『インターネットで変わる日本語の文章』  【1】はじめに〜乱れる日本語とインターネット〜  【2】インターネット上で見られる日本語の文章・文体   A eメールに書かれる日本語の文章について   B チャット・BBSで書かれる日本語の文章について   C ホームページ上で書かれる文章について  X まとめ  【3】日本語の文章・文体の変化の流れ  【4】日本語の文章・文体のこれから  【5】ますます乱れていく日本語の文章  【 参考文献一覧 】  【6】おわりに 〜ほんとに、”しゃべるように”書く〜  【1】はじめに〜乱れる日本語とインターネット〜  ここ数年、「日本語が乱れてきている」といった話題が各メディアをにぎわせている。2001年11月の日本語教育新聞の調査によると、今の日本語について「乱れている」と感じている人は対象の約9割にものぼっていると言う。他にも、旺文社・生涯学習検定センターが2002年7月6日〜22日までに実施した、小・中・高校生を対象の「ことばに関するアンケート」によれば、(以下旺文社HPより引用)「今回の調査では、「乱れていない日本語」を使用している子どもが、極端に少ないことが判明。多くの子どもたちが、自分自身の日本語に自信のないことが明らかになった。「あなたはふだん乱れていない、きれいな日本語を話していると思いますか?」という問いに対して、「はい」(8.7%)と回答した子どもは1割に満たず、「いいえ」(49.4%)、「わからない」(41.0%)と答えた子どもが合わせて9割を超えたという。つまり、「きちんとした(きれいな)日本語を話している」と自信を持って回答できる子どもは、全体の若干1割しかいないということになる。「いいえ」と答えた5割だけでなく、「わからない」と答えた4割の中にも、自分自身の使用している日本語に自信が持てない子どもが少なからずいると思われる。」というように、今の子どもは「乱れている日本語」を日常で使用しているという結果となっているようだ。  こうしたこれらの調査から、日本人とくに若い世代の言葉の乱れが指摘され、そこから日本語の将来を危惧するといった主張の論文や記事を多くみかけるが、筆者はそういった日本語の現状を憂える主張にはいささか懐疑的である。筆者自身、現状の「乱れている」といった状況も感覚ではわかるが、それによって具体的にコミュニケーションの困難を感じることはない。「一昔前と比べれば」という条件をつけ、そしてその「一昔前の日本語」を「乱れていない日本語」とするならば、確かに現在の日本語は「乱れてきている」と言えるであろう。しかし、21世紀の日本社会は確実に、昔と比べ大きく変わっている。社会の変化が人々の話す言葉を変えていくというのは自然のことのように思えるが、それでも「今の若い人達が使う日本語は、昔に比べてダメになっている(昔の方がよかった)。」というような回顧主義的な主張が多く見られるといったこともまた事実である。  「日本語が乱れてきている」というのはつまり「若い人達が使う日本語」が乱れているということを指すのであろう。そしてそれが「書く」ということなると、事態はさらに深刻であるらしい。近頃の若い人は「日本語が書けない」というのである。それは、若い人達の文章が「乱れている」ということなのだろうが、果たしてそれは本当にそうなのであろうか。  2003年現在、いま、かつてないほどに多くの人が、普段の生活の中で自然に文章を書いている。いや「文章を打っている」と表現した方がより適切であろうか。20世紀末に登場した、インターネットというメディアは、人と人とのコミュニケーションの可能性を一気に拡大させた。特にインターネットによる「文章のやりとりによるコミュニケーション」の発展は目覚ましいものがあるといえる。インターネットの登場・普及により、人々の間で、ケータイやパソコンを使用しての電子メール(eメール)利用、BBS(掲示板)・チャットの利用、WEB上(ホームページ上)での自己表現など、「文章のやりとりによるコミュニケーション」が年々盛んにおこなわれるようになっている。「文章のやりとりによるコミュニケーション」が人々の間で盛んにおこなわれるということは、インターネットによって文章の書き手が増えたということであり、つまりそれは「文章を書くという行為の大衆化」とも言えよう。いままであまり文章を書かなかった人達が、インターネットを利用することによって文章を書くようになった。「乱れている」日本語しか書けない若者達、「日本語が書けない」と指摘される若者達も、ケータイやパソコンなどを使い、たくさんの文章を書いている。つまり、インターネットの登場・普及によって、若い人達は、その「乱れている日本語」を量産し続けているのだ。これらのことは良くも悪くも、現在の日本語の文体・文章の変化に大きく影響していると考えられる。  「日本語の乱れ」について、筆者は「乱れ」ているのではなくて「変化」しているのであって、社会が変化している以上は言葉が追従して変化していくことは当然であると考える。が、その日本語の変化を、ただ「乱れ」と解釈し日本の将来を憂いだり、逆に「それは乱れではない」と開き直るだけでは、なにも見えてはこない。そこでもう少し、客観的なものさしで、この変化について考察していく必要があるのではないかと考えた。  小論ではまず、インターネットの登場・普及によって大量に生み出されている日本語の文章について分析・考察をおこなう。そしてそれらの文章の変化とはどのようなものであるのかということを、歴史的な流れもふまえ、いくつかの視点から考えていくことにする。そうしたうえで、日本語の文章がこの先どうなっていくのかということを予測していきたい。 【2】インターネット上で見られる日本語の文章・文体  インターネットの登場・普及によって、今まで文章を書くということをあまりしなかった人々も、積極的に、そして大量に文章を書くようになった。情報通信総合研究所がおこなったインターネット利用実態調査(2002年5月14日から2002年5月22日 有効回答者数9、870名・回答者属性など詳細についてはhttp://www.commerce.or.jp/result/min30/ を参照)によると、その利用目的は、個人的なコミュニケーションが68,9%、個人的な情報発信が14,3%となっている。(なお、利用目的で一番多かったのは、個人的な情報収集で84,5%)これら各回答を具体的に解説していくと、個人的なコミュニケーションというのはインターネット上にアクセスしてBBSを利用、チャットに参加することなどがあげられる。また個人的な情報発信というのは、主に自分の所有するホームページ上で自ら情報を発信したり、または他人が運営する参加型の情報発信サイトに参加するといったことを指すのであろう。そして個人でのeメールの利用となると、97、2%とほとんどの人が利用しているという結果が出ている。これらのインターネット利用の際には、他者とのコミュニケーションをとるという利用目的で、利用者自身が自ら書いた文章をインターネット上に発信している。