「飯能の街」


 池袋から急行で1時間、飯能駅に着いた。曇天の薄寒い夕方で、風邪ぎみから少し頭が重かった。とりあえず駅の裏手をみておこうと思い南口に出た。信号の向こうに大きな商業施設がみえた。一階はスーパーになっていた。この近郊の食料や日用品を一手にまかなっているのかと思うほど、この建物以外には店もなかった。南口を利用する人たちはバスや車で丘を超えて家路に向かうのか、歩いている人もいなかった。南口をみるのはこれで十分だった。
 駅構内を抜けて北口に出た。まずは泊まるところだ。駅に隣接した建物にプリンスホテルがあったが、数千円の安いホテルでかまわない。駅前通りを歩いて右方向に行ってみようか。ホテルの立地は駅の裏手か、表玄関をでて駅前通りを右方向に行ったはずれにあることが多い。しかし、安いビジネスホテルや旅館は左手方向にありがちだ。ただし、これはそれなりに大きな都市の話である。
 駅前通りを150m行くと、にぎやかそうな通りに交差した。あとで調べると、左折した方が銀座通り、右折した方が東銀座通りである。ここは右折してみた。飯能は約8万人の小さな郊外都市なので、その方向にビジネスホテルがありそうに思えたからだ。200mほど行ってみたが、ホテルらしきものは見あたらない。シャロームのところを左折し100m行って中央通りを横切ったところにビジネスホテルがあった。しかし満室で断られた。戻って飯能シティホテルで訊いてみたが、やはり満室だった。埼玉国体のためという。受付の親切なおばさんから電話帳を借りホテルをリストアップした。とりあえず中央通りを西に歩いた。途中でホテルがあったが、そこもダメ。広小路から銀座通りに戻り、路地を右折したところにあった旅館に訊いてみた。ガラス越しにオヤジさんらしき人がいて、ちょうど泊まり客の高校生らしきが数人帰ってきたところだった。ここでも泊まれればいいかと覚悟したが断られた。こうなれば、リストアップしたホテルに片っ端から電話してみるしかない。次々に断られた。頭が重いので早くひと休みしたい。所沢で見つけようか。リストの最後のホテルで、何とか空きをみつけた。

(『プロアトラスW2』を加工)


 ひと休みしてから、夕食のため外出した。駅前からすぐ右の路地に入ってみた。「名栗うどん」の店があった。ござっぱりして、それらしき味を感じさせる店であった。でも、うどんか〜、という気持ちもあり、もう少し探してみようと歩き始めた。店の明かりを頼りに路地を行くと、やがて中央通りに出た。右折して東の方に向かえば、東飯能駅があるに違いない。にぎやかとは言えない通りを500mほど行くと駅があった。駅周辺は何軒かの飲食店もあり、少しうきうきとした気分になった。駅は思ったより立派であった。最近造り直したのかもしれない。駅構内を横切ると丸広百貨店につながっていた。階段を下りて外に出てみた。駅前広場があり、区画整理された道があった。あとで調べると、この周辺に市役所等の行政機関が配置されていた。
 東銀座通りを戻って名栗うどんの店に行ったが、7時を過ぎて営業を終了していた。ちょっぴり残念。近くの喜多方ラーメンを食べた。漫画雑誌がおいてある普通の味の店だった。体調はそれほどよくないが、もう少し歩いてみよう。角にある「さつき濃」から銀座通りを広小路に向かった。8時前であったが、ほとんどの店は閉まっていて、通りは薄暗かった。広小路から戻って、ホテルに帰った。
 歩いてみた感想として、主たる人の流れは駅前通りをさつき濃の角で左折して銀座通りを広小路に向かう方向だろう、ということである。銀座通りに並行する中央通りは少し広いが、にぎやかさは少ない。東端の東飯能駅から中央通りに向かう人の流れは多くはないであろう。
 いくつか問題点を列挙することができる。まず、私の仮説「主たる人の流れの左方向に歓楽街がある」というのが満たされていない。郊外の小さな衛星都市だから、スナック街のようなものがないのか。でも8万人もいれば、小さなスナック街はあってもよい。歩かなかった他の所にあるのだろうか。
 2番目に、西武線・飯能駅とJR線・東飯能駅では、明らかに飯能駅の方がにぎやかで中心駅である。飯能駅と東飯能駅とどちらが先にできたのだろうか。地方都市の場合、私鉄とJR駅があると、たいていは私鉄駅周辺の方がにぎやかである。私鉄の方が駅周辺の開発に力を入れるからであろうか。それにしても、私鉄とJR駅のどちらが先に設置されたかは別問題である。もしJR駅の方が早いとすれば、東飯能駅周辺はもう少しにぎやかであってもよい。さらに、両駅が離れている場合、路線は並行しているのが普通ではないか。飯能のように路線が直交しているのはどうしてなのだろうか。

