「和歌山の街」



 JR和歌山駅から歩き始めたのは11時であった。彼岸の少し霞がかった暖かい日だ。数年前に、和歌山市駅の周辺を30分ほど歩いたことがあった。三角地帯になったところに店が並んでいて、一昔前のマーケットのようだった。ただし、地方のどの都市でも同じであるが、活気は感じられなかった。和歌山駅と市駅の間は約3q離れている。今回は和歌山駅の方から歩いてみようと思った。たぶん、市駅に行く途中に城があるはずだ。例によって、街についての予習はしてこない。駅の観光案内で、簡単な市内地図をもらっただけだ。

(プロアトラス2002をもとに作成)

 駅を出て、すぐ右手にターミナルホテルと近鉄百貨店があった。ぼくの仮説は、「主たる人の流れに沿って、あるいは、その右方向に、街における正統的な建物が配置されている。左手方向に歓楽街ができやすい」というものである。幸先がよい。早速、左手方向に歩く。美園町5丁目である。商店街がある。線路際にはパチンコ店もある。地図に示した赤の波線を矢印の方向に歩いていった。街を効率的に見るには対角線方向に、折れ曲がり、折れ曲がり行くのがよい。右、左、右と曲がったら、すぐに大通りでてしまった。小さな商店街。これで和歌山の中心街は終わりか。人口38万人の市にしては小さすぎる。
 鉄道に並行している国体道路を横切っていくと、スナックが数店あった。地図で緑線を3本並べて描いてあるが、それがスナックのあるところ。さらに、けやき大通りを横切って、友田町3丁目にはいる。駅から見て右地区になるところだ。もっとも、「けやき大通り」とか「友田町」などという名称は、歩いているときには知らなかった。
 けやき大通りを横切って、路地を左手方向にみると、スナックがあったので左折。スナックを通り過ぎると、柳通り。通りに沿って右折。こんどは右手方向の路地に、またスナック。要は、さっきのスナックとひとつ路地を隔てて、別のスナックがあるというわけ。地図をみないと、文章だけでは混乱するだけか。
 行く手をみるとラブホテルらしきもの。たしかにラブホテルだった。まて、こんなところにラブホテルがあるのか。さらに、またスナック。スナックを追って右に左に歩く。城北通りを横切り、さらに左、右と行くうちに、小さな川に突き当たった。和歌川だ。そこにもラブホテルがあった。戻って、けやき大通りの方に向かった。途中、右手に商店街の入口が見えた。あとで分かったことだが、それは「ぶらくり丁」の東端であった。普通だと、商店街に行ってみる。だが、目の前に次から次にスナックが現れてくる。それを確かめる以外ない。だけど、待てよ。ぼくの仮説が当てはまらないのはいいとして、なんでこんなにスナックが点在しているのか。固まってあるのなら、わかる。でも、こんなに多く点在しなくても、いいだろう。
 1時間以上も歩きづめて、疲れた。この調子で市駅まで見ていくのか。たまらん。とりあえず、城だ。城をみてから、街を考えなおそう。けやき大通りにでると、「北ノ新地」と書いてあった。いま歩いてきたところは新地か。ということは、遊郭があったに違いない。だから、スナックなのか。
 そこから城までは1qあった。城の大手門である「一の橋」に来て、そこから北に向かっている本町通りをみて、直感的に街を理解した。本町通り沿いに銀行、証券会社が並んでいた。本町通りが表の顔だ。この通りを城に向かうのが、街の主たる人の流れに違いない。城内にある資料をみて、昔の街を確かめてみよう。

 ■ 写真 和歌山城にて

 残念ながら、城内の展示に街の地図はなかった。城を出たのは2時近かった。腹が減った! 本町通りを歩いて、どこでもいいから店に入ろう。食事を終えて、店を出たのは2時45分。本町通りにある京橋から北に向かって歩いた。たしかにこの通りが表の顔だ。でも、それにしては人通りが少ない。日曜日だからか。少し行くと右手にアーケードがあり、「ぶらくり丁」という表示があった。さっきのが東端で、こちらが西端である。少し薄暗く続くアーケードに人のにぎわいを感じた。実質的には、ここが和歌山の代表的な商店街に違いない。さらに行くと「北ぶらくり丁」の看板があり、城北通りにでた。
 城北通りを横切って、北大通りまで行った。京橋近辺よりは銀行、証券会社は少なく寂しい。北大通りを西に行けば、市駅に行く。通り沿いには何軒か店があり、自動車が通過していたが、印象は薄い。たいして情報も増えない。城北通りに戻ろう。鷺森別院を過ぎ、中央通りを横切って、市駅に着いた。
 市駅周辺は知っている。時間もない。和歌山駅の方に戻ろう。船大工町、東鍛冶屋町を通り、ぶらくり丁に来た。和歌山の街の地名は昔の名前をとどめていて、土地の由来がわかる。アーケードを歩いていると、脇道に「銀座」があり、スナックが何軒かあった。そこを曲がって、堀詰橋から築地通り(ぶらくり大通り)にでた。少し道幅の広い通りで、両側に明るくこざっぱりした商店が並んでいた。人出もあった。現在はここが表の顔か。あとで調べると、昭和15年の地図には、築地通りはない。戦後に造られた道路であろう。
 本町通りがビジネス街で、築地通りが商業街であり、この道を城に向かうのが「主たる人の流れ」と考えてよいであろう。その脇道である「ぶらくり丁」が街の顔となる商店街である。城北通りまで来て、甫斉橋を渡った。これから先は、たぶん、いかがわしい店があるだろう。わくわく! 右手の先に少し高いビルがあり、浄化槽のところに看板がみえる。ソープランドだ。和歌川沿いの新雑賀町にソープランドが8軒あった。地図ではピンクの線を記したところである。
 新雑賀町にあるぶらくり丁は、本町に近いところよりも格は落ちる。いかがわしい土地の香りに染まっている。ここに明るく立派な商店があったら、それこそ奇妙だ。まわりには、バーやキャバレーといった風俗店があった。そこを抜けると、スナックが点在する北ノ新地に戻る。

