講演の記録
  

 ふたたび、三たび講演の記録です。

 今度は、東京都立学校教職員組合が主催した学習会の場でのものですが
 主催者の方がテープをおこしてくれたものです。謝謝。
 
 2002.12.03




これからの高校教育をデザインする
 

 ご紹介いただきました児美川と申します。法政大学に勤めております。よろしくお願いします。
 
 最初に少しいいわけなのですけれども、きょうの講演のタイトルを教文部長さんと事前に相談するときに、先ほどの委員長のごあいさつにもありましたが、現実に出てきているものを批判するだけではなくて、自分たちがどういうものをつくっていくのか、そこを議論したいのだという話がありました。ですから、ご相談のときには、では、これからの高校教育のあり方をどう考えるか、どうデザインするかということでいきましょうとも申しあげたのです。ただ、結果として、準備してものが今お手元にレジュメとしてあるかと思いますが、その内容は、これからの高校教育のあり方そのものというよりは、今現在、都教委のもとで進んでいる都立高校改革、東京の教育改革の側に話題を相当寄せて、そこにどういう問題をみるのか、そしてそれに対するときに、では我々はどういうことを考えたらいいのかという方向での組み立てになっております。そういう意味でいうと、ちょっと看板に偽りあり、なのですが(笑)。ただし、今の東京の教育の現状ですとか、都教委の改革とは全くきり結ばないところで、これからの高校教育のあり方を理想的、理念的に語っても、それは余りリアリティーがないだろうとも思いましたので、あえて少し現実的なところから考えていきたいということで、準備をさせていただいた次第です。

1. ディストピア?−2011年の都立高校のありうる姿

 では早速、中身に入りたいと思います。最初にディストピアという話です。もちろんこれはユートピアの逆さまということ。あえて日本語にすると、「絶望郷」という訳語があるみたいですけれども、その絶望郷というのが、もしかしたら2011年に我々の目の前にあらわれるのではないか。教文部長さんのお話にもありましたように、都教委が「新配置計画」の案を出してきて、そして「新たな実施計画」のもとで改革を進めようとしています。計画が継続して、最終的に完了するというように想定されているのが、この2011年という年なのです。今から9年後。これは実は、現在の新学習指導要領のもとで小学校1年生となった子どもたちが、ちょうど高校に入る年でもあるのです。

