講演の記録
  

 またまた講演の記録です。

 今度は、今日の「教育改革」問題について、東京都立学校教職員組合が主催した学習会の場でのものですが
 主催者の方がテープをおこしてくれましたので、ここに全文アップします。
 
 2001.12.22




新自由主義と新国家主義の教育改革
 
 
ご紹介をいただきました法政大学の児美川と申します。 いま東京で起きていることを固有にどうとらえ、それにたいして、私たちはどうしたらよいのかという点については、後半で山田さんのほうから展望のあるお話が聞けるかと思います。ですから、私のほうでは、東京の動向ということに限らずに、いま日本で進んでいる「教育改革」と言われる動きが、どういう本質をもったものであり、これがそのまま進んでいくと、いったい日本の教育と学校はどうなってしまうのか、というあたりのことをお話しできればと思っています
 
 
 
1 上からの「教育改革」の現段階
 
 
まずは、上からの「教育改革」の現段階をどうとらえるかということです。冷静に考えてみると、「新自由主義」と言われるような政策原理に基づく教育政策に、文部省じしんが実際に着手しだしてから、現時点では、たかだか一〇年かそこらしか経っていないんですね。(新自由主義というアイディアが出たのは、もう少し古いのですが。)でも、ともかくも、その新自由主義なるものが、現在では教育現場にたいしてものすごい猛威を振るっていて、従来であれば日本人が当たり前のように思い浮かべることのできた学校像、《学校というのは、およそこういうものだ》という日本の学校のかたちとでも言うべきものが、いま急速に崩されてきているということがあります。 そして、もう一つ、とりわけこの二、三年の間には「新保守主義」−「国家主義」と言ってもいいですし、「大国主義」と言う方もいらっしゃいますが−の動向が、急速に強められてきているという現状があります。この二つの動向を押さえておくことは、今日の上からの「教育改革」の本質的性格を考えるうえでは不可欠なものであるわけですが、以下、順に見ていくことにします。
 
   教育政策における新自由主義の覇権
 
 

一つめの新自由主義ですが、まずはこの用語の含意を確認しておきましょう。

 新自由主義というのは、ご存じのとおり、もともとはマクロ経済政策の領域で登場してきた言葉です。「新古典派」経済学の教えに忠実な経済政策を示すための概念だと言ってもいいのですが。ごく大雑把に言ってしまえば、いままでの福祉国家をつくってきたような、国家がある程度まで市場に介入する形で、市場をコントロールしていくという施策を放棄して、経済活動に関しては、国家介入をできるだけ排して、徹底して市場に任せようという政策です。ですから、そういう出自からすれば、本来は社会保障とか福祉とか教育という領域には入ってこないはずの原理なんですね。けれども、それが、教育であろうと福祉であろうと社会保障であろうと、ともかくもすべて市場原理に任せてやってしまえ、というふうに進んできたのが、現在の新自由主義の猛威であるわけです。

 その結果が、教育の世界にもさまざまな形で現れてきているのですが、同時に、一口に「新自由主義」と言っても、そこにはいくつかの意味あいのが派生してきます。

 一つは、市場原理ですから、当然、競争です。競争原理の導入ということです。《競争による活性化こそが、これまでの硬直化した学校教育を変えていく最大のテコである》という認識のもとに、学校選択や学校評価、いろいろな形での学校間の競争が仕組まれます。そして、学校間競争だけではなく、教師間にも競争を持ちこんで、政策側が思うとおりのことをやる教師、上の方を向いた従順な教師を作ることがめざされます。

 二つめに、子どもたちには、能力主義をより徹底していくということです。それは、これまでの日本の学校教育が曲がりなりにも守ってきた「教育における機会均等」−より積極的に言えば、教育の平等ということになりますが−を放棄していくということにも帰結します。教育コースや学校制度を大胆に複線化して、一方でのスーパーエリート・コースから、他方での《それなりの教育でいい》というコースにまで、差別的に分けていくという原理になるわけです。

 市場原理あるいは新自由主義というのは、当初、福祉国家にたいする、保守派の側からの「攻撃」として登場してきたものです。ですから、従来の福祉国家が保障してきた福祉や社会保障や教育に公的な財政支出をするということは、新自由主義の政策原からすれば、できるかぎり抑制するということになります。公教育費支出の抑制、これが三つめです。公教育にかかる支出はできるかぎり削減し、それで足りなくなった分は、「受益者負担」でまかまうということになります。これは、同時に、教育内容の面での条件保障、公的な保障の切り下げという点にもつながっていきます。

 四つめは、規制緩和です。市場原理をフルに働かせて、学校間・教師間・子ども間で徹底的に競争させるためには、学校や教師や子どもたちが「創意工夫」して競争できるための「自由」が必要です。そのためには、競争を妨げるような規制は、緩和しなければならないというわけです。

 ただし、です。一般的には、「規制緩和」というと、学校の運営や教育実践が、従来よりは自由になる、これまではできなかったこともやれるようになる、といったイメージがあるかもしれません。しかし、新自由主義が進める規制緩和というのは、《規制を緩和して自由にやらせる部分はつくる。ある種の裁量は与える。けれども、そうしてやらせてみた結果については、行政や国家がきっちりと評価をして、その評価に基づいてコントロールをするよ》というものなのです。《きちんと結果が出れば、それでいいけれど、出なかったら、責任をとってもらうよ》というのが、新自由主義が求めるところの規制緩和の論理です。要するに、「自助努力」や「自己責任」論と、明確にセットになっているわけですね。と同時に、コントロールがなくなるわけではないのです。ここが、重要です。

 新自由主義について研究している欧米の研究者たちの中には、「新自由主義国家というのは、《小さくて強い国家》である」という規定の仕方をする人がいます。「小さくて強い」というのは、ある意味では形容矛盾しているようにも思えるのですが、でも、そうなんですね。国家の役割は、確かに縮小するんです。必要な公的保障の役割を放棄するわけですから。けれども、その国家は、評価ということを通じて、結果としてのコントロールを続けていくわけです。だから、強いんです。強力な国家です。

