Cathedral


   イギリスの大聖堂


     クリスチャンでもなければ、とりわけ信心深いということでもありませんが、イギリスを旅すると至る所で大聖堂に出くわし、
     写真に撮りました。ここでは、そうしたイギリスの大聖堂の写真をいくつかご紹介します。とはいえ、イギリスのすべての大
     聖堂を巡ったわけではないので重要な建物が抜けています。Wells、Peterborough、Lincoln、Coventryなどの大聖堂は行っ
     てみたかったのですが、果たせませんでした。またの機会に訪れたいと思っています。なお、大聖堂と一言で書きましたが、
     Minster、Cathedral、Abbeyなどいろいろな名前が使われています。cathedralは司教がキリストの教えを説くときに座る椅子
     を意味するギリシア語のカテドラ(kathedra)に由来するものであり、教会を大聖堂と呼ぶかどうかはこのカテドラがあるかな
     いかで決まっているようです。ここでは、cathedralとminsterを大聖堂、abbeyを寺院と訳しています。また、ここでは、現実に
     使われている教会だけでなく、すでに廃墟となった寺院の写真も取り上げています。写真の並べ方は特に意味があるわけ
     ではありませんが、イングランドでは教区は二つのブロックに分けられており、北のブロックを統轄するのがヨーク大聖堂、
     南のブロックを統轄するのがカンタベリー大聖堂となっていますので、ここではイングランドの北ブロックの大聖堂を取り上
     げた後、南ブロックの大聖堂を紹介しています。そして、最後にスコットランドとウェールズの大聖堂を取り上げています。




ヨーク大聖堂  York Minster

ヨーク大聖堂の歴史は遠くローマ時代に遡る。とはいえ、初めから教会があったわけではなく、ローマ軍の本部がここにおかれていたのである。紀元306年には後のローマ皇帝コンスタンチウスはここを訪れているが、彼はローマに帰国後の312年にキリスト教を公認したのであった。南側の翼廊(transept)を出たところに彼のブロンズ像がある(最後の写真にちょっと見える)。建物は中世ゴシック建築としては北ヨーロッパで最大のものといわれる。現在の位置に教会が建てられたのは、ノルマン征服後の1080年から1100年にかけてであった。そして現在の建物が造られ始めたのは1220年であり、ライバルであるカンタベリー大聖堂と同規模の建築を目指して250年をかけ1472年に漸く完成したのであった。しかし、西側のタワー(最初の2枚の写真)はこの時でもまだ完全に出来上がっていたわけではなかった。その後、19世紀には2度の火災に見舞われ、また最近では1984年に3度目の火災に遭っている。とはいえ、南のカンタベリーに対抗する壮麗な大聖堂であり、映画「エリザベス」ではその戴冠式の場面に登場している。
  


  


  


    


  


  


  


  




ダラム大聖堂  Durham Cathedral

ダラム大聖堂は1093年にこの地に建設が始まり、1133年に一応の完成を見た。その後、いくつかの礼拝堂が建てられるなど増改築が繰り返され、現在に至っている。そもそも、この地に教会が造られるきっかけとなったのは、聖カスバード(St Cuthbert,634-687)の遺骸をここに納めることにあった。羊飼いであったカスバートは、現在はHoly Islandとして知られるイングランドとスコットランドの境にある小さな島リンデスファーン(Lindisfarne)の司教となり、そこで亡くなった。その後、デーン人の侵入でこの地を追われた僧侶たちがダラムのウェア川に囲まれたこの地にカスバートの遺骸を運び、教会を建てて葬った。そしてカスバートは現在もこの大聖堂に眠っている。この大聖堂は内部もさることながら外から見た光景がすばらしい。ダラム駅やその近くを走る列車の車窓から見ると、町並みの中に大聖堂が偉容を見せている(最初の写真)。さらに、この大聖堂を蛇行して取り囲んでいるウエア川に沿って大聖堂を見上げると、森の中に大聖堂が浮かび上がり、それも角度によって違って見えて飽きない(最後の3枚の写真)。ダラム大聖堂は隣にあるダラム城(Durham Castle)とともに1987年世界文化遺産に指定されている。

