機関誌『○』創刊号 1998年12月12日発行
創刊にあたって
近頃どうも気分がすっきりしない。
察するに、大学が死んだ、あるいは大学生が死んでいることが一つの原因のようだ。これはほんの一例だが、“官僚制”をテーマとした講義で黒澤明の名画『生きる』を上映するほど「行き届いた」授業をしても、学生の反応はほとんど無く、少なくともこちらに伝わってこない。学生にしてみれば、三年生からもう就職が気がかりで、勉強どころではないのかもしれない。せちがらい社会状況が大学を“ハローワーク”にしてしまったのだ。大学そして大学生が死んだというゆえんである。
私がやっているのは経営学だが、これも気の晴れないいま一つの理由となっている。経営学はいまやリストラをオーソライズする理屈になり下がり、経営学者はといえば、あちこちで倒産、売上げ不振、赤字の悲鳴が絶えない今日、ほんのわずかな元気印企業をとり上げ、サクセス・ストーリーを無責任にも語っている。私のなりわいとする業界の空気がかくも汚染されているのだから、気分がすぐれないのも当然だ。
うつうつとした日々を送っていたある日、突然ひらめいた、「塾をやろう!」。塾ならば、成績や単位ばかり気になって肝心の勉強は二の次なんて学生を相手にせずに済む。
また、“あいまい”についてかれこれ
20年近く考え続けてきたので、“ハウ・トゥー・リストラ”“ハウ・トゥー 金儲け”の経営学や経営学者に抵抗する姿勢も対抗する理論も多少は身につけた。そして、そうした姿勢や理論をわかりやすく映像化した映画やVTRもかなりたまった。というわけで、加藤敏雄先生の並々ならぬ御力添えをいただいて、
1998年4月18日○塾は発足した。パイロットの0期生は18名。1サイクル5回の会合を終えて、それぞれの考えたことや感想などが思った以上に寄せられた。この冊子はそうした玉稿を中心に編さんされたものである。これが同期の塾生をつなぎ、次の期そしてまた次の期・・・といった同窓の塾生をつなぐ絆となってほしい。そうすれば、この塾から、平成の高杉晋作や福沢諭吉などが輩出せぬともかぎらぬ。今夜はそんな夢をみるかなぁー。1998年11月22日
遠田 雄志
教養課程カリキュラム
0期(
’98.4〜’98.9)T
. 賢くて愚かな人間 T.i, W.ixM.『カンバセーション』 ’73, 110’, 61
U
. マネジメントとは? T.171D.『生類憐令』 ’96, 30’, 56 D.『内申書の数量化』 ’96, 45’, 71
V
. ゴミ箱モデル T.15〜6D.『X社を買収せよ』 ’90,(60’), 65 M.『12人の優しい日本人』 ’91,(120’), 10
W
. 関係説 T.30, 32, 130D.『熱帯雨林と共生』 ’97, 90’, 74 D.『人員削減』 ’94, 30’, 73
X
. ルース・マネジメント T.103〜4M.『ケイン号の叛乱』 ’54, 130’, 15 テキスト;遠田雄志『グッバイ!ミスター・マネジメント』文眞堂, ’98
[教養課程]
第一回講義 賢くて愚かな人間 映画『カンバセーション』
西本 直人
「人間は自らが張りめぐらした意味の網の中にからめとられている動物である」(C.ギアーツ)
この言葉がもつ意味、それをまず理解するところから○塾は始まる。いろいろな疑問が思い浮かぶ。まず、人間は意味やシンボルを操る動物であるというのは聞きなれた命題であるが、しかし、「自らが張りめぐらした」というのはどういうわけだろうか?「からめとられた」とはネガティヴな物言いであるが、それはどうしたわけか?この言葉はどこかしら哲学的な響きを含んでいるが、そもそも経営学とはどういったかかわりがあるのか?
映画とは、そういったもろもろの疑問を吹き飛ばしてくれる爆風みたいな働きがある。それは感覚や直観に働きかける。名匠コッポラの作品、『カンバセーション』の主人公ハリーの運命は、この言葉を理解するに十分な説得力をもって迫ってくる。腕利きの盗聴屋であるがゆえに自らの「カンバセーション」を他人に聞かれるということの意味は彼が一番よく知っているだろう。その意味ゆえに、彼は床板まではがさずにはいられない。人は自分が経てきた経験や関係にもとづいてモノを見、言葉を発する。いまの「私」という存在は過去の延長上に置かれており、過去を振り切ることは自分のパーソナリティーの一部を破壊することにも等しい。デカルトが蒸留抽出した「我」は、すべての過去を振り切っているようだが、そんな自我は純粋哲学の羊皮紙の中でしか生きられないだろう。
たとえば、もっと話を簡略化して、こんな話はどうだろうか。ここにプライド高き良家のお嬢様がいる。学校でも私的な集いでも、彼女は自らが課した一定のレベルをあらゆる行動領域に持ち込む。「海外旅行?南国だったらフィジーあたりじゃないの」、もちろん一般の学生やOLがハワイ、グァムに行くことを十分考慮に入れた発言であり、実際にその通りに行動する。そんな躓きを知らない彼女の人生に、ある日突然、ビッグバンがやってくる。お父上の会社の突然の倒産である。豪奢な自宅は差し押さえられ、来月に迫った学費を払い込むあてさえない。自分があれほど嫌い蔑んでいた悲惨な貧乏生活への突入である。ここで彼女は「自らが張りめぐらした意味」に首をしめられることになる。何もやる気が起こらない、もう今までつきあってきた誰とも会う勇気もない。他人から見れば、まだ彼女には学歴も能力も容姿だってあるし、お金を持ってないとはいえ両親も健在なのにである。あくまで彼女にとってはそれは世界の終りを意味しているのだ!なぜだろう?それは、彼女が今までせっせと「張りめぐらしてきた意味の網」のせいである。それにからめとられているがゆえに、別の視点からものを見ることがまったくできないからだ。そんな彼女には、北野武がおよそ世界の絶頂を極めつつあるときにも昔の貧乏生活に戻りたがっている気持ちはわからないだろう。なぜなら、彼女が張りめぐらした網には、そんな解釈を生み出す余裕や多様性がないからだ。
さて話があまりに個人レベルになってしまった。では、このような現象は「組織」とかかわりがあるのだろうか。もちろん、ある。山一を考えてみよう。彼らは自主廃業に追い込まれる最後の最後まで、日銀からの救済を信じて疑わなかったという。それは過去オイルショック時の経験に遡るが、その経験を色濃く残す彼らの意味の網には「やばくなったら助けてくれるさ」という原則が埋め込まれることになった。これは愚かな判断だろうか?しかし根拠はちゃんとあったのだからあながちそうとも言いきれないだろう。ただ今度ばかりは状況が違っただけなのだ。その安心感は、倒産直前まで自社株を買い続けていたという社員の行動に見事に表れている。これも自らの意味の網にからめとられていた好例だと言えるだろう。しかし、この言葉を現実に照らし合わせて見るとき、悲惨で物悲しく、どこか滑稽な事例ばかりが思い浮かぶのはなぜだろうか。
