「多摩の街・府中の街」


はじめに

 都立大学が首都大学東京となり、非常勤を頼まれた。場所は京王相模原線の南大沢駅のところにある。晴れて気持ちのよい日だった。最初の講義が2時半に終わったので、帰りがてら街を見ていくことにした。
 とりあえず南大沢駅周辺である。多摩丘陵を切り開いて造られた街は、高架駅の改札口を出るとそのまま歩いて行かれるように、街自体がコンクリで固められている。郊外住宅地の夢の街という雰囲気で、明るく整然としていた。すぐ前にはイトーヨーカ堂がある。ここのスーパーはまるでデパートのようだ。出店もあればレストランもある。辺り一帯を一手に引き受けている様子である。駅から出て右手にアウトレットがあり、その先に都立大の入口がある。そこまでは巨大なコンクリートの橋といってよく、橋の下には自動車道路が走っていた。都立大は丘の上に造られているが、正門前を横切っている道は桜並木になっており、斜面には菜の花の黄色が鮮やかであった。でも正直言って、コンクリで固められた整然とした街を歩くのは疲れる。
 改札口を出て左手にバスターミナルがある。聖蹟桜ヶ丘行きのバスが出ていた。南大沢5丁目循環というバスが発車しそうだったので、何となく乗ってしまった。近隣の団地を巡って15分ほどで駅に戻ってきた。

 京王線に乗り、新宿に向かって2つ目の駅である多摩センターで降りた。かなり以前に一度だけ降りたことがあった。どんな街だか忘れてしまっていたが、少し上り坂の向こうにパルテノン多摩をみて思い出した。この街も高架駅から出てそのまま歩いて行かれるようにコンクリで固めた街であった。多摩センターはこの周辺では中心都市である。広いコンクリの道であるパルテノン大通りの右側には京王プラザホテル、ついで三越・大塚家具のビルが、左側にはイトーヨーカ堂が並んでいた。350m行ってパルテノン多摩の階段を上って公園に入った。公園自体は見るつもりがないので、駅からみた左地区の方に歩いてみた。ディズニーふうの建物はサンリオピューロランドである。休業日なのであろう。誰もいなかった。下の通りから駅へ向かって歩いた。車だけが走っていて人通りはなかった。改札口へ行く階段を上って反対の北側に出ようと思った。京王クラウン街という駅ビルになっていて、一階の食品売り場まで降りないと外には出られなかった。つまり、改札口から北側に開かれている出口はない。
(『プロアトラスW2』を加工)

 食品売り場から外に出るとスナックが入っているビルがあった。地図でピンクに記した場所である。黄色で示した場所には居酒屋などがあった。小田急線が多摩センターまで延伸したのが1975年である。それから30年たって、人工的な街にも多少の息抜き場所が求められるようになったのか。北側に出口がないことを考えると、色塗りした位置は、主たる人の流れの左方向と言ってもよいであろう。

 多摩センターから立川の方にモノレールが通っている。乗ってみた。途中、中央大学を通過した。30年ほど前、法政大学の多摩校地視察のため、移転したばかりの中央大学を見学したことがあった。車で行ったからはっきりとはわからなかったが、高幡不動からかなりあるから大変だと説明を聞いた記憶がある。モノレールができて便利になったのであろう。学生が大勢乗ってきた。そういえば、モノレールを法政多摩校地まで引きたいという学内の強い希望を聞いたことがあった。地図をみると明らかにこれは無理である。多摩センターから法政までは、立川までと同じくらいの距離がある。また、橋本までは京王線も通っている。採算が合うわけがない。
 高幡不動で降りることにした。4時半になっていた。高幡不動は由緒正しい寺である。しだれ桜がまだ残っていた。茶屋で饅頭をいただき、府中に行くことにした。

 ■高幡不動の五重塔

 府中駅を降りたのは5時半であった。南口が繁華街であることはすぐにわかった。駅裏手から巡ってみようと思い北口をでて階段を下りた。すぐに自動車道路に出た。甲州街道という標識がある。えっと思った。府中は大化の改新により武蔵国がおかれ、その国府となった地である。近世になり甲州街道が整備され、その沿道の宿場街として発展してきた。街の象徴は大国魂神社であり、甲州街道と神社を分断して鉄道が敷設されたのか! 
(『プロアトラスW2』を加工)

 馬場大門ケヤキ並木にきた。地図上、大国魂神社に向かう赤矢印が主たる人の流れである。そこがケヤキ並木になっていて、天然記念物に指定されている。甲州街道から大国魂神社に向かう入口が馬場大門になる。府中の案内地図があった。大国魂神社の前を旧甲州街道が通っている。鉄道が神社と街道を分断してはいなかった。暗くなってきた。写真を撮るために、まずは大国魂神社に行った。