 私ごとで恐縮ですけれども、私のうちには一人息子がおりまして、彼が今、小学校1年生なんですね。ちょうどこの年に高校に入学するのです。そのときに、私自身も親の立場としてみたときに、都立高校はいったいどんな姿に写っているのだろうか。果たして自分の子どもに都立を選んでほしいと思うだろうかと、少々考え込んでしまいます。今度の「新配置計画」ですとか、この間の都教委の政策動向などをみながら考えてみると、それはちょっと、正直に言って、躊躇してしまうかもしれないなという感覚があるのです。そのことを最初に押さえておきたいと思うのです。要するに、今はまだ政策が小出しに出てきていますし、計画の段階でもあるわけです。その意味で、今後の都立高校の姿、都教委が変えようとしている姿が、全体として明らかになっているわけではないのですけれども、これが本当に実現していったら、いったいどんな都立高校ができてくることになるのだろうかという問題です。
 レジュメには八つ書きましたが、恐らくこれだけでは尽きないと思います。でも、最低でもこういう感じになっているのではないでしょか。
 1つ目は、確かに、商品メニューとしては多様な学校があるようになる。6年制の中等教育学校から総合学科があって、普通科があって、その中でも進学指導重点校があって、教育課題校があって、中堅校もあって、エンカレッジがあって、チャンレンジスクールがあってと、それはいろいろありそうにみえる。そうなのですけれども、多様に、いろいろな学校のタイプが並んでいるから、それが個々の学校の魅力になるのかというと、そこのところはすごく怪しい気がします。今の様子をみていても、いろいろな形態の、いろいろな形の学校をつくりますということには、都教委は一生懸命になっていますけれども、ではそこでどういう教育が行われて、その教育の中身にはどういう魅力があるのかということはまったく言われていないということがあるわけです。メニューが多ければいいというわけではなくて、一つ一つの学校が、それ自体で魅力を持っていなければ、だめなわけですよね。どうもそのへんが、ぜんぜん見えてこない。
 2つ目には、今のことと絡みますが、どうもすべてが中途半端というのでしょうか、ある種の「特色化」を図りたいのだなという意図がみえなくはないですけれども、それがきちんと貫徹するような仕組みになっているかというと、そこも怪しい。普通教育として本当にきちんとした教育内容を保障しようとしているのか、あるいは専門教育として、専門性を薄めない形で、それをきちんと保障しようとしているのか。そうではなくて、何となく時代のニーズですとか、そういう表面的なところにだけ意識を向けているようにみえる。親の立場としても、そんな学校に預けて、本当に安心できる内容なのかなあと。いろいろとネーミングが上手だったり、今までにないような形の学校だったりするので、ある種の話題づくりには成功しているのかもしれないのですが、それが本当に学校の「特色」になるようなものなのかも実は怪しいのではないかと思います。
 そして3つ目ですが、学区制が撤廃されますと、これはもういろいろな地域や県で実験済みなわけですけれども、恐らく物すごい「玉突き現象」が起きますよね。地元の子どもたちが、安心して地元の都立の高校に行くということができなくなるわけです。地元の子どもが通わないし、通えない都立高校というのは、いったい何なんでしょうか。
 4つ目には、人事考課も始まっていますし、さまざまな形での教師に対する管理統制が、もちろん研修や勤務時間の規制みたいなものを含めてですが、この間ものすごく強化されています。そういう中では、どうみても都立高校という学校は、そこで働く教職員のやる気が出るような学校にはみえない。先生たちにやる気がない、といっているのではないですよ(笑)。そうではなくて、やる気が出しにくいし、出にくい学校になるだろうということです。
 たまたま先週の土曜日ですが、東京の義務制の方の教研に行ってきました。そこに来ていた品川の先生が、ぽろっとこういうことを教えてくれました。品川というところは、ご存じのような学校選択制だけではなくて、区教委のもとでの「プラン21」という教育改革の攻勢がものすごいところなんですね。それで、その先生が言うには、教員の異動希望で、品川の場合には今年ついに、転入希望者と転出希望者の割合が1対10になったそうなのです。入りたいという教員が数名しかいなくて、数十人が品川からの転出を希望している。この数値は、実は品川区が学校選択の自由化を始めた年あたりは1対4だったのだそうです。そして、その以前、今のような改革の流れが始まる前は、ほぼ1対2でずっときていたそうですから、ここ2、3年の激変ぶりがすごいんですね。さまざまな改革を上から押しつけるような形で進めてきたことの帰結です。だから、品川区のやっている教育改革というのが、父母、市民、区民からどれだけ支持されているのかということについては、もちろんきちんと検証しなければいけないとは思いますけれども、少なくともそれは、教師たちからは圧倒的に支持されていない。こんなところには、もういたくないっていうのが教師たちの実感なわけです。
 やはり、上から強引な形で、締めつけるように無理やり教育改革を実施していくというのでは、どう考えても教師たちに元気がでるわけはないのです。教育改革というのは、本当は、教育の専門職である教職員集団が励まされ、やる気になって、そしてよりよい教育の実質をつくりあげていく、そういうことが大前提になるはずだと思うのですけれども、現実にはそうなっていない。品川区のやり方は、もちろん都教委の都立学校に対するやり方と変わらないわけですよね。そんな状態がこれから9年も続いたらどうなりますか。教職員集団が元気にみえない学校のどこに魅力を感じることができるでしょうか。
 5番目は、教育条件です。この間、規制緩和、分権改革の流れの中で、自治体によっては自治体独自でかなりの財政負担もして、少人数学級を実現する、あるいは教師を加配するということをやり始めています。東京の場合は、決してそういうところにはお金をかけていないですよね。変なところに、ある種の器をつくる、新しいタイプの高校をつくる、そのための設備を、というところには多少のお金を出すつもりはあるみたいですけれども、抜本的に、恒常的な教育条件をよりよくしていくというところでは、一切お金をかけない方針みたいですね。そんな調子で10年もたったら、ほかの自治体と東京を比べたときには、実は東京が一番安上がりに、効率的な教育をやっていて、ほかの自治体の方ではもっと手厚い教育条件で公立学校が運営されている、といった状況がきっと出てくるのではないでしょうか。今は、私立の学校でも、東京の進学校といわれるような学校は、かつては1クラス45人とか50人詰め込んでやってきていたのですが、それではどうもうまくいかなくなっているということがあって、それなりに学級定員を減らすとか、クラス数じたいを小さくするとかということもやり始めているんです。そうすると、そういう動きからも都立高校はどんどん置いてけぼりを食ってしまうということになりかねない。他県と比べても、私学と比べても教育条件の悪い学校というイメージが、これからの都立高校にはまとわりついてしまいます。
 6番目には、先ほどのごあいさつの中にもありましたけれども、やはり都立の魅力である、生徒たちの自主的な文化、自治、自主・独立の精神がどうなってしまうのかという問題です。私などは大学で教員をしていますので、いろいろな県のいろいろなタイプの高校の卒業生を大学に迎えているわけですね。それで、ゼミなどをやっていて思うのは、集団の中でリーダーシップを発揮できる子とか、人のことがよくわかる子というのが、最近ではだんだんだんだん減ってきたということなんです。一方では、本当に自分勝手な子がいて、でも他方では、本当によく気が回って全体のことがわかる子がいてというふうに、分かれてしまうという実感もあります。
 で、そのときになんですが、都立高校の出身の子というのは、かなり全体を引っ張っていけるような力があったりするな、ということを常々感じてきたんです。もちろん全員が全員というわけにはいきませんが、でもやっぱり高校時代に何かやってきたんだな、経験を積んできたんだなと感じさせる子が多い。そうなのですが、今の都立高校改革、都教委による改革の流れにおいては、そういう生徒たちの自主性だとか自主活動だとか、そこで培われる自信や力みたいなものを、どんどん伸ばしていこういう方向には必ずしもなっていないですよね。むしろ、進学指導重点校のやり方にしても、あるいは今後できてくるであろう中高一貫にしても、きっとそういう自主・独立の気風を弱めていく、あるいは押しつぶしていく危険性があるんじゃないだろうかと思うのです。都立高校がもっていた、いい意味での学校文化、生徒文化というものが壊れていくということです。何といっても、都教委の文書には、生徒はお客さんと書いてあるわけで、お客さんは自治をやる必要はないわけですね。与えられたサービスに満足できればいいわけですから。そういう意味でも、都立の魅力というのがなくなっていく。
 そして7番目。公立の学校は税金で賄われているにもかかわらず、来たるべき都立高校の姿からは税金の使い方が非常に不公平にみえます。学校経営計画を立てさせて、そして都教委の中の支援委員会がこの学校は支援するけれども、こちらの学校は支援できない、といったことをやるわけですよね。明らかに公費の使われ方に格差がつきます。そういうことを都民の立場から見ていて、どう思うでしょうか。ここにも問題があるように思います。
 そして最後に、先ほど新保守主義、あるいは新国家主義というお話も出ましたけれども、この間、道徳教育や規範教育、奉仕活動みたいなところでの東京の施策というのは突出しているわけです。都教委が強引につくる会の教科書を採択したということもそうですし、都の教育目標から憲法、教育基本法、子どもの権利条約の言葉をとってしまったということももちろんそうです。あるいは義務制の学校についていえば、道徳授業の地区公開講座というのを全校が必ずやるという計画をいま進めているわけですね。きっと親の立場からみれば、税金の使われ方が公平ではないし、子どもたちの自主性も尊重されない。それでいて、やたらメニューだけは多様にあるけれども、そこにどういう魅力があるのかはわからない。そのときに、一本筋が通っているのは、道徳教育、あるいは奉仕活動の強調であるらしいということになります。

 そもそも教育のことを「経営」や「市場」といった言葉のアナロジーで語るのはよくないと思います。学校「経営」とか、学校の「経営」計画という言葉じたいについても、それは教育の論理ではないと言っておく必要があるだろうと私自身は思っています。そう思うのですけれども、今はちょっとそれを置いておいて、そういう経営という言葉の文脈でお話をしたとしても、こういう都立高校という「商品」は、はたして市場の中で本当に選ばれる対象になるのでしょうか。私自身は、たぶんに怪しいと考えています。少なくとも、今のようなでたらめな改革路線を続けている限りは、ということですが。
 経営の論理でいえば、当然、経営責任をどこかがとるはずなのですけれども、都教委は10年後をめどにこんな都立高校をつくっておいて、それについての責任をとる気があるのか。今、自己責任という言葉がすごくはやっていますが、そのひそみに習っていえば、都教委の責任としての経営責任というのがあるわけですね。都教委というのは、今の段階では、企業でいうところの本社みたいなところです。各学校は支店で、校長はせいぜい支店の長でしかないという体制になっているわけですね。にもかかわらず企業の場合と決定的に違うのは、本社そのものが責任をとる体制ができていないのです。あるいは本社そのものが、今やっている政策がいいのか悪いのかということを、外部から評価されるような機会がないのです。学校に対しては外部評価を導入しなければいけないとか、学校運営連絡協議会をつくらなければいけないということをさんざんいいながら、都教委は自分たちの施策じたいを点検するという活動をしていないわけです。

