ムカつく・キレる
 
教育学科3年 阿部英樹
 
 
はじめに
 「ムカつく」・「キレる」という言葉を頻繁に耳にするようになって久しい。元々は、主に若い世代によく聞かれる言葉であったが、マスメディアの影響などもあって、今日では、世代を超えて広く知られる言葉になったようである。特に「キレる」に関しては、重大な事件を引き起こした状況も見られた。
 一般に、「ムカつく」・「キレる」は、関連して語られることが多い。拙論では、青少年の心理として問題視されている、「ムカつく」・「キレる」について、どのような心理状態であるかについて、また、「ムカつく」・「キレる」状態を引き起こす原因とそれを防ぐ方法について述べたい。
 
ムカつくって何?
 『キレる理由』(宮川敏彦著、同文書院)より
 「ムカつく」に関する、青少年の声…・イラだつとき・腹が立つとき・面白くないとき・アホらしいとき・体が苦しくなる・一日何回も感じる・ムカつく奴をいじめるとすっきりする・ムカつく教師は無視・何かわかんないけど親にいわれるとムカつく・ムカつくという言葉が、決して今の私たちの心の中にあるとは思っていない・重宝だから・人と話を合わせるのにお手頃の言葉だから・怒るとか怒りという言葉が余り使われないで、ムカつくことがそれに取って代わろうとしている
 『「ムカつく」っていったい何?』(NHK教育テレビ・ことばてれび)より
 何に対して「ムカつく」か、に関する青少年の声…・約束を破られた・先生に文句をいわれた・恋人に浮気された・自分の体のことをいわれた・テスト・電車の中で大声で話している人・偉そうに振る舞っている人・自分・行列に割り込みをする人・後輩の態度・妙に元気そうに生き生きとしているやつ・トイレットペーパーのしんがない・シャープペンの芯が折れた・時間が経つのが早い・朝寒い・雨が降っている
 なぜ「ムカつく」と言うか、に関する青少年の声…取りあえずムカつく・分けわかんなくなった時・勝手に出ちゃう・無意識に使う・ただの口癖・短いし言いやすい・いやなことがあった時・そんなにムカつかなくても使う・みんな使ってる・深いことじゃない・軽い・それ程意味はない・怒っているわけではない
 
  青少年の声から
 総体的に見て、「ムカつく」に関しては、「体が苦しくなる」という肉体的苦痛を伴う「ムカつく」から、「ただの口癖」となっている「ムカつく」まで、相当に広い意味を含んでいる言葉である。また、何に対して「ムカつく」かを見ると、大別して、自分、他人、物、状況など、さまざまな対象に対して使われていることがわかる。「朝寒い」とき、「雨が降っている」ときなど言っても仕方のないレベルでも使われており、相当違う感覚であるにもかかわらず、同じ言葉で括られているのである。
 「妙に元気そうに生き生きとしているやつ」を見ると「ムカつく」という声からは、善悪というよりも、自分が心地好いかそうでないかという快不快の感覚が基準となっており、「重宝だから」「そんなにムカつかなくても使う」という声から、「それ程意味はない」「軽い」言葉としても、使われることが多いことがわかる。
 辞書を引くと、「ムカつく」は、先に吐き気がするという意味が見られ、不愉快になる、腹が立つ、しゃくにさわる、という意味が次に見られる。先に述べたように、肉体的苦痛を伴う重い「ムカつく」と軽く使われる「ムカつく」が存在するようである。
 斉藤孝氏(明治大学文学部助教授、教育学・身体論専門)は、世代が上になるにしたがって、「ムカつく」はインパクトのある言葉になる、と指摘している。加えて、重い「ムカつく」は、校内暴力が全盛であった80年代前半から半ばには、体の感覚、瞬間的に沸き上がる吐き気、憤りを表現する言葉として使われていたが、90年代に入って、「ムカつく」の持つ意味が軽くなった、とも指摘している。
 
「ムカつく」の効用と問題点
 『「ムカつく」っていったい何?』(NHK教育テレビ・ことばてれび)より
 「ムカつく」という感覚についてもう少し深く考えたい。「ムカつく」は短くて言いやすく、「腹が立つ」「しゃくにさわる」という言葉よりも、大勢の感覚にしっくりとなじんだのである。これは、主にユーモアなどが受けないときに使われる「さむい」や、主に女性に手軽に使われる「かわいい」などという言葉と同様のものであると言える。
 言い換えれば、「ムカつく」は、「腹が立つ」「しゃくにさわる」では、言い表せない感覚である、と言えよう。そして、軽いストレスを受けたときに、それを「ムカつく」と言うことで小刻みに吐き出しているのである。つまり、「ムカつく」はストレス解消の手軽な道具となっていることがわかる。「ムカつく」という言葉をぱっぱっと吐きだしていくことで、その場をやり過ごす効用があると言える。
 さらに、他人との付き合いの中でも、「ムカつく」という言葉で、価値観のつながりが共有できるのである。深く突き詰めない浅いところで距離を保つという、今日の関係の取り方を象徴している言葉であるとも言えよう。 このように、「ムカつく」という言葉は、軽い意味で使われるときには、ストレス解消の道具として有用であるともいえる。しかし、この言葉には、怒ることができずに内に蓄積され、身体の感覚となっていくという意味も含まれていることは間違いない。この「ムカつく」感覚が抑圧され続ければ、いずれ肥大化して臨界点に達し、最後には決壊して「キレ」ることになるのではないだろうか。
 
キレるって何?
 『キレる理由』(宮川敏彦著、同文書院)から
 子どもたちの声…・がまんできなくなるとき・わけわかんなくなっちゃうとき・自分のいうことを相手が聞かないとき・言ってもわかってくれないとき・突然・怒ること・ワタシなんか毎日キレまくってる・キレていいんだよ、それで自分は脱皮していくんだ・(黒磯の少年に対して)キレて良かったよ。でないともっと先に行って爆発するもの
 
  青少年の声から
「がまんできなくなるとき」「言ってもわかってくれないとき」という声から、「キレる」前は感情が抑圧されていた状態であると言える。また、「わけわかんなくなっちゃうとき」、「突然」という声から、「キレる」状態は、突発的に起こる状態であることがわかる。しかし、「ワタシなんか毎日キレまくってるよ」という声からは、「ムカつく」と同様に、手軽な言葉として「キレる」を使っていることも指摘できる。
 
 「キレる子ども」審議会から
 1998年12月4日、都庁で「キレる子ども」審議会という会議が開かれた。審議会では、親、教師、高校生がそれぞれ個別に検討会議を重ねてきており、その日は検討会議の集大成として、それぞれの検討結果を持ち寄った。その中では、「キレる」という状況を「頭の中が真っ白になってブレーキが利かない状態」と定義している。
 
普通の子って何?
 黒磯の中学校教師刺殺事件以降の「キレる」事件において、中学生を「普通の子がなぜキレるのか」という論議が多くなされていた。しかし、本当に「普通の子」であったと簡単に口にすることができるであろうか。
 『キレる理由』(宮川敏彦著、同文書院)から
 子どもたちの声…・とにかく同じにして同じように振る舞っていればいい」と親も教師も子供自身も思っている・1人だけで百点取ってはいけない・目立ってはいけない・でき過ぎてはいけない・変わっていてはいけない・集団に歩調を合わせなくてはいけない・画一化はされたのではない。望んだのだ・「普通」なのではない「普通に振る舞っている」のだ。そうしないと困るから・「普通」は社会の安定維持のための必要事項・互いに安心し合うために人が集まり社会があれば「普通」は必ず作られていくと思う・普通って肩コルね
 黒磯の事件を例に挙げると、そもそも、事件の状況を見て、事件の時点で、生徒が心身共に「普通」の状態であったとは、とても言い難い。また、事件を起こした生徒は中3の3学期であったが、中1の3学期中に5日連続で休んでいたことがあり、不登校の傾向が見られ、「普通の子」だったと簡単には言うことはできない。
 子どもたちの声に見られるように、この生徒に限らず、他の「キレる」子についても、あからさまに問題を起こしていなかったという意味では「普通」だったかもしれないが、「普通」に「見えていた」、もしくは「見せていた」だけなのではないだろうか。
 生徒が「キレる」状態にならざるをえなかった原因は確実に存在する。しかし、その原因が見えにくくなっているため、「普通の子がどうして」と言われるのであろう。
 
「キレる」とストレスの関係
 『「キレる」メカニズム』(日本テレビ)より
 「キレる」状態を引き起こす大きな要因として考えられるのが、ストレスである。
 1998年10月に出された教育白書によると、小6・中3・高3の約8000人のアンケートで「イライラしている子ども」は8割に昇っている。これに対して、こうした子どもの状態に気付いている親は1割にもみたないという結果が出ている。また、文部省は全国の小学2・4・6年生、中学2年生の男女1万1123人にアンケート行った。その結果によると、「普段から疲れている」と感じることがよくある、時々あると答えた子どもは、小学2年生の33%であった。その割合は学年とともに上がり、中学2年生では60%であった。
 子どもは家庭においても学校においても「理想の子」を期待されており、大人の期待に添って「いい子」や「普通の子」を演じ続けており、それが相当なストレスとなっていると考えられる。他にも、いじめ、体罰などの人間関係によるストレスや、受験戦争を始めとする学習に偏ったストレスなど過剰なストレスがかかっている。 その一方では、兄弟の数が減り、生活の中での競争が減少したこと、友達と遊ぶ時間が減り、他人とのコミュニケーションを図る機会が減少したことなど、成長過程における人格形成に必要である多様な経験が減少している。脳が形成される過程において様々な経験をしないと、我慢の仕方や解決法が見つけられない。すると、感情のコントロールができず、キレやすい人間になってしまうのである。現代の子供たちはこのストレスに対する免疫力が低下している。
 こうした結果、昔は何でもなかったストレスに対しても免疫力がないため、思わぬことでキレてしまう子どもが増えているのである。
 