その「他者」が、必ずしも「特定の他者」であるとは限らないが、コミュニケーションをとることを目的にして文章を書いて、発信しているかぎり、それらの文章はやはり自分以外の他者に向けて書いているのだと考えられるであろう。  この章では、現在インターネット上でのコミュニケーションをする際に、インターネットユーザーが使用している日本語の文章に注目していきたい。インターネットユーザーが利用する個々のメディアごとに、そこで表現される日本語の文章の性質や特徴の現状について、分析・考察し、それを以下に示していくこととする。(なお、分析・考察の対象とするのは、現在、ある程度、人々に一般的に利用されているものに限らせていただいた。また、分析・考察の対象をABCと3つの区分に分類しているが、これはカルチュラルエコロジー研究会による「コミュニケーション領域の区分」に従ったもので、1対1のコミュニケーション領域に当てはまるメディアをA、n対nをB、1対nをC、としている。) A eメールに書かれる日本語の文章について @ インターネット利用実態調査も示すように、現在のeメール利用者はかなりの数にのぼっている。eメールは、インターネットの利用形態の中ではもっともユーザーが多いと考えてよいだろう。eメールはパソコン・携帯電話・各種モバイル・家庭用ゲーム機(プレイステーション2など)から利用される。1対1の文章でのコミュニケーションメディアとして、インターネットの登場以前にあったものは「手紙・はがき」であるが、これらのメディアの利用はeメールの登場・普及によってどんどん減少している。このことは「インターネット利用者の4人に1人は年賀状・クリスマスカードを出す代わりに電子メールを出しているが、これらの人はeメールを手紙・はがいの代替手段として使っている。」「eメールを1日に数回以上、またはインターネットを長時間使っている人は、手紙・はがきを出す回数が減少したと答える傾向がある。」(「情報革命の光と影」p80より)ということからも考えられる。さらに、eメールと手紙・はがきとの間には一定の代行関係があるとも考えられるが、手紙・はがきとeメールの決定的な違いは、低料金で利用ができるという点と、即時に相手との文章の伝達・交換が可能な点である。低料金であるため、手紙・はがきよりも手軽に、頻繁にeメールを利用することができる。そして、文章を発信してすぐに相手に届くので、相手からの返信も早い。即時に相手に伝わり、相手の返信も早いeメールでの文章のやりとりは、相手を目の前にして話しているという感覚に近くなってきている。手紙・はがきによる文章のやりとりは、相手に伝わるまでに時間がかかるため、当然その返信も遅い。文章のやりとりをおこなっている相手の存在は遠くに感じる。逆に、eメールは即時に伝達・交換が可能なため、手紙・はがきよりも、やりとりする相手の存在は近く感じる。相手を目の前にして話すような感覚で文章を書くようになったということは、その文章がより「書きことば」から「話しことば」に近づいているという傾向があるということが言えるのではないか。 A @では、eメールに書かれる文章について、同じコミュニケーション領域に属する既存のメディアである手紙・はがきで書かれる文章との違いは、文章がより「書きことば」から「話しことば」に近づいていることであると指摘した。その中でもとりわけその傾向が強いのは、携帯電話によるeメール(以下、ここではケータイメールと呼ぶ)の文章である。携帯電話というメディアはその性質上、常にそのユーザーとつながることが前提となっているため、携帯電話に送ったeメールは即座に相手に伝わっている、読まれているだろうというような判断がされる。実際にもパソコンなどの他メディアにくらべて、はるかに相手に読まれるまでの時間は早い。さらにeメールを送信したユーザーは、すぐに相手の返信を期待し、受信した側もそのメッセージに対してすぐさま返信をおこなうという傾向がある。これらの要因が重なり、ケータイメールでの文章のやりとりは、パソコンなどのメディアでのやりとりに比べて、相手を目の前にして話すような感覚に、さらに近いものになっていると考えられる。  ここでもう少し、ケータイメールの文章について具体的に考てみるために、筆者自身が普段やりとりするケータイメールの文章を、ひとつ挙げてみることにする。例えば先日、友人と買い物をするため待ち合わせをする時、「ねー今日さー。渋谷の駅前に3時ねー。」と筆者が送信したら、すぐに「あーちょっと遅れるかもしんないから、買い物でもしててー。着いたら電話するー。」という返信が返ってきた。つまり電話でしゃべる内容を、そのまま文章にして送信しているかのようなやりとりになっているのだ。このように完全に話すように書いているのは、さすがに筆者のまわりでもまだまだ少数であるが、筆者がケータイメールを毎日使用している限りでは、極めて話し言葉に近い文章が、しばしば送られてくることは事実である。  この傾向は、筆者のまわりだけに限らず、ケータイメールを使用するユーザー全般に言えるのではないか。2001年1月に文化庁が実施した「国語に関する世論調査」(16歳以上男女3000人対象)では10代女子の70.8パーセントが、いわゆるケータイメールの利用者であり、そしてその文章表現については、「しゃべるように書けるので思ったことがいいやすい」と圧倒的に思っていたようだ。このことから、2001年当時から、「しゃべるように書く」という傾向があったことも伺える。また、「ケータイメールをやりとりする相手は日常的にもよく会う友人が大半である」ということから、まさにその友人達と会って話をするかのように、ケータイメールで文章をやりとりしているのだと言えよう。しかも友人同士のやりとりの中では、当然、敬語や謙譲語などの堅苦しい表現、つまり「書き言葉」が使われることもない。極めて書き言葉の含有率の低い文章が、(話し言葉の含有率の高い文章が、)eメールでのコミュニケーションでは使用されているのだ。 B eメールでやりとりされる文章は、手紙・はがきに書かれる文章と比べて、はるかに「話し言葉」にちかい。「文章を書く」というよりもむしろ「しゃべりかける」というような感覚で、文章を書いている。だからeメールでの文章は、しゃべっている時のように、つっかえても気にせず書き続けられたり(結果、誤字脱字が多い文章となりやすい)、文法も語順も気にせず、思ったことを口に出すのと同じように、どんどん書けてしまう。  一方、eメールで書かれる文章は、手紙・はがきで書かれる文章よりも、安易に作成される傾向が強いようにみえる。eメールは簡単に素早く、しかも頻繁に交換できるため、伝えたいことを一回で全て書かなくとも、後でまた追加してすぐに送ることも容易である。反面、手紙・はがきのやりとりでは、文章の伝達に時間がかかるため、一回の文章できちんと伝わるよう気を付けなければならない。eメールでは、会話をするのと同じように、何回かメッセージの交換をしながら内容を詰めていくことが可能であるため、手紙・はがきの文章よりも、気軽に文章が書かれているのではないかと考える。  さらに、eメールでやりとりされる一回の文章量(情報量)についても指摘しておきたい。