 あるいは、新自由主義国家については、「evaluative state(評価する国家)」という規定の仕方もあります。まさにそうなんです。従来の国家によるコントロールは、「こうやりなさい」「ああやりなさい」と、いちいち指図をして、そのとおりにやらせるという形でした。新自由主義の国家は、すべてにわたって「こうやりなさい」「ああやりなさい」とは言わない。「自由にやっていいんだよ」と怪しげに言います。けれども、そうしてやってみた結果については、強烈に評価するわけですね。そして、その評価をするときの「基準」を、国ないしは行政が握っているんです。だからこそ、間接的ではあるけれども、自分たちの思っている方向にものごとを進めることができる。新自由主義というのは、そういう原理なのです。

 競争原理の導入とか平等の放棄とか、そういうことも、もちろん新自由主義を見るうえでは大事なことですが、現状の日本のような段階にまできた場合には、とりわけ評価というのが、すごく大きいものであるように思います。いま「アカウンタビリティ」という議論も出てきていますが、いままでの学校教育では、学校が、親や子どもにたいして直接に「説明責任」を負うということをきちんとしてこなかったきらいがありました。だから、そこのところをうまく利用して、アカウンタビリティに引っかけながら、行政側が評価の観点や権限を握っていくというやり方は、すごく通りやすいわけですね。親や子ども、地域住民の側からすれば、行政が後押ししてくれたおかげで、学校のことが見えるようになった、という構図になるわけですから。それで、全体としては、教育政策の側の思う方向に、学校の改変を進めていくといったことが可能になるわけです。そのための強力な武器として、「評価」が使われるということがあります。

 では、いまお話したような新自由主義に基づく教育政策が、実際にこの一五年ほどの間にどんなふうに展開してきたのかという点に移りたいと思いますが、これは、先生方のほうがよくご存じのことばかりだと思いますので、ごく簡単な流れだけを追っておきます。

 新自由主義という政策原理は、臨教審のときに初めて、教育政策のアイディアになりました。ただし、当初は、いまだアイデアにとどまるという側面が強かったように思います。確かに、臨教審後、大学の設置基準が緩和されて、大学間の競争は一挙に活性化しました。高等教育のところでは、文部省はすぐに政策化に手をつけたんですね。しかし、小・中・高については、そうではなかった。あの当時はむしろ、初任研を導入したり、教員の資質の問題がクローズアップされたり、学習指導要領における「日の丸・君が代」の強化だとかといった具合に、いろいろなところで、かえって管理統制を強めるようなことをやっていたんですね。

 それが大きく転換しだしたのは、一九九〇年代の初め、おそらくは「新学力観」が出たころだろうと思います。同じ時期の第一四期中教審は、はっきりと「形式的平等」からの転換ということを宣言してもいました。そして、そうした教育政策の路線転換を公的に表明しはじめたのが、九〇年代の半ばです。第一五期の中教審からは、明らかに《小学校・中学校・高校も新自由主義で行くぞ》というふうに、文部省じしんが舵を切り直したということです。「新学力観」が「生きる力」というふうに言い変えられ、中高一貫とか、飛び入学とか、学校制度の複線化に手をつけるような政策、あるいは通学区域の弾力化とか学校評議員、授業時数と教育内容を削減する新学習指導要領などが、この時期以降、次々と登場してきたわけです。学校統廃合が、自治体レベルでの教育政策において、現実的に計画化されはじめたのも、この時期になるわけですね。

 そういう意味でいうと、一九九〇年代半ばが転換点なんですね。その時点から数えて現在まで、実は一〇年もたっていないんですよ。一〇年もたっていないのに、教育の世界には、ものすごく激しい変化が訪れた。いま冷静に立ちどまって、振り返ってみると、日本の学校の姿と言えるもののかなりの部分が、すっかり様がわりしてしまったと言えるように思うのです。

 そして、二〇〇〇年の教育改革国民会議です。国民会議じたいは、一方では非常に復古的な側面をもちましたけれども、新自由主義をさらに進めるという方向についても、いくつもの提言が出されました。習熟度別学習をどんどん入れるとか、中高一貫は学区の半分ぐらいにするとか、飛び入学については大学院も含めてもっと規制を緩和するとか、コミュニティスクールの提案とか、さまざまな施策が並べれました。それがまた、二〇〇一年の通常国会での教育改革関連六法案を皮切りに、次々と具体化されようとしているのが現状なわけです。

 
   新保守主義(国家主義・権威主義)の台頭
 
 

ところで、こうした新自由主義に基づく教育政策と並んで、ここ数年、「国家主義的な、あるいは権威主義的な体制づくり」とでも呼んだらよいような施策が、着実に進められてきているということがあります。教育改革国民会議の提言においてひときわ注目を集めたの奉仕活動の強制という問題などは象徴的だと思いますが、道徳教育を強化するとか、出席停止の措置の要件の明確化とか。これらは、子どもたちにたいして、規律重視の姿勢で、徹底的に押さえ込もうとしながら、《それでも言うことを聞かないやつは、容赦なく排除する》という姿勢を明確にしたものです。「日の丸・君が代」などを中心に、これまでの教育政策においても、もちろんこうした強面の統制、コントロールという側面はあったわけですが、ここ一、二年のそれは、とりわけ際だっているというか、あえて言えば、突出しているように思います。

 考えてみれば、子どもたちをどうコントロールするかということにかんしては、戦後の教育政策は、これまではずっと一貫して、基本的には「競争の教育」という手法で、つまりは《競争して頑張ったら、それなりの見返りがあるよ。だから、言うことを聞きなさい》という方式を基本としてきたと思うのです。けれども、いまや、「競争の教育」では、子どもたちを押さえられないんですね。上位二〇%ぐらいまでの子どもたちなら、いまでも大学受験に向かって必死になっていますから、成績とか偏差値で管理することもできるでしょうけれど、それ以外の大多数の子どもたちは、もうそれでは動かなくなっているわけです。競争で何とかしようというのは、もう通用しないんです。

 では、どうするのか。そこで、あらためて持ち出されてきたのが、規律とか道徳、そして《それでも言うことをきかないやつは、排除する》という考え方なのです。

 新保守主義、あるいは権威主義の強まりという点では、学校内の管理運営体制も、この間、ドラスティックに変化してきます。この点は、先生方のほうが日々実感されていることだと思うのですが、学校内の権限のほとんどが管理職に集中し、教員にたいしては「校長のリーダーシップ」のもとでの忠実な職務の遂行を求める。東京都などは、すでに人事考課も始めていますし、国レベルでも、「指導力不足」教員を教職以外に配置転換きるといった体制も整えられました。学校運営にかんする集権的な体制が、どんどん出来上がってきているのです。

