「法と進化生物学」・「法と進化心理学」序論
―方法論と可能性―
和田幹彦
目次(予定)
序章 「法と進化生物学」・「法と進化心理学」
第1節 法とは何か−「法」の多様な定義
第2節 法と自然科学の新たな接点−進化生物学・進化心理学・脳科学
第3節 進化生物学とその近年の発展
第4節 進化心理学とその近年のめざましい発展
第5節 「法と進化生物学」「法と進化心理学」そして「法と進化学」の可能性
第1部 法と自然科学の新たな接点
第1章 法とは何か−「法」の多様な定義
第1節 「自然法」
第2節 「法実証主義」
第3節 「法」の新たな定義−作業仮説
(1)「法」の新たな定義
(2)動物(特に社会性動物)における「法」の存在
(a)事例1−霊長類の社会集団におけるルールと制裁
(b)事例2−ミツバチの社会集団における行動パターン(限界事例?)
(3)ヒトの「法」と動物の「法」−共通項と差違 言語に注目して
(以上『法学志林』第107巻4号)
(4)本稿における課題の確認−「法」の新たな定義の妥当性
第4節 補論−「文化」の新たな定義
(1)「文化」の新たな定義−文化人類学からの解放
(2)動物(特に社会性動物)における「文化」の存在
(3)ヒトの「文化」と動物の「文化」−共通項と差違 言語に注目して
第2章 「法と進化生物学」序論
第1節 進化生物学とその発展
(1)ダーウィンの進化生物学とその発展−自然淘汰(自然選択)・性淘汰(性選択)
(2)ダーウィンの「淘汰説(選択説)」と木村資生博士の「中立説」(1968年発表)
第2節 「法と進化生物学」の可能性
第3節 「法と進化生物学」の使命と限界
第3章 「法と進化心理学」序論
第1節 進化生物学とその近年のめざましい発展
(1)「4枚カード問題」における、Cosmidesの画期的業績
(2)留保と疑義−2009年度のHBESの全体会議でのStearns教授の発表
(3)「ティンバーゲンの4つのなぜ」と進化心理学に呈された疑問
第2節 「法と進化心理学」の可能性
第3節 「法と進化心理学」の使命と限界
第4章「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と遺伝学」
第1節 「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と遺伝学」三者の相互関係
第2節 「進化上の淘汰(選択)は個体の遺伝子に直接働く」
(1)リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』とその影響
(2)補論 少数説としての「group
selection=集団淘汰(選択)説」(ディヴィッド・S・ウィルソン
(以上『法学志林』第108巻1号掲載予定)
第3節 遺伝子によって伝わる動物・ヒトの行動?−「行動遺伝学」
(1)遺伝子により伝わる動物・ヒトの行動を支える生理的メカニズム
(2)「行動遺伝学」・その可能性・限界
(a)行動遺伝学とは何か
(b)Plominの行動遺伝学、安藤寿康の双生児研究
(c)「法と行動遺伝学」
第4節 「自由意志」「自由な選択」に基づかないヒトの行動
(1)ヒトの行動はどこまで「自由意志」「自由な選択」に基づくのか?
(2)「自由意志」「自由な選択」に基づかない(?)ヒトの行動の実例
(a)女性による男性の「顔」の選好性
(b)女性による配偶相手の選好と生理周期
第5節 遺伝子ではなく「文化」によって伝承される動物・ヒトの行動
(1)動物の「教育」行動における実例−チンパンジーほか
(2)動物とヒトにおける「教育」の異同−「進化教育学」の試み
(3)遺伝子ではなく「文化」・言語によっても伝承されるヒトの行動(大前提)
第5章 「法と脳科学・神経科学」−補論(1)
第1節 法と脳科学・神経科学・進化学の接点
第2節 Oliver
Goodenoughの研究
(1)「法的問題」を思考している時に使っている脳の部位についての研究
(2)法と脳科学・神経科学一般についての研究
第3節 「神経倫理学(neuroethics)」と「法と脳科学・神経科学」
第6章 「法と進化倫理学」−補論(2)
第1節 「進化生物学」・「進化心理学」・「進化倫理学」三者の相互関係
第2節 学説と検証
(1)実例1−内井惣七『進化論と倫理』(世界思想社、1996年)
(2)実例2−内藤淳『進化倫理学入門−「利己的」なのが結局、正しい』(光文社、2009年)
(3)実例3−伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会、2008年)
第7章 小括−法と自然科学の新たな接点(以上『法学志林』第108巻2号掲載予定)
第2部 「法と進化学」
第1章「法と進化生物学」
第1節 実例と検証
第2節 可能性
第3節 限界
第2章「法と進化心理学」
第1節 実例と検証
第2節 可能性
第3節 限界
第3章 結論−「法と進化学」と今後の展望
[以上目次]
[T→読者の方へ これは無視してください]
[以下本文]
第1部 法と自然科学の新たな接点
第1章 法とは何か−「法」の多様な定義
本章は、長年にわたる法学史の中での「法」の定義を網羅しようという意図は皆無である。単に、例示的に、本稿での「法」の議論を深めるために、2つの法の定義を振り返って提示するにとどめる。
第1節 「自然法」
「自然法」とは、とりあえず以下のように定義される:
人間又は人間社会の本性(nature)に基づいて成立するとされる規範。実定法を超え、その内容は、普遍的で、その効力は絶対的であるとされるが、これらの諸属性を修正する主張もある。自然法論の起源は、学説史上は自然の正義と人為の正義を区別した、紀元前5世紀ギリシャの思想家たちにさかのぼり、アリストテレス及びストア学派の哲学者たちによって、実定法を超えた自然法という観念は古典的に定式化された。この古典的自然法論の自然観念は、神の創造した自然と再解釈されて中世神学に承継され、早くはセヴィラのイシドールス(Isidorus de
Sevilla, 560?〜636)、やがてはトマス・アクィナスらによって体系化された。[中略][20]世紀初頭に理想主義の復活とともに自然法論も復活を見せた(新自然法論)。特にファシズムと第2次世界大戦の衝撃は、実定法を超えた高次の規範に対する関心を喚起し、戦後の巨大な精神運動となったが、精神界の鎮静化とともに自然法への懐疑論も台頭した。自然法の存在又は認識可能性を否定する思想は法実証主義と呼ばれる。([1])
ここで本稿が注目したいのは、こうした自然法の古来からの流れの中で、ユスティニアヌス1世(ラテン語: Justinianus I [あるいは表記としてはIustinianus I]483年 - 565年)が、トリボニアヌスを長とする委員に法学者の学説を集大成させ、533年に公布された『学説彙纂』である。
この中に、以下の一説がみられる:
第一巻
第一 正義及び法に付て
[中略]
三 自然法とは自然が一切の動物に教へたる法を謂ふ、何故となれば此の法は人類のみに特有なるものに非ず海陸に生ずる一切の動物及び空中の鳥類にも共通のものなればなり。雌雄の結合即ち人類に於ける謂わゆる婚姻は実に此の法に基くものとす子女の出生並びにその養育亦然り、何故となれば吾人の認むるが如く動物一般殊に野獣と雖も亦自然法の知識を附與せらるばなり。([2])
本稿での法の定義は本章・第3節に後述するが、奇しくも1500年ほども前となる、ユスティニアヌスの編纂による『学説彙纂』のこの「自然法」の定義と、<ヒトにも動物にも法がある>という点においては、機軸を一にすることになる。同時に明言しておきたいのは、その後、自然法が(筆者に言わせれば)負荷を負うことになった、原初キリスト教のアウグスティヌス、カトリックのトマス・アクィナス([3])の、神学に基礎をおく定義・概念は、本稿の「法」の定義内容からは、一旦、完全に捨象する。
第2節 「法実証主義」
自然法に対置する、まさに「自然法の存在又は認識可能性を否定する思想」が「法実証主義」([4])である。法実証主義は、さしあたり以下の通り定義される:
実定法だけを法とする法思想。[…]自然法の法源性を排斥する点で共通するが、多様な傾向を含む。(イ)実定法以外の一切の規範の効力を否定する立場(世界観的法実証主義)、(ロ)法と道徳を区別し、法学の対象を実定法に限定する立場(法学論上の法実証主義)、(ハ)制定法以外の法源を否定する立場(成文法主義)など。[…]([5])
前節ですでに述べたとおり、また次節で作業仮説を提示するとおり、本稿ではこの「法実証主義」の対極となる「法」の定義に従うことになることを、ここで明言しておきたい。
第3節 「法」の新たな定義−作業仮説
(1) 「法」の新たな定義の試み
すでに序章・第1節で述べたが、本稿では、本稿の目的を達成するために、ヒトの法を、さしあたり作業仮説として、「生物としての動物の一例としてのヒトの、進化に基盤を持つ、成文律・不文律を問わない、広範囲のルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」とする。この定義により、旧来のみならず、現在においても、「法・法律」といわれるものの一部分が、定義から外れてしまうのは十分に自覚している。しかし、冒頭に述べたように、田中英夫教授も言うとおり、「法という言葉を用いるに際して、これをどのように定義するのが合理的か」が問題なのであり、本稿でもあくまで法を、「分析の道具として最も有効」に、機能的・目的限定的に定義したことを力説しておきたい。
図1を見ていただきたい。とりあえず、ここではヒトの法に議論を限定しよう。本稿の目的は、現在、「法・法律」と呼ばれるもの(集合A)の内、どの部分までが、新たな定義の範囲(集合B)である「生物としてのヒトの進化に基盤を持つ、成文律・不文律を問わない、広範囲のルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」に入るのか、を究明することである。したがって、合目的的にこの定義の下に、以下の議論を進めていきたい。
集合A=旧来の「法」の定義 集合B=本稿での新たな「法」の定義
図1
(2)動物(特に社会性動物)における「法」の存在
「法」を前述のように定義すると、「動物の法」を定義することも可能になる。すなわち、繰り返しをおそれずに述べれば、「その動物の進化に基盤を持つ、成文律・不文律を問わない、広範囲のルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」である。
ここでは2つの事例に限定して、この作業仮説たる法の定義の下では、「ヒトの法」と「動物の法」が、どこまで同次元に論じられるか、どこからは峻別が必須かを考察する。
(a)事例1−霊長類の社会集団におけるルールと制裁
霊長類の社会集団におけるルールと、違反した者(生物学では「個体」という用語を用いる)に対する制裁の研究には、かなりの蓄積がある。本稿では、とりあえず、霊長類学者、Frans de Waal(フランス・ドゥ・ヴァール)の1980年代以後の諸論考と、日本の小田亮の研究に注目したい。(なお、次の第4節でも論じるが、ドゥ・ヴァールは、動物、特に霊長類にも「文化」が存在すると考えている。)
ドゥ・ヴァールはまず、1982年の著作、Chimpanzee Politics: Power and Sex
among Apes([6])で、チンパンジーの社会集団の中では連合を組むなどの「政治」が行われる([7])のみならず、一定のルールの下に行動が規律され、([8])それに違反する個体には制裁が下される([9])ことを、観察により実証した。
さらに、ドゥ・ヴァールは対照的に、1989年には、Peacemaking
among Primates([10])の中で、「争いを解決するための自然のメカニズムを、いま、真剣に研究すべきときである」([11])として、チンパンジー、アカゲザル、ベニガオザル、ボノボ、そして最後に人間をとりあげて、争いの後の和解がどのようなルールの下で実現されているかを詳細に論じた。
ドゥ・ヴァールはまた、1992年には、(ヒト以外を研究する)霊長類学者と、ヒトの社会を研究する学者とともに、Coalitions
and Alliances in Humans and Other Animals ([12])を編著し、自らも共編者のAlexander H. Harcourtとの共著で"Coalitions and alliances: a history of ethological
research" ([13])という導入部を著した上で、単著で"Coalitions as part of reciprocal relations in the Arnhem
chimpanzee colony"([14])という論文を寄稿している。とくに後者の論文の中で、チンパンジーとヒトの行動を比較した部分([15])と、その進化的背景を考察した部分([16])は注目される。
これに加えて、彼は、1996年の単著、Good Natured: The Origin of Right and
Wrong in Humans and Other Animals([17])で、ヒトと霊長類を同時に論じ、ニホンザル、チンパンジー、そしてヒトにおける、道徳の存在と機能、道徳が進化する諸条件を指摘した。([18])
近年、ドゥ・ヴァールは、ヒト以外の霊長類研究を基盤に、ヒトの道徳の進化について直接論じた論文を次々と発表している。([19])
特に、2009年の共著書Primates and philosophers : how
morality evolvedの中の、ドゥ・ヴァールの直近の主論文、"Morally Evolved: Primate Social Instincts,Human Morality, and
the Rise and Fall of 'Veneer Theory' "([20])は、以下の点で注目すべきである:これは、ヒトの中で最も重要な特徴とされている道徳性について、霊長類の徳性と比べることで、道徳性の生物学的基盤を探ろうという試みであり、霊長類の実験的データを提示しながら、<悪徳的な本性に、薄い道徳性のVeneerが被せられているだけだ>という'Veneer Theory'を批判する(Veneerとは、日本でいうベニヤ板・合板の上に張った上質の薄板を指す)。その上で、動物の行動と、ヒトの行動の連続性・連綿性を強調するのである。本書では、この主論文を受けて、著名な学者らがコメントを寄せ、それに対してドゥ・ヴァールがさらに、"Response to Commentators: The Tower of Morality"([21])という小論文で返答する、という形を取っている。コメントの中には、(注に記した)著名な哲学者に並んで、有名なサイエンス・ライターのRobert Wrightのもの([22])もある(彼はMoral Animal([23])などの著書がある)。
以上のようなドゥ・ヴァールの研究は、彼がただ1人で<我が道を行く>といったものではない。脱稿後に接した2010年1月19日の最新刊の共著書、Human Morality and Sociality : Evolutionary and Comparative
Perspectives ([24])は、Frans de Waalを含めた共著者10名が、9つの論文で、主として(ヒト以外の)霊長類研究分野の2論文と、ヒトの(進化)心理学、政治学の分野の7論文を順接・総合させることにより、ヒトの道徳性と社会性を、進化論と(ヒト以外の)霊長類の比較検討に基づいた視角から分析する、という野心的な試みを行っているのである。これはまさに、Frans de Waal が長年をかけた研究の結晶ともいえる、彼と見解を同じく(あるいは近く)する研究者仲間との共著書となっているわけである。
すなわち、まず、本著書の編者であり、心理学者であるHenrik Høgh-Olesenが、第1論文(pp. 1-12)で導入を、最終・第9論文(pp. 235-271)で総括を行っている。
第2論文では、心理学者のDennis Krebsが"Born Bad? Evaluating the Case against the Evolution of Morality" (pp. 13-30)というタイトルの下に、道徳性の進化を反証しうるかを論じ(pp. 14-15)、著名な進化生物学者George Williamsの著書からの引用により、動物がまさに「野獣的な行動(Beastly
Behaviors)」を発揮する局面を描き出す(pp. 15-17)。しかしその反面、「一見したところでは明らかに利他的な行動(Apparently Altruistic Behaviors)」にも注目し(p. 17)、利他行動が進化理論の中でどのように扱われてきたかを分析する(pp. 17-20)。その上で、利己性と、非利己性が、道徳性とどのように関係するかを検討した上で(pp. 20-28)、要約として、「利己的な(そして非利己的な)形の行動を規制するメカニズムは、条件化された決定ルールという形でデザインされている。人間性(human nature)と他の動物の性質(nature of other
animals)を理解する鍵は、これらの決定ルールを読み解くことにある[…]」(p.28)と結論づけている。すなわち、Krebsも、de Waal同様に、ヒトと動物を同一の線上で理解しようと試みているのである。
第3論文では、いよいよFrans de Waalが登場し、"Morality and Its Relation to
Primate Social Instincts"(pp. 31-57)というタイトルの下、道徳性とその(ヒト以外の)霊長類の社会的本能との関係性を論じる。de
Waalは、「我々[和田注 とりあえずヒトを指す]が生まれつき善(good)なのか、悪(bad)なのかという問いは、永久の問いである。」(p. 31)との一文で論を起こす。そして、前述の"Veneer Theory"が1974年のGhiselinの研究によるところまで遡って叙述した上で(pp. 32-34)、自らの過去の研究を「紛争の解決」、なかんづく「仲直り」を中心に振り返り(pp. 34-36)、さらには動物、特にヒト以外の霊長類にも「共感(Empathy)」があるという研究史を綿密に叙述する(pp. 37-45)。そして「互恵行動(Reciprocity)」の項目では、チンパンジーと(南米の)フサオマキザルでは、母子関係以外でも互恵行動が行われるという自らの研究成果を強調する(pp. 44-46)。そして重要なのは「公正さ(Fairness)」の項目である。ここでde Waalは自らの実験研究で、フサオマキザルにも一定の「公正さ」の感覚が明確に見て取れることを論証する(pp. 46-48、後述の小田亮が引用する実験の研究成果である)。以上を前提に、de Waal結論部分で、目をヒトに転じ、「道徳性とグループ内の忠誠」と題された項で、幾人かの哲学者の論も引き合いに出した上で、自らの1996年の研究で、人間の道徳性を形作るピラミッドを、基盤となるものから順に、「自己」→「家族・同族」→「コミュニティ」→「一族、国(nation)」→「人類全般(humanity)」→「すべての生物」という構造を持つと強調し、こうした道徳性を通じて生存に必要な資源を得ているのだと指摘した上で(p. 51)、「ヒトの道徳性の進化的ルーツを否定し、他の霊長類との共通の基盤を度外視することは、塔[前述のピラミッドを指す]の頂上にたどり着いてから、頂上以外の部分は[自分が頂上にたどり着けたこととは]無関係だと宣言するようなものだ」(pp. 51-52)と、妥当しない議論だと断じている。そして、「動物は道徳的なのか? 彼らも道徳の塔[ピラミッド]のいくつかの階層にきちんと住み込んでいる(occupy several
floors)と簡単に結論しよう。この控えめな提案をも拒否することは、[道徳性の]構造の全体の質を、きわめて低いものだという見方をもたらすに過ぎなくなる。」(p. 52)と論文を結んでいる。
第5論文は、274頁にわたる本共著書の中でも最長の60頁の論文で全体の5分の1以上を占める。また、内容上も、本来、本稿の第1部・第3章「法と進化心理学」序論、あるいはまた、第2部・第2章「法と進化心理学」で扱うべき論考である。政治学者のMichael Bang Petersen、進化心理学者のAaron Sell、そして進化心理学の創始者であり大家でもある2人、John Tooby, Leda
Cosmidesによる "Evolutionary
Psychology and Criminal Justice: A Recalibrational Theory of Punishment and
Reconciliation"は、法学、特に刑事法・刑事学の立場からは看過できないタイトルである(pp. 72-131)。ただし、本論文では、基本的に対象はヒトに絞られている。しかし、編者のHøgh-Olesenは、第1論文の導入で、本論文を紹介しつつ、この第5論文が、例えば「搾取としての罪科(Crime as Exploitations)」(pp. 87-91)の議論においても、チンパンジーのコミュニティ間での闘争にも応用できることを示唆しているようである(p. 6)。
第6論文では、再び霊長類学者であるChristophe Boesch が、"Pattern of Chimpanzee's Intergroup
Violence"(pp. 132-159)のタイトルで、コート・ジヴォアールで観察されたチンパンジーの4つのコミュニティ間での、殺戮を含む紛争事例の研究をこと細かに披露する(pp. 137-151)。その上で、結論部分の議論では、ヒトの部族間や国家間の戦争とチンパンジーの紛争を比較して、「このように、ヒトの伝統的な戦闘での襲撃・急襲(raid)が広範に見られることは、チンパンジーについて我々が観察したグループ間の相互作用・行動(interaction)と一致すると見受けられるし、このことは[ヒトの]戦争がチンパンジーについて観察されたことと何らかの共通の諸起源を持つ、と先行研究者たちが提案した理由を説明している」として、先行研究者として著名なJane Goodall, Richard Wranghamたちの名を挙げている(pp. 151-152)。すなわちここでも、チンパンジーの(紛争)行動の延長上に、ヒトの(戦争)行動があり、この2つには共通基盤がある、という見解が示されているのである。
こうなると、第7論文で政治学者のAzar Gatが"The Causes of War in Natural and Historical Evolution"(pp. 160-186)のタイトルの下に、ヒトの戦争の諸原因の自然な、さらに歴史的な進化を論じていることが、第6論文と順接することも自明となってこよう。
第8論文では、再び、戦争と道徳性が、進化心理学者の大家のJohn Tooby、Leda Cosmidesによって、"Groups in Mind: The Coalitional Roots of War and
Morality"(pp. 191-234)のタイトルの下に論じられる。今回はこの2人の論者は、ヒトを中心課題に置きつつも、「紛争の論理(Logic of Conflict)」という項目では、サルの一種のハヌマンラングールや、チンパンジーなど、ヒト以外の紛争も積極的に取り上げている。その上で、彼らは第5論文でも用いられた"Welfare
trade-off ratio (WTR)"という概念装置(本稿では詳述しない)を用いつつ、紛争の論理を分析する(pp. 194-197)。そして同盟(Alliances)と連合(Coaltions)について議論を掘り下げて後、「道徳性、評価、そして協調して行動する能力」(pp. 213-)を、前述のWTRの概念を用いながら論じるのである。結論として彼らは、「戦闘と政治を可能にし、その原動力となる進化上のプログラムの集合体は、ヒトの道徳性の原動力となる進化上のプログラムの集合体と、大いに重複しあう」(p. 230)と述べ、今後のこの分野での研究の発展の可能性を示唆するのである。
Henrik
Høgh-Olesenの最終・第9論文、"Homo Sapiens − Homo Socious: A Comparative Analysis of
Human Mind and Kind" (pp. 235-271)は、本書の総括である。彼は冒頭で、「ヒトと野獣の間を分かつルビコン川の地図を作ることは、永遠の、かつ面倒な仕事である」(p. 235)と述べた上で、ヒトと動物を比較する手がかりとして、言語をまず挙げ、ヒトのみの特徴だとされてきた言語さえも、そうではなく動物にも言語に近いものがあるという議論が巻きこっていることを指摘する(pp. 236-239; 本稿の次のミツバチの項目での、言語についての論述と対立しうる)。さらに、ヒトと動物を分かつメルクマールとして、芸術、信仰、儀式を挙げた上で、こと技術(Technology)については、ヒト以外に例えばイルカやクジラ、チンパンジーでも技術と呼ぶに足りるものを持つことを示す。文化については(本稿でも次節で論ずるのでここでは詳論しないが)、文化の定義を(たとえばde Waalのように「遺伝子に依らない、習慣の広がり」と)操作することによって、鳥類、クジラ、象、(ヒト以外の)霊長類も文化を持つ、と言明できることを指摘する。最後に、Høgh-Olesenは、社会性と道徳性についてヒトと動物を同列に論じ、最後にヒトと、ヒトに最も近いチンパンジーとには、まだ「わずかな差」がある、と締めくくる(p.263)。
さらに、日本でも、たとえば名古屋工業大学工学部准教授の小田亮は、1999年の著書、『サルのことば:比較行動学からみた言語の進化』([25])の中で、言語を操る動物・ヒトの持つ最大の特徴はどこからきたのか、原始的なサルの発する警戒音やコミュニケーションを分析することで、「心の理論」([26])と言語の進化の謎を解こうと試みている。彼は、マダガスカルのレムールを例に挙げつつ、サルが鳴き声で何を伝えているのか、音声コミュニケーションの進化と発達を論じ、コミュニケーションと「心」の関係について考察した後で、霊長類研究を「新たな人間学」へと結びつけようとしている。また、2002年に発表された同氏の『約束するサル:進化からみた人の心』([27])は、前著の関心の延長上にあり、進化心理学の最新のデータをも駆使([28])しつつ、人間を「約束するサル」([29])ととらえている。小田はさらに、2004年の著書、『ヒトは環境を壊す動物である』の中で、ドゥ・ヴァールのフサオマキザルという南米の比較的知能が高いことで知られているサルの実験研究の成果を引用しつつ、「フサオマキザルにもある種の『平等感覚』があり、不公平な扱いに対する怒りを持っていることを示唆」していることを示し、ヒトと霊長類の道徳性([30])について、同列に論じようという試みが見られる。([31])
ドゥ・ヴァール、小田以外にも、ヒトと霊長類について、同列に論じる試みはある。やや旧くはなる上、法につながる道徳性に特化して論じているわけではないが、Jared Diamond(ジャレド・ダイヤモンド)の著名な書、The Third Chimpanzee ([32]) は、ヒトを「第3のチンパンジー」としてとらえるところから論を興し、「ヒトを人間にした鍵となるほんのわずかな中味とはなんだったのでしょうか? 私たちのユニークな特性は非常に短期間のうちに現れましたし、肉体的変化はほとんど伴っていないので、人間の諸特性、あるいは少なくともその先例は、動物のうちにすでに存在していたに違いありません。芸術や原語、ジェノサイドや薬物の濫用などについて、動物たちにはどのような先例が見られるのでしょうか?」([33])と、動物と人間性の連続性について問いかけている。([34])
こうした論考(特にドゥ・ヴァールの諸論考)によってみれば、動物、少なくとも霊長類(の一部)には、「動物の法」が存在することが論証されていると筆者は考える。となると、(後述の通り、コミュニケーションの手段は多々あっても、文字や言語を持たない動物において)進化の過程でどのように「動物の法」が発生したのか、換言すれば、「動物の法」の進化的基盤はどこにあるか、は議論に値するであろう。
(b)事例2−ミツバチの社会集団における行動パターン(限界事例?)