上述のように、eメール、とりわけケータイメールの文章などは、しゃべるように書いているため、一回のやりとりで書かれる文章量(情報量)は極めて短いものである。この原因はいくつか考えられるが、一番大きいものはやはり、eメールの文章は簡単に素早く、しかも頻繁に交換が可能なため、一つのメールに多くの情報を盛り込む必要がないからであろう。ケータイメールでは、(ケータイで文字をうつ早さによっても異なるが)一般的には一回に数十字から数百字程度の文章がやりとりされる。それは、私達の普段の会話の中でのやりとりに例えると、一回に話される会話の文字数とほぼ同じである。このことからも、eメール、特にケータイメールのコミュニケーションというのは、会話によるコミュニケーションに近い感覚でおこなわれているのだと考えられる。 B チャット・BBSで書かれる日本語の文章について @ 通信の分野において、1対1または1対nの領域のコミュニケーションは既存のメディアでもある程度なされていた。しかしn対nのコミュニケーションは、インターネットなしにはほとんど実現できなかった新しいコミュニケーションの形態である。インターネット上におけるn対nのコミュニケーションを実現しているメディアの代表的なものとして、チャットやBBS(電子掲示板)などがあり、そこでのコミュニケーションも全て文章のやりとりによっておこなわれている。   A チャットとは、カルチュラルエコロジー研究委員会によれば「インターネット上にある特定のコミュニケーション空間(電子空間・サイバースペースなどと言われる)の中で、同じ時間帯にそれぞれ関心を持つメンバーがeメールで交換される「おしゃべり」に参加する」というコミュニケーション形態であると説明されている。チャットでは、コンピューターのディスプレイ上に時々刻々と表示されていくメッセージに対して、次々に、それぞれのメンバー達が自分の意見を書き込んでいく。このやりとりの中では、チャットに参加するメンバーはまさに「おしゃべり」をするのと同じ感覚で、文章を書いているのである。(ただし、普通の「おしゃべり」と大きく違う点は、その「おしゃべり」が文章として記録される点であることに注意したい。)これらのことから、チャットで書かれる文章は、ケータイメールやパソコンメールなどよりもさらに話し言葉が強い文章であると言える。  チャットでやりとりされる文章は、しゃべるように書いていることと、その文章の伝達・交換の速度がeメールのやりとりよりも高速であるため、eメールのそれよりも気軽に、そして大量に発信されている。eメールよりも、しゃべるように書くという傾向はさらに強いものとなっており、誤字脱字が多く、文法や語順もいいかげんなものが多くなっている。しかし、そこでの文章を書くことの目的は、「おしゃべりをする」ことであるため、チャットの場に限れば、そういった文章であってもさほど問題はないと言える。 B インターネットの世界は非常に個人の匿名性が強い社会である。それはチャットのコミュニケーションの中でも例外ではなく、それまで交友関係もなければ、もちろんまったく面識のない人ともチャットでコミュニケーションをとることもある。ときには、まったく別の人格になりかわって参加することも可能だ。こうした状況でのコミュニケーションでは、書かれる文章はますます書き言葉ではなくなる。   C BBS(電子掲示板)でのコミュニケーションは、カルチュラルエコロジー研究委員会の区分によれば、BBSに発言された文章が誰でも閲覧可能で、そこでされている話題に自由に参加できるという観点から、チャットと同じくn対nのコミュニケーション領域に当てはまるとされる。確かに、誰にでも閲覧可能・発言可能という点ではn対nのコミュニケーションであると言えるかもしれない。しかし、個人ホームページなどに設置してあるBBSでは、そのBBSの管理者(サイトの管理者)の返信を期待して書くことが多く、どちらかといえばeメールでのやりとりに似た、1対1のコミュニケーションの領域に区分されるような場合も多数ある。さらには、BBSを閲覧する不特定多数の人に向けて問いかけるような場合、つまり1対nの領域に区分されるような発言も見られる。そうしたことからBBSは、A・B・Cの領域のコミュニケーションが同時にされているメディアであると言える。  BBSでやりとりされる文章は、様々な性格をもっている。1対1のコミュニケーション、つまりサイトの管理者やBBS内の特定の人に向けて文章を書き込むといった場合には、eメールの文章のように伝える相手が明確である。そしてチャットのようにみんなと同じ話題を共有し、自分の意見を文章として書き込むといったn対nのコミュニケーションの場合には、その話題に参加している人達に向けて自分の意見を書き込んでいるのである。そして自分の考えや知識などの情報を不特定多数の他者に向けて書き込むというように、BBSという場を使って情報発信をするといった1対nのコミュニケーションの場合にも、自分の書き込んだ文章を誰が読んでいるのか、つまり自分の書いた文章が伝わる相手をある程度想定しながら書いているのである。  要するに、BBSで書かれる文章というのは、そのコミュニケーション対象や目的にあわせて、その性格を変えているのである。Cでもひきつづき述べるが、インターネットで書かれる文章というのは、そのコミュニケーションの対象、すなわち自分の書いた文章の読み手に向けた文章という性格をもっているのである。   C ホームページ上で書かれる文章について @ インターネット上での1対nのコミュニケーション領域に属するメディアは主にウェブサイト(ホームページ)などがある。1対nの領域に属する既存のメディアとしては、テレビやラジオ・雑誌・本など色々と挙げることができるが、いずれも一個人が手軽に利用できるものではなく、そこから自分の考えを文章で発信できる人は、ごく限られた人達であった。しかしインターネットの登場で、文章を書くことを職業としない人達も、個人のホームページを立ち上げることによって、格安の費用で簡単に、自分の書いた文章を世界の不特定多数の人々に向けて発信できるようになった。インターネットの登場は1対nのコミュニケーションの可能性をいっきに拡大させた。そしてそのことは、文章を書くという行為の大衆化をいっきに推し進め、日本語の文章の変化に多大な影響をもたらしていると考えられる。 A インターネット上で自由に、そして手軽に世界に向けて自分の書いた文章を発信できるようになったことで、多くの人が1対nのコミュニケーションをするようになった。文章を書くことを職業としていない多くの人達は、体裁などを気にせず、自由気ままにホームページ上に文章を書き世界中に発信する。ホームページに載せ、インターネット上に公開するということは、そこには必ず、その文章の読み手が存在することになる。よってホームページ上に書かれる文章は、必然的にその読み手を意識した文章になっていると考えられる。このように、1対nのコミュニケーションで書かれる文章においても、eメールやチャット、BBSで書く文章と同じように、自分の文章を伝える相手(文章の読み手)を意識して書いているのである。 