厄払いの方法いかが 【’89.1.29 朝刊 1頁 (全848字)】  女性なら33歳、男性なら42歳が「大厄」と昔から言い伝えられている。「迷信さ」と思いながらも、なんとなく気になって、これから節分の2月3日ごろまで有名な寺社へ厄払いに出かける人も多いだろう▼お札を買って気が休まるなら、それも結構。だが「もう少し主体的に、社会的に意味のある厄払いをしてみませんか」と十数年来、新しい厄払いを檀家(だんか)や知人に提唱している坊さんがいる。東京・中野の曹洞宗天徳院副住職で筑波大学歴史・人類学系教授でもある大藪正哉さん(56)だ▼新しい方法とは――厄年の人は、いま自分が病気や何かの災難にあったと考え、難病の研究機関や慈善団体、施設の恵まれない人たちに、できる範囲で寄付をする。つまり自分の「厄よけ」を、すでに厄を背負っている人々の「厄断ち」に結びつけるというものだ▼厄年、厄落としの民間信仰、風習は『源氏物語』にも出てくるように陰陽道の影響で平安時代の公家社会で広まり、江戸時代ごろまでに一般の年中行事となった。時代と地域によってまちまちだった厄年の決め方も、近世の末ごろに33と42が大厄とされるようになった▼肉体的にも社会生活の上でも変化が起こりやすいこの時期に、身の回りを見直そうと、私たちの先祖が組み上げた生活の知恵でもあるだろう。「だから、迷信だと片づけるのではなく、伝統的な年中行事を現代風に解釈したい」と大藪さん。その厄払い寄付運動を、「みんなで厄をかつごう会」と名づけた▼お札を買い、自分だけ災難を免れれば、と自分本位に願うのではなく、お札を買う1、2割をさいて自分より恵まれない人のために使う。人口統計によると、ことし大厄を迎える男女は約200万人。「かりに1000円ずつ出したとしても、20億円になる。全国的にこの運動が広まり、節分の年中行事のようになればいいのですが……」と大藪さんは話している。 1月のことば抄録 【’89.1.30 朝刊 1頁 (全858字)】  1月のことば抄録▼「政治改革元年という決意であたらないと国民に申し訳ない」と竹下首相、年頭の約束。ゆめ忘るまじ▼7日朝、昭和の天皇崩御。平成へと改元。「昭和という時代は、国際環境への適応の失敗と、その後の再適応の時代であったといえる。再適応の過程は、現在も着実に進行している」と梅棹忠夫・国立民族学博物館長▼「戦争をおこそうとする者にはあとわずかな命ゆえ命がけで闘わねばならぬとぼくは1月7日から8日にかけて、ひとり考えた」と作家の水上勉さん。作家の杉本苑子さんは「統を受けて新たに即位されたのは、こんどこそ生粋の象徴――。民主日本の生んだ史上はじめての天皇だ。新帝のお手で展(ひら)かれるであろう清新な世紀に、全幅の希望と期待を私は寄せたい」▼「新天皇は、亡くなった天皇と比べてイメージが希薄だといわれるが、私はそれでいいと思う。……逆に戦前のように統一したイメージを強いるのは、それだけ時代の危機的状況を示している。天皇をことさら意識しなくてすむ時代が、一番いいのではないか」と映画監督の吉田喜重さん。「均衡のとれた感覚こそ、いま必要」とヒュー・コータッチ元駐日英大使▼「日本に祭政一致の風が吹く時、近隣は不安だ。『天皇』を求心点に凝集された総力が近隣に広がるためだ」と韓国の東亜日報。大喪の形式で政教分離をめぐる議論。皇室行事の葬場殿の儀と、国の儀式、大喪の礼は「本来、別の場所、別の時間にそれぞれの儀式として行うべきだ」と横田耕一・九大教授(憲法学)「皇室は常に公であって私事はない。国の象徴がおかくれになった時には、国の行事としてお葬式をするのが当然」と宇野精一・東大名誉教授(中国哲学史)▼米国の新大統領ジョージ・ブッシュ氏、就任演説で「新しい風が吹き……ひとつの章がはじまる。統一、多様性、寛大さに関する小さく荘重な物語、皆が共有し、皆が書くものである」。 日本鳥類保護連盟会長の故山階芳麿さんの伝記 【’89.1.31 朝刊 1頁 (全858字)】  日本鳥類保護連盟会長の山階芳麿さんが88歳で亡くなった。10年あまり前に、周囲の人が伝記づくりを計画したことがある。伝記は、とかく内容が美化されがちだ、と山階さんは好まなかった▼書くなら事実関係の記録だけでよい、と言い、味気がないというと「味気なんかいらない。事実だけでよい」と主張した。いかにも科学者らしい。出来上がった『山階芳麿の生涯』は、なるほど山階家の日記を中心とした事実の記録だ▼その1910年2月7日(月)の項に「徳大寺侍従長御使として参殿、芳宮殿下は陸軍に御従事の旨御沙汰(ごさた)被申上……」とある。養育掛の記述だ。芳麿さんは9歳の時に、陸軍軍人になるように、と明治天皇によってきめられた、ということだ▼士官学校から陸軍へとその道を進みながら、悩む。子どもの時から好きな鳥の研究をしたい。父、山階宮菊麿王は海軍にいたが、趣味で鳥を愛し、地震や気象など科学に関心をもっていた。その影響か、軍隊で指揮にあたるより鳥に心が動く。やめたい、と申し出た▼何しろ勅命で軍人の生涯を、ときめられている。「上官も扱いに困ったらしく、認められるまでに5年かかった」。30歳近くからの新しい人生。動物学の勉強だ。雑種の不妊性研究で学位をとり、日本唯一の鳥類専門研究機関である山階鳥類研究所をつくって野鳥の保護や鳥類の生態研究に打ち込む▼戦後いちはやくバードデー、バードウイークをつくる。「原始的な殺害本能をおさえる自制心と教養が狩猟家に欠けている」とハンターに厳しく、また「文明が進むと鳥が住みにくくなる」が「鳥を滅ぼすような文明は、ほんとうの文明だろうか」と問いかけた▼科学技術に重点を置く理科教育でなく「もっと生命についての教育を」と望んだ。鳥への関心は、すなわち人間の生き方そのものへの自問だった。時代を先取りし、自ら選んだ進路に、思うがままの情熱を注いだ人生だった。 再審請求の弁護費用、補償は改善を 【’89.2.1 朝刊 1頁 (全850字)】  35年近くも前のことである。熊本県で、女性2人が男に追いかけられ、逃げ遅れた21歳の女性が河原で襲われ、けがをするという婦女暴行致傷事件が起きた。事件後、800メートルほど離れた商店の前を通りかかった男が、逃げた女性から犯人だといわれ逮捕される▼その男、松尾政夫さんは犯行を認めて起訴され、懲役3年の実刑判決を受けた。「自白したらすぐ帰してやる」と警察でいわれて認めた、とあとでのべている。無実を証明したい、と出所後、独力で12回も再審請求をした。毎回、書類不備などで棄却された▼松尾さんが救いの神にめぐり合ったのは10年あまり前。相馬達雄さん。「弁護士のカンで、この人はやってないと思った」。13回目の請求が受け入れられ、昨年春、再審開始がきまる。熊本地裁が開始をきめるには、それなりの理由があった▼夜間識別鑑定によれば月明かりで犯人を識別するのは困難と考えられる、被害者の衣服についていた体液の血液型が松尾さんのと違う、自白は虚偽の疑いがある、などである。ところが、開始決定を喜んだのもつかのま、松尾さんは5月に急死。きのう「無罪」の判決が出たが、聞けなかった▼71年の生涯。ほぼ半分は無念の日々だった。どういう人生なのか、と考えさせられる。同じく無罪判決を得た島田事件の赤堀政夫さんにも「35年ハナガイナガイクルシイマイニチデアリマシタ」。昭和20年代の捜査が粗かったのか。ほかにも知られざるえん罪があるのか。いま同じことが起きるおそれはないのか▼松尾さんは、それでも、相馬弁護士に会えたからこそ無罪となった。調査費や鑑定料など700万円の出費は相馬さんの負担だ。いまは再審請求時の国選弁護、費用補償がない。日弁連は改善を求めている。考えるべき点だろう。相馬さんは判決後「法曹にたずさわるすべての者がもう少し事件を慎重に考えることが大切」とのべた。 朝日社会福祉賞の元競輪選手、山崎勲さん 【’89.2.2 朝刊 1頁 (全862字)】  山崎勲さん(60)は若いころ自転車店に勤めていた。客に競輪選手がいた。勧められて選手になった。選手生活36年。日本選手権で準優勝もした。最後の周で先頭の選手を一気に追い抜く。「よさこい忍者」とあだ名された。高知出身である▼「それまでいろいろな仕事をやったが、競輪選手は自分に合っていて」生活は楽しかった。だが、人生には予期せぬことが起こる。1963年に生まれた次男、昇君の様子がほかの赤ちゃんと違う。目や口、手足が不自由だ。脳性マヒ、と診断された▼東京の病院に入れたが、落ち着かない。引き取りたい。だが高知県内に専門の施設がない。様子を調べよう、と自転車の荷台に妻の祥子さんを乗せ、県内の障害児の家庭を訪ねて回った。同じ立場の人が75人もいた。励まし合い「高知県重症心身障害児(者)を守る父母の会」をつくる▼県に陳情するが施設はつくってもらえない。自力で、と覚悟した。出場した競輪場に募金箱を置いてもらう。選手や観衆が協力してくれた。日本自転車振興会の補助も出た。だが用地さがしが大変だった。施設をつくろうとすると「障害は伝染する。よそに行け」と、かまやくわを持った人々が押しかける▼やっと南国市の丘の上に「土佐希望の家」が完成。競輪は続け、かせぎを注ぎ込んだ。「あのころがいちばんたいへんでした」。それから20年近いいま、6歳から65歳までの重症心身障害児・者105人が、山崎夫妻や医師などに見守られて暮らす。競輪は長男の正一さん(29)が継いだ▼祥子さんは毎日、近隣の在宅保育の人々を訪ねている。「障害児に遊んでもらい、こちらが育ててもらっている感じです」。昇君は3歳7カ月で亡くなった。1歳の誕生日のころの写真を居間に飾り食事のたびに感謝する。「短い命だったが、昇のおかげで子どもたちに尽くす生き方を教えてもろうたがぞね」▼山崎さん夫妻に、きのう朝日社会福祉賞が贈られた。 「リクルート問題に関する見解」にみる自民の本音 【’89.2.3 朝刊 1頁 (全846字)】  自民党が「リクルート問題における政治献金等に関する見解」なるものを発表した▼自民党の幹事長の安倍さんは昨年夏、リクルート問題について本紙記者に「党として対応する問題ではないでしょう。法律に違反したわけではないし、株を合法的に扱ったことで、どうこういうスジの問題ではない」と語っていた▼だから、党の見解ときいて、どんな対応をきめたのかと関心を持った。書き出しに「昨年夏以降、リクルートコスモス社の非公開株譲渡問題が重大な問題になっている」とある。さて、そこでと身を乗り出すと、あとはいささかがっかりだった▼その問題については国会、政府、司法当局、党がそれぞれ対応している、とかんたんにふれただけ。安倍さんは昨年の暮れに、秘書名義の未公開株の売却益は政治資金にまわったのではないか、と問うた本社記者に「そうなんだよ」と答えている▼そのへんをすっとばし、見解は政治献金の話に移る。ひらたく言えば「リクルートから政治献金をもらったりパーティー券を買ってもらったりしていても、リクルート問題が表面化した昨年夏以前のもので、合法的に処理していたなら問題はない」という趣旨だ▼自民党の本音はいったい何なのだろう。株の話もふくめ、政治献金については文句をいうな、合法だ、との開き直りみたいなものだろうか。それとも、夏の選挙に備えて金集めも必要だ、ひとつご理解を、という説得のつもりだろうか▼リクルート問題について「新聞は騒ぐし国会でもそればっかり問題にするが、国民生活にいったい何の関係があるか。国民が貧乏したとか給料が上がらないとか、不景気になったとかがあるか」と言う渡辺党政調会長の場合は前者だろう▼政治家と金の問題がこれだけ疑惑を持たれている時に「何の関係があるか」とは、国民もなめられたものだ。内閣支持率が28%に下がったのも、ゆえなきことではあるまい。 幻のツチノコ探しで町おこし 【’89.2.4 朝刊 1頁 (全854字)】  広島県の上下町では、この春からツチノコを生け捕りにしたら300万円、と賞金をつけて捜索活動を行うことになった。ツチノコといっても実はつかまえた人はいない。「想像上の動物。胴の太い蛇のような形をしているとされる」(大辞林)▼想像上でない本物の蛇について、東京動物園協会発行の『どうぶつと動物園』誌にリチャード・ゴリスさんの一文がのっている。「ヘビの足無し食事法」だ。ゴリスさんは子どものころから蛇が大好きで、日本爬虫両棲類学会会長である。観察がこまかく面白い▼だいたい、手も足もない蛇が肉食というのがふしぎである。動く敵を捕らえなければならない。それには2つの方法があるそうだ。第1は追跡型。しのび寄って一気にぱくり。寄る時に吐く息で察知されぬよう、アオダイショウなどの鼻の穴は後ろ向きについている▼第2は待ち伏せ型である。獲物がよく通る道を探し、とぐろを巻いて待つ。探し当てるには、においに鋭敏でなければならない。舌を出し、細い先端でにおいの分子をとらえ、それを上あごの器官に当てて知るという。そういえば舌をチロチロ出したり引っ込めたり▼夜行性の蛇はピットという感覚器で赤外線をとらえる。暗くても蛇には獲物が電球のように見えるというからこわい。あなたも彼には見えている。とらえた相手を毒で動けなくしたり、巻きついて締めつけ窒息させたり、食事の作法もさまざま▼食いちぎれないから、あごの柔軟さと内向きの歯を利用してもっぱらのみこむ。「感心するばかり」とゴリス氏。古今東西、蛇と人の縁は深く、吉兆とされたり凶兆とされたり。蛇にまつわる民話も多い。草で病を治す蛇の姿からか、フランスでは蛇の図柄が医者や薬局のしるしである▼幻のツチノコ探しは奈良や岐阜でもあった。観光客誘致さ、と割り切ってしまっては夢がない。町おこしの吉兆となるかな。町役場によれば「まだ冬眠中」の由。 宵の明星と地球 【’89.2.5 朝刊 1頁 (全847字)】  「いちばんぼしみーつけた」と子どもたちの歓声を誘うのはたいてい金星だ。ひときわ明るい。明星と呼ばれるゆえんである。宵の明星。夕ずつ、ともいう▼朝方なら、明けの明星である。其角(きかく)の句に「明星や桜さだめぬ山かづら」。山かずら、つまり暁に山の端にかかる雲が、明けそめた桜の山にうっすらとたなびく。花かかすみか、まぼろしか。白む山の端に明けの明星が一点、ぴかり。「明星」は、ある分野でとくに光彩を放つ人物の形容にも使われる▼その明星を科学的にくわしく調べるため、この春、探査機マゼランが旅立つ。いままでにわかっているところでは、金星は470度、90気圧と、途方もなく高温高圧の世界である。太陽系の惑星として地球とは隣組だが、大気のほとんどが炭酸ガスなのだ。これが宇宙空間へ熱が逃げるのを遮っている▼太陽熱で暖まる一方の死の世界。しかし、かつては地球の海の3分の1ほどの水量の海があったらしい。米国の惑星研究の専門家セーガン博士が面白いことを言っていた。「金星の濃い大気の中に生命力の強い緑藻類を送り込んだらどうだろう」というのだ▼緑藻類は増え、光合成で炭水化物と酸素ができる。いろいろな反応が生まれ、結果的には気圧も温度も下がるはず、という話である。金星がいま興味深いのは、地球の様子とまんざら無関係ではないからだ。かぎになる言葉は温室効果。金星は温室効果の行き着いた先、地球では温室効果がはじまったところである▼炭酸ガスには温室のガラスのような働きがある。目に見える光は通す。だが日光に暖められた地表から放射される赤外線は通さずに吸収する。中は暖まる一方。いまの地球全体が、増える炭酸ガスのために温室のようになりつつある。気象庁の報告では、約40年後には平均気温が1.5−3.5度上昇と予測している▼環境をこわさぬよう、明星を仰いで範としますか。 先端産業によるハイテク汚染 【’89.2.6 朝刊 1頁 (全846字)】  火事になったら水をかけて消すのが常識だろう。宮崎県で起きた火事はそうではなかった。工場の火災にかけつけた消防署員に「放水しないでくれ」と会社側が言う。7年前のことである▼水を注ぐと爆発したり、猛毒ガスを出すかもしれぬ化学物質がたくさんあったらしい。消防署員はとまどうばかり。超LSI(大規模集積回路)をつくっている会社だった。この時期から、先端産業によるハイテク環境汚染が人々の意識にのぼる。その前年に米カリフォルニア州のハイテク工場集中地帯、シリコンバレーでは大規模な地下水汚染が起きた▼千葉県君津市が出した地下水汚染調査の報告書を読んだ。東芝コンポーネンツ社の半導体工場から、発がん性の溶剤トリクロロエチレンが地中にはいり、地下水を汚染した件についてのものだ。この溶剤は半導体素子の洗浄やドライクリーニングなどに使われる。新しい方法でくわしい調査が行われ実態が明らかにされた▼池のコイが死ぬ、などの報告が前にあった。汚染は事実だった。廃液を流したのか、作業服を洗って流した水が原因か、それとも古いタンクの管が破損していたのか。次の問題は、汚染された土壌や地下水をどう浄化するか、である。同市と千葉県では、汚染地域の周りに何本も穴を掘って大量の水を流し込み、中央部に掘った穴から水を吸い上げるという方法を検討中だ▼市と県と会社が協力して解決にあたる。当然のことだろう。「はっきりわからぬうちは」と1年半も公表されなかった。住民の健康への影響を考えるなら、情報を公開して衆知を集めるべきだ。ハイテク産業誘致に熱心な熊本県などは、地下水への依存度が高いこともあり、地下水質保全要綱を定めて積極的に取り組んでいる▼時を失わず前向きに公害防止の手を打つことが望まれる。千葉県は、すがすがしい水を井戸からくみ上げる上総(かずさ)掘りを考え出したところだ。 竹下首相に政治浄化の実現を本気で、と望みたい 【’89.2.7 朝刊 1頁 (全847字)】  英国の議会を傍聴していると、なかなか味な仕掛けがあって思わずにやりとさせられることがある。名前の呼び方などはその一例だろう。議員は議長に向かって発言し、他の議員にものいう時も、その名を直接呼ばない、というしきたりだ▼○選挙区選出の名誉ある議員、というふうに必ず三人称で呼ぶ。たとえば「土井さん、あなたのおっしゃることは……」などとは言わぬ。「議長、ただいま兵庫2区選出の名誉ある議員が発言なさった点につき……」と言う。小渕さん、と名指しせずに「群馬3区選出の名誉ある議員」▼相手とけんかをしようと思っても、発言のはじめに毎回「議長、○選挙区選出の名誉ある議員が……」を繰り返すのでは意気の上がらぬことおびただしい。実は、それを見越して冷静な討議のためにこんな慣行ができているのだ。発言は私事にわたらない、というきまりとともに「頭を冷ます」仕掛けと呼ばれる▼議会制民主主義の歴史の長い英国だが、100年あまり前までは政治の腐敗は珍しくなかった。産業革命で人口が移動しても選挙区定数の是正はすぐには行われない。ひしゃくで金をばらまく議員の姿が漫画になり、1874年の総選挙で自由党が敗れると、グラッドストーン首相は「ビールとジンの洪水に流された」と嘆いた▼「腐敗・違法行為防止法」が本格的にできたのは1883年だった。贈収賄や供応が禁止され、有罪になった候補者は当選無効、その選挙区からの立候補は永久に禁止、7年間の投票権はく奪。さらに選挙事務長が違反したら候補者も責任を負う、と厳しい連座原則だ。選挙ブローカーの動く余地がなくなった▼首相がロサンゼルスで政治改革を語り、英国を例に選挙の浄化に積極姿勢を示した。英国を参考にした提言はすでにある。要は本気で政治浄化を実現するかどうかだ。島根県選出の名誉ある議員、いや、竹下さんには、本気で、と望みたい。 バーバラ・タックマンさんの「Q」と「ノンQ」 【’89.2.8 朝刊 1頁 (全844字)】  米国でレーガンさんが大統領に当選した時だった。だから8年あまり前のことになる。歴史家のバーバラ・タックマンさんが「品質の低下」という一文を書いた。彼女の訃(ふ)に接し、それを思い出した▼世の中、あまりにも質が落ちたのではないか、という社会観察である。昔にくらべ、物質的な面で生活は進んだかも知れないが、文化の面ではさにあらず。労働の質は落ち、職人芸は珍しいものとなり、ひとは簡易食を料理と思い、幼稚な映画がのさばり、と厳しかった▼世の中を「Q」と「ノンQ」に仕分ける提案をしていた。Qはクオリティー(品質)の頭文字。最も識別眼のきいた人々がよしとするものがQ、最も多くの凡庸な人々がよしとするものがノンQ、という大胆な二分法である▼教育や広告のあり方が念頭にあったのだろう。凡庸さによる多数支配というものに批判的で、凡庸さをつき破ろうとする人々の衝動に期待すると論じた。ピュリツァー賞の受賞者で、時事への関心も大きかった。最近の米国の競争力低下について「ローマが炎上しているのに遊んでいる」とレーガンさんを暴君ネロにたとえたりした▼ベトナム戦争をふくめ、政策担当者が国益を損なう例を書いた『愚行の世界史』という著書がある。後世から見れば後知恵や結果論で語ることはたやすい。そうはすまいと厳密な条件をつけての分析だ。原題はいみじくも、愚かさの行進、という。歴史だけでなく、われわれの生活は、たしかに愚かさの行進にあふれている▼ようやく終わったアフガニスタン進駐。リクルート問題。疑惑の政治家や高官の動き。幼児をねらう憎むべき犯罪者。骨を送りつけてきた事件には、心が冷えた。とても人間の行為と思えない。どうも、愚行やノンQをかぎ言葉にして世界を見ると、厭世(えんせい)的な皮肉屋になりそうだ。世の中にはたっぷり、Qも、ノン愚行もあるはずなのだが。 大事にしたい動物の野生 【’89.2.9 朝刊 1頁 (全843字)】  東京でタヌキの交通事故死第1号が出たのは1972年で、これまでの報告はあわれ48件だという。東京都高尾自然科学博物館の金井郁夫さんが『アニマ』誌に書いていた▼何となくドジでまぬけなタヌキ君である。同じイヌ科でも、頭がよくまわるキツネや迅速で勇ましいオオカミとは大ちがい。かちかち山ではあえない最期をとげる悪者だし、子どもたちにはタンタンタヌキノ……とはやされる。人を化かす、と徹底して不信の目で見られ、たぬき寝入り、たぬきおやじ、とさえない表現ばかり▼もっとも、こうした言葉が多いのは人間との出合いが多かった証拠でもある。全国の民話に現れる常連だ。化かす、ごまかすといわれる理由のひとつに、北海道自然保護協会の有沢浩さんは失神癖をあげる。タヌキは突然のショックにあうと失神し仮死状態になる。まだいると思っていると、いつのまにか目覚め、姿を消している。化かされた、となるわけだ▼九州で自然観察を指導している菊屋奈良義さんのタヌキ談議は面白い。大分弁の「行っチ見チ聞いチ来い」を自然観察の方針にしている菊屋さんは、夜の森にすわって何百日もタヌキの親子を見る(『自然にドキドキ』)。タヌキたちは菊屋さんのひざを踏んづけて走りまわる。母親のしかり方、見守る教育法は人間の親に教えたいほどのものらしい▼野生の動物をいったん人手にかけて育てたら野生に帰すのはたいへん、という菊屋さんは、町にタヌキなどの動物がえさをもらいにやって来るといった話に批判的だ。動物情報を集めている金井さんも、統計上、交通事故死とえさを与えることとの間に相関関係がある、えさをやるのは即刻やめるべきだと言っている▼こうした報告や指摘は、自然とのつき合い方をわれわれに教えてくれる。「人と野生動物は(非常の時以外は)すれちがい共存が望ましい」という金井さんの直言に耳を傾けたい。 手塚治虫さん死去 【’89.2.10 朝刊 1頁 (全859字)】  鉄腕アトムの生みの親、手塚治虫さん。「ベレーをかぶったままですが、私のかつらなので失礼します。漫画は一時、悪書追放のやり玉に上がりました。思い起こすと感無量です」と昨年、朝日賞を受けてあいさつした。戦後の漫画、アニメに画期的影響を及ぼした▼いつ会ってもにこにこしていた。やさしさにほれこんで結婚、と悦子夫人が語ったことがある。仕事もつきあいも、人まかせにせず、サービス精神に富んでいた。国際会議などでは黒板に大きな漫画を描きながら具体的に説明し、喜ばせた。山ほど仕事を引き受け、眠るひまもない。合間に映画や芝居を見る。精力的に濃密な毎日を生きた。60年の生涯の短さが実に惜しい▼好きな言葉はハムレットのせりふ、「ホレーシオ、この天地間には哲学では夢にも考えられないことがたくさんあるんだよ」だった。ふしぎなこと、感動させられることが、人生にも宇宙にもまだまだある、という求道者のような謙虚さと好奇心を持ち続けていた。安易な分類をきらい、作品を評して人道主義とか虚無主義などといわれるが、「ぼくの一面だけ」と言っていた▼さわやかな、スピード感あふれる線の絵。漫画だから面白いのはむろんだが、それだけでなく深く考えさせもした。手塚さん本人が考え続け、求め続けていたからだろう。宇宙に飛び出し、そこから地球を見る、新しい考え方の必要を説いていた。月に行って人類は目覚めるかと思えば軍備競争にこだわっている、地球的な規模の国家意識がある間はだめ、と不満だった▼「病気にとりつかれた1年でした」と昨年11月末ファンクラブの人々に近況報告をした。映画や本の新しい計画を知らせ、ことしの秋には漫画家生活45年を記念する大きな節目のパーティーを開く、と楽しみにしていた。かなわぬことになった▼人々の心には、あの躍動する主人公たちが生きつづけるだろう。「空をこえて ラララ 星のかなた……」 海洋レジャー時代の到来 【’89.2.11 朝刊 1頁 (全845字)】  するすると帆を上げる。帆が風をとらえると、船は水面をすべるように走り出す。その時の、ぞくっとするような快感。船出のうれしさに塩ひと振り程度の不安。大昔の祖先も同じように感じたものに違いない▼「夏が停泊中です」といううたい文句に誘われて、第28回東京国際ボートショーをのぞいてみた。色とりどり、美しい流線型の船体。350隻ものヨットやモーターボートが並んでいる。エンジンや魚群探知機などの機器も多い。外国からの出品も目立つのは、円高時代の反映か▼初期の自動車ショーは高根の花を見にゆく催しの観があった。近年の自動車ショーには、自分で買える実力を備えた気軽さがある。ボートの世界にもそんな空気が出てきたことが会場に感じられる。ヨットやモーターボートの1人当たりの隻数は、まだ、米国の23分の1、カナダの35分の1だが、勢いとしては海洋レジャー時代の到来だ▼釣りの人口は3000万人で、サーフィン80万人、ダイビング30万人という。ヨットやモーターボートは約26万隻だが、昨年夏には歩行者天国ならぬボート天国の実験が東京湾で行われた。「動く展示館」式の船や係留船。「89海と島の博覧会・ひろしま」や「横浜博覧会(YES89)」など潮の香りの行事も多い▼海洋レジャーの上げ潮に伴い、海の交通事故や不法係留など好ましくない問題がふえる。余暇を楽しむ人々自身がまず気をつけなければならないが、同時に施設の問題でもある。船遊びの基地、いわゆるマリーナには、船の数の5分の1、約5万隻分の保管能力しかない▼「これまでの経済優先とは違い、遊びも調和させた基盤整備が必要」と自らヨットを操る菅井和夫・運輸省船舶技術研究所長。自動車時代に似て、はじめは無謀操縦もふくめ事故もふえる。日本の海洋気象は意外にきびしいから安全の学習もだいじ。新しい時代のはじまりだそうだ。 中央公会堂に巨額の寄付、大阪の岩本栄之助氏 【’89.2.12 朝刊 1頁 (全846字)】  明治のころ、関西の経済誌が「大阪商人は金もうけと遊びばかりで文化事業に関心がない」としかったうえ、こう提唱した。「資産家は、慈善院、公会堂、図書館その他、力の限り独力経営して子孫に伝えよ。公益のため、もし身を捨てるようなことがあっても名は永久に残るだろう」▼そんな生き方をしたのが、株の街・北浜で風雲児といわれた株仲買人、岩本栄之助氏だった。まだ公会堂が珍しかった大正のはじめ、大阪市に中央公会堂を寄付した。資産の半分、100万円をこれに充てた。東京・銀座の1等地が3.3平方メートル500円のころである。以後、財閥の寄付相場もこれにならったという▼岩本氏は大阪の代表的な商家に生まれ、30歳で家業を継いだ。日露戦争後の波乱相場の中でたちまち頭角を現し、巨富を築く。だが、やがて失敗し、ピストル自殺した。39歳。公会堂は2年後の大正7年に完成している▼この風雲児、なかなかのインテリだった。英、仏語に通じ、演劇や書画を愛好した。旅行が好きで、あるとき渋沢栄一氏を団長とする渡米実業団に大阪財界代表として加わった。各地を回るうち、公会堂が立派なのに驚く。公共事業に富豪たちの寄付が多いのに感銘を受け、自分も、と思い立つ▼中央公会堂は時代を映しながら盛衰を繰り返した。初期は政談演説会が年中行事で、中野正剛らの演説を聴こうと聴衆が窓ガラスを割って入るほどだった。戦争中は慰霊会場。戦後はダンスパーティーにはじまり、いまは旧制高校の老OBたちが全国寮歌祭を開いている▼建物は周りの景観にとけ込んで美しい。だが、赤レンガはくすみ屋根の銅板は粉を吹いて痛々しい。大阪市が保存・再生するのに協力して、朝日新聞社も近く募金運動を始める▼東京では東大安田講堂を改修する動きも出ている。先人の文化遺産を、われわれがどうやって後世に伝えるかを考えるきっかけにしたい。 「犯行声明」文からの人物像 真理ちゃん事件 【’89.2.14 朝刊 1頁 (全841字)】  粗い布で神経を逆なでする、とでも形容したらよいだろうか。埼玉県入間市で起きた真理ちゃん事件は、犯人と称する人物が自ら真理ちゃんを誘い、殺し、骨を送りつけた、と説明する「犯行声明」を出し、新しい段階を迎えた▼新聞社と真理ちゃんの家族に手紙を送る、という心理と行動力はいったい何だろう。世の中が騒ぐのを見て喜ぶ、いわゆる愉快犯か。自己顕示性の表れか。あるいは社会と捜査当局への挑戦なのか。とにかく異常で冷酷な振る舞いだ。加虐的な性格がうかがえる▼「声明」の送り手が女性の名前、というのも意外である。もちろん捜査当局はあらゆる可能性を考え抜いているだろう。一般的には、4つの幼女が連れ去られると男による性的な犯罪かと思い込みがちだ。署名は、しかし、「今だから言うぞ」の今田勇三ではなく、今田勇子だった▼「おばさん」という言葉の使い方や心理描写などから女性らしい、という見方がある一方、いや、男性が女性ふうに書いたのだと考える人もいる。そのひとつの理由に、女性があまり使わぬ表現というのが挙げられている。「まず、どうやって連れ去ったかを述べましょう」の「まず」とか「さて、真実の発表に入ります」の「さて」などである▼論理的で筋道の立った文章は女性らしくない、ととれるような意見もある。だが、一般論になるが、文章での男女の差はちかごろ小さいのではないだろうか。読者からの投書でも文面だけで筆者の性を言い当てるのがむずかしいことがある。筋道のはっきりした硬派の文章を書く女性がいる。情緒的な文章の男性もいる▼不審な中年男が目撃されたこと、子ども欲しさに子どもをさらう女性が殺すことはまれ、などの状況から、この事件は男性の犯行とする考え方も多い。手紙送付の動機が何であれ、それは確実に新たないくつかの手掛かりを残した。それらが生かされる日を待ちたい。 昭和の流行語とリクルート事件 【’89.2.15 朝刊 1頁 (全915字)】  昭和という時代は60年あまりの間に実にさまざまな新語や流行語をのこした。それらを丹念に拾い出す作業を自由国民社が行い『現代用語の基礎知識』選の「昭和語」として発表した▼いずれも広く流行し、しかも長く続いた言葉ばかり。「昭和時代が生んだ新語」の上位10選はこんなぐあいである(かっこ内は生まれた年)。(1)公害(昭和40年)(2)銀ブラ(5)(3)コネ(28)(4)女性上位(36)(5)ドライ(31)(6)ウルトラC(39)(7)買い出し(18)(8)エッチ(27)(9)非国民(17)(10)ハイキング(10)▼このあとに、粗大ゴミ、配給、シラケ、ワンマン、アルバイト、新人類などが続く。右の言葉は昭和の新語だから、それ以前の日本人が見たとしても、見当ぐらいはついても意味を正確にとらえるのは難しいだろう。面白いのは次にあげる「昭和時代に生きた流行語」だ。まずは1位から▼(1)戦後(20)(2)無責任(37)(3)ノーコメント(26)(4)ヤミ(14)(5)インスタント(35)(6)それなりに(55)(7)民主的……(21)(8)最低(サイテー)ネ(30)(9)昭和元禄(43)(10)気くばり(58)▼この上位10選にさっと目を走らせると、ある現象が浮かんで来るような気がする。そう、リクルート事件である。この事件、やはり「戦後」の日本人の生き方を表し、象徴しているのだろう。「無責任」な政治家の言動には、だれしもうんざり。「ノーコメント」を会見の席で連発したあげく辞任した大蔵大臣がいたっけ▼「ヤミ」の中で株の操作による「インスタント」錬金術が行われていたとは知らなんだ。1億総中流時代でみんな「それなりに」がんばって「民主的」な社会をと期待している時に、金を持ったものと政治家が結びついて利益をはかろうとするとは、まったく「最低ネ」▼「昭和元禄」と浮かれる時こそ危ない。人はだいじなことを忘れ、金の亡者に成り下がる。そして、自分のための「気くばり」と金くばり。 季節と野菜 【’89.2.16 朝刊 1頁 (全839字)】  短詩型文学の研究者、故山本健吉さんが、こう語っていた。「いろんな野菜が年中出回る時代になると、そもそもそれらがどの季節のものかを教えてくれる俳句歳時記が、いっそう重要になるはずです」▼促成栽培のビニールハウスなどで暖房のために使われる重油の量が、この20年間に4倍になったという。年に181万キロリットル、ドラム缶にして900万本分が燃やされたと聞くと、季節はずれの野菜がいかに石油をがぶ飲みして育っているか、と改めて思い知らされる▼さらに進むと野菜工場の時代が来る。ここでは太陽も土も不要だ。巨大な工場の中で、太陽の代わりに人工の光が照射され、冷暖房装置で温度が調節される。養分は循環する水に溶かして供給され、生長に必要な炭酸ガスも補給される。すべてはコンピューターで制御され、作物にとって理想的な環境が人工的につくり出される▼決して夢物語ではない。佐賀県にある九州電力農業電化試験場で実際に実験が始まっている。野菜工場内ではレタスやサラダ菜が露地ものの2倍の速さで育っている。人工の光の照射時間や炭酸ガスの補給量など最も生長に適した条件を突き止め、採算面の詰めが終われば、実用化の運びだという▼工場だと計画出荷できるし、病気の心配も少ないので無農薬、低農薬栽培が可能になる。収穫量は安定し、品質も向上する。そのうえ省力化も抜群、となると、いいことずくめのようにみえる▼だが、待てよ、果たしてそうかという疑問もわく。太陽と土で育った野菜と、味や香り、栄養価などで差はないのか。体に大切な微量要素はどうか▼季節に関係なく野菜が食べられるのは、文明の恩恵かもしれない。新しい農業技術の開発も望ましいことだ。それでも、野菜が工業製品のようになることには抵抗がある。だいいち、季語でしか旬(しゅん)を確かめられないような食文化は味気ない。 期待はずれ、国会での竹下首相の答弁 【’89.2.17 朝刊 1頁 (全847字)】  日本人の話し合いの流儀は、議会での討議の仕方にそぐわないのではないか、という説がある。いささか単純化すると、こうだ▼何か問題が起き、人々が集まる。まず個別に意見をのべ合う。対立的な意見があっても、はじめから激論はかわさない。寄り合いを何度か重ねるうちにそれぞれが自説を修正、何となく議論の方向がまとまりを持つようになる。そこで問題解決への結論を出す▼議会での議論はこの反対だ。その場で意見の相違点をはっきりさせ、対決する。そして説得力によって多くの味方を自分に引きつけようとする。こんな説を思い出したのも、国会の代表質問と衆院予算委員会のやりとりを聞いてのこと。論戦の面白さや緊張への期待は、みごとにはずれた▼主な理由は、竹下首相の答弁にある。各党は政治改革と定数是正について具体的な案をのべた。一般の人々は、そうした具体策に対し、首相がどんな考えを持っているのかを知ろうと期待する。それこそが議会の意味である。だが、答弁は何を言われても抽象論で逃げるという印象だった▼「議会とは議して会するところ」と言いながら、野党と「議する」部分は徹底して抑えた。「忍耐強く政治改革を緒につけることが私の責任」「金のかからぬ政治実現のための環境づくり」と、判で押したように繰り返すばかりだ▼指導者の生身の声や考えが人の胸に響かない。「不徳」や「忍耐」を連発し、早くこの寄り合いが終わればよいとでも思っている表情だ。「忍耐」とは、政権維持のため、ひたすら頭を低くして風の過ぎるのを待つという意味か。指導者から率直な考えを聞けない、永田町の外の人々の「忍耐」のほども察するべきだ▼社会党の山口書記長が質問でふれた、故保利茂氏への竹下さんの追悼文を読んでみた。「根回し無しの真剣勝負」をたたえているのに、ちょっと驚いた。まさにそれを人々は期待しているのだ。忍耐強く。 梅によせるこまやかな愛情 【’89.2.18 朝刊 1頁 (全845字)】  夜のやみに梅が薫っている。例年より開花は早かった。といっても、まだつぼみが固い地域も多い。梅の花前線は関東を過ぎ、いまゆっくり北上中だ▼「二もとの梅に遅速を愛すかな」という蕪村の句がある。いや、2本の木ではなく、1本の木ですら、枝の位置で花の開く時が違う。「東岸西岸ノ柳遅速同ジカラズ。南枝北枝ノ梅開落已(スデ)ニ異ナリ」と、和漢朗詠集の一節にあった。春の訪れ、自然のいとなみに寄せる祖先の目はこまやかで、愛情にあふれている▼奈良時代よりも前に、古く中国から伝来したという梅に、昔の人はどんな気持ちを抱いたのだろう。気品のある、きよらかな花。あわい香り。そして性格の強そうな枝ぶり。多少の異国情緒を、そこに感じただろうか。万葉集や古今集にもうたわれた。菅原道真の「東風(こち)吹かば……」は有名だ▼ほかの花にさきがけて早春に咲く。そこから、春告草(はるつげぐさ)の異名ができた。ほかにも好文木(こうぶんぼく)とか匂草(においぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)などの異称をもつ。凛(りん)とひややかな白梅と暖かさをたたえた紅梅と。種類は300をこえるという▼冷気ただよう時期に、静かにたたずみ、香りにふれるのがすばらしい。「老梅の穢(きたな)き迄(まで)に花多し」(虚子)。「厄介や紅梅の咲き満ちたるは」(耕衣)。あまり花が咲きすぎて重くなっては、うっとうしいということだろう▼いきおい、花はまだちらほらというころに、その清楚(せいそ)さをもとめて歩くのが趣があってよい。「探梅のこころもとなき人数かな」(夜半)。なに、同行はむしろ少ないくらいがよろしい。団体でがやがや、は味がない。「香を探る梅に蔵見る軒端かな」(芭蕉)。里の梅が満開なら、山に行く。思わぬところで樹木や花に出合うと、待たれていたような気がする▼「探梅や遠き昔の汽車にのり」(誓子) 労働災害は人災として防ぎ得る 【’89.2.19 朝刊 1頁 (全848字)】  大きな船の中で火事が起こると厄介だ。そもそも鋼鉄の密室だから、海水も防ぐかわりに、消火のための水や薬液もなかなか受けつけない。横浜の船火事も12時間燃え続け10人の死者を出した▼折しも労働災害を防ぐための政府緊急対策本部がつくられ、あす20日が第1回会合の予定だった。労働災害による死亡者は、ここ2年連続してふえ、昨年の死者は2,539人にもなっている。これを前年とくらべると、増加率は8.4%で、労働安全衛生法ができて以来の最高だという▼景気がよくなれば、労働者が必要となるが、その中に高齢者や未熟練労働者がふえている、また、受注が多く、管理が行き届かなくなっている、などが災害の多い理由だろう、と労働省は分析している。建設業、土石採取業など景気のよい業界で死傷者はふえている▼目立つのは、高齢者である。労働者全体の中で50歳以上の人が占める割合は3割にもならないのに、労働災害の死亡者では45%と半分に近い。NKK(日本鋼管)のドックで起きた、今回のインド船籍貨物船ジャグ・ドゥートの爆発、炎上事故も、その点で例外ではなかった▼清掃作業をしていた佐藤照子さん(61)と山田光江さん(60)。足をくじいて前日休んだ佐藤さんは、元気な声で「行ってくるよ」と仕事に出て火事にあった。日ごろ家族から、もうやめたら、と言われていた山田さんは、「まだ元気だから」とがんばっていたそうだ▼社会の高齢化が進むと、それは災害の面にもこうして表れるのだろうか。世の中の動きを映し、外国人労働者の災害もふえている。高齢者や外国人を視野に入れた対策が必要だ。労働省がまとめた「主な死亡災害事例」には事故の原因として、手すりを設置しなかった、安全帯をしめなかった、作業車の誘導者を配置しなかった、などの手落ちが逐一具体的に指摘されている▼人災として防ぎ得る、ということだ。 皆既月食 【’89.2.20 朝刊 1頁 (全839字)】  今夜、2年4カ月ぶりに皆既月食がある。午後10時44分ころの欠けはじめから、月がすっぽり隠れる1時間19分の皆既食をはさんで21日午前2時27分すぎ満月に戻るまで、日本全土の中天高く進行する▼月に人類が第一歩を記してから今年で20年になる。宇宙開発の関心は、しばらく月から離れていたが、このところ「月への帰還」気分が盛り上がってきた▼米航空宇宙局が昨年11月にまとめた太陽系探査計画によれば、2004年には、地球の電波雑音にわずらわされない月の裏側に天文台を着工し、2010年ころには火星行き宇宙船の発射基地をつくるシナリオができている▼月の岩石中には、酸素も水素もあり、太陽電池用のシリコンや建材になるアルミニウムなども含まれていることがわかっている。これらは、地球の周りに建設する宇宙基地の資源にもなる。月の引力は地球の6分の1しかないので、楽に運び上げられるのが利点だ▼日本でも、宇宙開発事業団の研究グループなどが月面作業車の構想を発表した。建設会社は月面基地を21世紀のビジョンとして描く▼日本マクロエンジニアリング学会のシンポジウムで「月とは何か」の問いに、参加者の答えは「地球の一部」「居住地」「経済活動の場」「太陽系のロゼッタストーン」「地球の鏡」など。人々はそれぞれの願いを月に託す▼皆既月食とはいえ、月が姿を消すわけではない。目をこらせば、鈍い赤銅色の月が浮かんでいるはずだ。地球の大気を通して回り込んだ太陽光が映えているためだ▼エル・チチョン火山の大噴火で大気が汚れていた82年末の月食では、月面はたいへん暗かった。今夜はどうだろうか。人間界の汚濁が映るとしたら、「地球の鏡」は曇ることだろう▼とにかく、こんなに好条件の月食は93年まで見られない。受験生のみなさんも、しばし電灯を消して、夜空を仰いでみませんか。 「悪魔の詩」論争にみる宗教観 【’89.2.21 朝刊 1頁 (全847字)】  『悪魔の詩』という本がこの1週間、世界の話題をさらっている。イスラム教や予言者マホメットなどを侮辱、冒涜(ぼうとく)するけしからぬ本だ、著者を処刑すべし、とイランの最高指導者ホメイニ師が命じたからだ▼著者は英国籍のインド人作家サルマン・ルシュディ氏。英国の警察は同氏を特別に保護する態勢をとり、英政府をはじめ、仏、オランダ、欧州議会など西欧からはイランへの抗議の声があがった。暗殺指令というべきホメイニ師の声明に続き、処刑を実行したものには多額の賞金を出す、とも発表された。めずらしい事態だ▼西欧その他、外部からの抗議や批判は明快で「どんな意見でも、自由な発表を保障すべきだ」というにつきる。言論、表現の自由を尊重する立場である。そういう立場からイランの言動を見るとずいぶんむちゃに見える。偏狭、排他、独善、といった印象をすら受ける。しかし、考えてみると、ことはそう単純ではない▼話が飛ぶが、戦争を始めたころの日本を外の世界は理解できただろうか。たとえば神風特攻隊をよく理解し得ただろうか。日本人をつき動かしているものを、外の論理で理解するのは難しかった、とあとで聞いた。ある国や民族が抱く情熱、信念、論理などを、外から判断するのは容易ではない▼イランにはきっと暗殺指令をもふしぎと思わない空気、論理が存在しているのだろう。だが、だからといって、懸賞暗殺を呼びかけることを認めるわけにはいかない。出版物に不快感を示すのは自由だし理解もするが、だから著者を処刑してもよいというものではない▼宗教は、激しい闘争をひき起こす。人々が信教の自由、寛容の精神を獲得する歴史には時間がかかった。今回、イスラム世界の中にも、ノーベル文学賞の昨年の受賞者マフフーズ氏のように、暗殺指令に批判的な意見がある。文明戦争の観がある書物論争。至難だろうが、求む、寛容、だ。 ダウン症児の成長 【’89.2.22 朝刊 1頁 (全860字)】  いま9歳の椿祐一くんは、生まれた時ずいぶん弱々しい声で泣いた。「なんて遠慮深い泣き方」と母の純子さんは思った。祐一くんはダウン症児だった▼ダウン症は染色体の突然変異によって起こる。発育が遅く、言葉も遅い。1,000人に1人くらいの割合で生まれる。医師からダウン症と診断結果を宣告された時、純子さんと夫の泰広さんは驚いた。涙がとまらなかった▼「世間がこの子に期待するものが何もない。学校、就職など、どれをとっても、この子を待っているものは何もない」との思いに打ちひしがれての涙だった、と純子さんはあとで思う。だが赤ちゃんは、けなげに必死で生きようとしている。「これは神がよしとされたこと」と受けとめた▼祐一くんは名古屋市の小学校の特殊学級にはいった。友だち、姉2人、弟1人のきょうだいに囲まれ、遅いが着実な成長を続ける。20代の担任教師、金森先生と純子さんの克明な連絡帳の内容が、このほど刊行された『風の大将』(玉木功編著)に紹介されている▼はじめは衣服を脱いだり着たりできない祐一くんが、少しずつ生活の領域をひろげてゆく。電話で名前を言えるようになる。交差点で友だちにアブナイヨと言うようにもなる。2年生の学芸会では、風の役を演じた。本を読んで痛感するのは祐一くんの存在がいかに周囲の人々の考えを変え、深めたかということだ▼ダウン症と宣告され「あまりに不条理」と絶句した父親は「1、2週間のうちに私の価値観がいかに物質的だったかを知った」という。会社の地位などにばかり興味を持つ、つまらん父親になっていただろう、だが判断基準を変えさせられ、いまは「しあわせだ」▼「障害者を認めないことは自分の生命も認めないことだと思います」という純子さんの言葉には重みがある。そして、次の言葉にも。「こうなるまではこんな簡単なことに気がつかなかったのです。人間は年をとると必ず障害者になる」 竹下首相に公開の場で肉声で語ることを望む 【’89.2.23 朝刊 1頁 (全847字)】  宮城県知事選に自民党推薦で出るはずだった愛知氏が出馬をとりやめた。リクルート問題を抱えて情勢が厳しい、と党が判断したためだ。こんな形の立候補とりやめは前例がないという▼竹下さんは頭が痛かろう。ただでさえ、心安らかならざる日々である。「侵略戦争」をめぐる国会答弁の波紋。東京都など自治体の消費税転嫁見送りの動き。参院福岡選挙区補欠選挙での大敗と一連の地方選での自民党の不振。そこに表れた政治不信の高まり。指導性を問う問題ばかりだ▼国会の代表質問、衆院予算委での審議をきいて、竹下さんの答弁に3つの特徴があることに気がついた。キオク・テツヅキ・ヒレイズキ、だ。キくばりの竹下さんだけに、全部キがつく。まず、キオク。「記憶が鮮明ではございません」とか「記憶が正確ではありません」がよく出てくる▼「きのう完全に記憶を整理いたしました」などという面白い表現。はじめて聞いた。都合の悪いことでは記憶はにわかに不鮮明、不正確になる。ふだん抜群の記憶力の持ち主だ。何と便利なことだろう。ただし、記憶をうんぬんする答弁術には悪いことをした人の連想がある。それが難だ▼テツヅキへのこだわりは驚くばかりである。自分の考えをきかれている時に、その問題に取り組む手続きで答える。政治改革をどう考えるか、指導者として説明する好機なのに、「具体的な進め方は首相の私的諮問機関の有識者会議、自民党の政治改革委員会、休眠状態の選挙制度審議会の3機関の有機的連携のもとに推進する」式の答弁を連発▼手続きは役人が説明すればよい。首相なら自らの抱負をのべるだろうと人は期待する。肩すかしだ。自分が意見を言うのは「非礼ではないかと思います」と逃げるヒレイズキも得意技である。公には言葉少なに、舞台裏で実行を、という政治姿勢が人々に不信の念を生んでいる。指導者は、公開の場で肉声で語ることだ。 大喪の礼 【’89.2.24 朝刊 1頁 (全845字)】  大喪の礼が行われる日である。昭和天皇を、とむらい、おくる。礼が大過なく進められるように、と望みたい。昭和天皇に寄せる思いは、体験に応じていろいろだろう。折から内外で戦争責任をめぐる論議もさかんだ。論議は論議として、野辺の送りはねんごろに、と考える▼戦時の世界の指導者の中で実に最後の人の葬儀である。163カ国、28国際機関から弔問の客が集まった。これを機会とする外交が東京でくりひろげられる。日本の首相と外相が何十カ国もの指導者と話し合うほか、各国同士も今回の訪日を顔合わせに利用する▼中にはインドネシアと中国のように、20年あまり関係が断絶していた国が話し合う場を得た、という劇的な例もある。1980年のチトー・ユーゴ大統領の葬儀でも東西両独の首脳が10年ぶりに会談して話題になった。その2年後のブレジネフ・ソ連共産党書記長の葬儀では、13年ぶりに中ソが会談▼さらに2年後のガンジー・インド首相の葬儀で日ソ首相会談が11年ぶりに実現した。劇的といえば、84年のアンドロポフ・ソ連共産党書記長の葬儀では意外なことが起きた。新書記長のチェルネンコ氏の顔を見て、医者である英国のオーエン元外相が「肺気腫(しゅ)にかかっている」と言ったのだ。1年後、まさに肺気腫で死ぬ▼大喪の礼は、外交だけでなく、トウキョウ発の報道の機会をも提供したようだ。日本に乗り込んできた報道陣、50カ国から何と1400人。葬儀だけでなく、広く日本社会の各分野にわたり、集中的に取材するという。昭和が終わったところで日本を点検しておこう、ということだろうか▼それだけ注目されるにいたった日本。ひとつの区切りを迎えた、といいたいが、内外の動きは必ずしもそういえぬことを示している。葬儀にもさまざまな対応があった。なお論争の続く国もある。しずかに、未来の生き方を考える日としたい。 邪馬台国論争 【’89.2.25 朝刊 1頁 (全852字)】  世に論争のタネはつきないが、2世紀に及んで続いている邪馬台国論争ほど楽しませてくれるものもあるまい。それがまた一段と面白くなりそうだ▼女王卑弥呼が住んだ邪馬台国の所在地をめぐっては、畿内説と九州説がある。近年は畿内説が優勢だった。ところが、佐賀県にある吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)から弥生後期のものとしては国内最大級の環濠(かんごう)集落跡が見つかり、これで九州説がかなり盛り返しそうな気配なのだ▼約25ヘクタールの集落跡の周囲には外濠がめぐらされ、その中には内濠に囲まれた数百戸とみられる住居群、2000基余りの墓地群がある。城柵(じょうさく)らしいものや物見やぐらの跡とみられる2カ所も確認された。九州説の弱点の1つは、巨大集落跡が九州では見つかっていないことだった。それが今回の発見で完全に解消、となる▼しかも重要なのは物見やぐらの存在だ。邪馬台国を紹介した中国の史書「魏志倭人伝」には、卑弥呼の居館は「宮室、楼観、城柵厳しく設け……」とある。楼観、つまり物見やぐら跡が出たのは吉野ケ里遺跡が初めてという▼さらに、卑弥呼が魏の皇帝からもらったという三角縁神獣鏡が畿内に多く分布していることも畿内説の根拠になったが、最近は国産鏡との説が有力になりつつあるそうだ。そこへ物見やぐらとくれば、形勢は九州説に有利になる▼もちろん、吉野ケ里遺跡と邪馬台国を結びつける決定的な物証はない。邪馬台国の候補地は、まゆつば物をふくめ、全国で60カ所あまり。これにまた1つライバルが現れただけ、という見方もある。しかし、このライバル、相当に強力だし、第1級の考古学資料であることは疑いない▼気がかりなのは遺跡の保存問題だ。一帯では県の工業団地が造成されており、このままだと遺跡の大部分が破壊される。文化財をだいじにしてこそ、豊かなふるさと。県には発想の転換を望みたい。 公人であることのきびしさよ タワー氏承認否決 【’89.2.26 朝刊 1頁 (全844字)】  米国のリンカーン大統領が、ある時、閣議で全閣僚の反対にあった。そうしたら「反対7、賛成1、よって賛成に決しました」と言ったそうだ▼米国の大統領の権限と責任がいかに大きいかを示す話だろう。閣僚は無視してもよい存在だ、などという意味ではもちろんない。米国の制度は、日本や英国のような議院内閣制と違い、閣僚は議員ではない。大統領の助言者として任命される。大統領のもつ責任が重いだけに、各分野を担当する閣僚の任務はきわめて重要だ▼大統領は閣僚を自分で選び、指名する。だが、それでただちに任命できるわけではない。連邦議会上院の助言と承認が必要だ。承認してもらえないと困るから、指名の時はあらかじめ綿密に調べる。連邦捜査局(FBI)に調べさせるのだ。閣僚になるのも楽ではない。金銭関係や個人的な生活も裸にされる覚悟がいる▼ブッシュ大統領が国防長官として選んだジョン・タワー氏について上院の軍事委員会はこの1カ月来、審議を続けていた。委員会は証人を呼び、FBIに再調査も依頼した。7つの報告が提出された。その結果、承認は否決となった。なお上院本会議での表決があるが、逆転承認は難しいらしい▼伝統的に議会は大統領の指名を尊重する。承認拒否は米議会史でもわずか8件。タワー氏の場合に問題とされたのは、俗にいう酒と女と金だった。酒が過ぎるとの証言や、2回の離婚も女性問題から、との情報などが出てきた。5年前に上院議員を引退してから多くの国防関係企業と契約、75万ドル余の報酬を得ていたことも明らかになった▼否決を発表するナン委員長の指摘は容赦ない。酒の上の乱れと軍紀は両立するか。女性との関係が国家機密を損なった証拠はないが、十分な分別に欠けはしないか。企業との金銭の関係はいまはないが、すでに印象が汚れている……。さてさて、公人であることのきびしさよ、である。 2月のことば抄録 【’89.2.27 朝刊 1頁 (全847字)】  2月のことば抄録▼「リクルート事件はどうなっているんですか。竹下首相も大変ですね。日本政府の国際的信用もかかっているので私も心配しています」とサッチャー英首相▼参院福岡補選で竹下首相「完敗だわな」。衆院予算委の答弁で「権力は腐敗する、という言葉をかみしめて政治家の道を歩んできた。お前は政治倫理綱領に照らして一点の曇りもないかといわれたら、自信はない。ただ政界が腐敗していると断定するだけの自信はない」▼浅田彰・京都大助手の考えでは「贈答というのは今では百害あって一利なし。物で相手を支配しようというのはおぞましい。リクルート疑惑が出てきたのも、昔ながらのプレゼント文化が背景にあったからでしょう……一度、贈答の習慣をすっぱりと全部やめてしまえばいい」▼9年余り進駐していたアフガニスタンからソ連軍が撤退。「恐ろしい国だ。僕にとって厳しい学校だった」と兵士サーシャ君(20)が本紙記者に▼真理ちゃんの帰宅を待つ埼玉県入間市の今野家に、骨のはいった段ボール箱が届いた。「こんなことをする人間がいることが考えられません。そういう人が普通に生活していると思うと耐えられません」と母親の幸恵さん▼学習指導要領。国旗掲揚と国歌斉唱が、「望ましい」の現行から今度は「指導する」へ。「望ましい、では校長が指導しにくい。今後は教員が従わなければ処分の対象」と文部省担当官▼本社の世論調査で、昭和天皇に戦争責任があるかないかを質問。25%が「ある」、31%が「ない」、38%は「どちらともいえない」。54%が新しい皇室に「親しみを持っている」▼「日本には、ロボット用センサーなど、軍事用に使える民間の技術がたくさんある。ひとたび自主技術で兵器を開発すれば、次に必ずそれを輸出したくなるものだ。次の世紀までにはそうなっている。間違いない」とパール前米国防次官補が予言。 中曽根氏のリ疑惑初会見 【’89.2.28 朝刊 1頁 (全848字)】  事務所で記者会見にのぞんだ中曽根さんの頭上に額がかかっていた。「和気如春」と読める。「時は春、日は朝(あした)」ではじまる西洋の詩があったっけ。結びは、たしか「すべて世は事も無し」だった▼中曽根会見も、始めから終わりまで「事も無し」だった。私に疑惑はありません。事情を聴取されたことはありません。わいろのような忌まわしいことはありません。(コンピューターの転売に関し)要請、依頼、指示などをしたことはありません。国会に証人喚問される必要はありません。徹底的なありませんづくしだ▼中曽根さんは、リクルート疑惑が表面化してから国内では「ノーコメント」で通してきた。外国の新聞には「(日本の)新聞は魔女狩りに熱心」などと語っていた。未公開株があちこちに配られたが、政界に流れた株は中曽根派の関係がいちばん多い。ご本人の周辺にも秘書名義で2万9000株が譲渡されている▼「吹雪が収まるまで穴の中でじっとしていた方がいい」と考えたらしいが、ようやく穴から出て来てくれた。何せ問題が起きたころの首相である。公人としてきちんと事実関係を明らかにするのが当然だろう。お望みの通りにテレビで中継され、なまの形でその説明は人々の耳目に届いた▼何千万円もの株の利益は盆暮れのあいさつや慶弔費、つきあいなどに全部使ったという。政治資金として処理されたのだろうか。その辺のこまかいことは、短い会見ではわからなかった。それにしても、不注意、監督不十分、残念、遺憾、反省などということばが何度も口をついて出た。何を指してのことだろう▼江副前リクルート会長とは疎遠、と見えたのも印象的だった。「いろいろな政府委員になったようですけど」「江副なにがしなどが……」と親密さを否定するような言葉。そんな人が、では、なぜ株を届けたのかと思う。やはり、これで疑問が消えたわけでは、ありません。 弥生、3月は自殺・交通事故の起こりやすい季節 【’89.3.1 朝刊 1頁 (全846字)】  「ぬかあめにぬるる丁字の香なりけり」(万太郎)満開のジンチョウゲの放つ香りが、かなり離れているのに漂ってくる。この花、その日の陽気によって香りが違う。朝が好きらしい▼3月になった。いまの暦とずれているが、陰暦の3月は弥生(やよい)といった。春になって萌(も)え出た草々がいよいよ生長するので「いやおひ」の月、という説があり、また草木が「ややおひ」(漸々生長)する月、との説もある。語源はともかく、桃の節句あり、啓蟄(けいちつ)ありで光があふれ出す時だ▼きのうきょう、西の方から春一番の知らせが届く。九州、四国、中国、近畿、北陸、東海に強風が吹き荒れた。古くは能登地方や西日本の漁師たちの言葉だったらしいという。今では気象解説にも使われる。立春以後、日本海にはいる最初の強い低気圧に吹き込む、強い南風のことである▼日本は冬の間、北風の勢力圏の中にある。冷蔵庫だ。寒気が北に後退してゆくにつれ、寒帯前線帯、つまり北風と南風のぶつかり合いやすい線が北上してくる。それが日本海にまで達し、その上で発生する低気圧が日本海を通る時、それに向かって南から吹き込むのが春一番というわけだ▼これが吹くと、日本海側ではフェーン現象が起き、火事が起こりやすくなる。なだれの危険も多くなる。気温が上がるためだ。雪どけが始まり、せせらぎの音が、鳥のさえずりとともに聞こえ出す。「玉ゆらに空はれ地(つち)は雪てらひもろもろのこゑゆらぎいでける」(尾山篤二郎)▼南からの強風と北からの寒風が押し合いへし合いする季節には、前線の通過に時を合わせて、けんか、自殺、交通事故、労働災害などが起こりやすくなることが各国の学者によって確かめられている、と倉嶋厚さんが書いていた。人の世ののどかさに限りあり▼さればこそ、五官をひらき春を味わおう。「冴(さえ)返る23日あり沈丁花」(素十) 故コンラート・ローレンツ氏の動物行動学研究 【’89.3.2 朝刊 1頁 (全847字)】  本紙日曜版の連載をまとめた『新どうぶつ記』にこんな話があった。絶滅しそうなアメリカシロヅルを救うための米加共同・里親作戦だ▼シロヅルの卵をカナダヅルの巣にひそかに運び込む。カナダヅルがシロヅルを育ててくれれば、シロヅルは野生の群れの中で相手を見つけて繁殖するだろうとのねらいである。1万2000羽のカナダヅルの大群の中に10羽のシロヅル。現地報告によると、カナダヅルはりっぱに卵をかえし里子たちを育てた。だが、残念なことに繁殖に結びつかない▼動物行動学でいう「刷り込み」のためらしい。ある種の動物は生後早い時期に大きな物が動くのを見ると、それを自分の親だと信じこむ。シロヅルが自分はカナダヅルだと考えてもふしぎではない。そこで、成長すると、好もしいと見たカナダヅルに求愛する。相手にされぬ。さりとて本当の仲間のシロヅルを見ても、変な白い鳥にしか見えない▼この作戦、結局ことし見直しをするそうだ。動物のこうした行動を「刷り込み」という言葉で説明したのはオーストリアのコンラート・ローレンツ氏だった。ノーベル賞の受賞者だ。動物好きで、家はさながら動物園。危険な動物もいるため、娘を時々おりに入れた、と夫人がいうほどだ▼彼こそ自分の親である、と「刷り込」まれた動物も多い。そう思い込んでいるガンなどを従え、朝は湖を泳ぐのが日課。彼を訪ねたことのある同僚記者は、動物と暮らしていて、水槽の中のおびただしい魚を1匹ずつ識別して説明してくれるのに驚いたという▼動物には攻撃欲がある。そこに抑制の力が働いて、殺し合いを防ぐ。動物は同類同士で闘うが、殺すのが目的ではない。人間の場合、抑制機構はどう働くのだろうか。ローレンツ氏の洞察に満ちた動物行動学の研究は、同じ動物である人間の行動への関心を広く呼び起こし、人々に大きな刺激を与えた。27日、85歳で亡くなった。 宮沢賢治と「風の又三郎 【’89.3.3 朝刊 1頁 (全844字)】  花巻の22−2525に電話をすると、花巻地方の昔話がきこえてくる。味わい深いお国なまりで語るのは長坂俊雄さんだ▼長坂さんは、「雨ニモマケズ」の詩をつくった宮沢賢治が花巻農学校で教えていたころの教え子のひとりである。70年近い昔のことだ。賢治はどんな教師だったのだろう。長坂さんをはじめ、数少ない教え子たちから思い出話をきき、賢治のありし日の再現を試みた本を読んだ。『教師宮沢賢治のしごと』(畑山博著)▼遊びながら学んだ楽しい日々が描かれている。賢治は、土にも肥料にも天候にもくわしかった。生徒たちは賢治とともに自然の中で生き、教科書や教室を離れたところで、賢治から全人格的な感化を受ける。全員、賢治と過ごした年月を何とこまかく覚えていることか。思わず近ごろの教育の風景と比べたくなる▼いまの花巻農業高校に、賢治のことば「風とゆききし/雲からエネルギーをとれ……」が掲げられているそうだ。自然と切り離された賢治先生は考えにくい。胸いっぱい吸い込む風の力で跳びはねていたに違いない。詩集『春と修羅』に「わたくしといふ現象は……青い照明です」とあった。いのちを吹き込まれて光り、生きる存在だ▼教室で『風の又三郎』を読んでもらったことも教え子は覚えている。出来立てのほやほやの話。世界最初の読者、いや聴き手である。ガラスのマントをまとった異次元からの少年、又三郎が、自分たちの遊びなれた風景の中にやって来る。興奮したことだろう。元生徒の1人は、冒頭の風の音をドドード、ドドード、ドードードーと記憶している▼賢治の本では、どっどど どどうど どどうど どどう、である。新作の映画『風の又三郎』を見た。どっどど どどうどの歌声とともに、緑の風が舞い上がる。広い野面を吹き渡り、深い森を吹き抜けてゆく。岩手の大自然と、子どもたちの生活が、実にみずみずしい。 マル暗記では書けない小論文 【’89.3.4 朝刊 1頁 (全841字)】  あしたから国公立大の後半の入試。これで今年の試験の季節もヤマを越える。「受験期のもみあげのびて愛(いと)しさよ」(烏頭子)。髪ぼさぼさの若者も、もうすぐ床屋に行ける▼受験生の考える力や個性を見ようと、小論文を課す大学が年を追ってふえてきた。すでに試験を終えた前期日程では、たとえば京大経済学部が2日にわたり計8時間かけて、マルサスの「人口論」をもとに人口と食糧との相互依存関係を論じさせ、福島大教育学部は「子連れ出勤論争」に発して「働く母親と保育」について考えさせた▼縄文人と現代人の足跡の図をくらべ、現代人の左右の足の機能に関して述べさせる(岐阜大医学部)、「管理社会からはずれた者にのみ見えてくる風景」を考察させる(阪大文学部)……。出題者の努力の跡がよく見えるが、うーん、受験生にはちょっとむずかしかったかもしれないなあ▼と思うのは、中学の先生の集まりで「いまの子どもたちは先生の言った通りに答案を書くのがいいことだと思い込んでいる」との話を聞いたことがあるからだ。自分の頭で考えるのは大の苦手、というわけ。同席していた大学の先生も「大学生だって同じ。教授の気にいる答案を書くのが学生の務めと思っている」と発言した▼どうしてそうなったのだろう。この集まりでは「われわれ先生は、何事であれ自分の教えた通り、世間の常識通りに答える子どもだけを、正しい良い子として扱う傾向がある。それが知らず知らずマル暗記を奨励し、子ども個人の自由な発想を封じてきたのではないか」と反省する声があがった▼4本足のニワトリを描く子がかなりいる、と去年話題になった。反響のうちで、小学1年のときに4本足ニワトリを描いたという医師からの投書が忘れがたい。「でも私の先生は教室の壁に、その絵をはってくださいました。足の数については、何もおっしゃいませんでした」 日本人はよく人に物をくれたがる 【’89.3.5 朝刊 1頁 写図有 (全851字)】  「日本人はよく人に物をくれたがる。……この気風は今の世にも伝はって、失費が多く生活の繁雑なことは、殆(ほとん)ど文明国の名に恥ぢるばかりである」。民俗学者の柳田国男がそう嘆いたのは、半世紀むかしのこと▼30数年前には「新生活運動」というのもあった。慶弔の花輪自粛、中元・歳暮などの贈答の簡素化、虚礼(年賀状・暑中見舞い)廃止といった旗じるしのもと、政府が音頭をとって国民に呼びかけ、国会、財界も協力を誓った。しかし「新生活」はいっかな実現せず、われわれがいまだ「旧生活」のただ中にあるのは、ご承知の通り▼とくに最近の「慶弔・贈答相場」の異常な値上がりには、実のところだれもが音をあげているのではないか。ちょっと年配になれば、香典は最低でも5000円、結婚のお祝いなら1万円はいるとか。以前は「アタマが偶数の金額は包んではいけない」とのたもう人もいたが、「多ければ多いほど喜ばれる」のが近ごろの風潮と聞く(それはまあ、そうではあるけれど)▼正月には子どもにお年玉。その平均がなんと2万4000円、なんて調査もある。しかも、同じ調査で、やった側の親の7割が「多すぎると思う」と答えているのだから、世の中おかしすぎる。世直しが必要だ▼幸いというべきか、自民党若手代議士10人でつくるユートピア政治研究会(いい名前だ)の告白によれば、彼らも年平均3000万円もの冠婚葬祭費や祝い金の支出に音をあげているらしい。国民の悩みをわが悩みとし、このさい率先垂範、議員諸氏は全員、例外なくいっさいの贈答をやめてはいかがか。その気風はしだいに国民にも浸透し、われわれの贈答相場も下がるだろう。国民に範を示す機会などめったにないのだから、ぜひ実行を▼むかしの人は、いっている。「進物は形式に流れず精神を失はないようにせねばなりません」(玉井広平「現代青年処女の作法」大正13年) エディンバラ公フィリップ殿下からの手紙 【’89.3.6 朝刊 1頁 (全840字)】  英国のエディンバラ公フィリップ殿下から、竹下首相のもとに1通の手紙が届いている。しかし、返事はまだ書かれていない。手紙の一部を紹介する▼「この自然の財産を守り将来の世代に残すために、陸上に空港建設の代替地を見つけることができるよう期待しています」。殿下は沖縄・石垣島白保のサンゴ礁を埋め立てて造る新空港計画を見直せないものだろうか、と問いかけている。世界自然保護基金(WWF)の総裁としての発言である▼白保の海には、国際自然保護連合が「世界で最大、最古」と確認したアオサンゴをはじめ豊かなサンゴの群落がある。魚わく海と漁師は呼ぶ。埋め立てで海の生態系が壊れ、貴重なサンゴが危うくなる。しかし、沖縄県は「サンゴは大丈夫。新空港を地域振興のてこに」と推進の立場を崩さない▼当初計画から9年余。県当局の言動には、ふに落ちないことが多すぎる。まずサンゴの生息実態を知らなかった。それを指摘されると滑走路を短縮するといい始めた。短い滑走路なら、別の陸地の方がいいと県はかつて評価していた。都合の悪いデータは人目に触れさせまい、という姿勢がほかにも見えた▼環境庁の自然保護局長や自民党環境部会の議員たちも、白保の海に潜って確かめた。もう県の言い分はうのみにできないということだろう。県は近く着工に向けた法手続きをとる、という。「いったん決めたことだから」というのでは、知恵がなさすぎる。「自然保護と開発が両立できることを示す機会ではないでしょうか」とフィリップ殿下は結んでいる▼夏の先進国サミットで地球環境が主議題になる。秋には東京で政府主催の環境国際会議を開く。日本の国際的貢献を看板に、竹下首相は準備に熱を入れている。この問題をあつかう基本は、地球規模で考え行動は足元から、ということだ。殿下への返信は、首相の哲学を世界に示す好機に違いない。 栃木・大谷石廃坑の大陥没 【’89.3.7 朝刊 1頁 (全850字)】  本紙の栃木版に、記者が身辺のあれこれをつづったコラムが載っている。先月下旬の1編に、こうあった▼大谷石の廃坑が大陥没した2月10日朝。現場取材で「地球にあいた穴」の反対側に行こうと小道を歩いていると、ピーピーとけたたましい笛の音。「アブナイ」「死んじまうぞ」。立ち入り禁止の縄の中に入り込んでいたのだった。「ゴメンナサイ、いま出ます」と言いながら、シャッターを切った▼あとで、地面に亀裂が走り、畑の土が沈んでいるように見える航空写真を目にして、記者は「恐怖が、じわじわとわいてきた」と書いている。ほかに4人の同僚も「穴」の間近で取材していた。そして一昨日の夕方、2回目の大陥没。彼らがいた場所はそっくり、地中深く落下した▼埋め戻していない廃坑の巨大な空洞に、大地が崩れ落ちるのだ。「穴」はいまや深さ30メートル、さし渡し120−130メートルにまで成長した。大谷石の採石加工工場、住宅3棟、アスファルトの市道、石造りの蔵3棟、電柱、畑、樹木などがのみ込まれ、バラバラになっている。おとといの陥没を目撃した警官らによると「突然ズズーと大きな音、すぐにズダーンと大音響が2回。水が吸い込まれるみたいに、土が穴に流れ込んでいった」そうだ▼最初の陥没では、小学校に行く子どもたち11人が、15分前に現場を通ったばかりだった。陥没した採石工場の作業員3人は、たまたまそこを離れていただけ。2回目は、落下した住宅の中に、1時間前まで人がいた。けが人が出なかったのは、偶然でしかない▼江戸時代から大規模な採掘が続けられている土地。一帯の地下に無数の廃坑(つまり空洞)があるといわれる。しかし、栃木県は「不安を与える」と分布図を公表しない。地元対策本部は、最初の陥没の翌日「すぐには2次災害が起こる恐れはない」と宣言した。着々と「人災」の構図が描かれているように思える。 NTTに見る政治家の金集め 【’89.3.8 朝刊 1頁 (全868字)】  収賄の疑いで逮捕された真藤恒NTT前会長は先月末に本紙記者と会い、いろいろな質問に応じている。その一問一答がなかなか興味深い。政治家が企業から金を集める図式が浮かぶ▼NTTの首脳人事をめぐって、部内に抗争があった。これは世間によく知られている。だれが社長になるかに関心が集まっていた。「言いにくいことだが、某幹部が角さん(田中角栄元首相)に『100万円の政治献金をできる会社がうちには3000社あります。私を社長にして下さい』と言った話がパアーッと政界に広がってね」▼政治家にとって、もとの電電公社を中心とする関連企業集団は格好の金づるだったに違いない。民営化のあと、ここから献金を吸い上げる仕組みがこわれると、新手が考え出された。「NTTの業務に関係する政治家には、社員がボーナスの一部を個人的に出すボランティア資金でまかなうことにしていた」と真藤氏▼会社のためとはいえご苦労な話だ。約3万人の管理職のうち、7、8割が「全国協議会」という団体をつくり、ボーナスから5000円ないし3万円を出す。自民党支援のための「政界対策費」である。いろいろなやりくりが必要となり、真藤前会長の場合はコスモス株の売却益の一部を政治家への献金の穴埋めに使った▼思い出すのはロッキード事件の時の若狭得治・全日空会長だ。簿外資金、つまり裏金を蓄えて政界工作の資金にあてる作業。今回と同様、政界が財界から金を集める構造が示された。経営者として有能で、私腹を肥やすのが目的ではないらしい点も似通っている。どちらの場合も簿外資金を政治家に用立てるのを必要悪と考えたのだろう▼検察当局は、永田町式の「秘書がやったこと」という口実や、株譲渡は「経済行為」という説明を認めないようだ。明快な常識に沿った捜査で結構だ。世間の常識では、秘書に届けるのは秘書を使う人に届けること。真藤氏本人、株を「わいろ」と表現している。 衛星文明 【’89.3.9 朝刊 1頁 (全848字)】  赤道上空約3万6000キロメートルの軌道に電波中継器をのせた人工衛星を3つ打ち上げて、地球を取り巻けば、世界中のひとびとの電話をつなぐことができる。こんな着想を1945年、英国の無線雑誌に発表していた人がいた▼のちに『2001年宇宙の旅』などで有名になったSF作家のアーサー・C・クラークである。実際にソ連が人工衛星スプートニク1号を打ち上げる12年もまえに、静止衛星による国際通信網を提唱していたのだから、さすがに豊かな空想力の持ち主だ▼いま、太平洋、大西洋、インド洋の上に静止したインテルサット衛星が国際電話の6割を中継している。電波が宇宙を往復するので、返事がひと呼吸遅れてくる。あれが衛星通信だ。地球の裏側の人や映像やコンピューターデータに瞬時に接触することを可能にし、「世界同時文明」がめばえようとしている。国内用のものを含めて、世界ではたらいている静止通信衛星は100個を超す▼日本初の民間通信衛星が上がった。日本企業が米国製の衛星を欧州のロケットで南米から打ち上げという国際色豊かな事業だ。この衛星の中継器を借りて、全国のCATV(有線テレビ)へ番組を流したり、予備校の講義を各地の教室へ生中継したりする新商売が計画されている▼衛星のいいところは、災害に強く、大量の情報を同時に広い範囲のたくさんの受信局へ届けられることだ。通信衛星の出力が大きくなってくると、直径1メートル程度のアンテナで個別受信もできるようになる。不特定多数の人を対象にした無線通信は「放送」になるが、放送と通信の境目があやしくなってきた。技術に制度が追いつかない感じだ▼通信衛星は「よかれあしかれ、想像以上に密接に人類を結びつけるだろう」とクラークさんはいっている。たんに衛星ビジネスで稼ぐ道を探るのではなく、新たな「衛星文明」を開くために空想力をはたらかしたい。 校長先生よ、生徒のために自分の教育判断に自信を 【’89.3.10 朝刊 1頁 (全848字)】  山形県の中学校で、生徒たちが準備した劇が上演中止となった。そのいきさつを『朝日ジャーナル』3月17日号が書いている▼寒河江市の市立陵東中で昨年10月に起きた話だ。秋の文化祭で毎年、年の主題に合わせて劇を上演する。この年は「水」が主題。生徒会では「ブナの村に生きる」という劇を企画した。ブナの森を切り出す木材会社と、水やブナを守ろうとする村人たちの芝居だ。実際にブナ林伐採の禁止を求めて訴えを起こしている人から話を聞き、脚本を書いたという▼ところが上演の前夜、中止がきまる。様子を調べた山形県弁護士会人権擁護委員会の報告によると、上演の予定を前日朝の新聞報道で知った山形営林署が「脚本を見せてほしい」と学校に要請、また寒河江警察署の補導官がやはり「見せてほしい」と学校に電話した。学校側は午後から夜にかけて会議を開き、中止をきめた▼決定を知らされた生徒たちは混乱し、泣き声も出たという。弁護士会は先月この出来事を憲法で保障された表現の自由を侵すもの、と判断、営林局側に警告書を、警察署と学校に勧告書を送った。学校は、中止の決定は自主的な判断で誤りはない、という。だが、営林署や警察の動きがなかったとしても中止させたのだろうか▼思わず山梨県の小学校で先月起きた事件を連想した。卒業記念に6年生がプールの外壁に壁画を描いた話だ。やっと完成したら、町教委が「国の補助金を受けた施設。原状にもどせ」と横やり。壁画を消し、校長が生徒に謝った。どちらの場合も、校長先生、教頭先生、もっとしっかりお願いします、と言いたくなる▼生徒の企画を認めた自分たちの教育的判断を、自信をもって貫いてもらいたい。かつて「こんなものいらない」という『朝日ジャーナル』の連載企画があった。上や外から何か言われるとすぐ生徒を泣かせる、というのでは、「校長なんていらない」となりかねない。 理の通る政治に 【’89.3.11 朝刊 1頁 (全846字)】  ジョン・タワー氏は、ついに米国の国防長官になれなかった。大統領が指名したのに上院が承認を否決したからだ。採決の前日、ドール共和党院内総務が人の意表をつく提案をした▼とにかくタワー氏を承認して6カ月の試用期間を与えよう、という案である。酒と女で評判の悪い同氏の仕事ぶりを、試しに見てやろう、というわけだ。米国では、運動選手や俳優などの適性を見ることをトライアウトという。だが、閣僚の任命に本採用ならぬ試用、トライアウトという例はない。「やけっぱちの案」「憲法にない」などと反対された▼この奇抜な提案、ことによるとドール議員が日本の内閣の様子を見て思いついた窮余の策かも知れぬ。日本では竹下改造内閣が昨年の暮れに発足した。そして1カ月たたないうちに重要閣僚が2人も辞任。ほう、1カ月の試用期間か。しかも首相は無傷で居残れるとは、これは名案▼冗談はさておき、政府や政治家に向けられた人々の目のきびしさは笑いごとですまぬところまで来ている。首相の私的諮問機関「政治改革に関する有識者会議」の人々が竹下さんに聞かせた言葉は、歯にきぬ着せぬものだった。「国民は政治家の児戯にも等しいウソに怒っている」「ロッキード事件は個人プレーだがリクルート事件は構造的な汚職だ」▼その1人、政治学者の京極純一氏によると、日本人は戦前、戦中の「サーベルガチャガチャ」政治にこり、戦後は明治以来の「札束ほっぺたピタピタ」政治でやってきた(『日本人と政治』)。人を動かすには、力による強制、利に訴えての買収、理を説いての説得、の3つの方法があるそうだ。理や原理を日本人は好まない、議会政治では強制も歓迎されない、いきおい金権の政治になる、と京極教授▼少しは理の通る政治にならぬものか。ほっぺたピタピタ精神の根深さを考えると、政治改革も小手先の「けじめ」とやらですむものではない。 春の到来「桜」だより 【’89.3.12 朝刊 1頁 (全843字)】  「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」とうたったのは在原業平だった。まったく、ことしの花はどうか、と咲く前から待たれ、咲けば咲いたで気になるのが桜である▼俳句などで、花といえば桜のこと。花もいろいろある中で、どうして桜はこうも好まれるのだろう。校章には桜の模様が多い。新学期の風景は校門に花吹雪。めでたい時に飲む桜湯には、塩漬けにした半開きの八重桜の花が浮かぶ。桜にまつわる伝統も多いし、文学、美術、工芸などで桜の果たす役割は大きい▼東京・銀座の松屋で「展覧会『桜』」を見て、ひと足早く花見をした気になった。日本の美術工芸品に見る桜づくしである。びょうぶ絵、ふすま絵。なつめ、徳利、印篭(いんろう)などの蒔絵(まきえ)。桜にキジや流水、かすみなどをあしらった構図。