今年度のゼミを振り返って
−編集後記−
 
児美川 孝一郎
 
三度目の正夢?
 毎年、この時期になると、必ず見る夢がある。「今年もゼミ紀要を作るぞ!」と僕自身は大いに張り切っているのだが、いざフタを開けてみると、誰も提出してくれないという、笑うに笑えない「悪夢」だ。法政に来て、今年で三年目の僕は、少なくとも過去二年間は、これが「正夢」になることだけはなく過ごしてきた。
 だが、三度目の今年は・・・・?
 いったい、どうなっているのか。ついに、最悪の事態が到来するのか。と、途中で何度も悪夢にうなされたしまった。要するに、言いたいのは、今年度は、それほどに原稿の集まりが悪かったということだ。
 (君たち、人を甘く見るのもいい加減にしなさい!)
 
内容で勝負?
 とはいうものの、ゼミの論集の内容という点で言えば、今年の出来映えは、少なくともゼミ参加者の意気込み(というか、僕の「押さえ込み」)という点では、過去の二年間をはるかに凌いでいる。
 全体でテーマを設定し、参加者各自が分担して、それぞれの角度からテーマに関する考察を行うという論集のスタイルは、これまでになかったことだし、それぞれの原稿に緊張感を与えていると思う。何と言っても、共同で一つの作品を作り上げるというのは、これほどゼミという活動のまとめにふさわしいものはないではないか。
 (君たちだって、やる時はやるじゃん!中には、勘違いしてるヤツもいるけど)
 そういう意味では、参加者の各自は、とりあえず自分の分担(責任)をこなしたということに安心してしまうのではなく、ぜひとも出来上がったこの論集全体に目を通してみるべきだろう。そこから再び、今年度のゼミでの議論を「堪能」し直しながら、「集団」の成長と「個人(自分)」の発達とのダイナミックな関係に思いを馳せるというのも、けっして無駄な経験ではないと思うからだ。
 
今年度ゼミのまとめ
 さて、例によって、今年度のゼミについてのまとめや総括のようなことは、ここでは書かない。いつも言っているように、それは、基本的には参加者自身が自分で行うことだと思うからだ。僕自身の個人としての総括は、ゼミの最終回にしゃべっている。
 それにまた、僕が書くとしたら、過去2年間のゼミ紀要の僕の文章を見てもらえればよくわかるのだが、やはり同じことを書くだろうと予感していることもある。
 ちなみに、随分と手抜きの作業ではあるのだが、去年のゼミ紀要から、参加者たちに意識して欲しいこととして書いたメッセージの部分については、それをそのまま引用しておこうと思う。そこに書いた気分と思いは、今年もまた持続しているものであるからだ。
 
昨年度のゼミ紀要から
《一つは、大学での学習というのは、知識や理論をためこむという意味での『お勉強』であってはならず、学習することそれ自身が自分自身を見つめ直すことにつながり、否応なしに「自己の内面のドラマ」を創り出していくような、そうした「自分さがし」の営みと密接不可分に進められるべきだということ。
 二つめに、自分自身の生活体験や生活感覚に由来する自分なりの教育現実の見方(あるいは、そのことから派生する教育学という学問の認識枠組みへの違和感は、それを、大いに大事にして欲しいということ。しかし、同時に、そのことは、自己の直観や感覚にこだわることにとどまるのではなく、自分の思いに合理的な言葉根拠に裏打ちされた思想性論理性を与えるための努力を惜しまないという地点にまで、突き進んで欲しいということ。
 三つめに、自分なりの感覚や見方にこだわるということが、自分とは異なる他者の感覚や見方を排除することにつながらないように、むしろ、他者の感覚や見方に共鳴できる“もうひとりの自分”を意識的に立ち上げていくことが、結局は、自分なりの感覚や見方というものを冷静に見つめ直し、それをこれまで以上に豊かにすることになるということ。
 最後に、現在の日本社会や教育の現実を、何か不動のもの、変わりようがないものと捉えるような「現実主義」(=現状肯定の誘惑)から自由になって欲しいということ。言い方を変えれば、歴史における「現在」という位置を、過去の歴史の中ではさまざまにありえた「選択」の、一連の連鎖の帰結として理解し、そうであるがゆえに、いま僕たちが目の前にしているこの「現実」は、けっして唯一絶対のものではなくて、そこにわが身を賭けてゆくことで、今後いくらでも変わりうるものでもあると把握すること。そういう意味での真っ当な「歴史意識」を身につけて欲しいということ。》
 
活動の経緯
 最後に、今年のゼミの活動の経緯を記録してこの文章の編集後記としての責を果たしたいと思う。
 
  98/04/15  発題
  98/04/22  ゼミ運営の相談
  98/05/06  宮台真司ほか『学校を救済せよ』−中学生のきつい日常
  98/05/13  駿台高校事件を手がかりに−鎌田慧 vs. 高校生
  98/05/27  中西新太郎「成長の形が揺らいでいる」を手がかりに
  98/06/03  学校論について−佐藤学の学校論を素材に
  98/06/10  学校のカリキュラムについて−単位制高校、サポート校
  98/06/17  「中田英寿」という名の新しい日本人−『スパ』の記事から
  98/06/24  青少年をとりまく複合汚染
  98/07/01  早期教育を考える−汐見捻幸『このままでいいのか超早期教育』
  98/07/08  親父は背中で語れない−AERAの記事から
  98/07/15  ゼミ合宿の相談
  98/08/29〜08/31  ゼミ合宿
  98/09/16  後期ゼミ運営の相談
  98/09/30  高校中退を考える(1)
  98/10/07  高校中退を考える(2)
  98/10/14  不登校問題(1)−大学の不登校について
  98/10/21  不登校問題(2)−小・中学生の不登校について
  98/10/28  不登校問題(3)−再び不登校について
  98/11/4   不登校問題(4)−フリースペースで経験したこと
  98/11/11  ムカつく・キレる(1)−宮川俊彦『キレる理由』
  98/12/3   ムカつく・キレる(2)−芹沢俊介『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』
  98/12/9   ムカつく・キレる(3)−尾木直樹『学校は再生できるか』−
  98/12/17  学級崩壊−秋葉英則ほか『学級崩壊からの脱出』−
  99/1/13   議論のまとめ
  99/2/11〜99/2/13  合同ゼミ合宿
 
本当に終わり?
 おいおい、これで本当にこの文章終わるの?と思う向きもあるかもしれない。学生には400字15枚とか要求していおいて、教員はこれだけ?という声が聞こえてきそうな気がしないでもない。
 でも、本当に終わるんだから仕方がない。長年、ゼミを開いていれば、こういうこともあるさ。
 最後になりましたが、ゼミ参加者の皆さん、ご苦労さまでした。
 前期のゼミ長の石井さん、後期の阿部くん、お疲れさまでした。「個性」とかいう言葉が時代の寵児のように一人歩きしていて、その実、自分勝手で自己主張だけが強いような輩も増えてきた昨今では、集団のまとめ役ほど、割に合わない仕事はないのかもしれません。そんななかで、二人ともよくやってくれました(かどうかは、自分の胸に聞いて下さい)。
 では、卒業できなかった人を含めて、来年度にまた会いましょう。
 
(1999.3.20 記)
戻る