「調布の街」


 調布駅はどこがメインの改札口かわかりづらい。2つしかないのだが、どちらも貧弱なのだ。最初は新宿寄り改札口の北側に出てしまい、プラットホームを隠す板塀に沿った細い道しかなくて、とまどった。地下道を通り南側に出てみた。バス停があって、駅前広場という感じがしたが、20万人都市の玄関口としては華やかさがない。結局、府中寄り改札口の北側に出て、やっとそこが表玄関であることがわかった。
 出てすぐのところにパルコがあった。駅前通りを1ブロック100m歩くと西友がある。その手前を横切る道がにぎやかそうであった。あとから歩いてみて、旧甲州街道だとわかった。とりあえず西友の前を通り過ぎていくと、もうにぎやかさはない。地図では紫矢印で示した方向であるが、駅前通りが人の主たる流れであろうと想像していたので、どう説明してよいか思案した。駅から300mで甲州街道に突き当たる。その先は電通大の敷地になる。

(『プロアトラスW2』を加工)

 私の考えに都合のよいことに、駅前通りの右に「天神通り商店街」があった。地図では黄枠で囲んだところである。その先、甲州街道を横切って行くと布多天神がある。由緒も正しいし、これが調布の鎮守であろう。あとは駅前通り左方向に歓楽街があれば、私の考え通りである。
 ■布多天神
 布多天神から戻って、駅前通り左方向をみる前に、旧甲州街道を布田駅の方に向かって歩き出した。そちらの方がにぎやかだったからである。地図では、赤矢印で示したとは逆の方向に歩いたことになる。歩きながら、ここが旧甲州街道であることがわかった。さらに数年前、布田駅の方から歩いてきたことも思い出した。そのときは布田駅近くの常性寺で通夜があり、皆と一緒に調布駅近くのモツ焼き屋に行ったのだった。
 歩いていくと「百店街」があり、そこにはスナック・パブ・サロンがあった。ピンクの斜線で示した地区である。さらに黄枠で示した商店街があった。布田駅近くまで行くと、商店街のにぎやかさは減じていた。角に常性寺があり、以前来たことを確認した。
 西友のところから常性寺まで700m。もと来た道を戻った。駅前通り左方向を見なければいけない。しかし、このときにはすでに街の見方は変わっていた。人の主たる流れは駅前通りではなく、旧甲州街道に沿った流れであると感じた。それも赤矢印のように布田駅から調布駅の方向にである。昔の街道でいえば、江戸から甲府へ行く方向である。このような見方をすれば、ピンク枠と黄枠に囲んだ地区の位置づけがはっきりする。街道沿いの右に商店街、左に歓楽街があることになる。
 駅左地区には、地図でピンク枠にしたところにパチンコ屋が3店、黄枠にしたところに飲み屋等の店があった。いかがわしくない店という意味で黄枠にしたが、飲み屋が主である。
 整理してみると、布田駅から調布駅に向かい、旧甲州街道沿いに1kmの商店街がある。さらに旧甲州街道から左右に入る商店街・歓楽街がいくつかある。布田駅に近い方の右から、黄枠は何軒か飲み屋があるが普通の商店街(仲町商店街)。左のピンク枠はいかがわしいスナック等の百店街。進んで、右の黄枠は天神通り商店街で普通の店。駅前通を過ぎて、左にパチンコ屋が並ぶ地区。さらに黄枠の飲み屋が並ぶ路地(調布銀座)である。
 一応の説明はついたが、なぜ旧甲州街道からとびとびに商店街・歓楽街が突き出ているのか。また、調布駅の玄関がなぜ貧弱なのか。後者はもともと調布駅がメインではないからだということで説明がつくだろう。なぜ調布駅がメインにならなかったのであろうか。
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 調布は甲州街道沿いの宿場町で、まとめて布田五宿と呼ばれていた。江戸から甲府へ行く街道沿いに、国領・下布田・上布田・下石原・上石原の宿場があった。京王線の駅でいえば、国領・布田・調布・西調布にわたっている。甲州街道は江戸の将軍が万一の場合、故地である甲州へ退去できるように整備された軍事道路の性格が強い(市史中159頁)。それゆえ、江戸から甲府へ上る位置づけになっていて、甲府に近い方が上、江戸に近い方が下になる。
 江戸を発った旅人は府中に泊まることが多い。健脚は八王子まで行った(市史中170頁)。それゆえ、宿場としては通過点であり、本陣や脇本陣はなかった。旅籠は国領1、下布田3、上布田1、下石原0、上石原4軒で(市史中171頁)、飯守女を置く旅籠もなかった(図説144頁)。これから推測できるように、どの宿場が中心ということもなかった。幕末から明治にかけて、長州征伐の軍資金が割り当てられ、その見返りとして遊女屋30軒、遊女100人を限度として置くことが認められた。明治15年の貸座敷の免許は、下布田3、上布田5、下石原3、上石原2戸であった(市史下347頁)。この時点でも、各宿場同じようなウエイトである。
 京王線は大正2年に笹塚〜調布間において営業を開始した(市史下443頁)。新宿〜東八王子(現京王八王子)間が開通したのは昭和3年である(市史下573頁)。当初、調布駅は調布銀座の所にあった。現在の位置に移動したのは昭和28年である(市史下766頁)。
 調布が東京の郊外化したのは大正末頃からであり、初めは別荘地としてであった(市史下450頁)。国領・下布田・上布田宿には京王線の国領・布田・調布が対応しているが、調布駅が中心となりつつあった。昭和14年都市計画図をみると、国領から上布田までを商業地域としている(市史下626頁)。ほぼ現在の商業地域に重なっている。
 旧甲州街道に沿って1km強の商業地域があり、その間に京王線の駅が3つある場合、調布駅が中心だからといって、そこを中心に街が構成しなおされる必然性は少ない。これが調布駅が街の中心にならなかった要因であろう。
 旧甲州街道からとびとびに商店街・歓楽街が突き出ているのは、国領・下布田・上布田宿を連ねて1km強の商業地域が形成されていること、各宿場が同程度の力を持っていたことによるのではないだろうか。
 ちなみに、戦後、仲町商店街のところに特飲街があった。一時は14軒、59人の従業婦を数えた。しかし、世論の厳しい監視により昭和31年には廃止された。現在は、上述したように何軒か飲み屋のある商店街になっている。

   市史中:『調布市史中巻』平成4年
   市史下:『調布市史中巻』平成9年
   図説 :『図説調布の歴史』平成12年