2つ目の事例として、社会生活を行う昆虫として、アリやシロアリと並び称されるミツバチ([35])をあげる。前述のチンパンジーとの比較で言えば、ミツバチの社会集団の中では、ヒトに近いような「政治」が行われるとはいえないが、例外的事象の下では、「政治」とも呼びうる現象も観察されている。その上で、一定のルールの下に行動が規律されることは広く知られている。([36])すなわち、メス蜂の中の一匹のみが女王蜂として選ばれて特別な栄養を与えられ、産卵をする。他のメス蜂は、働き蜂(ワーカー、workers)として産卵は一切せず、女王蜂の子を育て、また守る。([37])
しかも、こうしたルール・規律に違反する、言い換えれば「政治」変動を惹き起こす個体に制裁が下されともとれる限界事例が、ミツバチの場合にも存在するのは注目に値する。([38])
より詳しく述べよう。([39])
法にも通ずる「統制」「規律」という観点からまず述べてみよう。
働き蜂の卵巣が発達しないのは、女王蜂の存在下あるいは蜂児(働き蜂の幼虫)の存在下である。(女王蜂が失われると卵巣が発達して産卵を開始し、全体で30%ほどの働き蜂が産卵するという観察例もある。)一般的なミツバチでは、働き蜂は交尾ができないので、産まれた卵は無精卵で、ここから雄が孵る。(ただ南アフリカにいるケープミツバチでは、女王蜂の喪失時に、特定の働き蜂が擬女王化して産卵し、単為生殖によって雌を生産できる;一般のミツバチではこの性質は痕跡的で、きわめて低い確率で単為生殖による雌卵を産むことがある)。
しかし、こうした一般的な状況において、卵巣が発達し、産卵をする働き蜂がいるのである。専門用語では、アナキスト(anarchist)と呼ばれ、劣性遺伝で量的遺伝子によって制御されている可能性が指摘されている。(これを「規律違反」とみるかどうかは、意見の分かれるところであろうし、「限界事例」ともいえるであろう。ただ、アナキストという専門用語からも、「規律違反」である「政治」現象として捉えることは可能であろう。)
こうした働き蜂への「制裁」の存在に関しては以下を指摘したい。産まれた卵は、他の働き蜂によって検出されて除去(食卵)される(これを専門用語でworker policing([40])と言う)ので、「限界事例」ではあろうが、ある意味では「制裁」ということは可能であろう。([41])
なお、ミツバチとヒトを決定的に区別すべきは、ミツバチは確かに、仲間内で蜜のありかを一匹から他の複数の個体へと伝達する、8の字ダンス(より正確には「尻振りダンス(waggle dance)」という)、([42]) 羽の細かな震わせ方の区別([43])などの複雑なコミュニケーションの手段を持って([44])おり、「このように、具体的な情報をいったん、抽象的な情報に転換(記号化)して伝達するコミュニケーション様式を『記号的コミュニケーション』と呼ぶが、この能力をもつ動物は非常に限られており、霊長類ではヒトの言語のみがそれに相当し、昆虫ではミツバチだけがこの能力をもつ。ミツバチが何故このような驚くべき能力を獲得したのかは、現在のところ全くの謎である」([45]))ものの、ヒトのさらに複雑な音声・文字言語とは比べるくもなく、この「コミュニケーション」([46])はあっても、「言語」が存在するか、の区別こそが、ミツバチ([47])とヒトのみならず、他の(霊長類を含む)動物と、ヒトを区別する大きな手がかりの一つとなる、というのが生物学者たちのほぼ共通した認識であり、筆者の立場である。
以上を踏まえた上で、ミツバチ同士のコミュニケーションの能力に関して、簡単に説明しておく。
ミツバチは、上述のようなコミュニケーションを、単に、「遺伝子で決定されている能力」のみに頼っているのではなく、軽量な「脳」で学習する側面も兼ね備えている。([48])先天的に備わっている部分に加えて、学習によって修正、上書きする部分は大きいのである。例えば、蜜のありかを伝えるミツバチのダンスは、太陽との角度を微妙に調整する、専門用語で言う「太陽コンパス」を必要とするが、太陽の動きに合わせた行動の修正には、遺伝的に備わっているものよりも、学習の方が有効に働いている、と考えられている。(換言すれば、太陽運行への全般的な適応性を、ミツバチが先天的情報として持つことには意味があるとしても、蜜を集める日の太陽にどう適用するかは、その日の太陽を見てからの判断の方が、つまり経験の方が有効になるわけである。)
つまり、ミツバチのこうしたコミュニケーション、エサのありかの伝達などは、上述のように、学習によって基本性能の適用、運用を実現しているといえよう。
なお、ミツバチのゲノム解析は完全に終了しているが、遺伝子の解明がまだ完全にはできていないので、個々の遺伝子の機能に基づいた解析は立ち後れている。(この点、比較の対象として、ショウジョウバエでは特定の遺伝子をノックアウトした個体を作出でき、さらにこれに失ったはずの遺伝子を導入する技術が確立されており、遺伝子の機能解析が進んでいる。一方ミツバチでは、ノックアウトも導入もまだ実現していない。遺伝子の発現時にRNAの転写が抑制されるような手法は部分的には可能で,これによって特定遺伝子の発現を妨げ、その機能を類推するところまではできている。したがって、ゲノムは読めたものの、本当に必要な遺伝子がゲノム上のどこにあり、どのように発現するのか、すなわち、どんな遺伝子群として働くかという観点では、ショウジョウバエ研究などと比べて立ち後れている。)
しかし、ミツバチの脳科学の分野はかなり進んでおり、迷路実験を用いた研究で、同一(sameness)か異なるかという瞬時の判断は学習によって可能であることが示されたり、かなり高次の認識能があることもわかってきている。また、ミツバチの航行システム(navigation system)に関してもかなりのことは明らかにされている。
以上の点をすべて含め、日本においてミツバチの生態、「ミツバチの法」とも呼ぶべき行動パターン(違反した場合の制裁の有無も含む)、さらにミツバチのコミュニケーションについての最先端の研究は、玉川大学の佐々木正己教授([49])が日本での第一人者であることをこの本文で付言しておきたい。
さらに、ミツバチの行動をつかさどる脳の科学、その生理メカニズムを支える行動遺伝子を解析する分子生物学の第一人者としては、東京大学大学院・理学系研究科・生物科学専攻の久保健雄教授、([50])加えて玉川大学農学部・生物資源学科の佐々木哲彦准教授([51])があげられる。([52])
なお、ミツバチのダンスによるコミュニケーションは、受容したミツバチの側がそれを正確に利用していることが2004年に証明されて初めて「言語」ではないまでも、文字通り「正確なコミュニケーション」としての価値が認められたといえよう。その後、ダンサー(ダンスをしているミツバチ)が示す情報にはそれなりに誤差があること、受け手の方で、数回のダンス情報を平均していることなどもわかってきている。([53])
さて、筆者がここまで集積した、ミツバチについての新たな知見をもってしても、今後の課題として残る点をここで補足しておきたい。それは、ミツバチとヒトを比較する時に、「法」・「法則」・「行動パターン」の共通項の理解と、峻別をせねばならないことである。現在までに集めた知見では、この正確な峻別はまだ行うことができないので、今後の課題としたい。
ここで我々の関心は、「法」・「法則」・「行動パターン」のどこまでを共通項として扱い、どこからを別物として峻別すべきか、であろう。(図2を参照。)
法
法則
行動パターン
図2
たとえば、以下の 2点は残された課題とし、今後のミツバチ研究の発展を待って、解明されることを期待したい:
(i) ミツバチの行動のどこまでは、遺伝子に組み込まれた(換言すれば、さしあたりミツバチが孵化したその段階で、生後遭遇するであろう一般的な環境の差違には左右されずに)、「本能」に従った行動であり、「法」と呼ぶよりは、行動の「法則」と呼ばれるのにふさわしいのか。
(ii)どの範囲は、ミツバチが生後、周りの環境から習得した「行動パターン」であって、それと異同はありながら、どの範囲が本稿の「法」の定義:「生物としてのミツバチの進化に基盤を持つ、成文律・不文律を問わない、広範囲のルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」に従って、「法」と呼びうるのか。(その際に、ミツバチの行動の「ルール」や、ルール違反への「制裁」があるとしても、「行為規範」があるゆえに「法」があるとまで言いうるのか。)([54])
最後に、ミツバチ・アリを含む社会性昆虫については、「モラルの進化」すら昆虫学の専門家により論じられていることを指摘しておきたい。すなわち、本文ですでに述べたミツバチおよびアリのworkier policing を含む、「社会性昆虫における相互監視」については、2008年の最近時の研究は、次のように、社会性昆虫においては、「内発的な動機である『良心』『モラル』を生む」という表現すら使っている:
ワーカーポリシング[和田注:本文で既出のworker policing]説はワーカーの自己犠牲は大多数の同胞たちにより強制された行動であると主張する。これまで見てきたようにワーカー相互の監視行動が社会性ハチ目に広く存在するという事実は、「働きアリ」が示す繁殖の放棄と社会組織への服従が進化力学的には自発的なものではなくむしろある種の「モラル」を強制する集団的力のためであることを示唆している。しかし、現実のワーカーの産卵の抑制が、生理学的に(進化力学的ではなく)自発的行動か強制された行動なのかの区別は難しい。アリのワーカーの産卵抑制の直接的メカニズムは、腕力に頼ったものではなく、女王存在情報(化学情報を女王物質と呼ぶ)による産卵抑制の誘導である。そしてこれはおそらく大部分は自発的なものと思われる。なぜなら強力なポリシングの存在下では、産卵は常に周囲から監視されているので、無駄な利己的行為は最初から行わないという、自己抑制が二次的に進化するとが理論的に予測されているからだ。これは外圧がやがて内発的な動機である「良心」「モラル」を生むと言い換えることもできよう。([55])
今後の昆虫学のさらなる進展を待つしかないが、社会性昆虫にも仮に、「良心」「モラル」と呼ぶに足りるものがあるとすれば、彼らにも「法」が存在することを十分予感させる、と筆者は考える。
(3)ヒトの「法」と動物の「法」−共通項と差違 言語に注目して
ここで、ヒトの「法」と動物の「法」の、共通部分と差違を暫定的にせよ、明らかにしておきたい。
暫定結論から先に言えば、それは言語の有無に尽きる。すなわち、本稿では、「コミュニケーション」と「言語」を峻別し、これを決め手としたい。生物学者の間では、たとえば1匹のミツバチが密のありかを見つけ、自分の巣に戻って、密のありかやその方向を複雑なダンスや羽の震わせ方で同じ巣の他の働き蜂に伝えることを、「コミュニケーション」としては扱うが、あくまでも「言語」とは認めないのが通例である。結論から言えば、ミツバチのみならず、「高等」な霊長類にも「言語」はなく、言語を操る動物はヒト(Homo sapiens)だけである、というのが生物学者の立場である。
換言すれば、ヒトの「法」と動物の「法」の共通部分は、本稿、特に第2部・第1章が明らかにしようとしている、進化的基盤を共有するヒトと動物の「法」である。差違は、ヒトの法が、そうした進化的基盤を有しつつも、それを言語を通して明確化し、典型的には、刑事法の「罪刑法定主義」に表れるように、事前に周知徹底せしめ、違反した者を処罰しようとするといった局面に表れる(次元こそ異なれ、民事法にも類似の局面は存在することはいうまでもない)。動物の法は、繰り返すが、チンパンジーなどの霊長類も含め、コミュニケーションの手段は持つものの、言語は持たないため、こうしたヒトの法のあり方とは一線を画すことになる。
(4)本稿における課題の確認−「法」の新たな定義の妥当性の論証
ここで、本稿における課題を今一度、確認しておきたい。本稿の冒頭(と、本節(1))にも述べた通り、本稿ではヒトの「法」を:
「(3)生物としての動物の一例としてのヒトの、進化に基盤を持つ、広範囲で、かつ成文律・不文律を問わない、ルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」
と定義している。「法は、進化に基盤を持つ」と定義した以上、この定義の下では、本稿の冒頭に掲げた通り:
「(1)[…]法の「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にある。
(2)「法源」の[…]旧来言われてきたよりもより多くを、ここ[ヒトの進化的基盤]に求めることが可能である。」
となるのは、単純に論理的必然である。しかし、本稿の課題は、この(「言葉の遊び」とも言えるような)論理的必然性を示すことではもちろんない。本稿冒頭で、他ならぬ(1)(2)(3)の順序で、上記の論旨を述べたとおり、「(1)「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にある」こと、および「(2)「法源」の[…]旧来言われてきたよりもより多くを、ここ[ヒトの進化的基盤]に求めることが可能である」ことを本稿では論証したい。換言すれば、法の新たな定義、ことに「法は、進化に基盤を持つ」点を論証することができれば、同時並行的に(1)(2)の新たな法源論を維持することができ、かつ(3)の定義の妥当性を立証することができる、というのが本稿の企図であり、新たな課題である。
本節においてももちろんであるが、次節以降、また次章以降と、第2部においても、まさにこの課題に取り組んでいく。本節(1)、「図1」の集合A=「[旧来から論じられてきた]法・法律」と、集合B=「「法」の新たな定義」の図をもう一度想起して頂きたい。本節(1)で既に述べたように、Aの一部分がBの定義から外れてしまうのは十分に自覚している。しかし、集合A=「[旧来から論じられてきた]法・法律」の、従来考えられてきたより、はるかに多くの部分が、「進化に基盤を持つ」のであって、集合B=「「法」の新たな定義」と重なることを、本稿では論証したいわけである。すなわち、本稿の目的到達の成否は、集合Aと集合Bとの「距離」がいかに近いか、この二つの集合の「ずれ」がいかに小さいかを論証できるか否かにかかっているといえよう。
第4節 補論−「文化(culture)」の新たな定義
本稿の主たる目的ではないので詳論はしないが、過去においては、ヒトとそれ以外の動物を分かつメルクマールとして、道具使用の有無、火の使用とコントロールの有無、道徳性の有無、文化の有無、言語の有無、宗教の有無、そして法の有無も、(あくまで例示的にであり、網羅的にではないが)挙げられてきた。これらのうち、道具使用については、一部の霊長類([56])と鳥類([57])が道具を使用することがすでに判っており、メルクマールとしては否定されている。本拙論では、さらに進化論の観点から、道徳性、文化、そして法も、一部の動物には明らかに備わっており、かつそのことを手がかりとして、ヒトと一部の動物の間の共通の進化的基盤があることを論証していきたい。そして実際に、この中でも、「文化」や「法」については、これらの概念のより深く適切な理解のためにはその定義を変え、微調整することで、動物にも、文化や法が存在することが論証できると、一部の霊長類学者とともに、筆者・和田は考えている。(ちなみに、火の使用とコントロール、言語、宗教は、現在でもヒトのみに見られる現象であると各分野の専門家の間では考えられていることを付言しておく。)
本節でも、以上のコンテクストの中で、あくまで補論としてであるが、文化(culture)の新たな(暫定的)定義と、ヒトのみならず、動物にも「文化」があることが、すでに霊長類研究者の大半には受け入れられていることを確認しておきたい。その目的は、一部の動物にも「法」があることのいわば傍証として、動物にも(すでに論じた)道徳性と並んで、文化が存在することを挙げておくことである。
(1)「文化」の新たな定義−文化人類学からの解放
「文化」は過去においても様々に定義されてきた。(以下、本節はあくまで「補論」であり、本稿の主目的ではないので詳細・多岐にわたっては論じないことをあらかじめお断りしておきたい。)特に、まずは文化人類学の分野において、ヒトの文化が研究対象とされたため、この分野での定義が当然試みられた。([58])その後、文化人類学の研究方法論は、<観察者としての文化人類学者が対象の人的集団(の価値体系、行動体系、象徴体型などに代表される文化)を、主観的な観察に基づいて叙述しただけではないか?>と、疑義が差しはさまれるようになる。(対照的に、例えば、社会心理学では、仮に対象や目的を文化人類学的研究と同じくする場合でも、「客観的な」データとその蓄積により、論証を試みている、という点がより高く評価される傾向にある、といえよう。)こうして疑義が呈されたことと直接には連動していないにしても、間接的な連動として、「文化」の定義が文化人類学から解放される([59])傾向を生みだした。特に、文化を「ミーム」として定義する議論は記憶に新しいところである。([60])
本稿において重要な論点は、文化の定義が、文化人類学から解放され、より「開放」的なものとされたことである。暫定結論から言えば、現在、進化生物学・進化心理学の分野では、「文化」という用語は、ヒトや動物の行動の「地域差」を言い表す際に用いられている。加えて、(仮にヒトにも動物にも)遺伝子による行動の規定があるとして、そうした行動の規定からは自由に、すなわち先天的にではなく、後天的に習得された行動パターン(その多くは地域によって差が生じる)に言及する時に、「文化」という用語が使われる。([61])([62])
(2)動物(特に社会性動物)における「文化」の存在
さすれば、動物、特に霊長類の一部(たとえばチンパンジー)を始めとする社会性動物、すなわち集団で社会を形成し、一定の集団内のルールに基づいて生活している動物において、そのルールや行動パターンについて、地域差が観察される時には、これを「文化」として言い表すことになる。実際に、文化という用語はそのように使われている。その早い例が、ハーヴァード大学の著名な霊長類研究者(近年は人間行動学にも立ち入って論じている([63]))である Richard Wrangham ほかの編集による、1994年に刊行された、Chimpanzee
Cultures ([64])[『チンパンジーの諸文化』]という論文集である。本書では、過去において野生のチンパンジーが観察・研究された場所がアフリカ大陸内でも45カ所に及ぶことが、まず冒頭の地図で示されている。([65])その上で、本書全般を通じて、例えば、同じアフリカ大陸内でも、国や地域の異なるチンパンジーの行動(パターン)には差違があることが明らかにされ、これは「文化」の差である、ととらえられている。([66])
さらに例えば、既に本稿で何度も名前の挙がったドゥ・ヴァールは、このChimpanzee Cultures の中で、まず、共著者のRichard W. Wrangham、W.C. McGrew(マイアミ大学教授の著名な霊長類研究者)とともに、「『文化霊長類学(cultural primatology)』と名づけようとしている試みは、[文化の、従来]より広い定義を要請する。それは、文化類似の、前文化的な、文化の原型的な発現をも含む定義である。」とし、「こうした包含的な定義は、日本の霊長類学者たち、例えば1952年にすでに『文化』を『社会的に伝播される、調整可能な行動』と定義した今西[錦司]等の間では広まっていた。」と指摘する。([67])
(確かに、今西錦司は、論文ではないが、『人間』という共著書の中の第二章「人間性の進化」(1952年)において既に、人間以外の動物の「カルチュア」の存在を前提としていた。([68]))
さらに、ドゥ・ヴァールは、は同じ共著書の中で、単独で著した部分で、「文化/culture」の内包する意味(connotation)として、「美術や音楽」、「象徴や言語」があろう、とまず論じる。そして「文化」は「自然」と対置されるものであり、「文化」により「自然」がコントロール下におかれると言われてきた、と指摘する。しかし、「我々にもっとも近い霊長類すなわちチンパンジーとボノボから得られる示唆は、文化のヴァリエーションに隣接する行動の多様性の度合いを明示するので、『人間の文化』と『動物の自然』というきれいな二分法は、完全にひっくり返される」と彼は言明する。「猿たちの行動の多様性が、象徴や言語に頼っているというのはあり得ないだろうという反論が前提としているのは、人間の全ての文化的なヴァリエーションは象徴と言語を必要とし、ヒトと、他の現存する近人類(hominoids)には認知上のギャップが存在するということである。これは(結果的に)我々(論者)に、グループ内のヴァリエーションについて異なる説明を採用することを可能にする。」と指摘する。そして、「第1に、確かに、ヒトの文化のヴァリエーションは、言語に結びつけられ、言語に表わされており、ヒトの文化の多くの側面はこの(言語との)結びつき抜きでは考えられない。しかし、(文化の)ヴァリエーションの幾つかの側面が反映している、社会化の実践(socialization
practices)や、観察による学習は、言語を用いることはあるが、必ずしも言語が必須というわけではない。第2に、ヒトと大型類人猿の間には、認知上の[システムや能力の]連続性があるという証拠は増える一方である。本質的な差違が残っているのは、認めざるを得ないが、それは程度問題に過ぎない、と感じる科学者がどんどん増えている。したがって、文化的な伝播の一定のプロセスは我々ヒト以外の種でも起こっている可能性を除外は出来ないのである。」と結論付ける。([69])
ここで再確認しておきたいのは、ドゥ・ヴァールをはじめとするこの著書の共著者達(合計35名)([70])が、自分たちの研究分野と方法論(discipline)の有用性・有効性を主張したいがためのみに、「文化」の定義を勝手に恣意的に変え、霊長類にも文化が存在する、とむやみに喧伝しているわけではない、ということである。すでに述べたとおり、「文化」(や「法」)についても、これらの概念のより深く適切な理解のためこそ、その定義を変え、微調整することで、動物にも、文化(や法)が存在することが論証できると、彼ら霊長類学者(と法学者としての筆者・和田)は考えているわけである。
さらに、一部の動物にも文化が存在することを、より詳しく、広範に論じた新たな論文集が、2003年に公刊された、Frans de
WaalとPeter L. Tyackの共編と、この分野の専門家の著者たち実に52名([71])による論文集、Animal social complexity : intelligence, culture, and individualized
societies([72])[『動物の社会的複雑性:知性、文化と、個性的な諸社会』]である。これは、前掲のChimpanzee Cultures よりはるかに新しく、動物にも存在する「文化」の新たな定義とその概念の応用について、詳細に論じた論文集である。
まず、編者二人Frans
B.M. de WaalとPeter L. Tyack による"Preface[前書き]"が、文化の新たな定義に軽く言及する([73])。さらに、特に注目すべきは、第V部、"Cultural
Transmission[文化の伝播]"である。第V部への前書き([74])も、「文化の伝播」に関連して、マッコウクジラ、ムクドリ、ホシムクドリに言及しているので、参照されたい。([75])幸島(こうしま)のニホンザルの「芋洗い」文化の伝播という、霊長類学者の間ではもっともよく知られている現象の日本での研究と、ボッソウのチンパンジーに関する研究をも含む論文が、Tetsuro Matsuzawa, "Koshima Monkeys and Bossou Chimpanzees:
Long-Term Research on Culture in Nonhuman Primates"([76])[松沢哲郎「幸島のニホンザルとボッソウのチンパンジー:ヒト以外の霊長類の文化についての長期的研究」]である。より注目すべきは、W.C. McGrewの論文、"Ten
Dispatches from the Chimpanzee Culture Wars"([77])[W.C. マクグルー「チンパンジーの文化戦争からの10の特報」]であり、特に、M.C.
McGrewによる"Culture Has
Escaped from Anthropology"([78])[「文化は人類学から逃亡した」]の項目を、文化が人類学から解放され、霊長類学でも重んじられるようになったことについて、特に参照されたい。さらに、クジラとイルカの文化の存在と、そこにおける"Culture"の定義に言及したのが、Hal Whitehead, "Society and Culture in the Deep and Open Ocean:
The Sperm Whale and Other Cetaceans"([79])[ハル・ホワイトヘッド「深海と公海における社会と文化:マッコウクジラとその他のクジラ目」]である。最後に、鳥類における文化の発見について、Meredith J. West, Andrew P. King, and David J. White,
"Discovering Culture in Birds: The Role of Learning and Development"[メレディス・J・ウェスト、アンドリュー・P・キング、デイヴィッド・J・ホワイト「鳥類の文化の発見:学習と発達の役割」]、中でも特に"Summary: A Test of Culture as a Social Enterprise"([80])[「サマリー:社会的事業としての文化の検査」]の項目に注目されたい。
(3)ヒトの「文化」と動物の「文化」−共通項と差違 言語に注目して
となると、前節の「法」と同様に、ヒトの「文化」と動物の「文化」の共通項と差違はどこにあるのか、に注目しておく必要があろう。ここでも、決め手は言語の有無となる。ヒトでも言語を用いなくとも伝承されていく(本節で述べた意味での)「文化」は当然ありえるが、文化の多くは言語を用いることによってreinforce(補強、増強)され、伝承されることになる。その一方で、動物の文化は、第4章・第5節でも論じるが、動物の持たない言語を介することはありえず、主に観察という手段で習得([81])され、維持され、場合により他の地域にも拡散・伝播([82])していくことになる。
(さらに、本稿の主たる目的ではないので傍論として述べるに留めるが、ヒトの文化には宗教を含めて考えうる、あるいは考えるべきである一方で、ヒト以外の動物の文化にはさしあたり、現時点までの生物学、なかんづく動物行動学・動物生態学などの研究成果では、宗教らしきものは発見されていない、という文化の差異もあるであろう。なお、脱稿後、以下の重要な発見を報道する新聞記事に触れた:朝日新聞2010年4月28日夕刊4月27日夕刊第10面に、「死んだ子背負うチンパンジー 弔いの起源?」である。この記事の電子版は、「チンパンジーに弔う心? 母親、ミイラ化した子を背負う」の見出しでhttp://www.asahi.com/science/update/0427/OSK201004260182.htmlで見ることができた。電子版による内容は、以下のとおりである:
チンパンジーの母親が死んだ子どもをミイラ化するまで背負い続ける例を、京都大学霊長類研究所の林
美里 助教、松沢哲郎教授らのチームが同じ群れで複数観察した。ヒトが死者をとむらう行動の起源ではないかとチームはみている。27日付の米生物学誌に発表した。
チームは、西アフリカ・ギニアで野生チンパンジーの群れの調査を30年以上続けてきた。ジレという名前のチンパンジーが1992年に病死した2歳半の子どもを27日間以上、2003年にも病死した1歳の子どもを68日間背負い続けた。同じ群れの別の母親も死んだ2歳半の子どもを19日間背負った。
3例とも死体はミイラ化したが、母親は生きている時と同じように毛繕いをしたり、体にたかるハエを追い払ったりして、子どもに愛情を示しているようだった。生きているときと背負い方が違い、「死んだことは理解している」とチームはみる。
「ヒトが死者をとむらう気持ちも進化の過程で生まれた。死んだ子どもによりそうチンパンジーの行動に、その起源があるのではないか」と松沢教授は話している。(瀬川茂子)
[電子版の文言によると「死後17日、ミイラ化した子どもを背負うジレ=京都大霊長類研究所提供」というジレの写真が、新聞記事、電子版記事ともに、添えられている。]
これについては、同じ内容の「中日新聞」電子版記事に、専門家・長谷川寿一教授による以下のコメントが寄せられている(出典は:http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010042702000034.html):
長谷川寿一東京大教授(動物行動学)の話 同じ集団の中で3例続けて、チンパンジーの母親が死後の子どもをミイラ化するまで運んだという報告はこれまでない。ただし、ミイラ化した子どもの運搬は、ニホンザルなどでも報告されており、これが文化的な行動か、あるいは人間の弔いに通じるのかについては、他の霊長類との比較も含めて、データの蓄積が待たれる。
ここで峻別すべきは、仮にこのチンパンジーの行動が、人間や動物の「弔いの起源」であるとしても、それは即座には、動物における「宗教の起源」とはならない、という点である。いうまでもないが、宗教を信じない唯物主義者の人間も、無宗教式で葬式をあげることはある。主として「生まれる前の世界」や「死後の世界」を想定するのが「宗教」か否かの決め手となる特徴である。今回の研究成果も、チンパンジーが「死後の世界」を想定している論証にはならない。以上の理由を以て、今時の発見は、筆者・和田の前述の、動物には「宗教らしきものは発見されていない」という暫定結論を揺るがすものではない、と結論づけたい。なお、今回の発見をした研究チームの1人で、朝日新聞の記事に名が挙がっている林 美里 助教は、今までも京都大学霊長類研究所で飼育されているチンパンジーの行動についても、優れた研究成果を発表してきた俊英である。今後の林
美里 助教のご研究成果に期待したい。)
第2章 「法と進化生物学」序論
本・第1部の第2章以降では、後述の自然科学分野について、馴染みの浅いであろう法学者の読者を念頭に置き、いわば「学界展望」として、「進化生物学」「進化心理学」に重点を置きつつ、さらには「行動遺伝学」「脳科学・神経科学」「進化倫理学」それぞれの分野で、いかなる新たな知見を含む研究が多々現れているかを、まず紹介する。そして最後に、そうした新たな知見をスターティング・ポイントとして、法学とのクロス・オーバーの学際分野で、どのような展望が開けてくるかを各セクションの末尾に筆者が付加的に論じる、という段取り採る。
第1節 進化生物学とその発展
(1)ダーウィンの進化生物学とその発展−自然淘汰(自然選択)・性淘汰(性選択)
序章・第3節でも簡単に触れたが、ダーウィンが提唱した進化生物学は、近年、自然選択に加えて、性選択の研究が進み、より一層の発展をみている。([83])進化生物学そのものを論じるのは本稿の目的ではなく、あくまで「法と進化生物学」という学際分野で、いかなる新たな展望が開けるかを主眼におくため、進化生物学の新たな発展([84])についても略記するにとどめるが、性選択についてだけでも、1930年に「ラン・アウェイ仮説」([85])が発表されて以後も、1975年から1984年のわずか10年足らずの間に、「ハンディキャップ理論」([86])・「メスによる選り好み」([87])・「精子間競争」([88])といった新たな理論や仮説が次々と発表されている。こうした中でも、本稿の主題である「法と進化生物学」の観点からは、自然選択・性選択双方の点で、進化生物学の基礎をなす「血縁度」「適応度」「包括適応度」([89])はいうまでもなく、さらに、「互恵的利他行動」「近親婚の回避」「配偶者防衛」「父性の確信・確認」などが重要となる。([90])
さらに、序章・第3節の注(11)ですでに述べておいたが、進化生物学でも、直近になって、1970年代前後にWilliam
Hamilton, Robert Triversらによって築かれた基盤に一定の疑義が呈されるなど、新たな進展が見られる。例えば、ハミルトンが提唱した血縁度・適応度・包括適応度は利他行動を説明する上では重要であった。しかし、2009年に入って、イギリスのRatnieks
& Wenseleersが以下の注目すべき論文を専門誌Trends in Ecology & Evolution(略称TREE)に書いている:"Altruism
in insect societies and beyond: voluntary or enforced?"([91])[「昆虫とそれ以外の諸社会における利他行動:自発的か、統制されたものか?」]。これは端的に言えば、今まで自発的だとされていた「利他行動」が「統制」されているのではないか、という疑問を呈したものである。序章・第3節の注(10)で既述の通り、"enforced"となると、「法」という観点からも看過できない。それのみならず、この論文は、脊椎動物の、さらにはヒトの社会における利他行動の強制についても論じている。今後の進化生物学の新たな発展を占う上でも、このRatnieks & Wenseleersの研究は、注目すべき見解であり、これ以後のその趨勢から目が離せない論点を提示したといえよう。
(2)ダーウィンの「自然淘汰論(選択論)」と木村資生博士の「中立進化論」(1968年発表)——両立か、対立か?
