「浜松の街」


 夕方、新幹線で浜松駅に着いた。浜松で泊まるつもりであったので、とりあえずホテルを探した。東京から来ると右側が表玄関になる。駅ビルの外に出てみると周りがコンクリートの塀のようなもので囲まれていて、その向こうの様子が見えない。観光案内所でもらった地図で確かめてみると、やはり表玄関であった。駅裏側にあるホテルにチェックインしてすぐに外出した。
 駅の表玄関口から出てやや左方向に少し広い道を200mほど行くと、高速道路かなと思うような建造物があった。あとで確かめると、遠州鉄道の高架線であった。そのガード下を抜けると賑やかな地区に出た。地図でみると鍛冶町通りである。これががメインの通りであろうかと推測した。
 少し行くと「ZAZA CITY]という建物がみえた。この付近の中心的な建物であろう。その手前を右折して行く通りが賑わっていた。肴町にある有楽街である。また、反対に左折して千歳町にあるモール街と呼ばれる道も有楽街ほどではないが賑わっていた。左右どちらの通りも賑わっており、私の考える「左右の理論」からすると説明しがたかもしれないと思った。
 モール街を鍛冶町通りから350m行くと平田通りに出る。周辺には料理屋、飲み屋が何軒かあったが、平田通りは薄暗く寂しかった。右折して平田通りに沿って120m進むと、鍛冶町通りと平田通りを結んでいる幅5mの中央柳通りがある。その通り200mほどがスナック街で、夜の街を作っていた。人の主たる流れを駅から鍛冶町通りに向かうとものとすれば、その流れの左奥に位置する。


(浜松観光コンベンションビューロー『浜松タウンまっぷ』から)

 肴町にある有楽街は若者が多く集まるファッショナブルな街である。有楽街に交差する左右の路地にも店が列んでいるが、とくに左方向の路地にスナックと思える店がいくつかあった。7時を過ぎていたので鰻を食べようと思い、モール街に戻り「あずまや」に入った。繁盛している店で小一時間待たされた。食事を終えてホテルに戻り、シャワーを浴びてから再び街に出た。
 駅を出てから右方向に行く広小路沿いにホテルや銀行などの建物があった。幅広い通りの真ん中が並木になっていた。シンボルとして造ったのだろう。少し行くと板屋町交差にでた。左折していく「ゆりの木通り」が東海道である。田町中央通り、有楽街の入口を通り過ぎて、連尺交差点に来た。江戸時代はそこに大手門があった。交差点より北側の地域が浜松城内になっていた。現在は市役所のある北側に隣接して再建された城がある。
 連尺交差点を左折して南下する道が東海道である。連尺町、伝馬町に本陣があった。さらに南の旅篭町には宿屋があったのだろう。この辺りには紺屋町、肴町、大工町等の町名もあり、昔は一番栄えた町人町であったと考えられる。
 たぶん昔の街は、東海道に沿って東から来て連尺交差点を南下していくのが主たる流れであったのだろう。その流れの右地域(北側)に官庁機能や城が配置されている。左地域(南側)には肴町・鍛冶町・千歳町の繁華街がある。連尺交差点を南下する道からみても繁華街はやはり左地域に当たる。
 現在の「人の主たる流れ」は、駅から鍛冶町通りを進む方向にある。その道に沿ってザザシティ等の建物があり、右方向にあたる肴町はファッショナブルな繁華街、左方向に当たる千歳町はそれに比べれば地味な繁華街で、その奥にある中央柳通りにスナック街があることになる。左方向に歓楽街があるという私の考えに沿った街並みと理解することができた。
 浜松市は2000年国勢調査で58万人の都市である。2005年国勢調査では合併しているので80万人になっている。ひょっとしたら街中にラブホテルがあってもよい規模だ。もしあるとしたら、左地域の奥になる。中央柳町通りを抜け、その先にラブホテルがないかと思って探したが見あたらなかった。地図をみると、そこから1km以上離れたところにある鴨江町にホテルの印が多くしてあった。曲がりくねって複雑な暗い夜道を歩き続けて、なんとかその場所を探り当てた。思っていた通り昔の遊郭跡であった。「鴨江旅館街」という看板があるところが遊郭への入口か、広い通りがあり、その道の真ん中に並木があった。ビジネス旅館が十数軒もあったので、少し驚いた。繁華街から離れた場所で昔遊郭があったところでは、旅館や料理屋が残っていても一、二軒が関の山である。わざわざここまで泊まりに来る客がいるのだろうか、よく潰れないで何軒もの旅館がやっていけるものだと思った。結局、街中にはラブホテルもソープランドもなかった。

