いつまでも甘ったれてんじゃねえ!
 
教育学科4年 遠藤 大輔
 
 
 教育に関する様々なことが問題視され、いわゆる「教育問題」として取り上げられていく中で、基本的に責任を追及され、原因の発端とさせられているのはいわゆるその手の問題の「専門家」達に言わせたところの「子供達を取り巻く環境」すなわち「親」や「教師」に位置する存在が基本である。
 問題の焦点であるべき「子ども」それ自体の存在は、「事例」の中の一要素に過ぎない、と言った考え方が一般に浸透してしまっている。
 無論「子ども」がまだ「子ども」である時代のうちに育て、教育する義務があるのはそう言った子どもを取り巻く環境である親や教師であることは否めない事実だ。問題を起こした子どもが「何故」問題を起こしたのかという原因を追及していけば、自然とその育てた対象者が責任のやり玉に挙げられるのは詮無きことだろう。
 だけど、その問題や病巣の中心であり、「結果」を引き起こした当人であるはずの「子ども」に何の責任も課せられないと考えるのは、ちょっとその「専門家」の方々が過保護過ぎやしないか、と、僕は考えたわけである。
 確かに、例えば銃社会の問題を例に取ってみた時、よく使われる標語に「銃が悪いのではなく、それを使う人間が悪いのである」というもっともな言葉がある。全米ライフル協会のことばか何かだったっけな。
 しかし、そう言った意味での責任の拡大解釈を広げていけば、その人間を取り締まれなかった警察が無能なのであるし、その警察を有する国家も無能だったわけで、その国家を有する世界全体にまで追求の幅は広げられることになってしまう。
 これと同じ事が教育問題にも言える。
 子ども達を取り巻いた親や教師達にも確かに原因や責任は存在するのだろうが、それらは決して問題の発端ではなく、更にそれらを取り囲む一つ上の責任階層が存在する。無論、更にその上の要素にもそれらを作り上げた環境は存在するわけで、最終的な責任の追及はこの場合堂々巡りにしかならないのだ。
 その上、「銃」は無機質な物であるが、少なくとも問題を起こした当人の「子ども」は基本的に自我と自由意志を持っているのである。そこに責任がないのだと考えるのは明らかにおかしい。周りを取り囲む環境である親、教師にも確かに責任の一端は担わねばならない現実はある。しかし、間違いなく当事者である「子ども」には、それ以上の原因と責任が存在するのだ、と言うことを失念してはならないと思うのだ。
 特に、最近の子ども達は、「親や教師にこそ問題があるのだ」と言うことを、大して自分で考えもせずに「知識」として知ってしまっている。その上で問題を起こしているのだとすれば、これはもはや確信犯である。
 そして、その原因は多分に自称「専門家」の方々が子どもの見ている公の場で親が悪い教師が悪いと声高々に触れ回ったからに他ならない。明確で具体的な解決策も提示しないまま、いたずらに先走って情報だけを、しかも不安を煽るように公開して、多くの問題を生み出す起因となりつつその問題についてはほったらかし、では、いかんせんその自称「専門家」の方々の失策でしかないと言わざるを得ない。
 
 そう、そしてそれはこの事だけに限ったことではない。
 情報の氾濫するこの社会では、子ども達は大抵の情報は本人の望む望まないに関わらず、入手できてしまうのだ。しかも、その入手に何の苦労も疑問も抱かないから、よく考えずにその単語を使ってしまう。都合の良いように解釈して使ってしまうのだ。
 僕は、「最近の若い人は……」といった言い方は大嫌いだ。
 その理由はちゃんとあって、この世には、対象を決してけなすことが許されない人間関係が、三つ、存在すると僕は考えている。
 「親」が「子供」をけなすこと、「教師」が「生徒」をけなすこと、そして上の世代の人間が下の世代の人間をけなすこと、この三つである。
 それは、それまでの自分がいかに怠惰な生活を送りながらその者達と関わってきたかという自分の無力さを再確認するだけの行為でしかないと思うからだ。
 そんなわけで余り使いたくないのだが、敢えて使わせて貰うとすると、最近の子ども達には何が足りないのだろうとかを考えてみた。
 はっきり言って、最近の子ども達には「思考力」「判断力」「注意力」が欠けているように思えて仕方がない。その変わりに発達している物と言えば、自己を正当化する能力と、物事を楽観視する能力である。
 一つの事柄に関して、深く考えない。それが自分に危害を加え、自らの不利益になることでない限りはそのことについて深く思案したり思索したりすることはほとんどない。仮にそれが自らの不利益につながるとしても、「そのこと」についてさえも深くは考えない、なるようになるさという、ある種極めたとすら言える楽観主義は、自分一人で生きていく分には大変よろしいかもしれないが、周りの人間と共同生活しなければならない空間上においては迷惑千万以外の何者でもない。
 「今が良けりゃいーじゃん」というのが、メディア上で良く引き合いに出される典型的な頭悪そーな若者の常套文句だが、それ自体は突き詰めていけば、個人的には僕は嫌いな考え方じゃない。
 未来のために現在を犠牲にすることは、必ずしも正しいとは僕は思わない。今までの世の中はそれで通ってきたのかもしれないけれど、これからの世の中でそうした「保険」を優先して生きる方法が、果たして幸福に生きる方法につながる物なのだろうか、疑問なのである。美味しい物を最後まで取って置いて食べ損ねるような、そんな人生はまっぴらなのだ。
 だが、最近の若者達はそう言った明確なビジョンを打ち出して「今が良けりゃいーじゃん」 と言う言葉を口にしているようにはとても思えないのが現状なのだ。彼ら彼女らは、ただ単純に楽な現状を楽なままで維持したいだけだ。その先に何のヴィジョンもありはしない。
 あるいは、それすらも本当にそう考えているのかすら疑わしい。ただ、周りの同世代の者達がそう言った便利な言葉で、しかもこのだらしない世の中においては奇妙に高い説得力まで持ってしまっている言葉で自分を表現しているから、自分も使ってみようと、ただそれだけの理由で周りに流されている可能性すらある。
 僕には、そう言った若者達が自分の意志と考えでどこまで物事を考えているのかが全く計り知れない。身も蓋もない言い方をすれば、考えていないようにしか見えない。それも、意図的に考えることを避けているのではなく、思い、考えることすら面倒に思っているように思えてならない。
 行動や言動の全てににじみ出ている、隠しようもない怠惰感、それが今の若者を象徴する全てだと思っている。
 