 これは明らかに、新自由主義の論理、あるいは経営学の論理からしてもおかしいのです。非常におかしなことをやっていて、それも無責任を貫いている。そもそも都教委というのは、どういう都立高校を都民が望んでいるのか、「市場調査」というと嫌な言葉になりますけれども、そういうことをきちんとやって、今の教育改革の全体構図を考えているのかというと、どうもそうではないですよね。思いつきを重ねただけのようなずさんな計画です。けれども、一度変わってしまったものを元に戻すのはすごく時間がかかるし、すごく大変なのです。ですから、完全にそうなってしまう前に、何とかしておかなければならないんです。ディストピアとか絶望郷とか書いたのは、けっして悪い冗談のつもりで書いたのではないんですね。今のままで本当に進んでいったら、そうなってしまう。都立高校全体が、いまお話したような学校にやってしまう時代が来るのではないかということです。

2. 東京の「教育改革」(都立高校改革)の構図をどう見るか

 以上のことを少し念頭に置いておいていただいて、もう少し、現在の都教委の教育改革の、とりわけ都立高校改革ですけれども、その構図を全体としてどうみたらいいのかという話につなげたいと思います。

【基本的な特徴】
 先ほどのお話にもありましたが、今の東京の教育改革の基本的な特徴は、3つぐらいあると思います。1つ目は、国の政策の先取りである、教育でいえば、文部科学省の政策を都教委が先取りをしているという部分はもちろんありますけれども、むしろ先取りというよりは、国でさえも躊躇していることを東京都が大胆にも先にやってしまうということです。本当に「東京から日本を変える」という構図なんですね。人事考課の制度にしても、主幹制を入れるということにしても、もし文部科学省が構想するのだとしたら、いろいろなことに配慮をして、どういうタイミングで、いつ出すかということをじっくりと考えざるを得ないような政策ですね。争点となるイシューなわけですよね。けれどもど、東京の場合には、そういう施策を短時日のうちにスパンと入れてしまう、そこでは誰にも有無を言わせないという、そういう強引さというか、強権的な側面があります。
 2つ目には、もちろん現在の東京都の教育改革は、石原知事の時代に始まったものではなくて、ずっとさかのぼれば、青島も超えて、鈴木都知事の時代に人事政策などの面から着実に布石が打たれてきたというものですね。そういう意味でいえば、決して石原だけが今の教育改革を進めているわけではありません。そうなのですけれども、石原都知事が誕生して以降、やはりすごくピッチが早いという事実はあります。急激に加速しています。そのことはやはり認めておくべきで、それには石原知事の持つある種のポピュリスト的な人気という背景があります。何であの人があんなに人気を集めるのか、あれだけの暴言や失言をしているのに、どうして辞職に追い込まれないのか、不思議でしようがないのですけれども、それでもそれなりの支持率があるわけですね。
 そして、石原になってからは、そういう知事人気みたいな部分とも連動しながら、教育改革や都教委の施策が、きっちりとマスコミに乗るようになってきている。だから、マスコミが上手に利用されているし、そのことによって都民の世論というものが、巧みに誘導されているというところがあると思います。何といっても、あの人に唯一「才能」らしきものがあるとしたら、それはある種の市民社会の気分をつかむのが上手だという点です。何か事件が起きたときに、ぱっとそれをとらえて、だからこういう手を打つのだということをいえる。世間を騒がせる少年事件なんかが続くと、さっとそれを好機にとらえて、だから道徳教育は大事で、東京ではこういうことをするよということがいえる。
 3つ目に、今の東京の改革は、東京という地域の特性をかなり上手に利用している側面があるということもあります。レジュメには1995年の国勢調査から「職業(大分類)」というものの比率を載せておきました。それをみると、要するに、東京と全国を比較すると、東京の場合には明らかに専門技術とか管理とか事務、サービスというところの労働者の割合が全国水準よりもかなり高いんですね。逆に、技能というところに分類される労働者は圧倒的に少ない。あるいはこういう分け方ではなくて、就業形態の分類みたいなのでみると、企業の本社部門に勤めていると分類されるような労働者が、東京の場合には圧倒的に多いのです。当たり前のことかもしれないですけれども、そういう都市なのです。
 だから、「世界都市・東京」というかどうかは別にして、東京という地域には、「強い市民」という言い方がありますけれども、まあ中・上層のホワイトカラーですね、その中・上層のホワイトカラーが、ある程度の厚みを持って居住している。そして、その中・上層ホワイトカラーというのは、ある意味では新自由主義と特徴づけることができる今日の教育改革の論理に親和的な人たちなんです。みんなが平等というよりは、多少の自己責任やリスクを背負ってでも、選択の自由があった方がいいという感覚。実際、こういう人たちは、ここまでは公教育で面倒をみるけれども、ここから先は自腹を切ってやってくれといわれても、経済力の面でもそれに対応できる人たちなわけですから。東京の教育改革というのは、そういう中・上層ホワイトカラーの人たちの意識にかなり訴えるような内容になっているわけです。
 そして、これはかなり重要なことだと思うのですけれども、こと教育ということに関しては、今いった中・上層ホワイトカラーだけではなくて、本当に階層的には真ん中ぐらい、あるいは真ん中より下ぐらいの人たちも含めて、やはり子どもの教育だけは自分たちで何とかしてあげたい、母親がパートに出て、パートの時間を今までよりもふやしてでも何とかしてあげたいという感覚が強いのです。もう少し領域が違うと、そこまで公的な保障を切られたら困るというふうに、不満の声が上がったり、制度への批判の目が出てくるはずのところでも、こと教育ということに関しては、むしろ親が自己責任、家族責任で何とかしようとしてしまうのですね。
 私も知り合いに塾の経営者がいるのですけれども、そこは進学塾などでは全然なくて、地域で本当に困難な子どもたちを大勢引き受けているような塾ですが、その経営者などに話を聞くと、経済的にみれば塾の月謝を払えるか払えないか、あるいは2ヵ月、3ヵ月の滞納は当たり前かなといった層の親たちが、それでも必死になってわが子を塾に通わせるというケースが多々あるといいます。そういう形で、教育については、自己責任で何とかしなければという意識が、中・上層ホワイトカラーはおろか、かなり広範な階層にまで広がっているのです。その部分までを含めてですが、東京という地域の中では、今の都教委による改革を下から支えてしまうような層が、かなりいることは確かなのです。

