「水戸の街」



 9月初旬にゼミの教え子の結婚式が水戸の隣のひたりなか市であった。最寄りは一駅先の勝田になる。4年ぶりに水戸に出かけて一泊した。1999年に土浦で大学主催の講演会があり、街の話をした。そのとき、土浦なので茨城県の都市を大中小並べて話してみようと考え、27万人都市の水戸、13万人の土浦、5万人の石岡を選んだ。右と左の私の理論には自信をもっていたので、行ったことのない街を選んでも話には困らないと直感していた。夏の暑い日、まず土浦に行った。上野から電車に乗り1時間。土浦駅の手前にある桜川にさしかかったとき、左手にラブホテルが一軒みえた。これで街の話は大丈夫と確信した。水戸に行ったのはそれから一週間後。実際には、街を解釈するのになかなか苦労した。

 今回は結婚式。街を見るためではない。昼の12時に水戸駅に着いた。水戸といえば納豆。観光案内で専門店を訊いた。市役所脇にある「信力」という店を勧めてくれた。市役所は駅の裏手、桜川を渡って右に15分ほど歩いたところにある。桜川にかかる駅南大橋に来ると、千波湖の方向、桜川の左岸に「やすだ」というラブホテルの看板がみえた。見覚えがある。たしか、その先を左に曲がったところにもラブホテルはあったし、右岸には数軒あったはずだ。

 ■水戸駅裏地区(『プロアトラス2002』より)

 目指す店はすぐに見つかった。入ったわけではなかったが、見覚えもあった。ごく普通の飲食店である。納豆の唐揚げと、やまかけ納豆を注文した。小粒でコリッとしていて、おいしかった。食べ終わって2時になっていた。予約したビジネスホテルは駅反対側の繁華街の方にある。駅から歩いて15分。チェックインし、駅に戻って電車で一駅先まで行き、タクシーに乗って披露宴会場に行き、4時の開会に間に合うだろうか。暑い日差しの中を早足で歩いた。ホテルに着いたときには、びっしょりになっていた。礼服と着替えの下着をもって駅に折り返す。なんとか電車には間に合った。
 ゼミの同級生は6人出席していた。結婚式があるたびに会うメンバーなので、久しぶりという気はしない。隣に座った斎藤君が、最近街に興味をもっているという。ヒンズーとかイスラムの街にも興味があるようなので、宗教的な観点から街の配置をみるとおもしろいかもしれないと話した。夜7時に披露宴がお開きになって、タクシーで水戸に戻り、皆で繁華街に出かけた。ぼくには、繁華街の位置はわかっている。泉町にあるデパート伊勢甚辺りが中心だ。そこから大工町にかけて、国道50号にそって右手に入ったところに飲食店やスナックがある。また、左手に入った天王町のところにはソープ街があるはずだ。
 
(出典『プロアトラス2002』)


 われわれは南町にあるダイエーの辺りから歩き始めた。話しながらゆっくり歩いているとなかなか着かない。8時半を過ぎて、店のシャッターも閉まっていた。もうすぐ伊勢甚のはずだがと思いながらも、少し不安になってきた。アンコウ鍋で有名な山翠のところにきた。すぐその先が伊勢甚だ。駅から伊勢甚までは1.5kmもある。斎藤君が「水戸の繁華街って、長いですね」といった。いい質問だ。なぜか。それに対するぼくの考えは後で記そう。教え子も、卒業して実社会にもまれると、いろいろ知的興味が出てくるようだ。坂元君は「先生、表計算をわかりやすく学生に教えておいてよ」という。実務に必要なのだ。ぼくは表計算の使い方はうまい。教えることもできる。しかし、実際にやってみないと身につかないし、学生は言葉ではやりたいというが、実際には興味を示さない。知的な疑問がないからだろう。
 泉町の交差点を京成百貨店の方に入り、ひとつ路地を左に折れたところに「中川楼」という鰻屋があった。舟橋聖一が「悉皆屋康吉」という小説に書いている。文政5年創業というから、180年は経っている。知らなかった。とにかく、格式があって入りずらそうな店だったので、入ってみた。夜遅い急な客だったらしく、女将があわてて座敷をつくってくれた。掛け軸があり、障子越しに情緒ある庭がみえた。腹は空いていなかった。ビールと鰻を注文する。教え子も三十後半になると、実社会でもまれてきているので頼もしい。

