☆=研究書  ◇=教育書・評論  ★=実践記録


竹内常一 『子どもの自分くずしと自分つくり』
プロ教師読本 Vol.5 『それでもまだ生徒を教育できるのか?』
芹沢俊介 『子どもたちの生と死』
坂本未明(渡辺学・監修) 『マンガ ユング「心の深層」の構造』
香山リカ 『<じぶん>を愛するということ』
矢幡洋 『Dr.キリコの贈り物』
石川准 『人はなぜ認められたいのか』
照本祥敬 『おとなと子どもの関係を再生する条件とは何か』
榎本博明 『<私>の心理学的探究』
教育科学研究会ほか編 『「日の丸・君が代」の強制から身を守る法』
小川洋 『なぜ公立高校はダメになったのか』 
樋田大二郎ほか編 『高校生文化と進路形成の変容』
田村文 『おばけになりたい』
中西新太郎 『思春期の危機を生きる子どもたち』
高橋哲哉 『戦後責任』
長谷川博一 『子どもたちの「かすれた声」』
市川伸一 『学ぶ意欲の心理学』
後藤道夫 『反「構造改革」』
玄田有史 『仕事のなかの曖昧な不安』
 



 竹内常一 『子どもの自分くずしと自分つくり』 東京大学出版会

 
刊行は、1987年。10年以上前に書かれた本ではあるが、98年度の教職科目「生活指導論」のテキストに指定して、久しぶりに読み直してみた。これだけの歳月が経っている以上、理論的な枠組みとしても古く感じられるところが出てくるのではないか、との予想で読みはじめたのだが、予想は大いに裏切られた。いじめについての論述にしても、「登校拒否・不登校」像の多様化の問題にしても、小学校低学年からの子どもたちの荒れの指摘にしても、実に実に、1990年代末の今日の教育現実に届いている。いや、射抜いていると言ってもよい。
 これは、いったいどういうことなのか? 子どもと教育の世界に起こった「その後の10年」について、現象面での新しさや変化を指摘することなら、誰にでもできる。しかし、そうした事態や現象をどう読み解くのかという点に関わる理論的な枠組みにおいて、本書の到達点を凌駕することは、並大抵のことではないのではないか。
 いじめ論、登校拒否論、非行論、思春期論の現代的な「古典」として、広く子ども・青年論の良質な研究書として、多くの方にお薦めします。なお、同じ作者による『子どもの自分くずし・その後』(太郎次郎社)も、最近刊行されている。


◇ プロ教師読本 Vol.5 『それでもまだ生徒を教育できるのか?』 洋泉社Mook 

 プロ教師の会の人たちの主張というのは、もちろん僕自身、全面的に賛成というわけにはいかないのだけど、しかし本気で対戦し、格闘しなくてはいけない相手だとは考えている。単なる「保守・反動」として切り捨ててしまうのは余りにもったいないし、それでは、現場の教師たちのなかにある、彼らの主張に対する、表だっては現れないかもしれないが、しかし確実に存在している共鳴板のようなものまでを捨て去ってしまうことになりかねないからだ。
 ただし、だ。プロ教師の会が、はじめて『別冊宝島』までに登場してきたのは、すでに10年以上前。その当時の教育をめぐる言説状況においては、進歩主義的な教育観や進歩的と称する教師たちを糾弾する彼らの主張は、ただそれだけで、十分に刺激的であったし、教育言説としての固有の位置価を有していた。だが、今はどうだろうか。教育をめぐる言説状況全体が、かなり「危ういもの」なりはじめ、本物の「保守・反動」的な主張までもが大手を振ってまかり通っている現在においては、プロ教師の会の主張の固有性は、半ばは状況に埋もれてしまいかねないような危険も出てきているのではないか。そうした意味でも、本書は、試金石としての興味深い位置を占めているような気がしてならない。
 なお、パート4全体が、小浜逸郎『子どもは親が教育しろ!』(草思社)に対する全面批判になっている。なかなか読み応えがある。


