「岩国の街」


 広島から岩国に行った。錦帯橋の名前は知っていた。駅前からバスがでていたので乗った。それほど遠くないと思っていたのに、あとで測ってみると5qはある。一通り見て回ったら昼食時になっていた。雨がポツリときたので食堂を覗いたが気が進まなかった。岩国城下の街は観光用になっている様子なので、パスしてバスに乗って駅に戻った。
 ■錦帯橋で

(『プロアトラスW3』を加工)

 駅前通り(中央通り)は幅が広くて立派で、街の顔としての道路になっている。しかし、線路に沿って左手に行く本通りの方が主たる商店街を形成しており、道の両側にはアーケードがあった。本通りを行くとすぐ右手に中通り商店街がある。中通り商店街もアーケード街になっているが、本通りほど立派ではない。その左右の脇道には居酒屋(地図で黄枠)やスナック等(ピンク枠)が並んでいる地域がある。さらに、中通り商店街のアーケードを抜けるとスナックが何軒かあった。地図ではそれなりに多く見えるが、スナックが密集しているのは新天地と書かれているところである。
 街の主たる人の流れが中央通りにあるのか、本通りにあるのか、判断に苦しむところである。実際の人の流れから言えば、本通りであろう。しかし、街の顔としては中央通りかもしれない。どちらにあるかによって、歓楽街が主たる人の流れの左方向か右方向か、反対になってしまう。

(『プロアトラスW3』を加工)

 岩国で疑問に思ったことは、なぜ駅が城下町から遠く離れたところに設置されたのか、ということである。街をみているときには理由が想像できなかったが、あとで岩国市史をみて納得できた。
 岩国城は慶長5年(1600年)に吉川広家が移封されてから作られた。その城下町の都市計画をみると、4つの区域が予定されている。城のすぐ下に横山地区、錦川を渡ってその向こうに錦見地区がある。そこに架かるのが錦帯橋である。横山の右隣に川西地区がある。さらに、錦川下流の今津地区にも予定されている。今津地区に城下町が予定されたのは、河口だからである。城を守るためと物資の輸送のために、河口に街が必要であった。
 ■近世初期の都市計画(『岩国市史』上582頁より)

 今津の計画地域がどこに当たるか、上の地図でみておこう。れんが色枠で囲んだところである。さらに赤の斜線を引いたところは町屋が予定されていた。
 明治になって鉄道駅が設置されるようになったとき、今津のはずれにある麻里布地区に決められたのは不思議ではない。