桃山から江戸の人々の感覚が、豪華であでやかだ▼小袖(そで)、うちかけも、大胆な色使いと凝った模様で驚かす。桜は図案化しやすいという。それだけではあるまい、この花は人々の日常の一部になっていたに違いない。幻想的な花の景色には一種の魔力がある。人の心は浮き立ち華やぐ。咲き誇る花を見るたびに、人は心動かされ、再生を喜び、永遠を思ったのではないか▼米国に住んでいた時、日系2世の知人が、毎春、中くらいの桜の枝を1本くれた。つぼみが開いている。ふつうの桜より2週間ほども早い。聞けば、まだ雪が残るころ、枝を切って暗室に入れる。春めいてきたある日、突然、光あふれる窓辺に出す。「春だ、と驚いて咲くんだ」。老いたる1世の両親にとっても、桜はなくてはならぬ春の使者だった▼ことし、桜の花前線はいつもより早いという。そろそろ南からの花だよりがはじまる。目を閉じ、花のある情景を想像しながら春を待ち受けますか。「瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの美しき春の山ざくら花」(若山牧水) 「偉大なる王」 【’89.3.13 朝刊 1頁 (全845字)】  ニコライ・A・バイコフという人が書いた『偉大なる王(ワン)』を読んだ。動物文学の傑作といってよいだろう。ひときわ楽しく読めたのは、それが手づくりの訳書だったからだ▼バイコフは帝政ロシアの軍人である。革命のあと、かつて自然調査などで足を踏み入れた、いまの中国東北部に亡命する。森の生活の中から1936年に書いたのが、シベリア・トラを主人公とするこの本だ。5年後に日本で翻訳され、多くの人に感銘を与えた。作家の藤原ていさんや戸川幸夫さんは、何十回読んだことか、とその魅力をたたえている▼誇り高い1頭のトラの物語である。タラノキとブドウの生い茂るやぶの中で生まれ落ちてからの一生を、克明に描く。狩りを覚えながらの成長。アナグマ、イノシシ、クマ、オオジカなど、そして人間との戦い。季節ごとの森の描写の美しさとともに、野生の動物の生き方が活写されていて、思わず時を忘れる▼主人公には父親と同様、額に「王」、首すじに「大」の字の模様がある。森林の大王にふさわしい威厳と力。それに敬意を払う中国人猟師との交流も興味深い。あらためて翻訳を、と思い立ったのは元新聞記者の今村龍夫さんだ。学生の時にぼろぼろになるまで愛読、ついに原書を手に入れる▼訳したいと考えていたが「気がついたら国が高齢と認める65歳」。一昨年の春にはじめて1月に完成した。ワープロで打った訳を、15部製本した。私家版である。孫や、おい、めいに配った。いまの子どもたちはかわいそう、と今村さんは言う。「ペットや動物園、ブラウン管の動物しか知りません」▼この本はいろいろな読み方ができる。誇りを持った指導者のあり方を考えるもよい。森林伐採や鉄道に追い詰められ、人間に反撃を試みる「王」の姿に環境問題を考えてもよい。だが、まず、自ら感激したものを孫に手づくりで与えよう、という気持ちが心をとらえる。 2人の清さんの死 【’89.3.14 朝刊 1頁 (全858字)】  2人の清さんが12日、亡くなった。86歳の武藤清さんと、81歳の米本清さんである▼武藤さんは耐震構造の専門家。「高層建築の生みの親」だ。日本で最初の超高層・霞が関ビルを設計した。学生時代、青森の浅虫温泉に旅行中、関東大震災が起きたことを知った。地震工学がつまらなくて、物理学に転向しようと思っていた時だそうだ。「帰京してなまなましい災害を見たら、本腰を入れる気になった」▼高い建物は倒れやすい、と素人は思う。だが、五重塔はなかなか倒れない。「実験してみると、揺れに対し木組みがきしみ、地震のエネルギーを吸収することがわかった」。同じ原理は高層建築にも働くはずだ。「地震の波は建物の下から入って上へあがり、上ではね返って下へさがる。波の上がり下がりの相互干渉でエネルギーが消耗する」▼地震の多い日本では、建物は高さ45メートルが限度だった。武藤さんの柔構造理論で建築界に大転換が起き、日本は高層ビル時代となる。国際地震工学会の初代会長に就任したり、ユーゴ・スコピエ大地震の再建指導に赴くなど、国際的な活躍も目ざましかった▼米本さんは裁判官である。「四日市ぜんそく訴訟」の判決を書いた。複数の企業による大気汚染の責任を初めて追及するという画期的な裁判だった。いわゆる4大公害訴訟のうち3つは、ひとつの企業が出す重金属による水系汚染だ。四日市では6つの企業が出す亜硫酸ガスで大気が汚染され、健康が侵害されたとの訴えが患者から出された▼65歳の定年の前日に出した判決で「6社の共同不法行為」と断じ、原告被害者側は勝訴。飾らぬ人柄で、日ごろ「農家の生まれだから泥いじりや野草趣味が合う」といっていた。裁判でも裏方をねぎらうことを忘れず、歴史的な判決はこの人の人格、考え方の柔構造によるものだろう▼提訴は1967年秋、霞が関ビル完成は68年春。どちらも、高度成長期の日本を象徴する。 恐竜、進化したらオオトカゲ? 【’89.3.15 朝刊 1頁 (全860字)】  「恐竜が進化したら、オオトカゲになりますかね」「やぶから棒に何を言う。北海道の三笠市の話かな」「よくご存じで。何でも13年前に発見された化石が、恐竜かと思っていたら、そうじゃなかったとか」▼「うむ、はじめに化石標本が見つかった時、約8000万年前の肉食恐竜・ティラノサウルスと判定された」「地名にちなんでエゾミカサリュウ化石、てんでしょう。単独の化石標本としては唯一の国の天然記念物。三笠の人も鼻が高かったでしょうなあ」「化石としては1級品だそうだ。市立博物館に展示されている」▼「ところが、化石についている余分な石などを掃除してみたら恐竜じゃないらしい、というので驚いた」「肉食恐竜特有の歯のギザギザがない。いろいろ調べた末、海のオオトカゲ・モササウルスの仲間ということになった」「困りますね。地元じゃ毎年、恐竜まつりを開いてます」「恐竜の像も建てた。恐竜菓子なんぞも売っているな」▼「過疎化でさびれる炭鉱の町の町おこしに、恐竜くんがひと役買っていたんですもの」「市としても知恵をしぼらなきゃなるまい」「ここはひとつ、恐竜が進化してオオトカゲになりましたとか何とか宣伝して」「むりを言っちゃいかん。価値のある標本だ。きちんと説明をつけて展示は続ける」▼「恐竜の持つ集客能力が惜しいな」「何か楽しい表現で三笠の名物にできぬものか」「頼朝の12歳の時のしゃれこうべでござい、ですか」「まあ、集まる人も承知の上でユーモアを楽しめるような宣伝さ。そういえばデンマークのエルシノアに、ハムレットのお墓があった」「芝居の人物でしょうに」「こけむした大きな岩の墓だ。絵が彫ってあり、観光客が群れていた」▼「三笠市と観光協会はリュウちゃんという市のマスコットを公募できめたんです」「今後のことも名案を公募したらどうだろう。ついニヤリとさせられる、こんな面白い町なら行きたい、と思うような」 知事交際費の情報公開 【’89.3.16 朝刊 1頁 (全846字)】  外国の特派員たちを前に「自民党議員は忘年会に200回から300回出る。そのたびに1万円から2万円持っていかなければならぬ」と演説したのは自民党の渡辺政調会長▼「お話をきき、日本の政治家が政策でなく、票を金で買い取るやり方で評価されていることがわかった。外国企業が日本の市場に参入する場合も、買収するのがベストか」と外国人記者の質問は皮肉たっぷり。昨年暮れのことである▼東京・渋谷では、神南宇田川町会が、先月、選挙民にも責任があるというなら、と政治家からの祝儀や寄付を一切受け取らぬことを役員会で決議した。いわゆる慶弔費など、交際にまつわる金のやりとりは、とかくふくらみがちだ▼知事の交際費の中身はどんなものだろうか。その全面公開を命じる判決が出た。大阪府の市民が、府公文書公開等条例をもとに知事交際費に関する情報公開を求めたが、府が拒否した。そこで非公開処分決定を取り消すよう訴えていた▼ひとことでいうと「知事交際費は、条例が定める非公開にしてもよい文書、情報には当たらない」、つまりガラス張りに、との判決だ。「公金による飲食を伴う懇談などがとかく安易になされ、範囲、程度が拡大しがち」な危険をも警告している▼交際費の中身は、6割を占める慶弔費、見舞金のほか賛助・協賛費、せん別、懇談費などである。それらをすべて外部から見えるようにというのだから、税金を払う立場からいうと、すっきりしている▼飲食の事実までが公開されることになると、いろいろな問題が出て来るだろう。わずらわしい、と懇談を避ける人や、金額や回数を見て自分は軽視されていると思う人も出るかも知れない。だが、判決文は、公的な会合での公金使用は公開、というはっきりした筋を、びしりと通している▼自由な批判にさらされれば、一時の混乱があっても長期的には公益にかなう、との判断がすがすがしい。 「引き際」の美しさ 【’89.3.17 朝刊 1頁 (全847字)】  「郷里の高知で桜の花が咲いたというのに自分は散っていくんだな」と言いながら、大関の朝潮が引退した。大阪の春場所では勝ち星なしの4連敗を喫した。体力の限界を感じたという▼いきさつに少々興味を感じた。15日に引退を決意した時には「16日の土俵をつとめたあと正式に発表する。あと1番だけ相撲をとりたい」と言っていた。ところが明けて16日、親方や先輩と話し合った末、「引退を決めているのに相撲をとるのは相手に対して失礼だ」として取組前に退くことになった▼力士はとかく「もう1番、最後の相撲をとってから」と考えるらしい。横綱大鵬の時を思い出した。18年前のことになるが、やはり体力の衰えを感じた大鵬が夏場所の6日目、親方に引退を申し出た。そのあと「きょうは勝ち負けは別にして全力をつくして相撲をとり、最後の土俵を飾りたい」という談話を発表した▼引退のしめくくりが、いかにも不滅の横綱らしいと評判になった。しかし相撲協会はこの時も「最後の1番」をとらせず、即時引退ときまった。引き際といえば、のちに春日野理事長となった元横綱栃錦の述懐が印象的だ。横綱になった時、先代の春日野親方(元横綱栃木山)がこう言った▼「あとは引退しか残っていない。体力これまでと思ったら、桜の花の散るごとく土俵を去れ」。栃錦関は現役引退もさっぱりしていたし、理事長も定年まで2年余り残してのきれいな勇退だった。われわれ凡夫には、ぜひ「もう1番」とって有終の美を飾りたいという気持ちが痛いほどわかる。しかし勝負も人生もきびしい。口にした時が引退なのだ▼アルペン・スキーのワールドカップ志賀高原大会で、先週、王者ステンマルク(スウェーデン)が見せた最後の滑りも劇的だった。現役最後の競技、第7旗門を外して失敗。それで終わり、だった。「もう1回」のない人生を淡々と演じる表情がさわやかだった。 今日からのお彼岸、末期的な世の中を考え直す時 【’89.3.18 朝刊 1頁 (全851字)】  きょうはお彼岸の入りだ。「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざは、暖冬のことしも生きているようにみえる。雪のなかのお墓まいりになる土地もあるだろう▼春秋の墓参は、思えばずいぶんゆかしい習俗だと思う。亡き親や先祖を大切にする方法は民族によってさまざまだ。墓石を洗い、花を手向け、香をささげる。この、われわれのしきたりは何ともいえずすがすがしく、同じようなお参りの人にも「ご苦労さま」と声をかけたくなる▼けれど、お彼岸とは何なのか、そもそも仏教とは何なのか。よく知っている日本人は決して多くない。大喪の礼で、神道の儀式に目をみはり、『悪魔の詩』さわぎでイスラムに仰天するが、じつは仏教にもとんと不案内なのだ▼彼岸とは、向こう岸。仏さまや亡くなった親たちが住む極楽浄土をいう。一方、われわれがうごめいているこちら側は、チリアクタにまみれた俗界だ。ここを離れて彼岸に行くにはどうしたらよいのか▼「五欲に打ちかつことだ」という教えが、おしゃかさまにある。財欲、色欲、飲食欲、名誉欲や睡眠欲をおさえてみよ。心の安らぎはとりもどされ、仏のような気持ちになれるはずだ、というのである▼睡眠欲とは少々わかりにくいが、怠けぐせのようなものだろう。あとは互いに思いあたる。もっと金がほしい、名誉がほしい、うまいものが食いたい……。これは現代日本の風景そのものではないか。これを願わぬ者は時代おくれのダサイ連中だ、と狂ったような欲望に、われわれは駆り立てられている。そしてたえず不安で、むなしい▼前首相の中曽根さんは、しきりに座禅をやるので有名だった。しかし、首相時代の地価暴騰を見ると、人々の欲望をかきたてる側に回っていたようにみえる。おしゃかさまの教えとはどうも違う気がする。今日からのお彼岸、ただダンゴを食べるだけでなく、仏教の知恵をかみしめ、末期的な世の中を考え直す時にしたい。 船のゴミ捨て、鳥島・アホウドリの危機 【’89.3.19 朝刊 1頁 (全846字)】  鳥島はアホウドリの世界唯一の繁殖地だ。そこに泊まりこんで、研究者がひなに足輪をつける作業を見学した同僚から、気にかかる話を聞いた▼春になると、ひなはもう親鳥と同じくらいの大きさに育っている。簡単にはとりおさえられない。そこで黒い大きな袋をすっぽりかぶせて足輪をつけるのだが、ひなにしてみればやはりおそろしい体験だ。興奮のあまり、親から口うつしにもらったエサをぜんぶ吐き出してしまう▼その時、イカやトビウオ、エビに交じって、カップラーメンの器の破片やビニール袋の切れはしなどが出てくるそうだ。親鳥が海上でエサをあさっているうちに、間違えてのみこんで、ひなに与えるらしい。2年前の調査の時は、くちばしから釣りのテグスをたらした若鳥もいたという▼鳥島といえば東京から580キロも南にある無人島である。東京湾あたりにくらべれば、海の汚れはずっと少ないはずだ。そんなところで、プラスチックごみがアホウドリのひなの柔らかいおなかにたまっていく。それは、もしかしたら、海辺であなたがなにげなく捨てたものかもしれない▼船のごみについて、これまでの規制が甘かったこともあるらしい。船内の日常生活で出るごみは原則として投げ捨て自由。乗組員100人以上の船には一定の規制があったが、それも海岸からわずか10キロ以内の海域や湾内などにかぎられていた。アホウドリのエサ場は、船のごみ捨て場でもあったわけだ▼昨年の暮れ、環境庁がプラスチックごみの洋上投棄を一切禁止する措置をとった。やっと、というべきだろうが、ともかく一歩前進ではある。ことしからは、海水の中で自然に分解するバイオ・プラスチックの開発に通産省や水産庁が取り組むそうだ▼アホウドリには、明治時代の乱獲で絶滅の淵(ふち)に立たされた、苦い歴史がある。人間の手でもういちど危機におとしいれる愚は、繰り返したくない。 有明海から中国大陸へ 生物や文化のつながりを思う 【’89.3.20 朝刊 1頁 (全846字)】  佐賀市へ行ったついでに、郷土料理店で有明海の魚介類を試みた。ムツゴロウのかば焼き、ウミタケの酢のもの、クチゾコの煮つけ、ワラスボ、ガンズケ……。干潟のにおいのする、特徴ある味覚だ▼もうひとつ、期待したメカジャーは時期が早すぎて食べられなかった。正式の名はミドリシャミセンガイ。中国の福建省あたりで「海豆芽」(ハイトウヤー)、海のもやしと呼ばれる貝のことを最近、知人から聞いた。形の連想から佐賀のメカジャーがそれと思い当たり、なつかしくなった▼メカジャーの味は楽しめなかったが、その仲間が中国や東南アジアにもいることを、郷土料理店の娘さんもよく知っていた。有明海についてのシンポジウムが開かれたり、専門家が調べに来たりして、教わる機会が多いのだそうだ▼メカジャーに限らず、有明海特産のようにみえる生物のいくつかは、中国大陸などに同類がいる。品薄気味のムツゴロウは、韓国西海岸のものを輸入している。こうした現実を、専門家は「大陸と地続きだった頃、海水と淡水のまじった汽水域に住んでいた生物が、その後の地殻変動で取り残された大陸性遺留種」と説明する(菅野徹『有明海』)▼郷土料理を味わった翌朝、吉野ケ里遺跡をみた。小高い丘で、『魏志倭人伝』のクニの描写さながらの発見が続いている。有明海は100年で約1キロずつ陸化してきたとされるから、ここに人が住んだ時代には、眼下に潟が広がっていたことだろう。有明海の生物も私たちの祖先も、大陸のさまざまな影響を受けながら、独自の環境のなかを生き抜いてきた点で共通している▼大昔だけのことではない。大陸から学んだ磁器作りの技術で栄えている有田の人々は、恋愛をシャンス、ちゃんちゃんこをポイシンというが、これらは意味も発音も現代中国語の相思、背心とほぼ同じだ。生物や文化の思いがけぬつながりは、ほかにも多いに違いない。 伊藤みどり選手、金メダル本当におめでとう 【’89.3.21 朝刊 1頁 (全857字)】  3回転半ジャンプをきめて着氷した瞬間、伊藤みどり選手の顔が、パッと笑みかがやいた。演技でもなんでもなく「うれしい!」という気持ちが、そのまま表れていた。テレビに向かって思わず「よかったねえ」と拍手したくなる、すてきな笑顔だった▼フィギュアスケートの世界選手権で、日本人が金メダルというのは、本当に大変なできごとだ。勝負がはっきり見える競技と違い、審判員の採点できまる。技術だけでなく、芸術的な優美さが求められる。女子の場合は特にそうだ▼欧米の選手に比べ、体形で見劣りするのは避けられない。審判員も、ほとんどが向こうの人だ。意識的なえこひいきはなくても、不利は否定できない。そこを、伊藤選手は、圧倒的な技術力を見せつけることで乗りこえた▼採点方法が変わり、不得意な「規定」の比重が下がった、という条件にも恵まれた。だが、やはり決定的だったのは、女子ではだれもできない3回転半と、5種類もの3回転をやってのけるジャンプ力である▼あのジャンプというのは、やる身になると、とても怖いものらしい。ただ跳び上がればいいわけではなく、高速度の演技の流れの中で跳び、しかも氷の上に降りる。当然、足をくじいたり、骨折することがしょっちゅうある。ところが、育ての親の山田満知子コーチによると、伊藤選手は小学生のころから「どんなに高いジャンプをやらせても、怖がらないで、挑戦する子」だったという▼フィギュアはまた、すさまじい練習量を要求されるスポーツでもある。リンクの営業時間外の早朝と深夜に練習して、昼間は学校に行く。よほどのがんばり屋でなければ続かない。経費もずいぶんかかる競技だが、伊藤選手は母子家庭という境遇の中で、やりぬいた▼つらいことが、いっぱいあっただろう。それに耐えて、かちとった金メダルだ。技術に対してより、もっとたくさんの点数を、その人間としての強さにあげたい気がする。 各国で話題、公人の女性関係 【’89.3.23 朝刊 1頁 (全859字)】  オーストラリアのホーク首相がテレビ会見で「自分は妻に不誠実だった」と語ったそうだ。涙を流しながらの告白だという▼オーストラリア人の中には、あなたをウーマナイザー(女性を追いかけまわす男)だと言う人がいるが、なぜだと思うか……といった質問攻めにあってのことである。ウーマナイザーという言葉、さきごろの米国でもよく出てきた。国防長官に指名され、しかし議会で承認を得られなかったタワー氏を評して使われた▼ホーク氏はヘイゼル夫人との結婚生活が33年に及ぶ。その妻を裏切った、というわけだ。自分の不誠実さは「きわめて気まぐれで元気いっぱいな私の性格の一部」で、妻は理解してくれている、と同首相。妻は「信じられぬほどの女性」だ、ともたたえた。タワー氏の場合と同様、酒も問題となり、10年前から禁酒していることを明らかにした。私事も衆目にさらされる。さても公人のつらさよ、だ▼公人の女性関係は英国でも話題になっている。かつてミス・インドに選ばれたインド出身、ロンドン在住の27歳の女性が中心人物だ。保守党のショウ下院議員の調査助手だが、実は上流階級相手のコールガールであることが暴露された。その相手に政界人や実業家、芸能人、そしてリビアの指導者カダフィ大佐のいとこの名前などが出てきた▼リビア人とはパリで定期的に会っていた、というのだからたいへんだ。英国とリビアは断交中だし、英国の国家機密がその女性を通じてもれたら、というのでいまや騒然。似たような事件が1960年代の前半にあったことを思い出した。プロヒューモ陸相がソ連情報部員と親しいモデル嬢と親密になった事件である▼同陸相は辞任、マクミラン内閣が大揺れに揺れた。たまたまプロヒューモ事件を描いた映画「スキャンダル」がいまロンドンで大好評だそうだ。「同一政党の政権が長すぎ、首相が民意にうとくなるころに出る事件」と英紙の評にあった。 自然の中で味わう驚き、おそれ、そして喜び 【’89.3.24 朝刊 1頁 (全849字)】  岩手県と秋田県にまたがる山地はまだ雪におおわれている。夜のうちに薄く新雪がつもる。その上に残るちいさな動物の足あと。ちらちらと舞う雪は、しかし、さすがに雪片が大きく、厳寒のころの粉雪ではない▼朝まだき、山は凍っている。砂糖菓子に粉をまぶしたような雪が足の下でばりばりと音をたてる。木々には繊細なガラス細工も及ばぬ樹氷。枯れた枝に寄って見ると、長さ3センチほどの霜柱ふうの氷が、歯ブラシの毛のように無数にびっしりと並ぶ。しずけさと冷気が心地よい。聞こえるのは足元の雪と林に飛び交うミソサザイの明るい歌声だけ▼雫石盆地に向かい、雄大な景色を眺める。春が来た、確実に里には来ている、ということがわかる。雪がとけたあとの、みずみずしく柔らかそうな黒い土の色が目にしみる。優美な線を描いて里にくだる岩手山も下半分にはもう雪がない。ふもとのあたりに、「1枚の餅のごとくに雪残る」(茅舎)風情が望める▼日がのぼるにつれ、雪に落ちる木々の影がうつくしい。新刊の絵本で見た絵を思い出した。『月夜のみみずく』だ。こちらは満月に照らされた深夜の雪の上に木々の影が落ちる。米国の詩人と画家がつくった絵本の訳書である。15枚ほどの絵に詩がついている。劇的な筋があるわけでもないのに、忘れがたいものがある▼冬の夜ふけに、少女が父親と森に向かう。月の光が天にも地にもきらめいている。2人の影が雪に落ちる。2人はみみずくに会いにゆくのだ。2人とも黙って歩く。寒い。しずかだ。暗い森にはいってゆく。「あいたいな、あえるかなって/わくわくするのがすてきなの/それがとうさんにおそわったこと」。そしてみみずくに会う。それだけの話だ▼自然の中で味わう驚き、おそれ、そして喜び。原始の感覚。わくわくする気持ち。たっぷり味わえる季節だ。東京にもどったら、並木の柳がもう翡翠の首飾りをまとっている。 東京ガスの人事と昨今の世襲制 【’89.3.25 朝刊 1頁 (全847字)】  東京ガスの人事が話題になっている。社長、会長、相談役の首脳3人のいすをすべて安西家の一族が占めることになった。これは「経営の私物化」ではないか、というのだ▼ガス会社はガス事業法により地域で優先的、独占的な営業ができる。さればこその人事で、一般の会社なら激しい競争の中でたちまち競争相手につけこまれる、と分析する人もいる。ちいさな個人商店ならいざ知らず、1万3000の社員を擁する大きな組織にあって、世襲の意識がかくも健在なのに驚いた人は多かろう▼4年前のことでいささか古いが、日本商工経済研究所が「中小企業の後継者問題アンケート」という調査をした。「絶対、息子に」と世襲に固執する経営者の割合は、その10年前の調査にくらべて、42.7%から12.9%へと大幅に減っていた。「できれば息子に」組も43.4%から29.7%へと減少傾向だ▼呉服屋から発展した場合の多い百貨店業界には同族会社が目立つが、それでも創業者の地位は低下し、一族以外からの経営陣参加が話題になるのが数年来の傾向である。産業構造の変化、戦略の複雑化に応じ、適材適所の人事が欠かせない。一族を入社させぬ、という厳しい会社さえある▼世襲がいちばん目につくのは何といっても自民党だ。前回の選挙で当選した代議士のうち、115人、38%が2世議員である。政治家の子や孫が政治家になる例は、ドゴール元仏大統領の孫など外国にもないわけではない。アジアでは一族から国の指導者が続出する例もある。しかし、与党議員の4割近くが2世という国は珍しいのではないか▼スポーツや芸能の世界で七光りの例にはこと欠かぬ。むろん、カエルの子はカエル。才能や環境などから子が親と同じ仕事に適したものに育つ場合も少なくないだろう。要は本人の能力が真に仕事に適しているか、である。変化の時代こそ能力本位、自由競争のときだ。 「私のパートナーその名は“情熱”」 【’89.3.26 朝刊 1頁 (全859字)】  50歳を過ぎた村上冴子さんがこれまでに経験した体の故障は、いったい何種類にのぼるだろう。幼い時から足が不自由だった。股関節脱臼のためだ▼中学を出て家にいたが外で働きたいと思う。行政書士事務所でタイピスト見習いをはじめる。18歳で結婚した。静かでしあわせな家庭生活。それが突然やぶられる。虫垂炎の手術から結核性腹膜炎が見つかったのだ。発見が遅れたため卵巣膿腫、胆のう壊死などで開腹手術。そして多発性関節リューマチ。たいへんなのは、まだそのあとだった▼高熱と紅斑が出た。全身性エリテマトーデスという難病。膠原病の一種である。入退院くり返しの10年間をかえりみ、やさしい夫にかけた負担をすまなく思った村上さんは離婚する。副腎皮質ホルモン剤の大量投与を続け、病気は一進一退。経済的な理由もあって印刷会社にタイピストの仕事を見つけたが、また入院▼「この世に生をうけながら社会的任務を十分果たすことができぬことほど悔しいことはない」と点訳奉仕を思いつき、点字の勉強を始めた。話を端折ると、最初の入院から20年のこのころ、村上さんは、自宅で腰掛けて地域社会に貢献できる仕事は何かと考える。司法書士だ、と思った▼まず行政書士の資格をとり、3年計画で司法書士の資格試験に挑む。中卒の独学だ。みごと射止めるが思いもかけぬことが起こる。人と道でぶつかり背骨が折れた。薬剤のために骨がもろくなっていたのである。車いすで、市役所での登記の無料相談などをはじめた。いまの村上さんの生活は、ひるま司法書士の仕事、夜は点訳奉仕と声楽の勉強▼点訳奉仕は「いちばんつらい思いをしていた時に、私も人のために何かができる、役立っているという誇りを持たせてくれました」。村上さんは障害者を対象とした「ありのまま記録大賞」に手記を寄せ優秀賞となった。くじけぬ生き方が新刊『私のパートナーその名は“情熱”』にくわしい。 「婦人」と「女性」 【’89.3.27 朝刊 1頁 (全845字)】  東京都婦人問題協議会が都知事に出した報告の中で「本報告では、従来から慣用的に用いられていた『婦人』という用語を『女性』に改め徹底させました」とわざわざ断った▼「男女が対等な立場で向かい合い、かかわり合う平等社会を目ざす以上、『男性』に対する対語としての『女性』という表現が適切であり、かつ、その趣旨と精神とを生かすことができる」と考えたためという。報告の題は「21世紀へ向け男女平等の実現をめざして」。具体策提案と同時にまず言葉を、というわけだ▼都の方は提言に沿う姿勢のようだ。すでに書類などで「女性」だけを使う神奈川県のような例もある。辞書を引くと、「婦人」とは「成人した女性、また、結婚した女性」。何となく既婚の感じを与えるところなどが男女平等を考える時にひっかかるのだろう。そういえば平塚らいてうの『青鞜』発刊の辞は「元始、女性は太陽であった」である▼もっとも、それに先立ち、岡倉天心が女性への理解を示してのべた言葉に「婦人は……未来の宝庫」とある。「婦人」の語、必ずしも開明を妨げるわけでもなく「新婦人」なる表現も1920年代に登場した。問題は実態で、言葉にはこだわりません、と言っている女性、いや婦人もいる▼自分の夫を何と呼ぶかが、この数年よく話題になる。「主人」をきらい、「私の夫は」と言う人がふえた。「つれあい」や「亭主」「彼」などと時宜に応じて使い分ける。近ごろは「パートナー」もはやるそうな。共同経営者、仲間、相手といった意味である。表現にこだわるのは人間のあり方や関係の実態をきちんと反映させたいと思うからだ▼新しい言葉が、新しい時代に新しい生命を持つ。人々がそれを選びとる。当然だし、結構なことだ。ただし古い言葉の「語権擁護」の配慮も忘れたくない。さて占いである。そのうち婦警は女警と改称するか。産婦人科はどうなるだろう。 自衛隊の階級呼称変更 【’89.3.28 朝刊 1頁 (全847字)】  「何でも昔の軍隊ふうに階級を呼ぼうという動きが防衛庁にあるんですってね」「陸上と航空の幕僚監部が考えているらしい。海上も含め防衛庁全体で検討してゆくというんだが」▼「また大将から2等兵までの登場ですか」「今の3尉以上、大将から少尉までをそっくり復活という案だそうだ」「兵隊の位というと、放浪の画家、山下清さんを思い出します」「戦後12年目だったかな。徳川夢声さんとの対談で『ぼくの絵は兵隊の位になおすとどのへんですか』ときく。きみは大将もかなわぬ地雷だと言われて『あれは兵隊の位とちがう』」▼「粘ったあげく佐官で納得するんでしたね」「兵隊の位に直すと、というのは名言だった」「序列を明快に示しますから。若い世代にはわからないでしょう」「今なら係長、ひら、かな」「それにしても、なぜ呼び方を変えたいのだろう」「士気があがるというんだ。それに金がかからない」「若い自衛官の見方はもっとさめているでしょう。処遇改善を伴わぬ呼称変更だなんて」▼「1佐、2佐といった呼び方ももうなじんでいるだろうしね」「大中小(少)に分ける伝統もたしかにありますけれど。大学、大納言、大内記……」「昔の中国の影響からか、大中小の分類はある。大尉は昔の中国で武官の長だった」「だからといって、いま変えねばならぬ必然性もないようですね。郷愁を感じる人はいるかも知れませんが」▼「大将がなつかしい人はいても2等兵にもどりたい人はいまい」「憲法の制約がありますし、それを忘れぬためにも、すっきりした今の呼び方でいい。仰々しくなるのは御免です」「戯れに使う二人称、三人称でもあるよ、大将は」「そうですとも、大将」「ものものしくなりはじめると、ろくなことはない。軍人は小児に近い、と言ったのは芥川龍之介だ」▼「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具(がんぐ)に似る、とも警告していました」 広がるボランティアの輪 【’89.3.29 朝刊 1頁 (全861字)】  尾花沢市の井上千晶さんは「みんな何が楽しくて無料で人のために働くのだろう」と思っていた。だから友人にすすめられた時、ボランティアの仲間にいやいや参加する▼ひとり暮らしの老人に年賀状を書いた。30人もいるかと思ったら何と100人以上。「私には信じられませんでした。お年寄りが、ひとりで、それもこんな雪の多い尾花沢にいるのです」。いろいろな仕事を経験しての今の気持ちは「人のために何かをするということが、これほど楽しいものだとは思いませんでした」▼早坂留美子さんは寒河江市で手話を習い、生まれ育った西川町で手話教室を開いた。以前、耳の不自由な人々と手話で話せた時の感激。技術だけでなく相手に伝えようとする心がだいじ、と悟った。それを自分の町の人に教えたい。小国町の小林由美さんは保育園に仲間と奉仕にゆき「子どもたちと同じ目の高さで話をすると、難しい話も理解してくれることを知りました」▼同じ町の貝沼嘉代子さんは夏休みに老人ホームに手伝いにゆくことになった。老人と暑苦しさはたまらないなと思う。目の見えぬ老人がいた。つめを切ってあげて、と寮母さんに言われた。おそるおそる指を1本1本にぎりしめ、深づめしないように切る。おばあさんのしずかな表情は喜んでいるようだ。「お年寄りに対する気持ちが変わった」▼みんな山形県の高校生である。数年来、地域に根づいた奉仕活動がさかんだ。中学は同じでも高校に入るとばらばらになる。地域でいっしょに活動したい。「くれよん」(西川町)「ふなっこ」(舟形町)「鮭っ子」(鮭川村)といった名の集まりが各地にできた。必要経費は県民の寄付▼報告集「私とボランティア活動」を高校生ボランティア活動基金が出した。ためらい、おそれ、発見、そして喜び。「優しさと勇気が必要」と遊佐町の梶原真理さんは書く。このみずみずしさが健在な限り、この世の中、まんざらでもなさそうだ。 がんセンターの全館禁煙 【’89.3.30 朝刊 1頁 (全844字)】  東京・築地の国立がんセンター研究所が、4月から所内のほぼ全館を一斉に禁煙とするそうだ。がん征服の先頭に立つ研究所のニュースだけに興味をひいた▼東京都衛生研究所では勤務中の禁煙を求める声が所内から上がっているが、まだ認めていない。都庁が新宿の新庁舎に移転する時には事務室での喫煙は禁止となり、分煙が実現するはずだ。東京の日本橋郵便局では「局内では待てないほど煙が充満している」との投書がきっかけで先月ロビーが全面禁煙となった▼昨年から今年にかけ、事務室や公共の場所を禁煙にする動きが目立つ。禁煙タイムを設けたり、会議に灰皿を出さない役所も各地でふえている。東京や京都をはじめ多くの都市の地下鉄での「終日全駅禁煙」はもはや常識的な光景になった。煙も見えず、吸いがらもない▼ニューヨーク市は昨年きびしい禁煙条例を施行した。同市に本社がある米国の通信社の人の話だが、職場で何割くらいが喫煙しているかを調べたそうだ。15%だった。一気に全館禁煙にした。徹底しているのはノルウェーだ。公的な場所、公共輸送機関、職場での喫煙は一切禁止という法律を通した▼たばこをのまぬ人には煙が耐えられない。タクシーに乗るつもりだったのに運転手のたばこを見てやめる人もいる。他人の煙を吸う間接喫煙(受動喫煙)。不快なだけでなく健康にも悪いというので、列車内の間接喫煙についての訴えがあった。2年前に東京地裁がくだした判断は、他人の喫煙は我慢の範囲内、だった▼喫煙する人の自由を尊重し、なお間接喫煙を避けたい人の望みを満たす。難問だが、結局は場所なり時間を分けるしかなさそうだ。分煙の方向である。少なくとも公共の場所は煙がないのをふつうの状態と考え、煙を出す場所をとくに設ける。昨年から「原則禁煙」、愛煙家は「喫煙車」へ、と発想を転換したJR九州の考え方は大いに示唆に富む。 3月のことば抄録 【’89.3.31 朝刊 1頁 (全844字)】  3月のことば抄録▼「消費税という妖怪が津々浦々を駆けめぐっている」と本紙「声」欄に社会保険労務士の河合正人さん。「説明を聞けば聞くほど矛盾が明らかになる。消費税をとってもいい、とらなくてもいい。とった消費税を納付しなくてもいい。そんなばかなことがどうして通用するのだろうか。お客から預かった公金を政府に納付しないで懐にしても良いとは、犯罪を奨励する事にほかならない」▼15、6日の本社世論調査で消費税に「不満がある」とした人82%。消費税の廃止、見直し、延期などを求める意見書を可決した地方議会の数は24日現在、本社の集計で75に達した。さらに20以上の議会が続く見通し▼裁判傍聴メモの解禁をかちとった米国人弁護士ローレンス・レペタさんが「日本はもっと開かれた社会であってほしい」。大妻女子大学人間生活科学研究所の芦沢玖美教授、「フィリピンの子どもは足の親指と人さし指で鉛筆をつかめますが、日本の現代っ子たちにはこれができません」▼南アフリカ共和国生まれのゾーラ・バッド陸上中距離選手が「私はいつも心の中でアパルトヘイトを不快に思い、憎悪してきた。はだの色で、ある人種が他の人種より優れているなんて信じていない」▼「教師という仕事も、歌を詠むことも、心のゆとりがないとできないことですよね。それが、お互いのゆとりを削り合うようになって」と俵万智さん、神奈川県立橋本高校を去る。生徒からせがまれたサイン帳に「出会い」と書く▼新日本製鉄釜石製鉄所の最後の高炉が25日止まる。「悲しいっていうか、ただむなしい気持ち」と駒林力工長▼「国民は政治家の児戯にも等しいうそに怒っている」と作家の曽野綾子さん。「議員になると常識を忘れ、国会は動物園だ」と東邦生命保険顧問の石原一子さんが自民党に▼「忍の一字。打って出るというのは生きざまにあわぬ」と竹下首相。 エープリルフール、罪のないうそを楽しむ日 【’89.4.1 朝刊 1頁 (全856字)】  こんなニュースをテレビで見たことがある。米国でのことだ。「次はうれしい知らせです」とアナウンサーが笑顔で言うと、こう続けた。「ことしイタリアは好天続き。スパゲティが大豊作です」▼画面には広大な畑。見ていると黒い土の中からにょきにょきと何か出てきた。スパゲティだ。みるみる伸びる。農家の男女がたくさん現れ、鎌などを振り回す。刈っても刈ってもスパゲティの束は伸びる。なぜか、うまそうに見え、なまつばが出てくる。愉快な収穫の場面は2分間ほど。まことしやかな報道で、しかも何の「お断り」もなしに終わった▼気がついたら4月1日だった。笑わされて、別に目くじらを立てる人はいない。人々に迷惑をかけるようなうそでない限り、人をかついだり、いたずらをしても許されるという欧米の風習。だまされた人がいわゆる「四月馬鹿」である。起源には諸説あるそうだが、11月1日の万聖節に対して万愚節と呼ぶ▼韓国でもマヌジョル(万愚節)というそうだ。中国語では愚人節というらしい。日本では江戸時代に伝わり当時は「不義理の日」と呼ばれた、とものの本にある。いまはエープリルフール。罪のないうそを楽しむこんな日が1日くらいあっても悪くない、などと思うが、定着しているとは言いがたい▼考えてみると、そんな日の必要がないくらい、昨今、うそは満ちあふれている。リクルートコスモス前社長室長への判決に「なお不自然不合理な供述に終始」とあった。平たくいえば、うそをついているということだろう。高石前文部次官の発言は「株の売買をした覚えはない」に始まって、うその連発▼発言のくいちがいに中曽根前首相は「記憶違いだった」。疑惑の人々の話し方に、徒然草を思い出す。もっともらしく所々をぼかし、よく知らぬふりをする。「げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり」 春さまざま 【’89.4.2 朝刊 1頁 (全879字)】  ものみな清らかで、明るい季節。二十四節気にいう「清明」は、今年は5日である。古くからの伝承には「玄鳥至(ツバメが来る)」などとあって4月上旬のこの時期は忙しい▼「クワ発芽、ヒバリ鳴く、ツツジ咲く、ヤエザクラ咲く……」。おまけに「ショウヒゼイかかる」まで今年は加わった。沖縄では清明はウシーミー(お清明)だ。酒や重詰めをもって墓参りをする。清明節に墓参りをするのは、元来、中国のしきたりだという。いまごろ長江(揚子江)の下流東南部、いわゆる江南は、うっとりするような春だろう▼「千里鶯(うぐいす)啼(な)いて緑紅(くれない)に映ず/水村(すいそん)山郭(さんかく)酒旗(しゅき)の風」と唐の詩人、杜牧はうたった。水辺の村や山辺の町には酒屋ののぼりが風に揺れている。のどかな眺めだ。きのうきょう日本各地でも、新緑に花の色が照り映えるのを、めでる人が多いに違いない。「思ふことなしや四月の山の色」(雅因)▼冬から春への変化を動物が感じとるのは、気温より日照時間、つまり日長を感知してのことらしい。動物学者の日高敏隆さんによると、いくつかのガのさなぎには頭の先端に透明な部分があり、そこからさしこむ光で春を知る。恒温動物である小鳥にも日長だけで春を知るものが多い。もうヒヨドリやメジロは花の蜜を吸うのにけんめいだ▼ある人が庭の池にたくさんのカメを飼った。冬の間、カメはみんな水の底にもぐってしまう。春、うららかな日に水がぬるんでくると、その人はひねもす池の水面を見つめて、待つ。ある日ある時刻、泡が3つ4つ浮かんだかと思うと、やがて、ゆらりとカメ君の第1号が浮上する。その顔を見てはじめて春を実感するそうだ▼春さまざま。これは島崎藤村である。「わきてながるゝ/やほじほの/そこにいざよふ/うみの琴/しらべもふかし/もゝかはの/よろづのなみを/よびあつめ/ときみちくれば/うらゝかに/とほくきこゆる/はるのしほのね」 もっと聴講の工夫を 【’89.4.3 朝刊 1頁 (全846字)】  「何か教室の中の空気がいつもと違う、と感じることがあるんです。変だな、と思っていると、よその大学の学生が1人2人はいって来ている。大きな教室で人数が多くても、ふしぎに気がつきます」▼東京にある国立の大学の教授から聞いた話だ。よそから来てそっと聴講している学生の中には、講義が終わると事後了承を求めてあいさつをしに来るものもいるという。外来の学生はむしろ歓迎したい、ひたむきな表情でまじめに聴講するので張りがある、という話だった▼人の心を動かす詩をたくさん書いたサトウ・ハチローさんは、中学生の時に漢文の先生の急所をエイッと握って退学となった。以後、落第3回、転校8回、勘当17回という記録をつくる。この人は東京・上野の美術学校に、正規の学生でもないのに5年間も通っていたそうだ。その間に吸収したものを、すべて栄養にしたのだろう▼大東京火災がさきごろ「大学生活の総決算」という調査を発表した。首都圏で、今春、社会人になる人たちに大学生活について聞いたものだ。「大学で知識や考え方に魅力を感じた先生はいたか」という質問に「いなかった」と答えたものが53.4%、「大学で学んで面白さ、興味深さに目を開いた学科・講座」をたずねたら、59.8%が「なかった」▼「学はその人に近づくより便なるは莫し」(荀子)という言葉がある。先生と定めた人に近づいて直接学ぶより都合のよいことはない、という意味だろう。よその学校にこっそり聴講に行く人は、この言葉の実践者だ。自分の関心や興味がはっきりしている。定食にあき足りず、欲しい一品料理をさがす▼近年「ダブルスクール族」がふえている。大学と同時に、専門の学校にも通う人だ。社会人に門戸を開く大学もある。枠をつきやぶった自主的な聴講の工夫がもっと学生にあってもよい。魅力に乏しい先生の教室は閑古鳥、となると、さあ大変だ。 子どもたちにとって大切な、人との出合い 【’89.4.4 朝刊 1頁 (全844字)】  人は一生にずいぶん多くの人と出会う。だが、たとえば電車の中や路上で顔を見ただけでは、知り合いとは呼ばない。顔や名前を知り言葉をかわして初めて知り合いといえる。そうして知り合う相手を人は生涯に何人くらい持つだろう▼具体的に数えてみよう。まず家族と親類。先生。友だちはどうか。幼児のころに始まり、学校では同級生のほかに何人くらいいるだろう。仕事の仲間。ほかの活動での知り合い……。そう簡単に何千人になるわけではない。人類ざっと50億人というのに、むしろ意外に少ないことに驚く。友だちの大切さにも思いが及ぶ▼はじめは家族だけしか知らない子どもにとって、知り合いがふえてゆく過程は一種の異文化との接触の体験だ。この春休み、9歳になる知人の娘さんが東京から倉敷まで親を離れて旅をした。父親の両親の家や、父親の妹の家に泊まる。ふだんとは違う文化の中に飛び込む形である▼ひとりで身のまわりの始末をする。ほかの家族の生き方に接する。よその人にしかられる。なれぬ食べ物の味。未知の人との会話。1週間もたたぬうちに倉敷の言葉、抑揚でしゃべるようになった。ものの見方や考え方がひろがる。平生の学校生活では出来ない学習だ▼毎年、休みのあと、ひとり旅はすばらしいとの体験の投書が必ず寄せられる。ひとり旅ならずとも、休みには親子連れの外出が多い。ふだん生活の範囲が限られている子どもたちによその人々の存在を見せ、意識させる良い機会である。いつもは仲間うちだけで慣れ親しんでいる。だが、そのやり方で振る舞っていればよいわけではない▼人が多く集まれば、皆が住みやすいようなしきたりがおのずと出来る。きょうだいにもまれることもない一人っ子の時代。なるべく人と知り合い、多様な考えや感じ方があることを知る機会が子どもたちには必要だ。自分とは違う人々の存在への想像力を養わせたい。 時代を映す入社式「社長訓示」 【’89.4.5 朝刊 1頁 (全846字)】  入社式で社長さんが訓示する。何を話すのだろう。太陽神戸総合研究所が中堅企業217社について調べたら、こんなことがわかった▼演説のかぎになる言葉。主題ともいえる、だいじな部分である。1位に「社会的使命」が来た。リクルートやNTTが話題になった世相を背景にしてのことだろうか。次に「果敢なるチャレンジ」。チャレンジとは挑戦の意。その次に「国際化」「自主性」「小集団活動による活性化」と続く。いわゆる大手の企業でも、社会的な責任、信用などに触れた社長訓示が目についた▼昨1988年の社長訓示は一般に悲壮感がなく、心得をさとす柔らかなものだった。一昨年は、製造業受難のこんな時代によく就職してくれた、と社長さんの喜ぶ声が耳に残った。5年前の84年には、輸出好調の企業や自治体、学校、金融の分野に学生が集まった。かつて1万人を超えるマンモス入社式をしていた国鉄は前年に続いて新規採用なし▼10年前の79年。訓示に「国際化」の言葉が出る。15年前の74年。第1次石油危機の翌年だった。専ら企業の社会的責任・使命の自覚を説いた。それまでの高度成長期に毎年聞かれた「モーレツ調」は影をひそめた。20年前の69年には、学園紛争が大学から高校に飛び火した緊張感の中で「参加」を訴える訓示が多い▼歌は世につれ、という。社長訓示も時代を映す。今年は地球的規模の環境問題に触れたものや、「万事カネの世の中」の風潮への批判が際立った。経済のソフト化、サービス化が進む一方で、額に汗してものをつくることに「静かで確実な信頼が戻りつつある」と製造業の社長は自信を見せた▼ものをつくる、売る、カネを運用する。この順で産業の盛運は移る。その道をすべて歩いた米国はいま「競争力」不足。米国の学生にはカネの管理や運用の分野への志望が多い。日本でも学生に人気のある企業は専ら第3次産業だ。 竹下首相、「忍」でなく政治腐敗の慢性病に早急な処置を 【’89.4.6 朝刊 1頁 (全854字)】  竹下さんは忍という言葉が好きらしく、よく口にする。「忍の一字で臨む」とか「忍耐ではだれよりも強い」などと言う▼たしか、貝原益軒が似たようなことを言っていた。「養生の道は忿・欲をこらゆるにあり。忍の一字、守るべし」。『養生訓』の一節だ。健康の維持、病気の手当てには、あせるのは禁物、ということだろう。養生で思い出した。十二指腸かいようをわずらい、医者にみてもらった友人の話だ▼外科医が診察した。「切ろう。すぐなおる」と言う。ひとの勧めもあり、内科医にもみてもらった。「まかせなさい。切らずになおす」。結局は切らずになおった。「事態にもよるが、物事の解決には外科と内科の2つの方法があるようだ」と思ったそうだ▼いま病気なのは日本の政治である。それもかなりの重症だ。自民党優位の政治が何十年も続くうちに慢性的な成人病にかかった。飽食で動脈硬化、腐敗その他の症状が一気に出てきた。どう治療するか。外科なら患部をはっきりさせ、てきぱき取り除けばよい▼竹下先生はどうも内科医らしい。日本商工会議所の総会で、先月「(いろんな事件を)先輩たちは局部手術で乗り越えてきた」が、リクルートの事件は「局部的なものではなく普遍的なものだ」と診断した。外科的な局部手術はしない、という宣言である▼だが、異常が見つかるたびに先生の所見は「言えんわな」「いいことはないわな」「わからん」「調べてみないと」など、聞く方がかいようになりそうな診断ばかり。2000万円分のパーティー券や3000万円の「寄付金」などリクルート社の金の話も、ひとに言われるまでは見つけ出してくれぬ先生だ▼「政治の腐敗は慢性病で万能薬、特効薬はない」と京極純一・東大名誉教授。内科的に処置するなら、それなりの手立てを早急、着実に願いたい。まさか竹下先生、医は忍術、ではありますまいね。「忍」には、かくれる、の意味もある。 環境問題は地球規模で検討を 【’89.4.7 朝刊 1頁 (全860字)】  米国で、子どものパジャマに火がつくと危ない、パジャマは燃えないようにつくれ、という議論が起きたことがある。政府は燃えぬように加工することを製造業者に義務づけた▼難燃剤を使っての布の加工が始まった。何年かして難燃剤に発がん性があることがわかる。政府は回収命令を出した。業者はあわてた。場合によっては商売がつぶれる。回収した製品を発展途上諸国に輸出した。消費者団体の抗議などで輸出は1年ほど後に禁止となったが、それまでにおびただしい量が輸出された▼この話、ひとごとではない。危険物は輸出される。公害はやすやすと国境を越える。環境問題は地球規模で考えなければならぬ。こんなことを思い出したきっかけは、気象庁の「異常気象白書」。「地球の温暖化」「オゾン層破壊」が進んでいる、との発表だ。異常気象は環境問題そのものである▼異常の大きな要因は人間の活動だという。炭酸ガスがふえ、温室効果による温暖化で森林の枯死、干ばつ、海水面の上昇などが起きる。また、人体に有害な紫外線を吸収してくれるオゾン層がフロンの使用でこわれてゆく。温暖化とオゾン層の問題は、先月、ロンドンとハーグで開かれた国際会議の主題だった▼7月のパリ・サミットもふくめ、このところ環境問題を論ずる国際会議が花ざかり。環境を無視しては国際政治の感覚が疑われるほどに、東西を通じて意識が高まっている。米国内には世界の軍事支出(9000億ドル)の一部を環境防衛にまわせとの提言もある。日本も昨年のトロント・サミットでは環境への関心を示した▼だが、フロン問題では初め鈍感だった。おととし、さんざん批判された。これから腰をすえて地球規模の環境問題に取り組むことになろうが、われわれに返ってくる問題がある。1つ、パジャマの例のような公害の輸出をしてはいないか。もう1つ、途上国の資源を使いまくるこんな消費生活が、いつまで許されるのか。 オーストラリアのモンティおばさん亡くなる 【’89.4.8 朝刊 1頁 (全862字)】  106歳のモンティおばさんが、オーストラリア・メルボルンの自宅で亡くなった。一昨年、雪の朝に東京で会った。「日本で初めての雪!」と声をはずませる。小さな体で、かくしゃくとしていた▼戦時中、ビクトリア州タツーラの収容所で、収容された日本人たちを監督官として世話した。当時まだ幼女だった北条とみ子さん。母親をなくしていた。別れの日に抱っこされ「どこも悪い所はありませんね。お熱はありませんね。日本へ帰ったら平和な国をつくるりっぱな大人になりましょうね」と言われたことを覚えている▼人柄を慕われ、のちに日本人たちに招かれた。モンティとは、教職のかたわら演劇に打ち込んでいたころの愛称。本名はエセル・メイ・パンションだ。馬車のゆきかう1882年に生まれ、世紀末の不況や大恐慌、2つの世界大戦を体験した。建国100年祭の時は手芸コンテストに入賞し、昨年の建国200年祭では万国博の名誉大使になった▼ビクトリア州が黄金ラッシュの時代、弁髪の中国人などを見て育つ。1929年にはじめて日本に旅行。釜山やソウル、中国などへも足を延ばした。帰国後、日本語の勉強をはじめた。その生き方は、102歳の時に書き、神戸日豪協会が発行した自伝『モンティ100年の青春』にくわしい▼国籍や年齢を忘れ、1人の人間として人に接する。好奇心を失わない。しっかり観察し、考える……。本を読むとモンティおばさんの充実した1世紀の秘密はそのへんにありそうに思える。国際交流の実を結んだひと粒のムギ、と言えると同時に、高齢化社会にどう生きるかを示す好例でもある▼両国の交流につとめている神戸日豪協会は、本の収益をモンティ奨学金とし、オーストラリアから日本への留学生のために使いたいという。「積極的に生きる、という姿勢に勇気づけられます」と80歳近い古沢峯子事務局長。本の中にある「人生は未来を秘めている」という言葉がいい。 生と死 【’89.4.9 朝刊 1頁 (全855字)】  むかしむかしあるところに、といっても日本のおとぎ話ではない。ギリシャ神話だ▼フリュギアというところに老夫婦が住んでいた。ゼウスと息子のヘルメスが人間の姿に身をやつして訪れ、泊めてもらう。心からのもてなしを受け、ゼウスは感激する。「何か望みがあればかなえよう」。老夫婦はちょっと相談し、こう答えた▼「私どもは今日まで仲よく暮らしてまいりました。どうか同時刻にこの世の息を引き取らしてください」。それからたいそう年をとり、ある日、2人で昔話をしている時、バウキスおばあさんはピレモンじいさんの体から木の葉が吹き出して来たのに気づく▼ピレモンじいさんも、妻の体に異変、と気づいた。頭の上にも木の葉が冠のように出てくる。最期は近い。そう思った2人は話ができる間じゅう別れの言葉をかわす。そして「さようなら、あなた(おまえ)」といっしょに言った瞬間、口は樹皮におおわれた。いまでも2本の木が、仲よく並んで立っていますとさ▼人生で最大のストレスは配偶者に死なれること、と心理学者はいう。心の痛手は肉体にも現れ、8割を超える人が不眠、疲労その他の心身的症状を訴えるそうだ。孤独に対処する準備として、子や孫の輪、配偶者を失った経験者たちの輪などの助けが役立つ、と老年心理学はすすめる▼神奈川県相模原市で、病死している86歳の夫に、81歳の妻が食事を1週間与え続けていた。死んでいることが理解できず、老人性痴ほう症状が見える。症状は前からなのか、死の衝撃のためか。まくら元にご飯やジュースが置かれ、夫の口に与えられた食べ物が詰まっていた。涙をさそう▼先月は大阪で83歳の病弱の夫が76歳の病妻を先行きの不安から殺した。子どもはなかった。核家族の時代に最後の日への生き方をどう考えるか。事情はすべて異なるが、どんな人にも共通の問題だ。生と死を考える真剣な集まりが各地に生まれつつある。 霊長類学の季刊学術誌『PRIMATES』は日本で発行 【’89.4.10 朝刊 1頁 (全860字)】  サルやゴリラなど霊長類の研究で日本が進んでいることは世界的に知られている。霊長類学の季刊学術誌『PRIMATES』(プリマーテス)は、世界で最も古く権威のある国際的な雑誌だが、これが日本で発行されている▼各国の学者が読み、論文を寄せる。審査は厳しく、文句なしの採択は1割以下。掲載されたら一流の論文として評価される。世界中で読まれるようになったのは英文で発行されているからだ。そうなるまでに、こんないきさつがあった▼もともと霊長類の野外研究は1920年代に米国が手をそめた。30年代の後半から衰退、第2次大戦によって欧米では火が消えたようになる。日本では戦後まもなくニホンザルを対象とした野外研究が始まり、独創的な成果をあげた▼拠点として日本モンキーセンターが1956年に設立され、次の年、この学術誌が日本語で創刊される。「世界のどこにもない。愉快ではないか」と編集後記で今西錦司さん。国際的な専門誌に成長させたい、との抱負も書かれていた▼やがて驚くことが起こる。米国のロックフェラー財団から「英文にしてはどうか。出版費を補助する」との話が来たのだ。トラピード、アンダーソンといった学者を派遣、調査させた上でのことだった。研究成果の発表が日本語だけではもったいない、という▼補助金は2年間、60万円なり。59年の英文第1号には河合雅雄現センター所長のゴリラ研究報告などが載っている。これが国際学術誌の誕生だった。世界の人が集まり、啓発し合う広場づくりを米国の財団がたすけたといえる▼50年代は米国の隆盛期。戦後のさまざまな援助計画の後、こうした研究にも目をつけ、伸ばしてやりたいと思えばカネもつける。豊かな国の寛大さ、国境を超える視野がそこにあった。いま、日本にその度量があるだろうか。企業から1億円もらう首相が、市町村にただ1億円ずつばらまく。使い方は他にもあるだろうに。 悩める中央政府 【’89.4.11 朝刊 1頁 (全847字)】  コーカサスというのは英語の言い方。ロシア語ではカフカスと呼ぶのだそうだ。ソ連の南西部、東のカスピ海と西の黒海とに挟まれた地域である。地下資源に富み鉱泉などもあって保養地としても名高い▼そのカフカスが民族主義運動で揺れている。グルジヤ共和国では独立を求める市民と治安部隊が衝突、多くの死傷者が出た。ロシア人はグルジヤから手を引け、といった標語が見られるという。同じカフカスにあるアルメニア、アゼルバイジャンの両共和国でも昨年から似たような騒動が続いている▼騒ぎは入れ子のような構造になっていて、グルジヤ共和国の中にある少数民族のアブハジア自治共和国では、グルジヤ共和国からの離脱を求める運動がさかん、というからややこしい。その底には紀元前から続く民族の伝統を守りたいという意識と、中央政府の統制への反発、ロシア人による他民族支配への怒りなどがあるらしい▼前から根強い民族感情だ。グラスノスチ(公開)政策の下では、力で押さえ込むのも報道を規制するのも難しい。バルト3国でも、自治権拡大を望む運動が起きている。ソ連の中央政府は頭を抱えているだろう。100を超す民族、さまざまな言語、15の共和国。多民族国家の運営は楽ではない▼話は全然違うが日本の中央政府・与党もいま頭痛に悩んでいる。別に九州が独立したいとか、さらに大分が離脱したいなどと言っているわけではない。だが中央の統制力が弱まり、遠心的な力が働いていることはまぎれもない。前には考えられなかったような事態がいくつも起きている▼自治省が「指導」しても消費税の転嫁を見送る自治体の数々。消費税の廃止や延期を求める地方議会。自民党市議団の首相退陣要求決議(名古屋)。同党県議の集団離党(福岡)。各地農協の自民党不支持……。怒りの声と同時に、当方は無関係にやります、とでもいった、何かさめた表情が見える。 浅間山の自然からの教え 【’89.4.12 朝刊 1頁 (全852字)】  浅間山を眺めながら林の道を歩いていた。ある晩春のことだ。ふと気がつくと1羽の小鳥がいる。あとになり先になり、こちらの歩調に合わせて飛んでいる▼しばらく前から道連れになっていたらしい。そういえば肩の横を抜きざま鳴いたような気がする。それで気づいたのだ。何メートルか先の枝にとまっては当方を待つ。しばらくの間、歌う同伴者との道行きは楽しかった。やがて姿を消した▼アフリカやアジアの南部には、人に道を教える鳥がいるそうだ。人と鳥が交信するさまを3年間にわたってケニアで研究し、確認した学者の報告を米科学誌『サイエンス』で読んだ。何とも牧歌的だ▼アフリカ各地の岩に残された絵によると、2万年も前から人はハチミツの採集をしていた。今でもミツは大切な栄養源である。その採集を鳥が助けるという記述が17世紀の昔からあるそうだ。ミツオシエという、キツツキ目の鳥だ▼体長は20センチ足らず。鳴き声と飛び方でミツのありかを教える。人間がハチの巣を開けてくれないと、巣の96%は鳥にとって絵に描いたもちだ。開けてくれれば、人間がミツを取った後にミツロウや幼虫をせしめられる。もちつもたれつ、である▼人がまず握りこぶしや中空のヤシの実に息を吹き込み、鋭い音を出す。1キロ以上も先まで届き、鳥がやって来る。鳥が人間の注意をひきたい時は、近くに来て忙しく飛び回り、チルチルと鳴く。案内開始。鳥は巣のある方角目ざして飛ぶ▼飛びはじめてから姿を消す。巣の場所の確認のためらしい。また現れる。巣に近づくにつれ、姿を消す時間は短く、とまる枝の高さは低くなる。現場に着くと、鳴き方がやわらかな声に変わり、ひとしきり鳴いて黙る▼独力で巣を見つけるには平均8.9時間かかる。鳥に助けられると3.2時間だという。鳥と人間は一緒に生きている。浅間山を望む林でも、何かを教えてくれるつもりだったのだろうか。 風や海の流れによる交流 【’89.4.13 朝刊 1頁 (全864字)】  日本海の佐渡から、ぷかりぷかりと7カ月。何と太平洋は宮城・牡鹿半島の先にある江島に、手紙を入れたプラスチック容器が流れついた。流した方も拾った方も「わあ、信じられない」▼東京都大田区東調布中の川村桂司君は小学校6年の昨年夏、佐渡で1週間を過ごした。去りぎわ、フィルムの入れ物に「拾った方はお手紙下さい」との手紙を密封、新潟への船から海に流す。一方、ウミネコの繁殖地で知られる江島。拾った人が驚き、女川町の小中併設校に届けた。その生徒たちからの便りで、先月、川村君は手紙の行方を知る▼対馬海流で北上、津軽海峡から太平洋に、そして千島海流で南下……川村君の想像だ。地図をひろげて夢の旅路をたどる。さぞ楽しかろう。しばらく前に大阪・交野市の交野小が創立100周年記念にヒマワリなどの種を瓶に入れて流したことがある。カナダの西海岸で国立公園の管理人が拾い、礼状をくれた▼夢を託す道具には風船もある。福岡県の子どもたちが花の種をつけて飛ばした風船が甲府にまで届いたり、淡路島からマリーゴールドの種を運ぶ風船があっというまに関東地方まで飛んだり。「新幹線より早いぞ」と感激する子どもたちと受け取った人たちとの間に交流の花が咲く▼海の流れによる交流といえば「椰子の実(やしのみ)」を思い出す。明治30年、大学生だった柳田国男は渥美半島の突端、伊良湖岬で夏休みを過ごした。朝の散歩の時、砂浜にヤシの実が流れついているのを3度も見る。その「大きな驚き」を東京に帰って友人の島崎藤村に話した。藤村はその発見を「もらいましたよ」と言う▼「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実1つ……」の詩がかくして誕生。「実をとりて胸にあつれば/新(あらた)なり流離の憂(うれい)」は自分の動作でも感懐でもなかった、と内幕を明かしながら柳田は詩人の想像力をたたえた。外の世界は、夢、感性、好奇心があって初めて近くなる。 日常生活に欠かせぬエネルギー源 【’89.4.14 朝刊 1頁 (全858字)】  日常生活に欠かせぬもの。それは何らかのエネルギー源だ。念力で水が湯になるわけではない。早い話、何かを燃やしながら人は生きている▼自動車を走らせるにはガソリンが要る。その前の時代には、蒸気機関で汽車を動かすため石炭を掘った。こういった燃料は地中から出てくる。もとをたどれば何億年も昔の生物が埋もれて変化したものである。石油、石炭、天然ガスなどを、だから、化石燃料と呼ぶ。これらは、掘ればいくらでも出てくるというものではない。有限だ▼いまアフリカなどでは、日常生活上、まきにするために森の木を大量に切って燃やしているという。ほかにエネルギー源がないためだが、森はどんどん細ってゆく。そんな話を聞きながら、考える。森の植物が育つのも(つまり化石燃料のもとができるのも)、風や水が流れてエネルギー源となり得るのも、すべては太陽のおかげである▼太陽さえあれば、と人は望んできた。プロメテウスが天へ昇り、太陽の火を自分のたいまつに移しとって人間界へ持って来た、というギリシャ神話の1節はエネルギー源への人間の渇仰を物語る。その太陽が輝き続ける理由を科学的にいうと、水素同士がくっついてヘリウムになる「核融合」反応なのだそうだ▼「核融合」を英米の科学者が試験管内で達成、との報が世界を驚かせたのが3週間前のこと。以来、各国は同じような実験を試み、できた、できない、と大きな話題だ。原子爆弾は核分裂による。核分裂を起爆剤に核融合の爆発的な反応を起こしたものが水素爆弾。そんな反応でなく、制御された条件の下でゆっくりと反応を起こさせる技術が要る▼高温の下での開発が進められてきたが、今回のは常温での反応という。融合で生ずる核エネルギーには、むろんしっかりした管理が必要だ。だが、燃料は海水からいくらでも得られ、放射能の強い核分裂生成物は生じない、というしろものである。先行きに興味がわく。 西堀栄三郎さんが残した言葉 【’89.4.15 朝刊 1頁 (全840字)】  西堀栄三郎さんが残した言葉には味のあるものが多い。「和でなくて積」というのはそのひとつだ▼1957年2月から1年間、南極観測隊の越冬隊長として昭和基地にとどまった。総勢11人、個性の強いサムライばかり。「同じ性格の人たちが一致団結しても、せいぜいその力は『和』の形でしか増さない。だが、異なる性格の人たちが団結した場合には、それは『積』の形でその力が大きくなるはず」という考えに徹し、成果をあげた▼個性を重んずる。個人の創意工夫をたっとぶ。それは「忍術でもええで」という言葉に表れている。人に何かをやってもらおうと思えば「責任感を持たせ切迫感を持つように追いやるのが理想的」と考えた。とにかく自分で工夫、実行したまえ、と任せる。どんなふうにでもよい、「忍術でも……」というわけだ▼現場に学ぶ実学的姿勢も徹底していた。工場などの現場の人に「落書き帳を書いてください。私の悪口でもかまへん」と頼む。時どき見に行って「これ面白いやないか。どないなってんのや」「こら特許になるで」。ヒントを与えるのがうまいと同時に自らも現場の声を思索の糧にしていた▼「十年ひと節説」という言葉はその生き方を表したものだ。実にいろいろな仕事をした。京都のちりめん問屋に生まれ、京大理学部卒。助教授になったあと東京電気(現東芝)に入社。電電公社特別研究室長、南極観測第1次越冬隊長、日本原子力研究所理事……とさまざまだ。「共通しているのは未知を探りたいということ」だった▼探る、といえば探検や登山に残した足跡も大きい。戦前、積雪期の北岳初登頂、白頭山の厳冬期初登頂を記録する。戦後初めてネパールに乗り込み、ヒマラヤ登山の道をつけた。京大と東大の合宿中に作詞したのが「雪よ岩よ/われらが宿り」の雪山讃歌だ。「山よさよなら/ごきげんよろしゅう」。86歳で亡くなった。 未来の実験室・スウェーデンの原発政策 【’89.4.16 朝刊 1頁 (全837字)】  スウェーデンという国は未来の実験室のようなところがある。いまも国民投票にもとづいて、国内の原発12基を2010年までに段階的にやめていく政策を進めている▼同国エネルギー庁のローデ長官が先週、東京で開かれた日本原子力産業会議の討論会で集中砲火をあびた。長官は、脱原発にともなって、当面の天然ガス輸入のほか、小規模の電熱併給プラントや風力、太陽熱利用などに資金を投入したり、エネルギー効率を高めたりする対策を説明した▼これに対し、同国から参加の原子炉メーカー社長と大学教授が「それは無理。わが国民の選択は誤っている」と反撃した。米国、フランス、日本のパネリストたちも「原子力なしで経済が成り立つか」「地球環境保全に逆行する」などと口々に疑問を投げた。「貧乏な社会に暮らすことはどういうことかを世界に示すショーケースになるだろう」と強烈な皮肉まで飛び出した▼すぐれた原子力技術をもって、電力需要の半分を原発に頼っているスウェーデンの転身は、推進側には目の上のこぶに映るらしい。「えらい迷惑だ」といわないまでも「もっと冷静に判断してほしい」といいたいところだろう▼だが、この討論をスウェーデン国民が聞いたら「ちょっと待った」というかもしれない。かれらは指摘された困難を承知のうえで、野心的な実験に乗り出したのだから。これが、人口規模や経済環境が違う国に通用するかどうかは別にして、こうした挑戦ができる社会は興味深い。「ノーベル賞の国が科学文明への不信を増大することを恐れる」という発言もあったが、心配のしすぎではないだろうか▼先月、東京での原子力ジャーナリスト国際会議でスウェーデンのスベッグフォーシュ記者がもらした言葉を思い出した。「私自身は、自国民の選択を合理的だとは思わないが、技術か民主主義か、と問われたら、民主主義をとりたい」 過疎地のお年寄りねらう催眠商法 【’89.4.17 朝刊 1頁 (全856字)】  土佐湾を望む800戸ほどの集落の空き地に、突然プレハブの建物が出現したのは少し前のことだ。大阪弁の男たちは最初、新製品の説明会と称して人を集め、日用品を無料で配った。笑わせ上手、巧みな弁舌。独特の興奮状態を盛り上げておいて、19万円の羽毛布団、12万円のなべを取り出した▼木の葉がカネに化けるはずもなく破たんした豊田商事や新手のネズミ講・国利民福の会は「うまい話はない」という教訓を都市の住民に残した。そのせいか、いかがわしい商法はいま、まだ十分な免疫のない土地に、それも過疎地に狙いを定めているように見える▼高知県立消費生活センターの推計では、この業者は1カ月半滞在し約3000万円分を売った。クレジット契約の大半は60歳以上の独り暮らしのお年寄りである▼銀も金も子どもという宝には及ばないと万葉の歌人はうたったが、何にもまさるわが子と離れて暮らすお年寄りの孤独感はとても深い。そしてその心理につけこんで「金銀」を巻き上げる商法もまた、古くて新しい。瀬戸大橋が開通してちょうど1年の四国で催眠商法が目立ち出した。その数は10社以上という▼食事を用意する、ふろをわかす、マッサージする、聞き役に徹する。これは訪問販売の手口だ。もう何日も人と話していない老人はひとたまりもなく陥落する。苦情は驚くほど少ない。かくて大橋景気の裏側、四国山地や海岸沿いの過疎地の家々で無駄遣いの品がほこりをかぶって転がることになる▼高知の詩人森田りんさんの近作に『過疎地にて』というのがある。「誰も居ないのですね/留守ですね/山里に立派なアスファルト道路/道路はもうすでに/無言のうえの川になって流れだしたのですね/都市に向かって」▼人恋しいお年寄りの年金とわずかばかりの蓄えに群がるために、おそらくきょうも、関東や関西方面から商品を満載した車が四国の道路を何台も駆けめぐっているはずだ。 2度までも大金が出た川崎の竹やぶ 【’89.4.18 朝刊 1頁 (全854字)】  竹やぶから1度ならず2度までも大金が出てきた。3度目をねらおうという人もいて、川崎市の発見現場はごった返したという▼犯罪に絡んだ金ではないか、いやそうではあるまい、と推理や仮説もにぎやか。汚職の金、やみ献金、あぶく銭、地上げ業者の逃走資金……とさまざまな憶測が出ている。めったに起こる話ではあるまいが、この事件がこれほどまで人の口に上るには、それなりの理由もありそうだ▼何といっても、竹やぶというのがおかしかった。場所が絶妙だ。いろいろな連想を呼んだことだろう。まずは首相の名前を思い起こす。それから竹取物語。光る竹なむ一筋ありける。翁が見つけたのは小さな女の子だった。そして芥川龍之介の『藪の中』。真相がどうなのか結局はよくわからぬ話▼第2におかしかったのは、発見された日だ。時機が絶妙である。折しも国会で、それまで忍の一字で黙していた竹下首相が、自分とその周辺がリクルートグループから受けた資金の調査結果を公表した。政治献金やパーティー券購入などで総額1億5100万円。その同じ日に竹やぶから1億3000万円とは▼第3に、その額が絶妙だった。多くの人が群がったことでわかるように、1億円はふつうの人にとって大金だ。ジャンボ宝くじの1等だって6000万円。その確率は約200万分の1だし、前後賞を合わせても9000万円。1億円にはならない▼自分には縁遠いが、近ごろ何だか現実的な金高になっているらしい1億円、なのである。げんにこうして捨てられている。政治家のふところに出入りもしている。20年あまり前の3億円強奪事件の時に比べ物価はいま3、4倍だが、金銭感覚は大幅なインフレ。「億」と聞いても驚かなくなった自分に、人々は驚いているのではないか▼平安時代の竹取物語には貴族社会への批判があった。金権で鳴る平成時代の竹やぶ物語は、事件そのものがまさに狂歌のようだ。 海外日本人学校と国際交流 【’89.4.19 朝刊 1頁 (全847字)】  シドニーの郊外に日本人学校を訪ねたことがある。日本人ばかりでなく、オーストラリアの子どもたちもいる。実に楽しそうに日本語の授業を受け、日本語で歌を歌っていた▼ほかの国でも、その土地の人が子どもを日本人学校に入れたい、日本語を習わせたいと申し込んでくることが多い。だが、シドニー日本人学校の場合はむしろ例外的だ。全体にもっと開かれた存在であるのが望ましいという声は前からあった▼こんど西岡文相が発表した構想では、海外の日本人学校を、日本をよく知ってもらうための拠点として利用するという。各校に国際交流ディレクター(仮称)なるものを置き、その土地で教育・文化交流の役割を果たさせる▼交流の機会を広げるという趣旨は結構だが、そういう役職をつくればうまく行くというものかどうか。海外の日本人学校(小・中学校)はいま57カ国に83校、生徒数は3万5000人。親子たちの多くが、目を日本の本国に向けている▼帰国後、日本での勉強についてゆけるか。高校や大学への進学は大丈夫か。つまりは受験の心配だ。笑い話のような、こんな話も聞いた。外国に住んでいるのに、日本での2月の受験を目標に、11月から3カ月間、日本時間に合わせて生活した親子の話▼昼は眠らせ、夜になると「日本は朝よ」と起こして勉強、勉強。2月の入試直前に飛行機で日本へ飛び「時差がないので無事合格しました」。笑い飛ばせぬ深刻さがある。そういう空気の中では、地元の子どもを受け入れることについて、外国人といっしょだと授業が遅れる、と抵抗する親も多いかも知れぬ▼せっかくの貴重な海外経験である。日本人学校が、開かれた国際交流の拠点になれるかどうかは、実は日本国内の教育のあり方、人々の教育についての考え方と密接に結びつく。国内の状況を変えずに海外では交流をさかんに、と考えても、ことはそう簡単ではないだろう。 スコットランド的倹約 【’89.4.20 朝刊 1頁 (全859字)】  親しいスコットランド人の友人が手紙をくれた。といっても郵送ではない。英国から日本に来た知り合いに託してきたのだ。封を切り笑った。「やあ、スコットランド的に切手代がうまく節約できた。元気かね……」▼スコットランドの人というと、節約、倹約、時にはけちの代名詞。笑い話も多い。人種に性格づけをして笑い物にするのは結構なことではないが、友人のように自ら笑いのめす人もいる。こんな話もあったっけ。スコットランド人の投書だ。「われわれに関するくだらぬ笑い話の掲載をおひかえください。さもないと貴紙を毎日借りて読んでいるのを中止します」▼本紙東京版に読者の漆間喜一郎さんの投書がのっていた。友人の若い英国人女性フィオナさんが、寒い日に古くて男くさい父親の毛のジャケットを着て来た。家具でも衣類でも代々だいじに使うと聞き、暖衣飽食の中で失ったものを見た気がしたという。それは「物を大事にするという堅実で優しい心」だと書いていた▼そうした心をいつ忘れたのだろう。昔は日本でも物を大切にした。古い衣類の繕い、かけはぎ。傘を直す。くつも直した。時計も修理した。なべの穴もふさぐ。家具も直し直し使った。いつのころからか修繕より買いかえる方が安く早いということになった。ちょっと具合が悪いと捨てる▼捨てる方が需要が拡大し、経済のためによいという論理はたしかにある。使い捨てをくいとめる理屈は経済からはなかなか現れぬ。だが、浪費がよいわけはなく、物を大事にしないことは人の心をむしばむ、ということにも人々は気づきはじめている▼厚木市は、ごみの中から拾い出した家具や電気製品を修理して売り、収益を福祉にまわしている。酒田市の老人は放置自転車を修理、観光客に貸し出す。リサイクルやガレージセールも各地で盛んだ。心さもしき大盤振る舞いより、心にゆとりを持った合理的なスコットランド的倹約の方がよくはないか。 サマータイムで意見交換を 【’89.4.21 朝刊 1頁 (全844字)】  サマータイムを導入してはどうかという提言が出された。首相の諮問機関に国民生活審議会というのがある。その委員会が余暇充実のための一方策として提案した▼サマータイム、つまり夏季時間。外国では、日照倹約時間、日光活用時間などと呼んでいる。夏の長い日照時間を有効に使おうという発想だ。夏を中心に6、7カ月間、標準時よりも1、2時間、時計の針を進める。日本では夏至のころ、東京の日の出は午前4時25分ごろ、日の入りは午後7時ぐらい。かりにこれを2時間ずらす▼日の出は6時25分ごろ、日没が午後9時ごろ、ということになる。いつもの時間に仕事をすれば、仕事の後、日があるうちに別のことにまとまった時間を使える。欧米だけでなく中国や韓国なども採用している。日本では1948年から4年間、短針を1時間進めた▼ふた夏の経験の後、1950年の本社の調査では、夏季時間が「あった方がよい」37%、「ない方がよい」24%だった。「あってもなくてもよい」が31%。過労や睡眠不足、子どもがいつまでも寝ない、などの声が出て廃止された。昨年暮れの経済企画庁の世論調査では賛成が48%だ▼生活のリズムが狂うのではないか、と心配する高齢者や病人。睡眠不足になる、とおそれる人。残業をうまく規制できるか、という働き過ぎへの懸念。逆に、日の出とともに起きるリズムの方が自然で健康だと考える人。睡眠不足の原因にはすでにテレビがある、との意見。考え方はさまざまである▼何といっても、夕刻からのかなりの日照時間を屋外活動などに活用できる。スポーツ、趣味、勉強に、また、家族で過ごせる貴重な時間。この時間帯の言うに言われぬゆったりした気分を海外で味わった人には賛成派が多いかも知れない▼生活様式は大きく変わるに違いない。戦後とは状況も異なる。ゆとりを求めて意見を出し合ってみてはどうだろう。 わかばえん 【’89.4.22 朝刊 1頁 (全849字)】  千葉県松戸市の「わかばえん」。無認可の幼稚園である。元気そうな園児35人。日に焼けたのが18人いる。5歳の年長組だ。それほどでもない17人は今月入園した4歳の年少組▼早春から晩秋まで、週に1、2回は山へ行く。リスを見つけ野鳥の声を聞き、川でサワガニと遊ぶ。野山をかけまわって自然の雄大さに触れ、驚きや喜び、がまんなどを味わううちに体力もつく。はじめは歩きなれない子も、年長児なら10ないし15キロ、年少児でも7ないし10キロを平気で歩くようになる▼ひんぱんな山登りである。実地踏査をふくめて前田秀子先生の準備は周到をきわめる。5年ほど前から、年長組は夏に谷川岳に登る。幼稚園児の谷川登頂は珍しかろう。山へ行かぬ日も、園庭で遊ぶだけでなく、近くの公園や川べりで存分に遊んで体は鍛えている。冬でも半そでの薄着だ▼秩父や奥多摩までは電車で行く。それ自体がいい訓練だ。車中で騒がない。いつでもどこでも状況を理解した行動をとれるような判断力を身につけさせる。泥んこになっての帰途、他の乗客のことも考え、ふもとの駅で全員着替える。外を歩く時は2列で、年長児と年少児が必ず手をつなぐ▼園内でも絵本を読んだり裁縫をしたりする。針に糸を通すのに半日かかる子もいる。達成感も大きい。料理の日には包丁も使う。自分たちでつくるうれしさに、きらいなピーマンを食べるようになった子もいた。子どもが何をしたいと思うか、が出発点。運動会などの行事も人に見せるためではない▼「長い目でみて、人間としての力をつけてやりたい」と前田先生。力とは体力だけでなく集中力、根気、意志、思いやりなどの精神力。それに感性も。子どもに内在しているものを引き出す。開園満9年。事故はない。「子どもをあずけて、私たちの人生観が変わりました」と園児の母親。17人の年少組も、これから黒くたくましくなるだろう。 障害者の「語り」 【’89.4.23 朝刊 1頁 (全841字)】  奈良にある障害者の自立施設「たんぽぽの家」で、「わたぼうし語り部学校」という、ちょっと変わった講座が始まった。脳性マヒなどのため言葉をちゃんと話せない人たちに、話せるようになってもらう。それも、聴衆の前で、民話を語れるまでになってもらおう、というのだ▼程度の差はあるが、この人たちは自分の意思を言葉で口から出すのに、大変な努力を必要とする。ほんの一言いうために、全身を震わせ、身もだえしなければならない。やっとしぼり出しても、発音が不明瞭で通じるとは限らない▼まさか人前で、まとまった物語をして聴かせられるなんて。つい、そう思ってしまう。しかし、そのまさかをやってのけた人たちがいるのだ。この施設に通う上野和子さん(38)と上埜英世さん(28)。2人は、8年前からけいこを重ね、いまでは、いくつかの民話や創作童話を語れるようになっている▼ともに重度の障害で、かつては日常会話もままならなかった。それが、ここまできた。「同じように、自分は話すことはできないのだと、あきらめている人たちは多い。そうではないことを、本人にも、世間の人にも知ってもらおう」(たんぽぽの家理事長・播磨靖夫さん)。こんどの「語り部学校」はそこから生まれた▼先ごろ行われた開校式には、全国各地から14人の車いすの人たちが集まった。校長は、かねて上野さんたちを助けてきた民話語りの第一人者の俳優・沼田曜一さん。たぶん、長い道のりではあるだろう。