 浜松の特長は横断歩道を設けないことである。自動車優先の考え方で街が造られてきたのだろう。とくに駅前の交通が激しいところではすべて地下道を通していて、歩行者にとっては歩きづらい。その地下道にホームレスが寝泊まりしている。地下道にはトイレがないので、立ち小便の臭いが立ちこめている。また、遠州鉄道の高架線が駅から鍛冶町に行くところに架かっていて、空間を暗くしている。浜名湖は観光地であるが、浜松は観光都市ではない。それが街のあり方を決めているのかもしれない。

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 浜松市史を調べてみた。明治維新の頃の町の様子が記述してある。
 ■『浜松城下略絵図』市史(二)87頁

「明治維新を迎えたとはいえ、中心街を成しているのは江戸時代以来の田町・明神町・連尺町・伝馬町とつづく東海道往還筋の町々であった。老舗も多く商店街を形成し、呉服・太物・銅鉄器・薬種・書籍・小間物・雑貨などのほとんど日常の用事はここで足すことができた。さらに伝馬町から旅籠町にかけては旧宿場町の名残を残し、宿屋(旅籠屋27戸、郷宿3戸)が多く、なかには貸座敷(伝馬町19戸、旅籠町7戸)に転業した店もあった。塩町には依然と塩商人(17戸)が軒をつらね、成子坂町には酒造店(神谷忍冬酒)があり、七軒町には宿の西はずれらしく薬湯とか駄菓子屋が多かった。それに隣る上新町は堀留運河の開航によってお茶屋・料理屋・すし屋・煮売屋から風呂屋までが並び車力も住み、浜松の新しい玄関口として活気を呈している。板屋町・新町は、田町に続く宿の東はずれの町々であるが、ここは農村地帯に近接しているので木綿関係の商人(綿買出し商9戸、綿商24戸)また穀物商(穀類買出し商など)が多かった。もっとも綿買出し商人はこの二町にかぎらずどの町にも多かった。
 以上は東海道往還筋の町々であるが、これをはずれると横町があった。たとえば肴町がある。江戸時代の余風を残し魚商48戸が集中し、そのほかに酒屋をはじめ料理屋・すし屋・煮売屋・居酒屋・餅菓子屋がならび郷宿が5軒それに薬湯まであって、歓楽街をなしていた。・・・」(浜松市史(三)137〜138頁)

 この記述からも読みとれるように、人々は田町・連尺町・伝馬町・旅籠町と向かう流れがメインであると感じていた。その流れの左地域にあたる肴町に歓楽街があった。
 浜松に鉄道か開設されたのは明治21年である。現在の位置に開設されたが、当時としては中心街からかなり外れたところにあった。やがて駅を中心に町が変貌し、道路も整備された。
 ■『浜松駅付近の新道』市史(三) 268頁
 現在の鍛冶町通りを中心に街が発展するようになってくると、その左地域にあたる千歳町(以前は後道と呼ばれる武家町)も歓楽街の様子を帯びてきた。ちなみに明治中期の劇場の位置は図のようである。多くは現在の千歳町にあった。
 ■『浜松の劇場位置』市史(三)323頁

 「歓楽街には、大正11年に旅籠・伝馬から鴨江に移転の二葉遊廓、また市の中央部の千歳町(後道)や肴町をはじめ、市の東部工業地帯の天神町方面、また全国産業博覧会の開催後発展してきた元浜町には芸妓屋も多く、それぞれ検番が設けられ、花柳の巷として賑わった。純白なエプロソ姿の女給のサービスぶりが芸妓とはまた別の味で、そのころ流行しはじめたバーとかカフェーで人気を呼んだのも、大正の末年ごろからであった」(市史(三) 562頁)

 鴨江に遊郭ができたのは大正11年であるが、これは明治になり堀留運河ができ、東海道を南下した地点にある上新町が活況を呈したからであろう。
 ■『堀留運河』市史(三)61頁