【「改革」の構図】
 こうした特徴を持った東京の教育改革ですが、改革の全体構図としては、これはもう私などがいうよりは、先生方の方がよほど身にしみて実感されていることだとは思いますけれども、ともかく「不信のピラミッド」というのが前提になっている。都知事に近いところの幹部の人たちは、今までの教育委員会のあり方に対して不信感をもっていたし、教育委員会は学校現場に対して不信感をもっていた。学校現場の中では、管理職は個々の教員に対して不信感をもっている。そういう相手を信用しない、信頼しないという構図です。相手に任せて、励まして、そして改革を進めようということではなくて、むしろ不信のピラミッドに基づいて、全体を組み立てよう、コントロールしよということが大前提になっているわけです。
 そういう不信のピラミッドを前提にした場合には、では、どういう教育改革があり得るのかというと、それはまさに子どもたちに近いところの人間に、より多くの権限と力を与えて、そしてそのための条件を整えて、その人たちに本気で頑張ってもらう、そしてよりよい教育をつくってもらうという、本来の教育改革の筋道ではなくて、子どもにより近いところの人間は信用できない、だからその外側から管理し、コントロールする必要があるという構造のもとで今の教育改革、教育政策が成り立っているのです。ですから、都教委自身が教育改革を遂行する改革主体に躍り出て、そして、そこから命令を発して、すごく強面のやり方で学校と教育の「品質管理」をするという、そういうことをやっているわけです。
 これはもちろん、都教委と都立学校の関係ですけれども、公立の小・中学校の場合には区市町村の教委が間に入りますが、実はそれも構図としては一緒なのです。いま私自身は、国立市の例の「日の丸・君が代」問題とか卒業式後の「事件」をめぐる、その後の都教委による教員処分や国立市内の学校教育に対する改善指導といった一連の事態について調査に入っているのですが、都教委は市教委に対しても、本当に上から物をいうべく指導をして、それに基づいて市内の学校運営についての改革をやらせるということをしているわけですね。ですから、間に区市町村の教委が入る、入らないは別として、形態が違うだけで構図は変わらないのです。とにかく、都教委が決めるのだという姿勢です。これが本当に分権化の時代にすることか、と思うわけですが。
 そして、何をやるかというと、品質管理ですね。品質管理ですから、そのための手法は限られているのです。教師を励まして、頑張ってもらうという意味ではないのだから、結局それは、教師間で、あるいは学校間で競争をさせて、その成果を競い合わせる、そしてその競争した結果については、学校評価や教師に対する評価によってきっちりはかる。その評価に基づいて、またさらなる競争をしてもらう。そういう形でのコントロールを貫こうとするわけです。それは、企業などの商品管理の手法と一緒なのかもしれないですけれども、そういう構図になっているわけです。だから、学校の先生方からみれば、何でこんな細かなことまで一々コントロールして、評価して、そして強制するのかと思われると思いますけれども、逆にいえば、それしか手がないんですね。都教委自身が改革の主体になろうとしたら、それしか手段がないわけです。教職員が改革の主体になるのだったら、もっと違うやり方がいっぱいありますけれども。

