紫煙との共存 〜喫煙におけるモラルとマナーを考える〜 1.はじめに  タバコは不思議な物体である。いつからともなく人類の中に広まり、そして有害であるにもかかわらず、根絶される気配がない。  タバコは嗜好品であると同時に高級品でもあった。裕福な階級にしか口にできない時期があったと考えれば、それなりにマナーもあったのかもしれない。しかし、現代において多くの人が口にするようになったと同時に、有害であることも認知され、マナーを確立する必要性が出てきたように思われる。 タバコは医学、歴史学において研究されてきた。しかし喫煙におけるマナーやモラルという観点は非常に少ないように感じられる。人類が喫煙という行為を始めてから現代にいたるまで続く、喫煙者と非喫煙者の争いという構図では同じ歴史を繰り返すばかりである。その歴史を繰り返さず、両者が共存する為にはマナーという観点が不可欠と私は考えた。 2.喫煙マナーとは  タバコという物体がいつどのようにして発明され、利用されるようになったかについてははっきりしていない。植物としての「タバコ」がアメリカ原産であるということはよく知られている。従って、喫煙はもともと南米アマゾンの原始林に住む原住民が伝承していた風習だといわれている。これがキューバを経由してコロンブス一行によってスペインに持ち帰られたというが定かではない。船乗りなどの手によって伝えられ、庶民層に広まったという話もある。ヨーロッパにおいて16世紀半ばにようやく記録が現れ始めたが、その存在は嗜好品としてではなく、「驚くべき効能を持つ薬草」としてであった。その結果、タバコはヨーロッパ中に広まることとなったが、16世紀末からタバコの煙と臭いを嫌悪する為政者や聖職者が排撃に動き出し、様々な角度から対立を生み、タバコ論争の始まりにもなった。  なお、日本にタバコが入ってきた時期は1600年前後といわれているが、正確な年月についてははっきりしていないという。少なくともタバコが日本に入ってきて、400年近い年月が経過していることは間違いないだろう。それだけの歴史を持ちながら、なぜ現代に至ってもマナーというものが確立されていないのか。近年まで有毒性が科学的に立証されていなかったことや、政府や自治体がタバコの販売によって得られる利潤にのみ着目し、売られたあとの喫煙というところまで関心を持っていなかったということが考えられる。  喫煙マナーといっても本質は社会におけるマナー、つまり「他人に迷惑をかけないこと」と全くかわらない。それをタバコに当てはめただけのものだが、実行がいかに難しいものであるかは、地下鉄の駅構内に禁煙の標識を着けたり、最近各自治体で施行され始めたポイ捨て禁止条例にタバコが入っていること等からもよくわかる。  タバコを一本吸ったときに出るものは「火」「煙」「ゴミ」の3つである。タバコを吸っているときに絶えず見える火。吸っている最中に吐き出される煙。そして吸い終わったあとの吸い殻となった「ゴミ」である。  消防庁の資料によるとタバコの「火」の不始末が原因と見られる火災は全国で1999年に6,415件起きており、火災原因の第2位、全火災に占める割合は11%になっている。火災の原因としてはこんろ・たき火・ストーブよりも多い。  喫煙に関連する「喫煙」「分煙」「嫌煙」「禁煙」という4つの単語がある。全てに含まれる語が「煙」ということからもわかるとおり、「タバコを吸う」という行為と「煙を出す」ことは切り離せない関係にある。その煙が線香のように無害であればここまで問題にもならないことだろう。しかし、残念ながら喫煙によって発生した煙は有害である。有害であるからこそ、周りに迷惑をかけないことが必要なのである。それは非喫煙者や子供を守るべく、マナーが必要であることも意味する。  