「八王子の街」


 正午に家を出て、1時半に八王子に着いた。いつものように、とりあえず駅の裏手(南口)をみた。駅の階段を降りた右手に野菜・果物を並べている店があり、その後は金網の柵で囲まれた空間であった。また、線路沿いには駐車場があった。左手には整備されていない空間があり、その向こうにビジネスホテルがあった。野菜果物の店を過ぎるとすぐに、線路に並行している南大通りになる。これだけみれば十分であった。
 表玄関の北口に行った。左手斜めに行くユーロードが繁華街であることはわかっていた。今回は『八王子市史:上巻』(昭和38年発行)と『八王子物語:上巻・下巻』(昭和40年発行)を予め読んで、歓楽街が主たる人の流れの左方向にあるということを確信していたからだ。

 ■街路名(駅の看板より)

 駅前通り(桑並木通り)を行き、甲州街道手前の道を左折してジョイ五番街通りにでた。2時になっていた。なんでもよいから腹に入れよう。「八王子系ラーメン」と書かれた店があった。小さな店に客が3人いたので入ってみた。おばさん二人が作っていた。スープは醤油か味噌か、濃いめか薄めかを訊いてきた。醤油・薄めを頼んだ。ラーメンセット600円で、ラーメン・餃子・キムチ・もやし・ライスがついてきた。汁は煮干しがベースである。期待していなかったわりには、おいしい。あとで本屋で調べると、八王子系ラーメンとして何軒か紹介されていた。ただし、この店は掲載されていなかった。
 店を出てから、ユーロードを八日町交差点に向かって歩いた。この周辺が繁華街であることは一目瞭然。夜ネオンのついた頃しっかりみることにして、とりあえず八幡八雲神社に行ってみよう。ネットで調べてみると、お勧めスポットというほどではない。しかし、ぼくにとってはみておく必須の場所である。というのは、八王子は甲州街道沿いにあり、この八幡八雲神社を総鎮守として発展してきたからである。

 ここで、八王子の歴史を概観しておこう。924年に武蔵守であった小野隆康が八幡宮をまつり、その子義孝が権之守となり940年に当地に赴任し八幡宮を再建している。義孝は任期が終了したあともこの地に永住し、横山氏と改め八幡宮を中心に一村落を形成していった。横山村と呼ばれていたが、これが八王子の始まりになる(『神社由緒』)。
 八王子が街として発展するようになったのは、1590年に八王子城が落城し、城下三宿が甲州街道沿いの横山・八日市・八幡に移転し、そこに常設の市場がおかれてからのことである。徳川の関東移封後、武州と甲州の境で軍事上の枢要の地として、関東総代官所および千人同心がおかれたことにより急速に発展することになった(市史678頁)。甲州街道が大和田橋を渡って八王子市街に入り、横山・八日市・八幡・八木という宿場を経て、陣馬と甲州への追分から浅川沿いに向かったところで、現在の西八王子駅辺りに千人町がある。その周辺に八王子千人隊がおかれていた。八王子は甲州街道沿いの宿場町として発展したが、19世紀初頭の文化文政年間に織物の街としても発達した。明治になり、上州・信州・甲州の生糸を集荷し織物として横浜港から輸出する基地となり、多摩地区の中心都市として発展してきた。


