「米子の街」


 岡山を出発。伯備線で高梁川に沿って北に進み、新見を過ぎてまもなく山陽と山陰の分水嶺を通過し、日野川に沿って日本海に向かった。3時間後に米子駅に着いた。夕方になっていた。朝からの長旅で疲れていた。駅前に立つと皆生温泉行きのバスが止まっていた。ガイドブックには山陰の歓楽的な温泉地として紹介されており、米子の近郊にある。どんな歓楽街か見たいという思いと、温泉につかりたいという気持ちからバスに乗った。十数分で目的地に着いた。バス停から歩いて海岸まで行った。途中、呼び込みの男が何人か立っていた。その奥にソープランドがいくつかあった。

(米子城跡にあった地図を加工)

 温泉に入ってからバスで米子の街に戻った。途中、市役所前でおりてホテルを探したが見つからず、結局駅近くの旅館に泊まることにした。荷物を置き夕食をとるために外出した。旅館の女将に朝日町が歓楽街であることを聞いていたので、食後に向かった。街ではなるべく繁華街を歩くように心がけている。後に地図で確かめると元町商店街、本通り商店街を通って、笑い庵のところで朝日町の歓楽街に入っていた。

 翌日、米子城跡の小高い丘に登った後、ふもとにある湊山公園を歩いた。米子は中海に面して立地している。米子港から加茂川に沿って街に入った。上の地図では「旧加茂川」と記されている。加茂川は米子城の外堀の一部にもなっていた。加茂川に入ってすぐのところに京橋が架かっている。説明板によると、江戸時代には京橋のたもとに回船問屋の後藤家があり繁盛していた。その側には高札場があった。港から川に向かって右地域は武家町であったが、後藤家のある内町だけは町人町であった。少し川に沿って歩くと左側の地域は尾高町と呼ばれ、最初に町人町としてできた所である。白壁土蔵のあるところから、笑い通りに入った。その先に本通り商店街がある。たぶんこのように進むのが昔の米子の主たる人の流れであったろう。いまでもメインはこの本通り商店街である。尾高町の左側に朝日町がある。そこが米子の歓楽街である。
 朝日町には飲み屋、スナックが密集していた。呼び込みの男が何人か立っていたし、おばさん的女も数人立っていたが、ソープランドやそれに類した店はなかった。少しどぎつい歓楽街に比べれば、呼び込みはおとなしく少ない。車で10分ほどのところにある皆生温泉にソープランドがあるので、そこが代替しているのであろう。また、ラブホテルも街中にはなかった。朝日町の歓楽街を少し離れたところに寺町があり、狭い道に沿って9寺が一列に配置されており、落ち着いた雰囲気をだしていた。
 街を歩いてみて、この街は港から加茂川を遡るようにして配置が構成されてきたのではないかと推測した。その後、明治になり鉄道駅が町外れに設置されたり、道路が整備されたりして、街の配置が構成し直された。その過程で自動車交通に対応するために外堀が埋め立てられたのであろう。
 疑問点のひとつは、歓楽街の朝日町が江戸時代からあったのか、それとも比較的新しいのかである。米子の統治は、城跡の説明板によると、江戸時代初期までは吉川、中村、加藤、池田と変わってきたが、寛政期から明治維新までは鳥取藩主席家老の荒尾家が治めていた。これから推測すると、米子の街自身はそれほど大きくはなかっただろう。したがって、歓楽街が自立的にできるほどの規模にはなかったのはないか。朝日町ができたのは比較的新しいのではないか、と想像した。

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『米子市史:第二巻近世』516頁

 幕末の地図を見よう。黄色で示した道路は後からできた駅前通りと9号線を重ねたものである。また、赤丸は米子駅であり、当時は田圃であった。茶色の道路は出雲街道(山陰道)であり、当時の幹線道路である。赤矢印は『米子市史』の記述から推測した当時の「人の主たる流れ」である。
 『米子市史』第二巻744〜746頁には、「米子は交通の要所であり、外堀沿いに町並みが形成された。加茂川沿いはいわゆる町屋の裏であり、中心は表通りである。現在の本通り商店街や東倉吉町・西倉吉町・岩倉町・立町にも古い商家が点在している」という主旨の記述がある。また、市史第三巻849〜850頁には、「船舶出入りの米子港付近にある灘町・立町等は大都市の繁華街と変わらぬ様子であったが、鉄道ができた後には道笑町・法勝寺町・紺屋町等が以前の灘町・立町以上の活況を呈している」という主旨のことが記載されている。ここで灘町・立町は海近くの町であり、道笑町・法勝寺町・紺屋町は現在の本通り商店街の町である。したがって、以前は港の方から出雲街道の方に向かうのが人の主たる流れであったと言える。それに即して、地図に示した。
 上記の地図には歓楽街としての朝日町は存在していない。歓楽街との関係で言えば、慶応4年の産物入札講を機に、それまで灘町のみに認められていた宿屋における飯盛女の営業が禁止され、新たに東・西倉吉町の10軒に営業権が移管された(市史第二巻543頁)。

『米子市史:第三巻近代』377頁

 明治20年代になると、内堀の埋め立てはほぼ終了していた。武家町の多くは水田や荒蕪地になっていた(市史第三巻368頁)。
 上記の地図は明治41年のものである。ここには米子駅、角盤町通り、朝日通りが記載されている。駅前通りと9号線はまだできていない。外堀は健在であるが、内堀は埋め立てられている。
 米子駅が開設されたのは明治35年である。境港から米子・伯耆大山・淀江を通って御来屋までが開通した。その後、明治45年に京都−出雲今市間が開通した(市史第三巻322頁)。
 明治45年5〜6月に「山陰鉄道開通記念全国特産品博覧会」が、整理地に新設された県立米子高等女学校で開催された。当時2万3500人の町に30万人超の参観者があった。博覧会場への近道として、西倉吉町と角盤通りを結ぶ朝日町通りが生まれ、見物客相手の露店などで賑わった。
 角盤通りに近いところに朝日座があった。これは明治21年の創設である。また、大正年間にはキネマ館が開設されている(市史第三巻851頁)。
 下記にある大正期の地図を見ると、朝日町通り周辺にはかなり町並みができている。大正14年には東倉吉町から皆生温泉を結ぶ電車が開通している。地図下の方に「記念道路」というのがあるが、これは米子駅前から米子港までの道であり、明治43年に開通している。それに直行して、市道中央線(現在の国道9号線)が大正2年には本町通りに繋がり、昭和3年には角盤町で県道米子皆生線と結合した。この年に、米子駅前から市役所前を経過して皆生温泉までの電気軌道が開通した。

『米子市史:第三巻近代』394頁

 ここから先は私の推測であるが、幕末から明治期にかけて東・西倉吉町が女商売を担っていた。明治末期の博覧会を機に、その雰囲気が中海から見て左地域の朝日町に広がっていった。大正から昭和にかけて現在の国道9号線が開通した。そこに電気軌道も走るようになった。街の中心は港付近から国道9号線の付近に移動していった。最初に掲載した地図では、赤矢印で人の主たる流れを記している。そのさい、細線の方は古い時代の街を基準とした人の流れであり、太線は新しい時代の街を基準にした流れである。朝日町に歓楽街ができたのは、どちらの流れからも左方向にあたる地域であり、私の考えからは自然な位置づけになる。
 新しい時代の流れに沿ってみると、表の顔は港に近い方ではなく、9号線に沿って現在高島屋がある地域に移った。その右手に直行して本町通り商店街がある。