「立川の街」


 首都大の授業が終わって、多摩センター経由でモノレールに乗り高幡不動に行った。橘家円蔵の落語会があったからだ。円蔵は平井出身で二つ目の升増、月の家円鏡の頃からみていた。出し物は火焔太鼓だった。いつものように、騒々しいうちに終わった。その日は春季大祭で五重塔を開放していたので登ってみた。奥殿にも入り重要文化財の丈六不動三尊を拝んだ。土方歳三が近隣の出身であり書があった。昔の人はよい字を書く。
  ■五重塔より

 モノレールで立川北駅に着いた。南口に繁華街があることはモノレールから見ていてわかった。とりあえず進行方向に降りた。一直線に伸びるモノレールのガード下は単なる空間で何もなかった。基地に隣接して広い空き地があったのだろう。
 高島屋、伊勢丹、丸井があった。裏玄関なのにデパートがいくつもある。多摩地域の中心都市として発展が見込めることと、スペースがあったことが要因であろうか。でもそれ以上に街が成熟しているとも思えない。たぶんスナック街はないだろうと思い、南口に出ることにした。
 立川は高架駅であり、すべての通路が高架の改札口の方に向かっている。地上の道路は高架下の圧迫された薄暗い空間の気分がした。駅下までくると、線路に沿った道に居酒屋の看板が見えた。下校帰りの学生らしき者たちが列を連ねてやってくる。何かあるかもしれないと思い、その道を歩いた。地図では、線路北側に沿った道を立川通りに向かって歩いた。

『プロアトラスW2』を加工

 キャバレー・ロンドンがあった。まだ5時頃で明るく、キャバレーの狭い入口は夜の輝きをともしておらず薄汚かった。さらに行くと左手奥にラブホテルらしき建物が見えた。地図では赤いハートで示した場所である。駅からは300mほどはなれていた。この辺りに南側に抜ける通路があるだろうと思ってみると地下通路があった。通路を抜ける前に、ホテルの辺りをみておこう。橋があった。川かと思ったら自動車道であった。立川通りである。その手前をホテルの方に向かって歩いた。スナックが何軒かあり、居酒屋があった。ホテルの脇を回り込むと、男相手の店があった。地図でピンクの枠を記したところである。
 多くはないが、スナック・キャバレー・ラブホテルがある。駅北口からみたら右手方向の位置である。私の主張とは異なる。でも私は冷静。直感では南口地域の延長線として、この場所にも小さな歓楽街ができたと推論した。

 ■地下通路を抜けて

 駅はずれの地下通路はたいてい薄汚い。ここも雰囲気はそうだ。しかし、通路壁面には赤や黄の風船玉をぎっしり描いたようなカラフルな図が塗ってあった。そうでもしないと、誰も通りたくなくなってしまうのだろう。地下通路を抜けると、スナックがあり中華レストランがあり、その先にラブホテルが見えた。地図では、青矢印で歩いてきて右手の駅方向を見た図である。たぶん私の直感はあたっている。とりあえず周辺からと思い左折した。ラブホテルが二軒並んでいた。代々木ゼミナールの脇を通って、錦町1丁目交差点に出た。そこを折り返し戻った。その道はウインズ通りと言われていた。錦中央通りまできて、もとの地下通路を出たところに戻った。
 それにしても、線路で切断されてしまう道路の名称が中央通りなのか。あとで地図をみて気づいたのであるが、碁盤目になっている主要道路と線路とは並行していない。吉祥寺の街もそうである。これは甲武鉄道(中央線の前身)の敷設にあたって、新宿から立川まで直線に敷いたからである。吉祥寺の道路は五日市街道を中心に碁盤目に造ったのであろう。立川は甲州街道が左折して日野橋を渡るが、その日野橋の通りを北に延長したのが立川通りで、それを基準に碁盤目にしたのではないか。碁盤目の道を鉄道が切断してしまった。
 錦中央通りも碁盤目のひとつであり、地下通路から北斜めに700m延長したところに立川競輪場がある。掲載した地図では競輪場は描いてないが、駅から行くとしたら、南口を出てグランデュオの前から錦中央通り・地下通路を通っていくのが近いであろう。南側から地下通路を渡った北側のところに小さな歓楽街ができたのは十分頷ける。
 南側の地域をくまなく歩いてみた。地図で黄色に囲んだところが繁華街である。とくにピンクで囲み斜線をした地域にいかがわしい店が集中していた。また、細いピンクの枠にはスナックやカラオケ店があった。主たる人の流れは赤矢印で示したように、南口を出てモノレールに沿った方向である。しかし、これは象徴的な方向であろう。人は高架になった改札口を出て、そのまま高架に造られた通路を歩いていく。でも高架通路はモノレール立川南駅までで、それほど長くはない。その意味で象徴的な方向にとどまる。
 グランデュオの入口は1階と表示されていた。普通なら3階にあたる。この街では改札口のある高さが平面の基準になっている。それだからか、グランデュオ1階に小間物と食料品売り場があった。慣れない者にとっては奇妙な配置である。実際に人が多く歩くのは細い赤矢印で示した「やすらぎ通り」である。その通りの左側に歓楽街が形成されている。右側にも少しはあるが、左側ほどではない。

