「小田原の街」


 ゼミ合宿の帰り、三島をみたあと小田原に寄った。4時半近かった。小田原には三年前に来て、駅近くのホテルに泊まった。そのときは夜であったので、駅周辺はみたけれど、城まではみていなかった。今回はとりあえず城に直行した。4時半を過ぎていて、城内には入れなかった。
 小田原は、箱根を越えて江戸に向かう最初の宿場であり、江戸防衛の要になっていた。それゆえ、譜代大名である大久保氏が城主になっていた。途中、稲葉氏に変わったこともあるが、幕末までその体制が続いた。明治になり、廃城にされ、建物は解体されてしまった。近年になり、建物の復元作業がなされている。
 ■小田原城


『プロアトラスW2』より 赤い矢印が「人の主たる流れ」 ピンクの斜線が歓楽街

 城址公園を出て大手門跡に向かった。堀に面してあった市役所や警察署がこの7月に移転したようだ。人のいなくなった建物は寂しい。鐘楼があり、そこが大手門跡である。石段がついていたので登ってみた。ほとんど足を踏み入れないのか、鐘の下のコンクリに鳩の糞がたまっていた。
 さて、本格的に街をみるか。鐘楼のすぐ前の大通りは国道1号線(東海道)である。脇の市民会館の前はT字路になっていて、歩道橋が空間を遮っていた。うっとうしい。鐘楼からみて国道1号線の向こうにソープランドの看板が見えた。何となく歓楽街はその辺ではないかとあたりをつけてきたので、やはりそうだったのかという気持ちと、これで街を説明できるという感情とをおぼえた。大通りを横切ると、「宮小路」という標識が目についた。神社があった。地図をみると、松原神社という。小田原漁師の信仰する神社だそうだ。宮小路はたしかに歓楽街であった。路地にはいると、まだ夜の街はこれからというところで、フィリピン系の女が数人クラブの前で立って話していた。私の顔を見て、寄っていけという合図をしたが無視した。さらにいくと、蝶ネクタイの男が2人小声で打ち合わせをしていた。歓楽街を一回りするのに、10分とかからなかった。
 たぶん、この街でも私の理論は適用されているだろうと思った。人の主たる流れは、昔は東海道沿いにあったのだろうから。江戸の方から、小田原入口の山王橋を渡って大手門の方に向かい、左折して、さらに右折して海側をいくのが流れである。大手門に突き当たるところに、いまは市民会館の建物があるが、そこを逆に右折していく道は甲州に通じている。東海道と甲州道の交差するところに歓楽街ができた。それも、東海道の流れからみれば、左手方向のところにである。これで完璧。あとは、駅からの流れを説明すればよい。
 駅前に戻った。駅から線路に沿って左手方向に行く。ここに飲食店街があることは、前回来たときにみている。さっと通過するだけにした。いかがわしさの度合いでいえば、宮小路の方が昔からの歓楽街で、上である。駅周辺の飲食店街は戦後発展したものであろう。駅前を起点とする人の主たる流れは、栄町から市民会館の方へ赤矢印で示したが、実際にはその左手方向に進む錦通りや、現在EPOの建物がある周辺の「仲見世通り」の方がにぎやかである。


