201635日アップロード版

 

以下のウェブ注は、今後アップデートされる可能性があることを付言しておく。

 

 

 

『法学志林』1134号・2016315日発行

 

 

研究ノート

 

 

最高裁「判例評釈」の方法論に関する覚書(1)

 

  ――最判評釈よみに与ふる書(a):『民法ハンドブック』「補論」への謝辞を伴う一考察――

 

 

                                                                  和田幹彦

                                                                       (mwada@hosei.ac.jp)

 

 

 本題の拙論については、上記のタイトルの直後に、以下を付記しておいた:

 

 「本拙文末尾の「補遺」の詳細に加えて、大学紀要というこの媒体には馴染まないが、本拙文の読者にはご関心を持つ向きもあるかと思われる諸情報、他の学問などの分野からの重要な示唆、本拙文執筆に至ったエピソードなどを、本文中に(a)(b)(c)...と記した「ウェブ注」という形式を採って、http://www.i.hosei.ac.jp/~mwada/Shirin/Memorandum.htm にアップロードしておいた。「補遺」の関連部分以外は、あくまでご興味とお時間のある読者にのみご一読いただければ幸いである。」

 

 ここに記したのが、以下の「ウェブ注」である。

 ご参考になれば幸いである。

 

 なお、以下の(a)(b)(c)(d)(e)(f)(g)(h)(i)をクリックしていただくと、このウェブサイト上の該当するウェブ注に、すぐに「飛ぶ」ことができるようになっているので、ご利用されたい。

 ファイルの処理上、(a) [a] の表記になってしまっていることをお許し頂きたい。

 

 [a] [b] [c] [d] [e] [f] [g] [h] [i] 



[a]  この副題は、言うまでもなく正岡子規の『歌よみに与ふる書』に倣った。彼が1898年(明治31年)2月から10回にわたって新聞「日本」紙上に発表した歌論である。私は、20153月に愛媛県松山市を初訪問し、市内の正岡子規ゆかりの場所をいくつか訪ねた。そして、『歌よみに与ふる書』執筆の前年から、当時は不治の病・脊椎カリエスに侵されて病床にあった彼の、それにも負けぬ壮絶な執筆意欲、情熱のこもった檄文調の同書とその革新的な主張に、深い感銘を受けた。

 

 聞くところによると、同書について、平安期から綿々と続いた伝統的な価値観の全面否定に対しては、当時の桂園派を中心とした歌壇の強い反発を受けると共に、後世の文学者からも批判があいついだという。子規はそうした反発・批判を当然に想定内としつつ、病床で同書を書いたに違いない。

 ならば健康を享受している私が本拙文を書かねば、子規のゆかりの場所を訪ねたと言う資格すらあるまいと考え、この執筆を改めて決意した次第である。

 

 

 

[b] 私は、1997124日と1999618日の2度、恥ずかしながら東京大学「判民」で口頭での判例評釈をさせていただいた。評釈の対象とした判例は順に、最判平8326(民集504993頁;婚姻関係が既に破綻している夫婦の一方と肉体関係を持った第三者の他方配偶者に対する不法行為責任の有無)、最判平9912日(民集5183887頁;遺言者に相続人は存在しないが相続財産全部の包括受遺者が存在する場合と民法951条にいう「相続人のあることが明かでないとき」)である。

 

 にもかかわらず私は未だに、この2つ判例評釈を『法学協会雑誌』の<判例研究>に執筆していない。栄えある同誌に「空洞」を作ったままになっていることは、慚愧の念に堪えない。(特に判例として重要な、前者の最判については、我が無責任ぶりを深く恥じる。)

 

 なお判民での私の前者の最判の口頭報告は、事前の平井宜雄教授(当時)の御指南のおかげもあって(そのことには感謝してもしきれない)、一応無難に終えた。しかし、後者の最判の判例評釈の1999年時の口頭報告に対しては、座長の東京大学の民法教授から厳しく批判を受けた。これは当時の私は不勉強で解っていなかったのだが、--2)に後述する末弘博士が設定した東京大学「判民」での判例評釈の方法論における「判例」の把握の <末弘説>に反して、簡潔に言えば民集の判決の「【要旨】」部分を「判例」と捉えてしまい、結果として同じく--2)に掲げる、末弘博士がやはり手厳しく批判した <梅説>に依る「判例」の理解と機軸を一にしてしまったからである。これにより判民の方法論に違背した口頭報告となり、厳しい批判をいただいたのは当然のことであった。座長の教授には心から感謝している。