 ただし、です。ここは大事なところですが、こういう教育改革の進め方、都教委の施策の進め方というのは、やはり根本的な矛盾を内包しているということがあるだろうと思うんです。
 1つには、先ほどから申し上げていることですが、教育改革のパートナーとして教職員を位置づけることができないということですね。本当の意味での教育改革は、やはり居所職員というところが鍵になる。この間、かなりの年数にわたって、都教委はいろいろな施策を打ち出してきましたけれども、結局のところ、本当に草の根の学校現場のところにまで都教委の意図が貫徹できているかといったら、できていないわけですよね。やはり、それは都教委流の教育改革の構図じたいの弱点なのです。
 アメリカなどでは、チャータースクールが教育改革の切り札のようにいわれますけれども、あれがなぜうまくいくか。私自身は、もちろんチャータースクールについて全面賛成ではなくて、企業などが教育に参入してくる際の格好の受け皿にもなりうる、公費で運営される私企業立の学校ができることに手を貸しかねない制度だという点で、それなりの批判を持ってはいるのですけれども、ただ中には、本当に特定の教育理念にのっとって、市民立の学校をつくる、マイノリティーのための教育をやる学校だったり、学習が困難な子どもたちを集めてきっちりと指導をする学校だったりと、そういう学校があることも確かなのです。そして、そういう学校がなぜうまくいくかというと、一つは、上から特色を押しつけて、これをやりなさいという形をとっていないこと。要するに、ボランティアな改革であるという点。もう一つは、教職員です。チャータースクールは、自分たちで、自分たちの学校の理念に応じて、それを支持してくれる教職員を集めてこれるんですね。教師の側は自主的に応募してくるわけだから、やはりやる気も熱意もある。そういう事情は、きっと日本でも同じなのです。
 日本でいえば、恐らく茅ヶ崎の浜之郷小学校、「学びの学校づくり」で有名になった小学校などが、そうかもしれません。浜之郷がなぜうまくいったのかというと、それは佐藤学さんが指導に入ったからではないですよね。佐藤さんの影響力や貢献は。もちろんあるとは思いますけれども、そうではなくて、あれは茅ヶ崎市の教育委員会が市全体の教育改革のパイロット校と位置づけて、そしてその校長に任命した人に、教員人事についてのある程度の権限のようなものを与えてやったわけです。そして自ら手を挙げた教師たちが赴任してきたのです。そういうやる気のある人たちでつくった新設の学校なのです。それは学校は動くでしょう。
 そういう意味で、今の都教委の改革の構図というのは、教師のやる気を引き出したり、やろうという意欲を高めないわけですから、形式的に学校経営計画をつくらせるとか、外側からの評価を入れるといったことはできたとしても、本当の意味での教育の改革にはなっていかないのです。ここのところは、根本的な矛盾というか弱点だろうと思います。
 2つ目には、何といえばよいでしょうか、要するに「外側からの操縦」ですよね。都教委は、自分たちが教育をするわけではなくて、いろいろな管理や評価の網の目を張りめぐらせて、それで何とかコントロールしようとしているわけですね。だけども、そういう外側からの操縦というのは、どう考えてもある種の官僚主義や教育の画一化しか生まないわけです。それは学校運営についてもそうですし、教育課程についてもそうですけれども、それぞれに競争させて、それについて評価をしようというからには、本当に個々の学校が個性的に特色をもってやっていたら、一律に並べた評価というのが不可能になってしまいますよね。だから、こういうやり方をした場合には、どこかに一律的、画一的な基準が必要になるのです。それはやはり、本当の意味で教育を個性的にして、目の前の子どもたちに合った学校を、それぞれの学校なりのやり方でつくっていくということにはならなくて、むしろ官僚主義と画一化を進めていく。そこにもやはり、こういう改革の構図に依拠することの矛盾がみえてきます。
 3つ目ですが、こういう外側からの強引なコントロール、都教委が改革主体になって教育の品質管理をするというやり方は、先ほどお話しました中・上層ホワイトカラーの意識や感覚とも、微妙であれ、ずれてくる部分があるということです。東京に住んでいる強い市民層というのは、全員が全員とはいいませんが、「リッチ・リベラル」という言い方が当たるかなと思えるような心性を持っている場合が多いのです。経済的には恵まれた層だし、今の基本的な体制についていえば、明らかに体制側なのですけれども、でもある種のリベラルな感覚ももっていて、必要以上に上から押さえつけるみたいなやり方については反発を感じるという人たちです。郊外の新興住宅地などに住んでいる、今50代ぐらいの層というのは、そういう感覚を持っている場合が多いのではないでしょうか。
 彼らは学校選択制のような政策については、完全に賛成しますけれども、都教委がこれほどまでに学校を押さえつけていることを、あるいは学校が子どもたちの進学実績を上げるために、子どもたちをがんがん縛りつけて、受験勉強を強いるといったことをいいと思うかというと、たぶんそうは思わないわけです。自分たちの子どもには、一定の成績をおさめてもらわなくては困るけれども、しかし伸び伸びとした自主性をもってほしいとも願っている。そういう人たちです。そうしたリッチ・リベラルな感覚の人たちと、都教委のやり方というのは、今はまだはっきりしていませんが、いずれずれが出てくるということは、十分にありうることだと思います。彼らは、自分たちが企業などで日々評価されながら生活しているわけだから、教師に対して評価を入れるといった政策については、圧倒的に賛成するでしょう。けれども、日の丸・君が代などでも、あるいは子どもたちに奉仕体験活動を強制することについても同じぐらい支持するかというと、そこはかなり違った反応が出てくるだろうということです。

【それでも「改革」が進んでしまうのは、なぜか?】
 さて、以上の点を押さえたうえでの話ですが、それでも今、東京の教育改革は進んでしまっているわけですよね。都教委の施策が大きく挫折したとか、これこれについてはプランを打ち出すのも断念したというようにはなっていないわけです。それがなぜなのかということも、もう一方で考えなければいけないでしょう。そのときには、先ほどからお話しているリッチリベラルの人たちも含めて、ごく普通の都民が公立の学校や都立高校をどのようにみているかというところが、すごく大事なのではないかと思います。
 端的にいってしまうと、やはり何だかんだいっても、今までの東京の公立学校は、都立高校も含めてですけれども、ある種の教育専門家集団というのでしょうか、教師だけではなくて、指導主事とか教育委員会などを含めてですが、そういう教育専門家集団が自律的に運営してきた。専門家集団が自分たちで決めて、自分たちで運営してきた。もちろん、その専門家集団の内部には、ある種の対立やせめぎ合い、あるいは妥協といったこともあったのでしょうけれども、しかし外から見れば、その専門家集団が自分たちで決めて、自分たちで運営してきたというふうにみえているのは確かです。そして今、これは東京だけのことではありませんけれども、人々の間で不満のマグマがたまっているのが、そういう今までの学校のあり方に対してなんですね。教育の中身をよく知っていて、それに対して批判的だといったことであるよりも、中身はともかくとして、すべてが学校関係者や教育関係者のところだけで決められていて、それが普通の市民や父母や都民というところには十分に開かれてこなかった。そこのところが、不満というか不信というか、そういう感情の大もとになっているわけですし、そのマグマはものすごく蓄積してきている。