◇ 芹沢俊介 『子どもたちの生と死』 筑摩書房

 この本より少し前に、『 子どもたちはなぜ暴力に走るのか』(岩波書店)が出ていて、テーマ・内容ともにこの本と大きく重なるが、こちらは講演集であるだけに、はるかに読みやすい。
 評論家としての芹沢は、この20年あまりの間、犯罪・家族・宗教・子どもといったテーマを追いかけてきた。僕自身、彼のことを、いわゆる“現代思想”系のオタク的な評論家のように思ってきたこともあるけれど、時が経つにつれて、とりわけ神戸の事件以降は、時代や子どもたちの状況の方が、芹沢の議論に追いついてしまったような印象を受けている。
 子どもたちの「イノセンス」の感覚にしても、秩序と暴力に関する議論にしても、ムカつくとキレるの分析にしても、結構いい線を行っていると思う。全面的に依拠するのではないとしても、今日の子どもを論じようとするときに、彼の議論を素通りしてしまうのは、絶対に間違っていると断言しよう。
 芹沢自身の教育論への構えは、自分の学校体験と自身の子どもの不登校体験に根ざしているらしい。それだけに、議論には、相当の屈折角もあるし、アクが強いとも言えるけれども、逆に言えば、これぐらいで毒気に当てられるようでは、現代を子どもを理解し、論じるどころではないのかもしれない。


☆ 坂本未明 (渡辺学・監修) 『マンガ ユング「心の深層」の構造』 講談社

 タイトルに惹かれて、ついつい買ってしまったのだが、結果としては大成功だった。ユング心理学の入門書としては、格好の書なのではないかと思う。とにかく、すぐ読めるし、それでいて、わかりやすい。しかも、浅はかではない、と三拍子(?)そろっている。活字による解説を極力避けて、マンガというメディアを用いることの積極性がよく出ているところが、非常に好感が持てる。要するに、分析的あるいは概念的にユングが理解できるというよりは、全体的・直観的に理解できる(ような気にさせてくれる)。
 全体の構成は、ユングその人の生涯を追うという縦糸を軸にしながら、それぞれの時期ごとの時代状況や周辺の人々との交流・関係のうちに、ユング自身の「思想が立ち上がる現場」を浮かびあがらせようとしていると言えばよいだろうか。ねらいは、かなり当たっていると思う。フロイトとの出会い・交流・確執のプロセスや、ユングをとりまくさまざまな女性との関係という、大変に興味深い人間ドラマの展開を追っていくうちに、いつのまにか読者は、無意識、自己、コンプレックス、原型、集合的無意識、共時性といったユング心理学の基本的な考え方への手ほどきを受けるという仕組みになっている。
 うーん。やってくれるじゃないか。


☆ 香山リカ 『<じぶん>を愛するということ』 講談社現代新書

 『テレビゲームと癒し』(岩波書店)もいいけど、この本も、なかなか読みやすくて良い。個人的な感謝の記としては、この本のおかげて、「教育哲学(アイデンティティ形成論)」の講義の1回分のヒントをもらうことができた。
 読んでいてちょっと驚いたのは、彼女が今でも「80年代サブカル」の正統な享受者としての矜持をもって生きているということ。だから、「あとがき」では、もうとっくに寝返ってしまった浅田彰に対する威勢のいい罵声を浴びせてもいる。逆に、そこのところで一貫した態度を貫いている大塚英志に対しては、いたく共感を寄せているといった構図が見える。
 もうひとつ、おおっと思ったのは、彼女自身が、「80年代サブカル系」の論者として雑誌などで活躍する自分と、一精神科医として地域福祉医療に地道に携わる自分との間に、自己像の分裂を自覚しており、むしろ分裂を楽しみながら生きてきたということが書かれている件り。なんか凄いですね。でも、現代人の生き方としては、ある光明を与えてくれるのかもしれないと思う。まさか、「スキゾ型」という教えを忠実に守ってきたというわけではあるまいが。
 さて、本書の全体を通じたメッセージは、「自分さがし」や「私さがし」が喧伝され、褒めそやされている今日の論潮に対する、強烈な違和感の表明である、といえばわかりやすいだろうか。アダルトチルドレンやら多重人格やら自己愛性パーソナリティ障害やらについて、あるいは精神世界ブームや「癒し」系ビジネスの流行について、わかりやすく論じながら、なぜ、それらが現在の日本人にウケているのかを探るという角度から、人々の意識の根源に潜む動機のようなものを探り当てている。
 言葉づかいは易しいが、なかなか奥が深い。ただし、重要な問いに辿りついた!と思ったその瞬間に、こちらの期待は裏切られて、すでに話は別の話題に振られている、といった後味の良くない読後感を味わうような場面が何箇所かあった。意識的に「逃げた」書き方をしているのか、彼女の頭の回転が速すぎるのかは、わからない。
 まあ、役者が違うのかなあ。


