「三島の街」


 八月下旬に修善寺近郊でゼミ合宿をした。その帰り道に三島に寄った。ちょうど昼食時、うなぎが有名らしい。知らなかった。観光案内所でもらったパンフレットによれば、富士山の湧水で、「化粧水」と呼ばれる硬水に、うなぎを一週間活きじめにして余分な脂肪や泥を落としているという。「本町うなよし」という店が載っていたので、そこで「上うな丼」を注文した。ボリュームたっぷり。一口目の印象は、身が締まって味がさっぱりしている。東京のうなぎは、もう少し柔らかく味をしみこませてあるから、そう感じるのか。食べていくうちに、味を強く感じるようになった。上等な赤ワインが最初軽く感じられるのと同じか。
 うなぎ屋を出て、ゼミ生と別れて三島の街をみることにした。まずは三嶋大社。伊豆国一の宮という。ということは、三島は門前町か。本殿は総欅素木の権現造りで立派である。脇門から入ったので、はじめ本殿をみて、神池を通って入口の鳥居へという順序になった。鳥居をまっすぐに出て行った通り沿いに、普通は土産物屋が並んでいるはずだ。ところが、商店街らしきものはまったくない。鳥居の前を横切っている通りの方が往来が激しい。これは旧東海道であり、当然のことだが、店はその街道沿いに並んでいる。門前町なのに、店の配置が少し奇妙なのは、街道に接して鳥居があり、参道がないからであろう。通常は、街道から入って門前の街並みを抜けて、神社仏閣に行く。
 ■三嶋大社の鳥居で


三島商工会議所編『みしまっぷ』より

 三島は、東西を結ぶ東海道(大社前を通過する道)、北へ向かう甲州道(大社の西側脇を北に行く道)、南へ向かう下田往還道(鳥居前から南に行く道)の交差点に位置している。その東西・南北の交差する辻のところに三嶋大社が鎮座して、街が形成されてきた。
 鳥居をでて旧東海道に直面した。右手方向(西)に700m行くと、三島と修善寺を結ぶ伊豆箱根鉄道の広小路駅がある。左手方向(東)に650m行くと、大場川(神川)に架かる新町橋がある。もちろん、この時点では観光地図をみながら、かろうじて東西方向がわかっただけだ。それでも、広小路から三嶋大社に向かう流れが、この街の「人の主たる流れ」であると直感した。というのは、うなぎ屋は本町にあり、広小路の方から三嶋大社まで歩いてきたので、その道すがらが主たる商店街であることは分かっていたからだ。たぶん、江戸時代も人の主たる流れは同じであったろう。ということは、上方から江戸へ下る方向が主たる流れということになる。その逆ではないのか。ふーん。なんとなく、わかったような、わからないような感じ。


『プロアトラスW2』より 赤い矢印が「人の主たる流れ」 ピンクの斜線が歓楽街 赤丸は本陣

 広小路駅に向かって歩き出した。すぐの交差点を左に行けば市役所がある。主たる流れからみれば、右手方向にあたる。江戸時代、市役所のあるところには三島代官所がおかれていた。幕府にとって箱根山は安全と秩序を守る第一の生命線であり、その入口にあたる三島は幕府の直轄領になっていた。江戸中期の宝暦年間に、代官所は韮山に移転された。大砲を造る反射炉や江戸の台場造りを指揮したことで有名な江川太郎左右衛門(英龍)は韮山の代官であった。三島には代官所の任務を補う役所、陣屋が置かれることになった。
 さらに歩いていくと、電柱に「本町11」と記してあるのに気づいた。たぶん、その先は10か9番地か。直感は当たった。9番地だった。広小路駅が起点であるとすれば、それに近い方から番地をふっていくはずだ。やはり、人の主たる流れは広小路駅から三嶋大社だ。観光地図をみると、この辺に参勤交代のときに大名が泊まった世古本陣と樋口本陣跡がある。あとから調べて分かったことだが、三嶋大社の先に位置する新町橋のたもとに、さらし首場があった。江戸から来た旅人にとっては、大場川を渡ったとたんにさらし首をみることになる。結局、街は江戸に向かう流れで造られている。たぶん、参勤交代で江戸へ向かうのが、流れの方向を作っているのであろう。
 ここまでわかれば、あとの楽しみは、広小路駅を起点とする主たる流れの左手方向に歓楽街があるかどうかだ。駅近くの源兵衛川にきた。小川であるが、澄んだ水の流れが速い。手を触れてみる。ヒヤッとするけれど、それほど冷たくもない。川に沿って左折したすぐのところに時の鐘がある。駅からみると右手方向になる。時の鐘について説明がないか探してみたが、なかった。ひょっとして、最近になって街の雰囲気を演出するために造ったのではないかとも疑った。あとで調べてみると、広小路のところに火避け土手があり、その付近に時の鐘があった。その鐘の音で宿場内に時を知らせたという。三島は冬になると西風が強く吹き、宿場西側の民家から火の手が上がると、瞬く間に大火になってしまうそうだ。延焼を防ぐために広小路付近に火避け土手を造ったという。いまは跡形もない。
 ■江戸時代の古地図(『三島市郷土資料館ホームページ』より)

 川の流れに沿って100mほど歩くと踏切があった。その向こうに、ヘルスの看板が見えた。主たる流れの右方向なのに、いかがわしい場所があるのか。江戸時代は、街への入口か出口のところに岡場所がおかれていた。広小路は街への入口である。ここに岡場所があっても不思議はない。でも、いかがわしい一角は狭かった。ここが三島のメインの歓楽街ではないはずだ。
 広小路駅の近くにユニーのビルがある。この街で一番の商業施設だ。ここを起点にして、三嶋大社に向かう大通りが「人の主たる流れ」である。その左手方向に行ってみよう。源兵衛川を再度渡って左手に折れた。1ブロック行くと、大通りに並行した道に出た。「鎌倉古道」という標識があった。鎌倉時代までは、この道が東海道であった。江戸時代には、この道に沿ったところは裏町と呼ばれていて、職人などが住んでいた。
 源兵衛川に架かる鎌倉古道の橋を「ひろせ橋」という。ひろせ橋を四隅の一角として、大通りと鎌倉古道に挟まれた100m平方の地域に歓楽街があった。掲載した市内地図でピンクに斜線をした部分である。本町3〜7番地にあたる。歓楽街の位置が予想通りだったので、うれしくなった。さて、これで一仕事終わった。こんどは街のきれいなところをみるか。
 ■本町の歓楽街 鎌倉古道より大通りをみた写真

 ひろせ橋に戻って、源兵衛川畔を歩き始めた。川中に造られた石畳があり、そこに誘導されるようになっていた。浅いので、子供たちが川につかって遊んでいた。源兵衛川は楽寿園の中にある湧水池を起点にしている。200mほどで楽寿園裏に着いた。入口にまわった。その前に白滝公園があり、そこにも湧水がある。三島はいたる所に湧水があり、「街中がせせらぎ」である。
 ■源兵衛川