「名古屋の街」



 今年の初めに名古屋の街を歩いてみた。ぼくの仮説は、「人の空間認知は左右対称ではなく、左と右で意味づけが異なる。それは絵画にも現れるし、座席の位置にも現れる。また、個々人の行動の集積としての街における建物や機能の配置にも現れる。したがって、街には主たる人の流れの方向があるが、その左方向に癒しの空間としての歓楽街ができやすい。また、流れに沿って、あるいは、流れの右方向に街での正統的な機能が配置されやすい」というものである。

 名古屋には何回か行ったことはあったが、街をじっくり見たことはなかった。中心街は駅前ではなく栄町の方だということは、あらかじめ知ってはいた。しかし、栄町に行ったことはないので感覚的には分からなかった。新幹線で名古屋に着いて、まず駅前を見た。駅前が中心街ではないとはいえ、215万人の市である。それなりの繁華街になっているはずである。見てまわって、たしかに立派な建物はあるし、繁華街も少しある。しかし、200万都市の駅前としては少し寂しい。また、建物配置もぼくの理論とは違っていた。道路のあり方が問題かとも思ったが、一番影響しているのは、地下街が主たる人の流れになっていることだろう。地下街にスナックなどは配置できない。とにかく、ここは中心街ではないので、あれこれ考える必要はないだろう。


(出典:Super Mapple Digital Ver.2)

 栄町の方に行ってみようと思い、駅前通りである桜通を歩き始めた。名古屋の通りは幅が広くて立派である。終戦直後、反対を押し切って拡幅工事をしたと聞いている。桜橋を渡り、丸の内に出た。桜通と直交して伏見通(国道19号線)がある。その北の方向に名古屋城がある。「丸の内」というからには、伏見通に面して正門があったはずだ。ということは、繁華街である栄町はその反対の南方向か。駅前周辺を1時間以上も歩いていたので、かなり疲れていた。その上、広い通りを歩くのは疲れる。でも久屋大通に向かってさらに歩いた。本町通、七間町通を過ぎて呉服町通に来た。3時半を過ぎていた。昼も食べていない。腹が空いて倒れそうだ。どこでもいいから入りたい。とにかく呉服町通を右(南)に折れて、栄町とおぼしき方に向かった。すると、すぐにヘルスの看板が目に入った。ここにも、あすこにも。おいおい、ここが場末かよ。こんな明るい場末があるのか! ここが場末だとすると、栄町はこの左手方向にあるのか。とにかく喰いたい。適当な食べ物や! 見つかるのは、スナックとか居酒屋。そうこうしているうちに広小路に出てしまった。三越がある。丸栄というデパートがある。丸栄? 知らないな。二流のデパートか。それでもいい。とにかく上層階に飲食店があるはず。
 煮込みうどんの山本屋に入った。4時だった。だれも客はいなかった。花粉症でやたらにくしゃみが出始めた。やっとくしゃみが止むと、エネルギーを使ったのか、汗が噴き出して止まらなかった。店員がおしぼりをさらに2つ余分に持ってきてくれた。


(出典:名古屋観光コンベンションビューロー『チャット見ナゴヤ』)


 一息ついて、三越前の大津通を大須に向かって歩き始めた。ここの通りは名古屋の中ではシャレたところだ。とくに三越の並びには、松坂屋、パルコといったデパートがある。これらのデパートは大津通とともに一筋向こうの久屋大通にも面している。久屋大通がメインで大津通にも面していると言った方がよいかもしれない。しかし、人通りは大津通の方が多く、久屋大通は寂しい。車のための道路と言った方がよい。人の主たる流れは、この大津通か。でも、それにしては人通りはそれほどでもないな。
 700mほど行くと広い若宮大通に出た。そこを渡ると大須地区である。少し行って赤門通を右に折れ、ぶらぶら行くと大須本通にでた。本通を左折し少し行って仁王門通に沿って右折すると、そこが大須観音の門前ということになる。ういろう、煎餅などの老舗が並んでいた。煎餅屋で一休み。大須地区は名古屋の下町といわれている。とくに大須商店街はその活気と気さくさが評判である。しかし、正直言って、あまり活気を感じなかった。時間が悪いのか、人通りが少なかった。
(写真:大須観音にて