『プロアトラスW2』

 八幡八雲神社は甲州街道より一つ北側の道に沿ってあった。行ってみて想像していたのとは違っていたものがあった。神社の入口が甲州街道に向いて南に開かれているとばかり思っていたら、一つ北側の道にも開いておらず、東を向いて建っていたことである。八王子は甲州街道沿いの宿場町として発展してきたところであり、その総鎮守が街道沿いにあれば、街道に面して建っているのが常識であろうと思ったからだ。とりあえず、その疑問はおいて郷土資料館に行ってみることにした。地図をもっていかなかったので場所はうろ覚えであったが、とにかく着いた。館内を一巡りして館員に質問した。多賀神社も東を向いて建っているとの返事。八王子は戦災で焦土と化し、八幡八雲神社も焼失し戦後再建された。再建前の昭和初めの地図をみても、八幡八雲神社は東を向いて建てられていた。
 館員の説明では、八王子の街は上町と下町からなり、横山町・八日町からなる下町の鎮守が八幡八雲神社、八幡町・八木町からなる上町の鎮守が多賀神社とのことであった。考えてみれば、街道に面して建てられていなくても不思議ではない。というのは、甲州街道が整備されたのは1600年頃で、江戸時代になって重要な街道になった。神社はそれより数百年も前に造られているのだから、街道とは関係なくて当然であった。今回は街について予習をしていったと述べたが、パラパラと読んだだけで繁華街の位置の確認だけだった。現地をみてわかることが多い。
 郷土資料館にあった古い市街地図をみせてもらった。手元の本には地図が掲載されていないので参考になった。繁華街の位置という点から参考になったのは、JR駅から左斜めに向かうユーロードと、右斜めに向かうアイロードは戦後になって造られたということである。戦前の地図には左右斜めに向かう道路はないが、昭和23年の地図には記載されていた。館員に訊くと、戦後に造られたと言っていた。また駅前通り(桑並木通り)も戦後道幅が広くなっていた。戦災で焦土となり、都市計画で道路を開設・拡幅したのであろう。手元の『市史』には記載されていないが、市役所に行けば容易に確かめられる事実であろう。
 閉館時間の4時半になっていた。郷土資料館を出てホテルに向かおう。ホテルは京王八王子駅近くなので、その前に昔遊郭があった田町に寄ってみることにした。明治26年8月に甲州街道沿いの横山町にあった貸座敷(遊女屋)から出火し、八日町・本町までの約700戸を焼き尽くした大火事があった。それを機会に、従来は甲州街道沿いの横山町・八日町に軒を連ねていた貸座敷を元横山町の田圃であったところに移転し、そこを赤線区域とした。それが今の田町になる(物語上巻129頁)。遊郭がいつ頃まで栄えたか資料をもっていないが、田町への入口にあたる八幡八雲神社周辺は、第二次大戦後まで娯楽の中心地であったという(市史1273頁)。ついでながら、明治30年4月に八王子大火があり3341戸を焼失している。それを機会に、貸座敷の同業者数人が現在の中町に芸妓屋の看板を掲げた。それが後に中町花柳界と称されるようになった(市史1274頁)。

 ■田町の通りを西から東にみる

 八幡八雲神社から田町に向かう路地は民家があるだけで、娯楽の中心地であった面影はまったくなかった。遊郭があったであろう田町には幅20mの道路が200mあった。たぶん東が入口で西に向かって客が歩いたのであろう。当時を忍ばせるものは、黒塀のこじんまりした料理屋と、壊れかけた黒塀だけが道に面して残っている民家だけであった。倉庫がある土手沿いの町はずれの寂しい場所という雰囲気であった。

『プロアトラスW2』

 ホテルにチェックインし、湯を浴びてから外出した。夜は繁華街をみる予定だ。その前においしい店をガイドブックで調べておこう。書店で立ち読みすると、ラーメン以外はとくに特徴はない。和食・洋食の店をいくつか頭に入れてJR駅に向かった。京王駅とは400mしか離れていない。両駅をつなぐメインストリートなのに、アイロードはさほど華やかではなかった。
 JR駅から左手方向にあるユーロードの入口に立った。若い男たちが何人か配布用のティッシュをもってたむろしていた。ユーロードそのものは昼間歩いているので、その左側にあるみさき通りから見ることにした。100m先に「プレイボーイ」というソープランドのネオンが見えた。それを確認しながら、その手前の区画を一回りした。スナック・バー・居酒屋というネオン街で何人かの客引きがいた。みさき通りに出てソープの前を通過し次の交差点で立ち止まって周囲を見渡した。すぐに客引きの男が3人寄ってきた。見ているだけだと断ると離れていった。次の区画を一回りし、一つ右にある富士見通りに出た。いかがわしさが少し薄まっている。さらにユーロードに沿って次の区画を見た。八日町交差点に近い区画にくると隠微ないかがわしさが加わってきた。掲載した地図では、ユーロードに沿って左側にピンクで囲んだジグザクの区域がネオン街になる。
 八日町交差点まで来て、ユーロードを折り返すことにした。7時半になって腹がすいていた。ガイドブックで調べたイタリア・レストランを探したが見つからなかった。客が入っているステーキ屋があったので、そこにした。熱い鉄板にジューという音を立てているハンバーグを食べた。8時になっていた。
 ユーロードを出口の方からみると、人もまばらで寂しい。線路に並行しユーロードと斜めに交わる道路は、みさき通り、富士見通り、名前のない次の通り、甲州街道の順になる。名前のない次の通りはユーロードの右側になるが、ネオンも人影もなく何台かの車が駐車しているだけであった。長崎屋のところまで戻って、パーク壱番街通りを歩いた。これは駅前通り(桑並木通り)に並行していて、ジョイ五番街通り、グラーン三番街通り、パーク壱番街通りの順に並んでいる。街灯も明るく、飲食店などが軒を連ねていた。その傾向は駅前通に近いほど顕著であった。
 何か軽く口に入れるものを買って帰ろうと思ったが、8時を過ぎてそのような店は閉まっていた。コンビニで飲み物を買ってホテルに戻った。