 

 この際に、私の失敗した報告と研究会が終わるやいなや、わざわざ私の座席まですぐ来て下さり、何も解らずに茫然としている私に、<末弘厳太郎博士による判民創設以来の伝統>について、渾々と説諭して下さったのが、翌2000年に刊行された『ハンドブック』のご著者中のお1人の教授であった。このことにも、いくら感謝しても感謝しきれない。

 

 上述の <末弘説>については、とりあえず『ハンドブック』306-307頁中の、末弘博士の主張と、その典拠とされている文献中、特に、民法判例研究會(「右代表者 末弘厳太郎」)『判例民法 大正十一年度』[1922年度]、大正十三年[1924年](発行)の冒頭「序」、さらに末弘厳太郎『末弘著作集T 法学入門』日本評論社、(1952年第1版)1980年(第2版)、125頁を参照されたい。両者の文献は私も手に取った。

 

 前者の文献は、表紙のタイトルの下に以下の連名がある:「穂積重遠 末弘厳太郎 東 季彦 我妻 榮 平野義太郎 中川善之助 田中誠二」(旧字体については、遺憾ながらパソコンのワープロソフトの制約により、新字体に直したものがある)。奥付では、「著作者 民法判例研究会」「右代表者 末弘厳太郎」「発行所 有斐閣書房」となっている。

 

 『ハンドブック』306頁末尾の「従来の学者」に <梅説>の梅 謙次郎博士が含まれていることは、同書の3082行目をさしあたり参照されたい。

 

 

 

[c]『ハンドブック』311頁にもとりあえず手短に言及のある2つの論争、すなわち「柚木馨博士と川島武宜博士の論争」、そして通称 <星野・平井論争>(星野英一教授[当時]と、平井宜雄教授[当時]との論争)にも、ここで簡潔で良いから言及するべきかと思うが、現在の私にはその時間的・心理的余裕がない。読者の皆様のご海容を乞う。

 

 

 

[d] 大学院生・助手(当時)・助教の「指導教授」いわゆる「師匠」、そして先輩格、同輩、後輩格、いずれにせよ研究者同士が論争によって学問界のレヴェルアップを目指すのは、学問・研究の最重要な営為であることは、仮にも研究者ならば、常識であると信ずる。

 

 しかし現実にはそうとも言えない局面もあるのかもしれない。つまり、大家と認められている<師匠>を、通称 <弟子>が表だって批判するのは困難なこともあろうか、という傍証を2つだけだが掲げておこう。

 

 まず1つめは、拙著『家制度の廃止』信山社、2010年の執筆を準備して、文献を調査していた1990年頃のことである。端的に言って、戦後占領期の1946-1947年の民法改正過程における我妻 榮の「家」制度の存廃をめぐる <中途半端な姿勢と方針>を一次史料中に発見したものの、それを批判した二次文献が、後述の川島博士の著書以外には、ほぼ皆無であったことに驚いた。管見の限り、こうした我妻博士の姿勢と方針を身近に知っていた者のほとんどは、東京大学法学部研究室の関係者であった。そして我妻博士が民法改正時期の後も、東京大学法学部の民法講座の中核を担う教授であられたことは、いまさら論を待たない。(「覚書」という本拙文の性格上、典拠を省略することをご海容願いたい。)私見に過ぎないが、「民法研究という世界に身を置く者が、我妻 榮の学説はともかくとして、立法・法改正作業を批判するというのは、かくも難しいことなのか」という強い印象を持ったものである。

 