近年、日本の喫煙マナーは、公共の場での規則としては以前より改善されてきてはいるものの、喫煙マナーを守る意識が浸透しているかというと、残念ながらとてもそうとは言い難い。禁煙箇所での喫煙、タバコのポイ捨て、絶えることのないタバコによる火災など、マナーが守られていればほとんど根絶できることが社会問題となっている。その結果は、禁煙箇所での喫煙は火災の危険や火災報知器の作動、そして空気の悪化である。ポイ捨ては各自治体によって「ポイ捨て禁止条例」の制定が広がりを見せていることからわかるように街の景観の悪化をもたらしており、それにかかる清掃費用等のコスト面。火災は言うまでもなく建築物などの焼失、死者・負傷者の発生である。  タバコの煙が人体の健康に害をもたらすということは説明するまでもないだろう。喫煙層がますます広がる一方で、その誰しもが無関係ではいられない煙草に潜む有毒成分のリストには、次から次へと新たな項目が加わっていることを、医学上の研究が日を追うごと示される。喫煙者自身にとっては健康に悪影響を与えることなど百も承知のはずで、喫煙者自身の健康上のアプローチから禁煙を迫る程度でタバコが排除できるのであれば、嫌煙権運動など起きる前に、喫煙者が自発的な禁煙を始めたことだろう。現代の喫煙を巡る最大の対立はここにある。  ポイ捨て、火の不始末はどんなことがあっても許されるものではないが、煙に関しては全く引かない人間がいるのも事実だ。タバコの煙が人体に有毒であることは明らかなので、本来嫌煙権を認め、迷惑をかけないことも喫煙マナーの基本的なルールではないだろうか。しかし、喫煙マナーは「タバコ問題」という大きな枠の中に収められ、健康問題や嫌煙権、それに喫煙防止教育や禁煙教育も含んでしまうために「タバコの排撃行動」と勘違いされやすい。  嫌煙権は"喫煙権"の反対の概念ではない。WHO(世界保健機関)が「非喫煙者のきれいな空気を吸う権利を侵してはならない(嫌煙権)」ことを前提に加盟各国にたばこ対策を勧告しているように現代の「喫煙の自由」はそれを除いた範囲でしかない。  喫煙者から見ればかなり批判的な話に感じるかもしれない。しかし、決してタバコそのものを否定しているわけではない。タバコの箱に手をかけたときに煙がどのような動きをするのか、吸った後にどのようなことをしなければならないかを事前に予測し、迷惑行為にあたるか否かを判断する必要性があると私は考える。 3.喫煙防止教育と禁煙指導とは  現在のタバコ問題で最も活発に語られているのが喫煙防止教育と禁煙指導である。本や実践によりいろいろな呼び方はあるものの、広く知られているのはこの2つである。喫煙防止教育は青少年期に学校教育において「喫煙の習慣をつけないこと」「最初の1本のタバコに手を付けないこと」を系統的・計画的に指導することを目的にしている。禁煙指導は文字通り、喫煙者に対して禁煙を指導していくものであり、主に健康や経済的損失の面からアプローチをかけていく場合が多い。医療、教育、労働環境など、様々な面で研究が行われているために、文献・実践は非常に多く見受けられる。また。この二つに対する境界線はあいまいである。どちらも「喫煙を防ぐ」ということが目的であり、成人した喫煙未経験者が喫煙防止教育を受けても問題ないし、逆に喫煙常習者の未成年者は禁煙の指導を受けるからだ。  文献「喫煙防止教育のすすめ」によると「…喫煙防止教育とは、心身共に健康な国民を育成するために、喫煙の害について正しく理解させる教育の過程であり、健康教育の重要な一分野である。健康教育は、健康についての知識を与えるだけでなく、個人の認識や態度に働きかけ、健康にとって望ましくない行動を阻止させることにある。したがって、喫煙防止教育(広義)の目的は、人の一生涯において喫煙未経験者に対して喫煙習慣を獲得しないように、また、喫煙者に対しては、喫煙習慣を絶たせ、さらにさらに喫煙問題についての感受性を養い、責任ある行動がとれるように育てるという人間の自己改革に迫る倫理的側面を持つ。