 こういう権威主義の体制をつくっていくときに、そのための精神的な支柱、あるいはイデオロギー的なバックボーンになるものが、まさに国家主義的なナショナリズムです。「日の丸・君が代」は、戦後一貫して支配層が強調してきたことではありますが、国旗国歌法以降は、向こう側は、異常なほどにこれに執着しています。職務命令はおろか、言うことを聞かない教員には処分も辞さないという構えです。「日本人としてのアイデンティティ」というのは、現行学習指導要領でも強調されていますけれども、新しい学習指導要領になれば、それが、手を変え品を変えして、もっと強く出てきます。教育基本法改正がついに中教審に諮問されましたが、それが「愛国心」問題などを中心的テーマの一つとして念頭においたものであることは確かなわけです。

 私自身、いまいちばん問題であるし、危機的であると感じるのは、向こう側は、《いまならいける》と思っているということなのです。

 
 
 2 支配層のもくろむ「教育改革」の構図
 
 お話してきたような意味で、一方で新自由主義が教育の世界を制覇してしまったかのような状況であること、他方で権威主義あるいは国家主義的な施策が強力に出てきていること、この二つの流れを押さえたうえで、現在、支配層の側がどういう「教育改革」の構図を描いているのかを考えておくことが大事だろうと思います。彼らがもくろんでいる「教育改革」の構図とは、いったいどんなものなのか。新自由主義と新保守主義とは、それぞれどういう関係に立つのかということでもあります。 
   後戻りできない新自由主義「改革」
 
 

注意しておきたいことの一つに、この一〇年あまりの間に彼らが強力におし進めてきた新自由主義改革が生み落とした諸矛盾は、いまでは、すでにいろいろなところに露呈しだしているということがあります。ですから、この段階では、新自由主義的な改革を一時的にストップする、あるいは進めるペースを遅くするということも、政策側の選択肢としてはありうる、論理的にはありうると思うのですが、どうもそういう気配にはなっていません。どんなに矛盾が出てこようとも、どんなに反対の声が強くなろうとも、とにかくこれまでどおり、新自由主義改革をやり通すという姿勢です。小泉首相がいまでも威勢がいいのは、《そこは、基本的に避けられない》という認識があるからですね。そういう意味で、新自由主義改革は、もはや支配層の側にとっては後戻りできないものになっているのです。

 では、なぜ後戻りできないのかということですが、いくつかの理由をあげることができます。

 一つには、一九九〇年代以降、日本の国家財政は相当に逼迫していて、巨額の赤字を抱えているということがあります。もちろん、そのもともとの原因は、利益誘導型、あるいは選挙がらみでの放縦な公共投資をバンバンやり、大企業にたいしても、やらなくていいような援助をし、さらには軍事関係費に湯水のようにお金を注ぎ込んでいるというところにあるわけです。しかし、現在の支配層が、今後は軍事関係費を削っていくとか、選挙がらみの公共投資を一挙にやめるとか、大企業への援助をやめるということはありえない。軍事関係費は、これは現在の日本の大国主義路線ともかかわりますが、今後はむしろ支出が増えていくと予想されるわけですし、社会保障費についても、できる限り削るには削るのでしょうけれども、これから本格的に突入していく高齢化社会を考えると、その分での負担増は見えているということです。

 そういう前提に立って、この逼迫した国家財政をどうにかしなきゃいけないというときには、やはり新自由主義改革で、削れるところを削るしかないという発想になるわけです。医療、年金、福祉、教育。可能な限り、公的は保障水準は切り下げて、新自由主義的な支出削減と自己負担増で切り抜けるという方針がとられています。

 二つめに、規制緩和についての財界の強い要求があります。今後のグローバル・スタンダードの下での非常に厳しい国際的な経済競争──「大競争時代」とか言われますが──に、日本の大企業がなんとか勝ち残っていけるような、そういう国内的な基盤を整えたいということです。それは、端的に言えば、企業が経済活動をするときの国内的な諸条件をできるだけ軽くしておきたいということです。この間、盛んに言われている規制緩和ということの一つの根拠は、ここにあるわけですね。 高度経済成長期までの日本は、「護送船団方式」などと言われますが、《この分野が成長産業である》とか、《あそこの分野にこれから重点的に投資する》といったことを、国家が仕切って決めてきたわけです。けれども、いまや多国籍化した日本の大企業にとって、グローバル・スタンダードにのっとって国際的な競争に参加していなくてはいけない大企業にとっては、《どの産業が重点だとか、どこに重点投資するとかといったことを、国家に仕切られてしまっては、たまったもんじゃない》ということになるんです。しかも、日本の市場には、官庁の許諾権限などとも結びついた実にさまざまな規制がかかっている。《そこをもっと自由にしろ》というわけです。

 規制というのは、もちろん官僚の権限と結びついている部分もあるのですが、同時に、実は私たちの暮らしとか命の安全にかかわるような規制もあるのです。市場にかける規制には、プラス・マイナスの両面があるはずなのですが、そういうものがあると、企業がいろいろな経済活動を行なう際に妨げになるから、プラス面・マイナス面をともに含めて、全部取っ払ってもらいたいというわけです。これが、「規制緩和」の本質です。

 考えてみると、福祉や社会保障や教育という分野は、従来は企業がなかなか参入しにくかった分野です。それこそ規制がかかっていたために、そう簡単には参入できなかった分野なんですね。そこはまだ未開拓であるがゆえに、ビジネス・チャンスである。よけいな規制を撤廃して、もっとそこに企業が入れるようにしてくれという要求も、こうした文脈において位置づいてくるわけです。

 三つめには、企業といえども、法人税とか所得税とかという形で、相当な額の社会的なコストを負担しているということがあるのですが、そういう社会的コストを、今後は、できる限り減らしたいという要求もあります。従来であれば、企業が負担していた福祉や社会保障や教育にかかわる社会的コストのうち、その何割かでも減らしてくれれば、自分たちは国際的な競争市場において優位なスタート地点に立てる、というわけです。

 最後に、学校制度と企業社会との接続のあり方の問題がありますが、教育に固有の問題としては、これがいちばん重要です。日本の学校制度というのは、ある時期までの日本企業にとっては、かなりの程度まで満足できるものであったが、とりわけ一九九〇年代以降は、そうではなくなった。いまや、あまりにも非効率な教育制度であると、少なくとも企業側には映っているということです。