B 人気歌手の宇多田ヒカルのホームページ「Hikki’s WEB SITE」(http://www.toshiba-emi.co.jp/hikki/)で公開されている、彼女の日記の文章を見てみると、その文章は極めて話し言葉に近いということがわかる。彼女はおそらく、ただパソコンに向かって文章を書くという感覚よりもむしろ、その日記を読んでいるだろうと想定される人々、つまりその文章の読み手に話しかけるような感覚で文章を書いているのだろう。ある時はファンに向けて、またある時はプライベートな友人に向けて、さらには世の中の日本人あるいは世界中の人々に向けて、しゃべりかけているように文章を書いているのである。 C 宇多田ヒカルのような有名人に限らずとも、インターネット上で公開されている日記の文章は、Bで述べたような特徴が見られるものが多い。従来の日記のように、今日一日の出来事を手帳やノートなどに記しておくというのは、その文章は主に自分自身に向けて書かれていることが多いと考えられる。(その日記が自分以外の誰かに読まれるということが前提となっていないため)しかしインターネット上に公開することによって、その日記には、自分以外の読み手が存在するようになる。その日記の書き手は、自分以外にも読まれているということを意識しながら、想定されるその不特定多数の読み手に向けて日記を書いているのだと考えられる。  つまり、インターネットに公開されている日記にもきちんと読者がいて、日記の作成者もその読者を意識して日記を書いているということなのである。読者を意識して日記を書くことは、その読者とコミュニケーションをとるという感覚に近い。そしてプロの書き手でない彼らは、文章を書くに当たっての様々な制約(文章・文体の体裁、編集作業など)を気にせず、自分の意思を読者にしゃべるように、自由に書く。インターネット上に公開されている日記の文章の多くは、文章の体裁を整えたり編集することできれいな文章を作ろうということよりも、日記を通して自分の意思を読者に伝えるということ第一目的として書かれていると考えることができよう。そしてその読者というのは、全世界の人々を対象とすることも可能である。全世界の人々に向けて、自分の今日一日の出来事をしゃべるように文章に書き、それを発信することも可能であるのだ。 X まとめ  これまで、インターネット上にあるABCのメディアで書かれる文章について、個々の特徴を分析・考察してきた。それらをまとめると、インターネット上で見られる日本語の文章は(従来の、インターネット以外で見られる文章に比べて)@書き言葉よりも話し言葉が強い(しゃべるように書いているため)、A他者とのコミュニケーションを第一目的として書いている(読み手を意識した文章であり、さらに文章を書く際に自分の意思を他者に伝えることに重点をおいているため、”正しく”て”きれい”な文章の体裁などはあまり気にしない。)といった特徴があると言える。  さらには、B文章を書くという行為の大衆化、ということも言える。文章を書いて自分の意思を伝えるという行為は、これまでそれを職業とする人々によってしか頻繁におこなわれてはいなかった。一般人が日常生活の中で、自分の意思を誰かに伝えるために、自発的に文章にするということは、インターネット登場以前にはあまりあり得なかったことであろう。いまやインターネット上では、「読み手を意識して」「自分の意思を伝えるための」文章を書く人達が、すごいいきおいで増え続けている。そしてこの傾向は、インターネットの普及が今後も増えていくと予想だれることから、今後もさらに強まっていくと考えられる。 【3】日本語の文章・文体の変化の流れ  日本語では”常識的には”書き言葉と話し言葉は違う。明治以降、言文一致が進む中で、日本語の文章・文体は、より話し言葉に近い形に変化をしていった。つまり、日本語の文章・文体は、昔は書き言葉が強い文体であったものが、言文一致が進む中で、話し言葉とのバランスをとるようになったのである。とはいえ、現在の日本ではまだまだ書き言葉より話し言葉の重みが軽い。【1】で述べた「若い人達は日本語が書けない」というのは、書き言葉が若い人達のあいだでダメになってきたということであろう。書き言葉より話し言葉の重みが軽い以上は、インターネット上にみられるような、話し言葉に重きをおいた文章は「ダメな日本語の文章」と言われる。しかしインターネット上では、特に若い人達によって、その「ダメな日本語の文章」が量産されている。インターネットの普及で文章を書くという行為の大衆化が進めば、その「ダメな日本語の文章」はますます増え続けることであろう。  若い人達のあいだで日本語の文章が「ダメ」になってきたのは、”言文一致”が進んでいるからであろうか。インターネット上にあふれる「ダメな日本語の文章」というのは、書き言葉よりも話し言葉に偏った文体であるeメール・チャット・ホームページの個人日記・BBSなどに書かれる文章のことを指すのであろう。ならば、話し言葉の強いそれらの文章は、「ダメではない」とされる、書き言葉と話し言葉のバランスがとれているとされてる文章よりも、はるかに”言文一致”が進んだ文章であるのか。この章では、日本語の文章・文体の歴史的変化の中で、インターネット上に見られる日本語の文章・文体というものがどのような位置づけになるのか、特にインターネット登場前と登場後の変化の違いを比較して考察をしていきたい。  「概説日本語の歴史(1995・佐藤)」にしたがって、日本語の文章・文体の歴史を簡単に見ていく。日本語の文章・文体は、古代には言文一致の傾向が強かったが、近代に入ると言文不一致、つまり話し言葉と書き言葉の隔たりが大きくなってきた。話し言葉自体は、古代から近代にかけても急激に変化をしてきたにもかかわらず、書かれた言葉、つまり書かれた文章は教育や伝統のうえにたち、むしろ保守的の面に傾く。特に学問や伝統の世界では旧来の文章が保持されていった。明治期に入っても旧来の文章が存続したが、やがて実用的な普通文ができる。言語学者や小説家、思想家などの運動などを通して、書き言葉を話し言葉に近づけた言文一致体が成立する。それ以降、言文一致の運動は次第に活発になり、標準語も作られ、今日の日本語文章・文体の基礎となる口語文体も確立していく。こうして口語文体が確立してからは、さまざまな文体の個性的な試みがなされ、戦後から現代にかけては、ジャンルや用途に対応した類型的な文章形態から、次第に口語の強い個性的な文体への変化・多様化が見られるようになる。そして戦後の日本語の文章・文体というのは、基礎を話し言葉におき、漢字使用を制限したわかりやすい文章になるという傾向はさらに強まった。(以上「概説日本語の歴史」より要約)  インターネット上の日本語の文章・文体は @ 書き言葉よりも話し言葉が強い A 他者とのコミュニケーションを第一目的として書いている、という特徴があり、さらにはB 文章を書くという行為の大衆化、という傾向が見られる、ということは【2】で述べたとおりであるが、これらを言文一致の流れの中で考えてみたい。