「町田の街」


 横浜線の橋本駅経由で町田に行った。新宿から小田急に乗って町田に行くのが普通である。十数年ほど前に行ったことはあるが、街の様子は覚えていない。横浜線町田駅のホームからみると、やや遠くにホテルの看板が見えた。すぐにラブホテルだとわかった。街の中心がラブホテルのある方向にないことは、以前来た経験からわかっていた。午後4時近くになっていた。とりあえず、ホテルのあるところを見ることにした。地図では左下の赤いハートのマークの位置である。

(『プロアトラスW2』を加工)

 高架駅から降りるとヨドバシカメラがあった。ホテルの見えた方に歩いていく。見えたのは境川の手前にあるホテルだった。狭い川であるが東京都と神奈川県の境をなしている。県境は入り組んでいて、駅前のヨドバシカメラも神奈川県側になる。電柱に示してある住所表示は相模原市上鶴間になっていた。
 川の向こうにも数軒ラブホテルがあった。橋のたもとに30歳くらいのごく普通の女性が立っていた。だれかと待ち合わせているのだろうか。橋を渡ってラブホテルに挟まれた道を進んだ。その先に「酒屋」と書かれた赤提灯の店があった。地図では「店」と赤記号で示した場所である。その前を通り過ぎようとすると、中にいる女性が私に微笑んでいる。掛け値なしに美人である。魔力に引き込まれそうになったが私は飲めないし、これから街を見なくてはいけない。そこを去ろうとすると、駐車場から中年の男がその店に入っていった。まだ早く客はいない。飲むのだろうか。いや、こんな場所だから買うのだろうか。妄想をしているうちに、男は一人で出てきて駐車場に戻っていった。
 ホテル街がなぜこの位置にあるか考えた。いつもの習性である。でも悩む必要はなかった。町田はJR線と小田急が直交している街である。しかもJR線をまたいで反対側に行くには、高架の改札口前を通らなければならない。駅周辺では、普通の道を歩いて反対側に行くことができない。しかも川があり、ホテル周辺は半ば隔離された隠微に場所になっている。それが要因であろう。

 繁華街の方に出た。JRと小田急の連絡通路はひとであふれていた。地図で紫矢印をつけた場所である。高架通路から見渡してみた。大通りが2つあった。JR線に平行している道と、それに直交している道である。主たる人の流れはどの方向か。これを見定めるのが街に対する私の見方である。鉄道で4つに仕切られてしまった街では、これが非常に見定めにくい。JR線に沿った道ににぎやかな店が多い。地図では赤矢印で示した方向である。結論としては、これが主たる人の流れと考えてよい。でも最初の段階では、この方向ではないだろうとの思いが強かった。というのは、町田はJRよりも小田急駅の方がはるかに利用客が多い。したがって、小田急駅からでる人の流れが主たるものになっているはずである。赤矢印はJR線からでた人の流れではないのか。
 まず小田急駅の方に行ってみた。にぎやかな通りがあるかもしれないと思ったからだ。でもJR側の方にはそのような通りはなかった。元に戻って、赤矢印の方向に歩いてみた。これが表通りであろう。東急百貨店があり東急ハンズがあった。
 ■赤矢印の大通り
 東急ハンズの所まで来ると、左手から斜めに来る道が合流していた。地図では黄土色に示した道である。表通りよりも歩行者がいて、こちらの方が歩く道なのであろう。左手垂直に折れてみた。居酒屋やコスプレもあり、やや猥雑な路地であった。そこを抜けると地図では緑色に描いている道に出た。一番街である。この通りが一番の繁華街であった。
 ■一番街
 一番街を駅に向かって戻るように歩いた。通りに突き当たった。その向こうが二股に分かれていて、左が一番街、右が二番街になる。通りの手前に呼び込みの男たちがいた。地図では顔で示した場所である。
 ■一番街、二番街へ
 右の二番街の方へ歩いてみた。というのは一番街の方が表の繁華街であることは明らかだったからである。二番街の方にスナック街があるのではないかと思った。二番街だけあって、人通りも少ない。長崎屋を過ぎて角の所に少しいかがわしいパブがあった。ここら辺にスナック街があるのかと思って周辺をみたがなかった。
 ■二番街
 小田急の線路を渡って探してみたが、スナック街はない。小田急駅を出たところの一番街に来た。十数年前にここに来たことがあることを思い出した。この周辺が歓楽街の様子を見せていた。地図でピンクに囲んだ地域である。明るい歓楽街で、スナック街のすえた感じはない。それもそのはず、駅の出口である。といっても駅ビルデパートの中を通って出てくる。出口には狭い広場がある。人の出入りは多く、一番街へ流れていく。
 スナック街を探しにさらに歩いてみた。地図で長崎屋の先に細いピンクで囲んだ地域がある。スナック街と呼ぶには寂しいが、そこに何軒かスナックがあった。
 私の結論としては、赤矢印の進む方向が主たる人の流れと言ってよい。実際の人の流れはその左に並行する一番街である。さらに左の二番街の方で、小田急駅に近い方に歓楽街とは言えないまでも、それなりの地域がある。変則的ではあるが、左方向に歓楽街があると言えなくもない。疑問点は、なぜ小田急駅の方が歓楽街的なのか、である。
 5時を過ぎていた。このあとさらに新横浜を見るつもりだ。どちらも鉄道が交差した街なので、比較ができるかもしれない。その前に「酒屋」の女はどうしたか気になった。ホテル街の写真も取り忘れたし、もう一度行ってみる気になった。橋まで来ると、30歳くらいのごく普通の女が立っていた。普通の女ではなかったのか。「酒屋」には別の女がいた。美人とは言い難かった。

