「彦根の街」


 京都から岐阜に向かった。通常、この間は新幹線で名古屋まで行ってしまうので、在来線に乗る機会がない。したがって、途中駅はうろ覚えである。新快速に乗っていくと、聞き馴染みの駅がいくつかあった。その一つが彦根である。改めて、ここにあったのかと納得した。あることは念頭になかったが、彦根という名前を聞いて降りてみた。午後4時15分であった。駅で入手した市内地図をみて、私の理論からすればここは典型的な街だと直感した。というのは、駅前通りをまっすぐに行くと城の入口に突き当たる。その手前右側に、県総合庁舎と市役所という正統的な建物がある。城を左に回り込んで本町に行くと、夢京橋キャッスルロードがある。ということは、その周辺に歓楽街に近いものがあるはずだ。

(『プロアトラスW3』を加工:紫枠は夢京橋キャッスルロード、ピンク枠はスナック街)

 歓楽街を確かめることは後にして、城へ行ってみた。駅前通りを直進し護国神社を抜けると埋木舎があった。時間が遅かったので閉門していた。藩主の14男に生まれた井伊直弼が青年期のほとんどを過ごした場所である。彦根城は三重に堀が巡らしてある(下の地図参照)。埋木舎は中堀の外にある。藩主の子供としては冷たい待遇を受けたと言えるのであろう。
 ■埋木舎前から中堀を見る

 城への入口である表門橋に着いたのは5時であった。天守閣は5時半まで見られる。彦根山頂にある天守閣に上ると、琵琶湖に面して築城されたことがよく分かった。
 再び表門橋から出て本町にある夢京橋キャッスルロードを歩いた。建物を昔風にして、観光客向けの空間を作っていた。この周辺にスナック街があるはずだと思い、脇の路地をいくつも見渡すが、それらしい雰囲気は見あたらなかった。観光客向け空間に近いところに無いのは当然かとも思った。しかし、この街では、駅から見て左方向にスナック街が必ずあるはずだと確信していた。
 夢京橋キャッスルロードの終点はT字路になっている。そこを左折していくとアーケードが見えてきた。銀座街という日常の生活空間である。ということは、この近くにスナック街があるはずだ。銀座街に直交して、中央一番街があった。こちらの方がもう少し明るい雰囲気がある。スナック街を見つけるのだったら、銀座街に添って歩いた方が早いであろう。中央一番街は後で回ればよい。
 銀座街の中程にくると説明板があり、河原町が昔からの賑わいの場所だったことが書いてあった。銀座街はずれの十字路にきた。地図では細い緑枠で囲んだ左下端の場所である。右手は橋が架かっている様子である。まっすぐは道幅が狭くなっていて、何となく雰囲気のある街並みである。しかし、スナックは見あたらない。左手の駅の方に向かうことにした。中央一番街の周辺にスナック街があるのだろうと推測したからだ。結果から言うと、これが間違っていた。その後、緑枠内を行ったり来たりしたが、結局スナック街は見つからなかった。暗くなってきたし、岐阜でホテルを探す必要もあり、彦根を後にした。

 帰宅してからタウンページでスナック、バー、居酒屋等を調べると、河原町二丁目に百数十軒ほどある。地図でピンク枠に囲んだところが歓楽街であった。以前は袋町と呼ばれたところである。街を歩いているとき、いったんはその路地に入ってみたのだが、その裏手のところに歓楽街があったので気がつかなかった。
 彦根の街の「人の主たる流れ」は、地図で赤矢印をしたように駅から城へ向かう道である。その左下方向の袋町に歓楽街がある。左上方向には、観光客向け空間があり、昔の表通りだった場所である。その周辺に歓楽街はできにくかった。

(「城下町構成」『彦根市史』上冊401頁を加工)

 なぜ袋町に歓楽街ができたのであろうか。『彦根市史』を調べてみた。「城下町構成」というタイトルで地図が載っていた。この地図と、市史の記述とを対応させてみた。「城下を貫く主要道路は、河原町−土橋町−伝馬町−柳町となり、城下建設当初の中心本町を通る大手の通りは格式的な道路としての性格をもったものと思われる」(『市史』上冊405頁)と記載されている。主要道路がどこか、地図に赤線で書いてみた。少し自信がない。というのは、現在の銀座街から中央一番街に入る外堀のところに橋が書いてないからである。しかし、伝馬町というのは現在の中央町であり、土橋町、河原町というのは現在の銀座町である。したがって、これしかないと思い書いてみた。
 中央一番街のホームページをみると、「中央町はその昔伝馬町と呼ばれていました。南に高宮口御門、北には切り通し口御門、中間には油懸御門という中仙道への関門をひかえ、西からの本町筋もここまで延びて城下町における格式的な道路の性格をもっていました。お城に出入りする御用商人が軒を並べ、湖北最大のあきんどの街として栄えました」という記述がある。現在もそうであるが、昔も中央一番街および銀座街が賑わいの中心であった。また、本町を通る大手の通りは紫線で描いた。
 さて袋町の話であるが、明治初年に新政府の統制によって袋町に茶屋が集められ遊郭が形成されたという(『市史』中冊504頁)。それまでにも、平田町や小藪町には私娼がいたという。これらは袋町に近い場所である。芹川を渡って彦根城下に入ったところに、その種の商売が集まったということであろう。袋町遊郭は売春防止法の施行により、昭和32年に廃止されて、現在に至っている。