☆=コミック  ★=小説、評論


山本直樹 『ありがとう』
山本おさむ 『どんぐりの家』
柳美里 『ゴールドラッシュ』
田島昭宇×大塚英志 『多重人格探偵サイコ』
紡木たく 『ホットロード』
藤子不二雄A 『少年時代』
かわぐちかいじ 『Medusa』
田口ランディ 『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』
石坂啓 『俺になりたい男』
藤竹暁編 『現代人の居場所』
村上龍 『希望の国のエクソダス』
大平健 『純愛時代』
松本大洋 『GOGOモンスター』
  



 山本直樹 『ありがとう』 小学館

 現代の家族問題を考える際には最良のテキスト。元は、『ビック・コミック』(だったか、スピリッツだったか。あるいは、オリジナルかもしれない)に連載され、単行本化もされていた(1996年頃からか?)ものだが、つい最近、上下2巻の合本となって、リニューアルした。
 
単身赴任、不法侵入者による住居占拠、レイプ、アルコール依存症、不登校、少年非行、家出、新興宗教、転職、ナイフ殺人といった圧倒的なテーマ群が、嵐のようにある一つの家族を襲う。それに対して、敢然と立ち向かう父親。しかし、娘の離反、妻の逃避。そして父親自身の回心(?)。ともかくも、家族とは何であるのかを、とことんまで考えさせてくれる内容だ。そしてまた、最近、流行りの「父性の復権」論なるものが、いかにインチキであるのかを、完膚無きまでに示してもくれている。それにしても、最後の最後の場面で父親が発した言葉の意味は、いまだに僕自身、はかりかねている。うーん、奥が深すぎる。


☆ 山本おさむ 『どんぐりの家』 小学館

 いわゆる重度重複障害児のための作業所づくりの運動を題材とした作者の代表作の一つ。全7巻。障害児教育に関心のある向きはもちろん、広く教育学を学ぶ者には、ぜひとも読んで欲しい作品。
 確かに、上記の『ありがとう』などと比較すれば、この作品は、あまりにもベタである、というかストレートすぎるという印象を持たないわけではない。「お涙頂戴」的な胡散臭さを全く感じないでもない。だが、それでも僕自身、読んでいるとき、目頭が熱くなり、涙が出そうになるのを禁じえなかった。やっぱり、文学作品には(おいおい、ただのマンガなのだが)、それがどんなにベタでも、どんなにヒューマニズム臭さに溢れているように見えたとしても、それでも、そうした「気恥ずかしさ」を突き抜けて、純粋に人の心を打つことのできる何かを持っているものもあるのだ。
 ちなみに、山本おさむ『「どんぐりの家」のデッサン』(岩波書店)は、作者自身によるこの作品の周辺記である。山本おさむも偉くなったものだ。
 


 柳美里 『ゴールドラッシュ』 新潮社

 神戸の事件以降、14歳という年齢段階の子ども、もう少し広く取れば、思春期の子どもの内面世界を描こうとする作品が、続々と出てきた。そのなかでも、『ゴールドラッシュ』は、話題作という意味だけではなくて、やはり群を抜いた出来映えのように思う。大人の世界に対する、少年の憎しみと怒り、嘲りと嘲笑、にもかかわらず自分を振り返ったときに襲ってくる不安と怯えといった、この時期の子どもにない交ぜになった感情が、見事にこちら側に伝わってくる。そして、「事件」へと至る心理的経過も、「事件」後の少年の心象風景の変化も。
 ただ、それだけに、ラストの場面については、賛否両論がありうるかもしれない。おそらく、この作者の最良の部分が出ているのだと思うのだが、だからこそ、騙されたというか、これは大人の側の願望に過ぎないのではないか、といった疑念が持ち上がってくると言えばよいだろうか。