「キレる」と食生活の関係
 『その食事ではキレる子になる』(鈴木雅子著、KAWADE夢新書)より
 筆者は、校内暴力が多発した1980年代の始めから、子どもたちの食生活と行動の関連性を調べ始め、その関連性の強さに大変驚き、きちんとした栄養素の取れる食事がないと、子どもたちの行動が粗暴になると訴えたが、ほとんど理解されなかった。今日では、食生活の内容はますます悪くなり、対象者の9割あまりが問題のある食生活となっている。筆者の調査によると、朝食をほとんど食べない子どもは中学生で20%を超え、小学生でも10%台となっており、日本学校保健会の調査でも同様の結果が出ている。その原因として、ほとんどの場合は不摂生な生活が見られる。朝食抜きのもっともよくない点は脳の栄養失調をもたらし、体がだるくなったり、頭がボーッとしたり、イライラしたり、気分が悪くなったりすることである。
 また、別の面では、「現代型栄養失調」と言える状態が起こっていることがわかった。手軽、便利、口においしいなどをモットーとした食生活では、加工食品が食卓の中心になる。食べるとカロリーだけはあるが、ビタミンもミネラルも食物繊維も少ないことになる。これが「現代型栄養失調」と言える状態である。
 心が生き生きと動くためには、脳に必要な栄養素が十分に与えなければならない。特に、グルタミン酸、ビタミン、カルシウムは脳の活動に欠かすことができない重要な物質なのである。グルタミン酸は理性をコントロールする神経伝達物質の原料となる。そのため、不足すると理性が正常に保てなくなってしまう。ビタミン類が不足すると、脳内でブドウ糖の燃焼が不十分になり、脳の活動が鈍る。そして、カルシウムが不足すると、脳への情報伝達が鈍り、落ち着きが無くなるのである。筆者は、この書で具体的な食品を例示し、ビタミン、ミネラル、食物繊維の重要性を始め、農薬などの化学物質の危険性などについても言及している。
 食べることは、一生を生き抜いていける基盤作りに、大きな影響を及ぼすものである。現代は、その生きる基盤が揺らいでいるのである。筆者は、次のように警告している。
「こういう状態では、どの子どもでも、きっかけがあれば、事件を起こす可能性があります。そして彼らがうっぷんを晴らす相手は、物から人へと変わってきています。」 「子どもたちのつきあいをとおして、彼らの生活、食事をみていると、いつの日にかこの国は崩壊するのではないかと思えます。この状態を、何とかしなければと思います。これは現在を生きる大人の責任です。」
 
おわりに…「ムカつく・キレる」状態を防ぐには
 以上、様々な形で「ムカつく」・「キレる」状態について触れてきたが、これらは、青少年に限らず、決して望ましい状態ではないことは間違いない。そこで、「ムカつく」・「キレる」状態からなるべく遠ざかるための方法を考えたい。
 まず言えることは、「ムカつく」・「キレる」状態を引き起こす直接の原因である、ストレスをためないことである。今日、「ムカつく」・「キレる」が問題とされるのは、それらの状態が反社会的な行動に結び付いているからである。すなわち、反社会的な行動でないストレス解消法により、別のかたちで発散できるようになればよいのである。例えば、『キレる理由』の著者、宮川敏彦氏が創設した「国語作文研究所」が行っているように、自分の気持ちを文章化するというようなことで、その子たちがどう自己を規制しているのかをつかみ、怒り、ムカつきを外に表現できる環境を作るというようなことも考えられる。
 加えて、栄養バランスの取れた食生活を送ること、子どもの頃から多くの人や自然と接し、ストレスに対する免疫力をつけることも重要である。野菜にもこれらの方法が広く知られるようになれば、キレにくい、理性の働く人間が育つと考えられる。
 現代社会、特に都市部で生きていく上では、農薬や、大気中の化学物質などは避けがたい問題であり、「ムカつく」・「キレる」状態は必然的な状態に思える。しかし、 「ムカつく」・「キレる」状態を防ぐことは、これらの要因を知り、少しでも留意するところから始まるのではないだろうか。               

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「学級崩壊」の主人公たち
 
教育学科3年 山本 直宏
 
 
 子どもはさまざまな顔を持って生きている。それはさまざまな顔を持っていないと生きていけないからである。身を守るため、といりても過言ではない。だからこそ、「まさか、あの子が」という思いを抱かせる出来事に大人は接するもなのである。しかし、今、「学級崩壊」に関わる子どもの状況は、さまざまな顔を持つ子どもの実像としては理解できない。それこそ、"なぜ、今、「学級崩壊」か''と問わざる負えない。なんとなれば、一面では、今、子供たちがおかれている状況を次のように押さえれば押さえるほど、考えられないのである
 その一つに、学級担任教師の力量はかってないほどに高いという条件下に合って。 二つには、親の教育用急の高まりの中にあって。
 他は、少子化時代を迎えて一人ひとりどもがウント大切にされている中にあって。
 学級担任教師の力量についていうならば、教職歴がこれほど長い先生方を面として抱えた時代は過去にないといっていいのではないであろうか。小学校教師の平均年齢が45才前後になっているという事実は力量の高さを推し量っていいのではないのであろうか。いわゆる、ベテラン教師たちが、なぜ子どもの実態を捕まえることができないのであろうか。それは程に深刻なのである。
 親の教育要求の高まりについては説明を要しないであろう。その反映として、子どもの世界に、"学び続けることの値打ち"が浸透しているはずである。なのになぜ、学ぶことに抵抗する子どもが生まれているのであろうか。
 しかも、その親の要求は小子化の中で一層鮮明に、かつリアルに展開しているはずである。いまだ、30人学級の実現がなされていないとはいえ、かつてのことを考えたらという思いがあるであろう。なのになぜ、子どもたちとともに"集い合う'ことすらできないのであろうか。
 これらの条件を押しつぶすカが働いているがゆえの「学級崩壊」なのであろう。
 20年あまりの教職歴を持ってしても対処し得ない事態が生まれているのである。
その背景に親の教青要求の内実が、子供心にフィットしないものになっているのではないのか。それが、小子化の状況の中でより一層、マイナスの効果を子供たちに与えているのかもしれない。
 さて、この「学級崩壊」という状況の中では、新しい「荒れ」という言葉が関係している。この新しい『荒れ」という言葉は多くの学校現場で使われている。
 新しい「荒れ」の特徴は、1として、「ふつうの子ども」が荒れるということ。一見学校生活に適応している子どもが、教師の浅意とか、何らかのきっかけで急に机を蹴ったり投げたり、先生にナイフを突きつけたり。あるいは自分で頭を壁にぶつけたりするなどの行動をとる。2として、突然荒れる、突発的に起こるということ。警察はこれを「いきなり犯罪」と言っている。3として、理由がはっきりしない、教師や親にすぐに分からない。急に給食の配膳をひりくり返したり、プリントを破ったり、泣き出したり、教室から飛び出したりする。4、として子どもの「荒れ」の低年齢化。
 上記の四つに大きく分けられる。
 新しい「荒れ」は経験年数や男性女性に関わらず学級経営を困難にする。確かに子どもの「荒れ」という現象だが、同時に教師の疲労やバーンアウト(燃え尽き〕あるいは休職や退職といった問題と密接に関連している。また、子どもの心が教師から離れていく、子どもに指導が届かない、指導の達成が得られないといった無力感を生じさせている。とくに、今までの指導が通じず、逆に子どもに罵声を浴びせられるベテラン教師の自責と苦悩は想像以上であると思われる。教師自身が疲労困憊していく事態と子供たちがパニックを起こしたり、切れたりする事態とが同時進行しているのであり、とりわけ、小学校では、学級の壁が問題を閉じ込めるために、学級担任教師が孤立し負担感と自責感を高めさせ、やがてバーンアウト(燃え尽き)する傾向がある。
 他方、学級担任の持ち上がり制をやめ単年度学級担任制に切り替える学校が増えている。また、中学校のように学級担任制を維持しながらも教科ごとに教師が入れ替わる専科制を導入する学校もある。これらはその場しのぎのもので、根本解決にはならない。
 授業が成立しない。授業が始まってもすぐにノートや教科書を出さないという子どもは昔もいたが、今、中学で六割、小学校で半数近くと日常化。授業中教師の注意にもかかわらず立ち歩く行為の日常化…中学四分の一、小学校二割弱。授業中のエスケープの日常化…中学一割弱、小学校六%という事態になっている。しかし、教師が注意すると「クソババー死ね。ムカツクンじゃ」といった罵声と反抗をし、机を小刀で彫ったり、給食の配膳をひっくり返したり、ミルクが入りたままの牛乳ビンを投げつけたりする子ども。パニックを起こす子どもたちも、先生と一対一でゆったりと話し合えば切れない。集団の中で教師と向き合う場面に問題が起こるのが特徴である。
 では、なぜ子供たちは「荒れ」るのか。今年の1月に栃木県の黒磯市の中学校で2年生の男子生徒が女教師をナイフで刺殺した事件があった。その後も少年犯罪は相次いで起こった。そのなかでナイフを持つ理由としては、「テレビでキムタクが持っていたバタフライナイフがかっこよっかたので買った。」というようにファッション感覚で持つ」中学生が多い。その中で注意すべきは「ナイフを持っていると安心する」といった回答が結構あったこと。これは、子供たちの中に「不安感」や安定感のない「いらいら」が蓄積していることを示す。かれらはたまたまナイフを所持することで「安心感」や心の「」安定感」を得ているのであって、別にナイフ以外のものでも「安心」できるもなら何でも良い。
 なぜ「不安感」があるのか? その要因は小子化の中で、子どもは幼児期から親や周囲から「期待」をされる一方、つまずきや失敗にたいする恐怖心を強く抱いている。さらに、学力競争。その「不安感」を青葉で表現することに気づかいながらも自分の心の奥に閉じ込めている。新しい「荒れ」の背後には子供たちの内面にさまざまな「不安」といらいらや恐怖心が蓄積しており、それが「攻撃性」となって、あるきっかけで切れたりパニックを起こさせると考えられる。
 またこういう考え方もある。「むかつく」とか「切れる」とかいっている子どもはまだ感情表現をしている。問題はそのような言葉も発せられずじっと我慢したり内にこっもている子どもである。言葉ではなく身体が感情を直接表現する現象が新しい「荒れ」の背後にあるのでは? 今は身体接触が基本の遊びが消失し、そのかわり野球、サッカー、ミニバ.スケット等が人気である。これらのスポーツは身体接触がなく、ルールに守られている。喧嘩も少なく相手の痛みや温かさを実感できない、そのため相手との関係を取れない子どもが急増していると考えられる。
 しかし、この「荒れ」は通過儀礼であり、子どもたちが今の学校生活や学校の仕組みに意義を申し立てているのであり、それは彼らがのぽる発達の段階であるのではないか。子供たちはずっと荒れているのではなく、未来に向かって生きる力を内包しているという風に考えないと、どうしても「荒れる」子どもの影にとらわれ落ち込んでしまう。
 非常に複雑な状況ではあるが、私の考えとしては、状況を打開するのは、何といりても「楽天性」だと思う。自分が悪い、何をしてもうまく行かない、自分は教師失格だと自分を責めて、暗く深刻な顔をして子供たちの前に立ったら、それだけで子どもの心も暗くなる。「そのうち何とかなる」「私一人じゃないんだ」と明るく考えることができれば、解決への糸口を見つけ出せるのではないだろうか。職場や他の仲間に支えられる解決の糸口を見つけれるかもしれない。また、保護者に支えられることは、もっと大切だと思う。保護者にとっても、先生に立ち直ってもらい、頑張ってもらうことが必要なのだから、協力は得やすいと思う。保護者を信頼して話し合うことからはじめるのが良いのではないか。また、子どもたちの「荒れ」は、現在の小学校の学級担任制や学級の持っ意味の間い直しを考えさせるもだと.思う。学級やそのシステムのサイズが子どもの現実にあっているか、考えるべきである。
教師が一定期間勤めたら、リフレッシュ研修の意味で休暇制度を採りている国があるそうだ。休むということに、日本ではまだまだ罪悪感がある。子どもとの少しの行き違いで退職してしまうのは、教師本人にも子どもたちにも決していいことではないと思う。学校は2002年から「週休二日」になるが、根本的な授業の改善が行われない限りほんとの意味での解決にはならない。
 第15期中教審答申が出て学校教育に「生きる力」と「ゆとり」をと提唱されて、学校現場はどう変わったであろうか。「生きるカ」を育てるような指導になったであろうか。子供達に「ゆとり」が生まれるような学校経営になったであろうか。生徒も保護者も教師もそう実感はできないことだと想う。
 教育現場ではあいも変わらず進学指導のみが幅を効かせて、全ての教育活動は進学のためになされる感すらある。教師も親も進学さえさせれば責任が果たせるものと考えている。大学入試は何か変わったであろうか。推薦入試の見直しの名の下に取りやめる大学が出る一方で、難関大学では相変わらず推薦入試は実施されず、思考力重視の下にセンター試験では難問が増え、個別学力試験では学力試験の科目が減っていない。教育改革はスローガンに終わってしまったようである。
 一方では中学校を筆頭に教育荒廃が進み、「むかつく」「切れる」生徒が後を絶ない。夢多き時代に進学以外の夢を持たされず、進学で全てが解決するという大人達の短絡的思考に子供達は「むかつき」『切れて」いる。教育が立身出世以外の目的を持たず、学ぶ喜びも遊ぶ楽しさも競争と管理主義で奪われている現実に、子供達はひたすら耐えるしかない。そもそも学ぶ喜びとは何なのか、テストで良い点を取りて高い順位を獲得することだけなのか、恐ろしいことに今の子供たちはそのように仕込まれている。テストでいつも他人と成績を比較され、そんなことでは行きたい学校へ行けないぞと叱咤され、服装検査でチェックされ、子供はストレスが溜まる一方である。
 確かに教師にせよ親にせよ進学すれば自分の責任は終わったも同然と思うことであろう。しかし人生はそんなに単純なものであろうか。大学に行ってから、自分の人生について考え直して、退学する者もいる。また高校では中途退学がいかに多いことか驚くばかりである。今の教師や親に求められることは、もっと広い視野と長いスパンで子供の人生を考えてあげることではないのであろうか。学ぶ喜びを生じさせずに生涯学習の基礎が増えるハズはない。自分の事だけ考えさせて社会性や公共心が育つハズがない。自由な時間なくして自己管理能力や自律心は生まれないであろう。
 人聞の知能は個人差があるとしても、18才で成長が止まるものではない。競争は大学入試で終わるものでもない。自己実現は進学だけではない。知力は知識量だけでは計れない。幸福は富や地位だけではない。この様なごく当たり前のことが当たり前でなくなってしまっているのが、いかに恐ろしいことか考える大人が少なすぎるのではないかと思う。大人達の狭い人生感や価値観の押しつけに窒息しそうな感覚を覚える子供が多いことを、もっと多くの大人は理解しなければならない。子供が自分の人生を生きているとは感じられなくなっているという訴えは極めて深刻である。それを子供の幸福だと信じ込んで押しつけているところに、苦しみと悲劇が生まれているのだと、思う。
 子供たちがもっと広い心と視野とを育てられる学校教育にして欲しいというのが私の願いである。このままでは子供たちは極めて偏った人生観や価値観、さらには人間観しか持てずに大人になってしまう、そういう危機感を私は持っている。成績さえよければ社会的責任はどうでもよい、罰せられなければたとえそれで人が苦しもうが悪いことをやってよい、お金さえあれば楽しく遊んで幸福になれる、自分に都合か悪い人聞は抹殺してよい、その様な狭い了見しか持てない人が多くなるのではないかという不安感ばかりが募る。
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高校中退者の強気と弱気
 
