「呉の街」


 広島に行った折り、宇品港から船で呉に向かった。呉は明治の初めまでは名もない漁村であったが、明治22年に海軍鎮守府が、明治36年には海軍工廠が設立されて、第二次大戦による敗戦までの約60年間軍港として隆盛をきわめた。戦艦大和もここで建造された。戦後は呉市が港湾管理者となり、貿易港として生まれ変わった。今日では鉄鋼・造船・機械などの臨海工場群を背景とした工業港となっている。

(『プロアトラスW3』を加工)

 呉港のところに「大和ミュージアム」ができていたが、休館日であった。港からJR駅までは500mほどで、連絡通路で結ばれている。駅でパンフレットを入手し、駅前通りを歩き始めた。駅前通りは道幅が広く立派ではあったが、商店数が少なく寂しい。呉の街は商店街もなく寂しいところだと思いながら400mほど歩いて、中央3丁目の交差点を右に曲がった。250m歩くと並木のあるさらに立派な通りにでた。蔵本通りである。レストランもいくつかあり、少し寂しいが、ここが繁華街なのかと想像した。堺川に沿って歩くと常設の屋台が並んでいる。観光名所だけあって立派である。まだ宵の始めであり、寄っていく気にはなれなかった。屋台の切れたところで堺川を渡ってみた。川の向こうには何もないと想像していたのだが、居酒屋が連なっていた。その先にアーケードのある商店街があった。れんが通りである。ここが街の中心だった。駅が起点ではなかったのだ。

(『プロアトラスW3』を加工)

 れんが通りを中心に、堺川と本通りに挟まれた幅250m、長さ400mの区域をくまなく歩いてみた。れんが通り(中通り)と本通りは普通の商店街である。れんが通りの方が狭いが、少しくだけており、にぎやかである。それに直交する脇道は麗女通りとか新天街とか名前が付けられている。地図で黄色が居酒屋、ピンク色がスナック・バーである。地図の上方にハート印が2つあるが、ヘルスとラブホテルである。街を歩いてみて、地元の人が感じる「街の顔としての人の流れ」は最初の地図に描いた赤矢印であると判断した。その左側に繁華街があることになる。
 後で「呉市史」やネットで調べてみて、本通りが表の顔であることを納得した。本通りを南に下ったところに旧海軍練兵場、旧呉鎮守府、さらに南に旧呉海軍工廠造船部があった。これらを起点に街が構成されていたのである。現在はそれぞれ市民広場、海上自衛隊呉地方総監部、石川島播磨重工業呉第1工場になっている。