◇ 矢幡洋 『Dr.キリコの贈り物』 河出書房新社

 話題になった「インターネット毒物宅配事件」に取材して、組み立てられたフィクション。
 事件は、簡単に言ってしまえば、次のような経過をたどったと思う(新聞記事などで、正確に確かめ直したわけではない)。ある男が、インターネット上での依頼に応じて、致死量の青酸カリを若い女性に送付し、その女性が、実際に服毒して自殺をした。男は、ネット上では「Dr.キリコ」を名乗って、掲示板上でさまざまな自殺願望者の相談に応えるなどしていた。女性が本当に青酸カリを服毒したことを知り、男もすぐさま自殺を遂げたというもの。当初、マスコミでは、インターネットを使った悪質な犯罪(=死の商人)との報道がなされたが、関係者らの証言が出てきて、Dr.キリコを名乗る男の以外な側面が見えてきた。彼自身も、かつては本気で自殺を考えていた人間であり、その後、立ち直ってからは、ネット上でのやりとりを通じて、多くの自殺願望者たちに対するカウンセラー(治療者)的な役割を負っていた。まじめで、誠実な人物であったという。彼から、青酸カリを受け取った人物は、ほかにも数人いて、そこには、重い鬱病の患者に対する「これがあれば、いつでも死ねるのだから、いま早まることはない」というメッセージが込められていたのだという。
 著者は精神科医で、関係者との膨大な数のメールの往復という取材を踏まえながらも、フィクションという手法を通じて、男の生育史やネット上での活動、そこにかかわっていく自殺願望者の姿などを見事に描きだしている。
 内容については、正直に言って、あまり書きたくないし、書けそうにない。ただ、興味本位ではない関心のある人は、ぜひ読んでみてほしい。少なくとも、世の中には、僕たちの想像以上に「自殺願望」にとらわれた人たちが生きているということ、その人たちが交流を交わす場所が、インターネット上には存在していることを発見するだろう。そして、自殺願望というのは、人間のどういう精神状態なのか、その願望に苦しみ、悩むというのがどういうことなのか、身に滲みて伝わってくるだろう。
 今回のは、ちょっとこわい。


☆ 石川准 『人はなぜ認められたいのか』 旬報社

 副題に「アイデンティティ依存の社会学」とある。人間という存在を、つねに自己の存在証明を求めて躍起になる動物であると定義する。これが基本前提。ここから、人がどうしても他者からの承認に敏感になってしまう事情や、存在証明を求めようとして得られなかった時にとる戦略的行動のありようが、社会学チックに展開されている。
 著者は、以前に『アイデンティティの社会学』(新曜社)というのを書いていて、本書の内容は、はっきり言って前著とかなり重なっている。が、語り口が全然ちがっている。前著が、完全な研究書の話法なのに対して、本書は「です・ます調」で統一された一般向けの話法。内容的に大差ないのであれば、こちらを読んだ方が、やっぱりわかりやすいだろう。
 この本は、僕の講義「教育哲学(アイデンティティ形成論)」のタネ本のひとつ。だから、ここでは多くを語りません。興味の向いた方は、ぜひご一読を。
 ちなみに、著者自身が聴覚障害者としてのアイデンティティを有されていることは、よく知られた事実だ。自分自身の「問題」と研究とが乖離していない人って、ときにあまりに頑なに感じることがないでもないけれど、基本的に信頼できるでしょう。


 照本祥敬 『おとなと子どもの関係を再生する条件とは何か』 あゆみ出版

 はじめに断っておくと、この本のねらいというか企図は、結果としては、果たされていないと思う。ただ、それでも、「おとなと子どもの関係」という今日の教育の問題を考えていくうえで、かなり重要な、本質的な問題に迫ろうとしているその「意欲」を買いたい。全体としては、いまだ「おとなと子どもの関係」論にはなりきれていなくて、「子ども」論にとどまっているとは思うけれど、でも読んでみて損はないと思う。
 この本が用いている枠組みは、基本的には「学校化社会」と「消費社会」という二つの切り口から、現在の子どもたちの心象風景やその葛藤の姿を描きだそうとするもので、僕自身の関心にもひじょうに近い。神戸の児童連続殺傷事件や少年によるナイフ事件を扱っているところも同じだ。アイデンティティという言葉も頻出する。
 実は、何を隠そう、この本の著者は1960年の生まれで、僕と基本的には同じ世代に属する。だから、というわけなのかもしれないが、何となくエールを送りたくなる心境でいっぱいなのだ。全生研などで活躍している研究者であるだけに、理論的には、竹内常一の影響を強く受けていることが全体からも伝わってくる。
 ちょっと抽象的にすぎるような記述が多々見られるような気もするのだが、それって何だか、僕自身が書いた文章を見ているような「錯覚」にも陥ってしまいそうで、それはそれで、とってもこわいのだった。