言文一致の流れについて、佐藤氏が指摘しているのは、明治以降の言文一致運動の中で、いくら言文一致が書き言葉を話し言葉に近づけることであると言っても会話をそのまま写しても文章にはならず、その書き言葉と話し言葉のバランスを取るために多大な努力を要した、という点である。佐藤氏の指摘のように、書き言葉と話し言葉のバランスを取ることを追求していくのが言文一致というなら、話し言葉がそのまま表現されている、チャットなどで書かれる文章は、それは言文一致ではない。書き言葉を無視し、しゃべるように、話し言葉をそのまま書く傾向があるインターネット上の日本語の文章・文体というのは、「言」ばかり追求し「文」を捨てている。それは言文一致というより、むしろ言文追従であると言えよう。 しかし、インターネットの日本語の文章が、文章として成立していないかといえば、そうでもない。しゃべるように書いた、会話そのままのその文章を通して、他者とのコミュニケーションを取るという目的は十分に果たしている。コミュニケーションがとれているということは、読み手の側もその文章を理解しているということであり、よってその文章が成立していないと言い切ることはできない。  日本語の文章・文体の変化を、明治からインターネットの登場までと、登場後で区切るとすれば、その前後の変化のもっとも大きな違いは、その変化が大衆主導で起こっているという点であろう。近代以前、言文一致の運動の始まりから口語文体の成立、そして戦後からインターネット登場以前までの日本語の文章・文体の変化は、主に文章を書くことを職業としていた人達など、一部の知識人達の影響によるものであったということは、その歴史を見てもわかることである。それがインターネットの登場・普及によって、文章の書き手が爆発的に増えたことで逆転したのである。インターネットの登場以前までは、ほとんどの一般人にとって、文章を書くということは一部の知識人達が作り出した日本語の文章・文体のモデルにしたがって書くということであった。論文やレポート・書類や手紙などの文章を書くという際には、その一部の知識人達が作り出した体裁ルールにある程度従って書かなければならなかった。逆に、そういったルールのもとでしか文章を書く機会はなかったとも言えるだろう。それがインターネットの登場によって、体裁などを気にせず自由に自分の意思を文章で書きあらわす機会が増えた。文章の体裁を気にせず自由に文章を書けるとなれば、自分の思ったことをそのまま、話すように書くようになろう。そしてそのような人々が圧倒的に増えれば、話し言葉が強い文章が世の中にあふれるというのは当然のことである。  インターネット登場後の日本語の文章・文体の変化が、言文一致ではなく言文追従であるのではないかと指摘した。なぜインターネット上で見られる文章が言文一致の方向を目指さず、言ばかりに傾くかといえば、それは文章を書く目的が違うからであろう。【2】で述べたように、インターネットの登場・普及によって文章を書き始めた人々の多くは、他者とのコミュニケーションをとることに重点をおいて、文章を書いている。さらに文章を書くことを職業としていない彼らは、文章を書くにあたっての体裁など様々な制約に縛られることなく、自由に書くことができる。文章としての体裁を整えたりすることよりも、自分の意思を相手に伝えることを最優先して文章を書いているのである。  制約に縛られず自由に文章を書くことができる状況で、自分の意思を相手に伝えることが最優先されれば、しゃべるように書くのが自然であろう。なぜなら、一般人が他者に自分の意思を伝える手段として文章を書くなどというのは、インターネット登場以前までは非常に稀なことであったからだ。それまで主に会話することを通して、他者に自分の意思を伝達し、他者とのコミュニケーションをとってきた多くの人にとって、自分の意思を表現しやすいのはやはり、書くことよりも話すことなのである。そういった人達によって、日本語の文章・文体の変化がなされることになれば、言が追求された変化をするのは当然のことであると考える。  このように、インターネットの登場・普及によって生まれた書き手の存在が、いまや日本語の文章・文体の新しい変化の流れを作り出している。これはいわば、いままでにはない、革命的な変化であると言えるだろう。そして今後もインターネットの普及は進み、多くの一般人の書き手を生みだすであろうことから、これからの日本語の文章・文体の変化も、大衆主導で草の根的に展開されていくのではないかと考える。 【4】日本語の文章・文体のこれから  以上、【2】ではインターネット上に見られる現在の日本語の文章の特徴をまとめ、【3】ではインターネット登場前と登場後の日本語の文章・文体の変化の流れを考察してきた。ここでは、これら【2】【3】をふまえ、インターネットの影響で、インターネット以外の他メディアも含めた日本語全体の文章・文体が今後どのように変化していくのかについて予測していきたい。 @ あらゆる日本語の文章は「話し言葉化」が進む    日本語の文章は、ケータイメールやEメール・インターネット上などインターネット上以外の場所でも、同じような変化を見せていくであろう。インターネット上に限らず、あらゆる日本語の文章が「話し言葉化」していくのではないかと考える。【3】でも述べたように、今後の日本語の文章の変化は大衆主導で展開されていくことが予想され、その変化とは主として「話し言葉化」の傾向にある。世の中に話し言葉の文章が増えるということは、世の中の読み手もその話し言葉の文章に触れる機会が増えるということであるから、読み手はどんどん話し言葉の文章に慣れていくことだろう。  世の中の読み手が話し言葉の文章に慣れてくれば、出版メディアなども、その読み手に合わせて文章を変えていくしかない。実際に最近、文芸などの伝統的な出版メディアなどにも、しゃべったように書かれる対談原稿などが多く見られるのは、そういった読み手重視の傾向なのだと考えられる。  大学におけるレポートや卒業論文などについても同じことが言えるだろう。大学・短大の進学率は60年代半ばまでは2割に満たなかったが、現在は5割近い。それに少子化が重なり、2009年には進学希望者と入学者が一致する「大学全入時代」がやってくるという。「大学の大衆化」がこれからどんどん進むであろう。そんな状況の中、旧来のレポートや論文の手続きを、学生に要求し続けていくのは果たして可能であろうか。世の中の変化に合わせて、大学側も体質を変えていかねば、その流れから取り残されることは間違いない。学生の提出するレポートや卒業論文に、いままでのように正しい手続きを求めるのはどんどん不可能になっていくことと考えられる。しかし、ひとつ断っておくが、論文形式の文体が完全になくなってしまうかと言うとそうではないし、必要ないと言うことでもない。やはり研究の分野においては、それは必要であろう。研究者と研究者間における研究成果の伝達、つまり研究者同士でのコミュニケーションにおいては、いままでの歴史の中で洗練されてきた論文の体裁や手法というものが、その研究者同士のコミュニケーションを円滑にするといった点でも効果を発揮するのであろう。