ここで一点留保しておきたい。進化生物学は確かに発展しているのだが、その中で、ダーウィンの理論に異が唱えられる局面も表れてきている。
その一例として、木村資生(きむら・もとお)博士の進化の「中立説」(1968年にNature誌に発表)([92])の位置づけについて、これを単にダーウィンの進化生物学を補強する理論ではなく、ダーウィンが強調した淘汰論(選択論;日本語の用語は異なるものの、原語は"selection"で同じであり、日本語でも意味するところは結局同じである)に対立する理論として注目する、斎藤成也教授による主張([93])をあげておきたい。([94])
これを要すれば、<(ダーウィンはその存在を知らなかった)遺伝子の変異は、選択圧の下で、選択されて進化する(つまり立ち現れて、残る)か、淘汰されて消える>とするダーウィンの選択論(淘汰論)に対して、木村資生の理論は、単に<遺伝子の変異は一定の方向性を持つことはなく、(ある特徴が)立ち現れ、残る、すなわち進化するかどうかとは無関係に、起こる>というにとどまらず、<実際にみられる遺伝子の変異の大半は、選択圧(淘汰圧)とは無関係に、選択も淘汰もされることはなく、中立的に存続する>というものである。
ダーウィンの自然淘汰論を基礎に据えた進化論の有効性を検証する上で、今後、その決着に注目すべき論点であろう。
第2節 「法と進化生物学」の可能性
詳しくは、第2部・第1章で、「法と進化生物学」の実例と検証、その可能性、その限界について述べることになるが、ここでは序論として、簡単にその可能性に触れておきたい。
進化学の基礎は、なんと言っても進化生物学にある。そして、本稿における「ヒトの法」の定義は、「生物としての動物の一例としてのヒトの、進化に基盤を持つ、広範囲で、かつ成文律・不文律を問わない、ルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」である。となれば、ヒトの「生物としての進化に基盤を持つ[…]ルール・行為規範」を、これを解明する手段としてもっとも期待されるのは、やはり進化生物学である。あえて言えば、「法と進化心理学」は「法と進化生物学」の延長上にある応用編と位置づけることができる。
ここで期待される可能性としては、まずこれを3段階に分けることができよう。
(1)1960年代から1970年代にかけて確立された、「進化生物学」の基礎理論の応用として、「ヒトの法」の法源を探る。
具体的例をあげれば、William
Hamilton(ウィリアム・ハミルトン)、Robert
Trivers(ロバート・トリヴァース([95]))らによる、「血縁度」「(包括)適応度」の理論に基づく、「互恵的利他行動」がヒトの行動に見られるようにいたった進化的基盤を解明し、それが「ヒトの法」にいかに反映されているかを究明することである。
(2)(1)の基礎理論の下に構築された、応用理論を用いて、実際に「ヒトの法」・法律に出現している「近親婚の回避」「配偶者防衛」「父性の確信・確認」など(第1節参照)の法源を、ヒトの進化的基盤に探ることになる。
(3)さらに、(1)(2)の応用として、実際に、日本の家族法を実例にあげつつ、実定法における具体的な解釈論に、「法と進化生物学」がいかに応用できるかを示していきたい。具体的には、第2部・第1章であげるが、例えば、「離婚後扶養」の根拠付け([96])について、「法と進化生物学」の手法を用いて、新たな説を提示する。
第3節 「法と進化生物学」の使命と限界
「法と進化生物学」の使命は、本稿の冒頭に述べたとおり、法の「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあること、「法源」の旧来言われてきたよりもより多くが「ヒトの進化的基盤」に求められるを実証することにある。
同時に、その限界としては、本第1部・第1章・第3節・(1)の図1を想起していただきたい。この図で示したとおり、現代の法学で通例として論じられる「法・法律」と、本稿の「(ヒトの)法」の定義内容は、完全には一致しない。このことからも明らかなとおり、現在、「法・法律」と呼ばれるもの(集合A)の内、新たな「ヒトの法」の定義の範囲(集合B)から除かれる部分(の法源)については、何ら論証を試みることはしないし、できない。
これは例えば、よく言及される例であるが、「車は右側通行か、左側通行か」について、「どちら側通行かを決めて、運転者・通行人に及ぶリスクを最小限にする」ことは、本稿の「ヒトの法」の定義内に入る。しかし、それが「右側」なのか「左側」かなのかは「法律」で決めるべき重要事項であるが、本稿の「ヒトの法」の定義からは外れる。
「法と進化生物学」の使命と限界は、おおむね、こうした諸点にあると本稿のこの時点では理解していただければよい。詳細は、第2部・第1章に譲る。
第3章 「法と進化心理学」序論
第1節 進化生物学とその近年のめざましい発展
(1)「4枚カード問題」における、Cosmidesの画期的業績
進化生物学とその近年のめざましい発展を象徴する研究成果を、ここで挙げる。進化心理学ではすでにあまりによく知られた問題かつ業績であるが、法・法学とも深い関係を有するがゆえに、まずは、いわゆる「4枚カード問題」(厳密には"The Wason Card Problem"、日本語では「ウェイソン選択課題」とも呼ばれる)における、Cosmidesの画期的業績について、簡単に解説しておきたい。([97])
この研究([98])において、端的に言えば、Cosmidesは、ヒトは<ルール(例えば法!)に対するルール違反者、『裏切り者』検知において、特別に優れた能力を示す>ことを実証したのである。
ハーヴァード大学の院生であったコミスデスは、同大学の先輩であるロバート・トリヴァーズ(Robert Trivers)([99])の理論に大きな影響を受け、ヒトの社会契約の(進化)生物学的基盤とそれに適応した心理メカニズムについて考察した。トリヴァーズが論じた「互恵的利他行動(reciprocal
altruism)」の成立条件で非常に重要なのは、恩恵を受ける一方で、お返しをしない個体を見抜くことができる、そしてそのような個体を排除できるということである。利他行動の貸し借り関係を言い換えると、コストを払った者だけが受益者になれることである。コスミデスはこれこそが社会契約の基本原理だと論じた。彼女の研究がユニークであったのは、社会契約が維持されるためには、こうした裏切り者をいち早く発見するような「心理メカニズム」を持つように、強い選択(淘汰)が働いてきたと考えたことである。ヒトが互恵的な社会的動物である以上、ヒトには社会契約を守らない「裏切り者」を鋭敏に検知する適応機構が備わっているはずだという予測を彼女は立てたのである。
"The Wason
Card Problem"とは、「PであればQである」という命題の真偽を確かめるために、並べられた4枚のカードのどれを裏返したらよいかを問う、演繹的推論の課題である。結論から言えば、P(真)と、not-Q(対偶)を選択することが求められる。つまり、「PであればQであること」を確認することに加えて、「QでないものがPと対応していないこと」を調べる必要がある。
コスミデスは概略、次のような実験を行った。(図3参照)
(a) まず、表・裏のある4枚のカードを並べて、表面にはABC…のアルファベットが、裏面には1,2,3の数字が記されていることを被験者に説明し、「カードの表が母音ならば、裏は偶数である」という命題の真偽を確かめさせた。そこで、例えば:「A」「K」「4」「7」という4枚のカードを並べて、どのカードをめくれば、命題の真偽が確かめられるかを実験した。正答は、「A」と「7」をめくることである。しかし、結果は、大学生においても、平均正答率は10数%であった。
(b) 次に、「ビールを飲んでいるが年齢が分からない者」、「コーラを飲んでいるが年齢が分からない者」、「24歳だが何を飲んでいるか分からない者」、「16歳だが何を飲んでいるか分からない者」、4者を並べて、「ビール(などのアルコール飲料)を飲んでいるならば、20歳以上である」という命題の真偽を確かめるためには、何をチェックしたらよいかを試みさせた。正答は、「ビールを飲んでいるが年齢が分からない者」の年齢を調べること、および「16歳だが何を飲んでいるか分からない者」が何を飲んでいるか調べることである。この問いでは、正答率は(同じ大学生で)一挙に60-70%まで急上昇した。
注目すべきは、論理的な問題としては、(a)と(b)は全く同じ問題であり、論理的思考のみが必要とされるならば、正答率は同じとなるはずだ、という点である。コスミデスは、それにもかかわらず正答率に大きな差が出る点に注目したのである。
従来、この文脈・現象は、問題へのなじみ深さ(たとえばアルコールを飲むことと年齢のルール)あるいは実用的許可の文脈によって生じると説明されてきた。それに対してコスミデスは、正答率が上がるのは、それが「社会契約課題」だからであり、とりわけヒトが裏切り者を鋭敏に検知する心理メカニズムを備えているからだと考えた。詳論([100])は避けるが、彼女は、解答者が馴染みの薄い問題でも、社会契約の文脈を付加すると正答率が高くなることや、前提と許可からなる課題でも、社会的文脈が与えられた場合のみ、正答率が高くなることを示した。([101])
P not-P Q
not-Q
(a) A K 4 7
(b) ビール コーラ 24歳 16歳
図3
その後、オーストリアのザルツブルク大学所属の認知科学者Gerd Gigerenzer(ゲルト・ギゲレンツァ)らは、同一の4枚カード問題において、誰が受益者となるかを変化させることによって、コスミデスらの社会契約説を支持する実験を行った。まず、馴染みの薄い社会契約についての追試験を行い、その上で、「会社から、過去の被雇用者が年金を受け取るためには、少なくともその会社で10年間働いていなければならない」という命題について、当事者が社会契約を守っているかどうか(裏切っていないかどうか)を確認するという点では、コスミデスの研究結果と基本的に一致する結論を導き出した。([102])
さらに、日本の大学生を対象に忠実に追試された結果は、コスミデスの実験結果をおおむね支持するものであった。([103])
ここで強調したいのは、進化の過程において、<ヒトには社会契約を守らない「裏切り者」を鋭敏に検知する適応機構=心理メカニズムを備えた>ということは、ヒトにおける法の成立において、重要な必要条件であったことが明白だ、ということである。この意味で、コスミデスの実験とその結果は、「法と進化心理学」にとっても重要な意義を持つものである。([104])
(2)留保と疑義−2009年度のHBESの全体会議でのStearns教授の発表
もっとも、ここで、進化心理学の成果について、疑義がないわけではないことにも言及しておきたい。筆者も参加した、2009年度の国際学会Human
Behavior & Evolution Society (HBES)([105])の全体会議(Plenary)でのStephen Stearns教授(Edward P.
Bass Professor of Ecology and Evolutionary Biology, Yale University)による“Are We Stuck in a Major Transition and
Feeling the Pain?”([106])[「我々は主要な転換期にあって痛みを感じているのか?」]と題された基調講演(key note
address)で、Sterns教授は、「進化心理学が主張する学問的成果については、あまりに仮説的なものが多く、疑義を差しはさむ余地がある」と明言している。
確かに、Sterns教授の疑問のとおり、コスミデスらの議論は、一応説得的であるが、脳科学の立場からいえば、脳のどの機能が彼女たちが主張する(たとえば)検知能力を補佐しているのか、というところまでは分かっていない。また、こうした検知能力の、至近的原因と究極的原因の両者の解明が可能か、という疑問も残る。この点については、コスミデスは、同じHBESの個別セッションでの発表も含めて、最近時には、脳の働きを「モジュール(module)」として(これを一種の比喩と理解するか、将来的に脳科学的に実証可能な脳のメカニズムとして理解すべきかは一旦措くとして)説明することで、自説や、進化心理学全般の信憑性の裏打ち、より一層強調することを試みている。(詳細は、すぐ後述する。)([107])
(3)「ティンバーゲンの4つのなぜ」と進化心理学に呈された疑問
進化心理学に呈された最近時の疑義を確認するために、本稿ではこの段階で、進化論の発展上、きわめて重要であった、いわゆる「ティンバーゲン(Niko Tingerben)([108])の四つのなぜ」について確認し、それを前提に、上記の疑義の意味について考えてみたい。
「ティンバーゲンの四つのなぜ」([109])とは、1973年に動物行動学の祖の1人として、コンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz)、カール・フォン・フリッシュ(Karl von Frisch)とともに、ノーベル・医学・生理学賞を受賞した、オランダ生まれの進化生物学者ニコ・ティンバーゲンが主張したことで、動物の行動については、4つの異なる「なぜ?」が存在し、動物の行動を真に解明するには、この4つの相異なる「なぜ?」のすべては解明しなくてはならない、いうことである。
その4つとは:
1.至近要因[直接要因とも訳される;immediate cause]:その行動が引き起こされている直接の要因はなんだろうか[生理的、心理的、社会的メカニズム ]
2.究極要因[進化要因とも訳される;ultimate cause]:その行動は、どんな機能があるから進化して来たのだろうか。進化的にどのような意味があったのか。[どのように適応的だったのか。]
3.発達要因:その行動は、動物の個体の一生の間に、そのような発達をたどって完成されるのだろうか。[どのようにして習得されていくか。]
4.系統発生要因:その行動は、その動物の進化の過程で、どの祖先型からどのような道筋をたとって出現してきたのだろうか。([110])
文献上は、現時点ではまだ特定しえないが、前述のStearns教授が最近時の国際学会で、進化心理学に対して呈した疑問を、本稿で「進化心理学」を大きく取り上げている筆者としては真剣に受け止め、この疑問の位置づけを行いたい。簡潔に言えば、Sterns教授の疑問は、<進化心理学の「発展」の名の下に論じられている最近の多くの問題と、そこから引き出されているかに見える「結論」は、まだ未熟(premature)である>ということであり、その主張の根拠を探れば、<進化心理学が、上記の「4つのなぜ」のうち、「2. 究極要因」と「4.系統発生要因」[この2つを広義の「究極要因」とまとめて呼ぶこともある]とを根拠として、理由づけられ、結論を導き出しているのに対し、「1.至近要因」および「3.発達要因」[この2つを広義の「至近要因」とまとめて呼ぶこともある]による理由付け、換言すれば、今ここで手に触れられる(tangible)データ・理由を根拠に論証されている部分があまりに少ない>ということに尽きるかと思われる。
これに対する、進化心理学者の側からの直接・間接の反応・反論としては、まさにStearns教授が指摘するとおり、今後は、広義の「究極要因」のみならず、広義の「至近要因」のtangibleなデータの裏付けを基に、進化心理学の成果を理論的にを根拠づけ、論証していこうという方向性であるとみえる。
実例としては、すでに前項の(2)で簡単に言及したが、近年、Leda Cosmidesを初めとする進化心理学者は、人間の心理・行動に結びつく脳の働きを、一種の「モジュール(module)」としてとらえ、一つの課題に対してヒト(その他の生物)が採る反応を決める際の脳の働きは、こうしたモジュールが複数、同時的に機能して、答えを出し、行動に結びつけている、という考え方を提示している。同時に、まだprematureな段階ではあろうとも、脳科学の新たな知見を活かし、広義の「至近要因」のtangibleなデータの蓄積を目指し、進化心理学の成果を根拠づけ、論証しようという試みがある。
実例としては、Julian
Lim, Daniel Sznycer, Andrew W. Delton, Theresa E. Robertson, John Tooby, Leda
CosmidesによるStearns教授の疑義提示と同じHBES 2009での口頭発表、"The role of welfare tradeoff
ratios in reciprocity"([111])[「互恵性におけるwelfare tradeoff ratiosの役割」]で、筆者の手元控え([112])では、発表したLeda Cosimidesは、人の脳を複数のモジュールの作用として捉え、「至近要因」のtangibleなデータの蓄積により、この発表内容を論証しようという試みていると見受けられた。
第2節 「法と進化心理学」の可能性
前節で述べた、「進化生物学とその近年のめざましい発展」をもってみれば、一定の疑義は呈されてはいるものの、「法と進化心理学」の新たな可能性としては以下がすでに明白となっている。例えば、前節・(1)「4枚カード問題」で示したとおり、ルールに対する「裏切り者検知」の知能が、ヒトでは特に進化したと考えられるのであるならば、その進化的基盤は、人類社会における「法」・法制度の成立と、その受容、周知徹底と施行(enforcement)に際しては、非常に有利に(プラスに)働いたと考えることができる。換言すれば、ヒトの法の法源の一部を、進化心理学で実証されたヒトの進化的基盤に求めることは十分に可能であろう。
第3節 「法と進化心理学」の使命と限界
すでに第2章・第3節で、「法と進化生物学」の使命と限界について述べたが、その枠組みは、基本的に「法と進化心理学」にもあてはまる。すなわち、「法と進化心理学」の使命も、法の「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあり、「法源」の旧来言われてきたよりもより多くが「ヒトの進化的基盤」に求められるを実証することにある。その限界としては、本第1部・第1章・第3節・(1)の図1のとおり、「法・法律」(集合A)と、本稿の「(ヒトの)法」の定義内容(集合B)は、一致しない。したがって、「法・法律」と呼ばれるものの内、新たな「ヒトの法」の定義の範囲から除かれる部分については、「法と進化心理学」の手法を持ってしても、論証を試みることはしない。詳細は、第2部・第2章に譲る。
第4章「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」
第1節 「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」三者の相互関係
「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」三者の相互関係は、端的に言えば次のようになる。
既述の通り、進化生物学はダーウィンの基礎理論の上に、例示的には1970年代前後のハミルトン、トリヴァーズの理論的構築を得て発展した学問である。進化心理学は、その進化生物学の基盤の上に、いわば「新たな城」を構築しようという試みであり、進化と人間行動が、進化生物学と同様に、ヒトの生物としての進化的基盤に基づき、いかなる「心理」を進化させてきたことが進化的に有利だったのか、を究明しようとしている。その意味で、進化生物学・進化心理学の両者は、ヒトの生物としての700万年の進化的基盤に基づき、進化と人間行動・心理の関係を解明しよう、という点において戦略を同じくする。換言すれば、この2つの学問は、第3章・第1節(3)に前述した「ティンバーゲンの四つのなぜ」のうち、至近要因に強い関心を寄せつつも、究極要因を究明しよう、という強い問題関心が存在する。
これに対して、行動遺伝学は、本章・第3節、特に(2)の(a)でも後述するとおり、究極要因に関心がないわけではないが、それよりも至近要因に強烈な関心の焦点を中てている。簡潔に言えば、近年の行動遺伝学の中心的問題関心は、<遺伝子によって構築された生物個体の生理的メカニズムが、その個体の(出生前も含めて)、出生後の環境の影響を受けつつ、相互の作用として「創発的(emergenic)」にいかなる行動を生み出すのか>にある。換言すれば、その重点は、(進化を意識するとしても、その)至近要因にあり、究極要因にはほとんどない。まさに、ティンバーゲンの「4つのなぜ」の「至近要因」のうち以下の二点に関心を絞っているのが行動遺伝学なのである:
1.至近要因:その行動を直接引き起こす生理的メカニズム。(心理的、社会的メカニズムにすら関心をほとんど示さない。)
2.発達要因:その行動はどのようにして習得されていくか。(この典型が、行動遺伝学の中でも、後述する双生児研究の手法である。)
となると、「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」の相互関係は、次のよう言える。
本稿冒頭に提示したとおり、「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあり、「ヒトの」法の定義を、「生物としての動物の一例としてのヒトの、進化に基盤を持つ、広範囲で、かつ成文律・不文律を問わない、ルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」としている。である以上、前者の論証と、後者の妥当性は、まずは、「法と進化生物学」・「法と進化生物学」の学際的手法を用い、ヒトの行動の「究極要因」と関連させて論じることになる。
しかしながら同時に、行動遺伝学は、繰り返すが、本章・第3節(2)(a)で後述するように、ヒトが700万年の進化の過程で集積してきた、現在保有している遺伝子群が、(環境と相互作用を持ちつつ、創発的に)どのような人間行動を生み出すのか、その至近要因を解明してくれる期待がもてる学問である。法を、「進化に基盤を持つ[…]成文律・不文律を問わない、ルール・行為規範」と定義した以上、遺伝子群が、それが生み出す人間行動に、一定の「ルール・行動規範」を与えている(可能性がある)としたら、「法と遺伝学」は、「法と行動遺伝学」の学際的手法を用いれば、「究極要因」から説明できるヒトの(法の定義の一部である)行動規範の「至近要因」を解明する可能性を秘めている。
後述するが、今まで、学問界では、一方では進化生物学・進化心理学が、他方で行動遺伝学の研究が、進められており、この2つの分野の協働関係はほとんどみられなかった。本稿では、「法」を手がかりに、「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」三者を相互に結びつけ、「法」が発生した進化上の究極要因と、至近要因双方の解明に役立てよう、という野望を持っているのである。([113])
第2節 「進化上の淘汰(選択)は個体の遺伝子に直接働く」
「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」の相互関係を説明するために、前節では、進化生物学・進化心理学と、行動遺伝学の関係を説明した。本節では、これをさらに深め、これら前二者と後者は実は、学界で扱われているよりも一層密接な関係にあるのだ、ということを論証したい。
(1)リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』とその影響
Richard Dawkins
(リチャード・ドーキンス)が1976年の著書、The Selfish Gene([114])(和訳タイトル『利己的な遺伝子』)([115])で、<selection(選択)は個体の遺伝子に直接働く>という命題を掲げたのはあまりに有名である。この命題は、今や主流の進化生物学者にとっては「疑似パラダイム」と呼んでもよい意味を持っている。これには少なくとも2つの意義がある。
第1に、ダーウィンのselection(選択)の概念は、「種の保存」に寄与するものでは決して無く、あくまで個体一つ一つの遺伝子に直接働き、<その個体の遺伝子がどれだけ残っていくか>という議論に集約される、ということである。((2)で後述するが、「種の保存」とは言えないまでも、"group selection"[集団選択・集団淘汰]の概念と妥当性を主張する、少数派のDavid Wilsonの説は妥当しない、ということになる。)
第2に、ダーウィンが主張したselection(選択)の結果は、生物の各個体中の遺伝子にこそ集積している、ということである。ここに、前節で述べた、進化生物学・進化心理学と、行動遺伝学の接点がある。進化生物学が説得力を持ったのは、遺伝子の存在すら知られず、ましてや1953年にJames Watson (ジェイムズ・ワトソン)とFrancis Crick (フランシス・クリック)によりようやく発見された、遺伝子を担うDNAの二重らせん構造すら知られなかった時代から、選択、変異、進化、という概念を提唱し、その妥当性を論証できたことにある。しかし、遺伝子を担うDNAの二重らせんの発見は、ダーウィンの理論を「遺伝子」といういわば「現場」で検証する可能性をもたらした。その研究は今も発展途上にある。我々は、ヒト、チンパンジー、ミツバチ、ショウジョウバエ、稲、その他多くの生物のゲノム解読を完了させているが、ゲノム上の遺伝子とその機能の解明は、日進月歩とはいえ、まだまだ「日暮れて道遠し」である。とはいえ、選択の結果が、生物個体中の遺伝子に集積しているのは間違いない。そしてその遺伝子自体と機能の解明は、進化生物学・進化心理学が(おもに究極要因について)解明しようと尽力してきた、ヒトの行動の至近要因の解明にも直接・間接に連結する。ドーキンスの主張は、こうして、進化生物学・進化心理学・行動遺伝学の距離を一気に縮めることになった、というのが筆者の見解である(そのことが、研究成果として結実するのにはまだまだ何十年もかかろうとも、距離を縮めたのは間違いない)。
(2)補論 少数説としての「group
selection=集団淘汰(選択)説」(ディヴィッド・S・ウィルソン)
ドーキンスの<疑似パラダイム>に対して、真っ向から論争を挑んでいるのが、State University of New York, Binghamton (略称:Binghamton University, アメリカ・ニュー・ヨーク州), Department of Biological
Sciences (Joint appointment with Anthropology)のProfessorである、David Sloan
Wilson(ディヴィッド・スローン・ウィルソン)教授([116])である。
彼は、ドーキンスの<selection(選択)は個体の遺伝子に直接働くので、一定のgroup(集団)が主体として選択されることはない>という節に異議を唱え、group selection (集団選択)論、([117])より正確にはmulti-level selection論を提唱している。少数説ながら、注目しておきたい。
[以上:2010年6月14日までに書けて公表していた部分です。和田幹彦]
第3節 遺伝子によって伝わる動物・ヒトの行動?−「行動遺伝学」
「行動遺伝学(behavioral genetics)」とは、そもそも、遺伝子によって伝わる動物・ヒトの行動、換言すれば、遺伝子と行動の関係を研究する学問であった。しかし、最近時の研究は、そうひと言では言い切れない局面を多々含んでいる。本節では、行動遺伝学とは何かも含めて、「法と行動遺伝学」という新たな学際分野で、いかなる成果が期待できるかを簡単に叙述する。
ダーウィンは、遺伝子の存在の解明を待たずに、生物の「形質」が、自然選択・性選択により遺伝されることを前提に、彼の進化論をうち立てた。しかし、進化生物学が大きな課題とする生物の「行動」(の進化)が、自然選択・性選択により遺伝されることは、長年、進化生物学者の間でもいわば「仮説」として前提とされてきたが、その「中味・仕組み・機能」は分からないまま、すなわちブラックボックスとなった状態であった。
この局面に巧妙を与えてくれるものとして期待されているのが、行動遺伝学である。
しかしながら、20世紀の一時期に散見された、遺伝子が人間他の動物の行動を決定するという「遺伝子決定論」、逆に、環境こそが行動を決定するという「環境決定論」、いずれもが完全な説得力を持たないまま、我々は21世紀に突入した。簡潔に言えば、現在の行動遺伝学では、Nature vs. Nurture (生まれか育ちか;遺伝子か環境か)といった議論はもはや時代遅れとされ、Nature AND Nurture、([118])すなわち生まれと育ち、遺伝子と環境が「創発的(emergenic)に相互に作用しつつ、ヒト・動物の行動を生み出す、と考えられている。
(1)遺伝子により伝わる動物・ヒトの行動を支える生理的メカニズム
そうした中でも、以下の前提は確認しておきたい。
(a)その動物が通常棲息する環境を前提に、一定の遺伝子のセットを持った動物は、出生前後の環境と相互作用しつつ、一定の形質を持つ。
(b)この(a)を前提に、遺伝子により規定される動物・ヒトの生理的メカニズムは、創発的にせよ、一定の行動を支えると推測される(また、その実証例([119])も多々ある)。
(c)以上(a)(b)を前提とすれば、一定の環境下で、一定の遺伝子を持つことは、一定の行動を生み出すケースが多々あると推測される。
筆者としては、(b)の前提中、遺伝子により規定される動物・ヒトの生理的メカニズムが、一定の行動を支えるという実証例を重視しつつ、この後の論旨を展開していきたい。
(2)「行動遺伝学」・その可能性・限界
本セクションでは、行動遺伝学とは何かを今一度確認し、その可能性と限界を探ってみたい。
(a)行動遺伝学とは何か
行動遺伝学とは何か、定義は何通りかがある。もっとも簡単なものでは、<社会性、攻撃性、精神的能力といった心理的な特徴が遺伝される度合いの研究である>というものから始まり、<遺伝と環境の関係が、個人の行動の差をいかに決定するかの研究>というものもあれば、<遺伝学の一分野で、遺伝的傾向と、観察される行動との間の関係を調査する研究>というものもある。([120])とりあえず、ここでは一旦、安藤寿康と大木秀一による、以下の定義に従っておきたい:「人間行動というきわめて高次な、生物学的システムと社会的システムのインターフェイスの中に創出される『遺伝』現象を扱う学問」であり、「もともと心理学が扱ってきた形質を量的遺伝学(Quantative
Genetics)のモデルに当てはめた、いわば学問的雑種」([121])である、というものである。