 榎本博明 『<私>の心理学的探求』 有斐閣選書

 同じ著者には、『「自己」の心理学』(ライフサイエンス社)という本がある。これは、「自己の心理学」に関する最近の研究動向を手際よくまとめた研究書だ。<私>に迫るための多様な心理学的なアップローチが紹介されている。
 それに対して、『<私>の心理学的探究』の方は、そうした「教科書」執筆的な「百科全書」主義をやめて、物語論というパースペクティブに限定して、そこから<私>の構造に迫ろうとしている。キーワードは、「物語としての自己」および「自己物語」。
 さて、どちらの本がお薦めか。基本的には、読む人の目的によるだろう。この領域での研究について、とりあえす幅広く知りたいということであれば、前著が役に立つし、この著者の主張がはっきりと出ているものが読みたいというのであれば、断然、こちらの方だ。全体として、<私>というものが、客観主義的なアプローチだけではけっして迫り得ない、固有の意味の世界を生きる存在であることが、説得的に解かれている。人間のアイデンティティなんて、所詮は、自己が自己自身のために作りあげた物語なのだ、といったモチーフも透けて見えてきて、面白い。もちろん、そういう幸福な自己物語を持ちにくくさせられているのが、現代社会における僕たちが置かれている状況であるわけだし、それゆえに自己物語の破綻に直面せざるをえない危機にある人たちに、臨床家がどう対応するかという話も出てくる。
 有斐閣選書という位置づけなので、ひじょうに平易に書かれている。入門者向け。物語論というと、現代思想系の論者たちが、はね上がった議論をすることも多いのだが、この著者の筆致は抑制が利いているし、あくまで学問的という範囲に留まろうとしている。まあ、それはそれで、魅力でもあるし、物足りないところでもあるのかもしれないが。


◇ 教育科学研究会ほか編 『「日の丸・君が代」の強制から身を守る法』 国土社

 1999年夏、「国旗・国歌法」が成立した。その当時から懸念されていたことだが、この春の卒業式・入学式では、多くの学校において、国旗掲揚・国歌斉唱を強制しようとする行政的な統制や締めつけが強められている。ただ、同時に、そうした動きに異を唱え、なにか行動を起こさねばならないといった機運もまた、かつてよりは力強く生じつつあるように見えるのも、歴史の皮肉と言うべきなのかもしれない。
 従来であれば、学校現場における「日の丸・君が代」問題は、文部省・教育委員会・学校長 vs. 教職員という対立構図のもとに動いていたのだが、ここに来て、式典における「日の丸・君が代」の強制を憂う父母や市民たちの自律的な動きや、生徒たちによる自主的な動きが出てきたことも、今日的な事態の新しさを浮かび上がらせていると言えようか。
 ともあれ、この本は、こうした状況の到来を見越していてかのように緊急出版された、国旗・国歌法の成立以降の「日の丸・君が代」問題についての入門書。全体にわかりやすく、かつ、進行する事態にどう対処したらよいかという実践的な観点に貫かれている。教師自身の「良心の自由」という点にひとつの焦点を合わせている点も、いかにも教科研らしい。
 と言いながら、これは僕自身も関係している団体の本なので、これ以上の宣伝は控えておくのが慎ましいというもの。でも、でも、買ってみて絶対に損はないと思う。


☆ 小川洋 『なぜ公立高校はダメになったのか』 亜紀書房

 副題に「教育崩壊の真実」。タイトルとこのサブ・タイトルを見たときには、またプロ教師の会の人が、また本を書いたのか、と錯覚してしまった。だが、読みはじめてみると、内容は、ぜんぜん違う。おまけに、第2章で「学校の“荒れ”」を扱った際には、プロ教師の会に対する痛烈な批判も目に飛び込んでくる。
 簡単に言ってしまえば、戦後の高校教育の歩みを、その困難が寄り合わされてくる経緯を、都市−地方、公立−私立という分析軸を駆使しながら、かなり上手に描いている。著者は、現役の高校の教師。であるが、よくありそうな現場教師の述懐や回顧談(失礼!)といった類ではなく、階層的視点を重視した、れっきとした社会科学的な分析になっていて、それなりに読ませてくれる。
 僕自身は、集団就職に注目した前半部分の考察に特に興味を持ったが、1980年代、そして90年代以降の現在の高校改革を扱った部分もよくまとまっていると思う。
 全体として、読みやすくも出来ていて、高校制度に関心のある方、あるいは教育社会学に関心があって、その現実分析の切れ味を味わって見たい方には、お薦め。