 
(電子地図帳Zで作成)

 上図は各種店舗の位置をピンで示している。緑のピンがスナックである。赤がソープランド、薄い赤がラブホテルで、茶は銀行である。灰色は衣類関係の店である。主として婦人服店だ。銀行は街の正統的な顔である。婦人服店も主として街の正統的な地域にある。そこに位置するのは、ほかには化粧品店、電気器具店、書籍店など、商店街を構成する種類の店舗である。これらをすべて示すと地図が見にくくなるので、衣類関係で代表させた。緑のピンのスナックは、地図では固まってあるように見えるが、歩いた実感では点在している。
 なぜスナックが点在しているのか。多くの街では、立派な商店街、飲食店街、スナック街という順序で配置されており、その先にソープランドとスナックの混在する地域がくる。もうひとつの傾向は、川があると、そこは場末になりやすい。
 和歌山の街は、本町通りという正統的な地域の近くに、川幅の狭い和歌川がある。ということは、本町からみて向こう岸に場末ができやすい。ということで、ソープランドが河岸に張りつき、その先にスナック街ができた。しかし、これだけでは、スナックの点在は説明できない。その先に和歌山駅のあることが関係しているだろう。和歌山駅は街の中心にはなっていない。むしろ場末に近い位置にある。しかし、和歌山駅は地域を代表する駅である。その周辺が場末であってよいはずがない。スナックは駅からみても適当な位置にあるべきだ。ぶらくり丁の先と、駅からの適当な距離の間にスナックがある。その地域は広がりを持つことになり、スナックが点在することになったのではないか。

 江戸時代の街の様子をみると、現在の和歌山の街は、無理なく推移してきたと想像できる。和歌山は徳川家康の第10子である頼宣が基礎を固めた。水戸、尾張と並んで御三家といわれ、重要な位置にあった。8代将軍になった吉宗は、この紀州家から出ている。それゆえ城も立派である。
 徳川家以前は、豊臣秀吉の弟・秀長が築城、その後、浅野幸長が入城している。そこまでは、城の正門は岡口門であった。本町通りに面した「一の橋」からは裏手になる。徳川家が入って一の橋のところが正門になった。参勤交代の時は本町通りを抜け、紀ノ川を渡る大阪街道を利用した。すなわち、和歌山の街は大阪に向いて造り直された。その前までは、和歌浦に向かっていたことになる。
 江戸時代の街は城を堀で囲い、その周りに武家町、町人町、寺町を配置した。城下には街道が通っているが、街道沿いに町人町を張りつけてある。和歌山では大阪街道が主たるものであり、本町通りの京橋を起点にしている。そこから町人町が張りついていた。城下では京橋が一番正統的な位置にあり、その下を流れている堀に沿って、西の方に駿河町、福町、卜半町、寄合町という、俗に四丁町と呼ばれるところに大店があった。その近辺に職人町があり、現在でも地名にその名残をとどめている。本町通りより東にあるぶらくり丁は幕末にも繁華街として栄えた。ぶらくり丁の先、和歌川を渡ったところは北新地と呼ばれ、遊郭などができたところである。したがって、現在の街は江戸時代からの土地の雰囲気を引き継いでいることになる。
 ところが、かって城下町であった多くの街でも同じことが起こっているにもかかわらず、他の街はもう少し複雑になっている。というのは、城下町であった頃の中心街と、明治以降に鉄道駅ができて主たる人の流れが変わった後の中心街とが異なるケースが多いからだ。
 和歌山の場合には、幸いにしてというか、駅を中心にした街づくりにはならなかった。その理由は、たぶん、和歌山駅の位置によるだろう。和歌山駅は明治31年にできた。といって、この和歌山駅はいまの紀和駅である。いまの和歌山駅は、かっては東和歌山駅であった。紀和駅は本町通りを北に向かい、紀ノ川に突きあたる辺りを右に折れたところにある。数年して、明治36年に和歌山市駅を設けた。本町通りを北に向かい、左右分かれたところに市駅と和歌山駅(紀和駅)の2つの拠点駅ができた。ということは、依然として、本町通りを城に向かうのが主たる人の流れであった、と推測できる。
 昭和43年に、東和歌山駅は民衆駅として建設し直され、和歌山駅と改称され地域を代表する駅になった。市駅も地域を代表する駅である。この2つが拮抗し、依然として本町通り周辺を中心街にしているのであろう。