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 『町田市史 下巻』(昭和51年3月発行)をみた。1974年10月撮影の航空写真があった。JR線に並行する赤矢印の大通りと、直交する大通りの両者ともその当時はなかった。一番街・二番街、さらに一番街に並行しJR線に近い道はあった。その道が赤矢印の大通りに出るところに東急ハンズがあるが、そこから先の大通りはあった。たぶんJR線の出口は東急ハンズの方にあったのであろう。駅舎がその辺りに写っている。
 人の主たる流れを赤矢印の通りと判断したが、そこが表通りになったのは最近ことである。
 町田が発展したのは鉄道が通ってからのことで、その前は原町田に市が開かれてはいたが、都会からは遠い農村地帯であった。横浜線が開通したのは明治41年である。駅が開設されても乗降客はあまりいなかった。町田の発展は昭和2年に小田急線が開通してからのことである。

(以前のJR町田駅の位置と主要道路。『プロアトラスW2』を加工)

 「原町田の商店街はもともと公民館通りの交差点あたりから横浜銀行付近あたりまでが中心であって、小田急銀座通りなど中心部から離れた商店街は、小田急の新原町田駅が開設されてから長い期間かかってじょじょに出現したものである。終戦直後の昭和二十年代においても小田急銀座通りには、かご屋、ちょうちん屋、鍛冶屋等、町はずれ特有の昔ながらの手工業者の店が見られたほどである。当時、新原町田駅前の南側には岡直三郎商店の醤油製造工場があった。この道を通って国鉄方面へ行く人は、やや刺激性のある醤油特有のにおいをかがされたものである」(市史1065頁)。
 公民館通りとはどこなのだろうか。ネットで調べてみると、現在でもその呼び名は使われているらしい。東急ハンズ前から出て行く道で、そこがかっての駅前通だった。この駅前通からみると、小田急銀座通りの出口は500mも離れたところで、町はずれと言ってよい。かっての駅前通からみて左方向のはずれにあり、そこが歓楽街になっても不思議ではないが、少し不自然でもある。というのは、JR駅よりも小田急駅の利用者の方が多いから、小田急駅が街の中心になってもよいからである。
 昭和20年代に、当時の町長は小田急駅前を商店街として開発するよう強く主張した。その結果、醤油工場が移転し、その跡地に商店街が出現した。真っ先に進出したのは映画館やパチンコ屋であった(市史1066頁)。その後、金融機関が進出したが、盛り場という性格が決定づけられた。
 もうひとつ考えられる要因は、小田急駅前の通りが狭いということである。私鉄駅前はどこでもそうであるが、駅前広場が小さい。また、道幅が狭ければ、街の表玄関にはなりにくい。
 昭和40年代になると、JR駅と小田急駅を接近させ、駅名も「町田」に統一する動きが出てきた。そのさい、JR駅の方を小田急駅近くに移転させることになり、小田急に近い第一案から、移転しない第六案まで列挙された(市史1112頁)。結局、中間の第三案に決まった。これは従来のJR駅付近の住民に配慮した結果であった。昭和55年にJR駅の移転が行われた。現在の様子をみると、駅前通だった公民館通りには商店街はほとんどない。
 以上の記述からわかるように、町田の街の配置は少し複雑である。本来、駅前通であった公民館通りが表通りとして発展すればよかった。しかし、JR駅よりも小田急駅の利用者の方が多いので、小田急駅を中心に街が再編成されてきた。ところが、小田急駅からの道は狭く表通りの性格をもちえなかった。そこで、現在のような中途半端な配置になってしまったと考えられる。