☆ 樋田大二郎・耳塚寛明ほか編 『高校生文化と進路形成の変容』 学事出版

 著者らの研究グループは、かつて1979年の共同調査において、日本の高校教育における学校間格差を基盤とする高校階層構造にメスを入れ、「トラッキング」というその後有名になった概念を駆使して、そうした階層構造が、それぞれの層の高校の学校文化、教師文化、生徒文化や教師たちの指導観、生徒たちの進路観、等々に多大な影響を与えていることを明らかにしている(現代のエスプリ『高校生』、を参照)。
 この本は、その1979年調査と同一の高校を調査対象として、日本型のトラッキング・システムのその後の変容過程を明らかにしようとした労作である。当初の作業仮説は、この間の高校教育改革の進展、少子化の進行、大学進学率の急上昇といった要因を受けての、「トラッキングの弛緩」という視点に設定された。だが、結果は、どうだったろうか。著者たちのグループ自身が吐露しているように、事態の進展は、それほど単純でもクリアでもなかった。では、何が、どう変わったのか。
 ここから先は、じかに本書を手にとってもらうほかはない。言うまでもないが、現在の教育社会学研究において、ひとつのビビッドな研究が立ち上がる現場、が見えてくる本と言ってよいのかもしれない。ただし、あくまで研究書だ。多少の工夫は施されてはいるが、けっして読みやすくはない。寝転がって読むことはできない。
 それでも、大学を卒業するまでには、一冊ぐらい、まっとうな研究書にかじりついてみたいという人にはお薦め。それだけの覚悟があれば、別に読めないほどの難解な内容ではない。しかも、扱っている内容は、象牙の塔に自閉する事柄ではなくて、現代日本の生の現実なのだから。


◇ 田村文 『おばけになりたい!−保健室に逃げ込む子どもたち』 河出書房新社

 読みはじめたら、止まらなくなって一気に読んだ。子どもの教育と福祉、そして現代の家族問題に関心のある人には絶対にお薦め。
 著者は、共同通信の記者。もともとは「少年漂流記」として連載・配信していた記事がきっかけになったようだが、その後も独自の取材を継続して、本書になったようだ。本のタイトルを見ただけでは、間違っても買わなかったと思うが、同じ著者が、『月刊東京』(東京自治問題研究所)という機関紙に小さなコラム欄を担当していて、僕自身はすごく注目をしていた。で、その人が単行本をまとめたというので、飛びついたのだが、「直感」は正しかった。
 学校の保健室、そこで養護教諭が出会うことになる子ども、これが本書でのていねいな取材の定点。そこから、今日の学校の実情や、それに立ち向かう教師の姿、通ってくる子どもの家族的な背景、処遇にかかわる児童相談所、養護施設、教護院(児童自立支援施設)、弁護士といった機関や人々の苦労や困難や実態といったものが、生身の人間たちの生きざまや息づかいとともに伝わってくる仕組みになっている。
 こうした機関や人々のネットワークが、子どもを中心にして、彼ら彼女らを共同の力で援助する方向にきちんと回っているのであれば、本書を読んだ後の「気の重たさ」は感じなくてもすむのだろう。けれども、そうではないのが「現実」であるということを知るためにも、やはり本書は、読まれなくてはならない。現実を知ることからしか、「現実」を変えていくことはできないのだから。しかも、良質なルポルタージュには、そうした「力」がこもっているのかもしれない、とそんなことさえ感じさせてくれた。


