「左から右に街を楽しむ」

(この文章は『法政通信』2003年1月号に掲載したものです。)




総社市での地方スクーリング

 5月1日から6日まで岡山県総社市で地方スクーリングがあり、総合特講を担当しました。学部では統計学を教えていますが、ほとんど必修に近い地方スクーリングの授業で、予期せぬ統計学はかわいそう。そこでチョッピリ趣味の街の話を付け加えることに。出発前夜、インターネット・タウンページで岡山周辺の姫路、福山、津山といった街のスナック店を検索しました。それを地図に描きながらニヤッ、これで大丈夫! 準備完了。行ったことのない街でも、私の理論どおりに話ができる。なんたって強気です。
 総社は人口5万人、スナックも約30店舗がまばらに散らばっていて、街の話をするほどのこともない。辺りはレンゲ草の咲く、春の吉備路。午前中の講義が終わると、そのままサイクリングで備中国分寺や作山古墳、雪舟の修行した宝福寺をまわり、夜は岡山の安くておいしい寿司屋のカウンターで至福の時間を過ごした。まだ街の仕込みができていないので、翌日の講義では平均、分散の話で時間をひっぱる。午後は姫路に行って話のネタを作るか。

 ■姫路の街(姫路市・姫路観光協会パンフレットより:630KB)

ネタ作りに姫路へ

 岡山で腹ごしらえをして姫路に着くと、3時。駅から国宝・姫路城に向かう大手前通をゆっくり歩く。左手の魚町通を中心にスナック街があるのはネットで調査ずみ。安心して右方向にある播磨国総社宮から見てまわる。もっとも、いつもなら街は左方向から見はじめ、右へまわる。街を見るのに、あらかじめ調べていくことはない。それでは、どこに何があるのか分かってしまって、つまらない。でも今回は講義で話すので、特別。パーキンソンの「カクテル・パーティーの法則」では、会場に到着した客は必ず左方向に流れていく、とある。データで実証されているわけではないが、街では、ぼくもそう心掛けている。
  総社宮で時間を掛けすぎた。大手門を入り三の丸広場にきたら、4時5分前だった。マイクが、姫路城への入場は4時までと告げていた。急き立てられながら城内を見た。ぼくの関心は城下の地図である。武家町、町人町、寺町がどこに位置されているかをみる。観光客がいなくなっても、しばらく城下の地図を見ていた。三重の堀だ。堀によって内曲輪、中曲輪、外曲輪と分けられている。城を中心に中曲輪に武家町を、外曲輪に主として町人町を配置している。従って、城下を抜ける山陽道は外曲輪を通過するように誘導されており、街道沿いに町人町が張りつくことになる。
 城を出て、確かめようと思っていた魚町通に向かった。駅から大手前通を城に行く方向が、この街の「主たる人の流れ」とするならば、魚町通を中心にした魚町、塩町、福中町がその流れの左手地区になる。現在は中堀、外堀は埋められ、それぞれ国道2号線、バイパスが走っている。この2つの大通りと大手前通、船場川に挟まれた、かっての外曲輪の半分が左手地区になる。外曲輪の右手半分には、大手前通に並行して御幸通、小溝筋というアーケードがあり、買い物街をなしていた。

歓楽街は主たる人の流れの左方向にできる

 ぼくの仮説は、「歓楽街は主たる人の流れの左方向にできる。また、主たる人の流れに沿って、あるいは、その右方向には、街における正統的な建物が配置される」というものだ。主たる人の流れに沿って立派なビルが建ち並び、銀行、デパート、一流会社のオフィス、ブティック、上品なパン屋、若者に人気のあるファーストフードというような店舗が配置されやすく、右方向には役所、美術館、由緒ある学校といった施設が置かれることが、多くみられる。それに対し、左手地区には飲み屋、居酒屋、小料理屋などがあり、さらに行くとスナック、バー、キャバレーなどがある。
 人口50万人ほどの地方都市ではこの程度だが、さらに大きな都市になると、スナック街の先にラブホテル街が立地することもある。そこまでが繁華街で、その先は住宅街になる。ラブホテルが街中に立地されるためには、利用する男女の匿名性が確保される程度に大きな人口が必要というわけだ。もちろん、車で利用する場合には、国道沿いやリゾート地という人の少ないところでかまわない。ついでに、ソープランド街は大都会にあるという必要はない。ソープランドを利用する人は地元の人ではないからだ。単身赴任の多い地方都市とか、近くにかっての軍隊や大きな工場とか男社会があるような所にできやすい。
 翌日の講義では街の話をして、課題を出した。姫路の街では左方向の魚町通を中心に飲み屋、小料理屋、スナックなどが多くあり、大手前通より右手の御幸通、小溝通に買い物街がある。なぜ、その逆ではないのか?
 姫路の場合、買い物街や飲食・スナック街はどちらも町人町のあった外曲輪にある。武家町のあった中曲輪には、公園、学校、神社、市民会館、警察署、病院、動物園、美術館、博物館という公共の施設が置かれている。左右どちらに歓楽街ができるか。その答は過去の経緯からは説明できない。しかし、多くの都市で、武家町よりは町人町の方に歓楽街ができやすいことは実感できる。左右の位置については脳の空間認知に由来すると、ぼくは考えている。とりあえず、姫路ではぼくの理論が当てはまっていた。