すなわち、喫煙開始を防止する教育(狭義の喫煙防止教育)、喫煙習慣を止めさせる教育(禁煙または断煙の教育)そしてタバコの煙や吸い殻などが他人の迷惑になっていることを理解させる教育(倫理観の教育)の三つの側面を持つ。具体的には、タバコという教材を通して科学的認識を正しく育て、それを基礎として人が自分自身の生命と健康を大切にし、あわせて周りの人々の生命と健康を守る心を育てることにある…」となっている。(註1)  さらに同書では、次のことも述べている。子供を取り巻く社会環境は子供の喫煙を誘発する要素が蔓延しているといえる。家庭では親・兄弟姉妹で、学校では教師・友人・先輩であり、マスメディアではテレビのコマーシャル、新聞・雑誌の広告宣伝、地域社会では自動販売機や友人からの圧力である。多種の要因が複雑に絡み合っているために、これらを防ぐ手段は喫煙防止教育だけで済まない。学校・家庭・地域の連携が必要である。しかし、地域社会にしても家庭にしてもタバコのが有害であるという漠然とした意識はあっても知識や教育方法を学んできていないので、結局は教育機関が中心とならざるを得ない。児童・生徒は1日の三分の一から四分の一を学校で過ごすために、教職員や仲間の喫煙は喫煙への大きな要因となる。家庭に置いては子供が親の模倣をしながら成長していくため、親がタバコを吸うようでは「朱に交われば赤くなる」といわれるように結局は喫煙に走ってしまう。地域社会に置いては自動販売機の多さが問題となる。町中に非常に多く配置されているがタバコ自販機も例外ではない。機械は20歳以上か否かを判断できない。それ以上に自用に供するか否かは販売員がいても同じことだ。思春期以降になると友人の圧力などが行動要因になってしまう。続いてマスメディアである。テレビ・週刊誌・新聞などの宣伝・広告、あるいはドラマなどでの喫煙シーンは喫煙の大きな要因になる。以上のように学校環境、家庭環境、地域社会、そしてマスメディアにおいて、喫煙を引き起こす要因は多種多様にころがっている。  禁煙指導は喫煙防止教育以上に多数の実践例と書物の発行がされている。その多くに言えることは喫煙者そのものを直接悪だと決めつけていないことである。実際「…たばこをやめることは、あきらめや禁欲ではなく、自分を取り戻して、そうありたいと願う生活と自由を手に入れる手段…」(註2)という考え方が多く見受けられる。また、「…空気を汚しているとか不潔だとか言って喫煙者をけなすのは禁物です…」「…それでは自分自身は守れますが、周りの喫煙者には何の助けにもなりません。攻撃を受けた喫煙者は怒り、もっと惨めになり、その結果喫煙の必要性がさらに増すからです…」(註3)と書かれているように、強制的な禁煙は逆効果になりかねないと言われている。「精神的禁煙法」と呼ばれる方法ではかえってストレスが増してしまい、根本的な解決にはならないとも言われている。結局は本人の意志と努力で禁煙することになり、周りの人たちはそれの手助けをすることになるとされている。  これらの文献の共通した目的は「喫煙そのものをやめましょう」ということであり、吸う場合のマナーなどについてはほとんど触れられていない。つまり、本人が「害を承知で吸えばいい」などと考えてしまったら手の打ちようがないことになる。それは喫煙者がいる限り煙で害を受ける非喫煙者が出続けることを意味する。喫煙をやめたくない人に禁煙を強制することはできない。だからこそ、喫煙時に周りに害を与えないことを重点的に徹底させる必要があるのではないだろうか。 (註1)高石昌弘「喫煙防止教育のすすめ」 1993年 ぎょうせい P2〜3 (註2)足立淑子「女性の禁煙プログラム」 1998年 女子栄養大学出版部 P3 (註3)アレン・カー著、阪本章子訳「禁煙セラピー」 1996年 KKロングセラーズP203〜204 4.