この言葉を最初に発した人、C.ギアーツにまで遡ってみよう。このギアーツという人、哲学者でもなく経営学者でもなく実は文化人類学者である。もちろん変わっている(とびきり優秀でもある)。文化人類学の領域で数理的分析が支配的だったときに、彼はバリ島で非合法の闘鶏を足繁く観察し、ポリに急襲されれば現地人といっしょに逃げ惑うような人である(このときの逃走は「ディープ・プレイ」というおそらく社会科学でもっとも面白い論文へと結実している)。そんな彼は「文化」(もちろん文化人類学をやる上でもっとも重要な言葉)とは「意味の網」であると言っている。だから、このギアーツの言葉は彼の研究すべての礎石でもあるのだ。
ギアーツはとりわけインドネシアに強く惹かれたようだ。その反復的な生活習慣、独特の美学の意味を解明するために彼は努力した。しかし、その一方で、その当時のインドネシア情勢は混沌を極め、いまに続く数々の暴動が発生する。推計
50万人と言われる当時の暴動・内戦による死傷者数だけでその凄まじさが感じ取れるだろう。ギアーツは激しく動揺したに違いない。詩、物語、演劇、闘鶏などが文化なら、殺戮を肯定する思想もまた文化なのだから。共産主義、イスラム教、伝統的なアミニズム、それらが混ぜんとなって殺し合う姿、その姿はあの言葉に宿っている。文化とは人間が協同して生きていくために発明された仕組みであるはずなのに、ときに殺し合いを引き起こす原因となるのはどういうわけだろうか?それは、人間が意味に突き動かされる動物だからだろう。そして、そのダイナミズムは個人、組織、そして文化とレベルを横断して働いている。組織もまた意味に突き動かされる。組織研究もついに意味に踏み込むときがきたようである。今こそそれにうってつけの時だろう。いまの日本企業ほど悲惨で物悲しく、どこか滑稽な存在は見当たらないだろうから。
第二回講義 マネジメントとは? ドキュメント『内申書の数量化』『生類憐令』
西本 直人
マネジメントとは何か?これが第二回講義のテーマである。マネジメントと聞いて、私たちがまず思い浮かぶのは何だろうか?どこかの会社の社長さんの顔か、それとも日経関連の雑誌の名前か。まずこの言葉からハッキリさせよう。辞書を引いてみると、名詞の
managementや動詞のmanageにはおおまかに言って二つの意味があることに気づかされる。まず第一に、私たちが真っ先に思い浮かぶ「経営」とか「管理」といった意味。そして第二に「うまくやりくりする」とか「なんとかこなす」といったあいまいな意味である。たとえば、こんな具合だ。She knew how to manage her short-tempered husband. 「彼女は短気な夫の操縦法を心得ていた」。これは驚くべきことではないだろうか。私たちが普段思い込んでいるのは第一のマネジメントで、その同じ言葉の裏にはこんなしゃれた意味が含みこまれていたとは。ひるがえって、○塾のテキストの書名を思い出してみよう。『グッバイ・ミスター・マネジメント』である。もちろんこの書名のミスター・マネジメントとは前者の意味をもじった言葉である。しかし、マネッジという言葉にはそもそもそんなソフトな意味が含まれていたのなら、これは少々皮肉な事態である。
講義では二つのドキュメントからそのミスター・マネジメントの実際の所業を見せつけられた。お犬様で有名な五代将軍綱吉の政策は実は非常に合理的で、近代的な都市設計を彷彿とさせるものだったが、そのあまりのストリクトさ、ストイックさにうんざりされて嘲笑の的になりさがったこと。そして今私たちが生きている現代日本の教育システムのうんざりするような管理統制の実態。この両者に欠けているもの、それはマネッジの裏の意味である。ワイクの言葉に「オーバーマネジメント」というのがあるが、今の硬直した教育システムの弊害を語るのに、この一語以上の説明は何もいらないだろう。
とはいえ哀しいかな、管理の過剰さゆえに事態がさらにこじれて誰も身動きができないようなとき、その管理の張本人がその硬直状態の原因(すなわち自分自身)に気づくことすらないというのが世の常のようである(ここでC.ギアーツの言葉を思い起こされた人は少なくないだろう)。
では、悲惨な現在の中学生事情を再び取り上げてみよう。この間の新聞にこんな記事があった。森田健作文部省政務次官、インターネットで市民の提言に耳を傾ける。森田政務次官のお話、「僕は、有馬文部大臣と違って頭がよくないから、皆さんの声をたくさん集めて勉強したいのです」。正直、お先真っ暗である。あの真剣な男がいまの教育状況に真剣に取り組もうというのである。視界を遮られた競走馬が息せき切って走り続ける姿を連想してしまうのは私だけだろうか。元東大学長の大臣とあの森田健作のコンビ。中学生のため息が今から聞こえてきそうである。オーバーマネジメントの弊害に彼らが気づくのはいつのことだろうか。遠田先生を文部大臣に!ひとつ選挙運動でもやってみたくなる気分である。それともどこかの評論家のように次期総理大臣候補に個人献金でもやってみようか。
第三回講義 ゴミ箱モデル ドキュメント『X社を買収せよ』、映画『12人のやさしい日本人』
古川 肇
ドキュメント『X社を買収せよ』
ミネベアが日本市場で生き残るためには,同社の規模拡大と技術者の増員という二つの要因を満たすことが是が非でも必要であった。その達成手段として同社が思いついたものが,吸収合併による組織変更,つまりM&Aであった。
M&Aは出資比率がものをいう企業社会では“法的には”まったく正しい論理である。しかし法人の合併も人の結婚と同じ,双方の合併意思の合致の下に成立するものである。もっと言えば“割れ鍋に蓋”のようなものであるべきというのが私の考えである。これは別としても,金を払った以上合併する権利があるというような論法は一方的であり,後々不幸を招くことは覚悟せねばならない。法律でいくら形式を整えてもそれは併合といった種類のもので,こうして出来た合併後の会社はいわば“多重人格者”である。
ともかくミネベアの高橋社長はM&Aによる組織変更の手段を選んだ。生き残りのためというが,彼にあえて和を乱すような,しかも普通の日本人の感覚なら“汚い”と感じるような手を使わせたものはいったい何だったのだろうか? それは氏の性格もさることながら,どうやらウオールストリートに象徴される米国流の“競争原理”に興味を持ち,将来日本の企業社会も弱肉強食となり,企業進化の契機はM&Aが主流になるだろうと考えそれならば俺が草分けになってやろうという野心ではなかったのだろうか。
実際彼には,M&A本家本もと米国で,企業買収に手を染め成功したという実績があった。この過去の栄光(?) が過大な自信となり,彼の鼻息を荒くし,日本市場でもM&Aを使えば相手を手込めにできるという“連想ゲーム”に発展したのではないだろうか。
