「松本の街」


 新宿からあずさ号に乗り午後1時に松本駅に着いた。観光案内所で地図をもらう。松本城に行くには駅前通りを約300m進み、左折して約300mで女鳥羽川を過ぎ、さらに大名通りを300m直進していけばよい。地図でみての直感で、歓楽街は駅のすぐ左手「伊勢町」と書かれているところだろうと想像した。地図ではピンク枠で囲んだ地域である。
(『プロアトラスW2』を加工)

 とりあえず駅前通りを進む。まずは腹ごしらえと思い、店を探す。たぶんそば屋がいいであろう。深志2丁目の交差点を左折し城の方に向かうとすぐによさそうなそば屋があった。みよ田というそば屋。人が並んで待っていた。冷やし鉢そばを注文した。そばはうまい。終わって城に向かう道を歩くとすぐに「開運堂」という和菓子屋があった(紫○印)。よさそうな店だが、先を急いだ。
 女鳥羽川を渡ると右河岸に沿って縄手界がある(紫枠の地域)。そこを無視して城に向かう。外堀のところに来ると「松本城」という大きな石碑があった。そこで写真を撮った。さらに内堀まで来て城をバックに撮影した。かなり前にこの内堀のところまで来た記憶がよみがえってきた。そのときは夕方で暗くなっていて城内には入れなかった。今回は城内に入る。天守閣は黒塗りである。六層の天守閣に上る階段は60度以上の角度があって急である。その説明書きもあった。
 ■松本城
 天守閣を出て博物館をみた。江戸時代の地図があり、街は城の後方にまで広がっていたことがわかる。博物館を出て、城の後方に歩いてみた。堀端の紅葉がきれいだ。松本神社があった。そこを北に向かうと洋風な塔の建物があった。開智小学校と書いてあった。その後に開智学校があった。小学校の塔は開智学校をまねたものであった。
 ■開智学校
 開智学校を見学する時間はなかった。もときた道を戻って市役所の方に行った。市役所の裏手も江戸時代には街であった。というより、松本駅を中心とした街づくりができる前までは、善光寺道の通っているところが中心街であった(黄土色枠の地域)。縄手界をみてから、中町の蔵通り(紺色枠の地域)を本町通りに向かって戻った。ひととおり観光地は見たので、繁華街があると思われる伊勢町の方に向かった(ピンク枠の地域)。伊勢町通りからパルコのある方に行きその界隈をみてまわった。居酒屋・スナック街があった。しかし、それほど大きなものではない。もう少し大きくてもよさそうだと思いながらも、この程度の大きさかと思った。
 伊勢町通りの近くにラブホテル「プラザ」があった。この界隈をひと回りしたら、午後4時になっていた。駅に来たが、地図では駅より南にある右方向の地域をまだみていない。列車を1時間遅らせて右方向の地域も確かめておこう。バスターミナルがあり東横インがあった。そこを本町通りに向かった。角に松本信金があり、そこに飛脚の小さなブロンズ像が建っていた。明治になって、松本で初めて郵便局ができたことを記念して建てられていた。その説明書に、善光寺通りの南、袖留橋の袂に高札場があったと書かれていた。探したがわからなかった。
 ■飛脚のブロンズ像
 開運堂に行き栗大福とそば饅頭を買った。それを食べながら人形通りを行くと、突き当たりに寺が見えた。その手前に「源智の井戸」があった(水色○印)。名水だという。和菓子を食べた直後においしい水を飲んだ。
 伊勢町界隈をもう一度抜けて駅に急いだ。駅近くに「ファッション ラブ」という個室があった。予想通り、ピンク枠で囲んだ地域が歓楽街であることを確認した。赤い矢印で示したのが街の主たる人の流れになる。その左方向の地域に歓楽街がある。なお、江戸時代の主たる街道は善光寺道であり、地図では細いピンクの線で示した。地図の下の方から、本町を通り、女鳥羽川手前で右折して中町を抜け、左折し大橋を渡り、東町通りを北に向かっている。
 松本駅から5時発の篠ノ井線の列車に乗り、仲間と宿泊する旅館に向かった。そこで素晴らしくおいしいキノコ鍋を食べた。
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 江戸時代に松本城下を通っていたのは北国脇往還であり、中山道洗馬宿から分かれて北の松本宿を通り善光寺に向かっている。そこで善光寺道とも呼ばれていた。それは松本城下の町人地を通って抜けていた。そこに商店が並んでいた。
 ■江戸時代の武家地と町人地:『松本市史』第二巻近世 p.196

 明治十年代に売春宿のあった場所が市史に記載されている(『市史』第二巻近代 p.89)。それをみると、黄土色枠で囲んだ地域にあった。明治35年に篠ノ井線が開通し、松本駅が開設された。それ以後、駅を中心に街が再編されるまでは、善光寺道に沿った流れが主であり、歓楽街は東町通り周辺にあった。
 松本駅周辺に商店が集まりだしたのは、大正末期に路面電車が開通して以降のことになる。昭和12年に駅前広場が拡張され、駅前通りも拡幅されて、商店街形成の条件が整ってきた(『市史』近代 p.409-410)。それでも昭和戦前期には、善光寺道沿いが街の中心であった。駅が街の中心になるのは戦後のことである。