 そう言ったことを全てふまえた上で、若者達の言い分を聞いていると、これはもう世の中ナメた甘ったれ以外の何者でもないように思えてくるのだ。
 例えば、ゼミの中で、僕が扱ったテーマの際に、登校拒否について肯定的な現役中高生の意見を羅列した資料があった。
 その中に、本心から自分の意見を言っていた者がどれだけあったか。先に挙げた自称専門家のマスコミを通した意見で、それに踊らされていない者がどれだけいたと言えるか。
 自分らしく生きることと、自分勝手に生きることは、同じ様でいて明確に性質の異なるものだ。本当に自分らしく生きていたいと自分で考え、今の生活に疑問を感じたので有れば、他にいくらでも可能性は有るかもしれないはずなのだ。
 ただ単に「自分にとって」辛い「今」から逃げ出したいだけの理由で、自分を変えるために努力するではなく周りを変えようとするというのはどうだろう。それが本当に正しい行動ならば、もっともっと世間の支持を得られているはずだし、過去もそうであったはずなのだ。
 それがないのは、明らかに年季の入った「大人」側から見れば、それが極一個人の個人的な希望によって起こった甘ったれた理由によって行われた行動だと認識されるからだ。違うか。
 これは僕が教育学科関連のレポートの色々なところで口にしている言葉だが、社会的秩序の遵守と個人的な自由の尊重は相反する位置に存在するものだ。どちらかを優遇すれば、どちらかはその分必ず抑圧される。そのバランスを取り、もっとも万人に取って満足できる状態に近づけるように努力することこそが、人類の取るべき道であると僕は考えている。
 社会的秩序にせよ、個人の自由の尊重にせよ、その片方しか主張しないような人間の行動は所詮間違っている。
 そのバランスが、どうしようもないところまで崩れ、本当に社会的秩序の遵守が個人の自由の尊重を根底から脅かすような事態になれば、その修正はそのエリアの人類全体によって自然に修正に向かうはずだ。そのことは歴史が既に証明しているだろう。
 学校に通いながら自らの個性を生かすように生きることなど、自分で努力すれば造作もないことだ。学校ごときの抑圧で消えてしまうような個性なら、社会に出たところで社会の波に飲まれて摩耗し、消え去ってしまうだけだ。
 それでも、高校を自分の意志で中退して、社会人としてやっていけるのならまだ良い方だ。問題は登校拒否。
 個人の自由の尊重を重視するあまりにわがままな行動に走ったものになど、かけてやる言葉はみつからない。これは本当に、甘ったれと言うしかない。そのものにとっては、たかが学校で自分に居場所もないと言う程度のことが、これまでの一生の中でもっとも辛く厳しい出来事なのだろう。甘ったれと言うほか無い。
 賭けてもいいが、例えば家が貧しくて、いつも食べるのに精一杯で、苦労いっぱいで育ってきた様な子なら、そんな甘ったれた理由で中退するならともかく登校拒否になるなど、鼻で笑ってくれるだろう。
 登校拒否とは、「今」の状態がイヤだから行かないのに過ぎない。いつか「今」とは違う状態の「今」になってくれることを他力本願に願って、自分は何もせずに待っている状態に過ぎない。
 無論、待っているだけでも心苦しいのだろう。辛いだろう。本来なら行ける場所、本来なら行かなくてはならない場所に行けない苦しみやもどかしさはあるだろうさ。だが、そんな苦しみでは、自らの周りの環境が変化する代償には、とてもならない。自ら行動し、動き出すような、それが辛いことならば尚更、自分で歩まなければ周りは変わってくれない。変わるわけがない。
 個人的な精神の強さの差はもちろんあるから、どうしても自分だけではそれが出来ない子もいるだろう。そんな子こそ、教師や親がそっと後押ししてあげればいいのだ。援助して挙げればいいのだ。
 それ以上のことはする必要がないし、すべきでもない。自分から何もできない者のために、何もしようとしない者のために、周りが「変わってあげる」必要などどこにもない。それは先に述べた個人的自由の尊重が、社会的秩序の遵守を必要以上に上回ってしまった状態だ。そして、バカの一つ覚えみたいに何も考えずにそんな状態を望んでいる若者達が「学校を変えよう」の大合唱だ。本気で学校を変えたいと思っているなら教師でも何でもなるべきだ。それでダメだと思うなら、猛勉強して偉くなって、文部省にでも勤めるべきだ。そこまで頑張る努力もしないで、頑張ろうとすらしないで、ただ世論に任せて自分たちに都合が良くなるように学校が変わっていくことを期待しているなんて、甘ちゃん以外の何者でもない。
 仮に彼らの言う学校側の締め付けが度を過ぎている事が正しい意見だとして、それが原因でそれほど型にはまった生徒が増えているのだろうか。学校にちゃんと通っている生徒達は、みんな大人の言いなりになる無個性な人形だろうか。違うだろう。
 むしろ手も着けられないほどワガママで、「今が良ければそれでいーじゃん」とか言って、やりたいように人生生きているんじゃないのか。僕は、今以上に学校側が規制をゆるめるのは、むしろ危険だとすら思える。
「そう言う子達こそが学校の規制に縛られずに生きている者達だ」と主張するなら、なおのことこれ以上規制をゆるめることはそう言う連中を増やすことにしかならないだろう。これ以上無気力で自堕落で怠惰感溢れた何も考えたくない人種の若者が増えることを、彼らは望んでいるのか?まさかそんな現状を知らないなどとは言わせない。
 今の若者達に自由意志のみを与えたところで、個性豊かな実りある人生を送れる豊かな大人になってくれるとは、とても思えないのは僕だけじゃないだろう。
 
 そんな若者達を作り出してしまった原因は、確かに親・教師をはじめとする大人達の責任も多いのだろう。しかし、彼ら若者が犯した犯罪は、彼ら若者を裁くべきだ。楽しんで人を傷つけ、痛めつけ、盗み、殺して心が痛まないような輩など、未成年として扱う必要はもはや無いと思うのだが。
 そんな連中はそれこそ、逮捕されれば名前と顔が出るような歳になるまでは塀の中に入っていて貰うべきだ。少年法の存在の根元が若者の「更正」にあるならば、大人になってから更正させたところで不都合はあるまい。
戻る
 
 
 