 アカウンタビリティーという言葉は、現在の教育改革の絡みで行政の側が出してきた言葉ですので、余り使いたくはないですけれども、でも本来、この言葉は私たちの側が使わなければいけない言葉だったのではないかと思うのです。公教育の学校を担っている者は、やはり担っている事柄について教職員の間で合意形成ができたから、それでオーケーではないはずなのです。そのことをどう都民に理解してもらうかということまでを含んで、学校運営に責任をもつという責任があるはずなんですね。ですから本当は、行政がこうしなさい、ああしなさいという形でアカウンタビリティーという言葉が使われるのではなくて、私たちの側が、自分たちがどういう学校をつくっていくのか、どういう教育をつくっていくかということを考えるときに、つねにこのことを意識しなければならないはずだったのです。
 そういう意味であえてこの言葉を使いますが、このアカウンタビリティーというものが、やはりこれまでの学校運営においては、必ずしも十分に果たされてこなかったことがありますし、同時に、生徒参加、保護者参加、市民参加というところでは、もちろん個々にすごく努力をしている学校だとか、実践的にも開かれた学校づくりの地平を切り開いてきた学校はたくさんありますけれども、しかし全体としてみれば、やはり取り組みが不十分だったのではないか。ある意味では、教育行政の側が上手に目をつけてくるような「膿」というのが、公立学校や都立高校にもあるではないですか。それを何となく放置してきたり、そこに蓋をしてきた。もちろん先生方はそういう意識ではないかもしれないですけれども、都民からみたら、先生たちはなれ合いで放置してきたとみえてしまっている。そういうことがあるのです。
 例えば、指導力不足教員の問題が、この間大きく取り上げられてきました。基本的なスタンスとしては、私は政策の側が出してきている指導力不足教員問題に大反対です。「指導力不足等教員」というふうに「等」というのがなぜか入ってきて、そんなふうにあいまいになればなるほど、ある意味で上からの教員管理の道具として使われるだろうとも思うからです。けれども、普通の親からすれば、何で先生たちはこの問題に反対するのか、やはりなかなか理解するのが難しいですね。普通の都民からすれば、学校にはどう考えても、ちょっと勘弁してほしいと思うような先生がいるというのは常識です。自分たちの学校時代の経験からしても、あるいは親として学校にかかわった経験からも、ちょっと何とかしてほしいという人は、残念ながらいます。でも、そういう現実について、教職員集団はどう取り組んできたのでしょか。何もされずに放置されて、2年か3年ごとに学校をたらい回しのように異動して、それで済んできたみたいな現実がもしもあるのだとしたら、やはりそういうことは、教育行政の側に利用されてしまうわけです。彼らの出してきた施策が、親や都民から支持されてしまうのです。同じようなことは、勤務時間の問題にしても、組合活動の時間の問題にしてもあるわけで、そこのところで、きっちりしてこなかった部分が、いま現在、逆手にとられているということが大いにあるだろうと思うのです。
 教師が本当の意味で専門職になるためには、そういう専門職としての職業倫理というか、自分たちで自分たちを律していくといったものをつくっておかないといけない。そうでなければ、専門職としては評価されないし、社会的にも支持されないと思うのです。本当の専門職集団というのは、ある意味ではすごく厳しいもので、自分たちの仕事の世界に入ってくる新入者に対しては、その人をどうやって一人前に育てていくかという、きっちりとした教育のプログラムをもっていますし、同時に、自分たちの専門職としての仕事の倫理に反するようなことをした人に対しては、場合によっては自分たちの仲間から排除するといった厳しい論理をもちながら、仕事をこなしています。だからこそ、専門職として社会的な信頼をかち得ていけるわけです。弁護士の世界、医師の世界などは、すべてが理想的とは言いませんが、そういう方向をめざそうとしていますよね。弁護士会などは、新人教育のプログラムをきっちり持っているし、不祥事を起こしたような弁護士は会に所属させないという仕組みにを作っている。私は教師というのが本当に教育専門職として社会的に認められるためには、そういう部分が必要だろうと思っています。それは何も、今、政策が出してきている指導力不足教員の枠組みに乗って、あの認定制度でいこうということとは全然違います。でも、教職員集団が、自分たち自身の問題として、どう全体の力量を高めていくのか、問題が生じたときには、どうやって全体として責任を負う体制をつくるのかということはもっと追及されなくてはいけないと思います。
 いずれにしても、いろいろなことを含めて、教職員集団が自律的に決めていく、運営していくという方式について、ある種の国民的な不満というか懐疑というかが、ものすごく高まってきているのが現在です。それは、東京だけではなくて、全国でですが、教育委員会をも飛び越えて、首長部局のところの主導で教育改革が進んでいく根拠みたいなものになっているわけですね、ここをどうしていくかという見通しがないと、いま私たちは本当の意味では行政や政策の側に立ち向かえないと思うのです。

 従来、教育研究の世界でもそうですし、恐らく運動の世界でもそうだったと思いますが、「教育行政vs学校、教師、子ども、保護者、市民」みたいな構図で物事を考えてきたのですね。私なども、大学で教育学を学んで、大学院行ってというときには、必ずこの図式で、上からと下からという対抗図式のなかで物事を考えるというふうに研究をしてきました。けれども、今、ふと気づいてみると、実はそうではなくて、もちろん場面、場面での違いはありますけれども、「教育行政、保護者、子ども、市民vs学校、教師」といった対立構図にみえるような現実があるわけですよね。もちろん教育行政が本当の意味で保護者や子どもや市民の立場に立てているわけでは全然ないのですが、でも構図としては、そういう行政が学校の古い体質や慣行を壊しにかかっているようにみえてしまう。そういうことなんです
 ですから、今のような時代は、教育政策の側が政策を出してくる前に、自分たちの側が対案を実行していなくてはいけないのです。それができないと、なかなか対抗できないと思うのです。たとえ東京の厳しい管理体制のもとであったとしても、自前の実践や学校づくりをどんどん進めていくしかないし、実質をつくりあげておく必要がある。そうすれば、都教委なり市教委なりが、何か施策を下ろしてきたときには、うちの学校の場合には、すでにこういう取り組みをやっているのだから、それでいいですねというふうに切り返していける。しかも、そのことには親や都民の理解も得られるということです。政策を批判するだけ批判しておいて、学校や教師の側では何もしないというのでは、やはり理解は得られません。

3. どのような都立高校改革をめざすか
    −「五つの柱」に即して−

 それでは、お話してきたことを踏まえた上で、これからどういう都立高校像を目指すのかということに進みたいと思います。今回は、せっかく事前に教文委員会がまとめられた「提言」をいただいていますので、そしてそこには、どのような都立高校を目指すかということについて「5つの柱」が載っておりますので、それを利用させてもらって、私なりにどう読んだか、どんなことを感じたかといったコメントをさせていただくということにしたいと思います。

 1つ目ですが、教文委員会の「提言」の柱では、たしか4番目にあるのですけれども、「教育の場にふさわしい学校のあり方、真に開かれた学校づくりを」とありますよね。これは、確かにそうだろうと思います。ただ、資料の@〜Dは、別に順位をつけたわけではないのかもしれませんが、はたしてこの提言が4番目でいいのかということは、率直にやや疑問に思ったところでもあります。
 先ほど申し上げましたが、今の東京の教育改革というのは、どういう構図のもとに進んでいるのか。都民は何に対して不信感や不満感をもっているのか。逆にいえば、学校の内側にいる教職員は、何をこど都民に対して開いていかなければいけないのか。こういうことを考えれば、この柱は、何よりも最優先されるべき課題ではないでしょうか。本当に透明性の高い開かれた学校、都立高校というのは、こんなにも開かれているのだという実質とイメージを、今こそわっと出していくことが必要です。同時に、単に開いていますということだけではなくて、学校づくりのなかに、子どもたちももちろん参加しなければいけないし、保護者、市民も一緒に参加して、ともにつくる学校なのだという方向です。
 要するに、公立学校の公共性というのは、第一義的にはここに求められるべきだと思うんですね。教育内容的な意味での普遍性という問題もありますが、それよりも公立学校なのだから、その学校はやっぱり地元に根ざしていて、そしてそこには地元の人たちが参加してきて、みんなで一緒につくっていける。学校の内側のことが本当にオープンに開かれていて、みんなで議論をすることができる。そういう学校であれば、それは今日のお話の最初にディストピアと称したような、そんな都立高校とは違う魅力が出るのだろうと思うのです。だから、そのことを本当に一番に、組合内部の内向きにではなくて、都民に訴えていってしてほしいんですね。
 もちろん開かれた学校、共同でつくる学校といっても、その中で、教職員の専門性というのはどういう形で発揮されるのかという問題はありますので、何でもかんでも父母や子どもたちのいうとおりにするべきだとか、学校の教育課程や実践そのものについても対等な立場で考えるべきだとか、そんな乱暴なことをいうつもりは全然ありません。教師は、教師という立場で、その専門性をこの共同の学校づくりのなかで発揮していくことが必要だろうと思うのです。