なお、安藤寿康教授から、筆者・和田宛のメールによるご教示によれば、行動遺伝学の包括的な定義としては、「行動の個人差に及ぼす遺伝と環境の影響を明らかにしようとする科学」と言い表すことが可能であり、特に留意すべき点は「行動の普遍性ではなく個人差だということと、遺伝だけでなく環境の影響も対象としている」とだということである。([122])
さらに、行動遺伝学者として著名なRobert Plominの文献を一つあげ、同書に述べられた、「行動遺伝学」のアプローチが、他のアプローチに対して持つ優位な点の概説([123])と、同じPlominが共著者に入っている文献における、行動遺伝学の目指す諸目標([124])を注記しておく。
(b)Robert Plominの行動遺伝学、安藤寿康の双生児研究
行動遺伝学界で、特に英語圏で、行動遺伝学のいわゆる「教科書」タイプの学術書はすでに何冊か出されている。ここでは例示的に、その中のいくつかを紹介しつつ、行動遺伝学において、遺伝子決定説も、環境決定説も支持されていないことを再確認したい。
ここでもやはり規定的な教科書的役割を果たしている書籍は、まずは1980年刊のRobert Plominを始め、他の共著者J.C. DeFries, G.E. McClearnの3人によるBehavioral genetics : a primer([125])[『行動遺伝学:入門書』]である。この著は版を重ね、たとえば第2版が1990年([126])、第4版が前記の3人の著者にPeter McGuffinを加えて2000年に出版され、([127])さらに第5版は同じ4共著者により2008年に出版されている。([128])
さらに、すでに述べたとおり、"Nature
vs. Nurture"ではなく、"Nature
and Nurture"の観点から書かれた学術書として、まず、まさにそのものがメインタイトルとなっている、Robert Plominによる1990年の著、Nature and nurture : an introduction to
human behavioral genetics([129])をあげておく。この著書はR. プロミン著/安藤寿康、大木秀一共訳『遺伝と環境:人間行動遺伝学入門』として和訳もされている。([130])次に、2006年のSir Michael
Rutter著、Genes and Behavior:
Nature-Nurture Interplay Explained ([131])にも注目すべきであろう(M. ラター著/安藤寿康訳『遺伝子は行動をいかに語るか』という和訳もされている。([132]))
さて、日本に目を転じよう。慶應大学文学部教授の安藤寿康は、行動遺伝学研究の一環として、「首都圏ふたごプロジェクト」(Tokyo Twin Cohort Project ; 略称ToTCoP:科学技術振興機構による)と、成人双生児を対象とした「慶應義塾双生児研究」(Keio Twin Studies ;略称KTS:科研費・基盤Bによる)を中心とした研究活動を推進している。これらは2つとも(特に前者)、今まで日本に例を見ない大規模の双生児研究プロジェクトである。行動遺伝学における双生児研究の有効性は、すでにPlominが著書(前述の教科書)でもにとりあげているが、安藤寿康の研究チームの表現を借りて端的に言えば以下のとおりである:
一卵性双生児は遺伝子を100%共有しているが、二卵性双生児は50%しか共有していない。しかし育った環境はどちらもほぼ同じである。したがって、もし一卵性双生児どうしの方が、二卵性双生児どうしより似ているとしたら、そこには遺伝の影響があると考えらる。また、一卵性双生児に違いがあれば、それはきょうだいそれぞれに独自の環境の影響が、さらに二卵性双生児でもよく似ていれば、一緒に育った環境の影響があったと考えることができる。このような研究方法を双生児法と言い、自然科学や社会科学のひとつのアプローチとして世界的に応用されている。([133])
こうした研究手法を採りつつ、安藤寿康は、まず「慶應義塾双生児研究」では1998年発足以来、首都圏在住のおよそ1000組の青年期、成人期の双生児を対象に研究プロジェクトを実施し、自宅で答えてもらう質問紙調査、([134])あるいは慶應義塾大学まで来てもらう来校調査に協力を求め、これまで多くの研究成果をあげてきた。([135])
これと並行し、安藤寿康は、「首都圏ふたごプロジェクト(Tokyo Twin Cohort Project; 略称「TOTCOP」)」を2004年12月にスタートさせ、2009年11月までの5年間に完了させた。これは独立行政法人・科学技術振興機構「脳科学と教育」という研究プログラムの一貫として行われた「双生児法による乳児・幼児の発育縦断研究」という研究活動となっている。([136])
このプロジェクトは、「主に2005年に首都圏(東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県)で生まれる双生児の悉皆的レジストリーを作成し、そのうち約2000組の協力を得て、アンケートや個別面接調査、そして光トポグラフィーによる調査などによって、心身の発達過程を5年間にわたり縦断的に調査」([137])を行っている。その結果、「この研究から、気質や運動能力、認知・言語能力、問題行動などが、遺伝、家族が共有する環境、一人一人に独自な非共有環境から、発達過程のどの時点で、それぞれどの程度の影響を受けているかがわかり、子どもの健やかな発達を支えるための教育環境を考える上での基礎情報を提供」([138])することを目的としている。具体的には:
●「アンケート班(質問紙調査)」([139])
●「ニルス班(光トポグラフィ調査)」(「頭の近くの神経活動を測定して、ことばや社会性の機能が遺伝や環境の影響をどのように受けているかを明らかにしようという調査」)([140])
●「家庭訪問班(家庭訪問調査)」(「ふたごの親子関係やきょうだい関係が、成長に伴ってどのように変化していくかを、ご家庭で行う発達検査や遊びの観察などを通して明らかにしていこうという研究[…]。任意でご協力いただいたご家庭に、お子さまたちが1歳から5歳までの間に最多で5回訪問させて」もらっている)([141])
●「なかま班(言葉と社会性の調査)」(「ご協力いただける一部のご家庭に、ことばと社会性の発達に関する調査をお願いして」おり、双生児が「イラストやおもちゃで遊ぶなかで、ことばや社会性の発達を観察する調査」であり、「測定環境を一定に保つためと集団形式での調査のため、慶應義塾大学内の施設までご足労をお願いし[…]同じ年齢のふたごのお子さまを持つご家庭と交流できる場」にもなっている)([142])
…の4つの調査班から成り立っている。その規模は、より精確には、もっとも大きい「アンケート班」においては、主に9ヵ月から14ヵ月歳の双生児1700組に対して行われている。「アンケート班」は参加者全ての人に、そして「ニルス班」、「家庭訪問班」、「なかま班」は、その中でさらにそれに参加しようといって下さった家庭を対象としているという形を取っている。また、1回のみの3才から26才までの匿名による横断調査は4000組で、数としては一番大きくなっている。([143])以上のように、このプロジェクトは、日本で行われたこの種の双生児研究の中では最も規模が大きく、その研究成果([144])は今後も注目されるべきものである。
さらに安藤は、科学研究費を取得し、2009年度から2011年度にわたり、「社会性とメンタルヘルスの双生児研究:遺伝子と脳活動をつなぐ」という研究も立ち上げており、この研究の目的は:
今日、世界的には、「遺伝子−脳−行動」を実質的に結び付ける行動神経ゲノミクスの興隆期に差し掛かろうという時期にあるが、国内では未だ萌芽的な段階に過ぎず、とりわけ、双生児という遺伝情報を体系的に統制できるサンプルに基づく研究に限ると、それは世界的にも希少である。そこで、本研究は、これまでに蓄積してきた双生児法による人間行動遺伝学的研究の知見を、脳科学・分子生物学と融合させ、社会科学と生命科学の境界領域において、人間の生物・社会的な適応行動のメカニズムを『遺伝と環境』という側面から探求する。そのために多面的なアプローチ(i.e., 遺伝子発現データ、脳画像データ、心理・行動データ)によって、相互作用的因果ネットワークを構築することを通じ、実証に基づく社会的適応(e.g., 生活適応,学校適応,職場適応)の過程を明らかにし、新しい教育環境と社会環境のモデルの探求を行なう。
というものである。その対象は、「幼児・児童期双生児コホート(12 ヶ月〜5歳)1500 組と青年成人期双生児コホート(20 歳〜35 歳)1500 組。これまでに協力の得られている家庭に加え、新たな協力家庭を募集する。この2コホートを、3年間にわたり」研究対象にしていく、というものであり、「調査方法と内容」は、やはり「(1)郵送・web 形式によるアンケート調査 (2) 家庭訪問・来校形式による個別行動調査 (3) NIRS, MRI による脳構造・機能調査 (4) SNP の全ゲノムスキャンによる遺伝子調査」とされている。今後の成果が期待される。([145])
(c)「法と行動遺伝学」
行動遺伝学の定義には、<遺伝と環境の関係が、個人の行動の差をいかに決定するかの研究>というものもあれば、<遺伝学の一分野で、遺伝的傾向と、観察される行動との間の関係を調査する研究>というものもあることは既にみた。いずれにせよ、行動遺伝学は、<遺伝と環境が人間の行動をいかに規律しているか>を研究対象にしているわけである。さて、旧来からの法・法律の定義は一旦おいて、本稿の冒頭での「法」の定義を今一度思いおこしていただきたい:「生物としての動物(の一例としてのヒト)の、進化に基盤を持つ、広範囲で、かつ成文律・不文律を問わない、ルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」である。「ルール・行為規範であり、違反した場合に制裁を伴う」のであるから、ここでも法が人間の行動を規律していることは自明である。
以上を前提にすれば、行動遺伝学の今後の発展により、「法と行動遺伝学」の相互関係、換言すれば、行動遺伝学によって法・法現象がより多く説明可能となることが期待される、というのが筆者・和田の予測である。
第4節 「自由意志」「自由な選択」に基づかないヒトの行動
(1)ヒトの行動はどこまで「自由意志」「自由な選択」に基づくのか?
<ヒトの行動はどこまで「自由意志」「自由な選択」に基づくのか?>というのは、古来から哲学者を悩ませてきた難問である。門外漢である筆者には、残念ながら、あえてここで古今東西の文献をあげたり、長い歴史の中で蓄積されてきた研究成果をまとめたりする能力はない。しかし、第5章・第3節で紹介する、「神経倫理学(neuroethics)」という新たな分野で、Brent Garland (ブレント・ガーランド)が編集し、多くの学者と一緒に共著書として2004年に公刊したNeuroscience
and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice([146])のブレント・ガーランド編集/古谷和仁・久村典子訳『脳科学と倫理と法−神経倫理学入門』([147])という和訳書も出ている著書に、まずは注目しておいていただきたい。特にこの中でも、原典のPart IIの"Comissioned
Papers"のうち、Michael S. Gazzaniga
& Megan S. Stevenによる"6. Free
Will in the Twenty-first Ceuntury: A Discussion of Neuroscience and the
Law"(pp. 51-70)に注目されたい。(和書では、「第II部 専門論文」のうちの「第五章 二一世紀における自由意思」56-78頁である。)
(2)「自由意志」「自由な選択」に基づかない(?)ヒトの行動の実例
すでに述べたとおり、本項の目的は、<ヒトの行動はどこまで「自由意志」「自由な選択」に基づくのか?>のすべてを解明することにはない。ただ、進化生物学・進化心理学という分野から、<「自由意志」「自由な選択」に基づかないヒトの行動の実例があるのではないか?>というという問いかけに加え、一定程度の論証がなされていることを、例示するにとどめたい。それにより、第2部の第1章・第1節、第2章・第1節への導入としたい。
この項で紹介したいのは、2009年に刊行された、坂口菊恵著『ナンパを科学する』([148])という書籍である。文字どおり「軟派」なタイトルにもかかわらず、本書は巻末274-303頁に30頁にわたって付された409点の論文を掲げた参考文献リスト(その9割以上は、各分野の最先端を行く論考を主体とした英語の論文である)と、それを自由自在に引用した本文を見れば判るとおり、しっかり学問的に根拠付けされた内容を持つ単行書である。本項では、その中から、以下の2点を特に取りだして、伝統的な意味で「主体的・積極的に思考された上での判断、すなわち自由意志・自由な選択に基づくヒトの行動」の例外が存在する、ということを示したい。
(a)女性による男性の「顔」の選好性
まずは、同書の第4章「悪い男がモテるわけ」の第2セクション「『好みの顔』は変化する」に注目されたい。女性による男性の「顔」の選好性は、妊娠可能性の高低の時期によって変化する、という主張と論拠である。引用すると:
[イギリスの認知心理科学者であるデヴィッド・]ペレットと、弟子のペントン=ボークらは、女性に妊娠可能性が低い周期(生理前の二週間と生理中)と高い時期の二度にわたって、男性の顔の好みをたずねた([149])。そうすると、女性は妊娠可能性が低い時期はやはりかなり女性化した男性顔を好むが、妊娠可能性が高い時期はより男性的な顔を好むようになることが明らかになった。[…]自分では意識していないとはいえ、女性は本当にそんな[…]戦略を持っているのだろうか? それを確かめるために、[…別の実験が行われた…]結果は仮説を指示するものだった。『長期的な関係を持つ対象』に対する好みは妊娠可能性が低い時期も高い時期も変わらなかった。これに対し、『短期的な性的関係を持つ対象』に対する好みは生理周期上の時期によって異なっていた(図4・3)([150])。妊娠可能性が低い時期には女性的な男性顔が、そして妊娠可能性が高い時期はより男性的な顔を好まれたのである。
[…]最近の研究では、[…]女性はエストラジオール濃度−女性ホルモンであり、妊娠可能性の高いとき高値を示す−の上昇にともなって男性ホルモン濃度の高い男性の顔を好むようになることも報告されている([151])。([152])
注目して欲しいのは、「自分では意識していないとはいえ、女性は本当にそんな[…]戦略を持っている」という叙述と、そのしっかりした論拠である。まさに、「自由意志・自由な選択に基づかないヒトの行動」は存在するのである。
(b)女性による配偶相手の選好と生理周期
次に注目したいのは、やはり坂口の同書から、女性による配偶相手の選好と生理周期には深い関係がある、という発見とその論拠である。(a)で引用した続きとなる部分をさらに引用しよう:
生理の周期にともなって女性の配偶戦略が変化するということは、進化心理学者にはよく知られている話であり、とても多くの研究がおこなわれてきている。([153])まず、長期的な男性パートナーのいる女性が、パートナー以外の男性とセックスをする頻度は妊娠可能性が高まるとともに高まる一方、長期的なパートナーとのセックス頻度は性周期を通じて変わらないか、妊娠可能性が低い時期にむしろやや増大する傾向があることが報告された。([154])また、初期にはにおいの研究がおこなわれた。体臭には、その人のホルモンの状態や遺伝的な特徴([155])があらわれる。男性ホルモンが代謝されてできる男性の汗のにおい物質に対する好みは、妊娠可能性が高い女性で高くなっている。([156])また、妊娠可能性が高くなるほど、女性は身体の左右の対称性が高い男性の体臭を好むようになる([157])。([158])
ここでも注目していただきたいのは、女性が、<自分は今、妊娠可能性が高いから、あるいは低いから、このような性戦略を採ろう>、あるいは、<自分は今、妊娠可能性が高いから、男性の汗のにおい物質や、左右対称性が高い男性の体臭をより好むようになろう>という「自由意志・自由な選択に基づく」行動を取っているわけではない、という点に尽きる。
以上の(a)(b)により、進化生物学・進化心理学という分野から、<「自由意志」「自由な選択」に基づかないヒトの行動の実例がある>という論証は、すでに一定程度なされていると考えてよい、と筆者・和田は判断している。
第5節 遺伝子ではなく「文化」によって伝承される動物・ヒトの行動
本節では、第3節・第4節との対比で、遺伝子ではなく「文化」によって伝承される動物・ヒトの行動も当然存在することを確認しておきたい。
第1章・第4節の「補論−『文化』の新たな定義」の冒頭の注(57)にも掲げておいたが、たとえば、カレドニア・カラスは、鈎状に自ら仕上げた枝を用いて、餌をとる行動をとる。(ちなみに、鈎状に自ら仕上げた道具の使用は、ヒト以外では、カレドニア・カラスによるものしか現時点まででは発見されていない。)これは、カレドニア・カラスが遺伝子で規定された行動ではなく、後天的に学んだ行動であり、彼らの「文化」とも言いうると推測されている。([159])
以下では、動物において、まず(1)で動物の「教育」行動における実例を探りたい。
(1)動物の「教育」行動における実例−チンパンジーほか
チンパンジーが、石の塊2つを使って、木の実を割り、中味を食べる行動、([160])およびその行動を子どものチンパンジーが観察し、真似をする(あくまで観察と真似であり、ヒトのように成体が子どもに介助をして教える行動では「ない」ことに注目)行動は、すでに報告されている。([161])
さらに、シロクロヤブチメドリ(英名:Southern Pied-Babbler 、学名:Turdoides bicolor 、スズメ目、ヒタキ科)([162])という種の鳥は、「自分以外の個体の鳥に鳴き声を教える」([163])ということである。([164])
(2)動物とヒトにおける「教育」の異同−「進化教育学」の試み
しかしそれでも、ヒト以外の動物と、ヒトにおける「教育」には異同がある。それはひと言で言えば、ヒトは「三項関係」を理解できるが、例えばチンパンジーは理解できない。([165])([166])「二項関係」とは、「『わたし』と『あなた』の間の社会的関係」である。([167])これに対して、「三項関係」とは、「『わたし−あなた−モノ』という三者が互いに深く関わりあいながら、社会的な相互交渉を進めていく」ことである。([168])
ここにおいて、「教育の進化的基盤」([169])([170])を探ると同時に、「進化教育学」という新たな研究分野を立ち上げた、安藤寿康の今後の研究にも注目したい。([171])
(3)遺伝子ではなく「文化」・言語によっても伝承されるヒトの行動(大前提)
ここで今1点、確認しておきたい。それは、本拙論も、言うまでもなく、遺伝子ではなく「文化」、その中でも特に音声・文書双方の言語によっても伝承されるヒトの行動があることは、大前提としていることである。本拙稿で幾度も強調したとおり、「言語」を操るのは動物の中でもヒトのみである、というのが筆者・和田と、ほとんどの進化生物学者・進化心理学者の立場であり、言語によって伝承されるヒトの行動が質的にも量的にも膨大であるのは、言を待たない。
第5章 「法と脳科学・神経科学」−補論(1)
第1節 法と脳科学・神経科学・進化学の接点
さて、ヒトの言語を司るヒトの脳領域の長年の進化を通じての発達と、音声・文書双方の言語によって複雑な人間行動の規制・規律を可能とした法・法学の成立は、次節以降に具体的にみるとおり、無関係ではありえない。
前章・第5節(2)で言及した「進化教育学」との関連では、進化教育学がどちらかというと、教育の進化における「究極要因」を解明しようと言う所に重点があるのに対して、「法と脳科学・神経科学」は、<遺伝子→遺伝子により形作られる生理的メカニズムとしての脳→脳により指令を受けて惹起されるヒトの行動>という構図の中では、<より「至近要因」に近い脳の活動が、法といかに関わっているか>を解明しよう、という野望につながっている、といえる。
第2節 Oliver
Goodenoughの研究
序章・第5節でも紹介したGruter
Institute for Law and Behavioral Research のメンバーでもあるVermont Law School の教授であるOliver Goodenough(オリヴァー・グッドイナフ)は、この分野で、他の法学者・脳科学者とも協力しつつ、近年めざましい学際的な成果をあげている。
(1)「法的問題」を思考している時に使っている脳の部位についての研究
Goodenough教授は、まず、2001年の論文、"Mapping Cortical Areas Associated with Legal Reasoning and
Moral Intuition"([172])すなわち「法的論理思考と道徳的直感に関連する大脳皮質領域のマッピング(位置・領域測定)」で以下のように言明する:
古典的で、明らかに強情かつ扱いにくい(intractable)、法実証主義と自然法の信奉者の間の論議は、人間の諸行動を判断・評価する2つの分断された精神的諸能力の作用を反映している可能性がある−一方[法実証主義]は、言語に基礎を置いた諸ルールの応用であり、もう一方[自然法]は、正義の、理路整然とはしていない、言語により表現はされない理解(unarticulated
understandings)の応用である。この仮説は、ただのもっともらしい主張にとどまる必要はない。機能的神経イメージングの諸技術は、本仮説を試す実験的な方法・手段を提供してくれる。脳を連続的にスキャンする実験は、人間の行動を評価するために、[1][法実証主義で法と呼ぶような]法的な諸ルールを[脳が]用いている時と、[2]道徳的な直感を[脳が]用いている時、それぞれの場合に、活性化されている脳の領域(brain regions
employed)に、有意な違いがあるかどうかを明かしてくれるはずである。このプロセスは、自然法と、法実証主義[でいう法]の明らかな違いの神経学的な基盤を理解する手助けとなるであろう。([173])
ここでもう一度、本稿の冒頭の(1)(2)(3)で述べた、本稿での主たる主張、中でも特に、「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあるという点、加えて、第1部・第1章「法とは何か」、第1節「自然法」、第2節「法実証主義」、さらに第3節「法の新たな定義」、同節(1)(2)(3)で叙述した、「ヒトの法」と「動物の法」およびその共通項と差違について、思い起こして欲しい。Goodenoughが主張するのは、「自然法」と、「法実証主義でいう法」、各々を用いて人の脳が判断を下している場合、脳の活性化領域が異なる、というのである。これを基に本稿が主張したい点が2点ある。
第1は、Goodenoughが「自然法」として引用するうち、本稿の「法の新たな定義」に当てはまるであろう「法」も、それが用いられる際に活性化される脳領域があるということだが、その領域も、当然、ヒトの脳が進化の過程で蓄積してきた機能なのであって、本稿冒頭で断じた、「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあることを、脳科学の側面からも実証するものだ、という点である。
第2は、用いている際に脳の活性化領域が異なるほど、「自然法」と、「法実証主義でいう法」の相異なる両者ではあれ、Goodenoughが「自然法」として引用するうち、本稿の「法の新たな定義」に当てはまるであろう「法」も、(「法実証主義でいう法」と並んで)「法学」の対象とするに足りる、ということである。
この第2の点の妥当性は、後述の、Goodenoughが実際にfMRI(functional magnetic
resonance imaging; 機能的磁気共鳴画像)を用いて行った脳の活性化領域の実験方法とその結果で、ある程度明らかされた。すなわち、その後、Goodenoughは、この論文で予告([174])した脳領域の測定実験結果を含む研究成果を、2004年に共著論文"Cortical
regions associated with the sense of justice and legal rules"([175])(「正義の感覚と法的ルールとに関連する大脳皮質領域」)で公刊した。のみならず、Goodenoughは、Kristin Prehn他との共著の「道徳的な判断能力の個人差は、社会的・規範的判断の神経上の相関関係に影響を及ぼす」("Individual differences in moral judgment competence influence
neural correlates of socio-normative judgments")というタイトルの論文([176])を、やはり23人の被験者のfMRIデータを駆使しつつ、発表している。
(2)法と脳科学・神経科学一般についての研究
Goodenough教授は、以上の研究にとどまらず、近時、やはり他の法学者・脳神経科学者や経済学者(「神経経済学」という新たな分野を開拓している([177]))とともに、2冊の単行書を刊行して、注目を浴びている。
その第 1は、Philosophical Transactions of the Royal
Society: Biological Sciences(略号は、注に用いたとおり、"Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci.")誌の2004年November 29号である。これは、"Theme
Issue 'Law and the brain' compiled by S. Zeki and O. R. Goodenough"と銘打って、この号全体を以て「法と脳」の特集を組んだのである。([178])(前述の、Neuroeconomicsの論文が掲載されたのもこの特集号と、後述の単行書である。)この特集号が、単行書として再刊されたのが、2006年刊のSemir Zeki
& Oliver Goodenough (eds.), Law and the Brain([179])である。
Goodenough教授は、この2004年の特集号中の、やはりKristin Prehnとの2人の共著論文、「法と正義に関する規範的判断への脳科学的アプローチ」("A
neuroscientific approach to normative judgment in law and justice")([180])の中で、fMRIを多用した研究成果を引用しつつ、おおむね以下の主張を行った:「哲学、宗教、法学、心理学、経済学といった旧来の学問領域からの見解は、本能と感情が、責めるべき点の判断において果たす役割と有用さについて異なってきた。近時、認知心理学と神経生物学は、規範的な判断の問題について、新たな道具立てと方法論を提供している。すなわち、規範的な判断は、脳の中で複数の領域を同時に用いているプロセスだというコンセンサスが生まれつつある。[…中略…]法と正義の研究はまだまだ発達途上である。我々は、法は、今までに研究された本能的・道徳的反応よりも、より広範で多様な情報源と[情報]処理のプロセスの諸回路を用いている、という脳における法のモデルを提唱する。[…後略…]」([181])
さらに第2に、Goodenoughは、2009年に入って、Michael
Freemanと共編著の単行書Law, Mind and
Brain([182]) を刊行した。前書きを入れて17章におよび、24人という多数の共著者による本書は、刑事法、民事法と法哲学の専門家の共著であり、処罰と責任についてのより良い理解について神経科学が提供できる潜在性に注目している。さらに、法学と法実務は、法・心・脳("law, mind
and brain")の学際的研究によりさらに充実したものとなるだろうし、本書は、「神経法学(neurolaw)」という新たな分野への重要な貢献になるだろう、としている。これまでの法・法学と脳科学研究との関係で注目すべき論文は、Dean Mobbs, Hakwan C. Lau, Owen D. Jones and Christopher D. Frith,
"Law, responsibility and the brain"([183])[「法、責任と脳」]であり、fMRI技術との関連では、この技術による証拠のと法廷での説得性についての論考、Neal Feigenson, "Brain imaging and courtroom evidence: on the
admissibility and persuasiveness of fMRI"([184])[「脳画像と法廷での証拠:fMRIの証拠能力性と説得性について」]が目を引く。さらに、筆者・和田の専門領域の一つである家族法については、June Carbone and Naomi Cahn, "Examining the biological bases of
family law: lessons to be learned from the evolutionary analysis of law"([185])[「家族法の生物学的諸基盤の検討:法の進化論的分析から学ばれるべき事」]に注目すべきであろう。([186])
第3節 「神経倫理学(neuroethics)」と「法と脳科学・神経科学」
近年、脳神経科学の発展により、「神経倫理学(neuroethics)」という新しい研究分野が立ち上がりつつある。同時に、この分野では、(前節のGoodenoughたちの研究成果と一部オーバーラップしつつ)、神経倫理学(neuroethics)と法・法学についても同時に論じられているので、看過できない新分野である。
典型的な研究成果としては、弁護士でもあるBrent Garland (ブレント・ガーランド)が編集し、多くの学者と一緒に共著書として2004年に公刊したNeuroscience
and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice(これと同じ版を翻訳した和訳書が、ブレント・ガーランド (編集)、古谷 和仁・久村 典子(訳)『脳科学と倫理と法―神経倫理学入門』)([187])があげられる。
本書で、法学の立場からもっとも注目すべきは、Michael S. Gazzaniga & Megan S. Steven著による論文:"Free Will in the Twenty-first Century:
A Discussion of Neuroscience and the Law"([188])(和訳論文タイトル「21世紀における自由意志−神経科学と法律に関する一考察」)であろう。本論文は、タイトルにもあるとおり、脳神経科学が新たな発展を見せている21世紀において、法律実務・裁判(特に刑事法の分野)で当事者の責任が問えるのか、という新たな問題を論じている。具体的には、まず「自由意志についての哲学上の立場(The
Philosophical Stance on Free Will)」([189])というセクションで、非決定論(Indeterminism)・決定論(Determinism)を対比させて論じ、続く「自由意志を指示する一般的議論(General
Arguments Supporting Free Will)」([190])以降では、Daniel Dennett(ダニエル・デネット)の2003年の論文([191])を根拠としつつ、「決定論的システムの中の自由意志(Free Will in a
Deterministic System)」([192])の存在をも肯定することによって、結論として、「現代の神経科学的知識ならびに法概念の前提に立ちつつ、わたしたちは次の公理・自明の理(axiom)を提示したい:脳は自動的な、規則によって作動する、決定論的な装置である一方、人間は自由に自らの決定を下すことが可能である行為者であり、その決定に対して個人として責任を負う。[…]人々が相互に作用する(interact)と、責任が発生する。脳は決定されたものである:人々(people)は自由である。」([193])と結んでいる。
また、本書は、神経科学の発展に伴い、新たに出現する問題として(以下は読者の便宜を考えて、原書の部分的タイトルを先にあげ、和訳書の部分的タイトルをやや不正確であっても、そのままあげておく)、まずChapter 2の中の小見出し"Prediction
and Social Impact"(第1章「脳機能計測と画像化」中の小見出し「予測と社会的影響」)([194])で、脳科学による行動予測とその社会的影響を論じている。さらに、小見出し"Predicting Violence"(同「暴力の予測」)([195])で「実際に暴力行為に走った前歴がないにもかかわらず、検査の結果にもとづき治療を強制したり、雇用に関する判断を下したりすることには、かなりの違和感を覚えずにはいられない。」([196])という問題点を指摘している。同じ章の中で、見出し"Looking Past Words: Neuroscientific Lie Detection"(「言葉の向こうを見通す−神経科学による虚偽検出」)([197])では、「神経科学に基づく高精度な虚偽検出手法」([198])がはらむ問題として、「証拠能力が裁判所によって考慮されたのは『脳指紋』(Braing
Fingerprinting)という商標名で売り出し中のEEG/P300技術のみである」([199])ものの、より「高精度な検査が利用可能になった時にもっと懸念される」諸問題([200])などを論じている。このように、裁判、中でも刑事事件の裁判における神経科学技法の応用は、幾多の問題をはらんでおり、看過できない。
さて、このGarlandが編集した著書のChapter 7, "Neuroscience
Developments and Law"(和訳書では最後の第8章で「神経科学の将来と法」と訳出されている)の論文([201])を書いているLaurence R. Tancrediは、2005年公刊の自身の単著、Hardwired
Behavior: What Neuroscience Reveals about Morality(和訳書が、ローレンス R. タンクレディ著『道徳脳とは何か : ニューロサイエンスと刑事責任能力』であるが、後述のように若干の問題点がある)([202])で、神経科学と道徳の問題をより深く論じている。和訳書の副題からも察せられるように、道徳のみならず、そこから導かれる刑事責任能力も十分に念頭に置いているところに、法学の観点からは注目すべきであろう。また、原題の"Hardwired Behavior"というのは、直訳は「(脳などが)配線されている」という意味だが、要すれば、「脳の構造から最初から規定されている行動」という挑発的なタイトルであり、まさにこうした行動があるのか、それは道徳とどういう関係にあるのか、そこにおいて刑事責任はどれほど問えるのか、そして最終第12 章の、"Creating
a Moral Brain"(和訳は「道徳脳を育てる」)([203])では、未来にどのような可能性が開けているかを論じている。
さらに、この分野での注目すべき研究書として、2004年公刊の、Neuroethics:
Mapping the Field, Conference Proceedings([204])(『神経倫理学:この分野の位置・領域測定、学会発表論文集』)、2007年公刊の、Defining
Right and Wrong in Brain Science: Essential Readings in Neuroethics([205])があげられる。特に後者は、全405頁、共著者は前述のNeuroscience
and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justiceとも重複する40人前後の(著名な著者も含む)専門家が集まった読み応えのある一書である。
さらにこの神経倫理学(neuroethics)の分野の発展を象徴するかのように、Neil Levy([206])は単著で、Neuroethics: Challenges for the 21st Century([207])(『神経倫理学:21世紀への挑戦』)を発表した。各章末尾に付された注(Endnotes)は若干簡略なものではあり、超一流の論文とは言えまいが、詳細な"References"(参考文献)をpp. 317-336に20頁にわたってあげるなど、この分野の最先端と、それがはらむ諸問題をわかりやすく解説しようとする、良心的な著作である。
そして、この神経倫理学の分野の重要性を、より一層、(潜在的な法学の見地からも)強調するかに見えるのが、法哲学の分野の編著([208])もあるWalter Sinnott-Armstrongの編集による、いずれも500頁前後にわたる大著3巻シリーズのMoral Psychology ([209])([210])[『道徳心理学』]のうちの最終第3巻、Moral Psychology,
Volume 3: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and
Development ([211])[『道徳心理学
第3巻:道徳の神経科学:感情、脳障害と発達』]である。本書は、8つの主な章と、それに対する批判やコメント、さらにはそれに対する主な章の著者による再度のコメントや再反論からなる、というそれだけでも興味深い構成となっている。
この中でも法学の観点から注視すべきは、特に第3章の主論文である。これはKent A.
Kiehlによるもので、"Without
Morals: The Cognitive Neuroscience of Criminal Psychopaths"([212])(「道徳無しに:刑事事件の犯人である精神病質者の認知神経科学」)と題して、fMRIのpscyhopathogy(精神病理学)における応用([213])にも触れた上で、文字どおり刑事事件の犯人である精神病質者の認知神経科学的分析について、詳細に論じている。
以上の学界の最新動向を展望してみれば、「神経倫理学(neuroethics)」と「法と脳科学・神経科学」の分野の連繋は、すでに確立されつつあり、今後も目の離せない研究成果が期待される、ということがお分かり頂けたのではないかと筆者・和田は考える次第である。
第6章 「法と進化倫理学」−補論(2)
第1節 「進化生物学」・「進化心理学」・「進化倫理学」三者の相互関係
まず最初に、「進化倫理学」を定義しておくことが必要であろう。この語を冠して著述された、2009年の内藤淳著『進化倫理学入門−「利己的」なのが結局、正しい』([214])によれば、「人間行動進化学[…]では生物進化の観点から、その過程で人間がいかなる心のはたらきや行動パターンを発達させてきたか、生物として人間が共通に持つ基本的性質はどういうものかが研究されている。人間の道徳性はその中でも重要な研究テーマであり、それを扱う研究は『進化倫理学』と呼ばれて」いる、とまず定義し、「特に1980年代以降、活発な議論が展開されている。」とする。その上で、「[…]道徳に『利益』という客観的な根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示するところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特長である」([215])としている。
それではこの定義を前提に、本稿が主として取り上げる進化生物学・進化心理学と、進化倫理学の相互関係はどのようになるのであろうか。ここで留意すべきは、まず、学問の定義上からではないが、学問史上、前二者と進化倫理学は、決定的な差違をはらんでいることである。すなわち、今までは主としてdescriptive science(ドイツ語で言う"sein" すなわち「どのようになっているか」の描写を試みる)であった、進化生物学・進化心理学と、normに重点を置いたnormative
science(ドイツ語で言う"sollen"
すなわち「どのようにあるべきか」の規範の確立を試みる社会科学分野であり、例えば20世紀後半に特に進展をみた社会学、フェミニズム論、ジェンダー論などをも含む)である、2つの異なるscienceの越境をも(密かにせよ)企図し、この2つを統合しようとする野心的な分野が、進化倫理学である。換言すれば、「進化生物学」が生物の形態・行動が「どのように」進化したかを研究し、「進化心理学」が生物(その中でも特にヒトに焦点を絞っていることは周知の事実であるが)の心理がやはり「どのように」進化したかを究明しようとするのに対して、「進化倫理学」は、定義上はまずは単純に、生物(ここでは動物に限定される)の倫理が「どのよう」に進化したかを研究しようとするものでありながら、まさに「定義上(by definition)」そこでは、動物(やはりヒトに主に焦点を絞っているのは確かである)の倫理、すなわち「どう『あるべきか』」がいかに進化してきたかを研究対象としている、という点で決定的に異なってくるのである。
法社会学者の太田勝造は、このことを、2005年の段階ですでに、この年に刊行した拙編著『法と遺伝学』の中で、「[…]倫理を進化論の文脈で語ることは気の重いことである。[…]「「「「「倫理を進化論の文脈で語ること」の倫理性」を進化論の文脈で語ること」の倫理性を進化論の文脈で語ること」……[ママ]」というメタ進行の泥沼に足をすくわれそうだからである。これは進化プロセスのアウトプットがその刻印の下に自己の創発を導いたプロセスを語るようなものだからかもしれない。」([216])と表現して、「進化倫理学」という研究の営為自体が矛盾をはらみかねない、と警鐘を鳴らしている。しかし、同じ拙編著の中の「序論」で筆者・和田が論じたとおり、太田の警鐘にかかわらず、「太田が第8章を締めくくったように、「「「「「倫理を進化論の文脈で語ること」の倫理性」[…]」[…]」[…]」[…]」という自家撞着は避けねばならない。しかし、ヒトという生物が進化する(立ち現れ、生き残る)過程で、精子・卵子・受精卵の遺伝(子)情報の発現として体内に備えてきた生理的メカニズムは、生物体としてのヒトがその行動・心理に表出する「倫理」と称されるものをも(他の幾種もの動物と同様に)持つ基盤をなしてきたはずである。[…]法と倫理の連鎖は論じられて久しい。進化と倫理はすでに論じられてきた。([217])法−倫理−進化−法−倫理−進化…の三角関係を、より立体的に捉える試みは無謀ではなかろう。」([218])と考えうるのであって、進化倫理学という新たな研究分野には、独自に果たすべき使命がある、というのが筆者・和田の立場である。
なお、次節の「学説と検証」に入る前に、世界の進化倫理学界を簡単に展望しておきたい。英語の著作で、「進化倫理学(evolutionary ethics)」の語を冠したものを例示的にあげるだけでも、学界ではすでにこの分野が確立されつつあることが見受けられる。([219])出版年順に、英語の著作を注記して挙げておく。なお、学問史を描出する、という目的から、すべて初版の書籍を(その出版年を基準に)掲げてある。([220])
第2節 学説と検証
(1)実例1−内井惣七『進化論と倫理』(世界思想社、1996年)([221])
内井教授の本書では、「進化倫理学」という訳語は使われていない。しかし、"Evolutionary ethics"について「進化論的倫理学」という訳語をあてているだけで、基本的に本稿の用語の「進化倫理学」について詳細に論じた、日本語の先駆的業績である。
本稿の限られた紙面の中で、内井教授が本書で展開された学説と、その検証を全面的に行う用意はない。ただ、本書が(本稿の用語の)進化倫理学について学問史から説き起こして実に丁寧に論じ、注220に掲げた英語の文献も、本書公刊の1996年より前の1993年のMatthew H. Nitecki and Doris V. Niteck(eds.), Evolutionary
ethics[『進化倫理学』] に収録された中では、例えばM. Ruseの論文"The New
Evolutionary Ethics"(「新たな進化倫理学」;後述)に言及するなど、丁寧に目配りがされている。(同注220の、1994年刊行のPaul Lawrence Farberの著書、および1995年刊行のPaul Thompsonの編書には言及がない。)
内井教授は、本書の「第1部 ダーウィンの道徳起源論」で1871年初版のダーウィンの著作『人間の由来』([222])までさかのぼって論を起こし、([223])同書の和訳書の問題も丁寧に論じている、([224])その上で、ダーウィンとジョン・スチュアート・ミル(John Stuart
Mill)を対比させ、([225])アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel
Wallace)によるダーウィン批判にも言及する。([226])その上で、「第2部 十九世紀の進化論的倫理学」([227])で、この時代の進化倫理学の先駆的論陣を俯瞰して後、「第3部 社会生物学と倫理」で、社会生物学の開祖とも言えるE.O. Wilsonは、「ウィルソン自身は、社会生物学の知見にもとづいて 倫理的判断あるいは規範的な提言にまで立ち入っており、進化論的倫理[本稿の用語では進化倫理学]の支持者と見なすことができる」とし、典拠として1975年刊行の著名なWilson, Sociobiology
([228])(和訳書名『社会生物学』)に加えて、1878年刊行のWilson, On
Human Nature([229])(和訳書名『人間の本性について』)をあげる。同時に、次項で掲げる内藤淳博士とやや対照的に、Richard D. Alexander (内井教授は「アリグザンダー」と表記)については、「社会生物学のもう一人の有力な論者であるR.D. アリグザンダーは、進化論が人間の行動について多くを教えてくれることを強調しつつも、それから『人は何をなすべきか』規範倫理に関する示唆[以上ママ]を読みとることをきっぱりと拒否しており、進化論的倫理[進化倫理学]は支持しない」と断じ、典拠として1979年刊のAlexanderの有名な一書、Darwinism and Human Affairs([230])をあげている。
そして、内井教授は、本書の後半を割いて、マイケル・ルース(Michael Ruse)の「進化論的倫理学[進化倫理学]を主として取り上げる」ことを、その理由とともに述べている。([231])そしてルースの議論の詳細に立ち入る前に、「まず、社会生物学が拠りどころとする二十世紀の進化生物学の基本的な知識を簡略に見渡しておく」([232])として、その営為に第3章の3.2から3.5([233])を割いている。中でも、メイナード・スミス(John Maynard
Smith)が「基本モデルとする『タカ・ハトゲーム』」のゲームの理論の詳細にも立ち入って紹介しているのは懇切丁寧である。([234])そして、本論である「ルースの進化論的倫理学[進化倫理学]」の詳細を、Ruthの1986年刊の著書、Taking Darwin Seriously([235])を主たる対象として論じ、([236])結論として「わたしはルースの進化論的倫理学[進化倫理学]のうち、経験的な知見とメタ倫理学的洞察の一部は十分に評価するが、道徳判断の正当化に関する見解についてははっきりと反対である。」([237])と結んでいる。
以上から明白なように、内井教授の1996年の本書は、進化倫理学の最前線に迫ろうと試みた、日本の学界での先駆的業績である。
(2)実例2−内藤淳『進化倫理学入門−「利己的」なのが結局、正しい』(光文社、2009年)
(1)で言及した、内井惣七教授の諸論考も踏まえて執筆された([238])のが、2009年刊の内藤淳著『進化倫理学入門−「利己的」なのが結局、正しい』である。筆者・和田は、2010年1月に公刊した「研究ノート」という語を冠した」小論文で、本書を、「挑発的な副題が付された本書は、論文という体裁はとっていない。にもかかわらず、本書は[…]一読に値する。」([239])と評し、その根拠として、第1節冒頭で論じたように、descriptive scienceであった、進化生物学・進化心理学と、normに重点を置いたsocial
scienceの、2つの異なるscienceの越境をも企図し、この2つを統合しようとする野心的な著作が本書だからである、と述べた。([240])
もっとも、内藤博士の本書は、著者が最初から断っているように、入門書として執筆されたものであり、いちいち典拠を注記することもしておらず、論文の体裁は取っていない。内藤博士の学問的主張の中核は、同じく内藤による、2004年の彼の法学博士号請求論文([241])に加筆修正された2007年刊行の『自然主義の人権論―人間の本性に基づく規範』([242])をひもとかねばならない。にもかかわらず、本稿がここで彼の『進化倫理学入門』をとりあげるのは、本書が入門書でありながら、まさに前述のごとき野心的な著作だからであり、内井の先行研究にもかかわらず、「進化倫理学」というキーワードを冠した書物は、現在までの所、和書では内藤博士の本書しか見あたらない、というその先見性にもある。
内藤博士は本書の冒頭で、「進化学では、[…]生物が成功裏に『自分の遺伝子を残す』ことを『(包括)適応度の向上』というが、本書では、『適応度』などの専門用語を避けて『利益』[という用語]を使う」([243])と入門書としての用語法を整えた上で、「第1章 人は利益で動くようにできている」「第2章 『利己的』な愛」「第4章 『善』は特、『悪』は損」「第5章 『私』の利益になる『正しい社会』」「終章 『自分のため』の道徳」といった見出しで、進化倫理学への導入を説いている。
本書には、入門書ならではの弱点もあることは最後に指摘しておきたいと思う。例示すれば、進化生物学者のリチャード・アレグザンダーによる「間接互恵の理論」を用いて内藤博士が読者を説得しようとする、小項目「評判の利益」の部分である。([244])ここで内藤博士は「互恵関係の仕組み」を図示して、([245])「私」が「Aさん」に利他行動を行って、「Aさん」から直接「私」が利益を受けることが無くとも、「B,C,D,Eさん」などをはじめとする人々の間で「『私』はいい人だ!という『評判』」が確立されることで、結果的には「Aさん」は利益を受けることになる、と結論づける。しかし、あくまで非才浅学でアレグザンダーの原著をひもといていない筆者・和田の印象にすぎないが、「間接」互恵という用語が示すとおり、必ずしもそうした結果を導くことは保証されていない、少なくとも内藤博士の本書の内容の範囲ではそうした結果は論証されていないと思われる。
(3)実例3−伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会、2008年)([246])
伊勢田哲治・京都大学准教授の本書の主なテーマの一つは、動物の実験上の倫理である。しかし、それと同時並行的に、第4章の一節を割いて、「4-2 道徳の起源と進化論」([247])、さらには「4-3 再び道徳の理由について考える」([248])というテーマについて少しく詳しく論じてあり、言及する価値のある書物である。もっとも本書は、「進化倫理学」という用語は使用しておらず、あくまで道徳がいかに進化してきたか、を論じるにとどまっている点は留保しておかねばならない。
4-2節での伊勢田准教授の所論の注目すべき箇所は、「4-2-3 生物学的利他行動」([249])で進化生物学のこの理論をしっかり紹介した上で、次の「4-2-4 ゲーム理論と進化生物学」([250])で、この分野の最新研究成果を簡単にまとめている。以上を基盤とした上で、伊勢田准教授は引き続き、「4-2-5 他人[ママ]を思いやる動物」([251])で、動物における道徳に言及するのみならず、4-3節で、「4-3-1 動物の進化生物学から人間の進化生物学へ」を論ずるのである。ここでは、E.O. ウィルソンの社会生物学論争に簡単に概説([252])した上で、進化心理学の発展に触れ、「道徳にかかわる心理の研究も進化心理学の重要な課題となっている。」と指摘する。([253])そして本節の最後の3つのセクションを割いて、伊勢田准教授は「4-3-2 道徳の起源から道徳の理由へ」「4-3-3 ゲーム理論から道徳の理由について何が言えるか」「4-3-4 結局道徳の個人的理由はどうなるのか」([254])において、「進化倫理学」という用語こそ用いていないが、道徳(伊勢田准教授はここで「倫理」という用語も用いている([255]))がいかに進化したか、について論じている。
「進化倫理学」という名こそ付いていないものの、以上の理由から、本書は注目すべき一書である。
第7章 小括−法と自然科学の新たな接点
以上、第1部では、法と自然科学の新たな接点を、学界の新動向を踏まえて叙述してきた。ここでその成果を小括しておきたい。
本稿全体の目的は、序章の冒頭、序章・第1節、および第1部・第1章・第3節で論じてきたとおり:
(1)法の「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にある。
(2)「法源」の旧来言われてきたよりもより多くを、ヒトの進化的基盤に求めることが可能である。
(3)ヒトの法は、「生物としての動物の一例としてのヒトの、進化に基盤を持つ、広範囲で、かつ成文律・不文律を問わない、ルール・行為規範であり、違反した場合に何らかの制裁を伴うもの」と定義することが可能である。
この(1)(2)を論証することにより、この新たな法源論を維持し、かつ(3)の定義の妥当性を立証することである。繰り返しになるが、第1部・第1章・第3節の(1)、「図1」の集合A=「[旧来から論じられてきた]法・法律」と、集合B=「「法」の新たな定義」の図において、集合A=「[旧来から論じられてきた]法・法律」の、従来考えられてきたより遙かに多くの部分が、「進化に基盤を持つ」のであって、集合B=「「法」の新たな定義」と重なること、すなわち、集合Aと集合Bとの「距離」がいかに近いかを論証するための準備作業が、この第1部であった。
そのために、まず第1章の第1・2節では「法」の過去の定義をふり返り、第3節で上記の(3)の「法」の新たな定義を提示した。と同時に、同じ第3節では、霊長類研究の豊かな蓄積に依拠しつつ、まず動物でも霊長類に道徳性があることが論証されたことを踏まえて、霊長類(の一部)には、「動物の法」と呼びうるものが存在することが論証されつつある、と筆者・和田が考えることを準備作業として示した。さらには、「動物の法」と呼びうるものが存在するか否か、限界事例として、これも豊富な研究の蓄積があるミツバチ研究の文献を渉猟し、昆虫学の専門家により、ミツバチ・アリを含む社会性昆虫については、「内発的な動機である『良心』『モラル』を生む」ことすら指摘されていることを示し、今後の研究を待って、社会性昆虫にも「モラル」と呼ぶに足るものがあるとすれば、彼らにも「法」が存在することを予感させる、という筆者・和田の考えを示した。
なお、第1章・第4節では、「動物にも法がある」ことの傍証となる補論として、新たに定義された「文化」について、「動物にも文化がある」ことがすでに論証されていることを示した。ここでは、より広く、霊長類(の一部)に限定されずに、クジラ、イルカ、鳥類にも文化が存在することが、各分野の専門家により実証されつつあることを提示しておいた。
ここで付言しておくが、「(一部の、社会性の高い)動物にも法がある」ことが論証できれば、そのこと自体にも意味があるが、加えて、有史時代以前の、まだ言語が十分には発達していなかったヒトにも法があったことを強く推測させ、本稿冒頭の主張のように、「法源」が「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあり、「法源」の旧来言われてきたよりもより多くを、ヒトの進化的基盤に求めることが可能となるためにこそ、重要となるのである。
次に、第2章「法と進化生物学」序論では、主に第2節において、その可能性を示しておいた。端的に言えば、本章冒頭に掲げた、第1部の目的の一つである(1)の新たな法源論は、進化生物学の応用によって可能であること、かつその実証も具体例の下に可能であることをを予告しておいた。さらには、進化生物学の応用による新たな実定法の解釈論の可能性にも言及した。
引き続き、第3章「法と進化心理学」序論では、主に第1節で、近年発展めざましい進化心理学の分野での1例として、いわゆる「4枚カード問題」において実証された、進化の過程において<ヒトは社会契約を守らない「裏切り者」を鋭敏に検知する適応機構=心理メカニズムを備えた>ということが、ヒトにおける法の成立において、重要な必要条件であったことが明白だ、ということを指摘した。
さて、第4章「法と進化生物学」・「法と進化心理学」・「法と行動遺伝学」では、法と、やはり新たな自然科学の分野である行動遺伝学との接点について論じた。要約すれば、本章冒頭の(1)の法源論の論証と、(3)の法の新たな定義の妥当性は、まずは一方で、「法と進化生物学」・「法と進化生物学」の学際的手法を用い、ヒトの行動の「究極要因」(第3章・第1節(3)参照)と関連させて論じることになる。その一方で、行動遺伝学は、ヒトが700万年の進化の過程で集積してきた遺伝子群が、(環境と相互作用を持ちつつ、創発的に)どのような人間行動を生み出すのか、その「至近要因」(やはり第3章・第1節(3)参照)を解明しようとしつつある。換言すれば、行動遺伝学は、「究極要因」から説明できるヒトの(法の定義の一部である)行動規範の「至近要因」を解明する可能性を秘めていること、より端的に言えば、「法」を支える1つの基盤は遺伝子にもありうることを提示した。
その上で、同4章・第3節において、行動遺伝学においては、世界の最先端を行くPlominらとともに、日本においても、安藤寿康らが、双生児研究の手法により、着実に研究成果を積み重ねていることを報告し、今後の成果が期待できることを示した。また、第4節では、一方で行動遺伝学が、「法」の一部である行動規範を支える1つの基盤は遺伝子にもありうること、換言すれば<遺伝子(と環境)により、(創発的に)左右される、ヒトを含む動物の行動>を念頭に置きつつ、異なる方向から、「自由意志」「自由な選択」に基づかないヒトの行動が存在することを論証しておいた。
さらに、再確認として、同4章・第5節では、遺伝子ではなく「文化」によって伝承される動物・ヒトの行動もあることを、動物の「教育」行動における実例(チンパンジー、シロクロヤブチメドリ)を引用しつつ、実証されていることを示した。同時に、動物とヒトにおける「教育」の異同をしっかりと把握し、安藤寿康が立ち上げた「進化教育学」という分野にも注目すべきことを説いた。そして、遺伝子ではなく「文化」、特に言語によっても伝承されるヒトの行動があることが、大前提となっており、「言語」を操るのは動物の中でもヒトのみであることを確認しておいた。
ここで、第1部では、2つの章を補論に割くこととした。
最初の補論は、第5章「法と脳科学・神経科学」である。この補論は、法と自然科学の新たな接点を論じた本・第1部においては、非常に重要である。本拙稿全体のテーマが、「法と進化生物学」「法と進化心理学」にあるため、「法と脳科学・神経科学」の位置づけをあくまで補論としたが、この第5章の内容は、それだけで優に1つの論文の対象となるだけの豊穣な学際的成果を包含していることに、まず注目されたい。同5章・第1節で述べたとおり、言語を司る脳の長年の進化を通じての発達と、言語によって複雑な人間行動の規制・規律を可能とした法・法学の成立は、無関係ではありえない。そして、「法と脳科学・神経科学」は、<遺伝子→遺伝子により形作られる生理的メカニズムとしての脳→脳により指令を受けて惹起されるヒトの行動>という構図の中では、<より「至近要因」に近い脳の活動が、法といかに関わっているか>を解明しよう、という野望を持っており、今後とも特に目の離せない研究領域なのである。
同5章・第2節では、Oliver
Goodenoughの研究に注目し、以下の重要な点を指摘した:Goodenoughの「法的問題」を思考している時に使っている脳の部位についての研究は、本稿冒頭で断じた、「法源」の大きな一つは、「過去約700万年のヒトの生物としての進化的基盤」にあることを、脳科学の側面からも実証するものだ、という点である。また、彼の研究は、2006年刊のLaw and
the Brain、2009年刊のLaw, Mind and Brainの2書を以て、ますます発展しつつあることにも注目されたい。
同5章・第3節では、「神経倫理学(neuroethics)」と「法と脳科学・神経科学」と題して、神経倫理学という新たな学問分野が立ち上がりつつあることを報告した。その中でも、道徳のみならず、そこから導かれる刑事責任能力も十分に念頭に置いている研究も見られ、法学の観点からは注目すべきであることを指摘した。またさらに、刑事事件の犯人である精神病質者の認知神経科学的分析についての論文も公刊されており、そこではfMRIの精神病理学における応用にも触れられている。こうしてみれば、「神経倫理学(neuroethics)」と「法と脳科学・神経科学」の分野の連繋は、すでに確立されつつあり、今後も注目すべき研究成果が期待される。