国・自治体の対策  各省庁や東京都はタバコ対策を講じているといっている。その内容とはどんな内容なのだろうか。各省庁のホームページなどに載せられた情報をひととおり挙げてみる。  厚生省のタバコ対策は1987(昭和62)年及び1993(平成5)年には「喫煙と健康-喫煙と健康問題に関する報告書」により、国内外の知見をまとめ、1995(平成7)年に意見具申された「たばこ行動計画」に基づき、「防煙」「分煙」「禁煙支援」の3つの柱にそった施策を講じているそうだ。1996(平成8)年には「公共の場所における分煙のあり方検討会報告書」をまとめ、非喫煙者を受動喫煙の害から保護するためのガイドラインを公表した。  労働省のタバコ対策は 労働安全衛生法に基づき「事業者が講ずべき快適な職場環境の形成のための措置に関する指針」(快適職場指針)を1992(平成4)年に公表し、喫煙対策に関する事項を盛り込んだことと、1996(平成8)年には、具体的な対策のために「職場における喫煙対策のためのガイドライン」をまとめたことである。  公安職では警察庁のたばこ対策は未成年者喫煙禁止法を所管し、未成年者喫煙防止の観点から、違反者の取り締まり(未成年者の補導、親権者や販売店への罰則)を行っている。消防庁のたばこ対策は火災予防の観点から、消防法、火災予防条例などを定めている。  運輸省のたばこ対策は鉄道営業法、旅客自動車運送事業等運輸規則、海上運送法等を所管し、主として安全上の配慮から公共輸送機関における喫煙を規制している。JRや営団地下鉄も加盟する(社)民間鉄道協会は、駅構内における禁煙を行っている。  環境庁のたばこ対策は、大気汚染による健康影響を調査する上で、喫煙の影響は無視できないとの観点で、成人を対象とした疫学調査を行う場合には、喫煙の有無を一因子として考慮している。また、大気汚染による健康被害予防事業の一環として、従来より喘息予防及び喘息患者の健康回復を目的として保健指導を行っている。その際、喫煙による気道粘膜損傷は患者本人はもとより、家族に対しても影響を与えることから禁煙を指導している。  大蔵省のたばこ対策は開放経済体制への対応とたばこ事業の効率的運営を図るためにたばこの専売制度を廃止し、たばこ産業の健全な発展と税収確保を目的として1984(昭和59)年「たばこ事業法」を制定し、翌年施行した。たばこ事業等審議会「喫煙と健康問題総合検討部会」の答申においては、喫煙と健康問題の認識の上に、広告や警告表示について記載している。  東京都は1996(平成8)年に出された「都立施設分煙計画」に基づき、東京都における分煙化推進のあり方について検討を重ね、1997(平成9)年3月「東京都分煙化ガイドライン検討会報告書」をまとめた。分煙化が世界的な潮流であること、都民の関心の高さ、交通機関等における自主的取り組みを踏まえて、受動喫煙の影響を排除、減少させるために、都民の自発的な意志と取り組みを基本に、公共の場所等における分煙化を推進する必要があるとされた。喫煙マナーに関しては喫煙者は、非喫煙者の受動喫煙による影響や不快感、ストレス等を与えることを認識し、喫煙するときには、次のことを喫煙マナーとして守ることが求められるとされている。(ア) 禁煙場所、禁煙区間での禁煙の遵守(イ) 混雑した場所での喫煙と歩きたばこの自粛(ウ) 吸い殻のポイ捨て防止(エ) 子ども、妊産婦等に対する配慮(オ) 家族への配慮である。  これらが国の各省庁と東京都のタバコ対策である。中央省庁の消極的な態度が目に付く。国税と密接に結びついている為に思い切った政策を実行できないのだ。  肝心のタバコ会社の自主規制は「1.