 八王子の街は次のようにまとめてよいであろう。主たる人の流れは、以前は甲州街道沿いに横山町から八幡町に向けてあった。これはたぶん江戸時代から戦後かなりの時期までそうであったろう。八王子は横山・八日町・八幡を中心に15宿が集まった宿場町として発展してきた。江戸初期の庶民の居住地はこの三宿周辺に限られていた。その先の小門宿を中心に関東十八代官と称される役人の屋敷がおかれていた。その意味で八王子は官僚都市といってよかった。上町・下町の呼び方もここから由来しているのであろう。元禄年間を最後に官僚たちは江戸に移転したので、八王子は官庁的色彩から商工的色彩に変わっていった(物語上巻228頁)。
 宿場町の色彩は明治になってもしばらく続いていた。街道沿いに旅館・料亭・遊郭が多くあった。それが明治26年・30年の大火を契機に、これらの施設が田町や中町花柳界に移っていった。それに代わって織物商を主とした物品小売業が街道沿いに進出してきた(市史688頁)。
 明治22年に新宿・八王子間に鉄道が敷設された。このいきさつは複雑であった。当初、鉄道は甲州街道沿いに計画されたが、高井戸・府中等で反対にあった。そこで、青梅街道沿いに変更したが、これも田無の反対にあった。両街道に挟まれた地域にある武蔵野開拓の地主たちが鉄道招致をしたので、新宿から立川までは一直線で敷設することになった(市史851頁)。
 郷土資料館にあった地図を見ても、戦前まではJR駅前の賑わいはさほど感じられない。駅前通りには何軒か店が並んではいるが、道幅は狭かった。甲州街道沿いに京王線が敷かれ、八王子に駅が開設されたのは明治43年であった。鉄道駅ができても、主たる人の流れの起点は駅ではなかったであろう。たぶん横山町の交差点あたりにあったのではないか。娯楽施設は八幡八雲神社の周辺から田町にかけてと、中町花柳界にあったと思われる。人の流れからみると、田町は右方向にあたる。その地に遊郭ができたのは人為的なものなので、自然の感覚とは合致しなくてもしかたがないであろう。
 戦後になり、JR駅を中心に街が構成されるようになった。桑並木通りをメイン通りとし、左右斜めにユーロード、アイロードを開設した。街はこの骨組みをベースに発展することになった。主たる人の流れは、JR駅から桑並木通りを進み、甲州街道と交差したところで左折して進む。桑並木通りの右斜めにはアイロードがあるが、甲州街道につきあった明神町交差点のところには裁判所がある。また、アイロードの右奥には都八王子合同庁舎がある。すなわち右地区は正統的な機能が配置されている地域になる。
 アイロードの賑わいには華がないと書いた。JR駅と私鉄駅をむすぶ道路である。通常なら街でもっとも栄えた華やかな地域になっておかしくない。そうはならないで、左斜めに進むユーロードが華やかな地域になっている。「歓楽街は左方向にできやすい」という私の考えでは、このような配置になるのは自然である。
 主たる人の流れを桑並木通りと述べた。しかし実際には、ユーロードを進む人の方が多いであろう。街の構成では、人々が街の中心的な方向をどう感じているかが重要である。たぶん、街の中心は桑並木通りであると答える人が多いであろう。人々が無意識ではあれ感じているものをベースに街は構成されていく。したがって、桑並木通りの左側に繁華街が構成されていく。
 実際には、桑並木通りよりもユーロードを歩く人の方が多いと述べた。そこでユーロードからみて、さらに左右の位置の性格づけがなされてくる。ユーロードの左方向には隠微な歓楽街が、右方向には明るい繁華街が形成されやすい。地図ではピンクと黄色の線で囲んだ地域である。八王子は自然の感覚にあった街の構成になっている。