<「イギリスと環境研究プロジェクト」第9回研究会報告−その2−
 
Arankun
 
 地理学の研究者として沖縄に赴任し、そこで風水の思想に出会った目崎さんですが、そもそも風水とは何か。そして、なぜ沖縄なのか。
 目崎さんが本プロジェクトに献本下さった著書の1冊(「図説風水学」東京書籍(1998))をひも解くと、「風水」には、明確な定義があるわけではない。風水の概念は、時代とともに、また地域ごとにも、大きく変わってきた。(中略) 現時点では、紀元前からの中国文明の中で、その土地での自然・環境観やそれと対応した生活術の経験則を、さらに時代とともに蓄積し集大成させた体系を「風水」と捉えるのが、一番妥当だと思われる。
とあります。とりわけ、山や河といった、地域の環境に影響を大きく与える要素を地勢学的に把握し、それらの諸要素を生活圏にうまく取り込んで調和していく、というのがもともとの風水の考え方と言えます。その意味で「風水」の思想は「地理学」と重なる部分の大きいものでもありますし、「環境学」と近いものでもあります。しかしながらまた、その曖昧さと経験則に基づく点が「風水」を科学、学問と捉えられることを遠ざけている要因かもしれません。実際、日本で「ドクター何某」といったテレビタレントが活躍する場を与えられてといったことなども「風水」の「怪しさ」を増幅しているのかもしれません。風水イコール中国式占いと思っている日本人だってたくさんいるのでしょう。
 しかし、そういった風水ブームもむしろ歓迎すべきこと、と目崎さんはおっしゃいます。どのような形であれ、風水に関心を持つ人々が増えることは、最終的には風水の思想を広めることになる、とのこと。それをポピュリズムと捉えるか、開かれた学問を志す研究者の一般的な態度と捉えるか。
 風水の語源についても、正確なことはわかっていないそうですが、目崎さんは、古代から中国にあった風、水、土の自然観に由来するものと考えています。前掲書より引用すれば、中国など東洋の漢字文化圏では、人間を取り巻く自然環境を表すのに、古来より「天地」と表すほか、特に日本では「風土」や「水土」などと記してきた。天地は、天と地との自然を二元論的に捉えたものであるが、風土や水土は、風、水、土と自然を三元論として認識したものである。それはまた空間を、上下関係で、天地は二層(二圏)構造で、風水土は三層(三圏)構造で表したものと、理解できる。
すなわち、「風」とは大気圏であり、「水」は河海などの水圏、「土」は地形・地質などの地圏である。同時に、風は気体相、水は液体相、土は固体相と、物質の基本的三相を表した分類法をとっている。この三つを組み合わせた熟語から、「風水」ばかりか「風土」「水土」の用語が生まれたと考えられる。その土地の地理、自然、環境を表す言葉として、「風水」をはじめ「風土」「水土」が、独特の意味合いを持って使用されてきたのである。うーん、なるほど。フンボルトと相通じる(らしい)。
 「風水」という言葉が広がったのは、地質的に見て花崗岩類が分布する東アジアの一部であり、沖縄を含む中国華南から台湾、朝鮮半島一帯の季節風(モンスーン)地帯です。水に囲まれた日本では相応する言葉として「風土」が用いられてきましたし、比較的平坦で、山河といった「風水」の基本要件である地勢条件をそれほど重視しない中国大陸の内部では「水土」が一般的でした。これらの用語の使われ方の違いはそれぞれの土地の自然条件の違いによる訳です。環境学がグローバルな視点(地球環境問題)と同時に地域的な差異を重視(地域環境問題)しているのと同様の視点でしょうか。
 ただ、その呼び方に地域差はあるにせよ、風水の思想の最大の特徴は、「自然と調和して生きる」という東洋の思想を基盤にしているということです。そしてそれ故に風水の思想は地球環境全体を扱う思想ではない、という点を目崎さんは強調します。風水では、大地を母なるものと考える地母思想、たとえば、「気」の溜まる「山と平地が、母親が両膝を伸ばして体を起こしているような地形」(女性の性器を連想させる地形)が出生を意味するという意味でよい場所として求められ、死後は母親の体内に帰るという意味で女性の腹部、性器を模した墓が造られてきました。風水の思想を大学の講義や講演で語ると、女性からの反応が圧倒的に多いとのことですが、何かしらこういった部分とも関係あるように思われます。
