エヴァ人気を考える現代青年による現代青年についてのぼやき 序章  「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメを知っているだろうか。おそらく若い人であれば1度は耳にしたことがあるだろう。或は実際に見た人も多くいるかもしれない。アニメというとどこか閉じたイメージがあり、嫌悪感を示す人が多いかもしれない。ただこのアニメは放映後、瞬く間に若者の間で人気となり、アニメファン以外の人をも巻き込む社会現象とまでなった。人間関係を上手く築くことができずに、自閉気味になる主人公の葛藤描いたその内容は、多くの若者の共感を引き起こしたのである。  現代の青年については、現実指向が強く個人主義的な側面が語られているが、その一方で、人との関わりを回避しようとする側面があることも指摘されている。そうした若者の陰の側面の共感を引き起こしたのが、エヴァだったのではないだろうか。そしてそうしたアニメが社会現象とまでなったことは、現代青年の間に人間関係を築いていく上で困難を感じている人が多く存在していることを意味しているのではないだろうか。  そこで本稿では、エヴァンゲリオンに共感した若者の意識を分析し、その要因を考えることを手がかりに、現代青年の意識のありようと問題点について考えていきたい。 第1章 第1節 過去における青年像の変化  現代の若者が、他者と関係を築いていく上で困難を感じているということは、「コミュニケーション不全症候群」*1 などの形容がされることでも明らかなように、現代の若者の主な特徴として挙げられることである。そしてそうした現代の若者との間には様々な場面で世代間の齟齬が生じていることも、現代よく見られることである。ただ確かにこうした大人と若者との間の対立は、古代ギリシャの頃からいわれている「今どきの若者は」といった普遍的な現象のひとつとして捉える事もできるが、千石は現代の対立の構図を「世代論」の枠組みで考えなければ捉えられない問題であると指摘している *2 続けて千石は、これまでの若者に対する大人の小言は「年代論」の枠組み、つまり”若者も年をとれば立派になる”といった発想で考えられてきたが、現代における大人と若者との齟齬は、世代的な価値観の齟齬であると指摘している。故に現代の若者像を明らかにしていく上でも、そうした世代的な認識が必要であると指摘している。  世代の区分をするならば、現代の若者は「団塊ジュニア世代」或は「ポスト団塊ジュニア世代」に相当する。その親の世代に相当するのが「団塊世代」と呼ばれる世代であり、正確に言うならば「団塊世代」とは1947年から1949年にかけて生まれた、戦後ベビーブーム世代の別名である。「団塊世代」は、戦後に生まれ、民主教育を受け、日本国憲法に定められた諸権利を自明のものと考える世代であった。確かに「団塊世代」にも窮乏の記憶はあるものの右肩上がりの経済成長の中で育ったこの世代は、親の世代とは全く異なる感覚を持った世代であった。「団塊世代」にとって親の世代は、まさに封建的な体質を色濃く残した世代であり、この2つの世代の断絶は必然的なものとなっていくのである。その対立が社会的な事件にまで発展したのが、60年代安保であり、60年代後半の学生反乱であった故に「団塊世代」とは、まさに旧世代の意識と行動を反抗の対象として、自らの世代意識を構築した世代であった。  そして、70年代に生まれた世代が「団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア世代」である。 NOTE:*1中島梓「コミュニケーション不全症候群」ちくま書房 1995年  *2千石保「マサツ回避の世代」PHP研究所 1994年 P14〜P15 *3小谷敏「若者たちの変貌」世界思想社 1998年 P63〜P100 *4「カプセル人間」という用語は中野収によるもの(小谷敏「若者たちの    変貌」世界思想社 1998年 P127 重引) 第2節 世代的にみる現代青年像  70年代に生まれた世代が、今の若者に相当する「団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア世代」である。この世代は現代20前後・20代後半に相当し、団塊の世代を親に持つ世代である。「団塊ジュニア世代」というラベリングは、先行世代との断絶を経験し旧来の伝統に否定的だった「団塊世代」の子どもという意味合いが強い。