「吉祥寺の街」

(未完成)


 8月末に「語りの会」が吉祥寺東にある法政一中高記念会館ホールであった。法政大学の父母会である「後援会」の関係者が会を主催していた。浅田次郎作『ラブ・レター』を語ったが、最後の場面では、じーんとくるほど聴き入っていた。語りが終わってパーティになった。早めに切り上げて、吉祥寺の街を歩いてみた。いままでも何回か歩いたことはあるが、待ち合わせのついでで、きちんと見たことはなかった。

 吉祥寺東から歩いた。五日市街道を駅の方に向かう。駅から見れば、北口の右方向にあたる。五日市街道と中央線が30度くらいの角度で交差しているが、その近くが場末になっているのだろう。ラブホテルが2軒あった。水門通りを吉祥寺東からガード下を通り吉祥寺南へ抜けたところにソープが1軒、ラブホテルが1軒あった。さらに駅の近くに行くに従って、スナック・バーから普通の飲食店になっていく。ガード下には、ある学生がおいしいと言っていたラーメン武蔵屋があった。じつは語りの会に行くときにこの店を見つけたので食べてみた。麺が太く、汁は油濃く豚のにおいが残っていた。若者向きか。とりあえず駅前まで来た。駅北口の左手地区は何回か見たことがある。駅前にある地図を眺めることにした。

(出典)『プロアトラス2002』


 地図をみて気づくことは、五日市街道を基準にして、道が碁盤の目になっていることだ。そこに鉄道が30度の角度で交わっている。こんなことになったのは、中央線を中野から立川まで直線にして敷設したからだ。ということは、碁盤の目の道路は鉄道敷設の前に造っている。駅は吉祥寺本町と言われるところに設置された。たぶん昔から一番栄えた土地に近いところなのだろう。いまは五日市街道と井の頭通りの間に繁華街があり、駅がある。

 吉祥寺の街はぼくの理論通りには配置されていない。北口を出て右手方向に歓楽街があり、左手方向に伊勢丹や東急がある。その原因は寺が左手方向にあって、歓楽街になることを妨げられたと想像していた。その寺は「吉祥寺」でなければならない。地図の上で寺を探した。月窓寺とか武蔵野八幡宮というのは見つかるが、「吉祥寺」という寺は見つからない。たしか明暦の大火のときに吉祥寺あたりの住民が移ってきたのではないか。明暦の大火を調べてみると1657年。現在、吉祥寺という寺は文京区駒込にあるが、大火のときは水道橋にあったとのこと。大火後、寺は駒込に、周辺住民は現在の吉祥寺に移された。したがって、吉祥寺には寺の「吉祥寺」はない。ついでに、中央線の駅は1899年(明治32年)にできた。その後、昭和9年には井の頭線も開通した。

 ぼくの疑問は解けない。いずれ街の歴史も調べて、疑問に答えよう。しばらくは、このままにさせてください。