子どもたちの「自由」−過剰と貧困
 
教育学科4年 井上 敦
 
 
 わたしたちには生まれながらにして自由に生きる権利を与えられている。これは他者の自由を害さない限り、だれにでも平等に与えられているものであるのだ。この権利はちゃんと憲法にも記載されていて、だれにも犯すことのできないものとして保証されているのである。しかしながら、今の自由というものは非常に歪んでいるように思える。そのことは青年達の間でとても顕著にあらわれている現象ではないか。だれにも迷惑をかけなければ、だれにもばれなければ何をしても許されるという考えがあるように思えるのである。これは自由と呼べるようなものであるのであろうか。それともこれが今の青年の自由というものの在り方なのであろうか。その点を踏まえつつ自由についての考察を進めていきたい。
 今、未成年のタバコが当たり前になっている。彼らにしてみれば別に悪いことをしているという意識はない。しかし、これに対する抑止力というのは微々たるものである。学校の先生かお巡りさんぐらいしか存在しないのである。後の人間はそれを止めようとはしない。そのため、この状況はほぼ黙認状態である。その中で未成年たちはタバコを吸う権利を得たかのような顔をして吸う。あたかもタバコを吸う自由を得たかのように。しかし、考えてみると、これは非常におかしなことである。というのは憲法の中に未成年の喫煙を認めるという条項はない。これは確実に憲法違反なのである。にもかかわらず、未成年の喫煙は増えるばかりである。しかし、別の角度から考えてみると、未成年が喫煙していたとしてもだれの自由を侵害する訳ではない。だれにも迷惑をかけていないのである。あえて迷惑をかけている人をあげるとすれば、嫌煙家と掃除屋さんぐらいであろう。このように考えるとたとえ未成年が喫煙したとしても、だれの自由を踏みにじるということはあり得ない。いや、むしろタバコ産業に寄与しているということで表彰してもいいくらいである。憲法違反ということに目をつぶればたい して悪くもないことなのである。未成年にしてみれば「そんなの俺の勝手じゃねえか」「俺の自由だろ」という主張が出てくる訳である。いっそのことタバコを吸う自由なるものを未成年に提供していいのではないかとすら思ってしまう。あれだけ堂々とタバコを吸われた日にはやはりそれが当然のように思われるのである。だから、わたしはタバコを吸うことにはあえて反対はしない。吸うんだったら勝手に吸ってくれという感じである。
 しかし、未成年があれだけ堂々とタバコを吸っていいものであろうか。別に吸うなといっている訳ではない。堂々というところに問題があるのである。未成年のころからタバコを吸っていた知人は「今、堂々と吸ってるタバコもうまいけど、高校のころ便所で隠れて吸ったタバコはうまかったよな」というようなコメントを残している。本来、未成年のタバコというのは悪いことであったはずである。悪いことほど隠れてやることがおもしろい。なぜならやばいことをしているというスリルと周りの目を盗んでやったという達成感・満足感が味わえるからだ。周りの目を気にしつつも悪いことをやる。そこにこそ悪いことをするという醍醐味があったはずなのである。なのに、今の未成年たちのタバコの吸い方にはそんな楽しみがない。誰にもとがめられないかわりに、見つかったらいけないというスリルを味わうこともない。こんな状況の中でエラソーにタバコを吸っていてもカッコよくともなんともない。悪いことをしてカッコよく見えるのはしちゃいけないことをしているという危うさがあるからこそカッコよく見えるのである。しかし、何の危険のないような状況の中でヌクヌクしつつもタバコを吸っ てカッコつけようとしても決まるわけがない。そんなのは全く格好よくないのである。ダサいだけなのである。未成年がエラソーにタバコを吸っているが、別に彼らが偉くなった訳でもなんでもない。ましてや、タバコを吸う自由を得たわけではない。ただ、何がしていいことなのか、何がしてはいけないことなのかという基準がなくなってしまっているだけなのである。しかし、彼らはそんなことにおかまいなしに自由にタバコを吸うのである。
 長々とタバコの話をしてきたが、ここではタバコのことを問題視しようというのではない。喫煙という行為から見えてくるものがある。「そんなの俺の勝手だろ」という一文を見てみよう。この一文から抜き出した「勝手」という言葉は簡単に置き換えがきく。「勝手」という言葉を「自由」とも置き換えることができるのである。そして、実際この「自由」という意味合いで「勝手」という言葉を使っているのである。そして、いまこういった種類の自由が青年の中で氾濫しているのである。援助交際している女子高生が「アタシが体売ってなにが悪いの。そんなのアタシの自由じゃない」と言っていたり、麻薬は悪いものだと分かっていながら、個人の自由であると答える男子高校生がいたりと何でも自由に結び付けて考えるところがある。何でこんなことを平気で自由であると答えられる青年たちが増えてきたのか。これには一応の答えはある。昔にあって今にないもの。それは道徳である。この道徳の有無が青年たちに大きな影響を与えているのである。
 道徳の有無?道徳はあるに決まっているじゃないかという人がいるかもしれない。しかし、宮台真司によれば、現代は道徳消失の時代であると言っている。その宮台の言葉を借りれば道徳とは「世間様が悪いというものは理由なく悪い」という有無を言わせぬ「世間的な道徳」である。世間のまなざしによる縛りをふるまいの方向づけとして利用する作法であった。そして、この道徳は共同体の中にあってはじめて力を発揮するものであった。始めは地域共同体に、都市化が進めば会社共同体にというふうに共同体の中を移り変わって生きてきたのが道徳であったのだ。しかし、今や共同体は解体されていく。その中で生きてきて引き継がれてきた道徳も当然のように解体されていくのである。共同体はどんどん小さなグループになっていき、その中で道徳も小さな内輪のものに変わっていってしまうのである。そしていつしか道徳は内輪でしか通用しないようなチンケなものに変わっていってしまったのである。そこにはもはや世間のまなざしと呼べるようなものは存在しない。道徳は人間と人間のつながりの中で一緒に生きていくうえでのマナーを指し示してくれるものであったのが、人間と人間とのつな がりがなくなり、ほかの人間と一緒に生きていくということすら感じさせない現代では道徳など必要なくなってしまっているのである。
 だからといって、道徳の消失がどのように青年の自由を広げているのであろうか。道徳は少なくとも社会の規範として存在していたものである。しかし、これがなくなってしまった。これで困るのはだれであろう。間違いなく大人であろう。大人というのは本来子どもの抑止力としての部分を兼ね備えていたはずである。抑止力として動くときには必ずといっていいほど道徳を使っていたわけである。ところが、道徳の消失によって子どもの抑止力として立ちはだかることができなくなってしまったわけである。大人ですら、子どものしていることが悪いことなのか判断つきかねるからである。はっきりこれは悪いということができない状況ができあがっているのである。大人は無力化してしまった。そして、そんな状況につけこんで青年たちは自由を拡大させていっているのである。
 無力化していった大人たちを尻目に青年たちは自由を行使する。しかし、これは自由と呼べるような代物だろうか。いや、自由とは言い難いものであろう。むしろ、自分勝手であるということを否めないものであろう。青年たちの自由というものはありとあらゆるものを無視することによって成り立っているものであるからだ。自分たちの周りにあるものの存在を認めてその中で発揮するような自由ではないのである。あくまでほかの人達の自由を踏み台にして成り立っているものなのだ。こういった性質ではとても自由とは言えない。自由とは相手の権利を認めて初めて成立するものであるからだ。別にいまさら道徳が必要だなどというつもりはまるでない。どうせ道徳など今の時代に会うような性質のものではないからだ。ただ、道徳が消えたからといって、傍若無人な振る舞いをしていいものであろうか。確かに絶対的規範が消えてしまい、人の行動を規制するものがなくなってしまった。しかし、その規範の崩壊の中で好き放題やるのはいかがなものであろうか。
 今時の青年の主張する自由というのは何かしらか理不尽さを兼ね備えているように思えるのである。道徳の消失の中で、してはいけないとされることを平気でやってしまう部分が見えてくるのである。それでは彼らには一切のルールというものは存在しないのであろうか。実際何のルールも無さそうな彼らにも一応のルールは存在するのである。ルールは確かに存在はしている。しかし、そのルールはあくまで自分本位ものであり、同じようなことをしている人との比較でしかない。「あいつはこんなことしてるから俺もいいだろう」や「あいつはここまでやっているが、俺はそこまではやっていないからいい」というような非常なあいまいな部分が存在していることは確実である。そこには自分で決めたという意志が感じられない。他人が基準であって、自分の中の基準などは存在しないのである。他人と比較してそれが他人のしていることよりもひどくなければそれでよくなってしまうのである。しかし、他人のしていることを基準にしているような状況が果たして自由などと呼べるのであろうか。
 自由とは一体どんなものであろうか。何でもしていい権利なのであろうか。自分さえよければいいものなのであろうか。そんなものでは決してありはしない。自由に生きるということはだれにでも平等に与えられた権利である。それは不可侵の権利である。相手の権利を妨害してもいけないものである。そして、自由に生きるということには大前提がある。それはきちんとルールを守るということである。ルールがあるからこそ、自由という権利は生きてくるものなのである。ルールを無視した自由など自由に値しないのである。そんなことをいっても今の時代には道徳というルールは存在しないではないかという声が上がるかもしれない。だからこそ、人間の自我の力を育てていくことが必要になるのではないか。また、自我を育てないことには自由を使いこなせないであろう。自由に生きるということは大変なことである。自分でいろいろなことを選択し、そして決定しなければならない。これは案外簡単なことのようでいて実は非常に難しいことなのである。もし、その選択を誤れば、後悔するのは自分でありだれも責めることはできないのである。だから非常に悩まなくてはいけない。どうすれば最善 の手になるか自分で考えなくてはならないのである。進学するときにこういった悩みは出てくる。自分は働きたいと思っていても周りが進学するから自分もしておいた方がいいのかななどという悩みはだれにでもあったであろう。自由に生きていくということの中ではこのように選択を迫られることが数多くあるのである。そして、自分で考え決定していかなければならない。自由に生きていくということは楽そうに見えて実は非常に大変なことなのである。自由に生きていくということには当然多くの制約が設けられるものなのである。青年たちのように何の制約もなく好き勝手にやることが自由のなるのかといってもそれは違うのである。自由に生きるということはしていいことの選択肢が増えると同時に、してはいけないことも増えていくものなのである。自由に生きるということは自分の行動の幅を広げるのと同時に自分の行動を自ら制約しなければならないものなのである。自分のしたいことができるのが自由なのではないのである。自分のしていいこと、悪いことを判断したうえで行動を選択して決定するのが自由というものではないか。自分の好き勝手なことばかりを選んでいくのが自由ではないは ずである。自分では何も考えずに周りの人間に流されて生きていくのもとても楽な生き方である。みんながしているからなどという理由で好き放題やるのはどうかと思う。周りの人間に合わせて生きているということは自分に意志がないですよと言い触らしているようなものではないか。そんな生き方はとてもカッコよくは見えない。カッコイイやつってのは確固たる自分をもっている人のこというのだと思うのである。確固たる自分をもつには当然自我が必要である。そういった自我をもってこそ自由に生きることができるのである。逆にいえば、自我をもつことなしに自由に生きることなどで着なしないのである。
 青年たちは自由の中で生きている。彼らの自由は広がっていった。道徳というルールの消失によって広がっている青年たちの自由。何がいいのか悪いのか分からないままに自由が青年たちに過剰に与えられる。大人たちが何もできない中で、である。しかし、青年たちは自由を使いこなせないでいる。周りの人間に流され、周りの人間を同じようなことをやることだけ覚え、自分で何がいいのか悪いのかを判断できないでいる。どうして、そのような事態になってしまうのか。そこには自我の弱さという問題を内包しているような思えるのである。過剰な自由と自我の貧困。これは非常にまずい事態ではないか。わたしたちは自由を生まれながらにしてもっていて、それがまた当然のように思っていてその有り難みを忘れつつあるのではないか。一度自由について真剣に考える必要があるのではないか。自由とは貴いものである。だからこそ、人間は命を懸けてまでこれを得る戦いをしてきたのだ。わたしたちの自由がどんなものか考えてみることは大切なことだと思うのである。
戻る
 
