「秦野の街」


 小田急線・秦野駅に降りた。駅を出てすぐに水無川に架かる「まほろば大橋」がある。橋を渡って、道の入口にある看板が歓楽街という雰囲気で誘ってくる。パチスロ、居酒屋、スナック・クラブが並んでいた。期待しながら少し上りになっている道を進んだが、歓楽街的雰囲気の店は入口のところだけで、あとは普通の店がいくつか並んでいた。入口から100mで「ひがしみち」という少し趣のある道を横切った。あとで見ることにして、さらに130m進むと片町通り交差点に来た。左折した方向に店が多く並んでいる。200m歩くと本町四ツ角交差点に来た。この辺りが街の中心であろうか。十字路を中心に商店街を形成していた。

(『プロアトラスW3』を加工:ピンク点はスナック)

 『秦野市史』で調べてみると、「明治・大正期までは秦野地方の中心商店街は旧秦野町の曾屋地区、それも通称四つ角周辺に限られていた。この事情を変えたのが昭和2年の小田急電鉄の開通と駅の設置である。とくに大秦野駅の所在地南秦野村では駅周辺に商店ができるようになった」という記述がある(「通史4」673頁)。大秦野駅はいまは秦野駅と改称されている。直感は間違っていなかった。
 歩いているときは、市史の知識はまだ無かった。どこが「街における人の主たる流れ」かを判断するために、いろいろ歩いてみた。片町通りから進んできた道をさらに行くと、200mほど先に芳甘菓という落花生の店があった。秦野地方は落花生が有名だ。中年の女性が落花生や甘納豆を勧めてくれた。お茶をごちそうになりながら話を聞くと、市ヶ谷にある大学の近くまで豆の研究を聴講しに来ているという。私の勤め先を聞いたあとでさらに甘納豆を出してくれた。秦野で他に有名なものはと訊くと、豚のピーナツ味噌漬けがおいしいという。そういえば、本厚木にも豚の味噌漬けを売っている店があった。
 秦野といえば昔はたばこで有名だったはず。歩いているときはどこにあるのか分からなかったが、あとで調べると四ツ角を北の方に350m行った左のところに専売公社があった。いまはジャスコになっている。
 四ツ角から南に歩き秦野橋まで来て、再び戻って「ひがしみち」に入った。スナックがいくつか目についた。しかし、ポツンポツンと離れてあるだけで、とても歓楽街と言える代物ではない。地図ではピンク点で示してみた。数多く見えるが、点一つが一軒なので、ほんの少ししかない。それでも、ひがしみちを中心に本町一丁目に比較的多くあることが分かる。

(「曾屋水道区之図:大正5年刊」『通史3』287頁)

 明治後期の旅行記に書かれている商店数の分析がある(「通史3」293頁)。それによると、片町には39軒あり、菓子店、呉服太物商と小間物商が多い。それに次いで商店数が多いのが上宿であり、32軒である。このうち商品販売店が17戸、旅宿を兼ねる料理店2、旅人宿2、芸妓置屋1、食堂1である。上宿というのが、ひがしみちを中心にした本町一丁目地域であろう。昔からの地域特性がかすかに残っていると言える。

 まとめとして記述すると、秦野の街の中心は昔は四ツ角にあり、いまでもそこが街の中心になっている。四ツ角から南に下った左地域に歓楽街的な要素の地域があった。いまではごくわずかにしか、その雰囲気を感じることができない。小田急線の秦野駅が水無川の向こうにできてからは、駅を中心にした人の流れができてきた。しかし、それが街の主たる人の流れとまではなっていない。
 雨が少し強くなってきた。パンフレットによると、湧水がよいという。「弘法の清水」が駅の近くにある。名水百選に入っているという。ペットボトルに汲んで飲んでみた。冷たく少し甘く感じた。

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 後日、この文章を読まれた方からメールをいただき、秦野に湘南軌道が走っていたことを指摘された。 調べてみると、その目的は秦野の煙草を運ぶため東海道線に接続することであった。明治39年に秦野〜二宮間に湘南馬車鉄道が敷設され、当時の秦野駅は街はずれの台町に設置された。その後、湘南軽便鉄道と改称され、さらに大正13年には街の中心地である専売局前まで鉄道が延伸された。駅の位置は本町四ツ角から350m北に行った右側に設置された。それからまもなく小田急電鉄の大秦野駅が離れた現在あるところに設置された。小田急線の開通によって湘南軽便鉄道は衰退し、昭和12年に廃線になった。
 以上の事実から推測すると、当時の街における人の主たる流れは、専売局前(下宿)〜本町四ツ角(中宿)〜上宿であろう。その左方向の地域に歓楽街ができていたと考えられる。現在、その痕跡がかすかに残っている。