伝統的な規範に拘束されることなく、快楽の原理にのみしたがって次世代を育成することは可能であるか、といった視点で現代の「団塊ジュニア世代」は評価されているといえる。ではその結果、現代の若者はどのように成長したのだろうか。現代の若者に対する評価は、極端に個人主義的であるとか、社会と歴史の発展に非主体的で無関心である、他者との関わり合いに困難を感じている、など様々なものがある。こうした若者の傾向は「団塊世代」以降の若者の間で浸透し始めていたものであるが、その傾向は現代において色濃くみられるようになってきている。  現代の若者が育った環境を簡単にみてみたい。竹内の指摘を引用すると、先ず家庭環境は、家庭が生産の場から消費の場に、信仰の場から余暇と休息の場に、地域に結びついていた家庭から地域と関係をもたない家庭に、また家族構成が世代家族から核家族に変わったことなどがある。このために、現代の家庭はその教育力を弱めその役割を学校に委ねることとなり、その結果家庭は保護の役割に集中するという傾向をもつようになったのである。こうした現代家庭の 過保護的傾向は、子どもや青年の両親への依存を強め、その結果子どもが自立の要請から逃避的になることを促す原因ともなる。また教育力の低下はいわゆる”友達親子”を増加させ、反抗対象としての親を失った子どもは、親のやさしさの中で甘えをひきずることとなる。*1  教育力を託された学校はどうかというと、「団塊ジュニア世代」が小学校になろうとうする1979年には、戦後最大の入試改革といわれる「共通一次」がスタートした。しかしそれは、当初の目標であった多角的選抜の実現、過熱化した受験競争の緩和という目的よりも、偏差値による選択の強化、大学の格差づけの進行、足きりの弊害など、新たな問題を生み出した。受験競争の激化は子どもの通塾率をあげ、1986年には全国の小学生180万人、中学生270万人が塾に通うようになったのである。また受験競争による弊害は”いじめ”を引き起こし、1985年の4月から10月までの7ヶ月の間に、全国の公立の小中学校・高校の約57%でいじめが起きている、という実態が明らかにされた。*2 「いじめ」の温床は、受験競争に代表される管理社会の序列化競争にあるといわれた。これが子ども達の心に不安や抑圧を生み、わずかな差異をもいじめの対象とするようになったのである。いじめられないようにしようと思えば、人から何ひとつ突出せず、すべて横並びでいるしかないという状況に、当時の子どもは置かれていたのである。  では彼らを取り囲んだ文化はどのようなものだったのだろう。「80年代の子どもらをめぐる文化的な環境は、消費文化として提供されるサブカルチャーによって覆い尽くされた」と中西は指摘する。*3 ファミコンやマンガが子どもたちにとって共通の文化経験となったことはその典型であり、またテレビ視聴の中心となる対象年齢が実質的に若い世代へとずれてゆく事態などもおこった。こうした子どもらを取りまく環境が変化したことによって、子どもの間には商品文化に過剰適応したり同調行動をとる傾向が生まれ、受験競争のみならず文化の競争が生まれてきた、と竹内は指摘する。*1 子どもの間ではファミコンのゲームで全クリ(全部クリアー)したことがすごいことであり、流行の歌を聴き流行の服を着こなすことがかっこいいことで、友人からも一目置かれるのである。まさに子どもたちを囲い込んだ消費文化は子どもの個性を際立たせる格好の道具だったのである。続けて竹内は、そうした消費文化を基準とした人間的な価値基準が子どもの間には浸透していき、それになじまない仲間を排除したり、迫害するという傾向が子どもの間で出てきたと指摘する。 NOTE:*1竹内常一「子ども・青年論」青木書店 1995年      *2文部省「いじめ・体罰」に関する調査 1987年 *3中西新太郎「子どもたちのサブカルチャー大研究」労働旬報社    1997年 P13 第2章 現代青年の主な特徴と意識 第1節 主な特徴  いままで現代の若者にあたる「団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア世代」の成育史について見てきたが、この世代に見られる主な特徴について考えてみたい。  大きな特徴として千石は、現代の若者は殆ど未来指向性を失ったと指摘する。*1 確かに現代の若者の間には、未来のために努力するといった意識が希薄になり、今を楽しむという意識が強く見られる。例えば最近の例では、ワールドカップサッカーの若者の盛り上がりぶりは、記憶に新しいことである。