 
 
『第1回高校中退問題』−パンチラ編−
 
教育学科3年 秋田 龍則
 
 
 「かつての非行・問題行動は、どの子か特定できたし、大人の側は、予測が可能であり、防止することも立て直すこともそれほど難しいことではなかった。しかし、今日の“新しい荒れ”は...」(’98,12,25週刊読書人・尾木直樹)
 今日の直面している問題に対し、よく使われる言い回しである。しかし、かつての非行・問題行動に対し、きっちりと解決した例があるだろうか。僕は、大人は子供の非行・問題行動に対し、正しい処置をしてこなかったと思う子供が暴力を振るい出せば、教師は管理を強める。というような<力と力>の論理から誰も解放されていないように思える。今日、皆が口をそろえて、子供が見えなくなったという。だが、大人と子供の隔離は、まったく“新しい荒れ”ではなく、単に、放っておいた傷口が広がっただけであると思う。
 ’98年度の高校中退者は11万1491人で総生徒比率で2.6%の過去最高となった。過去17年間、平均して2%強の中退率の数字は何も解決していない現状の一例を示してくれている。(表1)
 
 高校中退の事由別推移(’85年度→’98年度)によると「学業不振」は、14.0%→7.1%と減少、「進路変更」は、26.5%→40.8%と上昇、「学校生活・学業不適応」は26.6%→33.4%と上昇、’98年度において、「進路変更」と「学校生活・学業不適応」の事由で実に7割強占めている。しかし、この事由別の振り分けでは本当の高校中退の実情を知ることはできない。なぜなら、高校中退の問題は、個人の努力や能力の問題ではなく、多分に<高校進学制度>という構造的問題と管理主義の問題であるからだ。
 
<古傷>
 1984年度全国高校中退者数10万9160人(2.2%)。神奈川県公立全日制高校中退者は2329人。うち、神奈川県立磯子高校では140名の退学者を出した。総生徒比率で9%弱にあたるこの数字の異常事態を調査した金賛汀さん(著『追跡高校中退』)は3つの点に注目した。@中退者がいわゆる「底辺校」に集中すること。Aその「底辺校」の存在を必要にする<高校進学制度>という問題。Bそして、直接的に、中退者を生む根本的な原因としての<管理教育>の問題である。先に示した「事由」が高校中退の実情を知る糸口となるのは、平均して2クラスに1人が中退するという単純な計算が及ぶ範囲であると思う。しかし、現実は“中退者は「底辺校」に集中する”わけで個人的解明ではなく、社会的解明が急がれるべきだったのだと思う。
 
