Hadrian's Wall

  この何の変哲もないように見える石垣は、ローマ帝国がイギリスをブリタニアとして支配していた時代に、ハドリアヌスが築いた城壁の跡である。ローマによるブリタニア支配が始まったのはAD43年であるが、当初はロンディニウム(ロンドン)を中心としたイングランドに支配はとどまっていた。その後、ローマ軍は北進し、83年にはスコットランドのスターリングまで侵攻したものの、しばらく後にイングランドまで後退した。イングランドに後退したものの、ローマは北からの侵攻をしばしば受け、それからブリタニアを防衛する必要があった。皇帝ハドリアヌスは121年ブリタニアを訪れ、防御のための長城を建設したのであった。これがこの写真のヘイドリアン・ウオールである。
  この長城は、東はニューカッスル・アポン・タインのウォールズエンド(Wallsend=end of wall)から西はカーライルのボウネスまで、73マイル(117km)の長さがあった。1500マイル(2400km)の長さがある本家の万里の長城には及ぶべくもないが、幅約2.3m、高さ1.8〜4.6mの石垣が築かれ、その北側には幅10m深さ3mのV字型の溝が掘られていた。そしてほぼ22km毎に砦が築かれ、軍隊はそこに駐屯するとともに、北からの侵入が生じると、直ちに移動して迎え撃ったのである。ヘイドリアン・ウォールは、こうして砦として機能する一方で、国境としても機能していた。河川や山脈のないこの地域では壁を築くことによって国境を策定せざるを得なかったのである。
  ハドリアヌスの死後に皇帝となったアントニウス・ピウスは、軍隊をヘイドリアン・ウォールの北に侵攻させ、エディンバラとグラスゴウを結ぶ線の北側、カリドンからオールド・キルパトリックまで60kmの長さをもつ新しい城壁を築かせた(アントニン・ウォール)。この城壁は石で築かれたヘイドリアン・ウォールとは異なり、泥炭によって作られていたので、現在ではその痕跡を見ることはほとんどできない。しかし、アントニン・ウォールが維持されたのは約20年間だけであり、ローマは再びヘイドリアン・ウォールまで後退した。その後、407年のローマ軍の撤退まで、ここがローマ帝国の北限となっていたのである。