テレビ、ラジオ、シネマ、屋外TVボード、インターネットによる製品広告は行わない」「2.見本たばこの配布は、街頭では行わない」「3.未成年者を対象とする製品広告・販売促進活動は行わない」「4.現在の社会環境に鑑み、次のような製品広告及び販売促進活動は行わない。@女性の喫煙ポーズを製品広告に用いない。A女性向けの新聞及び雑誌においては、製品広告を行わない」「5.広告物に未成年者の喫煙禁止文言等を明瞭に表示する。 」「6.包装に注意文言、T/N量(紙巻きたばこが対象)に加えて、喫煙マナー文言(喫煙マナーをまもりましょう)を明瞭に表示する」となっている。  この自主規制は形骸化していると言っていい。全国たばこ販売協同組合連合会、つまり店頭で販売する側は自動販売機の設置場所の制限(法律)に加えて、1996(平成8)年度より逐次、屋外自動販売機へのタイマー取り付けにより、深夜の時間帯(午後11時から午前5時)における稼働停止という規制を設けている。製造より小売りの方が積極的に自主規制を敷いているのは皮肉なものである。  全体的に見ると官公庁やタバコ会社の力は現時点では望めないといってよい。少なくとも国やタバコ会社にはマナーを向上させる意思ははないだろう。法で禁じていながら未成年の喫煙まで黙認しかねない状態にある。なりふり構わない喫煙が最も喫煙本数を増やすことになり、それだけ売り上げが伸びるため、期待する方が間違いなのかもしれない。喫煙マナーを守らせることに関しては都道府県、区市町村の条例に期待するしかないのが現状である。 5.マナー違反とは  前章までの話をまとめて考えると、マナーを守るということは結局「他人に害を与えないようにする」ということに他ならない。健康問題が引き金になっているのは間違いないのだが、伊佐山芳郎氏の「さらば、タバコ社会」を見る限り、問題はそれだけではないと私は考えている。喫煙者があまりにも大きな顔をして吸っているという社会環境にも大きな原因があるのではないだろうか。  文献「煙が目にしみる」から識者の反応を引用してみる。「…「吸いたくない人が煙を吸わされるのも困るが、『嫌煙権』等を盾にタバコを吸う自由を奪うのもの、いやな傾向だと私は思っている」(「新潮45」1997年3月号、曽野綾子氏)、「米国の禁煙ブームに悪乗りした形の規制強化に付き合わされる国民こそいい面の皮である」(「週刊ダイヤモンド」1997年4月6日号、車内記者)、「嫌煙権という言葉、正しくは『嫌煙草(たばこ)権』じゃないか。『煙』が嫌いなら、秋刀魚の煙も嫌なのか」(「週刊文春」1997年5月29日号、野坂昭如氏)、「最近の異常な禁煙ブームを認めるわけにはいかない。誰しも体によくないのは承知して吸っているのだから、それを理由に禁煙をすすめるとしたらよけいなお世話だ。"吸う権利"が無視されている」「自由は公平に保障せよ」(「女性セブン」1997年8月8日号、上坂冬子氏)…」(註1)  日本では嫌煙者の意思を問う発想が非常に乏しいと感じる。「タバコを吸っても良いですか?」という一言すら言えない、あるいは言う必要がないと考える人があまりにも多いのである。吸いたくない人が煙を吸わなくて良い方法の1つとして、タバコの煙が出るということを事前に察知することがある。タバコの煙が近くで出る場合は「申し訳ないのですが、ご遠慮いただけませんか?」と言う、聞き入れられない場合、あるいは禁煙スペースが空いている場合などは移動する等の予防策が取れる。よく考えてみると同じ有害な煙を発する行動としては部屋にバルサンなどで害虫の駆除をする場合が考えられる。この場合、周りの人々や消防署に報告することがルールである。煙の量の違いはあるものの、タバコの場合も同じように、許可を得るまでいかなくとも、喫煙の意思を周囲に知らせるのは最低限のマナーである。