心得その1:「科学」と「人文」

仮にテーマとして、 というのを考えます。勿論、これは「良いテーマの例」として出しているので はありません(ここでは、あくまで論証の仕方を考えています)。
これは、具体的な疑問文の形をしたテーマですから、何らかの答えが存在する はずです。
では、どうやって答えを出したらいいのでしょうか?

先行研究(=過去に他人が既にやった研究)が2つあって、それぞれ以下のよ うなものだとします。

先行研究その1の結果と先行研究その2の結果は、お互いに矛盾しているわけ です。
この矛盾を解決する(第1、第2に代わる)第3、第4の仮説として、 以下のようなものが思いついたとします。 第3、第4のどちらであっても、矛盾は解決します。つまり、その1、 その2の「事実」を両方とも統一的に説明できる(予測できる)。
しかし、先行研究において調べられた「事実」からは、第3と第4のどちら が正しいかは決定できないわけです。

そこで、自分で実験するとします。
まず、背が高くカラフルなクラスI、背が低く黒い服のクラスJを用意 します。そのどちらで石川が怒るかを調べます。
第3の仮説が正しいなら、石川はIでは怒り、Jでは怒らないはずです。
一方、第4の仮説が正しいなら、石川はIでは怒らず、Jでは怒るはずです。
実際に調べてみたら、石川はIでは怒り、Jでは怒らなかったという事実が観察 されたとします(事実その3)。
するとこれは、第3の仮説の予測通りですが、第4の仮説の予測には反します。
つまり、石川は背の高い人間が嫌いなのだと考えられます。
ゆえに、「石川は背の高い人間が嫌い」という結論が出せます。

この例では、まず、上記のようにテーマが非常に具体的な疑問の形とな っています。
また、様々な客観的「事実」を並べ、

によって、様々な仮説の優劣を比較して、ベストの仮説を自分の主張として います。

ここで特に、

ではなく、 に基づいて仮説の優劣を論じていることに注意してください。
実際に卒論を書く時、色々な人が書いた文献を読み、色々な人の説 (仮説)に接することでしょうが、 と途方に暮れてしまう、というパターンがよく見受けられます。
これは、上記の「人文的」やり方でそれぞれの説を比較するからです。
上記の「科学的」やり方をとれば、それぞれの説の優劣は決められるはずです。

なお、以上の結果から「仮説その3」が絶対に正しいと結論できるわけで はありません。なぜなら、

事実その1のみを考えていたら、 仮説その1が間違っていることはわかりませんでした。
更なる事実(その2〜)を考えて初めて、 仮説その1の間違いがわかったわけです。
ということは、仮説その3だって、更なる事実(その4〜)を考えたら、 「実は間違っていた」ということになる可能性がある。
上記の結論は、あくまで ということに他なりません。
つまり、仮説3は、「絶対的な真理」ではなく、 (仮説4よりすぐれているという意味での)「相対的な真理」です。
一般に、「絶対的な真理」は人類には(数学以外では)到達不可能です。

科学の世界に「証明」や「立証」は原理的にあり得ません。

卒論でも、「仮説4」のような「攻撃対象」を作って、 「それよりもオレの仮説の方がすぐれているぞ」とやらないと、
自分の説の根拠づけは難しいでしょう。

心得その2:特に意味関係のテーマの人のために

意味関係のテーマにした場合には、上記の「人文的」やり方に陥りがち ですが、
さらに、「翻訳の罠」にも陥りがちです。以下、「翻訳の罠」について、 少し解説します。
2.1 はじめに
以下の4つの「疑問」を解くことを考えます。 疑問3はひとまずおいといて、疑問1〜2を考えます。

以下のような論調が、卒論にしばしば見られます。

こういった、「別の言語に訳すことによって意味を分析する」という発想は、 根本的に間違っています。
これが間違っていることを、以下、2つの方法で示します。

2.2 循環論法
まず、疑問1について言えば、 ということが観察されたわけですが、ここでは、 という前提をおいて、はじめて、ここから という結論を導けるわけです。