 そして目崎さんが赴任した沖縄は、母胎を模した亀甲墓のある、そしてモンスーン地帯のまさしく正統派の風水の土地なのでした。中国との歴史的な関係から、日本を経由しないで直接「風水」の思想は沖縄に伝わっていました。最近でも、沖縄では「環境」と同義として「風水」が使用されているとのこと。いや、そもそも「環境」という言葉は沖縄には本来存在せず、「風水」が「環境」を意味していた、というほうが正しいようです。
 ただ、目崎さんらの精力的な活躍で今日世界的にもある一定の地位を得ている「風水」の思想も、1975年の沖縄赴任当時では学問や科学といった認識はなく、民間信仰といった扱われ方でしかありませんでした。目崎さんにとってもそうでした。しかし、赤土の流出や珊瑚礁の問題などフィールドワークを重ねるにしたがって、「風水」の思想を咀嚼しなければ、沖縄の環境問題は理解できないものであると目崎さんは思い知らされていくのでした。造林にせよ、治水にせよ、家屋の築造にせよ「風水」にしたがって生活圏域の設計、保全がそこではなされていたからでした。空港や港をどこに造るか、都市計画をどう立てるか、というようなことも全て生活に根付いたものとしての「風水」の考え方が反映されているのです。それは例えば、首里城の復元においてそういった事情は世に知られるようになりました。また、目崎さんがその主要関係者として関わり続けている石垣島の新空港建設問題での地元の反対派の「風水」的(=環境学的)反対の理論的根拠、あるいは米軍の普天間基地の移転問題など、
 大きな政治経済的問題も絡む環境問題を論じる上でも沖縄の「風水」を理解せずには済まされないという事情がそのことを物語っています。沖縄の言葉では、方角の「北」のことを「西(ニシ)」と言うそうです。北半球では、基本的に家屋敷は南向きに開かれた形で建てられます。そして、北からの寒風を防ぐために、北には山を背負う、あるいは造林することがなされます。これは「風水」の考え方の1つの根幹でもあります。と同時に、歴史的に培われた生活技術という点でも当たり前のことかも知れません。では、なぜ「北」が「西」なのでしょうか。「風水」の概念で冷たい風が吹き付けて来るのは「北」だけれども、実際はモンスーンは「西」から吹くからでしょうか。自然方位と民俗方位の違い、つまり地域の生活の中で日常的に使用される方角の概念は必ずしも自然界の科学的なものとしての方位とは一致しない、に由来しているのでしょうか。いや、ただ単に沖縄の言葉で「北」を指す言葉がニシと発音され、日本との歴史的な関係の中でその使い方が混乱している場合がある、ということなのでしょうか。あれれ、頭がこんがらがってきました。アルコールが入っていて(レポーターのことです)、目崎さんのお話ここの所ちょっと分からなくなってしまいました。
 しかし、実は目崎さん自身、この方角「北」「西」の問題に1つの決着をつけるのにしばらく時間を要したようです。レポーターの推測ですが、明治から昭和にかけて日本語の起源をアイヌ(蝦夷)、沖縄、朝鮮半島を含むフィールドワークによって追いつづけ「東洋語学」を確立した金沢庄三郎の次の分析に、目崎さんは何れかの時点で遭遇していたに違いありません。すなわち、「ニシ」は「イニシ」の語頭イが脱落したもので、「イニシエ(古)」と語源が関係している。時間を表す言葉が空間に転用されたもので過去の場所を示しており、古代日本においては「西方」から人々が移り住んだため「西」をニシと発音し、沖縄では「北方」から人が移り住んできたため「北」をニシという。
もともと自然地理学者の目崎さんが、ここにいたって、方位方角や「気」象学と関連の深い「風水」、そしてその「風水」を育んできた日本や沖縄を含む中国文化圏の地勢、地理や歴史、さらに地理学の一分野である地名学とも関係の深い言語学、方言学、言語地理学の分野に傾倒していくことになったのではないでしょうか。
 それらが統合され、新しい学説が生まれる契機となったのが1986年の三重大学への赴任でした。