 栄町の方に戻ることにした。疲れていたので、ゆっくり歩いた。わからん。どう解釈したらよいのか、なかなか名古屋は把握できない。日も陰ってきた。その日は岐阜市に泊まろうと思っていたが、名古屋に泊まることにして、出直してこよう。栄駅から地下鉄に乗り、名古屋駅前のビジネスホテルをとった。
 シャワーを浴びてから外出。栄駅に戻った。名古屋は地下街が発達している。それも半端ではない。セントラルパーク地下街から外に出て、愛知芸術文化センター前の空間にでた。空間が光とガラスと鉄骨で階層状をなして広がり、ひところ描かれた未来空間を思わせる。異空間に少しくらくらきた。

(写真:愛知芸術文化センター前からみた夜景

 栄駅を起点に、大津通、プリンセス大通を桜通の方向にくまなく歩いた。居酒屋、スナックがあり、呼び込みの兄さんがいて、ヘルスがあった。腹も空いていない。呼び込みにも耳をかさない。桜通まできて折り返し、広小路に戻った。9時を過ぎていた。あまり空いてはいなかったが、食べないわけにはいかない。鰻のひつまぶしを食べるか。広小路を横切ってプリンセス大通を若宮大通の方に向かった。そこは、居酒屋、スナックというよりは、飲食店の空間だ。鰻屋はないか。きょろきょろ見たが、みつからない。すぐに飲食店のない暗い道まできてしまった。こういう場合は、正統派に限る。大津通を探せばよい。といって、9時を過ぎると、正統派地区はシャッターが閉まって暗い。鰻はあきらめ何でもいいという気持ちになったときには、すでにパルコの前まできていた。三越の飲食街に行けばよかったな。でも、パルコで我慢するか。結局、東京にもあるトンカツや和幸に入った。あらかじめ味は分かっている。せめて味噌カツにして、名古屋の雰囲気をだすか。
 食事をすませると、10時に近かった。まだ、城は見ていない。城の付近に繁華街がないことも確かめなければ。城までは距離がある。地下鉄に乗ろう。名城線の矢場町で乗り、栄、久屋大通をへて、市役所前で降りた。地下鉄をでると、すぐに城の壕だった。暗くてよく分からないが、立派な壕だ。水があるのかないのか。壕に沿って出来町通を歩いた。向かいは官庁街だ。だれもいない。広い通りを車が通過していくだけだった。800mほど歩くと、壕の端まできた。さすが尾張徳川の城である。大きい。地下鉄の駅を探した。中日新聞社の建物が城垣に囲まれてあった。名古屋の新聞だから当然か。それにしても駅が見つからない。あった、あった、あそこにある。丸の内駅だった。ということは、名古屋駅まで1駅である。乗る必要はない。角のコンビニで水を買い、ホテルまで歩いた。着いたのは11時だった。
 ひとまず結論として考えたことは、名古屋は、図に示したように、久屋大通公園を矢場町から城に向かっていく流れを象徴としている、ということだ。しかし実際には、一筋左の大津通を主たる人の流れにしている。久屋大通の先に象徴としての名古屋城があり、その手前にテレビ塔を配置した。久屋大通に沿って、あるいはその右地区に正統的な立派な建物を配置している。その象徴が愛知芸術文化センターの空間だ。広小路より手前で、大須寄りにある大津通にデパート等しゃれた店舗が並んでいる。その左手地区が飲食店街である。広小路を横切って北の大津通、さらに左のプリンセス大通に行くほど、居酒屋、スナック、あるいはヘルスと、いかがわしい店舗が多くなる。
 でも、この説明は少し強引なところもある。久屋大通公園を主たる人の流れに見立ててしまっているところだ。たぶん、象徴としてはそうなのであろうが、実際の人の流れは違う。名古屋の説明がしっくりこないのは、たぶん地下街が異常に発達していることと無関係ではないであろう。地下街は人の自由な感覚を奪う。地下であるゆえに、明るい店舗を配置せざるをえない。明るい地下街が縦横に配置されているとき、地上の空間配置はどこを基準にして場末を作ったらよいのであろうか。