☆ 中西新太郎 『思春期の危機を生きる子どもたち』 はるか書房

 表題から、どのような内容の本を思い浮かべるだろうか。教育関係の本を読み慣れた読者であれば、おそらくは学校の教師あたりが書いた生活指導チックな本を想像しないだろうか。あるいは、非行や不登校といったさまざまな思春期葛藤にかかわる、やや理論的な本か。いずれにしても、その場合、かなりの確率で、今日の子どもたちの思春期危機のありようが、現代学校や教育の持つ問題性と重ねて論じられるという点を、いつのまにか共通の基盤(前提)としているということはないだろうか。
 さて、本書の著者は、社会哲学の専攻。これまでも、多くの教育や子ども論に関する論考を発表してきたが、ここでは端的に、今日の子ども・青年理解の枠組みに、学校と家庭・地域とは相対的に異なる消費文化(サブカルチャー)の影響の問題を真正面に据えるべきだという主張を全面的に展開している。上記のような暗黙の前提を当然と思ってきた者にとっては、かなり新鮮かつ刺激的な内容である。
 子どもたちの成長のかたちが変貌したこと。この点を見据えた子ども論や思春期論の展開は、確かにこれまでの研究には欠落しがちであった視点を鮮明にしている。あまりに心理主義的な思春期論には引いてしまうという人、社会学的な分析が自分にはしっくりくるという人には、特におすすめの好著。


☆ 高橋哲哉 『戦後責任』 講談社

 自由主義史観研究会(会長・藤岡信勝)とか、新しい歴史教科書をつくる会(会長・西尾幹二)とかといった名前を聞いたことがあるだろうか。簡単に言ってしまえば、最近、とみに活動を活発化させているネオ・ナショナリズムの本体、というか活動組織だ。南京大虐殺はでっち上げであるとか、従軍慰安婦なんていなかった、といった主張を精力的に展開している。
 他方、加藤典洋という名前は、どうだろうか。上のような論調とは一線を画しながらも、『敗戦後論』では、かなりきわどい論陣を張っている。高橋哲哉に言わせれば、確かに一線を画しつつも、やはりネオ・ナショナリズムの亜種だ、ということにもなる。
 さて、本書は、近年におけるこうした「歴史修正主義」(人によっては、歴史捏造主義とも言うが)の動きに対して、真っ向から論戦を挑み、果敢な論稿を発表し続けている著者による論文集(講演記録を含む)である。
 少々繰り返しが気にならないではないが、全体の論旨は、すっきりとしている。戦争責任、戦後責任についての著者の考え方を披瀝したうえで、上に紹介したようなネオ・ナショナリズムの潮流に対する批判が続くという構成が採られている。
 とりわけ、戦後生まれの日本人に、日本が行った過去の戦争についての「責任」があるかというテーマを論じた第1章は、若い人にはぜひとも読んでもらいたい文章だ。僕自身も、頭のなかが少し整理されたように思う。
 ちなみに、著者は、歴史学の専門研究者ではなくて、ドイツ現代思想、とりわけデリダ研究者として知られる人。このあたりの事情も、現代日本の「論壇」というところの性格を考えるうえでは面白いのかもしれない。(もちろん、ドイツで起きた歴史家論争の際にも、論争の一方の雄は、やはり歴史研究者ではないハーバーマスであったわけだが。)


☆ 長谷川博一 『子どもたちの「かすれた声」』 日本評論社

 いやあー、いい本みっけ。
 です・ます調で、非常にわかりやすい文体。にもかかわらず、専門性を犠牲にすることなく、今日の子どもたちが置かれた心理的な状況を解き明かしている。こういう本を紹介しないで、どれを紹介できるというのか!
 著者は、大学の教員ではあるが、臨床心理士の資格を有していて、スクールカウンセラーをつとめている。直接には、黒磯での女性教師ナイフ刺殺事件をひとつのきっかけにして、書き下ろされたようだが、「キレる」というキーワードに着眼して、精神医学でいうところの「解離(性人格障害)」という角度から、子どもたちの内面世界を読み解こうとしている。
 途中、やや専門的な議論に立ち入る箇所もあるが、全体としての論旨は明快で、実に腑に落ちる論述。見事というよりほかはない。
 これ以上の講釈は要らない。とにかく、読んでみるべし。