法政大学科目等履修生 波多江 慮
http://member.nifty.ne.jp/hataeryo/index.htm
 
 
1 はじめに
 
 今日高校進学率は95%にまで達し、高校に行くのが当たり前と言われる時代となった。しかし、そのこと自体高校全入を意味するものではなく、文部省の一貫した「高校適格主義」によって、高校不進学5%にならないための激しい受験競争が中学校で行われ、中学生たちはその競争に生き残るために、「どんな高校に行きたいのか」「高校で何を学び、何をやりたいのか」といった最重要な問題よりも、自分の偏差値で行ける高校、入れてくれる高校を進路選択の基準としている。さらに、偏差値輪切りによる中学教師による進路指導によって、例え生徒本人が希望する高校に入りたいと言っても、その生徒の偏差値が希望の高校の偏差値に届かなければ、それは叶わぬ願いであり、結局のところ不本意入学という形で、意にそぐわない高校へと行かざるを得ないのが今日の現状である。
 しかし、そのような不本意な形での高校進学であっても、高校は高校であるはずである。高校に入れば中学時代の厳しい管理教育と受験競争から少しは解放され、中学時代には出来なかった事をやったり、中学生の時は漠然としていた自分自身の将来や未来について、少しずつ見えはじめ、考えていく時期でもある。中学校までが義務教育という子どもの学校へ行く権利を保証したものから、学校に行くのも行かないなも、本人の自由意志に任せられた高校へと移り変わり、高校生たちはそれ以前とは異なり、親や教師といった大人たちの意向や意志よりも、自らの主体的思考によって人生を切り開いて生きていくことが必要になっていく。いわば高校時代は、中学時代の「思春期」から「青年期」へと移行するスタート時期でもあり、大人になる一歩手前、大人になるための最後の準備期間であるとも言える。
 しかし、その青年期の大半を過ごす高校を途中で辞めていく多くの生徒がいる。1998年2月に文部省が発表した「1996年度公・私立高等学校における中途退学者数等の状況」によれば、96年に中途退学した高校生は11万1989人おり、中退率は2.5%であった。この数値は前年度の95年の中退者数が9万8179人で中退率が2.1%であったことを考えれば、96年の高校中退者数は前年度に比べて大幅な増加を示したと言える。(1)さらに、最新の97年の高校中退者数と中退率が98年12月に発表され、中退者数は前年度に比べ11万1491人と人数的には減少したが、少子化によって高校生の全体数が前年度より17万3000人減少していることから、中退率は82年の調査開始以来最高の2.6%となった。(2)
 高校中退者数は、89年と90年がいずれも12万人以上の中退者数をだしているが、この時期は高校生人口のピーク時であり、分母の数(高校生の全体数)に比例して分子の数(高校中退者数)も増えていった。しかし、ここ数年高校生人口が減少傾向であるにも関わらず中退者数が増えることは、現代の高校生たちの間に新たな困難が現れてきたとも想像できる。また従来まであった困難がより一層複雑になり、深化していっているとも考えられる。しかしどちらにしろ私たち大人は、現代の高校生たちが何故高校を中退するのか、どうして中退しなければいけない状況になったのかという、社会的状況や高校生たちの心理や葛藤といった問題を深く考えていかなければならない。
 