単純な街、複雑な街

 姫路の街の配置を典型的にした理由として、「主たる人の流れ」が過去と現在で一致していたということが挙げられよう。すなわち、大手前通が昔も今も主たる人の流れになっている。そのように姫路駅が配置されたことによる。このような例として、長岡が挙げられる。7月に行ってみた。
 長岡藩は河井継之助の藩政改革や小林虎三郎の米百俵で有名だ。ところが観光ガイドをみたって城趾がわからない。駅周辺に城内町や大手通があるのに。駅の観光案内で訊ねると、駅そのものが城跡で、驚いた。普通は、城跡は街の象徴として残すものだ。長岡藩は戊辰戦争で新政府軍と戦い敗れ、城下町は廃墟となった。だからというわけではないだろうが、城跡に駅が造られた。幸いぼくの理論には都合がよい。主たる人の流れが昔と今で一致している。駅から信濃川の方に向かう大手通の左方向に飲食・スナック街があるはずだ。連れもいた。見なくても分かったので、とりあえず、ゆっくりと信濃川にかかる大手大橋まで歩いてみた。河川では花火大会の準備が進んでいた。引き返し、左手地区である殿町に行った。想像どおりだった。右手地区には歓楽街がないことも確かめた。

 ■長岡の街(『Super Mapple Digital Ver.2』より:198KB)

 姫路や長岡のような例は多くない。駅は昔の中心街から離れた荒れ地や沼地に設置され、主たる人の流れが昔と今で一致しないことが普通だ。その場合、街の配置は複雑になる。たとえば、新潟である。信濃川河口に発達した街である。明治時代までは河口に向かって左の日本海側に新潟町、右に沼垂町があり、いろいろな問題で対立していた。新潟町の街並みは、信濃川に近い方から並行して、大川前通、本町通、東堀通、古町通、西堀通がある。大川前通には二番町から六番町にかけて大店が並んでおり、本町通の五番町から十番町は一番栄えた商店街であった。現在万代橋がかかっている柾谷小路は六〜七番町であり、それより川上に一番町、川下に十番町がある。主たる人の流れは、本町通を川上から川下に向かうものだったと推測される。その流れの左方向にある古町通には旅館、料理屋、貸座敷あるいは遊郭があった。
 鉄道駅は、明治30年に沼垂町に開設された。資金難から信濃川を渡って新潟町へ敷くことができなかったからだ。万代橋は明治19年に架設された。その付近まで鉄道を延伸し新潟駅を開設したのは明治37年であった。その後、新潟町と沼垂町は合併し新潟市となっている。現在の新潟の街は、駅周辺に商業地区ができており、歓楽街は主として昔の新潟町にある。主たる人の流れは、駅から万代橋を渡り柾谷小路に向かうものである。その右方向に古町地区があるが、和風の少し格式の高い店がある地域というイメージで、正統的な位置づけになっている。主たる人の流れの左方向には、スナックやいかがわしい店が集まっている。

 ■新潟の街(『プロアトラス2002』より:316KB)
 ■元禄11年の新潟古地図(『新潟市史』より:119KB)