確かに当時はバブルが絶頂期で,M&Aは流行語となりウオール街あたりを闊歩する証券マンは大卒者のあこがれの的であり,これぞ人生の勝者といわんばかりに一世を風靡していた。したがって経営者なら誰でも“彼らの想像力”からしてM&Aを躊躇する理由は乏しかった。すでにありふれた選択肢になっていたのだ。こんなご時勢のときなので高橋社長がM&Aを使おうとしたのは,時代精神からして何の不思議もない。
ただし,彼はそんなにシンプルな男ではなかった。一見シンプルそうにに見せておいて実は一筋縄ではいかないのだ。非常に念のいった男である。後でも述べるが,彼は当初からM&Aには大した信頼を置いていない。むしろ懐疑的だった。彼はM&Aを単なるダミーぐらいにしか思っていなかったフシもある。そう! 別の筋書きがあったのだ。
ところで彼の健康状態はあまり良くなかった。もう先は無いかもしれないという思いが焦燥感をあおり,本当は温厚な彼に一身を賭して責任を全部引き受ける覚悟でこのような“挑戦”をさせたのかもれないが,彼がすでにこの世の人でない以上は知るよしもない。
真相はともあれ,彼はM&Aに着手した。方法はいたって簡単。標的であるX社の株式を水面下で密かに入手し大株主になった時点で,買い集めた株式を法外な値段で買い戻させるか,それとも会社を譲渡するかの選択を迫る,あのいつものパターンである。しかし後述のとおり,日本財界はそんなに甘くはなかった。いくら資本主義社会だからといって米国流の“競争原理”と単一農耕民族の日本社会は企業文化が違うのだ。
顛末は以下のとおりである。買収にあたりミネベアは「蛇の目ミシン」と「三協精機」の二社をX社に選び,それぞれの株式を密かに買い集め始めた。これと並行して,日本の株式市場への参入を望んでいた外資,メリルリンチとロイズ,そしてM&Aのノウハウを求めていたノムラ及び弁護士を協力者に加え,プロジェクトチームを発足させた。
しかし前でも触れたが,これらは協力者に対する表向けの買収計画で,裏には別の筋書があった。高橋社長には大学時代の友人で当時三菱総研の上席ポストにいるA氏がいた。A氏は財界に力があるので,A氏に裏工作を依頼,財界によるX社への圧力も試みようとした。M&Aによる買収計画を“合理モデル”とすれば,後者は“ゴミ箱モデル”(cf.ワイク/遠田理論)と言え,両ルートはX社買収という目的において見事に一致している。 蛇の目については,その巨大資本に対し買い占めは至難と気付き,早々に手を引いた。三協精機については,20%のシェアを確保した時点でそれを引っ提げ,穏健に同社の山田社長に合併を打診して見はしたが“経営哲学”が違うことを理由に断られた。三協精機はミネベアの“乗っ取り”が明るみになると株式分割などの方法で徹底抗戦を開始した。同社にしてみれば,取締役という会社の中枢によそ者が割り込むなど“会社個性”に対する重大な干渉,侮辱であり,しかもそれが同業者のエゴイスティックな動機によるものなら毅然としてこれを退けるのが至当であった。
ミネベアにとってさらに悪いことに,ロイズの「大株主が反対しない」という条件の不成就など協力者をつなぎ止めておく材料を欠いたかと思えば,インサイダー取引の疑惑までかけられ,プロジェクトは暗礁に乗り上げてしまった。
A氏の根回しの効果の程については定かでない。番組の構成か,あるいは財界の協定やプライバシーの問題があったのか,同氏に対するインタビューは今一つ具体性を欠いた。しかし全体の印象から,どうも高橋社長にプロジェクトの中止を勧めていたようだ。
そしてというか高橋社長の死去で買収計画は立ち消え(?) になった。彼の寿命がもう少し長ければどうなっていたか分からないが,聡明な社長だけに状況の変化に機敏に対応してM&Aがダメなら他の方法で,と組織変更にそれなりの成果をおさめていたと思う。
思い通りにいかないのが世の常である。しかし虚実あらゆる手を尽くし,自ら火の粉をかぶり,こころざし半ばで倒れた高橋社長はかっこいい。勇敢な指導者だ。いつの時代も次の世代を開くのはこういう男たちではないだろうか。
映画『12人のやさしい日本人』
腹が減れば,感じ方・考え方そして評決も変わる
「沈黙は金」というが,人間は本来話し好きな動物である。会議などで発言を求められればとたんに雄弁になる。しかし主張が一貫しているかといえばそうでもない。それは密室という器の中で,集団の和を乱さないために,あるいは保身のために会話のバランスを取っているからである。悪いことを言い過ぎたかと思えば,今度はそれらを中和するようなことを言ったりする。中には天の邪鬼がいて,人の意見にわざと逆らってみたり,損か得かで物事を図ってみたり,あるいは一時の気分で心にもないことを言ったりする。
これを陪審(・人民裁判。日本には無い)にあてはめると,誰かが発言するたびに,報復感情が優勢になったり弁護感情が優勢になったり,ややもすれば有罪が無罪になったり無罪が有罪になったりする。あいまいな記憶や映像,信条や人情といったさまざまな情報が“想像力”という魔物の力を借り,主観的な基準で言語に置き換えられ,それらがモザイク状に組み合わさり曲解された被告人像が作り上げられていく。腹の空き具合ですら考え方に影響を与えるので油断がならない。その様子をこの作品はコミカルに描いている。
陪審は,ある意味で“殺人装置”といえる。この制度は,審理に一般市民の法感情を採り入れ裁判の公共性を期そうというものだが,市民を参加させれば裁判がそれだけ適正になるという保証はどこにもない。むしろ逆の場合だってある。市民に聖人君主など一人もいないからだ。人間は感情の動物であり,考える葦である。時間があれば何かしら考え,しかもそれらは変化していく。このような市民から選ばれた陪審員はそれぞれの価値観に照らし“即答”できる事柄でも,陪審に加わったがために気まぐれが生じ,立場が逆転することだってある。そして終了時間が来れば,極めて事務的に無記名の投票をして退室する。ドラマは爽やかな終わり方をしているが,人民裁判のおぞましさを見せつけている…。
第四回講義 関係説 ドキュメンタリー『熱帯雨林と共生』『人員削減』
長谷川 真紀
今回の授業のテーマは“関係説”についてである。このテーマについて考えるために、『熱帯雨林と共生』と、『人員削減』のビデオを鑑賞した後、お互いの意見や感想を述べ、関係説について話し合った。その際、“共生”という関係と、企業のリストラ、日常茶飯事に行われている人員削減について、主に話し合われた。
ビデオの概要
『熱帯雨林と共生』は、ある熱帯雨林を研究した、京大の教授(残念なことに研究中の不慮の事故で亡くなってしまっている。)のドキュメンタリー番組である。
ここの熱帯雨林には、多種多様な植物が生息し、非常に成熟した生態系を形成している。そしてこれらの生態系を支えているのが、共生という種の生存形態であった。ここでの共生は、私たちが巷で語られているような共生ではなく、誠に厳しい生命と生命の“共生関係”である。
『人員削減』は、バブル崩壊後、厳しい不況に生き残るために、ある二つの企業が採った方針を中心としたドキュメンタリー番組である。
