「三原の街」


 広島からの帰り、三原駅に途中下車した。表玄関の南口から外に出た。平日の午前中でもあり、静かな駅前である。左手方向にレンガ色のこぎれいな舗装路があった。マリンロードと書いてある。国道2号線まで200mしかない小さな商店街であるが、これが街のメイン商店街であろう。マリンロードの左側に並行しているグリーンロードには、飲食店やスナックがいくつかある。少なすぎて歓楽街とは言えないが、一応「人の主たる流れ」の左方向にスナックなどがある。単純な街の構成だと思った。

(『プロアトラスW3』を加工:黄印は飲食店、ピンク印はスナック、緑枠は三原城の中心部分)

 駅前に戻って、ペアシティ三原の前を通過し、右方向にあるアーケード道を歩いた。この空間は薄暗く古い商店街である。国道2号線まで150mほどであるが、左右の脇道にも店が並んでいて、こちらの方がメインの商店街かもしれない。スナックは見あたらなかったが、飲食店もマリンロード周辺よりは多い。「ていじん通り」という看板が掲げてあった。たぶんこれが以前栄えた商店街なのであろう。
 国道を渡り川のところまで行くと三原市役所があったので、職員に尋ねてみた。地元に古くから住んでいる女性で、丁寧に答えてくれた。以前は、この「ていじん通り」がメインであった。市役所前を通り橋を渡ると帝人三原工場があったが、今はない。マリーンロードがきれいに舗装されたのは10年前くらいである。また、駅前にペアシティがあるが、以前は東館に専売公社があった。その女性が子どもの頃は本町通りが賑やかだったが、今はまったく活気がない、とかである。あとで駅北側にある本町通りを歩いてみた。伝統的な店が並んでいたが、人はほとんど歩いていなかった。
 三原の街の中心は、本町通り、ていじん通り、マリンロードの順に移ってきている。したがって、人の主たる流れがどこにあるかは定かでない。ただし、こぎれいなスナックは新しい街の方が好きなようである。

(『天保11年の三原城下絵図』を加工:緑枠は上の地図に対応した部分、黒色部分は町屋、赤色は寺)

 駅北側に接して、三原城跡の堀と石垣が残っている。現在の地図と天保の地図を掲載したが、比較のため城の中心部分を緑枠で記してある。江戸時代には、現在の駅北側だけに街があり、南側は海であった。もともと三原城は「浮城」と呼ばれていた。永禄10年(1567年)に小早川隆景が、瀬戸内海の小さな島々をつないで築城したとのことである。
 地図からわかるように、三原城を鉄道が横切っており、残っているのは北側のわずかな部分である。三原のあとに尾道に寄った。高台にある古寺巡りコースが人気だ。駅から一番離れている浄土寺は格式ある寺である。しかし、参詣のため上ってくる階段を覆うようにして、その上を鉄道が通っている。三原城といい、浄土寺といい、鉄道敷設の時にそれなりの配慮があったらと思わざるを得ない。天守閣を取り壊したり廃仏毀釈があった時代なので、仕方がないといえばそれまでだが。