そもそも喫煙は目的が害虫の駆除などの必要な行動ではなく、「タバコを吸いたい」という喫煙者本人の欲求であり、なおさら周りの人々の理解を得なければならないのは言うまでもない。野坂氏はバルサンや殺虫剤ではなく、秋刀魚の煙を比較対象にしていること自体、タバコ会社と同じごまかしを言っていることに他ならない。駅のホームなどでは分煙の広告を表示しているが、ひとこと断りを入れることすらできない人があまりに多いために、「混雑時の喫煙はご遠慮ください」という一文を入れるに至っている。喫煙マナーがまるで守らない人がいる、あるいはいちいち看板を出さなければ守る人がいないという好例ではないか。地下鉄での終日禁煙すら理解できず、平然と吸っている人はごくまれにだが見かける。ここまで来るとマナー違反とか迷惑行為を通り超えてしまうのだが、ルールすら守れない者に容易に喫煙が許される社会というのもきわめて問題であると考えられる。1998年に流れた日本たばこのCMで、俳優の緒形拳さんが「タバコは大人にだけ許された嗜みです」と言っている光景が滑稽にすら見える。法律的には大人とされていても行動はまるで子供であり、未成年の喫煙を禁止する理由が一つ減ることにもなる。  議論はタバコの煙を巡る害に集中しがちだが、必ずしもそれだけではない。地方自治体から「ポイ捨て禁止条例」という法的な規制ができてきたのがゴミ問題である。その多くは空き缶・ガム・タバコを罰則の対象としている。つまり法的な規制が必要なほど、ポイ捨ては多いことになる。空き缶やガムも同じではないかという意見もあるだろう。確かに同じだ。同じくらい街の景観を汚している。そしてその清掃費用はほとんど公費や社費、つまり税金や企業の売り上げなどからまかなわれているのが現状なのである。そのコストは喫煙者だけではなく、非喫煙者も同率に負担することとなる。  そして火災の危険が放っておけない問題となっている。先ほど挙げたとおり、タバコの不始末は火災原因の第2位という不名誉な記録をもっている。つまり、タバコが火を伴う危険物だという意識はまだまだ低いのである。喫煙者本人がやけどをするだけであれば自業自得ということもできる。しかし、火災になると建築物などへの被害が当然のように出てくる。喫煙者全員がそこまで考ているのであれば、火の始末にはもっと気を使う人が増えるだろう。そして火災件数は現在の件数に比べ激減するに違いない。タバコよりも多い火災原因は放火しかない。「他人の迷惑を顧みない人間が火災の多くを引き起こしている」ということを考えられても仕方ないのだ。  喫煙マナーを違反するということはすなわち「迷惑タバコ」という考え方もできる。上の問題を全て満たす、つまり「煙の害」「ゴミ問題」「火災の危険」を引き起こす典型的な「迷惑タバコ」が1つ連想できるのではないだろうか。それは「歩きたばこ」である。公道でこれを制限する法律は何一つない。それでいて、最も不特定多数の人間に害をまき散らすことになる。  煙の害については「歩いているのだから煙が一カ所に集中しなくてよいのではないか」という考え方をする人もいるかもしれない。しかし、移動しながら有毒な煙を吐き出すのであれば車でもできるわけで、その煙も現在は環境技術が進歩したこともあり、タバコに比べたら害が少ないとされている。さらに、現在もハイブリッドカーや電気自動車の開発によりさらなる無煙化、無害煙化が図られている。それに対してタバコはどうだろうか。低タールタバコといっても喫煙者の吸い込むタールが減るだけで一酸化炭素をはじめとする他の成分が減るわけではない。さらに困るのが速度である。歩きたばこをする人間は他の歩行者と速度が同じなのだ。つまり真後ろを歩いている人にとっては有毒な空気を吸い続けなくてはならない。前から歩いてくる人は吸い続ける時間こそ後ろを歩く人より少ないかもしれないが、逃げようがない。