街の話と統計学

 ところで街の話と統計学、どこに関係があるのか? 実際のところ、ない。でも統計学の基本的発想のひとつは、大量観察である。個々の事例はいろいろばらついていても、数多く観察することによって、そこから規則性を見いだすことにある。ぼくに趣味はない。物事に執着することも少ない。法政に就職して以来、数多くのレストランや割烹に行った。しかし、おいしい、まずい、高い、安いで行っているわけでもない。多くの店を見たいだけだ。だから、なじみの店は作らない。街でも、同じ道はなるべく通らない。
 街の話をした後で、統計学と結びつけなければと考える。そうでなければ、単なる雑談になってしまう。この場合には、二項確率と仮説検定の話にもっていく。たとえば、北海道34市の事例を挙げる。鉄道の通っていない6市を除いて、すべて訪ねてみた。歓楽街が明らかに右方向にあるのは、留萌だけだ。左にあると言ってよいのが14市、歴史的にみていけば左と言ってよいのが9市、判断がつかないのは4市であった。
 歓楽街が左にあるか右にあるかは偶然に決まるという仮説を立ててみる。pを歓楽街が左にある確率とすると、この場合には、p=0.5 である。たとえば、28市のうち23市以上において歓楽街が左にある確率はいくらか? これは二項確率の問題になる。ぼくの考えていることは、歓楽街は左にできやすいということだ。すなわち、p>0.5 。主張したい仮説を「対立仮説」、自分がそう思っていない仮説を「帰無仮説」といえば、データからどちらの仮説がより正しいと判断できるか。これは仮説検定の問題である。帰無仮説が正しいとしたとき、28市のうち23市以上で歓楽街が左にある確率を計算する。約1万分の5である。これは非常に小さな確率だ。でも実際には、23市で歓楽街が左に位置している。ということは、帰無仮説が正しいとは考えにくい。歓楽街が左にできやすいということを認めてもよいのではないか、という結論になる。

北海道の市における歓楽街の位置(エクセル・ファイル:21KB)

座席と左右

 歓楽街が左方向にできやすいというのは、空間認知に由来すると考えている。とすれば、他の事例もあるはずだ。実は、一番最初に気づいたのは座席の位置である。数十人のクラス授業では、座席指定でもないのに学生の座る位置が決まってくる。熱心な学生は前列に、熱心でない学生は後列に座る。これは常識だが、さらに右に座るか、左に座るかによっても、学生の性格に違いがみられる。同じ前列でも、教壇からみて右方向に座る学生の方が、左方向に座る学生よりも、理解力が良いように感じられる。
 学部で2年次対象の基礎統計学という授業をもっている。最初の授業のときアンケートをとる。1年次の語学授業でどこに座っていたかを答えてもらう。それに基礎統計学のテスト、出席回数のデータとをあわせて分析してみた。前から3列目までを「前」、それ以降を「後」、教壇からみて右方向を「右」、左方向を「左」とする。出席回数は前列の学生が後列より多かった。テストの成績は、問題の内容によって分かれた。(A)毎年出題する平均・分散の問題、(B)公式に当てはめればできる確率の問題、(C)少し考える問題、である。前左にすわる学生は、A、Bの問題についてはよい成績をとったが、C については最低であった。前右の学生はまんべんなく良かった。後右の学生は総合点では一番悪かった。ただし、C の問題では前左の学生よりは良かった。後左の学生はまんべんなく普通の成績であった。
 経験を加味して言うと、前右に座る学生は熱心で理解力がよい。前左の学生は熱心だが理解力が遅い。あるいは、言葉のハンディーのある留学生が多い。後右の学生は授業に消極的にしか参加していなく、理解しようとすることも少ない。後左の学生は理解力の良し悪しに関係なく授業から逃避し、友達同士でおしゃべりしていることが多い。付属校出身者はこの位置にいる。もちろん、これらは極端な表現だが、傾向として言える。