では、それを大学という場で同じように用いるのはどうか。大学という場が研究者育成のための場であるなら、学生にそれを求めるというのは筋が通っているが、実際にはどのくらいの学生が、卒業後に研究者の道を歩んでいるというのか。それを考えると、今日の大学教育において学生達に従来通りのレポート・論文の正しい手続きをふまえろと要求するのは、それはもはや世の中の流れとは逆の方向に向いているのではないだろうか。 今後も文章を書くという行為の大衆化が進むことによって、世の中のあらゆる文章の「話し言葉化」が進む。いままで普通とされてきた書き言葉の強い文章なども、いま現在の人たちが、古文を「研究」や「趣味」の対象としているように、一部の知識人の特別なものになるだろう。つまり、「話し言葉化」が進むことによって、話し言葉が強い日本語の文章が主流となっていくだろうと考える。 A 造語の台頭  【3】でも述べたように、インターネットの登場前後の日本語文章の変化で決定的に異なる点は、その変化の担い手の中心が文章を書くことが職業である人達から、文章を書くことを職業としない普通の人達になったという点である。そしてインターネットをして文章を書く人の多くは若者達なのである。その若者達が会話の中で作り出す新しい言葉が、インターネットの登場によってそのまま文章化されるようになった。若者言葉も、文章化され文字として記録されることにより、社会の中でいっそう定着していくようになると考える。インターネット登場以前は、若者達が作り出す言葉は流行語として人々の間で使用され、一定の時期がすぎると消滅してしまうことが多かった。会話の中だけで使用された若者言葉は、口から発せられたあと、その場ですぐに消えてしまい残らない。しかし、メールやHPなどで文章化された若者言葉は、文字としてそこに記録され、いつまでも残る。インターネット登場以前でも雑誌やテレビなどで取り上げられ、その若者言葉も記録されてはいたが、やはりそれはある程度編集をされたものであるし、一方的に発信されるだけのものであるため実用的ではない。実用的でないため、定着はしづらい。インターネット上では、若者達が実際の会話の中で使っている言葉が、そのまましゃべるように文章として表現・記録され、それが若者同士の間でやりとりされるうちに、次第に広まって定着していくのだ。  さらにインターネットは、その若者言葉を全国に広める役割も果たしている。インターネット上のコミュニケーションというのは、互いのアクセス場所にはなんら必然性がない場合が多い。そのアクセス場所が東京であろうと大阪であろうとそのコミュニケーションは変わらずおこなわれる。したがって、インターネット上での若者言葉の流行というのは従来のように地域的な現象であるとは言えない。例えば渋谷の若者達の会話の中から生まれたとされる「ちょー」「ガンギレ」「ってゆーか」「みたいなー」などの言葉が、全国各地の若者達の間で使用されているというのも、渋谷からインターネットによって全国に発信され、インターネット上でのコミュニケーションの中で多用されたからであろう。  いままで会話の中でのみやり取りされ、すぐに消えていた若者言葉などの流行語も、インターネットで文章化されることによって記録され蓄積する。そして、それはその若者言葉が生まれた地域を関係なく、インターネット上のコミュニケーションの中で使用され、全国各地に広まり定着していく。そして今後も、インターネットユーザーの増加に伴い、この傾向はいっそう強まっていくだろうと考えられる。 B 尊敬語・謙譲語の衰退と丁寧語表現の重要性  現在の日本語のコミュニケーションで、尊敬語・謙譲語表現が使われることは非常に少なくなってきたが、それは「しゃべるように書く」インターネットの上の文章においても同様である。いや、むしろインターネットの登場によって、尊敬語・謙譲語表現が急激に影をひそめたのだと言っても良いだろう。  インターネット上で書かれる文章は、体裁を気にすることや、相手に敬意を払うということよりも、相手に自分の意思を伝えるということが優先されて書かれている。さらにはインターネット上は匿名性の強いコミュニケーションの場であるということも、インターネットでのコミュニケーションで書かれる文章に、尊敬語・謙譲語表現が使われなくなることの原因のひとつであろう。インターネット上では相手と対等な関係でコミュニケーションがされることが多いので、そのような場では、尊敬語・謙譲語表現を使う必要はないということなのだと考える。  しかし、だからといってインターネット上で、コミュニケーションの相手に不快感を与えるような文章を書いてもよいわけではない。そもそもインターネット上での文章コミュニケーションは、顔を突きあわせてのコミュニケーションと異なり、相手の気持ちを推し量りながらコミュニケーションを進めることが難しい。顔の表情、ボディーランゲージ、声のイントネーションなどは、対面コミュニケーションのほとんどを占めていると言われているが、それらが欠如するインターネット上の文章コミュニケーションでは、双方に誤解が生じることが少なくない。このようなインターネット上での文章コミュニケーションを円滑に行うためには「丁寧語表現」を用いることが重要であると考える。  最近の若者達は尊敬語・謙譲語表現ができていないと言われている。それは確かにそのとおりであろう。しかし、若者達もコミュニケーションをする相手によって、きちんと日本語を使い分けている。例えば、上司に対してや接客時のお客様への対応などの時の言葉遣いと、親しい友人や家族などと話す時の言葉遣いは違う。そのときどきで、丁寧な言葉遣いに切り替えたり、きちんと使い分けてはいるのだ。その使い分けとは、「です・ます」などの言葉を用いた丁寧語表現であるか、そうでないか、ということである。このように、丁寧語表現がきちんとされていれば、コミュニケーションの相手にも失礼にはならない。インターネット上で、匿名の相手に尊敬語・謙譲語表現を使用するのは違和感があるが、それならば丁寧語表現を使えばよい。丁寧な表現の文章でコミュニケーションをとることによって、双方の誤解は少なくなるのではないかと考える。 C 日本語の文章の表音文字化現象  日本語の文章の話し言葉化が進むことによって、その文章の表音文字化が進むのではないかと考える。つまり、表意文字である漢字よりも、仮名の含有率の多い文章が主流になって行くのではないか。インターネットの登場によって新しく生まれた書き手の大半は、しゃべるように、文章の体裁よりも自分の伝えたいことを優先して書くため、無理に漢字を多く使ったり難しい表現の文章にする必要はないのである。とくに「しゃべるように書く」という行為は、その現象をさらに加速させていくことであろう。 【5】ますます「乱れていく」日本語の文章  【1】で最近の日本語は乱れているという指摘があることを述べた。そして本稿を通してインターネット上で展開される日本語の文章の変化について考察をおこなってきたが、どうやらその変化とは、世で指摘されるような「乱れる」という変化であるようだ。