生き残りをかけて経費削減のため、大幅な人員削減に踏み切ったある企業は、その人員削減がまた新しい人員削減を生んでしまうという悪循環に陥り、組織の人間と人間との関係の重要さに気付かず、結局倒産してしまう。他方の企業は生き残りをかけて、目先の経費削減を目的とした人員削減を行うのではなく、まずは自社の経営危機を全社員にはっきりと認識してもらい、社内からあらゆる無駄を徹底的に省くよう努力し、新事業の開発にも乗り出した。経営状況は苦しいながらも企業は存続しつづける。
主題の解説及び討議の概要
今回のテーマである関係説については、テキストの
78〜82ページに載っており、下記「」(カギカッコ)内はテキスト中の文章を引用した。『熱帯雨林と共生』では、「相互依存関係・循環的関係には特性があり敵・味方の区別をあいまいにする」という顕著な例が、熱帯雨林の成熟した生態系に見られる共生関係において明確に見ることができた。
『人員削減』では、経営危機に直面した企業がとった、2つの対照的な行動を関係説で検討できる。ここで導き出されるのが、「組織の中でひとつの変数にこだわることは決してやってはならない」ということと、「大切なのは実体よりも関係であり、集合体が組織としてまとまった行動をどれだけできるかも、基本的には個々のメンバーが相互に培ってきた関係や絆によるものである」ということであり、よって「体のいい人減らしにすぎないリストラやエンジニアリングも、そういったせっかくの自己調整ループを人員削減によってズタズタにするおそれが十分あるので、理に合った合理化策とは思われない」と結論付けられ、ワイク理論を検証することができる。にもかかわらず、実際には、経費削減を理由とした企業の理不尽な大幅な人員削減は日常茶飯事に行われているという意見もでている。
感想
世の中には、人対ヒト、人対社会、人対自然、人対環境など、多種多様な関係・絆が複雑に絡み合っている。
そのなかには、サメとコバンザメのような片利共生の関係や、アリとアブラムシのような双利共生、今回の授業のビデオで見たような共生関係も存在する。
人は、何事もひとりで行えるわけではなく、意識的にせよ、無意識的にせよ、何らかの助けを借りて生きている。当たり前のことだが、日常的な雑多な出来事に紛れて、いちいち普段からそのことをしみじみ感じて、かみしめて生きているのではなくて、たいていはコロッと忘れてしまっている。
私は日頃、様々な社会問題や環境問題について、考えたり、人と話し合ったりする折に、これらの問題を解決するためには、漠然と共生のようなものを想像して、それが社会的・地球的規模で必要なのではないかと話していたのだが、今回の授業で、真の意味での共生という概念を学び、まさに共生という関係があらゆる諸問題を解く鍵になるのではないと、強く感じた。
個々の人間には、感情があり私欲がある。成熟した生態系を持つあの熱帯雨林に在るような共生関係を人間同士で、人間と自然環境との間で、結ぶことはたやすいことではないだろう。そこには想像を絶するような闘いと努力、時間を必要とする。にもかかわらず、もしかしたら人間社会にその共生関係をもつことは本当にはできないのかも知れない。しかしまずは、やってみなければ分からないではないか。――「見る前に跳べ」。とにかく変わろうとするその気持ち、変わろうとする努力。それが大切だと思う。何も思わないよりも、現状から何も変わろうとしないよりも、変わろうとした時点でもう変わっているというと思うから。――「人はイナクトされた環境に適応する」。そして、そのプロセスはこうでなくてはならないというものがあるわけではない。――「必ずしも客観的な
<正解>があるわけではない」。そして目的を達成するための手段にばかり固執し、いつの間にか本来の目的を忘れ、手段が目的と取り違えてしまわないように気をつけなければならない。一つの
<解>に固執するのも危険だ。あいまいな世界はめまぐるしく状況が変化するからである。そうすると結局のところ、何事にも大切なのはバランスではないかと考えられる。
例えば、自分の信念を持っていても、それを貫き通す強靭な精神的な強さを持つことと、逆説であるけれどもその信念に懐疑的であることを併せ持つことも必要だ、というバランス。これも大変大切なことだ。
自らの信念を過信して、ただ盲目的に信じ込むのではなく、ときに改めて見つめ直して、自問自答することも、他人と話してみることも肝要だと思う。そして、もしもその信念に過ちや欠点を見つけたときには、それを素直に認める潔さと、これをプラスに持っていこうとする柔軟な発想も行動力も。
自分なりにそんな結論に辿り着いた次第です。
関 文一
今回の講義は映画の視聴から始まった。
映画『ケイン号の叛乱』:著作ハーマン・ウォーク
1951年出版(1951年ピューリッツァー賞・小説部門受賞)1954年アメリカで映画化、同年日本でも公開大好評 出演ハンフリー・ボガード<主な登場人物>
キース:主人公 士官学校新卒、当初ブリース艦長のいい加減さに反発
ブリース艦長:勝手気まま、乱暴、部下からの信頼は厚い
キーファ通信長:自称小説家、事件が起きると逃げ出すタイプ
マリック副艦長:実直、冷静な判断
クイーグ新艦長:規則一点張り、部下のミスは部下のミス、神経質、人を信じない
映画のストーリーは、様々な事件に対しその対応が非常に分かりやすく語られていた。
事件1:ブリース艦長の指揮する艦は一見規律が守られていない。規律に価値を抱いている者は、ブリース型の管理法(ルース)に納得できず、不満感を募らせる。→キース;不満を抱き、転属を希望、新艦長を心待ちにする。
事件2:クイーグ新艦長は船員のシャツがズボンから出ていた事に逆上。キースに報告書を書かせる。→キース;クイーグの管理法(タイト)への不信感が芽生える。
事件3:演習時にクイーグ艦長自身のミスで事故が生じる。しかしクイーグは責任を隠蔽するために、部下のミスによる事故という虚偽の報告書を提出。→船員達の不信感
事件4:マリック副艦長、キーファ通信長、キースの三人が、クイーグ新艦長は精神異常であると本隊の軍医に相談しようと行動を起こしたとき、キーファ通信長が突如裏切る。→士官相互の不信感が発生。
事件5:冷凍いちごの残りを誰かが食べた。クイーグ艦長は病的な執着心を燃やして犯人探しをする。
事件6:ケイン号が台風に遭遇。クイーグ艦長は指揮をとれず震えている。マリック副艦長はそんなクイーグ艦長に指揮権の委譲を一方的に宣言した。全員無事に生還するがマリック副艦長は反乱罪で軍法会議にかけられる。
これらのストーリーを組織論という視点からみると「二つの管理スタイルを対比的に描いているという点で興味深い。一つは艦長ド・ブリースのあいまいで少々いい加減な管理スタイル。いま一つはその後任の艦長クイーグの規律規律で一点のあいまいさも許さぬ管理スタイルである。いってみれば、前者はルース・マネージメント、後者はタイト・マネージメントの組織である。」(『グッバイ