 ごく大雑把に言ってしまえば、日本の学校制度は、普通教育のところがすごく分厚くできています。みんなが同じように小学校・中学校を通って、そして7割以上の子どもは普通高校に進学する。さらに、そこからかなり多くの子どもが、大学や専門学校まで進んで、それから企業に就職する。具体的な労働にかかわる技術や技能というものは、企業に入ってから、企業内教育を通じて身につける。高度経済成長期までは、それでOKだったんですね、企業側としても。その当時の日本の企業からすれば、平均的に能力が高くて、しかも従順な労働力を大量に手に入れることができるという日本の学校制度は、企業側の人材要求とものすごくマッチしていたんです。

 けれども、ある時期以降、大学進学率が五〇%なんて、そんなに要らないと、企業の側は考えるようになった。九〇年代以降は、かなり切実な要求として、そのことを言い出してきました。高校にかんしても、七割も普通科へ行く必要があるのか、ということです。基礎的なレヴェルの技術・技能でいいから、高校段階から身につけてほしい、というわけです。どのみち、労働市場の流動化のなかで、こういう層の労働者は、使い捨てなんだから、ということです。

 まさに、日経連が提案した「労働者の三区分」を地で行くわけです。将来、自分の会社を背負っていくような層は、正社員としての雇用を保障し、企業内教育もする。けれども、この層は、せいぜい二割もいればいい。残りの三割か四割は、派遣社員のような形で、その都度必要なだけ使えばいい。あとの五割近くは、パートでもアルバイトでも充分である。海外に進出したら、現地の労働力のほうがよっぽど安上がりなんだから、もう日本人は要らない、というところまできているんです。ですから、日本の教育制度のように、みんなが平等にかなりの高学歴の段階まで一緒に上がっていくというのはあまりにも「非効率」だというわけです。そのために公的なお金を使って、しかも企業がそれを負担しているというのは、おかしいじゃないかというわけですね。

 だから、こうした発想から出てくるのが、学校制度の複線化なんです。現状よりもはるかに早期の段階で子どもたちを選別して、ある子どもたちにはエリート教育をする。いまは「飛び入学」が大学段階と大学院段階でできますから、徐々に拡大していけば、現状の大学卒業年齢の二二歳で、大学院マスターを卒業するようなスーパエリート・コースも作れるわけですね。小学校での習熟度別学習、六年制中等学校、そして「飛び入学」というのは、エリート養成の三点セットだと思うんです。そうして一部に、そういうスーパー・エリートをつくって、他方では大学ぐらいで終わるような中堅層が何割かいて、あとの人たちはと言えば、従順で−ある人が、「せめて実直さを」などと言っていましたが−言うことをきいて、指示することの中身がわかればいい、というわけです。学校制度の複線化というのは、こういう意味で、きわめて差別的な制度体系になるわけですが、でも、それはまさに企業側の人材要求にぴったりな制度体系であるわけです。

 現在すすんでいる新自由主義的な教育改革の背景には、お話してきたような大企業の要求があって、支配層はそれに沿って進めているという側面が強いのです。ですから、お金の面で言っても、改革の中身についての要求という面で言っても、新自由主義改革は、もはや後戻りできないというわけです。

 
  

 諸矛盾への対応としての新保守主義

(権威主義と国家主義のプロジェクト)

 

 しかしながら、こうした形で新自由主義改革を進めていけば、当然、社会的な矛盾が起こってきて、何らかの形でそれに対応しなければいけないということになります。

 この一〇年間、経済成長率が国際的な水準から見ると落ちたという意味で、「失われた一〇年」という言われ方がしますが、私自身はその「失われた一〇年」という言葉を、私たちの国民生活にとって、この一〇年は本当に失ったものが大きい、という意味で使いたいと思っています。今から一〇年たち、一五年たったら、あのときに私たちはものすごい大きなものを失ったのだ、とわかるだろうと思うんです。現在の日本社会においては、階層分化が相当に激しく進んでいます。そうしたなかで、中間より下の層には、ほとんど「生活破壊」といってもよいような状況や、それに近い状況が出てきています。新自由主義というのは、そういう層に対しても、「自己責任」だと「自助努力」だとかということを強要するのです。《競争に負けたんだから、仕方がないだろ》というのは、新自由主義の本質的な原理です。ですけれども、こんな論理を強要されたら、それこそ社会的に弱い立場にいる者たち、社会的な「弱者」は、たまったもんじゃないんです。「強者」は、それでいいのかもしれません。自分が勝ち抜いて、自分でセーフティ・ネットを張ればいいんですから。そういう意味で は、新自由主義の原理というのは、基本的には「強者」の論理なんです。ただし、誰でもが、全員が、平等に「強者」になれるわけではない、ということろがミソなのですが。

 いま、こういうことが、だんだんと一般の人々にも見えはじめているように思うんです。だからこそ、現在では、新自由主義的な教育改革のプランを示されても、少し前までのように、《ああ、これで学校が変わるんだ》とか《日本の教育界も、古い体質から抜け出して、改善されるんだ》というふうには受けとめない層が、けっこう出てきているんだと思うのです。

 このことは、子どもたちの場合も同じです。「競争の教育」についてくる子というのは、上のほうの二割ぐらいしかいないわけですよ。大学でも、まじめに勉強して、少しでもいい成績をとって、三年生ぐらいから就職活動をして、頑張ってどこかいい企業へ入ろう、などと頑張っているのは、せいぜい二割ぐらいだと思います。あとの七割、八割の学生たちは、《そこまでしたって、どうせだめだろう》と最初から諦めているか、ちょっとやってみるけれども、すぐ諦めちゃうという傾向が圧倒的です。彼らには、痛いほど見えてしまっているんですね。競争主義に乗っていったって、みんなが勝ち残れるわけではない、と。それに、仮に勝ち残れたとしても、それが幸せなことだとは限らない、ということが。

 ましてや高校生や中学生たちであれば、なおさらです。遠い先の、実際にあるのかないのかもわからない「見返り」に向かって、現在を犠牲にしてでも頑張る、などということができるはずがありません。もちろん、まだまだ「競争の教育」の体制にしがみついて頑張るという子どもたちもある割合ではいるわけですし、また、そういうふうに頑張らせようとする政策も次々と出てきています。けれども、そうした誘導が、もはや効かない子どもたちが大量に出現してきているのも事実です。