『プロアトラスW2』より ピンク矢印が旧東海道 赤矢印が御成道で現在の東海道

 小田原の街も説明できたかと思って資料をみていると、どうも江戸時代の東海道が違っている。現在の東海道(国道1号線)は山王橋を渡って直進し、市民会館の前で左折しているが、江戸時代は新宿交差点で左折している。地図に示したピンク矢印がそれである。市民会館前に直進している赤矢印は御成道と言われていた。三代将軍家光を小田原城に迎えるために造られたという。藩主も通らなかったそうだ。小田原城は徳川将軍が治めているところで、藩主はその執行人の立場であるかのようだ。
 江戸時代は将軍しか通らなかったとすれば、現在ある宮小路の歓楽街はどのような経緯からできたのか。人の主たる流れの左方向に歓楽街ができるという私の考えでは説明できない。江戸時代の東海道からみれば、宮小路は右方向にある地域になる。
 御成道がいつから東海道に変わったのであろうか。いまのところ資料が見つからないのでわからない。しかし、変わったことは確かである。ついでに言うと、駅から栄町をとおって市民会館前にいく道は明治以降に造られた。小田原駅は大正9年(1920年)に開設された。当時の東海道線は国府津から御殿場を経由していく。小田原は国府津からの支線の駅である。丹那トンネルが開通したのは昭和9年(1934年)であり、それ以降、小田原はやっと東海道線の主要な駅になった。したがって、駅前通が整備されたのは大正から昭和にかけてであろう。また、市民会館前の通りは、江戸時代には外堀のあったところである。それを埋め立てて道路にした。市民会館前を北に行くのを甲州道と記したが、江戸時代には青物町から北に行く道がそうであったろう。現在、国際通り呼ばれている道である。


江戸時代の古地図 『東海道分間延絵図』から宮小路付近

 古地図をみると、宮小路は青物町と浜手口をむすぶ道である。その向こうに松原神社があり、さらにその向こうに唐人町からくる道がある。これが御成道である。青物町から北の一丁田町を通る道沿いに家並があるが、これが甲州道であり、手前の広い通りが東海道である。


『0465.net 小田原の歴史と観光』より

 さて、宮小路の歓楽街のことであるが、東海道沿いで、この辺から本町にかけて宿屋が多い。小田原宿のなかでも一番にぎわった場所であっただろう。最盛期と思われる19世紀中頃には、約110軒の宿屋と約30軒(推定)の茶店があり、東海道有数の宿場町・歓楽街となっていた、という記述がある(上図の説明文から)。
 また、ネット『こころの道 おだわら』には、次のような記述がある。

 「戦前の宮小路は、そりゃ粋な町でしたよ。チントンシャン……と三味線の音で目が覚めるような艶っぽさだったっけ」
 小田原に鉄道が引かれてからは、交通の便のせいで衰退することとなる宮小路だが、戦前から昭和30年代初めにかけては紛れもない小田原の中心地。東海道と甲州街道が交差する一等地としてにぎわったのである。

 私の想像では、明治以降、外堀が埋め立てられ道路になり、また、御成道を日常的に使用するようになって、東海道の変更があった。そして、街における人の主たる流れが現在の市民会館前に向かう道になった。その左手地区にあたる宮小路に歓楽街の機能が張りついてきた。とくに神社の周辺であることと、江戸時代ににぎわった宿場の脇にあたる場所であることが、その機能を強めた。小田原駅は別の場所にできたが、東海道線の主要駅になるのは戦後になってからであり、所和30年代頃までは小田原の中心街として機能していた。

 ■江戸末期の小田原宿 『0465.net 小田原の歴史と観光』より
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 後日、『小田原市史』を調べてみた。御成道がいつから東海道に変更されたかの記述は見つけられなかった。ただし、明治26年発行の地図によれば、現在、市民会館がある場所には町役所が建てられている。御成道に面してもいくつかの建物が記述されている。さらに、宮小路に面して劇場もある。小田原馬車鉄道会社が営業を開始したのは明治21年(1888年)10月である。地図には、松原神社の隣に馬車会社の記載がある。
 ■明治26年地図 『小田原市史 史料編』より

 たぶん明治末期の地図であろうか、鉄道馬車の路線が記入されている。ここでは、すでに外堀は埋め立てられている。しかし、小田原駅への道はまだ造られてはいない。
 ■明治末期?地図 『小田原市史 史料編』より

 昭和になると、小田原駅が開設されているので、そこへの道が造られている。さらに、小田原駅から箱根へ行く鉄道が敷設され、現在に市民会館の前を通っている。
 ■昭和2年地図 『小田原市史 史料編』より

 以上のことから、明治中頃からは、御成道が東海道に変更され、街における人の主たる流れになっていたものと推測される。