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 (『街と都市の空間配置』より転載)

 水戸は、江戸時代に水戸徳川家が治めた中核的な都市であった。町の構造から言うと、那珂川と千波湖に挟まれた高台と低地からなる土地につくられた。高台のはずれ、低地に隣接する場所に城が築かれた。高台には武家町が、低地には町人町ができた。それぞれを上市、下市と呼んでいる。
 江戸時代には、町の防衛のため、堀と直進しにくい道路からできていた。明治期になり町の拡充整備が行われた。明治10年代後半に行われたのは、主に上市と下市を結ぶ道路整備であった。また、民間人の事業として、当時は上市のはずれであった大工町を整備し、そこに芸妓屋を置いた。それを中心に数百十戸の家屋ができた。水戸警察はしばしば風紀取り締まりを強化したが、それにも関わらず、明治30年代にかけ、上市は大工町を中心に泉町、五軒町が、下市は竹隈町界隈が盛り場化していった。当時の人の流れは下市と上市とを結ぶものが主であったと思われる。とくに、下市から上市へ向かうのが主たる流れの方向と考えられるので、その左奥の方向に盛り場ができたのは自然であると思われる。
 明治22年に水戸に初めて鉄道が敷かれ、城に隣接した低地部分に水戸駅が設置された。鉄道は上市と下市の連絡を絶つような形で水戸の街を横切っていた。水戸駅の裏手には、当時はまだ埋め立てられる前の広い千波湖が横たわっていた。それゆえ、水戸駅裏手の下市側の発展は望めなかった。明治末期には、しばしば、水戸駅の南方面への移転が提唱されたが、実現にいたらなかった。
 このような状況を背景に、水戸の街は上市を中心に繁栄することになった。明治15年に茨城県庁舎が城跡の三の丸に完成した。県庁周辺には官公署や専門職業者の事務所ができ、水戸駅周辺と南町には、それらの関係者、一般市民、観光客を対象とする飲食宿泊業が栄えた。上市繁栄のもうひとつの牽引力は、明治末期に水戸衛戌と水戸高等学校が上市の先にある常盤村に設置されたことである。そこに接続する谷中、馬口労町と、以前から発展してきた大工町に飲食娯楽街が成立した。
 明治末期から大正期にかけ、水戸市の交通網の拡充整備が行われたが、主なねらいは上市を横断する交通網であった。現在の水戸駅前から泉町・大工町に向かう大通り(国道50号)は、明治初期までは江戸期の名残をとどめ、堀と複雑な道路からなり、一本道ではなかった。その道路を整備し、そこに水戸衛戌までいく電車を計画した。駅前大通りを通る水浜電車が開通したのは大正末期である。
 大正期には、水戸警察の方針により、奈良屋町と谷中(常盤村松本坪)に歓楽街が集中させられた。奈良屋町は、現在は宮町の一部になっているが、東照宮に隣接してある。大正期から昭和初期にかけ、奈良屋町は特殊飲食街になり、水戸を代表する歓楽街になった。
 現在の水戸中心街は上市にある。人の主たる流れは水戸駅前から南町・泉町・大工町にいたる大通りで、2km弱の道筋である。多くの街では、主たる流れは起点から街の象徴的な場所に向かっていくのが普通である。水戸の象徴的な場所は、水戸城跡と偕楽園である。城跡は駅前大通りのすぐ右手にある。従って、人の主たる流れは、象徴的な場所をすぐに通り過ぎて進むことになる。それゆえ、進む先は次第に正統性の薄いものになっていく。
 駅前から400mほど進むと二股になっており、右手方向に折れると県庁、やや左手方向には繁華街が続く。二股に分かれる交差点から大工町交差点にかけて、大規模小売店舗や銀行が並んでいる。従って、この大通り沿いを含め、それより右側に正統的な建物が配置されている。ただし、大通りを進むほど正統性の薄い地域になってくる。
 繁華街のピークは泉町一丁目にある大型小売店舗の伊勢甚である。人の主たる流れは、そこで二手に分かれている。大通りをそのまま進む流れと、右に折れて京成百貨店に進む流れである。伊勢甚から京成百貨店への流れを軸にみると、泉町二丁目から大工町にかけては、左地域になる。この地域は明治期以来、歓楽街の伝統があり、非正統的な地域の性格をもってきたことも、街の流れをつくってきた背景になったのであろう。