 さて、2つめである。川島武宜博士の著書『ある法学者の軌跡』有斐閣、1978年は、基となった「この録音の第一回は、昭和四十五[1970]年四月七日から七回にわたって行なわれ、『書斎の窓』二〇〇号(昭和四六[1971]年九月)から二五八号[197611月]迄(計二六回)に断続的に連載された。」(同書、2頁)と川島博士自身が記しておられる。確かに、初出であった『書斎の窓』の11つをより詳細にチェックしてみると、「断続的に」と言うとおり、連載は同誌の222号(19738月)でいったん完結した格好になっている。それが3年余のブランクを経て、「続 ある法学者の軌跡(1)」として再び連載が始まったのが、同誌の253号(19766月、25-30頁)であり、第6回の再連載が258号(197611月、47-55頁)完結している。このブランクの間、19731021日に、川島博士のかつての指導教授(『ある法学者の軌跡』27頁参照)であった我妻 榮博士が亡くなられている。奇しくも、前述の連載が再開されたのが、その28か月後になる。しかも再開後の内容は、同前書の227-229頁にあたる部分で、初めてと言って良いほどの強烈なトーンでの、我妻博士への批判が見られる。我妻博士が亡くなられる前の連載部分には見られなかったトーンである。

 

 (なお、同前書の2282行目の「或る有力な委員」、2295行目の「或る委員」は、両者とも我妻博士を指すことにつき、拙著『家制度の廃止』信山社、2010年、171頁本文と、203頁の注(59)を参照されたい。同拙著、477頁注(10)の中の「注58でも和田が言明しているとおり」という注番号は誤りで、正しくは「注59」である。ここに訂正する。)

 

 これを <川島博士は、元指導教授(師匠)であった我妻博士の生前は、遠慮をして師匠への強い批判を避けた。師匠が逝去されて初めて、強烈なトーンでの批判を口にするようになった。>と理解するべきであろうか。そうした理解は可能であろう。むろん、その必要も必然性も、必ずしも無い。仮にそうした理解が可能であったとしても、それは川島博士と我妻博士の個性と人間関係の問題であって、それが <元弟子が元師匠を批判することの難易度>の一般論の傍証になるわけでもない。

 

 ただ、私には上述の理解を採らせる理由が少々ある。「ウェブ注」という媒体上、以下のエピソードを差し挟むことをお許し願いたい。前出の拙著『家制度の廃止』、465頁に記したとおり、この頁に始まる「川島武宜[…]へのインタビュー」は、1991522日の最初のインタビュー内容を和田が書き起こしたものを、622日に川島博士が校閲し、草稿に訂正を入れた。その際に、川島博士は、我妻博士とご自身の関係について、<師匠と弟子との関係とは、難しいものです>という趣旨を和田が当初、書き起こしていた部分を、わざわざ削除を命じられた。それを目撃した私は、改めて文字どおり、師匠と弟子の関係というのは難しいものらしい…と痛感した次第である。

 

 

 

[e] ドイツ語で言う、"leserfreundlich"である。しかし同時に以下の「言い訳」をお許し願いたい。本『法学志林』には1人による執筆は同年度中に100頁分まで、という内規がある。私はこの1131号と2号にすでに91頁分を執筆したため紙幅の制約が生じた。そこで本拙文も本来改行すべき箇所を大幅に減らした上で、短く2回に分けて連載とせざるをえなくなった。そのために本拙文の論理的構造が読者に解りにくくなった箇所が多々あることをお詫び申し上げる。

 

 加えて本来引用すべき文献、例えば末弘博士の、民法判例研究會(「右代表者 末弘厳太郎」)『判例民法 大正十一年度』[1922年度]、大正十三年[1924年](発行)の冒頭「序」の大幅な引用などを割愛したことも、やや先走るが、お詫び申し上げておきたい。

 

 

 

[f] 言うまでもないが、一般論として、とある(例えば民法の)研究会のメンバーの大多数が、同研究会での判例研究の方法論について意見が一致しているのみならず、その方法論が長年続く同研究会の貴重な伝統であり、かつ一定の正統性・正当性を持つものであるならば、その <研究会内部で>かくある伝統と方法論を維持・堅守・継承しようとするのは、自由である。これは東京大学・民事法判例研究会(判民)にも、もちろんあてはまる。