2 文部省調査による高校中退問題
 
高校を中退していった生徒たちの中退理由として、前述の文部省調査によれば、「進路変更」「学校生活・学業不適応」が毎年の中退理由の上位二つであり、97年の調査ではこの二つの中退理由だけで74.2%を占めている。このうち「不適応」の内容をさらに調べると、「もともと高校生活に熱意がない」(14.7%)「人間関係がうまく保てない」(4.9%)となっており、それぞれ前年度より2.2%、0.9%の増加となっている。このような状況に対して文部省は「目的意識を持たずに入学する生徒が増えている」と分析して、「学校や家庭が連携して高校に行く目的をしっかり持たせる指導が必要」とし、高校中退者数の増加の原因を学校や家庭に押しつけているのである。(3)
 文部省は93年4月に「高等学校中途退学問題への対応について」という、次の三つの方針を示している。@「生徒選択中心の教育課程を編成するなど高等学校教育の多様化、弾力化、個性化の推進」、A「参加する授業や分かる授業の徹底など個に応じた手厚い指導」、B「積極的な進路変更を可能にするため転編入学の積極的受け入れ、転校・転科許可の弾力化など開かれた高等学校教育」等である。(4)
 しかし、この三つの文部省が示した高校中退者対策は、はっきり言って今日の学校教育の状況を考えた場合、実現不可能なものばかりであると言える。@については単位制高校を示唆しているものと思われるが、今日の地方教育行政予算からして、これらの高校を増設するには限界がある(現在ある高校を統廃合してつくるのなら別だが)。さらに「個性化の推進」とは、教育自由化論者に言わせると、「生徒個々の能力に応じて」という、公立学校における能力別学習、能力別クラス編成へと繋がる危険性があり、これを容易に額面通り受け入れることは出来ない。Aついても今日の40人詰め込み学級では、教師が「個に応じた手厚い指導」等出来るはずもなく、Bについても、一度高校を退学して一定期間学校から離れていた生徒が、再び全日制高校に転編入学、転校することは難しいのである。
 このように高校中退者問題は、文部省の骨抜き対策や従来までの怠慢な政策によって増加しているとも言える。しかし肝心なのは、昔からこのような矛盾があったのに、何故近年高校中退率が急激に増えているのかという問題に、私たちはぶつかるのである。ここに近年の高校生たちの社会的状況や心理や葛藤、さらには高校生たちの高校に対する意識の歴史的変化というものを考えて行かなければならないのである。
 
3 高校生たちの高校に対する意識
 
 「母校愛」という言葉をよく耳にする。毎年の高校野球の甲子園大会では観客席にいる一般生徒も涙ながらに応援する風景は、昔の人間に言わせればこれが母校愛というものであろう。しかしそのような母校愛に背を向けて、昨年だけで約11万人の高校生が高校から去っている。何故彼ら彼女らは高校を辞めてしまうのだろうか。第一に、中学生時代に抱いていた高校と現実に入学してみた後の高校では、かなりのギャップがあるのではないかと思われる。これは中学時代までいじめにあっていた生徒が、高校に進学することで、それまでいじめを行っていたいじめっ子たちと違う高校にいくことで、いじめから解放されるという喜びから高校に進学したものの、しかし高校にもいじめがあり、結局いじめから逃れられない現実に直面し、高校に失望を抱いてしまう場合である。
 第二に高校とは、以外に窮屈な場所だという現実に直面し、これに適応出来ないということだ。高校が窮屈な場所とはやや変な言い方かもしれないが、前述したように中学校に比べ高校は、ガチガチの厳しい管理教育をする学校は少ない(中にはあるが)。高校は中学校のような厳しい校則は少しは緩和されるが、しかし、校則にかわって新たに高校で生徒たちを窮屈にさせるものとして、文部省調査にもあるが、人間関係の窮屈さというものが登場してくる。人間関係が何故高校生たちを窮屈にさせるのかというと、公立の高校に入った場合、同じ中学校出身者というのはせいぜい数十人程度であろう。後は全て他の中学校から来ている生徒ということになる。つまり、大部分が他の全く知らない者であり、そのような人間とコミニュケーションをとらなくてはいけないという窮屈さである。
 考えてみれば同じ地域の公立の小学校から中学校とうい形で進学してきた者の中には、小・中学校までの9年間同じクラスだったという友達がいたりする場合がある。いないにしても小・中学校時代のクラスメイトは、同じ地域に住んでおり、ある程度顔が知れている。しかし高校は、今まで会ったこともなければ見たこともない者同士が集まりコミニュケーションをとる場所であり、いわば大人社会の人間付き合いを最初にする場所であるとも言えよう。そしてそれは、結構気をつかうことであり、本音で何でも喋れなくなる場合がある。そのことは「ほんとうに心をうちあけられる友だち」が現在の高校生たちには意外に少なく、悩み事が起こっても誰にも相談できず、高校に失望してしまう場合があるのではないか。(5)
 しかし、このような二つの高校生たちの高校に対する意識は、前述の文部省の高校中退者対策の矛盾と同様に、いずれも昔からあったことであり、ここ2,3年の高校中退者の増加の理由になっていない。今何故、高校を辞めていく高校生たちが増えているのか、そこが問題なのである。
 結論から考えれば、文部省が高校中退者の増加原因として、目的意識をもたないで高校に入学してくる生徒が増えていると分析しているが、では、何故今日の高校生たちが目的意識をもてないのかというと、今日の社会が成熟しきった社会であり、高校という場所で頑張れば何とかなるといった希望が、今の高校生たちにはもち得なくなっているのではないだろうか。かつて高度経済成長の時代のように、勉強すれば豊かになる、高校を卒業すれば良い職業に就けるといった目に見える実益が今日の社会では喪失し、高校生たちにとって高校という場所が、空虚な空間へと転化してしまっているのではないか。つまりどんなに高校で頑張っても、自分たちは将来たいした人間になんかなれない、どうせ先が決まっているといった意識が、今日の青年全体に浸透しているのではないかということである。
 今日の高校生たちにとって今の社会は、ダイナミックに変革されるような出来事は起こり得ない時代と映っており、さらに今の豊かさや平和も自明のものであって、つまり「何も変わらない時代」として意識されていると言える。そのことは高校で学ぶ価値や高校に進学する意味というものが、掴めない高校生たちが、ここ数年増えているのではないだろうか。そして、高校を卒業しようがしまいが自分はたいして変わらないといった意識が高校を安易に辞めてしまう原因ではないかと推察される。(6)
 
4 高校中退の直接的原因
 
 前述のような社会的背景や原因によって、ここ数年高校中退者が増えていると私は考えるのだが、しかし、そのこと自体、高校中退の直接的原因とはなり得ない。やはり直接的原因を考えた場合、昔からあった「不本意入学」「学力不振」「高校での人間関係」「中学校以上の厳しい管理教育に対する学校や教師に対する不信感」といったものであろう。そして、そのような直接的原因にプラスして、今日の社会的背景が相まって高校中退率2.6%の数値となっていると見るべきだろう。では、高校を辞めてい行く中退者の青年たちは、どのような直接的原因で高校を辞めていくのかだろうか。
 高校を中退する直接的原因は、今も昔も一般的にその生徒の「学力問題」によるところが多い。つまり、高校の授業についていけずに留年してしまい、もう一度同じ学年をやるはめになっていしまい、そのまま高校を続けるのがいやになって、辞めていくものである。一般的にこのようなケースを外から見た場合、「結局留年する本人が悪いのではないか」というふうに見られがちである。しかし、留年することが最終的に本人の責任だとしても、留年するまでの過程において、様々な教師との確執や人間関係等によって、留年に追い込まれた生徒たちも数多くいる。例えば承知の如く高校は義務教育ではない。従って、学校教育法第11条の懲戒権の規定において高校の校長及び教師は、生徒を退学させたり停学にする権利をもっており、これが中学校以前とは決定的に違う点である。中学校では、どんなに問題行動をとる生徒であっても、少年院や児童自立支援施設にでも生徒が行かない限り、その学校から追い出す(退学)ことは出来ない。しかし、高校では問題行動をとる生徒を追い出すことが可能であり、それは容易に高校の教師たちが生徒を退学に追いやるケースともなっている。そのため普段から 素行が悪かったり問題行動をとる生徒を「狙い撃ち」にして留年に追い込んでしまうのである。そして、このような高校教師たちの態度は、「目障りな奴は斬ってしまえ」という考えが深く浸透しており、意識面において小・中学校の教師たちとでは決定的に違う点である。(7)
 第二に、困難校に入学してきた生徒たちは、まさしく高校で何を学ぶのか、高校で何を目指すのかといった問題を教師とともに考えていく必要がある。しかし、そのような困難校に勤める教師たち自らが、生徒を馬鹿にして、生徒たちのやる気をなくさせてしまう場合がある。職業高校の教師が生徒に向かって「普通科の高校に行けなかったから、お前たちはここに来た」とか、「どうせお前たちじゃ無理だ」といった発言を生徒の前で平然という教師たちがいる。生徒にしてみれば、このような教師の言葉に傷つくのは当然で、学校や教師への不信感を募らせ、生徒たちの中には、高校生活を続けることに嫌気がさしてしまう原因ともなっているのである。
 
5 高校中退者の強気と弱気な部分
 
 このような高校中退の直接的原因において、中退していく彼ら彼女らは概ね二つの思いで高校を中退していくと言える。一つは高校を辞めたことに対して未練や後悔等全くなく、これから学歴なんかに頼らず生きていこうという強気の部分。もう一つは、高校を辞めたもの、その後どうしたら良いか解らず、結局別の高校(定時制・通信制等)に入り直し「高卒」という学歴に未練を残す部分である。そしてこの二つのタイプのどちらにも属さないタイプとして、高校教育の在り方を否定しながらも、さりとて学歴社会である今日を生き抜くために、高校中退後はすぐに大検受験を目指して勉強するタイプである。
 高校を中退後は学歴へのこだわりを一切捨て、職業人として実力の世界で勝負する強気な中退者は、どちらかというと高校入学以前から、勉強をやることにあまり魅力を感じていなかった青年たちと言えるだろう。そのため早く社会に出て「金を稼ぎたい」という意識が強く、高校での不適応行動が直ぐに中退へと結びつきやすいと言える。このような意識で高校を中退して、その後社会で成功したというサクセスストーリーの話しはよく耳にする。高校を辞めた後努力して、「自分で会社をつくって社長になった」「一人前の職人になった」「修行して芸術家なった」といったところであろう。(8)しかし、このようなサクセスストーリーを実現するためには、人並み以上の努力と忍耐力が必要となり、このような努力をする自信のない青年たちは、もう一回高校に入り直すのであり、これが弱気な中退者の部分である。
 高校中退者で高校をもう一度入り直す青年たちを、一応中退者の弱気な部分と定義したが、もう少し優しく言えば「現実的な部分」と見るべきだろう。つまり、当初は高校の教育に馴染めず社会に出て働いて、上述のようなサクセスストーリーを夢見て頑張ろうとしたが、しかし現実は誰もが成功出来るわけではない。かといって腕に職をつけると言っても、これも努力が必要であり、さらに今日の豊かな社会が当然の社会だと認識している現代の青年たちにとって、丁稚奉公や修行等は耐えられる者は少ない。そうなると社会で生きるためには、やはり会社等の組織に身を置く必要が出てくるのであり、そのためには「高卒」という学歴が重くのし掛かってくるのである。そして、多くの高校中退者の弱気な部分を代表する言葉として、「ああまたかやっぱりここもあそこもか「高卒以上」に突き放される」という短歌の内容は、高校中退者にもう一度高校に行かせる動機として大きいだろう。(8)
 