Jリーグにしてもひいきのチームのために大声を出し、そのチームが勝てば喜び負ければ涙を流すその姿は、今を楽しむ若者の姿そのものである。また家庭用ゲーム機の出荷台数は90年代に入って激増し、600万〜700万台で推移しており、ゲームソフトの開発は留まるところを知らない状況である。*2 今や家庭用ゲーム機は、若者にとって必需アイテムのひとつとなっているのである。またカラオケが若者の日常的な娯楽として定着したのも、90年代に入ってからのことである。*2 こうした「その場で、そのやっていること自体が楽しくなくてはダメ」という性質をさして、千石はそのような感覚を”コンサマトリー感覚”という言葉で表現している。そうした”コンサマトリー感覚”が今の若者に浸透しているというのである。  ただこうした現実指向性が若者の間に浸透していることの背景には、様々な問題が考えられる。例えばこうした若者の現実指向性は、日本における「理念の喪失」が背景にあると千石は指摘する。*1 日本がまだ物質的に豊かでなかった時代は、豊かになるための最善の手段、つまり効率のために役に立つことが最良であるとされ、それは同時に日本人の理念として存在していたのである。しかし、日本が豊かになっていくにしたがって、そうした理念は揺らぎはじめ、何が最良の事であるかといた理念が示されることのないまま、人々は70年代後半から80年代の消費社会を迎えることとなったのである。理念を失ったまま消費社会を迎えた人々は、その後何も役にたたないことにも、価値を見いだし始めていったのである。まさにグッチやプラダといったブランドの”記号”が価値あるものとして人々の意識の中に浸透していき、それは消費文化の氾濫と平行して進行していったのである。何の理念も示されることのないまま、90年代の成熟した消費社会の段階へ入っていくと、人々は消費文化にどっぷりと浸かり、そこでの楽しいことに価値を見いだし始めるようになった。今を楽しめばいいんだという発想の発生は必然的なもので、そうした考え方に説得力をもって反対することなど、誰もできなくなってしまったのである。そうした社会的背景を考えると、現代の若者の現実指向性は必然的なものであり、高度経済成長の当然の帰結といえる。  しかしそうした現実指向性が自明のものとして、90年代の若者の間に浸透した一方で、そうした現実指向性の”コンサマトリー感覚”に乗り切れない若者が増加しているのも、90年代の若者の大きな特徴である。  香山はエヴァ人気を説明するなかで以下のようなことを指摘している。「消費行動に走って、刹那的で楽しければいい、といういわゆる”イケてるやつ”ばかりが現代の若者の姿としてクローズアップされていたのに対して、そうではない、いわゆる”イケてないやつ”つまり今の消費文化に違和感を感じている人たちを救いとったのが、エヴァだったのではないだろうか。そしてそれは逆にいえばそうした人を救いとるシステムがいかに欠如しているかを表すものである。」*3 つまりエヴァというアニメが社会現象となったことは、そうした消費文化に乗り切れない若者が、多く存在していることを意味しているのである。 NOTE:*1千石保「マサツ回避の世代」PHP研究所 1994年 P66〜P68 *2中西新太郎「子どもたちのサブカルチャー大研究」労働旬報社         1997年 P13 *3香山リカ「SPA!」1997年704号(五十嵐太郎「エヴァンゲリオン快     楽原則」第三書館 P178〜P179 重引) 第2節 消費文化に乗り切れないという意識  香山の指摘によれば、エヴァは消費文化に乗り切れない若者を引きつけ、救いとったということになる。そしてエヴァが社会現象にまでなったことは、そういう若者が多く存在しているということにもなる。しかし香山の指摘する消費文化に乗り切れず、それに違和感を感じているという意識は、どういうものなのか。  現代の若者について指摘されることのひとつに、人間同士の摩擦を回避しようとする傾向があるが、このことの背景には現代の個人主義的な考え方が影響している。社会が成熟した消費社会になってくると、面白いかどうか、かっこいいかどうか、或は意味のあることをしているか、ということが求められてくるようになる。たとえばそれは、人と少し違った格好をするとか、少しこだわった音楽を聴くとか、かっこいいことをしてみるとか、という具合で、人と差をつけるわけである。そのように人と違うことが「個性」としてその人の評価になるのである。