 ■大国魂神社

 参拝の時間は過ぎていた。中に入れないので、右折して宝物殿の脇を通って交差点に出た。道の斜め向こうに本町商店街という標識があったので行くと線路にぶつかった。府中本町駅であった。引き返して府中街道(鎌倉街道)を通った。市役所があった。主たる人の流れの右方向に正統的な建物があるという私の考えに合致していた。旧甲州街道と府中街道との交差点に、昔の面影を残す建物があった。高札場の建物と中久酒店である。江戸時代はこの場所がもっとも賑わったところである。
 さて、これから繁華街に向かうとしよう。旧甲州街道を大国魂神社の鳥居に向かって歩いた。地図で黄色に囲んだ地域が繁華街である。Forisや伊勢丹があり、街の表の顔になっている。裏の路地には商店が並び活気を感じさせていた。でも、これらは普通の商店であり、歓楽街的な要素はない。スナックやバーはもっと奥にあるに違いない。地図で黄色に囲んだ地域を何回か行ったり来たりしてスナックを探してみたが、見つからない。私の考えでは、左奥の所にスナック街があってもよいはずだ。地図では宮前2交差点にあたるところである。昔の宿場町には、街道沿いに貸座敷などがあった。その名残で、スナックが立地していないだろうか。行ってみたが、辺りは薄暗くネオンの明かりは見あたらない。これだけの街にしては、繁華街もさほど大きくないし、スナックが一軒も見つからないのも変である。
 スナック街は主たる人の流れの右方向にあるのだろうか。7時を過ぎていたが、Forisの前を過ぎ右地区の裏通りを歩いて、高札場の所まで戻った。さらにスナック街を求めて、府中本町駅近くまで再度行ってみた。結局見つからなかった。おかしい。そんなはずはない。府中街道を戻りながら、合同庁舎入口交差点のところで路地に入った。線路の方向に赤紫のネオンがあり、HOTELの文字が見える。ラブホテルに違いない。地図では四角の赤印をつけた場所である。ところが、ホテルに行こうとしても容易に行けない。路地を右に左に曲がって行くと、寺の暗い塀沿いのところで警官が2名、若い男の自転車を止めて調書を取っていた。無灯火なのであろう。それにしても、こんな狭い路地で検問か。その路地を突き当たった道にスナック街があった。地図ではピンクで囲んだところである。宮西国際通りという看板が出ていた。ラブホテルはスナック街から一つ路地を入ったところにあり、ほとんど人目につかないで入りやすそうである。
 スナック街は見つかったが、心に引っかかりも残った。私の考えでいる位置になかったからである。7時半を過ぎていた。食事をして帰ろう。ケヤキ並木通りには居酒屋はあるが、一人で食べる店がない。ラーメンでもと思ったが、駅付近には2軒しかなかった。意外に少ない。結局、伊勢丹のレストランに行った。鰻・あしたば・ゴーヤという今まで食べたこともない天丼を注文した。とにかく腹は満たしたので、帰ることにした。

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 府中は甲州街道沿いの街で、江戸を立った旅人が最初に宿泊する場所であった。それゆえ、本陣・脇本陣があった。また、飯盛女のいる立派な旅籠もあった。府中宿は三ケ町からなっていた。大国魂神社より東(江戸に近い方)の甲州街道沿いに新宿(しんしゅく)、西に番場、神社西脇の府中街道沿いに本町である。
 明治になっても、街の賑わいを構成する商家の種類や立地は基本的に変わっていない。明治30年および明治末頃における商家リストがあるが、それをみると普通の商家のほかに貸座敷や遊女屋がいくつか載っている。それも一カ所にまとまってあるわけではなく、普通の商家に混在している(市史414、498、1249頁)。
 京王線が新宿から府中まで開通したのは大正5年である。大正から昭和初期にかけての街の詳細は資料が手元にないのでわからないが、商家の立地は変わっていないと思われる。ただし、熱心な廃娼運動もあり、遊女屋は明治末に4軒になっていた。その後も第二次大戦前までは遊女屋があった(市史1250頁)。
 第二次大戦後、府中町にもパンパンガールと呼ばれる街娼がいた。しかし、昔からある正常な旅館以外に、「温泉マーク」と称される連れ込み旅館ができることもなかった。そのため、彼女たちは路上や公園、あるいは間借り部屋へ客を連れ込んでいる(市史823頁)。この記述から、戦後すぐには宮西国際通りには歓楽街が形成されていなかったことが推察される。
 現在、伊勢丹がある辺りには新興マーケットが出現している。この新興マーケットからも各町内と同じ資格で委員が出されている(市史828頁)。ということは、現在繁華街となっている黄枠の地域は、戦後になって発展してきた商店街と言えるであろう。
 黄枠の地域が繁華街として発展するのは、駅との関係で必然性がある。しかし、なぜ宮西国際通りに歓楽街ができたのであろうか。本来ならば、江戸時代から由緒と格式を持っていた旧甲州街道沿い、あるいは、その周辺に歓楽街ができてもよいと思われる。結局、貸座敷や遊女屋が普通の商家と混在して散らばっていたことが、自然消滅につながったのであろう。宮西国際通りに歓楽街ができた要因は、ほかの資料がないとわからない。
 参考になるかどうかわからないが、地図で「さくら府中駅前ビル」がある一画は、「クルル鉤」が出土した遺跡である。ここらあたりに歓楽街が出現していれば、私の考えに沿っていたのだが。
 ■クルル鉤出土の遺跡

 市史:『府中市史 下巻』昭和49年