だが、精進が実ったとき、この人たちの語りは、私たちにさまざまなことを気づかせてくれるものになるはずだ▼私たちが、いかに障害者の人生のきびしさに無関心だったか。人間にとって、言葉を話す営みが、どんなに大切であるか、といったことを。そして、声だけなら、いまでも上埜さんの語りが電話で聴ける。番号は07437―5―1414である。 オタマジャクシ 【’89.4.24 朝刊 1頁 (全848字)】  春たけて水があたたかくなる。池や田んぼからオタマジャクシをとってきて育てた時代を思い出す。いまの子どもたちに、オタマジャクシと遊ぶひまはあるだろうか▼ヒキガエルやトノサマガエルが産んだ卵を、昔の子は池から引っぱり出して並べたりしたものだ。丸い小さな卵が長い首飾りのように無数につながっている。卵を包む寒天のようなぬるぬるが、水を吸ってふくれ上がる。10日ほど春の日で温められるうちに卵は熟し、オタマジャクシがぬるぬるをやぶって泳ぎ出す▼晩春の季語である。カエルの子だから、かへるご、蛙の子。お玉杓子とも書き、形態から数珠子などとも呼ぶ。むずかしい言い方では、蝌蚪。俳句は字数が少ないから2音のこの呼び方は重宝だ。この名、あまり好ましいと思えぬが大勢いかんとも抗しがたいと評したのは山本健吉さんだった▼「蝌蚪1つ鼻杭にあて休みをり」(星野立子)。俳人の観察は鋭い。泳ぎ始めてしばらくの間、あごの下の吸盤で水草などにくっつき、体内に残る卵黄を消費して生きる。やがて自由に泳ぎまわり藻などを食べるようになる。水中をのぞきこみ、子どもがわくわくするのはこんな時期である▼「川底に蝌蚪の大国ありにけり」(村上鬼城)。くろぐろと動く群れ。そこはふしぎな世界。科学者の実験は残酷だ。オタマジャクシの皮膚を刻みこんだ水を布でこし、一滴水面に垂らす。いっきに群れは四散するという。敵に襲われて傷つくと傷口から警報物質が出て、感知した群れが逃げる、ということらしい▼子どもも岩の上でオタマジャクシを平然と日干しにしたりする。だが、育てて、小さな足が出て来るころにはひとごとでなくなる。水から出て跳ねるやつを、やがては池や田に帰しにゆく。のらくろを描いた田河水泡さんの落款はオタマジャクシだった。60年の間、成長を続け、この2月の90歳の誕生日に、めでたくカエルになった。 激しさ増す中国の学生デモ 【’89.4.25 朝刊 1頁 (全847字)】  中国の学生たちの運動が激しさを増している。北京で起きたデモはすでに上海、南京、成都などに飛び火している。北京大学など多くの大学で昨日から授業ボイコットが始まった▼きっかけは15日に死去した胡耀邦・前中国共産党総書記の追悼活動だった。「あなたは改革者だった」「民衆、民族、中国は死を悲しんでいる」といったビラが張り出された。胡氏は2年前の87年1月に総書記という党内第1の座からおろされ、その後、知識人や学生の間では改革・開放路線の象徴的存在だった▼学生たちが望んでいるのは何だろう。インフレは2けた台になっているが、どうも生活の苦しさを訴える経済的要求ではなさそうだ。ビラなどに見ると、政治犯の釈放を求め、民主憲法の制定を訴えるなど、政治的な民主化要求が目立つ。「小平、小平、小改、小革、天下太平」などというビラは、最高実力者の〓小平氏が少ししか改革をやらない、との不満の表明のようだ▼指導者層への批判とともに、高級幹部の子弟の多くが外国に留学していることなどに不平等感をつのらせてもいるらしい。折から来週の5月4日はいわゆる「5・4運動」の70周年記念日だ。1919年のこの日、北京の学生デモを発端に反日・反帝国主義運動の波が全土に及んだ。共産党の成立はその翌々年である▼「中華は40にして興らず。民主は70にして全うせず」と北京大学構内のビラにある。建国40周年と5・4運動70周年との対句である。この10年来、中国は門戸を開き、外の世界との間に盛大な人の往来、情報の交流を進めてきた。社会のあらゆる面で中国の人々の期待感がふくれ上がっていることが想像できる▼だが、期待の大きさと達成の大きさに差があるのが、どこの国でも現実というものだろう。学生たちは「政府との直接の対話」を望んでいる。若いエネルギーの求めを聞き、吸い上げる好機かも知れない。 竹下首相退陣表明 【’89.4.26 朝刊 1頁 (全859字)】  竹下さんが退陣の意向を明らかにした。政治不信の高まりに責任をとるのだという。やっと退陣、の観。そういう感想も多い。だが、これで感奮興起している人は多くあるまい▼何がなしうらがなしい。うらさびしい。やりきれぬ。そういう気持ちを起こさせる記者会見だった。「心境」「胸中」を問われても「元来、自分の感情を出さないことをむねとしてきたので」として語らない。「国民の皆様へ」という発表文からはおよそ肉声が聞こえない。例によって手続き(この場合は予算成立)をのべることがだいじらしい▼「皆様へ」と言いながら信条や思想を語ろうとしない政治家とは何だろう。うらがなしさの第1の理由はそこにある。表ではだんまりを通し、もっぱら国会対策的な裏折衝や取引で事を運ぶ政治、というものに人々はうんざりしている。取引には山吹色のかすみがかかっているらしいことも、リクルート疑惑で知った▼根本的には何も解決していない、と思われることが、うらがなしさの第2の理由だ。後継者に疑惑で手の汚れていない人を、はもちろんだが、一件落着、一時しのぎの発想では困る。政治への不信はもっと深い。自民党は政治改革を本気で考えているのだろうか。選挙だけを考えての党内の首相批判、選挙だけを考えての退陣表明、ではないのか▼自民党の自浄能力・意欲への疑念に続き、うらがなしさの第3の理由を考えると、やはり野党のあり方だろう。反対党の党首に責任が移り、いわゆる影の内閣が攻守ところをかえて登場する、といった情景は、議席数を考えれば現実には起こり得まい。だが、政治のあり方にこれだけ人々の関心が高まっている時だ。それにこたえる努力がほしい▼国語学者の金田一春彦さんが、平安時代の藤原文化、江戸時代の元禄文化を例にあげて「芸術文化が栄えた時の政治はよくない」と竹下さんの前で言った。その皮肉や良し、と思いつつ、何ともやるせなかった。 絵を描きながら筋ジストロフィー症と戦う 【’89.4.27 朝刊 1頁 (全858字)】  野崎耕二さんは自分の脚がしだいに歩きにくくなることに気づいた。検査を受けた。6年前の春だ。肢帯型筋ジストロフィー症と診断された。原因も治療法もわからぬ病気。ももの筋肉が徐々に衰えてゆく▼地図の編集や製図、さし絵やデザインなどが本職である。外を飛びまわっていた時と違い、52歳のいま、山のような仕事を全部家でこなす。それ以外に本も出した。その上、驚くべき粘り強さで絵を描き続けている。題して一日一絵。あざやかな水彩が実に目に快い。B5判の画用紙を4つに区切り1日に1ます▼自ら定めたきまりがある。毎日必ず仕事の後に1枚。1時間で描く。日記がわりに言葉を添える。出会ったものが画材。語りかけながら描く。同じものは選ばない……。草花、人形、食べ物、何でも描く。どこで泳いでいたの、などと話しかけながら描いた魚。故郷のからいも(さつまいも)は愛情が色になったよう▼診断の後、身体障害者手帳をもらった晩はひとり涙した。筋肉の衰えは太ももだけでなく二の腕でも進行中だ。はじめ、つえを使った。やがて車いす。抵抗があった。鹿児島県の母校、万世小を訪れた時、111センチの目の高さが小1の子どもと同じだった。握手しながら抵抗が吹っ切れた▼千葉の家に、母校の子らから農作業で作ったラッキョウやキンカンが届く。うれしい画材だ。同窓生がよく集まってくれる。連休にも友人たちの送迎で鹿児島へ帰り展覧会を開く。自らの意志の強さは棚に上げ、「友情とふるさとに支えられています。本当にありがたい」と野崎さんは言う。助け合いながら暮らす母節江さんは、あす、84歳▼1年先の症状まではだいたい読める、という野崎さんの日程は、ほぼ1年を見通して作られる。このほど『一日一絵』第3集(闘病絵日記731日)が完成した。自分にかわって旅立つ小さな絵の群れは、どなたにめぐり合うのだろうか、と野崎さんの胸はふくらむ。 松下幸之助さん逝く 【’89.4.28 朝刊 1頁 (全844字)】  「人間万事、天の摂理で90%がきまる。あとの10%だけが人間のなしうる限界」と松下幸之助さんは言った。「自分なりのひらめき、思いに基づいて新たな道を切り開く毎日がだいじ」と本紙に書いたこともある▼和歌山の生家が没落し、大阪の火鉢屋へ奉公に出た。小学校4年中退である。その店が廃業になり、自転車屋で使い走り、掃除、修理の毎日。ある日、そのころ走り出した大阪の市電を見て、ひらめきを覚える。「これからは電気の時代だ」。大阪電灯会社にはいった。15歳だった▼そこでまたある日ひらめいた。「もっと便利なソケットが作れるはずだ」。提案したが会社は受けつけない。独立し、改良ソケットを作り始める。22歳の旗揚げだ。十数年後、従業員を集め「産業人の使命は貧乏の克服だ」と説いた。「生活に必要な物資を水道の水のように安く無尽蔵に提供しよう。四百四病よりつらい貧を追放しよう」▼貧乏に打ち勝つ。熱弁は従業員を燃え立たせたという。つらかったから「貧乏は罪悪だ」と考えた。年をとってからも、入学の季節になると小僧のころの苦しさを思った。財界の指導者とならぬ理由を「学問的知識がないから」と説明したこともある。金も学歴もなく裸一貫から、というのが人気のゆえんだろう▼「万物は日々生成発展する」が哲学。死もまた生成発展と言っていた。そう見ると「憎い、けしからんと思うてたのも、そうでなくなる。何事も素直に見るちゅうことですわ」。自然体の楽観主義だった。エネルギー問題でも「心配ない。全く無くなれば人間は英知を持っとるから作り出しますよ。必要な知恵は、無限に出てくるですよ」▼苦労、苦心を重ねながら自分の手でものを作る。作った家電製品が、戦後の楽な生活を生み出す。戦前から戦後にかけ、自分の人生、その事業、また社会のあり方が同じ波長で発展した、幸運な94年の生涯だった。 カメルーンの花博出展に協力を 【’89.4.29 朝刊 1頁 (全856字)】  カメルーンという国がある。アフリカ大陸の大西洋側、赤道のすぐ北だ。日本より広い国土に1000万人が住む農業国で、カカオ、コーヒー、木材などを輸出している▼去年、日本に大使館を開設した。初代大使になったエティエンヌ・ツァマさん(46)は銀行頭取、蔵相をつとめた大物だ。日本との関係を深めたいという同国の意欲がうかがえる。来年、大阪で開かれる花の万博にさっそく参加するのも、日本重視の表れだろう▼カメルーンの風土は、熱帯雨林からサバンナ、砂漠まで、変化に富んでいる。アフリカの縮図、と呼ばれるゆえんだ。その熱帯雨林で外国企業による巨木伐採や生薬の乱採取など環境破壊が進み、政府は原生林の保護や、自然と調和のとれた開発へと動きはじめた。花博では、そんな取り組みや民族文化を紹介したいという▼ツァマさんははじめ、2DKほどの小さな展示面積では大したことはできないと思っていた。ところが、大阪の会場を見たり関係者と話すうちに考えが変わった。地球の緑の保護問題が、花博でも予想以上に大きな課題であり、関係国の出展に期待がかかっていることを知ったからだ▼国立民族学博物館の江口一久助教授によると、カメルーンでは、日本でいわれるような意味での「花」や「緑」という言葉は使われない。万葉の昔から花を愛でた日本と文化が違う。博覧会に自力で出展するのは荷がかちすぎる。たとえば会場に熱帯雨林を忠実に再現しようとしても、デザインや造園の技術がない。先日、カメルーンに関係のある研究者や商社マンたちが東京で大使を囲んで励ます会を開いたが、協力者探しの話で持ちきりだった▼カメルーンの名前の起源はポルトガル語のエビだという。昔はたくさんいたが、日本人がとりにとった。熱帯雨林も日本人が切り倒している。ここはひとつ日本人が出展を助ける力をかせないものか。そのようにしてこそ、花博は将来に実を結ぶ。 4月のことば抄録 【’89.4.30 朝刊 1頁 (全844字)】  4月のことば抄録▼「初々しい新入生の姿を見て、ほほえましいばかりでなく、ふといたましいような気がするときがあるのも、塾通いとか偏差値とかいうことのせいにほかなるまい」と作家の藤沢周平さん▼高校生になった後藤久美子さん。「高校では、とりあえずいい友だちをつくろうと思う。この世界の友だちだけじゃ寂しいでしょ」▼竹下首相は11日「政治に対する不信感は私を含むリクルート問題が大きな要因になっている。だからこそ、せめて政治改革を緒につけたい。首相として政治改革から逃げて通れない、と思っている」。25日に「政治に対する国民の信頼を取り戻すために、私は自らの身をひく決意を固めることとした」と退陣声明▼「私個人の反省で言えば、政治活動と私生活とをいかに遮断しても、その分野における金の問題と個々人の私生活の間にあまりにも間隔があった」。翌朝、青木伊平元秘書が自殺。「私は昔から庭はきみたいなことをやってきただけ……」▼天皇が李鵬中国首相に13日「日中両国は長い歳月において、早くから交流を行い、関係も良好なものでありましたが、近代において不幸な歴史があったことに遺憾の意を表します」。同首相が明らかにした▼中国で学生デモ。「ポーランドに『連帯』運動があり、ソ連にグラスノスチ(公開)があるのに、中国にこうした運動が何もないのはおかしい」と北京大学の学生▼劇作家の田中澄江さんが「個人的にはね、現在の日本に多くある、ああした老人ホームへは入る気はないの。なぜかというと、あの管理体制がいや。年寄りだって、もっと自由に感じたいし、個人差だって認めてもらいたいですよ」▼ギニア人、オスマン・サンコンさんは大家族の中で育った。民話語りの名手だった祖父の話を月明かりの下で聞いた。86歳で祖父は死んだ。「1人の老人が死ぬのは、大きな図書館が焼けるのと同じです」 長良川河口堰の建設反対運動に見る時代のうねり 【’89.5.1 朝刊 1頁 (全852字)】  ヒトは月へ行けるようになったものの、オタマジャクシ1匹、実験室で作り出せないじゃないか。作家開高健さんがタンカを切っている。失われていく山や川の惨状を、人間の愚かさに照らして言わないではいられない▼もう1つ、近ごろのタンカはこうだ。日本が大国と言いたいのなら、川の1本や2本、手つかずで残さんか。長良川河口堰建設に反対する会の会長としての舌鋒。日本で数少ない「ダムのない大河」の岐阜・長良川に、長大な堰が造られようとしている。それで失われるものは、後から取りかえせないのだと▼堰の建設は、1968年に閣議決定された。高度成長期、大量の水を使う重化学工業の要請にこたえ、その取水が第1の狙いだった。しかし、石油ショックで企業立地の熱はさめた。節水技術も進み、工業用水の需要はにぶった。水不足の予想ははずれ、今は水余りだ▼時代は変わった。だが、計画は変わらない。国家的事業の名において。漁業権がらみで反対のマンモス訴訟を起こした漁民も、根負けした。そして昨年夏、20年ぶりの本格着工。こんどは看板の目玉を洪水対策に掛け替えている▼それに異議を唱え始めているのが、漁民に代わって自然保護派の全国グループ。生息魚種が全国で3番目に多く、河口からほぼ源流までアユが遡上できる、といった手つかずの豊かな自然。人工の堰はそれを台無しにする心配がある▼この堰は時代遅れ、というよりも、時代に間に合ったのではないだろうか。予定通りに完成していたら、地球的視野で環境とヒトが共に生きることを考える今の時代に出合うこともなかった。堰の是非を見直す新しい手掛かりを幸いにも得た、と思いたい▼最後の清流といわれる四国・四万十川では、アユの再生を願いダムの撤去を求める声があがっている。山陰の中海・宍道湖の淡水化も、沖縄県石垣島のサンゴの海の埋め立ても中止された。時代のうねりを感じる。 日韓の悲劇背負った生涯 李方子さん死去 【’89.5.2 朝刊 1頁 (全857字)】  「いったいこれは……。自分の婚約発表を新聞で知らされる……くやしさでもなく、いまとなっては悲しさでもない熱い涙が、わけもなくあふれてきました」▼政略結婚といわれた婚約。発表の時の気持ちを、李方子(り・まさこ)さんは後年、自叙伝にこう書いた(『流れのままに』)。梨本宮守正王の長女。女子学習院の中等科に在学中だった。嫁ぐ相手は朝鮮王朝最後の皇太子、日本に留学中の李垠(り・ぎん)殿下である。宮内大臣が「陛下の御意」と言う。重ねての要請に梨本宮家も承諾したのだった▼その数年前、日本は大韓帝国を植民地とした。垠殿下は10歳の時に留学のため日本に来たが、その境遇に思いをいたすうち「いわば人質のようなお立場」と方子さんは理解した。「殿下も私も同じ犠牲者なのだ、という親近感のようなものがわき上がる」。2人の生涯は日韓両国の不幸な歴史を背負っていた▼1922年、生後7カ月の長男と夫妻は海路、殿下の祖国に帰る。大歓迎。だが、ある夜、長男が急死した。医師の診断は「急性消化不良」。毒殺のうわさが出る。「日本人の血をうけているがゆえに死ぬのであれば、なぜ私を死なせてはくれないのか」。戦中、戦後は日本にいた▼李承晩政権時代は韓国に帰れず、1963年帰国。病床の垠殿下は、7年後に死ぬ。米国で建築学を学んだ次男は米国人女性と結婚した。方子さんが大学運営への参加を考えた時、「下駄は介入するな」と学生デモが起こる。下駄すなわち日本。悲しむ方子さんを次男が慰めた。「韓国人だ日本人だという考えはもう捨てて、世界の中の1人の人間だと考えておかあ様も全力をつくしてください」▼韓国の福祉のために働いた晩年。慕われ、尊敬された。日本の着物を着なかった。「たとえつらい思い出ではあっても、今はそのすべてを愛し、自分の大切な歴史として受けいれたい」(『歳月よ王朝よ』)。波乱に満ちた87年だった。 憲法記念日に思う 【’89.5.3 朝刊 1頁 (全858字)】  この国の人びと全体を指して呼ぶ時、何と言うのがよいか。書いていて、いつも迷う。「国民」でよいではないか、と思う人も多かろう。だが、しっくりしない場合がある▼結局、考えあぐねて「人々」などと書く。いささか締まりに欠ける。残念だが仕方がない。「国民」と書きたくないのは、ともすれば統治する対象としての人々、という響きを持つからだ。政治家は、簡単に「国民」という。古い表現になるが、こちらは為政者、あなた方は治められる国民、とでもいった感覚が残っていないか、と気になる▼よく考えると「民」の字に「統治されている人々」という意味があり、それが気にかかるらしい。一般の人、官位などを身につけぬ人、と並んで、統治に服従する人々の意味がある。「臣民」はまさにその使い方だが「国民」にも残響がありはしないか。カーター氏が米大統領になった時、「ピープル(人々)の就任式」と称して盛大なお祭りをやった。合言葉はピープルだった▼米国の指導者の演説は「私の仲間のアメリカ人たちよ」との呼びかけで始まることが多い。フランス大統領は「フランス人(男性)たちとフランス人(女性)たちよ」だ。ミッテラン氏は「わが同国人たちよ」とも言う。中国の指導者は「同志たち」「代表各位」、外国の客がいる時など「友人たちよ」と演説を始める▼何も政府が上にあり人々が下にいるわけではない。人々が当番を選んで政治の仕事をやってもらっているだけだ。だが、上下の関係にあるかのような響きの言葉が意外にまかり通っている。「納税」でなく「払税」が、「献金」でなく「寄金」が実体であるはずなのだ。「天下り」の表現も変だ▼「国民」にそうこだわることもなかろう、と言われそうだ。たしかに、憲法の前文も「日本国民は」で始まる。被統治者の意味ではない。だが「主権が国民に存することを宣言」していればこそ、こだわる感覚を失うまい、とも思う。 近代登山の草分け・槙有恒さん、95歳で死去 【’89.5.4 朝刊 1頁 (全844字)】  95歳で亡くなった槙有恒さんは「だれかの言葉にありますね」と言いながら、論語の1節をよく引用した。「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」▼近代登山の草分けと呼ばれる槙さんは山を「楽しむ者」だった。登頂にも「征服」とか「攻撃」という言葉を使わない。西洋の人たちとは違う登山観、と自分でも考えていた。1926年に秩父宮とスイスでアルプスに登った時のことだ。日本アルプスの先駆者で日本をよく知る英国人宣教師ウェストンがスイスに来ていた▼愉快そうに下山する一行を迎えて「日本人の登山は欧州の人とは違うようだ。少しも苦労を感じていないのは禅の影響だろう」と槙さんに言う。槙さんは、山を人間と対立するものと考える登山観に比べ、情緒的、直観的かも知れないが、人と自然が一体になるところに喜びを感ずる精神的風土がわれわれにはある、と考えた▼槙さんの人生には3つの峰と1つの谷があるという。峰とは、アルプスのアイガー東山稜初登はん(1921年)、カナディアン・ロッキーのアルバータ山初登頂(25年)、マナスル初登頂の指揮(56年)。谷とは、23年の立山天狗平での遭難だ。腕の中で、親友が死んだ▼山を通じて国際的に友人が多く、よく知られていた。若き日の留学が下敷きにある。恵まれた青春だった。父親は福沢諭吉の学僕から新聞記者となった人。母は仙台藩の旧家の娘である。槙さんは子どものころから兄と旅行をさせられる。15、6歳で方々行き尽くし、山登りを始めた。仙台近郊の山野での遊びが一生の楽しみ方をきめる▼高山の山頂をきわめた後、感激を要求されるのがいちばん困る、と言っていた。「苦しみはもちろんあるが、別に悲壮な思いでやったんじゃありません」。長い人生も、その自然体だったのだろう。年をとってからもよく歩き、自然保護を説いていた。 緑輝く5月 【’89.5.5 朝刊 1頁 (全846字)】  「あらたふと青葉若葉の日の光」(芭蕉)。奥の細道の旅、日光での作だ。美しき5月を迎え、この月が何によって美しいのか、と考える。やはり若葉のためだろう▼つややかさ、柔らかさ、みずみずしさ。木々の緑の濃淡が何とも目に快い。花もよかったが、葉もいい。「葉桜の中の無数の空さわぐ」(篠原梵)。若葉の中をすがすがしい風が通る。見上げると葉のすき間に真澄みの空がのぞく。もう少し季節が進むと葉が大きくなり、数も増え、空は見えなくなる▼カキの葉の鮮やかさはどうだろう。におい立つ萌黄色。「柿若葉」の季語を思う。よく見ると身のまわりの常緑樹の若葉がみごとである。シイ、カシ、クスなどの茂みは、外側が明るく柔らかな新しい葉に彩られている。内側は影で暗いだけではない。老いてつやを失い、乾いた葉が時期を悟って散りつつあるのだ▼山になお雪の残る地方にも新たな生命が芽ぶいている。「落葉松の芽は花よりもほのぼのと」(富安風生)。こうして目の及ぶかぎり浅い緑、深い緑におおいつくされたとき「富士ひとつうづみ残して若葉かな」(蕪村)となるのだろう。「節は5月にしく月はなし」と枕草子にある。野山の緑が輝くとき、田植えを思い健康を祈願するしきたりを祖先は守ってきた▼端午の節供を東京では5月に祝うが、いまの暦なら6月だという地方も多い。菖蒲湯、ちまき、柏餅などを楽しむ。「湯上りの尻にべったりしゃうぶかな」(一茶)。自然で美しいのが若葉なら、ひとの工夫の圧巻はこいのぼりである。江戸の人々の想像力は何ともすばらしい▼魚が風をのみこんで空を泳ぐ。勇ましく、のびやかに。「花あやめ幟もかをる嵐かな」(其角)。本来は中国の竜門の故事から男の子の出世と健康を祈る意味をこめたという。あまりにも美しすぎて5月は不安を覚える月でもある。病床の人々に、さわやかな健康がもどるように、と祈る。 韓国の一青年がまいた小さな種 【’89.5.7 朝刊 1頁 (全869字)】  2年前の夏、韓国で250人の人たちが首都ソウルを出発して、国土1周の旅を始めた。終わるのは、早くても20年先という、ゆっくりゆっくりした旅である▼車イスや松葉ヅエの障害者と、障害のない一般の人たちが一緒になって、歌をうたいながら歩く。夜は行く先々の学校に泊まって交歓する。これを一夏に3泊4日ずつ、息長く続ける計画だ。名づけて「国土巡礼音楽キャンプ」。放送局のリポーターをしていた孫進基(ソン・チンギ)君という当時24歳の青年の呼びかけで生まれた▼日本でもまだ同じ傾向がなくはないのだが、障害があることを本人も家族も「恥ずかしい」と感じる。ために、表に出たがらない。出したがらない。「目に見えるかどうかの違いだけで、だれもが何かの障害を持っている。共にへだてなく暮らせる社会にしなくては」▼韓国語で「われわれ」を意味する「ウリー」というグループを作り、この計画を立てた。「障害者をよく知りもしない若造が、変なことを始めた」と見る白い目もあったらしい。しかし、1回目を無事やりとげた結果、理解者が増え組織も固まった▼翌年、孫君は拓殖大学に留学のため東京へやってきた。それを機に「日本からも、ぜひキャンプに参加してもらおう」と考えた。飛び込みで厚生省を訪れ、紹介されたのが、若い人の間にボランティア活動を広める仕事をしている日本青年奉仕協会の斉藤信夫さん(38)▼「日本にはない、すばらしい試みだと思いました」(斉藤さん)。障害者5人を含む14人の参加者をまとめ、去年8月の2回目の行程約30キロを、孫君はじめ韓国の人とともに歩いた。どちらにとっても忘れがたい、心の通い合いを味わった4日間だった▼今夏は、もっと人数を増やして参加する予定だが、来年は日本でも同じような旅を始めようかという話も出ているそうだ。韓国の一青年のまいた小さな種が、国境を超えて思いがけない花を咲かせようとしている。 外国人の活躍 【’89.5.8 朝刊 1頁 (全843字)】  何年か前に、ある百貨店が外国人を雇おうとした。すると、労働省から、その計画の説明を求められた。なぜ外国人が必要なのか、日本人ではだめなのか、というのだ▼百貨店は「感性」という言葉を使って説明したそうだ。日本人にはない感性、外国人の持つ感性が、商品の開発や発注、販売などに必要だというのである。「なかなかわかってもらえず、説明のためにお百度を踏みました」。何カ月かかかってやっと認められ、いま店では外国人社員が独自の能力を発揮しているという▼社会のさまざまな分野で外国人の活躍が目立つ。日本人が持っていない感性を生かして働いている。日本人の生活やものの見方に複数の視点がはいって来た。かつては外国人の存在が珍しく、特別扱いしがちだった。いまもその傾向はあるが、昔にくらべればつきあい方はずっと自然。こういう共存は結構なことだ▼身のまわりにだけでなく、この何年か活字の世界やテレビに現れる外国人も多くなっている。達者な日本語で書き、話す。日本人への直言は、私たちが気づかなかったこと、忘れていたことなどを教えてくれる。テレビなどで感じ方、考え方の違いがやりとりに率直に表れるのも興味深い。多様な社会の面白さが味わえる▼外国の人の活躍は歓迎だが、ひとつ妙だと思うことがある。広告に外国人、とくに白人の写真が多いことである。日本だから日本人だけにせよ、などと言うのではない。それこそ共存している状況が反映するのなら、好ましくもあり当然でもあろう。だが、こうも白人の写真ばかりとは▼しかも、たとえば米国の映画俳優は本国では広告写真にあまり出ない、という事情を考えればさらに妙だ。広告に出るようでは落ち目という感覚なのだ。厳重に「日本でのみ使用」という契約での撮影だという。金になる国ニッポン。本当に、白人の写真で広告すると売れ行きが伸びるのだろうか。 銭湯 【’89.5.9 朝刊 1頁 (全850字)】  「男女浴池」と書いてある。中国の銭湯でのこと。『北京の銭湯で』という本は国際文化交流の現場からの小宮山猛さんの報告だが、それこそ「裸のつきあい」も登場する▼北京の銭湯では、脱衣場に木の寝台が20−30並び、寝台の横に箱がある。衣類を脱いで箱に入れ、かぎをかけ、輪ゴムのついたかぎを腕にはめて湯船にはいる。湯船は熱い湯とぬるい湯に分かれ、1つの湯船に10人くらい入れる。ふろ上がりには寝台に横たわり、たばこ、お茶で一服、というから面白い。この浴池で小宮山さんは友だちをつくる▼日本でも銭湯は社交場だ。昔は寺院にふろがあり、衛生施設に乏しい時代には病院のような役割を果たしたらしい。都市にも公衆浴場ができ、しだいに人々のつきあいの場となる。今は裸だが、江戸前期までは下帯や湯文字を身につけて入浴した。ぬれたものを包んだり、身じまいの時に敷いた布が、ふろしきだ▼このところ銭湯に人が集まらなくなった。家にふろがある人が多いからだ。客を呼ぶための妙案もいろいろだ。プールつきの銭湯、2階で演奏会を企画、香りのよいコーヒーぶろ……。銭湯の経営者も大変だが自治体も頭が痛い。全国の銭湯は約1万3000軒、この20年で1万軒も減っている▼ひとつの救いは厚生省の調査の結果だ。銭湯の客の4人に1人は自宅にふろがあり、利用客の大多数はサウナや運動施設が併設されることを望んでいる、のだそうだ。たんなる洗浄作業の場でなく、健康、遊び、息抜きの場としての銭湯なら人は来る、ということか。外国の心理学療法で、ふろに似た温水プールを使う事実が思い出される▼ひところ、東京の銭湯には宮造りのりっぱな建築があった。正面に唐破風、飾りの懸魚がついている。これが霊柩車の様式と同じだということに注目し、「極楽のイメージ」と指摘するのは建築史家の藤森照信さんだ。銭湯の気分がいい道理である。 鳥もほかの動植物も、大きな自然の生態系の一環 【’89.5.10 朝刊 1頁 (全848字)】  茂みから茂みへと、短距離を低く飛んでいるスズメを見る。心持ち小さな体は、ぬれたように鮮やかで柔らかな茶色。まだ飛行練習中か。春から夏にかけて目につく、一年坊主の必死な姿である▼自然の有り様を観察していると、楽しいが、もっと知りたいと思うことが必ず出て来る。大自然の中に入って実地に見聞し、こんどは書物にかえっていろいろ調べ、という活動を続けている人々が書いた本を読んだ。『子どもと楽しむ自然と本』(京都科学読み物研究会編)。面白いと同時に教えられる▼毎月、読書会を開く。ほとんどが母親で十数人。やはり毎月、自然観察に野外へ出かける。これにはお年寄りや子どもたちが参加、20人から50人ほどになる。これまでに読んだ何百冊もの本の中から200冊あまりを取り上げ、その紹介や感想を、自然観察の記録とともに編集した▼たとえば水鳥の観察会。カモやバンを見るだけでなく、ヒシやナツハゼの実を味わい、食虫植物やキノコなど、水鳥を取り巻く環境を同時につぶさに見る。その面白さがスケッチとともに子どもと大人の筆でつづられている。活動は9年に及ぶ。3年ほど前から本を見る目が変わった、と編集責任者の西玲子さん▼「ある生き物のことさえわかれば良い本なのだと思っていた」が「他の生き物・土・水・空気などとの関係を抜きにしては生き物のことを語ったとは言えない」と思うにいたる。読んだ本も、だから、植物や動物だけでなく「塩」「火」「雪」「石」と、暮らしにかかわる物、地球や星へと範囲がひろがっている▼「次から次へと知りたいことが発展して」と母親の1人、川端春枝さん。そういう勉強が、いちばん楽しく、しかも実になる勉強だろう。今日から愛鳥週間。関心が鳥だけにとどまるのでは十分でない、とこの本は教える。鳥も、他の動物や植物も、そして人間も、それぞれ大きな自然の生態系の一環なのだ。 表紙の張り替えでない政治改革を 【’89.5.11 朝刊 1頁 (全845字)】  ふつうの人なら出来ることが、総理大臣になると出来なくなる。そんなことが、さぞ多かろう。顔は広く知られてしまうし、日程は押せ押せで自由が利かぬ▼たとえば無為の時間がなくなってしまう。初夏の夕暮れ、空気がさわやかだから、ぶらりと散策、なんてわけにはゆかない。雨の日に喫茶店で人と待ち合わせ、ぼんやり音楽を聴いている、というのもまず不可能だろう。ひまを作って友だちと集まり、酒をのみながら話をする楽しみも、実現が難しい▼見落としていた古い映画を場末の映画館に見にゆく時間も、ないにきまっている。その帰りにラーメン屋に寄ることも出来ぬ相談だ。ジーパンに運動ぐつをはき、市営プールに行ったり、新聞で見つけた講演会や探鳥会などに出かけるのもあきらめる。異性の友人に花束を買うのもちと無理だろう▼これを押して何かをするとどうなるか。地下鉄に乗っても、市場をのぞいても、ふつうの人には当たり前のことが、すべて行事あるいは演技のようになる。しかも護衛つきだ。さても難儀なことよ、と同情を催す。責任上、実に多くのことを犠牲にしているわけだ。同情と同時に、だが、これでは人々の感覚を忘れはせぬかと気にもなる▼伊東正義さんが、総理大臣になってもらいたいとの自民党内の声に固辞の姿勢を見せている。まさか、ふつうの人の自由さを犠牲にするのがいやだから、ではないだろう。政治不信への党内の危機意識が足りぬ、と考えているためらしい。「本の表紙だけ変えてもだめだ、中身を変えないと」という言葉にそのいら立ちが表れている▼人を代えれば形がつく、とでも考えているような空気に我慢がならないのではないか。それはふつうの人々にも察しがつく。政治改革が進まなければ何も変わらない。若手の起用や現幹部の総退陣などを伊東さんは求めているという。表紙の張り替えでない根本的な書き直しの時である。 北極点にたった和泉雅子さん 【’89.5.12 朝刊 1頁 (全874字)】  女優の和泉雅子さんがついに北極点に立った。スノーモービルと、そりで、800キロ近い大氷原を走破。カナダ最北のワードハント島を出て62日目である▼厳寒の世界だ。零下40度台の日も続いた。「そりの上で足がちぎれそう」になり、昼食をとろうとすると「指がしびれた」。零下15度の日など、「春らんまん」と基地に無線連絡したほどだった。前進に氷の割れ目はじゃまだ。気温が下がれば、割れ目が凍り、そりで走れる。だが寒さがきつい▼「いちばんつらいのは氷の陰に隠れてのトイレ」だった。男性との一行だ。「白クマにびくびく、氷の割れる音にきょろきょろ。おまけに東風が強くておしりの痛いこと」と遠征日記に書く。氷は厚いところで4、5メートル、平均して1、2メートル。その下は黒い海だ。極点の近くでは深さ4400メートルにもなる▼海流の影響で氷原が絶えず動く。ぶつかり合い、盛り上がる氷。裂け目もできる。「ギーギー」「ブーブー」ときしむ音。和泉さんは、「北極のいびき」「おなら」と名づけた。氷の塊を崩し、取り除きながら、割れ目を避け、着実に、少しずつ進む、難儀だが、昔の探検と違って装備や計器は近代的だった▼それを思えばたいした冒険ではないさ、と考える人がいるかも知れない。たしかに、無線でユーレイカの中継基地やレゾリュートの基地と通話が出来た。飛行機が食料や燃料を約10日ごとに補給に来た。気象観測用の衛星で位置も知り得た。それに和泉さんには男性の助っ人がいる▼なるほど、そういう見方もあるかも知れぬ。何せ北極点までの観光飛行が珍しくない時代だ。だが、極点到達の報を聞けば心にさざ波の立つ思いがする。どんな方法にせよ、和泉さんの強い意志がひとつの目標を達成したからではないだろうか。「志」という言葉は「心指す」から来たという。北極海で磁石は極点を指さぬそうだが、和泉さんの心はずっとそこを指していた。「志」のニュースだ。 死者の葬り方と土地・資源問題 【’89.5.13 朝刊 1頁 (全877字)】  先月亡くなった中国の胡耀邦・共産党前総書記の遺体は、だびに付され、その灰は李昭夫人の要望で思い出深い江西省の開拓地の森に葬られることになった▼上海の堀江特派員によると、火葬のあとの灰を森林にまく試みが、広州では始まっているそうだ。木の栄養にする。「以樹代墓」(木をもって墓にかえる)というわけだ。森だけでなく海にも流す。去年は1000人以上の灰が海に流されたという。かつて周恩来さんの灰が空から大地にまかれたのを思い出す。それに倣った新しい葬り方である▼「葬る」は「はふる」、つまり放棄するという意味の言葉だった。死者とどう別れるか。どこの社会でも、このだいじな儀式をそれぞれの方法で営む。日本では古くから土葬が行われ、8世紀ごろから火葬がさかんになる。中世に、しかし、死がいがないと再生できないという観念があって、土葬は広く残った▼イタリアでは墓をあばき、紀元前のエトルリア時代の副葬品の壺(つぼ)や花瓶を掘り出して売るものがいまだにいる。土葬や火葬のほかインドやチベットにはハゲタカなどに死体をついばませる鳥葬がある。さきごろ広島県福山市の中世の遺跡から犬がかじった跡のある人骨が出て、犬葬か、といわれた。船員の場合には水葬もある▼中国の葬り方が関心を引くのは、11億人もの国で、毎年600万人を超える人が死ぬからだ。たいへんな数である。しかも火葬が3割に満たず、多くが土葬である。埋葬に年間約8000ヘクタールの土地を必要とし、棺おけ用に木材を大量に消費する。あたかも、土地や資源を死者と生者が奪い合う形だ▼生きているうちに孝行し、葬儀は質素に、と「重養薄葬」を政府は奨励するが、ぜいたくな葬儀が孝行、と考える人はなお多い。欧州が高級棺おけ材を西アフリカから切り出すのも、いま環境保護の見地から問題にされる時代である。土地が狭く、高く、灰のばらまきはご法度の日本。葬り方の問題、よそごとではない。 中大が受験生へ激励の手紙 【’89.5.14 朝刊 1頁 (全847字)】  去年11月、中央大学の広報部は、資料を請求してきた受験生たちに、1通の手紙を送った。「ねじり鉢巻きのあなたへ」と呼びかけ、「中大のことを、よく知ってほしい。私たちは情報提供をいとわない。諸君の夢がかなうように」と、励ます内容だった▼印刷物にはせず、手書きの原稿をそのまま複写して、学内広報誌の最新号に同封した。これが、たくさんの受験生の心を打った。「感激して涙が出ました」「机の前に張って、励みにしています」「中大以外に入る大学はないと決めました」といった返信が100通を超えた▼こんどは大学側が、胸を熱くした。12月、1月と続けて雑誌を送り、そのつど「がんばれよ!」「合格して顔を見せてくれるのを、待っているぞ」と呼びかける手紙を入れた。教授のなかから、「私も手伝おう」と、自分の学部志望の受験生に、個人で激励の年賀状を何十通か出してくれる人たちも現れた▼そして今春、各学部の合格発表のたびに、「うれしいっ!」「ありがとうございました」と、広報部にかけこんでくる「ねじり鉢巻き」組の受験生が続いた。全部で21人。「偏差値で大学を選ぶのでなく、その大学にホレて入学してほしい。その意味で、彼らには、全員入ってもらいたかったのですが……」と、手紙の発案者である小谷哲也広報課長(57)▼だが、他の大学に入学した学生たちからの「一生、中大に親しみを感じつづけるでしょう」といった便りも多く、それはそれでうれしい。「最終的にどこで学ぶ子であろうと、教育機関として、若い人たちの役に立てればいいのだ」。そう考えて、こうした活動をさらに充実する方針という▼入試には、どう改めても完全な制度というのはないのだろう。だが、どんな制度の下でも、大学は、受験生への愛情だけは持っていてほしいと思う。このできごとは、いま彼らが、いかにそれに飢えているかを物語っている。 「患者中心」の医療を 【’89.5.15 朝刊 1頁 (全837字)】  急病で同僚が入院した。よいお医者さんと看護婦さんに出会って、まず恵まれた病院生活だったが、つぎの点だけは「いやあ、まいった」そうだ▼若い看護婦さんの、いかにもこの世代らしい口癖に、である。「腹のあたりがすごく痛い」と顔をゆがめて訴えると「ホントーニイ?」。「熱のせいか頭が…」「ホントーニイ?」。本当ですとも言えず、同僚はしみじみ世代の断絶を実感した▼これはまあ笑い話のたぐいだけれど、医師向けの「SCOPE」誌5月号に出ていた話は笑えそうで笑えない。――胃カメラの検査でベッドに寝ていると、まわりの医師たちがゴルフの話を始めた。ゴルフ上手のその人は、それまではなんともなかったのに、話を聞いていたら医師の胃カメラ操作の腕まで下手くそに思えて、恐怖で逃げ出したくなった▼作家の遠藤周作さんらが加わり、医療機関のあり方を話し合っていた厚生省の懇談会が「医療はサービス業である」と言い切った報告書をまとめた。医師が患者に「施す」のではなく、あくまで「患者中心」の医療を、と求めた内容だ。「施し」のつもりで患者に接している病院、医院が少なくない、ということにもなる▼子どもが39度の熱を出し、休日急患診療所に駆けこんだ。かぜと診断され、薬を出すといわれたので、「何の薬ですか」と聞いたところ、「何だっていいだろう」「こんな軽い病気でいちいち説明なんかできない」との返事。それでも聞きたい、というと「医師法には薬の説明をしろとは書いてない。そんなにいうなら、出さない」と2つの処方せんの片方を消してしまった(本紙神奈川版への投書)▼患者の側の無知や無理な要求もあるだろうが、患者の身になって接してほしい、との声が多いのは事実だ。厚生省懇談会の報告は、基本的考え方の第1に「医療機関や医師らと、患者・家族との信頼関係の維持」をあげている。 時間の味 【’89.5.16 朝刊 1頁 (全850字)】  平凡にたって行く時間の味を噛(か)みしめるのでなければ、生きている甲斐(かい)もないし、その意味も解(わか)らない。こんな意味の文章を書いたのは、たしか吉田健一さんだった▼当世ますますその指摘の鋭さが痛感される。だれもが忙しく、万事気ぜわしい。大手のハンバーガー店の店員は「32秒」を意識しているという。注文を受けてから、品物をそろえ、客に渡し、代金をもらい「ありがとうございました」と言うまでの時間だ。これが32秒を超えると日本人の客はいらいらし始める▼長崎ちゃんぽんのチェーン店では客のがまんの限界を体験的に割り出した。6分間が勝負なのだそうだ。人々は、何もしない時間はもったいない、忙しくしていたいと思い込んでいるかのようだ。電車に乗っても、読むか聴くかしないと落ち着かぬ。エレベーターではすぐに「閉」のボタンを押す▼ボタンといえば、昔の古ズボンを着用して意外な経験をした。ファスナーではなく、ボタンが6つほどついている。手がかかり、時間がかかる。いら立つ自分にむしろ驚いた。日本人がせわしない自分に気づくのは、外国の街でということも多い。食事にも散歩にも時間をかけている社会にとびこみ、日本人だけが焦る▼日本でもある調査では、生活時間の使い方に地域的な違いがある。首都圏・近畿地方・福岡県などは「あわただしい」地域で、通勤にも時間がかかり、余暇も忙しい。東北・中部・北陸・山陰は、仕事、テレビ視聴、睡眠がすべて長い地域。そして東海・瀬戸内海・九州などが均衡のとれた「ゆとりの生活」地域だ▼充実感のない忙しさに疲れてか、近ごろ船旅が話題に上る。豪華客船も就航した。長期休暇がとれるかという問題とともに、興味深いのは、人々が無為の日夜に耐えられるか、だ。娯楽も行事もすべてを体験、と必死になるのではないか。勉強好きが船上「無為」講座を開くかも知れぬ。 弁解の余地ないサンゴ礁落書き事件 【’89.5.17 朝刊 1頁 (全843字)】  まったく弁解の余地のない事件が起きた。本社カメラマンがサンゴを傷つけ「落書き」を撮影した。何とも言えぬ気持ちだ。申し訳なさに、腹立たしさ、重苦しさがまじり合っている▼とんでもないことをしたものだ。KYと書かれた落書きを写し「サンゴ汚したK・Yってだれだ」という記事をつけた。自然を守ろう、汚すまい、と訴える記事である。ところがその写真の撮影者自身がサンゴに傷をつけていた。沖縄の西表島崎山湾沖は巨大なアザミサンゴがあり海中特別地区に指定されている▼読者から怒りの電話がたくさんかかった。もっともなことである。「長年、朝日新聞を読んでいるが裏切られた思いだ」と、多数の人からきつくしかられた。平生、他人のことは厳しく追及し、書く新聞だ。「身内に甘いのではないか」とも指摘された。「記者たちの高慢な気持ちが事件に表れている」との声が耳に痛い▼「自然保護に力を入れた報道姿勢に共感していただけに残念」という苦言も多かった。たしかに本紙も、またこの欄も、自然に親しみ、自然を愛する人々のさまざまな活動を紹介し、ともすれば失われゆく自然を守る努力がたいせつだ、と訴えてきた。常軌を逸した行動は、これまでの報道を帳消しにしかねない▼美しいサンゴに無残な傷が残る。どれほどの年月をへて育って来たものか。なかなか消えるものではあるまい。大自然への乱暴な行為を、本当に申し訳なく思う。同時に、本紙と読者との間の信頼関係に大きな傷がついたことが、まことに残念だ。これも、なかなか消えないだろう▼かつて「伊藤律との会見記」のような虚報を、紙面にのせたことがあった。そんな時に生ずる信頼感の傷を消すためには、報道の正確さを期して、長い間、地味で謙虚な努力を続ける以外にない。今回もしかり。厳しい自省に立ち、地道な努力を愚直に、毎日、積み重ねるほかはない、と考える。 中ソが見せた「新思考」外交 【’89.5.18 朝刊 1頁 (全876字)】  戈尓巴キョウ夫^と、頼莎。いや、これは中国での書き方だ。ゴルバチョフ氏とライサ夫人。北京で大歓迎を受けている。30年ぶりの首脳会談で、中ソ両国は関係正常化を果たした▼かつてソ連と中国は「兄弟」だった。同じ社会主義の家の中で暮らす兄と弟である。中国の方が敬意を表して「老大哥(ラオターゴ)」(長兄)などと呼んでいた。ソ連が兄貴格だ。1949年の10月に中華人民共和国が生まれ、翌年2月に中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれて「兄弟」の間柄となる。だが、そう長く続かなかった▼56年2月のソ連共産党第20回大会でフルシチョフ第1書記がスターリン批判をした。スターリンの評価をめぐって中ソ対立が芽生える。中国が建国10周年を祝った59年の9月、フルシチョフ氏は北京で毛沢東氏と会談したが、意見が対立して共同声明が出せない。30年前のことだ▼モスクワにあった中華料理の店はさびれ、中国に派遣されていたソ連の技術者は引き揚げる。協力をあてにしていた中国側には屈辱感もあっただろう。対立と対決の時代だ。そうした時代がやっと終わった。といっても、もとの「兄弟」にもどったわけではない。2つの別の家に住む、ふつうの「友人」になったのだ▼国家、党としては正常で平等な関係。社会主義の点でも多様性を認める現実主義だ。30年間に起き得る変化の大きさというものを、あらためて思う。ソ連に「新思考」のゴルバチョフ外交。つまり、異なった体制の間でも相互依存がたいせつ、協調的な国際関係がだいじ、と考える。中国に〓小平氏の「国際政治新秩序」。ともに柔軟な姿勢だ▼東京五輪の開催を中国の人々は知らなかった。閉ざされていた。この10年ほどの間に両国とも外界との間に情報や人の出入りを活発にした。状況の変化を支えた要素だ。ブッシュ米大統領は先週、ソ連「封じ込め」政策の転換を宣言した。世界の枠組みの理解にも「新思考」が欠かせなくなっている。 惑星爆弾 【’89.5.19 朝刊 1頁 (全875字)】  米国アリゾナ州の荒野にぽっかりあいた穴を見にいったことがある。直径1.3キロほどあり、深さ175メートル。噴火口に似ているが、火山の気配はない。2万2000年くらい前、大いん石がぶつかってできたクレーターらしい▼今春、あやうく、こんな大穴がもうひとつ地球にあくところだった。米航空宇宙局(NASA)の発表では、直径800メートルほどの小惑星が地球から80万キロあたりを通り過ぎた。宇宙的尺度では至近距離だ。もし、陸地を直撃していたら直径10キロ前後のクレーターができただろうという。水爆2万発分の衝突エネルギーというから、都市の1つや2つはふっとんでしまう▼最近の研究では、地球上に直径3キロ以上の衝突クレーターが70個ほど確認されている。南米沖の海底にも230万年前の衝突の形跡があった。このとき舞い上がった大量の水が、地球を覆う雲となって氷河期を招いた可能性がある。6500万年前の恐竜の絶滅も、直径約13キロの小惑星が海に落下したためだという説がある▼今世紀では1908年6月30日、シベリアのツングスカを襲った災害が知られる。広い範囲で森林の木がなぎ倒されたが、残留物がないことから、氷でできた彗星が突入したと推定される▼この事件を題材に、NASAの日系科学者エリック・コタニ(ペンネーム)らがSF『彗星爆弾地球直撃す』を書いている。ソ連が彗星から氷の塊を切り取り、自然に米国へ落下したようにたくらむという筋書きだ。小惑星の軌道を変え、気にいらない国を消滅させる手もあるそうだ▼地球軌道と交差する直径1キロ以上の小惑星は1000個以上あるらしい。こうした天体の衝突から文明を守る「地球防衛構想」を米国の水爆開発者エドワード・テラー博士が提唱している。襲来する天体をミサイルで迎え撃ち、核爆弾で壊したり、軌道をそらしたりする。その日のために、博士は戦略防衛構想(SDI)を言い出していたのか。 『伴侶の死』 【’89.5.20 朝刊 1頁 (全844字)】  たいせつに思っている人が、ある日、突然死ぬ。何とも形容しがたい感情に襲われる。ぽっかりと穴があいたような気持ち。一大事なのに、外の世界はいつもと変わらずに動いている。白々しい光が夢の中のよう▼こういう瞬間が、だれにも訪れる。家族なり、友人なり、心の中に一定の場所を占めている大事な存在が、この世から一瞬にして姿を消す。衝撃は大きい。『伴侶の死』という本を読んだ。著者の加藤恭子さんは、昨年4月、その一瞬を経験した。夫の加藤淑裕さんを食道がんで失った。検査結果を医師から告げられて12日後。63歳だった▼ともに暮らした年月は38年に及ぶ。ふと、恭子さんは疑問を抱く。「私は、どれほど淑裕という人間を知っていたのだろうか」。そして、過去への旅を始めた。あらためて親族や友人を訪ね歩き、亡き夫の人生をじっくり聞き出そうという試みだ。幼き日の出来事に、涙もろかった夫の原型を見いだしもした▼中学時代の友人の父親が歯科医だった。これでは胃をいため早死にするよ、と歯の注意を受けていたこともわかる。夫は一生、歯で苦労した。高校、大学、そして高校の生物学教師。その時代の友人や教え子の話を聞くうち、なぜ生前もっと彼らと話す時間をつくり、楽しまなかったか、忙しすぎた、と思う▼渡米生活、日本発生生物学会会長をつとめた研究者としての生活にも、同僚や友人から照明が当てられた。時と、人の心への旅。同じ場所から見ていた山を、周囲のすべての方角から見直す試みに似てもいる。その旅の記録を読み、さまざまなことを思った▼いっぷう変わった伝記とも読める。1年の旅は心の空白を埋める儀式だったようでもある。ふつう自らの記憶への旅、つまり回顧ですませるところを、友人の心に住む夫の姿まで探し求めた。愛情のひとつの形とも思えた。あとがきには、夫婦の間でなるべく会話を、とあった。 天安門広場の学生たち 【’89.5.21 朝刊 1頁 (全846字)】  北京に戒厳令が出された。天安門広場では、なお絶食(ハンスト)を続ける、と宣言して、学生が気勢をあげた▼学生たちの姿が、ひと昔前と違っている。戒厳令が出るまで、明るい表情で、人さし指と中指とを開く「Vサイン」をしてみせていた。第2次世界大戦で、英国のチャーチル氏が「勝利(ビクトリー)」の頭文字を描いて見せたしぐさだ。文化大革命の時には、赤い毛沢東語録を空に突き上げていたが、Vサインは無かった▼鉢巻きをした者もいる。これも外来のものだろう。日本、韓国などの風習を取り入れたものか。戦時中の日本人の鉢巻きには「必勝」などと書いてあった。中国の学生のには「碧血丹心/民不畏死」の字が見える。まごころこめて、死をおそれない、の意▼10年ほど前に終わった文化大革命でも若者たちの動きは激しかった。そのころ学生として北京にいて、最近また中国を訪れた同僚に聞くと、当時と今では決定的な違いがあるという。何も知らなかった紅衛兵にくらべ、今の学生たちは実によく国外事情に通じている▼たとえばソ連の情勢。ゴルバチョフさんの音頭で改革が進んでいることを熟知すればこそ、中ソ会談に合わせて運動を盛り上げた。ブッシュ米大統領の訪中に合わせて民主化要求を出しても迫力は小さい。同じ社会主義のソ連と同様に、というところに意味がある▼はじめは胡耀邦前総書記の再評価要求だった。さらに、民主化と自由な報道の要求、幹部の特権乱用反対。張り出された紙に「老竹辞職……」というのがあった。竹下さんは辞職した、それにひきかえ……と暗に〓小平辞任を促す。竹下さんは模範なのだ▼「要法治、不要人治」のスローガンもある。何事も〓さんの決断でことがきまる現状への不満が、人治主義反対、となる。市民の間にも、学生を支持する人がふえているらしい。高まる民主化要求を、政府は力で抑えられるのだろうか。 衣替え 【’89.5.22 朝刊 1頁 (全849字)】  「すゞかけも空もすがしき更衣」(石田波郷)▼労働には労働の、晴れがましい儀式には儀式の、またスポーツにはスポーツの服装というものがある。それぞれの場合にふさわしい衣服。それは機能に見合うというだけでなく、人の心を目的に向けさせる役目も果たす▼服装と意識には密接な関係がある。手ぬぐい1本だって役割は重要だ。近ごろでは、空き巣にはいるのに、手ぬぐいを顔に巻く者はいまい。だが、昔の泥棒は巻いた。頭から耳をかくし、口のところで手ぬぐいの端を結んだ瞬間、緊張を全身に感じたに違いない▼衣替えの時節である。替える本人、これを見る人、ともに新しい季節の到来をあざやかに実感する。気分一新のとき。新潟県や長野県などに「衣脱ぎついたち」といって、6月1日に夏の衣服で神社にまいる地方があるそうだ。同じ日を岩手県では「むけ節共」と呼んで、蛇や虫が皮を脱ぐ日としている▼平安時代には4月1日と10月1日に、夏装束、冬装束にあらためたという。室町・江戸時代にはさらに細かいきまりがあった。いまは6月1日と10月1日を目安に制服の衣替えが行われている。実際のところは、6月1日の前後1、2週間を調整あるいは移行期間とし、夏冬好きな服の着用を認める、といった工夫を学校はしている▼役所も天候に合わせて切り替えをずらしている。暑い年、寒い年があるから融通をきかせるのが当然だろう。幼稚園から小学校にかけては薄着で鍛えられる。ところが中学校に入ると冬の詰め襟で5月いっぱい過ごす。毎日汗だくで、顔は真っ赤。何とかならないものか、一貫性を保てないか、という母親の声も聞いた▼ひとりひとりの心理的、生理的条件はみな違う。それと制服というものの本質を折り合わせるのは至難である。要は柔軟な考えによる運用だ。思い切り移行期間を長くしてもよい。「人にやゝおくれて衣更へにけり」(高橋淡路女) ビールの話 【’89.5.23 朝刊 1頁 (全844字)】  この春、アイスランドからの小さな記事が「ビール解禁」を伝えていた。1915年にできた禁酒法は後に廃止されたが、ビール販売は禁止のままだった。74年ぶりの解禁だ▼新しくバーも開店し「Bデー」を盛大に祝ったという。ビール好きは喜んだことだろう。北欧のさわやかな空気の中で、パンに魚や肉や野菜をふんだんに盛ったのをほおばりながら飲むビールの味は格別だ。もっとも、ビールはどこの国でもそれなりにうまい。汗をぬぐいながら東南アジアで飲む味、チェコスロバキアのピルゼンで、パステル画のような風景の中で飲む味▼麦芽を原料にホップで苦みをつけたアルコール飲料。そもそもシュメール人が紀元前3000年ごろにメソポタミアでつくっていたというから歴史は古い。ギリシャ、ローマにも伝わったが、そこではワインが重んじられ、ビールは麦作に適した北欧に向かった。日本には江戸時代に長崎貿易を通じてもたらされたらしい▼日本人の胃袋に流しこまれる量は相当なものだ。去年1年に、東京ドーム4.65杯分を飲み干した。約579万キロリットル。アルコール類全体の消費量の7割に近い。生活様式が変わり近ごろは冬にもよく飲む。夏の盛りには最高気温が一度上がると全国で大瓶百数十万本も売り上げが伸びるそうだ▼業界の競争は大変だ。人々の好む味を求め、新しい装いや中身の工夫にしのぎを削る。新商品を生み出すには研究開発の担当者たちが、毎日、試飲を続ける。ビールを飲んではフランスパンを食べて味を消し、また飲んでは消し、と繰り返し、コクやキレをどう出すか研究する▼中世欧州の僧院の献立表を記録した書物に、のどをうるおすにはまず各種ワイン、次にビールを飲んで最後に水、とあるそうだ。「まずビール」は日本式か。日本式といえば、あの、鼻がつかえるような小さなコップでビールを飲むのは何ともせせこましい。 リクルート事件の背景にある日本の贈答習慣 【’89.5.24 朝刊 1頁 (全859字)】  そそっかしい友人の話。外国に旅立つにあたり妻から土産がほしいと頼まれた。特定の銘柄の品物だ。買って来ると約束したが、旅行中は忙しさに取り紛れた。成田空港に着き、タクシーに乗ったところで急に思い出す。「しまった」と叫んだ▼運転手がこともなげに「何とかなるでしょう」と言う。連れて行かれたのは東京の都心にある店。驚くまいことか、世界中の土産物が並んでいる。むろん目ざす品物もある。「助かった。面目を施した」そうな。それにしても恐れ入ったもの。土産の商売もここまで整っているとは▼旅に出たら土産を買わなければ、という日本人の強迫観念は相当なものだ。こんな説がある。昔、旅をするのは金を積み立てた講の中からの代表だった。そんな事情や、せんべつへのお返しの意味もあり、土産は欠かせなかった。その名残というのだ。土産だけではない。さまざまな形で贈答の習慣は生活に根づいている▼金品のやりとりに関する、場面に応じての言葉がたくさんある。「心づけ」「駄賃」「おひねり」はだれでも使う。「ひざつき」「おため」はどうだろう。「お移り」「お持たせ」もまだ生きている。お年玉や中元、歳暮などの贈答のほかいろいろな状況でやりとりを繰り返すのが生活共同体の風習だった▼やりとりは必ずしも特定の行為への依頼の意思表示、あるいは謝礼とは限らない。もっと広くあいまいな形で友好的、円滑な人間関係を保つことを期待して行う場合も多い。広告関係のある調査では、中元、歳暮だけでも1世帯が平均して年間に11件以上を贈っている▼この風土がリクルート事件の背景にある。広範囲に金がばらまかれ、日本の政治は贈答習慣にどっぷり漬かっていた。しかし、ふつうの人々がやりとりをするのとは話が別だ。権限を持つ公人が、特定の人から贈り物を受ける。これは論外だ。捜査、国会の審査に続いて、結局、政治家の質の判定は投票で表すしかない。 洞窟の中の孤独 【’89.5.25 朝刊 1頁 (全858字)】  地下の洞穴で孤独な生活を送っていた27歳のイタリア人女性が130日ぶりに外に出て来た。宇宙時代に向け、密閉された状況での生活が人体にどんな影響を及ぼすかの調査だ▼ロケットの中のような閉ざされた空間に長く置かれれば、心身ともに何らかの影響を受けるはずだ。室内装飾家のステファニア・フォーリンさんは実験のため、米ニューメキシコ州の砂漠にある地下9メートルの洞穴にはいった。1月13日のことだ。日光も届かない。時計もない。自分で昼と夜を判断しなければならない▼英語の勉強、美容体操、柔道の練習に励んだ。出て来た彼女は意気さかんだが体調にはやはり変化がある。まず体重が減っている。日光に当たらぬためか血液のカルシウムも減っていた。生理不順も見られた。実験の終わりごろ睡眠の周期が狂い20時間も眠り続けた。集中力も落ちた。米航空宇宙局(NASA)が、さらに精密に調べるという▼孤独といえばモンテ・クリスト伯や横井庄一さんを思い出す。エドモン・ダンテス青年は城塞監獄に幽閉されて14年、横井さんはグアムの密林に28年を過ごした。フォーリンさんの場合は、孤独とはいっても米伊共同の研究班が外に待機、テレビで観察している。接触はないが外界から忘れ去られているわけではない。いわば半孤独である▼ことによると本ものの孤独は地上の町の中にあるのかも知れぬ。周囲に人の数は多いが、見えない洞穴の中にいるようだ、と感じている人もいるだろう。話は飛ぶが、永田町というのが、近ごろ洞穴に似て来たようだ。外の光が入らない。変調をきたしている▼フォーリンさんは130日間を60日間と思い込んでいて「証拠に新聞を見せて」と言ったそうだ。面白いことに、昨年秋、同じ実験をしたフランスの女性科学者も、111日間をやはり42日間と勘違いしていた。永田町、いや洞穴の中では、意識は外界の時の流れに遅れるのだろうか。 中曽根氏の証人喚問 【’89.5.26 朝刊 1頁 (全844字)】  中曽根さんが衆院予算委員会に出て、証人喚問に応じた。こんな程度のことならなぜもっと早くやらなかったのだろう、と思った人が多いのではあるまいか▼席に着く時は心配そうにまばたきしていたが、いざ始まると立て板に水だった。米国などでは何かというと公聴会。豊富な資料を出し、興奮せず冷静に事実調査を進める。日本で証人喚問というと、居丈高なお白州のような空気になりかねない危険もある。だが、その心配はなかった。中曽根さんが野党議員の質問をさばく様子は水際立っていた▼もちろん、うまくさばくためには少々の矛盾など気にしてはいられない。神妙に、「不祥事件があり」「ざんきに堪えない、政治不信を招いた、心からおわびを」などと言う。同時に「やましいことは一切していない、私は潔白、(事件が)再発せぬよう国家のために微力をつくす、議員として風雪に耐える」▼神妙さから人々が予想するのは責任問題だ。そんなものは元気のよさでかわす。官房長官の仕事など「関知していない、タッチしていない」と切り捨てた。首相がこまかいことを全部やるわけではないのは当然だが責任はどうとるのか、と人は思う。そんなことを気にしていたら野党の質問はさばけないらしい。株の利益も秘書が「めいめい2人で自分のつき合いの範囲で使った」▼にわかに信じがたい説明ができる心臓の強さが必要だ。「高度の政治判断」で出席をきめたとのべたのは、どういう意味だろう。折しも午前中の委員会で法務大臣が捜査の中間報告を行い「捜査は終局に近づいている」ことが明らかにされた。司法当局の追及も終わると考えれば気は楽だ▼弁舌のうまさに加え、激することなく質問をさばいたのは、中間報告の後の安心感からか。さばき方が巧妙だった分だけ、部下から被告人を出しながら指導者としての責任を考えぬ人物の、信頼感に欠けるさまが印象的だった。 肉声の時代を伝えて来た生き字引、故坂野比呂志さん 【’89.5.27 朝刊 1頁 (全856字)】  声楽家の岡村喬生さんが、こんな話をしていた▼ヨーロッパを汽車で南へくだる。アルプスを越えたとたんに抜けるような青空、まぶしい太陽。明るい世界が開ける。最初の駅に着いたら、駅名を告げるイタリア人駅員の声が聞こえてきた。朗々と、なめらかに「ドモドッソラ、ドモドッソラ!」▼よく響くふとい声で岡村さんがそれをまねてみせる。快い肉声を聞いて、小さな駅の、のどかな様子を想像した。乗り降りする人も少なく、駅員のバリトンは高い空に吸われてゆくのだろう。肉声が耳に気持ちよいこと、電気仕掛けの拡声機を通じた音とはくらべものにならない▼今では、さお竹屋も焼きいも屋も、録音された売り声を拡声機で流してまわる。かつての日常生活には物売りの肉声がよく聞こえた。「あさーり、しじみ。むきみぃむきみぃ」と貝を売りに来て目の前でむいてもくれた。「金魚ぉ金魚ぉ。金魚金魚金魚ぉ」が聞こえると、走って行った▼黙っていてもピーッと蒸気の音がすれば羅宇屋(らおや)、かたかたと小引き出しの音は定斎屋(じょうさいや)だった。声も音も一定の狭い範囲にしか及ばず、それで用も足りていた。家のたたずまいが変わり、路地にはビルの壁。団地の中庭に立って怒鳴るわけにもゆくまい。物売りの肉声は消えた。戸締まりも厳しいから呼び鈴を押しての訪問販売だ▼物を売るために人を集める、いわゆる香具師の口上がある。東京・深川生まれの坂野比呂志さんは、祭礼や縁日で述べ立てられた口上を、大道芸から舞台の上の話芸に高め、浅草で人に聞かせていた。活動写真の弁士、司会者、漫才などを経験した話術の専門家だ。よく通る、練れた声の持ち主▼バナナのたたき売り。がまのあぶら。耳を傾けたが最後、客は動けなくなる。うまい話しぶりと短い髪のいなせな姿。「浅草に命ささげん」と言って、肉声の時代を伝えて来た生き字引、坂野さんは、76歳で亡くなった。 字や絵や音など、情報を乗せて運ぶ方法が多様化 【’89.5.28 朝刊 1頁 (全847字)】  30年も前に写した8ミリ映画は、フィルムを良い状態で保存しておくのが難しい。昔の映写機を持ち出して映すのも厄介だ。というので、フィルムを今はやりのビデオにうつしかえる家庭が多い。これならテレビ画面で簡便な映写会ができる▼大手のレコード会社が、35年前に死んだ名指揮者の演奏を、昔の音盤から今はやりのコンパクトディスク(CD)にうつしかえて発売しはじめた。一方は映像で他方は音だが似たような話である。中身は同じものを、新しい乗り物に乗せて運ぶ▼手押し車から馬車へ、自動車へ。技術が新しい乗り物を生み出す。音盤がふつうだった時代の次に、便利なカセットテープ利用の時が来て、さらに音質のよいCDがひろまる。その3者が今は共存している。もっともCDはたいへんな勢いで伸び、LPなどの音盤を生産枚数、金額で圧倒しつつある▼活字の世界でも、昨今、その中身を別の乗り物に乗せることがはやっている。テープに録音して、読むかわりに聴く。読書ならぬ聴書の秋、と昨秋は言われた。吹き込む声や速度など、活字の時とは別の要素がはいってくる。目よりも耳に向けた書き方、などが登場するかも知れぬ▼耳向けの本を趣味で編集する人もいる。ラジオで本が朗読されるのをテープに録音し、好きなものをまとめるのだ。自分の好みで音や映像を編みなおすことが出来る時代でもある。貸し出し用のレコードやCDなどを借り、これと思う曲やその部分を選択、いわばつまみ食いの録音をする。そういう自前の愛蔵テープを持ち歩く若者は多い▼子ども用の絵本が次々にビデオになっている。読んでやるより見せる方が楽ということか。親も子もアニメ世代なのだ。字や絵や音などの情報を乗せて運ぶ方法は多様になった。新しいものが現れる。目まぐるしい時代に居合わせたものだ。昔なつかしいSPの音盤を聴く会に、たくさん人が集まるという。 ごみを減らそう 【’89.5.29 朝刊 1頁 (全855字)】  千葉市が自前の施設でごみを処理し切れず、約600キロも離れた青森県の田子町まで可燃性ごみを運んでいた。東北自動車道を10時間。約4000トンを運んで捨てるのには、1カ月以上も必要だ▼8000万円もかかる大作戦。青森しか引き受けてくれる所がないための異例の事態だが、来るものが来た、の感もある。何せ首都圏の8都県では一般の家庭から出るごみの量が1年に東京ドームの4杯分にのぼる。3、4年後には、今ある捨て場がほぼ埋まってしまうとの警告が昨年から出されていた▼非常措置をとらざるを得なかったのは、年度替わりに官公庁や企業から予想以上の書類ごみがどっと出たためらしい。近ごろ問題なのが書類ごみの増加だ。事務処理の電算化で紙ごみは減るはずだった。ところがコピーやファクス用紙を手軽に多く使うため、逆に増え、東京都の場合は可燃ごみに占める紙類の割合は昨年度45%だ▼せめて都庁内でごみとして捨てている紙類の再生利用率を上げるように、と都は計画をまとめている。再生といえばプラスチック廃棄物を公園の遊具や土木資材に再生加工する事業が軌道に乗り始めている。プラスチック廃棄物は野生生物などにも被害を与える。微生物が分解してくれる「生分解性プラスチック」の開発も始まった▼紙にせよプラスチックにせよ、ごみは私たちの生活の仕方を如実に表す。ものを粗末にする生き方も歴然だ。都のごみ捨て場には、在庫整理の商品をはじめ十分に使える新しい品物が捨てられる。繁華街のごみ箱にはまだ食べられる食べ物。それらをあさり歩く人々が美食による成人病、などとうわさされたのはだいぶ前のことだ▼さきごろ総理府がごみ処理について初めての世論調査をした。ごみを減らしたい、との意識は高く、商品の過剰包装や使い捨て商品への批判が多かった。分別や再生の徹底と同時に、消費者も、袋持参、はかり売りを求めてはどうか。 優しい目で生活の断片をすくい上げた詩人高田敏子 【’89.5.30 朝刊 1頁 (全844字)】  「私たちの毎日は、心配ごとや疲れること、悲しい思いをすることがずいぶん多い。でもなお生きつづけていられるのは何かしら」と高田敏子さんは考える▼「それは日常の草むらにかくれている小さな歓び、自然の優しさ、そして、ひそやかな愛の息づきなのではないか」と気づく。「私はそれらをテーマにしたいと思った」。高田さんがつづる短い詩は、1960年春から毎週月曜日の朝日新聞に掲載され始めた。40歳代の主婦だ。3人の子どもがいた▼「5人の子どもを育ててきた/かわいい孫も育ててきた/畑をたがやし/種をまき/たくさんのおみそ/たくさんのつけもの/納屋にいっぱい/つくってきた/おばあさん!/あなたの手がふれると/なんでも命をふきかえす/破れた足袋も/捨てられた糸も……」(おばあさんの手)▼優しい目で生活の断片をすくい上げた。東京の日本橋に生まれ、女学校のころ詩作を始める。夫や子どもに知られるのが恥ずかしく、夜ひそかに書いた詩稿をふろしきに包んで隠していた。新聞で読んだ読者の反響は大きかった。読者たちの詩を集めた詩誌「野火」が創刊され「野火の会」の活動は全国にひろがった▼「身近なものを味わい直してみる」ことがだいじ、と言っていた。そういう気持ちを持つことが、どんなに人々の毎日を豊かにしたことだろう。幼いころ、父親が連れ歩いていろいろなものを見せて説明した。「見ることを教えられたのが今の私に生きている」。ひとこまひとこまを丹念に味わう生き方▼「イスは/ふるさとの森林を/夢みている/若木の姿にかえって/葉をそよがせ/枝に小鳥を/さえずらせている/人はイスにすわると/優しい目になる/空の青さに気づき/遠い面影を追い/心の音楽に/耳をかたむける」(イス)▼人生のうれしい瞬間、ふだん気づかぬ輝きなどをとらえて見せてくれた名人は28日、74歳で亡くなった。 5月のことば抄録 【’89.5.31 朝刊 1頁 (全859字)】  5月のことば抄録▼「明治生まれの人間は、『まさか』の歴史ばかりを見てきた。いまの日本人、もう少し知識を蓄え、賢明でなくては。また『まさか』では、どうにもならないよ」と小島亮一さん。東京に残した土地を処分、1億円をパリ日本人会に寄付した▼自民党の「けじめ」小委の結論に「一言でいって自民党はちっとも反省していない。口先だけで自分を捨てることを知らない。利権を失うからです」と「たいまつ新聞」むのたけじ主幹▼自民党の後継総裁選びが迷走。伊東正義総務会長が「党幹部は全部議員をやめるべきだ」と総退陣論。「そんな風にはいかないだろう」と竹下氏。宇野宗佑外相の名が出て、鈴木元首相が竹下首相に「宇野氏個人は立派な人だと思うが長い間中曽根派の大幹部として政治行動をしており、中曽根亜流政権との国民の批判を受けることになる」▼中曽根前首相、国会の証人喚問へ。「この程度の内容だったら、もっと前にやっておけばよかったんだよな」と自民党の渡部国対委員長。「むなしさを感じている」と橋本幹事長代理▼「理想家に政治家が務まるとは限らない。クリーンなだけで政治がやれるのなら科学者か宗教家がやればいい」と自民党の渡辺政調会長▼虚礼廃止で、経団連の松沢副会長が「全廃するわけにもいかないが華美にしないというのが狙い。一流料亭からおでん屋ということ」。広島県熊野町の西村清登町長が「理由なく物をもらったり贈ったりするところからなれ合い体質が始まる」と、町職員への一切の贈り物を断るよう指示▼俳優の三木のり平さん、アドリブの面白さについて「それがだめなんだ。野球と同じで、すっかり『管理芝居』になってしまって受けてくれない。お客さんもね、行儀よく鑑賞するって雰囲気なんだもの」▼最もジーンズの似合う有名人。女性部門1位、女優の浅野温子さん。「とにかくはき続ければ、自然におしりがジーパンに合ってきます」 難病との闘いだった、木藤亜矢さん 【’89.6.1 朝刊 1頁 (全858字)】  木藤亜矢さんが亡くなったのは1年前のことだ。25歳だった。脊髄小脳変性症という病気である。運動をするのに必要な神経細胞が変化し、ついには消えてゆく。中学3年の時、登校の途中で転んだのが病気に気づくきっかけだった▼原因も治療法も究明の段階という。歩けなくなり、歌えなくなり、やがてペンもにぎれなくなり、と病状は確実に進む。「食べる能力が消え去る時、生命が消え去る日も遠からず来る」(日記)ことを亜也さんは知った。「動けん。人の役に立つこともできん。でも生きていたい」▼難病との闘いは10年間続いた。死の2年あまり前に出版された日記『1リットルの涙』は、中国語にも訳され、このほど韓国でも翻訳出版、ときまった。「人生は病気によって狭められたが、これが与えられた道なら精いっぱい生きよう」と自分を励ます亜也さんの精神力は多くの人に力を与えた▼両親と4人の弟妹にとっても、これは亜也さんとともに闘う10年間だった。母親の潮香さんは思い出す。どんなにたくさんの人が励ましてくれたか。年配の、立派な家政婦さんにどんなに助けられ、多くを学んだか。むろん、世話になった何十人もの家政婦全員が理想的だったわけではない。医者と衝突したこともある▼話ができなくなり、手製の文字盤の字を指しながら意思を伝達する亜也さんが、ある日「私の使命がまだ1つ残っている」と書いた。全国からの見舞いの手紙で、病気や障害に苦しんでいる人が多いのを知った時のことだ。「私を灰にする前に病気の原因を見つけてほしい」▼亜也さんの体は遺志に従って解剖された。「亜也が命がけで越えるハードルは、だんだん高さを増した」が、その前向きの精神、気迫は家族を力づけた。やれるだけのことを精いっぱい。「その姿勢を貫くのが10年間に得た生き方」と、潮香さんは娘のやまいと人生を顧み、このほど著した『いのちのハードル』に書いている。 宇野氏の自民総裁選出 【’89.6.2 朝刊 1頁 (全847字)】  「(竹下氏の)次は伊東さんしかいない。判断は極めて公正で、極めて清潔な方だ。私の判断としては次は伊東さんしかいない」▼こう言ったのは宇野外相だ。5月7日、北京で中国の銭外相と会談中のこと。内政の見通しを語るのは異例である。銭外相は笑顔で沈黙していた。さて、その伊東さんが後継総裁を固辞し、めぐりめぐって何と宇野氏が総裁になるという。与党の総裁選びは、結局は自分たちの首相がきまることだ。あれよあれよと人々はこの過程を見ていた▼「本の中身が変わらずに表紙だけ変えてもだめだ」と伊東さんは言った。具体的にはこんな条件をつけた。第1に党幹部、内閣への思い切った若手の登用。第2に派閥の解消。そして第3はリクルート事件に関与した党幹部の議員辞職などによる総退陣。この人の判断を「極めて公正」と宇野さんは評したわけだ▼伊東さんは竹下氏にこうも言った。「私が後継総裁になったら、あなたには気の毒な言い方になるが、竹下、中曽根、宮沢、安倍とリクルートに関係した人に支えられる政権になり『伊東も同じではないか』と言われる」。宇野氏の名が出たら同じようなことを言った人がいた▼「宇野氏はリクルート事件で騒がれた中曽根商会の専務だ。こういう人を最高の地位に推す竹下氏や党幹部の政治センスに私はただ驚くばかり。リクルート事件への反省のかけらもない」。福田元首相だ。昨日、党総務会でも太田誠一氏が「政治改革をやるための内閣なのに宇野さんはパリにいて政治改革にどんな考えを持っているのかもわからない」と批判した▼リクルート事件を考慮しながらの消去法か。安倍幹事長などより年上を選んだところに意味がある竹下流派閥人事か。党の都合より、政治改革を本当に実現できる力があるか、が人々の関心事である。そういえば、政治改革について宇野氏がどんなことを言ってきたか、聞いたおぼえがない。 宇野さん、「脚」を忘れずに 【’89.6.3 朝刊 1頁 (全874字)】  脚光を浴びて、宇野宗佑首相の登場である。第1日の発言からは、心がまえは読み取れるものの、具体的な政策はまだ必ずしもよくはわからない▼指導者は就任の日にまず自らの心がまえを語りたいものらしい。「誠心誠意ことに当たる」「できるだけ争いを避けて和を求める」と約束したのは鈴木善幸さんだった。「思いやりと責任が政治のモットー」は中曽根さん。「中曽根内閣を見ていて仕事師内閣だったな、としみじみ思った。今度も仕事師内閣でいきたい」と言ったのは竹下さん▼一種の宣誓なのだろうが、これらは政見ではない。誠意をもって職務につくなど当然のこと。本当に聞きたいのは政策である。宇野さんもご多分に漏れず「時局は多事多難。まずは心を磨き」とか「過去を反省し将来に向け、清新な自民党を作ることで信頼をとりもどす」などと抽象論。「春風鉄壁を貫く」が信条、とも言った▼脚光を浴びて、と最初に書いた。もちろん舞台の上の役者を足元から照らす照明のことだ。芝居の関係者はこんな古い言葉は使わず、フットライトを略してフットと呼ぶそうだ。面白いことに芝居には脚のつく言葉がほかにもある。脚本、脚色。脚本は台本、正本(しょうほん)、根本(ねほん)などとも言う。脚は土台、根元のこと、と物の本に書いてある▼この「脚」を忘れてもらっては困る。政治にとって、土台はふつうの人々であり、その暮らしである。初日の宇野さんの発言をじっくり聴くと、自分の党の危機に当たって、という切迫感はあるが、ふつうの人々、有権者に向かって話をしている感じが伝わって来ない。人々の信頼を得られるかどうかがまず問われる▼「脚本」もだいじである。いちばん土台に据えなければならない政策、つまり脚本は、政治改革への具体的な筋書きだ。リクルート事件がさらけ出し、人々にやり切れぬ思いを抱かせたもの。その改革に本気で取り組み、実績を上げるかどうかに、人々は今日から目をこらす。 汗ばむ季節に貴重な緑陰 【’89.6.4 朝刊 1頁 (全847字)】  江戸時代の川柳に、こんなのがあった。「帆柱がうれて一村日にやける」。大きな日陰をつくっていた巨木がなくなったのだろう。涼風の吹き抜ける緑陰は貴重である。歩けば汗ばむ季節になり、とくにそう思う▼ゆっくり街路樹を見ながら歩くと、東京の町も案外捨てたものではない。たとえば四谷から迎賓館に向かう道。ユリノキの並木が枝をひろげる。花は終わったが、明るい葉の色、黒ずんでがっしりした幹が美しい。とくに幹の質感が何ともいえず、思わず手を出してさわってしまう。続くトチノキの並木、近くの巨大なスズカケ、いずれも目に快い▼それぞれの町や村に、土地に合った自慢の並木があることだろう。中国の北京では空港から町までの道中、何と3層の並木が目を楽しませる。まず3メートルおきのポプラ並木。その外側にヤナギの並木、さらに外側にリンゴ。白い花の咲くころはすばらしい。しばらく行くと、ポプラはエンジュにかわる▼杭州のスズカケ並木も見ものである。広い道なのに両側の枝が伸びて緑のトンネルだ。その下をそぞろ歩くと気分ものびやかになる。中国では2500年も前の周時代に、すでに壮大な並木がつくられていたそうだ。日本で街路樹を植えることが本格化したのは8世紀。遣唐使が帰国し、街路樹の状況などを報告してからという▼平安京にはヤナギとエンジュ、鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギ。江戸時代になって、マツ、スギ、ツキ(ケヤキの古名)などが植えられた。東海道の松並木なども、そう古くはないことになる。明治以降さらに多くの種類が植えられた。東京の場合、街路樹の数は31万本あまり▼都民37〜38人に街路樹1本という割合だそうだ。札幌市は約10人に1本、神戸市は約12人に1本。地方都市の方が、やすらぎ、落ち着きを与えてくれる仲間に恵まれている。「緑陰に染まるばかりに歩くなり」(星野立子) 象の墓場 【’89.6.5 朝刊 1頁 (全857字)】  老いて死期をさとった象がひとり群れを離れて「象の墓場」へおもむく。そこには象牙(ぞうげ)や、なぜか宝石まで埋もれている。こんな場面が、幼いときに読んだ絵本にあった。実際にはそのような墓場はない▼だが、いまアフリカ全体が、アフリカ象の墓場になりかけている。それに一番手を貸しているのが日本だ、と国際的な批判が広がりそうな気配である。