しかしその差異には合理的な理由があるわけではなく個々人の恣意によるものであり、「個性」という名のもとに進行する差異化は、価値観の多様化を進行させるのである。そのようにして恣意のおもむくまま細分化された「個性」は、異なる他者との相互理解を困難にし、また先に述べた現代のコンサマトリー感覚が、異なる他者との摩擦を回避しようとする意識を生むのである。同じような価値観をもつ人とは関わりをもっても、そうでない人とは出来るだけ関わりを持たないようにするのである。  またそのような意識は、同じような価値観を持つ仲間の間でも、若者に脅迫的な同調意識を生み出すことになる。例えば同じような価値観を共有する仲間の中で、自分が少し異なった価値観をもったとしても、摩擦を回避しようとする若者の間では、”理解できない”という考え方で排除されるか、無視されるのである。そうした馴れ合いによる友達関係は、何でも腹をわって話ができるという関係ではなく、同じような価値観をもった仲間同士で、楽しく過ごすための関係といえる。そうした関係は、楽しいことと傷つくことが紙一重の関係なのである。友達とは本来何でも話ができて、意見が合わなければお互いの意見を闘わせ、その過程でお互いの関係も深まっていくものである。そうした心開ける友達の存在が、他の場面での困難を癒し、また安心感ともなるのである。ピアジェによる青年期の発達課題の中にも、同性・異性の友人との交わりをもつことが規定されている。*1 そうした信頼できる友人関係築きにくいということは、同時に主体的に新たな環境へと踏み出していくことも困難にしているのである。けれど新たな関係を築いていったり、何かをするためには「頑張らなくちゃ」いけないし、周りに同調することなく自分の信念をもって人と関わっていくためには、そうした場面で傷つくことを恐れて「逃げちゃだめ」なのである。  この「頑張らなくちゃ」「逃げちゃだめだ」という叫びは、まさにエヴァの主人公であるシンジの叫びと同じものであり、先に香山がいった消費文化に乗り切れない人の意識とは、こうした背景を背負った若者の意識なのではなだろうか。 NOTE: *1ここでのピアジェ理解は竹内常一によるもの(竹内常一「子ども・青     年論」青木書店 1995年 P162 重引) 第3節 葛藤する自己の肯定  異なる価値観をもった人との関わりから「逃げちゃだめだ」、周囲に同調してしまう自分を捨て、信念をもった自分を築くために「頑張らなきゃ」という意味合いで、自己との葛藤に苦しむシンジの姿に共感する若者が多いことは、何も悲観することではないように思える。そのような葛藤を繰り返して、若者は成長し主体的な自己を形成していくものである。「現代の若者は自分勝手で刹那的で楽しさばかり求めている」、といった若者ばかりではなく、自己との葛藤を繰り返しながら苦悩している若者も多く存在しているのである。いいことじゃないか、と単純には思ってしまう。  しかし、なのだ。厳密に分析すれば、シンジが物語の中で繰り返し試みていたのは、自己肯定による自閉気味な自己の解放ではなくて、自閉気味な自己の解放にみせかけた自閉気味な自己の肯定であった、と佐藤は指摘する。*1 確かに、シンジが物語の中で繰り返し試みていたことには、自閉気味な自己を解放しようとしながらも、そんな自分を肯定しようという、良く言えば「癒し」悪く言えば「甘え」が潜んでいたようにも思える。エヴァの作者である庵野は、シンジの性格や心情が自分自身のそれと多分に重なっていることを示唆する発言を繰り返している。そう考えると、作品が自閉気味な自己の肯定という内容を帯びてくるのは、当然だといえる。故に、見る側がエヴァに共感したのは、「逃げちゃだめだ」「頑張らなくちゃ」といいながら、自閉気味な自己を解放しようとしているシンジの姿に共感したのではなく、自己を解放したくともそれが難しく、やはり自閉気味にならざるをえない自分を肯定しようとするシンジの姿に共感したのだと言える。自閉気味な自己を解放する始めの段階として、自己を肯定することは重要なことかもしれないが、これは容易なことではない。そしてその困難に背をむけて、自己の肯定ではなく自己の正当化に向かったとしたら、それはただの「甘え」でしかない。エヴァが見る側に共感を引き起こし「癒し」を与えたのは、エヴァという作品がこの「甘え」を、許容し受け入れたからだといえる。  香山が指摘するように、エヴァ人気は消費文化にのり軽やかに生きていくことが出来ない若者が増加していることを表すものだと考えられる。