法政大学 文学部 尾谷研究室 〒102-8160
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出張講義(出前講義)可能テーマ例



「外国人から見た日本語の特徴」
 我々日本人は、無意識のうちに日本語を獲得し、何不自由なく話すことができますが、外国人はそうはいきません。高校生の皆さんが英語の学習に苦労しているように、外国人の皆さんも日本語学習には苦労しています。そんな外国人日本語学習者の視点から日本語を眺めてみると、日本語は不思議の宝庫です。例えば、英語の文字といえばアルファベットですが、日本語にはひらがな、カタカナ、漢字という3種類の文字があります。さて、外国語として学習する場合、どちらが難しいでしょうか。英語は、単語と単語の間にスペースを入れて表記しますが、日本語はそうしません。それは何故なのでしょうか。他にも、皆さんが小学校、中学校で学習した国文法に関わる点でも、外国人を悩ませる問題があります。「楽天が勝った」という文の「楽天が」は誰がみても主語ですが、「私はカレーが好きだ」という場合の「カレーが」も主語でしょうか。英語的発想では、目的語は「〜を」と和訳されますが、「私はカレーを好きだ」という日本語はちょっと変ではありませんか。このような事例を手がかりに、新鮮な目で日本語を見つめ直します。自分が当たり前だと思っていることが、実は当たり前でないあということに気づくための1時間です。

 「ことばの乱れ」をどう捉え、どう向き合うべきか
  みなさん「違かった」という言葉を書いていませんか? これが悪いと頭ごなしに否定するつもりはありませんが、こういった言葉遣いに嫌悪感を覚える中高年もまだまだ数多く存在します。これは言葉の乱れなのでしょうか? 言葉の乱れを嘆く大人は多いですが、「乱れ」と「変化」は違います。大雑把に言えば、「乱れ」とは秩序から逸脱した状態であり、「変化」とは何らかの妥当な理由(=動機付け)によって変異形が出現することです。この両側面を持ち合わせた非常に面白い例が「若者ことば」です。若者ことばが生まれる背景と、それが嫌われる原因について社会言語学的な視点から解説します。若者に説教するつもりは毛頭ありません。「こんな日本語は間違いだ!」と一方的に決めつけるのではなく、どこがどう逸脱しているか、その逸脱は本当に無秩序なものか、そこに法則性はないのか、といった疑問を投げかけながら、身近なことばいついて考え直してみる楽しさを味わってもらうのが主眼です。例えば、「全然いい」のような肯定文は被文法的であると指摘されることが(残念ながら現在でもたまに)ありますが、この表現のどこがどう逸脱しているのでしょうか。その逸脱に法則性のようなものは無いのでしょうか。とういか、そもそもこの表現は本当に肯定文なのでしょうか。どのかのマナー講師が言ったことを鵜呑みにするのではなく、自分で考え、分析し、判断する力を養う機会にするための1時間です。

「比喩なしじゃ生きられない!」」
 「比喩」と聞いて、皆さんは何をイメージしますか。多くの人は、国語の授業で学習した時のことを思い浮かべるのではないでしょうか。比喩とは、詩、小説、和歌、漢詩といった文学的表現の中にあって、我々の想像力をかきたてる技巧的な表現であり、日常生活ではあまり使用しないものである、といったイメージを持っている人も多いかもしれません。しかし、George Lakoff と Mark Johnson の共著 Metaphors We Live By (意訳すると「我々の日常生活で使用される比喩」となる。ここでの"by"は〈手段〉の意)では、比喩の中でも特に隠喩(メタファー)を取り上げ、これらが日常生活の言葉にも溢れており、むしろ隠喩なしでは日常生活に必要な会話が成立しないくらい重要な位置を占めていることを喝破しました。そんな隠喩の面白さを、多様な具体例に触れながら感じてもらう1時間です。ただし、本当に日常会話だけでは面白みに欠けるので、文学作品(例えば小説『楽隊のうさぎ』(中沢けい著)や、back numberの曲の歌詞など)の例も取り上げながら、比喩の奥深さを感じてもらいます。