私たちが使う印鑑などの材料として象牙を採るために、象が乱獲され、絶滅の危機にあるのだ、という▼象牙の取引量のうち、ざっと8割を日本と香港が輸入している。野生生物の国際取引を規制するワシントン条約で割当制がとられ、輸入は年々減ってはいる。それでも過去10年間に、日本は30万頭分を超える象牙を使っている▼需要に応じて価格がはね上がった。4輪駆動車に乗った密猟者が自動小銃で象の群れを襲い、電動ノコギリで牙(きば)を切り取っていく。いまでは10年前のほぼ半分にあたる62万5000頭にまで減った。このままでは20年以内にアフリカ大陸から象がいなくなってしまう▼アフリカ諸国は国際取引の全面禁止を求めて国際世論に訴え始めた。象牙輸出の外貨収入よりも、象さえ健在なら観光やサファリによる長期的な利益のほうが大きい。象はサバンナや森林の豊かな自然界の頂点にあって、生態系の維持に大切な役割を果たしている▼正倉院には、奈良時代に中国から伝わった象牙の彫刻品がある。根付け、三味線のばち、はし、アクセサリーなど、日本人には昔から身近な品だが、印鑑はとりわけ象牙乱費のシンボルとして外国では受けとられているようだ▼クジラの保護をめぐって、肩身の狭い思いをした。こんどはハンコ文化とサイン文化の文化摩擦かもしれぬ。だが、次の問い掛けに、私たちは答えを用意しなければならない。金持ち日本人には象牙の印鑑を買うとき、殺される象のことが思い浮かばないのだろうか。 対話を望む学生に戦車で鎮圧! 中国指導者の考えは 【’89.6.6 朝刊 1頁 (全859字)】  何とも無残な話である。北京の天安門広場に人民解放軍が戦車を繰り出した。人々に向けて銃が発射された。おびただしい数の学生や市民が死んだ。非暴力のデモで始まった抗議の場が一転、血の修羅場だ▼いったい中国の指導者は何を考えているのか、とだれしも思う。民主化を望む学生の行動は、終始、抑制がきいていた。派遣された兵士たちとも対話の精神で応じていた。そこへ戦車が乗り込み発砲した。問答無用の姿勢である。世界が見ている前での最もおぞましい事件として中国現代史に記録されるのではないか▼広場からの学生の排除だけが目的なら、と群衆対策の専門家は言う。まず丸腰での排除、ついで放水や催涙弾の順で考える、と。水びたしにする、あるいは煙によって座り込みを少なくとも一時的に解くことができるはずだ。それを、あっというまに実弾とは▼不気味なのは指導者の考えが分明でないことだ。戒厳令布告の後、学生ではなく「ごくごく少数の動乱を企てる者」に軍を向けたと説明された。この少数が、だれを指すのかわからない。また戒厳令が制圧の意思表示なのか、それとも力を背景に交渉に引き込む手段なのか、その後の動きに、はっきりと表れなかった▼指導部内に意見の分裂があることは間違いない。軍の中にも対立がありそうだ。最高指導者の〓小平さんは、経済の面で改革、開放を進め、成功をおさめてきた。だが政治の分野では、一党独裁、少数への権力集中の基本構造は変わらない。学生たちの抗議には、何でも〓さん個人が取りしきることへの反対があった▼学生が米国の記者に「人民の人民による人民のための政府を望む」と英語でリンカーン演説を引用して訴えていた。学生の考えをすくい上げる柔軟さを指導部の頭脳が失い、市民をふくむ抗議に脅威を感じたのか。「暴乱の鎮圧は偉大な勝利」という官製ニュースを、若い女性の人気アナウンサーが涙を浮かべて読んだそうだ。 ロケットは「平和の女神」であってほしい 【’89.6.7 朝刊 1頁 (全846字)】  南米の仏領ギアナにいる同僚から「夜空を焦がして舞い上がるアリアン4型ロケットを見た」と連絡が入った。欧州最大のロケットだけあって、数キロ離れた記者席に届く噴射音も雷鳴のようだという▼女性記者が「ぞくぞくする」と感激している、なるほど引力にさからって天空にのぼるロケットの魅力はたしかに男性的、というのが現場からの感想だ。そうではあろうが、このロケット、実は女性なのだ。アリアンとは、ギリシャ神話に出てくるミノス王の娘アリアドネのフランス名である▼クレタ島の迷路に住む怪物を退治しようと英雄テセウスが迷路に入る。その時、手繰るための糸の玉を渡して生還に導いたのがアリアンだ。混迷状態にあった欧州の宇宙開発を迷路から救い出したいとの願いをこめ、11カ国が共同で開発したロケットにこの名をつけた▼彼女は、この10年間で世界の商業衛星市場の半分を制するまでに成長した。今回の民間通信衛星「スーパーバードA」を含め、日本の衛星を4機打ち上げる契約を結んでいる。なかなかの商才だ。ギリシャ神話の名前がよく使われるが米国のロケットはタイタン、アトラス、サターンなど勇ましい巨人や男性神が多い▼中国の大型ロケット「長征」は共産党軍が北部に根拠地を移した大作戦にちなむ。日本のロケットはというと男性でも女性でもない。東大宇宙航空研究所(現文部省宇宙科学研究所)が開発した科学衛星用ロケットは、カッパ、ラムダ、ミューなどのギリシャ文字を冠し、宇宙開発事業団の実用衛星用ロケットはアルファベットのNや、Hだ▼Nは日本、Hは水素(ハイドロジェン)燃料エンジンの頭文字だが何とも味気ない。ロボットに「モモエちゃん」の愛称もある。月へ飛び立つ「かぐや姫」、天女を舞わせる「羽衣」などはどうだろう。どんなに力強くても、ロケットは軍事に手を貸さない「平和の女神」であってほしい。 「患者のために」 医事評論の大渡淳二さん死去 【’89.6.8 朝刊 1頁 (全851字)】  「医事評論」という独自の分野を切り開いた大渡順二さんが84歳で亡くなった。この道に入ったきっかけは、自身の結核だった。敗戦翌年、結核患者のための雑誌『保健同人』を創刊した当時は、マムシの黒焼きやおきゅうや摩擦療法が結核を治す法として大まじめに推奨されていた▼「不勉強な医者がだれからも批判されずにまかり通っている。医療の仕組みも医者本位にできている。いかにもワンサイドゲームに終始している。よりよい医療のためには大向こうの天井桟敷から患者である私たちが声をかけねば」と大渡さんは書いている▼非科学を撃て、をスローガンにしたこの雑誌は療養所のベッドからベッドへと、1冊が2、30人にも回覧された。医師たちも競って発売初日に目を通した。最新の知識から取り残され、患者から軽べつされるかもしれないと恐れてのことだった▼人間ドックを提唱したのも大渡さんだった。一般に普及し始めると、土曜日の1日特急ドック、子宮がんと乳がんの女性ドックを始めた。これも患者の身になっての発想だった。威厳のある話しぶりと風ぼうからしばしば医師出身と間違えられたが、その都度「根っからのジャーナリストでございます」と誇らしげに訂正した▼後輩には「孫引きはいかん。事実に当たれ」が口ぐせだった。札幌医大の和田寿郎教授の心臓移植の疑惑を追及し「病者のための人権宣言」を起草。保険医総辞退を武器に政府と取引する日本医師会の故武見太郎会長を真っ向から批判した。激しい医師批判にもかかわらず、どの活動にも、大渡さんの「患者のために」という発想に共感した医師たちが加わった▼6年前、引退宣言。孫に目を細め、散歩を楽しむおじいさんに変身した。今年にはいってベッドの上での生活に。4日夜、夫人と子、孫に手をとられ、眠るように息を引き取った。「病気療養の本来の場は在宅にある」という主張通りの最期だった。 国境を超えて 【’89.6.9 朝刊 1頁 (全845字)】  中国の情勢が気にかかる。日夜、どう展開しているかを追いながら、あらためて痛感するのは、情報や人の意識が今や国境を超えている、ということである▼中国の学生は数年来、外界の動きによく通じていた。内外の比較によって考えを発展させることもできた。情報は多く留学生の話も外国の放送も耳に入る。今回も、天安門広場での動きをはじめ各地の情勢を外国からの短波放送で聴いたはずだ。外の世界も中国で起こっている事件をかなりなまなましく見た。中国内部の話ではあるが、それを人間のニュースとして見聞する▼だから人間の問題、つまり人権や言論・集会の自由などにかかわる事、と考えて反応する。東西から中国政府に対して厳しい批判が起きたのはそのためだ。判断の基準は、人権など、普遍的な価値である。しかし、中国外務省は米国のとった米中軍事交流停止などの措置を「内政干渉」だと非難した▼ニューヨーク市長が北京市長に手紙を書き「自由を求める人々に対する軍の行動を支持したとの報道を聞き、遺憾だ」と率直に言い、姉妹都市関係の中断を通知した。こうした判断と決定が、国境を超えて人々の支持を集めるような価値観に基づくものである場合、「内政」の主張や抗議も色あせて見える▼内部の行動基準だけでことを処するわけにはゆかぬ現代。それは情報の流通がもたらしたものだ。さきごろの血ぬられたパナマ大統領選挙で野党候補は殴られ、傷つき、連行された。その時の様子が世界に報道されていたおかげで私は助かった、と釈放された副大統領候補が語ったそうだ▼話は飛ぶが、各国でよく読まれている英字紙に「宇野首相の女性問題スキャンダル」なるものが報じられた。かなり目立つ扱いだ。日本の週刊誌の報道がもとだ。米国ではさきにハート候補が女性との問題で大統領選挙戦から脱落した。情報も、意識も、容易に国境を超える時代である。 生きて変化する言葉 【’89.6.10 朝刊 1頁 (全848字)】  「最近耳にした気になる言葉」というのが並んでいる。新潟県の読者から届いた手紙である。宇野首相が新内閣の「発足(ほっそく)」をハッソクと発音した、テレビでだれそれが「奇(く)しくも」をキシクモと言った、と例をあげ、人名を並べて指摘している▼「発足」には、両方の読み方がある。言葉に関する手紙は時々来る。とくに年配の読者からの疑問が多い。きっと今の世の中、言葉づかいがかなりの速さで変化していて、抵抗を覚えるのに違いない。そういえば、テレビでの話し方には首をかしげたくなることがある▼人を指すのに「方」「方々」を乱発する。男の人、でなく、男の方。ていねいに言いたいのだろうか。ニュース番組にもこれが出てくる。大学生は、ですむところを、大学生の方は、と言う。漁民の方、OLの方、観光客の方、服役者の方。日本から「人」は消え、みんな「方」になったらしい▼敬語が「レル」「ラレル」ばかりである。お帰りになる、ではなく、帰られる。いらっしゃる、のかわりに、行かれる。なさる、と言わず、される。おっしゃる、や、お召しになる、などが話し言葉で自然に出るのを聞くと、何となくほっとする▼「見レル」「出レル」が多いのも、しばらく前から話題になっている。この言い方が多くなっていて、形勢としては「見ラレル」「出ラレル」は押され気味、ともいう。筆者個人は使わない。『週刊朝日』の連載をまとめた『日本語相談 1』に、この用法についての質疑があって面白い▼京都の読者から、先日の本欄に「象牙の印鑑」とあったが、と手紙をいただいた。「印鑑」は、はんこをおした印影のこと。指で持つはんこそのものは「印章」が正しいのではないか、というのだ。本来、厳密に言えばその通りだろう。だが、最近の辞書では「印鑑」は両方の意味に使われている。生きて変化する言葉。興味と関心を深め、だいじにしたい。 傘 【’89.6.11 朝刊 1頁 (全861字)】  雨が降ります。雨が降る。遊びにゆきたし、傘はなし、……で北原白秋の童謡「雨」は始まる。白秋には「アメフリ」もある。アメアメ フレフレ、カアサン  ガ/ジャノメ デ オムカイ、ウレシイナ▼「傘はなし」と「オムカイ」とが、戦前を知るものには妙になつかしく思い出される。雨になると、昔はよく傘を携え、駅まで家族を迎えに行ったりした。近ごろ、そんな風景はあまり見られない。傘がかんたんに買えるからか。親も子も忙しいからか。他人にさしかけてやる情景も少ない。傘を借りた、入れてもらった、と感激の投書が時に新聞にのる▼「2人目は女房の傘をかして遣り」と江戸の川柳にある。にわか雨で傘を借りに飛びこんで来る。亭主用の1本はすでに貸した。2本貸して、もう傘がない、という感じだ。「傘はあるまいなあと目でしらせ」は、貸したくない亭主の、女房への目くばせだ。別に意地悪ではなく、傘が少ないからだろう▼そこへゆくと、当世ゆたかなものだ。日本洋傘振興協議会の話では年間に6500万本も売れる。世界一の数字だそうだ。1世帯に15本くらい、1人が4、5本持っている勘定、という。そのせいか、忘れる方も気前がいい。東京都内の拾得物の首位を占め1年に34万本以上と警視庁遺失物センター▼雨の日を数えて割り出した統計によると、傘の忘れものは、ひと雨ざっと3000本。たいへんな数である。古代オリエントから東西に広まったといわれる傘は、日よけ、雨よけが本来の機能だった。のちに儀式や行列などで身分、権力を示すのに使われたりするようになる▼先月、大津の社会党演説会を襲った暴漢の武器は雨傘だった。ビートたけしが雑誌社に殴り込みをかけた時も雨傘登場。どうも物騒な役割を最近は負わされている。もうひとつは、ファッションとしての自己表現の機能だ。これは悪くない。色とりどりの、しゃれた模様が、けぶる雨の中をゆく季節。 国籍 遅れている日本人の考え方 【’89.6.13 朝刊 1頁 (全846字)】  テニスの全仏オープンで、マイケル・チャン選手が男子シングルスの優勝者となった。サンチェス嬢と並んで男女ともに最年少優勝、17歳である▼すばらしい粘りだった。フルセット、3時間40分を超える熱戦。チャン選手の自制のきいた表情、小柄ながらどんな球にも飛びついてゆく俊足、神経戦に強い落ち着いた物腰が、観衆を魅了した。若い挑戦者が経験豊かな強豪に打ち勝つ。汗みずくのひたむきさを見たものは、深夜の実況放送で寝不足になっても、深い感動と満足感を味わったに違いない▼チャン君は、名前と顔からすると東洋の選手か、と間違えそうだ。だが、米国の選手である。父親が20年あまり前に台湾から米国に移住した。だから2世の米国人ということになる。米国選手の34年ぶりの優勝に米国も沸いた。自分たちの社会、環境がこういう選手をつくり、育てたことを、米国人は誇らしく思うだろう▼チャン君からの連想で『アメリカ人をやめた私』(ロジャー・パルバース著)を思い出した。米国人からオーストラリア人になり、日本に住む著者は「日本人にどうしてもなれなかった」と書いている。「……日本人になったわたしの顔を見て『あいつは日本人だ』と思う人は皆無だろう。これは国籍や民族に対する日本人の考えかたが、ほかより著しく遅れているせいだと思う」▼ウィーン・フォルクスオーパーが来日、先夜オペレッタ「メリー・ウィドウ」を演じた。楽しませる出来で、歌も芝居も人を酔わせたが、ウィーン情緒たっぷりの上演を多国籍出演者群が支えているのが興味深い。指揮はオーストリアの人だが、主役の女性が米国、男性がソ連の出身。デンマーク、ギリシャ、ユーゴと、多くの国の人が集まっている▼こういう形で文化をつくり出す。国籍や民族を考える前に、まず人間の仲間として生かし合う。包容力を持った社会のあり方について考えさせられる。 中国の「冬の時代」と中国の民主化 【’89.6.14 朝刊 1頁 (全847字)】  中国は冬の時代を迎えている。天安門での流血のあとに来たものは、密告のすすめだ。「反革命」のひとことが戦時中の日本での「非国民」と同様、恐ろしい威力を発揮する▼壁に耳あり障子に目あり。だれをも信用できぬ疑心暗鬼の世界。みんな口数が少なくなる。見過ごして後でとがめられるよりはと、保身のために進んで密告するものもいるかも知れぬ。市民同士の信頼関係に傷がつく不幸な事態である。文化大革命の時にも似たようなことが起きた。幹部の子が親を非難、告発する例もあった▼密告のすすめは北京市民あての戒厳部隊通告で行われる。テレビも利用される。画面に密告のための電話番号を示し「反革命分子」の連行をうつす。オーストラリアの市民は「民主主義のためのダイヤル運動」でこの番号に抗議の電話をかけ続けた。ほかの国からも電話が殺到、中国当局は拡声機で番号を触れてまわる作戦にしたそうだ▼この男を突き出してほしい、と反政府的な弁をふるう男を画面にうつし出す。米国のABCテレビが撮影したものだった。ABCは当然、中国政府に抗議する。うつっていた男は市民の通報ですぐにつかまった。あらゆる手段で「暴乱分子狩り」は進んでいる。日本の幼女殺害事件は、視線の網の目が粗いところで起きたが、中国の市民は、細かい網の目の中でがんじがらめだ▼母国の情勢を見守る中国人は日本に多い。ほかの国でと同様、民主化運動を支援する集会やデモも行われた。気になるのは留学生に「反革命活動だ」「大使館に自首しないとつかまえる」などの脅迫電話がかかる、という報道だ。電話は中国語だという。中国大使館は「根も葉もない」と大使館との関連を否定した▼大使館は、留学生の派遣は改革・開放政策の重要な部分として今後とも堅持する、という。心強い。この法治国では、国籍にかかわらず、人権と安全はきちんと守られなければならない。 今の国会、故清水崑画伯ならどう見る? 【’89.6.15 朝刊 1頁 (全854字)】  新刊の『吉田茂諷刺漫画集』には昔なつかしい清水崑画伯の毛筆の絵がたくさん収録されている。やわらかで皮肉な筆づかいの政治漫画の合間に、吉田首相と清水さんの対談があった▼外国の町では必ず動物園に行った、という動物好きの吉田さんの話を受けて、政治家の動物見立てを清水さんが披露する。「ぼくは吉田さんをゾウに、片山哲氏をクマに、芦田均氏をラクダに、徳田球一氏をイノシシに、野坂参三氏をオットセイにかきました」。ラクダは呼吸が長い、オットセイはぬらりくらり、などと清水さんは説明する▼別の対談で徳川夢声さんがやはり動物を話題にした。ロンドンの動物園でサル類の種類が多いのに驚いた、と夢声さんが言うと吉田さんはすかさず「いや、サルのコレクションなら国会に行けばいくらでも見られますよ、ハハハ」。削除されると思ったこの部分がNHKでそのまま放送され、国会で問題になってしまった、と夢声さんの裏話▼3カ月ほど前に「議員になると常識を忘れ、国会は動物園だ」との発言があった。自民党政治改革委が女性たちを招いて意見を聴いた時だ。「政治家は自分たちの社会でしか通用しない意味不明な言葉を語っている」と厳しい批判だった。本欄でこの発言を引用したら読者から投書が来た。「動物を見くだすのは人間の思い上がり」という指摘である▼ここ何日かの首相の国会答弁を聞き、言葉は踊る、という印象をぬぐえない。政治改革で「不退転の決意」「抜本的な改革」といった強い表現が多いが、指導力を発揮して改革に手をつけるという意気込みが伝わらぬ。「内閣の最重要課題」という政治改革は「宇野内閣のもとで進まない」と、いま65%の人が考えている▼本紙世論調査によると「政治に不満」74%、宇野内閣支持率は28%と記録的な低さだ。かなりひどい数字である。清水画伯が生きていれば、どう見立てるだろうか、聞きたいところだが。 蛍がもどってきた 【’89.6.16 朝刊 1頁 (全846字)】  蛍がもどって来た。あちこちの川に蛍が集まり、人が集まる。かそけき光の乱舞に童心のよみがえる時。「大蛍ゆらりゆらりと通りけり」(一茶)▼戦後10年あまりたつころから、蛍の姿、いや、光がしだいに消えた。いわゆる高度成長期に蛍は忘れ去られたようになる。川の状態もひどかった。生きられるようなものではない。合成洗剤の泡が浮かび、農薬が流れ込む。そんな環境を考え直す努力によって、蛍は帰って来た。あの小さな光は、人間の生きる環境がどんな具合かを示す信号でもある▼岐阜県の大安寺川では住民が8年にわたり地道な努力と工夫を続けた。小、中学生が川を掃除。家庭では合成洗剤をやめ天然せっけんを使う。蛍の幼虫のえさになるカワニナを当番制で養殖した。大変だったのは幼虫運びだ。ふつう幼虫は川から夜中にはい出し、土の中でさなぎになる。ところが土手はコンクリートだ▼1匹ずつつまんでバケツに拾い、土の出ている上流へ運んだ。いまでは3000匹が川辺を舞う。どこでも似たような努力を払い、蛍を呼びもどした。少し蛍がふえると車で乗りつけて捕らえるものが出る。都会に蛍を大量に集め、同時に金も集めて納涼、などという趣向もある。およそ自然のよさと意味とを解さぬ発想だ。「ふりしきる雨となりにけり蛍篭」(万太郎)▼さきごろ熊本市で全国ホタル研究大会が開かれた。そこでの面白い発表のひとつ。オスが光を放つのはメスをひきつけるためといわれるが、ゲンジボタルの発光が、西日本では2秒間隔、東日本では4秒間隔、というのである。西の求愛はせっかち型、か▼身を焦がす蛍は、万葉の昔から燃える恋の思いの同義語だった。たんなる景色の描写になるのは新古今集以後のことだという。蛍はまた「蛍なすほのかに聞きて」というように「ほのか」のまくらことばでもあった。「ゆるやかに着てひとと逢ふほたるの夜」(信子) 科学と芸術は兄弟 【’89.6.17 朝刊 1頁 (全859字)】  壮大な夕焼けに見とれることがある。山の中で明け方、鳥のさえずりに聴きほれることもある。五官を通じての刺激で、私たちの心にはさまざまな感情がわき起こる。造化の妙に接してのおそれ、美しいものを前にした時の喜び、そして、やみの中での恐怖▼小松左京さんが面白いことを言っていた。高野山に登ったそうだ。微妙に曲がった山道。1町ごとに石が立っていて、それを数えながらふうふう言って登る。いつしか頭がぼけたようになり、雑念が消える。やがて杉木立。神聖なところに入ってゆく気になる。さらに急な坂にあえぎ、最後に目の前がぱっとひらけると大伽藍(がらん)▼浄土とはこれか、と実感させる。そういう道のりだった、との発見である。同じような効果は善光寺の「胎内くぐり」でも感じられるという。長い無明の道をたどり心細さがつのる。最後に出口の明かりが見え読経の声が聞こえてほっとする。小松さんは、大阪で万国博が開かれた時、こんなふうに通路が与える心理的効果を利用して「感情の演出」ができないかと考えたそうだ▼なるほど、私たちの感情は、見聞きするものと無関係ではない。演出が可能かどうかはともかく、こんな刺激にはこんな反応と推測もできそうだ。だが公開準備中の「エクスプロラトリアム展」(科学技術館・東京北の丸公園)をのぞいて驚いた。ここには日常的な知覚を裏切るような装置が並んでいる▼目の前の金属製のバネを取ろうとするが取れない。実物としか見えないのに、実体がないのだ。1枚の鏡を2人が表裏からのぞく仕掛けも不気味だ。自分の顔と同時に相手の顔もうつる。明るさを調節しながら顔を合成する。あるいは、壁のお面。当方が動くのを、顔を動かして追う。妙だ▼科学と芸術は、洗練された感性から生まれるきょうだいだ、という。科学と芸術の領域にまたがる作品。感興も独特だ。それに遊び心が動く。珍しい感覚にしばし時を忘れた。 がん患者に病名を告げるか 【’89.6.18 朝刊 1頁 (全846字)】  「あなたの病気はがんです」と医師が言う。患者は本当のことを言ってくれて、よかった、と思うか。そうは思わないか▼がん患者に病名を告げるかどうかをめぐり、裁判があった。医師が告げぬため、手術を受けず手遅れになった、という遺族からの訴えである。先月末の名古屋地裁の判決は、まず、医師には病名などを説明する義務がある、と指摘する。その上で、しかし説明するかどうかは病状の内容、程度に応じて判断するのがよく、それは医師の裁量のうち、という判断を示した。遺族は納得せず控訴した▼この判決は、これまでの慣行を反映したものといえる。医師の裁量まかせ、である。だが、こんど発表された厚生省の末期医療に関する検討会の報告は、一歩進んでいる。医師への指針として、病名を告げることに積極的に取り組むべし、との方針を打ち出した。むろん患者本人の希望、周囲の支えがある、などの条件つきだ▼自分の病気を知っていたい、と思う人は多い。さきごろの本社世論調査では興味深い数字が出た。自分ががんの時「知らせてほしい」という人が6割いた。もっとも、家族ががんとわかったら本人に「知らせると思う」人は2割。医者も似た反応を示す。ある調査で、自分ががんの場合に「知らせてほしい」と答えた医師は8割を超えた▼告げるべきかどうかに思い悩む医師に同情する。病状に応じて判断、といっても、患者の性格や考え方、信条まで含めての十分な判断はなかなか難しい。必ず病名を告げてくれ、と元気な時に言っていた人が、いざ告げられると気力を失うこともある。病気を直視することから闘志をふるい立たせる人もいる。偽の病名を告げた医師や看護婦は患者を避けがちになる、という話もきく▼ユル・ブリナーも宇野重吉も、がんと知り、残る日々を燃焼させた。難病を認め、尊厳を保ちながら最後を全うしたい、と思う人は多いのではないか。 座る場所 【’89.6.19 朝刊 1頁 (全861字)】  あなたの座る場所は、いつも同じところ、ときまっているだろうか。家の中で、そして仕事の場で▼昔の民家の囲炉裏ばたは茶のみ話の場だった。のんきなようでも座席はきまっていた。新潟県のある地方を例にとると、3尺四方の炉の、台所に最も遠い辺が主人の座る「横座」だ。その左手の辺には主婦が座る。「かか座」という。主婦の向かいが「客座」で来客が座る。残る台所寄りの1辺には手伝いのものなどが座った。まちがっても客が横座に座ることはない▼炉ばたの作法とは違うが、当世、会社や役所などの事務室でも座席はきまっているのがふつうだ。たいてい窓を背にして長と名のつく人が座る。あとの人々は、机を田の字の形に並べてそれぞれ席をきめる。大部屋で多くの人が執務する時の典型的な配置だ。仕事の見習いや意思の疎通にはよいかも知れぬが、自分の空間の確保、ということを考えると問題がなくはない▼思い切った発想の事務室を見た。日本アイ・ビー・エム社が隅田川ぞいに建てた箱崎事業所。営業担当の社員はいつも座っているわけではない。四六時中、出入りしている。帰社して自分の階に上がるとテレビのような画面で席の配置図を調べる。空席を自分の席に選んで登録し、自分用の執務の道具を入れてある低い可動式戸棚を席まで押してゆく▼机は田の字ではなく、かぎの手、コの字といろいろ。低い間仕切りがある。パソコンを秘書のように活用する。専用の空間に道具をひろげて執務。終われば何も残さず引き揚げる。固定席のない状態が仕事にどんな影響を及ぼすか。興味深い。これは最先端の例だが、いま日本の仕事場のたたずまいは人間工学、心理などの面の研究が進み変革期にある▼数年来、机やいすの造り、配置、その他の工夫が話題になる。本紙「ウイークエンド経済」に「新オフィス考」を連載中の工藤雅世さんは「空間の研究、哲学がもっと必要」という。流動的で面白い時代だ。 エッフェル塔が100歳の誕生日 【’89.6.20 朝刊 1頁 (全852字)】  「本当のパリ通は、エッフェル塔の中のレストランで食事をする」という小話がある。「そこでなら、エッフェル塔を見ないですむから」▼そのエッフェル塔が100歳の誕生日を迎え、盛大な祭典が催された。ことしはフランス革命の200周年。100周年の万国博覧会の時、記念にふさわしい壮大な計画を、と多くの案を集めた。石の塔、という案もあったそうだ。採用されたのがエッフェル塔の建設だ。地上300メートル、世界で最も高い建造物だった。これを見た人は、さぞきもをつぶしたことだろう▼案を出し、建設したのはギュスタブ・エッフェルという名の建設技師だ。それまでに欧州はもとより中東や南米などで架橋工事を手がけ「鉄の魔術師」といわれていた。工法に独特の工夫をこらし、鉄材の改良を研究する技師だった。完成した塔は得意の橋を垂直に立てたかっこうだ▼石やレンガ、木などで造る建造物がほとんどだったところへ、鉄で塔を建てたことが画期的である。折しも「鋼の時代」が始まっていた。エッフェル塔は、鉄の世紀を象徴する金字塔といえる。鉄は、銅には遅れるが紀元前から利用され、19世紀の後半、製鉄法が改良されて鋼の時代が来た▼この数年、軽薄短小、サービス産業の時代などといい、鉄は滅びゆく重厚長大の代表のように思われがちだ。鉄鋼会社は合理化に励み、ハムの販売、ふとんの丸洗いサービス、と経営の多角化を進めてもいる。だが地殻に豊富に存在し、加工しやすい鉄には依然大きな価値がある▼最近では、毛髪の8分の1もの細さで今までの金属線より強い鋼鉄線も開発された。豊かな生活のための工夫が進められている。『エッフェル塔ものがたり』の著者倉田保雄さんがこう書いていた。「普仏戦争で敗れたフランスが、軍事力増強による対独報復より、経済力を充実してプロシアを見返す道を選んだ」▼それがエッフェル塔だった、というのだ。 政治改革はいまの時期を逃すな 【’89.6.21 朝刊 1頁 (全844字)】  表紙だけ変えてもだめだ、と言っていた伊東さんが自民党の政治改革推進本部長を引き受けた。あれだけ総裁就任を固辞した人だ。いささか意外である。「君子ひょう変だな」とご本人▼引き受けた直後、記者団への言葉に「党の危機だから」とあって、おや、と思った。政治改革はだれのためにやるのだろう。都議選や参院選を乗り切るために「伊東人気」を利用したい、という自民党の都合による人事か。そう考えているのなら、自民党はあまりにも普通の人々の気持ちからかけ離れている▼人々の気持ちにもっと近いのは、自民党にもの申す、と政治改革の提言をした経済5団体の方だ。経団連などがまとめた提言は、改革案の中心に政治資金をすえている。そして、政党、政治団体の政治資金の出入りをすべて公開し、政治家個人の収支についても、1円まで公開の対象にすべきだ、と唱える▼リクルート事件で政治への信頼が失われたいま、そのくらいのことは当然、と人々は考える。ところが自民党の中には「党の政治改革大綱の中身を決める時でも党内の反発が強かった。これ以上の厳しい内容ではとてもまとめられない」という声が多い。やれやれだ。「出し手と使い道をすべて公開、透明性を確保すべし」という提言が「厳しい」とは。伊東本部長の仕事も厳しそうだ▼具体的な話だが、選挙の時に、政治資金のすべてと全資産を候補者が選挙公報に公開するようにしたらどうだろう。それを見て、有権者が判断する。公開しない候補者は、多分、何か怪しいと判断されるだろう。そう判断されるのも、また、虚偽の公開をして後でほぞをかむのも、候補者の責任だ▼自民党ユートピア政治研究会の鈴木恒夫代議士は『永田町解体新書』に政治家の収支を詳細に記している。悩む政治家の姿が描かれ、希望なきにしもあらずと思わされる。いまの時期を逃したら、政治改革はもとのもくあみだ。 沖縄県「慰霊の日」の休日存続を 【’89.6.22 朝刊 1頁 (全845字)】  あす23日は沖縄県の「慰霊の日」だ。1945年のこの日、沖縄戦で組織的な戦闘が終わったとされる。原子爆弾が広島、長崎に投下された8月6日、9日と同様、戦争を考える時に忘れられぬ日付である▼沖縄県は「慰霊の日」を休日としてきた。広島市も8月6日を市の「事務休停日」としてきた。どちらの場合も戦争の犠牲者を追悼、世界に反戦と平和を訴える日となっている。式典に内外からの参列者を迎え、休日とはいえ自治体職員は忙しい。ところが、これらの休日が廃止されるという▼土曜閉庁の導入で、1月に地方自治法の一部改正があった。地方自治体の休日を明文化し、土、日、国民の祝日、年末および年始に限定した。地方自治体が独自の休日を条例で定めることができず、沖縄や広島の例は地方自治法違反になる、というのだ。沖縄では那覇市議会の意見書採択をはじめ、休日存続の要求が高まっている▼戦争体験の風化をおそれ、休日としてこの日の意味を語り継ぎたい、という考えからだ。だが自治省は「慰霊の日」や「平和記念日」などそのものを廃止せよと言っているわけではないという。「土曜閉庁を実施した上でさらに休むのは国民感情にそぐわない」「公務員が休むことには批判があり行政サービスの低下は困る」と言う▼地方と中央の言い分を聞いていると、自治省の見解はいささかしゃくし定規に過ぎる、との感想を持つ。地方自治を育成するつもりなら、地方の考えを尊重することが出発点だろう。いわゆる「ふるさと」をだいじにする気があるなら、例外的な独自の休日も認める柔軟さが必要ではないか。土地の広さなど条件が違うが、米国では各州がゆかりの日を独自に休日とする▼休み過ぎへの心配もわかるが、それこそ地方の判断にまかせればよい。そんなに休むな、と住民が言い、県なり市が対応を考えればすむ。画一的に中央がきめることはあるまい。 冗談にならない「ぐずぐず」 【’89.6.23 朝刊 1頁 (全859字)】  「アメリカぐずぐずクラブ」の会長ワースさんと話したことがある。「お会いしたいと思ったのは1年ほど前ですが、ぐずぐず延ばしましてね」と言ったら「私の会の趣旨も浸透したものですな」と大喜びした▼なるべく何でも明日に延引する、という趣旨の会だ。1956年に友人と話していて、万事せわしない時世、少しゆったりすべきではないかと意気投合、設立した。「設立総会も計画したが延ばしていまして」。復活祭の週末におじゃまして申し訳ない、と言うと「いや去年のクリスマスもまだ延引中です。ご遠慮なく」▼英国との1812年戦争でホワイトハウスが焼かれたことがあった。腰を上げて友人とその戦争の反戦デモに行ったら、ベトナム戦争反対のデモ隊と出会った、などと言う。ワースさんの話はとぼけていて愉快だった。何でも延引、と考えるだけで人は気楽になる。礼状を、と考えながら当方もつい、まだ延引している▼このクラブ、もちろん遊びだ。気分を変えるための冗談である。こんな会話を思い出すのは冗談でない延引のニュースが続くからだ。和歌山市で今月、27年も前に出したはがきが配達された。子どもの出生祝いへの礼状で、あて先の人はすでに故人。不義理と思われたか、と差出人はあきらめられないだろう▼ハンガリーでは31年前に「反逆罪」で処刑されたナジ元首相の名誉回復があった。遺体が掘り起こされ、16日、「改革の象徴」として盛大な改葬式が行われた。もっと古い話は、仏カトリック教会だ。20日のノートルダム寺院。フランス革命200年を記念するミサで「1789年の人権宣言はキリスト者にも受け入れられる」と枢機卿がのべた。初めて革命の価値を認め祝福した、と清水特派員▼200年目にけじめをつける、というのも息の長い話だ。こちらの政治改革も延引つづき。盛大なパーティーを計画する派閥もある。笑えない「自民党ぐずぐずクラブ」である。 留守番電話 【’89.6.24 朝刊 1頁 (全860字)】  電話をかけると録音された言葉が聞こえてくる。いわゆる留守番電話だ。「残念ですが留守にしております。ピーと鳴ったらご用件をお話しください」▼機械に向かって話せと急に言われ、面くらって電話を切ってしまう人もいる。事務的に処理できる人はいいが、不慣れだとあまり愉快なものではない。だが、便利なためか、数年来おおいに普及している。若い人の間には、ピーの信号音のかわりに華麗な音楽を入れ、留守の説明も面白くして気分をほぐすものもいる▼ある独身の女性に電話をしたら「○○企画です。ただいま社員全員が出払っており……」。笑いを誘われた。実は会社でなく自宅、ひとり暮らしである。それを「社員全員」とは。いたずら電話への対抗策でもあるらしい。いたずら電話が象徴するように、電話は本来、突然ひとの生活にはいり、ベルで呼びつけるという無礼な要素を持っている▼暴力的とは言わぬまでも、そういう押しの強さを行使するのは電話をかける方だった。留守番電話の出現で立場が逆転した。かける方はおそるおそる機械に話し、受けた側が主導権をとれるのだ。きわめて便利な留守番電話だが、妙なことも起こる。AがBに電話する。留守なので用件を吹き込む。後刻、BがAに電話するが留守。で、答えを吹き込む。後刻、再びAが……▼肉声で話し合えない時代、か。自分が外にいて、自宅の留守番電話にはいった人の声を、自宅に電話して聞き出せる装置もある。時間のずれを克服したのが留守番電話だ。空間を移動中の意思疎通を可能にした工夫も多い。「伝言ダイヤル」もそのひとつ。もっとも「いまヒマしてます」などと若い人が遊び相手を探すのにも利用しているらしい▼全国の電話加入数は5000万本を超え、4年前に通信事業が自由化されてから各種の通信サービスは花ざかり。もっと便利に、と日本への参入を求める米国と、自動車電話をめぐる微妙な交渉が続いている。 美空ひばり逝く 【’89.6.25 朝刊 1頁 写図有 (全858字)】  終戦の翌年、美空ひばりはまだ9歳で無名の少女だった。NHKの素人のど自慢に出て得意の歌を歌う。ところが鐘が鳴らぬ。「子どもが大人の歌を歌っても審査の対象にはなり得ない」と言われた▼その後、ある詩人が新聞に「ゲテモノ」非難の文を書いた。ものまねのような子どもの歌との批判だ。ひばりの家族は激怒し、その記事を切り抜いて成田山のお守りに入れる。苦しい時に思い出し、戦う気を起こそう。後にその詩人が、ひばりの歌う歌を作詞した。「これで私たちは勝ったと(母は)思った」(『ひばり自伝』)。切り抜きはぼろぼろになっても持っていた▼ひばりは満3歳の時に百人一首の92首を暗記していたという。耳から覚える才能だ。歌い、語る原型はそこにあったかも知れない。浪花節、民謡、演歌など日本の伝統的な節まわしを下敷きにして、時に野太い、時に繊細な声が、人の心にしみこむ言葉と旋律をうたった。「歌の豊かな表情は天分」と作曲家の古関裕而さんは早く見抜いていた▼彼女の歌をなつかしむ人は自分が生きた時代をもなつかしんでいる。「右のポッケにゃ夢がある/左のポッケにゃチューインガム」の「東京キッド」は復興の時代だった。農村から人々が都市に流入したころの「リンゴ追分」。根性で高度成長を支えた時期の「柔」▼「作品を書いた我々が想像できない味と解釈で歌をつくってしまう」と作詞家の石本美由起さん。そのかげには精進があった。一番嫌いなのは「器用」といわれること、と言っていた。「努力しないで出来るわけないでしょ」。さまざまな困難に出合いながら、戦う気をふるい起こし、努力する姿が、時代の精神および人々の姿勢に重なり合ったのだろう▼歌い手以外の何かになりたいと思ったことはあるか。自問して、うそでも何か言ってみたいがうまくゆかぬ。「そんな時ちょっとさびしいなあ」と感じたそうだ。ひたむきに歌う人生、52年だった。 朝日新聞記者だった北村幸雄さん、写真展開く 【’89.6.26 朝刊 1頁 (全839字)】  「キタさん」こと北村幸雄さんが写真展を開いたのには驚いた。からきし下手ではないにしても、カメラの腕はマアマア程度のはずだから。展示写真が400枚と聞いて、多さにまた驚いた▼仲間うちの話で恐縮だが、彼はこの春62歳で退くまで、朝日新聞の記者だった。ずっと地方勤務を続け、最後の10年は神奈川県の平塚市と中郡(大磯、二宮町)の取材を担当した。飄々とした筆遣いで街のさりげない話題を地方版(湘南版)の記事にしてきた▼記事に添える写真は、以前は東海道線の電車に託して、近年は電送機で本社に送り印刷される。退職して、10年間に送った膨大な写真を整理した。何枚かを写っている人にあげたら、「なんと懐かしい」と喜ばれた。恥ずかしながらいっそまとめて展示して、地域の人に楽しんでもらおうと思い立つ▼担当した1市2町の役所や他社の記者が後押ししてくれ、平塚の中央公民館を会場とした。昭和54年にはじまる400枚の写真には、小学校の親子モチつき大会あり、梅林から出土した縄文土器あり、カマスの水揚げ風景がある。句集を自費出版したおばあさんがおり、技能功労者の表彰を受けた釣り名人のおじいさんがいる▼完成した橋の3代の夫婦の渡り初め。農家の庭に出現した大キノコ。平凡といえば平凡だ。でも、見ているとなにか温かい気持ちになる。新聞の小さな写真と違って、展示用に引き伸ばすと一人ひとりの顔がはっきり見える。そしてキタさんは、全員とまではいかなくても、写っている人の名前がかなり分かる▼土地に伝わる相模人形芝居の写真もある。義太夫の語り手の後継者がいない、との記事を書いた時のものだ。ところが、その後も出てこない。ならば、と彼はみずから後継者になってしまった。7月2日までの写真展が終わると、すぐ郷土芸能大会。座付き太夫「幸松」ことキタさんがうなるはずである。 自民党、天気図読んで 【’89.6.27 朝刊 1頁 (全862字)】  どういう気圧配置のゆえか、新潟地方に嵐(あらし)が吹き荒れた。保守王国といわれるところでの社会党の圧勝。大渕絹子さんが参院補欠選挙で自民党の候補を打ち負かした▼「今回の嵐は遅かれ早かれやって来るものだった」と言ったのは中国の〓小平軍事委主席である。もっとも、この嵐は中国での最近の出来事をさす。続けて彼は「国際的な大気候と中国自身の小気候によって決定」された嵐だ、と表現した。おそらく、国外では陰謀、国内では反革命分子がうごめいた、と言いたいのだろう▼全く別の見方をすれば、独裁色が薄まりつつあるのが社会主義諸国の大気候ではないか、とも言える。また、経済や情報の面での改革や開放を進めれば、政治意識でも民主的改革への要求が高まるのが当然で、そうなりつつあるのが中国の国内の小気候、と言うこともできる。中国の天気図をそう読む人は多いのではないか▼日本の天気図はどうだろう。新潟の嵐には、おそらく、いまの日本をおおう小気候が表れている。天気図には、消費税、政治改革、農産物の自由化、女性の意識、などの符号が書き込まれている。それらをつなぐ等圧線は、政権党への不信である。まず、うその公約に始まり、審議不十分で通した、という消費税への不満▼リクルート事件が示し続けた無責任さへの批判の風。これは自民党の計測より強かった。新潟での敗北に党県連会長が「何をしてもだめ」だったと嘆いた。「相手は無名のおばさんだったのに」。いや、無名のおばさんなればこそ勝った。手あかのついた既成の政治への不信申し立てだ▼大気候の方は何年も前から国際天気図に相互依存、自由貿易などの符号が書き込まれている。それに備えて、自由化に生き残るための体質改善や、規制の撤廃、緩和の必要などを国内で説き、進めてきただろうか。農業の分野で必要な政策上の対応を早くから説いただろうか。天気図の読みが甘かったとしか思えない。 原子力事故に正確な情報を早く、と望む 【’89.6.28 朝刊 1頁 (全860字)】  白夜のバレンツ海(北極圏)で、ソ連の豪華客船が氷山に衝突したのはつい先週のことだ。事故の4、5時間後にはSOSを受けたノルウェーの救助船が現場に到着、600人を超える乗客を助け出した▼それから1週間もたたぬうちに再びノルウェー沖で事故、というのだから忙しい。しかも今度はソ連北洋艦隊所属の原子力潜水艦だ。ノルウェー軍は救助船やヘリコプターを派遣したが「助けはいらない」とソ連側。実は同じ海域でソ連の原潜が4月にも火災を起こして沈没している▼「その時も先週もソ連からの情報は遅かった。今回も事故発生から8時間、何の連絡もない」とノルウェー外相は不満をあらわにした。放射能汚染のさいの対策がとれるよう早く情報がほしい、というのだ。ソ連の科学者サハロフ博士によると「潜水艦事故はこれまでにもしばしば起こったが、最近まで明らかにされなかっただけ」というから怖い▼チェルノブイリの事故で放射能の影響を体験した北欧では、原子力事故への人々の反応はきわめて敏感だ。正確な情報を早く、と望む。話は日本のことになるが、原子力発電所で起きる事故や故障の危険度を九段階で表す、と政府がきめた。0から8まで、地震の震度のようだ。尺度が社会的な不安をとり除く一助になるように、と通産省・資源エネルギー庁▼だが反原発団体などは「重大な事故も軽微との印象を与えようとするもの。事故内容の詳しい公表が先決」と批判的だ。同じ数字でも震度とは事情が異なる。震度はだれもが体で感じている。事故の中身は当事者にしかわからない。それに軽い地震の頻発はエネルギーをしだいに解放して減らす。事故は違う▼スリーマイル島の時のように、何度か起きた後、大きい事故となり得る。小さな数字なら軽い、と思うのは危ないことなのだ。いっそ、数字を毎回加算し、一定の基準で運転免許を停止、取り消し、という、あの交通規則の方式はどうだろう。 6月のことば抄録 【’89.6.29 朝刊 1頁 (全843字)】  6月のことば抄録▼3日の初閣議の後「改革前進内閣と性格づけた。政府はスリムに、しかしながら国民は豊かに、が目標だ」と宇野宗佑首相▼参院本会議で女性問題を問われ「こうした種類の報道について公の場でお答えするのは差し控えさせていただきたい」と首相。別の日の追及に「人倫にもとることはない。女性を軽べつしたり侮べつしたことはない。ましてや男女同権の今日、常に崇拝してきている」▼25日の新潟県参院補欠選挙で社会党の大渕絹子さん圧勝。「新聞を読んで『ああ、すごいことだったんだな』と改めて実感しました」▼27日夜、進退に触れる発言をした、との報道に翌朝の首相「ぼくはそんな無責任な男やないで。そやろ。サミットもあるし政治改革もせなあかん。なんでそんなこと言うんや」▼金丸信元副総理の派閥論。「人間が3人いれば派閥ができるのだ。(解消は)とんでもない話だ。派閥解消を言うなら派閥を出てから言ってほしい」▼中国が激動。学生運動指導者の1人、柴玲さんの手記に「民主と科学だけが国を救うことができる。もし国家がこの混乱を解決できれば、中国は再び青春を取り戻せる」。〓小平氏は、「4つの基本原則(社会主義の道、共産党の指導、人民民主独裁、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持し、改革と開放を執行することはすべて正しかった。断固、変わることなく貫徹」と演説▼中国政府による取り締まり強化は「中国の国内問題であるとしても、民主主義国家であるわが国の基本的価値観とは相いれないもの」と就任あいさつで三塚博外相▼「日本人の子育てを見ていると、学校もお母さんたちも、どうも、子どもにかまいすぎる感じ」とフィンランド観光局勤務の荻原レーナさん▼「人を好きになれる間はぼけないっていいます。……性を滋養というふうに考えたい」と、老人の性の問題について作家の林郁さん。 世界の子どもの俳句 【’89.6.30 朝刊 1頁 (全859字)】  世界のこども俳句館、と銘打った絵本『ハイク・ブック』を読んだ。「ぬぎすてたパジャマの形ほがらかに」(能代市・中1・山内亮太)などという句があり、おおらかな気分になる▼米国やカナダ、オーストラリアなどの子どもの俳句も並ぶ。英語で、訳文つきだ。音節の数が5.7・5の3行詩。訳は句の形になってはいない。面白いのがある。「人のいい雪ダルマは/気分よく日向ぼっこしている/しまったと思いながら」(カナダ・小6・スーザン・ハイアン)▼「夏の山私もななめ木もななめ」(東京都・小6・遠藤寛子)「子どもたちの俳句は痩せていない。気取っていない」と言うのは、のびのびした絵をたくさん添えている五味太郎さんだ。「小粒のしたたりが/ほっぺたをさっと流れ下りる/よく熟れた汁の多い桃」(オーストラリア・小6・キャロライン・マナーズ)▼みずみずしい句が多い。日本学生俳句協会が全国から集め、日本航空が各国で催したコンテストで集めた、総計何万句もの中から200句足らずを選んで編んだ句集である。日本の子の句には英語の訳文があり、英語か日本語がわかる人なら楽しめる。こういう絵本が国際交流の場になることはすばらしい▼「いのる間も背に来てとまる赤とんぼ」(会津若松市・小4・芳賀広幸)「小さいつめ/山賊の黒いマスク/アライグマが現れる」(米国・12歳・エイミイ・ウォーナー)「ごめんねと雨の伝言秋の駅」(野田市・小6・横張美智代)「みごとな木立/誇り高く真っすぐに立っている/子ぎつねが走りすぎる」(カナダ・小7・ローラ・ゴアーツ)▼身のまわりの動物や植物が登場し、自然を吟じたものが多い。自然が消えてゆくさまを扱った句もある。期せずして環境という現代の大問題を各国の子どもが見すえた形だ。「もっと多くの国にひろげたい。子どもの俳句は世界と未来を考えさせます」と編集した日本航空の柴生田俊一さんは言う。 冷蔵庫の時代 【’89.7.1 朝刊 1頁 (全851字)】  暑くなった。冷蔵庫に何か冷たいものが、とすぐ考える人が多いだろう。便利至極。昔はこうはいかなかった。だが工夫もしたのである▼昨秋だったか、奈良時代の宰相、長屋王の屋敷跡から多くの木簡が出た。それによって、氷室の構造や、氷の運搬作業などについて詳しい事実がわかった。冬の氷を蓄え夏に駄馬の背に乗せて運ぶ。酒を冷やしもしたろう。快さを求めての知恵だが、高くついたに違いない▼氷室の氷に酒や果汁、蜜などを混ぜればアイスクリームの祖先ができ上がる道理だ。いわゆる氷菓は、古代から東西にその記録があるらしい。人造氷が登場するのは、日本では明治の中ごろのこと。明治30年代にはじめて生魚の輸送に氷が使われ、人々を驚かした▼戦前は、何かを冷やそうと思えば井戸水を利用した。冷蔵庫ときいて思い出すのは、木製の箱に氷塊を入れたしろもの。電気冷蔵庫の国産第1号が出現したのは1930年だという。720円だった。東京の家賃12円のころだ▼いまや1家庭あたりの保有台数は1.17台。1家庭あたり1台になったのが1973年である。生産台数でも米ソについで世界第3位、という冷蔵庫大国だ。日本電機工業会によると、食生活の変化に応じて冷蔵庫も変化、近ごろでは大型化、ドアが多くなったこと、温度帯の細分化、などが特色だという▼かつて家族4人が100リットルの冷蔵庫を使っていた。食品の種類がふえたせいか、いまは400リットル以上も使われる大型化時代。温度帯もきめこまかになった。冷凍(零下18度)、冷蔵(3―4度)、野菜(5―7度)の3段階だったところへ、新たに0―零下3度の「新温度帯」が加わった▼鮮度とうまさを保つため、温度別に保存する。けっこうなご時世ではあるが、これからの季節、氷の時代の細心さも忘れぬようにしたい。入れっぱなしで安心し「食品腐らせ箱」にしている家庭もあるようだ。 地元の言葉で 【’89.7.2 朝刊 1頁 (全845字)】  ビルマが国名の英語表記をミャンマーに改めた。日本政府も、ほどなく呼び方をかえるという。あの国の人々は前からミャンマーと言うそうだ。「ビルマとはおれのことかとミャンマー言い」だったわけだ▼約50もの民族の1つ、人口の7割を占めるのがビルマ族。ビルマというと、それだけを指すと誤解される。国全体ならミャンマーと呼んでもらいたい、ということらしい。地元で昔から呼びならわした名、あるいは地元の言語による名を使いたいという機運は、とくに植民地経験をもつ地域でこの2、30年、強まっている▼セイロンは古名スリランカに改称した。フランス語の名だったオートボルタは地元の言葉に改めてブルキナファソ。ダオメーはベニンとなった。英国人ローズの名からローデシアと呼ばれた地域があったが、その一部、旧南ローデシアはいまジンバブエ。英国人といえばエベレストもかつてインド測量局長だった人だ▼その名を冠した山は、いま、中国側から登るならチベット名のチョモランマ、ネパール側からならサガルマタ、と地元の名で呼ばれる。米国アラスカ州のマッキンリー山も大統領の名だったのを、近ごろはインディアンの言葉でデナリ山と言うようになった。世界的に、改名は地元の歴史に根ざした自己主張といえる▼名前からの連想で、話が飛ぶ。日本人は国内では、姓・名の順で生活しているが、いつのころからか、外国の人の前では名・姓の順で名乗る。考えてみれば妙なことだ。日本では姓が名の前に来るということを広く知ってもらい、固有の名乗り方を通す方が、日本をありのままに理解させることになるだろう▼ローマ字の表記で、中国の人は、恩来・周とは書かないし、韓国の人も泰愚・盧という順にしない。考えさせられる。最近、フランス人の新聞記者が日本について書いた本では、習慣を説明した上で日本人の名を姓・名の順で書いていた。 ジャガイモの歴史 【’89.7.3 朝刊 1頁 (全853字)】  「馬鈴薯(ばれいしょ)の花咲く頃(ころ)となれりけり君もこの花を好きたまふらむ」とうたったのは、石川啄木だった。白い花が、見渡すかぎりの斜面を埋めつくす。アスパラガスの緑の野と並んで、北海道ならではの雄大な景色だ▼さまざまな形で料理され、地上の広い地域で食べられているジャガイモ。日本では生産量の4割をデンプン採取に使う。栄養分が豊富なため、戦時中や戦後には家庭でも栽培した。このナス科の植物、歴史的にみると、さながら世界の旅人の観がある▼そもそもの故郷は南米だ。アンデス山岳地帯あたりらしい。15世紀末にコロンブスがいわゆる新大陸に来る。16世紀になって、ジャガイモはメキシコからスペインへ、そして次々に欧州各国へと及んだ。プロイセン(ドイツ)ではフリードリヒ1世が栽培を義務づけ、2世が栽培を強制した▼ドイツを飢えから解放、19世紀の発展の基礎を作ったのはジャガイモだった、と言えそうだ。フランスも、ジャガイモの普及をはかった。薬学者パルマンチエの知恵で、これは「国王の作物」だと言いひろめ、昼間は王の親衛隊が畑を監視し、夜は引き揚げてわざと盗ませた。ルイ16世は夜会に出る王妃の胸にジャガイモの花をつけさせた▼日本への渡来は慶長年間、関ケ原の合戦のころだ。欧州でと同様、凶作に備えての救荒作物となった。お助けイモ、とか、代官への感謝の気持ちから清太夫イモ、などの名で呼んだ地域もある。ジャワのジャカトラ港からオランダ船で平戸へ運ばれたところから、ジャガタライモ、やがてジャガイモとなったらしい▼ジャガイモと聞いて、戦争、代用食、開拓などを連想するのは50歳以上だろう。来歴にとんちゃくせず、子どもや若者は「ポテト」に親しんでいる。梅雨が明けると、ビールとジャガイモが文句なしに合う季節。啄木にもう1首あった。「馬鈴薯のうす紫の花に降る雨を思へり都の雨に」 不平十ケ条 【’89.7.4 朝刊 1頁 (全856字)】  正岡子規の『墨汁一滴』に「不平十ケ条」というのがあった。死ぬ前年の文章で、のっけに「一、元老の死にさうで死なぬ不平」が出てくる。なるほど明治も34年というと、そんな感情もあったのかと思わされる▼次に「一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平」。どうも物騒な不平である。説明はなくて、見出しのような十ケ条が無愛想に並ぶ。こんな文章を思い出したのも、東京都議会議員選挙の結果を見てのことだ。自民党は惨敗した。20議席も減った。ひとことでいうと、これは都民の不平の表現ではないか▼都議会の半数を占めていた自民党が今や3分の1の43議席。一方、社会党は推薦を含めると36議席で、3倍にふえた。自民党との得票率の差はわずか1%だという。子規の不平の中に「一、野道の真直について居らぬ不平」という、とぼけた一条があった。都民は、自民党の政道も真っ直ぐではないと感じたのだろう▼リクルート事件とその対応への不平、不満が、ここまで大きいと自民党は思わなかったのではないか。都政そのものより国の政治全般についての人々の反応が現れた。子規は経済問題で「一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平」をひとつあげていた。消費税についての不満も大きかったと考えられる▼「消去法的投票」が多かった、と分析しているのは政治学者の杣正夫さんだ。この人はだめ、と消していって残った人に投票した結果が自民党の衰退につながった、と見る。逆にいえば、社会党への投票がすべて積極的支持というわけでもないだろう。社会党を支持する女流王将の林葉直子さんも「将棋でいえば中盤に相手のミスで盛り返した」ところ、と読む▼いまだ真の王手にあらず。社会党も真剣に取り組まねばなるまい。「一、郵便の消印が読めぬ不平」とも子規は書いた。「誠実さの印が読めぬ不平」に自民党は負けた。消去法よりも、積極的支持による政治の方が望ましいのだが。 参院選公示 【’89.7.5 朝刊 1頁 (全859字)】  「田の草とり」と政治家がいえば選挙区で支持者の間を回ることだ。得票の多い土地を「票田」と呼び、票を求めて争う地域は「草刈り場」などという。派閥の親分が資金を配る時には「もち代」。なぜか政治には農業からの言葉が多い▼生産者米価が据え置きときまった。引き下げるとの答申だったのを、きょう公示の参議院議員選挙をひかえて自民党が政治加算を求めた。高く買い上げて、年来の票田、農村のきげんをとりたいのだろう。だが「農家の生産力向上のためによくない」と経済界は批判の声をあげている▼当の農村にも、露骨な政治的演出、と索然たる表情が見られるという。来年の大幅引き下げは目に見えている。場当たりでない農業政策を求める思いの方が強いに違いない。据え置きの決定に、あらためて、こうした自民党の手法はいつまで有効かと考える。日本の政治は長い間、地元の面倒をみる政治だった▼政治学者の京極純一氏によると、面倒をみる政治になったのは大正にはいってからで、戦後は昭和30年代になって御利益を分配する政治が軌道に乗ったという。このところの新潟県参院補欠選挙や都議選を見ると、しかし、有権者の関心にはかなりの変化が感じられる。利益だけでなく、理念や政策などの比重が高まった▼リクルート事件や消費税、農業政策などが人々の意識を高めたことはまちがいない。それだけでなく、情報の多い時代、人々は内外の情勢に通じ、いまの政治状況を冷静に見直している。ひとりひとりが、さまざまな問題について独自の判断をくだし、それを投票によって政治に反映させる。問題別に人々の離合集散が起こる。あらゆる問題でひとつの党を支持する、とはならぬ▼政治家にとってはむずかしくなった。有権者がそれぞれ独立した「ひと粒」時代だ。粒のない1枚のもちのような票田として横たわっている保証はない。政策と説得力によって多くの粒を集める力が試される。 自民党の候補者名簿 【’89.7.6 朝刊 1頁 (全855字)】  第15回参議院通常選挙が公示され、選挙運動が始まった。読んでなかなか味わい深いと思ったのが、各党、とくに自民党の比例区候補者名簿である▼こんどの参院選では126の改選議席が争われる。そのうち、選挙区は76議席、比例区が50議席だ。かつて全国区というのがあったが、比例区の方式を採用して今回は3度目。有権者は投票用紙に候補者の名ではなく政党の名を書く。当選者の数は各党の得票総数に応じて配分。その人数だけ名簿の上の方から当選者がきまることになる▼つまり名簿ができた時に上位候補は当選圏内ときまったようなもの。候補たちが、上位に入りたいと必死の表情を見せ、下位に置かれて辞退した、というのもうなずける。すでに選挙結果が公示前夜に見えた形だからだ。名簿で興味深いことがもうひとつ。選んでもらいたい名前の並べ方で、外からどう見てもらいたいと党が思っているかがわかる▼自民党の名簿の首位に女性が来た。前回は23位に置かれ、22位までしか当選しなかったため涙をのんだ人だ。自民党は女性を前々回は15、16位に、前回は14、15位に置いていた。今回は女性の力を意識せざるを得なかったということか。ちなみに女性は野党の名簿では前回も前々回も1、2、3位などに顔を出していた▼そして自民党の第2位は、福祉の問題を訴えてきた人である。消費税批判が強く、いわゆる逆進性は福祉に反すると言われている。ここはどうしても、福祉を重視している、と意思表示したかったのだろう。女性と福祉を掲げたあとは、みごとに派閥に配分、という名簿だ▼街頭遊説を遠慮した宇野首相は党本部前の出陣式で演説、「いっときの感情で投票を誤らないでほしい」と絶叫した。広く根深い政治不信を「いっときの感情」と認識してもらっては困る。女性と福祉を重視する自民党の名簿こそ「いっときの感情」からの産物ではないようにと願いたい。 SIQを磨こう 【’89.7.7 朝刊 1頁 (全859字)】  人と話す時は相手の目を見る方がよい。さりとて、いつまでも見つめ続けたら気味が悪い。視線の合わせ方ひとつにも、内面が、また対人関係が現れる▼ゆったりした姿勢には、開かれた柔軟な心が見てとれる。こちこちの直立不動の姿勢は緊張や不安を示すことが多い。腕組みは、時として自分を防御したい気持ちの現れだ。こういう無意識の身ぶりが、言葉以上に雄弁に心のうちを語ることがある。その解読に上達するに越したことはない▼というので、米国では「SIQ」を高めよう、と言ったりする。知能指数(IQ)に社会的のSをかぶせてSIQ。人の内面を的確に解釈する能力、とでもいおうか。そんな関心を持ちながら、街頭で人の出会いを眺めたり、公衆電話をかけている人の身体の表情を観察すると面白い▼いま興味深いのは参院選候補のポスターだ。30年前なら、全員、正面をにらみ、謹厳実直の極だった。いつのころからか笑い始めた。いま、笑みをたたえていない顔はない。それも歯を見せて笑う。目は必ずしもカメラを見ない。にじのかなたに投げた視線。いろいろと工夫している▼小道具といっては失礼だが、自分の主張や雰囲気を如実にあらわす「もの」をうまく登場させた例もある。背広でなく、スポーツ用のシャツ。女性候補が手にしている1本の鉛筆。自分の子どもをおんぶした若い父親もいる。子どもと同じように意外な効果を持つ、牛の援軍も登場▼さまざまな工夫に、努力や熱意が感じられて楽しい。あらゆる心理学的な武器を盛り込めるはずのポスターなのに、掲示板には空白が多く、出さない候補が多いのはもったいない。同じ場所を利用しさえすれば何回張り替えてもよいらしい。写真をいっさいやめて政見を語る字ばかり、というのもある。これも個性的だ▼ポスターやテレビの政見放送を見聞きする側はおのれの「SIQ」とやらを磨く好機でもある。投票の日まで存分に人物研究を。 ホオズキ 自然とのつきあい 【’89.7.8 朝刊 1頁 (全883字)】  「うら若き妻ほゝづきをならしけり」(日野草城)▼ある年齢から上の人なら、子ども時代にホオズキの実の中を空にし、口に含んだことがあるだろう。うまく鳴るとは限らない。上下のくちびる、歯、そして舌を使い位置を固定する。実にあいた穴のへりを微妙な角度で下くちびるに当て、きゅっと押して鳴らす。遊びとしては単純この上ないが、それでいて飽きない▼「鬼灯(ほおずき)は暮れてなほ朱のたしかなり」(及川貞)。真っ赤に熟した実でないと鳴らせない。青いうちは中身を取り出すのがむずかしいからだ。熟れた実は同じく真っ赤ながく片^に包まれている。がく片を1枚ずつ上からむいて裏返し、束ねて持つ。露出した赤い実をゆっくりもむ▼せいては事を仕損ずる。すべてはゆっくり、だ。はやる心をおさえながら、ひたすら指先でもむ。しだいに中身がほぐれ、種子が動くのが感じられる。まだまだ。完全に中身が皮から離れ、塊ではなくなったら初めて芯をとる。汁や種を出し、芯をゆっくり引き抜く。急いで、袋の口がさけたら万事休すだ▼遊びたい一心からの細心の注意、忍耐の経験。指の感覚、手加減の訓練。こうした体験は子どもにとって無駄ではあるまい。そして自然とのつきあい。10年前のある調査で、大学生でニワトリの絵が描けなかったり4本足に描いたもの5%、イネとムギの穂が描けなかったり、また描きわけられぬもの65%だった▼「鬼灯市夕風のたつところかな」(岸田稚魚)。10日は東京・浅草観音の結縁日(けちえんにち)で、あすから境内で「ほおずき市」が立つ。夏の風物詩である。10日を4万6000日というのは、この日に参ると、4万6000日参ったのと同じ功徳があるからだそうな。ホオズキは、漢方にも用いられている▼「夫婦らし酸漿市(ほおずきいち)の漿市の戻りらし」(高浜虚子)。この時期、やがて梅雨明けなのだが、毎年、晴れるとは限らない。「また少しこぼれて鬼灯市の雨」(村沢夏風) たゆまず歩き続けて 荒垣秀雄さん死去 【’89.7.9 朝刊 1頁 (全872字)】  荒垣秀雄少年は飛騨の高山の中学生だった。大正のはじめのことだ。奈良、京都へ修学旅行に行く。汽車もバスもない。高山から毎日40キロずつ飛騨街道を歩く。途中で3泊、4日目に岐阜に着き、汽車に乗る。帰りも同様だ。古都に3日間。全行程10日のうち7日はわらじで山の中を歩いた▼「土着性、量産性の泥くさい文章」と自らを形容したことがある。大自然の中、目も、耳も、鼻孔も全開。土を踏みしめ、毎日たゆまず歩く。少年のころに鍛え蓄えた底力が、新聞記者になってからの荒垣さんの仕事をも支えたに違いない。この欄を17年あまり毎日ひとりで書き続けた▼自然や季節の移り変わりについて「10日に1度は書いた」。好きだったためもあるが「心ひそかに1つの悲願もあった」。それは敗戦後の日本が「国破れて山河在り」でなく「山河も破れた」状況になり、自然の荒廃が人の心も荒廃させる、と思われたからだ▼まず、「美(うま)し国」に復興させる、そうして初めて祖国への愛情が地下水のようによみがえるはず、と考えたという。いまでこそ、自然保護はだれでも口にする言葉となった。荒垣さんのこの分野での発言は早く、熱心だった。大きな木に寄り、耳を幹につけ、荒垣さんは木の鼓動を聴こうとする。盆栽とも話をかわす▼としを聞くと「明治維新は若い時に見ましたけどね」と答える、などと言っていた。ゆとり、あそびの心も大自然との語らいでつちかわれたものだろう。「九九斎」の印を手紙に押して、もう99歳かと人を驚かせたりしていた。「いや、これは掛け算。81になった」などとかつぐ▼先日のたよりには「蜂五斎」の印。蜜蜂(みつばち)が好きで3万匹も飼ったことがある。蜂蜜を愛用、蜂の名をとったのは長生きのお礼だった。84歳になった時、日数に計算した。3万日とちょっと、だった。「長生きしたように思ったが、それっぽっちか」と嘆いた。少年は、歩き続けたかっただろう。 東高西低の納豆 【’89.7.10 朝刊 1頁 (全845字)】  納豆は、あの粘りがいい。わらづとから器に移す時に、もう糸をひいている。箸でよくかき混ぜる。さらに粘りが出る。刻んだねぎ、よく溶いた黄色いからし。しょうゆの味、におい。「納豆にあたたかき飯を運びけり」(村上鬼城)▼俳句の季語としては冬のものである。山形県の納豆汁も同様で「板の間に敷く座布団や納豆汁」(草間時彦)。それでは、なぜ夏に納豆の話を書くのか。実はきょうが「納豆の日」だからである。7・10を納豆と読ませただけらしいが、この日を「納豆の日」と唱えたのが関西納豆工業協同組合だ、というのが面白い▼よく言われることだが、関東にくらべて関西の人は納豆を食べない。京都、滋賀は食べる方だが、それでも毎日のように食べるわけではない。「関西でももっと食べてもらいたい。それに消費が落ちる夏場の対策として」この日をつくった、と組合の森口繁慶理事長。粒が大きく、味はあっさり、粘りとにおいの少ないのが関西納豆の特色だという▼考えてみれば高温多湿の日本だ。発酵に最適の条件がそろう。微生物にとっては天国といえる。昔から発酵を利用した食物は多かった。酒、酢、みそ、しょうゆ、漬物、塩辛……。納豆もそのひとつだ。昔の人はえらい。発酵も腐敗も同じようなものだが、経験を生かしてうまい物に工夫した▼発酵させると、素材のままより保存がきき風味がよくなる。栄養価も増す。関西でも大徳寺納豆のように納豆づくりの歴史は古いのに、なぜ食べなくなってしまったのだろう。もっとも事態は変わりつつあるらしい。東京に赴任し、味を覚えて帰った人や、関東からの転勤者たちが、納豆を求めはじめた▼商戦も激しくなっている。統計によると、納豆のための支出の伸びは昨年の首位が近畿、沖縄、九州など西日本で、前年の2割以上。支出額はまだ関東の3分の1程度だ。さて、東高西低の納豆、どこまで粘るか。 訴訟社会・米国と日本の違い 【’89.7.11 朝刊 1頁 (全854字)】  ノリがしけると電子レンジで乾燥させるのは主婦の知恵だ。雨にぬれた犬を同じようにして乾かそうとした人がいた。そして愛犬が死んでしまったのはレンジメーカーの責任、と訴えた。注意表示がなかったのは手落ちだという主張である▼これは米国の訴訟社会ぶりを物語る話として、知られている。さすがにこの提訴は退けられた。しかし、メーカーが消費者の身になって配慮しなければならない責任の重さについて、米国の社会がどれほど厳しく考えているか、かいま見ることはできると思う。法律的にその考えを支えているのが、製造物責任といわれる制度だ▼日本で最近、洗濯機に「脱水槽のふたを開けて15秒で止まらない時は使用を中止し、修理してください」と表示されるようになった。高速で回っている脱水槽のタオルに手を巻き込まれ、都内の主婦が右手中指を無くした。ブレーキがさびついて利かなかったのだが、その犠牲があって初めてこの表示が実現した▼浴室を掃除するため2つの洗剤を混ぜて使ったら、有毒ガスが発生して主婦が死亡した。中毒症状の被害例もたくさんあった。だが、この春に「まぜるな危険」と大書した警告ラベルを洗剤業界がはり始めたのは、長野と徳島で2人の主婦が命を失ってからである▼現代の消費者はある面で無力な王様だ。高度な生産技術、複雑な流通過程から生み出されてくる製品について、個人の力で企業の過失責任を立証するのはきわめて難しい。米国流の製造物責任の考えなら、消費者は警告ラベルが欠けていることで「欠陥商品」として賠償金を求めることもできる。それが事故の抑止効果も生む▼犬の例のような行き過ぎにはあちらでも批判はある。それにしても、賠償のコストが軽くてすむ日本企業とは公平な競争はできない、と欧米各国から新たな国際摩擦の火の粉が飛んでくる気配だ。あの主婦の中指には、見舞金が10万円支払われただけである。 ウサギは泣いている 【’89.7.12 朝刊 1頁 (全858字)】  ぼくはウサギです。ぼくたちの世界を、いま悲しい知らせが通り抜けました。神奈川県厚木市の小学校で飼われていた仲間11匹が、少年3人に惨殺されたというのです▼足をしばってプールに投げ込んだり、水を張ったバケツに突っ込んだりしたそうです。苦しかったことでしょう。先月、鹿児島県根占町の小学校では、やはり飼われていた子ウサギ6匹がひどい目にあいました。教頭さんが「えさが足りないから」と生き埋めにしたのだそうです。いま全国で、目を真っ赤にして仲間が追悼の会を開いています▼といっても、とくに今だけが受難の時だというわけではありません。ついこの間も福岡県遠賀町の小学校で仲間26匹が皆殺しにあいました。去年、埼玉県坂戸市の幼稚園で起きた事件では、仲間4匹が無残な最期をとげました。地面にたたきつけられたり、ひもで首をしめられたり。みんな人間のいたずららしいのです▼そうでなくとも今は大変な時期で、住みにくくなってます。イタリアの仲間は、チェルノブイリの事故で汚染された草を食べたというので何万匹も処分されました。日本でも農薬にはよほど気をつけないと、とぼくたち注意しています。むろん、いちばん危険なのは人間です。ぼくたちを食べる人もいるし残酷な人も多い。それは十分に承知しています▼人間同士で惨殺するのですものね。綱引きのように首をしめた名古屋の「アベック殺人事件」など、ぼくたちも判決に耳を立てました。死刑でした。残酷なビデオを見て「まねしたかった」と厚木の少年は言っているそうです。フランスでは子どもに見せぬよう、暴力と性を扱ったテレビ番組を夜10時半まで禁止しました▼残酷さの原因は知りません。残酷でなく、友だちになってくれる人も多いので希望は捨てていません。もう少し、ぼくたちの世界への想像力と愛情を、と願うだけです。ご存じですか。ぼくたちには涙腺がない。涙もかれました。 高校生と運転 【’89.7.13 朝刊 1頁 (全859字)】  米国で少年時代を送った日本人青年の話。15歳になった時、親に見せるように、と学校で手紙を渡された。「16歳で運転免許がとれる年齢になります。希望するなら1年間、運転を教えます」という趣旨だ▼もちろん申し込んだ。楽しい1年だった。週に1度、専門の先生が来て放課後に校庭で存分に運転の練習をさせる。校庭が凍った冬の朝など、特別の練習があった。氷上でのブレーキの踏み方。あわてて強く踏むと車が回転してしまう。訓練の結果、うまく停止できる自信がつく。16歳の誕生日に免許証をもらった。うれしかった▼級友も、こうして免許を得たそうだ。日本ではいささか事情が違う。「3ない運動」という名で、免許をとらない、2輪車を持たない、運転しない、と3つの壁を立てる。全国の高校の約8割がこの方針だという。法律上は16歳で2輪車の免許がとれるのに、学校が卒業まで免許を預かったり、隠れて免許をとった生徒を処罰したり▼事故を未然に防ぎたい、というのが学校側の願いだろう。だが危険から遠ざけておけばよいというものでもない。学校の中には自前で講習会などを開き、安全指導を積極的に、と考えるところも出てきた。そこへ政府の交通対策本部が新しい方針を打ち出した。2輪車の事故防止のため、3ない運動を考え直すという▼東洋大学の企画室がこのほど全国の高校を対象に校訓を調査した。2字の熟語が7割で、その首位は「誠実」。4字熟語の首位は「質実剛健」。1字の校訓の首位は「愛」だ。興味深い。注目されるのは、校訓によく用いられる漢字の首位に「自」が来たことだ。自主、自律、自治などの形で使われる▼「自」の考えに、3ない運動はいかにもそぐわない。高校生のころから自己責任の考えを身につけることがだいじだろう。いまの交通状況の中での自己規律、他人への配慮。高校生と運転の問題は、市民社会への助走という観点から考え直したい。 凍結受精卵で妊娠、技術の進歩に複雑な思い 【’89.7.14 朝刊 1頁 (全857字)】  22世紀の社会を描いた科学空想小説が出た。冷凍状態の人間が登場する。21世紀はじめの女性である。南極で発見され、解凍されて、よみがえる……▼いろいろな技術が進むと、小説的な想像も現実となる。冷凍の技術も近年いちじるしく進んだ。人間の卵子をとり出して体外受精させ、いったん冷凍して保存しておく。解凍して子宮に戻したら、妊娠するだろうか。したのである。凍結受精卵で妊娠、というニュースには驚いた。もっとも5年前のオーストラリアでの出産以来、成功例は多く、技術的には珍しくないという▼とはいっても、常識をぴくんと震え上がらせるほどの珍しさはある。現実になったら大変と思えることも含め、さまざまな想像をしてしまう。母体から離れ、人の手で保存している受精卵。健康で安全だろうか。売られたりはしないだろうか。保存中に親が死んだら、あとで生まれる子の相続権はどうなるか▼実際に、保存中に両親が事故死した例があった。保存していたオーストラリアでは受精卵の「生まれる権利」を認めたが、両親が住んでいた米国では相続権を認めなかった。これも現実にあった話だが、ある女性が自分の娘とその夫の受精卵を受け入れ、娘に代わって出産した。これは子どもか孫か。ややこしい▼社会的な常識や法律が予想しなかった場面が起きる。日本産科婦人科学会は昨年、夫婦間以外には認めぬとの大原則をはじめ、規制をきめた。各大学も独自に、たとえば受精卵の保存期間は1年限り、離婚した場合は処分、などと厳しい基準を設けている。処分といっても、受精の瞬間が生命の誕生なら、倫理上の問題が生じる▼子どもがほしいが妊娠しない、という夫婦には朗報だろう。だが、技術の進歩に複雑な思いを抱く人が多いのも事実だ。いま研究中の技術は、1個の精子を確実に卵子に送り込む体外受精法だという。自然のままでなく「人の手」が働くことに疑問も出ている。 普遍的原理確認へ 人権宣言生んだ仏でサミット開幕 【’89.7.15 朝刊 1頁 (全860字)】  フランス革命記念日の14日、東京小石川ロータリークラブでの定例昼食会。会社を経営しているフランス人ピエール・ボードリさんは10年来の会員だ。せっかくの機会にぜひ一言、と会員に促され、では、と立った▼ボードリさんが高校生のころ。毎年1月21日になると生徒が3つの群れに分かれた。黒ネクタイをしめる一群。赤ネクタイの生徒たち。そしてそれ以外の人々。黒は、この日にギロチンで死んだルイ16世への弔意を示している。赤は、やはりこの日に死んだレーニンを悼むしるし。残りは「まあ、ノンポリでしょうか」▼この話は興味深い。共和制のフランスには、黒ネクタイの高校生だけでなく、いわゆる王党派の人々も依然存在する。革命の意義については、いまなお、さまざまな議論が続いている。とくに200周年にあたり、華々しい革命の賛歌だけでなく、流血や恐怖政治など陰の部分をも洗い直し、革命を見直そうとの動きが盛んだといわれる▼王の処刑にいたるほどの激しい動きは、当時の欧州の各地に大きな影響を与えた、ともボードリさんは話した。革命後につくった議会には、欧州各地からの「ガイジン代議士が30人もいました」。光も影もあっただろうが、革命が生み出した自由、平等、博愛の理念、そして人権宣言は、やはり地域や時代を超えるものだろう▼盛大な祝祭に世界の国々の代表が出席した。そして第15回主要先進国首脳会議(サミット)がはじまった。首脳たちの話し合いのあと、政治、経済の分野で、また人権について、宣言が出されるはずだ。人権をはじめとする普遍的な理念や価値が、あらためて確認される▼つくづく考える。いまや交通、通信が発達し、情報が国境を超えて自由に行き交う「狭い世界」だ。基本的、普遍的な原理を確認し合うことが、欠かせない。お家の事情、個別の価値観もそれぞれにあるだろう。それらをどう折り合わせるかが、外交の課題となる。 不評の大学入試「新テスト」 【’89.7.16 朝刊 1頁 (全839字)】  高校3年生、その父母、先生に文部省が大学入試制度について尋ねた。共通1次試験を受け継いで来年度からはじまる「新テスト」は概して不評で、「各大学は個別の試験をしてほしい」との意見が比較的多数を占めた。11年続いた共通テスト方式以前に戻せ、ということになる▼この結果を見て思い出すのは、旧制高校の入試の移り変わりである。明治34年までは旧制高校は各校単独に入試をしていたが、35年から共通試験総合選抜に変わった。たとえば第1志望の1高に不合格でも、第2志望の高校に合格することが可能になった(竹内洋氏『選抜社会』)▼ところが明治41年にまた単独選抜に戻った。さらに大正6年、ふたたび共通選抜に。首相をつとめた故池田勇人、佐藤栄作の両氏はこのとき、第2志望の5高に入学している。しかしこれも長くは続かず、大正8年になるとまたまた単独選抜が採用される。けれども変遷の旅はなお終わらない。大正15年、今度はまったく新しい入試制度が導入された▼当時あった25の高校を第1班と第2班にわけ、受験機会の複数化をはかった。ただし、この2班制も2年で廃止されてしまう。単独試験→批判→共通選抜→批判→単独、のパターン。昔も今も、完全な入試とはむずかしいものだ▼今度の文部省の調査結果は、細かく見ていくとなかなかおもしろい。同省が音頭をとる「新テスト」の支持者が多くなるように質問がこしらえられている、との批判があった。にもかかわらず期待ほどには支持がなかった。先生の中で校長、教頭といった管理職ほど役所の意に沿う回答を選んでいる点も、あれこれ考えさせられて興味深い▼しかし、もっとも考えさせられるのは、大学入試について高校生はどう思っているのかを問うた調査はこれが初めて、という点だ。これまでの入試改革論議は、一番の利害関係者の存在を忘れていたらしい。 「3」の威力 【’89.7.17 朝刊 1頁 (全839字)】  知り合いの大学生が、大学就職部主催の「企業面接試験対策講座」で、心得を伝授された。たとえば試験官が「わが社についてなにか質問があるかね」と聞く。あるいは「これこれに関して君の考えは?」と尋ねる。そのとき、まず「3つあります」と答えるのがコツだという▼なに、2つしかなくてもいい。第1に、2番目は、と答えながら3つ目を考えなさい、との話だったそうな。「経験的に、3つというのは相手に安定感と信頼感を与えるのです」と説明が添えられた。そういえば、もう亡くなった人だが、ある高名な社会学者もこの手法をよく使った▼講演や講義で彼はかならず「問題点は3つあります」と指を3本出してみせ、「1つは」と指を折って続けた。聴衆はうなずきつつ聴き入ったものだ。たしかに安定感と信頼感があった。社会学だけでなく、彼は心理学にも通じていたのかなと思う。3つというのがミソで、2つとか4つでは、落ち着きが悪い▼「居候三杯目にはそっと出し」。4杯目ではずうずうしいにもほどがある、という印象になる。「石の上にも三年」。2年だといかにも辛抱が足りない感じだ。