 立川は鉄道が敷設されてから形成された街である。駅の開設は明治22年である。当初、甲武鉄道は甲州街道沿いに下高井戸・調布・府中から八王子ということを計画していた。しかし、地元の反対にあった。そこで、北側を通る青梅街道沿いに計画しなおしたが、田無に反対された。両街道の中間地帯にある境村・立川村柴崎地区・砂川村の地主たちが誘致をした。とくに積極的に誘致したのは、柴崎地区の板谷元右衛門である(市史913頁)。その結果、新宿から立川までは直線で敷設し、その先を八王子につなげた。当時の立川は甲州街道からはずれた農村に過ぎなかった。駅は甲州街道の日野橋から測ると北に1.5kmの位置にある。当初、駅は柴崎地区の中心である諏訪神社付近が適当とされたのであるが、住民が反対したので村はずれにある現在の位置に落ち着いた。鉄道誘致に賛成した住民も、自分の近くには設けられることには反対したことになる(市史917頁)。
 立川駅の改札は北口にしかなかった。南口が開設されたのは40年後の、南部線が開通した昭和5年である。当初、駅改札口は南側に予定されていた。それが北側に変更されたのは水に関係する。多摩川の架橋が完成するまでは立川駅が終点であった。そのため、機関車の給水や車体の洗滌のために大量の水を必要とした。会社は立川村の用水を利用させてほしいと申し入れた。しかし、純農村である立川村住民は納得しなかった。そのとき、製糸・織物業が中心となっていた砂川村から給水の申し込みがあった。会社はそれに乗った形になった(市史920頁)。
 昭和初期まで北口しかなかったことを考慮すると、南口の街はほとんど形成されていなかったであろう。たぶん戦後になって、南口の街の形成が進んだことが推測される。
 立川を構成するのは南の立川村柴崎地区と北の砂川村である。柴崎の中心である諏訪神社に行ってみることにした。南口を出て右方向に道なりに700m行ったところにある。7時を過ぎていたので、神社の建物は閉まっていた。正式な参道は南に向いていた。立川駅とは反対方向である。9世紀に創建とされる神社が立川駅の方に向いていなくても当然であろう。日野橋の手前で甲州街道から分かれた奥多摩街道が諏訪神社の南300mほどのところを通っている。諏訪神社から西へ200m行ったところに以前は八幡神社があった。そこと奥多摩街道を結ぶ道は「たんす横町」と呼ばれ村の中心であったという。
 注:市史とは『立川市史 下巻』昭和44年発行。
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 立川駅は当初、北口しかなかった。南口ができたのは40年後である。北口にはデパートもある。ほんとうに北口側に歓楽街がなかったのか気になった。タウンページでスナックを調べると高松にいくつかある。
 一ヶ月ほど後に北口側に行ってみた。今回は思い切ってモノレールで4駅先の砂川七番まで行って降りた。モノレールの上から見渡してみれば見当がつくかもしれないと思ったからだ。広々したところに昭和記念公園、新立川航空機、立飛企業、泉体育館が配置され、人の賑わいは感じられなかった。
 砂川七番は五日市街道沿いにある。砂川八番まで行き、栄町中央通りを立川駅に向かうことにした。といっても、地図も持っていないし初めての場所でもある。昭和第一学園を過ぎたところで、モノレールの方に向かって道を曲がった。結果的に立川通りと並行して駅の方まで歩いてしまったことになる。小1時間歩いて疲れたところで、立川通りに出た。その脇に「シネマ通り」と書かれた小道があった。
 立川通りがメインの商店街だと思ったので、疲れているうえに、もと来た道を戻る形になるが歩き始めた。途中、どこでもよいから休憩したかったが、結局、二股に分かれるところまで1km歩いてしまった。そこまでが商店街である。
 帰り道にラーメンを食べて一服した。シネマ通りを歩き始めた。約300mの細道に沿って、また、その脇道に居酒屋・食堂・スナックがそれなりにあった。以前はもっと賑わっていたのだろう。近くには小劇場(緑X)やソープランド(桃X)もあった。