ところが、さらに色々な例を考えてみると、上記の「前提」はとんでもない 結論を導き出してしまいます。

(3a-c) の英訳として、それぞれ、(4a-c) が可能です。すると、

となります。この「観察2」を上記の と組み合わせると、何と、以下の「分析2」が出てきてしまいます。 「〜しそうだ」や「〜する」に進行の意味があると言う人はいないでしょう。
すると、ここから、上記の前提は間違っているということがわかります。

上記のような前提は、

という形をしています。そしてこの「前提」は、 Bという言語の表現の意味の分析をするに際して使われている。
でも、Bの表現の意味についての分析が必要なら、 Aの表現の意味についての分析だって必要なんです。
上記にみたように、 英語の be 〜ing が正確にどういう意味なのかということ自体が難しい。
それだけで卒論なんて1つや2つ書けてしまう。
それは、 日本語の「〜ている」がどういう意味かについて卒論が1つや2つ書けて しまうのと同様。

つまり、ある1つの言語(英語?)のある表現の意味分析がテーマなら、
それを別の言語(日本語?)に訳すことは何の役にも立たないのです。
(「理解=訳」という、 中学校や高校で植えつけられた誤解が大きいんでしょうが……。)

2.3 翻訳先の言語によって分析が変わってしまう
さらに、上記の「訳すことによって分析」という発想で疑問3〜4に取り組むと、
その発想がいかに間違っているかがもっと明らかになります。

この発想で疑問3を考えると、姉の時も妹の時も sister と言う のだから、

ということになってしまう。さらに、「日本語に訳す」のではなく「ドイ ツ語に訳す」という発想で「分析」をした場合には、 という結果が出て来る(ドイツ語の Schwester は、 英語の sister と同様、年の上下の区別をしない)。
英語の分析をしているんだから、正解は1つのはずです。
でも、結果3(意味は2つ)と結果4(意味は1つ)は食い違っている。

2.4 まとめと正解
要するに、我々がある言語表現の意味分析をする時というのは、
より正確に言うと、表現の使い分けの規則を明らかにしようとしているわけです。
「〜ている」や「〜た」の場合は、例えば、 ということを考えているわけです。
それぞれの言語は、ある違いは重視してそれに応じた表現の使い分けをやり、
別の違いは無視して表現の使い分けにはその違いを反映させない。
疑問3の場合で言えば、sister にしても、「姉」「妹」にしても、 誰かある人Aを規準にして、
その人と親が同じ女性Bをあらわす表現です。
その上で、英語の sister の場合は、 一方、日本語の「姉」、「妹」の場合は、 一方、英語も日本語も、Aの性別は無視します(Ken と Naomi の2人にとって Arisa が姉ならば、
Ken から見ても Naomi から見ても、Arisa はsister または「姉」です)。
ところが、Aの性別まで重視する言語 (e.g., Korean) の場合、 Ken から見た時と Naomi から見た時の Arisa の呼び方が違う。

be 〜inghave 〜ed、「〜ている」や「〜た」といった、 もっとややこしい表現についても、事情は同じです。
テンス(時制)やアスペクトに関して、 ある言語はある違いに応じた表現の使い分けをして、
別の言語は別の違いに応じた表現の使い分けをする。
そして一般に、言語ごとに、どういう違いに応じた使い分けをやるかは、 異なっている
(無制限に異なってるわけではないでしょうが)。

例えば、英語の単純現在形と単純過去形を中国語(北京語)に訳すと、どちらも 同じ文になってしまう:

(5) においては、 「今/以前/来年」の違いは下線部においてのみあらわされており、
動詞の部分「工作」はまったく同じ(例文は、木村 2006:46 より)。
これは、英語が重視する違いを中国語が重視しない、ということですね。

まとめると、日本語は日本語として、 英語は英語として分析しないといけないわけです。

参考文献表
木村英樹. (2006). 「持続」・「完了」の視点を超えて――北京官話における 実存相の提案――. 『日本語文法』 6(2):45—61.