「京都の街」


 京都には何回も来ているが、街を観光としてしか見ていなかった。今回、西大路から河原町まで歩いてみた。そのとき浮かんだ疑問点が2つあった。
 @ 日本史では、平安京は大内裏と羅城門を結ぶ朱雀大路を中心に碁盤目状に造られていた、と教えられている。現在、大内裏も羅城門も存在はしていない。しかし、大内裏は天皇を中心とする政務および居所であり、現存する京都御所がその役割を引き継いでいる。現在、京都御所の位置は地図のように東に移動しているのはなぜか。
 A 最初の疑問とも関連するが、なぜ繁華街は京都駅から見て右方向の鴨川に近いところにあるか。街の配置についての私の「繁華街は左方向にある」という考えには一見反する。

(『Wikipedia:平安京』を加工)

 @の答えは簡単である。しばしば内裏が焼失し、そのつど天皇は里内裏(仮の皇居)に住むようになり、最終的にそれが恒久化したからである。文献はいろいろあるが、たとえば『京都二千年の素顔』(日本史研究会・京都民科歴史部会編、1995年)の西山良平報告を参考にして記述してみよう。
 ■内裏<不在>年表:西山良平作成

 内裏が初めて焼失したのは西暦960年である。その後何度か焼失しその都度再建されているが、比較的速やかに再建されるのは不在年表でT期とされている1046年までである。内裏が焼失すると、天皇は後院または後院に準じる殿第に移る。しかし1005年に焼失した後は貴族の一般里第に住むようになった。
 1039年に焼失すると造営に着手する動きが鈍り、内裏・里第の併用が本格化・常態化してきた。1048年に焼けると未使用のまま1058年に焼けて、やっと1071年に落成した。不在年表のU期をみると、11世紀後半に内裏を使用したのは約10年であり、内裏の不在が日常化していた。1100年に再建されたが、ハレの式場に使用されただけで、里第が天皇の平常の御在所になっていた。1227年に焼失した後、内裏は廃絶された。
 里内裏の所在地は当初、内裏と同じ一条に相当する場所にあった。ところが次第に南下していき、981年には四条院、1076年には六条院、12世紀後半には八条殿にまで遷御した。現在の御所は、大内裏があった場所より東に1.5km行った烏丸通丸太町に面してある。南北朝時代(14世紀)に東洞院土御門(ひがしのとういんつちみかど)が里内裏になり、北朝と呼ばれる持明院統の天皇家が居住するようになった。ちなみに南朝と呼ばれる大覚寺統の天皇家は二条富小路内裏に住んでいた。
 現代の京都御所は東洞院土御門内裏を元にしたものであるが、何度も焼失再建を繰り返している。1788年の天明大火で焼失したさい、老中松平定信が内裏造営にあたり『大内裏図考証』に従い平安時代の形式で復元再興した。その後、1854年にも焼失したが、翌年に再建され、現在に至っている。敷地は江戸初期の慶長造営時に東に拡大し、その後も何回かの拡張を経て、中世の東洞院土御門内裏の数倍の広さになっている。
 羅城門については、816年に暴風雨で倒壊した後再建されたが、980年に再度倒壊してからは再建されなかった。

 Aは@とも関連するが、なぜ京都は鴨川に近い東の左京地域に繁華街ができたのであろうか。まず平安時代の貴族の屋敷がどこに密集していたかを見よう。ちなみに左京・右京は大内裏から見て左を左京、右を右京という。現在の京都駅から見ると、左右は逆になる。
 西山報告によれば、奈良時代から9世紀までは、貴族は五位以上を基準としていた。貴族の宅地は一町以上と考えられているが、9世紀には貴族の邸宅は五条以北の左京に集中している。言い換えれば、五条以北の右京には貴族はほとんど住んでいなかった。この傾向は10世紀でも同じであった。奈良時代の平城京においても、左京の方が右京より高位者が多く住んでいた。ただし、左京・右京で人口には大きなが違いがないので、右京の方には下級官人が多く住んでいたのではないかと考えられている。
 ここから先は私見であるが、右京より左京の方に高位者が住んでいたというのは、一つは地理的な条件であろう。西山報告にも平城京の右京は地理的に複雑であったとの記述がある。京都の場合には特に、西の右京地域は湿地帯が多く住みづらい土地であった。もう一つは、尚左思想によるものと思われる。左が上位であるので、高位者は左京地域に住んだと考えられる。