 そういう子どもたちは、いまの日本社会の閉塞状況の影響をもろに被っていて、自分の将来の見通しが本当に立てにくくなっているし、そもそも自分が大人になっていくというのはどういうことなのか、それが、なかなか見えなくなってきているんですね。それゆえにこそ、さまざまな形での問題行動−と言ってよいのかも迷いますが−が後を絶たないのと同時に、ある種の自閉的な傾向も広まってきているわけです。

 先ほどもお話しましたように、いまの支配層は、新自由主義改革をやめるわけにはいかないんです。しかし、新自由主義をやればやるほど、そういう矛盾が吹き出してくるし、格差が開いてくるし、そこで諦めてしまったり、展望が見えなくて自暴自棄になってしまうような層が、大人にも子どもにもどんどん増えてくるということになるんですね。そこは、支配層としては、どうにかしなきゃいけない。でも、どうすればいいのか。

 日本は、いままで国家的なプロジェクトとして経済成長路線を追求して、その実現の見返りを−その大部分は、大企業の内部留保にいったわけですが、それでも−国民各層にも少しぐらいはわけ与えるという仕方で、ある意味での国民統合をしてきたんですね。経済主義的な国民統合の方式です。事実、一九八〇年代からバブルの頃までは、それができたし、日本人の暮らしは確かに豊かにはなって、誰もがいわゆるさまざまな消費財を自分のものにしてきたわけです。

 けれども、これからは、そういうわけにはいきません。《国家的プロジェクトに協力すれば、それなりの見返りがありますよ》とは言えないんです。だって、「見返り」を得るかどうかは、「自助努力」の結果であり、「自己責任」なんですから。《自分の責任でうまくやった人には見返りがあるけど、そうでない人は我慢してください》という政策原理、これが新自由主義であるわけですから。

 ですから、アメとムチという言い方がされますが、現在の支配層は、アメを配ることはできないんですね。では、どうするのか。《新自由主義によって生じていくる諸矛盾を、強引にでも、力ずくででも、とにかく押さえ込んでいく権威主義的な体制を早急につくってしまえ》、これなんですね。学校運営で言えば、校長が教師たちを押さえ込み、教師が生徒たちを押さえこむような体制を、一気につくっちゃおうということなんです。そうしないと、いますでに顕在化しはじめている矛盾を乗り切れないというわけです。そして、そのときに、そうした権威主義的な体制づくりを支えるイデオロギー部分、その精神的な支柱として、ナショナリズムをもう一回利用しようということです。権威主義と国家主義が結びつくような、近年における新保守主義の猛威というのは、こういう背景に由来していることなんだと思います。

 急いで補足しておきますが、ここ数年における国家主義の昂揚の背景には、いまお話したこととも重なりますが、相対的には異なる政治的文脈ももちろんあります。要するに、現在の支配層には、日本という国家を、国際的にはアメリカと並んで、世界を共同管理していくような大国にしたいという野望が存在していて、そのための体制づくりとしての国家主義的な施策が強められているという点です。日本の大国化を実現するためには、軍事面もふくんで国際貢献ができる国にならなければいけない。そのためには、国民意識においてはいまだに根強い軍事アレルギーをなくさなければならない。そのためには、教育を変えることが絶対に必要なのだという、そういう観点からの国家主義です。

 こうした国家主義は、新自由主義がパートナーとして求める権威主義の役割もきちんと果たすわけですし、同時に、実は経済界などの要求にもかなうものなのです。多国籍化した日本の大企業にとっては、自らが進出した先の地域が政情不安定になったときに、日本という国が、自衛隊ひとつ派遣できないような国であるとすれば、それはやはり困るわけですね。「ハイリスク・ハイリターン」とはよく言ったもので、企業側にとって利益が大きい地域は、同時に危険も大きいわけです。ですけれども、そこに日本の企業は進出していくんです。だからこそ、最終的には自分たちを守ってくれる国がほしいんですね。

 そういう意味で、大国主義的な観点から、強力な日本国家をつくろうという政治的な国家主義は、経済合理的な意味で財界や経済界の支持を集めつつ進んできています。それと、国内的には、現在すでに芽を吹き出している新自由主義改革にともなう諸矛盾をイデオロギー的に押さえ込むための国家主義、これらが重なりあって、現在の状況ができているということです。

 ちなみに言いますが、これは本当に誤解のないようにしておきたいのですが、新自由主義とペアになる国家主義というものは、本来は、いま現在の政策の前面に出ているような、「日の丸・君が代」を真っ正面に立ててやるような国家主義だけではないはずだということがあります。もっと、人々のボランタリズムを利用したようなものとか、「二一世紀日本の構想」懇談会が出した「協治」という概念に基づくようなものとか、もう少し柔らかな社会統合、政治的統合をめざすという選択肢も、論理的にはありうるんですね。だから、現在の支配層の背後にいるイデオローグたちのなかには、そういう社会統合、政治的統合の仕方を構想するような人たちもいるんです。支配層の側の「国家主義」というのも、そういう意味ではけっして一枚岩ではないはずなんですが、ただし、現局面ではどう見ても、「日の丸・君が代」を前面に押し出すような、その意味では非常に古くさいとも言える動きが表に出てきていて、それでなんとか押し切ろうとしているというふうに見えるわけです。

 
 
 

3 進行する「教育改革」のかたち

 

   いくつかの局面の重なり

 
 それでは、こういう意味で新自由主義と新保守主義とがタッグを組んだ教育改革は、いったいどんなふうに進んでいくのかということです。実際問題として、現在進行中の教育改革というのは、、すごく入り乱れた形で進みつつあると思うのです。

 国の政策はともかくとしても、都道府県あるいは市町村のレベルの教育政策を具体的に見ていくと、都教委をふくめて、伝統的な官僚統制みたいなものが、まだまだ根強く残っていますよね。新自由主義の政策原理というのは、先ほどお話ししましたように、本来的には評価に基づくコントロールということなのです。《やり方は自由だよ。自由におやりなさい》と。けれども、そうした学校づくりや教育実践を評価する基準は、行政がきっちりと握っていて、その基準に基づいて評価を行う。だから《失敗したら、それはあなたの学校の責任ですよ》ということになる。学校統廃合も仕方がない。これが、新自由主義による統制なんです、理念型的に言えば。