   


     



リッポン大聖堂  Ripon Cathedral(Minster)

この大聖堂は、1836年以来北ヨークシャーの教区を統轄する大聖堂となっているが、教会自体はすでに672年にSt Wilfridによってこの地に建てられた。この時代の地下室(crypt)が現在でも存在している。そして、1160年から80年にかけて新しい教会が建てられた。その後、1230年頃西側のタワーが増築されたが、1450年には中央のタワーが崩壊してしまった。15世紀末から16世紀の初めにかけて塔、聖歌隊席、身廊などが再建された。しかし、全面的な改築は、Sir George Gibert Scott(1811-1878)によって1862〜1870年に行われ現在に至っている。彼はAlbert MemorialやSt. Pancras駅の設計でも知られる。リッポン大聖堂はイギリスの二人の文学者と少なからぬ関わりを持っている。一人は「不思議の国のアリス」で有名なルイス・キャロルである。彼の父親は1852年にこの大聖堂の参事会員(canon)に任命されここに滞在した。大聖堂の聖歌隊席にはウサギが穴に飛び込んで消える光景を描いた彫刻があり、「不思議の国のアリス」はここからインスピレーションを得たのではないかと言われている。もう一人は、詩人のウィルフレッド・オーウェン(1893-1918)である。彼の詩はブリテンが「戦争レクイエム」で取り上げているが、彼は防弾ショックの治療後1918年3月にリッポンの兵器庫に勤務を命ぜられ、ここで多くの詩を作った。その後、ヨーロッパの戦場に送られ、終戦直前に戦死したのであった。

    

  



リヴァプール大聖堂  Liverpool Cathedral  

リヴァプールには2つの大聖堂がある。このリヴァプール大聖堂とメトロポリタン大聖堂であるが、両者はHope Streetによってつながっており、この通りに立つと左と右に2つの巨大な大聖堂を眺めることができる。こちらのリヴァプール大聖堂はイギリス国教会に属し、1904年に建設が始まり1978年に完成した。この大聖堂は、長さ201メートル、タワーの高さ101メートル、天井の高さ53メートル、翼廊の長さ61メートルと巨大なもので、国教会の大聖堂としてはイギリス最大の規模をもっている。主に砂岩を切り出して作られたているが、近くで見上げるとその巨大さに圧倒される。これを設計したのはSir Giles Glibert Scott(1880-1960)であったが、結局彼の生前には完成しなかった。彼は上のリッポン大聖堂を修復したSir George Glibert Scottの孫にあたり、ケンブリッジ大学の図書館など多くの重要な建築物に関わっているが、彼の最も有名で親しまれている設計は、イギリスを旅するとしばしば見かける赤い電話ボックスである。そのためか大聖堂の中にもこの赤い電話ボックスが一つ置かれている。

  


  


    


リヴァプール・メトロポリタン大聖堂 Metropolitan Cathedral of Christ the King, Liverpool

この王冠を思わせる建物が大聖堂であるとは指摘されなければわからないだろう。それもローマンカトリックの大聖堂であるというから、その斬新さに二度驚くかもしれない。フロア全体は円形であり、中央の司教の座を聴衆が取り囲むことになる。通常の大聖堂に見られる縦に伸びる身廊(nave)は円形に変わり、身廊を十字に横切る翼廊(transept)はない。全体に青い光りが差し神秘的な趣がある。ここに大聖堂を建設するというプランは20世紀初頭からあり、国教会のリヴァプール大聖堂に対抗して1930年にSir Edwin Lutyensによって巨大なビザンチン様式の大聖堂が設計された。これは直径91メートルのドームを持ち、高さが最大158メートルになる大聖堂であった。しかし、土台壁と地下室が作られたものの資金難からそれ以上の建設が放棄されてしまった。そして1960年に「低コスト」で大聖堂を建設するために設計のコンペが行われ、298の応募の中からSir Frederick Gibberdのデザインによるものが選ばれたのである。このコンペの条件は、5年以内に建設が完了すること、コストは1百万ポンド以内であること、祈祷書の新しい精神を具現化していることなどであった。その結果、1962年10月から1967年5月まで建設が行われ、条件通り5年以内で「我らの時代の大聖堂」が出来上がったのである。