!ミスター!マネージメント, pp.103-4.』)という事になる。[
視聴後の議論]・「どちらの艦長がルース/タイト・マネージメントに該当するか?」を確認した。
・「理想の上司とは?」→自由に仕事をさせてもらってしっかりと責任を取ってくれる上司等の意見が出た。
・このテーマはそもそもマネージメントとの関連よりも、各人の「性格」やお互いに抱く信頼感の影響について議論すべきものではないだろうか。
[
感想]「いるいる…。うちの上司にそっくり!!」と世のOL達がこの映画を視聴したら必ずそんな話題になったことだろう。ブリース艦長とクイーグ新艦長は全く対照的でありながら、なぜか必ずどの会社にもいる上司のタイプ。もう少しOL達の言葉をかりれば「うちの上司は、毎日手で鼻毛を抜いてるのよね。不潔!!でも急に怒ったりしてそれが結構恐いのね」これがブリース艦長。「うちの上司はね、朝礼の
30分も前に出社を強制させて、話の内容が数字ばっかり。私の席の側を通るだけで鳥肌がたつのよ。」クイーグ新艦長、といったところだろうか。悲しいかなどちらのタイプでも部下からの不満は出る。私事ですが、サラリーマンを
10年ちょっとして10人以上の上司を体験すると、色々なタイプの上司と付き合うことになります。もっとも、先のOLのようにはっきり割り切れないところが辛い。新しい上司が決まると通常業務そっちのけで情報収集に躍起となったりします。やはり、一番のポイントはブリース艦長型(ルース)かクイーグ艦長型(タイト)かです。新しい上司が赴任してきた時、それによって、自分はどのように対応するのか事前に決めなくてはなりません。よくあるパターンはマリック副艦長型です。とりあえず忠誠を尽くそう。でも様子をみて自分の意見ははっきり通そうという立場です。また、同僚や他部署に上司の悪口を触れ回るが、直接またはラインの上司には何も言わないというずる賢いキーファ通信長型もあります。そういう意味で、この映画は管理職としてのあるべき姿を問う事も出来ますが、部下としての意思決定にも参考になります。たとえば、事件6に遭遇した場合、私ならばどのよう行動したかを冷静に考えてみました。沈没の恐怖に怯え、震えてうずくまっているクイーグ新艦長(しかも普段から精神的に不安定)に対し、マリック副艦長のようにわざわざ「規定第
184条により、本艦の指揮をとります」などと言わず、ちゃっかり指揮権だけはいただき、無事生還したときにはクイーグ新艦長に「黙ってますからね」程度の事を耳元で囁いておけばよかったのかなと思います。とはいえ、軍隊では指揮系統をはっきりさせる事は必要な事なのでしょうが…。
青木 雅代
浅尾 美智子
大石 賢代
関 文一
高橋 洋子
野村 修二郎
長谷川 真紀
古川 肇
三木 充子
|
青木さん
一つのストーリーで幾通りもの見方があり、その“意外性”が楽しかった。綿密に計画された中、自滅する姿は結構、滑稽で面白かった。
2.私の現在の環境は経営学とはかけ離れたところにありますが、主婦もまた家庭という名の組織の中で重要な事から些細な事まで様々な意思決定に頭を悩まされる立場にあります。
特に子供の教育や躾に関しては、加速度的に悪い方向に進んでいるこの目まぐるしい社会の中で、子供にとって何が良いか悪いか等は、その場の状況によって180度、いや360度違ってきてしまうと思います。流動的に曖昧に、かつ楽観的に決断してゆく事が最善策だという事をこの塾で教わりました。心配症な私は予測はずればかりで大分ストレスがたまっておりますが、これからはもっと気楽にやりたいと思います。
浅尾さん
1.印象に残ったといえば、久しぶりの視聴覚授業であり、テーマを意識しつつ(家庭にこんな大スクリーンがあったらやはりいいと)面白いと思える映像に高確率で簡単に出会えたこと。理由は映画の感想をもってかえさせていただきます。
中でも、知りすぎた探偵男の崩壊や綱吉の切りこみも面白かったが、やはり最後の『ケイン号の反乱』は印象強い。組織認識と管理のあり方と個々の人々について、本来ならば、経験の裏づけがあって読めるもの、感じるもののはずなのだがそうはいかない。それぞれの(特に軍隊とか裁判という伝統的合理性大前提組織?)理想と現実をおもしろ分かりやすく描いていた。崩壊の原因の一つは一つは、組織にとっても個々にとってもささやかなようで衝撃的なものだ。安直なようだが体裁がいいぶん厄介だ。人はそれをどう受け止めるか。硬直した集団において、その時々のツジツマを合わせるための犠牲はやむを得ない。結果として、映画では彼一人(クイーグ艦長)の人間性だけを原因に片付けなかったところが安心した。さらに、設定が第二次世界大戦時でありながら、こんな空気もあったのかとアメリカ色(いろ)を感じ、登場人物も身近にいそうなタイプと思い描けそうだったりなかったりで。いくらでも安っぽい話になれるのに、分かりやすく飽きさせないで、見る側のツボを結構おさえてくれたりして、ちょっとした場面展開で「へえっー、そうきましたか」と感心させられたりでありました。(そもそもそれが○○のいいところだが:映画という二文字をいれるだけではもったいないので、あえて○○といたしました)映像美に浸るとか、見た後で頭の中が渦を巻いていたり、煙に巻かれるのもいいし、人情どろどろ溺れて涙するのもいいですが、客観的な計算されたスッキリ人間ドラマの痛快さは、かつてのアメリカ映画に見習いましょう。余談だが、ストーリー展開にとどまらず、あの時代にこの映画と、映画製作の背景を考えたりしたら、ゴジラとは絶対に比べてはいけないと思う。最新ゴジラもそう語っているはずだ。
2.面白いものを見ることができたことで十分意義深いのです。日々ぼんやりとしているので、いろいろな人々の意見を聞けたこと(もっと多くを聞きたいが)、このように改まって考えるきっかけを作っていただきありがとうございました。個人的に思うところの、情報の余計なお世話について、講義やビデオを通じても再認識しました。
最後の入谷に向かう地下鉄のポスターに、こんなコピーを見つけました。『何事もなかった 平凡な一日を ささやかにしめくくる。』時節柄かどこの広告かと思いましたら、『神谷バー』とありました。学生の頃、ゼミで飲みに行きまして、誰かが飲んでましたデンキブラン。個人的に劇的であることにとどまれず浮遊する。でしゃばり過ぎる個ばかりでうっとうしい。なんでもありはなんにもないこと。美しく流れないでいる。
焦点のぼやけた課題レポートですみません。
大石さん
「自分は何のために生まれてきたのか。」
「人間はなぜこの世に生をうけたのか。」
たかだか27年しか生きていない自分には、そんなのわかるわけがない。
しかし、人として、人間らしく生きるとはどんなことなのか。
それに関してはおぼろげながらも自分なりの考えを持っている。
人間にしかないもの。
それは(細かいことはぬきにして)大脳であると思う。
足なんて馬のほうがよっぽど走るの速いし、