 けれども、いま都道府県や市町村の段階で見ていくと、たとえば学校間競争をさせたりといった形で、いくつかのところでは、新自由主義的な評価に基づくコントロールという方式が採用されはじめてもいますが、しかし一方では、従来型の、学校運営や教育実践のやり方にまで、いちいち行政が口を出すようなコントロールもいまだに根強く残っています。「伝統的な官僚統制」(@)というやつです。そこに、「新自由主義的な政策」(A)がかぶさってくるんですね。だから、ものすごくグロテスクな形になるんです、日本の新自由主義というのは。《もっと競争して切磋琢磨しろ》とか《自分たちでアイディアを出して、学校の特色化を進めろ》とかと言いながらも、《特色ある学校のモデルは、五つありますよ》といったことを、行政が平気で例示したりする。場合によっては、予算的な意味で誘導したりする、そういう変な形になるわけですね。

 同時に、「新自由主義が必要とする権威主義的な体制づくり」(B)も急がれているわけで、学校でいえば、《学校としての意志決定をするのに、いちいち教職員の合意を図ったりしてはいられない》という構えです。そしてそこに、さらに先ほどから言っている「国家主義的な政策」(C)も重なり、さらに「新しい歴史教科書をつくる会」のような「草の根ウルトラ保守主義」みたいなもの(D)が合流してくる。

 ですから、教育改革の現局面はと言えば、@からDまでが、全部併存しているんです。なかなかすっきりしないのも仕方がないと言いましょうか。

 ただ、ある意味では時期に応じた、政策の重点の移動ということは、あると思うんですね。およそ一九九〇年代前半までは、基本的には@を中心にしつつ、徐々にAに移していこうという方向で進んできたのにたいして、現在は、@はいまだに残っていますが、Aをやった結果として生じてきた矛盾に対応するためにB・Cを強めようという方向に、緩やかながらも重点移動してきているということです。 

   学校と教育のゆくえ

 
 そうした状況のなかで、いったい日本の学校と教育は、どういう方向に変わっていくのか。この点は、私などが言うまでもなく、先生方のほうが実感としてもおわかりだとは思います。

 まず、一つめには、先ほどの支配層の側での教育改革構想からすれば、公教育のリストラが進まざるをえないということがあります。「教育振興基本計画」の制定ということが、教育基本法改正とセットになって今度、中教審に諮問されました。ひょっとしたら、教育についても、ある程度のお金はかけようというスタンスに見えるかもしれません。けれども、少なくともこの一〇年、一五年のタイムスパンで、国レべルでの教育予算の推移を見てみて下さい。政策誘導的で、文部省にとっての戦略的な部分については、予算をどんどんつけているけれども、公教育を普通に維持していくための経常費部分は、逆にガンガン削られています。いまだってそうです。《習熟度別学習をやるんだったら、少人数学級用の予算を出してもいい》といった具合です。これは、都道府県や市町村レベルでも同じで、特色ある都立高校を新たに創設するお金は出てきても、地域に根ざした普通の都立高校をつくると言ったって、予算は絶対に付いてきません。そういうふうに見ると、この間の教育予算というのは、教育政策にとっての戦略的・重点的な領域にはされなりに投資されるけれども、そこを抜き にすれば、明らかに全体として削られてきているわけです。

 もちろん、公教育リストラは、予算が削られるだけではありません。学校統廃合の計画が、東京もふくめて、いくつかの自治体ではすでに計画化されていますし、今後も続いていくでしょう。企業は、いま教育分野に進出したくて仕方がないわけですから、受け皿さえ整えば、民間教育産業がどんどん出てくるということもあります。さすがに私企業が、そのまま学校教育分野に参入してくるというはまずい、ということであれば、NPOのようなものを媒介にして、民間活力を導入するということもあるかもしれません。東京の調布市のほうでは、PFI(Private Financial Initiative)方式というやり方で、小学校を建築するようですが、あれなどは、民間企業がすべてを請け負って、学校建設とその後の施設管理をやるわけですね。市は土地を提供するだけです。あるいは社会教育の分野では、NPO団体に児童館の運営をまるごと任せてしまうといったプランも登場してきています。その場合、行政は、従来であれば七人おいていた職員を、NPOへの委託後は三人にして、四人を引き揚げてしまうというのがミソです。こういうことが、いま現実に起こってきているのです。

 さらに言えば、公教育リストラは、こうしたハードの面だけではありません。教育内容、子どもたちにどういう教育を保障するのかというところでも、公的な保障水準がどんどん後退していくという危険性も感じざるをえないわけです。すでに新しい学習指導要領において先鞭が付けられていますが、一方で、出来る子どもには、どんどん高度な教育を与えても構わないが、しかしすべての子どもに等しく保障する公教育水準は落としていく、といったことが進んでいくのではないでしょうか。

 二つめに、これからの学校、学校像や学校運営のモデルは、明らかに「私企業」になっていくということがあります。意志決定はトップが独占して、一般の教員は、トップが決めたことを忠実に実行するだけです。忠実に実行したかどうかは、人事考課で判断して、それを給与にも反映させる。当然、その忠誠度を競うような競争が組織されますし、それでもどうしても言うことをきかない教師は排除されます。これでは、教師間に「同僚性」などが育つ余地もないわけです。

 ですけれども、そういう企業モデルの学校がつくられようとしているからこそ、企業経営に実績のあるような人を校長に抜擢するといったことができるんですね。学校運営は、企業経営と同じ意味でのマネージメントになっていくわけです。マネージメントというのは、民主的に合意形成をして、その運営や意志決定をしてくということではない、トップダウンで決めるということなんです。だから、「効率的」なんです。かつて熊沢誠という人が、『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』という本を書きました。いま起きつつあるのは、文字どおりに《民主主義は、校門の前で立ちすくむ》なのです。

 もちろん、学校=「私企業」というモデルですから、学校は、教育市場のなかでお互いに競争し合って、どちらの学校が優れているかを、「消費者」である親や子どもたちに判断してもらう、そういう対象になるということにもなるわけです。その結果、親や子どもたちから指示を得ることのできない学校は、容赦なくつぶれていくというのも、市場原則ですから、当然のことというふうになるのです。