すれ違った直後は漂う煙にさらされなければならないからだ。煙が一カ所に固まっている方が、避ける方法を察知できる分、まだマシというものである。なお、この煙について、歩きたばこの場合、周りの人間に喫煙の許可を得ていくとキリがなくなってくる。換言すれば、許可の得ようがないということになる。目立つ格好をして服やカバンに「私は歩きたばこをしています」と書いて歩かなくてはならないことになる。そのようなことは非現実的であるし、誰も実行しようとは思わないだろう。  ゴミ問題はポイ捨て禁止条例からも明かであるが、公道に散乱する吸い殻である。歩きたばこの場合、ポケット灰皿を携行するか公共の灰皿を見つけるかしない限り、ポイ捨てする結果になる。全員が全員ポケット灰皿を持ち歩くわけもなく、吸い終わったタバコを吸い殻入れを見つけるまで持ち歩く人など滅多に見ない。それにポケット灰皿を持ち歩いたり、吸い殻入れまで吸い終わったタバコ持ち歩くとしてもその途中で飛散する灰については全くの無関心である。地面に落ちてそのまま誰にも危害与えることなく土に還れば問題ないと言い訳もできるのだろうが、実際はそうもいかない。灰は非常に軽いために風邪ですぐに吹き上げられてしまう。そして地面に着く前に人の洋服などに付着する可能性が高い。歩きたばこの場合は近くに人がいるだけで衣服などに付着する危険性は高まることだろう。  火災の危険は歩きタバコの場合、ほとんどが火の不始末が原因である。ポイ捨てする人間にはほとんどが地面にタバコを落として踏みつけて火を消す。これで消した気分になってそのまま歩き去る人がほとんどである。だが、実際に火が消えているか否かに関しては全くと言っていいほど無関心で、それが原因で火災という場合もないとは限らない。また、他の歩行者とすれ違う際に衣服や皮膚に触れてしまい、やけどや衣服の損傷などを引き起こすこともあるだろう。  マナー違反、すなわち迷惑タバコの廃絶こそ喫煙者と非喫煙者の共存に向けた第一歩である。 (註1)渡辺文学編著「煙が目にしみる」 1997年 実践社 P3〜4 (註2)伊佐山芳郎編著「さらば、たばこ社会」 1987年 合同出版 P46〜47 (註3)同上 P47 6.マナーとモラルの確立にむけて  現在、日本における喫煙マナーは世界で最も低いレベルにあると考えられる。少なくとも先進国の中では分煙が進んでいないことは飛行機内で喫煙席を設けようという論議が後を絶たないことからも明かだろう。 また、分煙をしていない飲食店も多く、この業界では「目先の収益のためには」という発想がどうしても拭いきれないようである。それにはどうしても「大人の無知・無理解」というものが関係していると思えてならない。親の世代が無知であるために、子の世代に知識が与えられず、親の行っている迷惑タバコをマネしてしまう。さらに親が嫌煙権を「一部の感情的な煙嫌いが騒いでいるだけだ」と考えていれば子供にも同じような発想が受け継がれないという保障はどこにもなくなってしまう。青少年に対してのみ、喫煙防止を訴えても親が我が物顔でタバコを吸っていたら、悪影響を受けても不思議はない。つまり、知識を与えるべき相手は全ての人間なのである。  教育や法律によって知識を与えてもモラルの守れない者があまりにも多い場合は、強制的にいくつかの害を排除するしかない。ニコチン入りのガムと禁煙パイプ、それにかみタバコ。この3つには強制的に問題になりうる二つの原因を強制的に排除させる。煙をださないために非喫煙者から見た場合、現在もっとも問題視されている煙害を排除することが最も容易にできる。そして火を使わないため、火災の原因になることもまずないだろう。ガムと禁煙パイプはコストダウンがはかられていないうえに、日本においてかみタバコの流通量は驚くほど少ない。