第2の補論は、第6章「法と進化倫理学」であり、進化倫理学自体はあくまでも自然科学ではないため、「法と自然科学の新たな接点」と題した第1部においては、文字どおり補論となる。しかし、第6章・第1節で述べたとおり、今までは主としてdescriptive scienceであった進化生物学・進化心理学と、normに重点を置いたnormative
scienceである倫理学の、2つの異なるscienceの越境を企図し、この2つを統合しようとする野心的かつ看過できない分野が、進化倫理学であるため、この補論で言及しておいた。同6章・第2節では「学説と検証」として、内井惣七教授、内藤淳博士、伊勢田哲治准教授の3人の著書に触れたに過ぎないが、参考となれば幸いである。
[以上:2010年8月1日までに書いてあって、公表予定の部分です。和田幹彦]
([2])春木一郎訳『ユースティーニアヌス帝 學説彙纂ΠPΩTA(プロータ)』有斐閣、昭和13年、p.60-61。「學説彙纂」のこれより新しい和訳は、たとえば江波義之著『學説彙纂I, II』信山社、順に1992年、1996年があるが、同第I巻i-ii頁によれば、本文に引用した『学説彙纂』第1巻第1章第1法文第3項については、春木訳よりも新たな訳はない。なお、筆者の浅学非才ゆえ、原典へのアクセス、およびその翻訳能力のないことを恥じる次第である。
([6])Frans B. M. de Waal, Chimpanzee
Politics: Power and Sex among Apes, Harper and Row, New York, (1st edition 1982) revised edition: 1998.(初版和訳:フランス・ドゥ・ヴァール(著)、西田利貞(訳)『政治をするサル』平凡社、1994年。)改訂版和訳(以下、和訳と言うときはこちらを指す):フランス・ドゥ・ヴァール(著)、西田利貞(訳)『チンパンジーの政治学 : 猿の権力と性』産経新聞出版、2006年。
([7])Ibid., pp. 196, 204-207. 和訳、同前、279-280、296-300頁。なお、本稿は法学の論文であるので、ヒト・チンパンジーとも、「政治」の多岐にわたる定義については、一旦省略する。(後述のミツバチの研究についても同様である。)
([10])Frans B. M. de Waal, Peacemaking among
Primates, Harvard University Press, 1989(hardcover),
1990(reprint, papaerback).(和訳:フランス・B.M. ドゥ・ヴァール (著)、西田利貞・榎本知郎(訳)『仲直り戦術―霊長類は平和な暮らしをどのように実現しているか』どうぶつ社、1993年。)
([11])原文は、"It is time for us to seriously investigate the natural mechanisms
of conflict resolution."(Ibid., p. 5. ) 本文引用の訳は、前注・和訳書、13頁。
([12])Alexander H. Harcourt & Frans B. M. de
Waal (eds.), Coalitions and Alliances in Humans and Other
Animals, Oxford University Press, 1992.(和訳はされていないようである。)霊長類学者、心理学者、人類学者など25人による共著である。
([17])Frans B. M. de Waal, Good Natured: The
Origin of Right and Wrong in Humans and Other Animals, Harvard University
Press, Cambridge, MA, 1996.(和訳:フランス・ドゥ・ヴァール(著)、西田利貞・藤井留美(訳)『利己的なサル・他人を思いやるサル:モラルはなぜ生まれたのか』草思社、1998年)
([19])たとえば、Frans De Waal, Our Inner Ape: A Leading Primatologist Explains Why
We Are Who We Are, Riverhead 2005(hardcover), 2006(paperback reprint).(和訳:フランス・ドゥ・ヴァール(著)、藤井留美(訳)、『あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』早川書房、2005年。)本書は、論文の体裁はとられていないが、戦いと仲直り、思いやり、権力闘争など、これまでヒトならではと思われていた性質について、霊長類の中でもチンパンジーとボノボを特に取り上げて、ヒトとの対比で、鋭く考察している。また、参照文献はいちいち引用されていないが、各章について詳しい参照文献が巻末(原書ではpp. 251-270、和訳では313-340頁)に載せられている。
([20])Frans de Waal, "Morally Evolved:
Primate Social Instincts,Human Morality, and the Rise and Fall of 'Veneer Theory',"
pp. 1-58, Appendix A: "Anthropomorphism and Anthropodenial," pp.
59-67, Appendix B: "Do Apes Have a Theory of Mind?", pp. 69-73 ["Theory
of Mind"については後注(45)参照], Appendix C: "Animal Rights,"
pp. 75-80, all in: Frans de Waal [et al.],
Stephen Macedo & Josiah Ober (eds.), Primates and philosophers : how
morality evolved, Princeton University Press, 2009 (copyright 2006, 5th printing and 1st paperback
printing, 2009). 本書は、2004年にドゥ・ヴァールがプリンストン大学で行ったTanner Lecturesに基づくものである。本書では、哲学者のPeter Singer, Christine M. Korsgaard, Philip Kitcherに加えて、サイエンス・ライターのRobert Wright(後述)が、ドゥ・ヴァールに対して、ヒトと他の動物との違いを明確にするように質疑したのに対して、ドゥ・ヴァールがさらに返答する、という形式をそのまま再現している。
([23])Robert Wright, The moral animal :
evolutionary psychology and everyday life[本の表紙に記されているThe
moral animal : evolutionary psychology and everyday life[本の表紙に記されているThe Moral Animal: Why We Are the Way We
Are: The New Science of Evolutionary Psychologyは本書の正式なタイトルではないので注意を要する]Pantheon (First
Edition, hardcover)1994, Vintage Books,
New York, (paperback), 1995. 本書は、pp. 393-425に細かい注が付されているとおり、論文とはいえないまでも、しっかりと論拠が示された著書である。その一方で、和訳のロバート・ライト(著)、小川敏子(訳)『モラル・アニマル』上・下、講談社、1995年は、「竹内久美子(監訳)」となっており、竹内は「レイプは本当にオスの戦略か」という題の「まえがき」を上巻1-7頁に寄せているが、彼女は動物行動学を専攻したものの、主たる論文もなく、監修者としての資格には疑問がある。それを表すかのように、下巻の274頁にあたる部分に、「本書の英語版[…]には、完全な参考文献リストと詳しい脚注が付いています。」と断ってはあるものの、まず、原書にある各章ごとの細かな注を事実上すべて削除し、原書ibid., pp. 393-425の33頁にもわたる注のうち、14の解説註のみ、7頁分にしか訳出(上巻267-270頁、下巻271-273頁)していない。さらに参考文献リストも、原書ibid., pp. 426-445の20頁にわたるが、そのうち、11頁分にしか訳出(下巻274-284頁にあたる部分)していない。原書にはある19頁分の索引ibid., pp. 446-464も付されていない。極めて遺憾である。
([24])本稿脱稿後の2010年2月16日に近刊予定であったが、1月19日に刊行が前倒しされたため、校了直前に接した、Henrik Høgh-Olesen(ed.), Human
Morality and Sociality : Evolutionary and Comparative Perspectives,
Palgrave Macmillan, 2010. そのため、校了前に十分に読み込むことができなかった(上、諸論分の頁数を本文に掲載するという不体裁をとることになったことをお詫びしたい)が、本文に叙述したとおりの概略はつかむことができた。なお、本拙稿の論旨上の理由もあり、第4論文のAra Norenzayan, "Why We Believe:
Religion as a Human Universal"の紹介は省略した。
([25])小田亮『サルのことば:比較行動学からみた言語の進化』京都大学学術出版会、1999年。本文中の、言語を操る動物・ヒトの持つ最大の特徴については3-26頁、サルの行動と「心の理論」については160-173頁、マダガスカルのレムールを例は27-49頁、サルが鳴き声で何を伝えているのか、音声コミュニケーションの進化と発達については51-151頁の全般を参照。
([26])"Theory of Mind"が原語。近時の、特に進化心理学でよく用いられる重要な概念である。ごく単純には、小田亮の言葉を借りれば、「目に見えない他者の心の動きを何らかの理論にもとづいて推測し、他者の目的、意図、知識あるいは信念などを理解するための体系」(次注・後掲書、184頁)。また、長谷川眞理子によれば「人間が誰でも持っている、他人の心の状態を類推する脳の機能のこと」「人が他者の表情や言葉などを手がかりにしてその人の心の状態を推測する機能」(注30・後掲書、順に、200、201頁)。詳細は、本稿の第1部・第3章以下に譲る。
([27])小田亮『約束するサル:進化からみた人の心』柏書房、2002年。34-45頁のヒトの進化に関わる叙述、および184-190頁のヒト以外の霊長類の実験と、ヒトとの異同を論じた箇所に、特に注目されたい。
([30])なお、ヒト以外の霊長類との関係に言及しつつ、ヒトの法と密接に関わる道徳性の進化上の究極要因について簡単に考察した論考としては、論文とはいえないが、長谷川眞理子『生き物をめぐる4つの「なぜ」』集英社、2002年、205-216頁もある。特に、「道徳を導く基盤になっているもの、自己抑制、共感、他者理解などは、生物学的に進化してきた性質であると考えてもよいと私は思います。」(206頁)とした上で、「社会生活を基本とするならば、他者に対して、ある程度の信頼と親愛の情を基本に持っていなければなりません。社会生活をする霊長類はみなそうであり、私たちは、そのような動物を祖先に持っているのです。」とし、さらにヒトも「基本的に他者を許容し、信頼と親愛の感情を持ち、けんかのあとには関係の修復をはかろうとしますが、この傾向は、霊長類の祖先から受け継いだものであると考えてかまわないでしょう。」(213-214頁)と言明している。
([32])アメリカで出版された版が、Jared Diamond, The Third Chimpanzee: The Evolution
and Future of the Human Animal, Harpercollins, 1992. (なお、新版として、同タイトルでHarper Perennial; First Harper Perennial
Edition, 2006が出されている。)
イギリスで出版された版は、Jared M. Diamond, The Rise and Fall of
the Third Chimpanzee: Evolution and Human Life , Radius, 1991であり、タイトルは、(後述の和訳書540頁は簡単にしか触れていないが)有名な書籍、William L. Shirer, The rise and fall of
the Third Reich : a history of Nazi Germany, New York : Simon and Schuster,
1960をもじったものである。
「両版の内容に実質的な違いはほとんどないが、翻訳には[アメリカ版]を用い、原著にはない小見出しと日本語文献を加えた。[…]やや異例かもしれないが『ですます』調で訳してみた」(後掲・和訳書540-541頁)ものが、ジャレド・ダイアモンド(著)、 長谷川真理子[ママ]・長谷川寿一(訳)『人間はどこまでチンパンジーか? 人類進化の栄光と翳り』新曜社、1993年。
([34])やや旧くなっている感が否めないのは、ibid.,
HarperCollins, 1992 (paperback version), p. 2, 同前(和訳書)、2-3頁が、ヒトとチンパンジーの遺伝子の違いを2%としていることである。現在では、ゲノムベースでの違いは概ねその通りで1.23%だが(理化学研究所の2002年のプレス・リリース http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2002/020104/index.html 参照)、遺伝子ベースではかなりの違いがあることが分かっている。Nature誌の2005年の記事:"Article: Initial sequence of the chimpanzee genome and comparison
with the human genome," Nature 437, 69-87 (1 September 2005) http://www.nature.com/nature/journal/v437/n7055/full/nature04072.htmlには、ゲノムベース、遺伝子ベース、双方の情報が載っている。
([35])ミツバチの研究の最先端を知ることの出来る日本語の基本的文献としては、まず、神村学ほか編『分子昆虫学 : ポストゲノムの昆虫研究』、共立出版、2009年。同書中、「ミツバチの嗅覚系」については199-205頁(執筆者:岡田龍一)、「ミツバチの聴覚器官と一次神経感覚野の構造」については219-224頁(執筆者:藍 浩之)、「ミツバチの社会性行動をつかさどる脳の分子的基盤」については245-254頁(執筆者:竹内秀明)。次に、下澤楯夫・針山孝彦監修『昆虫ミメティックス : 昆虫の設計に学ぶ』、NTS、 2008年所収の諸論文があげられる。(以下の注に適宜引用する。)さらに、基本的な日本語の文献としては、原典はKarl von Frisch, Bees : their vision,
chemical senses, and language, (Rev.
ed.), Ithaca : Cornell University Press, 1971と、やや古くなるが、カール・フォン・フリッシュ(著)、伊藤智夫(訳)『ミツバチの不思議』(改装版第2版)法政大学出版局、2005年をとりあえずあげておく。岡田一次『ミツバチの科学』玉川大学出版部、1975年もあるが、やや古い。(なお、注(58)にも述べたが、ミツバチの最先端の研究について日本語で書かれた文献は極めて少ない。) 英語の基礎的文献としては、これもやや古く、ミツバチのコミュニケーションに関わる最新の研究などは載せられていないが、James L. Gould, Carol Grant Gould, The
honey bee, Scientific American Library (Distributed by W.H.
Freeman) , 1988 を一応あげておく。
([37]))Ibid., pp. 25-40, 特にpp. 29-36. より詳しくは:女王蜂と働き蜂などの区分を、昆虫学の専門用語で「カースト」というが、社会性昆虫のカースト分化とカースト転換についての最新の研究成果として、佐々木謙「社会性昆虫のカースト転換と脳の再構成」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)、549-555頁所収。カースト分化の基礎知識として549頁を、「カースト間で見られる中枢神経の構造的・生理的違い」について549-551頁を、本拙論・本文でもこのあと述べる「ワーカー[働き蜂]の産卵個体化」現象とその卵巣発達について551-552頁を、特に参照されたい。なお、小川宏人「ミツバチの針刺し機構」、下澤ほか、同前、827-830頁所収は、働き蜂が「外敵に対して針[…]を刺入し、毒液を注入する攻撃行動を示」して巣を守ること(827頁)、この「針刺し運動の神経制御」がある程度究明できたこと(828-829頁)、「針を刺した個体は間もなく死を迎える」(827頁)という「ミツバチの針刺し」は、「ミツバチ社会における利他的行動のために特化したシステムの一つである」(829頁)ことを指摘している。「ミツバチの法」の有無を問う観点からも、この、<社会を守るための利他的行動>は興味深い。これに関連して、(ミツバチとの対比でも興味深い研究対象である)オオスズメバチによるセイヨウミツバチの巣の攻撃と、「30,000頭[のセイヨウミツバチ]を擁する巣が全滅させられる」のに際して、オオスズメバチが「フェロモンという化学物質の言葉を使って、ミツバチを巣ごと略奪し」ていることを指摘しているのが、小野正人「スズメバチの社会行動の制御機構」、下澤ほか、同前、934-940頁所収、937頁(938頁の「図7」、口絵59頁の図説も参照)。
なお、ミツバチの社会性行動全般と、社会性行動の違いにより脳での発現量が異なる遺伝子の解析については、脱稿後に触れた、久保、後掲(注50)「ミツバチの社会性行動を規定する分子的基盤」、9-14、22-28、30-33頁も参照。特に、最後の、日齢により働き蜂が分業する点については、同前、10頁参照。さらに、「女王蜂は大顎線から、[…]『女王物質(queen substance)』とよばれるフェロモンを分泌し、これを舐め取った働き蜂は不妊化される」ことについて、10-11頁参照。また、「女王蜂と働き蜂(さらに働き蜂の中でも育児蜂と採餌蜂)の脳の間で発現量が異なる遺伝子を検索したところ、複数の行動遺伝子が同定されたが、そのうち一つは女王蜂や育児蜂より採餌蜂で強く発現して」いることについて、23頁を参照。後述注(50)で述べる、ミツバチの「法と遺伝学」の研究にとっても興味深い研究成果である。
また、巣を守る行動の一つ、外敵に対して自らの針を刺す行動については、後述注(50)で述べる、久保、同前、26頁の「Kakugoウィルス」に注目されたい。
([39])以下の叙述は、おおむね、日本のミツバチ研究の第一人者の1人である玉川大学ミツバチ科学研究センターの中村純教授の、最近時のご教示による。(さらに適宜、最新の研究文献に拠り、筆者が注を付した。)具体的には、Wed, 25 Nov 2009 14:55:11の、中村教授から筆者・和田宛の電子メールに拠っている。お忙しい中、しろうとである筆者に惜しみなくご教示をいただいた中村教授に心から感謝申し上げたい。
研究者を紹介するJ-GLOBALの中村純教授の頁は:http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901046270181331である。なお、中村教授によると、日本でも、日本語でミツバチの研究論文を出す者は少なく、ほとんどが英語である。
([40])このworker
policing説については、狭義の血縁淘汰(選択)説との対比で、以下の論文が詳しく検討している:辻和希「社会性昆虫における相互監視、社会的免疫とモラルの進化」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)、921-927頁所収。この中で、辻は、worker policingが働く直接の化学的な仕組みとして、「ワーカーの産んだ卵や卵巣を発達させたワーカーが、巣仲間によって識別され攻撃されるのは、女王の産んだ卵とワーカーの産んだ卵を、また、産卵可能な生理状態のワーカーとそうでないワーカーを見分けるための化学的な違いによるためだといわれており、その実体は表面の炭化水素の組成比の差であろうと考えられている。」(924頁)と述べ、典拠(927頁・注5)として、C. Peeters & J. Liebig, "Fertility
signaling as a general mechanism of regulating reproductive division of labor
in ants," in J. Gadau & J. Fewell (eds.), Organization
if Insect Societies: From Genome to Socio-Complexity, Harvard University
Press, 2008[筆者・和田は未見]をあげる。
([41])なお、本稿の目的には直接には関係しないが、ミツバチの生態・社会生活については、以下のことも判明していることを付言しておく(前注同様、中村教授のご教示による):
ミツバチの社会では、原則として日齢に伴う生理変化を仕事に反映させる(仕事が生理変化を招く)分業システムを構築しているが、この分業は、仕事に結びつく刺激に対する反応閾値が遺伝的に異なることで、同じ日齢であっても個体間差が生じ、また出遅れることで次の刺激に出会うきっかけが変わってくるので、この個体間差はかなり複雑である。そうした中で、死体捨て(専門用語ではundertaker)のような専門職や樹脂に関する作業(専門用語ではresin
works)のような不明瞭な分業が見られる。ちなみに樹脂に係わる作業とはプロポリス(propolis:ミツバチが野外から採取した植物の樹脂などを練り合わせ、営巣空間の内面を内張りしたり隙間を埋めるのに使う物質)を作る過程のことである。
もともとミツバチ(働き蜂を主体とするコロニー)は女王蜂が多数の雄と交尾して作る異父姉妹での構成で、血縁びいきのような行動系が不明瞭である。(この点については、辻、前掲・注(40)、923-926頁も参照。)代わりに巣仲間を集団単位とするので、巣仲間認識(専門用語ではnestmate recognition)能にもとづいて、他者を識別し、巣への侵入を食い止めるなどの行動を発現する。
また、やはり本稿の目的には直接には関係しないが、ミツバチの色覚についての最新の研究として、Natalie Hempel de Ibarra(著)・後藤眞紀子(訳)・蟻川謙太郎(監訳)「ミツバチの色覚・行動と神経機構と生態」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)、294-304頁所収、および同前、口絵23-25頁の図説を、さらにミツバチの飛行と視角学習について、Martin Giurfa(著)・後藤眞紀子(訳)・蟻川謙太郎(監訳)「社会性膜翅目の高度な視覚学習」、下澤ほか、同前、319-333頁所収、特に319-323、326-330頁を、加えてミツバチの嗅覚との関連で、ミツバチに「報酬情報を伝えるニューロンの発見」について、水波誠・松本幸久「昆虫の学習を司る報酬系と罰系」、下澤ほか、同前、596-599頁所収、特に596-597頁をあげておく。
([42])前掲・神村学ほか編『分子昆虫学』(注35)、220頁(執筆者:藍 浩之)参照。また、脱稿後に接した久保、後掲(注50)「ミツバチの社会性行動を規定する分子的基盤」、12頁も参照。ミツバチのダンスコミュニケーションについてのより詳しい最新の研究は、Axel Michelsen(著)・門脇辰彦(訳)・下沢楯夫(監訳)「ミツバチのダンスコミュニケーションにおける空気流の機能」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)、94-101頁所収、特にダンスの基礎的知識は94-95頁、ダンス言語に関する新知見は97-98頁、未解決の疑問については100-101頁を参照。
([44])基礎的知識としては、前掲・神村学ほか編『分子昆虫学』(注35)、219-224頁(執筆者:藍 浩之)。より詳しい再近時の研究は、藍 浩之「ミツバチの振動受容の神経機構」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)、102-110頁所収、特に103-107頁を参照。並行して、同前、口絵10-11頁の、ミツバチの触角、ジョンストン器官などの図説も参照。このコミュニケーションの手段を用いて、ミツバチの採餌個体が他個体に方向と距離の情報を伝達すること、またミツバチがコロニー(一つの巣の集団)全体で目的地を決定する現象が、「集合知によるナビゲーション課題の解決として、近年、大きな興味が持たれている」ことについて、弘中満太郎「亜社会性および孤独性昆虫のナビゲーションシステム」、下澤ほか、同前、494-503頁所収の494頁(同頁の注1の文献も)参照。さらに、注(35)で名をあげたフリッシュが、「ミツバチを用いたナビゲーション研究により、ミツバチが紫外線を受容することを示した」上で、彼とその弟子たちが、「膜翅目のハチやアリが[…]方角を知るための手がかりとして紫外線を用いていることを明らかにした」点については、堀口弘子・針山孝彦「昆虫の紫外線受容」、下澤ほか、同前、488-493頁所収の488頁を参照。なお、ミツバチが空の偏光パターンから、「コンパスのある点、例えば太陽の方位から左へ30°を推定することができ」、ミツバチが「これらのパターンをコンパスとして使用している」ことについて、Rüdiger Wehner(著)・福士尹(訳)「スカイマークとランドマークによる視覚ナビゲーション」、下澤ほか、同前、866-877頁所収の868頁を参照。また、脱稿後に接した久保、後掲(注50)「ミツバチの社会性行動を規定する分子的基盤」によると、「花の蜜を集めて帰巣した働き蜂は、視覚情報をプロセスしてダンス行動を行うので、なんとかして彼らの脳で、どのように視覚情報が処理されるのかしらべてみたい。」という目的の下での研究で、久保らは、「ミツバチでも『残像現象(ある色を見てその色を消したときに、補色が見えること)』が生じることを見いだした。つまり働き蜂は光を消して残像として見えた色に対してもPER[口吻伸展反射;proboscis
extention reflex]を示したのである。」(以上29頁)と成果を報告するとともに、「この実験系を用いて、帰巣した働き蜂がどのような視覚情報をもち帰ったか、聞き出せるような使い方ができるようになるとよいと考えている。」(30頁)と結んでいる。今後のミツバチのコミュニケーションについての研究成果が期待される次第である。
([45])久保健雄「社会性昆虫の行動と遺伝子」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)465-472頁所収、467頁より引用。なお、竹内秀明「セイヨウミツバチの社会性行動に関わる脳内機構」、下澤ほか、同前、556-563頁所収は、セイヨウミツバチという種の社会性行動に関わる脳領域(キノコ体)で発現する遺伝子群とその予想機能について解説し(556-559頁)、本拙論の趣旨とは逆となるが、「ヒトとミツバチの記号的コミュニケーションで共通した要素」が、「記憶・認知した情報を異なる種類の感覚系に変換できること」であることを提示した(引用は561頁、562頁の「図7」も参照)上で、「ミツバチはゲノムプロジェクトも終了し、社会性行動に関わる候補遺伝子も多数同定されていることから、ミツバチ脳を用いることにより記号的コミュニケーションの基礎となる『記憶した情報を異なる種類の感覚系に変換する神経基盤』が遺伝子レベルで解明されることが期待される。」という結語で結んでいる(562頁、下線は原文のママ)。「言語」とは呼ばれないまでも、ミツバチの「記号的コミュニケーション」はヒトの言語との共通性すら指摘されるほど高度なものであり、その神経基盤の遺伝子レベルでの解明も可能になりつつあるとは、(言語を基礎として飛躍的に発展した「ヒトの法」を念頭に置きつつ)「(動物の)法と遺伝学」の分野の研究のさらなる発展が期待される次第である。
([46])ミツバチのダンス・コミュニケーションについての最新論文としては、Trends in Ecology & Evolution(繰り返すが、略称はTREE)の新しい号に、その意義の大小についての最新の興味深い論争が議論が掲載されているので紹介しておきたい:後述のFarinaのグループに対する問いかけが、Brockmann & Sen Sarma, "Honeybee
dance language: is it overrated?", TREE 24(2009:11):583; これに対する応答が、Grüter & Farina, "Why do honeybee foragers
follow waggle dances?", TREE 24(2009:11):584-585. ちなみに、後者のアルゼンチンのFarinaの研究グループは、ここ最近かなりの数のダンス関係の論文を出しており、今までにない新しい情報を提供している。
([47])(47) 注(35)で名をあげたフリッシュは、「ミツバチのこうした能力を『ダンス言語dance language』と呼んだが、文法や融通性をもつ『言語』はヒトだけの能力として、尻振りダンスは『ダンスコミュニケーション』と呼ぶ方が適当」とするのが、久保・前掲(注45)、467頁であり、筆者と見解を同じくする。