6 おわりに
 
 以上のように、高校中退者の増加の社会的背景と中退者の強気と弱気の部分を述べてきた。高校中退者が増えている原因として、高校という場所が空虚な空間になっているためとしたが、それは高卒という切符が社会的地位や物質的豊かさといった結びつきを喪失したことを意味する。しかしそのこと自体、社会の学歴信仰といったものも同時に失われたとは言えず、依然として暗黙のうちに残っており、高校中退者が就職で苦労してしまうのである。
 私たち大人は、このような高校中退者の青年たちをどのように捉え、理解していけば良いのだろうか。学歴社会や偏差値序列化した高校の在り方が改まれば直ぐに解決することだろうが、そう簡単にはいかない。しかしここで私が一つ言えることは、決して今の社会が「何も変わらない時代」ではないということだ。つまり、社会的地位や物質的豊かさといったものではなく、自分自身が今生きている証といったものは、高校を中退しようがしまいが見つけられると思うのである。それは社会の眼差し等関係なく、今を生きる喜びとでも言えるものである。そして高校の教師たちは、生徒に生きる証を見つける援助をおこなっていく必要があるだろう。
 勿論、そのような援助を教師がおこなっても、高校中退率が低くなる保証はない。しかし肝心なのは、高校中退者が中退後も決して諦めないで、希望をもって生きていけるようにする必要があり、高校の教師たちは容易に生徒を斬るようなことは、止めるべきだろうと私は考えるのである。
以上
(1)『教育データランド』自治通信社、98年、86ー87頁。高校中退者数と中退率については、1982年からの統計調査による。中退率自体は戦後間もない50年代や60年代前半の方が高い数値を示しており、ちなみに59年の高校中退率は戦後最高と言われる2.9%を記録している。詳しくは竹内常一『子どもの自分くずしと自分づくり』東大出版会、87年、終章を参照。
(2)『毎日新聞』98年12月26日付による。
(3)(2)と同じ。文部省は高校中退者の増加原因として、中退する生徒本人の資質や学校や家庭を問題にしているが、今日の差別的な受験競争社会、偏差値序列化した高校の在り方等も高校中退の原因として考えるべきであり、この問題に文部省が触れないのはどうみてもおかしいのではないか。
(4)(1)と同じ。
(5)乾彰夫『自立にむかう旅』大月書店、86年、1ー5頁。高校生たちは特定の友だちだとだけ仲良くするのではなく、グループで仲良くすることに努めており、意外と友だち付き合いに気をつかっている。
(6)高校生や今の青年たちが、「何も変わらない時代」と認識しているということは、同時に、何か変わって欲しいという欲求も同時に生まれる。そのことは一方でナショナリズムをも呼び起こし、小林よしのりの『戦争論』が一部の若者に支持されている背景ともなっていると考えられる。
(7)今日の高校教師たちは、高校が義務教育でないことを利用して、容易に問題行動をとる生徒を斬ってしまう場合があり、ときには一部の生徒を「狙い撃ち」とも言える形で処分・留年に追い込むケースがある。詳しくは金賛『高校を考える』情報センター、87年を参照。
(8)内山義一・真鍋照雄『自分さがしの旅の始まりー高校中退者の青春嘆歌ー』学事出版、94年、53頁。長野県の女子の短歌で、就職やアルバイトで「高卒以上」の壁に突き当たることに対しての嘆きの声。
 
〈ゼミ論後記〉
 当初ゼミ論では、「高校中退者の強気と弱気」という題を与えられたことから、文献を何十冊も用意して、中退者の事例を数多く引用し、実証的な論文にしようと考えていました。しかし、児美川先生の専門が教育哲学であるので、より教育哲学的・理論的な論文にすることに変更したため、中退者の事例の引用等は必要最小限にとどめました。
 今年度の児美川ゼミは人数的に少なく、やや寂しかったのですが、しかし大学教育というのは、最終的に学生自身の主体的な学びの場であるので、このような年もある程度仕方がないでしょう来年度は数多くの学生の参加を期待しています
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不登校 よい子 受けとめる
 
教育学科3年 森山 知之
 
 
 今不登校が、社会問題になっている。様々なメディアなどでも多く取り上げられていることからも、問題の大きさがうかがえる。私には不登校の経験がない。仲のいい友達やクラスメートには不登校になってしまう人がいなかった。不登校というのは私にとって、身近には余り感じていなかったこと、違うクラスのだれかが最近学校にきていないらしいというのを人から聞くくらいのものだった。だから不登校という言葉に直面した時は、正直いうと感覚が掴めなかったので、「甘え」とか「逃げ」というのがまず頭に浮かんでいた。目分の経験の中で何かを休んだりする時、甘えというか「さぼり」でしかなかったこともあった。しかし不登校の問題を学んだり本などをとうして、少しずつ不登校に対する感覚が変わっていった。不登校の子供たちには様々な理由(原因)があり、その中には私にも思い当たるようなこともあり、自分と見比ぺたりしているうちに不登校に関心を持ち始めた。このレポートでは、授業でやったということもあり・今興味のある不登校とその時期(小・中学生)について考えたい。
 不登校には様々な理由(原因)があるし、人それぞれ個人差もあるのだが、私が本で読んだりテレビで見て多かった理由(陳因)は次のようなものだ。いじめにあっている子・病気がちの子・勉強(または勉強する意義)がわからない子・活発であったり・勉強ができる子・目分を出せずにいる子だ。こういうふうに文字にしてしまうと簡単なごとのように思われてしまうが、実は不登校はだれにでも起こり得ることなのだ。しかしなぜ、今不登校がこんなに問題になってきているのだろうか。
 今という時代は、とても裕福な時代といわれている。日本は戦後、とても貧しい時代から高度経済成長を経て、裕福な暮らしをできるようになった。それに伴い大人たちは、子供を大いに保護し、教育を与えるようになった。以前のような子供の将来を考える余裕のない時代と異なり、今の大人たちは子供の将来の幸せを願うようになってきた。そのようなある意味、とても恵まれた環境に生きる今の子供たち幸せであると言えるだろう。しかし、彼等は本当に幸せを感じているのだろうか。取りあえず初めば、裕福になった日本における、大人と子供の関係のある面(私自身矛盾を感じるところもあるので)について考えてみたい。
 大人が願う子供の将来の幸せはいろいろだが、取りあえずこんな感じに担ってほしいというような理想を持っているだろう。彼等自身のなかでこういう子であれば将来この子は幸せになれるといった1本の線路が用意されているが、もしも子供がその線路から外れてしまうようなことがあれば、大人は子供に対して失望してしまう。自らが願うとおりの要求に応え続けているかぎりにおいては、子供を褒め認めているが、要求に子供が応えられなくなった時、大人は何を与えるべきか、何をしたらいいのか分からなくなってしまう。
 そんな時、子供はそれ以上の不安に襲われるのではないだろうか。大袈裟に聞こえるかもしれないが、今こういった大人や、これに似たような大人が多くいるようだ。子供は彼等なりに大人のことが分かっているのか、または生まれた時からそういう環境の中で育っているので自然に受け入れていたりする。彼等は、ありのままの目分でいることをせず、いつも大人から求められるよい子を演じている。よい子ていなければ、大人(親や教師)に見放されてしまうと思い、彼等はよいこという線路を踏み外さないように慎重に歩いている。1番知っている本当の目分を目分の中に覆い隠してしまう。そうでもしないと、目線の先に見えるのは1本のとぎれた線路だけなのだ。人間であればだれでも、よい面(秀でている)も悪い面(劣っている)の両面を持ち合わせているにもかかわらず、子供(ここでは)は悪い面を見せないようにする。大人が自分のことを見なくなってしまうことが怖いのだ。今こういった子供が多いようだ。
 そうはいっても、子供は小さい頃から大人が望むことすると褒められるから、単純に褒められることはだれでも嬉しいのでそのとうりにしている。そしてよい子な目分が自然になり、そんな自分が好きになったりもする。いつの間にかいつも元気な子、決まりは必ず守る子、績は常にトップというのが当たり前の子(何となくよい子っぽい例)という線路にのせられている(のらざるを得なくなっている)。よい子が自分にあっていると思い(思わされ〕・人生をおくる人はもちろんいると思うし、それはそれでいい。しかし、よい子である自分に違和感を感じる人もやはりいる。よく何か事件が起きたりすると、その容疑者の知り合いが「よく挨拶するし、いい子だった」とか「あんなによい子がなぜ?」といっている。ある意味似ていると思う。不登校の子にしても、「あんなにいい子がどうして?」とか「優秀な子なのに」というのを多く聞いた。変な言い方をすれば、早いうちにいろいろ疑問に感じてよかったのではないかと思ったりもする。
 この例は微妙だったかもしれないが、私にも疑問を感じた経験がある。よい子というと少し違うようにも思うが、私は中学ぐらいまで大人の要求を常に受け入れなければという気持ちが前提にあった気がする。通常の生活でも、特に学校生活では常に大人の要求を意識していた気がする。勉強面でいえば、いい点数をとっているとそれが普通であるかのように思われているような気がするし、私自身嬉しいという気持ちもあったので必死になって勉強していた。授業の進み具合が悪い時などは、無理に積極的に手を挙げたりしていた。積極的になることはいいことだが、その頃の私には「無理に」という言葉が当てはまっていたと思う。その頃からそんな目分に違和感をもち始めたのではないか。生活面では割と好きにやっているところもあったが、生徒会や部活で責任者になっていたこともあり、あの頃は本当に大人の目(要求)が気になっていたように思う。本を読んだ中にも今見せている自分と本当の自分の狭間で葛藤している人がとてもたくさんいた。自分で何らかの方法で問題を解決できた人はいいが、とぎれた線路に立たされてしまった人はどうその後どうなってしまうのだろうか。
 やはり大人が1本線路の考えをかえを変えていかなければならない。しかし今の大人はどうやって解決するのだろうか。取りあえず何かを自分の経験から教えようとするだろう。
 一般的に教えるということは基本的に必要であり、とても重要なことであることは疑いのない事実だ。だが教えることがいいこととは言い切れない。例えばある人が人に何かを教えたとする。教えられた人は教えられたことによって、それまでの目分とは違う方向に変わらなければというような力が働く。教えることはいいことだと思いそうしたことによって、逆効果になってしまう恐れがある。励ますというのも同じようにな恐れがある場合がある。私は励ますということはとてもいいことだと思っていたし、今もそういう思いが占める部分は大きい。しかし昔読んだ本にこんなことが書いてあった。「励ますことは実は励ましにならない。励まさないことが励ますことになる。」こんな内容の文だった。
 またこのレポートを書いているときに呼んだ本にもこんなことが書かれていた。「先生、『がんばれ』っと言わんとってな。私、もう一生懸命がんばって走っとんやから」(不登校精神科医・森下一のたたかいとその仲間たち)という文だった。私も「頑張れ」とか「負けんじゃねえ」ということを励まそうという思いから言っていたなあと思った。目分ではいいことだと思ってしていたことが、実はその人を逃げ場のないところまで追い込んでしまっていた。自分にも追い込まれ、苦しい経験があるにもかかわらず、司じような場面で励まし追い込んでいた。自分の経験では、励まされて力が沸いてくることも多かったし、励ますことというのはとても大切なことだと私は思う。しかしその場その場で追い込んでしまうこともあるということ頭に入れておかなけれぱならない。
 それではどうすれぱということになるが、大人が子供に対してまずしなければならないことは、すべてを「受けとめる」ことだと思う。その時の子供を見ずに逃げるのではなくて、ドーンと子供と向き合って、その時の彼等のすべてを「受けとめる」ことが1番大切だと思う。「受けとめる」ということは不安でいっぱいだった彼等と悩みを分かち合うことができる。大人が「受けとめる」ことができたなら、子供は目ら問題に立ち向かう上での最高のパートナーを得たことになる。しかしここで忘れてはならないのは、「受けとめる」ことだけでは、彼等の問題には何等変化は起きないということだ。「教える」とか「励ます」というのはこの辺りからやるべきではないだろうか。「受けとめる」ことをして、悩みを分かち合った上での教えや励ましでなけれぱ、大人の一方的な考えによる同じことの繰り返しになってしまう。私は不登校の問題を考えるとき、「受けとめる」、すぺてはここから始めなくてはならないし、始まると思う。
 不登校や中退が増えているのは事実だ。今という時代は実は大人と子供がしっかりと向き合わなければならない時期なのではないだろうか。本気で子供のことを考えなければならない。それには大人たちは自分に「受けとめる」準備があるか、いっもそういう姿勢でいるかもう1度確認するべきだ。これからは、こういった大人の変化が不登校の問題には重要になるだろう。
 