☆ 田島昭宇×大塚英志 『多重人格探偵サイコ』 角川書店

 原作者に、あの、おっ、お、お、大塚英志が名前を連ねているので、思わず買ってしまった。現時点で3巻まで出ている。
 大塚英志といえば、本職は編集者なのかもしれないが、またの名は『戦後まんがの表現空間』(法蔵館)や『彼女たちの「連合赤軍」』(文芸春秋)などで有名な第一線の評論家だ。オウム事件の時にも、「オウムはオタクの連合赤軍」というシェマを提出して、華やかに活躍していたし、少年事件などへの論評の切れ味には、僕自身、結構お世話になったりしたこともある。
 肝心の中身の方は、まあ良くできたマンガだ、と言えばよいのだろうか。別にSFものでも、推理ものでもあるわけではない。ある程度ミステリーの要素が入っていて、それが読者をズンズンとストーリーに引き込む仕掛けにはなっているけれど、本質は、「殺人」の現場を写し鏡とした現代社会論、あるいは現代人の心理分析として理解した方がよいように僕は思っている。


☆ 紡木たく 『ホットロード』 集英社文庫

 原作は、1986年。『別冊マーガレット』の連載で、すぐに単行本にもなって、当時から評判を呼んでいた。教育現場や教育雑誌などでも、同世代の少女たちに絶大なる支持を受けているマンガとして、紹介されたり、取り上げられたりしていた記憶がある。僕自身は、もちろん(というべきか?)、その当時少女マンガの愛好家であったという事実はないので、とりあえず名前だけ知っていたといえば、よいだろう。が、数年前に、文庫化されていたようで、その増刷があった関係で、つい最近、書店の棚に並んでいたのをゲットしてしまった。文庫版は、2巻で完結。
 古いと言ってしまえば、確かに古いのだが、ビルドゥングス・ロマンとしては、現在でも間違いなく興味深く読める。
 要するに、家庭的にも恵まれない条件にある14歳の少女が、ふとしたきっかけから暴走族の少年に惹かれるようになり、親との反目、学校への反抗、そして家出、同棲と、自分自身もアクティング・アウトの途に踏み出していくというストーリーなのだが、教育学的な目で見れば、思春期の少年・少女の葛藤の姿とその心象風景が、実に見事に描かれている。和希やハルヤマの姿を追っていくと、思春期の「自分くずし」と「自分つくり」(竹内常一)とは何なのかが、圧倒的な「物語」を通じて、その登場人物たちのやるせなさや息づかいまでを含めて伝わってくると言えるだろう。
 その意味でも、秀逸な作品なのだと思う。ただ、それでも、「しかし」なんだな、これが。この作品が、1999年の現在の少年・少女を理解するための鏡になるのか、と問われると、やっぱり僕は、半分だけ引いてしまうだろう。それは、現在の14歳というのは、この作品の登場人物たちのような、まっとうな思春期葛藤を生きぬかないし、生きぬきたくても、なかなかそうできない条件下に置かれている、むしろ葛藤そのものを宙づりにされているのかもしれないという点にこだわってしまうからでもある。まあ、そのことを実感するためだけにでも、この作品を読んでみる価値はあると思うのだが。


☆ 藤子不二雄A 『少年時代』 中公文庫コミック版

 全3巻。原作は、柏原兵三の長編小説『長い道』。
 この作品の存在については、以前から知っていたのだが、中公文庫版を見つけたので、その場で衝動的に買って、一気読みしてしまった。舞台は、戦時下の富山県泉山村、東京から縁故疎開した小学校5年生の主人公が、そこで体験することになった都会とは異なる子どもたちの世界が、実にリアルに、美しく、そして時としてもの悲しく描かれている。
 ストーリーとすれば、泉山村の少年タケシによるボス支配と、ついに立ち上がった他の少年たちによるボス退治というのが、全編を貫く縦糸なのだが、何と言っても、そのプロセスに描かれる少年たちの愛憎半ばした人間関係と交流の生き生きとした描写、そしてその背後に浮き彫りにされてくる心理描写が、たまらなく凄い。もちろん、そこは、喧嘩あり、暴力あり、いじめあり、友情あり、はたまた異性への関心や、妬みや嫉妬ありの少年期の世界なのだが、少年たちの揺れ動く関係や心の動きが、北国の自然をバックにして、ほんとにモノクロの映画を見ているかのように伝わってくる。まあ、このあたりの醍醐味は、やはり実際に読んでもらわないとわからないだろうけど。
 少年期というもの、とりわけ男の子にとっての少年期の世界を、現在の子どもに引き写せばおそらくは思春期に重なるのかもしれないが、理解するうえでは絶好の作品なのではなかろうか。
 僕個人の感想としては、ボス支配を行うタケシという少年が、実にたくましく、実にりりしく描かれていて、その屈折した心境には、思わず心を打つものがあった。だから、彼がそれまでの部下たちからボス退治されたシーンには、周囲の子どもたちの解放感とは裏腹に、なぜかすごくもの悲しくなってしまったのであった。


