「富山の街」


 5月連休明けにJRツアーで立山黒部アルペンルートに行った。初日に宿泊したのは、富山駅から2kmほど離れて立地するアパホテルであった。夕食が済む夜8時以降しか街を見る時間がなかったので、あらかじめ城と歓楽街の位置を確かめておいた。
 駅から富山城址公園へ向かう二本の大通りがある。右側の市電が走っている道は「すずかけ通」、左側の道は「城趾大通」である。駅前から城趾大通を650m行き(地図で赤矢印の方向)、松川に架かる塩倉橋を過ぎた左手方向の地区にある桜木町に、スナック・バー等からなる歓楽街がある(地図でピンク枠)。右手には城跡公園があり、松川橋の手前には県庁と市役所がある。「人の主たる流れの左方向に歓楽街がある」という私の考えに一致している。歓楽街は駅から少し離れた所に位置しているが、街の構造はたやすく理解できるだろうと思った。

(『プロアトラスSV』を加工)

 タクシーで駅まで行った。そこから歩き始めるとすぐに飲食街があった(地図で黄枠)。飲食街はあらかじめ調べていなかったが、駅付近にあることはごく普通ではある。城趾大通がメインの流れだと思っていたので、その右地区に飲食街があると、私の考えでは説明が難しい。
 飲食街を一回りしてから、市電の走っているすずかけ通を歩いた。夜道は誰も歩いていない。松川を渡り、城址公園を左に見て丸の内交差点まで約1kmである。その間、松川手前にある県庁公園の噴水は立派であるが、道沿いに店の灯りはなかった。
 丸の内交差点を堀に沿って左折すると、天守閣が見えた。その前に「富山城趾新旧比較図」があった。
 ■富山城


富山城址新旧比較図:富山市教育委員会

 比較図を見て気づいたことは、@ いま幅10mほどの松川が、昔は幅広の神通川だった。城は神通川を背にして造られていた。A 外堀が埋め立てられるのはどの城でもあったが、道路を碁盤目状に通すため、内堀も容赦なく埋め立てていて、残っているのはわずかである。B 地図が描かれている場所が大手門だと思っていたが、埋め立てられた外堀の所にあった。

 大手門のある方へ歩いていった。道幅は25mあり広いが、夜道は寂しい。内堀から大手門跡までは250mあった。大手門跡の左手にアーケード街があり「総曲輪」と書いてあった。これは「そがわ」と読む。地図では緑線で描いた通りであり、総曲輪通り、中央通りと続く1km弱にもおよぶアーケード街であった。付近にあった案内図には、中心商店街として西町・総曲輪通り・中央通りが列挙してあった。
 ■総曲輪

 当初予想していなかった所に中心商店街があった。長いアーケード街の周辺がどうなっているのか気になって歩き始めた。西町交差点周辺は北陸銀行本店、西武、大和、アピタ食品館等のビルがあり、街一番の顔になっていた。総曲輪通りから中央通りを進んでいくと、アーケード街を外れた道は暗かった。中央通りの外れまで行って引き返し、歓楽街ある桜木町の方に向かった。途中で異様な建物を見た。本願寺の西別院であった。
 ■本願寺西別院

 桜木町には呼び込みの男が何人もたむろしていた。東南アジア系の女性もいた。客よりも呼び込みの方が多いくらいで、写真を撮るのも憚れた。歓楽街を一回りしてホテルに帰ることにした。私の考えでは街の説明がつかないので、少し困惑した。

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 帰京後、市史を調べた。富山藩は加賀藩の支藩にあたる。街との関連で記述すると、江戸時代の町人町は、城から鼬川の間と、北陸街道沿いにあった(富山市史・通史下巻p.17)。また、大町には諸芸・諸職の者、医者、陰陽師、仏師、兵法師などが店を構え様々なものを売っていた(富山市史・通史上巻p.586)。大町がどこにあったか未確認であるが、城と鼬川の間にあったのであろう。したがって、城より東側であろう。
 現在の歓楽街である桜木町との関連では以下の記述があった。十代藩主・前田利保は嘉永2年(1849年)に千歳御殿を築造し、その能舞台で自ら演じた(上巻p.1372)。地図で城内の緑丸印をつけた場所である。明治になり廃城後、千歳御殿は荒廃地となった。明治5年(1872年)に、風俗取締の立場から稲荷町・北新地の妓楼・待合・貸座敷のすべてをこの遊休地に集中させ、地名も「桜木町」として遊里を造った(下巻p.18)。それが現在の歓楽街につながっていると考えられる。
 総曲輪通り、中央通り商店街の成立については以下の記述が参考になる。明治になり、城郭の一部である総曲輪も荒地なっていた。そこに本願寺が進出してきた。明治13年(1880年)に説教場、明治15年には本堂・庫裏を造った(下巻p.299)。さらに、明治19年・20年に本願寺・東西別院が建立され、明治21年に完成している。地図では赤丸印を2つした場所である。この両別院の門前には近郷近在から集まる信者相手の商店が次第に増加して「総曲輪商店街」ができあがった(下巻p.19及びp.300)。
 それ以前の明治の初め、繁華街は中教院前であった。明治6年に中教院が建設された。新富座など芝居小屋も設けられ門前町的な盛り場に発展した(下巻p.297)。この場所は中央通りの東端にあたる。したがって、明治期になり、初めは中央通りが、次いで総曲輪通りが商店街として発展した。その意味では、門前町といえる。
 富山駅が開設されたのは明治32年である。ただし、現在の場所ではなく、神通川の西側にある田刈屋であった(下巻p.146、p.342)。明治41年になり現在地に移設された。といっても、上述したように、当時は現在地の富山駅と城との間には神通川が流れていた。神通川は明治29年(1896年)に大水害を起こした。それを契機に、明治30年〜昭和12年にわたって神通川改修工事が3回にわたって行われ、川は埋め立てられた(下巻p.272)。昭和11年になり、神通川埋立地に新たな町割ができた(p.575)。そこに現在みられる県庁や市役所が建てられた。
 このような経緯からみて、富山駅周辺はかなり長い間、城周辺の中心市街地からは神通川を挟んで隔たった位置にあった。しかし、神通川が埋め立てられ狭い川幅の松川になり、駅周辺と城周辺との一体感が出てきた。駅周辺には飲食街が出現し、昭和50年代には総曲輪商店街の落ち込みがみられるようになった(下巻p.1026)。

 富山は城下町であるが、明治期になり本願寺の門前町といってよい様相を呈していた。現在は門前町という雰囲気はなくなっている。現在でも総曲輪通り・中央通り・西町が中心市街地であるが、その勢いはなくなってきている。富山駅周辺に中心市街地が移りつつあるようだ。
 富山の街を左右の観点からみることは難しい。