参考文献
・「事例に学ぶ不登校−思春期の心と家族」
 菅佐和子編 人文書院
・「不登校−精神科医・森下のたたかいとその仲間たち」
 橋爪竹一郎 ミネルバ書房
・「不登校−その多様な支援」
 池田 豊鷹 大日本図書
・「教室へ行かれない子どもたちとともに」
 長野県教職員組合養護教員部ほか編 東山書房
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不登校児について−私たちはどう援助できるか
 
教育学科3年 牧島 洋平
 
 
 私たちは、小学校・中学校・高校・大学と進路を進めてきた。12年と数年を学校という空間で過ごしてきた。その過程において、自分は苦もなく当たり前のように「登校」をしてきた。まあ、「今日は面倒くさいから」とか、「授業サボろうか」など気分次第で行かないこともあったが、なかには行きたくても「行けない」人もいる。それを「不登校児」という。私は疑問に思った。「行きたくても行けない?」と。行きたくてもいじめがあるから行けないとか、病気で行けないならわかるけれども、それ以外での不登校の原因とはいったいどこにあるのだろうかと。それが少しでも見えてくればと考える。
 少々古い資料になるが、文部省の昭和61年度「児童生徒の問題行動実態調査」によると、学校嫌いを理由に年間50日以上欠席した登校拒否者は国公私立の小学生全体で4402人。前年度より331人増え、41年度の4430人に次ぐ多さとなった。さらに中学では前年度より1768人も増え、10年前の3.6倍の29694人にのぼって過去最高。(最悪?)1校平均2.7人が登校を拒否している。(「読売新聞」1987年12月)というものがある。この他にも登校拒否をしている人数が増えている資料はたくさんある。実際自分が小学生だった時に、となりのクラスで登校拒否している人が二人いた。中学に入ってもやはり一人や二人はいた。さいわいといってよいのか、自分のいたクラスで登校拒否をしていた人はいなかった。統計だけでは詳細は述べられないので、参考文献の例をあげる。
 
小学3年生の昌子さんの場合
 彼女は背が大きく、ほっそりとした子。ひとりっこで、両親と3人暮らし。3年生になってクラスがえがあり、担任の先生も変わりとても緊張している。特別こわい先生でもないが、けじめをつけさせようと強く心がけている先生だ。
 彼女は5月には行ってから、登校を嫌がる日が多くなっている。「名札を忘れた」「宿題ができていない」などといった単純なことで登校しなくなった。勉強についていく知的能力はある。同級生と交わって遊んでいるけれども、自ら働きかける能動性はない。「消極的だが、問題のない子」といった感じである。彼女は小さいころから新しい事態に対してすごく緊張し、しりごみする。自分が認められないと、とても悔しがるくせに臆病で、母親に依存的であった。小学校入学も楽しみに待つのではなく、「怖くない?」と不安がっていた。徐々にクラスに友達ができて登校にも不安がなくなったと思っていたら、3年の5月に不登校が始まった。先生の指示にも従い、勉強もできる、何の問題もない生徒に思われていたがそれは、彼女の必死の背伸びであった。「がんばってごらん」という言葉はかえってプレシャーになる。このような激励は、ますます自分はだめなのだと確信せざるを得なくなる。がんばればできる子は、がんばれば何とかなる体験をしたことのある子であり、新しい事態・環境の中で自分をさらけ出す一瞬の度胸が訓練された子である。子供の心は、不安で募り、事態を冷静に見つめ る思考力も育たず、自分を駄目な人間だ・何をしても駄目だと位置付けてしまう。そのため、名札を忘れたという簡単なことでクラスのみんな・担任がそんな自分を受け入れてくれないのではないかと不安になり、不登校が始まってしまう。「あなたはやればできる子よ」「がんばりなさい」といえばプレシャーになるし、登校することを強制することはできない。「行かなくてもいいよ」といってあげる。登校すること自体が目的ではなく、いって成長することが目的である。まずはプレシャーを軽くしてあげる必要がある。しかし、それからのことを考えていなければただの甘やかしになってしまう。ましてや登校したら物を買ってあげるという賞罰主義的なことをしてはいけない。もし登校しなかったら罰が待っているというこれもまたプレシャーになってしまう。がんばればできるというのは、がんばって何かができたという体験があってこそ成り立つ。現代では、子供の結果をほめることが多い。
 先日テレビでも、「ほめる」ということをテーマにしたものがあった。
 小学生の子供が、テストで100点をとってうちに帰って母親に見せたところ、100点をほめるというよりも100点を喜んでいた。子供が100点とってきたことで子供の努力をほめたのとは違う。やはり結果を評価するほうがと言うよりそうしたことのほうが誉めやすく、わかりやすいのであろう。そして、ここで母親という存在に注目するとしてみたい。母親は、特別「教育」を学んだわけではない。現代では、核家族化が進んできているため、子育てを母親がその母親から直接学ぶケースはあまりなくなってきている。そのため母親は非常に不安になる。「私はちゃんと子育てができているのだろうか?」と。母親の子育て基準がTVや近所の母親との会話・情報になっていく。それが早期教育になっていく。不安になった母親は、早く結果の出る子育てで不安を解消していく。安心するのである。そこには、「子育てをした」と言う母親自身の満足感と子供の気持ちを考えていない母親、その早期教育によって育てられた子供がいる。なんと人間的ではないのだろう。マニュアルどおりの教育・子供の気持ちを考えない母親の怖さ・それによって教育を受けた子供…。この話題は、早期教育に関す る話になってしまうので子のへんにしておく。
 