<制度と主義>
 1960年ごろから爆発した進学率の急激な上昇は、’74、’75年ごろに落ちつき出した。(表2)その最中、受験競争は激化し、選抜試験が常態となる。こうした状況のもと、「希望するものはすべて公立高校に」をスローガンに高校全入運動が全国展開される。(注1)そして、’85年ごろには、すでに、高学歴化は社会に定着している。この20年間ぐらいの劇的な状況のもと、中退者は一定の数字を保っている。
 80年代の学歴社会は、中卒という学歴は、ほとんど無視される。(表3・4)中卒か高卒か大卒かという序列的な格差から、「良い高校から良い大学へ」というように、高校間・大学間での水平的な格差が、すでに生まれている。だから、高校進学率が90%超えようとも、競争、選抜試験は強化される一方で、親・子供は、それを否定できなくなり、社会的に正当化されていくことになる。そうして、磯子高校のような「底辺校」は、学歴社会の必要悪として存在することになる。
 
 さて、高校中退の話にもどると、高学歴化の定着した社会において、中退者が集中する底辺校ほど、入学時の競争倍率が比較的高いという矛盾がある。’84年度、神奈川県立公立全日制課程176校での退学者数は2329人。うち、738人が上位10校でしめられている。(表5・6)そして、入学時の競争倍率では、磯子の1.5倍、B校の1.84倍、C校の1.90倍、と異常な数字の高さが出ている。職業科の場合、細かい数字は抜いて、退学者数上位4校の競争倍率は2倍程度となっている。例として、東京大学などに多くの生徒を送り出している公立有名校での競争率は、1.05倍なのである。
 80年代では、中学校での高校への受験指導は徹底されていてスキがない。(注2)生徒達は、行きたい高校を受験するのではなく、行ける高校を選択するようになる。受験指導部の中学教師をして「間違って落ちることはあっても、間違って受かることはない」と言わしめるほどだ。’84年度中に公立高校全日制課程を中退した生徒のうち5443人について、文部省が追跡調査をしたところ、入学した高校が「あまり希望通りではなかった」24.3%、「希望通りではなかった」32.2%、と偏差値による振り分けによっての不本意入学が中退者数約11万人という数字に一役かっている事実は、見逃してはならない一面でもある。
 しかし、<高校進学制度>という構造的問題は、実は中退者が底辺校に集中し、中退していくそのものの直接的な原因と考えるべきではない。なぜなら、それは、制度の問題だからである。たとえ、教育制度が矛盾に満ちていようとも、その与えられた制度の中で、何かできることをするのが教師の仕事だからである。ここで、金さんは管理教育に目を向けた。中学での体罰、高校での退学処分という一筋の流れに注目した。確かに、管理主義というのは制度ではない。教師自身のひとりよがりの主義主張でしかない。なぜ、管理は生まれ、必要とされてきたのか。管理をなくせば、問題は解決するのか。そもそも管理はなくせるのか。少し考えてみたいと思う。
 
<少し考える>
 金さんが指摘した管理システムは、中学校で体罰−高校で退学という流れだ。事実、磯子高校において、中学時代、体罰を受けた生徒は少なくない。(表7)
 
 この表からわかるように、80%以上が、中学時代に体罰を受けている。金さんは中学校時代の体罰の弊害をおおまかに2つ挙げている。@体罰がなければ、生徒は自分の行動を抑制することができない、自分で考えて行動することができない、そのため、生徒の自党・自立が失われる。A「管理」や「体罰」を否定しない体質が作られ、人権意識の希薄な社会へとなる危惧、である。
 例えば、「管理」され「体罰」で抑圧される状況が教育であると思いこんでいる“つっぱり”たちは高校に入ってそこから解放されたとき、「解放」の意味が理解できずに突っ走ってしまった。それこそしていいことと悪いことの判断もできないまま行動しているうちに、気がついたら中途退学者になっていたというわけである。
 さて、少し考えます。僕が参考にした「高校中退」という本。実はこれ’86年もの。この時機、「管理」「競争」または、「いじめ」をキーワードに学校批判がトレンドだった。高校中退をテーマに、個人的解明ではなく、社会的解明に目を向けたのはよかったが、結局は管理主義という教師自身の個人的責任を弾劾したにすぎない。管理はそれ自体、制度ではなく、主義でしかないので、本当の意味で高校中退問題に対し、社会的解明は行われていない。社会的解明と言いながら単なる学校批判で終わらせてしまう論調は何も’80年代に代表されるばかりではない。古今東西、僕らの課題であるように思える。「管理」に関しては、なぜ「管理」しなければならないか考える必要がある。「指導」と「管理」の違いとは何か?
 しかし、「管理教育」の社会的解明をしたところで、高校中退問題は解決されない。なぜなら、「管理」を原因に高校中退者が増加しても何ら「問題」ではないからだ。本当の「問題」は、退学者の数そのものが増えれば問題視されることにあると思う。例えば、高校中退者が全国で10万人、20万人出ようが、社会基盤がしっかりしていれば、数字そのものは問題にならないのである。社会的解明をするという作業は、原因を追究することに留からず、責任を誰がどうやって追うべきかをも含まれるべきである。しかし、現在、高校中退者数が問題になるのは、それを受け入れる、社会的基盤が危弱なためであって、社会的解明に、いまだ誰も重い腰をあげない何よりもの証拠だ。
 
<未来予想図>
 これから、学校において「管理」は強まるだろう。いや、子供達にとって、強く感じるだけかもしれない。家庭での「しつけ」の低下は必然と学校での「管理」を必要としなければならないからだ。社会は「管理」する一面と、「甘え」を許容する一面を持っている。家庭でしつけを受けなかった子供は、甘ったれだが、社会を生きようと思えば生きていける。しかし、みんながみんな、甘ったれな子供で、そいつらが大人になって、社会が「甘え」で満タンになるのに、社会の形成は望めない。誰もがそんなこと望まない。だから「管理」は必要になる。学校の「管理」からのドロップアウトは増えると思う。だから、僕らは、学校以外の居場所を作らなければならない。しかし、「管理」から逃れてきた生徒に対し、「管理」をなくして付き合えばいいかといえば、そうでもない。そんな簡単ではない。人間は平等にできていない。安易に居場所を作ってあげればそれでいいはずがない。学校にも同じ事がいえる。実に、安易な居場所だと、居場所の中で問題がおきると、違う居場所を子供に用意する。そして、子供達に対し、無関心になっていく。問題がおこると関心を示す。そんな一般大衆の意識の変 革が最も重大な問題だ。
 そのためには、もっと子供をさらけ出すべきだ。子供が何か悪さしても、誰の責任か問えないくらいさらけ出せ。パンチラが気になるのはスカートをはいているからだ。もっとさらけ出せ!コノヤロー!!
                               以上!!!
 