目だって人間よりよくみえる生物はたくさんいる。
大脳を使って使って使い尽くすことが、人間らしく生きることであると思う。
人間、人それぞれ、快感というものを感じるのは、それぞれ違うと思うが、キャパシティーの許す限りの情報・知識を頭の中いっぱいにつめこみ、それを、あーでもない、こーでもない色々組み合わせ、一つの解を見つけることができた時、それはものすごい快感であると思う。
よく、小・中・高校の勉強は、人生の何の役にも立たない、とする意見を耳にするが、私なりの解釈では、勉強の内容がどうとかいうことなしに、この時期に脳の中にタンスをいっぱいつくっておいて、その引き出しをいつでもスムーズに開け閉めできるよう訓練をし、そして、大脳を使い、解を見つけ出す快感を覚えさせるのではないだろうか。
しかしやはり勉強というものは、試験のためにするものという意識を抱えて行う場合が多いため、いつまでたっても、成績だとか資格だとか、それをねらうための勉強になってしまい、そうではないにしても、生活に通常必要な学問しか考えられない人間が多いのが現実だと思う。
ここでやっと本題に入るが、○塾は非常に人間的な生き方の訓練場であったように思う。
例えば、学問をする場合、一人で何冊もの本を読み、もくもくと一方的に情報吸収するのも一つの方法だが、複数でのディスカッションによる場合、人の意見が出るたび、その意見を吸収し、知識としてふまえた自分の意見を即、要求される。
シナプスの伸びが鍛えられるわけである。
○塾の場合、色々な畑から、年齢も違う人たちが集まり、そこで同一のVTRを見て、それぞれの感性で理論化し、意見を発言する。
○塾は私にとって、結構きつい大脳の体操であった。
と同時に、今まで試験のため、成績のため、資格のためだけにしか勉強というものをしてこなかった自分が、人間として純粋に大脳を使い、前向きに学問に接した初めての場であった。
遠田先生
半年間、塾に参加させて下さってありがとうございました。とっても楽しかったのに終ってしまって、なんだかさみしいです。
先生のお宅までうちから結構近いし、また機会がありましたら、伺いたいと思います。
同封しましたレポートですが、一気に書き上げてしまったので、感性だけが先走り、理論的には何もまとめることができませんでした。(私事ではありますが、10月中旬に修士論文の中間発表があるため、ゆっくり時間をさくことができませんでしたので。)
できの悪い生徒ではありますが、これを機に今後ともよろしくお願い致します。
関さん
1.第3回講義(98/6/20)
・内容
『X社を買収せよ』
ミネベア高橋社長が企業を合併し、事業を拡大してゆく過程を描いたVTRを視聴した。高橋社長はある優良企業の買収に当たり様々な検討を重ねたが結局失敗に終わった。実にドラマチックな展開であった。
視聴後この検討の過程が「合理モデル」なのか「ごみ箱モデル」なのか2班に分かれ検討を行った。「結果が先にあるとはいえない」また実は「予測・評価があいまいである」ということから「ごみ箱モデル」であると結論づけた。議論は白熱した。
『12人の優しい日本人』
12人が陪審員となり、一つの事件を議論してゆく過程を描いたドラマを視聴した。
・理由
『X社を買収せよ』
企業の買収が実際行われている現場を擬似体験できたワクワクした。実に生臭い内容だった。
高橋社長が企業買収に全精力をつぎ込む姿は圧巻だった。この位のバイタリティーがないと企業のトップにはなれないのだろう。
ところで、当時バブル景気と言う事もあり買収=業績・評価UPと言う図式があったのかも知れないが蛇の目の株価が当時300円/株。現在100円/株となり仮に買収出来たとしても今では成功かどうか分からないだろう。
一つのテーマを全く生活環境の違う者同士で話し合う事が非常に新鮮で楽しかった。
『12人の優しい日本人』
これまで3回位観た事もあり内容は十分知っていたが、何度観ても笑えてしまうから不思議な映画だ。我々は人が集まり議論した結果は所詮こんな事で決まるのだという事実をどこかで知っているからかも知れない。私も会社で頻繁に会議に参加しているが、真剣に取り組んでいる姿勢を見せる事が大事な事であって結果はさほど影響が無い事も経験上知っている。
最近、「会議」について思う事だが、議論の本質は決定事項の「責任者」の押し付け合いのような気がしてならない。
2.
・社会人になると同僚と仕事以外の議論をする事がほとんどないのでとても新鮮な気持ちで遠田先生・塾生の皆さんと出会える事ができ実に有意義だった。
・今回、映画・VTRを視聴し議論をさせていただく事によってそれらの「本質」を見抜こうという姿勢が出来てきたように思う。(もっも5回の講義で私自身の姿勢がそんなに変わる訳がないとは思いますが・・・)
・土曜日にもかかわらす酒を十二分に飲み妻からもおとがめが無く有意義だった。
高橋さん
1.ここ数が月あまりに多忙でしたので記憶の鮮度がおちてしまいました。
強いて挙げれば『12人の優しい日本人』です。角度を少し変えれば 正反対の結論がでること。
2.人の考え方は、育った環境、受けた教育、等で性格を形成しているのですから、
違いがあって当然なのでしょうが、同じ場所で、同じ時間に、同じ材料をみても
考え方は千差万別なのだと再認識しました。
私は自分ではごく普通の考え方だと思って発言すると
「そういう考え方もありますかね。新しい意見だ。」といわれ、私の方が「え?みなさんはそうは考えないの?」と驚いたりしました。
何気なく意見交換していてもいろんな見方があり、物の見方の多様さを学びました。そして物の見方には正解も不正解もないのだと認識しました。
「日常の社会生活・組織生活において人の意見は尊重されなければならない。」
これはとても重要なことであることは理解していました。
今回みなさんと意見交換しながら、そのことを再認識しました。
野村さん
1.勘違いと非常に忙しい業務のために講義を2回欠席してしまい、規定ギリギリで卒業させていただいた名誉0期生の私でさえ、どの講義が一番印象的かというのは非常に迷いました。どれも素材の選択の仕方が絶妙というか、それぞれとても印象的でした。「策士、策に溺れる」を地で行ったジーン・ハックマンの『カンバセーション』、「共生」という言葉にこれからの人や企業の在り方を考えさせられた「関係説」の講義ももちろん有意義でしたが、あえて一つというと、最終回の「ルース・マネジメント」の講義でしょうか。
この講義で使われた映画『ケイン号の叛乱』は、第二次世界大戦下の太平洋が舞台です。前艦長ド・ブリースによりルース・マネジメントが行われていた戦艦ケイン号に、ハンフリー・ボガード扮する新艦長クイーグがタイトな管理を行うことによって巻き起こるサスペンスを、仕官の成長なども交えながら描いた秀作です。蛇足ながら、後半の裁判シーンのラストは、後にトム・クルーズ主演の映画『ア・フュー・グッドメン』でも似たところがあり、多分このシーンを参考にしたのではないかと思いました。