ただエヴァはそうした若者の間にあった「甘え」の意識を表現したからこそ、現代の若者の共感を生んだと考えられる。 NOTE:*1佐藤健志 STUDIO VOICE「君はエヴァに何を見たのか」INFAS        1997 年3月号 P38〜P39 第3章 現代青年の意識の問題点 第1節 「臆病な知性」ということ  現代の若者の中にある「甘え」の意識の持つ問題性について、竹内は「臆病な知性」としてその問題点を指摘している。*1 竹内は先の神戸児童殺傷事件に言及する中で、以下のような指摘をしている。  過去、日本の思想の中には”罪”という観念が存在していたのではないかという。それは「そんな罪なことはするな」とか「おてんと様が見ている」といった言葉に見られるように、天道や人道といった超越的な価値が人々の意識の中に存在しており、その価値にたいする義務や責務に背くことが”罪”であると自覚することができたのではないかということである。また一般に良心の自由とは、自己の良心にもとづいて自己の行為や思想を決定する自由であるとされているけれども、過去の人々の良心の自由の中には先に述べたような天道や人道といった超越的な価値にたいする義務や責務が含まれていたとしている。それに対して、現代の大人を捉えている新自由主義には、良心の自由という思想がないだけでなく、そこには超越的な価値にたいする義務が含まれているという思想がないと、竹内は指摘する。そういった意味で竹内は、宮田の「実際に人間の内的本質、その良心と信教が自由でなければ、およそ他のいかなる市民的自由も成長し得ず、また存立しえない」という指摘を引用して、現代は”市民的自由は良心の自由にその基礎をもつ”という古典的な原則を無視していると指摘している。そして現代の大人を捉える新自由主義は、このような良心の自由や絶対的な価値に対する義務のようなものを、嘲笑と敵視の対象にしているのではないか、そればかりではなく良心の自由にしたがって真の政治的・社会的責任や責務を果たそうとする市民的自由をも排撃の対象としているという。しかも、それは新自由主義の「なんでもあり」の自由を批判されることを極度に恐れて、それを正当化・合理化する「臆病な知性」というものを歓迎し、そしてそれと裏腹の関係において、「臆病な知性」は行為を事実に基づいて吟味しその価値を問う「勇気ある知性」というものを排撃すると竹内は指摘する。  このことは日本が、戦後の東京裁判において世界の人民によって指摘された”人道に対する罪”を、主体的に背負うことなく避けつづけてきたことによるものだと、竹内は指摘している。丸山の分析によると、*2 日本は明治維新によって「近代国家」としての体制を整えた。しかし、欧米諸国の「近代化」が政治権力と精神的権威の分離を、絶対君主とキリスト教会の分離の中で行ったのに対して、日本の「近代化」は精神的権威である天皇のもとに政治権力を集中することによって行われた。その結果、政治的決定はそのまま絶対的価値として権威化され、人々にとって犯すことの出来ないものとなったのである。そして、人々は政治決定に対して自分の意見を持つことは許されず、絶対的権威の元に、受動的に生きることを求められたのだ。その後、受動的な精神性を残したままで浸透したした戦後の民主化は、自由な良心を獲得することができないまま、権威的なものに支配される形で浸透していったのである。  そうして現代社会にはびこった「臆病な知性」は、真理・真実に触れることを極度に恐れ、ひたすら利害損得だけを問題にして、自らの行為を正当化する、故に思想的・政治的・社会的な責任をとろうとしないのだ、と竹内は指摘する。*1 そして、現代の子どもはそのような「臆病な知性」を受験教育から身につけてきた世代だという。また、新自由主義は「なんでもありの自由」を子どもに身につけ、どのような行為をも正当化・合理化することができることを学んできた世代であるという。それによって子どもは、自分たちの行為を事実にもとづいて吟味することを回避するだけでなく、それを価値的に評価することから逃避し、そればかりでなく、その行為を事実としても認めようとはしないのだという。  こうした竹内の指摘は、酒鬼薔薇生聖斗の声明文を分析して見えてきた側面で、彼にあったのは、自分を「透明な存在」にしてきたものを具体的な現実にそくして追及する「勇気ある知性」ではなく、すべてを抽象的なシステムのせいにして、児童を殺害し、身体を切断したことを合理化しようとする「臆病な知性」であったというのである。 