  


    


  


チェスター大聖堂   Chester Cathedral

チェスターは北ウェールズへの玄関口ともいうべき位置にあるが、その起源はAD70年頃にローマの砦が築かれたところにある。その後のアングロサクソン時代にはチェスターには2つの教会が存在した。St Werburgh教会とSt John教会である。1075年から1095年までの20年間はLichfieldの司教がSt John教会の司教となっていたので、この教会が教区の大聖堂となったのであった。しかし、1095年に司教の座はコベントリーに移ったため、教区は'Coventry, Lichfield and Chester'と呼ばれるようになり、St John教会は大聖堂(cathedral)としての地位を失った。ちょうどそのころ、St Werburghの教会が再建され、これがベネディクト派の新しい寺院となった。そして、1541年ヘンリー8世による修道院の解散後、彼によってこの教会がチェスター教区の大聖堂となったのである。建物は、1090年から1540年まで450年にわたって増改築が繰り返されたため、中世から初期チューダー朝の様式が混在している。とはいえ、1868〜1876年に大幅に手が加えられて現在に至っている。この19世紀の改築を行ったのは、リッポン大聖堂の改築を行ったSir George Gibert Scottである。

  


  


  




ウイットビー寺院   Whitby Abbey

ウイットビーに僧院が建設されたのはアングロサクソン時代の657年であった。これはノーザンブリアの王Oswyによって築かれ、St Hildの統治のもとで繁栄したという。しかし、867年頃にデーン人によってこの僧院は破壊されてしまった。その後、1066年のノルマン征服後ここの僧院は再建され、中世におけるヨークシャーの僧院の中では最大級の僧院になったのであった。1539年ヘンリー8世が修道院の解散命令を出すと、ウイットビー寺院はこの地方の有力者であったCholmleys家に売却され、その所有となった。しかし、僧院は次第に崩壊し始め廃墟と化した。特に1762年には身廊が瓦解し、1830年には塔が崩壊している。そして、一族は1920年に廃墟をMinistry of Worksに返還し、さらに1984年にはEnglish Heritageが管理するようになって現在に至っている。ウイットビー寺院は海岸に面した見晴らしのよい高台にあり、ここに行くには199段の階段(最初の写真に見える)を登って行く必要がある。その見晴らしのよい位置から寺院は航海上ウイットビーの港を知る目標ともなっていたが、それは逆に攻撃目標ともなった。1914年12月16日ドイツの巡洋艦が砲撃を行い、これによって寺院の西側が破壊されてしまった。

  


    


  


  




ファウンティンズ寺院   Fountains Abbey

この寺院はリッポンから南西4マイルの森の中にある。このへんぴな地に寺院が建設されたのはその発祥に関係する。北イングランドではもともと修道院制度が強固であり、デーン人の侵入によってもその文化的遺産は破壊されず、ノルマン征服以降にはベネディクト派の修道院が急速に復活した。その中で1088-89年にはウイットビー寺院からきた修道士によってヨークにSt Mary修道院が建設された。しかし、1132年の夏に6世紀のベネディクト派の教義に立ち返るよう主張する改革派の修道士と修道院の長老との間で対立が生じた。結局、ヨーク大司教が反乱によって追放された13人の修道士を保護し、Skell川が流れる渓谷の土地を与えたのであった。ここに修道士たちは修道院を築き、St Mary of Fountainsと名付けた。この名前はこの地がSkell川の清流や泉に恵まれていたことに由来する。しかし、1539年のヘンリー8世による修道院の解散後、1540年に僧院と200fの土地が商人のSir Richard Greshamに売却された。その後、何人かの手を経て1768年William Aislabieの手に渡った。Williamの父Johnはこの寺院に隣接する地域を相続していたが、野心的なトーリー党員であり南海会社(South Sea Company)の設立に関わっていた。1720年South Sea Bubbleによって議会を追放され、公職につく権限を奪われたJohnはヨークシャーに戻り、この地に庭園を造ることに専念した。彼の遺志は息子のWilliamが受け継ぎ、ファウンティンズ寺院を買い取るとともに、隣接の地に庭園(Studley Royal)を築いたのである。現在ではNational Trustがこの両方を管理している。