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 9月初旬に学会があり、名古屋に行った。新幹線は正午に着いた。1ヶ月ほど前、新聞で名古屋の中村遊郭のことを読んでいたので、駅裏手の繁華街はどうなっているのだろうと思い歩き始めた。知識は全くなかった。表玄関とは違って、デパートもなく華やかでもない。則武2丁目。則武というと、あの陶磁器のノリタケはこの地名からとったのか。駅前通を西に10分ほど行くと則武本道にでた。左折すると中村区役所があった。中村遊郭がどこにあったか、区役所で訊いてみよう。男の職員が一人、昼休みなのか、椅子に座って目を閉じていた。しばらくして中年男性職員が交代できた。遊郭のことについて訊いてみた。職員は、聞いたことはあるが、どこにあるか知らないと答えて、『中村区史』をもってきてくれた。区役所から10分ほどのところにある日吉町、寿町、大門町、羽衣町、賑町のところである。あとで地図で確認すると、230mx265mの長方形で、四隅から対角に外に向かって道が出ており、長方形の内部は8つの小さな長方形に区切られていて、あきらかに異空間を形作っていた。大正12年に、大須の北野新地にあった旭遊郭を移したそうである。

 ■名古屋裏地区:中村遊郭跡(『プロアトラス2002』より)

 駅前から来た道に戻って、そこからさらに西の方に歩いていった。10分ほど行くとソープランドがあった。たぶんここが遊郭の跡だろう。すぐ先の道を右にみると、「大門」と書かれた門柱があった。あとで、太閤通りに面したところにもあることがわかった。右折すると「長寿庵」があった。レトロな建物! さらに、「大観荘」や「稲本楼」があった。稲本楼は日本料理店になっていた。メニューをみると味が想像できたので、さらに歩くことにした。結局わかったことは、名古屋の裏手地区の繁華街はないということである。中村遊郭には、その面影の建物がいくつかと、ソープランド2軒があり、小さなスナック街があるということ。また、きしめんの由緒を書いたうどんや、味噌煮込みの山本屋本店があること、それ以外は印象がなかった。昼食は山本屋にした。少しだけよさそうな普通の店であった。味噌味が少し濃いかと思ったが、ここのうどんは「すいとん」なので塩気が入っていないから、これでいいか。

 ■誰かのホームページ 中村遊郭のホームページ

 日を改めて、大須にあった旭遊郭を探してみた。大須が歓楽街として賑わいをみせるようになったのは、七代目藩主宗春の時代からだそうだ。享保16年(1730)、宗春は自ら芝居や寄席に出かけ、周囲の者や町人をびっくりさせた。ついでに遊郭まで開業させた。しかし、元文4年(1739)に宗春は失脚。遊郭はもとより芝居も禁止された。大須で遊郭が復活したのは明治6年になってからである。それが旭遊郭。そのころの町名で常盤町とかにあった。現在は大須1丁目。
 現在、遊郭のあった面影はまったくない。「常盤公園」とか「常盤通」という名前に昔の賑わいを想像した。ついでに、大須の賑わいについて書いておこう。これはあるホームページからの情報。大須は賑わったりさびれたりを繰り返したが、戦後になって、復興土地区画整理事業による若宮大通(100メートル道路)、伏見通の設置や拡幅などにより、それまで広小路の中心部と連なっていた市街地、盛り場が分断された。明治から昭和にいたるまで歓楽街大須の代表は映画であったが、映画産業の斜陽化によりダメージを受けた。しかも市電の撤廃が追い打ちをかけ、顧客の好みが名古屋駅や栄町の大規模店舗、地下街への魅力へ変わっていったこともあり、大須は「陸の孤島」と呼ばれるようになった。そういうことである。

 もう一つの疑問は、ゼミの卒業生高橋君の指摘によるものだが、「栄ウォーク街」についてだ。2月に名古屋をみたときには、栄交差点からみて、中日ビルや中区役所の裏手に歓楽街があるとは気がつかなかった。まさかと思ったから、行かなかった。そこは現在、名古屋屈指の飲食街になっていて、2000軒の店舗がひしめくという。たしかに歩いてみて、飲食店、スナックの類が賑わいをみせている。ただし、それ以上いかがわしいソープランドとかラブホテルはみつからない。歓楽街としては歯止めがかかっている。
 ホームページからの情報によると、この界隈は昭和30年頃までは武平通(中区役所脇の通り)を中心に知事公舎、官舎、高級料亭等が軒を並べる閑静な高級住宅街であり、学校もまた多くあり、名古屋の文教地域であったそうだ。それが、中日ドラゴンズの監督をした杉浦清が、背番号55にちなみ「55番」という喫茶店を住宅地の真ん中に開店した。その後、街は徐々に住宅街から商店街へと移り始め、道路もジャリ道からアスファルトに舗装され、当時としては驚嘆するような街路灯が130基設置された。現在は東急ホテルがある場所に、中京大学・中京女子高等学校があった。その体育館は当時としては立派であり、国体をはじめ、各種イベントもすべてここで開催されていた。その体育館の西側の路地には寿司屋、小料理屋など人気店舗が軒を並べていた。この路地を「女子大小路」と呼ぶようになった。
 昭和40頃、全国版週間誌が女子大小路を書き立てた。それは日活スター浜田光夫と葉山良二が名古屋の女子大小路で事故に遭遇という内容であった。それにより「有名人が飲む場所」「高級飲食街」として全国的に名が知られるようになった。中京女子大学の移転にともない、「栄ウォーク街」と改称した。
 この情報を得て、そうだろうなというのが、ぼくの感想だ。この場所に歓楽街ができるのが少し不自然だからだ。本来なら、立派な正統的建物があって欲しい。ぼくの理論によれば、象徴としてであれ、久屋大通を大須から城の方に向かうのが主たる人の流れとするならば、繁華街の右地区にあたる栄ウォーク街は、正統的な建物があって欲しい。今日、なぜ歓楽街になっているかは、広小路をきちんとみて歩かなければならない。