☆ かわぐちかいじ 『Medusa』 小学館文庫

 『沈黙の艦隊』については語る気がしないのだが、こちらは最近、文庫版になっていて、つい買ってみたら、結構面白くて、ハマってしまった。文庫の方は、現時点で、3巻まで出ている。
 ラブ・ストーリーと言っていまえば、確かにその通りなんだけど、なんと言っても社会背景の描き方のスケールがデカイ。さすがに、この作者の構想力ってすごいと思う。いきなり1960年代末の大学紛争が舞台で、それから過激派の析出過程に移り、低成長時代への移行と、日本の政治の腐敗局面に突入して、さらには、ベルリンの壁が壊れて、日本企業の海外進出や国際テロ組織の問題にまで逢着する。
 こういった長いタイム・スパン、言ってみれば、戦後日本社会の曲がり角以降の壮大な「同時代史」を、一方では学園紛争の当事者から過激派、国際テロ組織へと生き渡っていく陽子と、学生時代から一貫して保守政治家をめざし、その道に邁進する龍男とが、お互いに交錯し、すれ違いながら、「同時代人」として生きていく様が描かれている。
 そういう意味では、これは、ラブ・ストーリーであると同時に、ふたつの対極的な道を進む男女のビルドゥングス・ロマン(教養小説=青年の自己形成物語)としても読める「仕掛け」になっているのだ。ビルドゥングス・ロマンとしては、少なくともゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』なんかよりも、よっぽど面白い。なんて言うと、僕自身の「教養」のなさが露呈してしまうのだが、でも今の若い人にはお薦め。
 ちなみに、登場人物や組織などの名前は、さすがに固有名詞としては変えてあるが、どの人物にしても、会社名にしても、政治家にしても、事件にしても、すべて実在のものを彷彿とさせるように出来ていて、そういう興味からも面白く読める。


★ 田口ランディ 『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』 晶文堂

 なんか知らないで著者名とタイトルだけ見ると、気取った社会学者による消費社会論、もうちょっと言うと、消費社会が黄熟するなか、そこで踊らされてきた人間の「悲哀」を描くような、少し砕いた研究書にも見えなくもない。
 だけど、実は、ぜーんぜん違うのだ。
 著者は、知る人ぞ知る、インターネット・コラムニスト。そのメール・マガジンには、何と6万人もの購読者が付いている人だ。(僕もその読者の一人。何といっても、良質なエッセイの「無料配信」というのは、とてつもなくありがたい。でも、こうして本まで買ってしまったのだから、ひょっとしたら、コマーシャリズムの戦略に載せられてしまったのかしれない。いやいや、たとえそうだとしても、その内容が良質であるということを確かめたうえで購入できたのだから、それはそれでいいことに決まっているさ。) もちろん、こうした著者の人気を、日本の出版界が放っておくはずがない。というわけで、最近では、紙媒体でのメジャーな雑誌などにも登場し、村上龍との対談なども組まれたりしているので、彼女の知名度は、一躍アップしていること間違いなし。
 さて、肝心の内容なのだが、基本的に彼女がさまざまな場所に書いてきたエッセイをまとめたものである。だから、要約なんて、もちろんできないし、その主張がどうの、と言う気にもならない。
 だけど、いーんだよ、これが。最高にいい。
 僕が、この田口ランディという人に惹かれるのは、彼女がお酒が大好きで、そのためによく終電を乗り越してしまうという行動形態を取っていることに、自分自身の体験をダブらせながら共感してしまうからでは、もちろんない。
 とにかく、人間というものを見つめる眼が優しい、ものごとを見る眼がしなやかで、とっても新鮮だ。自分自身を内省する姿勢がほほえましい。
 うーん。こりゃあもう、実際に読んでもらうしかないな。