 平安京時代の京都と中世以降の京都は別の街であると考えた方がよいとの指摘がある。とくに天下統一をした豊臣秀吉が行った京都大改造は平安京とはまったく異なる発想である。すなわち、左京地域を街として、それを囲む御土居を構築した。その中を洛中とし、その外側を洛外として分離した。街の中心は聚楽第であり、御所は東の端に位置することになった。徳川時代には聚楽第は取り壊され少し南に位置する二条城が街の中心に位置するようになった。
 ちなみに洛中・洛外というのは洛陽からきている。平安京では西の右京を長安、東の左京を洛陽と擬して呼んでいた。 この呼び方は10世紀後半には一般化されていたという。やがて右京が衰微し左京が中心となったので、京中と同義語で洛中という表現が用いられるようになった(金田章裕『平安京−京都:都市図と都市構造』6頁)。
 ■御土居:新大宮商店街振興組合のホームページ
 ■江戸時代の御土居:『地形図で見る変遷』ホームページ

 平安京では、朱雀門から朱雀大路を通って羅城門へ向かうのが街の軸になっている。御土居に囲まれた京都の街の軸はどこにあるだろうか。洛中洛外図がそれに対するヒントを与えてくれる。水本邦彦『絵図と景観の近世』(校倉書房、2002年)の第11章「洛中洛外図のなかの京都」を参考にしよう。
 現存するものは80本を上回るが、それを景観構成の空間的・時間的検討から定型、変形、展開の3種類に分類している。定型は室町時代末期の景観で、右隻は東山一帯を背景に洛中の一部を、左隻は北山から西山に及ぶあたりを背景に洛中の一部を描いている。変形は桃山時代のものであり、聚楽第や二条城出現によって別個の視点がだされ累計は見いだしがたい。江戸時代にも継承はされなかった。展開は1603年に竣工した二条城が指標である。左隻は西山を背景にしながらも、前景は上京下京の区別なく洛中を東西に二分した西半分で、中央に二条城を描く。右隻は東山を背景に洛中の東半分を描き、中核は祇園会である(同書276-277頁)。

 まず定型における視線をみよう。下記の図は室町末期に描かれた上杉本における上京と下京の町組の範囲であり(金田章裕8頁)、赤矢印は書き加えたものである。右隻の視線は下京の四条通を中心に祇園に向かって描き、左隻は上京の立売通りを西に向かって描いている(水本邦彦284-286頁)。
 ■上杉本「洛中洛外図に描かれた町線(太線)」
 江戸時代初期には上京・下京ではなく、下京を油小路で左右に分けて、右隻には従来からの三条〜五条通を中心に東山に向かう視線で町並みを描いている。それに対し左隻は二条城を中心に西に向かって描かれている(水本邦彦290頁)。 いずれにしても京都の街の賑わいは、右隻に描かれているように四条通りを中心に祇園に向かう方向で構成されていた。

