「山形の街」


 仙台の方向から山形駅に近づくと、右手に堀らしきものが見えてきた。なぜ堀らしきものが線路脇にあるのだろうかと驚いていると、石垣と城郭が見えてきた。やはり堀である。とっさに高松城を思い出した。山形藩は明治維新で賊軍になったのか。高松城跡は玉藻公園となっており、その内堀に接して琴電が走っているので人は堀端まで行くことができない。松平氏が治めていて明治維新で賊軍になったためであろうか、高松の誇りは玉藻公園ではなく、別荘地であった栗林公園である。
 高松との対比で、城のある方向に繁華街があるとは思えなかった。地図で確認すると、線路を挟んで城とは反対の側に街ができている。駅を出てすぐのところにあるホテルに泊まり、シャワーを浴びて街に出た。
 駅前は空き地になっていた。後で聞いたことだが、そこには以前デパートがあった。空き地の向こうにはカラオケや居酒屋の看板がみえた。その一郭は70m×100mくらいで、いくつかの路地があった。スナック、バー、ピンサロなどネオンの下で呼び込みの男がたむろして、場末の雰囲気を醸していた。


(『プロアトラスSV』を加工)

 地図で見ると、飲食店は駅前の他に少し離れた七日町というところにもあった。呼び込みの男に聞くと、歩いて15分くらいの所にあるという。いまは寂れてしまったとも言っていた。それほど大きな歓楽街ではないという気がした。
 地図では、城の東大手門から出る道があって、その先を行くと七日町にいく。車通りから離れると夜道は薄暗く、とても繁華街があるとは思えない気分であった。やがて済生館病院に突き当たった。大きな病院である。その構内を抜け、階段を上がって裏手に出た。実際にはそこが正門でった。その先に行くと明るい道路(国道112号線)になり、角に「SEVEN plaza」という建物があった。また、大沼デパートやワシントンホテルがあった。この辺りが山形の中心市街地かと直感した。
 外堀が埋め立てられてしまった現在ではまったく分からないが、済生館は外堀の内側に位置していた。済生館は明治に造られた建物であるが、江戸時代はそこから堀の外側で街道筋にあたる七日町に出るのが「大手口」と言われていた。
 国道112号線を横切り、セブンプラザに沿って1ブロック行った。地図では済生館を出て細赤矢印の方向である。十字路を左折すると、居酒屋やスナックがあり、さらに行くとバーなどが並んでいた。地図では黄枠で囲んだ地域である。行き当たった道の手前を右折すると居酒屋が並ぶ路地があり、それを進んで行くと花小路をいう粋な雰囲気の路地があった。花小路の入口を左斜めに行く細い道にクラブ、スナックがあり、さらに枝分かれした路地にもあった。地図ではピンク網目に塗った地域である。駅前の歓楽街に比べると、花小路の方には料亭等があって、落ち着いた雰囲気である。
 先ほどから降っていた雨がさらに強くなってきたので、染太という鰻屋に入った。甘いタレで泥臭い味だが、慣れるとおいしかった。雷が近くで激しく鳴った。店主の話では、ワシントンホテルのところは以前は由緒ある旅館だったとのこと。雨がやや小振りになった頃を見計らって外に出た。

 人の主たる流れは、地図で太赤矢印で示したように、国道112号線を十日町から七日町の方に行く道であろう。昔の街道筋である。現在は大沼デパートとかセブンプラザとかの建物がある。その先は国道112号線および昔の街道も七日町で左折しているが、左折しないで直進すると旧県庁の建物(現在、文翔館)に突き当たる。その沿道の左右には山形銀行本店、市役所、裁判所が配置され官庁街を形成している。これは明治時代に山形県令であった三島通庸によって計画された。
 彼がもう一つ重要視した建物は済生館である。外堀を渡って町人町への出口としてメインの大手口に位置している。一般に城下町の場合には、城に向かうように街が構成されることが多い。その場合には城に向かうメインの道がある。山形の場合には、城は三重の堀で囲まれていた。明治時代に外堀は完全に埋められて、現在その跡を示す手がかりはまったくない。ちなみに、JRの線路は中堀のすぐ外を通過している。
 外堀の内側に位置する武家町と外側の町人町を繋ぐ門は4つあった。そのうち主たる門は七日町へでる大手口である。ただし、その先に進む道がメインの街道筋とはなっていない。したがって、城に向かうメインの道はなかったであろう。それゆえ逆に、少し強引な解釈ではあるが、城から出てくるように街が構成されたのではないか。実際の通行ではなく、城を中心に意識した街の構成になっていて、その中心が大手口であり済生館ということになるのではないか。
 山形県令であった三島通庸は済生館と県庁(文翔館)を中心に都市計画を作った。それは江戸時代の人の流れを考慮すると自然な配置であり、現在の街もその影響下に構成されているとみなしてよいだろう。すなわち、人の主たる流れは十日町から七日町へと進む方向であるが、意識としては城から大手口を出て進んでいく方向があった。歓楽街が左右のどちらにあるかという問題意識からは、両方の解釈が成り立つので判断がつかない。ちなみに、花小路は昭和初期にはなかったので、それ以降に造られたことになる。