3杯目であり3年だから、形になる。実際、3をからめた故事成語、ことわざ格言のたぐいは、枚挙にいとまない▼三度目の正直。仏の顔も三度。孟母三遷の教え。三顧の礼。世の中は三日見ぬ間に桜かな。商い三年。三つ子の魂百まで……。明智光秀だって、信長を倒してから秀吉に討たれるまでには10日余あったのに、語呂の関係からか「三日天下」になってしまった。こころみに大冊の「大漢和辞典」を繰ると、3の項は89ページを占め、他の数字を圧している▼昨今のことだ、連想は「3%」におよぶ。各種の調査によっても、参院選の最大の焦点は消費税である。「三思してのち行う」。意味は、何度もよく考えた上で実行する。投票日まで、あと6日。 芸術家で、事業家で、帝王だったカラヤン 【’89.7.18 朝刊 1頁 (全845字)】  フルトベングラーという指揮者がいた。フルトメンクラウと呼んだ人がいる。振ると面くらう。指揮棒を見ていても、どこで演奏を開始するのか見分けにくい▼そこへいくと、演奏する側にとって、一般に日本人の指揮は見やすい、と指揮者の大町陽一郎さんから聞いたことがある。ていねいに指示を与え、拍子もきちんととる。楽団員は楽だろう。カラヤンは、とたずねたら大町さんのいわく「目を閉じ、音の無いところは振らない。いつ、次のジャーンが来るかわからない。緊張そのもの」▼81歳で亡くなったヘルベルト・フォン・カラヤンは現代を代表する指揮者だった。手がける音楽は幅広く多彩。精力的な活動を最後まで続けた。私生活もスキー、ヨット、ジェット機操縦、3度の結婚、と人目をひいた。カラヤンによって古典音楽に関心を持ち、愛好家となった人も多いだろう▼年配の音楽好きは、カラヤンをつい前任のベルリン・フィル指揮者フルトベングラーと対比してしまう。華々しさにくらべて前任者は地味で深遠、自己紹介には常に「音楽家」としか書かず、録音にはいやいや協力といったところがあった。両者と長年つき合ったティンパニ奏者のテーリヒェンはこう言う▼「現代は、自分を衆目にどのように見せるか、またどのように映るかに多くがかかる」。カラヤンはそれを知りつくしていた、というのだ。自ら許可した写真しか公表せず、テレビ放送では大写しの回数や角度も自らきめ、演奏会の料金は他より高くし、音響の新しい技術開発には最大の関心を持ち続ける……▼音楽が明確でない、とカラヤンが評したフルトベングラーを依然好ましく思う人もいるだろう。だが、好悪は別として、カラヤンが時代の子であり時代が彼を求めたことは間違いない。情報媒体や技術の発達の中で存分にそれらを駆使、活用し、華麗な音の王国を築く。芸術家で、事業家で、帝王だった。 参院選と有権者 【’89.7.19 朝刊 1頁 (全845字)】  社会党の候補があわてて電車を乗り違え、途中の駅で停車させるという事件があった。予期せぬ出来事を抱えながら、しかし、23日の投票に向けて、参議院議員選挙は着々と軌道の上を進んでいる▼今回の選挙では、有権者の態度に何かこれまでとは違うものがあるような気がする。第1に、投票しようという意欲が感じられる。次に、候補たちの政策をじっくり吟味しようとする姿勢が見てとれる。これは印象だけで言うのではない。具体的な数字にそうした傾向が表れている▼まず投票意欲。端的に示しているのが不在者投票だ。「おそらくこれまでの最高」と各地の選挙管理委員会の担当者が驚いている。前回にくらべると3倍、という都市も多い。激戦区ほど大幅に増えているという。学校が夏休みにはいって最初の日曜日に投票、というので家族旅行に行く人々が多く、早めに不在者投票をすませたのだろう▼同時に「リクルート、消費税など争点がはっきりしているため」とも選管の人々は見ている。政策への関心の高さは別の数字に出た。連日、NHKテレビで放送されている比例区の政見放送だ。この視聴率が前回より高い。また、各党首の演説「わが党は訴える」も9.9%と高率だった。人々は、自民党と社会党の消費税論争に真剣に耳を傾けている▼これだけ関心が高まっている選挙に際し、歯がみしているのは海外で生活している日本人だろう。長期に滞在している人は50万を超え、国籍を持った移住者も多い。彼らは投票できない。「日本の政治家は、われわれを有権者と思っていない」と、くやしい思いをしている。海外からの投票を実現させる公職選挙法の改正案は、国会では廃案のままだ▼改革、急ぐべし。改革といえば、最後の数日は拡声機で、名前と「お願いします」の必死の連呼。今回は肉声で、声の届く範囲の人々にじっくり政策を訴える方が効果がありはしないか。 アポロの月面着陸から20年 【’89.7.20 朝刊 1頁 (全848字)】  人間が初めて月面に立ったのが、20年前のきょうだった。月日のたつのは早い。たったの20年だが、この間にいろいろな変化があった▼その時の日本の物価はコーヒーが100円、ラーメンは150円である。年の初めに安田講堂の事件があった。東大紛争で導入された警官隊が封鎖を解除。世情騒然としていた。東名高速道路が全線開通したのも、また政府が「公害白書」なるものを初めて発表したのも、この年のことである▼中国は文化大革命の最中だった。林彪将軍を毛沢東主席の後継者と規定した時期だ。むろん、一般の人々は米国のアポロ計画が成功して月に人が送られたことを知らない。欧州では欧州経済共同体(EEC)理事会が、英国の加盟問題を正式の議題にしようとしていた。統合市場を形成するに至ったいま、隔世の感がある▼米国はその時、月面に記念の金属板を置いた。「惑星地球からの人間、ここ月に第一歩を印す。西暦1969年7月。われわれは全人類の代表として平和にやってきた」と英語で刻んである。ニクソン大統領の演説起草をしていたサファイア氏が、この文を作った時の裏話を最近書いていた▼原案は「月に最初に着陸」だった。だが米国に先んじてソ連が無人探査機を月面に着陸させているとの指摘もあった。そこで「第一歩」と改めた。米ソはしのぎを削っていたのだ。米国に駐在していた筆者は、熱狂の中で、指導者が描く大計画というものについて考えた▼ケネディ大統領が、60年代の国を挙げての目標としてアポロ計画を発表したのは61年5月。その達成に向けて、米国内で政治、技術、意識の各面で上がった成果は大変なものという実感だった。いまそれから20年をへて、さらに別の感慨がある▼それは、人類が月に旅して地球を眺めた時から、「みんなで住む惑星」として世界を考える地球人意識が着実に育ち始めたのではないか、ということだ。 いざ、夏休み 【’89.7.21 朝刊 1頁 (全860字)】  いつだったか、本紙「声」欄への投書にこんな話があった。書いていたのは40代の男性。建設現場で左官屋さんが仕事をしている情景を見てのものだ▼夏休みになり小、中学生の息子2人に手伝わせている。暑い。父親が用を言いつける。「この暑いのに」と文句を言って動こうとしない。そのたびに父親が怒鳴る。「左官屋は汗を流してはじめていくらかになるんだ」▼1週間ほどたった。投書者は怒鳴り声が聞こえないのに気づく。見ると、それどころか「父さん、セメントを上に持って行くよ」と子どもが声をかけ、汗だくでバケツをさげて高い足場を登ってゆく。もう初めのころの様子ではない……▼汗みずくで働く親子。いい話だと思った。当節の父親には自分の体を使って子どもに何かを教える場面があまりない。大昔、父親はいかにして獲物を追い、捕らえ、処理するかを自分流に子どもに教えたに違いない。子どもはまたそれを子どもに伝承した▼腕のわざを教えこむ左官屋の父親。手が欲しかっただけ、と言うだろうが、手伝わせて教えるのはいい。子どもは子どもで、暑い日も真剣に仕事をする父親の姿が勉強になっただろう。手を抜くことができない現実の世界のきびしさも、体で覚えたはずだ▼学校、先生、友だちという日常。それと異なる生活が、子どもに自分の世界をひろげさせる。毎年、夏休みが終わるころ「声」欄にはよく投書が届く。親の手伝い、他家での宿泊、老人ホームでの奉仕などが、どんなに緊張と充実感を味わわせ、忍耐力や想像力を養ったか▼好きなことに思いきりひたれるのも休みならではだ。本を100冊読んだ話もあった。運動に熱中する。絵を描きに描く。初めてのことに挑戦する好機でもある。宿題が多すぎ、先生に話して免除してもらった話もあった▼休みには、親子一緒に過ごし、子どもの成長の確認を、と望む保母さんの手紙。投書からは教えられることが多い。いざ、夏休み。 消える日本家屋の用語 【’89.7.22 朝刊 1頁 (全857字)】  ガラス障子という言葉がある。障子の一部にガラスをはめる。向こうが透けて見える。ガラスの細工は江戸時代からあったが、板ガラスはなかなか日本では作れなかった▼輸入だから高い。金持ちが明治20年代にやっと小さなガラス板を障子にはめる。誇らしい思いだっただろう。門人たちからガラス障子を贈られた正岡子規の歌に、「窓の外の虫さへ見ゆるビードロのガラスの板は神業なるらし」。大きなガラスの窓やドアが当たり前になった今日から見れば、昔話だ▼文部省が学術用語集の建築学編を34年ぶりに全面改定するという。改定案に、住まいと暮らしの変化が見える。「火の見やぐら」「内玄関」「女中室」「牛乳箱」「七輪」「出格子」「竹がき」といった用語が軒並み削除される。「下宿屋」は「独身寮」に場を譲る。「食事場付台所」が消えて「ダイニングキッチン」となる▼消える用語の中になつかしい言葉があった。「ほうき目」。この言葉が生き残るためには、ほうきが要る。土も要る。掃く人も要る。消えたらさびしい言葉だ。近ごろでは、上がりがまちや床の間を知らない子もいる。大黒柱と言ってもわかるまい。そう呼ばれる父親も少なくなったか▼洋風になって片仮名がふえる。だが、名は同じでも実態や機能の点で微妙に違うものもある。一例はドアだ。玄関でドアを開ける。日本ではたいてい外側に開く。欧米のドアは「どうぞ」とでも言うように内側に開く。正反対である。哲学的な違いがある、と言ったらおおげさか。内開きの方が、実は閉鎖・防衛に適しているかも知れぬ▼本当は日本の玄関が狭く、しかも履物をぬぐから外開きの方が便利ということだろう。便所のドアも、内開きのものが多いが、年寄りが中で気分が悪くなったりしたら、との配慮から外開きにする家がある。まことに実際的で、融通がきく。引き開ける形の日本家屋風の戸は、マイクロバスなどに利用されて健在だ。 天の川と文明 【’89.7.23 朝刊 1頁 (全849字)】  夜の地球を人工衛星から撮った写真を見せてもらって、おどろいた。日本列島がほぼ形どおりに浮かび上がっている。ほかに、日本海の漁り火、中東の油田、北極のオーロラ、欧米の都市の灯などが点々と見える▼国全体が不夜城のように光っているのは、豊かな消費生活を映しているのかもしれないが、その分、美しい星空が失われているのだ。環境庁の音頭で75市町村の約1500人が参加した全国星空継続観察(スターウオッチング)によると、星がいちばんよく見えたのは宮崎県小林市の高原だった▼この冬、すばる(プレアデス星団)を口径5センチの双眼鏡でのぞいて、何等級の星まで見えるかを競った。小林市では10.9等級まで19個の星が観察できた。福井県小浜市や長野県王滝村などでも10等級くらいまで見えた。これに対し、人口100万以上の大都市は平均7.3等級で、見える星の数がずっと少なくなる▼肉眼で天の川が確認できたのは半分くらいの39地点で、人口30万以上の都市ではほとんど見えなかった。近郊の夜空は年々明るくなっているようだ。東京都三鷹市の国立天文台の空も30年前には、いまの岡山県津山市ていどの暗さだったが、それが16倍も明るくなってしまった▼同天文台の香西洋樹助手の調査によると、夜空の明るさは、人口比の1.4倍でふえるという。人口が10倍になったら、明るさは14倍になるわけだ。人間がたくさん集まると、住宅や道路の照明が増え、よごれた空気が光を散乱させるからだろう。「街灯などには笠をつけて、上空に光がもれないようにしてもらえないものか」と香西さんは訴える▼むだなところを照らさないことは、省エネルギーにも通じる。町の灯はもちろん必要だが、あかあかと光り輝くほど文明都市だという価値観は転換してもいいのではないか。夏の一夜、電灯を消し、クーラーも切って天の川を探してみませんか。 政治の世界の「風向き」 【’89.7.24 朝刊 1頁 (全847字)】  太平洋から高気圧が張り出して、まぶしい夏空がひろがっている。今回の選挙では「逆風」「追い風」といった気象にまつわる言葉がよく使われた。市民の政治があたかも風まかせ、人知と無関係な自然現象、と響きかねないところはいささか気になった▼つい気象にたとえたくなるのも、まあ、仕方があるまい。農耕生活には天気や風向きへの関心が欠かせない。われわれは歴史的に常に天気を気にしながら生きてきた。各藩には観測役の役人がおり参勤交代にも観天望気の専門家が同行した。天気に関する各地のことわざは、経験則に基づく情報である▼政治の世界で「順風」「逆風」が語られる時、どの程度の情報分析が行われているだろう。明治16年に作られた日本で最初の天気図には、等圧線がわずかに2本しかなかった。三陸沖と九州南部だけだ。近ごろの予報が、複雑な気象データの処理、分析によって行われるのとは大違いだ▼今回の選挙では驚くほどの数の党が名乗りをあげた。1つの問題についての主張だけを党名に掲げたものもあった。かつて米国で言われた「単一問題(シングル・イシュー)政治」にも似る。民主的社会での問題の複雑さ、要求の多様さ、表現の自由さ、などを示している▼与党への批判と多様な声の高まりに対し、宇野首相は公示の朝「いっときの感情で投票を誤らないでほしい」と訴えた。この発言が、明治の天気図よりも精密に人々の考えや感情を読みとり分析していたものかどうかは、昨夜来の開票結果に表れている。綿密な分析がたいせつなことは野党も同じだ。風向きはどんな要素によるのか、一時的なものなのか▼最近では国内だけでなく世界中の天気情報を各分野の活動が必要とする。国内の政治にかまけ、海外の情勢への対応に遅れは出ないか懸念されている。まずは1票行使が不可欠の基礎工事。そして、国のまわりに吹く風の分析も、ゆめ怠りなく。 古い政治感覚に審判 【’89.7.25 朝刊 1頁 (全847字)】  古い話で恐縮だが、参院選での自民党の大敗に1年あまり前の出来事を思い出した。牛肉・オレンジ自由化問題で日本代表団が訪米する前夜。壮行会の席で自民党幹部が「安心して死んで来なさい」とあいさつした▼「昔やくざの出入りで、自分の入る棺おけを背負って殴り込みをかけた桶屋の鬼吉という男がいた。みんなの入る棺おけは帰って来るまで用意しておく」というのだ。「死ぬ気で行けを通り越して、死んで来いとは」と代表団は驚いた。交渉では「3年後に自由化」ときまったが、だれかが死んだ話は聞かない▼この出来事にいろいろ考えさせられた。世界の農産品需給の状況を見れば自由化の阻止は難しい。農政の徹底的な見直しは急務だ。食品や、一部の農業関係者には、その認識があった。バナナ、グレープフルーツなど、次から次へと自由化を迫られたが、品種の改良や高度化により農家は競争力をつけてきた▼そういう状況のもとでは、内外の情報を十分に集めて長期的な政策をたて、場合によっては苦しい方向転換の必要をも説明、説得するのが指導者の仕事だろう。情に訴えて決死隊に体当たりをさせれば道が開ける、というわけのものではない。不満があれば農業補助金で保護、という伝来の政策も農家の足腰を弱めるだけだ▼農村までが離れた今回の選挙結果は、自民党のそうした感覚への批判ではあるまいか。人々はこんどの選挙で、情より理、期待感より情報、利益誘導よりも政策、「うちの先生」より公益重視の無名候補者、を求めたかに見える。政治意識に明らかな変化が見てとれる▼宇野さんは「敗戦の一切の責任は私にある」と言った。長い間に政治は銅臭を帯び、リクルート事件の形で現れた。政策に基づく指導性が農政に発揮されなかった。そうした要素を背景にしての敗戦だ。立ち直りは容易ではないだろう。人々の政治感覚にこたえられる新しい人が必要な時だ。 参院選の自民惨敗、経済人の発言 【’89.7.26 朝刊 1頁 (全847字)】  自民党惨敗という参院選の結果に経済界はどんな感想を抱いたか。自民党の長期政権のもとで成長を続けてきた実業界の指導者たちの発言を聞くと、事態をまっすぐに見つめての理性的な直言が印象的だ▼「金権体質・民意軽視の政治など、政治不信に対する国民の厳しい批判の結果だろう。……『政権担当能力のある2大政党』をシナリオとして考える好機」と山本卓真・富士通社長。「国民感情と大きくかけ離れた政府と政治感覚が国民の反撃を受けた」と内藤祐次・日本製薬工業協会会長▼「両院とも1党が絶対多数を占めるのは異常。今回の結果は議会制民主主義の第一歩を踏み出したにすぎない」と言うのは宮崎輝・日本繊維産業連盟会長。総じて、長期政権の慢心、感覚のずれが招いた結果だとの指摘が鋭い。ため息とぐちが交錯、という自民党総務会の空気とはかなり違う▼企業の責任者には、国際化、情報化、人々の価値観の多様化といった社会の変容に対応して、生存のために自主的な変革の手を打って来たとの自負があろう。同時に政治家の世界が自己変革の能力に欠けることがよく見えるのではないか。女性の考えを理解していない発言が自民党政治家にあった。硬直を示す一例だ▼女性は参院選で当選者の17%以上。さきの都議会選挙でも13%を占めるにいたった。生活の質への高い関心はむろん女性だけのものではない。普通の人々の関心や価値観が選挙の主役でもあった。自民党は、国会対策には習熟していても国民対策に手ぬかりがあったらしい▼もっとも、自己変革でも普通の人の感覚でも、自民党について言えることは野党にも言える。経済人の発言にも、現実的な政権担当能力への疑問と強い要望があることは聞き落とせない。与党から見れば、アマチュア登場とうつるかも知れぬ。はじめはだれでもしろうとだ。現実に照らして政策を練る。企業並みの競争を、と望みたい。 方言は何を物語るか 【’89.7.27 朝刊 1頁 (全857字)】  漱石の『吾輩は猫である』のはじめのところ。名古屋弁だとこうなるそうだ。「わっしゃあなも、猫(ねえこ)だがゃあも。名前(なまゃあ)は、まんだ、なゃあわゃあも」▼名古屋には「名古屋弁を全国に広める会」がある。山形県三川町では毎年「全国方言大会」が開かれている。福岡県筑後出身の劇作家、栗原一登さんは、方言をまじえて望郷の思いを詩に書き、團伊玖磨さんの作曲で合唱組曲「筑後風土記」が完成した。近ごろ方言を見直し、だいじにする動きが各地でさかんだ▼転勤で大阪から首都圏に引っ越した家族。母親は小学生の娘の大阪弁を気にしていた。学校から帰った娘が言う。教室で、少し大阪弁が出た。そうしたら先生が「みんな、前に方言を勉強したでしょう。よかったわねえ、大阪弁が聞けて。これからもたくさんしゃべってね」とおっしゃった。先生の配慮に感謝する、と投書にあった▼季刊『群馬評論』夏号に方言の特集がある。「ことばは本来ずっしりと心をせおったもの」と言う方言学者、藤原与一さんを招いて講義を聴いた群馬県立女子大生が、めいめい方言調査をして書いた文が興味深い。遊びの言葉、加熱調理動作の言葉、と範囲をしぼって両親や祖父母、村の人たちに聞いている▼語彙を調べるだけのつもりだった。だが話を聴くうちに祖父を人間的に深く知った。いつのまにか自分が見知らぬ子になり、子ども時代の両親が遊ぶ姿を見ている。調理の言葉だけでなく味つけの由来までわかり、家族の歴史を思った……。いずれも言葉調べに始まり、自らをはぐくんだものへの関心、愛情、誇りへと進む▼方言は何を物語るか。「それは私たちの生活が多くの祖先たちの苦労の上に築き上げられている」ことを改めて意識させ、「名も知らぬ大勢の先祖たちをいとおしく思う心を呼び起こす」。調査活動の中心、篠木れい子助教授はこう書いている。夏休みは方言を味わい直す季節でもある。 政治漫画 【’89.7.28 朝刊 1頁 (全859字)】  最近、思わず笑ったニュースがあった。文部省が漫画に文部大臣賞を出すという話だ。ふだん役所や権威をからかう漫画家が、ありがたそうに賞をもらったら、それこそ漫画だろう。「複雑な気持ち」と日本漫画家協会の理事長、加藤芳郎さんが言っていた▼政治漫画でちくりと風刺するのを毎日の仕事にしている漫画家たちが、週刊紙『アエラ』臨時増刊号で近ごろの政治を語り合っている。いまの政治を喜怒哀楽で表すと「怒」と「哀」ばかりだそうだ。本紙朝刊に描いている小島功、針すなお、山田紳の3氏。人間を見抜く眼力の持ち主だ▼宇野さんの似顔は描きにくい、ようやくなじむころにはやめちゃって……。竹下さんの童顔は、最後に苦しい状況になってから描きやすく「心の苦悩と策謀がどわっと出るような顔」になった。中曽根さんは造作がはっきりしていて描きやすいが「我欲があったのがいけない」。政治や政治家についての言葉が手厳しい▼米大統領の世界旅行に同行した時、同行記者団に売れっ子の若い漫画家が入っていて驚いたことがある。政治風刺はどの国でも1枚漫画が多いが、彼はそれが専門ではない。長尺物で若い人の風俗を描く。何でも実際に取材しておかないと、と言う。そういえば登場人物が政治や社会を語る。これも漫画のあり方かと思った▼このところ日本でも、1枚漫画ではなく4こまのいわゆるギャグ漫画に政治や政治家が扱われるようになった。週刊誌などに普通の市民や、芸能界、スポーツ界の人々と同じように登場する。似顔ですぐわかる。権威の象徴ではなく、突き放して、人間としての悲しさ、おかしさの視点から描く。政治を特別の世界と見ない▼『アエラ』座談会では「総理大臣やれそうな顔っていますか、自民党に」との問いに「劇的変化を生みそう」な若手の名前が2、3人あがった。当の自民党は新総裁の選出手続きを検討しはじめたところ。さて、どんな顔が出るか。 甲子園で味わう校歌あれこれ 【’89.7.29 朝刊 1頁 (全861字)】  高校野球の地方大会が盛り上がっている。月がかわると、いよいよ甲子園。熱闘の末に勝った方の校歌を歌うのが恒例だが、聴いていると、校歌というものには共通の特徴がある▼どこの県でも、たいてい、山は青く、水は清い。若草がもえ、健児はまなびやで剛健の気を養う。どうも、山水や徳目が共通項のようだ。校歌の歴史は100年あまりになる。荘重な言葉づかいは、戦後、だいぶ平明になった。それでも、徳目を歌った儀式用唱歌の伝統は、連綿と生き続けているかに見える。一方、新しい調子の校歌も登場し始めた▼「見つめようよ/友だち/苦しみからだって/涙という名の宝石がうまれる/若い生命は/魔法だから/幕張西高等学校……」と続く校歌。「透明に」という題だ。若ものの気持ちに出来るだけ近づき、やわらかな表現を試みている。作詞した詩人の宗左近さんは、作曲家の三善晃さんと作った多くの校歌を、近著『あしたもね』にまとめている▼海外の日本人学校でも、たとえば、井上ひさし作詞・團伊玖磨作曲で「ぼくらは火花/ちいさな火花/長城のはじまりも/ちいさな石ひとつ/長江のはじまりも/ちいさな水たまり/だからもやしつづけよう/火花はやがて広野を焼きつくす/北京日本人学校/ちいさな火花は集う」▼詩人の意欲と工夫が感じられる。かつて詩人の三好達治さんは「学校の校歌は書かない」と言っていたそうだ。自分がどんな不行跡を仕出かすかわからず、生徒諸君に恥をかかせては悪い、というのだ。詩人の責任感である。宗さんは、歌う生徒たち、つまり他者に自分がならなければならない難しさを指摘する。生徒たちと歩いたり話したりするそうだ▼「おはようさん/あら/カタツムリ/るんるんるん/宇宙人なのね/光にまみれて/うれしいな/いらっしゃい/ここは/上鷺宮小学校/露のおいしさ/教えてね……」。題は「いのち」。甲子園では、試合とともに校歌も味わおう。 オイコット・ライフ--非東京的生活 【’89.7.30 朝刊 1頁 (全862字)】  オイコット。耳なれない言葉だ。「TOKYO」をさかさまに書くと「OYKOT」となる。東京のあべこべ。「オイコット・ライフ――非東京的生活」と題する報告が出た▼博報堂生活総合研究所がまとめたものだ。札幌から福岡まで、10の地方都市を選び、特有の魅力や利点を分析している。大分県に移り住んだフォーク歌手の南こうせつさんが、かつて東京を評してこう言った。「ばかげている。空気は悪い、人は多い、物価は高いと条件が悪いのだから、土地も安いのが本当なのに」▼たしかに、地方都市には東京とは反対のものがある。通勤圏が狭いから、まず、時間がある。そして空間もひろびろとしている。自然の環境も豊かだ。各都市の実情を調べることは、何でも東京に1極集中している現状を生活の質という角度から見直すことになる。東京も浮き彫りになる▼ことしは市制施行100周年の都市が多く、博覧会などが花ざかり。この週末にも仙台の緑化フェアなど3市で行事がはじまった。市民とアジアを結ぶ集まりなど、国際的な企ても多い。香川県の「金丸座」を始め、地方の古い芝居小屋での歌舞伎興行も話題だ。秋田の「康楽館」や、香川の「千歳座」、愛媛の「内子座」に熊本の「八千代座」など▼地方の空き家を求めて財団法人「ふるさと情報センター」への問い合わせが増え、専門のあっせん業者も登場。東京の人が地方に関心を持ち、地方では人々が地域の活性化に力を入れる時代だ。今回の参院選で自民党は地方で振るわなかった。農民の離反だけでなく、広く地方の人々が、1極集中政策を進めてきた自民党を批判したのかも知れぬ▼むろん、高い地価にもかかわらず、人々は東京に集まっている。多少がまんしても、緊張と刺激と集中の利点を備えた生活を選ぶのだろう。就職や教育の問題も含まれ、1極の分散は容易ではない。だが、今後オイコットの視点は政治にいっそう必要になるのではないか。 7月のことば抄録 【’89.7.31 朝刊 1頁 (全859字)】  7月のことば抄録▼東京都議選で社会党が議席3倍増の躍進。「眠っていた山が動き出した」と土井たか子委員長▼参院選を前に自民党から失言続出。「女性が政治の世界で使いものになるだろうか」と堀之内農水相。坂野自治相は3%の消費税について「4%だったら端数が少なく負担感も違ったかも知れない」。松田代議士(長崎2区)が「農民は筋肉労働で働くしか能がない」▼参院選で社会党が伸び自民党は大敗。女性の活躍が目立った。「選挙結果は自民党政治に対するリコールを示している……政権のたらい回しをやめ、野党に渡すとき」と土井委員長。宇野首相が「敗戦の一切の責任は私にある。よって総理・総裁を辞任することを決意し責任を明確にする」▼編集者の天野祐吉さん「ことしのCMには『泣く女』が目立つなんてぼくは言ったけれど、やはり『怒る女』のほうが主流だった」。「男性のように清濁あわせのむってこと、女の人ってなかなかできない」と電通EYE社長の脇田直枝さん▼全国で初めて女性ばかりの銀行ができた。兵庫銀行新神戸支店。支店長になった臼杵裕子さん「銀行で、男性にできて女性にできない仕事って何かあります?」▼日米摩擦を舞台裏から見つめてきた弁護士の村瀬二郎さん。「米国人はいつも燃えているから爆発しない。日本人は我慢を重ねていて、突然パッと燃え上がる」と日本側に冷静な対応のすすめ▼東大助教授になったフィリピン人留学生ベニート・M・パチェコさん「留学生が大勢いれば、日本の人も多様な価値観で自分を見直すことができる。日本人にとってもいいことがある、と気づいてほしい」▼町の拡声機から時報がわりに音楽が流される。「信号音に既製の曲を使うことには二重の問題がある」と作曲家の丸山亮さん。その長さだけ「騒音」を忍ばなければならず「名曲の陳腐化」ともなる。「周囲にある不要な音に注意を払い『音の環境』を浄化する時だ」 あいさつをしよう 【’89.8.1 朝刊 1頁 (全860字)】  満月の夜だ。晴れわたった空に、少女キキが飛び立つ。母のほうきにまたがり、父のラジオを柄にぶらさげて。同行は黒猫のジジ。肩には大きなかばん。キキは魔女である。13歳で親元を離れ、1年間、見知らぬ町で修業するのが魔女のさだめ▼宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」に、しばし暑さを忘れた。筋は言わぬが花だろう。初めての町で、孤独な少女が人々と知り合い、自分の才能について考えてゆくさまが描かれる。キキの態度はすがすがしい印象を与える。未知の人に対し、彼女はいつもきちんとあいさつする▼さきごろ、学生のこんな投書が本紙にのった。食堂での話だ。若い母親が2人の子どもを連れて入って来た。投書者の右側が2つ空いていた。左に寄り、席をつくる。母親がていねいに礼を言い、並んで座った。食べ終わって出るとき、2人の子が「おにいちゃん、ありがとう」と照れくさそうに言った。梅雨空に涼風を感じた、というのだ▼いい母親なのだろう。子どもにきちんと礼を言わせる。あいさつや礼の言葉はだいじな意思疎通の手段。潤滑油でもある。それが近ごろ驚くほど少ない。仲間うちでは大声ではしゃぐのに、見知らぬ人には、ぶつかっても「失礼」の一言も出ない。無言の行でぐいぐい押す人もいる。気軽に声を出したらどうか▼今年の東大の入学式だった。学長が、教官や友人、先輩にあいさつができるようにすること、と式辞で述べた。当たり前のことを、と年配の者は驚いた。それが実態らしい。本紙テーマ談話室「こども」に、小児科医が気になることを書いている。「ものいわぬ赤ちゃんが増え始めた」というのだ。おそろしい▼母親が赤ちゃんの目を見て話しかける時間が減り、それが寡黙な赤ちゃんの増加と関係がある、という観察である。経済的に豊かでも人間同士のやりとりが貧しい社会はさびしい。夏休みは、魔女キキ並みの、あいさつと自立への旅に、絶好の機会だ。 高校野球地方大会が終わって 【’89.8.2 朝刊 1頁 (全835字)】  全国高校野球選手権大会に出場する49の代表校が決まり、きのう第1陣が甲子園で練習した。全国で3941校が敗れ去ったことになる。これら各校の健闘もたたえたい▼雨にたたられた地方大会が多かった。日程の変更があいつぎ、開会式場を屋内にきりかえたところもある。その1つ長野では、参加選手は体育館の木の床を靴下で行進。「力が抜けちゃう感じ」という選手の言葉が新聞に載った。さもありなん▼期間中の各地方版をあらためて繰ってみた。若者たちの汗のにおいがする。招いたピンチに「お前の球は生きているぞ。おれのサインが悪いんだ」と捕手が声をかければ、投手は「それでもお前のサインを信じるぞ」と投げ続ける。あるいは、コールド負けしたチームの応援団長が「負けたのは応援が足りなかったせいです」と大粒の涙を落とす▼3年生の補欠選手が代打に出て、無念の三振。「ぼくの夏は終わった」とつぶやく。スタンドでは、景気づけに応援団員が頭から水をかぶり、対抗して相手側もかぶる。去年もあった、おととしも同じといえばそれまで。けれども登場する高校生は毎年新しい。それが、疲れたおとなたちに希望を与える▼もちろん、変容もある。金属バット全盛のおり、懐かしや木製バットで本塁打を放った選手がいた。たちどころにそれは、写真つきの紹介記事になる。米国などからの交換留学生の応援風景も、いまや珍しくない。地方版の1つに「団長のもと統制のとれた応援ぶり、校旗の旗手が微動だにしないこと」に留学生が感心していた、とあった。感心よりも、びっくりだったかもしれぬ▼スタンドにカラスが1羽、ゆうゆうと舞い下りては缶ジュースのふたをくわえて飛び立っていく。これは熊本。山形では、夫婦?のカラスが外野のグラウンドで観戦していたそうな。人間サマも笑って見ている。これも地方大会の良さだろう。 天然の暴威による災害 【’89.8.3 朝刊 1頁 (全842字)】  大量の土砂が崩れ落ちてから約30時間後、きのうの朝ようやく、つぶされた住宅の家族3人は遺体で運び出された。神奈川県川崎市の現場は、未明までの豪雨がやみ、夏の太陽が顔をのぞかせた。崩れた斜面は、むせかえるような土のにおいと草いきれがしたという▼雨は千葉でもやんで、青空が広がった。ここでは前日、県道を走っていたワゴン車が土砂とともに田んぼに押し流された。12歳から5つまでの子ども3人は助かったが、両親は亡くなった。その死を入院した子どもたちは知らされていないと聞く。胸がつぶれる思いがする▼豪雨と、打って変わった夏空と。自然は自在に力をふるう。人命こそ失われなかったものの、都市河川のはんらんなど東京の被害も小さくなかった。「時間がたつにつれ、被害は大きくなる見込み」とよく新聞が書く。「時間がたたなければ、どれほど被害が大きいのかつかめない」と言う方が正確だろう。今度も、時間がたつにつれて被害のひどさがはっきりしてきた▼科学者にして文学者だった寺田寅彦は「文明が進めば進む程天然の暴威による災害がその激烈の度を増す」と記している。知恵がついた人間は、自然を征服しようとの野心を抱いた。重力に逆らい、風圧、水力に抗するようないろいろの造営物をつくった。そして「天晴れ自然の暴威を封じ込めたつもりになって」いると、猛獣の大群に似て自然は暴れだす▼昔の人は過去の経験をたいせつにした。かつて地震や風害に耐えたような場所でしか、集落を営まなかった。時の試練に耐えた建築様式を採用した。そうした造営物は大災害でも多く助かっている。寅彦がそう書いたのは昭和9年のことだ▼それから50年以上。今度の災害でも「この尊い犠牲を今後の施策に生かし……」といった談話が紙面に載っている。人間とは、なんと不完全な存在なのだろうか、と思わないわけにはいかない。 アジアとともに未来を作る、国際民衆行事 【’89.8.4 朝刊 1頁 (全855字)】  国際民衆行事という名のいっぷう変わった催しが、この8月、全国どこかで毎日ひらかれている。アジアを中心に海外の29カ国・地域からやって来る250人をふくめて、ざっと延べ10万人が参加する▼さまざまな各地の集いを1つにたばねている言葉がある。うまい訳語がないので、英語のまま「オールタナティブ」。「こんなのじゃない、別の何か」というほどの意味だろう。金持ち日本というけれど、こんな今の私たちが心から豊かといえるのか。別のかたちの豊かさがあるのではないかしら▼という具合に、今への疑問を出し合おう。それがいっぱい集まったら、今とはちがった別の暮らし、別の経済、別の政治、外国との別のつきあい方といったものの姿が目に見えてきそうだ。それはアジアの人たちとの関係を抜きには語れまい。「アジアとともに未来をつくる」という言葉がもう1つのカギとなった▼皮切りの催しは、山形での百姓国際交流会。タイとフィリピンの農民が飢えと貧困を訴え、アメリカの農民は「環境破壊の代償を払って産業化された大規模農業」の実情を語った。節くれだった両手をたがいにかざした。コメの将来を考える会合は新潟、岩手と続く。北海道では15カ国の先住・少数民族を招いて、アイヌの人びとと共に開く世界先住民会議▼神奈川のシンポジウムは、草の根の援助基金づくりをめざす。福岡ではアジアの芸術祭。最後に熊本・水俣で人間らしく生きられる21世紀の見取り図を描いて全体をしめくくる。「日本人とアジアの人々が加害者と被害者の関係ではなくなるように、それを考える出発点に」と代表呼び掛け人のひとり、国連大学副学長の武者小路公秀さん▼催しの手伝いにやって来たインド青年がいった。「カネもうけしか頭にない日本人と思っていたら、自分たちといっしょの気持ちで話し合える普通の日本人もいる。この夏、それが確かめられたら、とてもうれしい」 読者から一喝されて幕、氷レモン論争 【’89.8.5 朝刊 1頁 (全858字)】  冷房車両がふえたといっても、この季節の通勤は、とくにネクタイ族の男性にはこたえる。汗をにじませつつ、しかし宮仕えの身、にわかに背広を手放すわけにもいかない▼一時、官庁づとめもした唐の詩人、杜甫も「束帯すれば狂を発し大叫せんとす」と、白日のもとでうめいたそうだ。束帯すなわち1200年前の当時の正装。いまならダークスーツというところか。杜甫は左遷されたため職を捨て、以後は旅から旅への生活を送った。そんなことを考えると、ますます暑苦しくなる▼もう十数年前になろうか。暑苦しいいまごろの季節、本紙の社会面で読者による「氷レモン論争」があった。氷の山のてっぺんまでレモン水がかけてあるシロモノを食したが、いやなんとも味気がなくて……という東京の中年男性の投書が発端。シロップを器にいれた上にかき氷を盛るべきか、盛ったかき氷の上からシロップをかけるかで甲論乙駁とあいなった▼大ざっぱにいって前者は関東スタイル、後者は関西風との結論だったと記憶する。漱石の『坊つちやん』に「こゝへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐(やまあらし)だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢(おご)ってもらっちゃ、おれの顔に関(かか)わる」と主人公が力む場面がある。舞台はご存じ松山だから1銭5厘のこの氷水、シロップが氷にかけてあったに相違ない▼国語辞典を引くと、氷水、氷アズキ、氷イチゴまではあっても、氷レモンや氷メロンはない。なぜか。などと同僚の1人はたわいないことを見つけ楽しんでいたが、最近は氷ナントカを出す店も減った。波に千鳥の上に「氷」と書いた正統派?のれんも、以前ほどは見ない▼思い出す。紙面の暑さしのぎの論争は、「こんなくだらない話題をどうして新聞に載せるのか。世の中、もっと重要なことがいっぱいあるじゃないですか。教育だとか物価だとか」という一読者からの批判で、急に力を失ったのだった。 「清潔願望」 【’89.8.6 朝刊 1頁 (全848字)】  米国のウエストポイント陸軍士官学校を訪れたときのこと。洗面所にずらり、教官の名前入りのコップと歯ブラシが並んでいて、毎食後、大男たちが神妙な顔で歯みがきに精を出しているのを見た。習慣の組織化だ。さすが軍隊と感じ入った▼プロ野球の某若手人気選手の趣味は「歯みがき」と聞いたことがある。良いことには違いないが、それを趣味と言い切れるのは、「朝シャン」全盛の当世ならではだろう。女性に限らぬ。男子高校、大学生300人を対象にした調査で、4割強が「毎朝シャンプーをしている」と答えたそうだ▼吸水性の強い朝シャン専用のタオルが売り出され、大変な人気。年間40万枚を販売目標としたメーカーは、わずか2カ月で予定分をさばいてしまった。洗口液なるものもヒット。トイレの便座用除菌クリーナーもひとつの市場を形成しつつあるとか▼ウエストポイント並みに1日に3回歯をみがく人が増えた、との調査結果もある。もちろん清潔はたいせつなこと。ただ、度を超えると病的な色あいも帯びてくる。実際はにおいがしないのに口臭があると思い込む「自己臭症」はその例だろう。一度着た衣類は必ず洗わないと着られない人も増えているという▼汚くなったから洗濯するのではなく、一度着たので洗う時代、との説明である。でもなぜ、それほどまでに「清潔願望」なのか。他人に嫌われたくない。孤立したくない。だから「清潔」にする。そんな気分が若い人たちの間に広がっているのかなとも思う▼とすると、その気分が逆に働いて、自分が「汚い」と思う人は仲間に入れない、仲間から追い出す行為につながることもあるのではないか。そちらも心配になるというものだ。たとえば中学校などで「バイキン」と同級生をはやしたて、仲間はずれにするあのいじめは?▼この仮説が、古典的な「1日に1回歯みがき派」である筆者の杞憂(きゆう)であらんことを。 「この子たちの夏」が伝えるもの 【’89.8.8 朝刊 1頁 (全858字)】  麦わら帽子の女優が6人座っている。ひとりずつ立ち、時に全員が立って、朗読する。背景に時おり映し出される画像。静かな音楽。それだけの仕掛けなのに、この舞台は何と多くを伝えるのだろう▼朗読劇「この子たちの夏」(地人会公演)を東京でみた。いや、聴いた。7月初旬から各地で上演され、あすで終わる。「1945・ヒロシマ ナガサキ」(副題)が、なまなましく描かれる。おびただしい手記や発言の中から選んだ言葉の数々。どの言葉も火を発している。最初は子どもの日常だ▼「ままごと」。「祖母と寺参り」。あるいは「猫に牛乳」。その朝をさまざまに過ごしていた。そこに一瞬、光がきらめく。女学生の目にうつったものは「空も地上も灰色1色にぬりつぶされた世界、ほかに色があるといえば、全身血まみれの赤ばかり」「焼けただれ、じゃが芋の皮がむけてたれ下がっているようなぽろぽろの皮膚」▼見るも無残な姿の女学生たちが仮繃帯所に寝かされている。「つぎつぎと動かなくなる同類たちのあいだにはさまって/おもっている/かつて娘だった/にんげんのむすめだった日を」。中学生も被爆した。1年生といえば12歳。残された母親の言葉がかなしい▼「死期が迫り、わたしも思わず『お母ちゃんもいっしょに行くからね』と申しましたら、『あとからでいいよ』と申しました」。ほの暗い劇場に鼻をすする音。親子連れも多い。戦争をまったく知らぬ子らだ。女優がしっかと語る、かつての子どもたちの言葉を通して、戦争を体験している▼生き残ったものが運動場に木を集めて死体を焼いた。「兄さんも焼かれた。お母さんも、みるみるうちに骨になって、おきの間から下へポロポロ落ちた。僕は泣きながら、じっとそれを見ていた」。後年その運動場で遊ぶ少年は「お母さんを焼いたその所にしゃがんで、そこの土を指でいじる」▼5年目の公演。考えさせる。原爆、平和、いのち、愛…… 自民党新総裁に海部俊樹氏 総裁選は茶番? 【’89.8.9 朝刊 1頁 (全855字)】  「自民党の新総裁がきまりましたね」「海部俊樹氏が、林、石原両氏を抑えて過半数。予想通りだった。9日には第76代首相に就任だ」▼「すごいな。58歳。昭和生まれです。3候補とも昭和の人間。若返りですね」「そう手放しでは喜べんぞ。そもそも今回の総裁選、茶番のような気がして仕方がない」「でも、初めてでしょう。派閥の領袖でない若手が名乗りを上げ、演説会までやるというのは」「それはそうだ。複数候補による選挙、と形は整っている。だが筋書きは出来ていた」▼「大派閥の談合ということですか。それに投票への指示も」「そう。これまでと同じ密室政治、と批判されぬよう、投票にして公開論争の場も設けた」「それじゃ、形は開放的だが内実は宇野政権の誕生と同じ、というんですか」「少なくとも基本的な図式に変わりはあるまい。党内の実力者たちは、海部氏の次の政権について考えているに違いない」▼「事態は変わりつつあるのではありませんか。いったん若い人が政権につき、政策本位の清新な政治を進めたら、自民党が時計の針をもどすことは難しいでしょう」「それは一に海部氏がどこまでやれるかにかかっているね」「最初の記者会見では明確に考えをのべていました」「だが人事を含め、自己裁量による発言が少ない印象だ」▼「党内の支持を固めるのも総裁の大事な仕事でしょうが、肝心なのは一般の人々です。人々は、自民党のあり方に目を光らせている。今回の選挙で自民党は多少の点数をかせいだ、とも見えますが」「総選挙でみそぎがすむ、とリクルート関連議員は考えている。だが政治改革への真剣さが感じられなければ、参院選と同じ評価を有権者は下すだろう」▼「お説では、すべてが茶番かも知れません。でも、札束が動かない総裁選、これはやはり新しい既成事実になる、と期待できませんか」「新しいかどうか、まず閣僚名簿を見て判断しようじゃないか」 海部新内閣に望むこと 【’89.8.10 朝刊 1頁 (全859字)】  海部さんに何を期待しますかと聞かれ、映画監督の山田洋次さんいわく。「最低これだけはしてほしくない、ということは言っておきたい。それは決してうそだけはつかないでほしいということ」▼期待される指導者像の何と小さくなったことか。この言葉には、だが、実感がこもっている。「私がうそをつく顔に見えますか。見えないでしょ!」と言った首相がいた。その言葉と、裏切られた時の感情を人々は忘れていない。うそをつくなと注文せねばならないのは情けないが、不信の念の存在はまぎれもない。新首相は、そこからの出発。大変だ▼極端に単純化して言うと、海部さんの前には2本の道がある。Y字路だ。第1の道では自民党内の派閥の意見が道案内だ。第2の道では一般の人々の声が聞こえる。どちらを選ぶか。そりゃ第1にきまっている、派閥の力学の中で生き、選出された以上、仕方があるまい、と永田町では言うかも知れぬ▼げんに昨朝、党や閣僚の人事について海部さんは「私の考えを率直に言いたいが、独裁じゃないから。1人では決められないからそれなりに」と語っていた。総裁選挙の間も党内に気を使った慎重な表現が多かった。今後さらに党内の力関係に操られ、第1の道を進む可能性は小さくない▼だが、一般の人々の声に耳を傾けないと選挙に勝てぬことはすでに参院選に表れた。41年ぶりの両院協議会が象徴するように、いまや政権交代があってもふしぎではない。第2の道を選び、人々の声を味方にして党内と戦う、というくらいの覚悟が必要なのではないか▼冷戦時代の笑い話だ。Y字路がある。ケネディが車で走ってきた。迷わず右の道を行った。フルシチョフがきた。左の道へ。次にユーゴのチトーがきた。どうするかと思ったら、方向指示器を左に出したまま右へ走って行った……。海部さんも、指示器は党内に向けるとしても、第2の道をゆければいいが。要は人々の信頼と支持だ。 夏一景 かつてあった動物との交流を思う 【’89.8.11 朝刊 1頁 (全857字)】  うだるような暑さになると、思い出す光景がある。かんかん照り、昼さがりの坂道だった。突然「どうしたっ。もうだめか!」という叫びが聞こえたかと思うと、地響きがした。馬が倒れたのだ▼戦前の東京である。当時は馬や牛が車を引いており、泥の道も多かった。かけつけると、馬の大きな腹が波打ち脚は虚空をけっている。全身が汗にぬれて光り、むき出した白目の大きさがあわれだ。荷車の重さと暑さに耐えかねたのか。「おい、しっかりしろ」と叫び続ける中年の馬方も、汗みずくだ▼起きようともがきながら、果たせない。何とかもうひと息、と思うとどうと倒れる。馬方のひげ面が突然こちらを向き「坊や、氷屋はあるか」と聞いた。すぐそこ、と1丁ほど走って氷屋へ連れてゆく。汗だくだ。大きな氷の塊とバケツをもらい大急ぎで抱えて帰る。「今すぐ冷やしてやる。待ってろよ」▼驚いたのは、そのあとだ。馬方は氷を夏みかんほどの大きさに砕いては、なんと馬のしりの穴に押し込み始めた。急いでいるから、みかん2個分ほどの大きさの塊でも押し込んでしまう。「もうすぐだぞ。がんばれ」などと声をかけ続ける。にわか助手の当方、氷屋に3往復もしただろうか。信じがたい量の氷が馬の腹にはいった▼手ぬぐいをしぼっては、ていねいに馬の全身をふく。終始、話しかけている。日がかげり、夕風も立つころ、ようやく、われわれの馬は生気を回復し、立ち上がった。うれしかった。小学校の横には石造りの細長い馬用の水飲み場もあった。珍しい動物ではないが、こんな事件は初めてだった▼夏の夕暮れ、川や湖で馬を洗う。農作業でほてった馬の脚を冷やしてやり、全身の汗やよごれを丹念に洗い流す。こうした風景が、以前はよく見られた。「冷し馬の目がほのぼのと人を見る」(加藤楸邨)。町や村に動物が多かったころは、人と動物に交流があり、気持ちにやさしさがあったことが思い出される。 星界の便りにも耳すまして 【’89.8.12 朝刊 1頁 (全862字)】  太陽系最果ての海王星、というと「あれっ、水金地火木土天海冥と違ったかしら」と指摘されることがある。確かに、冥王星が太陽から一番遠いと習った。だが、この20年は海王星の方が遠くにある。教科書派は1999年まで待っていただきたい▼その海王星へ米国の惑星探査機ボイジャー2号が近づいている。今月25日(日本時間)には約5000キロのところまで肉薄する。海王星は、地球の4倍の直径をもつ大惑星だが、45億キロも離れているため、大望遠鏡でのぞいても、青い素顔はかすんでいる▼この星から見る太陽は、地球で見る900分の1ほどの大きさで、昼間でも地上の日没10分後のたそがれ模様だそうだ。撮影条件はよくないけれども、ボイジャーが送ってくる映像が楽しみだ。すでに接近中、渦巻くあらしを思わせる班点や、たなびく雲をとらえている。海王星の大気は水素、ヘリウム、メタンからなっているらしいが、この雲の正体は何だろうか▼とぎれとぎれだという輪は、どんな形なのか。衛星も、地上から見つかっていた2つのほかに、新たに4つ発見している。地球の月より少し大きい衛星トリトンには液体窒素の海があり、氷が浮かんでいるかもしれない、と想像されている。ボイジャーは、この衛星も密着取材する▼12年前に地球を出発したこの探査機は、木星、土星、天王星に次々と立ち寄って、目を見張る新世界の画像を届けてくれた。まだ機能は衰えていないが、なにしろ遠方まで行った。地上の電波指令が届くのに4時間もかかる。送られてくる信号も微弱だ。大きなアンテナで聞き耳を立てなければならない▼今回は、長野県臼田町にある宇宙科学研究所のパラボラアンテナも協力する。ボイジャーが海王星の裏側に回り込んだとき、もれてくる電波をとらえ、大気の組成などを探るのが使命だ。永田町からもれる政界の消息はしばらくおいて、臼田町への星界の便りに耳をすましますか。 自然と子どもたち 【’89.8.13 朝刊 1頁 (全859字)】  きびしい残暑の中の帰省、旅行。大勢の人々が移動する時期だ。大自然のふところに入りこみ、精気を胸いっぱい吸い込んでいる人も多かろう▼東京都武蔵野市では、小学校高学年と中学生を対象に、14年前から「武蔵野自然クラブ野鳥教室」を続けている。毎年、50人ほどの少年少女が参加する。経験ゆたかな指導者たちとの、野鳥観察、野外生活の体験。自治体がこうした形で地域の自然学習を進めている例は珍しい。「日本野鳥の会」が12年前から協力、会員たちが指導に当たっている▼地元の井の頭公園。近くの多摩川。観察の回を重ねて鳥の名や生態を知る。カイツブリは、アシの葉や茎でなく、水に浮かぶビニールのひもや袋で浮き巣を作っていた。釣り人の捨てたてぐすが足にからまって、両足の指が切れているドバトも見つけた。水の質に敏感なカワセミは、水がきれいになる冬場に来る、などの発見もあった▼「多摩川ジュニア探偵団」を編成、上流から下流まで、水質検査や野鳥鑑識もやった。実地に自分で調べると、生活排水や工場排水が川をよごすさまがよくわかる。市が計画した「市民探鳥会」の日には、子どもたちがおとなの市民に説明し、質問に答える指導者の役をつとめた。夏休みには森の中の小屋で、まき割り、めし炊き。きなこを、うすでひく▼つらく楽しい活動のあれこれ。いきいきした子どもの個性。それらを活写した『ぼくらは自然探偵団』を読んだ。著者の矢作嘉博さんは指導者のひとり。自動車会社に勤めながらの活動だ。「子どもたちは、動物でも石でも、自然と遊びたわむれながらさまざまな発見をする。逆に教えられます」▼ほかの土地の子どもたちにも武蔵野市と同じような機会を与えたい、と言うのは「日本野鳥の会」の飯塚利一さん。ソ連ハバロフスクの「少年鳥学者グループ」という団体との間に文通などの交流がはじまり、いつの日か共同観察を、と夢がひろがっている。 風鈴 【’89.8.14 朝刊 1頁 (全855字)】  暑熱の中、そよとも風が吹かぬ。汗ばんだ体を動かすのさえ大儀だ。そんな時に、澄み切った、かろやかな音が突然きこえる。ふと覚える一瞬の涼しさ。「風鈴の処(ところ)に風のありにけり」(藤田耕雪)▼冷房がなかった時代の工夫だが、すばらしいことを考えたものだ。鉄や貝殻、ガラスなどを使う。鐘の形につくり、中に舌を垂らしておもりをつける。その先に短冊を結びつける。風が、その強弱に応じて鐘をつく。音を聞いて涼を感じる。聴覚が、温度を感じる感覚につながる。暑いこの夏は売れ行きがいいらしい▼東京の百貨店では風鈴コーナーを設けている。伝統的な形の南部鉄のものがよく売れる。客の半数以上は、若い女性や2人連れ。根強い人気を持った商品だそうだ。たしかに、昔から使われてきた道具や調度品は姿を消しつつある。ある調査では、残っている度合いは、火鉢や七輪が3%、蚊帳は1%ほどである。風鈴は健在だ▼現代風に工夫し直しているから、という。それでも、やはり昔風の日本家屋ならではのものだろう。「風鈴や皆あけ放ち長屋住み」(安田孔甫)。古くからの工夫では庭の流れに仕掛けるししおどしも趣がある。太めの竹筒を中ほどで支えてある。流れる水が筒にたまると筒が傾いて水をはきだす。うしろにもどる時に、筒のしりが石をたたく▼何とも心地よい音がする。本来は、この音で、田畑を荒らすいのししなどを追い払った。これを風流な装置にしたのは人の知恵である。ちょっと離れて聞くと、涼しくて静かな、水の流れる空間を瞬時に感じる。こうした工夫が生きたのは、人々が音に敏感だったからだろう。近ごろの私たちは不要な音にとりかこまれ、かなり鈍感になっている▼かすかな風のそよぎを音に聴く。季節の微妙な変化を感知する。とぎすまされた感覚と心の落ちつきを保ちたい。暑さも今が山だ。「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」(飯田蛇笏=だこつ) 8月15日に思う 【’89.8.15 朝刊 1頁 (全863字)】  あの8月15日から、もう44年たつ。きょうは何の日かと聞かれて、答えられない若者もいる。それもふしぎではない。実際にあの戦争の日々を生きた人々はもはや少数派だ▼「あの日、何を思い、何を考えていましたか」という本紙の問いに、江田五月社民連代表は「当時4歳で、戦争の記憶がない」と答えている。小沢一郎自民党幹事長は「何せ3歳だから何を考えていたのかと言われても、わからない」。第一線の政治家にしてしかり。それだけの歳月なのだ▼戦争末期に、日本海軍は回天という特殊兵器を作った。いわゆる人間魚雷だ。長さ14.5メートル、直径が1メートル。かろうじてあぐらをかける広さの空間に人間1人が乗り込む。空気の量が限られ、浮上できぬ時の生存時間は24時間。潜水艦に運んでもらい、敵艦に体当たりする仕掛けである▼その回天隊の隊員として訓練を受け生き残った神津直次さんに、近ごろ若い人が必ず聞く質問がある。なぜ戦争に反対しなかったのか。そして、なぜ特攻隊を志願して自分から死のうとしたのか。神津さんは当時20代初めだった。若者は昔も今もかわらぬと思うが、なぜ自爆兵器に乗るのかと問われると答えにくい▼黒塗りの回天を初めて見た時の衝撃を、日記に「理性も感情も喪失」と書いた。若者への答えを求め、当時の体験などを最近『人間魚雷回天』にまとめた。海軍は「一撃必殺」「特に危険を伴う」と表現しながら、生還を期待できぬことを伏せて隊員を募集した▼死にたくない、という気持ちと同時に、命をすてて国を守ろうと思う。あきらめ、充実感、名誉欲の混在。すでに命を捨てた同僚もいる。極限状況で青年の心理は揺れる。「東亜の解放」を旗印にアジア諸民族に何をしたかが見抜けなかった愚かさ、と神津海軍中尉は告白する▼今の若者が疑問に思う言動。そこへ昔の若者を追い込んだ多様な要素。時がたっても、きょうは戦争を考える日であり続ける。 宮崎勤は何の被害者か 【’89.8.16 朝刊 1頁 (全856字)】  野本綾子ちゃんを誘拐して殺したという宮崎勤が、埼玉県の今野真理ちゃん、難波絵梨香ちゃんの事件も自分の仕業だ、と自供した。いう通りだとすれば、まれにみる残忍な幼女連続殺人として犯罪史に残るだろう▼26歳になるこの青年は言葉すくなだった、と近所の人々はいう。その生き方は、いかにも現代のある部分を表している。警察が発見したビデオテープは6500本。アニメが多く、残酷ものや幼女の裸体を写したものもあった。この本数では映すだけでも相当な時間だ。自室で映像の世界にひたりきりだったのか▼なま身の人間のつき合いでは、まず相手の立場を考える。時にはかけひきや妥協も必要だ。やりとりの間におたがい自尊心が傷つくこともある。人間の世界では当たり前のことだし、その経験を積みながらひとは成長する。だが、そうしたことは面倒だ、避けたい、と考える人が若い世代に増えている▼そこへゆくと映像、虚構、機械の領域では自分が想像の中で好きなようにふるまえる。近ごろ若い男性の中に、しっかりした独自の考えを持つ女性とのつき合いは苦手、というものが多いともいう。濃密な人間関係を避け、想像の中で欲望が大きくなると、はけ口は無抵抗な幼女に向かう。犯罪学者が説明するところだが、恐ろしい▼近くの人間とはつき合いが悪くても、この青年はビデオ愛好家の団体に属し、文通や会報を通じてビデオの貸し借りをしていた。同じような団体は全国に100以上あるという。所属する会員の数も多い。愛好家なら物騒なことをする、というわけのものではない▼似たような趣味を持つ大勢の人々の中で、この青年だけが、なぜこんなことをしたか。「犯人は人間じゃない」と犠牲者の遺族。許されぬ、おぞましい犯罪であることはまちがいない。だが、この青年も何かの被害者ではないのだろうか。それが何なのかがわからないと、社会は落ち着けない、という事件だ。 酸性雨を降らせるな 【’89.8.17 朝刊 1頁 (全861字)】  北欧には明るい金髪の人がいる。やわらかな日の光にあたると、溶けてしまうのではないかと思われるほどだ。スウェーデンで、金髪の女性の髪が緑色になる事件が起きた。10年あまり前のことである▼調べてみると、風が吹けばおけ屋がもうかるような話だった。酸性雨が降って地中に入る。地下水が酸性を帯びる。そこから水をとる水道も酸性になる。水道管の7割は銅製だ。銅管が傷む。銅が水道に溶け出す。その水で洗髪する。緑色に染めているのも同然だ……。乳幼児に下痢がふえていたのも同じ原因とわかった▼元凶の酸性雨とは何だろう。火力発電所や工場、自動車などから硫黄酸化物、窒素酸化物などが大気中に排出される。それが雨に溶けて降るものだ。森林は枯れ、湖沼には魚が住めなくなる。水素イオン指数(pH)は7が中性だが、基準としては、pH5.6以下の酸性の雨を酸性雨という▼大気にはじまり、水も汚染され、土も樹木も傷む。人間が生存するための環境にとっては大問題だ。北欧での最初の報告は1950年代の末期だった。その後、各地で具体的な被害が出はじめた。昆虫や魚類が死んだ。欧州の名高い森が傷つき、米国の自由の女神はぼろぼろとはげ落ち、大理石の遺跡は溶け、中国の農作物が大被害を受けた▼日本でも70年代半ば、梅雨どきに首都圏などで多くの人の「目がひりひり」した。今週、環境庁が明らかにしたところによると日本でもかなり酸性度の高い雨が全国的に降っている、という。年平均のpHが4台のところが多い。すでに被害が出ている北米よりやや弱い程度だ▼北欧では湖に石灰をまき、中和をはかっている。セメントやアスファルトの粉が地上から舞い上がり中和作用を果たすこともある。だが、そもそもの硫黄酸化物などを出さぬことが先決で、削減に向けて国際的な動きが進んでいる。風や雨は、国境を越える。地球はひとつ、の実感はますます強まるばかりだ。 アフリカ映画「チェド」の中継者 【’89.8.18 朝刊 1頁 (全860字)】  アフリカ映画を見た。セネガル人ウスマン・センベーヌ監督の「チェド」。本国で10年間も上映禁止だった。宗教や権力の問題を扱ったためらしい▼乾いた風景。はじけて割れるような音楽。衣装の鮮やかな色。それに思い切って単純化、抽象化した作劇術。想像力が刺激され、見ごたえがある。舞台は西アフリカ。17世紀ごろの、架空の国だ。イスラムの導師が来る。改宗に反対するチェド(抵抗者)たちが王女をさらったのに始まる騒ぎ▼アフリカが、外からの介入に反して自分らしさを保とうとする。歴史的に、それがいかに難しかったかを、あらためて思い出させる。映画はいろいろに楽しめるだろうが、興味深いことのひとつは、会話や会議の場面に「中継者」が登場することだ▼AとBの会話。必ず横に、Cがいる。AはCに向かって「Bにこう言え」と話す。Bも「Aに言え」とCに話しかける。激していても原則としてAとBは言葉を直接かわさない。会議の場でも中継者に向かい、人は「王に伝えろ」、王は「彼にこう言え」と発言する▼ひどいことを言う時も直接の侮辱は避けられる。相手の尊厳を傷つけずに意見を言える。話に立ち会う中継者は、いわば議事録の暗記役でもあったらしい。すべてを口承したアフリカに実際にあったのだろう。意思疎通の技術として面白い工夫だ▼見ていて英国の議会を連想した。議員同士が直接ののしり合うのでなく、「議長」と発言を求めた上で各議員は議長に向かって話す。第三者に聞かせるとなると、いきおい論理的な説得力や冷静さが必要になる。アフリカでは、つとに練れた議事運営法を確立、ということか▼日本で意思疎通に第三者が登場する例といえば、結婚の前、あるいは後に、仲人が話の中継ぎをする場面だろうか。仲が冷えた夫婦ABが、Cつまり子どもを介して話をする風景もあるかも知れぬ。「チェド」の中継者は、時に笑いを誘う。考えさせる役割である。 「子ども110番」10周年 【’89.8.19 朝刊 1頁 (全849字)】  子どもが電話をかけてくる。児童心理などにくわしい人々が応答、いろいろな相談に乗る。ダイヤル・サービス社が国際児童年を記念してはじめた「子ども110番」が10周年を迎えた。電話してきた子どもは延べ13万5000人を超える▼「少しでも説教のにおいがすると子どもはすぐに電話を切ります」と同社の宮島正子さん。子どもが訴える本音を真剣に受け止めて聞いた、この10年間の報告書を読んだ。「子どもの心模様だけでなく、社会のさまざまな問題点の総合カタログのよう」と社長の今野由梨さんは話す▼ある時期からこんな電話が多くなった。とくに悩みがあるわけではない。質問でも相談でもなく、ただ身辺の出来事を知らせてくる。必ず「きょうね」で始まる。「ふむ、ふむ、それで?」と聞くばかり。時間がかけ違うのか、家族で話し合えない子が多い。いわば一家団らんの疑似体験だ▼「友だちがまだきまらない」「どこのグループにもまだ入れない」との訴えが新学期に殺到。「まだ」と訴える時期が年々早まる。4月6日に学級ができ、10日には「まだ友だちが」と訴えてくる。「ほかの人はどんどん親友をつくってる……」。自立せず全体主義的。ほとんど追従的なまでの「いっしょ願望」と報告にある▼「ひどい先輩がいる。文句が言えない。何も言わずに先輩がよくなる方法教えて」。人間の社会には、逆らい、責め、競うという否定的な人間関係がつきものだ。それを避けて「いっしょ」を願い、達成できないとストレスがたまる。家庭内・校内暴力、いじめ、その次に「目的性や方向性のない残酷な現れ方」の爆発を報告は予言していた▼小、中、高校生。そして大学生。男子の相談内容の首位は、小学生から「性知識」である。学校教育では関心にこたえる態勢が不十分なのだろう。生命と性について知りたい、という信号を子どもの電話は発しているように思われる。 作曲家の古関裕而さん逝く 【’89.8.20 朝刊 1頁 (全862字)】  敗戦から2年。「柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日……」。それは人々が焼け跡から立ち上がる日でもあった。短調から長調に、また短調へと転調する『夢淡き東京』。曲想のみずみずしさに人々の心は潤った▼作曲家の古関裕而さん、80歳で逝く。戦後まもなくの連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」「君の名は」などの主題歌を作った人だ。名のない曲も、放送番組のテーマ音楽など数知れず、だった。NHKの「昼のいこい」「今週の明星」「早起き鳥」……そしてスポーツ・ニュースのテーマ曲▼驚くほど大勢の人が彼の音楽を聞いてきたはずだ。「私が作ったと知られなくても人々に親しんでもらえればうれしい」と言っていた。戦前は「船頭可愛いや」、戦中は「露営の歌」や「暁に祈る」「若鷲の歌」「ラバウル海軍航空隊」などが有名だ。「戦争賛美の批判が一部にあるが、若者たちの懸命さを応援しようとしたと思う」と音楽評論家の伊藤強さん▼福島市で呉服商の家に生まれた。子どもの時、いつもハーモニカをふところに持っていた。銀行に勤め、独学で和声学、作曲を勉強する。北原白秋の童謡や詩に曲をつけて東京のコロムビア社に投書するうち「来い」と言われたという。専属となり、まもなく早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を作曲、早大がリーグ戦で優勝する▼作った曲は5000を超えるだろう。応援歌や校歌、社歌なども作った。職場を見学、つぶさに調べなければ作曲しなかった。地味な勉強家である。酒はのまない。そのひたむきな足跡を保存しようと、古関裕而記念館が昨年、福島市に完成した。郷土の第1号名誉市民である▼本格的なミュージカルを好んだ。明るい、希望に満ちた青春の音楽が性に合っていたのではないだろうか。高校野球の「栄冠は君に輝く」は40年余も歌い継がれた。きのう甲子園では第2試合の後、歌詞を電光で掲示、この曲を流して死を悼んだ。「雲はわき、光あふれて……」 さまざまな言葉や重い果せる甲子園、いざ準決勝 【’89.8.21 朝刊 1頁 (全859字)】  長野代表の丸子実、岩崎隆一投手は野球バッグに細い濃紺のネクタイを入れていた。父親の形見だ。野球の手ほどきをしてくれ「甲子園に行くんだぞ」と言っていた父は、昨年、胃がんで死んだ▼それからの1年間、つらかった。ピンチになると攻守交代の時にひそかに握りしめる。すると落ち着いて投げられた。いよいよ甲子園の大舞台。上宮の強打線が相手だ。懸命の力投。ネクタイには1回触っただけだった。存分に力を出したら1つの壁を越えた。「もう、これなしでも気持ちを落ち着かせることができそうです」▼秋田代表・経法大付は、秋田大会から神だのみをやめた。「お守りはつけない。自分を信じるしかない」と松岡勇樹主将。神だのみに代わってチームワーク。猛練習がそれを生む。練習の最後に必ず全員で「いぐど、甲子園!」と叫んだ▼試合中の態度の好ましさ、全力疾走のひたむきさ。土佐は印象的だった。高知大会優勝の瞬間も相手のことを考え、派手なガッツポーズはしなかった。最近、甲子園の土を盛大にかき集めて持ち帰る。そもそもささやかな記念にそっと一握り、というものだと篭尾監督は選手と話していた。結局だれも持ち帰らなかった。さわやかな淡々野球▼坊主頭ばかりの中で、京都西のスポーツ刈りが目をひいた。日本高校野球連盟には別に髪形のきまりはない。だが、北から南まで丸刈りが圧倒的だ。京都外国語大付属の同校は、外国の高校生との交流のための海外旅行で、丸刈りを異様に見られたことがある。三原監督と相談した中村野球部長が「伸ばしていい」と申し渡した。「うそやろ」「やったー」。学法石川に劇的な逆転勝ちだった。「髪のせいで負けたなんて絶対に言われたくなかった」と選手たち▼楽しさ、苦しさ、悲しさ。「野球を通じて得たいろんな経験を、人生を生き抜く糧にしてほしい」と田中佐賀商監督。さまざまな言葉や思いに彩られる甲子園、いよいよ準決勝だ。 いろいろな夏休み 【’89.8.22 朝刊 1頁 (全841字)】  海に出かけた友人が「クラゲが発生していて、あちこち刺されてしまった。水遊びも終わりだね」と帰ってきた。海辺の日の光は真夏のギラギラから、キラキラと透明な感じに変わってきたそうだ▼8月も残り10日。つぎの詩を書いた北九州市の小学6年生、高原あゆみさんは目標を達成できたかなと思う。〈私はこのごろ/ほとんど本を読んでいない/図書室で借りた本も/時間がなくて全部は読めないことが多い(中略)読書はいろいろ役立つと/わかっているのに/夏休みこそ/時間をみつけて/たくさん本を読もうと思う〉▼夏が遠ざかっていく。手つかずの宿題が気になるけれど、でも、まだ遊び足りない。子どものころ、そんな気持ちで8月のいま時分を過ごしていたおとなたちも多いに違いない。対照的に、現代の子どもはきわめて多忙だ。先日も「夏休みは塾がふだんよりもっといそがしくなります。学校の宿題もあるので、夏休みの方が大変かもしれません」という手紙を東京の6年生、大村浩之君からもらった▼手紙といえば、これは千葉の、ことし小学校の先生になったばかりの女性から。「子どもといるだけで楽しい、とのイメージを抱いていた私には、教えることの難しさに、どうしたらいいんだろうと悩みながらの1学期でした。そんな私の思いが顔に出るらしく、毎朝、大丈夫? 疲れているんじゃない? とたくさんの先生方が声をかけてくれました」▼「……でも、いつも、ほほえみを忘れないつもりです。ほほえみは他人の心をやわらげるだけでなく、なにより自分の心へのほほえみになります。失いかけていたほほえみを夏休みの間に取り戻して、2学期にほほえんで子どもたちと出会いたい」。この先生に受け持たれた子どもたちは、しあわせだと思う▼いろいろな夏休みがある。涼しい長野や岩手などの小、中学校では、ひと足先に、もう2学期が始まった。 ふるさとのにおいがする高校野球 【’89.8.23 朝刊 1頁 (全847字)】  高天 遠色澄み/秋気 蝉声に入る。昼間はまだ暑いけれど、どこまでも澄んだ空はすでに秋のものだ。セミの声にも秋の気配が感じられる。そう中国の詩人がうたったのは、いまごろの季節だろうか▼夏の甲子園も、決勝戦のころになると、空は高くなってくる。延長におよんだ昨日の一戦。残念ながら敗れた仙台育英高校のアルプススタンドの様子を伝えていたテレビのアナウンサーが、感きわまって涙声になる場面があった。プロにあるまじき、というなかれ。取材を通じて若者たちと行動をともにし、その苦労と努力をつぶさに知っていたからだろう▼わが同僚の話を思い出す。彼は甲子園の記者席で突然立ち上がり、大声で地方大会いらい取材を続けてきた高校を応援した。10数年前の決勝戦だった。惜敗すると、はばからず声を放って泣いた。「ふるさとの学校が負けた」と。彼のふるさとは、その県ではなかったが▼高校野球には、ふるさとのにおいがする。それが大いなる魅力だ。大会が終わって、代表校は秋間近なそれぞれのふるさとに帰って行く。土佐高校が帰った高知県では、はや稲刈りが南国市で始まった。作柄は上々。石川高校の沖縄県ではさらに早く、西表島から沖縄本島に無農薬栽培の新米「ヤマネコ印西表安心米」を出荷中▼特別天然記念物イリオモテヤマネコにちなんだ命名に違いない。帯広北高校と北海高校が出た北海道では、この夏、生息せず、とされてきたカブトムシが各地で繁殖しているとのニュースがあった。子どものペット用に本州から持ち込まれたものが逃げ出したりして、まだまだ豊かな自然の中で繁殖したのではないかという▼優勝した帝京高校のふるさと東京にだって、自然はある。いまはセミの季節。時雨とまではいかぬが、とにかく鳴いている。また蜩(ひぐらし)のなく頃となった/かな かな/かな かな/どこかに/いい国があるんだ(山村暮鳥) 「連帯」の2人組には緊褌一番の難所 【’89.8.24 朝刊 1頁 (全864字)】  ポーランドの自主労組「連帯」のワレサ委員長が日本に来たことがある。インタビューして話を聴いた。終わって、次の約束、駐日ポーランド大使の招宴に向かう時、ワレサ氏と代表団のひとりが意見が合わず、ちょっともめた▼その人は「着替えろよ」と忠告する。「いや、このままでいい」とワレサ氏。その時のワレサ氏はベージュ色の開襟シャツに黒い革の上着、紺のコーデュロイのズボン。手にパイプ。火皿には米国製のたばこ。どちらも頑固である。結局ネクタイなしでゆくことになった▼ネクタイをしめることを主張していたのが、今度、首相に指名されたタデウシ・マゾビエツキ氏だ。多弁、陽気で気取らぬワレサ氏と好一対。無口で思慮深く、「連帯」機関誌ソリダルノスチの編集長として鋭い論文を書いてきた。共産主義政権を批判する勢力が政権をにぎる、という初めての事態に立ち向かう。大変だ▼「気の毒なキュリー夫人は3ドルに満たず、なお下落中」と大阿久特派員が書いている。キュリー夫人を描いた最高額紙幣2万ズロチ札は本来20ドルのはずだが、公認のやみドルでは格安。ひどいインフレである。年率100%に迫る勢いだ。400億ドルもの対外債務を抱え、経済再建にどんな手を打つか、難題だ▼「連帯」の運動を力で抑えるより、責任を持たせ、やらせてみる、というのが統一労働者党(共産党)の戦略との見方もある。難題を引き受けることに「連帯」内部ではためらいもあった。「ほとんど不可能な仕事だが、だれかがやらざるを得ぬ」とマゾビエツキ氏。「連帯」が政権に入れば西欧の資金を得やすい、との判断もあったか▼長い間の一党独裁制だ。人々は連立政権に慣れていない。統一労働者党員のうち90万人もが官庁、国営企業、地方行政の管理職の地位にあるという。党員たちが統治の要所にいる。官僚機構の壁を前に、ネクタイはともかくとして、好一対の2人組には緊褌一番の難所である。 風鈴公害 互いの生活を尊重し合う心が大切 【’89.8.25 朝刊 1頁 (全845字)】  この間、風鈴のことを書いたら読者から何通かの手紙が届いた。近所の風鈴の音に長年苦しんでいる、風鈴は公害だ、全面的な製造、販売、使用の禁止を訴えたいほどだ、というのである▼たしかに、備えた人はともかく望みもせぬのに聞かされる方は苦痛だろう。そこに触れずに、風流な工夫、という点だけを書いた。苦痛はいやましたかも知れぬ。「一晩中、耳もとで鈴を振られていることになり、不眠がひどく、日中もものを考えることができない」「雑音があふれる中での風鈴は、うるささといらだちを増幅させるだけ」▼具体的な提案もあった。家の中だけに聞こえる程度に音を控えた風鈴をつくれ。深夜も、秋も冬も、また旅行中もつけっぱなし、というのを考え直せ。洗濯ばさみひとつで音は止められる……。なるほど、人口の少ない昔と違う。家々は密集、風鈴の性能も向上し、響きわたる。さなきだに静けさの乏しい時だ▼風鈴からは離れるが、テレビのニュース番組などで背景に流される音が気になる、不要な音にいちいち悩む自分が情けない、という投書も近ごろあった。バックグラウンド・ミュージック(背景音楽)といいながら、前景に騒がしい音が出る。ほとんど前景音楽と形容したい音の使い方がたしかに多く、言葉が聞きにくい▼生活の中で出る騒音、また近所迷惑になるいわゆる近隣騒音に、人々は年々敏感になっている。ピアノの音から殺人事件が起きたことがあった。動物の鳴き声、湯沸かし器や冷房などの音、カラオケなどが問題になる。係争では、生活に静けさを保障する方向での裁定や判決が出ているようだ▼この3年ほど、川崎市、横浜市、東京都などのように、自治体も生活騒音防止のルールづくりに乗り出すようになった。本来は、係争になる前に、隣人への配慮から音を控えればよい話だ。風鈴に罪はない。互いの生活を尊重し合う心があるかどうかである。 今後の参考にしたい高層ビルの火災 【’89.8.26 朝刊 1頁 (全841字)】  高層ビルの火事を主題にした米国の映画があった。138階のビルが完成、それを祝う会が開かれている。下界をはるかに見下ろす高い階。着飾った人々。華やかな空気。その最中に81階の倉庫から出火する▼炎は上に迫る。恐れ、叫び、逃げまどう人々。「タワーリング・インフェルノ」という題だった。そびえ立つ地獄、だ。映画ができたのは15年前。高層ビルの火災が現実の恐怖だったのだろう。げんに米国では昨年も、ロサンゼルスで62階建て、38階建てのビル、ニューヨークでは102階のエンパイア・ステートビルで火災があった▼24日、東京都江東区で起きた火事は、消防庁によると「マンション火災としてはこれまでで最も高い場所」である。28階建て高層マンションの24階から出火。67メートルもの高さだから、はしご車のはしごも届かない。死者が出ず、大惨事とならなかったのは何よりだった▼9歳の那須健太郎君は27階の部屋で留守番をしていた。気がつくと部屋も廊下も煙だ。「たすけて 2704 なす」と紙2枚に走り書きした。ベランダに出て、紙を投げる。ヘリコプターの消防隊員がその姿を見つけた。救助隊員がかけつける。少年は、うずくまっていた。どんなに心細かったことだろう▼体の不自由な人を背負って脱出した青木千代子さんの活動も報じられた。心強い話だった。消火、救助に当たった人々の努力もさることながら、各戸が耐火壁で仕切られた防火建築だったことが、惨事にいたらずにすんだ理由だろう。構造上の問題は少ないとしても、人間はどう行動したか。今後の参考になる。こまかく調べてもらいたい▼緊急の連絡、避難などについて、教訓があるに違いない。高い所に住んでいない人でも、仕事、食事、宿泊などで高層ビルに出入りする。高い建物がふえる昨今、そうした場所での安全はすべての人にとっての関心事だ。 スクラップブック 【’89.8.27 朝刊 1頁 (全855字)】  夏休みの活動にもいろいろある。スクラップブックを作った人も少なくないだろう。新聞や雑誌の記事を切り抜き、帳面にはる。切り抜き帳。昔ふうにいえば、はり混ぜ帳、か▼『江戸文人のスクラップブック』(工藤宜著)という本を読んだ。漢学者で詩人だった大槻磐渓(ばんけい)という人のスクラップブックを紹介したものだ。縦40センチあまり、横30センチあまりの和紙をとじ、それに資料がはってある。11冊あって、題名が面白い。「積塵成山」。塵はちりのこと。少しずつはり、ちりも積もれば山となる、というわけだ▼実にさまざまなものをはる。漢詩、和歌、絵、地図、手紙、広告のちらし、天体図……。25年ほどの間にはられた資料をたどってゆくと、ペリー来航にあたって開国を主張した江戸末期の開明的な学者の生活が浮かび上がる。切り抜き帳は、その人が何に関心を持って生きたかを端的に示す。それが他人にも興味深い▼自分が、あれこれの情報を保存しておきたいと思う。それは、いわば自分独特の世界だ。ひとと違った知識や感情がこもる領域である。スクラップブックをつくる作業は、だから、自分が編集長になって本を編むのにも似る。新聞を1、2週間、保存し、求める主題だけを追って切り抜くと、日々読み捨てるのと違い、情報の多さに驚くことがある▼そういう作業を代行しようと考える人が出てもふしぎではない。米国の首都には、指定された項目の記事を切り抜いて届ける商売がある。トルコ大使館がトルコ(Turkey)を切ってくれと依頼した。12月にやたら切り抜きが増える。調べたら、クリスマスの七面鳥(turkey)関連の記事も切ってあったとか▼日本では、項目を選んで切り抜き、雑誌に編集する商売もある。情報化時代だ、データベースを利用すれば切り抜く手間は省ける、との意見もあろう。だが、はり混ぜ帳には、やはり手づくりの味がある。 政治家の「先生」づけ、見直しの好機 【’89.8.28 朝刊 1頁 (全861字)】  会社の中で上司を呼ぶ時、「○○課長」と呼ぶか、それとも「○○さん」と言うか。最近のある調査によると「さん」づけで呼ぶようにしている会社が14%、つまり7社に1社あるという。従業員が3000人以上の会社に限れば、27%が「さん」呼びだ▼権威を前面に出す形式主義ではなく、だれでも名前で呼ぶ。呼び、呼ばれる双方に、人間同士の間柄、という空気が流れることだろう。夜の街で、客を店に呼び込もうと叫ぶ男の声を聞いていると「そこの社長さん」「ちょっと先生」を繰り返す。人を持ち上げるにはこの2種類、と割り切っている▼社会党委員長の土井たか子さんが「国会議員を先生と呼ぶことをやめよう」と提唱した。土井さんの秘書の五島昌子さんは、土井さんを土井さんと呼んでいる。「先生」ばかりの永田町では珍しい。「今までの政治は権威、名誉、地位ばかりを大切にして、市民から遠いものだった」と土井さん▼「社会党にもそういう面があったかも知れない。目を覚まさないといけない」と自戒の念をこめての提案だ。人間は弱いもので、ひとから「先生、先生」と言われると、自分が優れた存在であるかのように錯覚しがちである。本当の「先生」つまり教師でも、そう呼ばれるうちに、何についても自分は仰ぎ見られる存在だ、と思いかねない▼「先生」と政治家を呼ぶのは明治のころから、という。当時、自由民権思想を文字通り教えていた人が多く、弟子たちが自然に呼んだものらしい。