(『プロアトラスW2』を加工)


 昭和63年発行の『飯能市史 通史編』をみた。飯能周辺には高麗という地名があるように、奈良時代から平安時代初期にかけて渡来人が住みついた場所であった。したがって、飯能の地名も奈良時代には正史に登場している。都市の話としては、徳川時代から始めてよいであろう。家康は蔵入地(のちの天領)を江戸近郊に置いた。飯能地方も蔵入地として直接の支配下に置かれ、その統治機関として八王子に代官所が、青梅と高麗に陣屋が設置された。飯能に近いのは高麗陣屋である。飯能の領主は黒田家であるが、能仁寺を創建した丹党中山氏の末裔であり、上総・久留里城主であった。黒田家歴代は能仁寺を菩提寺としていた。
 当初、政治・経済の中心は陣屋が置かれていた高麗栗坪であった。高麗川が流れていて、近くに曼珠沙華(彼岸花)の群生地である巾着田や、日和田山がある丘陵地帯といってよい。18世紀初頭、黒田家の始祖である直邦は能仁寺への思い入れが深く、その地の繁盛を願い飯能に市を開設した(市史346頁)。市は「飯能の縄市」と呼ばれ高麗に代わって繁盛した。場所は飯能村と久下分村の境あたりである。現在の広小路から中央公民館に至る沿道ということになろう(市史496頁)。
 明治になり飯能村・久下分村・真能寺村が合併し、飯能町となった。市場町として発展していた飯能は、明治34年に入間馬車鉄道が入間川−飯能間に開通することにより、さらに飛躍した(飯能市史には明治32年開通と記載されている)。というのは、明治28年に川越−国分寺を結ぶ川越鉄道(現西武新宿線)が開通して入間川町(現狭山市)を通過しているので、中央線を乗り継ぐことにより、東京との連絡が飛躍的に便利になったからである。
 馬車鉄道の発着場は、現在の銀座通りの東端に設置された(市史502頁)。ということは、駅前通りの丸広百貨店のあたりにあったのか。そこで、市街地は広小路から発着場まで伸びてきた。それが現在の銀座通りということになる。
 大正4年になり、武蔵野鉄道(現西武池袋線)が池袋−飯能間に開通した。駅は現在あるところ。これにより、鉄道馬車は大正6年に廃止された。昭和6年に、八高線が八王子−東飯能間に開設された。さらに昭和8年に高麗川駅を通り越生まで延伸した。従来、飯能は川越との結びつきが強かったが、川越線(現JR)が高麗川駅まで開通したのは昭和15年になってからである。東飯能駅の開設によって、市街地はさらに東に広がった。
 2番目の疑問点である私鉄とJR駅のどちらが早く開設されたかは、私鉄の飯能駅ということになる。これによって、従来まで地理的に近い川越との結びつきが強かったのが、東京と結びつくようになった。もし川越との鉄道が早く開設されていたら、東飯能駅が街の中心になったかもしれない。もっともそのときには、駅が現在の駅前通り近くにできていたであろうが。
 私鉄とJR線が直交しているのは明らか。東京方向と川越方向が直交しているからである。通常は、同じ方向から私鉄とJR線が競合してくるから路線が並行している。
 最初の疑問のスナック街がないのかということについては、タウンページでスナックを調べてみた。地図でピンクの射影をつけた仲町辺りに20店ほどのスナックがある。駅前通りを行き中央通りを越えた右方向の東町にも十数店ある。10〜20店ではスナック街といえる数ではないが、8万人の衛星都市では妥当なところであろう。以下に、明治から昭和初期にかけての銀行配置図を掲載してあるが、広小路から仲町交差点にかけてある。そこが当時の主たる人の流れであったと考えられる。その左方向に仲町のスナックが点在している。当時、その辺りに遊興施設があったのかもしれない。

 ■明治・大正の銀行配置(『飯能市史』509頁より)