(注1)秋田くんに直接きいてください。
(注2)秋田くんに直接きいてください。
戻る
 
 
 
 
現代の子どもに関わっていくということ
 
教育学科4年 佐藤 真一郎
 
 
 小学校・中学校の教室で、子どもが授業中に立ち歩く、騒ぐ、パニックを起こす、教師の注意にも耳を傾けない、授業が成立しなくなってきた、いわゆる「学級崩壊」がいわれて久しい。「学級崩壊」という言葉は、元々はマスコミから生まれた言葉であり、文部省はこのように形容されることを遺憾であるとしてきたが、最近では、認めざるを得ないような状況が生まれてきている。なかなか私たちには実感しづらいのであるが、それだけ、現場における子どもの「荒れ」が顕著になってきているということであろう。
 「荒れる」ということは、子どもたちが何らかの苦しみや、いらだちを抱いているということであるが、そのような状況において、子どもたちと接していかなくてはならない教師たちもまた、悩みの渦中にいる。教師が、ストレスから体調を壊したり、登校拒否に陥る例も現れているのだという。
 
1.現在の子どもたち
 
 学校が荒れるといえば、これまでは一部の「不良」と呼ばれる子どもたちによるものがいわれたが、現在の「荒れ」は、一部の子どもではなく、「普通の子」によるものであるから問題が複雑化する。今日の子どもたちが生きる社会・文化の諸条件を見てみることにする。
 
・学校の吸引力
 これまでの子どもたちの「荒れ」は、ごくおおざっぱに言えば、受験競争からはじき出されたこと、「落ちこぼれ」ることが原因となって、自己存在を不安定にしたものであると考えられる。裏を返せば、それだけ学校社会への強い囚われがあったということであるが、最近では、その学校そのものの吸引力の低下が指摘されている。元来、公教育は、高度産業社会の形成をめざして導入されたものであり、目標が現実となった今日、学校の持つ聖性自体が失われているのだ、というのである*1。受験圧力がなくなったとは思えないが、最近の不況、就職難も手伝ってか、高学歴神話は崩れつつあり、必死になってがんばるよりも、適当にやって今を楽しんだ方がいい、という発想が子ども・若者たちの間で広がってきていることも事実であるように思える。つまり、「落ちこぼれ」る不安から「荒れる」というよりも、する意味の分からなくなってきた勉強・授業が、机に座らせておくだけの強制力を持ち得なくなったという側面が、多かれ少なかれ考えられるということである。
・親の世代
 子どもがパニックになるという場合、その根底に親からの愛情不足などが原因の自己存在に対する不安があると考えられる。現在の子どもの親たちの多くは、1960年代以降に生まれた世代であるが、俗に「新人類世代」と呼ばれ、彼らは少年・青年期をすでに今日の消費・情報化社会の骨格ができあがっていた社会で過ごしてきたことになる。モラトリアム傾向は、自明のものとなり、さらに、これまでの世代には理解できないような個人主義的な行動様式を持ち始めた。
 彼らが少年期を過ごした70年代は、子どもの「発達の危機」が叫ばれ、学校においても、業者テストが導入されるなど、受験圧力が急速に高まった時代でもあり、その結果、初めて「落ちこぼれ」という言葉が使われるようになったほか、「非行」は戦後の第三のピークを生み出した。子どもたちが労働から解放され、サブカルチャーが勃興するなど、子どもたちの生活世界が変容したのもこの時期であった。現在いわれる「教育問題」のほとんどが、この時期にその原型をあらわしたといっていい。
 現在の子どもたちがこのような世代の子どもたちであることは認識しておく必要があるように思う。親たちの世代が、自分たちの成長期にのしかかっていた問題性をどのように克服しようとしてきたのかが、子どもとの愛情関係にも反映されてきているはずである。
・消費社会の子どもたち
 一方、今日を生きる子どもたちは、成熟しきった情報化・消費化社会のただ中で生きている。子どもたちは、メディアによって作られる極度に大衆化され均質化された文化世界を生きていくスタイルに習熟し、そうせざるをえない状況をつくられている。その文化世界の住人として生きているということが、彼らにとって「イケてる」条件となり、「イケてない」自分を認めることは、自分の居場所を失うこととなるから、情報・消費化社会から供給される文化にしがみつくことになる。そのため、本当の自分らしさは文化のなかに埋没してしまう。
 人間関係も、お互いに文化世界以外のプライベートな領域までは踏み込まないものとなる。その臆病さは、自分が傷つかないためのネガティブな「やさしさ」へと転化されている。
 
2.子どもたちと関わるということ
 
・子どもと大人という関係を越えて
 現在の子どもたちの状況を見ると、「やさしい関係」はその親たちの世代の個人主義を強化した形で進行させたもののように思えるし、そのモラトリアム的な状況も引き継いでいるように感じられる。それは、大人たちが自分たちの課題に向き合わずに先延ばしにしてきたということなのではないだろうか。「親の世代」は、激化した競争社会の矛盾を体で感じたはしりの世代であった。しかし、お祭り騒ぎのようなバブル景気と、問題から逃げることを容認する新自由主義の流れのなかで、新しい社会のあり方を真剣に考える機会を意図的に逃してきたのではないだろうか。そのツケが、バブルがはじけ、受験神話が崩壊した今、子どもたちに突きつけられているのだと思う。したがって、子どもたちを同じ課題を共有する、同時代を生きる仲間としての敬意を持ち、共に模索していく姿勢が求められているのだといえる。
・どのように向き合うのか 
 今の子どもたち(若者)の文化世界は、楽しさ、ノリの良さが、場の雰囲気を構成するキーワードであるから、「まじめ」な話題が出ることを好まない。無理強いしても「やさしさ」に反する嫌な奴として敬遠されるか、深く傷つけることになるであろう。しかし、このままではいけないということを彼らは薄々感じているような気がする。どうすればよいのかがわからなくてイラつき、ムカついているのである。
 子どもたちの苦しみを受容していくとともに、本当は子どもたちが自分自身で気づいていること、つまり、新自由主義的に向き合わないことを正当化している、「意味がない・関係ない」ことのなかに、本当は何か道を切り開くすべがあるのではないか、ということに、彼ら自身の意志で向き合えるようにすること、そして、大人たちも共に考えていくことが必要である。その方法を考えていくことが、これからの教育という営みのなかでしなくてはならない課題なのである。
 選択肢を用意していくことが大切だという意見がある。確かに、情報が大量にあふれ、選択することを迫られている現状において、何を選択するのか、メディアリテラシーの能力が重要なことは違いない。しかし、選択肢があくまでも「選択肢」である以上、それをいかに選択したとしても、消費・商品社会の枠組みを越えることはできない。それに、その選んだものを自分のなかに取り込もうとするときには、選択するという能力以上に、高度な主体性が必要とされてくる。自分がどのような人間になりたいから、こうするのだ、つまり、自分の世界観の形成、認識論的な成熟と平行した形で、自分が何をするのかを決めていける創造的な主体性が必要なのであろう。
戻る
 
 
 
 
 