「文学的表現を、言語学的に分析すると?!」
 小説、詩、和歌といった文学作品には、筆者が考えに考え抜いた日本語表現の宝庫です。中学・高校の国語の授業では、その解釈についてあれこれと議論することはあっても、言語学的に分析する経験は滅多にありません。例えば、「ちるさくら 海あをければ 海へちる」という高屋窓秋の有名な句がありますが、「ちるさくら」を「さくらちる」としてはいけないのでしょうか。文法構造がちょっと違っただけで、どういった意味の違いが生まれるでしょうか。また、「海へちる」を「海にちる」としても大差ないように思われますが、「に」と「へ」にはどんな違いがあるのでしょうか。本講義では、こういった視点から文学先品の一節を深く掘り下げ、言語学的な視点から分析することで、言葉の解釈の奥深さを味わってもらいます。

「敬語からはじめるコミュニケーション論」
  「こちらトンカツ定食になります」や「〜でよろしかったでしょうか?」といった安易なマニュアル敬語が氾濫しています。これらのどこがマズいのでしょうか? どうして誤った言葉づかいが生まれたのでしょう? どう言えば正しく美しい言葉遣いになるのでしょう? つい使ってしまう変な言葉をはじめ、謙譲語と尊敬語の混同といった根深い問題まで幅広く取り上げます。時々クイズも挟みますが、最終的には言語学やコミュニケーション理論(特にポライトネス理論)の視点から日本語の敬語について考えます。

「国語で習う文法がつまらない理由」
 文法の授業って、品詞を覚えたり、活用を覚えたり、助動詞の意味を覚えたり、、、、と嫌なイメージしか残っていない人が多いのではないでしょうか。かくいう私も、中学・高校の時はそんなイメージでした。しかし、大学できちんと言語学や日本語学を学ぶと、それは大きな間違いだったことに気づきます。学校文法にも種々の問題点があるにもかかわらず、何が問題なのかも分からないまま暗記しているからつまらないのです。例えば、「です/ます」は「丁寧の助動詞」とされます。しかし、「食べます」とは言えても、「食べるです」とは言えません。つまり、「です」は「助動詞」でありながら、動詞と一緒に使うことが出来ないのです。「です」は、「私は学生です」のように名詞に接続しますが、これを英語に直訳すると、"I am a student."の"am"に相当する………と中学で教えられた人もいるのではないでしょうか。でも、"am"はbe動詞と呼ばれ、助動詞では決してありません。一体「です」は何者なのでしょうか。この講義では、そんな問題点をいくつか紹介し、皆さんと一緒に学校文法の問題点を考えたいと思います。毎週大学でこんなことを考えていれば、いずれ自ら考える楽しさに目覚めるはずです。

「日本語の発想、英語の発想 〜文化論的視点から〜」
 英語で自分のことを指す言葉は’I’だけなのに、日本語には「わたし/わたくし/僕/俺/自分/手前/こちら」など様々な語が存在するのは何故でしょうか。「(私は)疲れた」という場合に、英語では”I’m tired.”のような受身文になるのは何故でしょうか。こういった違いを冷静に分析すると、各言語文化圏の社会構造の違いや発想の違い、ひいては文化の違いが浮き彫りになります。

「ハンバーガー」から見た言葉の不思議
  「ハンバーガー」という語を2つに分解して下さいと言われたら、たいていの人は「ハンバーグ」と「アー(英語の-er)」に分けるでしょう。しかし、「チーズバーガー」はどうでしょうか? モスバーガーにある「ロースカツバーガー」はどうでしょうか? 単語の切れ目を手がかりに、ことばの再構造化について紹介します。英語の”be going to 〜”というイディオムも、実はこの再構造化で生まれた表現なんですよ。

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