いろいろな現象と左右

 このような現象は授業だけにとどまらない。いろいろな会合や集会での座席の位置についても、同じような現象がみえる。教壇や演壇からみて、前列右側に座る人の方が前列左側に座る人よりも、その集団において正統的であることが多いように思われる。人は、属する集団のどの位置にいるか分かっている場合には、自ずからそれにふさわしい位置に座ることになる。逆に、不特定多数の集団や流れの中にいるときには、より気楽な方向に身を任すことになる。そこでは、ごく自然に左側通行になったり、左方向に進んだりする。ある本では、左方向への選択率として7〜8割の数字が記述されている。
 絵画についても、キャンバスに描かれる位置によって意味があるようだ。下方に描かれるものは安定的に見え、上方に描かれるものは開放的、不安定に見える。さらにキャンバスの右側と左側とで意味あいが違ってくる。下方右側に描かれるものの方が、下方左側のものより安定的に見える、という人が多い。また、上方左側に描かれるものの方が、上方右側に描かれるものよりも開放的に見える。経験的には、7割の人がそう感じている。
 肖像画では、目線が右向きのもの、すなわち顔の左側面をみせるように描かれるものが多い。また、女優の顔のアップは左側面からなされることが多い。あるいは、ブラウン管に映るゲストは向かって右側に、すなわち、左側面の顔を見せるように座り、インタビュアーやアナウンサーは左側に座るのが通常である。ルネサンス期の画家、レンブラントは多くの肖像画を描いたが、それを分析した数字がある。自画像の場合には右側面の横顔が多く、自分から遠い存在になるほど左側面の横顔が多くなる。すなわち、男性親戚、男性非親戚、女性親戚、女性非親戚の順に左側面の横顔が多くなっていく。
 カウンセリングのひとつの方法として、箱庭療法がある。患者が作る箱庭作品を解釈するとき、右側領域は外的な現実に向かうものを暗示し、左側は内的な無意識の領域に向かうものを暗示する、と解釈すると理解しやすい例が多いという。論文によれば、この見方をした場合には7割くらいは適中しているという。
 上述した例に共通しているのは次のことだ。「目線が右方向にいくときが表向きの正統的な姿であり、その先に位置するものが正統的なものである。逆に、目線が左方向にいくときは内的な非正統的な姿であり、その先に位置するものは非正統的なものである。正統的なものは外的・安定的なものであり、非正統的なものは内的・開放的なもので、やすらぎをもたらす」
 このような現象が街についてもみられる。上述の例は、個々人が左右の位置をどう理解するかだが、街の場合には、集団として左右の位置の違いがどう現れるかということになる。個々人の場合には、7割が表現される確率の目安である。集団での発現は多数に引っ張られるから、もう少し高い確率になるだろう。北海道の都市の例をみると、8割か。これらの現象は、いずれにしても左脳、右脳の機能の表現だと思われるので、いつの日か、脳科学が解きあかしてくれるだろう。

左右からみた街の解釈

 地方スクーリングが終わって、教え子の車で高松に向かった。瀬戸大橋を渡り、5時過ぎに坂出に着いた。6時に高松の料亭を予約してあった。時間がなかったので、坂出の街を30分だけみた。駅から歩いてみた。ぼくの予想に反して、左方向に長いアーケード街があった。連休中だからか、うす暗く寂しかった。いまは、どこの地方都市に行っても、こんな印象だ。スナックを探した。たしかに何軒かあったが、ぼくの理論では釈然としない。帰京して、市ヶ谷図書館で坂出市史を調べて納得した。坂出は海から発達した街で、駅は街のはずれに造られたのだ。スナックの位置もズバリ解釈できた。でもスペースがないので、これ以上は書けない。法政図書館の特色のひとつとして、市史、町史が充実していることを挙げておこう。ただし、昭和50年代前半の収集が多い。
 高松には何度か行ったことがある。ただし、前回は駅周辺が再開発される前だった。料亭を出て、10時発岡山行き電車のために急いだ。駅周辺はたしかにきれいになっていたが、まだ1軒だけソープランドが残っていた。普通、駅前はその街の一等地で、ソープランドは場末にある。高松の街は複雑な心理を感じさせるので好きだ。
 高松駅は瀬戸内に面したところにあり、そこから少し左に位置する中央通りを2qほど栗林公園に向かっていくのが、主たる人の流れになる。昔は駅前から公園の方に向かう県庁前通りが主たる人の流れだった。中央通りとフェリー通りに挟まれた400mx1qの左地区が歓楽街になる。人口33万人の都市にしては大きすぎる。四国の玄関で、企業の支店もあり単身赴任も多いのだろう。中央通りを栗林公園に向かう右側に市役所、県庁、中央公園、学校、病院といった公共施設がある。私の理論どおりの街である。
 不思議なのは、高松市民が誇りに思っているは栗林公園であって、高松城(玉藻公園)ではないことだ。栗林公園は下屋敷があったところで立派ではあるが、普通は城が街の象徴になる。玉藻公園は高松駅の左側に隣接してある。海に向かえば駅の右側になる。そこが場末だった。げんに、いまも名残のソープランドがある。どうしてそうなったのか? 高松藩は松平氏が治めていて、明治維新で賊軍になった。それが影響して、城に誇りがもてなかったのかもしれない。とにかく、堀のすぐ側を琴電が通っており、歩いては堀に接することができない。完全に玉藻公園は隔離されている。これでは象徴になれない。ただし、琴電が堀の側を通るようになったのは戦後の昭和23年である。それまでは城が街の象徴であったのか。疑問の残るところだ。

 ■高松の街(『プロアトラス2002』より:425KB)

  『街と都市の空間配置』という論文を法政大学経営志林第36巻第3号(1999年10月)に書いている。もしよろしかったら、読んでください。