学校が変わるには現場が変わらなければならない
 
教育学科3年 西山 哲広
 
 
 いまの学校は閉鎖的である。ではどうして、「学校」という社会が閉鎖的になってしまったのか。それには、まず「社会」のシステムに立ち返って、そこから学校について考ることにする。
 社会は有機体だという考え方がある。これは、ドイツのゲーテやロマン派の非常にドイツ的考え方である。これに注目したのがシュタイナーである。
 シュタイナーは社会有機体を三分節化したので、彼の社会思想は「社会有機体三分節化」といわれている。社会有機体の三分節化とは、まず社会を三つに分け、精神生活と、国民生活あるいは法生活と、それから経済生活との三つを、まず原則的に区別する。
 シュタイナーはこの考え方を徹底させながら、税制問題や市場の問題まで細かく分析を加えていた。以上の機能をさらに三つの原理と結びつけ、精神生活では自由が、法・国家生活では平等が、経済生活では友愛がまもられねばならないと考えていた。
 例えば、シュタイナーは、平等について精神生活や経済生活に平等の原理が必要なのではなく、市民として社会生活をいとなむ際のルールが平等に守られているかどうかが問題なのである。ある種の選ばれた人が法生活において特権的な立場に立ったら、それだけで経済も精神も、社会全体が病的になる。法においては徹底的に平等の原理を守るべきである。それが守られなくなったときには、精神生活がそれをキャッチし、コントロールしなければならないといっている。
 精神生活における自由についていえば、自由に情報を得ることができなければ、的確な判断が下せない。だから、情報は100%公開することと、精神生活はどんな場合でも、外からの規制を受けない、という原則を大切にすべきである。外というのは、国家や法や経済のことである。このことを徹底させるのが、「精神生活の自由」の意味である。
 「経済における友愛」は、すでに部分的には実現されている。そもそも「信用」は友愛と不可分だが、今日の国際化された経済分野で、ある企業が友愛精神を発揮しなければ、相手にされない。発展途上国に対する援助はひとつの例だと考える。
 この問題を考えるときに、シュタイナーは次のようにいっている。精神生活は教育の中では思考のことであり、法生活は感情のことであり、経済生活は意志のことである。もし、子どもが教育を受けるときに、この三つをしっかり学ばなければ、将来成人として社会生活を営むときに、正しい社会感覚がもてなくなるといっている。まさにこれがいま、私たち日本の学校教育に突き詰められた問題であると考える。
 その原因は、学校が利益社会になっているせいにある。そのため日教組が「賃金闘争」を指示することができる。賃金闘争ということがある以上は、その学校側の意識は、学校を利益社会と考えている、と考えなければならない。そのせいで、子どもたちへの学力競争はさらに激化する。
 そもそも学校というものは、私たちが豊かに暮らせるようするために行くところであるはずなのに、自殺やいじめや不登校が日常的に起こっている。これらのことが起きるのは、学校が当然行くべき空間というであるということから起こる。それによって閉塞感が生まれる。いじめや自殺息詰まった子どもたちのメッセージなのではないかと考える。しかしだからといって自殺を容認するわけではない。自分の命を守れない人が、他人の命を守れるわけがないのである。もっと命を大切にしなければならない。
 これは、学校で教育を受ける意味への問題提起だと考える。学力さえつけばいいのなら塾や予備校に行けばいいのである。そこで考えなければならないのが、学校という視点で見る上で、文部省が奨める学習指導要領である。高橋巌氏は学習指導要領について次のように述べている。学習指導要領は、個々には問題点ありながらも、言っていることはもっともらしい感じがある。しかし生活に密着していない感じがあるという。仮にお料理の「指導要領」があったとする。料理はおいしくつくらなければならない。料理には、甘さと辛さのバランスが大事で、調和のとれた味つけすることが大事だ、おいしく作ることがお料理なんだ、といっているようなものだ。確かに読んでいてもっともなのだが、あまりお料理を作るときの参考にはならない。もし真剣に、教育の荒廃した現状のなかで学習指導要領をつくるのだったら、読んだ人が、思わずそれによって一種の熱を受けて、あらためて、本質的な問題に即して教育的実践を行いたくなるようなものであるべきである。              
 教育論の本質というのは、だれか偉い人がそれを抽象的に考えて、抽象的な料理法のようなものを作ることにあるのではない。それでは何の意味もない。意味のある料理法を提供するのだったら、実際に料理を作っている人が、その作っているなかで得た経験をもとにして、具体的な作り方を公開するのでなければならない。授業の進め方は、現場に携わっている人以外のところで決定できるはずがないのである。
 しかし、今ある学校はただの学力を身に付ける場でしかない。だから学校は、ただ受験勉強さえ教えていればいいという傲慢なところがある。学校教育は、大人たちが求めている教育で、子どもたちが求めている教育ではないのである。そういったところから大人たちの傲慢さが見え隠れする。仮に学校または大人たちがそういう傲慢なやり方をしていないと思っていても、それは学校自体だけが思っているだけであることが多い。
 学校はある情報に対して、これはわかっているから伝えなくてもいいだろうと考えたり、わからないのは子どもの学力不足だと考えてしまうところがある。それは学校自体が利益主義に沿って運営しているせいにある。利益主義のため子どもたちを善悪でみている。学校がいつのまにか裁判所となり、子どもたちを裁く場所になっている。学校の先生は裁判官、ある意味絶対者であるから自分たちを批判する力がない。自分たちの否を認められない媒体が情報を発信しているので、学校の教育的基盤はさらに弱くなる。だから子どもたちはそういった情報の発信の仕方に無意識的に矛盾を感じることが少なからずある。しかし子どもたちには、自分より学校という大きな媒体に抵抗する力も術もない。また子どもたちは大きな媒体に抵抗しようとする考えを持つことをいつの間にか否定されてしまっているところがある。強いものに従順にしていなさい、もしそうでなければあなたは悪い子です、といったような強迫観念が学校にはある。子どもたちは体や心で学校の情報の発信の仕方に対して矛盾を感じていても、自分の意思を言葉にすることが難しいので、学校側に伝えることができない。 
 また、学校のそういった情報の流し方により子どもと家庭の溝が生まれる。学校がこのようなあり方であるために、学校の地域性の根がはらないと考える。
 子どもと親が情報交換をしないので、子どもの親同士の情報交換をする機会も少ない。それは子どもたちが学校で学んできたことを親たちに話せないことから見えてくる。親たちはなぜうちの子は、学校で起きた出来事を私たちに話しかけてこないと思うことがあるだろう。それは、学校での出来事が家で話すような話題になりえないせいにあると考える。例えあったとしても、親が子どもに聞きたいことは勉強や偏差値に関わることであって、子どもたちの性格や個性自体ではないのである。