☆ 石坂啓 『俺になりたい男』 小学館

 やっぱり石坂啓は、『赤ちゃんが来た』だけの人じゃなかった(もちろん、こちらはこちらで、自分の子どもが小さかった時には、ずいぶん興味深く読めたけど)。
 『俺になりたい男』の方は、去年から『ビックコミック・オリジナル』に連載してきて、ついに単行本となった。いちおう「ホーム・サイコ・サスペンス」と名打たれていて、サスペンス仕立てでもあるので、筋書きは、ここには書けない。でも、僕に言わせれば、その部分よりも、サイコ・ドラマとして読む方が、断然興味が沸くし、なおかつ深いという気がする。
 テレビ・ドラマに出てきそうな、仕事に多忙な夫、あきらめかけた妻、そして不登校の息子からなる冷めきった家族が、物語の舞台。この家族には、実は弟がいて、数年前に事故で亡くなっている。という、この「機能不全」家族が、だんだんとその危機の様相を深めていき、ついには・・・・という展開と、もうひとつ、その家族を襲う謎の・・・・という展開とが、折り合わされて、読む者を飽きさせないつくり。
 では、作品のテーマはどこにあるのか。家族? アイデンティティ? 人生を取り戻す? 自意識?
 このどれでもあるし、どれでもない、のかもしれない。
 うーむ。ともかく読んでみてー。


★ 藤竹暁編 『現代人の居場所』 至文堂

 現代のエスプリ別冊の生活文化シリーズとして刊行された。ほかには、「消費」や「流行」に関するシリーズがあるらしい。書店で見て、「居場所」という切り口が、なんとなく面白そうと思って買ったのだが、はずれずに済んだ。
 「職場が居場所でなくなる」「働く女の居場所」「子ども部屋は子どもの居場所たりうるか」「居場所をさがす女子大生」「少女の居場所・少年の居場所」「オトコの居場所」「オンナの居場所」「ヴァーチャル空間における居場所」といった論稿が雑多に並んでいて、ライターにも、芹沢俊介、伊奈正人、藤本由香里、江原由美子、粉川哲夫といった魅力的な名前が並んでいる。
 内容的には、まあ論文によって玉石混交なのでだが、そして本全体としての共通した主張やトーンといったものは、実は全く存在しないのであるが、それでも、パラパラと読んでいて、面白いなと思うものにぶつかる確率は、比較的高いのではないか。
 通読するのではなくて、ツマミ読み用にお薦め。レポートなどを書く際の参考文献としてはよいかもしれない。