私はこの映画を見ながら、以前経営書で読んだ「有機的組織と機械的組織」の理論を思い出しました。これは、バーンズ&ストーカーが唱えた説で、機械的組織は安定した環境の下での仕事に適し、有機的組織は不安定で変化に富む環境の下での仕事に適しているというものです。
しかし、果たして戦争下という状況が、一概に不安定な環境かというと疑問も残りますし、バーンズ&ストーカーの組織、管理に対する切り口も違うようですので、果たしてどのようにワイク理論とリンクするのかという問題はこれからの課題にしたいと思います。
また、勤め人の性なのか、どうしても日頃携わる業務になぞらえて見てしまいました。もし、私の上司がルース・マネジメントな(?)人だったら、自分の能力を信じてくれて、仕事を任されているのだなと思う反面、時にはその姿勢が「放任」や「怠惰」に移るかもしれませんし、タイト・マネジメントの上司なら、規律がとれていいと思う反面、息苦しさを感じ、何かと萎縮してしまうと思います。
やはり、その組織が置かれている「環境」や、その命令、管理を行う人物の「キャラクター」や「相性」が絡んでくると思います。ここが「組織」や「人」を研究対象とする「経営学」の難しさであり、奥の深さなのだと改めて実感しました。
2.先生に近況報告のお手紙をお送りしたのがきっかけで○塾のお誘いを受けたのですが、本当に得難い経験をさせていただいたという気持ちで一杯です。とかく日々の業務にかまけ、流されていた私に「学ぶ」ということの大切さを思い出させ、「大学時代」という本当に楽しかった日々に連れ戻してくれたのが、まさに○塾でした。
初めはどんなことをするのだろうと若干緊張しましたが、遠田先生を慕って集まられた方々はどなたもみな親切で、シャイな私を温かく迎えてくれたことに、本当に感謝しています。
学生時代とは違い、実際に社会に出て業務に携わっている私の意見は、えてして「経営学」からかけ離れ、的を得ていなかったかもしれませんが、立場や環境も違う方々が和気あいあいと、ざっくばらんに意見を交換し合うという環境作りこそが、まさにこの塾の意義ではないかとも思いました。
また、講義の合間に大画面で見る「マイク・タイソン、戦慄のホリフィールド戦」や「ゴジラの初登場の第1作」なども楽しく見せていただきました。
そして、何よりも、肩肘を張らず、気軽な雰囲気で”Easy come, Easy go”な雰囲気が非常に○塾っぽく、気軽に楽しめたことが良かったと思います。
遠田先生、本当に貴重な経験をさせていただきました。本当にありがとうございました。これからの益々のご健康とご活躍を切に祈っております。
最後になりましたが、○塾は永遠に不滅です!
長谷川さん
1.私が最も印象に残った講義は、「最後の講義終了後に行った納会の席での講義」です。それは講義ではないのではないか、とお思いになるかもしれませんが、これもまた、講義の一環なのです。
そのことに気付いたのは、この納会に出た後で、私は、この日まで通常の講義終了後に残って先生と熟成のみなさんと話したことはなかったのですが、「今まで本当にもったいなかった」と思いました。その講義は自分にとって非常に新鮮で、有意義なものであったからです。
実際、この席での話はマネジメントについてだけではなく、かなり極端な日本政治経済改造計画アリ、高齢社会問題と死生論アリ、はたまた新婚旅行の心構えと成田離婚についての鋭い洞察までアリ、話のジャンルは多岐にわたり、私はこの講義で、多いに考え、感動し、笑い、大変刺激を受けました。
講義というのは、気持ちの持ちようでは、たとえ飲み屋さんにおいても受けられるもので、必ずしもあらかじめ限られた空間で行われなければならないものではないのです。そして意外と、そんな意見あそびのような談話の中に、学ぶものは沢山あるのではないでしょうか。
最後に、遠田先生、加藤先生、○塾エレメンタリーコース0期生の皆さん。全五回の講義でしたが、貴重な体験と有意義な時間を、ありがとうございました。
古川さん
1.『ケイン号の叛乱』です。当初、自分に似ているのは青臭い熱血漢キ―スや副長だと思っていたところ、そうではなく見掛け倒しの偽善者(しかし本人は大真面目)クイーグ艦長かもしれないと知り、愕然としたからです。
2.まずのびのびと発言させて頂いたことに感謝します。
意義については二つあります。一つは、コミュニティーが座標となったため、自分の考え方、感じ方が平均から見てどの辺に位置するのか、タカ派かハト派か、オリジナリティー度はどの程度か、知ることができました。もう一つは、普段漠然と思っていることを言語にまとめ、表現することによって、思考を“かたち”にすることができました。
3.余談
“遠田マジック”は健在だった。生徒個人の個性を殺すことなく“メソッド”のみを伝授する。自分の鋳型に嵌め込もうなどとはしない。
三木さん
第4回 『熱帯雨林と共生』、『人員削減』を見て
“共生”、“人員削減”、どちらのテーマも身近でありながら難しく、まとめも感想も書けないままとうとう1ヶ月以上が過ぎてしまいました。
家庭内共生さえも、どうしようかとオロオロしたり身近な社会の助け合いにも巻き込まれるであろう人間関係を考えると尻込みするような、まるで意気地なしの私には重い重いテーマです。
9月6日、日曜日。私は30分のノンフィクション番組を深夜、テレビで見ました。
『託老所 わすれな草 共生の時代に』、タイトルにひかれて思わずの夜更かしです。高知県安芸市にある“託老所 わすれな草”はボランティアの高齢者が痴呆症の高齢者の介護をする民間デイケア施設です。
全国平均よりも20年も早く高齢化が進む安芸市で、高齢化問題に取り組むグループの発展のなかから生まれてきました。
介護をする人の平均年齢は69歳、介護されている痴呆症の人よりも高齢の人も多く、若い人が介護をする公的なデイケア施設とはかなり様子が違います。
お年寄りの寄り合いの場といったあたたかさを感じます。
驚いたことには痴呆症の進行が抑えられているのです。
私がよく耳にする話では痴呆症の人を、家族のやむない事情などでデイケア施設やショートステイにあずけると逆に痴呆症は進行してしまうことが多いそうです。
痴呆症は介護される環境に病状が大きく左右される病気ですが、わすれな草で介護されている人々の笑顔には、よく痴呆症の人が見せる不安、いらだち、猜疑心といった表情は見えません。
そして、介護しているお年寄りも、おそらく大変であろう介護を楽しむ生き甲斐を感じているようです。
たった1ページのレポートさえ書けずに、1ヶ月もボーっとしている私はテレビを見ながらドキドキしていました。
資金難、介護保険法とのかねあい、法人化等、問題は多いのですが、83歳になる代表の女性は病身でありながら自分の命よりも、その問題を解決することが大切だといいます。この代表の女性の熱意が“わすれな草”を運営するボランティアグループをまとめているのでしょうか?