([48])こうしたコミュニケーションにおいて、「距離と方角をダンスに記号化すること、それから逆に、距離と方角を脱記号化するのは「脳」の働きと考えられるが、こうした脳の働きを含めて、すべては第一義的・基本的には『遺伝子で決定されている』と(久保教授を含めて)ほとんどの昆虫の研究者が考えている」、という大前提について、Mon, 28 Dec 2009 16:07:18の、後掲注(50)の久保健雄教授から和田宛の電子メールでご教示を受けた。久保教授には、ミツバチ研究にかかわるその他の諸点、参照すべき文献などについても、同メールでご教示を賜った。ここに厚く御礼申し上げたい。さてその上で、コミュニケーションに限定せず、ミツバチの社会性昆虫としての行動全般と、遺伝子、脳の機能との関連について詳しい、最新の研究として、久保・前掲(注45)の465-472頁の論文「社会性昆虫の行動と遺伝子」に注目されたい。特に「ミツバチの脳の構造」について467-468頁、遺伝子の発現について468-469頁(中でも育児バチと採餌バチの遺伝子発現の差について469頁)、脳の機能と「ミツバチの脳の新しいプロフィル」について470-471頁を、それぞれ参照されたい。また、同論文と対応する、同書の口絵32頁の図説も参照。さらに、ミツバチの脳と、行動の神経・分子基盤の解明については、Randolf Menzelほか(著)・渡邉英博ほか(訳)・水波誠(監訳)「小さな脳、輝く知性」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)、579-582頁所収の論文と、対応する同書、口絵35頁の図説を参照。同論文581頁には、(本拙論・本文で後述する)ミツバチのゲノム配列が完全に解読されたことと、それに関連して、今後促進されるであろう研究の見通しが言及されている。
([49])佐々木正己教授の研究業績などの情報を含むホームページは:http://www.tamagawa.ac.jp/gakubu/nougaku/agronomy/entomology/msasaki/ 電子メールは同ページからリンクがある「プロフィール」のページに公開されている。佐々木教授は、ミツバチ科学研究センターの母組織にあたる学術研究所長でもあり、農学部教授であるが、ミツバチ科学研究センターのメンバーでもある。
([50])久保健雄教授の業績を含むホームページは:http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/faculty/tchr_list/kubotakeo.shtml(電子メールアドレスもここに公開されている) 研究者を紹介するJ-GLOBALの久保健雄教授の頁は:http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901028306883011 そこの「著書」の欄にもあげられているが、数少ない日本語での貴重な共著書としては、たとえば、すでに注(45)(47)(48)で引用した、久保健雄「社会性昆虫の行動と遺伝子」、下澤ほか『昆虫ミメティックス』(前掲・注35)465-472頁所収;久保健雄「ミツバチの社会性行動を規定する分子的基盤」岡良隆・蟻川謙太郎共編『行動とコミュニケーション』、8-36頁所収、培風館、2007年がある(筆者は後者は、後述のとおり脱稿後に見た)。同J-GLOBAL頁の「文献」欄中の日本語の諸論文にも注目されたい。
脱稿後に接した久保、同前「ミツバチの社会性行動を規定する分子的基盤」によると、タイトルのとおり、主にミツバチの社会性行動を規定する分子的基盤については、後述のことがすでに最新の研究により分かっている。本稿、第4章・第1節で述べる「法と遺伝学」、すなわち、行動を規律・規制する「法」と、まさに同じく行動を規制・規律する「遺伝子」の相互関係を研究する新たな分野について、ミツバチを例に若干先取りすることになるが、以下をこの段階で述べておきたい:
すなわち、久保の同論文によれば(注45の久保の別論文からも引用した部分も参照されたい)、「小さな脳をもちながら、ダンスコミュニケーションのような高度な行動やさまざまな社会性行動を示すミツバチは、今後、分子生物学や動物学の分野で魅力的かつ有用なモデル生物になる可能性がある。」(8頁)とした上で、「ミツバチはわずか数μl程度の小さな脳しかもたないにもかかわらず、なぜこのような複雑で高度な行動を示すことができるのだろうか?」(12頁)として、ミツバチの脳の構造を簡単に解説する(12-13頁、同書口絵1Aも参照)。そして、「ミツバチの社会性行動の謎をどのように解くか?」という見出しの下に、「この小さな脳に、ミツバチの社会性行動の謎が秘められているはずである。では、ミツバチの脳や遺伝子に秘められたしくみとはどのようなものだろうか?」(13頁)と問いかける。
それに応えて、ミツバチの脳の中の「キノコ体選択的に発現する遺伝子」について14-22頁で報告し、さらに興味深いことに、「ミツバチの社会性行動の違いにより脳での発現量が異なる遺伝子の解析」の見出しの下に、「タキキニン前駆体遺伝子はキノコ体で発現するペプチドの遺伝子として同定したが、ミツバチの行動パターンによって脳での発現も変動する遺伝子であった。」との発見を述べ、「カーストや齢差分業に伴い脳での発現量がことなるHR38遺伝子に加え、攻撃性の高い働き蜂の脳から同定された新規なRNAウィルスと、役割の異なるミツバチにより触覚での発現が異なる遺伝子についても紹介」(22頁)している。
そして、注(37)末尾の、久保の同論文、23頁の報告があり、さらには「cGMP依存性プロテインキナーゼ(PKG)遺伝子が、[…]育児バチより採餌蜂で強く発現すること、PKG活性を薬理的に促進すると採餌蜂への変化が早まること」が報告されていることを指摘し、「筆者[久保]らは、タキキニン前駆体遺伝子が、育児蜂より採餌蜂の[脳内の]小型ケニヨン細胞で強く発現することを示している」(以上24頁)と研究成果を報告する。
さらに、前述のRNAウィルスについては、「攻撃的な働き蜂の脳から同定されたKakugoウィルス」(25頁)という見出しの下に、特に門番蜂として巣を守り、敵を自らの針で刺す蜂のうち、より攻撃的な個体を集めて研究したところ、それらの中には「同定した新種のRNAウィルスのゲノムRNAであり、攻撃性の高い働き蜂の脳にはこのウィルスが感染していたことを意味している。[…]筆者らはこのウィルスをKakugoウィルスと命名した」(26頁)と報告している。
そして、「役割の異なるミツバチの触覚で発現が異なる遺伝子」(26頁)という見出しの下では、「働き蜂より雄蜂の触覚に強く発現する遺伝子として、分泌性カルボキシエステラーゼ[…]遺伝子、働き蜂より女王蜂で強く発現する遺伝子として、昆虫ケモセンソリータンパク質[…]および新規な分泌性タンパク質[…]の遺伝子を見いだした」(27頁)と研究成果を述べている。
最後に、「ミツバチの役割に応じた生理状態の変化とその可塑性」(30頁)という見出しの下では、こうした生理状態とその制御機能について述べられている。詳細は省略するが、育児蜂、採餌蜂では、分子量の異なるタンパク質が主要に発現していること、「これらの遺伝子の多くは転写段階で発現制御されていること、採餌蜂ではさらに、」(育児蜂とは異なる)「遺伝子も選択的に発現していることが判明した」(31頁)ことが報告された。
久保教授は、同論文で、以上のように、分業するミツバチの種類(女王蜂、および働き蜂をさらに詳しく分類した育児蜂、門番蜂、採餌蜂)によって、発現する遺伝子や、行動(攻撃性)に影響を与えているウィルスが異なる、という興味深い研究成果を発表している。同教授は「おわりに」として、「働き蜂の齢差分業では、変態を終えた成虫の行動様式と生理状態を変調させるために、ミツバチは独自の遺伝子や生体調節機構を獲得した可能性がある。」「『記号化』という高次脳機能のモデルとしてのダンスコミュニケーションについても、脳(特にキノコ体)で発現する遺伝子の機能解析を通じて、その神経生物学・分子生物学的基盤もわかってくるのではないかと期待している。」(33頁)と結んでいる。ミツバチの「法と遺伝学」の研究のさらなる進展が望めるのではないかと、筆者・和田も期待する次第である。
([52])また、「8の字ダンス」を含めたミツバチのコミュニケーション行動については、名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部 生命技術科学専攻の門脇辰彦准教授(研究者を紹介するJ-GLOBALの頁は:http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901035474661276 また同准教授の電子メールも公開されているホームページは:http://www.sangakuplaza.jp/page/156398)、徳島文理大学・香川薬学部・機能生物学講座の岡田龍一博士(ポスドク・研究員:同講座の研究業績へのリンクもあるホームページは:http://kp.bunri-u.ac.jp/kph07/member/index.html 岡田博士の電子メールも公開されているホームページは:http://www.geocities.jp/peridroapis/)がご専門である。このお二人の専門分野については、農業生物資源研究所・昆虫科学研究領域・生体防御研究ユニットの日本学術振興会特別研究員、芳山三喜雄氏のご教示にあずかった。ここに記して感謝申し上げたい。
([53])以上のこれらの点もすべて、注(58)の中村純教授の電子メールに依拠する。中村教授に感謝申し上げる。なお、「ミツバチのゲノムの解読が完了し、分子生物学的手法が確立されてくると、電気生理学に代わって、ショウジョウバエ研究のように神経活動をモニターできるタンパク質の遺伝子導入による光学測定が主流になるかも知れない」こと、およびその詳細については、前掲・神村学ほか編『分子昆虫学』(注35)、204-205頁(執筆者:岡田龍一)も参照。
([54])なお、本稿の法の定義とは視角は異なることになるが、別の角度からみてみれば、仮にミツバチに「行為規範」があると推量されるので、「法」があるとしても、それは一旦、本稿での「法」の定義を離れて、通例用いられる意味での「人間の法・法律」とどこで峻別できるのか、も論点となろう。これは本文の次項(3)で述べるとおり、言語の有無が決め手となる、というのが筆者の現時点での見解である。
([56])文献は枚挙にいとまがないが、さしあたりinfra note 64 (paperback), pp. xvi-xvii, 21-22, 109, 265, 302-306,
351-367を参照。
([57])たとえば、カレドニア・カラスが鈎状に自ら仕上げた枝を用いて、餌をとる行動を報告したGavin Hunt他の著名な論文、Hunt, G.R.
and Gray, R.D. (2004). The crafting of hook tools by wild New
Caledonian crows. Proceedings of the Royal Society, London B (suppl.) 271, S88-S90等を参照。(ちなみに、鈎状に自ら仕上げた道具の使用は、ヒト以外では、カレドニア・カラスによるものしか現時点まででは発見されていない。)Huntによる他の研究論文一覧は、http://language.psy.auckland.ac.nz/crows/gavin-home-page.htmを参照(前出の論文もこのサイトでpdfファイルを見ることができる)。
([58])例えば、Clifford Geertz, The Interpretation Of Cultures, Basic Books,
1977や、同じくClifford Geertz, Local Knowledge: Further Essays In
Interpretive Anthropology, Basic Books, 1985等を参照。
([59])Infra note 72, W.C. McGrewによるpp. 436-437 の"Culture
Has Escaped from Anthropology"の項目を特に参照されたい。
([60])例えば、Dan Sperber, Explaining culture : a naturalistic approach,
Blackwell, 1996を参照。佐倉統『遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立』廣済堂出版、2001年も参考になる。
([61])第3節(2)(a)注24の論文集の紹介で本文に挙げたとおり、一例を挙げれば、Henrik Høgh-Olesenの最終・第9論文は「文化の定義を(たとえばde Waalのように「遺伝子に依らない, 習慣の広がり」と)操作する」という試みが紹介されている。また、infra note 64、Chimpanzee Cultures, 1994の全般も参照。
([62])なお、「文化」の用語の使用法について、やや傾向は異なるが、新たな文献として、以下の著作にも注目されたい:Robert Aunger (ed.), Darwinizing
culture : the status of memetics as a science, Oxford University Press,
2000.(和訳は、ロバート・アンジェ編/佐倉統ほか訳『ダーウィン文化論 : 科学としてのミーム』産業図書、2004年。)
([63])やや旧い文献では、Richard Wrangham and Dale Peterson, Demonic males :
apes and the origins of human, Houghton
Mifflin, 1996. 和訳はリチャード・ランガム, デイル・ピーターソン/山下篤子(訳)『男の凶暴性はどこからきたか』三田出版会、1998年。最新の文献では、Richard Wrangham, Catching Fire: How
Cooking Made Us Human, Basic Books, 2009. 和訳はリチャード・ランガム/依田卓巳(訳)『火の賜物―ヒトは料理で進化した』エヌティティ出版、2010年がある。
([64])Richard Wrangham , W.C. McGrew, Frans B. M.
de Waal, Paul Heltne (eds.), Chimpanzee Cultures, Harvard
University Press, 1994(hardcover), 1996(reprinted, paperback). 和訳はされていないようである。
([66])なお、Frans De Waal, The Ape and the Sushi Master (Penguin Press Science), Penguin Books Ltd; New edition, 2002(和訳:フランス・ドゥ・ヴァール (著)、西田利貞・藤井 留美 (訳)『サルとすし職人―「文化」と動物の行動学 』原書房、2002年)では、全書を通じて、ドゥ・ヴァールはさらに一歩踏み込んで、地域差というコンテクストのみならず、従来はヒトについてのみ使われてきた"culture"(どちらかというと"civilization" すなわち「文明」)に近い意味で、culture/文化という用語を用いている。
([68])今西錦司編『毎日ライブラリー 人間』毎日新聞社、1952年の中で、第二章「人間性の進化」(この章の執筆者が今西であることについては、同書、218頁に明記されている)の36-94頁を割いて、今西は、軽妙洒脱な文体と、「進化論者」「人間」「さる」「はち」という語り手を登場させ、座談会で大いに語らせるという場面設定で、当時の日本語の「文化」の用語法にも十分留意しつつ、あえて「文化」ではなく「カルチュア」(その語源は発音からしても明らかに英語のcultureである)という用語を登場させて(37-38頁)、人間以外の動物にも「カルチュア」が存在することを、冒頭(38-39頁)では若干の疑義を呈しながらも、「座談会」の半ばから後半では、もはや自明の前提として受け入れつつ(42頁、44頁の「さる」、44頁の「人間」の発言や、46頁の「進化論者」の言辞は霊長類他のほ乳類に「カルチュア」を認める方向であるし、さらには50頁の「進化論者」の発言は、ハチにも「カルチュア」を認める可能性を示唆するなど、57頁あたりまでを割いて)、論を進めている。くしくも、本拙論が、第1部・第1章・第3節(2)「動物(特に社会性動物)における『法』の存在」でとりあげた2つの事例、「霊長類」と「ミツバチ」と、今西が、まだDNAの二重らせん構造が発見されてもおらず、今西自身も遺伝学にはまだまだ多大な課題が残されていることを強く意識している(たとえば39頁参照)時期である1952年に座談会に登場させた動物「さる」と「はち」が一致しているのは、この二つの動物が「進化」を論じる上で注目するに足りる生物であることを論証するかのようで、興味深い。(DNAの二重らせん構造発見を報告する論文が、翌1953年の、Watson J.D. and Crick F.H.C., "A
Structure for Deoxyribose Nucleic Acid," Nature 171, 737-738 (April 25, 1953)であることは言うを待たない。)
([72])Frans B.M. de Waal and Peter L. Tyack (eds.), Animal social complexity : intelligence, culture,
and individualized societies, Harvard University Press, 2003.
([81])論文の体裁は取っていないが、さしあたり、霊長類研究の専門家である松沢哲郎教授の『おかあさんになったアイ:チンパンジーの親子と文化』講談社(学術文庫)、2006年、「第2章 野生チンパンジーの暮らし」95-156頁のうち、「チンパンジーの教育」について論じた142-156頁、特に149-150頁を参照。
([83])性選択の強調により、進化生物学においては、自然選択と性選択が、いわば「車の両輪」であるかのような外観を呈しているが、正確には、性選択も、あくまで自然選択の一貫である、とされていることを付言しておく。なお、次項(2)も参照。
([85])長谷川寿一・長谷川眞理子『進化と人間行動』東京大学出版会、2000年、200-201頁に拠れば、Fisher, R.A., The Genetical Theory of
Natural Selection, Clarendon Press, Oxford, 1930による。
([86])同前、199-200頁に拠れば、Zahavi.A., "Mate selection: a
selection for a handicap," J. Theor. Biol. (1975)
53:205-214による。
([87])同前、198-199頁に拠れば、Andersson, M., "Female choice selects
for extreme tail length in a windowbird," Nature (1982) 299:818-820による。
([88])同前、196-197頁に拠れば、Parker G.A., "Sperm competition and
the evolution of animal mating strategyies, " in: R.L. Smith (ed.), Sperm Competition and the Evolution of Animal
Mating Systems, Academic Press, Orlando, 1984, pp. 1-60による。
([91])Ratnieks & Wenseleers, "Altruism
in insect societies and beyond: voluntary or enforced?", TREE 23 (2009:1):45-52.
([92])M. Kimura, "Evolutionary Rate at the
Molecular Level," Nature (1968), 217: 624-26. 本論文は複雑な積分の数式や、log関数を用いるなど、非学な筆者の完全な理解の及ぶところではないが、後注・94の経塚監修の『遺伝のしくみ』180頁のやや詳しい解説からも(淘汰論と中立論が両立するか、対立するかの論点はさておき)、その要旨は理解しているつもりである。
([94])専門家ではなく、一般的な読者向けの入門書には、ダーウィンの「淘汰説」と木村の「中立説」は両立するものとして紹介されている。たとえば、比較的新しい文献でも、経塚淳子監修『遺伝のしくみ——「メンデルの法則」からヒトゲノム・遺伝子治療まで』新星出版社、2008年では、「ダーウィンの自然淘汰説は[…]今でも進化を説明するもっとも有力な学説である」(130頁)としつつ、138頁で簡単に、そして180頁ではやや詳しく、木村の「中立説」を解説し、「1968年、『ネイチャー』誌に掲載された『分子進化の中立説』は世界中で大論争を巻き起こした。特にダーウィンの母国であるイギリスでは、自然淘汰説を否定する説として『地獄の悪魔』にたとえられたという。」と述べ、その後の木村の研究成果の発表を紹介した上で、「現在は、自然淘汰にかからない中立的な変異の存在も認められている。」と結んで、(いずれも180頁)、両者が両立する説であるとの立場を取っている。監修者の経塚淳子氏は、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授(2008年当時)である。
([96])この例については、すで拙論、「法と進化生物学・法と進化心理学 序説−主に日本の家族法を事例として:離婚婚後扶養義務・貞操義務・法定相続分・父子関係、視野内外の相手の行動、そして『エレベーターのジレンマ』−」『法学志林』107巻3号、(横書き部分)1-41頁のうち、3-10頁に詳しく論じておいた。
([98])前注の長谷川・長谷川、172頁に拠れば、この論文は、Cosmides, L., "The logic of social
exchange: has natural selection shaped how human reason?" in: Cognition
(1989), 31:187-276である。
([99])筆者・和田は、以下の機会にRobert Triversと親交があったことを付言しておく:序章・注(15)のGruter Institute主催の合宿形態の30人程度の小規模の学会と、Human Behavior and Evolution Society (HBES)学会の2002年度(Triversの所属するRutgers大学にて主催)、およびHarvard Universityでの2002-03の筆者の在外研究時にhost professorとなってくださったDavid Haigの研究室においてである(Trivers教授は親友であるHaig教授の研究室をを頻繁に訪れた)。
([102])命題の原文は、"If a previous employee gets a pension from a firm, then that
person must have worked for the firm for at least ten years." 論文は:Gerd Gigerenzer and Klaus Hug, "Domain-Specific Reasoning: Social
Contracts, Cheating, and Perspective Change," Cognition, 43 (1992), 127–171. (長谷川・長谷川・同前、174頁に同研究の簡単な紹介があり、参照したが、174頁および277頁に、最初の著者名が"Gigerentzer"さらに論文発表年度が"1995"となっているのは誤りと思われる。)
([104])なお、この「4枚カード問題」は、その後、さらに発展した実験がなされた。結論から簡単に述べると、「裏切り者検知」以外にも、ヒトの心理メカニズムには、いくつかの傑出した検知能力が備わっていることが観察される、というものであるが、詳細は割愛する。
([105])同学会のウェブサイト、http://www.hbes.com/を参照。
([106])http://www.hbes.com/conference/pdf/conference_21.pdfの2009年度の同学会のプログラム、p. 18の概要参照。この概要では明確ではないが、Stearns教授は、この全体会議の発表の中で、疑義を明言していた。
([108])本文後述のようにオランダ生まれ、正式名はNikolaas Tinbergenであり、「ニコ」は通称。オランダ語読みではニコラース・ティンベルヘン。オランダのデン・ハーグ生まれで、ノーベル経済学賞の初代の受賞者、ヤン・ティンバーゲンの弟としても知られる。1955年にイギリスの市民権を取得しているためもあり、名前は英語読みされる。
([113])これに対して、「補論(1)」として、第1部・第5章でとりあげる「法と脳科学・神経科学」は、<遺伝子→遺伝子により形作られる生理的メカニズムとしての脳→脳により指令を受けて惹起されるヒトの行動>という構図の中では、<より至近要因に近い脳の活動が、法といかに関わっているか>を解明しよう、という野望につながっている、といえる。
([114])Richard Dawkins, The selfish gene,
New York : Oxford University Press, 1976が初版である。その後、New editionが、Oxford University
Press, 1989として、さらに"30th anniversary edition"が、Oxford
University Press, 2006として出されている。
([115])当初、『生物=生存機械論 : 利己主義と利他主義の生物学』との表題で、リチャード・ドーキンス(著)、日高敏隆ほか 訳、紀伊国屋書店、1980年に訳出されたことはよく知られている。
その後、1991年になって、ようやく、原題の直訳、『利己的な遺伝子』のタイトルで、リチャード・ドーキンス(著)、日高敏隆ほか訳で、紀伊國屋書店から1991年に出版された(その他の訳者: 岸由二、羽田節子、垂水雄二)。
また、2006年には、原著30周年記念版の翻訳として、リチャード・ドーキンス(著)、日高敏隆ほか訳『利己的な遺伝子』増補新装版、紀伊國屋書店が出版されている(その他の訳者は上述と同じ)。
([116])現職のBinghamton University(ニュー・ヨーク州)における、リンク先に研究業績もある、David Sloan Wilson教授のホームページは:http://evolution.binghamton.edu/dswilson/
([117])さしあたり、Wilson, D. S. and L. A. Dugatkin, "Group selection and assortative
interactions," American naturalist 149 (1997):
336-351を参照。全文を以下のウェブサイトで読める:http://evolution.binghamton.edu/dswilson/resources/publications_resources/DSW24.pdf
([118])Frans de Waal, "The End of Nature
Versus Nurture", Scientific American, vol 281, no 6 (1999), p 94-99参照。(「日経サイエンス」2000年1月号にも、F. B. M. ドゥ・ヴァール「人間の本能は解明できるか」というタイトルで、概略が、<長い間人間の行動は遺伝で決まるのか環境で決まるのかということが論争されてきた。このような二者択一的発想は捨てるべき時にきている。>という内容の、この英語の論文の和訳がある。)
([119])有名なものでは、コンラート・ローレンツと彼のハイイロガンの子の「刷り込み」現象がある。彼のいくつかの書物に言及があるが、とりあえずKonrad Lorenz, Hier bin ich - wo bist
du? Ethologie der Graugans,
München/Zürich: Piper, 1988を参照。和訳は、K・ローレンツ著/大川けい子訳『ハイイロガンの動物行動学』平凡社、1996年。
([120])以上の<
>内はすべて、匿名の筆者によるウェブサイト:http://www.psychology-lexicon.com/cms/glossary/glossary-b/behavioral-genetics.htmlによるので、権威あるものとは言えない。
([121])安藤寿康・大木秀一「もうひとつの『遺伝学』−訳者あとがきにかえて」、M. ラター/安藤寿康訳『遺伝子は行動をいかに語るか』培風館、2009年、129-139頁所収のうち、137頁より引用。
([123])R. Plomin, M.J. Owen, P. McGuffin,
"The genetic basis of complex human behaviors," Science, Vol
264, Issue 5166, pp. 1733-1739. この論文の要旨における、「行動遺伝学」のアプローチが、他のアプローチに対して持つ優位な点の概説は、以下の通りである:"Quantitative genetic research has
built a strong case for the importance of genetic factors in many complex
behavioral disorders and dimensions in the domains of psychopathology,
personality, and cognitive abilities. Quantitative genetics can also provide an
empirical guide and a conceptual framework for the application of molecular
genetics. The success of molecular genetics in elucidating the genetic basis of
behavioral disorders has largely relied on a reductionistic one gene, one
disorder (OGOD) approach in which a single gene is necessary and
sufficient to develop a disorder. In contrast, a quantitative trait loci (QTL) approach involves the search for multiple genes, each
of which is neither necessary nor sufficient for the development of a trait.