 ■広小路:名古屋駅から栄(『プロアトラス2002』より)
 ■広小路:栄から千種駅(『プロアトラス2002』より)
 ■広小路を中心にしたソープ・ラブホテル(『電子地図帳』を加工)

 名古屋駅から千種駅まで、広小路は約4kmある。栄はその真ん中に位置する。とりあえず2回に分けて、名古屋駅から栄へ、栄から千種駅へと歩いてみた。名古屋駅ビルには高島屋が入っている。左手奥には松坂屋があるが、小さく寂しい。右手に並んで近鉄百貨店、近鉄パッセがある。近鉄百貨店はフロアが狭いので、一階のエントランスがごちゃごちゃしていて煩わしい。その先は笹島交差点である。名古屋駅前の桜通から笹島交差点までは400m。通りを隔てて、近鉄の前には毎日ビル、豊田ビルがある。いまは工事中らしくテントが張ってあった。名古屋は何といっても地下街である。東山線開通にあわせて昭和32年にできた。東京駅八重洲の地下街よりもわずかに早く、日本で一番古い。その年の11月には栄地下街もできている。
 念のため、名古屋駅は明治19年に開設された。当初の位置は笹島交差点のところである。これは広小路を延長したところにあたる。堀川にかかる納屋橋の先に駅を定めたのは当時の名古屋区長である吉田禄在のアイデアだ。当然、反対者は多かった。 広小路は万治3年(1660年)の大火のあと、火除け地として久屋町から長者町筋まで13間(23m)幅の道路として造られた。当時は名古屋一の大通りであった。長者町筋から駅まで約1.5kmの道路の拡幅に吉田禄在は苦労した。広小路が笹島まで貫通したのは明治20年である。

 ■元文3年(1738年)名古屋(大正4年発行『名古屋市史』)

 日本おける鉄道敷設は、明治5年に新橋と横浜間に開通したのが最初である。現在の汐留と桜木町にあたる。どちらもその先に外国人居留地があり、その両者を結ぶことで文明国のアピールをしたかったのであろう。その後、急速に鉄道敷設がなされている。一番問題になったのは、東京−京都間の鉄道である。当初は東海道よりも中山道沿いの路線が有力視されていた。というのは、江戸時代にわざわざ東海道をメインにしたのは、多くの川があり通行に不便だったからである。それだけ、江戸を守りやすかった。それ以前の道は、山の尾根を通っていくが主であった。当初、鉄道も同じ状況にあった。中山道の方が架橋が少ないのである。もし中山道が主たる路線になっていたら、名古屋ではなく大垣が大都会になっていたであろう。なんらか裏での画策はあったであろうが、とにかく東海道が優先されることになって、名古屋が大都会に発展する素地ができた。
 名古屋駅の拡張はすでに大正8年には提案されている。しかし、笹島の駅前は狭いので、現在の位置で駅前を広くとるような案が採択された。余談であるが、中村遊郭が現在の名古屋駅から西に向かったところに設置されたのも、この計画との関連であろう。現在のところに旅客駅の建設が着工されたのは昭和9年、完成は昭和12年である。