人を集め、組織を作り、活動を始め、運営する、と思うだけで困難なこれらの作業をどう乗り越え対処しているのでしょう。
そう遠くない将来高齢者になる私は、年をとったら友達と一緒にグループホームを作って仲良く生活できたらいいね、と時々話し合います。
高齢者グループホーム、文字通りの共生です。
現実に実行しようと思えば、それこそ乗り越えなければならない多くの問題に、私と友人は立ち向かい続けることができるでしょうか?
老いてゆくとき、人はいろいろなものを失っていくといいます。
仕事、収入、社会とのつながり、家族、体の自由・・・。こうして書くだけでは理解できない、現実の高齢者の不安を感じる感受性が今の私には欠けています。
その今の私には共生するよりも、個々で生きるほうがずっと楽なのです。
でも、熱帯雨林の生物たちが、共生することで厳しい生存競争の世界を生き抜くように“わすれな草”の高齢者たちは共生しているのでしょうか?
不安だから、心細いから、それだけで集まっているとは思えません。
介護する役目を持つことで生き甲斐を感じ、人とふれあうことを楽しみ明るくにぎやかに生きています。
介護される側も、介護する側もお互いを必要とする“わすれな草”は、当然のことながら一方は生き甲斐を、もう一方は温かい介護をと互いに利がある共生です。
その意味で熱帯雨林の生物たちの共生と通じるものがありそうですが、人の共生は明るくするも暗くするも支えるスタッフ次第です。
組織は?運営は?とそこに思いが及ぶと、やはり私の頭はすこし重くなります。
○塾の0期生としてきちんとレポートをと思いながら、まるで関係のないテレビ番組について書き続けているのですが、私にとって最も大きな意義はこんなふうに色々と思いをめぐらせるようになったことです。
○塾でドキドキしながら過ごした時間はそのときだけではなく、日常生活の様々な場面で私に影響してきます。
まるでささやかな私の脳のなかで広がる思いを書き尽くせないことが残念です。
次回の○塾をとても楽しみにしています。
ありがとうございました。
遠田 雄志氏に
「我々は人間より不幸である。人間は河童ほど進化していない」
(芥川竜之介「河童」)
よう、しばらくぶり。いやいや、ひまつぶしにビデオをみていたところよ。そう「赤い河」だよ。若いのにこんな映画よく知ってるね。なんといってもジョン・ウェイン、男の中の男だねえ。
え、景気。まずまずだね。新製品も悪くはないしね。
せんだって、また学者さんのご一行がフィールドワークとやらで、おいでになったんだ。わしらは着替えてテント村まで出張って行って、盛大に焚き火をしてカリブーの骨焼きを焼いて食わせながら例のヨタ話「わしらの祖先は目が三つある鷹だった」なんて話をしてやっていたんだ。そんな時若い学者の一人が「あんたらはこのカリブーを猟に行く時どうやって今日行く方角を決めているんだ」なんてことを聞くもんだから「我々ナスカピインディアンはその問題に対して、乾燥したカリブーの肩甲骨を火にかざすことによって答えを出す。骨が熱くなるにつれてヒビや染みが現れてくるが、それを長老、すなわち私が“読む”ことにより、方角を決めているのだ」と答えたやった。やっこさんいたく感心したようでその場でパソコンに打ち込んでいたっけ。笑っちまうだろ。
ところがそいつ、あるいはそいつの仲間かも知れないが、ニューヨークでその事を本に書きよった。なんと「ナスカピインディアンのカリブーの骨を使った意思決定は“ランダム化”を究極まで追求したものでそれには16もの利点がある」と言ったんだ。わしも話を聞いて驚いてNYの知人を通じてその本を取り寄せてみたんだ。そこには「新しい顧客や新工場の立地をどこに求めるかを決定するのに社長がカリブーの骨を焼いているとして、この社長の組織が、これらの事案を決するきわめて合理的な計画を用いる組織とくらべて、何ほどか劣っているだろうとは言いきれないのである」とまで書いてある。これには正直参ったもんだ。
ところが世の中にはもっといかれたやつらがいて「そのカリブーの骨が欲しい」などというやつが出てきたんだ。そこで商品化委員会を開いて検討して新製品を作ったってわけよ。
M先生ご推奨の“究極の意思決定”グッズ
「ナスカピインディアンの門外不出の秘跡“カリブーの骨”」
(完全滅菌済み肉なりカリブー、魔術にて封印の箱入り)
300ドル(送料別)
ドル(送料別)
箱かい、そこらに積んであるだろう。それよ、三つ目の鷹のゴム印押してあるやつ。ネット通販にも載せたりして、まあそこそこ売れとるわけよ。まあ、骨は裏の斜面にいっぱいちらばっとるし、風化も進んでるんでそれを放り込んでるわけ。かあちゃんの“笑うかわせみ”も裏が片付くんで喜んどるしな。
ところで今日は何持ってきた。どっちみちろくなもんはないだろうて。え、おうあれはまあ役に立っとるなあ。カリブー探索用衛星モバイル・ナビゲーションシステムはなあ。
来る
12月12日(土)1期2回目の授業終了後、5時ごろより、
“年忘れ 名画鑑賞会”を
行う予定です。
第一回上映作品は、日本映画の最高傑作、
成瀬巳喜男監督『浮雲』
です。奮って御参加下さい。
なお、入塾希望者は下記塾長あるいは塾頭の
Tel & Fax
でその旨お知らせ下さい。
塾長 遠田 雄志
03-3876-4961 (Tel & Fax)塾頭 加藤 敏雄
03-3774-0908 (Tel)
編集後記
機関誌、会報、その名称はとにかくとして、一冊の本を作るとはどういうことなのか。我々の誰もが本作りなどしたことがなかった。考えていても仕方がない。そこで、先ずは“見る前に跳べ”の精神を体現する形でこの機関紙が誕生しました。刊行にあたって西本直人さんは、編集に、誌面のレイアウトに、原稿の打ち直しに、そして印刷関係者との交渉などまで一人でこなして下さいました。ご苦労とよきセンスの所産が形になりました。それにもまして0期生の皆さんのレポート・小論文が光ります。何かを学びとろう、何かを創り出したいというメンバー全員の意志とご協力があったからこそ、この本が創り出せたのです。
また松岡さんの投稿になるショート・ショートもこの機関紙の厚みをつけました。皆さんに感謝!
この機関紙は単なる記念品的な「モノ」にはしてほしくないというのが刊行に僅かでもかかわった者としての願いです。これがひとつのきっかけとなり、メンバーの間で新たな議論が沸き起こったり、新たな相互作用が生まれてほしいというのが期待です。
なお、皆さんにとってよりよき機関紙とするため、ぜひ忌憚のない建設的なご批判、ご意見をお寄せ下さるようお願いいたします。
(編集長 加藤敏雄)
○塾機関紙 創刊号 (非売品) 1998年12月1日発行 発行 遠田雄志 〒111-0031 台東区千束 2-19-2 Tel & Fax 03-3876-4961 編集 ○塾機関誌編集委員会 編集責任者 加藤敏雄 印刷・製本 ○塾機関誌編集委員会 |