小学4年生の少年の場合
 3学期にはいってから、今までいっしょに遊んでいた仲間から、仲間はずれにされている。なぜかわからないと言う。特別に暴力をふるわれるわけではないが、近づいてもシカトされる。そして、彼のほうを見てニヤニヤ笑って、何か話し合っている。そんなゲーム的な疎外が存在している。いじめている子も、彼も、他人を非常に気にして生きていることがわかる。そんなこともあって、彼は1月ごろから朝おなかが痛いとか言って学校に行きたがらない。それにいじめられると言うことが重なって不登校になっていった。さて、いじめをなくしたえら彼は登校するか・問題は解決するのかと言ったら「?」である。彼の場合、本当に生き生きとした生活実感が伝わってこない。生きていく喜び希望が感じられない。主体的な生命感がないのである。彼は心配症で、何かにせよ気づく子ではあるが、自分を燃焼させる行動がなかった。自分で感動するものを見つけなさい!と言っても無駄である。彼は心配症であり臆病で、内向的で、神経過敏であるから。そんなときに必要なのは、家族や仲のよい友達との感動体験である。本当に簡単なことでいい。自分の力で努力し、感動を経験することで自分はできる 、自分の存在を確認できる。そして自信を持つことができる。しかし、この場合登校するという重いプレシャーのため、身体的な異常(腹痛)を伴ってしまっている。ここで「おなかが痛い?うそをつくな!いつまで甘えているんだ!!」なんてことは言ってはいけない。やはりその症状があることを認めてあげる。そして、医師に相談をして必要な薬をもらって治療する。そこまで不登校児にとって、登校するということはストレスになっていることを認めてあげる必要がある。
 このほかにも非常に勉強ができて、中学校からレベルの高い高校に行くことを期待され、「常に人と評価を比べて生きていくこと」が嫌になって不登校をはじめた。自分の存在している場所がわからなくなったと言うより、存在する場所を探す時期なのだと思う。そんな不安定な時期の非常に強いプレシャーで何もかも捨てたいと言う気持ちになったのであろう。
 さらには家庭内暴力に発展してしまうものもある。中学に入ると、「部活」が始まる。小学生にはない世界である。ある少年は、部活に入り、非常に疲れて家に着く。しかし、がんばって部活を続けていたがあるとき部活の先輩にばかにされたと言う。せっかくがんばっていた部活には行かなくなり、家に帰ってからはゲームやTVを部屋に持ち込み夜更かしをして不規則な生活になり、朝起きれずに登校しない。かったるい・だるいと言って。昼過ぎに起きて、ゲームとTV,自分の思いどおりになるものに固執する。いつしか母親に反抗的になり、自分の要求がとおらないと腹を立て、口調が強くなり、次第に暴力に変わっていった。             
 それは誰に対しても行われたわけではない、彼の暴力の標的は、母親だけであった。言うことを聞かないと土下座をさせてまたさらに要求を加える。 @自分の気にくわないこと(彼にはそう感じること)がある。 Aイライラする。 B気に入るように要求(母親に) C従わない D暴力を振るう E(母親は)従う F彼は落ち着く Gそして彼は、どこまでも要求を通そうとし、暴力もエスカレートし、先の@〜Gの悪循環がとめどなく続く。こんなとき実際彼の親ならどうしたら良いのだろう。今は教材(この表現はあまりよくないと思うけれど…)として冷静に対応できそうな気はするが、途方に暮れてしまいそうだし、逆にこっちが暴力を手段として使ってしまいそうだ。しかし、そんなことをしては悪循環を繰り返し、問題解決には程遠いものであるし、その場しのぎの解決手段であり彼が抱えているものが何なのかわからない。
 ここでは、暴力の効果(暴力を使えば要求がとおる)をなくしてしまうしかない。暴力ですべてのことを自分の思い通りにできると言うことを無効にすれば、自分がイライラしていたことを振り返る余裕が見えてくる。親もそれに屈せずにとりあえず逃げたり、要求を聞き入れない。そしてその悪循環を断ち切る。そして、親がしなければいけないものというのは、金と生活リズムの管理、干渉である。
 お金の管理がしっかりしなければ、暴力の変わりにお金で自分の要求を通そうとする。そしてその金額は大きくなることは間違いない。
 さらに、登校拒否児の多くは生活のリズムが崩れている。そのため寝不足の頭で、冷静な思考力がなく、不健全な体・不健全な精神のままである。そうでは正常ではありえない。これは実は大事なことだと思う。これは生理学上のことであるので、あまり正確な表現はできないけれども。
 それから、干渉。あらゆる事を自分の意志で決めることが大事である不登校児にとって、親の意思であれしなさいこれしなさいと干渉すると、それに流されている自分にイライラしたり、自分のペースをつかめなかったりと自分の力で生活する力を育てられなくなるし、それが自分の甘えになってしまう。「今やろうと思っていたのにいちいちうるさい!今のでやる気がなくなった!!」など、よくドラマにでも出てきそうなシチュエーションではあるが、実際ありうる。これは不登校児全体に言えることであろう。
 登校拒否児に共通すること。それは、学校・登校するに対するイメージが非常に暗く、重く、非常に強いプレッシャーになっていることである。そのため、少々のいじめや、体調不良を引き起こし、それをいいわけ(こういって良いのかまだよくわからないが)に登校拒否が起きてしまう。それと、自分の意志と、意思表示に自信がなく、表現方法を知らなかったりする。自分のイライラする気持ちなどを言葉で表現することができれば冷静に受け止めることができるが、それができないために暴力を使ったりしてしまうこともある。一般的に、男子より女子のほうが自分の気持ちを言語化することが得意だと言われている。そのため、男子のほうが荒れやすいのであろう。参考文献によると、精神力(自分自信を生き生きと生かす力)と言うのは、
@知的好奇心+A安心感+A感動性=至適覚醒状態
 とある。
 子供は、周囲の物事に対して知的好奇心を持って、行動しようとする。知的好奇心と言うものが子供の行動の動機である。つまり、知的好奇心は満足する。このような「知的好奇心―行動―納得・感動」と言う行動過程の繰り返しのなかで、子供の知的好奇心は、強固なものに、そしていっそう深い知的なものに発達していく。よって子供は安心感のないところでは、行動・納得・感動が得られない。そして、無気力状態になり、「自分は何もできない」などの精神力の弱さが出てくる。自信がなくなる。意思は強く持っているが、その表現方法をうまく使いこなせずに自分が集団(他人)に受け入れられずにいるとイライラする。行動をおこす勇気もない。そこには家庭等の安心感がないため。そして、親から干渉されて登校する意味をもわからずに流され、それがいつしかプレッシャーなり登校拒否の原因になる。こういったケースが年々増えていることはやはり問題だ。ただの子供のわがままだとは言いきれない。
 
ではいったいどうしたら良いのかを考えたい。登校拒否児をなくすまたは、登校拒否をなおすに必要なものはいったいどんなものかを。
@ プレッシャーを取り除く。やはり不登校児は神経過敏であることが多い。プレッシャーと感じる「学校に行きなさい」という言葉は取り除ける一番簡単なことであろう。そして、学校に行くこと(行かないこと)じたいたいした問題ではない、学校が絶対ではないと親が理解することが必要である。不登校したところで、たかだか数日数ヶ月学校に行かないだけで、「勉強が遅れる」などの心配は無意味だ。不登校をなおす目的は、「一人の大人にちゃんとなれるか」ということであって、学校に行けるかというものではないからである。親は不安になる。自分の子供(たかだか10数年前後だが)の数ヶ月は長く感じるだろう。でも、人生は数10年で、それをきちんとした精神力をもって過ごせるかがかかっているのだ。「少し休んだら」ぐらいいっても問題はないと思う。しかし、子供をただ単に甘やかせるようでは駄目なのだが、この基準は少々難しい。
A 親は恥じも、外見も捨てること。昔よく聞いた「うちの子にがぎって」と言う言葉に象徴されているように感じる。「うちの子はそんなに弱くはない!」などと自分の子供を冷静にみれていないし、誰でも自分の子供が登校拒否児であることが恥ずかしかったり、認めたがらない。近所の人にそれがわかると、自分たちの教育方法が間違っていたとか、親やその子供の人格まで否定されているような気にでもなるのだろう。しかし、そんな他人の評価をいちいち気にしている場合ではない。確かに、今までの自分たちの教育方法が間違っていたのかもしれないが、それに今の時点で気がついた(気がつくことができた)のだと思い、いっきに軌道修正をはかるべきだ。そして、今までの家族の関係をもう一度見直す機会だと心を大きく持つべきなのである。子供は自分の気持ちを言葉で表現することがうまくできない状態になっている。反抗期などもその一つなのかそれはまだ勉強中だが、今の自分の気持ちを「ムカツク」という乏しい感覚表現でしか表せられない状態であることもわかってあげられる広いふところが大切である。
B 子供の視線に親がたつこと。何か「いかにも」と言った感じではあるが、実はなかなか難しい。子供が暴力で自分の要求を通そうとしていることをどういう原因でそうなったのか、この子の心はいったいどうなっているのかと考える。そして子供が日頃どんな状況で生活しているのかを考え、共感する。親が何気なく言ったことばが、実は子供にとってはプレッシャーに感じていることに気がつく。「がんばれ!!」など。いまで十分いや、限界までがんばっているのにこれ以上どうがんばったらいいんだ!!!と言った具合に。子供は、学校に8時間ぐらいすごし、塾に3時間通ってと非常に長時間労働(?)を強いられているのだ。普通の大人でも8時間労働をしているわけだから、もうすでにがんばっている。そういった状況にも目線を落とせるような大人のこころのゆとりが必要になる。
C 子供に、お金だけでは与えることのできない感動を与える。努力をし、その結果得られる感動というものは、ゲームでステージをクリアした時の感動とは比べ物にならないくらい、いやくらべる価値のまったく違うものである。それは、興味を持ったことによって、自分が努力し、そして少々つらいことを乗り切って得られた感動であり、精神的な満足感を得るものだ。そして、自分はやればできるいう自信が持てるようになるのだ。それは家族や友人同士でもかまはない。山登りや、旅行など普段の日常生活を離れたところにそれを求めたりするのもいいのではないか。
D 学校の教師が…。学校にいる教師同士の関係が今は、昔と比べてよくないらしい。教師同士でも、いやみを言われたとか、陰口、無視、仲間はずれなど重たく、不快な空気が流れている。そんな職員室の空気は、子供にもやはり少なからずつたわっていく。そんな教師に生徒が信頼をおいて話をしたり、相談をもちかけてくるのだろうか? NO!子供は、安心感のある所でしか行動できないと先に述べたように、ここでも同じく興味好奇心を持って行動できないのである。そんな所は子供の精神力の発達を促す学校とは呼べない。そして、子供たちを教師に引き付けるものはやはり「授業」である。そこに、塾でそこをすでに学んだ子供にも興味の持てる、感動する授業がなくてはならないはずである。
E もし、自分のクラスに登校拒否をしている子がいたら…いったいどうしたらいいのだろうか。自分の気持ちが整理できていなく、それを言葉や態度でうまく表現できない状態の友達であることを分かってあげる。そして、やっとその子が登校してきた時に、温かく迎えてあげられる雰囲気を作ってあげられることが必要なのではないか。やはり安心感だと思う。
 日頃、教育を学ぶ際に、個性やら個人の尊重やらと、難しいことを簡単に言ってしまっている。不登校になった子達のことを頭の中に常に入れておくことはできないかもしれないけれども、さまざまな教育問題について考える時、私は不登校のことを頭に入れる余裕ができたと思う。やはり、不登校児の数が増えているということは、それだけ今の子供たちの心の多くに、不登校になりうる素質を持っているのである。自分はかなり、表面的にしか教育の問題をとらえていなかったのだなあと実感した。このゼミ紀要で、教育の深さを知った。
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プロレスから平成の世の中の『ヒーロー』と若者たちを探る
 