しかし、今後も日本語の文章が「話し言葉化」していき、ますます書き言葉が弱くなるといった変化の傾向は続くであろう。  筆者はこの傾向を「乱れ」ではなく「変化」であると、もう少し前向きに考えたい。確かに最近の日本語の文章の話し言葉化の傾向を「乱れ」と考えることもできるが、世の中にはそういった批判的意見は十分すぎるほどあふれている。ここではあえて、最近の日本語の変化を肯定的に考える立場にたち、「乱れ」という指摘を前向きに批判していくことで、本稿のまとめとしたい。  社会が変化すれば、それに追従して言語も変化するのは当然である。インターネットの登場は、日本社会を大きく変化させた。インターネットによって、人々はパソコンの画面を通して手軽に世界中にアクセスできるようになった。手軽に世界にアクセスする環境と、社会の国際化を目指す風潮は、特に若者に影響を与えている。若者に国際化を求むならば、国際コミュニケーションに大切な言語を学ばなくてはならない。今の時代、国際コミュニケーションに欠かせないのは英語であるが、その英語の文章は、主に話し言葉が強い文章である。そしてさらに世界の他の国々でも、その文章は話し言葉が強い傾向であるという。 とすれば、この話し言葉化する日本語の変化は、国際的な傾向であると言えるのではないか。だとすれば、今の若者の日本語は乱れていると嘆くのは、実は国際化の嘆きだということになろう。 インターネットで書かれる文章は、他者とのコミュニケーションを取るという目的が主である。体裁をととのえ美しい文章を書くことや、知識や思考を武器にして自分を認めさせようとする文章を書くことでもない。ただ相手に自分の意思を伝えるため、しゃべるように文章を書く、つまり相手とのコミュニケーションの手段として文章を書いているだけなのだ。インターネットの登場で文章を書くという行為が大衆化することによって、コミュニケーションの手段として、それを目的に文章を書く人が圧倒的に増えた。そして、それまで文章を書いて自分の意思を伝えることをしなかったたくさんの人達は、一番慣れているコミュニケーション手段である「会話」の表現を文章を書く際に取り入れた。つまり、会話をするように、しゃべるように文章を書くのである。 しかし、文章を書くということがコミュニケーション手段である以上、その文章が相手に通じなければその意味をなさない。「乱れている」と感じ、「若者の言葉はわからない」「若者は日本語が書けない」と言う人々とはコミュニケーションを取れてはいないから、そういった意味では、日本語の文章の変化の、今後の展開についてはもう少し考え直さねばならない部分もあるだろう。若者達の使う日本語について理解できない人々は、日本語について理解できないというよりも、若者自体が解っていないのだ。若者達とコミュニケーションを上手く取れないことを、日本語が乱れているから理解できないと問題をすり替えているだけなのだと考える。それならば、問題は双方にある。  これからの日本語の変化に必要なことは、正しい体裁が整った美しい日本語や書き言葉と話し言葉のバランスが取れた日本語の文章を求める、あるいは戻すことではなく、その場その場に応じて、コミュニケーションを取る相手に合わせた適切な日本語を使用することなのではないか。つまり、大切なのは、きちんとしたコミュニケーションセンスを身につけ、お互いが相手に対して適切な日本語を用いることだと考える。日本語の変化は確実に、国際化の方向へ向いている。あとはそれをどうお互いのコミュニケーションの中に上手く取り入れていくか。それこそが、今後の日本語が、乱れていくか、それとも社会の中で上手く発展していくかの分かれ目ではないか。 【6】おわりに 〜ほんとに、”しゃべるように”書く〜  おわりに、いままでの文体とは少し趣向を変えて、インターネット上で見られる日本語の文章のように「しゃべるように書く」をじっさいに意識しながら、この卒業論文のまとめと解説をしていきたいと思います。この卒業論文は、教育学科の先生に向けて、あるいは教育学科の学生の人達に向けて自分の考えを書いているので、ここでは、それらの人達に向けて「しゃべるように」書くというわけです。 ぼくの書いた卒業論文の【1】から【4】までの文章は、自分に出来るかぎり、わざと難しい表現を多用して書きました。そうすると、論文の体裁というのを意識するあまり、逆に自分の本当に言いたいことが言えず、わかりにくい文章になってしまいました。さらに、扱ったテーマも少しわかりにくいものであったと思われ、ぼくの卒業論文は、わかりにくいことを、余計にわかりにくいままに伝えることになっているのだと思います。  つまり、ぼくの卒業論文は、かたちを整えようとすることを意識するあまりに、自分の伝えたいことがおいてけぼりになってしまっているということだろうと思います。実は、【1】から【4】の文章は、まずはじめに「しゃべるように書く」ことで自分の考えをまとめた文章を作成し、それを自分に出来る限りの難しい表現に手直ししていった文章なんですね。いったん「しゃべるように」書いた文章を、ひらがなを漢字に直したり、自分にとって解りやすい簡単な表現をわざわざ難しい表現に直したり、「〜と思う」という表記を「〜と考える」というふうにして作った文章なわけです。そうした作業の中で、だんだんと自分の言いたいことから離れていくようなかたちに、結果的になってしまいました。  「体裁を整えることにとらわれて自分の言いたいことを言えない」というか、今までの”書き手”は「自分の言いたいことを解りやすく書くよりも、体裁を整えることばかり意識して書いていた」というのを感じます。「自分の言いたいこと」がおいてけぼりにされている文章が学生の間で多いのは、そういうことなんでしょう。”それっぽく”見せるために、わかりにくいことをわかりにくく表現する、知性的な文章に見せるために体裁を整えようとすることが、自分の言いたいことを表現しきれない原因のひとつになっているのかもしれないと思います。本文中の、文化庁が10代女子におこなったアンケートで「しゃべるように書くので思ったことがいいやすい」という人が多かったというのは、「体裁を気にしなければ自分の言いたいことは表現しやすい」ということなんだろうと思います。 ぼくが去年、個人的におこなった調査で、インターネット上の小・中学生は「”作文”や”小論文”を書くことは苦手だ」という奇妙な結果が出たことがあります。その作文や小論文を書くことが苦手な小・中学生も、ぼく宛のメールやホームページ上ではものすごい量の文章を書いているし、自分の意見もしっかり持っていてそれを文章で表現しているわけです。それでも、作文や小論文は苦手だと答えてしまうのは、作文や小論文を書くということを”意識させられながら書かねばならない”からだろうと思います。つまり、体裁を気にしなければならないとなると、とたんに文章が書けなくなる、自分の言いたいことが表現できなくなってしまうというわけです。  