★ 村上龍 『希望の国のエクソダス』 文芸春秋

 話題作みたいなので、つい読んでしまった。小説だから、筋は書かないけど、面白く読めたのは確か。それに、JMMなんかをやりはじめて、経済やネット、情報化などに関しても、すでに「半可通」ではなくなっている村上龍の本領が、見事に発揮されていると思う。
 だけど、重たい、というのが僕の実感。ここに描かれている子どもたちの姿に、「希望」を見いだす人もいるのかもしれないけど、僕自身は単純にはそうは思えなかった。それはたぶん、著者の感覚とも重なるのだと思う。そうでなければ、子どもたちの凄さをとことん描きながらも、でもこの子たちには何かが足りないといった暗示が、作品のところどころに(目立たない形ではあれ)ちりばめられているはずがないから。それに、最後の方の、共同体づくりの壮大な「実験」についても、ある種の希望を感じさせてくれると同時に、高齢者問題にかかわって、あるいは市場のグローバリゼーションの陰にかかわって、もしかしたらその未来への「暗雲」と、そこを突きぬけた「断念」が示唆されているのかもしれない、と感じるからだ。
 と、思っていたら、本の帯には村上龍自身の言葉で、「この物語を書き終えたときの言いようのない充実感と不安感」とあった。そうなんだ、と思う。現代日本社会の「閉塞」に挑もうとしたこの作品は、希望を垣間見たと同時に、やはり不安に収斂するものとして出来上がっているのではないか。だとしたら、この作者はやっぱり凄い。
 言葉の本来の意味としての新自由主義者の側面を著者に見るのか、それとも、ここで僕が書いたような側面に注目するのか、それによっても作品じたいの評価が変わるんじゃないだろうか。


★ 大平健 『純愛時代』 岩波新書

 タイトルだけ見て、甘く、ロマンチックな話を想像してしまった人は、まさかいないよね。
 著者は、『やさしさの精神病理』(岩波新書)等、多数の著書がある精神科医。例によって、非常にわかりやすい文体で、なおかつ事例を中心として、現代人(とりわけ青年男女)の精神的境位を描きだしている。なにより、現代では、精神科で扱う問題の3分1は、恋愛がらみだというのだから、凄い。「恋愛」という切り口の射程は、思いの外、広くて奥深いのだ。
 「若者たちは心底愛に憧れていながら、他方で、とことん愛に絶望している。」 臨床家としてのこんな直観から発する著者の分析は、すこぶる興味深いし、鋭い。いまの若者たちは、二重の自己、つまりは演技者としての自分と、その舞台を監督する自分との二重性を生きていて、前者の自分の生き様に、筋書きや運命やドラマを求めたがる。けれども、メガホンを取る後者の自分が強すぎて、生身の自分である前者がそれに耐えられなくなるとき、そこに何らかの精神的な病が発現するのだ、ということらしい。だから、「純愛」というのは怖いことなのだ、とも。(いやいや、たぶんに僕流の解釈が入りすぎているかもしれない)
 ただ、本書じたいには、いま書いたような理論的な分析や枠組みの提示といった箇所はまったくなくて、基本的には事例の紹介が進んでいく仕組みになっている。その意味では、肩肘はらずに入っていける好著だと思う。『やさしさの精神病理』の方も、ゼミの文献として利用したことがあるのだが、こちらもお世話になりそうな予感!?


☆ 松本大洋 『GOGOモンスター』 小学館

 学生に紹介されていたこともあって読んでみたのだが、こりぁーもう、マンガの域を越えてるよ。
 凄い、凄すぎる。
 全編450頁の大作で、しかも書き下ろし。執筆に2年近くも費やしており、ハードカバーの装丁で箱入り。それでもって、なんと2500円もするのだ。マンガとしては、破格の商品価値だ。こんなの、売り出し中の漫画家には絶対にできない芸当であって、さすがに大家と言うべきなのだろう。
 今回のテーマは、子ども。舞台は小学校。独特の子どもの世界を描いた不朽の名作(と僕には思われる)、『鉄コン筋クリート』を彷彿とさせる設定で、期待も膨らもうというもの。しかも、2000年11月の刊行だから、これを書きはじめた時期は・・・・と想像すれば、ある意味では、この間の子ども事件や少年犯罪といったことを、もっと言えば、そうした事件に遭遇してたじろぎ、ほとんどモラル・パニックにまで陥った大人社会ということを、問題意識のベースにおいて松本大洋が執筆を開始していたとしても不思議はない。
 まあ、ともかく読むしかない。それ以上は言わない。筋を書くのは無粋だからやめるけど、今回は、心理学というか精神医学的な知見をバッググラウンドにもしているし、『鉄コン』のときと同型の構造ではあるが、主人公の少年と用務員のおじいさんとの交流が、実にいい。そして、子どもという存在へのまっとうな視線。



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