教育学科4年 松本 一真
 
 
 みなさんにとっての「ヒーロー」というものはどんなものであろうか?子供時代の男の子であったならば、「○○戦隊」などという特撮やアニメなどの「ヒーローもの」というテレビのジャンルが存在しているので、夢中になった男の子も多いところであろう。
 だがしかし、20歳を越えてもいまだに「ヒーローもの」に夢中になっているわけにもいかないのが現状である。それではわれわれは何を「ヒーロー」にすればいいのか?また、「ヒーロー」の条件とは何か?あるいは本当にわれわれには「ヒーロー」が必要なのであろうか?
 かつてのヒーローといえば、例えば野球選手の長嶋茂雄や映画スターの石原裕次郎のように、全国民にでさえ通用するような絶対的なカリスマ性を持っていた。しかし現代の平成の世の中にそのようなカリスマ性を持っている「国民的ヒーロー」は存在するであろうか?例えばサッカーの中田英寿やアイドルスターの木村拓哉(キムタク)などといったような「スター」は確かに存在する。しかし彼らの名前を情報の伝わりにくい地方のお年寄りに彼らの名前を聞いたところで何人のお年寄りが答えられるだろうか?それでは野球界のトップスター、イチローはどうだろうか、確かに先の二人よりは多少知名度は挙がるかもしれない。しかしイチローは「憧れ」の対象にはなるかもしれないが、果たして「カリスマ」にまでなることができるであろうか。
 「カリスマ」という言葉を「三省堂国語辞典・第三版」(1989年発行)で調べてみると「カリスマ=(名)教祖的、魔力的な指導力(の持ち主)。教祖。」とある。果たして先ほどの三人にはこの「カリスマ」という言葉を当てはめることが出来るであろうか?
 かつて「長嶋茂雄」という存在は間違いなく「カリスマ」であった。その証拠に我々のような長嶋の現役時代のプレーをリアルタイムで見たことがないものでもその名は伝説として残っている。さらに現在その率いる読売ジャイアンツはここ2〜3年で何十億もの大金を費やし、各球団から選手を補強したにも関わらず、優勝に手が届かない。それなのに現場の最高責任者である長嶋を責める言葉は皆無で、むしろ長嶋を責めることはタブーとまでされている。現役を引退して25年たった今でも全国民をこれほどまでに盲目的にさせる長嶋茂雄こそ戦後の日本が生み出した最高の「カリスマ」である。
 それではここで僕の好きなプロレスを例に挙げて話を進めていこう。プロレス界にも「カリスマ」と呼ばれる選手が存在する。アントニオ猪木である。本来のルールでは禁止されているはずの拳での攻撃も猪木の手にかかれば必殺技となり、離婚、愛人問題やその他もろもろの世間から見たら確実にイメージダウンになりそうなスキャンダルをいくら作っても、一度プロレス会場に足を踏み入れれば熱狂的な声援で迎え入れられる。かつて猪木に対して反旗を翻した前田日明が「猪木なら何をやってもいいのか!」と発言したことがあったのだが、この言葉こそまさに猪木の持つカリスマ性を表した言葉である。こうやって見てみると「カリスマ」とは「何をやっても許される存在」であることがわかる。
 しかし現在では世間でもプロレス界でも「カリスマ」という言葉は次第に影が薄くなってきている。現在のプロレス界ではマニアックに深化していったファンが「俺だけのヒーロー」探しに躍起になっている。
 1980年代後半のいわゆる「バブル経済」が完全に崩壊した現在、「個性の時代」ということが盛んに叫ばれている。かつてもてはやされた高学歴・高収入・高身長の「三高」が必ずしも生きていくための武器にはならなくなり、これからの時代は「中身=キャラクター」で勝負するものだ、という時代に一応はなりつつある。プロレスの世界でいうとかつてはチャンピオンこそが最強で、他のレスラーはその引き立て役に過ぎない、という時代から、キャラクターがはっきりしていればどんなに弱いレスラーであってもファンはそのキャラクターを面白がり、支持するようになったのだ。
 現在のプロレス界は40近くの団体が存在し、表現は悪いが文字通り「ピンからキリ」までさまざまな団体が存在する。よほどのプロレスマニアでもない限り決して名前を知らないような団体・レスラーにまでそれぞれのファンがついている。このような若者たちが「俺だけのヒーロー」を求め、それを生み出したのだ。
 「キャラクター」に話を戻すが、「キャラクター」とはあくまでも作られたものであり、自分自身の内面から出てくる「個性」とは全く別のものである。それを現代の若者は「キャラクター=個性」とはき違えてそれぞれが自分自身の「キャラクター」を引き出すことに躍起になっている。
 現在のプロレス界がキャラクター重視になっていることは先に書いたが、それではそのそれぞれのキャラクターがそれぞれのレスラーの個性を引き出しているかといえばそういうわけでもない。その証拠にアントニオ猪木以降「何をやっても許される」レスラーは出現していない。それぞれのレスラーがそれぞれのキャラクターを作りだすことに満足してしまい、そこから一歩踏みだすことが出来ないのだ。本来個性を引き出すはずの「キャラクター」というものが、逆に個人の個性を殺してしまっている。スポーツ界でも芸能界でも強烈なキャラクターを持った人間はいくらでもいる。だがしかしその中の何人がそのような世界で人を引きつける「カリスマ性」にまで通じるような「個性」を持ったものが果たして何人いるであろうか?「キャラクター」と「個性」とはイコールの関係で結ばれているようで実は全く違うものなのだ。
 現在プロレス界には40近くもの団体が存在し、多種多様なプロレスを展開している。ということは40人近くのそれぞれのトップレスラーが存在することになり、キャラクター重視のいわば「薄っぺら」なヒーローが40人近くも存在するわけである。言うなれば「ヒーロー」のひしめき合いなのだ。その中には一般のプロレスファンですらその存在をあまり知ることのないマニアックなヒーロー、いわば「俺たちだけ、俺だけのヒーロー」というヒーローも数多く存在する。むしろそのような「俺だけのヒーロー」の「信者」の方がレスラーとの関係が濃密なだけに熱狂度も高いのである。あの大仁田厚はそうやってファンを増やしてあそこまで知名度を高めたのである。
 しかしよく考えてみると、一つのジャンルに40人近くの「ヒーロー」が存在する、というのはどう考えても以上なのではないだろうか?「ヒーロー」というのは数少ない選ばれた存在であるからこそ「ヒーロー」なのではないだろうか?そのヒーローが40人近くも存在するのが現在のプロレス界である。
 これほどまでに数多くのヒーローが存在するということは、裏を返せば「誰でも簡単にヒーローにならことが出来る」ということである。さらにその簡単になることができるヒーローに「信者」が付くというのもどういうことであろうか。
 先に書いたように、プロレスの世界に限らず、現在の平成の世の中には「カリスマ」にまで到達するような「ヒーロー」は存在していない。イチローも中田英寿もキムタクでさえも「スター」とは呼べても「ヒーロー」と呼ぶにはどこか物足りなさを感じる。「ヒーロー」というのは万人を引きつける「何か」を持っていなければいけないのだ。
 そこでプロレスの世界なのだが、数多く存在する「ヒーロー」を見渡してみても、お世辞にも先の条件を満たした「ヒーロー」は皆無に等しい。それではなぜ彼らは「ヒーロー」になることができたのであろうか。逆に言うと、なぜ現在のプロレスファンは彼らを「ヒーロー」に祭り上げたのであろうか。
 音楽業界を例に挙げると「インディーズ」とよばれる自主制作でCDを作る分野がある。そこにAというアーティストがいて、そのAに熱狂的なファンが付いていたとしよう。ある日Aが大手レコード会社のスカウトの目に留まり、メジャーデビューを果たす。そこで曲がヒットしてAが大ブレイクを果たすとインディーズ時代からのファンは「私の知っているAとは変わってしまった。」とAのファンを「卒業」して新たな第二、第三のAを探し出すのだ。これらのファンに共通して言えることは「反メジャー、反体制」ということだ。インディーズ時代の私だけが知っているAがいい、メジャーになって欲しくない、といういわば「私だけが知っていたい願望」が働きベクトルを内へ内へと向けるのだ。
 音楽業界を例に挙げたが、これはプロレスファンにも同じことが言える。彼らに共通していることは「現在の世間・大衆を信用していない」ということだ。経済不況が続き、政界では私利私欲からの不祥事が相次ぎ、凶悪犯罪もあとをたたない。日本国中が暗く長いトンネルの出口を見つけ出せない状況に陥っている。普段新聞もニュースも見ないと大人たちに思われている現代の若者たちでも今の日本がただならぬ状況の中にあることぐらいとっくに勘づいているのである。そんなひどい世の中の大衆に受け入れられているものなんて信用できない、というのが現代の若者たちをマイナー指向へ走らせる原因である。
 そういった平成の若者たちが「俺だけのヒーロー」を作りだしているのだ。
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