 三つめに、教育実践にかかわる問題ですが、教育そのものが、サービスの選択的な消費という形態にならざるをえないということがあります。新自由主義、つまりは市場原理というのは、そういうものとして出てきているわけですから。教育は、サービス商品です。親や子どもたちは、「いまある教育サービスの中から、どれかを選んでいいよ」というふうに、「消費者」として位置づけられているわけです。だから、教職員と一緒になって、学校をつくる、教育の中身をつくるという、本当の意味での教育主体としては位置づけられていないんですね。親と子どもたちにあるのは、あくまで消費者としての権利であって、学校の側は、教育サービスを、まさに教育という商品を提供するということにならざるをえない。

 消費者主権というのは、その反対側に待ちかまえている論理としては、《何を消費したのかについては、自らの選択行動なのだから、その結果は自分で責任をとれ》ということがあります。だから、親や子どもたちは、自らが学校を選んだり、履修する教科を選んだりしたという場合には、それは「自己責任」であるという論理が拡がっていくわけです。

 そういう動向、教育が選択的な消費になるという傾向に合わせようとすると、教育実践はどうしても個別化せざるをえません。今度の新しい学習指導要領では、《一つのクラスの中でも、グループ別あるいは習熟度別、さらに言えば、個別の指導をしてもいい》、いいどころか、積極的に取り入れるべきであるということが書かれていますけれども、それは、こういうことなんですね。《教育サービスにたいするニーズは、一人ひとりの子どもで違うんだから、そのニーズにきっちりと応えるためには、集団での一斉授業なんかやっていられないはずがない。習熟度別にグループに分けるといった形で、ニーズに沿ったきめ細かな教育が求められるんだ》ということです。

 もちろん、こういう新自由主義的な教育実践ができあがってくるところには、同時に、国家主義がかぶさるということはあります。新自由主義というのは、へたをすれば、全体がバラバラになったり、非常に個人主義的になるというところがありますので、それが行きすぎると、国民統合のうえでも支障をきたすといったことにもなりかねません。だからこそ、そこにはバッと国家主義の網をかけて、国民統合を図るという部分については、きっちりと担保しようとするわけです。

 
   「改革」を下支えする社会意識・教育意識
 
 

さて、ここまでのところ、現在の上からの教育改革の動向の否定的な側面、その問題点や批判すべき点を強調するような形でお話してきました。そうした意味での批判を緩めるという必要性は、もちろんいささかも感じてはいないのですが、しかし、そうはいっても、こういう本質を持った新自由主義と新保守主義の「改革」が開始されてから、もう随分と時間が経っているわけですよね。そして、現在でもそうした改変が、平気で進められていて、《構造改革を断固としてやりきらなくてはいけない》と断言している小泉首相が、非常に高い支持率をとっているという現実はあるわけですね。

 東京の教育改革にしても、そうですね。教育現場から見れば、あるいは私のような立場の者から見ても、《こんな悪いものは、こんなに悪意に満ちた政策は、全国どこを探しても、絶対に見つからない》と思うのですが、でもにもかかわらず、それを進めている石原都知事は、やはり都民の間でそれなりの人気を誇っているということはあるわけですね。

 どうして、こんなことになってしまっているのか。こういうひどい「改革」が、なぜ進んでしまうのか。そこのところのメカニズムをきちんと解明しておかないと、そしてそこにどういうふうに風穴を開けるかということを本気で考えていかないと、私たちの側は、ズルズルと陣地を後退させられていくということになってしまうのだと思うのです。

 そのことを考えるとき、私自身が大切だと思っているのは、いまの新自由主義「改革」、新保守主義的な「構造改革」を、言ってみれば、下から支えていくような社会意識とか教育意識というものが、この間の日本社会のなかには確実に登場してきているということなんですね。そうした社会意識や教育意識が、現在の上からの教育改革を支えているし、進展させてもいる力なのだということです。これは、もっと早い段階で何とかしておく必要があったのかもしれませんが、少なくとも現段階でも、そういう構造があるのだということは、きっちりと、冷静に見すえておかなくてはいけない、と私などは思っているわけです。

 「教育改革」にかんして言えば、私自身はたまたま研究者というポジションにいる人間ですので、今日のように学校の先生方の学習会にも来ますし、地域で市民運動をやっているような方々とか、実際に子どもを学校に通わせている親御さんたちの学習会などにも参加する機会があるわけですね。そうすると、いつも感じることなんですが、ちょっと雰囲気が違うんですね。いま進行している教育改革について、教師たちの受けとめ方と、親や市民といった方々の受けとめ方とが。いまの「改革」についての期待と言ってもいいのかもしれません。あるいは、教育改革について、教師と親・市民とでは、見えている側面が違うと言ってもよいのかもしれません。

 教師から見れば、東京などの場合には特にそうなんですが、しだいしだいに管理統制が強められてくる学校のなかにいて、どんどん身動きができにくくなっている。だから、《なんてひどい政策が、次から次へと出てくるんだ》というふうに映っているわけですよね。《こんな政策によって、学校がよくなったり、教育が改善されたりするはずがない》と。

 けれども、親や市民といった人たちの目には、《もしかしたら、これからの学校は変わるんじゃないか》というふうにも映っているんです。現在の教育政策が親向けに、市民向けに言っていること、「これからは公立学校も選択できるんですよ」とか「公立高校だって、特色を持ちます。進学指導に重点をおく学校もつくります」とか「いい加減な先生には、教師を辞めてもらうこともできます」といったことは、宣伝として非常にうまく響くという側面があるんですね。だから、教育改革にどう向き合うかという時に、下手をすると、教師と親・市民とが分断されてしまうということも起きかねないわけです。

 もちろん、そういう親たちや市民運動をやっているような方々も、実態はこうなんだ、教育政策の側のねらいはこうで、それはけっして子どもや教育のことを考えて出てきているわけではないんだ、ということをきちんとお話しすれば、わかってはいただけます。ただ、そういう意味での訴えかけとか、私たちの側からの捉え方が、普通の親や市民のところには十分には届いていないし、広まってもいないということがあるわけですね。逆に言えば、政策の側、支配層の側の宣伝というのは、ものすごい力を持っている。考えてみれば、向こう側は、もう二〇年以上もの間、その時々の「教育問題」や「教育荒廃」ということを巧みに利用しながら、《学校たたき》や《教師たたき》のキャンペーンを張ってきたんですね。それが、ボディーブローのように効いている。いつの間にか、「硬直化した学校」というイメージ、「守旧的な教師」というイメージが、市民社会の奥深くにまで浸透しているんです。だからこそ、「改革」という言葉には、期待がかかるわけです。