 

 しかし、そうした一研究会における判例評釈の方法論を、『民法研究ハンドブック』といった(主とした読者のターゲットは絞り込まれるのであろうとは言え)一般向けに公刊された書物中に、あたかも <唯一適切で、正しく、正統な方法論かつ最終目的>であるかのように理解を求め、主張し、あるいは指導する営為に対しては、本文で前述のとおり、違和感を抱かざるをえない。

 

 

 

[g] 以下は、余談としてお読みいただきたい。

 

 私・和田が演奏を趣味とするフルートの演奏法とその伝統は、20世紀半ばまでは、雑駁に表現すれば、以下の相異なる流派が、まだ残っていた。パリを中心とするフランス派、南仏派(主たる拠点はマルセイユ)、ドイツ派、ヴィーン派などである。これらの流派は、使用楽器もかなり異なるのみならず、理想とする音色が決定的に違っていた。例えば、現在からすれば信じられないことだが、ドイツの一部の流派では、「フルートの理想的な音はトランペットに近い音」とされており、実際そのようなフルートの演奏が録音にも残っていた。(私も聴いたことがある。録音技術とマイクロフォン設定位置などの問題もあったかもしれないが、それを差し引いても、確かにトランペットと聞き間違うような音色であった。)

 

 ところが、20世紀後半の1980年代頃に入ると、本来マルセイユ・南仏派の出身であった名手、Jean-Pierre Rampal(ジャン=ピエール・ランパル;192217日生まれ、2000520日没)の頻繁な演奏会のみならず、他者を圧倒的に凌駕する多数のLPレコード(当時)録音なども起因となり、あたかも彼の演奏が世界の主流であるかのような幻想を生み出した。この幻想をさらに強化したのが、ランパルが主導的に始めた金製のフルートの使用・演奏である(ただし、後述のムラマツの製作品ではない)。それまで主流であった銀製のフルートと異なり、金製は明るく軽めの透明で、かつ音量の大きい音色を生む。これに良かれ悪しかれ、決定的な追い打ちをかけたのが、日本のフルート製造会社、村松フルート製作所(通称「ムラマツ;Muramatsu」)による高性能の金製楽器の(相対的な)量産・低価格化によるさらなる普及である。

 

 こうした状況から強い影響を受け、世界の多くのフルーティストは、ランパルのような、派手で明るく、透明な音色を目指す傾向が顕著となった。これに最後まで対抗していた「ドイツ派」の例として挙げうるのが、カールハインツ・ツェラー(Karlheinz Zöller, 1928824日生まれ、2005729日没)であろう。

 

 現在、世界で大陸を問わず、(超)一流のオーケストラの首席を含む著名フルーティストの多くが、ムラマツの金製の楽器を演奏している。これまた雑駁で恐縮だが、結果的にドイツ派・ヴィーン派の演奏法・演奏者は事実上死に絶えた。(オーケストラ自身の伝統・流派・音色にも、同様のことが言え、現在、「世界のオーケストラ演奏の画一化」が懸念されているが、ここでは割愛する。)

 

 すでに用いた表現をあえて繰り返す。貴重な伝統であり、かつ一定の正統性・正当性を持つものであるならば、そうした伝統と方法論を維持・堅守・継承しようとするのは、自由である。しかし、それを <唯一適切で、正しく、正統な伝統・(学問・演奏)方法論>であるかのように「教え手」が主張し、「受け手」がそのように学ぶことは、音楽界にも学問界にも必須な、「同等に正当性・正統性を持つ他の伝統・方法論」の多様性を殺すことになろう。

 

 

 

[h] 加えて、私・和田が民事訴訟法・商法に深く関連する最判の「判例評釈」に疎いことも、ここに認めておく。

 

 

 

[i] 無論、下級審の判決(または決定)であっても、最高裁の判決(または決定)に付されないで結審したものについては、部分的に「判例」としての意味を持つものもありうる。しかしこの点も、本来は詳論を要するが、本拙文の課題からは割愛させていだくことをお許し願いたい。

 

 

                                                                                以上。