 笹島交差点から堀川にかかる納屋橋の方に歩いていこう。そこまで600m。ちなみに堀川は徳川家康が福島正則に命じて造らせた川である。堀川に沿って手前右方向には、ソープランドやラブホテルが点在している。いかがわしい建物は、川端とか中心街のはずれとか、とにかく端にある。左地区、広小路と桜通に挟まれた地域には市場などがあり、場末の雰囲気がする。道は直交していなくて、めちゃくちゃ。これは現在の名古屋駅を笹島停車場より西にずらせて造ったこと、ならびに、桜通と笹島停車場を結ぶ斜めの道をメインにしたことからであろう。
 納屋橋を渡ると立派な建物が並ぶ。朝日新聞社、ヒルトンホテルのビルなどである。ここが広小路の実質的な出発点と言ってよいであろう。正統的な建物が並ぶ出発点から、繁華街の栄に向かっていくことになる。約1.5kmの長さ。目指すところは繁華街であり、とくに城とか寺とか象徴するものはない。この構造と似ているのは、水戸を挙げておこう。水戸駅から国道50号線に沿って歩いていくと、400mで右手の城跡を過ぎてしまう。それから先1km先が繁華街。とくに象徴的な建造物はない。このような場合、百貨店など正統的な建物を目安に繁華街が形成される。あるいは、繁華街が形成されたから、その中心に正統的な店舗が作られたと言ってよいかもしれない。その先は場末になる。繁華街まで長く歩いてきたので、起点からみて右とか左とかの位置づけはなくなっている。歓楽街はどちらにできてもよい。左に歓楽街ができやすいという理論は、長い線状の地域ではなく、左右がはっきり意識できるような幅をもった地域に成りたつ。
 納屋橋から500mで伏見通。南北に走る幅50m道路である。戦後の復興計画のときに、18間(32.7m)から拡幅した。名古屋の復興都市計画は100m道路に象徴される。南北方向に走る久屋大通と、東西方向の若宮大通を100m幅にした。自動車交通を見越したこともあろうが、緑地帯として象徴的な面もある。そのほか、いくつかの50m道路、30m道路を造っている。2月に名古屋にきたとき、桜通伏見通の交差点が丸の内であったので、その先に大手門があると思ってしまった。伏見通が50m幅で立派であったからである。しかし、実際は伏見通と大津通の真ん中にある本町通が大手門に通じている。
 伏見通から400mで本町通。このあたりから栄歓楽街の始まりである。さらに200mでプリンス通。さらに200mで大津通。その先が久屋大通になる。大津通と久屋大通の両方に面して、三越、松坂屋、パルコといったデパートが並ぶ。大津通が表の顔になるが、一番にぎやかなのはプリンス通であろう。栄繁華街は、南北に走るプリンス通を中心に本町通りから大津通まで前後200mの範囲にあると言ってもよい。そのさい、納屋橋から栄に向かって左方向にある地区の方が、右地区よりいかがわしい店舗が多い。左地区のはずれが桜通の手前になり、そこが場末ということになる。広小路から桜通まで500m。右地区にも飲食店やスナックがあり歓楽街ではあるが、ソープやヘルスといったいかがわしい店は少ない。店舗は白河通まで。広小路から300mの幅。ただし、表の顔である大津通は若宮大通まで店舗が700m続いている。結局、栄繁華街は東西400m、南北800mの長方形。その中心が広小路であり、これが南に100mずれているので、北に500m、南に300mの範囲になっている。本来、南北の真ん中は錦通である。その下に地下鉄東山線が走っている。幅は広小路より少し広い。
 昔の東海道は、熱田から海上を渡って桑名に至る。海上が荒れた場合を想定して、陸路は名古屋の南を通る佐屋街道。名古屋は、清洲にあった城を豊臣方からの守りとして、徳川家康が南に移して造った街である。その意味で、名古屋と熱田を結ぶ交通路が重要になる。海への交通路として堀川を造った。陸路は本町通が熱田に通じていた。広小路から熱田神宮まで5km。その途中、1kmのところに名古屋のはずれ大須がある。そこが江戸時代に繁華街になった。明治時代まで、名古屋と熱田を結ぶ陸路は本町通が中心であった。明治41年に栄−熱田間に13間(23.6m)道路が造られ南北の大動脈になった。これが大津通である。繁華街の観点からみれば、広小路と大須という2大繁華街を結ぶ道である。戦後になって、100m道路である久屋大通が大津通に並行にして造られ、名古屋の象徴になった。したがって、人の主たる流れは、象徴としては城の方向に向かう久屋大通が考えられていたであろう。実際の流れは大須から栄に向かう大津通である。東西方向の100m道路としては、栄と大須の間に若宮大通が造られた。これは実際には、大須を孤立させることになった。現在、若宮大通には緑はあるが、小汚い。場末でもなく、その先にある小汚い空間といったところ。さらに、その先に大須がある。これでは大須は救われない。若宮大通は象徴としては失敗したということであろう。
 結局、名古屋の「人の主たる流れ」は、広小路を納屋橋から栄に向かう方向と言ってよいであろう。本町通から大津通にかけて左右に歓楽街があるが、とくに、その左地区の方が歓楽街としては本格的になっている。また、「人の主たる流れ」の2番手として大津通がある。象徴としては並行する久屋大通であり、城に向かう方向である。大津通にはデパートなどの正統的な店舗が並ぶが、その左地区が歓楽街になる。とくに広小路を過ぎて桜通に向かう左地区が、より本格的な歓楽街である。これは、広小路を栄の向かう左地区に一致する。したがって、もっともいかがわしいソープやヘルスなどは、桜通に近く大津通から遠い、本町通付近に配置されることになる。