NOTE:*1竹内常一「ひと」太郎次郎社 1997年10月号 P1〜P11 *2丸山真男「(増補版)現代政治の思想と行動」未来社 1964年 第2節 「臆病な知性」の蔓延  しかしその「臆病な知性」は現代の若者の甘えの意識にも、共通するものがあるように思える。例えば、大平は「やさしさの精神病理」という本のなかで、現代の若者が電車でお年寄りに席を譲らない、新しいやさしさについて述べている。*1 今までであれば、目の前にお年寄りがいれば、若者が席を譲ことは当然のやさしさであった。しかし、今の若者のやさしさはそういうことではない。席を譲ればそのお年寄りは、老人扱いされることになる。もしその人が、自分のことを老人だと思っていなければ、席を譲るという行為は失礼なことであり、その人を傷つけることになるかもしれない。そのことまで考えると席を譲らないことが、そのお年寄りにとってのやさしさだということである。しかし同世代の私が考えても、どうもそれはこじつけがすぎるんじゃないかと思ってしまう。ただ席を譲るというそれだけのことである。もしその行為が相手のお年寄りを傷つけたのならば、あやまればすむことである。これは、ただ単純に席を譲れなかった自分を正当化するための理屈にすぎないのではないだろうか。まさに「臆病な知性」のように思える。  エヴァに共感した若者についても考えてみよう。シンジは周囲の人間と上手く関わることができないで、極力人と関わることを忌避しようとし、それではいけないと思いながらも、結局自分は周囲の人間に傷つけられるばかりである。こんなに自分は人間関係をよくしようと「逃げちゃだめだ」と言い聞かせて、「頑張っている」のに、誰もそんな自分を認めてくれないし、見えない敵(使徒)は襲ってくる。だから自分は自閉気味になってしまうんだ、とそれを肯定するのである。物語の中で自分を襲う敵が、使徒という意味不明で抽象的な相手であることが、見る側にとって重要なことである。シンジに共感した若者の現実世界には、使徒は存在しない。あるのは、具体的に自分自身を傷つけている相手であるし、上手く関わることができない仕事仲間や友人達である。また周囲の人間と上手く関わることができなかったり、自閉気味になる自分を形成したのは、今まで自分を取り囲んできた家族であったり、教育であったり、具体的な現実社会である。現実に生きる私たちは、抽象的な何かによって脅かされているわけではない。具体的な現実によって脅かされているのである。このことをエヴァはなにも提示していないし、提示していないからこそ、若者の共感を引き起こしたのである。  こうして、何か抽象的なシステムによって私たちは脅かされているという感覚で、自分の行為を正当化する若者が多いことは、他にも見ることができる。以前、私は深夜に現役の大学生と評論家やジャーナリストが今の日本について議論を闘わせるという番組を見たことがある。その中で、選挙に投票しにいかない学生がその理由として「投票にいっても何も変わらないし、何もよくならない」と言ったのである。それに対して、あるジャーナリストは「では、具体的に現在の日本の何が変わってほしいと思っているのか」と質問したところ、その学生は具体的に何も答えることが出来なかったのである。毎日のようにニュースで伝えられる情報によれば、現在の日本にはいろいろとよくないところがある、ということは理解っている。ただ何が具体的によくなくて、そのためには自分は具体的に何をすればいいのか、という「勇気ある知性」は希薄なのである。最近の投票率の低下は、こうした若者が多く存在しているためだと考えることが出来る。 NOTE:*1大平健「やさしさの精神病理」岩波新書 1995 P5〜P6 終章 結論にかえて  こうして見てくると、現代の若者は自分自身が傷つくことには過剰に敏感になり、自分の行為を正当化することはできるものの、自分の行為を客観的に捉え具体化させていく意識が、とても希薄になっている現状が見えてくる。消費社会の成熟は、現代の若者にあらゆるモノや情報を常に提供してくれる環境をもたらした一方で、若者の「臆病な知性」を肥らせるという側面ももっていたのである。  過去の歴史において、そのおもて舞台に立ち中心となって歴史を動かしてきたその多くは、その時代の青年達である。その青年が現代の日本において、ここまで主体性を喪失していることは、実はとても危機的な問題なのである。