『プロアトラスW2』を加工


 市史でみると、「戦後顕著に発達を遂げたのは、四つのデパートが林立する北口商店街である」と記述されている(市史1168頁)。地図では、北口から曙橋までの200m(紫線)のところにデパートがあった。駅から緑川を渡ってフィンカム・ゲート(赤丸)まで300mの区間は中央にグリーンベルトがあり、両側に並木のある広い道路で両側に高層建築が並んでいた。米軍基地はフィンカム・ゲートの左上のところにあった。現在は昭和記念公園や自衛隊基地になっている。フィンカム・ゲートは米軍基地への正門になっていた。地図でピンク枠で囲んだところは、米軍基地をフィンカム・ゲートから出て、すぐの左地区にあたる。ここには、駐留軍人専用のバーやキャバレーがあったと思われる。また、フィンカム・ゲートから出てすぐの右地区にも映画館や土産物屋があったようだ。(『立川いまむかし』http://www.all-tama.co.jp/area/tachikawa/t_story/t_story.htm
 現在は緑川通りを挟んで高島屋と伊勢丹があるが、これは緑川が暗渠化された後、移転したのである。もともと緑川は基地からの排水を多摩川に流すために掘られた放水路であった。戦後、米軍基地からガソリンが川に流れ込み火災を起こす事件があった。それを機会に暗渠化され、街路が整備された。
 戦後の歴史をみると、立川北口は駐留軍の街、南口は日本人の街と言ってよいであろう。市史には昭和43年の様子が記述されている。「フィンカム・ゲート付近から曙町・高松町の盛り場に駐留軍人対象のバー・キャバレーが61軒あり、各店平均15名のホステスを抱えている。看板その他はすべて英字で書かれ、夜遅くから賑う。南口は日本人対象のバーで120軒あり、平均2〜3名のホステスがいて、夜10時を過ぎると帰宅のため客足は急激に減少する」(市史1170頁)。
 現在、立川には映画館はシネマシティ1つしかないが、昔は北口に4館、南口に6館あった。(『街道古道廃道道』http://www.m-net.ne.jp/~kikuchiy/kochimei/mukashiT-eiga.htm)。また、特飲街や遊郭もあった。これは南口のはずれに位置するが、錦町楽天地や羽衣新天地と呼ばれていたそうである(http://www.geocities.jp/kikuuj/chizu-zatu/hagoromo/yusyo1.htm)。昭和19年に、軍の誘致により州崎遊郭から引っ越してきた。

 立川はすこし複雑な街の構成になっているが、北口と南口の繁華街がそれぞれ特徴を持って発展してきた。左右の位置という観点からは、北口は米軍基地をフィンカム・ゲート(現在は曙町2丁目交差点)から出た方向でみると理解できる。すなわち、右折れして駅に向かうとデパートがあった。左折れすると高松大通り(立川通り)の商店街となる。フィンカム・ゲートを出て進行方向右側に土産物屋や映画館、左側にバー・キャバレーがあった。米軍が退去した後は駅を中心に流れが変わったので、街の配置は私の考えでは理解しにくくなった。
 南口は、上述したように、駅から出て行く流れを中心にみれば理解できる。