「水戸の街」


 先日、模擬授業で水城高校へ行った。歴史の新しい学校であるが、ゴルフに力を入れているようで、片山晋呉の出身校である。その前夜、10年ぶりに水戸の街をみた。驚いたのは、南町3丁目交差点の角が広い空き地になっていて、「南町自由広場」という看板が立っていたことである。10年前に歩いたときには、もちろん広場ではなく商業店舗があった。その少し先に伊勢甚デパートがあり、そこを右折したところに京成デパートがあって、街一番の繁華街であった。
 夜8時ではあったが人通りもなく、別の街をみているような気分になった。(10年前の記述については、このシリーズの『街と都市の空間配置』を参照)

(『水戸市観光マップ』から)

 自由広場の向こうに、「KEISEI」というネオンが見えた。京成デパートであった。たしかここは伊勢甚デパートがあった所だ。京成デパートは右折したところにあったはずだがと、その方向をみても暗いだけであった。確証のないまま、もっと先に伊勢甚デパートがあるかもしれないと歩いているうちに、左手にソープランドが見えてきた。そこは天王町である。ということは、伊勢甚デパートの所は過ぎてしまっている。やはり京成デパートが新たにできた所にあったと確信した。
 天王町のソープ街は10年前と変わらぬ様子であった。煌々とした空間に黒服・蝶ネクタイの男が何人かたむろしている以外は、人気がない。閉店している店もあり、ソープ街の周辺は闇であった。後でタウンページで調べると、11軒ある。街の空洞化にもかかわらず、ここは影響がないようである。
 ソープランドはラブホテルと違って、人口の少ない街中にも立地する。街中にラブホテルが出現するのは、試算によれば約50万人規模の街である。その程度の人口になると、知人に見られることを心配しないでホテルにはいることができるからであろう。その意味で、匿名性が保てる大きさなのである。水戸の人口は20数万人である。街中にラブホテルが2軒あるが、匿名性が保てるほど大きな街ではない。その点、ソープランドの客は外部の人間であるので、小さな街にも立地しうる。
(『水戸市観光マップ』を加工)

 国道50号を横切って大工町、泉町の居酒屋スナック街に入った。空腹になってきたので泉町にある中川楼か鰻亭でうなぎを食べたい気持ちであったが、ひとりでは待ち時間が長すぎると思い、スナック街を歩き続けた。スナック街の灯りは10年前と変わらない様子であった。ただし、人通りは少ない。
 一通り見て水戸芸術館の方へ向かうと、角にラブホテルがあった。以前にも確認したホテルである。このホテルの先に京成デパートがあったはずだ。少し広い駐車場があり、突き当たったところがデパートのはずである。しかし、暗い中に少し高い建物があり、入口も見あたらない。その建物のはす向かいに海鮮問屋という名の店があった。そこに入り丼を注文した。仲居に訊くと、その建物はたしかに京成デパートであった。近くにモールができたのではないかと訊くと、車で20分のところにできたと仲居が答えた。
 帰宅後、ネットで調べた。水戸から友部に向かって各停で3つめの内原駅の近くに、2005年11月にイオンモールができていた。店舗面積は7万u、4000台の駐車場をもち、北関東有数の大型店舗という。多数のテナントのほか、シネマコンプレックスや複数の医院があり、近くにいくつかの量販店や飲食店が出店しているという。国道50号バイパスが走り、常磐自動車水戸インターから車で10分とアクセスも優れている。このイオンモールの開業により、30年の歴史を誇ったジャスコ水戸店が閉店した。またイオンモール開業後、中心市街地である南町・泉町地区の通行量(人)が激減するなど空洞化問題も起こしているとネットには書かれていた。
 駅の方に戻っていく途中で、南町1丁目を右折して千波湖に向かう道筋に飲屋街が、また、東照宮脇の道筋に飲屋街があった。依然見たときと変わらない規模だと思うが、大工町・泉町の歓楽街が周囲の風景から寂れて見えたので、それと比較して少し賑やかに見えた。そこは明治期に奈良屋町として賑やかであった場所である。
 街に駐車場が目立つのが気になった。あちこちに空き地ができたということであろう。

 翌朝、下市(下町)を見た。昔の下市は、備前堀と那珂川に挟まれた地域である。備前堀にかかっている銷魂橋(たまげばし)が水戸街道の終点でもあり、七軒町、本町等が町人町を形成していた。当時としては、商業の街としてそれなりの賑やかさがあったのではないかと想像される。下地図で、銷魂橋は右下にある納屋町近くの橋である。
 昔の下市は、現在住宅街である。最初の地図で、「ハミングロード513」とあるのが、昔の繁華街と思われる。今は住宅街にある商店街である。

(『水戸市史』掲載の「安政城下町割図」に駅・鉄道を加工)

 下市が繁華街にならなかった理由は水戸駅の位置にある。上地図は江戸末期の地図に駅と鉄道を書き加えたものである。駅は千波湖に面した位置にある。現在の千波湖は縮小されて水戸駅南口には土地が広がっているが、その埋立は大正から昭和にかけて行われた。水戸駅の設置は明治22年である。もし下市の発展を考えて水戸駅を下市付近に設置すれば、その目前には本丸があり、それを越えて上市に行くのは不自然であろう。
 鉄道を千波湖の南側に敷設し直す運動があったが、実現しなかった。もし実現したとすれば下市は発展したであろうが、下市から上市への回路は遠いので、上市の発展はなかったであろう。結局、下市を犠牲にして上市の発展を選んだことになる。その結果、上市の町人町である大工町・泉町に歓楽街ができることになった。