「日立の街」


 上野駅から常磐線に乗って茨城県の太平洋岸の街、日立駅に着いたのは午前11時半であった。よく晴れた日だったが、プラットホームに降りてまず感じたのは、空気が濁っていることであった。駅から右方向に高い煙突が見えた。日立セメント工場の煙突である。そこから出ている煙が靄の原因だった。ここが日立製作所の企業城下町であることを実感させるのに十分であった。
 『日立市史』には、「日立セメントの粉塵公害がひどく、昭和44年に周辺住民を中心に公害対策協議会を組織し、会社側に対策を求めた。その結果、昭和49年に集塵能力が高い六号キルンが完成し、粉塵公害がほとんど解決された」という主旨の記述がある(下巻684頁)。
  ■日立セメント工場の煙突

 駅前から、幅36mの広い道路が伸びている。並木があって立派であるが、車だけで人はほとんど歩いていない。シンボルとして造った道路だなと直感した。「平和通り」である。このようなケースでは、しばしば大通りの脇道に人が往来する道がある。ここでは平和通りの左側にある道路だろうか。
 駅から左方向に行くと広場があり、いかにも芸術という建造物が目をひいた。「日立新都市広場マーブルホール」という看板があった。その脇を通り、広場を斜めに抜けるとイトーヨーカー堂がある。シャトーのような作りで、アーチをくぐるとモールになっていて、店が並んでいた。
  ■日立新都市広場
  ■イトーヨーカー堂
 モールを進んでいくと左側から来る道路と一緒になり、並木がある幅30mの道路に直交した。「けやき通り」である。 けやき通りを右に150m行けば、駅前から来る平和通りに直交する。また、左に200m行けば日立海岸工場の角に行くはずである。けやき通りと平和通りが街の象徴として造られた通りだと理解した。けやき通りを渡ると、その先は「銀座通り(マイモール)」となっていた。

(『プロアトラスSV』を加工)

『市史』(下巻678頁)によると、戦争で破壊された日立の街は、戦災復興土地区画整理事業として平和通りとそれに直交するけやき通りを幹線道路とし、それに縦横に接続する街路が計画整備された。平和通りは昭和26年に開通している。また、駅前開発事業は昭和60年代から行われ、新都市広場の建設、大型店・専門店・ホテル・業務施設の誘致建設、さらにシンボル的施設として日立シビックセンターの建設がなされた。
 銀座通りを進むと、右手路地の向こうにスナックが見えた。今回は事前に家でスナックの位置を調べておいた。それによると、銀座通りを中心にスナックが左右に点在している。駅からモールを抜けて銀座通りを進む道が「人の主たる流れ」とすると、その左方向に歓楽街があるという考えでは説明がつかない。地図でみるように、さらに進むと銀座通りの右方向に居酒屋が連なり、スナックも多少ある。左方向にはスナックが1軒1軒点在するだけである。もちろん、昼間のスナックは精彩もない。
 銀座通りをさらに進み左にはいると、セントラル劇場という映画館があった。ほかにも1軒あった。銀座通りと並行している平和通りに出て、突き進むと水戸から来る6号線にぶつかった。駅と6号線を結ぶ平和通りの長さは1kmである。平和通りを超えて向こう側に行くと、横縞模様の大きな建物が目についた。「椎の広場アウリッツ」と称し伊勢甚デパートが入っている。現在は改装中であった。


(『プロアトラスSV』を加工。緑線は商店街、黄線は居酒屋、ピンク線はスナック)

 『市史』(下巻683頁)によると、中心市街地活性化のために、銀座商店街地区を中心として、駅前地区とアウリッツにおける大型店舗を核として回遊性をもたせ商業機能を充実させようとしている。9月のよく晴れた土曜日の昼間に歩いてみたが、人通りはほとんどない。市街地活性化が成功しているかどうかは疑問である。ただし、ここは企業城下町である。多くの人は日立鉱山・製作所と関係しているであろう。商業に関していえば、日立鉱山・製作所の福利厚生施設としての供給所が従業員に安価な商品を供給していた。その延長線上に現在の商業環境がある(『市史』下巻639頁)。市の意図はより広範囲を対象にした商業活動であろうが、基本的に地域住民のみを対象にした閉じられた商業環境といってよい。
 日立駅が開設されたのは明治30年(1897年)である。紆余曲折はあったが、当初計画の場所に駅が設置され助川駅と称していた。日立駅と改称されたのは昭和14年(1939年)であり、日立町と助川町が合併し日立市となったのが契機である。鉄道の開通とともに国道6号線に通じる1kmを結ぶ二間道路が新設された。それが銀座通りである(『市史』下巻225頁)。
 日立製作所との関係であるが、日立駅より少し北に流れている宮田川上流付近に赤沢銅山があった。それを明治43年(1910年)に久原房之助が買い取り日立鉱山と称した。その電気機械修理部門から独立して、小平浪平の主導のもとに明治44年(1911年)に設立されたのが日立製作所である。当初、工場は日立村宮田にあったが、昭和10年(1935年)に現在の海岸工場に経営の中枢部である事務所が移転してきた(日立市郷土博物館ホームページによる)。

 私の興味の観点からみると、なぜ銀座通りの左右にスナックが点在するのか。とくに銀座通りの右方向にスナックや居酒屋が多くあるのかということである。一般的に都市における人の主たる流れは、ある起点(鉄道駅が起点になることが多い)から街の象徴(たとえば城)に向かっていくことが多い。その左方向に歓楽街ができやすいというのが、私の考えである。日立市は企業城下町であり、海岸工場が城にあたる。しかし、通常の城と決定的に相違する点は、海岸工場が日常生活の場所だということである。庶民にとって通常の城は日常生活の場所ではない。しかし、ここでは城が日常生活の場所なのだ。したがって、海岸工場が人の流れの起点になることは自然である。
 日立に来るまでは、駅が起点だと思っていた。たしかに街は駅と6号線を結ぶ銀座通りを中心に発展してきた。しかし子細に見ると、銀座通りはけやき通りと6号線に挟まれた空間である。駅寄りの空間は近年になって整備されてきた。戦後復興の基幹街路として平和通りとけやき通りが幅広い並木道として整備された。平和通りは駅が起点であるが、けやき通りは海岸工場が起点といってよい。
 結論として、街の配置は海岸工場を起点になされていると考えた方がよい。工場からけやき通りを進むのが主たる流れになる。ただし、これはあくまで象徴であって実際に人の流れがそうなっているわけではない。しかし、街の人々がそう感じれば、無意識のうちにそのような観点から街が配置されていく。通常の街では、単なる象徴としての流れの方向が決定的な作用を及ぼすとは考えにくいが、企業城下町では企業への帰依が深いので象徴が決定的な作用を及ぼすと想像される。けやき通りが主たる流れと見なせば、その左方向に居酒屋やスナックが点在することは、私の考えから納得できる。
 日立に勤めている人は、けやき通りを出てまっすぐに行く。その右側に官庁があり、さらに右にイトーヨーカー堂やホテルがある。一番右に駅がある。左方向には、銀座通りを中心に、そこは買い物街だが、その道の周辺に居酒屋やスナックがある。ただし、企業城下町であるので、それ以上いかがわしい店舗はない。