☆ 市川伸一 『学ぶ意欲の心理学』 PHP新書

 著者は、東大大学院教育学研究科教授。いま売り出し中の心理学者(認知心理学・教育心理学)。
 新書だから、なかなか読みやすいうえに、しかし学問的バックボーンはしっかりと踏まえられている。しかも、今日の学力問題、「学力低下」論議に絡んでいこうというスタンスで書かれているところが凄い! その意味でも、すごく刺激的な本だ。720円は、絶対に高くない、というか。
 「教育心理学」って、どんな学問なのか。どういう意味で、教育や教育実践にかかわってくるのか。そんなことに関心のある人には、ぜひお勧め。著者は、子どもたちを相手に学習相談(学習カウンセリング)をずっとやってきていて、効果的な学習法だとか、やる気をどう出すかみたいなことにも、一過言ある人で、実はそういう目的の本も出している。僕としては、そこまで実践的になると、少し興味が退いてしまうのだが、今回の本は、その点での自制が効いている点も好感が持てる(なんちゃって?)。
 なかに、和田秀樹、苅谷剛彦という、これまた売れっ子の論者との対談も収録されている。なんか本の作り方としてはずるいような気もするが、読者としてはやっぱりお得でしょう。


☆ 後藤道夫 『反「構造改革」』 青木書店

 今が、旬の本。小泉の「構造改革」は、なぜこれほどまでの支持を集めるのか? なんかおかしくないか? 「痛み」を分かちあうだって? 分かちもってない悪どい奴らはどうするんじゃい! かつての橋本内閣の六代改革とどこが違うの? それにしても、なんで今、日本人は一億総「構造改革」派に宗旨替えしてしまったのか? どうして自分の身を削ることを厭わないのか? 今の世の中、なんかヤバくない?
 こんなことを、一度でも考えたことがある人なら、きっと読める、おすすめできる。
 内容は、現在の日本社会ですすむ新自由主義改革に真正面から取り組んで、それを徹底的に、批判的に、分析した論考。現状分析だけではなく、対抗構想まで触れられている。目から鱗が落ちること、間違いなし。しかも、この著者の本にしては、いたって平明な書き方で、かつお値段も手頃(1700円)。
 専門性や議論の厳密さをある程度以上は落とさず、しかし、一般性と大衆性を持たせる記述ということでいえば、これしかないというすれすれの線なのかもしれない。それなのに、「社会科学」の香りがするところが、実にいい。
 実は、この本では教育改革のことは、ごく部分的にしか触れられていないが、この著者には教育関係の論文などもたくさんある。古くは、『競争の教育から共同の教育へ』(青木書店)、最近のものでは、雑誌『教育』のバックナンバーに当たられたい。


☆ 玄田有史 『仕事のなかの曖昧な不安』 中央公論新社

 amazon.co.jp で偶然見つけて、注文してしまった(本当は、「この本を買った人は、こういう本も買っています」という、人心をくすぐる紹介システムにまんまと誘導されてしまった)のだが、結果的には、いい本が買えた。読後感がすがすがしい。
 著者のことは、まるで知らない。労働経済学の人の本で、それなりの実証データなども踏まえて論じられているが、しかし本の作り方としては、いたって読みやすくなるよう工夫されている。サブタイトルに「揺れる若年の現在」とあるように、フリーターを中心とした、若者の仕事やキャリアにかかわる問題を中心的に扱った本。もちろん、経済学の門外漢でも読める。(ただし、「データは語る」のところは、辛かったが。)
 関心したのは、二つの点。
 若者のフリーター問題を、若者たちの意識の問題に還元してしまうのではなく、社会構造上に根を持つ問題であるとしてとらえる視点。ただ、これまでであれば、ありがちな議論でもあるのだが、この先の展開に目を開かせられた。要するに、その構造上の問題というのは、よく言われているように、日本的雇用の解体に象徴される、企業側の戦略の結果として描かれるのではなく、実のところ、日本的雇用の解体は騒がれるほどには進んでおらず、企業の側からすれば、中高年の余剰人員処理ができないがために、若年採用を控えざるをえないという帰結として生じてきているという視点。
 これでいけば、フリーター問題というのは、中高年への優遇と若年への冷遇という世代間対立の問題に見えてくる。そして、近年危惧されている失業率の増加も、実はマスコミなどの空騒ぎとは別に、中高年の大卒ホワイトカラーによって、押し上げているのではない、ということも。(端的に言えば、若年と自営業者が、その率を引き上げているのだという)

 もうひとつは、ではどうすればよいのか、という点に対するこの著者なりの真摯な追求の姿勢が、すごく好感が持てる。最後にある、高校生を相手に進路講話をした際のエピソードは必読だが、全体として「自分で自分のボスになる」という起業・自営がひとつのモデルと提唱されていて、かなり説得力があるように思った。
 テーマとしては時流に乗っているけど、内容的には足腰がしっかりしていて、かなりイケてる!



戻る