インターネットの登場によって、文章を書くという行為がいっきに大衆化し、今まで書かなかった人達がたくさん文章を書くようになったということは、本文中でも何度も言ってきたわけですが、それはつまり、一般人にも自分の言いたいことを、自分が言いたいように自由に書くという機会が増えた、ということを言っているんですね。確かにそうした人々が文章の体裁を気にせず書き出した文章は、文章としては美しくかもしれませんが、それでもそうした人々の書くという欲求を抑えつけるようなことは、どうかと思ったりします。それはそういった人々の意思表現を抑えつけているのと同じことです。文章表現を職業としない人々の書くという欲求を抑えつけるような、そういった人々の書く文章を「乱れている」とするような論調は、文章表現を職業とする人達、書き手のプロ側の自分勝手な論理なのではないでしょうか。  さて、ここでは少し、これらのことについて教育的な面から考えてみたいと思います。本文中でも、今後の日本語の文章を書くにあたって一番重要な点は、「自分の言いたいことを相手に伝わるように書く」ということであると言ってきました。その文章を読むだろうと想定される相手にあわせて、自分の考えがより解りやすく相手に伝えられるような文章が求められていくだろうと考えます。文章を書くという行為が大衆化し、誰もが「書き手」となった今の世の中では、いわゆる書き手と読み手という階級差がどんどん無くなっていくでしょう。そうした社会では、書き手からの一方的な文章ではなく、お互いを意識したコミュニケーション手段としての文章を書くということが求められていくのだと思うわけです。しかし、これまでの学校教育の中で、果たしてそういった教育がなされていきたでしょうか。今までの作文教育では、その作文の読み手を意識して書くことを教えてはこなかったように思います。誰に対して書いているかを意識できないため、自分の言いたいことも考えていることも表現できずに筆が止まってしまう。さらには書くことを意識しすぎるために、自分の言いたいことが言えなくなってしまう。日本人の多くが、自分の主張を表現することが苦手な傾向にある原因として、そういった教育がされてこなかったということがひとつ、挙げられるのではないでしょうか。私達は「なんで」文章を書いているのか。それは自分の考えていることを、その文章の読み手に伝えるためである。という文章を書くという目的の根本的な部分を、きちんと教えて意識させることが、これからの作文教育には必要ではないでしょうか。まず、しゃべるように、自分の考えていることや思っていることを、誰かに伝えるということを意識しながら文章にしてみる。それを編集し、まとめるのはその先の段階で教えることだと思います。  ところで、今の世の中の風潮が「個性を伸ばす教育」「国際的な人間を育てる」ことなどを目指していると言われている一方で、日本語の文章の話し言葉化が進むこの変化の傾向を乱れていると批判するというのは、すごく矛盾していることだと感じます。  まず、文章がしゃべるようになっていくということは、その文章は極めて個性的な文章になっていくということだと思うわけです。その人のしゃべり方の特徴がそのままでるわけですから。だからしゃべるのが「面白い」人の文章は、そのまま「面白い」わけです。ところが、書き言葉の強い、きちんとした文章というのは、個性がなく画一的な文章になりやすいので、その書き手の個性を出すのが難しいですよね。そうした美しい文章で個性的な文章を書けるには、それはもうプロの書き手の領域であるのだと思います。全員がプロの書き手になるわけではない以上、話し言葉の文章を否定し、書き言葉の美しい文章を書くことを求めるのは、個性的な文章を書くことを抑えつけるということにもなります。そういった意味で、自由にしゃべるように書く文章というのも一方で見直していかなきゃならないんだと思うんですよね。  そして国際化のことについて。これは本文中でも最後に触れましたが、日本語の文章の話し言葉化というのは、実は国際化の影響なのではないかと考えています。日本語というのは話し言葉と書き言葉のはっきりと区別されていて、書き言葉が強い言語でありますが、世界の他の国の言語は会話も文章も話し言葉中心であると言います。日本人はしゃべるのが下手だと言われるのは、書き言葉より話し言葉の重みが軽いということからでしょう。それなのに、国際コミュニケーションを重視する教育方針の中で、書き言葉を重視させるというのは、矛盾であると考えるわけです。例えば、日本人が英語をしゃべるのが下手なのは、英語の教育も書き言葉重視でおこなっているからです。英文を、日本語の書き言葉の強い文章におきかえて理解するというのではいつまでたってもしゃべれるようにはなりません。英語をしゃべれるようになるには、英語を”しゃべるように”理解していくのがいいんだと思います。英語という言語の性格が、話し言葉の強い言語であるのに、それをわざわざ書き言葉に置き換えて理解しようとするのが今までの日本の英語教育であったと感じます。話は戻りますが、日本語の文章が話し言葉化していくということは、日本語という言語が、全体的に話し言葉に近付いていくということですよね。そうだとすれば、英語の文章も話し言葉で理解していくようになるでしょう。書くという行為と、しゃべるという行為が同じようになっていくというのは、国際的な流れであると思います。むしろ「しゃべる」というコミュニケーションが強く求められる国際コミュニケーションの場では、日本語という言語そのものの性格が話し言葉中心である方がいいわけです。そういう意味で、日本語の文章の話し言葉化は国際的な傾向であると言ったわけです。  言語というのは、本来は、あくまで他者とのコミュニケーションをはかるツールとしての目的が先にあるものだと思っています。「概説日本語の歴史」の佐藤氏が、「日本語も近代以前は話し言葉中心であった」と述べているように、日本語の文章も本来は「誰かに伝える」という目的が先にきていたんだと思います。文章を書くという行為がインターネットによって大衆化したいま、日本語の文章も、またその「誰かに伝える」という、コミュニケーションをはかるツールとしての役割が見直されていく時代になっていくでしょう。そしてその変化は、今までのように一部の知識人が作り出し誘導していくものではなく、一般人が作りだし変化させていくものになるかと思います。これからは、世の中にどんどん、おかしな文章・文体も登場してくることでしょう。しかし、ぼくはそういう方向に向かうのも、それはそれで楽しいことになるんじゃないかと思っています。現実に、インターネット上などでは、文章は美しくないですが、その書き手のパワーが感じられる、面白い文章がたくさん見られます。インターネットというのは、今まで紙の上で、体裁などにとらわれて思うように書けなかった一般の書き手達の「書きたい」という欲求を満たしているのだなぁと感じたわけなんです。これからの時代は、ますます「書く」ことによって自分の意思を相手に伝えるという機会が増えていくことと思われます。そうしたとき、相手が見えないメールやインターネットなどのコミュニケーションにおいても、きちんとしたマナーや丁寧な言葉で、相手を気遣った文章を書けるようにしたいものです。