 これは、ある意味でのイメージとして申し上げるのですけれども、これまでの学校づくりでやはり足りなかったなと思うのは、学校の教育目標づくりというのでしょうか、それは憲法・教育基本法とか「人格の完成」とかといったかなり抽象的なレベルの教育目標ではなくて、もう少し具体的に、この学校はどういうことを目指していて、どういう子どもたちを育てたいと考えているのか、あるいは、もうちょっと次元を下げれば、それぞれの教科では、いったい子どもたちにどういう力を身につけさせたいと考えているのか、というところでのアカウンタビリティであり、共同でという姿勢だったのではないかということなんです。私自身は、こういうレベルまでは徹底的に学校を開いて、親の意見、地域の住民の意見、子どもたち自身の意見を聞くべきだと思うのです。もちろん教師が、専門職としての意見を提起することは大いにあっていいわけですが。大切なのは、意見が出しあえることであり、ともに考えるという姿勢です。けれども、そこから先の、そういう教科のねらいや大人たちの願いに即して、例えば授業をどうつくるかというところについては、親は意見をいってはいけないということではないとしても、そこはかなりの部分、教師たちの専門性に任されるということになるだろう、と。
 こういうイメージぐらいのところまでは大胆に学校を開いていくということが必要だと思います。もちろん「提言」には、職員会議を中心として民主的な学校運営を追求しなければいけないということも書かれていますが、それは当然そうです。けれども、何のために民主的な学校運営が必要なのかというと、それは教師、あるいは教職員の権利が守られるために必要なのではなくて――もちろん守られるべきだと私は思っていますけれども――、こういう開かれた学校、父母、市民、子どもたちと一緒につくっていく共同の学校を成立させていくためには、学校運営は民主的でなければならないということだと思うのです。上から、いきなり都教委が方針を決めて、下りてきて、それに従ってコントロールされて、評価されて、管理される。そんな体制では、開かれた学校をつくることはできないわけで、それをつくるためにこそ、民主的な学校運営というのが大事なのだという論理になるではないでしょうか。
 さらに、高校段階でいえば、生徒の参加をどう位置づけるかということはすごく大きな問題だろうと思います。確かに生徒参加などということをいうと、それは進学校だったら考えられるかもしれないけれども、いまのうちの学校の目の前の子どもたちをみていたら、とてもではないけれども、といった反論をいろいろな場でいただきます。実際、目の前にいる子どもたちの実態に即したところから出発しなければいけないというのはそのとおりなのだろうと、もちろん私も思います。けれども、一方でいま、18歳選挙権ということがいわれていて、そして我々はそれを推進しようという立場にあるはずだろうと思うのですが、もしそうだとしたら、18歳選挙権を本気で実現するつもりだったら、高校というのは、もっともっと子どもたち、生徒たちが、自分たちが権利主体としてどういう権利行使をすることができて、どのように全体の決定に参加することができるのかということを、机のうえのお勉強としてではなくて、具体的な経験として積ませていかなければならないと思うんですね。それは、社会参加のような筋道もあるし、学校運営への参加ということもあるのだと思います。本当に、高校時代にそういう経験ができないのであれば、18歳選挙権などというものは、絵にかいた餅にならざるをえません。ここは覚悟を決めて、かからねばならないということではないでしょうか。

 2つ目に、「公立高校としての公共性を大切にし、地域にねざし、生徒が安心して通える高校を」という柱があります。これももちろん大賛成で、そうでなければいけないと思います。そのことを前提にした上でですけれども、「提言」の中では「選択と競争」という政策側に対して、私たち運動の側は「学校の公共性」ということを対置していくのだというようになっているわけですが、その場合の公共性というイメージをどれだけ豊かに膨らませることができるか、そこのところが、かなりポイントになってくると思うのです。
 一番わかりやすいのは、ユニバーサル・アクセスというのでしょうか、地元の学校で、授業料もそんなに高くはなくて、地域の子が本当に安心して通っていくことができる。誰でも差別なく受け入れて、きちんと面倒をみます、と。まあ、こういうイメージの学校をつくることは、もちろん公共性の一つの側面ということになるでしょうし、先ほどお話しましたように、みんなで学校づくりに参加できて、そこに自分たちの意見が出せるんだというように地域住民が感じられる学校、それも公共的ということの内容に入るでしょう。ただ、それでは教育内容に関していうと、どういうことになるのか。実はここが、一番難しいなと思っているのです。
 一方で、すべての都立高校で、子どもたちには共通してこういう力をつけてあげたいという普遍性というか共通性の部分があります。けれども、現実問題として、子どもたちは社会に出ていくわけで、そのときにはそれぞれ違う方面に分かれていくわけです。そのための、今日のような状況の中での社会的な自立を筋道を考えなくてはいけない。こちらは、きっと共通性というよりは多様性ということが必要になると思うのです。主権者になるのに必要な、普通教育を中心とするような力を共通に身につけさせてあげることと同時に、一人一人の生徒の進路を見据えながら、どうやって社会的自立のための力をつけてあげるのか。そうするとここでは、かなり多様な教育の中身をどう保障するのかという問題が出てくるはずです。
 しかも多様な教育の中身ということを、ある種の差別化や、「多様化」政策といわれるうときの「多様化」にするわけにはいかない。今度の「新配置計画」などは、本当に高校をスライス状の層に分けようとしている。レジュメには「層別化」と書きましたけれども、そういうものになっては困るわけです。けれども、そうではない形で一人一人の将来展望をも見据えた教育の中身の多様性というのは、どうやったら保障できるのか。そこのところの問題がきっと出てくるだろう。そしてそういうことを本気で考えていくと、私は、個々の単独の都立高校が、一方では普遍性を追求して、一方ではそういう実質的な、生徒たちの力になる多様性を担うというのは、正直にいって無理だろうと思うのです。無理なことは、無理だといった方がいいというのが、私の考え方なんですね。うちの学校ではここまでは保障できます。けれども、ここから先のところは、学校が提供するのとは違う形でどういう学びがあるかという実質をつくっていく。それしかないのではないでしょうか。今の言葉でいえば、「連携」ということになるのでしょうか。
 私自身は、都立高校は、都立高校間でもっともっといろいろな連携をつくって、自分の学校で保障できること、ここについては別の学校の力をかりなければいけないこと、といったことを明確にすべきだと思っています。そもそも高等普通教育および専門教育を保障するのが、法令上でも高校教育の役割なのですから、総合制高校ではない現在の高校は、原理的に言っても、そうした連携をせざるをえないはずなのです。そして、高校と大学の連携についても、進学校を中心にして、大学側の「青田刈り」に近いような発想で進んでいる現在のような形ではなくて、東京というのは、とりわけいろいろな大学が地域にあるわけですから、大学がもっている豊富な資源を高校の側がどう利用してやるかといった発想で考えていくこともできるように思うんですね。あるいは、もっと地域の中でのさまざまな、人的な資源、施設などを利用するとか。
 愛知の私教連という団体は、高校生フェスティバルなどで有名ですけれども、高校生を育てる学校は二つあるという発想で、ずっとやってきているんですね。子どもたちが通う、校舎があって教師がいる学校と、もう一つは街の学校です。街全体が学校で、そこで子どもたちが育っているんですよね、確かに。私は冒頭で、今の都教委が進めている高校多様化は、本当は中途半端だというふうに言いました。それは、こういう意味でして、個別の高校を一つ一つ違ったタイプにして、そしてその学校だけで教育を賄おうとしたって、そんなの生半可な、薄っぺらなものではだめなんですよね。だから、これはまた、先ほどの開かれた学校における親との共同、地域との共同というのは、学校参加や運営の話だけではなくて、教育の中身づくりにおける共同でもあるということでもあるんですね。