しかし主体性を獲得していくことができずに自己との葛藤を繰り返し、それからも逃れ自己の正当化へと向かう若者が多く存在しているにもかかわらず、その対応は学校教育以外の場では、殆どないといっていい。  高校を卒業すれば若者は現実社会という荒波の中に投げ出され、仕事以外で若者が主体性を獲得していく場はほとんどないのが現状だ。現代の大学教育は、高学歴化による大学進学率増加によって、若者のモラトリアム引き延ばしの場としての機能を強めているのも確かである。また現在における成人式は、前近代社会の儀式が形骸化されて残されているにすぎず、ただ晴れ着をきて、20才を祝うものでしかない。また地域に根付くかたちで存在していた青年団は、その殆どが地域共同体の崩壊が進行する中でその機能を弱め、都市部になればなるほどその公共性は低下している。これからは、学生時代の間に、主体的な自己なるものを形成することなく社会人となり、そこでの企業理念や人間関係で困難を感じる若者が多くでてくると思われる。最近の30代の社会人の間で転職する人が多いことは、(不況の影響もあるが)その兆しであると考えることもできるし、大学を卒業しても就職しない若者が増加していることも、同様である。  主体的な自己の確立は、現在では青年一人々々に委ねられているといっていい。では、私たちは何をすればいいのか。自分自身のことを考えてみても、自分が自立しているのか、或は主体的な自己を確立しているのかは、よくわからない。私自身、例に漏れず卒業後に就職するつもりもなく、現時点で何か明確な目的意識をもてているわけでもない。人と関わることが煩わしいと思うことはよくあるし、できれば留年をして学生でいることを引き伸ばそうと、卒業を前にして考えたくらいである。そういう意味では、私は主体的な自己をもった自立した人間とはいえないのかもしれない。私の友人の中にも就職の決まっている人はあまりいないし、みなアルバイトを続けたり卒業後また別の学校に進む道を選んだ人もいる。また就職の決まった人も、とりあえずという意識が強く、働くことに主体的な意識をもっている人は少ない。  ただ、だからといって主体的になれること、つまりやりたいことを探すことに消極的になっているかというとそうではない。私も含めた若者が、皆それぞれにやりたいことを求めて刺激ある経験や人との出会いを求めていることも確かだ。「電波少年」という番組を知っているだろうか。若手芸人がユーラシア大陸やアメリカ大陸をヒッチハイクで横断したり、足で漕ぐ小さなボートでゴールを目指して航海をするといった内容のその番組は、若者の間で絶大な人気を得ている。ヒッチハイクや航海を続ける中で、若手芸人たちは様々な出会いや別れを経験したり、困難を経験する。旅先で優しい人々に助けられ涙を流したり、或は冷たい現実に歯をくしばったりしながら、旅を続ける彼らの姿が、若者のうずく気持ちを刺激するのだ。何か心から感動したり怒ったりする経験がしたい、そんな気持ちが若者の間にあるからこそ、電波少年は人気を得ているといっていい。  そんな、感動したり怒ったりするような経験をしたいと、多くの若者が望んでいることは確かだ。ただ、様々な経験をするなかでも、私たちが常に考えなければいけないのが、先に問題として挙げた、自分自身の中にある「臆病な知性」を自覚することだと思う。自分を客観的に捉え、自分は何から逃れようとし、何を誤魔化そうとし正当化しようとしているのか、そのことを自覚すると同時に、それを困難であっても少しずつ克服していこうとすることが必要なのだと思う。けれどこのことは口で言うほど簡単なことではない。時に、今まで自分を支配してきた、半ば絶対的な価値観を否定する事が必要な時もあるし、また子どものような自己中心性を削ぎ落とさなければならない時もあると思う。けれどそういう機会と場面を、経験の中で乗り越えていくことで、自分自身の中にあった「臆病な知性」というものが、少しずつ「勇気ある知性」へと変化していくのだと思う。  こんな偉そうなことをいっている自分も、まだその最初の段階で足踏みしているような感じである。ただこのゼミを担当していた児美川先生も、自分が自立しているのかどうかよくわからないということを、酒の席でさんざんぼやいて(くだ巻いて)いたので、何も焦ることなくのんびりと「勇気ある知性」を獲得していければいいのだと思っている。  最後に未熟な上に面倒くさがりな私を、長い長い目でみてくれた先生と、そんな私にいろいろと手助けをしてくださった方々に、感謝・感激・雨あられで、どうもお疲れさまでした。