 いま言いましたような親たちの「改革」への期待の背景には、もちろんこれまでの学校や教育のあり方への不満が、そういう人たちの間では相当にたまってきているということもあると思います。「すごく熱心な先生に出会って感謝している」とか「いい学校に行けてよかった」とかというふうに言っている青年たちや親御さんたちも、確かにいます。しかし同時に、ある種の不満が、ものすごくたまってきているというのも事実であるわけです。

 いままで日本の教育界では、親や子どもたちというのは、基本的には学校運営のなかで「無権利状態」に近い状態におかれてきたということがあるんだと思うんですね。これが、突き詰めていけば、不満の根っこにあるわけです。

 学校参加や学校運営参加にかかわる教育権の研究という点でも、そうなわけです。欧米の場合には、五〇年代・六〇年代の研究は、教職員の権限をどう確立するかということから始まったかもしれませんが、そうやって教職員の自律性や自治を確保する論理をつくったあとには、子どもたちや親たち、地域の住民たちが、どうやって学校運営に参加するのか、どう学校参加のルートをつくるのかというところに、急速に研究上の関心が向かっていきました。

 けれども、日本の場合には、そうではなかったんですね。不幸にして文部省による悪政があって、教師たちはそこと闘わなければならなかった。親や住民に向けて、学校を開いていくルートをどう開拓するのかという点について、一生懸命に模索するという状況には、残念ながらならなかったわけですね。だから、そのことのツケが、いま回ってきているという側面もあるように思います。

 ですから、労働運動や市民運動などをやられている意識的な親であるとか、市民といった方々と話をすると、こういうふうにおっしゃることがあります。「いまようやくにして、われわれにも教育や学校にかかわるルートと権限が見えはじめてきた。教育政策のすべてに賛成するつもりはないが、それがきりひらいている側面もある。学校の先生たちは、自分たちがいままで守ってきたものを失いたくないんじゃないか。既得権益にしがみついているんじゃないのか。だから、反対しているんだ」と。端的に言えば、学校と教師が完全なる「守旧派」に映っているんですよ。

 こうした事態の背景をもう少し詳しく見てみると、やはり一九八〇年代以降、日本の企業社会が大きく変わって、企業の世界には、教師とか公務員とかという世界よりもはるかに早くから、新自由主義が入ったということがあると思います。そこで働いている親たちからすれば、《いま学校現場で大騒ぎしているようなことは、自分たちは一〇年前、二〇年前からやっていることではないか》という感覚です。

 日本の社会のあり方も、この間ずいぶんと変わってきました。日本的な雇用が解体して、能力主義や自己責任という原理が、いろんな領域に浸透してきましたし、消費社会化が進んでもきました。消費社会というのは、完全なる個人主義です。そして選択の原理です。選択した結果については、自分で責任を負うのが当然です。子どもたちは、幼児の頃から、そういう雰囲気にどっぷりと慣れ親しんで育っているわけです。大人たちだって、しだいしだいにそういう新自由主義的な気分を共有するようになってきました。

 そういう感覚と、いま政策側がやってきている新自由主義的な「改革」とは、感覚としては合うんですね。だから、大学生に「今度、文部科学省がこういうことを出しているんだけど、どう思う?」と質問すると、最初は七、八割方は、賛成だというほうに回るんですよ。彼らの感覚とは、まさにぴったりなんです。《自分だったらうまく選んで、うまくやれるに違いない》と思っているんです。生活の「私事化(プライヴァタイゼーション)」が進んだということも、現在の「改革」を押し進める支持基盤になっているということがあるわけです。

 最後に、もう一つだけお話します。いま大人社会全体がすごく自信を失っていて、日本は今後どうなるんだろうという感覚があります。ですから、「いや、日本というのは、すごいんだ」というふうに、傷ついた心を鼓舞してくれるようなイデオロギー的な言説というのが、通りやすくなっているということもあります。「つくる会」の教科書のときにも感じたのですが、《そんなもの、いまさら》というような、すごく古くさいものでも、何かそこにすがりたくなるような気分が、いまの日本の社会のなかには相当出てきているのではないでしょうか。

 「権威主義的なポピュリズム」という言葉があるんですが、これは、ある種の権威主義体制が、大衆的な人気に支えられて成立するということを解明するための政治学の概念です。開発独裁になっているような発展途上国で、権威的な体制をつくっていく独裁者が、なぜ人民大衆から人気があるのか、ということを分析するためにでてきた概念なんです。だから、もともとは、発展途上国の政治状況を分析するためのものであって、先進諸国と言われている、少なくとも民度の高いはずの国の政治状況の分析に、この概念を使おうなどという研究者は、少し前まではいなかったんです。 ところが、なんです。いまの日本を見るとき、この概念が役に立つということはないでしょうか。いまの日本社会においては、みんなが自信をなくして、《どうしたらいいんだろう》と首をうなだれながら、閉塞感を感じているということがあります。そういう状況や社会全体の気分があるところには、石原知事や小泉首相のような威勢のいい言説をはく人には、多くの人が、何となく期待を寄せてしまうということが起きるんですね。それが、この二、三年の国家主義の強まり、あるいは権威主義の体制 づくりという動きの背景にあるという気がしてなりません。

 

 学校の先生たちの集まりに行きますと、「とにかくいま行政がやっていることはひどい」と、みなさん言います。私自身も、もちろんこんなにひどい政策はないと思っています。けれども、ここが大事なんですが、そう言っているだけでは通用しないんですね。お話してきたような現在の動きの背景にあるもの、背後にある状況にどう向きあい、どういうふうにそれを取り押さえていくのかという、息の長いていねいな議論と取り組み、運動が必要になっているのだと思うのです。これは、気の遠くなるような課題に聞こえるかもしれませんが、そうではないと思います。向こう側の改革にとっても、すでに困難や矛盾は、いたるところに現れはじめているわけですし、ことがらの道理、教育という営みの条理に即して考えれば、未来が私たちの側にあることは確かであるからです。

 最後は駆け足になってしまいましたが、すでに時間がきていますので、私のほうからのお話は、以上で終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

 
 

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