それなら中身への敬意、実力への敬称だ。いつのまにか呼び名は形ばかりになる。汚職をしても「先生」。12年ほど前に、故江田三郎氏が社会党を離れた時に土井さんと同じ提案をした▼それ以前にも同じ提案はあった。政治を考え直そうとの意識が高まっているいまは、実行への好機だろう。有権者も官僚も「先生」をやめる。いや、開明的な永田町の「先生」自身が、名前を呼んでくれ、と言えばよい。 バルト3国の「バルトの道」 【’89.8.29 朝刊 1頁 (全860字)】  古くはバルチック艦隊の名で知られるバルト海。フィンランド、スウェーデン、ソ連などに囲まれる内海である。その沿岸のいわゆるバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニアの3共和国)に先日「バルトの道」が敷かれた▼といっても道路ではない。別名「人間の鎖」。100万を超える人々が、620キロにわたり3カ国を縦断して手をつないだ。「50年前まで、われわれは独立した国だった。それを思い起こし、主権をとりもどすための行動だ」。3国はいまソ連の一部だが、これほど大がかりな抗議の意思表示は初めてだ▼まさに50年前。第2次大戦前夜の今月23日、3国のソ連併合をきめた独ソ不可侵条約の秘密追加議定書が調印された。ソ連は親ソ政権をつくり、その要請を受けたとして3国を支配下に置く。多くの市民が流刑に処せられた。恐怖と警戒心の年月のあとに、ペレストロイカ(改革)の時代が来た▼最近の3国の動きは目ざましい。自立への欲求が一気に噴き出た観がある。自分たちの言語を共和国内の公用語とする、実質的な農地個人所有に近い制度を認めるなど、さまざまな改革を打ち出した。ロシア人市民などとの間に対立も起きた。こうした動きが、かりに独立運動に進んだらどうなるか。中央政府にとっては一大事だ▼ソ連最高会議は先月、3国の最高会議からの提案を受け、来年の元日から、3国が独立採算制に移ることをきめた。中央に対する地方の自主権を思い切ってひろげる実験だ。さらにこの秋、民族問題で共産党中央委総会を開くときめた。興味深いのは、独ソ密約の一部をソ連が初めて公表したことだ▼調印したモロトフ外相とリッベントロップ・ドイツ外相の署名がある。グラスノスチ(情報公開)によるのだろうが、3国の自立志向は当然勢いづく。ほかの共和国でも民族問題には火がついている。共産党はバルト3国に厳しい警告を出した。当分、目が離せない情勢が続く。 8月のことば抄録 【’89.8.30 朝刊 1頁 (全860字)】  8月のことば抄録▼「みんな、すごい。これだけの頑張りがあれば、全日制に負けないくらい社会で生きていけると思う。仲間と野球がやれてほんとに楽しい」と全国高校定時制通信制軟式野球大会に出た青森県立北斗高の赤平浩太郎投手▼「えー、ここが6400メートルなんだ。やったーってまず感じて、それからシェルパや日本の皆さんにお世話になったなあ、と思いました」。ヒマラヤのチュルー南東峰登頂に成功した立川女子高山岳部の3年生、戸沢温子さん▼「国には日本製品があふれています。『白人ではなく有色人種が作ったのだよ』と子どもたちに教えるのですが、その作り手たちの顔がよく見えない」と、来日した南アフリカの女性活動家M・チャーリさんと、E・モコトングさん▼8月15日に一番訴えたいこと。「反戦と反核。沖縄戦の悲劇を風化させぬためにも繰り返し全国へ世界へと反戦の訴えを続けなければならない」と喜屋武真栄参院クラブ代表▼天皇、皇后両陛下の初記者会見。「憲法は国の最高法規ですので、国民とともに憲法を守ることに努めていきたいと思っています。……言論の自由が保たれるということは民主主義の基礎であり、大変、大切なことと思っております」と天皇陛下▼西独に越境した東独の若い夫婦、ジャネットとイェンス「東独の政治も経済も良くなる展望が全くない。こんな国で子どもを産み育てることはできないと思った」▼ポーランドのマゾビエツキ新首相が所信表明演説で「反対派の抹殺につながる対決の原則をパートナーシップ(連携)の原則に置き換えなければ、われわれは全体主義体制から民主主義体制に移行することができない」▼仕事と酒。生活環境文化研究所長の橋本敏子さん「女性の場合、お酒を飲むことイコール腹を割ることにはならないんです」。日本社会は「泥酔の時代」から「ほろ酔いの時代」へ移行した、と愛知学泉女子短大、高田公理教授の観察。 「難民」と「出稼ぎ」 【’89.8.31 朝刊 1頁 (全857字)】  この夏、休みをとって帰省したり外国旅行に出たりした人は、おびただしい数に上る。JR利用者だけでも2000万人に近い。民族の大移動。それも、きわめて平和的な移動である▼東ドイツでは夏休みをハンガリーで過ごす市民が多い。毎年20万人にも達する。ただ遊ぶだけではなく、今年は野宿して西側への越境脱出をねらう人が目立った。ハンガリーが、オーストリアに接する西の国境に張っていた高圧電線を撤去したのが5月のこと。ハンガリー経由での東独市民の脱出が例年より増えた▼ハンガリー政府によると、今年に入ってからの数は約7000人。さる19日には、1日だけで1000人に及ぶ集団脱出があった。政治の窮屈さ、経済の停滞に背を向けての、必死の民族移動である。その上、東欧諸国の西独大使館には東独市民が何百人も駆け込み、ろう城。さらに脱出を望む市民が100万人以上いる、という▼ハンガリーの草原から遠く離れた東シナ海の海原が、いま同じように民族移動の道になっている。インドシナ難民がぞくぞく北上、日本に着く。中国人もまじっている。ベトナム戦争が終わってから今までに120万人近い難民が米国、カナダや西欧諸国などに定住した。日本は1万人の定住枠を準備し、6000を超える人々がすでに定住している▼船で脱出する人々は、政治的意見を理由に迫害される恐れがある「難民」なのか、それとも良い生活を求める「出稼ぎ」的な人々なのか。そこをきちんと認定、選別し、後者なら帰還させる、とジュネーブでの国際会議は6月にきめた。同時にベトナム政府に、流出を抑制するよう求めた▼実際のところ、抑制策には限度があり、認定に難しさもあろう。日本の経済力と安定した社会を外から見る人々は、水の低きに流れるように日本を目ざすだろう、と思われる。出稼ぎの不法入国ははっきり区別し、難民受け入れの態勢は早急に充実させねばなるまい。 日米野球の違い 【’89.9.1 朝刊 1頁 (全860字)】  プロ野球のウォーレン・クロマティ選手が米誌の質問にこたえ、日米の野球の違いなどについて語っている。興味深い。一部をかいつまんで紹介すると▼……日本の野球は、米国のとは全く違うしろものだ。精神的な面にいささかうんざりする。試合前の体操や練習の長さ。試合に対してよりも練習の方に多くを注ぐ。いざ試合が始まった時は、もはや精力は残っていない。ぼくたち米国人選手が控えているのは、その時のため。つまり日本人にないパワーとスピードを供給するわけだ……▼米大リーグのレジー・スミス選手もかつて「これは野球ではない。似ているだけ」と評したことがある。3カ月ほど前には別の米誌が日本のプロ野球について特集を組んだ。やはり「軍隊の新兵訓練顔負けの練習」が取り上げられた。また、米国では個性が尊重されるが、日本の選手は監督やコーチの言うがまま、と書き、典型として巨人の原選手を挙げた▼日本式野球にも、しかし、参考になることがないわけではない。クロマティ選手は、何かを学んだかとの問いに、チームワークと答えている。日本で言う2ストライク3ボールは、ストライクよりボールを先に言う米国では、3―2だ。これは単に技術的な違いだが、野球のあり方全体の違いはきっと人間の生き方の違いを反映しているのだろう▼『野球はベースボールに勝てるか』(脇阪昭著)という本は、そこまで考えさせる野球の見方を書いている。たとえば、内野手強襲の打球。日本ではヒットとするが、過ちを気にしない米国では、野手のエラーだ。いわゆる敬遠の四球。クロマティ選手も不満をのべている。チームの作戦として必要かも知れぬが、機会を与えないのは公正でない、と考える米国人はきらう▼この考えは、参入の機会を米国が求め続ける貿易摩擦とも無縁でないかも知れない。ブッシュ大統領はベースボールが得意。海部首相の野球の腕はどうだろう。会談はかみ合うか。 親切受けた乾君の御礼 【’89.9.2 朝刊 1頁 (全863字)】  千葉県船橋市の吉岡乾(のぼる)君は小学校4年生。9歳で、5人きょうだいの末っ子だ。その朝はどうも体調が悪く、東京駅に着いてから、何度も便所へ行った。おなかが痛い▼新幹線は込んでいた。きょうだいはばらばら。乾君だけが母の佐代子さんと並んで座れた。窓際の席で乾君は気分がよくなるようにと念じたが、気持ちの悪さはおさまらない。冷や汗が出る。列車が動き出し、揺れ始めたら、突然、おなかの中から何かが胸を突き上げた▼ハンカチを口に当てたが、小さすぎて間に合わぬ。佐代子さんはあわてた。その時、2人の前に、さっと新聞紙が出された。隣で読んでいた男の人からだ。佐代子さんはとっさに丸めて袋のように仕立て、急場をしのいだ。乾君が顔を上げると男の人が紙コップに水をくんで来てくれていた。うがいをした▼気分がすっきりし、親子はお礼を言った。新富士駅で男の人は降りた。おや、席に忘れ物だ。佐代子さんがあとを追ったが間に合わない。茶色のケースに入った眼鏡だった。豊橋の田舎で何日かを過ごした。眼鏡のことが乾君の頭から離れない。どうしたら返せるだろう▼かぎは2つある。これは朝日新聞、と吐きながら目にとめたこと。それとケースの店名だ。乾君は朝日新聞に投書、お礼と、乗車日時、席番号、店名などを記し「ぼくはどうしてもメガネを返したい」と書いた。先月30日、東日本の本紙に投書が載り、「声」欄の担当者は反応を待った▼電話があった。東京に単身赴任中の51歳の会社員だった。「だいじに保管し、届けようとしてくれて感激です。それにしても、新聞名を覚えていた乾君の観察力はすごい」。男の人は、乾君親子ととりあえず電話で話し、眼鏡は無事に持ち主の手もとに戻ることになった▼自分がしたことを親切と言われるのは面はゆい、と男の人は名を出したがらない。こんな出来事、こんな人々を乗せて、きょうも列車は秋の景色の中を走っている。 歴史的もし 【’89.9.3 朝刊 1頁 (全847字)】  大げさな言い方だが、人生は選択の連続だ。一瞬ごとに、人はいくつかの道の1つを選んでいる。何をするにしても、あるいはしないにしても、反対の行き方や別の道が多分ある。だが、1つを選びとる▼違う道を行けばよかった、とあとで考えることもあろう。もし、あのとき別の決断をしていたら、今はどうなっているかと思うこともある。こういう「もし」を「歴史的もし」と呼ぶ。個人にも集団にも、過去を思い返せば、おびただしい「歴史的もし」があることに気づく。ことによると、その後の歴史を変えたかも知れぬ「もし」である▼東京グローブ座でミュージカル「ローマを見た」を見た。400年も前、天正の少年使節が8年がかりでローマ法王に会いにゆく。迷い苦しみながら少年たちは「見たい」という衝動につき動かされ、長崎から船旅に出る。若さがあふれる舞台だ。記録によると、少年たちは帰途、ポルトガルで歓迎され、芝居を見たという。だが、その時の西洋演劇の見聞も、彼らのほかの体験も日本に伝わっていない▼作・監修の山崎正和さんは、「もし」伝わっていたら、と調査旅行で考えた。おそらく日本の文化に影響を残したに違いない。「歴史的もし」と知りつつ感慨を覚えたという。実際には「歴史的もし」は頭の中だけのことだ。なぜなら、すでに起こったことが歴史なのだから▼ことしは歴史や時代を考えさせる出来事がとくに多い。日本では「昭和」が終わった。今月1日はナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が始まって50周年だった。そのポーランドで、いま、民主化が進みつつある。回顧の感慨は、ひときわ大きい。コール西独首相の記念演説の言葉が印象的だった▼戦争の過去を知らぬ若い世代にこう語りかけた。「今世紀の歴史を知る者の目は、現代の危機と誘惑に対しても鋭くなる」。もし、あの時、と吟味することの意味を考えさせる。 「ちょっと夢工場」 【’89.9.4 朝刊 1頁 (全878字)】  山家利夫さんは茨城県土浦市で小さな印刷工場を経営している。以前は会社員だった。会社づとめをやめたのは、障害を持つ息子たちに、作業する場をつくってやろうと思ったからだ▼2人の息子、昭君(34)と清君(31)はいずれも先天性脳性小児まひである。年齢からいえば大人だが、精神年齢は10歳前後かと山家さんは考えている。生まれた子に障害があることがしばらくしてわかった時の悩み、苦しみ。しかも、それが2人続いた時の気持ち。妻の静枝さんも山家さんも、一時「生きる望みを失った」▼自分たちに十分な気力と勇気があるだろうか、と危ぶみつつ2人は3つのことを誓った。(1)将来とも子どもについての愚痴はこぼさない、(2)できるだけ全力をつくす、(3)万一、不幸な事態に直面しても、すべて運命にまかせる。それからの2人の生き方はすさまじい。何しろ、清君はいまだに下の始末が自分ではできぬ身だ▼何年も前のこと。息子たちだけで400メートルほど離れた百貨店まで行くという。山家さんはそっとあとをつけた。手をつなぎ、話しながら歩いて行く。車に注意し、疲れる弟を時々ベンチに座らせる兄。おもちゃ売り場を見て、食堂では長い相談のあと、同じものを注文してうれしそうに食べている▼兄弟のきずな、愛情は山家さんの心をゆさぶった。夫妻は、できるだけ自主的に何でもやらせる。作業を考えたのもそのためだ。まず山家さん自身が印刷の勉強から始めた。必死だった。いまは兄弟のほかにも障害を持つ仲間が印刷所で働く。ホームステイの米国女性もいる。にぎやかだ▼毎晩ふとんを並べて山家さんは息子たちと長い話をする。一家でよく旅行もする。普通の体験をさせる。「ひとを愛し、ひとに愛される人間」「生産の喜びを感じる人」に育てたい、と思う。最近、山家さんの『ちょっと夢工場』を、全員で印刷、製本、出版した。人間はここまで勇気、忍耐力、寛容さを持ち得るのか。心打たれる。 コカイン戦争 【’89.9.5 朝刊 1頁 (全864字)】  南米のコロンビアといえばコーヒーを連想した。あるいはエメラルドだ。それに、金(きん)。首都ボゴタの国際空港はエルドラド(黄金郷)空港という。16世紀半ば、スペイン人は黄金郷を求めてこの地に来た▼いま、コロンビアと聞いて連想するのはコカインだ。コカをはじめコカノキ科の植物の葉から抽出される化合物。局所麻酔の薬である。2000年も前から、疲れた住民が葉をかんで飢えや渇きをいやしたり、傷口に葉をつけたりしたという。毒性と習慣性を持つところから、社会をむしばむ麻薬として現代の問題になっている▼コロンビアで栽培、精製され、密輸されるコカイン。米国で消費される量の多くは、世界最大の密輸組織メデジン・カルテルの手によるといわれる。首都に次ぐ第2の都市メデジンを地盤とする組織だ。年間20億ドルともいわれる密輸収入はコーヒーの輸出収入に匹敵する。その組織と政府が「戦争」状態になった▼政府は麻薬の密輸を断とうとする。麻薬問題に悩む米国も政府の努力に期待をかける。だが組織はこれに反発、先月来、県知事、県警本部長、判事などを次々に暗殺し始めた。最も衝撃的だったのは、先月半ば、5万人の聴衆の前で次期大統領の最有力候補ガラン上院議員を射殺した事件だ▼麻薬組織には本格的に訓練した暗殺部隊がある。外国人雇い兵もいる。この4年間に政治活動家700人以上、司法当局者約450人、報道関係者50人以上を暗殺した。政府の摘発結果は先月来、逮捕者1万2000人、軽飛行機・ヘリ349機、自動車1356台、武器1061点……という規模。見えざる帝国との国同士の戦いだ▼米国内には「基地急襲」を求める声もある。本拠メデジンに入った小里本紙特派員によると、130万市民の約3割が麻薬に関連して生計を立てている。血ぬられた応酬がどこまで続くのか。昨今、コカインは日本にも入って来ている。関心を持たずにはいられない。 絵馬に思うこと 【’89.9.6 朝刊 1頁 (全873字)】  日本最古とみられる彩色絵馬が、奈良市法華寺町の平城京跡で見つかった。1200年あまり昔の天平時代から、時空を超えて現代に跳びこんできた赤い馬▼顔を寄せ、間近に見た。東京国立博物館の「平城京展」で10日まで特別展示中だ。絵馬の寸法は現代のB5判、つまり『週刊朝日』をほんの少し大きくしたくらい。ひのきの板に、あごを引き、尾を立て、足踏みをする勇壮な馬が1頭、流麗な線で描かれている。馬首は右向き。これまで最古といわれた伊場遺跡(静岡県)の絵馬は左向きだった▼馬の体は赤い。ベンガラを塗ったものと鑑定された。鞍(くら)は白土という上質の粘土で着色され、泥よけのための障泥(あおり)には焼け火ばしを押したのか、まだらな文様。躍動感あふれる描写がすばらしい。「一流の絵師の作品だろう」と奈良国立博物館の河原由雄・美術室長。「絵画資料が極めて少ない時代だけに、貴重だ」▼なまなましい色と形を見ていると想像の世界に引き込まれる。奈良盆地の北端に整然と区画された都。人口7万ないし20万と推定される平城京の時代は、710年からわずか70年余だが、その間に古事記や日本書紀が完成し、遣唐使が出発し、鑑真が到着し、大仏や唐招提寺が建立された。展示中の木簡や道具類に、人々の生活の息吹が残る▼そこに芸術性豊かな絵馬の出現だ。絵馬は、祈願や謝礼のために馬の絵や字を描き、社寺に奉納する額である。馬は神の乗り物と信じられていた。絵馬をささげ、雨が降るように祈ったのか。やむように願ったのか。あるいは記録にある天然痘大流行の時の祈願か。医学や呪術と関係のある、人の形の木片の展示にも、祖先の心模様がしのばれる▼現代にも絵馬は生きている。だが天平の昔とは様子が違う。かつては手づくりで奉納した。昨今、「えと」の動物などが印刷された画一的な板を買う。そこに書く悩みや願いは、しかし、受験、恋愛、病気、就職と、実にさまざまだ。 美人の条件 【’89.9.7 朝刊 1頁 (全875字)】  こんな説を耳にしたことがある。本当だろうか。姉と妹がいれば8割から9割まで妹の方が美人だ、というのだ。もちろん、どういう顔が美人かの判断は人によって違う。大方の見方を平均しての話だろう▼その説によると、姉はとかく弟妹の面倒をみる責任を負わされ、きまじめな優等生のように育つが、妹は自由奔放に明るくかわいらしく振る舞い、甘える要領も覚える。その違いが表情に出るという。3人姉妹だったらどうなのだろう、一人っ子なら、と身の回りの人々を思い出しながら、ひそかな考察ができそうだ▼しばらく前にフィリピンで起きた事件。男3人がビールを飲んでいた。2人は兄弟だ。イメルダ・マルコス前大統領夫人と英国のダイアナ妃はどちらが美人かという話になった。「イメルダにきまっている」と弟。論争は白熱化、興奮した弟が台所からナイフを取って来て2人を刺した。兄は死亡。美人論争も物騒だ▼どういう人が美人かの判断は、主観によって違うが、時代によっても変化する。ソウル教育大の趙ヨウ珍助教授^(美術解剖学)が2000人の顔写真を材料に調べたら、ソウルの若者が選ぶ「美人の顔」は、幅1に対し長さ1.27だった。王朝時代からの伝統的美人はこの比率が1対1.30。豊かな時代にはあごの短いふくよかな顔が好まれるとか▼「あなたが選ぶ昭和の美人」をはがきで投票して下さい――7日までの美容週間を機に美容業界が呼びかけた。全国から5600余通が集まった。1位は美空ひばりさんだった。企画した側は、いわゆる美人女優が1位に選ばれると考えていて、びっくりした。回答者の3分の2が女性だ▼(2)吉永小百合(3)原節子(4)山本富士子……と美人女優が続くが、(6)土井たか子(8)市川房枝、と政治家がはいったのも面白い。性格や行動力、見識もふくめた人間全体の魅力が、いまや美人の条件なのだろう。「心美人」という表現があるが、「生き方美人」の時代、か。 秋サバは… 【’89.9.8 朝刊 1頁 (全848字)】  「秋サバは嫁に食わすな」というそうだ。「秋なすび嫁に食わすな」ということわざもある。あまりにもうまい、もったいなくて食わせられない、とは何と意地悪な嫁いびり▼いや、そうではない、と別の解釈もある。秋サバには卵がない、秋なすびも種が少ない、だいじな嫁が子宝に恵まれないと困る、という思いやり説である。いずれにせよ、サバが太り始め、その味がますますよくなる季節になった。別のことわざに「サバの生き腐れ」。見かけは生きがよくても、食べてあたることが多いから注意、という意味だ▼たしかにサバは傷みやすい。サバは、魚へんに青と書く。いわゆる青ざかな。イワシ、ニシン、サンマなどと同じだ。こういう魚は海の上層の流れの中を泳ぐ。背中が青く、腹は銀色に光っている。海面の上から見ても海中の下から見ても、見つけにくい。敵から身を守る工夫だ。水圧の低いところを泳ぐから肉が柔らかい▼柔らかで水分が多いから腐りやすい、ということらしい。それだけでなく、消化酵素が多いために腐敗しがちなのだ、ともいう。昨今は冷蔵や輸送の手段が発達したからよいが、昔は大変だっただろう。若狭の海でとれるサバを、小浜から京都まで運ぶ。徒歩で山や谷を越えて80キロ。「鯖街道」と呼ばれた道だ▼さきごろ同志社大の学生たちが塩サバを行李に入れ、徹夜で歩いて運んだ。昔の人の苦労を味わったことだろう。そうしてサバを入手した京都の人の知恵がすばらしい。塩を抜いた上で、酢で処理した。これを酢の飯で食べる。伝統的なサバずしだ。甘酢の昆布。竹の皮。格別な味である▼貴重なたんぱく源であることのほか、不飽和脂肪酸が多く、成人病の予防に役立つという。酢でしめてよし、焼いてよし、煮てよし、揚げるもまたよし。「今年は春から夏にかけて昨年の6割増しの豊漁。秋サバ漁もいいでしょう」と漁業情報サービスセンターの予測だ。 政治資金収支報告書 【’89.9.9 朝刊 1頁 (全846字)】  政治資金の収支報告書を自治省が公表した。政党や政治団体が、昨年1年間に集めた政治資金。前年より19.4%増えて、総額1723億円になっている。史上最高の金額だ▼政党や団体は書類で収支を報告する。どんなことがわかるのだろうかと収支報告書なるものを読んでみた。どの例でもよいがたとえば陸山会。与党幹事長の要職にある小沢一郎さんの政治団体だ。まず「本年の収入額」が5620万円、「支出総額」が5147万8762円とある。収入の中では寄付が4740万円を占める▼その内訳を見ると「個人からの寄付」が1715万円。「法人その他の団体からの寄付」が3025万円となっている。「個人」の細目を見る。21件の記入がある。日付つきだ。うち3件、3人の個人名による寄付の合計が400万円で、残る18件はすべて小沢さん本人の名での寄付、計1315万円なり▼これは小沢さん個人に寄せられた金を小沢さんが自分の政治団体に「寄付」して資金としたものだ。どこのだれが小沢さんに寄付したのか出所は報告書ではわからない。さて「法人その他」の部。ここには2つの株式会社からの4件、計300万円が記載されている。全額の1割弱。残りは「その他の寄付」で名無しだ▼体裁は整っているが詳細は不明、である。100万円を超えなければ記載しないですむからだろう。こまかく寄付してもらって具体名を伏せる。支出の方では「政治活動費」の中に「交際費(飲食代)」がずらりと並ぶ。その間に銀座の洋服店への払いが3回、計315万9500円。服をあつらえたか、人に贈ったか▼「政治活動費」はどこまでか、公私の別は、と有権者は考える。ほかの政治家の報告も似たり寄ったり。政治には実際に金がかかる。むだな金を使わせぬ自覚が有権者の側に必要だ。だが政治家も、こんな不透明な報告ですむと思っていては不信感をぬぐえまい。 訴訟社会アメリカ 【’89.9.10 朝刊 1頁 (全842字)】  米国で暮らしたことのある弁護士長谷川俊明さんが、普通の市民から「裁判に訴える」という言葉がすんなり出るのに驚いた体験を『訴訟社会アメリカ』の中で書いている▼2、30年前には、米国ほどではないにしろ、日本でも訴訟ざたが増えてくるだろう、と予測した人が多かった。経済が活発になって、個人の権利意識が強まり、高度成長の中で地縁、血縁の社会がどんどん崩れていったからだ▼しかし、経済活動は巨大になったのに、「訴訟社会がくる」予測ははずれた。近年急増したクレジットの不払いをめぐる事件を除くと、全国の裁判所に起こされる民事訴訟の数は、ここ30年それほど増えていない。人口あたりの訴訟の数は、制度が似ている西独と比べても、15分の1程度だという▼日本弁護士連合会の推定によると、全国の家庭で毎年、職場や家庭の問題、事故、土地建物の貸借など、法にからむ何らかの問題が延べ700万件程度発生している。それでいて、多くの人が訴訟に二の足を踏むのは、費用や時間がかかり過ぎること、よい弁護士に接しにくい、などに原因がある。企業の中にも、自前の法務対策部門をつくり、訴訟前での解決を目指す動きが強まっているという▼「重要で大きな紛争ほど、訴訟にならなくなってきた」「このまま弁護士が増え続けると、食えなくなる日が来はしないか」。弁護士たちから、世の「裁判離れ」を嘆く声が聞かれるようになった。彼らの間で、訴訟の促進を真剣に議論する空気が出てきたという▼少ない分け前を取り合うのは限度があると、訴訟以外の分野で弁護士が生きていく道を探す動きも強まってきた。日弁連の弁護士業務対策委員会は、法律相談の拡充やホームローヤー制度などを検討しているそうだ。約70万人といわれる米国の弁護士に対し、日本の弁護士は1万4000人足らず。彼我の差はこんなにもあるのか、と思う。 浅原神社の秋季大祭での奉納花火 【’89.9.11 朝刊 1頁 (全869字)】  「なかなかに暮れぬ人出や花火まつ」(高野素十)▼片貝の町の通りに人が出始めた。新潟県小千谷市にある1500世帯、人口5300人の町。9、10の両日、浅原神社の秋季大祭で奉納の花火が打ち上げられた。400年も前からという伝統行事。夕刻、目抜き通りから神社の境内にかけて夜店が並ぶ。植木屋、金魚屋、食べ物屋……。「帯かへて門辺の妻や花火の夜」(森川暁水)▼日本一、いや世界一といわれる大きな花火が上がる。人波の中には町や県の外からの人も多い。尺玉は珍しくない。3尺玉、4尺玉まである。その音は、ずしんと腹に響く。花火の代金は、すべて町の人たちの自弁。遠くの学校や職場に行っている若者たちもこの時は帰って来る▼境内の杉木立の間では、笛、太鼓の「はやし」競演が進む。小若(小学生)から成人まで、そろいの法被を着た11の組が町を練り歩いたあと次々に入場、演奏する。採点するのはかつて同じように練り歩いた初老の男たち。人々は拍手して演奏を聞く。あらゆる年齢層が加わる祭りだ▼いつのまにか空が暗い。境内はござに座る人でいっぱい。花火が始まる。1発ごとに拡声機の説明。「長女○○ちゃんの誕生を記念、健康を祈願して××さん奉納の尺玉!」。「片貝小学校、中学校の職員による尺玉の2段打ち。名づけて『片貝教育の華』!」▼これが具体的で面白い。町の人の情報通達・交換の場だ。「安達のおばあちゃん、105歳の長寿を記念して」と先がけの5号花火と尺玉の2連発が上がった時には拍手とかけ声でどよめいた。さまざまな思いをかみしめ、しゃべりながら家族や友人と見上げる花火。「半生のわがこと了(お)へぬ遠花火」(三橋鷹女)▼宣伝もせず、町に金は落ちない。ひと月分の収入にも及ぶという出費。しかし、2日間、2万発の花火の下には、再会し、きずなを確かめ合う同郷の人の喜びがある。「子がねむる重さ花火の夜がつゞく」(橋本多佳子) 生活と環境問題 【’89.9.12 朝刊 1頁 (全861字)】  東京の下町に古くからあるとんかつ屋。主人との昔話に、戦前は、使った油を父親が店の前のどぶに流していたという話になった。いまは油を集めて回る専門の業者がいる▼ふつうの家庭の台所では油をどう処分するか。流せば、当然、水は汚染される。フライパンに、さじ一杯分の食用油がついているのを洗って流すと、魚がすめる水質にまで薄めるのに、一般家庭の標準浴槽に10杯以上もの水が要るそうだ。古新聞などに吸いこませ、ごみとして処理すれば水は汚れない。米のとぎ汁も、流すかわりに植木にやればずいぶん違う▼たとえば東京湾の汚れは工場などより家庭の排水による度合いが大きいという。よい環境を望みながら、実は自分の生活に汚染は発している。先週から、地球規模の環境を考える集まりが日本各地で開かれている。民間の環境保護団体による国際会議に続き、11日からは政府と国連環境計画共催の会議がはじまった▼米科学誌『ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ』は、長年「地球最後の日」までの残り時間を表紙に時計の絵で表示している。この2年ほどは「あと6分」。超大国の軍備が主な判断基準だった。だが最近、世界への脅威として環境が無視できなくなった。10月号から環境や経済を加味して決める▼数年来、地球規模の環境悪化は切実さを増している。オゾン層を破壊するフロンは生産全廃へ、また酸性雨について欧州諸国は硫黄化合物の排出削減へと具体的行動が始まった。基本は汚染が「自分たちの生活に発する」という認識だろう。そこに難しさがある。汚染を生む生活様式を人は変えたがらぬ▼早い話、日本は熱帯の森林をどんどん切り出している。環境浄化を唱えればその言葉は自分のしていることにはね返る。裸の山にして後で援助をすればよいというものではあるまい。環境保全と開発はどう折り合うのか。環境問題とは自分たちの生活の仕方を考えることだ。 礼宮さま・紀子さんの婚約記者会見 【’89.9.13 朝刊 1頁 (全859字)】  皇室会議で婚約が正式にきまった後、記者会見でのお2人は実にうれしそうに見えた。ひかえめな物腰に初々しさがにじむ▼大学での友人同士。しだいに理解を深め、愛情を抱くにいたった様子がごく自然に語られた。目白で紀子さんを送って行く途中、信号を待つ間に「私と一緒になってくれませんか」。熟慮の末の申し込み。青春の一情景だ。ご両親の成婚の時も清新の気を感じた。今回はより一層である。「距離が離れますと、やはり寂しい」という発言も、優しさにあふれていた▼皇太子さまのご結婚について「30までにできれば上出来でしょう」。いかにも普通の大学生のようなくだけた口調で、笑いを誘った。普通の若者のように語り、そう見えても、皇族として「責任のある立場」(紀子さん)に立つ、という決意はお2人とも並々ならぬものと見受けた。「与えられた仕事を一つ一つ果たしてゆくつもり」と礼宮さま▼紀子さんのどこにひかれたか。「話をしていて楽しい人」だから。再び「話題が豊富な人」と念を押しての補足があったのは、ほほえましかった。紀子さんは関心が広く、行動家でもある。アジアへの旅。言葉や音楽の勉強。手話も習う。社会的な出来事への興味。いつまでも、話は尽きまい。卒論を指導した永田良昭・学習院大教授の言葉を思い出す▼国際理解、高齢化社会、生活環境など、あなたが関心をお持ちの問題にいかにかかわるか、ふさわしい方法を考えて頂きたい、と望んでいた。皇室に入っても「精進を期待します」。全く同感だ。本紙記者に「社会的肩書とか家柄で人を判断するのではなく、ひとりの人間として見ようとする姿勢がある方」と未来の夫を語っていた紀子さん▼「私自身、国籍や肩書で人を判断しないようにと育てられてきました」。すばらしい言葉だと思う。立派に育てたご両親。決断までには心が揺れたことだろう。「和やかな家庭」が築かれるのを静かに見守りたい。 重症心身障害児福祉を考える 【’89.9.14 朝刊 1頁 (全856字)】  桜はきれいだ/だけど/すぐ散ってしまう/桜のいのちは短い/だけど/風にいたずらされても/悪口をいわないで/桜はじっと/咲いている▼13歳で死んだ脳性まひの井手和也君の詩。体の緊張のため「さ」と発声するのも容易ではない。看護婦さんがひとことずつ聞き、書き取った。北浦雅子さんは詩を読んで、きよらかさに打たれた。重い障害児が文句を言わず生きる姿、周囲の人々の優しさを感じた時に見せる笑顔が脳裏に浮かぶ▼北浦さんの次男は元気に生まれたが7カ月の時に受けた種痘がもとで重症児となった。死の危険にもさらされた。いま42歳。長年の訓練で2年前に寝返りが打てるようになった。思えば大変な道のりだった。昭和30年代。施設に国の援助を、と陳情すると「社会の役に立たない子どもに予算は使えない」と言われた▼自分が死ぬ時にだれも面倒を見てくれぬ、子どもと死ぬほかない、と当時、親たちは眠り薬を買い込んだ。だが「一番弱い命を切り捨てる思想はその次に弱い命、老人など社会的弱者をも切り捨てることにつながる」と考えた。それを社会に訴えたい。全国重症心身障害児(者)を守る会を作ったのが昭和39年▼会員は7500人になった。相談、診療などの事業を手がける。福祉行政や社会の関心も大きく変わった。25周年大会の今月、社会への謝意を込めて何か記念を、と仲間と相談し、テレホンカードを作ろうと一決した。和也君の詩に配するに、うつくしい桜の絵がぜひ欲しい▼広島で被爆、常々命の大切さを説く平山郁夫画伯に話した。快諾を得て、奈良美術館が所蔵の「長谷寺五重塔」の使用を認めてくれた。塔をうずめる桜の、におい立つ色。愛蔵したいようなカードの完成。計画の実現まで、多くの人が協力してくれた▼胸を熱くした北浦さんは「社会の共感を得ながら、ともに育ち、ともに生きる親になる」ことが重症児福祉の原点、としみじみ考える。 高齢化 【’89.9.15 朝刊 1頁 (全845字)】  ロマンスグレーという言葉がひところはやった。米国には、映画俳優ロナルド・コールマンの愛称を使った「ロニー・コールマンズ・ロマンチック・グレー」という表現があった▼灰色という意味の「グレー」は、白髪のまじった髪の色であると同時に、高齢の意味でもある。社会の「高齢化」は「グレーイング」。日本では高齢を表すのに「シルバー」を使い、シルバー産業、などという。銀髪のシルバーヘアあたりからとった和製英語か。シルバーシートが登場したのは、16年前の今月だった▼春風亭柳昇師匠がこんなことを言っている。車中では立っているのが運動。健康によい。シルバーシートはお年寄りを尊重しているように見えるが、実は「早く日本から年寄りをなくそうという当局の陰謀らしいですよ」。日本は、12年前に平均寿命が世界最高となった。65歳以上の人が、人口の1割を超える▼人類の歴史には、年をとった者を殺したり棄てたりする習俗もあったという。いまの日本はどうか。経済成長に夢中な時は、とかく競争や能率や生産高などだけが重要と考えがちだ。目的に合わぬものは無駄に見える。そうした価値観に立つと、競争や能率とは縁遠い高齢者を心の中で「棄てる」ことになりかねない▼だが人々の考えは変わりつつあるのではないか。生き方でも死に方でも、人間の尊厳を尊ぶ、という基本がだいじだと思い始めている。高齢化社会への移行期。初の経験である。年をとると健康、経済、精神などの各面で心配が増す。個人も社会も真剣な対策が必要だ。中年の人々は、高齢への助走を意識して生きる▼近ごろ目立つのは高齢者の意欲的な活動だ。学習や奉仕など、趣味を超えた生活に挑む人々が増え、心強い。健康に恵まれての話、という条件つきではあるが、張りのある生活は健康の維持にもつながるだろう。灰色ならぬ、銀色の輝きが、さらに増す時代である。 私たち自身の中の差別意識 【’89.9.16 朝刊 1頁 (全845字)】  芝居は面白い。限られた時間と空間。そこに、全く別の世界が出現する。東京・六本木の俳優座劇場で、小さな舞台に見入る。瞬時に南アフリカへと連れて行かれた。役者はたったの3人、一幕一場で、かんたんな仕掛けなのに▼『サムとハロルド』という芝居だ。サムは45歳の黒人。ハロルドは、サムを雇っている白人の息子で17歳。幼い時から一緒に時を過ごした。サムはほとんど父親がわり。人生指南もする。ともに信頼し合い、話し合う間柄だ。そういう仲でありながら、社会的には2人の間に壁がある▼南アフリカではアパルトヘイト(人種隔離)政策のため、人口の約7割を占める黒人には参政権がない。肌の色の違いを超え、人間としてつき合うサムとハロルドだが、社会は2人の周りにも多様な制約を設けている。会話を楽しむ2人を差別のきまりが引き離そうとする。白人少年は、自然の感情と、教えられた差別意識との間で引き裂かれる▼今週、南アでは新大統領が登場した。53歳のデクラーク氏。11年にわたって融和策と弾圧を使い分けてきたボタ大統領より20歳も若返った。「対決より対話」を唱え「すべての人種が平等に共存できる方法を、黒人指導者をまじえて練り上げる」改革5カ年計画に乗り出すという。むろん、平穏な道のりとは思えない▼各国からの経済制裁で投資は後退し、インフレはここ数年2けた台だ。国際的なスポーツ試合の場でもボイコット続き。国内では改革を目ざしながら、なお黒人への「1人1票」を認めず、反対運動は盛んになる一方である。今月の総選挙では改革路線派が伸びると同時に、白人の権益を守り抜くという保守派も伸びた▼南アに連れて行かれた、と思って3人の熱演に引き込まれているうちに、やがて気づく。政治劇ではなく人間の話だったことに。相手をも自分をも傷つける、私たち自身の中の差別意識。私たちの話なのだ。 禁煙 【’89.9.17 朝刊 1頁 (全859字)】  紫煙をくゆらしながら長考、ややあってパチリ。これまでの碁会所の風景だ。これまでの、と書くのは変化の兆しがあるからだ。煙を嫌う人が増えた。対局や碁会所で禁煙を進めよう、と主張するのは武宮正樹9段。大阪では来月、たばこを吸わぬ人の囲碁大会が開かれる▼海の向こうからは、空の禁煙の話が伝わってきた。米国の都市の間を飛ぶ旅客機の全便で禁煙、と米上院が可決した。カナダでも全面禁煙の方針だそうだ。20年近く前のこと、米国を横断する旅客機に防毒マスクをかぶった男が乗って話題になった。禁煙を求めた個人デモだった▼機内を禁煙にできないか、と最高裁長官が新聞に投書したのも同じころ。当時を思い出すと隔世の感がある。ついに全面禁煙とは。今回も南部の州のたばこ業者や議員は反対の運動を展開した。今後、輸出に力がはいるだろう。もっとも米議会には「アヘン輸出のよう」な輸出攻勢に強い批判も出ているという▼日本では、飛行時間が1時間以内の路線で全面禁煙(日本航空)、あるいは席の5、6割を禁煙席にするなどの措置を航空各社がとっている。公共交通機関ではJRが東海道線を全線終日禁煙としたほか、駅での分煙実現などを進めている。愛煙家の立場も考えれば、公共の場では原則を禁煙に、そして分煙を、となろうか▼注目されるのは、禁煙の部屋あるいは階を設け始めた各地のホテルの動きだ。煙は寝具やカーテンにもしみこむ。無煙の環境を望む人が多いため、予約は禁煙室から埋まる。増改築の機会があれば禁煙室をふやしたい、とホテル。口づたえに客が増えるのだそうだ▼紀州白浜で喫茶店を経営する篠岡良尚さんは、2年近く前に店を禁煙とした。3割方売り上げが減った。女性客がすくなくなった。この夏、店内を禁煙席と普通席に分けた。東京とその周辺では、禁煙・分煙飲食店の地図が作られたりしている。状況に応じ、煙とのつきあい方の模索が続く。 “パイ”の競争 【’89.9.18 朝刊 1頁 (全849字)】  パイをめぐる日米レースが熱を帯びてきている。食べるパイのぶんどり合いではなく、円周率π(パイ)の計算競争である▼円周を直径で割ったπは3.1415……とどこまでも続く。この値を東大大型計算機センターの金田康正・助教授たちが日立製作所のスーパーコンピューターで今夏、小数点以下5億3687万けたまで算出すれば、米国コロンビア大の数学者兄弟がIBMのコンピューターを使って10億1119万6691けたまで出して、記録をぬりかえた▼このπレースには、アルキメデスからニュートン、和算の関孝和にいたるまで古今東西の数学者が名を連ねている。昔は紙と鉛筆による作業で、16世紀オランダのルドルフは35けたの計算に生涯をかけた▼今世紀なかばから、コンピューターという強力な助っ人が加わり、競争を加速した。日本チームの5億けた計算にかかった時間は67時間余りというから、1秒間2000けた以上の猛烈な計算スピードだ。結果を印刷するのに週刊誌大の紙が10万枚も要る。レースが「人間離れ」してきた▼それでもなお「πは面白い」と、金田さんは魅惑の数の世界に遊ぶ。5億けたまでの解析では、一番多く現れた数字は2、少ないのは5、その頻度差は2万程度だった。3億8698万412けたからは6が10個連続し、5億2355万1502けたからは123456789と順番に並んでいた。統計学的には0から9がほぼ均等に出現し、πは乱数といえるそうだ▼戯れにだけやっているわけではない。π計算はコンピューターの性能を確認する一方で、演算速度を上げる技術開発につながる。「プログラムに工夫をこらしてタイトル奪還をめざす」と日本側は意欲満々。気がかりなのは、この熱戦の背後に日米のスーパーコンピューター摩擦がちらつくことだ。あくまでも知的ゲームに徹して、πウォーズにまで過熱しないように願いたい。 異常気象続きの日本列島 【’89.9.19 朝刊 1頁 (全846字)】  上の天気図からも分かるように、台風が南方海上から日本列島をうかがっている。この1週間ほどは、とくに気象情報に注意した方がいいらしい。強い台風が襲ってきやすい日というのがあって、それがこの期間に集中している▼特異日と呼ばれているが、よく知られているのは9月26日。1954年の洞爺丸台風、58年の狩野川台風、そして59年の伊勢湾台風は、どれもこの日に上陸して1000人単位もの犠牲者を出した。もう1つ、9月17日も特異日で、敗戦直後の45年の枕崎台風と、1828年(文政11年)のシーボルト台風の襲来日である▼オランダ商館付の医師、シーボルトはこの台風の観測記録を残している。長崎の出島付近に停泊していたオランダ船が難破し、ちょうど帰国しようと準備していた彼の積み荷から国禁の日本地図が見つかった。シーボルト事件のきっかけとなったこの台風は、1万人におよぶ死者を出し、日本の歴史で一番強い台風とされている▼江戸後期のこの文政11年に、全国の人口は2700万人余のピークに達したあと、いったん減少に転じる。大きな台風が相次ぎ、不作による飢えが人口の推移に傷跡をとどめた。現代では、まさかそれほどの心配はないにしても、自然災害の恐ろしさは折に触れて思い出したい▼アニメーション映画「伊勢湾台風物語」が東海地区で多くの人に見られている。市民会館などでの自主上映も広がり、東京と大阪でも11月から公開されることになった。5000人余の犠牲者を出した地獄のような一夜を再現し、30年たって薄れかけた記憶を呼びおこしてくれる▼列島は気象異変続きだ。夏から秋への交代が遅れていて、とくに関東から西では残暑、残暑の毎日。富士山にはまだ初雪がない。かとおもうと、連日のように全国どこかで局地的な大雨が降り、洪水警報が出されている。やっぱり天気予報から、目が離せない。 酒の世界も多様・多彩に 【’89.9.20 朝刊 1頁 (全877字)】  ことわざに「酒は百薬の長」。かと思うと「酒は百毒の長」ともいうそうだ。酒をのまぬ人、つまり下戸からみると「酒と朝寝は貧乏の近道」となるが、のむ人、つまり上戸に言わせれば、なあに「下戸の建てたる蔵もなし」▼酒好きで知られた江戸時代の狂歌師、大田蜀山人(しょくさんじん)が酒を断ったことがあった。長くは続かない。再びのみ始めたが、その時の狂歌が「わが禁酒やぶれ衣となりにけり、さしてもらおう、ついでもらおう」。衣のつぎはぎはともかく、酒席で、さしたり、ついだり返したり、という作法は昔はやかましかった▼近ごろは以前のような献酬がはやらない。衛生観念からか、ひとに強いられるのを嫌うためか、それとも洋酒が普及したからか。「作法が昔と変わった。仲居も作法を覚えない。洋酒を水で割るのに忙しい」と料亭の人が言うのを聞いたことがある。押され気味だった日本酒も、しかし、この数年来、持ち直し気味だ▼しかも日本酒を通して現代的な風景が見える。第1に、個性が売り物の時代。各地の地酒がさまざまな努力で希少価値を競う。万葉人が食べたという赤米を原料にした酒の試作。ご飯にうまい米を使っての酒づくり。中身の工夫ではないが、岡山の方言を名前にした酒や、鳥取の酒蔵をかたどった容器で売り出した酒▼第2は美食志向。こり性の素人が集まり、田を借りて米づくりから始めた例がある。奈良時代のシカ肉料理に合わせ、にごり酒再現の試みもあった。第3は情報化時代。全国の酒の特徴をデータベースに入れ好みに応じてコンピューターから選び出す試みが西宮で発足した。酒の情報といえば個人の知識に頼っていた。古い古い▼第4に国際化だ。海外40カ国以上に輸出され好評だという。この10年に輸出量は2倍を超えた。4割を占める米国では現地工場で生産も始まった。「酒の肴(さかな)は3風見立て」。3風とは風土、風味、風景のこと。酒の世界も多様、多彩になりそうだ。 現実の世界に目を見開いておく教育を 【’89.9.21 朝刊 1頁 (全861字)】  福島県いわき市で起きた出来事はいろいろなことを考えさせる▼市立の平1中に対し、いわき市教委が社会科の公民資料の補助教材を回収するよう要請した。「内容が刺激的過ぎると父母から苦情が出た」という理由だ。問題になった出版物を読んでみた。公民資料を本にして配布したあとに起きた政治、経済、社会の出来事を追加資料の形でまとめたものだ。4ページに8項目。ほとんどが新聞記事の要約や図表である▼この資料が問題なら、極論するなら新聞を読むのも問題ということになる。同じような記事を自主的に切り抜き、スクラップブックを作っている中学生がいたら市教委はどう指導するつもりだろう。新聞記事をもとに教師と生徒が世の中の動きや問題を考えることはもっと必要なくらいだ▼学校は生徒を無菌培養する場、とでも思っている向きがあるのではないか。いわゆる勉強がだいじなのはむろんだが、同時に生徒は現実の世界に生きている。その現実を知り、考える。市民生活の助走の場でもある。その手助けを教育関係者は工夫してほしい▼戦争をめぐる事実についての知識が若い世代に欠けている、だからアジア諸国の人々と話をしていて困ることがある、と若い人が言うのを聞いたことがある。つい先月の本紙への投書でも、戦争の歴史をほとんど教えてもらっていない、と高校生が書いていた▼現実の世界に目を見開いておく訓練の問題である。今回、興味をひかれるのは、父母が騒いでいるのが保守系市議を通して市教委に伝えられた、と市教委が説明していることだ。親たちは、教材が自分の子どもに「刺激的過ぎる」と思ったら、なぜ子どもに自分の考えを言わないのだろう▼そこで意見をかわすのが1つの教育ではないか。あるいは、なぜ教師と意見交換をしなかったのだろう。政治家を通じて市教委を動かす、つまり力によってことを運ぶ、という発想は、自ら管理を招くもの。およそ教育とは無縁だ。 双子‐生まれながらの友、そしてライバル 【’89.9.22 朝刊 1頁 (全868字)】  双生児のプロ棋士が出現した。畠山成幸さんと鎮(まもる)さん。20歳。10月1日、同時に4段となる。3段になるのは成幸さんが半年あまり早かった。今回は最終局で鎮さんが踏ん張っての同時昇段である▼「僕は僕なのに結果的にいつも兄の後を歩いている。そんなふがいない自分に腹が立っていた」と鎮さん。「兄」という表現で思い出した。しばらく前に本紙のテーマ談話室「家族」欄に係がこんな文をのせた。「双子姉妹の妹側にさせられた者の心の痛みを書いてみたいのですが上手に書けません。どなたか投稿して頂けませんか――ある主婦のお便り」▼投書が来た。姉、妹と呼ばれたために2人を「主と従」の関係と見るようになった、何でも「妹のくせに!」と言われた、受験面接で「どちらがお姉さんか」と先生が聞くので、合格したのに行かなかった……。悔しかった「妹」たちの体験だ。双生児を産んだ人の懸念の投書もあった▼ほぼ同時に生まれるのに、姉妹、兄弟、と区別する。「妹」も不満なら「姉」も期待をかけられて負担だろう。日本ではその序列を戸籍に記入する。双生児の研究者の間では先に生まれた方をA児、次をB児と呼ぶそうだ。研究中に自らも双生児の母となった天羽幸子さんに『ふたごの世界』という本がある▼本には、双子の母親たちが情報を交換し励まし合うツインマザースクラブ(会員2700人)での研究成果も盛られている。双子は似ているが、幼い時からかなり違う。性格形成の上で、遺伝とともに環境も大きな要素だ。青年期に入れば環境を自ら選び取りもする。周囲がどう扱うかの問題も大きい。こうした事情がよくわかる▼「どちらがお兄さん?」と聞き、序列による役割分担を周りが強いる形はいかがなものか、と考えさせられた。生まれながらの友、そして競争相手という微妙な関係。「これまで通り敵、いやライバルです」と畠山双生児。ぎりぎりで競う局面はさぞ大変だろう。 故岡崎嘉平太さんの人生談義 【’89.9.23 朝刊 1頁 (全861字)】  92歳で亡くなった岡崎嘉平太さんはこう言っていた。「私はどちらかといえば生一本で怒りっぽく、子どもの時はけんか太郎でした」▼心配した母君が「自分が譲ればことがまるくおさまる時には譲るもの」と口ぐせのように戒めたという。「その言葉が頭に刻みつけられ、大きな争いになろうとする時にはふと出てきて譲る、というくせがついた」。温和な表情、物腰のかげに強いしんを持っていた岡崎さんらしい。その人生談義には人をひきつけるものがある▼青年時代、ある人のところに使いに行かされた。伝言はやや問題のある内容だった。伝えると「きみはそれについてどう思う」と聞かれる。私は伝えるだけと答えると「きみは郵便屋と同じか」。憤然としたやりとりの中で「きみは口で物を言っている」「私は口以外では物は言いません」「物は腹で言うものだ」▼この体験のあと岡崎青年は相手に感謝し、しみじみ反省した。何よりもまず、ものの本質をつかまなければいけない。どんな事柄も徹底的に調べ、考え抜く習慣をつける。枝葉よりも本質を見ることがだいじだ。のちに組織の幹部になってからも人が案を持ってくると「きみはどう考える」と聞いた▼ドイツ駐在のころ、力を持ち始めたナチスの政策を研究し、ポーランドへの侵攻などを予測する。中国の今日あるを予想し、日中両国の交流に力を注いだのも、枝葉にとらわれず、根幹を見すえていたからだろう。ものの見方でも、それを実行に移す力においても骨太の人物だった▼ことし5月に100回目の訪中。「100回ぐらい行ったからって、とても分かりゃしませんよ。大地の懐が深いんですから」。その中国との最初の出合いは岡山中学で留学生に会ったことだった。さらに高等学校でも留学生とつきあい、外から見る日本の姿、というものに関心を深める▼著書『21世紀へのメッセージ』の終章で、「アジア諸国の進歩と繁栄」への寄与を説いていた。 ネパール・アンナプルナに電灯をつけた林克之さん 【’89.9.24 朝刊 1頁 (全862字)】  林克之さん(43)が初めてヒマラヤに出かけたのは10年前のことだ。八ケ岳の小屋番だった山男にとり、ヒマラヤの山々は息をのむ美しさだった。だが、秀峰アンナプルナのふもとで彼はあることに気づく▼住民が木を切って燃料にしているのだ。3カ月の旅から帰国、とりつかれたように本を読んだり調べたりするうち、ヒマラヤのために何かしたいと考えた。思い出したのが、まきを燃やす光景だ。そうだ。まきに代わるエネルギーが必要だ。古い風力発電機を入手した。信州で1年間タクシーの運転手をしてためた50万円を手に再び出発▼仕掛けてみたが風は思うように吹かぬ。断念した。目にとまったのが山の中の清流。これだ。こんどは水力発電を試みる。小さな発電機から始め、失敗の繰り返し。45軒、200人のチョモロン村に、何とかして電気を出現させたい。試行錯誤の結果、ようやく豆電球がオレンジ色に光り、村の人はびっくりした▼「ビジュリ・ジャパニ」(電気の日本人)と呼ばれ、人気者になった。帰国しては運転手をして稼ぎ、ネパールへ。「どちらが旅でどちらが生活の場かわからない」。電線を張り、ほぼ4年で全戸に電灯がともった。林さんは喜ぶ村人に「電気委員会」をつくらせた。自分たちの問題として考え、行動してもらうためだ▼昨年やっと電熱器の利用も実現した。草の根の援助活動。金額は小さいが、土地の人に真に必要なものが手に入るように手伝う。林さんの近著『村に灯がついた』は、援助とは何かをあらためて考えさせる。豆腐の作り方を教えたりもする林さんの生き方は機転がきき、夢想家のようでいながら実際的で、小気味よい▼いまヒマラヤの森林破壊をめぐりネパール・インド間が険悪だ。春に両国の通商・通行が断たれ、内陸国ネパールは灯油が入手できぬ。まきの必要から春以来、自然林の1%が消滅、下流の国には洪水のおそれもある。林さんには先見の明があった。 ガリレオの名誉回復 【’89.9.26 朝刊 1頁 (全843字)】  「カトリック教会がガリレオを迫害したのは間違いだった」。先週末ローマ法王はこうのべて、公式にガリレオの名誉を回復した。宗教裁判から356年ぶりのこと。何とも息の長い話である▼ガリレオ・ガリレイ。家名のガリレイは聖書に出てくる地名ガリラヤからだろうという。長男には姓を重ねて名づけるというトスカーナ地方の習慣で名はガリレオ。トスカーナ大公領、斜塔で有名なピサの町で、ミケランジェロの死んだ1564年に生まれた。法王は今回ピサを訪れアルノ川の橋に立って、市民に教会の誤りを認めた▼近代科学の父、と呼ばれる物理学者、天文学者である。振り子の等時性の発見、落体の実験などで知られる。自分で作った望遠鏡で天文観測をするうち、何十年か前にコペルニクスが唱えた地動説への確信を深める。当時は、地球は不動であり、太陽が地球の周囲を回るという天動説の世の中だった▼ガリレオは異端の説をなす者として告発され、その説まかりならぬとの警告を受ける。しかし地動説を全面的に展開した『天文対話』を著すに及んで、発売禁止令、そして宗教裁判。1633年、説を撤回すると誓わされ、幽閉の身となった。ほどなく両眼失明、77歳で死ぬ。不幸な晩年。しかも、葬儀も墓標も許可されなかった▼いまでは常識の地動説。ガリレオの問題は25年前のバチカン公会議でも議題に持ち出された。この10年来、法王庁の特別委員会が調査にあたってきた。科学に強い関心を持つヨハネ・パウロ2世の個性、行動力も、名誉回復を推進した大きな力だろう。4世紀にもまたがり、遅すぎたとはいえ黒白はきちんと、ということか▼自説を曲げなかった実証精神の方も大変なものだ。裁判のあと「それでも地球は動く」と言った、というのは有名な話。一度聞いたら忘れられぬ。捨てぜりふにしては格調が高いからか。だが、伝記作家の創作だそうだ。 東京の物価水準 【’89.9.27 朝刊 1頁 (全843字)】  東京を100とした物価水準は、米国のニューヨークが72、西ドイツのハンブルクが68だという。経済企画庁が発表した数字にはあらためて驚いた。豊かな国といわれながら豊かならざるこの暮らし▼分析の仕方には多少の異論も出ているが、ほとんどの品目で東京の物価水準が圧倒的に高いという事実は動かない。家事用耐久財はニューヨークの2倍、ガソリンは3倍だ。食品では規制のない品目よりも、ある品目の方が割高とわかった。規制というのは、牛肉、オレンジ、酒類などの場合のような、価格支持や輸入数量制限などを指す▼自由な競争のもとでなら下がるはずの価格も、規制でがんじがらめの状態では下がらない。だいたい日本には驚くほど規制が多い。規制大国といいたいほどだ。貧しかった時には産業を保護、育成するために役所が規制に励む理由もあった。いまは状況が変わっているが、なお規制は健在だ▼各省庁が決定権を持つ許認可制度の総件数は1万278件。少しずつ増えている。役所の許可や認可が多いと、経済の拡大に伴って役人の数や人件費がふえる。小さい政府、活力ある民間活動、という行財政改革の目標からは遠くなる。許認可件数の第1位は運輸省、その次は通産省だ▼道路運送法ができた昭和26年当時と今とをくらべると、たとえば国内貨物輸送での鉄道とトラックの役割は逆転した。だが法律も規制も昔ながらだ。規制をゆるめて競争が激化すると輸送の安全が保てぬ、と役所は考える。だが消費者の存在も忘れないでもらいたい。だれが安全性に問題のある業者のところに行くだろう▼通産省の領域でも、今回の報告を見ての消費者の感想と、先日の日米構造協議での米国側の主張に共通点があるのは何とも皮肉だ。報告が「規制の緩和」に1章をさいたのはもっともだ。リクルート事件でも浮き彫りにされたが、許認可権限は汚職の温床にもなる。 「国家への忠誠より人類への忠誠を」 谷川徹三氏死去 【’89.9.28 朝刊 1頁 (全858字)】  哲学者の谷川徹三さんが94歳で亡くなった。いつも平明な文章でその考えを表す人だった。昔の文にこんなくだりがある。世界教育会議で来日した外国人のため山中湖畔で講演した、そのまとめだ▼「……普遍性に通じていない特殊性を私は重んじません。それゆえあなたがたが日本の特殊性にもし特殊性のみを御覧になって、その特殊性を通じてあなた方の文化におけると共通な普遍性をそこに御覧になることができなかったとするならば、私はそれを残念に思うでしょう。それはなかば以上私たちの罪です」▼この文章、近年の貿易摩擦や日米関係の中での発言ではない。昭和12年夏、中国大陸で戦火が燃えさかっていた時のものである。文化は歴史や風土により特殊な要素を持つが、見かけの底にある普遍的なものに目をこらさなければいけない。日本は特殊だ、神州だ、と考えた時代だ。言いにくいことだっただろう▼がっしりと太い幹が1本。この考えは谷川さんの世界観と通じていた。「私は戦後、戦争と平和に多くの力を注いできたが、基本的立場は世界連邦政府を究極の理想とするところにある」。すぐ出来るとは信じないが、核兵器の出現で人類は運命共同体になった、と力説した。国家への忠誠より人類への忠誠を優先、だ▼それを名づけて「アインシュタインの法則」と呼び、最高の原則とした。「全体の破壊を避けるという目標は他のあらゆる目標に優位しなければならぬ」というアインシュタインの言葉からだ。アインシュタイン、シュバイツァー、ガンジーに「深い親愛と尊敬の念」を抱いた。いずれも同じ時代を生きた行動者である▼本人の行動も平和運動に限らなかった。文学、美術、と関心の範囲が広かった。「精神と肉体を常に生き生きとさせなくちゃ」と自己流の体操につとめた。2年前に文化功労者となった時の感想が実によかった。「私は生涯一書生。その立場からすれば人生の大事ではない」 9月のことば抄録 【’89.9.29 朝刊 1頁 (全857字)】  9月のことば抄録▼長崎市内の海岸に着いた難民船の陳議昇船長によると「最終目的地は東京。中国より高い給料がもらえる日本で働きたかった。ブローカーから持ちかけられた。金は借金した」▼難民船続々到着。「やっかい者が来た。追い返せ、という国民感情が強くなるのが怖い」と本島等長崎市長。「もはや単一民族であることは自慢にならない。世界市民としての感覚を大事にしなければ21世紀は生きられない」▼米国の市民運動の指導者ラルフ・ネーダーさんが来日。消費者保護や情報公開制度の重要性を語る。「子どもに何を残してやれるか。子どもは有害なものに対して弱く大人の基準は通用しない。子どもの安全を基準に考え将来を守ることが大切」▼全国こども電話相談室(TBSラジオ)で20年以上も相談を受けてきた作家・精神科医、なだ・いなださん。10年ほど前からこんな質問が増え出したと思う。「どうしたら、けんかの仲直りができますか」。「謝ればいいんじゃない。謝った?と聞くと、ううん。だって……」。大人が謝らなくなったことの影響か、となださん▼昔陸軍、今総評といわれた総評が消える。「総評は頑固なおじさん」と評する高田ユリ・主婦連会長。「もっとしなやかな考え、感覚を持たないと国民的共感は得られないのではないか、と思う半面、非常の時にはやはり頼りになる存在だった」▼ハンガリー社会主義労働者党(共産党)が新綱領。新生ハンガリーは「自由な選挙によって表明される国民の意思を政治権力の根源とする、複数政党制の法治国家」▼中国共産党の江沢民総書記、天安門事件について「私たちは悲劇とは思っていない。天安門で起こったことは、共産党の指導、社会主義の制度を覆そうとする反革命の暴乱だった」▼女性ロック・バンドが気を吐く。「特殊な目で見られた。内心男には絶対に負けたくないって思ってた」とSHOW−YAの寺田恵子さん。 客を薬の害から守る「薬局カルテ」【’89.9.30 朝刊 1頁 (全860字)】  アスカ薬局をのぞいたら、店主の佐谷圭一さんが60歳代の女性客と話していた。薬の説明だけでなく、体調すべてにわたる客の訴えを聞く。客が腰かけている風景も、薬局には珍しい。東京都練馬区。信頼感からか、生活ぶりまで話す。医者に行くようにとの助言に、決心した面もちで帰って行った▼患者は医者に行こうか行くまいか五分五分の気持ち、と佐谷さん。そこを1%分、背中を押すのだそうだ。専門に応じて医者に患者を紹介。客はアスカ薬局からの「患者紹介状」を持って病院へ行く。佐谷さんは、客の薬歴や服薬状況を「トレース・リポート」という書類で医者に報告する▼いま日本で医者が使う薬は1万4000品目、という。患者によっては病院を1つに限らず、2つ以上にひそかに通う。いきおい薬ののみ合わせが起きる。これが危険だ。作用が重なれば毒にもなる。げんに昨年秋、東京の若い女性銀行員が風邪で6種類の薬を渡されてのみ、激しいけいれんで緊急入院した▼7万枚の処方せんを分析した研究によると200件に1件が危険な組み合わせだったという。こんなこともある。緑内障では眼圧が上がるのが心配だが、知らずに、上がる結果を伴う風邪薬をのんだらどうなるか。佐谷さんの薬局では2万人の客の薬歴を書き込んだ「薬局カルテ」を備えている▼電話番号で分類、すぐ取り出せる。家族の薬歴を見るにも便利。アトピー性体質のように遺伝的な要素もわかる。毎晩8時の閉店のころが電話の時間である。佐谷さんと薬剤師の金田滋さんが、その日の客を中心に、服薬したか、その後の様子はどうかをたずね、記録する▼そもそもは大学を出て勤めた薬局で、店主の留守に客に「先生(店主)の薬を下さい」といわれ、だれが見ても調剤できる薬歴記録が必要と考えたのが発端だそうだ。このやり方で25年。これからの医薬分業の時代には、こうした工夫と配慮が薬局にあれば患者も安心だろう。 歴史の理解には後世の作為を知るのも大切 【’89.10.1 朝刊 1頁 (全832字)】  ガリレオの言葉として伝えられる「それでも地球は動く」は伝記作家の創作だそうだ、と先日書いた。読者から苦情が来た。「すてきだと思っていたのに、本当のことを暴露するとはひどい」▼研究者が書いているのを読んだ時は筆者も索然とした気分だった。そして想像した。火のないところに煙は立たない、という。ガリレオが宗教裁判の後に吐いた何らかの言葉がこの表現の下敷きにあるのではないか。無言で敗退したわけでもあるまい。たまたま創意に満ちた文句の響きがガリレオの気概を伝え、後世に残った▼ガリレオといえば人を集めてピサの斜塔で落体の実験を行った、というのも創作らしい。これは話をより劇的にしたい、と考えた後世の人のおせっかいか。考えてみると、後世の人の作為かと疑われるものは存外多い。豊臣秀吉の辞世の歌といわれる「露とをち露と消へにしわが身かな浪速のことは夢のまた夢」も疑わしいとか▼臨終の言葉としてはゲーテの「もっと光を!」が有名だが、これにも諸説あるそうだ。「人のまさに死なんとするや、その言うこと善し」と『論語』にあるから、辞世や臨終の言葉には一種の期待をこめた創作が登場することもあるのだろう。物語にやはり人々の期待を反映した追加が行われることもある▼イソップの「アリとセミ」の話。夏の間、働かなかったセミが冬になって困る話だが、日本に入った後、末尾に、アリが食うものを恵んでやるという部分を追加した版が出たそうだ。教訓の力点が、勤勉から親切へと変わる。おおげさにいうと思想の上でかなりの相違。温情主義的改変、と研究者が呼ぶ例だ▼原本があり、それを受けとめる人々が自分たちの気持ちを基準に美化したり、追加、改変したりする。それも人間の営みと考えれば、そういう作為を調べ、明らかにする作業も歴史を深く知る上で面白く、だいじなことだ。 満員電車は違法 【’89.10.2 朝刊 1頁 (全837字)】  衣替えの季節がやってきた。朝夕の電車の混雑がちょっぴり増す。これから冬にかけて、“しり押し部隊”や、“はぎ取り部隊”の出番もふえてくる▼ところで、電車であれ汽車であれ、乗客を定員以上に押し込めた駅員は処罰される、という法律がある。JRや私鉄の基本法である鉄道営業法26条は、「鉄道係員旅客ヲ強ヒテ定員ヲ超エ車中ニ乗込マシメタルトキハ30円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス」と定めている▼明治33年に制定された古い法律だが、いまも立派に生きている。罰金の「30円以下」は、古い法律の罰金額を一律に手直しした昭和47年の罰金等臨時措置法の改正で読み替えると「8000円以下」。素直に読むと、“しり押し部隊”は日々、かなりの罰金や科料を支払わなければならない▼JR東日本の法務課による解釈はこうだ。「乗りたくないのに乗せた、というのなら適用されるでしょうが、お客さんがその時間帯にどうしても乗りたい、というのを、お手伝いしているわけですから……」。乗客が、好んで満員電車に乗っているわけでもないのだが、しり押しが起訴されたという話は聞かないから、この解釈が通用しているのだろう▼法律ができた当時の注釈書によると、「定員を守らせることによって、旅客の安全を保護しようとしたもの」だそうだ。新橋―大阪間の3等運賃が4円弱のころのことだから、罰金も相当に重い。今となっては「仮死状態」の規定だが、定員をはるかに超える現状が「違法」であることを教えてくれる意味はある▼新幹線が走り始めて満25年が過ぎた。東海道新幹線の運転本数はこの間、1日当たり60本から251本へと伸び、輸送力は格段に増強された。しかし、例えば山手線電車のピーク1時間当たりの混雑率は、この4半世紀の間に283%から270%(上野―御徒町間)へと、ほんの少々改善されたに過ぎない。 建国40年の中国 【’89.10.3 朝刊 1頁 (全881字)】  「北京の秋の空が一層美しさを発揮するのは、ここが森の都であり、また黄(きい)ろい瓦(かわら)や朱(あか)い柱の建築に富んでいて、天と地との色彩が相照らし合うためなのであろう」と、戦前の北京を訪れた正宗白鳥は書いた▼梅原竜三郎が『北京秋天』で描いた世界だ。暑い夏と長い冬をつなぐ秋、大陸性気候の乾燥がもたらす透明な空気がこの季節の北京を輝かせるのだろうか▼「黄ろい瓦、朱い柱」のなかでもひときわ目立つ天安門楼上で40年前の10月1日、毛沢東主席が中華人民共和国の建国を宣言した。NHKテレビのドキュメンタリー「天安門・激動の40年」によると、この歴史的瞬間に居合わせた人々は「あれほど明るく気持ちよく晴れた日は見たことがありませんでした。私の人生で最良の1日でした」と述懐したという。この日にかけた希望とそれまでの恐怖の大きさがうかがわれる、と取材に当たったソールズベリー氏は解説した▼40年後、やはりよく晴れた北京での祝賀行事だった。人出は40年前も今回も約30万人。広場周辺に大きな建物が増え、人々の服装も良くなった。だが、解放の熱気に包まれた40年前と、6月の流血事件に続く厳戒態勢下の今回とでは雰囲気が大きく違う。残念なことに、政治への期待が冷えこんでいる▼「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが若(ごと)し」(老子)という言葉がある。小鮮つまり小魚を煮るのと同様、やたら手出しすると失敗するとの意味。1日夜、天安門上から花火や踊りを見た実力者、〓小平さんは料理も上手だそうだが、「小鮮を烹る」腕の方はどうだったか▼中国への返還が8年後に迫った香港の街頭ではこの日、中国国旗の「五星紅旗」ならぬ手製の「五星黒旗」を持った青年たちが天安門の武力制圧に抗議した。黒い旗が異様だった。戒厳令下の北京では多くの市民が外出せず、テレビで祝賀行事を見ていたそうだ。香港の黒い旗は、もちろん画面に登場しなかったに違いない。 教科書の善しあしとは 【’89.10.4 朝刊 1頁 (全840字)】  ノーベル賞をうけた朝永振一郎さんの随筆を国語の教科書に載せようとしたら、高校生には好ましくないと文部省が注文を付けたことがあったそうだ。若者がかっこよくたばこを吸うしぐさを描いた一文だが、未成年の喫煙は禁止されている、というのがその理由らしい▼もっともな言い分かもしれぬ。しかし、朝永さんの文章に接した高校生が、背伸びしたい年ごろの心理に共感しながら喫煙の害も自分で考えるようになったら、もっとすばらしいことなのにと思う。文部省はおとなの規範を押し付けるのに急で、せっかく子どもたちの考える機会を奪ってはいないだろうか▼家永教科書裁判の判決文を読んだ。「教育的な配慮」の名のもとに教科書が強制的に書き換えられていく。子どもたちの学びとる、自発的な力があまり信頼されていないと思った。文部省は教師たちも信用していないようにみえる。文部省の言い分を読むと、「だから、良い教科書をつくって与えなくてはならない」という使命感に満ちあふれている▼「侵略という用語は罪悪というはっきりした評価を含むから、自国の教科書で自国の行為の表現として使用するのは教育的見地から再考されたい」。このような注文が文部省に許されるかどうか判決は触れていないが、過去の戦争に少しの「罪悪感」も持たずに育つ子どもを文部省が期待しているとは思いたくない▼判決は検定意見に対して「積極的に肯認しうる事由を見いだすことは困難といわざるを得ない」などと、いくつも疑問を出す。一方で「ほかに慎重な見解もあるので、文部省の意見は社会通念上、著しく不当とまではいえない」と結論づけている。印象的なのは「両説の優劣については、裁判所の判断しうるところではない」と再三、断っている点だ▼結局のところ、教科書の良しあしは、教師と子どもの「教室」で自然に決まってくるものではないだろうか。 新農民志願 【’89.10.5 朝刊 1頁 (全860字)】  コシヒカリやササニシキの米どころで、今年も稲刈り体験旅行の消費者グループを見かけた。農家の作り手と顔を合わせ、同じ労働をちょっぴりでも味わえば、ふだん都会の店先からは見えないものが見えてこよう▼1日だけの体験ではなく、農業に転職しようと考える人たちが結構いるらしい。先日、都心の百貨店で北海道農業会議が相談の窓口を開いた。農地や研修の受け入れ先も紹介する。3日間で30人ほどが相談に来た。3人が現地を訪ねてみることになった。そのひとり、コンピューターソフトの技術者は「視力が落ちて、この仕事を続けると失明しかねない」と悟ったのが動機だという▼麦やジャガイモ、ビート、豆などを作りたい。畑は10ヘクタールはほしい。古い農家付きで3000万から5000万円。当初はその2割を用意すればいい。残りは低利の融資が受けられる。農業は初めてだけれど、家族も賛成している。子どもは、小さな学校で学ばせたい……希望は広がっていく▼相談員の話によると、北海道では農家がとくに減っている。離農するのは後継者がいない人と、無計画な経営で借金が膨れ上がった人。これが大半だから、「やり方しだいで十分採算がとれる。機械化とシステム化が進んでいて、未経験者でも見よう見まねでやれないわけじゃない」。昔から隣百姓という言葉もある▼北海道農業会議を通じて、85年以降、77人が新しく農業に就いた。関東以遠からの人も少なくない。瀬棚町では、町の酪農経営農家の3割、14戸が新規参入組だ。「都会での生活があわなかった」という若い夫婦は、40頭ほどの牛を飼いながら将来バターやチーズづくりをめざしている▼「まだ食べるのに精いっぱい」という以上に、労苦は多いにちがいない。各県の相談窓口を結ぶ就農情報網づくりの動きもある。農業に未来はないというような暗い論議の目立つ昨今、新農民志願の意気にほっとしたものを感じる。 ガリレオ探査機の旅に期待 【’89.10.6 朝刊 1頁 (全849字)】  秋雨前線が去った宵の空で金星が月と競って輝いていた。星空がきれいな季節がきた。夜がふけると、東の空に木星がのぼり、惑星の王者の風格を誇る▼口径5センチほどの双眼鏡か望遠鏡があれば、木星のそばにぽつぽつと一直線に並んだ小さな星が最大4つまで見える。ガリレオが1610年に自作の望遠鏡で見つけた衛星だ。ガリレオは、つかえていたメディチ家の君主にささげて「メディチ星」と名づけたが、いまでは「ガリレオ衛星」とよばれる▼この木星の世界をめざして、ガリレオの名を冠した米国の無人探査機が12日、スペースシャトルから発射される。本来なら3年前に出発していたはずなのだが、チャレンジャー爆発事故のあおりでお預けとなっていた。さきにローマ法王庁が迫害の誤りを認めたのに続いて「ガリレオ復活」の秋だ▼ガリレオ探査機の旅程を聞いて、びっくりした。まず目標と逆方向の金星に向かい、地球周辺に2回戻ったあと、6年かけて木星に到着する。金星と地球の重力を利用して探査機を加速し、ハンマー投げのように飛ばす技法だそうだ。途中で小惑星ガスプラやイダとのランデブーも予定され、楽しそうな旅だ▼木星では、人工衛星になって4個のガリレオ衛星をじっくり観測する。その1つ、イオには300キロの上空まで噴煙を上げる火山がみつかっている。地球外で初の活火山の正体は何だろう。エウロパの氷の表面の下には深い海がありそうだ。そこに原始的生命が発生しているかもしれないという夢もひろがる▼木星の世界は「ミニ太陽系」といわれる。木星本体が太陽から受けるより多くの熱を放出し、合計16個の衛星は、惑星のように変化に富んでいることがわかったからだ。ガリレオは、木星系に太陽系のひな型をみていた。3世紀後のいまも、やはり太陽系の秘密を解くカギを木星に求めているのは面白い。ガリレオ探査機の旅の無事を祈りたい。 ノーベル平和賞は毒を含んでいる 【’89.10.7 朝刊 1頁 (全853字)】  ノーベル平和賞は、毒を含んでいる。受賞者がそれにふさわしいかどうか、世界中で議論が起こる。毒があるから力があり、その副作用を無視できないから、賛否の応酬が繰り返されるのだろう▼今年の平和賞がチベットの抵抗運動の指導者ダライ・ラマ14世に決まると、さっそく中国側から「内政干渉で中国国民の感情を傷つけた」と選考委員会を非難する声があがった。選考する側も織り込み済みだったのだろう。「一部で賞に対する否定的な見方があっても驚かない」と機先を制した▼平和賞選考の「事件主義」と呼ぶそうだ。ベトナム和平協定のキッシンジャーとレ・ドク・ト、中東和平のサダトとベギン各氏の受賞は「歓迎と冷笑と反発と」と報じられた。選考委員が抗議の辞任をしたり、晴れの授賞式が爆発物騒ぎで中断したり、というような記録は他の物理学賞や化学賞にはないものだ▼佐藤栄作元首相の受賞では、組織的な根回しが明らかにされた。こうした工作はどこの国でもやっていると聞かされて、2度びっくりした日本人も多かった。ノーベル賞の運営に携わるスウェーデンやノルウェーの関係者は日本語の名刺を手にして、日本からの訪問客を迎えている。柳の下をねらう向きが少なくないらしい▼事件主義も悪いとばかりはいえない。なにより国際的な「事件」のありかを教えてくれる。佐藤さんの場合には非核政策が評価されたと聞けば、世界が日本に期待する目を知ることができた。4歳で即位したダライ・ラマ14世は15歳でチベット仏教の祭政の最高位につき、20歳代はじめから30年間、非暴力を掲げて亡命生活と聞かされて、大国の過酷な支配と少数民族の運命に思いをはせる▼平和賞の裏側には不幸がある。第1回は1901年、戦場から生まれた赤十字社の創始者デュナンに与えられた。以来、今日まで世界に戦場の絶えることはない。平和賞が無用になる日は、いつ来るのか。 途上国の人々にとってほんとうの救援とは何か? 【’89.10.8 朝刊 1頁 (全841字)】  72年春、日本の青年50人が、バングラデシュに派遣された。長い内乱と戦争をへて独立したばかりの新生国家は、疲弊のどん底から立ち上がろうとしていた。現地から「倉庫に眠っている日本製耕運機が300台見つかった。どう使うのか、指導者を送ってほしい」と要請があった。これにこたえて集まった若者たちで、半数は農業には素人の学生や会社員たちだった▼村々に散った彼らは、牛舎に寝泊まりし、下痢に苦しみながら村人を教え始める。しかし、燃料もなければ、故障したら部品もない。実際に耕作されるのは地主の田んぼだけ。貧しい農民には、役に立たないことを知る。外国からの救援物資もヤミ商人に横流しされて、末端までは届いていない▼「あの国の人々にとって、ほんとうの救援とは何か?」。4カ月の任期を終えて帰国した仲間が、真剣に話し合う。そして、子どもたちに学用品を送る街頭募金から手探りを始めた。以来18年、彼らの活動は絶えることなく、いま「シャプラニール=市民による海外協力の会」という組織となって、しっかりと根をおろしている▼わが国の海外援助を、真に相手国民に喜ばれるキメ細かいものにするため、非政府組織(NGO)の活用がいわれだしている。だが、こんど出た彼らの活動記録『シャプラニールの熱い風』を読むと、気軽に「NGOの活用」などという言葉を使うのは、ひかえなければならないことが分かる▼現地にとけこむまでに、メンバーの一人ひとりが、いかに苦しみ、試行錯誤を繰り返してきたか。乏しい資金でやりくりしながら、いかに自分たちの経費を抑え、1円でも多く現地へ送ろうと努めてきたか。そうした若い人たちの姿が胸を打つ▼政府は、ただ民間の組織に資金を流せばいいわけではない。何の報いも求めず黙々と努力してきた、こうした国民の経験に、まず謙虚に学ぶことから始めるべきだろう。 羊を見直そう 【’89.10.9 朝刊 1頁 (全812字)】  来月10日から3日間、盛岡で「羊をめぐる未来開拓者のつどい」という会が開かれる。いま日本には、羊が3万頭しかいない。北海道、長野、岩手、福島と、地域も限られている。昭和32年には、全国的に100万頭も飼われていたことからすると、ひどい減りようだ▼羊毛の輸入自由化、合成繊維の普及で、採算が合わなくなったためだった。それを、もう一度、見直そうという。農村を、いきいきとよみがえらせてくれる生き物としてである。織物工業の原料ほどの量は、必要ない。毛を紡ぐ、草木で染める、織る、編む、といった手づくりの営みを、とり戻す。そこに、土地の風土に根ざした特産品が生まれる可能性がある▼肉は、フランスや中国では高級な料理にも使われる。工夫次第で、もっと活用できよう。羊はおとなしいし、群居性がある。お年寄りでも飼える。げんに長野県には、高齢者対策として導入している村がある。林間放牧すれば下草を食べてくれる。人手不足の林業にも都合がいい▼むろん、机上で考えたことを、現実に農村でやるのは大変だ。「まあ、一つの夢を描いてみようというところ」(日本緬羊協会常任理事・国政二郎さん)ではあるだろう。もともと日本人と羊のつきあいは、明治以降のことで、歴史は長くない。十二支の羊は、竜と同じく想像上の動物だった▼だが、羊毛の輸入は世界の生産量の16%を占めるし、羊肉もハムやソーセージに混ぜる原料として相当の量が輸入されている。いまでは私たちの暮らしに、きわめて縁の深い動物だ。首都圏のある観光牧場は、羊を飼うのをやめたら、お客の不評を買い、あわてて復活しなければならなかった▼単品生産に傾斜したことで、農村文化の豊かさが失われている。その原風景の魅力を再生させるのに、羊の姿は思いのほか似合うかもしれない。 中高年の山歩きはゆっくり、ゆったりと 【’89.10.10 朝刊 1頁 (全837字)】  起こるべくして起こった遭難、という山の専門家の言葉が悲しい。