 なぜ四条通を中心に祇園に向かうのが街の視線になったのであろうか。川嶋将生『洛中洛外の社会史』(1999年、思文閣出版)のうち「序章:鴨川の景観」を参考に記述する。
 鴨川が芸能興行の地として登場するのは14世紀以降である。しかし応仁の乱以降行われなくなった。再び芸能興行の場として脚光を浴びるようになったのは、16世紀末に五条河原が各種芸能の興行地として登場してからである。それはここが洛中から清水寺への参詣路に当たっていたからである。豊臣秀吉の時代になり、方広寺大仏殿が造営されたときに五条橋は2本南の旧六条坊門小路に架け替えられた。こうして成立した新五条橋は大仏殿への参詣路としてだけではなく、秀吉が造営した伏見城へとつながる幹線道路の出発点という意味を担った。新五条橋のたもとの鴨河原に芸能興行が復活したのは幹線道路の出発点という位置づけとともに、秀吉がとった政策による。すなわち、聚楽第の造営、新たな道路建設と町割り、お土居と寺町・寺之内の建設など京都改造政策を断行し、洛中に無数に存在し複雑に絡みあっていた領主権を整理したことである。それにより町が整理され、町共同体として結束するため町定を作ったので、洛中において芸能興行を行うことがきわめて困難な事態になった。そこで鴨河原が注目されるようになった。
 五条河原から四条河原へと興行地が移動したのは江戸時代初期のことである。元和年中(1615〜24年)に所司代である板倉勝重が四条河原に歌舞伎櫓を赦免したとの伝承がある。江戸幕府が四条河原に櫓の免許を与えたのは、豊臣氏の過去の栄光である大仏殿から都人の目を引き離そうという意図かもしれない。こうして芸能興行の場が四条河原へと移され、歌舞伎小屋、操り人形芝居の小屋、その他見せ物小屋が林立した。以上が「序章」の要約である。

 これ以降の時代については、京都市編『史料京都の歴史10 東山区』(1987年、平凡社)の41〜45頁でみよう。
 江戸時代には三条から五条にかけての鴨川東地区が遊所としての賑わいを見せた。東海道の起点となる三条大橋東詰には、『元禄覚書』によると25軒の旅籠屋があった。また、南の玄関口で伏見街道の起点となる五条橋東詰には38軒の旅籠屋があったと記されている。四条通は祇園町と呼ばれていたが、その両側には18世紀初頭に4軒、四条川端を南に入った宮川町筋には37軒の旅籠屋があった。
 水茶屋・料理茶屋・焼豆腐などの飲食業でいえば、四条通を中心に大和大路(縄手通)・川端筋に展開して遊客を誘っていた。水茶屋は18世紀初頭には祇園町全体で41軒、川端筋には10軒、大和大路には39軒があった。
 寛文10年(1670年)の鴨川堤の大規模改修によって、この地域の都市化が進展し、中世以来の四条河原の様相は芝居町の形成により一変した。芝居町の成立とともに、川端通・大和大路の造成がみられ、この道筋に沿って新しい町が造られた。祇園外六町と呼ばれる地域で、茶屋町を形成していった。さらに元禄4年(1691年)に祇園社によって開発願いがだされた祇園新地、いわゆる祇園内六町の開発が茶屋町を拡大させた。それにより18世紀初頭には祇園町に74軒の茶屋が、さらに周辺を加えると二百数十軒の茶屋があった。さらに18世紀後半には宮川筋の遊里公認と相まって茶屋町は繁盛した。祇園内六町だけで188軒の茶屋を数えた。これにより祇園一帯は京都最大の遊所・遊里に発展し、伝統的な権威を誇っていた島原は相対的に地盤低下を示した。

(「東山の名所と史跡」:『史料京都の歴史10東山区』より)

 上述したように、室町時代末期から江戸時代初期にかけての洛中洛外図では、京都の街においては四条通を祇園に向かうのが都人の視線になっていた。江戸時代を通して祇園一帯がさらに賑わいをみせ、京都最大の遊所となっていったので、この傾向はさらに強まったと考えられる。したがって、街における人の主たる流れは、四条通を祇園に向かう方向と判断してよいであろう。この流れは現在に至るまで変わっていないと思われる。

(『プロアトラスSV』を加工)

 京都の街を歩いてみて、四条通を烏丸から祇園に行く通りが人の主たる流れであると直感した。鴨川を渡って左の地区で、四条通と新橋通に挟まれた地域に歓楽街がある。ただし、よりいかがわしい店舗は鴨川沿いの川端通からひとつ入った縄手通に並んでいて、呼び込みが何人か立っていた。そこから東、花見小路通りまでの白川沿い周辺は風情あるお茶屋や料理屋が並んでいて観光地になっている。その先の花見小路通から東大路通までにスナックやバーが密集している。ただし、東大路通は主要通りであり、先は知恩院になっていて、その周辺にいかがわしい店舗はない。

(『プロアトラスSV』を加工)