 こういった原因は先生たち自身に色、つまり個性が見えないせいにあると考える。先生という職業は、多様な価値観を持ち得なければならない。もし先生がひとつのことしか教えられないならば、そういった人たちは研究者に過ぎない。先生は研究者ではいけない。先生というのは研究者というのが前提にあり、自分のことだけでなく子どもたちを見る力がなければならない。そのためには先生という職業は、常に積極的に自己批判的な存在であるべきだと考える。学校のなかには学級単位でクラス通信を通して、子どもの親たちとコミュニケーションをとる積極的な先生がいる。一方でこのことに賛同しない先生がいるようだ。学校が閉鎖的という仮定に対して反論できないところではないかと考える。
 子どもたちは必ずお手本となる大人が必要であると考える。その大人たちが、先生である。それは、子どもはある物事に対して大人たちが発信している情報を模倣し、そこから子どもたち自身の独自性が生まれると考える。
 もし先生たちに学力だけにとどまらない視点で子どもたちを見る力があれば、子どもと先生の対話する機会が増えるだろう。そうすることによって、先生と子どものお互いの見えない価値観の溝を少しでも埋める機会が多くなると考える。
 それでは、子どもと先生が対話するには学校がどのような形態であるのが良いと考えられるだろうか?
 そこに必要なのが先生と子どもとの対話である。子どもが先生と会話をする機会が減ったのは、先生が忙しくて子どもにかまう時間がないからだと言われがちであるが、私は、それは疑問に思う。時間がなければ、見つけようとしなければいけない。
 子どもたちは、実質的な社会制度を変える力を持っていないので、どうしても塾や習い事に時間をとられてしまう。それらを先生はくみとらなければならない。
 コミュニケーションをとる時間の多さが問題なのではなくて、コンタクトをいかに多くとるかが問題だと思う。子どもにとって、先生の発する言葉は友達や親が言う言葉よりずっと重いものであると考える。だから先生は、子どもに注意をするとき細心の注意を払い、決して感情的になってはならない。
 一方で子どもたちは、自分自身を表現する能力が、確実に落ちている。その原因は、「ことば」にあると考える。
 日本の教育は「ことば」をないがしろにしているところがある。先生がことばを教える際に、ことばが生きたことばでないせいにある。例えば国語の時間に、詰め込み的に漢字を覚えさせたり、習字の時間に文ただ文字を書かせている。しかも、作文をさせるときに、子どもたちの表現力のなさを善し悪しで判断して優劣を決め、差別化を促進させている。子どもたちにとっては、それは単なる学力のための勉強でしかない。ある特定の学校という狭い社会の中で、成績をあげるため道具にすぎないのである。だから子ども自身が自己表現しようとするとき、機械的にしかことばを覚えていない。だからいくら自分の感情を表現しようとしても、自分が習ったことばの何分の一も使えないのである。それは、子どもたちにとってことばがことばとしてではなく、ことばが記号に過ぎないのである。ことばとは、ある一定の音と意味をもってはじめて意味をなすものである。まずは、ことばを楽しむことをすべきである。子どもたちが歌をうたったり、大声で本を読んだりして、素直にことばを発声することをたのしむべきである。だから、そういったことを先生たちは意識的に、子どもたちに伝えなければなら ないと考える。
 ただこうしたことばが軽くなっている原因は、情報メディアの発達のせいだと考える。社会的に情報を獲得する手段が発達し、子どもたちはあらゆる方法で情報を得ることが容易な時代になった。情報が簡単に手に入るということは、とても素晴らしいことである。しかし子どもたちは情報に敏感である一方で、情報を判断する力がない。子どもたちは気づかないうちに大量の情報を流し込まされていつのまにか自分を見失ってしまっていることが多くあると考える。
 例えば、テレビやゲーム機の発達によって、子どもたちの会話が狭められている。本当に子どもたちがテレビを見たり、ゲームをしたいのであろうか?むしろ私は、それしか会話をするための手段がないからするのではないかと考える。テレビは、子どもの意志に関係なく、情報を流す。そのため、子どもたちは映像を通して、疑似体験をしている。しかし、これが問題であると考える。こういった安易な情報に乗って、頭の中だけで処理してしまっている。だからこころと体のバランスがとれなくなる。だから、子どもたちの行動力が下がると考える。また、テレビは失敗することができない。これがいまの教育と重なるところである。完璧を求めすぎて、実は完璧ではないというアンチテーゼであると考える。一方ゲームは、リセットをいくらでもすることができてしまう。こういうことから、子どもたち自身の命をも軽くさせてしまっているところがあると考える。これは、現代病であると考える。
 子どもは学校という狭い空間に押し込められ、一辺倒に情報を流し込まれる。必然的に見えない競争に押し込められる。学校が閉鎖的であるために、子どもたちは学校に守られているようで、実は情報を遮断されているところがある。今までは大人たちの見方の価値観である程度対応できたが、いまは圧倒的に情報量が違う。子どもたちだけの共有の価値観がもてない時代になってしまった。
 学校という場所は、教育を受けるという意味で「平等」にはなったが、対等ではない。それは、先生と子どもの関係にある。そもそも「平等」という言葉を、学校で使うのもおこがましいのではないかと考える。平等」というのは建前で、先生たちまたは大人たちの逃げ口上である。子どもの本質は先生が違うようにそれぞれ子どももみんな違うのである。それは子どもが持つ親によって生活環境や経済的にも思想や信仰が違うからである。逆に子どもがみんな同じだったら気持ちが悪い。先生は、学力という視点から子どもを平等にしようとするきらいがある。
 だから先生は自分の思い通りにならない子を異端児として祭り上げ、自分自身のステータスを守ろうとする。先生と子どもの生きてきた時間や価値観は絶対に違う。もしある子どもが先生の言うとおりに勉強する子どもだとしたら、それは単なる先生の価値観の押し付けでしかない。先生たちは、子どもの個々を見るという意味で平等でなければならない。
 そして先生は個々の子どもと向き合うという意味で、対等でなければならない。
 子どもという概念では、子どもは同じではあるが、必ず個々のパーソナリティーを持っている。
 学校という「社会」を生きかえらせるには、先生と子どもの「信頼関係」を作らなければならない。いくら制度を変えて、ゆとりの時間を作ろうとしてもそれは受験勉強をするための時間を作ることにすぎない。そしてこれからカリキュラムの問題で、週休二日になると同時に一日にやらなければならないことがまた増える。子どもたちにとっては矛盾した制度である。
 時間が限られているからこそ、先生と子どもはお互いに触れ合わなければならない。みんな失敗を恐れているために、人との交流も恐れている。だから表皮的な関係しかつくれない。そうすると、子どもたちは孤立していく。そして一人で情報を溜め込んで、おかしな行動をする子も出てきてしまう。。
 だからこそ今、学校に必要なのは、文部省の奨める学校とういう枠組みにはまるのではなく、先生と子どもたち独自の学校を創作していくべきである。そうして、各々の学校自体に個性を生み出し、そのときはじめて社会とリンクした学校教育が生まれると考える。
 
 参考文献:「シュタイナー教育を語る」角川選書 高橋巌著
戻る