  


  



    

    


  


  





カンタベリー大聖堂   Canterbury Cathedral

チョーサーのカンタベリー物語で有名なこの大聖堂は、イギリスでもっとも重要な大聖堂であり、イングランド北部の教区を統括するヨーク大聖堂に対してイングランド南部の教区を統括している。ここに大聖堂が建てられたのは597年に最初の大司教St Augustineがローマから赴任した直後のことであった。ローマ帝国がイギリスから撤退した後、この地のキリスト教は次第に衰退してしまった。St AugstineはKentの王であったEthelbertの庇護の下にイギリスでのキリスト教の再興を使命として教皇グレゴリウス1世によって派遣されたであった。St Augstineは大聖堂と同時に修道院もカンタベリーに造っており、ローマンウォールの外側にその跡が残っている(最後の写真)。しかし、この最初の大聖堂は1067年に火災によって崩壊してしまった。そして、その直後の1071年から再建が始まり、作業は1503年に完了した。この間にこの大聖堂ではイギリスキリスト教史のなかでも最も悲惨な事件が発生した。大司教Thomas Becketの暗殺である。ベケットはヘンリー2世によって1155年に大法官となり、国王を補佐した。その後、1162年にベケットはカンタベリー大司教となったが、国王による教会への課税権や聖職者に対する法による処罰などで対立するようになった。対立が激しくなると、ベケットはフランスに逃れ、そこに6年間とどまった。1170年国王との和解がなったベケットはカンタベリーに戻ったが、当時ノルマンディーにいたヘンリー2世はヨーク大司教の「彼がいる限り心休まる日はない」という言葉に、「誰かこの卑しい聖職者から我を解放するものはいないのか」と思わず叫んだ。これを国王がベケットの死を望んでいることと解釈した4人の騎士は、1170年12月29日カンタベリー大聖堂を訪れ、口論の末ベケットを殺害してしまった。

    


  


  





ウインチェスター大聖堂  Winchester Cathedral

ウィンチェスターは、9世紀にアルフレッド大王によってイングランドの首都となり、その後2世紀にわたってロンドンと並んでイングランドの中心都市となっていた。そのため、ウィリアム征服王(ウィリアム1世)の戴冠式はロンドンとウィンチェスターの両方で行われたのであった。最初の大聖堂(Old Minster)は7世紀の中頃にこの地に建てられ、アルフレッド大王も899年この大聖堂に葬られた。しかし、1079年に大聖堂の建て替えが始まり、1525年頃に現在の大聖堂は完成している。この大聖堂の特徴の一つは、非常に長い身廊を持つことにあり(2枚目の写真)、この大聖堂は全長556フィートとヨーロッパで最長の大聖堂となっている。大聖堂の西正面にはもともとノルマン様式の2つのタワーが建てられていたが、14世紀に取り壊され、現在の3つのポーチからなるファサードが築かれた(最初の写真)。このように大聖堂自身は長い年月を経て建てられたために、内部は建築様式の違いが目立つ。身廊はイギリスゴシック様式で建てられた垂直に天井の高い構造をもっている。これに対して、中央のタワーと北と南の翼廊はノルマン様式となっている(最後の3枚の写真)。最後から4枚目の写真に見られる彫刻は現代(1984年)の作品[Anthony Gormley作Sound II]であるが、ここの地下室は冬になると地下水が流れ込み、水面にぽつりと立つ人間像となって不思議な光景を見せる。私が訪れた時は夏であったので残念ながらそのような光景を見ることができなかった。


  


    


  

  


  