吹雪の立山で死亡した8人は、平均年齢57.8歳。登山を楽しむ中高年齢者が目立っている中で、心配されていたことが現実になった▼この5年間の山岳遭難死・行方不明者を年齢別に調べた統計が警察庁にある。730人のうち、40歳以上が357人と半数近い。70歳を超えた人が88人。若者が山に背を向けているため、登山者も遭難者も中年以上の割合が増えているということらしい▼険しい山にも道路やロープウエーができて、気軽に登れるようになった。退職して暇もできた。昔、レジャーの代表だった登山なら、みんな1度や2度の経験はある。騒がしい都会を離れて、これもなつかしい大自然にひたりたい。足腰をきたえなおすにも良さそうだし、などという動機はとてもすばらしいことだ▼この登山熱の背景には、やっと生活のゆとりを楽しもうという人生の先輩に対し、この社会がその機会を十分に用意していない現状も貧しく透けて見えてくる。都会でも海や山のリゾート開発でも、若者むけのスポーツ施設や社用族のゴルフ場などが幅をきかせている。中高年むきの安全で手ごろな施設が、身の回りにどれほどあるだろう▼昔から登山は孤独派、沈思黙考派の趣味とされてきた。現代の中高年の山歩きも、若者優先文化のなかの孤独派かもしれない。そうであればなおのことだが、かれらの山歩きを危険だからと押しとどめてはなるまい。そのための講習会を開き、体力にあった案内書を作り、専門ガイドを増やすことが高齢化社会のとるべき道だと思う▼日本山岳会科学研究委員長の徳久球雄さんからの忠告。「若い時に経験があり、中高年になって再開した人ほどご用心。体力と自信の落差が怖い」。山は逃げないが年齢は逃げる、とおっしゃらずに中高年の山歩きはゆっくり、ゆったりがいい。 時代にふさわしい罰金刑を 【’89.10.11 朝刊 1頁 (全856字)】  江戸時代の刑罰は、今から考えると相当に残酷だ。主殺しはのこぎりびき、親殺しははりつけ、10両以上の盗みは死罪と決まっていた。放火犯が火あぶりにされたことは、八百屋お七の話でも有名だ▼小さな盗みでも、初犯はむちによる「たたき」だが、再犯すると腕に2筋の入れ墨を入れられ、3度目には死罪になった。牢屋にとじこめることを内容とする懲役や禁固にあたるものはなかった。罰金のような財産刑も少なかったそうだ(石井良助著『江戸の刑罰』)▼今年の『犯罪白書』によると、昨年中に確定した刑事裁判の被告135万余人のうち、93%以上は罰金刑だった。今の刑罰の中心ともいえるこの罰金制度について、同白書が「豊かな社会の中で効果が薄れてきた」と見直しを提起している。刑法などの罰金の額については、所得が増え、物価があがる中で、戦後2回にわたって引き上げられた▼しかし、前回の改正からすでに17年もたち、実情に合わない面が出てきた。例えば、住居侵入の罪の罰金は「1万円以下」。小学生がお年玉に何万円ももらう時代に、これでは刑罰としての重みがないのは確かだろう。刑法がつくられた明治末年当時は、「50円以下」だった▼週刊朝日編の『値段の風俗史』によると、当時の初任給が銀行員で35円、小学校教員で十数円だったそうだから、50円は3,40万円かそれ以上にあたる金額だ。相当の「威嚇」である。この17年間に消費者物価指数は2.5倍程度、1人当たり国民所得は3倍以上になった▼このため法務省は、住居侵入を「10万円以下」とするなど、2倍から10倍程度に引き上げる改正案を検討しているという。だが威嚇力の落ちた罰金刑のもとで、わが国は「世界で最も安全な国のひとつ」(同白書)をつくりあげた。重ければ犯罪が少なくなる、というものでもあるまい。議論の輪を広げ、時代にふさわしい刑罰のあり方を考えたいものだ。 時代にふさわしい罰金刑を 【’89.10.11 朝刊 1頁 (全856字)】  江戸時代の刑罰は、今から考えると相当に残酷だ。主殺しはのこぎりびき、親殺しははりつけ、10両以上の盗みは死罪と決まっていた。放火犯が火あぶりにされたことは、八百屋お七の話でも有名だ▼小さな盗みでも、初犯はむちによる「たたき」だが、再犯すると腕に2筋の入れ墨を入れられ、3度目には死罪になった。牢屋にとじこめることを内容とする懲役や禁固にあたるものはなかった。罰金のような財産刑も少なかったそうだ(石井良助著『江戸の刑罰』)▼今年の『犯罪白書』によると、昨年中に確定した刑事裁判の被告135万余人のうち、93%以上は罰金刑だった。今の刑罰の中心ともいえるこの罰金制度について、同白書が「豊かな社会の中で効果が薄れてきた」と見直しを提起している。刑法などの罰金の額については、所得が増え、物価があがる中で、戦後2回にわたって引き上げられた▼しかし、前回の改正からすでに17年もたち、実情に合わない面が出てきた。例えば、住居侵入の罪の罰金は「1万円以下」。小学生がお年玉に何万円ももらう時代に、これでは刑罰としての重みがないのは確かだろう。刑法がつくられた明治末年当時は、「50円以下」だった▼週刊朝日編の『値段の風俗史』によると、当時の初任給が銀行員で35円、小学校教員で十数円だったそうだから、50円は3−40万円かそれ以上にあたる金額だ。相当の「威嚇」である。この17年間に消費者物価指数は2.5倍程度、1人当たり国民所得は3倍以上になった▼このため法務省は、住居侵入を「10万円以下」とするなど、2倍から10倍程度に引き上げる改正案を検討しているという。だが威嚇力の落ちた罰金刑のもとで、わが国は「世界で最も安全な国のひとつ」(同白書)をつくりあげた。重ければ犯罪が少なくなる、というものでもあるまい。議論の輪を広げ、時代にふさわしい刑罰のあり方を考えたいものだ。 ハンガリー社会党 【’89.10.12 朝刊 1頁 (全845字)】  従来の共産圏についての常識では想像もつかないことが起きる。ハンガリー社会主義労働者党(共産党)が社会党と改名し、「官僚的で独裁的な国家社会主義」を捨てて「民主的社会主義」をめざすという▼改革派のリーダー、ポジュガイ幹部会員は本社記者に「(共産党と)手を切ったということだ」と語った。共産党の大幹部が、そんなに簡単に共産主義や共産党と手を切れるのかとも思うが、情勢がそこまで切迫しているのだろう▼33年前、非スターリン化の波の中で多党制や中立を目指したハンガリー政権は、ソ連軍の戦車につぶされた。それでも20年ほど前から、ハンガリーは東欧諸国に先がけて経済改革に着手した。政治の風通しをよくすることが、経済不振に歯止めをかけ、改革を進めるカギだということをこれまでの経験は教えた▼ハンガリー人の祖先はアジアから来たといわれる。いまは青い目の白人が多いが、黒い髪、浅黒い肌の人にも時々お目にかかる。他方、オーストリア・ハンガリー帝国の一員として、ヨーロッパ文化の中心に位置したこともあった▼名物のトカイワインやパプリカをふんだんに使ったなべ料理グラーシュだけでなく、独自性をできるだけ守りながら、今回のように共産党までがいち早く西側社民党路線へ転換をはかる。歴史の波にもまれて生き抜いてきた民族のしたたかさが、そこにのぞく▼大胆な衣替えの効果のほどはわからない。保守派や官僚の反発がある一方で「中身は同じ」との批判もある。判定をくだすのは、結局ハンガリー国民のほかにない。年末から来年初めにかけて、大統領選と総選挙が予定されている▼ニエルシュ党首の就任2時間後に、ゴルバチョフ氏の祝電がとどいた。民主化要求を武力弾圧した中国は「国際共産主義運動に出現している逆流」と不愉快そうだ。ハンガリーの実験は、各国の改革への姿勢を問うリトマス試験紙でもある。 人々に季節感じさせるクリ 【’89.10.13 朝刊 1頁 (全859字)】  「栗一粒秋三界を蔵しけり」(寺田寅彦)▼近ごろ栽培や保存の仕方が進み、いろいろな食べ物から季節感が失われた。クリだけは孤塁を守っている。クリご飯を春に炊く家は少ないだろう。低温で貯蔵でき、菓子の材料としては1年中使われてもいる。だが、人々はクリに季節を感じ、それを味わおうとする。その頑固さや善し。クリすなわち秋、である▼蒸す。干す。焼く。煮る。どんなふうにしてもうまい。その素朴な味には、先祖の生活への郷愁のようなものを誘う何かがある。ご飯にまぜるもよい。きんとん、ようかん、かのこなどの、こうばしい甘さ。カチグリは干して皮をむき、渋皮もとる。旅の携行食であると同時に、武家の出陣や勝利の祝いにも使われた▼サルカニ合戦で、クリはウスやハチとカニの敵討ちに加勢した。人々の生活になじみの深い存在だったことが想像される。約4000年前の柱が見つかった富山県小矢部市の桜町遺跡では昨年、何千個ものクリの実と、建築用に加工したクリの木材多数が出土した▼縄文人は、クリの森で食糧と木材資源を確保していた、と考古学者。そんな昔から、あく抜きの手間の要らぬクリは人々を養ってきた。当時のものは今もある小粒のシバグリだったらしい。のちに、大粒で味のよい丹波栗が出現。根っから土着、国産の食品だ▼中国や欧州のクリは皮離れがよい。渋皮のむきにくさは、なぜか日本のクリだけにある性質、と農水省果樹試験場長の梅谷献二さん。いま中国グリの血を導入して「むきやすい日本グリ」への改造を試みているという。数日前、ウィーンの街で、むきやすい縦長の焼きグリを買い、食べながら、昔のことを思い出した▼親と離れて疎開していた戦時中のこと。森を歩いてクリを40個ほど集め、干した。カチグリにして親に送る気でいた。無念なり。当方、小学生。飢えていた。毎日ひとつずつ減った。親に届ける日、数個しか残っていなかった。 文化財の保護 【’89.10.14 朝刊 1頁 (全853字)】  木造の高層建物は、建築基準法で禁止されている。安全性に欠けるからだ。では、法隆寺の五重塔は違法建築だから取り壊せ、という主張になるだろうか。むろんありえない話だが、これと似た妙なことが文化財の保存をめぐって起きている▼札幌市指定の文化財「旧黒岩家住宅」は、建築後100年以上たっていることから、解体修理を施した。ところが、この地域では屋根は不燃材に限ると基準法は定めている。だから復元にさいしては、せっかくの柾葺(まさぶき)の上にステンレスの屋根をかぶせた▼同じように、歴史的建造物が建築基準法の規制によって価値を失いかけている例は、石川、奈良、岡山など全国各地から報告されている。なかには違反を承知で檜皮葺を貫いたり、建築確認を受けなかったりして、原形復元を図っている県や市もある。文化財を守るための脱法行為である。なぜ、こんなことになったのだろうか▼国が定める国宝や重要文化財は、建築基準法にしばられずに元の形のまま保存・修理ができることになっている。一方、県や市町村の指定する文化財は、大きな修理や改築にあたって、新築と同じように基準法が適用される。国の認めた文化財の方が地方の指定よりも上等だから保護も手厚く、というのが建設省の言い分だ▼これに対しては、ひとつの事実を指摘しておきたい。この4年間に、84棟の建造物が国から重要文化財として指定された。その7割までが地方自治体指定の文化財から選定されている。つまり地方自治体の指定文化財は、将来の重要文化財の有力候補だ。価値の損なわれるような保存の仕方が許されていいはずがない▼伝統の柾葺屋根が火災に弱いというのなら、ステンレスに替える前に、いくらも防火対策はあるだろう。地域の文化財は、昔からみんなで天変地異から守ってきたものだ。その価値がしゃくし定規の判断で失われてしまっては後世に言い訳ができない。 今夜は満月 【’89.10.15 朝刊 1頁 (全921字)】  秋の夜、澄んだ大気の中にあふれる青い月の光。明るい空に雲が白く軽やかに浮かぶ。下界にはくろぐろと横たわる山なみ。林の中にも月の輝きがこぼれ落ちている。こういう晩に、その光を浴びながら歩くと、あまりの美しさに、ぞくりとする▼月に人間が旅をして、科学的研究を進め、ウサギはいないということがわかっても、それで月光のすばらしさが減ったわけではない。昔の人ほどではないだろうが、私たちはなお月の魅力のとりこである。日本語には月の呼び名が驚くほど多い。新月と満月との間を、細かく呼び分けた▼三日月がある。弓張月(ゆみはりづき)がある。陰暦十五夜の満月は、望月(もちづき)だ。翌日は、前の日より少し遅れてためらって出ることから、いさよい(ためらいの意)を上につけて十六夜月(いさよいづき)。翌17日夜は立待月(たちまちづき)。夕方、立って待っているうちに上る月だ。18日になると出るのがやや遅く、すわって待つところから居待月(いまちづき)と呼んだ▼さらに翌19日の晩は、寝待月(ねまちづき)。20日はもっと遅れて更待月(ふけまちづき)。どんな時刻までも、月の出を待ちかねたらしい。夜明けになっても空に残っている月は有明月(ありあけづき)といった。夕方は夕月、春の宵はおぼろ月、である。日ごとに変化を観察し、それぞれの状態に名をつける。月がいかに身近な存在だったかを示している▼ところで、人は月の大きさをどのくらいに見ているのだろう。お盆のような月、という表現がある。直径30−40センチというところか。もっと大きく見えるという人がいる。100円玉くらい、と考えている人もいる。心理的な大きさだから人によって違う。宇宙科学者の大林辰蔵さんは大勢の人に質問して調べた▼年配の人たちの集団では50ないし100センチのところに多くが集まり、学生たちの場合は驚いたことに1センチくらいのところがいちばん多かったそうだ。同じ月を見ても認識に大小の違いが出るのはどういうことだろう。今夜は満月。晴れるとよいが。 EC統合 【’89.10.16 朝刊 1頁 (全861字)】  日本のように海に囲まれている国では想像しにくいが、欧州では何時間か走ると異国に入ってしまう。とたんに言葉が変わる。人の顔や服装が違う。食べ物も町のにおいも一変する。建物の様式はもちろん、風景までが趣を変えて現れる▼面白く、そしてふしぎな感じである。各地の諸侯が関所や藩札を設けていた昔の日本と、程度の差はあれ、似ているかも知れない。国境を侵すものがあれば戦争だ。事実いくたの戦乱が歴史を彩ってきた。その欧州で、今から3年余り後の1993年1月1日朝、目ざめたら「国境」が無い、という状況が出現する▼思い起こせば長い道のりだ。フランスや西独など6カ国が欧州経済共同体をつくろうとローマ条約に調印したのが1957年。73年には英国やデンマークなどの加盟で9カ国、81年にギリシャ、86年にはスペインなどが入って12カ国となった。人口3億2000万人、世界最大の単一市場、というわけだ▼関税、農業、社会政策その他、多くの分野でおびただしいとりきめが協議されている。各国の独自性や利害を尊重しながら統合を目ざす。忍耐の要る、地道な作業である。域内では、金、物、サービス、そして人の移動が自由に行われることになる。むろん、ある程度の制約はある。だが、望む国に住み、働くことが可能になる▼これは大変なことだ。想像力を働かせればわかる。事情は大違いだがたとえばアジアで国境を越えて自由に就職や居住ができるとしたら……。欧州の場合、公衆衛生その他公共的な面での配慮から、自由にある程度の制約がつく。それにしてもあらゆる事態を細かく予測しながら人の移動の自由を実現する努力はすごい▼2年ぶりに英国を訪れた。住んでいた20年前とは隔世の感。友人たちは「欧州共同体」と印刷された旅券を持っている。外国人が町にあふれ、働いている。議論もあるが、統合への日程は進む。理性による壮大な実験。行方が見たい。 悲惨な歴史の直視を 「原爆の子」の映画祭出品阻止 【’89.10.17 朝刊 1頁 (全858字)】  映画監督、新藤兼人さんの自伝的な著書『青春のモノクローム』に、映画「原爆の子」を作った時のいきさつが出てくる。「日本はまだ占領下にあった。その下で原爆を投下したアメリカに告発の目を向けるのは勇気のいることだった」▼1952年(昭和27年)のことだ。同じ企画を考えた日教組と衝突し、資金不足に苦しみ、何とか完成にこぎつけた。大当たり。乙羽信子のふんする教師が被爆した教え子たちを訪ねて歩く。原爆の悲惨さを直視した最初の劇映画だった。1953年の第6回カンヌ国際映画祭に出品された▼ところが、その出品を外務省が阻止しようと努力していた事実が明らかになった。15日付で公開された外交文書だ。出品の差し止めは「法的根拠がない」から無理だが、映画祭への参加受け付けを主催者に断ってもらうわけにはゆくまいか、と考えたらしい。駐仏大使への至急極秘電報で工作を指示している▼さらに上映されて受賞した場合には「これを辞退したい旨、映画祭実行委員会に前もって内々伝達しておくこと」を大使に求めていた。政府としては、米国を刺激したくなかったのだろう。駐仏大使からの返電は、しかし、「仏外務省と打ち合わせた結果、政府が介入すればかえって世界の注意をひくだけ」と、指示を見送る内容だった▼原爆を扱ったものへの反応で、思い出すことがある。1978年5月からの国連軍縮特別総会の期間中、国連本部1階ロビーで原爆の記録写真展があった。広島、長崎両市が準備したものだが、写真の一部があまりにも「残酷」だと国連事務局が差し替えを求めた。「これこそ実相だ」との反論があって結局は展示された▼投下から30年以上もたって「残酷」さに驚く人がいるのに実は驚かされた。事実を世界に知らせる努力を十分にしてきたか。反省の材料でもあった。その時々さまざまな顧慮はあろう。だが、歴史は直視し、きちんと記録するにしくはない。 「栗一粒秋三界を蔵しけり」は「粟(あわ)」の間違い 【’89.10.18 朝刊 1頁 (全864字)】  「世の中は澄むと濁るの違ひにてはけに毛がありはげに毛がなし」。たしかに小さな点2つで意味がまったく違ってしまう。あだやおろそかにはできぬ。「ふぐにどくありふくにとくあり」という下の句もあった▼先日、クリの話を書き、寺田寅彦の句を引用した。「栗一粒秋三界を蔵しけり」。クリは秋そのものだ、という当方の気持ちにぴったりである。あれだけの大きさのものを「粒」と呼ぶだろうか、との疑念が一瞬頭をかすめた。だが、ひろびろとした秋の大自然の中に置いて見ればクリも「一粒」かと考えた▼紙面に出たら、仙台の読者から「あれは栗ではなく粟です」との指摘があった。あらためて歳時記を繰る。引いた時と同じように、角川書店、講談社、文芸春秋などの歳時記を再点検した。いずれも秋の季語「栗」の項にこの句が出ている。別の出版社の歳時記も見た。「栗」で、わざわざ秀句だと解説したものもある▼念のため、この句が初めて世に出た時の俳誌を調べることにした。東京の高田馬場に俳人松岡六花女さんを訪ね『澁柿(しぶがき)』の昭和6年11月号を見せてもらう。寅彦は、主宰者、松根東洋城の親友だ。その関係で巻頭随筆を書き、末尾にこの句を記している。あっと驚いた。小さな点が2つ。まぎれもなく「粟」である▼どういうことだろう。仙台の読者、大森一彦さんは東北工大付属図書館の事務長。寺田寅彦のことを実によく調べている。戦前、戦後に編まれた全集をつぶさに見ると、昭和12年に、岩波書店が随筆と分けて俳句だけを集め、年代順、季題別に編集している。この時「栗」が出現する▼集める作業には大勢の人が参加したらしい。そこで点が2つ見落とされたものか。それにしても大森さんの研究に脱帽した。俳句の世界からは何の指摘もない。「栗」の秀句として定着しているためか。やはり「粟」でこその「一粒」だった。泉下の寅彦先生、これを随筆に書いているかも知れぬ。 大地震 【’89.10.19 朝刊 1頁 (全858字)】  中国の唐山。1976年の大地震の後、長い間、人々に苦しみの記憶がつきまとった。曇りの日や、日が暮れて暗くなる時など、胸がつまって息苦しくなる人。やみの中、がれきの下に3日間も閉じ込められたことの後遺症だ▼救出された時に与えられたのが甘いぶどう糖だったため、それ以来、どんな甘いものにも拒否の条件反射を起こす女性もいた。この地方では、農村の建物のほとんどはれんがや土壁だ。その上に、石炭がらと石灰をまぜた重くて厚い屋根。無残なまでに壊滅、24万人の犠牲者を出した▼1985年、メキシコ地震。コンクリートや石の建物の壁、支柱などが倒壊。1階の上に2階、その上に3階と、床と天井がサンドイッチ状に重なって崩れ落ちた。間にはさまった人々の救出が大変だった。9月だが暑い。引き出した死体の山に、人々は腐敗防止のため、おびただしい数のレモンを搾って汁をかけた▼死体とレモンのにおいは、いまだに鼻の奥によみがえる。1988年のアルメニア地震では、倒れた建物の素材はコンクリートだった。だが、セメントにくらべて砂が異常に多かった。「停滞の時代」といわれたブレジネフ政権のころの産物。「セメントを盗んだのはだれだ」とゴルバチョフ氏は怒った。横流しが招いた人災といえる▼そしてこんどは米国サンフランシスコで大きな地震が起きた。サンアンドレアス断層と呼ばれる巨大な活断層が走る地域で、もともと地震の多いところである。1906年には数百人の死者を出す大地震があった。防災の態勢は十分だっただろうが被害は決して小さいとはいえないようだ▼自動車の高速道路、湾をまたぐ長い橋。交通は四通八達、通信網の張りめぐらされた都会である。日本に大地震が起きたら、いろいろな意味で似た状況が予想されるのではないだろうか。まずは急いで救援にできるだけの手を打つべきだが、今後のために徹底的な事態の検証が必要だろう。 東独改革の行く手 【’89.10.20 朝刊 1頁 (全862字)】  「チェコスロバキアの人々が、晴れているのに傘をさしている。どうしましたと聞いたら彼らのいわく、今モスクワが雨なもんで」。これは東欧圏のソ連追随を皮肉った古典的な一例だ。この種の小話が、あの地域には実に多い▼作者は無名の人々。語り伝え、磨きをかけて面白くする。伝統的話法に従うなら、ひと月前の状況はこんな具合だったろう。「東独から西独への脱出騒ぎ。いまの調子だと、最後に残るのはホーネッカーさんの一家だけだって」「いや、奥さんが言ったそうだよ。まもなくあなた1人ねって」▼いまなら「やっとこれでホーネッカーさんも脱出できる」と尾ひれがつくだろう。ホーネッカー東独国家評議会議長の辞任を小話にしてしまうのは不謹慎かも知れぬ。だが、自分の国を捨てて脱出する人が10万人を超えた、というのはやはり尋常ではない。容易ならざる事態である。辞任はサンフランシスコにおとらぬ激震だ▼折しもハンガリーは複数政党制をうたう憲法修正案を可決。ポーランドでも共産主義政権を批判する勢力が政権を握った。ソ連での改革の波は着実に東欧に及んでいる。その中で東独だけは「隣の家が壁紙をはりかえたからといって、自分の家の壁紙までかえる必要がどこにある」(ハーガー政治局員)と考えていた▼さる6日の東独建国40周年式典では「現実路線で東西関係改善を」と演説したゴルバチョフ氏と、西独への強い不信感を表明したホーネッカー氏との対照が目立った。ホーネッカー氏が改革路線をとろうとしなかったのには、しかし、理由がある。ハンガリーなどとは事情が違う▼それは、改革を進めて、もし社会主義体制が希薄になったら、それでもなおドイツが東西に分かれている必然性があるのか、という議論になるからだ。いわば社会主義でがんばり続けない限り、自らの存在理由が消えてしまう。改革の行く手を考えると、前進も後退もままならぬ。後継者もたいへんだ。 騒音で耳せんが爆発的な売れ行き 静けさがサービス 【’89.10.21 朝刊 1頁 (全862字)】  「日本の騒音は世界的に見ても最も深刻な事態。放置すればやがては日本人の聴力そのものが破壊される恐れがある」との警告が出されたのは、9年前の今月だった▼日本学術会議の声明だ。騒音発生量を電気エネルギーに直して1日当たり約1万8000―3万キロワット時と計算、人の住める地域でこの騒音全部が耳に届くとすれば、1平方キロに約80万人が集まってしゃべり続けているのと同じうるささ、とはじき出した。このまま続くと「80年代末には耳を守るために外出時には耳せんが手放せないことになりかねない」▼この予言が的中しそうな気配だ。耳せんが売れている。この夏、首都圏の駅の売店で売り出したら2カ月あまりで6万5000個を超えた。今月下旬からは関西の駅でも発売を始める。指でもんで柔らかくし、耳に入れると膨らんで音を防ぐ。薬局や書店などでもすでに年間数百万個も売られ、十分に市場として成り立っている▼「職場で1日中有線放送の音楽を強制的に聴かされ、耳せんを使っています」と苦しさを訴える手紙が読者から届く。先日の「声」欄にも、ウィーンで4年半生活して帰国し、東京の騒音のすさまじさに驚いた人の投書があった。駅構内や電車の中での不要な放送をやめよう、との提案が具体的だった▼なくもがなの放送、音楽が多すぎる。うるさい発車ベルをやめた駅が好評だ。音を出している部署の責任者は、音がどう受けとめられているかを真剣に考えているのだろうか。音を出し、空白を作らないことがサービス、とでも思い違いをしているのではないか。静けさがサービスと人は考えている▼騒音をめぐる事件が続く。夏には堺市でオートバイを待ち伏せし、自動車で追い、ぶつけて転倒させた事件があった。東京では今月、電車の中でヘッドホンの音量を注意された男が暴力をふるい逮捕された。音がもたらす、すさみ。気持ちのゆとり、思いやりには、静けさが欠かせまい。 「思い切って」か「思い切った」か 【’89.10.22 朝刊 1頁 (全868字)】  「箱根八里は馬でも越すが」という馬子唄がある。このあと「越すに越されぬ大井川」と続く。だが、もとの唄の結びは「大井川」ではなく「大みそか」だった。その方がずっと面白い。明治10年ごろにはそう歌われていた、と『史伝閑歩』(森銑三著)にある▼「佐渡へ佐渡へと草木もなびく」は、古浄瑠璃では佐渡でなく伊予だったそうだ。それでこそ「伊予は居よいか住みよいか」と言葉の面白さが生きる。いつのまに大井川や佐渡が現れたのかわからないが、自在に作りかえられるのが俗謡というものなのだろう▼作り替えではなく、歌詞を間違って覚え込んでしまうということも多い。「どんぐりころころ」の次を「どんぐりこ」と覚えている人がいる。正しくは「どんぐりころころドンブリコ」である。近ごろ童謡が人々の新たな関心を集めている。歌詞はきちんと覚えなければなるまいが凡人はとかくうろ覚えで歌いがちだ▼「きんらんどんすの帯しめながら/花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」の次はどう歌うか。「文金島田の髪結いながら……」と歌うべからず。「文金島田に」だ。助詞の間違いは「うさぎとかめ」にもある。「もしもし、かめよ、かめさんよ、せかいのうちに、おまえほど」を、たいていの人は、「せかいのうちで」と歌う▼三木露風の「赤蜻蛉(とんぼ)」に「山の畑の/桑の実を」というくだりがある。童謡集にはこの表記が多い。だが昭和29年発行の『日本名歌集』(藤浦洸監修、金園社)を見ると「山の畑に」となっている。どちらが正しいだろう。大正10年の最初の発表を調べればよいが、資料が見つからぬ▼「てにをは」は大切だ。衆院予算委での論議が面白かった。社会党の井上議員が海部首相に消費税問題で質問した。「思い切って見直し」をすると最近言うが、前には「思い切った見直し」と言った、との指摘だ。たしかに意味が違う。言葉じりをとらえるな、と言いながら、首相は苦しそうだった。 『赤毛のアン』の人気の理由 【’89.10.23 朝刊 1頁 (全860字)】  「バラはたとえほかのどんな名前でも同じようににおうと書いてあったけれど、どうしても信じられないの。もしバラがアザミとかキャベツなんていう名前だったら、あんなにすてきだとは思えないわ」▼豊かな想像力にまかせて話し始めると、とまらないおしゃべり。時には大言壮語もかわいらしい。孤児院から引き取られ、老兄妹に育てられることになった少女アン。髪の毛が赤く、そばかすがあり、やせている。いきいき、のびのびと成長する少女の物語『赤毛のアン』は大勢の読者を魅了してきた▼それが映画になり、日本では夏から上映された。予定期間を過ぎてなお続映中だ。客も、若い女性だけではない。男女いろいろな年齢の人が来ている。こんなに好まれている理由は何だろうと考える。映画は原著ほど詳しくないが、次のような特色はすべて備えている。第1は舞台になるカナダの大自然の美しさだ▼そこを実際に訪ねる日本人観光客が今年は9月で1万人突破という。人気のほどが知れる。登場人物は自然にとけこんで生きている。第2に、その登場人物たちのがっしりした存在感。自分の意見、他人への配慮が、いずれもくっきりしている。第3に簡素な生活。そして第4に、自立への少女の努力▼好奇心にあふれ、失敗をくりかえし、自らを精いっぱい表現しながら成長する姿がさわやかだ。80年余り前の出版だが、その20数年前にスイスで書かれた『ハイジ』を思い出す。大自然、簡素な生活という背景に加え、孤独だった少女と老人の交流まで似ている。それに、趣味のよいユーモアと、生活の中の祈り▼共通するのは、人の心、愛情への信頼感だ。それが深いところで心を打つのだろう。物が豊富で、便利で、人工的な環境に囲まれた現代人は、あらまほしきものを求め、アンやハイジの世界に身を置きたくなる。両著の作者と主人公が女性という点も、価値観が揺れている今の時代の空気を考えると面白い。 読書週間を前に 【’89.10.24 朝刊 1頁 (全862字)】  斜め読み、などという。さっと目を走らせて、何が書いてあるかを頭に入れる。本にせよ書類にせよ、忙しい時に速く読めば時間の節約になる。速読でよく知られたのはケネディ米大統領だった▼米国では速読術がさかんである。ひとつの方法は、横書きの文が詰まっているページの真ん中に、上から下へ、頭の中で線を引く。その線に沿って視線を動かし、ページの中央部にある単語をとらえてゆく。そうしながら、線の左右、できるだけ広い範囲の単語をも拾う練習をする。やがてはページ全体を、という方法だ▼斜めならぬ、いわば縦読みである。日本でも近ごろは速読術への関心が高く、学ぶための教室まである。眼球を速く動かし、視線を停滞させない訓練が基本らしい。速読を研究して本を書いた斉藤英治さんは「二八(にっぱち)の法則」というものがあるという。本のページ数の2割に、求める情報の8割が含まれている▼その2割をうまく探して読む。さらに、商品の納期を考える時のように、本を読み上げる時間を、30分なり1時間なり、あらかじめ設定する。集中の効果が出る。それで月に50冊以上を読むのだそうだ。たしかに、限られた時間内に望む情報を探し、取り出そうという場合には、こうした速読術は役に立つに違いない▼月に50冊以上も読む、という人がいる一方で、1年間に1冊も読まない人が30.9%もいる。総理府の調査だ。だが、この1年間に本を読んだと答えた人は、10年前より8.6ポイント増えて69.1%。「週休2日制の導入などで、総じて読書のゆとりが出てきた」というのが総理府の推測だ▼本にはいろいろな読み方、楽しみ方がある。本の中でさまざまな人生に出会い、深い感動を覚えることも多い。速読とは大違いの、味読という、いい言葉がある。ゆっくりと味わいながら本の世界にひたる。子どもの時に読んだ本の再読もぜいたくな喜びだ。読書週間が27日から始まる。 名前入りの米 【’89.10.25 朝刊 1頁 (全860字)】  山形県の米の会社が、米袋に、その米をつくった人の名前と顔写真を張って売ることになった。名前の下に「1年間心をこめて育ててきたお米です。作り手の顔とともにお届けします」。好評らしい▼「生産者を自分の目で確かめて買えるので安心感がある」というのが消費者の反響だという。東京の百貨店にも似たような風景がある。食品を売る中国料理の店が売り場に責任者の名前と顔写真を掲示、「何でもおたずね下さい。ご相談に応じます」と記している。責任を持つという姿勢が名を出すことに表れ信頼感を生むのだろう▼文学や音楽の場合、作品にはつくった人の名前がある。絵も同様だ。陶器もしかり。米もパンも豆腐も作品だから、つくった人の名前がついてもふしぎはない。責任の所在がはっきりすることと同時に、親しみを感じさせる効果がある。大量生産・消費の場では、個人の名前や顔の入り込む余地がなかった▼どちらかといえば、われわれの社会では名前をあまり前面に出さぬ傾向がある。とかく肩書や役職で呼びかける。名を知らぬ人同士をてきぱきと紹介するのも下手だ。台風にまで男女の名をつける米国では、会話の合間に相手の名をひんぱんにはさむ。名前をそれほどあからさまに出さぬ日本で、名入りの米が出たのは興味深い▼名前を確認することは、相手をきちんと認めることだ。「まだ赤ちゃんなんだから」とつぶやいた母親に、2歳3カ月の幼児が「赤ちゃんじゃない。としちゃん!」と怒った話が投書にあった。「赤ちゃん」には個性がないが「としちゃん」は無二の彼の存在そのものである▼病院などでよく見る光景だが、人を「おばあちゃん」などと呼ぶ。親しみをこめて呼びかけている、という見方もできるだろう。だが同時に、なれなれしくていやだ、と感じている人も多い。初めて名前を呼ばれた、といって喜ぶお年寄りもいる。名前を呼ぶのは、ほかならぬあなた、という意味なのだ。 寛容な文化形成を 【’89.10.26 朝刊 1頁 (全859字)】  佐々木典子さんが武蔵野音楽大学を卒業、欧州に行ったのは8年前のことだ。声楽を学んでいたから、歌劇の本場を見てみたい、聴いてみたい、と考えた。ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院にはいる▼欧州で音楽を勉強する人たちは、在学中から仕事の口を探す。各国にある、音楽家をあっせんする事務所に声をかけ、演奏を試聴してもらうのだ。認めてもらえれば仕事が来る。典子さんも、そういう音楽事務所に出かけた。いくつかの曲目を持参、事務所のピアニストの伴奏で歌う。反応が思わしくないと、別口へ▼文字通り自分の売り込みだ。実力だけが頼みの世界。いくつかを回り、これは日本へ帰った方がよいかと弱気にもなった。その矢先、ウィーン国立歌劇場から通知が来た。結構な反応だった。研究所に来られたし。音楽院を3年で出て研究所にはいる。そこで2年を過ごす。たびたび歌劇に出演する機会にも恵まれた▼その毎回を好機とし、ふだんの精進を発揮したからだろう。3年前、国立歌劇場の専属歌手に起用された。見てみたい、と思っていた本場で、押しも押されもせぬオペラ歌手である。国立歌劇場には世界の才能がひしめいている。地元オーストリアに加え、東西欧州各国、米国、中南米。日本人の専属歌手はひとりだ▼楽しいと同時にさまざまな摩擦もあろう。だが「仕事の場で日本人であることをとくに意識することはありません」。むしろ各国の人が国籍にこだわらずに持ち味を発揮し、オーストリアの文化に貢献していることがすばらしい、と思う。言われてみれば、日本では、外国人の参加にそこまでの寛容さがあるだろうか▼午前と夜、3時間ずつの練習。朝はスカッシュで汗を流し、長身の体を鍛えている。今回、修好120周年記念特別公演で480人の一行と来日した。「経済・技術で冠たる日本。文化の面で、画一的でない個人の好みをもっと追求、主張する時代になるといいですね」 ソ連の「シナトラ・ドクトリン」 【’89.10.27 朝刊 1頁 (全858字)】  世の中、変われば変わるものだ。ソ連外務省の情報局長が米国のテレビ番組に出ていわく、「東欧諸国に対するソ連の政策を、このほどシナトラ・ドクトリンと命名した」▼シナトラとは、米国の歌手フランク・シナトラのことである。得意の曲のひとつに「マイ・ウエー(わが道)」がある。ゲラシモフ情報局長によると「シナトラがマイ・ウエーを歌っているように、東欧各国ともそれぞれの歩む道を決めることができる」。つまり、最近の東欧諸国の民主化の動きについて、ソ連は各国の自由意思に任せる、というのだ▼ドクトリンという言葉は教義、主義、信条などを意味する。東欧に対するソ連のこれまでの政策はブレジネフ・ドクトリンと呼ばれてきた。またの名を制限主権論。これは、1968年にソ連軍がチェコスロバキアに軍事介入した時、それを正当化するために、当時のブレジネフ書記長が主張したものである▼社会主義国1国の主権よりも、社会主義全体の利益が優先する、という考え方だ。だから「全体の利益」にかかわると見れば、ソ連は介入した。しかし、25日、フィンランドを訪れたゴルバチョフ・ソ連最高会議議長はコイビスト大統領にきっぱり告げる。「ソ連は東欧に介入しない。同時にほかのだれも介入する権利はない」▼いまごろ言っても遅い、という気持ちが東欧諸国にはあろう。改革につながる内からのエネルギーは何度もつぶされた。もっと早く改革を許してくれればよかったのに、だ。「党が公式に言ってきた『輝ける未来』は幻想だった」とポーランド大統領がのべたことがある▼幻想を幻想と認めた東欧は今後どうなるか。ソ連は「欧州共通の家」という表現で東西欧州の広域経済圏結成などを期待する。西側は、東西で軍事同盟の色合いが薄まり東欧は中立的になるか、と読む。「オー・ルック・アット・ミー・ナウ」という当たり曲がシナトラにあった。いざ、注目されたし、だ。 「昭和の回顧展」を見て 【’89.10.28 朝刊 1頁 (全913字)】  見に行った当方を、不気味な目がじっと見つめている。靉光(あいみつ)の「眼のある風景」。不安が高まり、暗さが増す時代を凝視した眼か。昭和13年に描かれた。宮本三郎「山下・パーシバル両中将会見図」や藤田嗣治(つぐはる)「アッツ島玉砕」など、戦時中の作品も展示されている▼といっても昭和という時代は戦争だけではない。開催中の「昭和の回顧展」を見た。長い年月をあらためて顧み、同時に私たちの同時代人が文化の各分野でいかに貴重な遺産を残してくれたかを実感する。洋画、日本画、書道と、各会場での「100選展」だ▼本社の主催というところが困る。宣伝めいて聞こえるかも知れぬ。各界の人々に選んでもらった作品を一堂に集めたさまは、しかし、壮観だ。1926年から89年まで62年余。とくに昭和初年からの作品が多い。大正から昭和にかけての高揚した空気の産物か。諸家が高齢で秀作をものしているのも感興を誘う▼奥村土牛(とぎゅう)の「醍醐」。太い幹の桜の、におうような美しさ。思わず立ちつくす。小川芋銭(うせん)の「狐隊行」は湖畔を進むキツネの行列だ。土俗。飄逸(ひょういつ)。夢の中のような風景である。伝統を生かしながら、戦後の作品には新しい手法と感性とがあらわれてくる。日本画と洋画の違いは材料の相違だけかと思わせるものもある▼「書は人なり」というそうだ。田中塊堂(かいどう)のように滝の流れるような書家の名筆がある。かと思うと、作家や歌人の、きまじめさの表れた筆跡もある。西田幾多郎の字の円転滑脱さに驚き、中村不折、松林桂月などの画家、北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)のような陶芸家が独特のすばらしい書体を持つのはやはり造形感覚のゆえかと思う▼いまや、電気仕掛けの筆記具が幅をきかす時代だ。こういう書にはお目にかかれなくなるか、などと思いながら見た。3つの展覧会を追うように「昭和のマンガ展」も開かれる。同じ時代の空気を吸う人々が共有する文化の財産目録。日常を離れ豊かさを味わった。 「赤蜻蛉」 日本のうた、ふるさとのうた、第1位 【’89.10.29 朝刊 1頁 (全920字)】  いささか季節からはずれるが赤とんぼの話。先日この欄で三木露風の詩「赤蜻蛉(あかとんぼ)」にふれ、昭和29年発行の『日本名歌集』では、「山の畑の/桑の実を」のくだりが「山の畑に」となっている、と書いた▼すぐに日本近代文学館の図書資料部長、高橋敬(たかし)さんから知らせがあった。「露風が最初に発表した雑誌があります」。なか夫人からの寄贈だという。大正10年8月号の『樫の實(かしのみ)』誌。54−55の2ページに、山道で馬に揺られる花嫁さんのさし絵入りで「赤蜻蛉」がのっている。5、6行目に「山の畑の、/桑の實を、」▼同時に別のことに気づいた。歌い出しが「夕焼(ゆふやけ)、小焼(こやけ)の、/山の空、」なのだ。しかも「負はれて見たのは、/まぼろしか。」と続く。「小篭(こかご)に摘んだは、/いつの日か。」が次の節。つまり「まぼろしか」と「いつの日か」が、いま歌われている歌詞とあべこべ。「赤とんぼ」の語は、最後の節にやっと出る▼露風の研究家、元奈良教育大学教授の家森長治郎さんからも資料とご教示をいただいた。大正10年12月に出た露風の第1童謡集『真珠島(しんじゅしま)』(アルス社刊)の復刻版も届けて下さった。見ると「山の空」は「あかとんぼ」で、「いつの日か」と「まぼろしか」は現行の歌詞の位置。わずかな間に遂行(すいこう)したらしい▼家森教授の研究、童謡「赤とんぼ」考に興味深い指摘があった。最初の節の「負はれて」についてのなぞ解きだ。いったい、だれの背におんぶされたのか。明示されていない。「母」の字もない。教授は考証の結果、15で嫁に行った「姐や(ねえや)」だろうと解釈する。これには別の説もある。三木露風全集第3巻には「母」だとする友人有本芳水の話がのっている▼だれに背負われたにせよ、母を慕い、故郷を恋うこの歌には、なつかしさと寂しさがこもっている。親友山田耕筰の曲。人々の心にしみ入り歌われてきた。さきごろの愛唱歌投票では「日本のうた  ふるさとのうた」の第1位である。 10月のことば抄録 【’89.10.30 朝刊 1頁 (全845字)】  10月のことば抄録▼ソニーが米大手映画会社コロンビア社を買収、米国内に不満の声。「米国の魂を買ったと非難するならば、売った方にも問題がある」とソニーの盛田昭夫会長▼米国のアマコスト駐日大使は「米国にとって問題なのは、日本に投資をしたいと思ってもできないことだ」▼自民党税制調査会で若手議員から国民への謝罪を求める声が相次ぐ。「まず公約違反を国民に謝らなくてはいけない。自民党だけで見直し案を出すと、何だこんな程度かと言われる。国民にも一緒に考えてもらおう」と臼井日出男議員▼田中角栄元首相が引退を声明。「かえりみて、わが政治生活にいささかの悔いもなし」▼南アフリカが著名な黒人政治犯8人を釈放。非合法解放運動組織「アフリカ民族会議」(ANC)の元書記長ウォルター・シスル氏(終身刑)の感慨。「自由の身はなんと素晴らしいことか。空気がうまい」▼「社会主義は資本主義に反対する唯一の人道主義的な選択である」と東独のエゴン・クレンツ新書記長▼「純粋な資本主義という観念は純粋な社会主義と同様に見直されねばならない。もはや既成のイデオロギーに頼ってゆけない時代。両体制とも現実的対応を図らねばならない」とケネス・ガルブレイス・ハーバード大名誉教授▼ポーランドのヤルゼルスキ大統領。「ワルシャワ条約機構と北大西洋条約機構(NATO)の同時解消を支持する。今世紀中にも実現の可能性が大いにあると思う」と語る▼サンフランシスコで大地震。約90時間、水も食料もなく閉じこめられていたバック・ヘルムさんが救出された。「神よ、ありがとう。私は生きている」▼「日本の病院は患者に無用の屈辱と苦痛を与え過ぎます。愛情のない暴言はもちろん、何も言ってくれない医師の例もある。これはもう、論外。声をかけてあげるだけで、どれだけ患者さんは救われるか」と、作家の遠藤周作さん。 英米式の行列 【’89.10.31 朝刊 1頁 (全860字)】  久しぶりに英国の地下鉄に乗り、なつかしい気分を味わった。二十何年か前、初めて乗った時にこんなことがあった。地下へ下る長いエスカレーターに乗り、立っていたら、土地の人に静かに注意された。「右側に寄ってお立ちください」▼言われて気がつくと、みな右側に立ち左側を空けている。急ぐ人が歩いてゆく。いつからこういう慣行ができたのだろう。ぎっしり詰まって立つよりは安全だ。今回も、同じ風景だった。日本では、混雑がひどいせいか、様子が違う。銀座あたりでは、2人並んで立つようにと絵で示してある▼エスカレーターでは右に立つ、と注意されたのがきっかけで人の並び方に興味がわいた。日本と著しく違っていた例は女性の手洗いでの並び方だ。劇場や百貨店など公共の手洗いで、日本では、ここと思い定めた個室の前に行列をつくることが、当時はほとんどだった。英国では違う並び方をした▼廊下から手洗いに入るししきいのところで、1本の行列をつくり、空いた個室に順に入る。のちに移り住んだ米国でも同様だった。この方法だと行列は長く、時間がかかるような気がするが必ず先着順に個室に入れる。旧来の日本式だと、列は短いが後から来た人が隣で先に入ったりしてあせりが募る。順番を守るのなら英米式が合理的だ▼手洗いに限らない。銀行の現金引き出し機のような場面でも、どちらが合理的かという問題が起きる。多数に受け入れられる社会的慣行は、どのようにしてつくられるのか。近ごろ、こう並びましょう、と1列方式を実践して見せる人も出てきた。行列の場所を確保する設計も重要だ▼社団法人「大学婦人協会」の植原映子さんが、この問題で調査した結果が同協会の報告にある。英米式行列の存在を知っている女性は、さまざまな集団別に、6割ないし9割もいる。その方式が望ましいと思われる成田空港や百貨店は、植原さんたちに、実験して反応を見ると約束したそうだ。 「かいしゃ川柳」から 【’89.11.1 朝刊 1頁 (全846字)】  よくある風景。「無理させて無理をするなと無理をいい」藤原義雄。本紙「ウイークエンド経済」のページにある「かいしゃ川柳」の欄には、給料で生活する人々の哀歓がつまっている。「還暦を重役でいるヒラでいる」吉田龍耳▼それでも入社したては初々しい。「初給料電車の客はスリに見え」飯島たたし。無邪気でもある。「無礼講新人だけが本気にし」寺西和史。「新人の熱意を会議持て余し」中山淳太朗▼いろいろなことが見えるのは、だいぶたってから。「止まり木で上司の謎が解けてくる」高沢照夫。人間関係も入り組む。「茶坊主だやれ番犬と赤ちょうちん」関山雄一郎▼面白くない日々が続くと「カッコよく辞表出したい一度だけ」石渡桜子。だが、なかなか出来ることではない。「再就職新人類に最敬礼」山川研一。決断した人も知っているが「脱サラの店を毎日横目で見」佐藤百世子▼夫婦とも働く場合の多い昨今である。「上下線ホームで別れる共稼ぎ」小谷津ゆきお。よいことばかりでもないらしい。「パートして夫のランク知った妻」井上たかし。はては「共稼ぎ妻ライバルの顔に見え」鷹大典▼何とも皮肉な思いを味わっている2人。「けなす社で社内結婚したぼくら」上田強。結婚といえば、情報化時代だというのに「載ってない離婚再婚社内報」河村雅樹。しかし、情報は耳からですぞ。「OLたちだけが知ってた御両人」桑名奎水▼ニュースから思わず連想する。「角さんの引退会長なに思う」中島佐和子。いるいる。「肩書に名誉ついてもまだ頑固」下坂敏明。若返り歓迎か。「西暦の一本にした若社長」鈴木克明▼健康にまつわる句が多い。「胃薬を見せて断るハシゴ酒」井上清。「怠けろと医者だけは言う社の仕事」福田一二三。そんなこと言ったって。「職務聞き社医は病名すぐにあて」山村伊吹▼そして、はけ口に川柳あり。「会議中死角で数句ものにする」麻生弘。 規制は例外的、限定的なもの 安全志向だが自発性をそぐ 【’89.11.2 朝刊 1頁 (全845字)】  「政府の規制を見直し、規制緩和にいっそう取り組むことが重要だ」という報告書が出た。そうしたら、運輸省をはじめ、官界や業界からは反発、批判の声が聞こえる▼意外なことではない。むしろ報告書が予想していたことだ。いったん規制が行われると「業界にとっては規制が前提条件となって何らかの利害関係が形成され、規制の廃止や緩和に強い抵抗を示すようになりがち」で、また、「行政当局も規制を前提として、権限や組織の縮小に消極的となるおそれがある」と書いていた。公正取引委員会の研究会がまとめた報告だ▼規制は実に多い。役所の許可や認可がもらえなければ、ことが進まない。各省庁が決定権を持つ許認可制度の総件数は1万200件を超え、少しずつ増えている。そうした権限を減らすことが、行政改革にも沿う。さらに「経済環境の変化に対応し、より豊かな国民生活を実現するため」に必要という提言である▼ひとことで言えば、もっと自由な競争をさせた方が経済活動に活力が生まれ、消費者の利益になる、という考え方だ。たとえば、運輸や流通の分野で、消費者の要望を考えた新しいサービスを始めようと思う人がいる。業界への参入が規制されるとすれば、守られるのは消費者ではなく既得権益を持つ業界ということになる▼外国から日本社会の構造の問題を指摘される前に、すでに消費者は規制の多さに気づいている。それが汚職を生むひとつの温床であることも見てきた。「本来、規制は例外的、限定的なもの」という報告書の指摘は自由経済体制の大もとに立ち返ることを求めたものだ▼経済の分野での規制とは離れるが、子どもの世界に張りめぐらされた、あまりにも細かい校則なども全く無関係な話ではない。自分で判断し、自分で危険をおかして行動する。それを束縛する要素が、あらゆる規制にはある。安全指向だが、活力、工夫、自発性などをそぐ。 「わたしの長崎自然色」 【’89.11.3 朝刊 1頁 (全860字)】  秋晴れの一日、着古した白いTシャツを染めることにした。食べる度にむいたタマネギの皮が山とある。なべに入れた。赤く光る皮を煮出す。30分もすると濃い紅茶さながら。ざるでこす。澄みきっている▼水に漬けておいたシャツを入れ、染めむらが出来ぬよう、ゆっくりかきまわす。どんな色になるかな、と心おどる時だ。いつのまにか液体の色が薄くなる。色が引っ越しているのだ。やがて出来上がり。何と、赤くない。むしろ黄色だ。乾かして色名事典で調べた。ネープルスイエロー。和名クチナシ色。明るくていい▼中身は食べた。皮の色を着る。結構な気分である。自然の色といえば染織の専門家、明坂尚子さんから時々届く手紙が楽しみだ。「わたしの長崎自然色」と題して、羊毛がひとつまみ張ってある。毎回その色が違う。「クサギ」の水色。赤いがくに包まれた青い実からとるという。「ザボン」は薄いオレンジ色▼「ビワ」の葉や小枝から赤茶色。「ムギ」の淡い黄色。ふかぶかと落ち着いた焦げ茶は「クスノキ」である。鮮やかさ、軽さ、柔らかさ、深さなどが、それぞれ大自然の豊かさを思い出させる。手紙の魅力はそれだけではない。尚子さんの短い文章が印刷されていて心を打つ。染織の仲間や友人たちにあてた随筆だ▼尚子さんは原子爆弾の爆心地から1キロのところに住んでいた。9歳だった。祖母、母親、妹が死に、父親ともう1人の妹と残された。被爆の後遺症に悩んだが取り立てて口にしなかった。2年前、30年ぶりに長崎にもどる。往時の思い出がよみがえった。最後の日、出かける母を送ったのはザボンの木の下だった▼ムギの粒をむいてほおばり、くちゃくちゃと一緒にかんだ友、かなちゃんも、あの日、死んだ。「記憶のあるうちに自分のためにも話すべきことは話そうと思って」の手紙。焦土を新しい力でおおった自然の力を借りて、染め、紡ぎ、織る。紅葉の秋、こういう自然色もある。 日本は消費専門の文化国家? 【’89.11.4 朝刊 1頁 (全859字)】  ウィーンの街のたたずまいには、前世紀の終わりに行われた都市改造の成果がそのまま残る。環状の道路や整然と並ぶ建物。オーストリア・ハンガリー帝国の首都だったころの勢いが、いまだにしのばれる▼久方ぶりに先日訪れ、招かれて、ある伯爵の山荘に行った。庭に東洋ふうの枯山水。ドナウ川を見おろす小さな村での、知的好奇心に満ちた主との会話が面白かった。東京に帰り「ウィーン世紀末」展を見る。これも実に刺激的だ。前世紀の末から今世紀初めにかけ、この都会が果たした役割の大きさをあらためて考えた▼美術ではクリムト、シーレ。音楽のシェーンベルク、マーラー、ベルク。精神医学のフロイトや言語学のウィトゲンシュタイン。建築ではワーグナー。その他、おびただしい才能が集まり、20世紀の世界を豊かにした様々な知的活動をくりひろげる。都会には、文化を創造する全盛期というものがある、と思わせる▼東西の人々や文物のゆきかう街、唐の時代の長安はどんなだっただろう。産業革命のあとのロンドンにも、亡命者をふくめて多くの人々が集まった。1920年代から30年代にかけてのパリ。知的興奮にあふれていた。「作家修業に持ってこい」だと言われ、ヘミングウェーも移り住む。この時代に名をなした▼想像は、いまの日本に飛んでくる。東京の証券取引所は世界でいちばん取引高が多いという。経済的には世界に冠たる国である。その日本に、東京であれ関西であれ、各国から多様な人々が知的刺激を求めて集まり、接触、交流を通じて何か新しいものを生み出す、という場があるだろうか▼いろいろな行事は近年とみに多くなっている。外国の人の数も多い。ことによると、多様な人々が文化的な活動にいそしむ座敷を提供する好機を迎えているのかも知れぬ。むろん、異質なものへの包容力が社会にあってのこと、という前提つきだ。創造でなく消費が専門の文化国家、では残念だ。 チップの習慣 【’89.11.5 朝刊 1頁 (全850字)】  サービスというものについての意識調査を読んでいたら、チップに関する数字が出てきた。大東京火災海上保険株式会社の調査で、主婦を対象にしたものだ。どうも、チップの旗色はあまりよくない▼「接客サービスの対価は料金に組み込まれていた方がよいか、チップを渡す方がよいか」という問いに、82.2%が「サービス料が組み込まれていた方がよい」と答えている。それでいて旅館に泊まる時に4割強がチップを渡す。「人間関係を円滑にしたい」「習慣なので」というのが理由の7、8割を占めている▼渡さなければ、と緊張していると思わぬ失敗もする。東京都内のホテルが失敗談を募集したらチップの話があった。部屋に食事を運ばせた青年が、ボーイにチップをと1000円札を握りしめる。渡して気がつく。福引券だった。チップが習慣になっている国を旅行し、忘れてはならぬと神経を使い、疲れたという話も多い▼習慣が違えば、たしかによけいな気を使う。だが思わぬ親切に出合い、相手の心遣いや動作に感激した時、その気持ちの発露としてのチップはむしろ自然なものだろう。昔の祝儀、心付けは今より頻繁だった。相手に応じて様々な形のおひねりを渡す。それらを米国の博物館で見て驚いた▼柳田国男の『箱根の宿』に雲助が祝儀をもらう様子が書かれている。関所を無事に通過した旅人が、うれしそうに門を出てくる。雲助が寄って「おめでとうござる、まずはお祝い申す」と言う。少なくとも二朱の祝儀を惜しまず、とある。何か話がうますぎる▼石井光次郎夫人、久子さんがことし亡くなった。棺に、13枚の祝儀袋が納められた。いつも祝儀袋を用意し、気を配る人だった。「あちらでも、お世話になる方がおられるでしょうから」と声楽家の次女、好子さん。原則はチップなし、意気に感じて心付け、の社会は悪くない。もっとも、意気に感じることがなければ仕方がないが。 「児童の権利条約」誕生 【’89.11.6 朝刊 1頁 (全870字)】  いよいよ「児童の権利条約」が誕生する。7日からの国連での討議が終わると、20日には採択の見通しだ。10年前の国際児童年に起草の動きが始まった。ことしは「児童の権利宣言」ができて30周年でもある▼条約は児童保護のために世界が同意した基準、といえる。子どもや家族の権利、生活、健康などを守り、より健全な未来のために各国が政策を立てる。いわば、その枠組みだ。子どもの生活、という見地からいまの世界を見ると、その状況は決して思わしいものではない。生きて行くだけでも大変という国がある▼いま発展しつつある国々では、5歳未満の子どもが、毎日、4万人も死ぬ。栄養不良などで心身に障害を負う5歳未満児は、年間に800万人。多くの国で、栄養、基礎的な保健、教育といった、最低限の子どもの権利がまだ守られていない。今年の「世界子供白書」も指摘しているが、ことは経済や政治ともからむ▼5歳未満児の死亡率が人口1000人あたり70人にまで下がったのは、日本では1955年だった(今は8人ほど)。ノルウェーは1930年。英、米が40年。アジアではシンガポールや香港が60年、マレーシアが70年、韓国や朝鮮民主主義人民共和国が75年、中国が80年、そしてタイやフィリピンが85年だ▼2000年までに世界中が70人を切って少産少死を達成。国連の目標だ。1980年には下痢に伴う脱水症で360万の幼児が死んでいた。いま、経口補水療法で毎年100万人近い幼児が救われる。そうした療法や予防接種の手助けをする方法が私たちにもある▼年末、年始などのあいさつに使うユニセフのカードだ。日本の全家庭が年間に2枚買うと、700万人の子どもに6種類の予防接種ができるそうだ。今月から一部の百貨店などでも扱うことになった▼カタログの申込先は〒107東京都港区赤坂1ノ11ノ39第2興和ビル西館、日本ユニセフ協会ユニセフ・カード事業本部。 音 【’89.11.7 朝刊 1頁 (全871字)】  楽器というものは微妙、繊細だ。ピアノの演奏会では、開演の前から舞台に明かりをつけておくのがよいと園田高弘さんから聞いたことがある。暗い舞台でピアノが冷えていると、いざ演奏、と電灯をつけても急によい音を出してはくれぬ▼そういえば演奏会の前に管楽器をふところで温める人もいる。楽器もきっと生きていて、なかなか目をさまさなかったり、冷え性だったり、個性もあるのだろう。戦前の話だが、楽器が出す音をめぐって論争が起きたことがある。音楽評論家の兼常清佐(かねつね・きよすけ)さんの発言が発端だった▼ピアノのキーは、大家がたたいても猫が踏んでも「ド」は「ド」の音、人の意思は音を左右しない、というのだ。理化学研究所で物理学的な実験まで行い、ピアノ演奏は見せるもので上手下手は曲芸師の上手下手と同じ、と論じた。ピアニストや評論家が怒って対決集会を開く。堀内敬三さんが、議論にならぬと退席する騒ぎだった▼ピアノの音は物理的な産物で「猫踏んじゃった」のと変わらないだろうか。5日に85歳で亡くなったウラジミール・ホロビッツさんは、こう言っていた。「私の演奏でいちばんだいじなのは音色のコントラスト。作曲家とその時代に合わせ、様々な違ったタッチで弾き分けること。ピアノで歌うこと」▼この音色の魔術師は公演先の国へもむろん自分のピアノを運ぶ。調律師もだ。聴衆の様子にも神経を使い、居眠りの出ない日曜日の午後を選ぶほど。トスカニーニの娘、ワンダ夫人は、父親が演奏中に紙をめくる音がせぬよう絹のプログラムを作ったのを想起、プラスチック加工の、音のしない重い紙を使わせたりした▼最近の若い演奏家については、機械的技術は優れているが個性と叙情が不足、と内面からの音楽の必要を説く。晩年に来日、深みのある音で人々を魅了した。「ここぞという所で鳴らされる音は美しく充実し、胸にしみ心に残って長く愛惜するに価する」(中河原理) 地球温暖化時代 【’89.11.8 朝刊 1頁 (全861字)】  「プロボ」と名乗っていた。196○年代のオランダ。社会の現状に「挑戦」するという意味の若者の運動だ。アムステルダムに行きプロボの青年男女と会った。その後の世界を考えれば先駆的ともいえる主張。その1つが「白い自転車」だ▼自転車を白く塗り、街頭に置く。だれが乗ってもよい。目的地まで走り、また街角に置く。白は公共の色だ、と言い、ほかにも白いテーブル、白い家、などと唱えていた。「白い自転車」案はもちろん自動車時代への批判だが、環境がとみに悪化した近ごろでは、切実な意味を帯びてくる▼この間「自転車―小さな惑星の乗り物」という報告書を米ワールドウオッチ研究所が出した。移動に必要なエネルギー量が自動車や歩行の場合よりも低い。大気汚染を防ぎ環境を浄化するには最適の乗り物、というのだ。電車と自転車を併用する日本や、自動車と自転車の両方を使いこなすオランダの例が紹介された▼プロボが言い出す前からだろうが、オランダ人は自転車をよく使う。保有台数も多い。自動車を利用しながら、自転車で済むところは積極的に活用するというオランダ方式。環境保護に望ましい。そのオランダで、地球温暖化対策を討議する国際会議が開かれた。裏方はかつてのプロボの青年たちか、などと想像する▼「大気汚染と気候変動に関する閣僚会議」。69カ国と11の国際機関から環境相など代表が集まった。最大の問題は、二酸化炭素(CO2)の排出量を減らそうということだ。ある調査では、石炭や石油など化石燃料の使用による排出量は、年間3%増え、昨年、全世界で56億トン▼いまの調子でゆくと来世紀の初めには100億トンを超えるという。地球の温暖化が進み、影響が出る。会議では、CO2排出量削減の具体的な目標を求めるオランダなどと、規制は経済成長に重大な影響がある、と慎重な日本などが対立した。世界中が集まって生き方を考える時世、の感が深い。 国会中継専門のテレビ放送 【’89.11.9 朝刊 1頁 (全859字)】  国会の審議の様子をそのままテレビで映す。人々は居ながらにして討議を聞くことができる。そういう国会中継専門のテレビ放送が話題になっている。自民党の国会改革委員会は導入を検討するという。衆議院の議院運営委員会も積極的だ▼議運委は英国の場合を調べて来て、資料を視察報告に添えた。英国は今月下旬に実験放送を始める予定で、実施のための調査報告書が5月に出ている。英国下院では、1985年にテレビ中継の是非が問題になった。「議会と有権者を結びつける」と賛成論者は言ったが小差で否決された▼「演説の中身でなく、女性議員のスカートの長さに目が行く」「視聴率の高い時刻に審議を合わせるようになる」といった反対論の方が多かったためだ。だが、やはり時代である。通信や映像の技術は飛躍的に進歩している。公の仕事である政治が、それらによって有権者の耳目にさらされるのは当然、という認識だ▼米国でも下院は79年、上院は86年から中継されている。放送局が映すのではなく、議会側が制作した映像を分配する形。議会審議を専門に中継するチャンネルもあり、人々の支持を得ている。英国の報告書は米国やカナダの例を調べて書かれた。画像のあり方、映ることを意図した混乱への対処など、実に細かい▼先ごろの閣議で、江藤運輸相が「テレビで放映される時はよいが」12日間も予算委に縛られては行政に支障をきたす、と言っていた。正直なもの。政治家にとってはテレビに映ることは極めて重要だ。選挙区向けの宣伝の好機である。それだけに、映っている時間内に熱演する人もいる▼実施にあたっては、政治家が自分に有利になるようにと圧力や規制をもくろむことが出来ぬよう細かく考え抜いた公平、公正な計画が必要だ。どの委員会を映すかも問題だろう。密室談合的といわれる国会対策の動きなど、ぜひ見たい。有権者が自分の判断を持つのに中継は役立つことだろう。 変わる日本語 【’89.11.10 朝刊 1頁 (全856字)】  近ごろとみに多くなったと感じられる「ラ抜き」の表現。これが戦後のラジオ番組「20の扉」にも「それは屋外で見れますか」というふうに現れていた。1951年のことだ。81年になると繊維会社の広告まで「気軽に着れます」となる▼惜しくも昨年3月に休刊した月刊誌『言語生活』に「耳」という欄があった。新しい言い方や言い間違い、ちょっと目立つ言語行動などを、毎号、専門家や読者が取り上げた。その38年間の分が『言語生活の耳』として出版された。耳ざとく時代の話し言葉を記録してあって、面白い▼最近よく聞く「へえ、じゃあ好きなんだ」という「だ」の用法。「好きなのね」と違い、話し手の主観や念を押す雰囲気が薄まっている。すでに51年に「マアいいんだ」「アラずるいんだ」という言い方を若い女性が好む、との指摘がある。同誌には目標をきめて聞き耳を立て、話し方の癖を調べた人もいたらしい▼無着成恭さんは約1時間の対談中、「わけです」を68回言ったそうだ。中村光夫さんには肯定的に表現してもよいと思われるところを評論家らしく否定的に「じゃないですか」と言う癖がある、という。座談会の発言から「人間がよく出てるんじゃないですかね」など、いくつもの例。意地が悪いじゃないですか▼「キップをオ持チシナイ方は」(52年、東京のバスの中で)。「はい、こちらは上へいらっしゃいます」(65年、東京大手町でエレベーターの案内嬢)。「この犬の名前はなんとおっしゃいますか」(82年、NHKテレビでアナウンサー)。妙な敬語、丁寧な表現の聞き書きも多い▼「セキゴハン」(88年)というのは赤飯のことだそうだ。このごろ、テレビやラジオで不必要なまでに丁寧な言い方が幅をきかせている。放送といえば、時間の制約からか、早口がはやる。昨年の最後の号には、日本語をこわしてしまうとの懸念とともに、「ドロコツジョホセンター」。 ベルリンの壁に風穴 【’89.11.11 朝刊 1頁 (全859字)】  東に〓小平さんの辞任あり、西ではベルリンの壁に風穴が開く。時代が変わり、舞台がまわっているのを見る気がする▼1961年に建てられた東西分断の壁。逮捕や射殺の危険を冒し、どんなに多くの人々がこれを越えようとしたことか。民族を引き裂いていた壁には、だが、9日夕、実質的な意味がなくなった。東独政府が国外旅行・移住を自由化したからだ。その夜のうちに、何万人もの東独の市民が西独の土を踏んだ。祝祭の雰囲気だ▼ソ連の改革への動きは、広く東欧に及んだ。ついに最も強硬な存在だった東独をも揺り動かし始めた。自由を望む人々。変化の速さ、激しさは驚くほどである。「劇的な状況だ。どういう展開になるか見通しがつかぬ」とコール西独首相。2つのドイツの関係が今後どうなるかを、欧州はむろん世界中が見守っている▼中国では、〓小平さんが党中央軍事委主席を辞任、江沢民・党総書記に譲った。軍をにぎる最高の地位だ。実質的に軍を掌握している保守強硬派の楊尚昆国家主席の力が強まるのではないか、との見方がある。軍に強い足場がない江氏を〓さんが後見人のように守り、現実には〓さんの指導体制が続く、ともいわれる▼はっきりしているのは、中心的な責任者の世代交代が行われたということだ。建国をになった人々の時代から、若い人々の時代へ。人治から法治の体制へ。そして革命家から技術官僚の世の中へ。人々の持つ情報や欲求が多様化している時に、指導者が若返り同時に経済を上向かせる。困難はこれからと思える▼世代の交代といえば、日本の政治でも若返りが進行中だ。ここでも着実に舞台はまわっている。選挙の時に、くっきりと見えるのではないか。田中、福田、鈴木各元首相の姿が消える。石橋、竹入、佐々木、村上各野党党首経験者も引退。三木元首相、春日元民社党委員長は死去。問題は、若い政治家たちが旧世代を乗り越え、新しい時代に挑めるか、だ。 晩秋の味--柿 【’89.11.12 朝刊 1頁 (全873字)】  澄み切った高い空。その青を背景に、柿の実が赤くかがやいている。日本の秋というときまって思い出す風景だ。農村でも都会でも、その色は人々を子どものころの世界に引きもどす。「里古りて柿の木持たぬ家もなし」芭蕉▼栽培したのは中国が最も古く、朝鮮半島にもあるという。遊びに来た各国の友人に、柿を出したことがある。欧州の人が、食べたことがないとけげんな顔をした。そうしたら東南アジアの人が「日本のパパイアだ。大好き」と勧める。形容の意外さに驚いた。似ていなくもないが、これは独特の味だ▼「柿を食ふ君の音またこりこりと」山口誓子。ごまの入った堅めの実を好む人。柔らかく熟したのに限るという人。さまざまである。つめたく、甘く、歯にしみる晩秋の味。皮の一部を切り、さじで中身をすくう。天然の銘菓。くずれる前の、燃えさかる生命のようでもある。「いちまいの皮の包める熟柿(じゅくし)かな」野見山朱鳥(あすか)▼やや平らな形のものから縦長のものまで種類も多い。富有柿、百目柿、次郎柿、御所柿、禅寺丸……。渋柿を堅いうちにとって皮をむき、日に干して甘くする。くし柿、ころ柿、つるし柿。捨てがたい味だ。白い粉をふいた姿のなつかしさ。柿なます、という食べ方もある。「柿食ふや遠くかなしき母の顔」石田波郷▼地方によっては、小正月に柿の木を対象に「成木責め(なりきぜめ)」の儀式をするそうだ。なた、のこぎりなどを手にした男が果樹に向かい「成るか成らぬか、成らねば切るぞ」と少し傷をつける。別の男が「成ります成ります」と答え、傷にあずきがゆを塗る。問いかけ、脅して誓約させる豊作祈願▼サルカニ合戦の話を思い出す。人々とともに昔から生きてきた果物。渋も、漆器の下塗り、渋紙などに利用した。秋がもう少し深まると、こずえに木守りの実がひとつ残る。それにしても、陶器をさえ思わせる、つややかな色。「塗盆の曇るや柿のつめたさに」長谷川春草。 車内や駅の放送 【’89.11.14 朝刊 1頁 (全860字)】  不要な音を減らし静けさを、という読者の訴えが多い。テレビで、なぜか人の話に音楽をかぶせて流す。聴き取りにくい。街では、だれのためなのか、背景音楽の洪水。一部の駅での発車ベル代わりのメロディー音は「色のついた新しい騒音」だ……▼東京の山手線では車内や駅で来年から思い切って放送事項を減らす。JR東日本は千葉駅で発車ベルを廃止、東北新幹線の一部車両で放送内容を3分の1に減らした。新幹線の乗客は、49%が簡素化に賛成、26%が「従来通りでよい」派、21%が「特に変化は感じない」▼1923年、品川駅に米国製の拡声機が設置されたのが鉄道での放送の始まりだそうだ。その音に対する一般の関心が、今ほど高いこともないだろう。山手線では駅の間で2回ずつ車内放送している「次の停車駅名」を1回とし、「ドアが閉まります」「お忘れ物ないよう」など各駅での注意放送の縮小を検討中という▼最小限の必要な情報、という原則が考え方の基本にあればよいのではないか。よく、静かな欧州の鉄道が引き合いに出される。静かなのはよいが、実際に利用してみると、駅名もわからないのは、不慣れな乗客には困る。うるさくない音量で、駅名や乗り換えの情報が得られればよい。それ以外に重要なのは緊急情報だ▼この夏、変電所の送電設備が故障し、首都圏の電車が10分から小1時間にわたり停車した。突然とまったまま15分ほど満員に近い車内で待った会社員の感想。「車内放送は、降りないで下さい、だけ。説明なし。いら立ちが広がって、駅についた時は乗り換えに殺到、大変な騒ぎだった」▼事故などの時、迅速、正確、適切な説明の放送が行える態勢をつくっておくことがサービスだ。「毎度ご乗車」のお礼を繰り返したり「揺れる時はつり革におつかまり下さい」「傘はお忘れのないように」「前の人に続いてお降り下さい」(?)といった親切な指導はなくもがなだろう。 生体肝移植を論議の契機に 【’89.11.15 朝刊 1頁 (全843字)】  生後まもなく胆道閉鎖症と診断された1歳あまりの坊やが、肝臓移植の手術を受けた。日本では初めての生体部分肝臓移植だ。26歳の父親が、自分の肝臓の4分の1を提供した。手術は15時間半にわたった。父子とも経過は良好だという▼「もう駄目か、と思っていましたが、生きて帰れるなんて」と母親。夫と子どもの両方が手術を受ける。どんな結果になるか。さぞ思い悩んだことだろう。自分の体を傷つけてでも、何とかしてわが子を救いたい、と決心した父親の気持ちも痛いほどわかる。2人の順調な回復を祈りたい▼坊やの前途に希望が開けた。何よりのこと、と喜ぶと同時に、心配性のためか、こんな感想も抱く。これは親の自発的な決断で手術を受けた例だ。この場合は成功だった。だがこのあと、似たような問題に悩む家庭に対し、あの家も親が臓器を提供すればよいのにと周囲が圧迫感を感じさせるようなことは起こらぬか▼とくに母親に対して有形無形の圧力がかかりはしまいか。それでなくとも苦しんでいる。周囲の配慮が必要だ。心配性ついでにもう1つ。この坊やは医師から外国での手術を勧められていたが、容体が急に悪くなり手術に踏み切った。日本でも外国並みに脳死者からの臓器移植を、との動きが活発になるのではないか▼論議が活発になるのは結構だ。だが論議がまだ続行中なのに、こういう事態が起こるから早く実行を、と急ぐことには慎重さを求めたい。脳死については、日本医師会の生命倫理懇談会が昨年1月「脳の死」によって死を判定することを提言、判定法として厚生省の研究班の基準を認めた▼支持を集めた一方、反対の考え方もある。判定法への疑問や、21年前の心臓移植によって生まれた医師への不信感はいまだに根強い。ことは人間の生と死にかかわる話。心配が過ぎるようだが、むしろ今回の出来事が、論議を深める契機になればと願う。 企業のみならず各方面でCIすすむ さて中身は… 【’89.11.16 朝刊 1頁 (全859字)】  『共産党宣言』という本を中国語に訳したのは、上海の復旦大学学長だった陳望道という人だ。日本語から訳したため、日本でのコミュニズムの訳語「共産」をそのまま使った。「あまり好ましい翻訳ではありませんでした」と聞いたことがある▼人民代表大会常務委員だった、知日派の陳逸松さんの話だ。中国語だと、共産は、産をずたずたにしてみなで分ける、という響きを持つ。事実、そういう運動も起こった。ある意味では共産の2字が左翼運動を毒したといえる。コミュニズムは公社主義と訳すべきだった、という説明だ▼こんなことを思い出したのは、イタリア共産党のオケット書記長が「共産党」の党名を変えようと提案したからだ。ユーロ・コミュニズムの旗手が改名とは。党内には「共産党」を名乗っていては選挙で党勢回復の見込みはない、との声が高まっているらしい。「外部から影響されたものではない」と書記長は言う▼しかし最近の東欧での改革の動きと無縁ではあるまい。ハンガリーでは共産党にあたる「社会主義労働者党」を「社会党」と変えたばかりでなく、国名「ハンガリー人民共和国」を「ハンガリー共和国」に改名した。名を変えるのは実体が変わったことの反映か。実体を変えたい、願望か。印象を変えるたくらみか▼日本では去年から今年にかけ、6つの国立大学で土木工学科が消えた。学生は、新名称「建設学科」「社会開発工学科」などを好むという。また国立公害研究所と公害研修所では名前の「公害」を来年度から「環境」に変える。「公害」を敬遠しての改名は全国的傾向。「職安」も、労働省が愛称を募集する時代だ▼三菱電機労働組合が愛称「MELON」(メロン)を採用。信越化学労働組合では「闘争積立金」を廃止して「組合年金」を始める。この分野の改名も目立つ。企業が敏感なのはもちろんで、社名を考えてあげましょうという事業まである。日本の政党はどうだろう。 木枯らしと小春日和 【’89.11.17 朝刊 1頁 (全885字)】  つめたい、一陣の風が音を立てて通り過ぎる。「ごおと鳴る凩(こがらし)のあと乾きたる雪舞ひ立ちて林を包めり」石川啄木。木枯らしが吹き、ちらほらと雪のたより。木々の葉も、あっというまに散った。いよいよ冬の景色だ▼10月のなかば、関東平野に強い北西風が吹いた。北海道や東北では早くも雪だ。気象庁はこの風を東京での「木枯らし1号」と名づけるかどうか迷った。木にはまだ緑の葉も残っている。「もう少し気温が下がらないと」と見送った。この14日朝の風が「1号」だ。「木がらしに梢(こずえ)の柿(かき)の名残かな」嵐雪(らんせつ)▼近畿地方では1日に「1号」が吹いた。その翌日、鳥取砂丘の浜辺と内陸の2カ所で、渡り鳥、オオミズナギドリの幼鳥2羽がうずくまっているのが発見された。寒さで動けない。南に帰る途中、木枯らしに遭っての不時着である。衰弱しているため鳥取大学の家畜病院で休養、ときまった。「凩や何に世わたる家5軒」蕪村▼晩秋から初冬にかけ、木を吹き枯らす風が木枯らしだ。木嵐が「こがらし」に転化した、という説もあるという。本格的な冬まで、低気圧が通過する時のつめたい雨、通過後の、一時的な冬型の気圧配置による木枯らし、移動性高気圧による小春日和、の繰り返し。真冬を前にした時期、時折の穏やかな日和が救いだ▼そういう小春の日を米国ではインディアン・サマーと呼ぶ。インディアンが冬の準備や移住をするからとか、たなびく煙霧がインディアンののろしを思わせるからなど、語源の説明はいろいろあるらしい。ドイツでは老婦人の夏、ロシア語では女の夏、などと呼ぶそうだ。緯度の関係でもっと早い時期に来る▼中国の表記では、インディアン・サマーは秋老虎。秋と言ったり、夏と呼んだり、あるいは小春と名づけたり。それぞれが各地の季節感の反映だろう。この季節、身が引き締まる。風邪にご用心。空を見れば風が掃除している。「木枯の野面や星が散りこぼれ」相馬遷子。 日航ジャンボ機墜落事故に思う 【’89.11.18 朝刊 1頁 (全839字)】  これにて一件落着、といっても大向こうから拍手が聞こえてこない。航空機の単独事故では世界最大の犠牲者を出した日航ジャンボ機墜落事故で、だれひとり処罰されないことになった。遺族でなくとも、腑に落ちない気持ちの人が多いと思う▼ブレーキがよく利かないのに、きちんと修理しないで車を運転していたとする。それで事故を起こして、同乗の友人を死亡させたらまず起訴は免れまい。こんなことを連想すると、米ボーイング社の修理ミスから発した墜落の責任は、疑う余地がないように見える▼だが、法律専門家の見方は違うらしい。修理ミスをおかした主犯が海の向こうにいて、証拠固めが十分できなかった。運輸省や日航がそのミスを見つけることも技術的に無理だった。米国ではふつう航空機事故の原因を調べるのは、警察ではなく専門家の委員会だ。過失をおかした個人を罰するよりも、再発防止策の追求に力点を置くためだそうだ▼この考え方の違いも捜査の壁になったと聞くと、「一罰百戒」という言葉はあちらの国にはないのかな、と思ってみたりする。検察当局は、罪に問わざるの弁を近く公表するという。異例のことだから、じっくり耳を傾けることにしよう。素人にも分かりやすく、お願いしたい▼それにしても、ひとりひとりの過失責任を問うことが、だんだん難しくなる時代なのだと思う。450万点の部品でできているジャンボ機、コンピューターを組み合わせた各種プラントや原子力発電。巨大な技術、複雑なシステムに頼ってこの社会は動いている。その安全性を全体として見通すことが個人の手にあまる事態も、容易に想像できる▼事故や災害がシステムを動かす組織の欠陥によるような場合、責任のありかはもっとあいまいになる。いっそう小さな歯車になった個人を処罰するだけでは、大きな責任を見失う。罪と罰も、時代の流れに洗われている。 CO2放出権の国際取引 【’89.11.19 朝刊 1頁 (全859字)】  あなたは炭酸ガス派ですか、二酸化炭素派ですか。40歳あたりが両派の分かれ目らしい。1960年ころ教科書が二酸化炭素に切り替わっている。化学記号はCO2。中毒を起こす一酸化炭素(CO)と違い害がないと習った▼いまやCO2を出す国の責任が問われる世の中だ。エネルギー消費で大気にたまるCO2が地球をむやみに温めるおそれがあるからだ。各国民が石炭や石油を燃やしてCO2として炭素(C)をどれだけ放出しているか。米国のワールドウオッチ研究所から届いた報告書に興味深いデータがあった▼世界の平均では1人当たり1トン余りの炭素を出している。国によって米国民の5トンからザイール人の0.03トンまで大きな差がある。日本は放出総量では、米国、ソ連、中国に次ぐ4位だが、1人当たりにすると2.12トンで9位になる。産業の省エネルギーが効いているのか▼それでも1960年当時と比べると、日本の放出は4倍。サウジアラビアは45倍に、韓国も15倍近く増えている。先進国のなかでは、英国の放出量が減っているのが目立つ。CO2は経済活動を映してきた。そんな発展の仕方が地球の限界にぶつかったのだ▼発展途上国の生活向上を保証しながら、世界全体としてCO2を抑えるには、どうしたらいいのか。一案として、各国に一定量のCO2放出権を割り当て、その国際取引を認めるという制度が検討されている。CO2を人類共有の「マイナス資源」と考え、余計に出したい国は、出さない国から権利を賃借するという発想だ。途上国が権利を譲った資金で植林や太陽エネルギーの開発などを進めれば、開発と環境保全が両立し、南北の所得格差が是正されるというのだが▼問題は、どんな基準で権利を分配するかだ。今の放出量に比例させると、途上国に不利だし、人口比率では先進国が不満だろう。実現したとしても、「CO2権を買いあさる日本」にはなりたくない。 