ポイ捨ての減少にはつながらないという問題があるが、それでも煙と火災の不安がなくなるだけでも大きな進歩になるだろう。  自治体や企業にも創意工夫が欲しいものだ。自治体の制定したポイ捨て禁止条例の多くは罰金で終わってしまう。これでは見つからなければよいという発想になり、再犯がなくなることはおそらくないだろう。そこで、吸い殻拾いなどのボランティアで罰金の減額、あるいは免除をするほうが、より建設的である。さらにJTなどのタバコ会社は有害な煙の出ないタバコの開発やタバコの副流煙を大気に放出しないような器具の開発・販売、あるいは禁煙パイプ・ニコチンガムのコストダウンを図るべきである。  嫌煙権の盛り上がりの影で喫煙権を訴える喫煙者も少なくない。非喫煙者の嫌煙権を踏みにじり、幼児や妊婦の健康を脅かし、街の景観を汚し、挙げ句、不始末によって火災を引き起こす現在の状況がある限り、喫煙権が制限されるのはやむを得ないことだろう。他人の権利を奪ったり、害を与えることを許すまでに自由を拡大することは、もはや自由ではなく放縦であり、極端な換言をすれば暴挙ともなるだろう。逆に嫌煙権の枠を超えた「タバコは法律で禁止しろ」という言い分も行き過ぎである。いつまで経っても直ることのない喫煙者の態度にいらだち、非喫煙者がこのような考えに至ることもわからないではないが、それは分煙やモラルの確立をはかってもなおかつ、迷惑タバコが横行し、深刻な問題として続く場合の話であろう。現在、考えられがちな喫煙権対嫌煙権という構図は少なくとも間違い、あるいは時期尚早であると私は考える。その考え方が喫煙者・非喫煙者の双方にある限り、対立の解消もマナーの遵守も悲観的であると言える。喫煙者と非喫煙者が共存できる社会を造った上で、喫煙権と嫌煙権の言い分をどこまで認めていくかを話しうのがすじであろう。。  まず、徹底するべきは分煙であり、否定されるべきは歩きたばこである。喫煙者以外の人間に煙を吸わせてしまうことがいかに害であるか、火の不始末がいかにして火災の原因になるか、そしていかに路上のゴミの量を増やしているかを教えなければならない。その際、「タバコをやめる」とか「タバコを減らす」という選択をするのは周りの人間ではなく喫煙者本人である。そのためには喫煙におけるマナーや正しい知識から再度教育しなければならない。喫煙教育が学校教育で確立しているとは言い難く、本来すべての国民に一斉に教育しなくてはならないかもしれない。  喫煙が法律で禁止されていない以上、周りに命令する権限はない。しかし、それは「どこでも吸ってよい」ということではないし、「タバコは絶対悪である」ということでもない。あくまで周囲の人間との調和によってモラルが確立されるのであり、それを守って共存してこそ社会なのであると私は考えている。 参考文献 ・渡辺文学編著「煙が目にしみる」 1997年 実践社 ・伊佐山芳郎編著「さらば、たばこ社会」 1987年 合同出版 ・北沢杏子「こんにちは!禁煙教育」 1986年 アーニ出版 ・上野堅實「タバコの歴史」 1998年 大修館書店 ・浅野牧茂「たばこの害を正しく知る」 1988年 労働旬報社 ・棚瀬孝雄「たばこ訴訟の法社会学」 2000年 世界思想社 ・足立淑子「女性の禁煙プログラム」 1998年 女子栄養大学出版部 ・高石昌弘監修「喫煙防止教育のすすめ」 1993年 ぎょうせい ・加藤治文、福島茂「肺がん時代」 1995年 講談社 ・白石尚「タバコの教科書」 1984年 日本禁煙協会 ・花井喜六「アメリカ禁煙革命」 1994年 近代文藝社 ・ロバート・D・トリソン編、逸見謙三監訳「喫煙と社会」 1987年 平凡社 ・厚生省「喫煙と健康」 1993年 保健同人社 ・中野区企画部広聴課編集・発行「喫煙と健康に関するアンケート調査」 1987年 ・アレン・カー著、阪本章子訳「禁煙セラピー」 1996年 KKロングセラーズ