ソールズベリ大聖堂   Salisbury Cathedral

コンスタブルやターナーの絵画でも有名なこの大聖堂は、空に向かった鋭い尖塔が特徴である。ソールズベリに大聖堂が最初に作られたのは1092年のことであった。場所は現在の大聖堂のある位置ではなく、市の中心から北に2キロの丘の上(Old Sarum)であった。しかし、この場所は手狭であり、水不足も相まって別の場所に大聖堂が建てられることになった。現在の大聖堂はこうして建てられたが、1220年に建設が始まり、1265年頃には早くも完成した。そのため、イギリスの大聖堂の中では珍しく建築様式の違いがなく、初期ゴシック様式で統一されている。とはいえ、当初の大聖堂には今のような尖塔はなく、背の低いランタンタワーのみがあっただけである。ここに尖塔を建てる作業は1297年から1320年にかけて行われ、その結果八角形の塔は角塔部分から55メートル、地上から先端まで123メートルのイギリスで最高の高さを誇る塔が完成したのであった。ソールズベリ大聖堂を有名にしているのは、この尖塔ともう一つマグナカルタの原版の所蔵である。1215年にジョン王が署名したマグナカルタは、その後何度も改訂されているが、原版は大英図書館に2部、リンカーン大聖堂に1部、そしてこのソールズベリ大聖堂に1部残っているだけである。特に、ソールズベリ大聖堂のものは4部の中では最も保存状態がいいと言われる。マグナカルタの原版がここに存在する理由は、マグナカルタの署名に立ち会い、その各地への配布の任務をまかされたエライアス・オブ・デレアムという人物がソールズベリの参事会員であり、ソールズベリ大聖堂の建設を監督したためである。

  


  


    


  





エクセター大聖堂  Exeter Cathedral


  


  


  





ロンドンの大聖堂



ウエストミンスター寺院  Westminster Abbey

  


  


  




ウエストミンスター大聖堂  Westminster Cathedral

  


セントポール大聖堂  St Paul's Cathedral

  


  





セント・オールバンス大聖堂  St Albans Cathedral


  


  


  


  




バース寺院  Bath Abbey

バース寺院は、有名なローマンバスの隣に位置している。ここの最後の写真はそのローマンバスから撮ったものである。

  


  




ブリストル大聖堂  Bristol Cathedral


  


  



グロースター大聖堂  Gloucester Cathedral

  


  


   


  



ウースター大聖堂  Worceter Cathedral

ウースター大聖堂には、マグナカルタで有名なジョン王の墓がある。1215年マグナカルタに署名したジョン王は、しかしそれを守るつもりはなく、やはりマグナカルタに反対する教皇とも連携して、反抗貴族と内戦を繰り返した。翌1216年10月、イングランドを制圧するためにウエールズから東に行軍していたジョン王は、赤痢を患いリンカーンシャーで病死した。この大聖堂に葬られたのはウースターをこよなく愛した国王の遺言によるといわれる。作曲家のエルガーもこの大聖堂にゆかりの人物である。ウースター郊外の村に生まれたエルガーは、一時期ロンドンに出て音楽で生計を立てようと思ったものの成功せず、ウースター大聖堂のオルガニストをつとめる傍ら作曲を続けたのであった。その中で「ゲロンティアスの夢」のような宗教的大作が生まれている。そして、変奏曲「謎」などの成功により、イギリスを代表する作曲家として成功を収めることになった。イギリスの20ポンド紙幣を手に取ってみると、その裏面にはエルガーと西側から見たウースター大聖堂がデザインされていることがわかる。また、大聖堂の北側入り口を入り右手の壁にはエルガーを記念したプラーグが掲げられている。

  


    


  



ノーリッジ大聖堂  Norwich Cathedral

  


  


  


  


  


  



イーリー大聖堂   Ely Catedral

   


  


  


  


  




ギルドフォード大聖堂  Guildford Cathedral

  







セントジャイルズ大聖堂  St Giles Cathedral

  


  




グラスゴー大聖堂  Glasgow Cathedral

 

  

  




セントデビッズ大聖堂  St David's Cathedral

  


  




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