新渡戸稲造の「武士道」 【’89.11.20 朝刊 1頁 (全872字)】  「シントゥーホタオツァオは偉大でした」――東京に留学中の中国の若手学者がさきごろ、ある会合で語った言葉だが、はて?▼正解は新渡戸稲造。「日本の近代化に、儒教精神が役立った。神道や武士道など固有の文化とも融合させて、日本独自の儒教を発展させた。新渡戸先生の『武士道』に、それがよく表れている」という▼この人に限らず、中国では近代化の課題と結びつけて儒教の効用を説く議論が盛んらしい。共産党の機関紙にも「日本の企業家は論語を熟読し、仁愛思想で企業を経営する」といった記事が出るそうだ▼儒教が民衆をあざむく反動理論として全面的に否定された文革期と比べると、180度の変化だ。変わるのは先方の自由だが、その国からむかしやってきた儒教が日本の経済発展をもたらした立役者のようにいわれると、何となく落ちつかない▼新渡戸稲造の『武士道』は、孔子の教えが日本人の道徳的教義の最も豊かな源だったとしている。同時に、外国を盲目的に模倣すべきでなく、民族の名誉を守ろうとする倫理の力こそが「日本の変貌」(明治以降の近代化)をにない、未来を開く原動力ともなると、この著名なクリスチャンは説いている▼外国のものを取り入れる一方で主体的に消化し、自分のものを作り出す努力が欠かせない。このあたりの兼ね合いの重要さも、新渡戸稲造は強調したかったのだろう。中国や他の途上国の人びとはいま、この課題に取り組んでいる▼誠実さや節度を重くみる生活規範としての儒教は、私たちの身辺にも生きている。大切にするのに異存はない。孔子ブームとかで、孔孟の教えを事業経営に役立てる本まで出ているようだが、本当にお金がもうかるならそれも結構▼他人がほめるからといって、儒教も近代化も卒業とうぬぼれるのだけはいただけない。この世には儒教もあればキリスト教もあり、資本主義も社会主義もある。「泰(ゆた)かにして驕(おご)らず」(論語)が君子の道だ。 東欧激変の波、ついにチェコにも 【’89.11.21 朝刊 1頁 (全856字)】  いまでも思い出す。プラハの街には何とも言えぬ高揚した気分がみなぎっていた。映画館にハリウッド製の映画がかかり、長蛇の列。ヘプバーンの絵が描かれた大きな看板に「オードリー・ヘプブルノーバ」主演、と書いてある▼おなかの大きな女性が多いのも目立った。プラハの春。解放感にあふれ、民主化への期待に満ちた、68年前半のチェコスロバキアである。その期待をソ連の戦車が押しつぶした。8月だった。強い勢力が、東から、西からと交互にやってきた歴史を思うと、チェコの人々の置かれた立場に胸が痛んだ▼そのチェコで、共産党機関紙ルデ・プラボが、ずっと否定し続けてきた「プラハの春」、つまり68年の民主化運動を再評価する、との党論評を発表した。やれやれ、だ。これまでの21年間の労苦をあらためて思う。民主化への動き、政権の崩壊が相次ぐ東欧にあって、ついにチェコにも内外から改革要求だ▼赤カブ、という表現があるという。共産主義に賛成でないのに出世のために入党した人だそうだ。外は赤く、中は真っ白。党員の数は多くても、いざとなれば赤い皮がすぐにむける人も意外に多いのかも知れぬ。先月の末からの改革要求デモの高まりは、相当な激しさだ。早くも当局は、旅行の自由化などを発表している▼ソ連での改革に触発された東欧諸国の激変は、1つ、また1つとまるでオセロゲームのようだ。冷戦の終わりを実感させる。動きのあったベルリン、ブダペスト、ワルシャワ。そしてウィーンより西に位置するプラハ。これらを結ぶ中部欧州の文化圏が、東西の枠組みを突き破って再興しそうな気配だ▼21年前、チェコへのソ連の介入に反対を唱えた自主路線のルーマニア。そのチャウシェスク大統領が、何といまは改革の流れに最も批判的なのだから皮肉だ。チェコの運命を見て、外からの干渉を招かぬよう引き締めてきた結果か。その政策もいつまで続けられるだろう。 資源や環境を考えさせる割りばし 【’89.11.22 朝刊 1頁 (全863字)】  サトウサンペイさんの「フジ三太郎」くんが、昨日は食堂へ行った。首からネクタイ様の、しま模様の細長い箱をぶら下げ、すました表情。どんぶりが運ばれて来たら、やおら箱を開いて塗りばしを取り出した。「環境元年」と題する漫画だ▼三太郎くんのような人が身のまわりに出没し始めている。毎回、割りばしを使っていては資源がもったいない、せめて自分だけは持参のはしで、という考えだ。食堂が塗りばしを用意すれば資源は節約できる。だが、洗うのに人件費がかさむ。そこで使い捨てのはしを利用することになる▼はし、ハンバーガー、棺おけ。熱帯雨林を荒らすものとして並び称される3者だ。割りばしは日本。ハンバーガー用の牛肉のため牧場を作ろうと中南米の森を焼き払う米国。高級棺おけ材を西アフリカで伐採する西欧。実は割りばしは熱帯雨林のごくわずかを消費するに過ぎぬ。だが使い捨ての象徴と考えられている▼このほど東京で開いた国際シンポジウム「どう守る地球環境――市民活動の役割」では「まず割りばしをやめましょうよ」(国際水産資源管理センターのチュア・ティアエンさん)という発言があった。「自分たちの仕事、生活様式が環境に影響を与えているという認識が大切」とも国連環境計画の人が指摘していた▼割りばしは江戸時代の末期に考案されたという。日本独特のものだが、近年、中国や韓国、マレーシアなどでも使われる。日本では年間205億膳を消費する。41万2000立方メートルの木材だ。その4割余りが国産材。林野庁や業界は、大半はほかに使いようのない端材の有効利用だという▼いや、立派な広葉樹の丸太も割りばしにされている、と自然保護団体は見る。林業振興を唱える役所と、環境の保護を訴える人々。論争は、割りばしのようにはすっきりと割り切れそうもない。だが、確かなのは、割りばしが日常の生き方の中で資源や環境を考えさせる道具になったことだ。 「女性パワー」の行方 【’89.11.23 朝刊 1頁 (全858字)】  亭主が家でごろごろしている。これを女たちが「粗大ごみ」と呼んだのはもうずいぶん前のこと。その次に「産業廃棄物」という過激な形容が現れた。やがて「ぬれ落ち葉」。たしかに、掃き出したいのだろうが、へばりついてなかなか離れぬ▼この夏は「ホタル族」だった。妻や娘に喫煙をたしなめられ、男たちはひところ台所の換気扇の前でたばこをのんだ。最近はそれも許されず、やむなくベランダに出て煙を吐く。団地の夜は、あわれ、あちらのベランダ、こちらのベランダで「ホタル」の光が明滅。寒くなると大変だろう▼ビジネスマンが「女性パワー」をどう見ているか、という第一勧業銀行の調査を読んだ。対象は東京と大阪の20代から50代の既婚者たち。社会での「女性パワー」の増大を感じている男は89%もいる。妻の「女性パワー」増大を感じている人は「非常に」が15.2%、「やや」が51.6%で、計3人に2人▼何によって妻の「女性パワー」を感じるか。「自分の主義、主張をはっきり言うこと」が最も多く、47.6%。家庭の中でも外でも自分の意見をはっきり表現する女性。それが今年は政治に顕著に表れた。右の調査では、社会での「女性パワー」増大を約6割が歓迎している。「男と違う角度からの発想」のゆえだ▼新しい紙幣をつくる時は、ぜひ女性の肖像を、という運動がある。ある市民グループが蔵相に申し入れた。紫式部や与謝野晶子が候補だそうだ。この秋は、いきいきとした女性のあり方を考えながら、女性向けの雑誌の創刊がいくつも企画された。これまでとは違った発想が必要だという▼生活のにおいのする実用的な記事より、世界の環境問題など、国際、政治、経済、社会の各分野の時事問題が不可欠、というのだ。男性には「会社人間」が多かった。そういう生き方を、女性は多分とろうとはすまい。どう進むか。そして、その姿は男性の生き方にどう影響するだろう。 日本の学生とボランティア 【’89.11.24 朝刊 1頁 (全839字)】  ケン・ジョセフさん。32歳。アメリカ人牧師の子として日本に生まれ育ち、ロサンゼルスに「アガペ・ハウス」というのを開いて、困っている日本人留学生を助けるボランティア活動をしている人だ。彼はいま興奮している▼先月、中央大学で講演したとき、ためしに「サンフランシスコ地震の救援に行く気持ちのある人はいないか」と呼びかけてみた。すると20人を超える男女学生が「行く」と、手をあげた。そして最終的には32人が、彼と一緒に現地へ飛んだのだ。むろん費用は自弁だ▼着くと「全米から救援物資が届いているが、配る人手がたりない。すぐ仕事にかかって」といわれ、被災地に直行、2週間にわたって汗を流した。にわか仕立てのチームがてきぱきと分担を決め、持っていった2台のパソコンを使って、見事な仕事ぶりだった▼その姿は、人びとを感動させたらしい。新聞、テレビがこぞって取り上げた。地元の有力紙は1面のほとんどを彼らの記事で埋めた。「日本の企業が200万ドルの救援金を寄付」という記事も同時に掲載されたが、片隅に小さく数行の扱いだった▼「僕はうれしい。アメリカ人はこれを待っていた。そして、彼らがその期待にこたえてくれた。日本の若者はダメだといわれるけど、大丈夫だということも、立派に証明された」と、ジョセフさん。それだけに、これを1回きりに終わらせてはならないという思いが、彼にも、学生たちにも強い▼そこで、世界のどこかで災害があったら、すぐチームを組んで飛び出せる、全国的な学生のネットワークがつくれないものか。そう考えて、他の大学などに、自分たちの体験談を聞いてほしいと呼びかけているという。たしかに「いま世界で、日本の学生ほど、外国へボランティアに出かけられる余裕を持っている若者はいない」(ジョセフさん)だろう。今度も、多くの手があがるのを期待したい。 リクルート事件の「うねり」 【’89.11.25 朝刊 1頁 (全844字)】  竹下登さんが首相を辞めるとき、こんな言葉を残している。「リクルート問題が今日のような政治不信を惹起させる大きなうねりになるとは思ってもみなかった」▼内閣が倒れた。渦中での辞任者一覧表を眺めてみる。閣僚、代議士、秘書、元次官、党委員長、官僚、県教育長、市助役、財界幹部、国立大学教授、新聞社幹部、評論家。未公開株を譲り受けた人、ウソがばれた人、政治的・道義的責任をとらされた人。地からわき出た民意の「うねり」に抗しきれなかった顔ぶれである▼当時の一人ひとりの弁解や振る舞いを思い出しながら、リクルート事件・労働省ルートの初公判の記事を読んだ。「事件が風化しつつあり落胆している」とか「日本人の忘れっぽさを、つくづく思う」とかといった識者の談話があった。たしかに、あの熱い「うねり」はどこへ行ったのかな、と思わないではない▼だが、違うのではないか。大河ほどゆったりと流れ、深い淵ほど静かに影を映すものだ。秘書が、家族が、の言い訳に下劣な品性を感じとり、ぬれ手でアワに強者の特権的横暴を見てしまった記憶は、そう簡単に忘れられるものではない。有権者の心の淵に深く、重くよどんでいて表面からはうかがえないだけなのだろう▼忘れっぽい、いや忘れてもらいたいと思っているのは政治家たちの方らしい。最重要課題として取り組むはずの政治改革が、さっぱり目に見えてこない。派閥や閣僚の資金集めパーティーは自粛といいながら、先日は旧中曽根派が堂々と復活させた。講演会やセミナーに名を借りた集金も目立つ▼カネのかかる政治を鋭く批判していた財界の声も、急速にしぼんできている。「次の総選挙は負けたら政権を降りる覚悟なので、カネがかかる」と、自民党幹事長が談じ込んだのだそうだ。その選挙に、あの「家内が」の前次官をまた擁立する動きがある。これでは、リ事件も風化する暇がない。 農業の展望 【’89.11.26 朝刊 1頁 (全859字)】  「梅クリ植えてハワイへ行こう」を合言葉に大分県大山町が水田までつぶして、むら起こしに取り組んだのは28年前。コメ増産にまだ国中が力を入れていた時だった。運動は実り、いま町民の4人に1人がパスポートを持つ▼10年たった一村一品運動の先駆であるこの町の歩みを1口でいうと、自分の頭で考え自分の責任で進めるということになろうか。過保護になれきった農村にもっとも欠けていることである。山村という立地条件を考え、量産を追う農政に逆らって多品種少量生産に徹する。エノキダケ、クレソンなど高く売れそうな作物を次々と試みる。大山ブランドの産物は100種を超えた▼コメは自家用を除き、ことしからやめた。農業収入は県平均の3倍だが、農業外を含めても都市勤労者には及ばない。すし詰め通勤の苦労もなく、豊かな自然のもとで暮らせるのだから、多少の差は仕方ないと割り切っている▼いま力をいれているのは、サラリーマンより一足早い週28時間労働の実現だ。作物の組み合わせを工夫し機械化も進めているが、手のかかる多品種生産なので計画通りにはいかない。また、せっかくもうかる作物を発掘してもすぐ競争相手が出てくる。前途は決して平たんではない。にもかかわらず、町に活気が満ち、人々が楽しそうなのは、自分の足で立っているという自信のせいだろうか▼ことし学校を卒業して就農した若者は全国でわずか2100人。トヨタ自動車1社の新規採用にも及ばない。農業に展望がとぼしいなど理由はいろいろあろう。農家自身が農業はおもしろくない、と思い込みすぎていることも一因ではないか▼これだけ味にうるさく、カネのある消費者に恵まれた市場はほかにない。土地はせまくても生産力は高く、たいていのものが育つ。就農者の減少は、規模拡大などの腕がふるいやすくなることでもある。こうした利点を生かして自立につとめれば、きっと後継者も育つだろう。 タクシー運転手の人気回復へ「定時制」導入 【’89.11.27 朝刊 1頁 (全837字)】  「銀座も新橋もわからんのです。道、教えてください」。東京生活2日目という運転手のタクシーに乗り合わせた。山口県で漁師をしていたが、スポーツ紙の求人広告を見て応募した。家族は地元に残し、寮ぐらしをしているという▼求人難はどこも深刻だが、タクシー業界の厳しさはひときわのようだ。好況を反映して、平日夜間の増車が認められるなど、車は増えているのに、運転手の方はじわじわと減っている。その結果、車庫で遊んでいる車が多くなった▼社会のさまざまな分野で女性の活躍が目立つ時代だが、女性運転手も増えてきた。深夜まで激務が続く東京は、女性採用の面では後進地だったが、今年4月以降だけで30人以上も増えたという。言葉づかいはていねいだし運転も慎重、と評判は悪くないが、まだ800人に1人の割合だというから、微々たるものだ▼専業ではもはやなり手を見つけるのは困難、とみた東京乗用旅客自動車協会では、とうとう「定時制運転手」の採用に踏み切る方針を固めたそうだ。主婦や学生、自営業者、定年退職者などに、例えば昼間だけとか、土日だけとか働いてもらう。賃金はそれぞれの会社で決めるが、正社員と同条件が原則だという▼呼び名については、パート運転手、副業ドライバーなどいくつかの案もあったが、ふらりときて、ふらりと運転するような印象は困ると、硬い「定時制」に決まった。すでに、労働組合や、運輸省との協議もほぼ終えており、来月中には「募集」の新聞広告を出す会社が現れる見通しだ▼長時間労働できつい。神経が疲れる。まとまった休暇がとりにくい。タクシー運転手の仕事には、今の若者がもっとも嫌う要件がそろっている。東京での平均年齢は47歳という。働く時間を自分なりに選択できるとなると、多少は様子が違ってくるかもしれない。「定時制」は、人気回復の決め手になるだろうか。 東欧での改革に電波が果たす役割 【’89.11.28 朝刊 1頁 (全870字)】  世界は狭くなった。出来事が伝わるのが速くなり、それにつれて人々の反応も打てば響くようになった。それをとくに痛感させるのが近ごろの東欧の動きだ。20年余り前の様子を思い出すと変化がよくわかる▼チェコスロバキアの民主化への動きを抑えようとしたソ連が、戦車を首都プラハに進める。これに抵抗するチェコ市民の道具は地下新聞と地下放送局だった。「紙」と「ラジオ」の時代だ。ドプチェク第1書記がソ連軍に連行される時、紙切れに、国民の団結を、と書き道路に投げる。たちどころに地下新聞が印刷した▼プラハ放送は占領の第1日に放送をやめ、職員は市内や近郊にもぐって地下放送を始めた。全土に10以上の秘密放送局。自由プラハ放送、自由チェコ放送、といった名だ。占領状況やチェコ指導部の動静、ソ連批判などを流し市民は懸命に耳を傾けた。ソ連も放送を始めたが無線の知識を持つ市民が妨害電波で応戦する▼時代が変わって10年近く前。ポーランドでの労組「連帯」の運動に新しい道具が登場した。ラジオの利用は相変わらずでワレサ氏は短波ラジオで西側の情報を常に聴いていた。加えて「録音テープ」の使用が始まる。同氏は自分の演説や質疑応答をテープで聴き直して研究、また、別の場所の出来事を録音で聴いた▼テープのこわさを知るポーランド当局は、許可のないテープの所有を禁じた。だが肉声情報の広がりを根絶できぬ。「世の中はどんどん変わる」と『ワレサ自伝』にある。「最近では衛星テレビジョンによって……世界はひとつの村のようになりつつある……もはや何も隠せはしない」▼その通りになったのが最近の東欧の動きだ。高さ4メートル、厚さ16センチの壁で情報や意識を隔てることはできぬ。出来事の発生を人々は同時に見る。東欧各国での急速な改革に電波が果たす役割は大きい。無力という点では、壁も、日本を囲む海も同様だろう。見ると同時に見られている時代である。 11月のことば抄録 【’89.11.29 朝刊 1頁 (全858字)】  11月のことば抄録▼ゴルフ場での除草剤、農薬散布の環境への影響を参院決算委が論議。「ゴルフをすることや、ゴルフ場建設に対して自制があってもいいのではないか」と志賀環境庁長官が歯止めを求める答弁▼アフリカのナミビアで選挙。国連ナミビア独立支援グループに日本人監視団が参加。海外が初めての山口県庁港湾課、松田邦夫さん「正直な話、どうなるかと思った。住民がどっと押し寄せた時は恐怖さえ感じた。しかし、慣れるとみんな穏やか。自信が出た」▼モンパー西ベルリン市長「壁はすでにこの都市を東西に分かつものではなくなった。いまドイツ人は世界で最も幸せな民族である」▼ゴルバチョフ・ソ連最高会議議長、プラウダ紙への論文で「新社会主義像――これは人間の顔を持つ社会主義だ。人間尊重の社会主義がペレストロイカの目的だ。一党制を維持することが目的にかなう」▼日本で初の生体部分肝移植。裕弥ちゃんに父親の杉本明弘さんから。「子どもの生命を助けるために主人は自分のすべてをかける、自分の体を切り裂いてもと言ってくれた。感謝しています」と寿美子夫人▼在日朝鮮人児童、生徒への暴行事件についての申し入れに「ボクがいじめをやったわけでもないし、ボクが出て行って(いじめた人を)探し出すわけにもいかない」と海部首相。翌日「朝鮮人というだけでいじめるようなことは決してしてはいけない」と言い直し▼目の不自由な人たちの写真展。蒸気機関車をうつして出品、優秀作品とされた埼玉県熊谷市の吉川正男さん「何十人もいた周りの人の音と、汽車の汽笛を頼りに1枚だけシャッターを切りました」▼「自分でもびっくりした。まだ夢のよう。トロフィー賜杯は、思ったより重かった」と初優勝の大関小錦▼女優の斉藤由貴さん「おカネのない学生時代も貧乏でいやだなんて思ったことはない。役者の財テクは邪道だと思う。もっと大切なことがあるでしょう」 環境汚染は生活様式の反映 【’89.11.30 朝刊 1頁 (全857字)】  津田文子さんは御殿場中学校の2年生だ。静岡県は富士山のすそ野。水きよく景色も美しい地域だが、最近、ここでも水の汚染が話題になる。川や海を汚す度合いは産業排水より家庭排水の方が大きいという。文子さんはこの夏ある実験を試みた▼市販の洗剤、手作りのせっけんなど7種類の水溶液と、カイワレの種子を用意する。第1の実験は、それらの中でカイワレが育つかどうかを見る。次に、それらの液体を庭の土などでこしてからカイワレを育ててみる。準備したのは、田の土、庭の土、砂場の砂、焼き砂、じゃり▼結論をかいつまんで言うと、事前の文子さんの予想通り、こす前の液体では育ちが悪い。庭の土でこすと育ち方がよいが、田の土は意外に成績が悪い。根毛の生え方は庭の土が一番。次いで砂、焼き砂だ。そして、酸性、中性、アルカリ性など合成洗剤のどれにも「植物の生育を阻む成分が含まれている」▼母親の里子さん手作りのせっけんは弱アルカリ性。これとせっけんシャンプーの場合は合成洗剤よりも生育がよい。「排水が植物に与える影響」報告には、連日、生育ぶりを撮影した写真がついていて、まざまざと結果が見える。「毎日の変化がわかり訴える力が大きい」と理科の滝口盛治先生。選考で駿東地区の1位となった▼環境に関心を持ったきっかけを文子さんに聞くと、小学生のころ、おやつを食べ、着色料を調べて以来だという。専門家には知られていることでも、実地に試し、確認し、実感する。報告を読み、その地道な作業がすばらしいと思った。同じような探究心から、この間は東京の主婦が論文を書いた▼鈴木弘恵さんの「水切り袋の研究――水をきれいにするために私達が今できること」。台所の流しのごみを減らす工夫である。汚染は他人の仕業ではなく自分たちの生活様式の反映だ。毎日の生活の中で、環境を守るためにどんなことに気をつけたらよいかを考える人が増えている。 きょうは映画の日 【’89.12.1 朝刊 1頁 (全856字)】  映画というものを一度も見たことがない。そういう人が日本にいるだろうか。調べたわけではないが、赤ちゃんを除けば、ほとんどの人は映画館に足を運んだことがあるだろう。文字通りの総合芸術。その魅力にとらえられた人は多いに違いない▼人それぞれに好きな映画、感動を覚える映画がある。時には映画に人生の指針を見いだすこともある。好き嫌いは個性に応じてさまざまだが、人気のあった映画を思い出すと、それらが、その時の社会の有り様を反映していて面白い。たとえば『キネマ旬報』が選ぶベストテンを見る▼戦争が終わった翌々年の1位は貴族の没落を描く「安城家の舞踏会」だった。戦後5年たつと、戦時中の恋人たちのあり方を振り返る「また逢う日まで」が1位。第5福竜丸が死の灰をかぶった事件の直後には「ゴジラ」が誕生。敗戦から25年後の1位「家族」は、経済成長が人を幸福にするかと問いかけた▼年ごとに時代をうつす映画が生まれるが、一方で、長い間、同じ主人公の物語が続く例もある。最も長く、興行成績もよいのが「男はつらいよ」。やがて第42作になる。常に客を呼び、20年あまり続いて人気を失わない。人々に好かれる理由が何かあるのだろう。日本人の求めるものが盛られているのか▼いつも出てくるものがある。1、フーテンの寅さんを囲む家族。けんかもするが相手を思いやる下町の心だ。2、地方の旅。「日本の景色もずいぶん変わった」と山田洋次監督は嘆くが、美しい光と風の中を観客は寅さんに案内される。3、実らぬ恋。じれったいが騎士的な寅さんだ▼最もだいじなのは、4、寅さんを演ずる渥美清さんの話術である。時宜に応じてしゃべる日本語の的確さ、きれのよさ。間合いも含め、この話し方に人々は聴きほれる。いや、つまらぬ講釈はやめる。得意のせりふで「それを言っちゃあおしまいよ」とやられそうだ。まず楽しむべし。きょうは映画の日。 東西冷戦の水葬 【’89.12.2 朝刊 1頁 (全863字)】  「しっかりヤルカ!/マルタからヤルタ!/日程の変更、あってタマルカ!」。どうも雑な翻訳で恐れ入る。語呂(ごろ)合わせのような、こんな短い手紙をチャーチル元英首相がルーズベルト元米大統領あてに書いたそうだ。1945年のこと▼マルタ島で落ち合ってヤルタ会談に赴こう、という連絡だった。きょうからマルタ島沖で始まる米ソ首脳会談では、もっぱら耳にするのが「ヤルタからマルタへ」。方向が反対だ。スターリン元ソ連首相をまじえたヤルタ会談での合意は戦後世界の枠組みとなった。その終わり、というふくみだ▼米ソ首脳が会うのは来年、と思われていた。ところがマルタで急ごしらえの会談、ときまった。なぜか。それは最近の東欧の変化があまりにも急激だからである。西欧に対してソ連・東欧圏と呼ばれてきた、その「東欧」が姿を消しつつある。西欧ともソ連とも交流する、独立した「中欧」の国々の出現、という気配だ▼そうなることをソ連は抑えようとしなかった。それどころか各国の改革を助長する動きさえ見せた。かつての「東欧」は、思想的にも、これまでとは違う道を歩むかも知れぬ。米ソが、東西の陣営をそれぞれ牛耳りながら、じわじわと緊張緩和を進める。そういう構想も吹っ飛ばす激変。必死の対応、が実情である▼新しい情勢がどういう未来をもたらすのか、実はだれにもよくわからない。「答えより質問の方が多い会談」などという評がすでに出た。米ソにしても、いまの世界を取り仕切る能力や資格を問われると心もとないだろう。欧州の頭越しに将来を話し合われては、欧州もたまるまい▼ブッシュ米大統領は、東欧やソ連経済などについてのゴルバチョフ最高会議議長の率直な考え方を知ろうとするだろう。軍縮、軍備管理の討議も予想されている。日本としては、何ができるかを考えながら事態に目をこらす必要がある。会談が地中海での「冷戦の水葬」となるのは確からしいが。 比の「ストリート・チルドレン」に援助を 【’89.12.3 朝刊 1頁 (全883字)】  フィリピンの情勢は深刻だ。反乱軍を抑えるため、政府が米軍に支援を求めなければならなかった、という事態はおおごとである。外の力をかりて一時は鎮圧できても、今後どれほど社会の安定が保たれるだろう。楽観できない▼銃撃戦などにより、一般市民の間にも死傷者が出た。そういう報道に接し、フィリピンの市民、とくに子どもたちに思いをはせている日本人の一団がいる。「パガサの会」の人々だ。パガサとは「希望」を意味するタガログ語。明日への希望をになう子どもたちに手助けを、と考える人々である▼マニラの町を車で走ると、車窓に飛びついてくる子どもがいる。たばこや、花びらの首かざりなどを売る。家計を助けるためだ。1日に、日本円にして100円あまりをかせぎ、食料を買う足しにする。将来を考えると学校に行きたいが余裕がない。「ストリート・チルドレン」(路上の子)などと呼ばれている▼義務教育の小学校は無料だが、衣服、くつ、帳面などに金がかかる。病気が多く薬品代も要る。1人あたり年間5000−6000円が必要だが、払えぬ親が多い。いきおい通学をやめ、路上に出る。20年あまり前、30万人もの子が脱落するのを見て、難民問題にたずさわっていたフランス人神父が活動を始めた▼教育研究開発援助(ERDA)財団を15年前に結成、これまでに3万5000人を学校に戻した。家族の状況は活動家たちが見守り、95%が通学を続けている。フィリピン国籍をとったトリッツ神父の活動を目のあたりにし、フィリピン在住日本人が、帰国者もふくめて、援助のための会を作った▼10月に発足、会員150人。今月、約40万円をERDAに届けることになった。70人の子を学校に戻す金額だ。「まだ手さぐりですが」と代表の角谷允子(すみや・まさこ)さん。年額1口2000円。郵便振り込み、口座番号は東京7―169350。加入者名は「パガサの会」。若い隣国の未来のため寄金を呼びかけている。 『老農船津伝次平』 校長先生が実物教育 【’89.12.4 朝刊 1頁 (全861字)】  船津伝次平という篤農家がいた。100年も前の人である。群馬県の富士見村に生まれ、実験や工夫で成果をあげ、のちに全国を歩いて農業改良の指導をした。この人についての話を、朝礼のたびに3年間つづけた校長先生がいる▼伝次平が馬をひいて赤城山へ草刈りにゆく。1カ所だけ草が長く伸びている。ふしぎに思い調べると、根元に大きな石があった。太陽熱で温まっている。そこから伝次平は石を並べて間にナスの種をまく栽培法を考案する。ヤマイモを斜めの板に沿って伸びるように植え、イモ掘りを楽にする工夫もした▼こういう実話を月曜日の朝礼で毎回数分ずつ具体的に話す。聴くのは1年から6年までの全校460人。当の富士見村にある原小学校。話す柳井久雄校長の母校でもある。話しながら必ず何かを見せた。飯をたくかまや、矢立てなど今は使われない道具類。時には長いくいを持参、見せたこともある▼地中に埋まっていた部分は傷んでいない。地表の近くは腐っている。これは、ゴボウへの肥料のやり方で伝次平が発見したことと関係がある。肥料は深く入れるより浅い方がよい。くいに現れたように地表近くでは寒暖乾湿、激しい気候の変化があり、それが肥料の吸収をよくする。ものを見せたほか、伝次平の生家の見学もさせた▼実物教育だ。「記憶を競う詰め込みの教育でなく、地域と結びついた勉強をしたかった」と、農家の長男でもある柳井さんは言う。100回にわたった話のうち、45回分を収録、各回に詳細な関係資料をつけた『老農  船津伝次平』がこのほど出版された▼「子どもに教えられ、伝次平さんの業績を詳しく知った」という土地の人も多い。郷土の先達の足あとに即して、土地の伝習や物事への取り組み方を考える機会は、子どもたちにとって貴重だ。それに、校長先生が懸命に勉強している姿自体がいい勉強になっただろう。先生は退職し、県史編さんと農作業にいそしんでいる。 小選挙区導入へ自民の変化球 【’89.12.5 朝刊 1頁 (全851字)】  自民党の後藤田正晴氏が、政府の選挙制度審議会でこういっている。「現在の政治と金の問題を中心とする政治不信の根本の要因は政権交代が行われない状態が続いていることにある」▼リクルート事件で、長い間政権交代がないと政治がよどんでくることがはっきりした。だから、この発言が在野の評論家の意見であればきわめて当たり前だ。だが、田中政権、中曽根政権の中枢で活躍した人がいっているのだから、おやおやと感じる▼もちろん、後藤田氏は自民党政治のプラス面も強調しているのだが、言葉通り受け止めると、率直に自民党一党支配のマイナス面を認めたようにも読める。政権交代もいとわないとまで、自民党は反省したのか、といいたくもなるのだが、実はこの発言には、いまひとつ仕掛けがあるらしい▼「だから同じ政党の候補者が同士討ちする中選挙区ではなく、政権交代が可能な選挙制度である比例代表制を加味した小選挙区制を衆院に導入したらどうですか」と自民党の主張の方向に誘導していこうというわけだ。後藤田氏は「現行の中選挙区制の方が自民党には有利だ」と恩着せがましい▼これは後藤田氏個人の思いつき発言ではない。5月に発表された自民党の政治改革大綱にも同じ趣旨のことが書いてある。今度の総選挙から、来年秋にかけての自民党の基本戦略といっていい。野党側もうっかり誘いに乗れないと警戒、社会党は選挙制度審議会に欠席する戦術に出た。衆院の選挙区制の改正は、これからの国内政治の中心課題になりそうだ▼小選挙区制の導入は保守陣営の宿願。これまで、鳩山政権、田中政権が挑戦したが、いずれも失敗した。そのときは政権の維持・強化を正面に出した直球型だった。今度は政権交代の可能性をちらつかせる変化球だ。参院選で自民党が大敗、与野党勢力が逆転した後だけに、「ひょっとしたら」と考えさせるのが、今度の自民党戦略のミソだろう。 日常的にもっと運動を楽しめる環境を 【’89.12.6 朝刊 1頁 (全856字)】  勤め帰りにスポーツ施設で汗を流す人が、都会でふえている。施設は駅に近いビルやホテルの中にある。地価高騰を反映してさほど広くない。専任の指導員がつき、運動機器が所狭しと並ぶ。長さが15メートルほどのプールもある。すぐに向こうの端にぶつかりそうだ▼民間企業の経営が多く、利用料金は安くない。会員権が数百万円のところもある。これでは、利用者は管理職や自分勝手に使えるお金の多い独身者に限られてしまう。中年の勤労者や家庭の主婦も、もっと手軽に低料金で利用できないだろうか▼大学などの学校施設を有効に活用する方法がある、と筑波大の松田義幸助教授が提案している。学校には運動場や体育館などの運動施設の設置が義務づけられ、スペースは十分にある。もちろん、各種の運動に習熟している指導員を招き、快適な休憩場所をつくったり、新しい運動機器を設置するなどの改造が必要だ。土地代が不要なので、費用はそれほどかからない。放課後から夜まで一般に有料で開放する▼松田さんによると、米国では運動施設を地域の人々に有料で開放して経営基盤を固めている大学が少なくない。地域の人々がふだんから利用している。日本でも、たとえば都心部にある私立大学では、需要が多いだろうから可能ではないか▼問題は、教育的に大学の副業がどの範囲まで許されるかにある。文部省が力を入れている生涯学習計画の観点からすれば、もっと柔軟に考えてもよいのではないか。市民講座や通信教育だけでなく、こんな「開かれた大学」があってもいいはずだ▼私たちの余暇時間が今後ふえてゆくとすれば、人々が日常的に運動を楽しめる環境がもっと整備される必要がある。そうでないと、休日には、各地の施設が満員になるし、行楽地に人が殺到する。これでは余暇をゆったりと楽しめない。大学の運動施設の改造と有料での一般開放は、一つの考え方として検討されてよいだろう。 謙虚さ生む厳しい司法試験 【’89.12.7 朝刊 1頁 (全852字)】  横浜の弁護士坂本堤さん夫妻と1歳の赤ちゃんが自宅から失跡して、1カ月以上が過ぎた。家出をするような動機は考えられず、何者かに無理やり連れ去られた可能性が強い、という。警察や仲間の弁護士たちが懸命に捜しているが、今のところ、有力な手がかりはない▼坂本さんは30歳で弁護士になり、まだ3年目だ。法律家になるのは年来の夢だった。東大在学中から司法試験に挑戦し、卒業を遅らせ、さらに浪人して4回目で合格した。「迷惑はかけられぬ」と親元を離れ、塾の教師などをしながら受験勉強をしたという▼司法試験は、いま日本で最も難しい資格試験だ。今年は2万3000余人が出願し、合格者は506人。毎年、大量の「いま一歩」組が再挑戦するため、年を追って難しさが増す。十数年前までは合格者の平均受験回数は4回前後だったが、最近では6.5回以上になっている▼「このままでは、意欲のある若者が志望を断念しかねない」と法務省は先ごろ、改革構想を発表した。合格者を200人増やすとともに、8割を受験5回以内の受験生から選ぶなど、何らかの「若手優遇」を行うというものだ。この案によると、24歳以下の合格者は今の倍、4割前後に増えるという▼定職も持たずに年一度の試験に挑戦し続けるのは、賭けのようなものだ。受験生に必要以上の試練を負わせる現状は、早急に改善すべきだろう。しかし、『ルポ司法試験』(日本評論社刊)を書いた小中陽太郎氏によると、「長く激しい受験は、エリート意識よりも謙虚さを生んでいる。ここが大学受験と違う」そうだ▼坂本弁護士も、社会的弱者に深い共感を持ち、訴訟の相談などは、仲間も驚くほど安い料金で応じていたという。その「行動派の熱血漢」(同僚の話)はいま、どこでどうしているのだろうか。「息子から電話があるかもしれない」と、お母さんは一家が住んでいたアパートに毎日泊まりこんでいる。 食管制度を見直し市場原理の導入へ 【’89.12.8 朝刊 1頁 (全861字)】  知恵者がいるものだ。ぜひ欲しいと思う米を、消費者が農家から直接手に入れる。その方法を考え出した人たちのことが本紙に出ていた。原則として消費者が農家から米を買うと食糧管理法違反になる。そこでこうするのだという▼「日本リサイクル運動市民の会」という消費者の集まりだ。有機栽培で「あきたこまち」を作っている秋田県大潟村の農民を支えるため「食のナショナルトラスト基金」をつくる。消費者は基金に一定の金を寄付する。その謝礼として、毎月、一定量の米が送られてくるという仕組みである▼農家は、都会の親類などに無償で「縁故米」を送ることが許されている。右のやり方は、有機栽培に共鳴する人が運動資金を出し、その見返りに「縁故米」を送ってもらう形だ。近ごろ、安全で味のよい食品が欲しい、と望む消費者の間に、米屋に置いてある米でなく、どこのだれが作ったかがわかる米を求める動きがある▼食管法に則し、農家は正規の集荷業者に米を渡すべし、と考える食糧庁はさきごろ、消費者や小売店への売りさばきに対し、厳しい取り締まりの通達を出した。自由米、つまり、やみ米の運搬をやめるよう農協も宅配業者に働きかけた。「確信犯を許していたら減反に協力している農家が損をする」と食糧庁▼だが実態をみると米の全生産量の2、3割にあたる200万ないし300万トンが自由米である。運搬業者に手を引かせても消費者がトラックで農村に米を買いに来る。ベルリンの壁ではないが、力で規制を厳しくしても、生産者と消費者の両方が抱く自由流通への欲求をくいとめられるかどうか▼首相の諮問機関である農政審議会は半年前に米の生産・流通に市場原理の導入を、と提言した。食管制度の形だけを死守しようとするのでなく、中身を見直すべき時だろう。価格の乱高下に備え、政府は調整用の一定量だけを買う。あとは市場価格で自由に取引する「部分管理」、といったふうに。 屋久島でミツバチを飼うライナー・カミンスキーさん 【’89.12.9 朝刊 1頁 (全871字)】  養蜂家はハチの入った箱を携えて長い旅をする。南から北へ、次々に咲く花を求めて。ハチは各地で花の蜜を吸い、養蜂家はその蜜を集める。と、これはまあ常識だ。それとは全く違うミツバチの飼い方を、九州の南、屋久島で見た▼ライナー・カミンスキーさん。発想がふるっている。島には2000メートル近い高山がある。高度による温度差を利用、ハチを縦に移動させるのだ。暮れから春にかけ、里でレンゲなどの蜜をたっぷり吸わせる。夏から秋、下界が暑く、危険なクマバチの出る時期、山へ上げる。ハチは木々の間を飛びまわる▼その発想のごとく、ライナーさんの生き方は固定観念にとらわれず、自由で、ゆったりとしている。36歳。西独の大学でアラビア語やヒンズー語を勉強、中東や南アジア、オーストラリアなど各地を旅して8年前に日本に来た。東京に住んだが大自然が恋しい。オートバイで屋久島を見てまわり、住もうときめる▼妻のまゆみさんと引っ越したのが3年半前のこと。「かぎをかけたことがない」古い農家に住んでいる。子どもは2人。田を借り、自ら育てた玄米を食べる。エンドウマメやブロッコリーなど野菜もつくる。人手の要るトビウオ漁にもかけつけ、手伝った。天然の恵み、島の人々との生活の楽しさを語る口調は静かだ▼あたたかな海の風。ブーゲンビリアが咲き乱れている。緑の島の南端、尾之間(おのあいだ)にある家の周りではタンカン摘みが始まった。摘んでいる人たちから、あいさつの声。「都会よりも田舎の方が、国籍を意識せずにすむような気がします」。のびのびと1人の人間として生きている▼ハチミツは、それで生活をたてるわけにもゆかず、趣味として続けることにした。今月、うまくタクシー運転手の口があった。明るく親切で気さくな運転手さんを開業している。ライナーさん特製の、山からのハチミツをなめてみた。里の蜜よりも少し色が濃い。柔らかな甘さに、野趣があった。 開高健さん追悼 【’89.12.10 朝刊 1頁 (全871字)】  開高健(かいこう・たけし)さんに、「自分を動物に見立てると何だと思いますか」と聞いた人がいる。答えは「黒熊」。「どん欲で、行動が敏速、孤独で用心深く、しかも大胆」という自己分析だった▼作家として登場したのは20代の後半だ。日本の文壇には「叙情と告白、孤独とセックス、そして観念」しかないと言い、それに批判的だった。「自分から逃げるというか、遠心力みたいな力で小説を書いていこう」と考える。内部に抱えていたのは、重く、暗いものだったかも知れぬ。だが表面は陽気で冗舌だった▼多くの人の目をとらえ続けていたのはその行動力である。実に多彩な活動だった。歩みを振り返れば時代が見える。その時々の社会にあって、常に潮流の波頭にいた。若い時の仕事が酒の会社の宣伝。コマーシャルが大きな役割を果たすことになる時代の草分けだ▼ベトナム戦争の時には、報道に携わると同時に平和運動に力を入れる。日本人の生活が以前にくらべて経済的に落ち着いてきた時、開高さんはすでに「旅」や「遊び」を実演していた。アラスカ、アマゾン、モンゴル、あるいは日本各地をまわる釣り紀行。さらに美味を求める近年の世相にあっても師匠格だった▼うまいものを味わったり、釣りを楽しむなら、ひっそりと、と凡人は考える。だが開高さんの遊びは万人注視だ。さぞ疲れもたまったことだろう。かつて「『報道されなかったものは存在しないもの』が古今の人間世界の鉄則だ。マスコミ時代では絶望的にそうである」と書いたことがある▼近年、体の不調を訴える発言が多かった。この年齢のものは若い時から働きづめで「よれよれのくたくた」「悪戦苦闘、われひとともに時々ふっとあわれになる時があります」。人気のゆえとはいえ無理を重ねたのではないだろうか▼さまざまな体験をへたあとの人間は、女も男も「淡麗」の境地に達する、と書いていた。58歳。「淡麗」の時期を前にして、若すぎる死だ。 「10日は山に、10日は里に、10日は海に」 【’89.12.11 朝刊 1頁 (全895字)】  本社機「千早」に乗り、宮之浦岳(みやのうらだけ)の周りを飛んだ。九州でいちばん高い山だ。屋久島にある。1,935メートルの頂上一帯はかなり広く雪でおおわれ、ところどころ巨岩が天に突き出ていた。ここから南へ1,800メートル級の山々が連なる▼島はほぼ丸い形である。その真ん中にずしりと座る連峰。それを境に、この季節、島の北側では冬の北西風「あおきた」が吹き始める。海も荒れる。ところが南半分は打って変わって温暖。花も咲く陽気だ。本州に見る日本海側気候と太平洋側気候が1周100キロ余りの島に同居、の観がある▼真っ白な冠雪より下は、全山、いや全島が、びっしりと生い茂る緑だ。降りて歩くと、つややかな木々の葉、躍る光の明るさに驚かされる。そして、山にわき出る水は清涼。日が落ちて、上弦の月がのぼる。月光が、これほどまでに強い力を持つことを忘れていた。しろく、あおい輝きがくまなく届き、あたりを洗う▼「10日は山に、10日は里に、10日は海に」という言葉が昔からあった、と屋久島産業文化研究所理事長の兵頭昌明(ひょうどう・まさはる)さん。ひと月の生活が、山と里と海の幸によって支えられる。古来の生き方だ。「サル2万、シカ2万、ヒト2万」とも言いならわした、と教わった。面白い表現だ。自然と人間のすみわけを伝えて妙だ▼昔の人は、そういう言い方で、保護すべき環境と人間の生活との微妙な均衡を守ってきたのだろう。山ではたくさんのサルに出合った。シカもいるそうだ。だがサルは昔にくらべると数が減り、里にくだってポンカンなどの作物を荒らす。高度成長のころ、照葉樹林を切ったむくいらしい▼サルが減るのをくいとめたい。しかし作物を食われてしまう農家の悩みも深刻だ。サルの害への対応策が緊急の問題だと聞いた。また、ここでも観光開発の声は早晩強まりそうだ。人間の活動と自然界の折り合い方を見つけるのは難しい。自然を残す、珠玉のような島。伝来の知恵を生かす時である。 包装を控えめに 【’89.12.12 朝刊 1頁 (全857字)】  包むことが好きな人がいる。いや一般的に、私たちには、見えるものでも見えぬことでも包み隠すのを好む習慣があるらしい。「包み隠さず言う」などという表現にも、そうした傾向が表れている。身の回りに「包み」の何と多いことか▼電話の受話器を、布や毛糸で包む人がいる。機械が風邪をひくわけでもあるまいが、包む必要がきっと何かあるのだろう。自動車も時々すっぽりと包まれている。車庫の中でも包まれている車。息苦しそうだ。テレビが出たころ、見ない時は画面の前に幕を垂らしておく家があった▼あれは鏡台のまねだったのだろうか。昔は鏡台に布をかけていた。本を買うと書店がカバーをかける。せっかく意匠をこらした表紙を包み隠す。見えるのは店の広告。本をつくる人がよく怒らぬものだ。読む本の名を人に知られたくないのか、表紙を汚したくないからか。ほかの国では、たいてい、本を紙の袋に入れて渡すだけだ▼とにかく何でも念入りに包んでしまう。度が過ぎて、近ごろは過剰包装という言葉もある。資源のむだ遣いだと考える人が多くなった。手に載るほどのサラダを買っても、容器に詰め、ビニール袋で包み、紙袋に入れ、手提げ袋で……と厳重な包装を嘆く主婦の投書があった。この人は容器持参で買いにゆく▼野菜や果物は宝石ではない、はかり売りを多くしたらどうか、という投書もある。店から家までの短い時間だけ使われ、捨てられる包装紙や容器のもったいなさ。とくに贈答の多いこの季節は、どうしてもこの問題に目が向く。首都圏の6都県市首脳会議も、ごみを減らすため、こう呼びかけた▼過度の包装や、使い捨て容器の使用を、できるだけ控えてください。百貨店などへの要請だ。福岡市では、店に「簡易包装の店協力店」の看板を掲げてもらう計画を進めている。米国に住んでいる女性からの投書に「買い物は無包装。贈り物などは自分で心をこめて包みます」とあった。 田河水泡さんと「のらくろ」 【’89.12.13 朝刊 1頁 (全846字)】  90歳で亡くなった田河水泡さんの本名は高見沢仲太郎だ。姓を分解してTA・KA・MIZ・AWAとし、田・河・水・泡、の字をあてた。それを人々が「たがわ・すいほう」と呼ぶので仕方なしに本人も従った▼「のらくろ」の生みの親だ。といっても若い人にはなじみが薄い。1931年から10年あまり雑誌「少年倶楽部」に連載された人気漫画である。野良犬黒吉が主人公。天涯孤独で宿なしだ。猛犬連隊に入隊するが失敗の連続。しかし希望を失わぬ。雑誌を借りて読む貧しい子どもたちを思い、考え出した存在という▼統制がきいているはずの軍隊を、のらくろがまぜっかえす。面白い。爆発的に売れた。「帝国軍人を犬になぞらえ、兵隊をのらくら呼ばわりするとは何ごとか」と軍当局は怒る。ある時、憲兵大尉がこんなことを言った。軍は田河さんを呼びつけて問い詰めたい。だが猛犬連隊の軍旗は皇軍のと違う、と言われたら困る▼憲兵はにやりと笑ったが「こっちはブルブル」と田河さん。それからは国策漫画の枠に閉じこもり、面白くなくなった、とのちに語ったことがある。「憲兵のピストルが目の前にちらついて委縮した」などとはっきり言うところが天真爛漫だった。「のらくろ」は、絵もさることながら会話に味があった▼それもそのはず、田河さんは漫画を描く前は落語をつくっていた。幼い時に伯父に引き取られ、東京の下町に育つ。やりとりのうまさや、話の展開の妙は生い立ちと関係があるだろう。戦後は『滑稽の構造』その他を著し滑稽の研究を続けた。江戸時代の研究資料などを町田市立博物館に寄贈もした▼キリスト教の受洗は50歳を過ぎてからである。笑い話と絵でキリスト教の考え方をつづった『人生おもしろ説法』を出版した。ゆとりがあって、童心を失わぬ、意欲的な人生だった。そうそう、当ののらくろは、81年に結婚、喫茶店の主人として自立した。 児童の権利 【’89.12.14 朝刊 1頁 (全860字)】  「八000」という名の子どもがいる、と上海からの報道にあった。変わった名前だ。今年の4月に人口が11億を突破した中国では一人っ子政策が進められている。「八000」ちゃんは4番目の子。県や村に8000元の罰金を払った▼罰金を払っても子どもを生む。労働力としての子どもが欲しい場合が多いらしい。子どもの売買もさかんだという。戸籍に登録されていない子どもの数は全中国で6000万と上海『青年報』は報じた。世界各地の状況をみると、子どもたちの人生、楽ではない。発展中の国々で、とくにそうだ▼エチオピアでは、食事をまず両親が食べ、次いで大きい子、そして幼い子の順で食べる。アディスアベバの栄養研究所で食習慣を研究するムルゲタさんによると「一家が生きるために働き手を優先」する食べ方が慣習化しているという。順序は厳粛である。日照りやききんの時には、幼い子から倒れる▼いや「子ども最優先」を、と強調する国連児童基金(ユニセフ)の「世界子供白書1990年」が12日に発表された。子ども最優先の原則はさきに国連総会が採択した「児童の権利条約」の精神でもある。白書によると、80年代、多くの国で貧困、栄養不良、病気に苦しむ人がふえ、いま毎週25万人以上の幼児が死んでいる▼安いワクチンで予防できるはしか、百日ぜき、破傷風。金をかけずに防げる下痢性脱水症。さらに抗生物質で安く治療できる肺炎。それらで多数の子どもが命を落とす。「現代最大の罪」だと白書はいう。軍事費や債務の償還に、国家予算の半分をあてる国がある。幼児の命や成長を犠牲にしての支払いだ▼戦争は直接的に子どもをいためつける。いま戦争の数は過去半世紀のどの時期よりも少ない、と希望を持ちながら、白書は来年「子供のための世界首脳会議」を開こうと呼びかけた。10代から成人病の初期症状、という子もいる日本。過剰栄養と低栄養の同居する世界だ。 社会党の改名 【’89.12.15 朝刊 1頁 (全860字)】  社会党の田辺誠前書記長が、党の名前を変えることに積極的な姿勢を見せている。党内右派、水曜会(旧江田派)の集まりで「社会民主党という意見もある。総選挙後に真剣に検討すべきだ」とのべた▼「社民党にしたら社民連も含まれていいことになる」とも言った。社会党から分かれた社民連との再統一を意識した発言ととれる。社民連の方も「私たちが一緒に求めていたことが目前にやってきている。垣根なく、大きな連帯で総選挙を戦いたい」と江田氏が受けた▼改革を進める東欧の社会主義諸国ではすでに名を変えた党がある。参議院選挙の後、日本共産党でも改名の話が一部に出たらしい。天安門事件がわざわいして選挙に負けたと見て、中国の党と同じ名は変えようという発想だった。これは、今の党名が党の目的や実態を的確に表している、との判断でさたやみになった▼参院選で自民党が敗れた時、経済界の人がこんな発言をした。「社会党には政権をまかせられない。自由主義経済堅持などと言っているが……衣の下によろいを着ている」。政権を担うのに不慣れ、という不安を超え、その綱領への不信感だった▼田辺前書記長は今回、党名とともに、86年に採択した同党の綱領である「新宣言」についても見直しを求めた。「十二分に今日の状況に対応できるか」というのだ。今年、ソ連国内や東欧で起こった改革は、硬直したイデオロギーの無力さを教えた▼政権をねらう政党には、現実への対応能力が期待される。名前を変えよう、という田辺提案には、当然、中身を変えようという意欲が含まれているだろう。総選挙が近づくと、自由主義対社会主義、といった粗い形容がまた現れるかも知れない▼だが、多くの人の関心は、憲法の定める枠組みの中での、きめのこまかい政策の違いだ。所得、消費、土地などの問題。東欧の改革の受けとめ方。90年代への見通し。改名論議は政策論争をくりひろげる好機だろう。 サハロフ博士死去 【’89.12.16 朝刊 1頁 (全859字)】  アンドレイ・サハロフ博士死去の報をきく。68歳。「水爆の父」「反体制学者」として知られた。その言動を振り返ると、戦後のソ連の姿を、舞台のうしろ側から光を当てて浮き上がらせた人のように思われる▼20代から注目される物理学者だった。熱核兵器の研究に携わる。原爆開発で米国に大きく後れをとり、あせっていたソ連は、水爆製造に成功し、自信を得た。サハロフ博士は開発中、米ソ両国がこの恐るべき兵器を手にしたら、破壊より話し合いを求めるだろうと考える▼国際政治の実態は、しかし、なかなか対話へは進まない。57年から58年にかけ、サハロフ博士は、ソ連および世界の行方を懸念する市民として悩みはじめる。核実験の中止を時の指導者フルシチョフ氏にしばしば働きかけもした▼発言はしだいにソ連のあり方全般に対して批判的になる。68年の「進歩・平和共存・知的自由に関する考察」と題する論文では、2つの主題を掲げた。「人類の分離が人類に破滅の脅威を与える」「人間社会には知的自由が不可欠である」。第1主題は共存不可能を説くものへの挑戦だ▼73年にスウェーデン放送と会見した時、ソ連社会の最大の欠点は「自由のないこと」だと訴えた。打開策を問われると「不可能」。それでも抗議活動をしているのは、と重ねて問われ「理想がなければ希望がないから」と答える▼ソ連批判は国外に報道された。「そんな愛国者がいるか」と人々の反発も買った。80年からの7年にわたるゴーリキー市への追放。名誉も称号もはく奪された。しかし、自由への叫びも、また米ソの対話も、時代、つまり多くの人々の求める大潮流となって実現する▼政治改革で新しい最高権力機関、人民代議員大会ができると、サハロフ氏は代議員に選ばれ、最も人気のある人物となっていた。改革の先行きを、おそらくもう少し見たかったことだろう。苦難の中で果たした歴史的役割の大きさを思う。 1990年代の政治占う総選挙 【’89.12.17 朝刊 1頁 (全871字)】  政治家が町内会の祭りに祝儀を届ける。会合に酒を差し入れる。あるいは葬式に秘書をやり香典を出す。こういう行為はこれから最高20万円の罰金となり、刑が確定すれば政治家は議員資格を失う▼きのう閉幕した臨時国会で、公職選挙法が改正され、次のように規制が厳しくなった。(1)冠婚葬祭の寄付は本人出席以外は罰則で禁止(2)新聞などへの名刺広告も罰則で禁止(3)後援団体の寄付も罰則で禁止(4)年賀状などあいさつ状、祝電の禁止(罰則はなし)▼もちろん、秘書をうまく使うなど、抜け道をさぐる政治家が出るだろう。野党案には「政治家の秘書に対する監督義務」があったが削除された。「冠婚葬祭は政治の原点」と割り切る政治家たち。有権者の側が寄付を拒む姿勢を貫けるか、という問題もある▼2月1日からの施行だ。多分、次の選挙ではこの「寄付禁止」に目が光ることになるだろう。2月に予想される総選挙。いくつかの論点がすでに見える。政治改革への各党の意欲がその1つ。上にあげた法改正は、金のかかる政治を改める案のごく一部にすぎない▼もう1つは消費税である。臨時国会では、7月の参院選で与野党勢力が逆転してから初めての実質審議が行われた。野党4会派が消費税の廃止法案を出し、これが参院を通過した。自民党は、今月になって、食料品小売り非課税などの見直し案(基本方針)をきめた▼出そろった与野党の案を見て、また主張を聞いて、こんどは有権者が判断をくだす番だ。総選挙の結果がどう表れるか。1990年代の政治の流れを示す指標となるだろう。世界の情勢が戦後初めての大きな節目を迎え、日本もアジアもそのうねりと無縁でいられない時だけに、内外の問題に対応できる政治と政治家が望まれる▼まずはリクルート事件から十分に学び、それを生かすことが不可欠だ。事件は風化、などというものがいる。とんでもない。関係議員は「みそぎ」で頭がいっぱいらしいが。 “談合”に内外から厳しい目 【’89.12.19 朝刊 1頁 (全857字)】  県が計画している工事がある。それを引き受けようと考える業者がABCの3社。みなが落札を希望、話がつかぬ。Aは身を引くがBとCの議論が折り合わない。AがBに「おりろ」と言い、Cに落札させる。実際の工事はBが行い3者で利益を分けた▼配分の割合はAとBが各3、Cは4……。とまあ、こういう話が茨城県であった。河川しゅんせつ工事での談合罪だ。きのうの水戸地裁判決は「有罪」。公正な自由競争できまる落札の価格ではなかった、また、不正の利益を得た、という判断である▼「談合とは入札参加業者が入札価格及び落札予定業者を協定すること」と判決はいう。10年ほど前には、右のような事件が全国で次々に明るみに出て批判を浴びた。役所主導の談合の例もある。業者と発注者の癒着も指摘された。だが、建設業界ではいまだに習慣のようになっている▼折も折、ダンゴウは日米間の大きな問題だ。米通商代表部は先月、米通商法301条(不公正な貿易慣行への対抗措置)に従って行った日本の建設市場の調査結果を発表した。「閉鎖的」と判断、問題の筆頭にダンゴウをあげた。もう1つ具体的な争いになったのが米軍横須賀基地の工事をめぐる談合だ▼米国は、日本の建設会社などに多額の損害賠償金を支払うよう求め、結局、日本側は99社が47億円の「和解金」を払うことになった。だれでも参加できる自由競争の機会を、と米国は要求する。日本側では「和の精神は日本人の遺伝子からくる。米国流の適者生存になるには時間がかかる」と建設業界幹部▼和解の金を払うのは裁判になるのを避けてのことらしい。米国の損害賠償請求に耳を傾けた以上、国内から同様の声が出ても黙殺できまい。水戸地裁の判決は、県の発注価格が高すぎたことも指摘していた。「税金のむだ遣い」と批判して市民が行動に出ることもありえよう。談合は内外から厳しく見られている。判決に、そう思った。 民主化要求の波、いよいよルーマニアにも 【’89.12.20 朝刊 1頁 (全859字)】  英語でダニューブ、ドイツ語でドナウと呼ばれる長い川。洗う岸辺は8カ国に及ぶ。最後に黒海に流れ出る時の河口はルーマニアだ。この国ではドゥナレアと呼んでいる。河口近くの町ガラチで人々の多様さに驚いたことがある▼髪の色、皮膚の色、体形、実にさまざまだ。地図を見れば歴然だが、この国は東西を結ぶ要衝にある。ローマやトルコに支配もされた。混血も多かったのだろう。ドナウ川によって欧州の内陸の事情に通じ、同時に黒海から地中海へと開け、東方にも通じていた。昔、ここはダキア人の土地だった▼いまの国名の意味は「ローマ人が住む土地」。ローマの征服でラテン文化がはいった。南北をスラブ、西をハンガリーに囲まれた、東欧では唯一のラテン系の国である。「吸血鬼ドラキュラ」は、ここの伝説をもとにアイルランド人の作家が書いたものだ。この国で大規模な反政府デモが起き、多数の死傷者が出たという▼いよいよ来たか、という思いだ。東欧の社会主義諸国をおおう改革要求の波は、早晩ここにも及ぶと予想された。ほかの国々の動きは報道されていなかったようだが、人々は短波ラジオやビデオを使っている。体操選手のコマネチさんが徒歩でハンガリーに出て、米国に亡命の着地を果たしたのは半月あまり前だ▼言論、集会の自由は限られ、外国人を自宅に泊めることはできず、外国旅行もままならぬ。物資は乏しく、不満がたまる。強権で抑えてきた。国連が「国民の生活は悪夢で、耐えているのは恐怖のため」と8月に報告したほどの、人権抑圧の状況である▼チャウシェスク書記長は、中央計画経済、共産党独裁の路線を守り抜くという。各国の改革路線には批判的で、8月に「連帯」がポーランドで政権をとる直前には各国に介入を呼びかけた。かつてはソ連離れの独自路線。先頭と思われた選手が、1周して最後尾、の観だ。今の騒ぎ、ダニューブのさざなみ、では終わらないだろう。 米軍のパナマ侵攻 【’89.12.21 朝刊 1頁 (全858字)】  中南米では軍人が政権を握っている国が多かった。それがだんだん減って、先週はチリで軍事体制から16年ぶりに民政への移管がきまった。残るはわずかパラグアイ、ハイチ、パナマなど。軍事政権林立の70年代とは大違いである▼そうした中でパナマのノリエガ将軍はきわめて意気さかんだった。軍を握る実力者だ。一度ならずクーデターが計画されるが生き延びる。さる5月の大統領選挙では反対派が優勢とみると国軍に選挙妨害をさせ、選挙を無効とした。先週、議会は同将軍を「国民解放の最高指導者」と規定する▼そして米国との「戦争状態」宣言を行った。米国は昨年2月、連邦大陪審が将軍を「麻薬密輸に関与した」として起訴、その後、パナマへの経済制裁を続けてきた。クーデターの計画などを指して「米国の侵略行為」と叫ぶ将軍。その独裁的な言動は、米国をいらだたせる。そこへ起きたのが先週の米軍人の射殺事件だ▼きのう米軍は米人保護などを理由にパナマを攻撃した。軍事力からみれば赤子の手をひねるようなもの。しかも、よその国への侵入だ。米国の国内感情は果断な行動だとして味方するかも知れない。だが、ほかに手がなく、いかに独裁国が相手とはいえ、ずいぶん思い切ったことを、と考えた人が多いのではないか▼パナマと聞いて連想するのはパナマ運河だ。北米と南米の間、いちばん陸が細いところにある。北にカリブ海、南に太平洋。2つの海を82キロの水路がつなぐ。今世紀の初めに米国が建設した。その時に、この地峡の人々を独立させてパナマの国にした、といういきさつがある▼いわば米国の運河事業が生み落としたような国だ。生まれる前からの因縁が双方に特別の感情を育てたかも知れぬ。だが運河経営については条約の改定も行われ、パナマの主権が尊重される方向に歴史は動いている。今後の両国関係、また運河の世界的意味を考えると、事態を軽く見てはいられない。 人々の知恵伝える大根 【’89.12.22 朝刊 1頁 (全907字)】  「大根を抱き碧空(あおぞら)を見てゆけり」飯田龍太(いいだ・りゅうた)▼つめたい空気の中を、友人が大根を提げてやって来た。会社づとめをしながら、東京郊外の畑で野菜をつくっている。秋口に会った時、暖かいせいか虫が多くてね、と言っていた。くれたのは聖護院大根(しょうごいんだいこん)。直径12、3センチの球形だ。泥がついていて、てのひらに重たさが快い▼この形の大根に出合うのは久しぶりだ。近ごろ町で売れるのは、細長く、しかし長過ぎない大根、と友人はいう。一般に家族が小人数だ。冷蔵庫の大きさに合った寸法で商品がきまるのだそうな。急いで帰って、煮た。ふろふきの湯気が立つ。丹精のたまものは、とろりと柔らかく温かい味がした▼「身を載せて桜島大根切りにけり」朝倉和江。丸く、もっと大きい桜島。ひょろひょろと細長く、1.5メートルにもなる守口。赤く小さなハツカダイコン。実に種類が多い。カフカスからパレスチナあたりが原産地だが、日本に来てたくさんの品種に分かれた。といっても最近は1代交配の雑種が多いらしい▼何しろ日本で作付面積の最も広い野菜である。食べ方もいろいろだ。煮物、漬物、なます、おろし……。ひりひりする辛さのおろしで食うそばのうまさは、だれの発明か。葉も漬物、ひたし物、汁の実などにいい。愛知地方で始まったという切り干し。沢庵禅師(たくあんぜんじ)の考案といわれる沢庵漬け。人々の知恵を食べ物が伝える▼東北などで、凶作の時には重要な代用食だった。紀元前のエジプトでは、ピラミッドを建てる労働者が大根を食べていた記録があるそうだ。戦争中の信州で、女の人たちが大根やカブを洗うのを放心状態で眺めていたことがある。手を真っ赤にしていた。空腹そうな顔を見て、なまのカブをくれた▼その時の味、におい、空の青さ、寒さなどは今も忘れられぬ。いま、繊維が健康によいから、などという。何と恵まれた、そして平和な食の時代であることか。「山里や炉をかこみ食ふ煮大根」井出五竜子。 西郷さん批判 美談ばかりでなく自由な発想を 【’89.12.23 朝刊 1頁 (全888字)】  英雄豪傑の典型と思われている西郷さん。その人について「西郷という人は大度量のある人物ではない。豪傑肌であるけれども度量が大きいとはいえず、いわば偏狭」などという評を紹介したのだから、鹿児島の人々は驚いたに違いない▼本紙鹿児島版に1年あまり前から毎週連載された「一口ごめんなんせ・横目で見た郷土史」は、きょう最終回を迎える。筆者は郷土史家の片岡吾庵堂(かたおか・ごあんどう)さん。西郷さん批判など、とんでもない、という風土である。右の発言をはじめ多くの資料をもとに、ずいぶん思い切った見方を披露した▼薩摩藩の伝統的な教育では直線的な考え方が好まれ、思慮深い大久保利通型の曲線的思考は人気がないという。西郷さんが詩に書いた「玉砕」の思想は太平洋での戦争でも「死体の山、作戦の無能無策」をさらけ出した、と指摘する。藩独特のいわゆる「郷中教育(ごうちゅう・きょういく)」へも疑問を突きつけた。それで育った人には衝撃だ▼例えば「絶対服従」「負けるな」の教えは正しいか。むやみに笑うのをいましめ、3年に1度、それも顔の半分で十分という、「男は3年片頬」の教えについても、笑いこそ健康な批判精神ではないか、と論じた。商家に生まれた吾庵堂さん、さむらい精神の歴史を遠慮のない表現で批判する。殿様も例外とはしない▼砂糖を耕作していた奄美大島での資料から島津氏の「圧政」に触れ、「バカの一つ覚えで名君ぞろいと言うのか」と書く。徹底して普通の人の目で郷土史を見た。西郷さんと女性のことも書いた。読者からの反響は大きかった。批判もあった。現代感覚で切るのはどうか、との投書も来た▼だが、よくぞ書いた、との声が多かったという。美談ばかりでなく、凡人と同様、西郷さんも過ち多い人生を送ったと説明すべきだ、と片岡さんは考える。「人々がいつまでも錦の御旗にしばられていては、発展はないと思います。何もない他県の方にこそ自由な発想がある」。筆をおいての弁だ。 クリスマスと「簡素な生活」 【’89.12.24 朝刊 1頁 (全856字)】  クリスマス・イブである。贈り物のやりとり、さまざまな集まりや行事が、年ごとに盛んになる。お金が動く。おもちゃ市場は、7、8千億円にも及ぶ年間の売り上げの3割以上をこの季節にさばくという▼関西ではクリスマス・シーズン専用のビールが売り出された。九州では高価な景品、欧州への招待旅行などがつく催し物や大売り出しが話題になっている。総じて豪華さが売り物。近ごろはクリスマスの商売がお歳暮商戦を上回る。客がほぼ固定しているお歳暮と違い、視覚に訴えて宣伝すればそれだけ売れ行きが伸びるとか▼教会で飾りつけをしている牧師さんに、おや、教会もクリスマスをするのですか、と言った人がいたという。笑い話ではなく、世界中でいちばん盛大にクリスマスを祝う社会は日本ではあるまいか、とある牧師さん。商業的クリスマス、という意味ではその通りかも知れぬ。ざわめきの中で反射的にある本を思い出す▼『海からの贈物』。大西洋横断飛行に最初に成功したリンドバーグ大佐の夫人、アン・モロウ・リンドバーグさんが書いた本だ。いや、そういう紹介はよくない。地位、性別、年齢などとは関係なく、ひとりの人間が書いた、という方が正確だろう。慌ただしい日常の生活から離れ、浜辺で時間を過ごしながらの思索▼ひとつの主題は「簡素な生活」ということだ。ふだんの生活がいかに多くの要素から成り、いかにそれらを大事だと思い込んでいるか、という反省。浜辺でまず覚えるのは「不必要なものを捨てる」ことだった。簡素な生活が、どんなに大きな精神上の自由と平和を与えることか▼別のところに現れる主題は「1個の個人であること」だ。アンさんは、母として期待されたり妻でなければならなかったり、という役割の責任なしに、ひとりの自分になれる場所として教会に触れている。肩書や役割を離れての生き方。静かに考えたい、きわめて現代的な問題だと思われる。 2011年火星への旅 【’89.12.25 朝刊 1頁 (全873字)】  80年代、激動の地上におとらず星の世界もにぎやかだった。太陽系の3大ニュースを選べば、(1)海王星に5本の輪を発見(2)天王星に10個の微小衛星を発見(3)ハレーすい星を密接観測、といったところか。地球という惑星で、大気が気がかりな変容をしていることも重大ニュースに加えるべきだろう▼先週、東京で開かれた国際火星フォーラムでの米国、ソ連、欧州宇宙機関の代表たちの話に耳をかたむけていると、90年代は火星の時代になりそうな気がした。ソ連宇宙科学研究所長のガレーエフさんによれば、これから10年は火星に全力を注ぎ、94年に火星を回る探査機や観測気球、96年に衛星フォボスの岩石標本を採って帰る探査機、98年には火星上を走る無人自動車を送り込む▼米国は92年、火星全土の地図づくりをめざす探査機マーズ・オブザーバーを飛ばす。米ソとも最終目的は人間の火星着陸だ。先月、米航空宇宙局(NASA)が発表した構想によると、早ければ「2011年火星の旅」となる。問題は4000億ドル(約57兆円)ともいわれる費用だが、軍縮で浮かす予算と人材を持ち寄り、欧州や日本が加勢すれば、無理な計画ではない▼火星がなぜ注目されているのか。地球の運命を占う星であり、将来、人類が移り住めそうな唯一の天体だから、と科学者たちは口をそろえる。大昔、火星は暖かく、川が流れていたらしい。水はどこへ消えたのか、生命が誕生した跡があるのか、知りたい▼「火星に行くと、どんな見返りがあるのか」という会場からの質問に、NASA太陽系探査計画担当のブリッグスさんは「こどもたちに科学の夢を与えることと、それを実らすための技術開発だ」と答えていた▼日本には、ロボット技術や装置の小型化技術が期待されている。私たちは米ソが演出した宇宙ロマンを楽しく鑑賞させてもらってきた。来世紀の人類史的課題になる火星ドラマでは、製作側のメンバーに加わりたい。 読者と新聞つなぐ「朝日5丁目新聞」 【’89.12.26 朝刊 1頁 (全856字)】  「朝日5丁目新聞」という、B4判の紙1枚の新聞がある。発行者は大学1年生の塩見多一郎君。東京の大泉学園町で朝日新聞の配達をしている。4月の入学と同時に朝日新聞学園町営業所に住み込み、自分の新聞の発行を始めた。部数は300だ▼お客とのつながりを深めたい、というのが動機。ワープロで打ってある。漫画や挿絵もある。5月の創刊号は自己紹介のほか「これが新聞配達だ」を書いた。次の号では「5丁目のおもしろ犬」特集。漫画入りで地元の犬たちの生態描写を並べたあと「犬がかみつく日」の説明も入れた▼全国で年間3000件というが、犬がかみつくのは「風速2.5メートル以下、日照時間が短く、晴れから曇りにかわる時」が一番多い、という調査の紹介だ。風が弱くなると鼻がきかず警戒心が高まるからだという。配達する人にとっては大きな関心事だが「小さなお子様はとくに気をつけたいですね」と塩見君は書く▼その次には「挙動不審な配達人」特集。新聞を足にたたきつけている男。それは「自転車に乗りながら片手で新聞を折り曲げる技術の一つなのです」。傾いた自転車と格闘中の男。何しろ新聞は重い。300部だと40キロ以上。広告紙などが入ると1倍半から2倍にもなる。「だいたい力つきて倒すのが常です」▼絵入りで、思わず笑ってしまう。配達を終えたばかりの塩見君に会った。小学校のころブラジルに、中学生の時に英国にいた。高校時代にラグビー。面白いのは仲間との話、お客との話。いろいろな人生を知る。眠いのは苦ではない。頑丈な体で、もの静か。楽しみづくりに積極的だ▼お客と言葉をかわし、集金もやりやすくなった。労をねぎらい、風邪をひかぬように、と書かれたカードをもらい感激する。塩見君に限らない。雨の日も風の日も、工夫と努力を重ねながら約10万人が朝日新聞を配っている。うち約7000人が大学生。新聞と読者をつなぐ橋だ。 「血の革命」 【’89.12.27 朝刊 1頁 (全859字)】  ルーマニアの新政権が、チャウシェスク夫妻を処刑したという。これを国営放送は「素晴らしいニュースだ」と伝えた。安穏な生活の中で聞くと、ぎくりとする。6万人もの国民を殺した、10億ドル相当以上を外国銀行に預金、逃亡をくわだてた、などの罪だそうだ▼「処刑前」といわれるテレビの映像を見ると、医者がチャウシェスク氏の血圧をはかっている。殺す前に血圧検査が必要なものだろうか。これは長くなるかも知れぬ収監の準備だったのではないか、などと想像をめぐらした。だが発表は、非公開の特別軍事法廷で死刑宣告、処刑、である▼民衆が怒り、王の首をはねた革命の歴史がこの発表に重なって思い出される。人々の恨みを買った指導者の末路は無残だ。チャウシェスク夫妻は危険をさとり国外に逃げようとした。人々に背を向け、逃げ出した指導者を思い出す。イランのパーレビ国王、ウガンダのアミン大統領、フィリピンのマルコス大統領……▼本来ならばチャウシェスク前大統領と実力者だったエレナ夫人とを公開の裁判にかけ、圧政をただすのが法治国のやり方だろう。ブカレストで市民の考えを取材した北山特派員によると、人々の反応は「殺人者なのだから、当然だ」「なぜもっと民主的な裁判をしなかったのか」との2つの意見に分かれているという▼逃亡が22日、処刑発表が25日。この早さには、それなりの理由があるに違いない。いまなお抵抗を続けるチャウシェスク支持派の治安警察部隊に親玉が死んだことを知らせ、士気をくじくという計算。あるいは人々の憤怒が私刑をも辞さぬほどの激しさで、それを発散させる措置▼こんな推測もある。チャウシェスク氏は、強権をほしいままにした時代に秘密警察を使い、あらゆることを知っていた。公開裁判になると彼の証言により不利益をこうむる人が出る……。処刑までの真相は不明だが、無血の東欧改革でここだけが「血の革命」になった。 12月のことば抄録 【’89.12.28 朝刊 1頁 (全869字)】  12月のことば抄録▼「日本の裁判所はなっとらんなあ」と前田俊彦さん。酒税法違反に問われた自前のドブロク造り。最高裁が上告棄却。「諸外国で認められている『自分の酒を自分で造る権利』が、どうして日本にないのか」▼リクルート裁判政界ルートの初公判。「世間をお騒がせし……いずれも私の不明から発したことで、深くこうべを垂れ、深く陳謝するものであります」と江副浩正被告が意見陳述▼与野党逆転の参院本会議で消費税廃止関連法案が可決される。「これでやっと夏以来の公約を果たすことができた。衆院で採決しないのなら総選挙で国民に問うしかない」と久保亘社会党議員。橋本蔵相は「チクショーという感じだ」▼地中海のマルタで米ソ首脳が会談。「ブッシュ大統領と、以前の冷戦の時代から新しい時代に入ったことを確認した」とゴルバチョフ氏▼米国が、パナマの最高実力者ノリエガ国軍司令官の身柄拘束などを目ざし、パナマに軍事介入。ノリエガ将軍はローマ法王庁(バチカン)大使館に亡命を求める。「将軍が外交当局の管理下に入ったことを喜ぶ。恐怖の支配は終わった」とブッシュ米大統領▼本田技研工業の創業者、本田宗一郎さんが語る身の処し方。「もし今もぼくが社長をやっていたら本田はとっくにつぶれているよ。米国工場のことなど若い人でないとわからない。早く辞めてよかったよ」▼ルーマニアで、チャウシェスク前大統領夫妻が処刑された。それを報じた国営放送のアナウンサー「素晴らしいニュースだ。キリストに背くものがクリスマスに死んだ」▼東京・浅草の「並木藪蕎麦(やぶそば)」主人、堀田平七郎さん。「今はやりのグルメってのは嫌いですね。うちにも雑誌なんかを見ていらっしゃる若い人が多いですよ。そういう人に限って、うちのつゆが辛いって驚くんです。辛いはずですよ。そばっていうのは本来、めんをつゆに3分の1くらいつけて食うものなんです」。歳晩である。 自然環境の悪化 【’89.12.29 朝刊 1頁 (全859字)】  「ももいろと/若草色の春がきて/うららかな日々が/楽しくすぎてゆく▼えんじいろと/マリンブルーの夏がきて/木々のみどりが/こくなってくる▼もみじいろと/黄金色の秋がきて/実りの日々は/とぶようにすぎてゆく▼純白と/ゆうやけ色の冬がきて/こごえながら/日々がすぎてゆく」(堀明子詩集『四季の色』)▼かくて季節は一巡、今年も暮れようとしている。遠からぬ日に、寒気の中にひらく花もあるだろう。「ふくよかな香りは/どこから生まれたのでしょう/そよ風にもふるえる/うすい花びらは/何でできているのでしょう/あざやかな色あいは/どこからつくりだしたのでしょう/ああ美しいうめの花」▼右の2つの詩は、堀明子さんが小学校4年生の時に自習用の帳面に書いたものだ。高校1年生になって、事故で亡くなった。ことし編まれた詩集をいくたびも開き、自然の素晴らしさをとらえる感受性のみずみずしいことに打たれた▼年の暮れ、故郷を目ざして移動する人々。親しい者との、まどいの喜びに加え、ふるさとの山河との再会が、さぞ心に安らぎをもたらすことだろう。だが、人々をはぐくんだ自然が昔のままであるとの保証はない。この数カ月間に出た、自然環境の状態に関する数件の報告はいずれも悪化を訴える▼ひとことで言えば、水も空も汚れがひどくなっている。環境庁などの調査では、有機溶剤による地下水の汚染が広がったという。監視するよう、今月、全国の自治体に指示が出た。湖沼の浄化も、はかばかしくない。大都市圏での二酸化窒素や二酸化炭素による大気汚染も改善されず、深刻だ▼今年は若い人々に環境への関心の高まりが見てとれ、心強かった。だが事態は楽観できぬ。中学校の生物部で自然に親しみ、人間のごうまんさに憤っていたという明子さん。小4の時に、こう書く。「いまは青い/美しい空だけれど/100年ほど時がすぎれば/何色になってることやら」 高石邦男・前文部事務次官の総選挙出馬 【’89.12.30 朝刊 1頁 (全858字)】  高石邦男・前文部事務次官が、総選挙に出馬する、と声明した。本当だろうか。前に、出ると言ったのにいや出ないことにした、と声明した人である。株の譲り受けは「家内が1人でやった」と言い続け、あとで「実は相談してやっていた」と言い直した人である▼次官の時には「心の教育」を説き、しかし業者の接待を受けていた人である。本当だろうか、国政を担当したいと言うのは。それに、ついこの間、リクルート事件の裁判で、こんな意見陳述をした人だ▼「世間をお騒がせし……各方面に多大のご迷惑をおかけし、特に、長年にわたり、多くの人々の努力により培われて参りました文教行政に対する国民の信頼を著しく損なったことは、私の不徳のいたすところであり、痛恨の極みであり、心からおわび申し上げます」▼この言葉と出馬とは、どう結びつくのだろう。本当に「不徳」と思っているのだろうか。むろん、裁判が進行中でも、不徳でも、立候補は自由である。権利上は何の問題もない。だが、収賄罪で起訴され、身の潔白が証明される前に選挙に出る。おや、というのが普通の人の常識だろう▼まず本当かと疑い、次に驚き、そして考えたあげく心配になった。出馬は多くの人々の考え方や倫理感に対し、極めて鈍感な行動だ。これはこの人の個性なのだろうか。それとも、この人が長年呼吸してきた文部省という役所の空気と関係があるのか▼もちろん個性だと文部省は言うだろう。文相も「不快」だと言った。だが、この人があずかった業者の接待には文部省幹部も参加していた。この人の政治的な集まりのパーティー券は、文部省から各地への行政の経路によって売りさばかれていた。教育者なら興ざめするような官僚機構の実態だ▼教育は子どもと親が相手である。意見されることが少なく、競争原理に乏しい環境の中で、文部官僚は常識を見失ってはいないか。心の底で恐ろしい気がするのはその点である。 「壁」低くなった80年代 【’89.12.31 朝刊 1頁 (全873字)】  いよいよ大つごもり。ひとりひとりの1年に、さまざまな出来事があったことだろう。喜び、悲しみ、怒りなどを包み込み、年が暮れる▼思い返すと、日本では黄金色のニュースが多かった。銅臭にまみれた政治の話。手も出ない地価の話。あふれた金が外国に出て行く話。そういう金は、高価な絵を、目抜き通りの不動産を、そして会社を、つまり世界を買いまくった▼今日は、この年の終わりの日であると同時に、10年間をまとめて呼ぶ、いわゆる1980年代の最後の日でもある。いろいろな事件を振り返って気づく。「壁」がなくなったり、低くなったりした10年だ▼(1)象徴的なのはベルリンの壁の崩壊である。東西に分かれ、イデオロギーで対立していた国際社会の枠組みが崩れた。だいじなのはイデオロギーではなく、よりよい生活だと考える市民の群れがその背後にいる。主役は「人々」である▼(2)性の間に立ちはだかる壁が低くなった。女性が躍り出た。国際陸連公認の初の女性マラソン大会が開かれたのが、ちょうど10年前のこと。それ以後、とくに日本での女性の活躍は政治、経済、社会、文化の各分野で目をみはるほどだ▼(3)国境をへだてる壁が、事実上、素通しのような世界になった。一例は環境問題だ。チェルノブイリでの原発事故は世界の問題として受けとめられた。地球の温暖化、オゾン層破壊、熱帯林保全などは国境を超えた共通の関心事である▼(4)ひとが建てる壁を無意味なものにした立役者に、通信や放送のための衛星がある。空に上げた情報を、空から取る。この10年、衛星の働きで、どんなに世界が狭くなったことか。とくに今年の天安門事件や東欧での軒並みの改革、革命では衛星が威力を発揮した▼日本に、国境を越えて大勢の難民や外国人が来る。そういう経験の年でもあった。目に見えぬ「壁」を張りめぐらしてはいないか。いろいろな人々との共存へ、と意識変革を迫った8○年代である。