The OGOD and QTL approaches have both advantages and disadvantages for
identifying genes that affect complex human behaviors. "
([124])Robert Plomin and Gerald E. McClearn (eds.), Nature, nurture, & psychology, American
Psychological Association, 1993, pp. 326-328に、行動遺伝学が解明しようとする9つの"goals"が概説されている。
([125])Robert Plomin, J.C. DeFries, G.E. McClearn,
Behavioral genetics : a primer, San Francisco: W. H. Freeman, 1980.
([127])Robert Plomin, J.C. DeFries, G.E. McClearn,
Peter McGuffin, Behavioral genetics, New York: W.H. Freeman: Worth
Publishers, 2000.
([129])Robert Plomin, Nature and nurture : an
introduction to human behavioral genetics, Pacific Grove, Ca.: Brooks/Cole
Pub. Co., 1990.
([131])Michael Rutter, Genes and behavior : nature-nurture
interplay explained, Malden, Mass.: Blackwell, 2006. (ちなみにこの著書は、最近話題の電子ブックのKindle Editionのフォーマットでも発売されている。
([134])安藤寿康「社会技術研究開発事業 平成19年度研究開発実施報告書 研究開発プログラム『脳科学と教育(タイプU)』研究開発プロジェクト名 『双生児法による乳児・幼児の発育縦断研究』」には、対象の双生児と解析が、「3〜26歳双生児約22000組(回収数約4000組)に対する実施した発達横断調査の解析を行った」こと、さらに年齢別に、送付した質問集と回答数、回収率など およびその集計も含めて、詳しい報告がなされているので参照されたい。http://www.ristex.jp/examin/brain/program/pdf/H19_ando_houkokusyo.pdfに全文の掲載がある。
([135])同前。研究成果・業績については、例示的には、Shikishima C, Ando J, Ono Y, Toda T, & Yoshimura
K., "Registry of adolescent and young adult twins in the Tokyo area.
2006," Twin Research and Human Genetics, 9:811-816があげられる。成果の詳細は、以下のホームページを参照:http://abelard.flet.keio.ac.jp/kts/index.php/%E6%A5%AD%E7%B8%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7
([139])アンケートの内容、その目的についての詳細はhttp://totcop.keio.ac.jp/research/questionnair/参照。
([140])その詳細は、http://totcop.keio.ac.jp/research/nirs/参照。同サイトにも記述がある通り、「光トポグラフィーは近赤外線分光法(NIRS)によって、脳の働きを調べるものです。NIRSとはNear Infrared Spectroscopyの略です。この装置は、太陽の光に含まれているのと同じ、近赤外線という体を通過する光を利用することで、脳の表面付近の血液の流れをとらえることができます。測定には、帽子状のものをかぶるだけで、赤ちゃんでも測定することができます。参考:http://www.hitachi-medical.co.jp/info/opt/」ということである。
([141])詳細は、http://totcop.keio.ac.jp/research/home/参照。同サイトにある通り:
「家庭訪問調査では、ご自宅というお子さまたちやお母さんにとって一番落ち着かれる場所で、発達検査や親子の遊び場面を観察させていただき、次のような点を明らかにすることを目的としています。
(1)ふたごのこころの働きとコミュニケーションの力の成長の様子
(2)親子関係・きょうだい関係・親とふたごの三者関係の成長の様子」
さらに:
「訓練を受けた3名の訪問員が(1)1歳ごろ、(2)1歳半ごろ、(3)2歳ごろ、(4)3歳ごろ、(5)4歳ごろ、の最多5回、お宅を訪問して、以下のような検査・観察を行います(すべての場面をビデオ撮影します)。訪問時間は2時間程度で、日時はご家庭にご都合に合わせています。
(1)知的発達・社会性の発達に関する2種類の検査
(2)親とふたご1人ずつでの遊び
(3)親とふたご2人での遊び
(4)ふたごさん2人でのゲーム・遊び(2歳以降の調査)」ということである。
([142])詳細は、http://totcop.keio.ac.jp/research/language/参照。
([144])TOTCOPの業績は、例示的には、Ando J, Nonaka K, Ozaki K, Sato N, Fujisawa
K, Suzuki K, Yamagata S, Takahashi Y, Nakajima R, Kato N, & Ooki S.,
"The Tokyo Twin Cohort Project: Overview and Initial Findings," 2006.
Twin Research and Human Genetics, 9:817-826があげられる。全文を以下のpdfファイルで見ることができる:http://www.atypon-link.com/AAP/doi/pdf/10.1375/twin.9.6.817?cookieSet=1
([145])以上、引用と詳細は、http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/12_kiban/ichiran_21/j-data/j27_ando.pdfを参照。さらに、同じサイトの文書によれば、「【期待される成果と意義】」については、「応的な社会的行動や健康なメンタルヘルス、そして学習能力の形成に及ぼす遺伝と環境の影響、特に遺伝子が環境の違い対して異なる発現をする『遺伝子・環境間交互作用』、ならびに遺伝子が特定の環境から選択され、あるいは特定の環境を選択するという『遺伝子・環境間相関』を見いだし、それに関与する遺伝子ならびに脳の構造と機能の特定をおこなう。これによって生活環境や養育環境の変化が、遺伝子発現、ならびに脳神経系の変化をもたらす因果関係が明らかになり、どのような教育的・臨床的・社会的介入がどの程度の成果を生んでいるかが示される。こうした知見は、多様な遺伝的資質をもつ人々が、それぞれに健康で創造的な適応的生活のできる社会を構築するためにはどうすればよいかを考えるための基礎情報となるエビデンスを提供する。」という野心的なものである。
([146])Brent Garland (ed.), Neuroscience
and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justic, Dana Press, 2004.
([149])ここで典拠として引用されているのは、Penton-Voak, I.S., Perrett, D.I., Castles, D.L.,
Kobayashi, T., Burt, D.M., Murray, L.K. & Minamisawa, R. (1999). "Menstrual cycle alters face preference," Nature,
399:741-742という、超一流科学誌Natureの権威ある論文である。
([151])典拠として引用されているのは、Roney, J.R. & Simmons, Z.I., (2008). "Women's estradial predicts preference for
facial cues of men's testosterone," Horm Behav, 53: 14-19という最新の研究成果である。
([153])ここでも典拠として引用されているのは、Jones, B.C., DeBruine, L.M., Perrett, D.K., Little,
A.C., Feinberg, D.R. & Law Smith, M.J. (2008).
"Effects of menstrual cycle phase on face preferences. Arch Sex Behav.,
37:78-84; およびThornhill, R. & Gangestad, S.W., The
evolutionary biology of human female sexuality, Oxford University Press,
2008という最新の研究である。
([154])ここでの典拠は、Baker, R. & Bellis, M., Human spterm
competition, Chapman and Hall, 1995; Gangestad, S.W., Thornhill, R. &
Garver, C.H. (2002). "Changes in women's sexual interests and their
partners' mate-retentions tactics across the menstrual cycle: Evidence for
shifting conflicts of interest," Proc Biol Sci, 269:975-982; およびThornhill, R. & Gangestad, S.W., Ibid.である。
([155])典拠は、山崎邦郎『においを操る遺伝子』工業調査会、1999年。(なお、坂口の本書の、左の典拠の1行上に掲げられた参考文献、山元大輔『心と遺伝子』中公新書ラクレ、2006年の箇所で、本書には珍しく、著者の名が「山上」と誤記されているが、正しくは「山元」である。)
([156])典拠は、Grammer, K. (1993). "5-d-androst-16en-3α-on:
a male pheromone? A brief report," Ethol Sociobiol, 14:201-208.
([157])典拠は、Thornhill, R. & Gangestad, S.W., Miller, R., Scheyd, G.,
McCollough, J.K. & Franklin, M. (2003), "Major histocompatibility complex
genes, symmetry, and body scent attractiveness in men and women," Behav
Ecol, 14:668-678を最新論文として、他にも3点の論文があげられているが、詳細は、坂口・本書の165頁を参照されたい。
([159])これを報告したGavin Hunt他の著名な論文、Hunt, G.R. and Gray, R.D. (2004). "The crafting of hook tools by wild New
Caledonian crows," Proceedings of the Royal Society, London B (suppl.) 271, S88-S90等を参照。第1章・第4節の「補論−『文化』の新たな定義」でも述べておくべきであったかと思うが、ハント博士は、このカレドニア・ガラスの道具作りをはじめて観察して以来、20年近く研究に没頭し、諸論文をとおして、カラスの道具作りが「文化」に近いものだと結論付けている。ハント博士はこれからカレドニア・ガラスの研究をさらに深めて、人間の道具作りの起源にまで迫りたいと考えているようである。
([160])最新の文献としては、松沢哲郎「野生チンパンジーに見る石器制作の起源」松沢哲郎編著『人間とは何か:チンパンジー研究から見えてきたこと』岩波書店、2010年(6月17日刊行)、188-189頁所収を参照。
([161])論文集ではないが、霊長類研究の専門家達による最新の研究成果を反映した共著書、京都大学霊長類研究所編著『新しい霊長類学』講談社、2009年(9月20日発行)中、林 美里「ヒト以外の霊長類も道具を使いますか?」148-150頁所収のうち、「子どもは[…]自分でもナッツや医師を触って遊んでみたり[…]します。大人は手取り足取り教えることはありません[…]」(149頁)を参照。
([162])全長26cm程度で、ナミビアからボツワナに分布し、乾燥した疎林にすむ。このシロクロヤブチメドリは例外的に、(他の種の近い鳥が地味な体色ではあるのと対照的に)、白い体に黒い翼と尾羽、赤い虹彩でよく目立ち、なかなか美しいとされる。群れで移動しながら採食する姿がみられる。
([163])Nichola J. Raihani & Amanda R. Ridley,
"Experimental evidence for teaching in wild pied babblers," Animal
Behaviour, 75:1, (January
2008), pp. 3-11. これは筆者・和田は前節(2)(b)の行動遺伝学の項目で名前をあげた安藤寿康教授のご教示で初めて知った。安藤教授のご教示に感謝したい。
([164])なお、動物の「教育」行動となるか否かの限界事例として今後注目すべき実例として、一部のアリの情報伝達システムとそれに基づく行動に言及しておきたい。端的に言えば、アリは、同じ巣の仲間の間で、餌のありかについて情報交換をしていると思われるが、これが「教育」にあたるか、単なる餌のありかの情報伝達に過ぎないのかは、限界事例であり、今後の詳細な研究が待たれる。(この点についても、安藤寿康教授のご教示を得た。感謝申し上げる。)
まず、インタネット上のオンラインの研究成果発表ではあるが、「実験及び解析手順」「結果と考察」などが詳しく報告されている、結城麻衣(a)・林 叔克(a,b)・菅原 研(a)「社会性昆虫の行動解析とモデル化 〜トゲオオハゲアリの集団における相関〜」(著者の所属はそれぞれ、a 東北学院大学教養学部情報科学科;b NPO法人 natural science)という研究(2008年2月15日の「第5回情報処理学会東北支部研究会」におけるもの)によると、トゲオオハリアリ(学名:Diacamma)は、体長1cmほどで20〜400個体で1コロニーを形成し、個体間コミュニケーションとコロニーの振る舞いを同時に見ることができる種であるが、この「アリは2個体でコンタクトを取ることが情報交換のベースになっていると思われる。」とのことである。http://www.natural-science.or.jp/article/20080401144646.phpに拠った。
次に、山岡 亮平「アリの社会とコミュニケーション」『季刊 総合環境情報誌 ネイチャーインタフェイス』第6号(2010年6月)、58−61頁に拠ると(なお、著者は、京都大学大学院農学研究科博士課程修了、農学博士、現在、京都工芸繊維大学繊維学部応用生物学科教授)、アリが餌に行列を作り、結果的に餌のありかを同じ巣の仲間に伝達するのは(正にこの点が「教育」か否かの限界事例となるわけだが)、「女王アリの集合フェロモンにより引き起こされる巣仲間の密なる集合の結果、直接接触による体表成分の混和と均一化が起こる」「アリは常に自分自身や他個体の体表面のグルーミングを行っていることが観察されるが、その結果舐めとられた体表成分は、頭部にある後部咽頭腺と呼ばれる貯蔵器官に集められ混ぜられ均一化が計られた後、再度グルーミングの機会に自分自身や他個体体表面に再塗布される」「さらに後部咽頭腺内の成分は、アリがよく行い社会性昆虫の特徴でもある仲間どうしの栄養交換の際にも受け渡しされる」「これらの結果をふまえて、コロニー臭の正体は、コロニー特異的な体表炭化水素組成比の違いであることが明らかとなった」ということであり、体表炭化水素組成比の違いにより、アリ同士は同じ巣の仲間を認識し、アリが餌に行列を作り、結果的に餌のありかの情報を伝達していることになる。この論文の一部は、http://www.natureinterface.com/j/ni06/P58-61/で見ることができる。
([165])最新の文献としては、京都大学霊長類研究所 思考言語分野 准教授・友永雅己「チンパンジーから見る自己・他者・身体:チンパンジーから見た世界2.0」松沢哲郎編著、前掲・注160、223-227頁所収のうち、225頁を参照。さらに、林 美里「モノを扱う知性(2)」松沢哲郎編著、前掲・注160、246-249頁所収のうち、本注で引用した友永論文を引用する、248頁も参照。
([166])友永雅己「三項関係は理解できますか?」、京都大学霊長類研究所編著、前掲・注161、171-174頁所収。チンパンジーについては、172, 173頁の分かれた部分を参照。ヒトについては、172-173頁にかけての部分を参照。
([169])以上について、安藤寿康(慶應義塾大学文学部 教授)「社会技術研究開発事業 平成19年度研究開発実施報告書 研究開発プログラム『脳科学と教育(タイプU)』 研究開発プロジェクト名 『双生児法による乳児・幼児の発育縦断研究』」(http://www.ristex.jp/examin/brain/program/pdf/H19_ando_houkokusyo.pdf)13頁に引用されている学会発表、安藤寿康「ふたごは互いに何を教え合うか 教育の進化的基盤。 人間行動進化学研究会第9回研究発表会 人間行動進化学会設立準備大会、 国立大学法人 総合研究大学院大学(湘南国際村)、
2007年12月8日」を筆者・和田は聴講する機会を得、多大なご教示を受けた。
また、http://www.flet.keio.ac.jp/member/ando.htmlの安藤寿康教授のHPの「私の研究紹介」の項目にも、「現在とくに関心を持っているのは以下の問題です。」として、「(1)教育の問題としての遺伝・環境問題(特に双生児法を用いての実証的研究) (2)教育の進化的基盤 (3)脳科学と教育 (4)研究倫理』と、「進化の教育的基盤」が2番目にあげられている。
([171])「教育進化学」は、どちらかというと、教育の進化における「究極要因」を解明しようと言う所に重点がある。これに対して、「補論(1)」として、第1部・第5章でとりあげる「法と脳科学・神経科学」は、同章・第1節の本文でも言及するとおり、<遺伝子→遺伝子により形作られる生理的メカニズムとしての脳→脳により指令を受けて惹起されるヒトの行動>という構図の中では、<より「至近要因」に近い脳の活動が、法といかに関わっているか>を解明しよう、という野望につながっている、といえる。
([172])Oliver Goodenough, "Mapping Cortical
Areas Associated with Legal Reasoning and Moral Intuition," 41 Jurimetrics
J. 429-442 (2001). 冒頭p. 429に、この論文の研究を可能にしたGruter Institute for Law and Behavioral
Researchへの謝辞が記されている。また、この論文のAbstractは以下のウェブサイトで見ることができる:http://www.law.asu.edu/?id=8215 さらに、論文全体のpdfファイルは、http://idisk.mac.com/neuroticwave-Public/guttentag/mapping%20cortical%20areas%20associated%20with%20legal%20reasoning.pdfで入手可能である。
([175])Johannes Schultz, Oliver R. Goodenough,
Richard Frackowiak and Chris D. Frith, "Cortical regions associated with
the sense of justice and legal rules," NeuroImage, Vol. 13, page S
473 (2001).
([176])Prehn K, Wartenburger I, Mériau K, Scheibe
C, Goodenough OR, Villringer A, van der Meer E, Heekeren HR. "Individual
differences in moral judgment competence influence neural correlates of
socio-normative judgments," Soc Cogn Affect Neurosci. 2008 Mar;3(1):33-46.
以下でabstractおよび論文の全文を見ることができる:http://scan.oxfordjournals.org/content/3/1/33.full
([177])これは、1冊目の共著書中の、Paul Zak教授による、まさに"Neuroeconomics"というタイトルの論文であり、注目すべきであろう:Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. 2004 November 29; 359(1451): 1737–1748. doi: 10.1098/rstb.2004.1544.がそれである。なお、後注179の単行書ではpp. 113-153に掲載されている。
([178])Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. 2004 November 29. 本号に掲載されたすべての論文は、pdf版で、以下のウェブサイトで見ることができる:http://rstb.royalsocietypublishing.org/content/359/1451.toc
([179])Semir Zeki & Oliver Goodenough (eds.), Law and the Brain, Oxford University Press,
2006. 再刊の際の内容の異同はほとんど無い、あるいは皆無と見受けられる。和訳はまだないようである。
([180])Goodenough, Oliver R. & Prehn, Kristin,
"A neuroscientific approach to normative judgment in law and
justice," Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. 2004 Nov 29;359(1451):1709–1726. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1693459/pdf/15590612.pdfで全文入手可能である。なお、前注の単行書ではpp. 77-109に掲載されている。
([181])Ibid. (Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. 2004), p. 1709およびIbid. (Law and the Brain), p. 77のAbstractの部分訳。
([186])なお、第2部・第2章「法と進化心理学」で言及する予定だが、法学者2人と進化心理学者1人の共著による、Paul H. Robinson, Robert Kurzban, and Owen
D. Jones, "The Origins of Shared Intuitions of Justice," VANDERBILT
LAW REVIEW, Vol.
60:6:1633-1688にも注目されたい。http://www.sas.upenn.edu/psych/PLEEP/pdfs/2008%20Robinson%20Kurzban%20Jones.pdf
…で全文を入手することができる。
([187])Brent Garland (ed.), Neuroscience
and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice : A Report on an Invitational
Meeting Convened by the American Association for the Advancement of Science and
the Dana Foundation, Dana Press (2nd
version), 2004. 和訳書は、ブレント・ガーランド (編集)、古谷 和仁・久村 典子(訳)『脳科学と倫理と法―神経倫理学入門』、みすず書房、2007年。(なお、原著と和訳書では章立てが若干異なり、特に末尾の部分の章の順番が変えてあるので注意を要する。)同書の英文のCarl P. Malmquist, M.D.による書評がAm J Psychiatry 162:1772-1773, September 2005にあり、以下のウェブサイトで見ることができる(サイトの右側の"Full Text (PDF) "をクリックするとpdf版も見られる):http://ajp.psychiatryonline.org/cgi/content/full/162/9/1772-a
([188])Ibid., pp. 51-70.
和訳:同前、マイケル・ガザニカ/メーガン・スティーヴン著、第5章「21世紀における自由意志−神経科学と法律に関する一考察」、56-78頁。(なお、ここでの原著の"Law"の訳語は、あくまで「法」が適切であり、成文法のみを思わせる「法律」という訳語は必ずしも適切ではない。これは、和訳書、同前、最終頁(頁数は付されていない)の「役者略歴」にも紹介されているとおり、共訳者が法律家でないことも一因かもしれない。)
([192])Ibid., p. 69によると、Dennett, D.C., Freedom Evolves, New
York: Viking Press, 2003. 特に、Dennettの同書のpp. 25, 36, 38-45, 56, 57に拠っている(Ibid[Garland]., pp. 64-65の脚注参照)。和訳書:同前の75頁に、デネットの同論文の紹介があり、引用頁は、77-78頁の文末注にある。
([199])Ibid[Garland]., p.
20. 和訳は、同前[ガーランド]、20頁だが、裁判所により"considered"という語を裁判所に「認められた」と(その直後に述べられる内容上は問題ないものの、単語の扱いとしては問題がある)やや行き過ぎた訳をしているので、和田が修正して訳した。
([202])Laurence Tancredi, Hardwired Behavior: What
Neuroscience Reveals about Morality, Cambridge University Press, 2005. 和訳書は:ローレンス R. タンクレディ著/村松太郎訳『道徳脳とは何か : ニューロサイエンスと刑事責任能力』創造出版、2008年。
([203])Ibid[Tancredi]., pp.
162-175. 和訳は、同前[タンクレディ]、187-205頁だが、冒頭に「未来を語ろう。」(和訳書187頁)という原典にはない文章を導入したり、原典が「現在から1世紀後の選挙において」(p.162)と述べた箇所を「西暦210X年。」(同187頁)とだけ訳出するなど、他にも何箇所にも、読者に迎合する翻訳態度・方針が見られることは遺憾である。
([204])Charles A. Dana Foundation (Corporate Author), Steven Marcus (ed.), Neuroethics:
Mapping the Field, Conference Proceedings, Dana Press, 2004. 和訳書は出版されていないようである。
([205])Walter Glannon (ed.), Defining
Right and Wrong in Brain Science: Essential Readings in Neuroethics, Dana
Press, 2007. 和訳書は出版されていないようである。
([206])(出版時の)現職は、Senior Research Fellow at the Centre for Applied Philosophy
and Public Ethics, University of Melbourne, Australiaである。
([207])Neil Levy, Neuroethics: Challenges for
the 21st Century, Cambridge University Press, 2007. 和訳書は出版されていないようである。
([208])Frederick Schauer & Walter
Sinnott-Armstrong (eds.), The philosophy of law : classic and
contemporary readings with commentary, Harcourt Brace College Publishers,
1996.
([209])全3巻とも和訳はまだ出ていないようである。第1巻が、Walter Sinnott-Armstrong (ed.), Moral Psychology, Volume 1: The Evolution of
Morality: Adaptations and Innateness, The MIT Press, 2007.
([210])第2巻が、Walter Sinnott-Armstrong (ed.), Moral Psychology, Volume 2: The
Cognitive Science of Morality: Intuition and Diversity, The MIT Press,
2008.
([211])Walter Sinnott-Armstrong (ed.), Moral Psychology, Volume 3: The Neuroscience of Morality:
Emotion, Brain Disorders, and Development, The MIT Press, 2008.
([219])ちなみに、日本全国の大学の蔵書を横断的に検索できる、いわゆる"Webcat":
http://webcat.nii.ac.jp/webcat.htmlで、「タイトル・ワード」に"evolution and ethics"をキーワードに検索すると、88件の著作がヒットするが、"Evolutionary ethics"の語で検索をしても、タイトルにこのキーワードを含む著作のヒット結果は7件である(同じ著作の異なる版は1つと数えている;以下同様)。その一方で、アメリカのLibrary of Congressのオンラインカタログ:で、"evolution and ethics"をキーワードに検索すると、28件の著作がヒットするが(Webcatよりも少なくなるのは、「キーワードを含む」という扱いや、このキーワードを該当書にリンク付けしているかの差によるのであろう)、"evolutionary ethics"の語で検索をすると、タイトルにこのキーワードを含む著作のヒット結果は9件である(ただし、後述のとおり、2011年に刊行予定の著作も1点入っている)。Webcatの7件がLibrary of Congressの9件にすべて含まれているわけではなく差違はあるが、2件だけの差は、日本でも、英語の文献のレベルでは、「進化倫理学」も軽視されているわけではないことを示す一つの指標となろう。
([220])冒頭に*印を付けたものは、Webcatには無くて、Library of Congressのカタログには載っている書籍である。
なお、最初の2点は、出版年から判断するに、現在論じられている「進化倫理学」とは異なる視点からの書籍である可能性である可能性が大きいことに注意されたい。
* Melbourne Stuart Read, English
evolutionary ethics, Republican press, 1902.
Julian S. Huxley, Evolutionary ethics,
Oxford University Press, 1943.
Antony Garrard Newton Flew, Evolutionary
ethics, [London] Macmillan, 1970 [c1967]. なお、同じ著者の同じタイトル、同内容と思われる著作が、"Melbourne, [etc.]:
Macmillan," "New York: St. Martin's P., 1967 [i.e. 1968]"というWebcat上の表示で出版されている。
Matthew H. Nitecki and Doris V. Niteck(eds.), Evolutionary ethics, State University of New
York Press, 1993. 内藤、前掲・注214、196頁に掲げられている。
Paul Lawrence Farber, The temptations of
evolutionary ethics, University of California Press, 1994.
Paul Thompson (ed.), Issues
in evolutionary ethics, State University of New York Press, 1995.
Richard Weikart, From Darwin to Hitler :
evolutionary ethics, eugenics, and racism in Germany, Palgrave Macmillan,
2004.
Giovanni Boniolo, Gabriele De Anna (eds.), Evolutionary ethics and contemporary biology,
Cambridge University Press, 2006.
* Neil Levy, Evolutionary ethics,
Ashgate Pub. Co., 2010.
* Scott M. James, An introduction to
evolutionary ethics, Wiley-Blackwell, 2011.(今後刊行予定の書籍。)
([228])同前、128頁で、E.O. Wilson, Sociobiology: The New Synthesis,
Harvard University Press, 1975から、内井教授はChapter 27をあげる。和訳書と、該当する頁については同頁を参照。
([229])同前、同頁で、E.O. Wilson, On Human Nature, Harvard University Press, 1978から、内井教授はChapter 9をあげる。和訳書と、該当する頁については同頁を参照。
([230])同前、同頁で、Richard D. Alexander, Darwinism and Human Affairs, University of
Washington Press, 1979から内井教授はChapter 4をあげる。和訳書と、該当する頁については同頁を参照。