 さて「提言」の3つ目と4つ目の柱ですが、「目の前にいる生徒を大切にし、リベラルな教育を基本とする学校を」ということと、都立高校のこれまでのよき伝統であり、文化でもある「自主・独立の伝統を生かした学校を」というのがあります。これについても、もちろうそう通りと思います。大賛成です。だから、目の前の子どもを大切にする、本当に一人一人に力をつけるとはどういうことなのか、その中身をもっともっと深めなければいけないだろうと思うわけです。
 リベラルな教育という一言で済ませるのではなくて、リベラルとはいったい何だというところから入っていって――もう時間が過ぎていますので細かくは申し上げられないのですが、青年期の子どもたちにどんな力をつけてあげることが必要なのかという、その原点に返ったところから、これまでの教育をつくり直すという発想でやっていかなければいけないと思うのです。その際には、自分ということと、自分が出ていく社会ということと、それから他者の問題ですね。そこのところをきっちり押さえられるような授業であったり、自主的な活動の場であったりというのを、豊かにつくっていくことが大事になっているのだろうということです。。
 都民は、先ほどのホワイトカラー中・上層を含めてですけれども、決してどこかに偏った教育を求めているわけではないんですよね。都立高校が今まで支持されてきたのだとしたら、地域性や学費の問題はもちろんありますが、教育の中身という点でいえば、勉強は勉強でそれなりにやれて、しかし他方で、生徒たちの自主的な活動も本当に盛んであるというところ。それはいってしまえば、ごく普通の学校なのかもしれませんけれども、そのごく普通さが認められてきたわけで、そこのところは本当にバランスよく考えていく必要がある。
 ただですね、現実の実態を考えたときに、現実的には都立の学校に通ってくる生徒の社会階層というのは、ある程度、学校ごとに階層的に分化しているという現実があるわけです。それがいいことなのかといわれたら、もちろん良くないと思います。その意味では、小・中の段階の教育のところからもっと考え直さなければいけないこともありますし、そもそも高校入試の制度をどうするかという問題も出てくると思います。けれども、当面の現実問題としては、階層別にかなり違う層の子どもが、それぞれの学校に来るという実態はあるわけです。そのときに、それは私自身の考え方ですが、都立高校は公共的な学校なのだから、そんな階層などということを意識した発想や取り組みはしないということでいいのか。あえていいますが、そういう発想は、ちょっと違うのではないかと思います。むしろ、ある場面では生徒の階層――この子たちは、うちの学校を卒業したら、どういう世界に入っていくことになるのかということ、そこのところを相当に意識した教育内容づくりをやらなければいけないし、やってよいと思うのです。そういう部分はなかなかやりにくいということが、今まであったでしょうし、ある種の建前や理念からすると、どうなのだろうという思いもあります。中学校からスライス状に、輪切りにされて高校に来ている現実を肯定するのか、といわれてしまうと、それは違うということもあります。だから、なかなか追求しにくい課題なのだということはわかるのですが、しかしそれを追求しないでは、やはり本当の意味で目の前にいる子どもを大切にするということにはならないと思うのです。だから、そこは大胆に発想すべきなのではないでしょうか。

 最後の柱は教育条件のことでして、「さらに豊かな教育条件を」です。まったく賛成です。教育改革は、本来はここから入らなければいけないし、教育行政の役割も、本来はここにあるべきなんです。全体としての教育条件の水準を底上げしていくということは、まだまだ必要ですし、同時に、困難を抱えている学校については、よりそれを積極的に保障するような、より多くの予算をつけるとか、より多くの教員を配置するとか、困難を抱えている学校だけでも学級編成を組むときに少人数学級にするとか、そういうことがもっと追求されていいと思います。そこに差があるからといって、それが公平性の原則に反するということには絶対にならない。むしろ差をつけないことの方が、問題なのです。現実には困難の度合いだったり、条件を必要とする度合いが違うのに、みんな一緒というのは、それこそおかしいのです。都教委がやっているのは、相対的には困難を抱えていない進学校などにはどんどん支援して、困難を抱えている学校はそのままにしておこうということですから、本当に本末転倒です。5点目については、こういう「積極的補償」といった政策についても考えてみたらいいのではないかと思います。
 済みません、最後はずいぶんと駆け足になってしまいました。時間が超過した上に、かなり生意気なこともたくさん申し上げたかと思います。ぜひ、ご批判も含めて、考えていただければありがたいと思っております。以上で、私の話はおしまいです。どうもありがとうございました(拍手)。
 

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