 問題は、栄ウォーク街である。久屋大通の右、広小路を新栄に向かっても右地区にある。ぼくの理論では、ここに歓楽街ができることを予想していない。とりあえず、広小路を栄から千種駅に向かって歩こう。久屋大通を渡って、すぐ右手に中日ビル、中区役所がある。そこから500mで高速道路の下に来る。その間の右に入った一帯が栄ウォーク街になる。左手100m先に並行する錦通の向こうは愛知芸術文化センターやNHKのビルが建ち、その下の地下街とともに異空間を作っている。
 高速道路をくぐると、新栄。そこから400mで、国道153号線の交差点にくる。さらに200m。新栄町交差点にきた。右200m先にいかがわしい看板がある。歩き疲れた。でも行かねばならない。ソープのような店舗が2軒。その途中にラブホテルがあった。戻ってよく見ると、ラブホテルが点在している。それにつられて、広小路を1つ左に入ってみた。葵1丁目である。ラブホテルが並んでいた。名古屋のラブホテルは1軒づつが大きい。名古屋は見栄を張ると聞いていた。結婚式は派手にするとも。まさか、ラブホテルまでそうではないだろう。とにかく、中は知らない。
 歩き疲れたし、夕食時だ。ラブホテルを過ぎると突き当たりになり、右に「なまずや」と書かれた鰻屋があった。立派な構え。こういうところは入ってみるに限る。櫃まぶしを頼んだ。お櫃に細切れにした鰻が乗っている。ご飯の間にも入っている。濃そうなタレがかかっていた。茶碗にとって食べる。うまい! 強いていえば、鰻にタレが染みこんでいないか。あらかた食べてから、わけぎ、ノリ、わさびを乗せ、だし汁をかけて食べた。だし汁にうまさが逃げてしまうようで、ぼくにはもったない気がした。ついでに記すと、次の日は蓬莱屋の櫃まぶし。これの方が少し安い。もちろん、普通の意味では高い。味は同じように、おいしい。あえて言えば、こちらの方がタレが染みこんでいるか。
 千種駅の近くのホテルにチェックイン。千種駅周辺をみると、ラブホテルが数軒。広小路を名古屋駅から千種駅まで通してみると、栄が立派な繁華街。その先は場末になっていくということ。新栄は大して繁華街はないが、少しいかがわしいのがある。さらに千種駅近くになると、ラブホテルが出現。もちろん、人は4kmの道を歩いては行かない。しかし、広小路はこの4kmをひとまとまりとして、街の配置が展開している。

 さて、栄ウォーク街について考えてみよう。戦後しばらくの間は、正統的な建物が配置されていた。官舎があり、立派な邸宅があった。それが、ひょんなきっかけから歓楽街に変わっていった。ぼくの説明はこうである。明治から戦前までは、大須と栄を結ぶ大津通が、広小路と同程度のにぎやかな道であり、人の主たる流れであった。その大津通の右手に栄ウォーク街にあたる地域がある。したがって、正統的な建物が配置されていた。しかし、戦後になり大津通が2番手の道になり、広小路が人の主たる流れの1地番手になった。栄繁華街の先にある栄ウォーク街は場末に近づくことになった。左右どちらであってもよい。場末の歓楽街ができやすい位置になった。したがって、栄繁華街ほどではないが、新栄よりは立派な歓楽街になった。いままでの正統的な地域という伝統も踏まえて、いかがわしいソープなどには歯止めがかかっている。こう説明したい。